百

 千佳子が少し音量を上げた。テンポの速い曲だ。パガニーニのカプリス第二十四番、タレガのタンゴ、ヴェネツィア・カーニバル、サグレラスのマリア・ルイサ、アルベニスのアストゥーリアス。ギターにも超絶技巧があるとするならこれだろう。才能が高らかな凱歌を挙げている。一本道の貴さを実感させる、私から遠い才能だ。ともに肌を接して歩んでこられたことを幸いに思い、感謝すべき才能だ。針が上がった。千佳子がステレオのスイッチを切る。
「隔絶した一人だけの才能だ。ぼくの詩なんかに拘らず、わが道を進んだほうがいい」
「キョウちゃんの詩も山口さんの音楽も稲妻。稲妻って地上と空の雲のあいだを求め合いながら走るの。自然に合体するもの。二つ、三つ、好きに創らせてあげて」
 千佳子からLPレコードを二種類、一枚ずつもらった。コンテストのレコードのほうはいずれ則武でゆっくり聴くことにする。
 座敷に戻り、賄いたちの賑やかな食卓を横目に、主人や菅野とビールをさし合う。
「神無月さんが作り上げた世界。……夢やな」
 菅野が、
「私は夢の中でいっしょに走ることくらいしかできません。あしたも日赤までですね」
「どうしようかな。日赤や駅西銀座はマンネリですよね。とにかく走らないと腰のタガが緩むんで、走ることは走りますけど。……菅野さん、五キロ半径で気になってる喫茶店はありませんか。走るたびにそこに寄ってきたいんで」
「うーん、タクシー時代に実際に立寄ってすばらしかったところも含めますね。まず大須のコンパル本店、近鉄の半地下にあるモーニング喫茶リヨン、栄の純喫茶ライオン、それからと、……それくらいですね」
「その三箇所は、いちばん遠いところから順にいきましょう」
「ライオン、コンパル、リヨンの順ですね」
「男同士の話は、ほんとにオツムテンテンしたなるわ」
 女将が離れへ戻り、睦子たちもお休みを言って部屋に上がったので、アヤメの遅番の帰宅を待たずに私たちも腰を上げた。
「ソテツ、あしたあさっての弁当はシンプルな幕の内にして。焼き魚は鮭ね」
「わかりました。幣原さん特製のヒジキとガンモの煮物も入れときます」
 菅野が、
「残り三試合、ぜんぶ二時試合開始ですね」
「うん、デーゲーム。十一時からバッティング練習」
「十時二十分過ぎに出ましょう」
 主人と菅野が見回りに出たあと、ソテツたちにお休みを言い、女四人といつもの夜道を歩いた。
「きょうソニーのテープデッキを見て思い出した。だいぶ長いあいだリールテープを聴いてない。十何本かあるから、ひさしぶりに聴いてみよう」
「則武にもデッキあるわよ」
「うん、則武でも聴く。テープ、どこにしまいこんだかな」
「私の押入にある。ステレオのところに出しておくわね」
「飯場のころカズちゃんに買ってもらったデッキは、もう回転がおかしくなってる。あれも押入?」
「阿佐ヶ谷でテクニクスのデッキを買ったとき、どこにやったかしら」
「野辺地から飛島、東京と大事に持ち歩いてたけど、その途中で行方不明になったね。西高時代はよく聴いてたよ。見つけたら、思い出だからとっておいて」
「はい。中二の春に買ったから、七年ね……」
 感慨深げに地面を見つめながら歩く。メイ子が、
「思い出の一こまですね。引越しすると、何やかやなくなっていくものです」
「人間だけに拘って、人間関係をなくさないようにしていけばいいさ。何やかやは文明という持ちものだ。カネ、モノ。そんなものは、人間関係が薄っぺらくなって、人間以外のものに関心を移したときにしか手に入らない。関心を移しすぎると人間が冷酷になる」
「キョウちゃん、好きやよ」
 素子は伸び上がるようにキスをして、アイリスの隘路に消えた。
 キッチンテーブルでカズちゃんが、
「あしたからの三試合は昼間だから、観にいける子はかぎられちゃうわね。アイリス組とアヤメの中番以降の女の子はいけないわ」
「応援団やファンクラブじゃないんだからいいんだよ。予定を持って働いてる人間が、義務的に娯楽の場所に出かける必要なんかない」
「義務じゃないわ。野球はサーカスと同じ。私たちは仕事の合間に、娯楽がほしくて見世物を観にいくの。娯楽に浸ることは仕事の疲れを取る大切な楽しみだし、私たちが観にいかないと、キョウちゃんの見世物は成り立たないのよ」
「うん、これるときは観にきてね。たぶん今度は中日球場の日本シリーズだな」
「そうね。その三日間は、仕事休んでも観にいかないと。さ、きょうは早めに床に入って最後の巨人戦に備えて」
「うん。あした適当に直人の様子見といてね」
 百江が、
「心配しすぎですよ。風邪ぐらいで子供はへたばりませんから」
 決勝参加者の演奏をひとわたり録音した記念LPを四人で聴き、また新たな感動に浸った。聴いたこともない古典曲ばかりだった。ただ山口の演奏だけが、ひたすら美しく、力強かった。
「優勝してあたりまえね。ほかの人たちと次元がちがう。そうそう、浅井慎平さんから優勝会の写真届いたわ。とてもきれいに撮れてる。直人がかわいらしい。暇なときに見といてね」
「直人のためにアルバム作っといて」
「トモヨさんがいつもそうしてる。記念写真は、またおとうさんが引き伸ばして鴨居に飾るわよ」
 四人で風呂に浸かったあと、メイ子は今月二回分の五百野が載っている中日新聞を持って、上機嫌に離れへ去った。
 カズちゃんと百江の柔らかいからだに挟まれて寝た。深更から冷えてくる季節なので、寝返りのたびに温かい皮膚に触れることで、目覚めるまで快適な睡眠に浸ることができた。
         †
 十月十八日土曜日。七時半起床。快晴。十一・六度。清潔な目覚め。女と交わるという成人の男の宿命的な習慣を割愛するだけで、朝の起床の意識が清新なものになる。それだけのことで、からだの深部に溜めこんでいる疲労が徐々に消えていくような感覚がある。人類の義務にちがいない射精をあえて求めないことが、これほど気分を爽やかにするものなのか。
 朝勃ちをしていたが、からだを屈めて快適な排尿。小便を出して萎むだけの性器。人間として正しい生理のあり方に遵(したが)っている気がする。
 カズちゃんとメイ子仕事に出るのは毎日八時過ぎだ。七時半には食事を終え、出勤の仕度をする。今週中番の百江は十一時半出勤。早番のときは早朝六時半に出て、遅番のときは夕方四時半に出る。
 私は彼女たちのスケジュールにかまわず、七時から九時のあいだの好きな時間に起き、排便と洗面のルーティーンを終えたあと、ジム部屋で筋トレ(バーベルは八十キロ五回と決めた)、三種の神器、片手腕立て、倒立腕立て、一升瓶、リングつきの素振りといった日課に入る(リングつきになってからは、中程度の力で九コース百八十回の素振りになった)。たいてい日課の間に彼女たちは勤めに出ている。もちろん日課を終えた頃合に顔を合わせることがあれば、いってらっしゃいを言う。やがて菅野が迎えにきて、いっしょにランニングに出る。こなければ一人でランニングに出ることもある。
 きょうは八時十分に菅野がきた。秋晴れ。どこまでも高い空。イワシ雲がばらまいた小石のように浮かんでいる。イワシ雲は形が崩れやすくて空に長く留まらないので、雲の貴重品とといったところだ。
 太閤通へ出て、笹島のガードをくぐり、ひたすら広小路通を直進する。純喫茶ライオンまで片道二十五分。三キロと少し。笹島から栄にかけての広小路通は、まさに大都会名古屋のシンボルだ。飲食店や百貨店を散策する人びとの賑わい。東京の銀ブラになぞらえて広ブラと呼ばれている。走っている市電は広小路線。きょうは市電の駅名を確認しながら走る。太閤通三丁目、笈瀬通。
「市電が発車するときの、チンチン、はいいですね」
「はあ、耳に残ります」
「市電に乗った人はよく隣同士で話してます。街に音があるので釣られるんでしょう」
「地下鉄の中は静かです」
 笹島町、柳橋、納屋橋東。納屋橋は堀川に架かっている。ここから先は銀行が建ち並ぶオフィス街。広小路通で唯一好感が持てない区域だ。
「ここから筋一本入ると映画館や飲食店が連なってます。昼どきはビジネスマン、休日はカップルがひしめきます。夜になれば銀行の前に屋台が並ぶし、キャバレーには男どもが吸いこまれます」
 そんな話を走りながら菅野がする。伏見通、広小路本町。栄に近づくと夕方までのひととき露店を畳んだ屋台が軒並になる。
「終電間近には、広小路本町の電停からキャバレー嬢たちが乗りこみます。一度社長が遊びにいったらしくて、満員の車内には化粧のにおいが充満してるんですって。女たちが若い車掌に、かわいがったげるで店にきなさいよ、と声をかけてたそうです」
 二人で思い切り笑った。
 栄町通過。武平町。東新町の電停を前方に見て、純喫茶ライオン到着。背高のビルとビルのあいだに挟まりこんだ三角屋根のモルタル家。コーヒー専門店ライオン、と青い軒看板が出ている。
 九時開店にまだ間がある。栄町まで戻ってテレビ塔を往復することにする。走って戻ってもらだ八時四十五分。しばらくたたずんでいると、髪の黒い壮年の店主がドアを開けて出てきて、
「おやあ! 神無月選手じゃないですか! どうぞどうぞ」
 と内へ招いた。
「すみません」
 辞儀をして店内に足を踏み入れる。焦げ茶色の板壁に囲まれた店内。都会の中心部とは思えない懐古的な空間が広がる。振り子時計、白黒テレビ、黄ばんだ壁。やはりここも壁に有名人のサインの類は貼られていない。年季の入ったソファ椅子、テーブルとテーブルの仕切り棚に、獅子のブロンズ像が向き合って置かれている。
「朝のランニングですか?」
「はい、ゆっくりしていられません」
「そうでしょう。コーヒーだけでも飲んでいってください。ほう、すばらしく均整のとれたからだですね。神と言われる人だ。たしかにギリシャローマの神像のようです」
 シンプルに〈ライオン〉とプリントされた白い厚手のカップとソーサーが運ばれてくる。ゆで玉子がついていた。菅野にまかせる。
「喫茶店のゆで卵は、一宮市が最初という説が有力だそうです。織物工業で有名な一宮は織機の音がうるさいので、商談を喫茶店ですることが多かったんだそうです。喫茶店大繁盛。そこでサービスにゆで卵とピーナッツを出したら大好評になったというわけらしいんですが、どこまでね……。豊橋とか広島という説もあります。いずれにしても西のものですね」
 ドリップコーヒーは深煎りでうまい。ハセコーヒーと大差ない。菅野が、
「ここの創業は長嶋入団の年です」
「昭和三十三年」
 一番客なのでホッとしていたが、客が建てこんできたので腰を上げる。九時十分。菅野が会計する。
「ごちそうさまでした!」
「ありがとうございました。日本シリーズがんばってください!」
「がんばります!」
 なんだなんだと客が振り向く。二人で道へ飛び出す。復路。スピードを乗せる。心地よい汗が滲み出す。
「伊勢湾台風では、この通りも豪雨と強風にやられたんですよ。市電は立ち往生、ビルの看板が落下して何台も車が大破しました」
「柳がたわんで……」
 テレビニュースの記憶が甦った。
「そうです、あのニュースです。オート三輪が横転して。……十年でここまで復興するんですね」


         百一

 菅野と北村席の門前で別れ、則武に戻ってあらためてシャワー。百江が洗濯機を回しながら蒲団を干している。九時四十分。百江の用意した鮭おにぎりを食う。新聞を読みながらポットのコーヒー。西宮・藤井寺・日本生命球場でのパリーグ決戦のことが書いてある。

 今年の近鉄バファローズは三原脩が監督に就任して二年目を迎え、確実に戦力がアップした。これまで最下位が定位置だったが、昨年は三位に上昇し、今年はパリーグ初優勝を狙えるチームにまで成長した。ライバルは黄金期にある阪急ブレーブスである。
 三原はキャンプ中から阪急に悪口雑言を浴びせてきた。
 「何の特徴もないチームに優勝させてはパリーグの恥になります。強いのか弱いのかいっこうにわからんような阪急が優勝候補と言われるのがそもそも片腹痛い」
 大和球士さんいわく、
 「三原はかつて大洋の監督だったころ、阪神と優勝を争っている最中に国鉄に一敗を喫したとき、死に馬に蹴られたようだと毒舌を吐き、国鉄ナインを激怒させた。今回はそれを髣髴とさせるひさしぶりの放談だ」
 一方の阪急の西本幸雄監督も負けてはいない。二連覇の余裕から、
 「そう言う三原さんも、うちを云々する前に他チームにやられんようにすることです。せっかくここまで勝ち上がってきたんやから」
 と言い、さらに三原を凌ぐ過激なひとことを吐いた。
「近鉄のような成り上がりチームをいまさら相手にしても……」
 かくして『特徴のないチーム』と『成り上がりチーム』の戦いが熾烈を極めているのである。この両監督の言動が選手たちの心に火を点けたのか、両チーム相譲らず、今シーズン終盤まで盛んなデッドヒートを繰り広げてきた。
 そしてついにきょう十月十八日、阪急が二厘差で首位近鉄を追う四連戦が始まる。近鉄は二勝、阪急は三勝すれば優勝決定である。いずれが優勝しても、日本一への厚い壁が待ち受けている。神無月郷を擁する中日ドラゴンズである。どちらが出てこようと猛竜が爪を研いで待ち構えている。


 百江と小鳥のキス。十時、北村席へ出かけていく。
 新しいバット二本をケースに納め、富沢マスターから送られてきた二十九センチの新しいスパイクを玄関土間で履いてみる。踵、爪先とも、大きすぎず小さすぎず、可動感もよい。安心してダッフルに入れる。ユニフォームに着替えながらトモヨさんに尋く。
「直人はどう?」
「七度四分に下がりました。咳もほとんどしません。重湯もけっこう食べて、本人は保育所にいきたがってますけど、ちょうど土曜日で自由登園の日ですし、二日間ゆっくり休ませます」
 女将が、
「わかったやろ神無月さん。こんなもんなんやて。安心して野球やってきなさい」
 主人も背広に着替え、全員ソテツと幣原合作の弁当を持たされて、十時十五分出発。千佳子と睦子はローバーで。
「阪急の三勝はあり得ますか」
 菅野が、
「ここ五試合、近鉄は三勝一敗一分け、阪急は三勝二敗。何とも言えませんが、勢いは近鉄にありますね」
「藤井寺球場の特徴は?」
 主人が、
「三万人以上収容できる立派な球場なんですが、ナイター設備のない球場です。ほとんど近鉄の公式戦は、大阪球場と日生球場でやってます。日生球場は、週末や祝日のデーゲーム、二軍戦なんかをやる名目上の本拠地ですな。鳴り物を禁止してるめずらしい、静かな球場だそうです」
「西宮球場は?」
「三十年以上の歴史を持つきれいな球場です。五万五千人入ると言われとりますが、実質四万七、八千人でしょう。二階建て内野席はぜんぶ背つき椅子。選手用の浴場はじめ、銀行、記者室、郵便局まで、最新最高の設備を完備しとります」
「たしか三月末に、オープン戦でいったことがあったかな」
「三月末の阪急戦は中日球場でしたよ。まだ一度もいってないはずです」
「ラッキーゾーンがあって、狭苦しくて、外野スタンドの両端の上段がへんに幅広く延びてて、屋根がついてて」
「そうです、その球場です。延びた部分は客席を増やすための、鉄傘の基礎工事中なんでしょう。私がいつかお見せしたいろいろな球場の写真を暗記して、実際にいった気になってたんですな。たしか西宮の阪急戦は雨で流れて、翌日中日球場での試合に変更されたんですよ。おもしろいなあ、神無月さんは。いつもほんわか、夢の中なんですね。厳密にはホームランしか憶えとらん」
 たぶんそれもあらかた憶えていない。無理に思い出せばピンセットでつまめるかもしれない。
 球場の駐車場で降り、数百人ではなく数十人のファンに囲まれて選手通用口へ歩く。警備員も組員も数が減り、合わせて五人くらいしかいない。二人の少年にサインした。彼らの足もとに、季節はずれのゴキブリがのろのろ這っていた。
 スパイクとストッキングを整え、ベルトを固く締めてグランドに出る。ベンチ横の記者席に五、六人の記者が居並んでいる。グランドに降りて歩き回っている連中はいない。フェンス沿いに外山博に並びかけて星野秀孝と伊藤久敏が走っていた。きょうの先発とリリーフ二人だ。あしたの第二戦は松本に先発させて小川で〆るだろう。
 バッティングケージの後ろに監督・コーチたちが集まる。私は打たないつもりでケージの脇から眺めていた。金田を想定して、バッティングピッチャーは背番号まで同じ左腕の大場隆広。四十一年のドラ一。速球とドロップ。球種も金田と同じだ。この二年間、六回登板して零勝零敗。監督と並んで見ていた江藤が私に、これまで知らなかった話をする。
「ドラ一が決まった年の秋季練習のとき、ワシがユニフォームを貸してやった。百八十一センチもあるけんな、窮屈そうやった。ええストレート投げよってな。入ってきたときに新聞記者に抱負ば聞かれて、王、長嶋と胸もとの速球で勝負したいて言うとった。次の年に肩壊して、こうなった」
 首を振る。私は急に打ちたくなってケージに入り、膝もとの速球だけを要求して五本打った。すべてスタンド入り。水原監督が、
「大場くんは今年、登板なし?」
 太田コーチが、
「二回出てます。打者八人に投げて、四安打二フォアボール。防御率十三・五」
「それじゃね……。来年出てくるチャンスはあるのかな」
 二回登板した事実を思い出せなかった。私以外の選手はほとんどドロップを要求していた。どれもボールになるせいで、みんなうまく当たらなかった。
 十二時。ジャイアンツのバッティング練習開始。ベンチに戻り、観察する。今年西鉄からきた柳田が打っている。彼を見るのは大幸球場の二軍戦以来二度目だ。見どころありと思った左バッターだ。顔が毒蝮三太夫にそっくりなのでマムシと呼ばれているらしい。バットを寝かせたレベルスイング。ときどきするどい打球がスタンドに飛びこむ。一応スラッガーに分類しておこう。
 長嶋の左ひざのリズムを見つめる。穏やかなインパクト。打球がほとんどレフト看板の裾まで飛んでいく。素晴しい飛距離だ。王のバットの金属音。強烈なインパクト。打球は高く舞い上がりほとんどライトスタンド前段に落ちる。違和感を覚えるほど飛ばない。長嶋は弾き飛ばし、王は乗せて運ぶからだろうか。これほど飛距離にちがいがあるのに、ホームランの本数のせいで長嶋は中距離打者と言われ、王は長距離打者と言われる。太田に訊く。
「王と長嶋の飛距離、わかる」
「はい、統計表があります。百三十メートル以上、百二十メートル以上、百十メートル以上、百メートル以上、百メートル未満の五段階でパーセントが出てます。王は、六パーセント、十六パーセント、三十三パーセント、三十三パーセント、十二パーセント、百メートルから百二十メートルで六十六パーセントです。長嶋は、三パーセント、十三パーセント、三十一パーセント、四十一パーセント、十二パーセント、百メートルから百二十メートルで七十二パーセントです」
「そうか、百メートル未満が同じというのはおもしろい。百二十メートル以上は王のほうが六パーセントも多い。やっぱり王のほうが飛んでるのかな」
「ですね。でも神無月さんに比べたら子供のホームランですよ」
「このごろでは中段までしか飛ばないホームランも増えてる。せめて百三十メートル以上を五十パーセント打ちたいな」
「神無月さんの記録も百五十号まで出てます。百五十メートル以上九パーセント、百四十メートル以上百五十メートルまで二十六パーセント、百三十メートル以上百四十メートルまで三十三パーセント、百二十メートル以上百三十メートルまで十八パーセント、百二十メートル以下十四パーセントのうち、百メートル未満はたった二パーセントです。百五十本中三本。ポールの下ギリギリに当たったり、ラッキーゾーンや前段に落ちたホームランですよ。ショッキングな記録です。……世界に一人ですね」
 客席が七割方埋まる。二万五千人。さすが巨人戦だ。ここひと月では大入りの部類だ。外山が中日ブルペンでゆっくり投球練習を始める。金田はまだベンチでふんぞり返っている。選手食堂へいき、ソテツの幕の内弁当を食う。ほかの連中は丼物やカレーライス、ラーメン、うどんなどを食った。中が、
「外山は五回までに七、八点取られる可能性が高い。引退試合の名目だから、五回までは投げさせるだろう。早いうちに点を返さないと、この試合は負ける。大差がついたら、星野にも久敏にも尻拭いさせない。大場か則博か若生を出すだろうな。僅差なら星野を出してくる。そのときは勝ちにいくよ」
 みんなうなずく。
「通路を歩きながらご観戦のお客さま、危険でございますので、お席についてごらんくださいませ」
 下通ののどかな声が聞こえてくる。
 一時半、スターティングメンバー発表。
「ただいまより、中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツ二十五回戦を開始いたします。先攻読売ジャイアンツ、一番センター柴田、背番号12、二番セカンド土井、背番号6、三番ファースト王、背番号1、四番サード長嶋、背番号3、五番レフト末次、背番号38、六番ライト柳田、背番号62」
 観客席が少しざわざわする。柳田という名前を初めて聞いたからだ。
「七番キャッチャー吉田、背番号9、八番ピッチャー金田、背番号34、九番ショート黒江、背番号5」
 金田についてひとこともない。これではスタンドのだれも金田の引退試合だとわからない。噂が先走りしているだけで引退そのものはまだまだ先のことなのかもしれない。
「対しまして、後攻中日ドラゴンズ、一番サード菱川、背番号4」
 拍手。ついに巨人戦で菱川が本格的に売り出した。ただ、斬りこみ隊長は似合わない。
「二番セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、背番号23、六番センター江島、背番号37、七番ライト太田、背番号40、八番ショート一枝、背番号2。九番ピッチャー外山、背番号56」
 呆れ声のような〈喚声〉。八百長! という叫びも聞こえる。
「審判は、球審福井、塁審一塁大里、二塁久保山、三塁田中、線審は、ライト鈴木、レフト丸山、以上でございます」
 トンボが入る。試合開始前のスタンドの静かな興奮。その中へ紛れこんでくるラジオアナウンサーの声、下通の声、そして物売りの声。
「土井って何者ですか。バッティング練習でも、いつも大して目立ったふうはありませんけど」
 田宮コーチが、
「アベレージヒッターだな。あれでも高校大学では三番打ってた。セカンドは長年巨人の弁慶のスネでね、船田、須藤、瀧、塩原、みんなだめで、結局土井に落ち着いた」
 長谷川コーチが、
「船田は今回の《黒い霧》で、槍玉に挙げられたな」
「ああ、行方不明だった永易が、おととい大阪行の飛行機の中で、夕刊フジの記者に見つけられたそうだね。この事件の解決は長引くよ。みんな知らぬ存ぜぬを通すだろうからね」
 守備に散る。福井球審のプレイボールの声。
 外山博、二十一歳、百八十三センチ七十キロ、オーバースローの本格派右腕。四十一年に名電工からドラフト外で入団、それきり二年間二軍でくすぶり、今年初登板初先発。人も自分も口に出す引退とか退団という言葉が私には煩わしい。退団理由は肩痛だというけれども、作り上げた口実だろう。まだクビを切られたわけではない。きょう、甦るきっかけにしてほしい。
 ボールは? 走っていない。初回に何点取られるか恐ろしくなる。


         百二 

 柴田が左打席に立つ。プレイ! のコール。意外なことに、柴田は去年の三振王だ。百六個。ホームラン二十六本。打率は常に二割五分前後。プロらしい数字だ。初球外角高目のストレートをグンと引っ張る。あっという間に江藤の右を抜いた。太田がスライディングして抑え、二塁へ送球した。タッチプレイ、セーフ。足が速い!
 二番土井。高目のストレートをファール二本で凌いだあと、なぜか簡単な外角カーブを見逃した。三振。こんなカーブでいけるのか? いや、それはない。予想外の球種だったのだろう。
 三番王。初球、内角へ入ってくるカーブを難なくライトスタンドへ運んだ。
「王選手、四十四号ホームランでございます。このホームランは通算四百号のメモリアルアーチでございます」
 節目の記録まで作らせてしまった。二対ゼロ。水原監督はじめ、ベンチはぼんやりマウンドを眺めている。
「四番サード長嶋、背番号3」
 三塁側スタンドの轟々たる声援、拍手。私の背後の声援もかしましい。二球つづけて外角カーブ。バットを引く独特のフォームで見きわめる。三球目内角甘いシュート。ハッシと打つ。一直線の弾道で左中間スタンドに突き刺さる。外山はロジンバッグを握ってダイヤモンドを周る長嶋を見つめている。なぜか感無量の表情だ。
「長嶋選手、三十二号ホームランでございます」
 末次、カーブ、シュート、高目のストレートで三球三振。柳田、高目のカーブをフルスイングしてセカンドゴロ。三対ゼロ。三点ですんでよかった。外山の大きなからだが小走りにブルペンに向かう。その外山に拍手を送っているのは、おそらくきょうの事情を知っている観客だろう。ベンチに戻ってきた高木が、
「やるじゃないの」
 江藤が、
「王、長嶋の前にランナーを貯めんようにがんばれ。フォアボールが命取りやけんな」
「はい!」
 セカンドベースからピッチャーズプレートまで徐々に近づいていく金田の投球練習。スタンドプレイではない。特異だ。菱川が打席に入る。一枝の大声。
「いけー、菱!」
「ヨホホイ!」
「ホレ、いけ!」
「ヨーオ!」
 初球、内角高目、意外な剛速球、空振り。きょう一日の金田の決意を表わすストレートだ。菱川がバットを握り直し、緊張した顔つきで金田に対峙する。二球目、大きなドロップ。右足を踏ん張って残してジャストミート。
「よォォっしゃァ!」
 ライトスタンドに向かってライナーが浮き上がって飛んでいく。あっという間に中段に飛びこんだ。
「菱川選手、三十九号ホームランでございます」
 静かに水原監督と握手、静かに仲間と握手。外山が握手を求めてきたので、握手をするついでに、
「ブルペンへいけ」
 と静かに諭した。三対一。つづく高木、初球の内角ドロップを叩いてレフト線へ二塁打。ノーアウト二塁。
「それいけ!」
「やれいけ!」
「慎ちゃん、わかってんなー!」
「くどか!」
 三番江藤。彼は金田を打たないという決意をきちんと翻している。打てない穴は能力でいずれ埋められる。打たない穴は能力では埋められない。本人が穴を開けないように心がけるしかない。敬意は手加減で酬いるのではなく、全力勝負の貢物で報いるべきだ。
 初球、高目のストレートをファールチップ。火の出るスイングだ。江藤の表情が引き締まっている。金田の表情も引き締まる。二球目、大きなカーブドロップ、空振り。江藤は手に砂をつける。三球目、外角高目カーブ、ボール。四球目内角低目カーブ、ボール。バッティングチャンスかどうかなど関係ない。次を打つのだ。五球目、内角剛速球。フルスイングして詰まったショートゴロ。高木動けず。ワンアウト二塁。引退するようなピッチャーではない。きょう一日の江藤の気持ちが定まった。私たちの気持ちも定まった。そうでなければ金田も喜ばない。
 ベンチの上方で金太郎コールが始まる。鉦、太鼓、旗、豆腐ラッパ。ファンたちの希望の鳴り物だ。何試合勝とうと負けようと、優勝しようとしまいとそれは変わらない。彼らは一回でも多く勝ちたいのだ。それは打算ではない。勝利という希望の光としか表現しようがないものだ。三塁コーチャーズボックスで水原監督がパンパンパンパンと激しく手を拍つ。
 ヘルメットを脱いで金田に挨拶。応答なし。すぐさまモーションにかかる。ドロップを二つ見逃す。ボールツー。三球目もドロップ、外角ぎりぎりストライク。菱川に投げた初球の剛速球と、江藤に投げたウィニングショットの剛速球が頭にちらつく。気持ちを高目のストレートに合わせる。四球目、外角へ小さいカーブ、ストライク。ツーツー。金田はセカンドランナーの高木を振り返り、ベルトをたくし上げて、振り向きざま吉田のサインを見ずにセットポジションから投球モーションに入る。内角高目の速球! 顔の高さで一瞬寝かせた手首をレベルに振り出す。両腕を絞りこんで食わせる。
 ―よし!
「いっちゃった!」
 キャッチャーの吉田が思わず叫んだ。打球が照明塔の右方の青空へ向かって上昇していく。短い滞空時間で場外へ消えた。割れ返るような歓声。土井が、
「アヘアヘアヘ、アヘアヘアヘ」
 ふざけた嘆声を上げる。黙々と走る。金田も黙々とスパイクでマウンドを均している。
「神無月選手、百六十三号のホームランでございます」
 水原監督と黙々とタッチ。仲間たちと黙々とタッチ。三対三の同点。
 木俣、一球空振り、二球目見逃しストライクのあと、外角の小さなカーブを打ってセンター右を速い球足で抜く二塁打。江島、初球の高目ストレートを打ってレフト中段へホームラン。
「江島選手、八号ホームランでございます」
 三対五。金田も五回まではマウンドを降りないはずだ。太田、ドロップにヘッドアップして三振。一枝、ツースリーまで粘って内角ストレートで三振。
 二回表。外山ブルペンから颯爽とマウンドへ。吉田、内角低目のカーブを掬い上げて、レフト上段へ二号ホームラン。金田三振。黒江セカンドゴロ。柴田ファーストゴロ。四対五。
 二回裏。外山三振。菱川セカンドライナー。高木セカンドフライ。
 三回表。土井セカンドゴロ。王フォアボール。長嶋、初球の外角低目のカーブをのめった格好で叩いてライト線へ三塁打。王生還。五対五の同点。末次サードライナー。柳田ライトフライ。長嶋一人にやられている。
 星野秀孝がブルペンにゆっくり歩いていく。
 三回裏。江藤サードのファールフライ。私、外角ドロップを打って三遊間ヒット。木俣左中間を深く抜く二塁打。二打席連続。私、長駆生還して五対六。江島センターフライ。太田サードゴロ。
 四回表。外山続投。吉田ショートゴロ。金田セカンドゴロ。黒江、私の前へヒット。柴田フォアボール、すぐさまダブルスチール。木俣無視して外山に速いボールを返球する。土井フォアボール。ツーアウト満塁。ベンチはじっとしている。王、センター前へ痛烈なヒット。黒江、柴田相次いで生還。七対六。客席はやんやの喝采になった。これほどおもしろいゲームはないという喜びようだ。長嶋ショートゴロ。チェンジ。外山は奮闘しているけれども、こつこつと点を奪われていく。
 四回裏。一枝、ドロップを掬い上げてレフト最前席へホームラン。ひさしぶり。
「一枝選手、十七号ホームランでございます」
 うれしそうに右手を振り回しながら走る。七対七、同点。こんな試合、観客ばかりでなく、選手でさえ見たことがないだろう。
 バッター九番外山。きょうの投球には見どころがある。まだ肩もやられていない。コースを考えて渾身の力を出せば、長嶋も打ち取れるだろう。二球見逃し、三球目胸もとの直球を思い切り振ってショートフライ。菱川セカンドライナー。高木レフトフライ。
 五回表。末次、私への深いフライ。柳田センターライナー。吉田ライト前ヒット。金田ショートゴロ、吉田封殺。
「五回投げ切りましたが、もう一回いきますか? 中継ぎにまかせてひっくり返されると負け投手になりますよ。味方が勝ち越して試合を終われば、きみが勝ち投手です」
 水原監督が外山に訊く。
「もうじゅうぶんです。すばらしい試合に投げさせていただきました。みなさん、長いあいだほんとうにありがとうございました。ドラゴンズのこと、みなさんのことは一生忘れません」
 ナイスピッチング! という声があちこちから上がる。別の人生に旅立っていくような顔つきをしている外山に対する本気の賞賛の言葉だ。
「じゃ、星野くん、ありがたく継投させていただきなさい」
「はい! 外山さん、かならず勝つようがんばります」
「気楽にやってください。七失点をがまんしてもらいながら二十六人に投げさせてもらえたということで、もう思い残すことは何もありませんから」
 水原監督が、
「何しおれたことを言ってるんですか。きみには来季もやってもらいますよ。きょうのピッチングは見どころがありました。来年もバッティングピッチャーをやりながら登板のチャンスを狙ってください」
「え、ほんとですか、ありがとうございます!」
 外山はドッと涙を噴き出した。本多二軍監督はここにいない。きっと彼の胸で泣きたかっただろう。
「早くシャワーを浴びて、肩を冷やしなさい」
「はい!」
 五回裏、やはり金田の続投。ネクストバッターズサークルの江藤に並びかける。
「三打席連続凡打はかえって礼を失するばい。打てる打てんに関わらず、全力でいく」
「賛成です」
 江藤は初球のカーブを思い切りひっぱたいた。痛烈なサードゴロになり、名手長嶋が胸に当てて弾いた。
「アーッと!」
 という長嶋の声が聞こえた。あわてて拾って一塁へ送球したがセーフ。ヒットが記録された。
 私を迎え、吉田は迷わず立ち上がった。金田は後腐れのない顔で敬遠。私は一塁ベース上に立ちながら、敬遠についての国鉄時代の金田の強気の言を中村図書館で読んだことを思い出した。
「一度敬遠したとき、うちのオヤジが怒ってなあ。戦わないなら辞めちまえ! それ以来ワシは敬遠はやらん。敬遠だけやない、ツーナッシングからボールを一つ投げろゆうんもぜんぶ監督の指示や。ワシはぜんぶ無視する。だれがワシにそんなこと言えるんや」
 きょう二本の二塁打を打たれている次打者の木俣に対しては、徹底して外角低目のシュートを連投した。ツーワンから木俣は三本ファールを打ってこらえたが、とうとうセカンドゴロを打ってゲッツーに打ち取られた。ツーアウト、三塁に江藤。金田は江島を易々とサードゴロに打ち取った。
 六回表。星野の登板に大きな歓声が湧いた。ボールが生きている。外山とは別物だ。頂点へ昇る者と、麓にすら近づけない者。裾野もてっぺんも自覚のない私にはえらそうなことは言えないが、たしかにちがうものはちがうのだ。
 九番黒江、内角高目のストレートをライト前に落とした。詰まったおかげでいいところへ飛んだ。星野は首をかしげ、柴田には内角ストレートを二球つづけて低目に投げた。みごとにショートゴロ封殺。ゲッツーは取れなかった。一塁に残った柴田は星野の絶妙の牽制球に誘い出されて、一、二塁間でタッチアウト。土井には黒江と同じコースに投げて、セカンドフライに打ち取った。三振を取りにいくだけの男ではない。十九歳。天性のものを感じた。
 六回裏。金田の続投。どうしても四百一勝がほしいようだ。ついにドロップにタイミングの合った太田は、木俣に似た大根切りで痛烈なレフト前ヒットを放った。一枝、外角の速球を振り遅れて三振。星野、憎いことに一球空振りしたあと、長嶋の前に犠牲バントを決める。太田二進。ここで一点取れれば大きい。ツーアウト。バックネット裏に背広姿が十人ほどいて、しきりにメモを取っている。近鉄、阪急両チームの偵察隊だとわかる。初回からいたかどうかハッキリしない。
 初回先頭打者で懸河のドロップをライトにホームランしている菱川は、今度は明らかに内角を狙っている。左足の爪先がわずかに外を向いている。同じ懸河のカーブを打った二打席目のセカンドライナーも、あと十センチも打球が上ならば二塁手の頭を越えて右中間を抜こうかという当たりだった。記憶のいい金田はもうドロップを投げてこない。菱川はそう確信している。長嶋の四打席四三振以来この十五年のあいだに、私は金田というピッチャーは基本的にカーブピッチャーだと認識した。往時のストレートはもっと速かったかもしれないが、現在は渾身の力で投げても百五十キロの手前だ。速いことは速いが、打ちにくくはない。投球パターンも決まっている。外角の変化球を見せ球にして、内角のストレートか小さく落ちるカーブで攻めてくる。菱川と私の考えは同じだ。常に内角のウィニングショットを狙っていればいい。
 初球からきた。内角、腹のあたりの速球。腰を引き、からだをくの字にしてよける。ボール。二球目、外角へスローカーブ。見逃し、ストライク。見せ球。
 ―次くるよ、菱川さん。
 三球目、内角、膝もとのストレート。菱川は両腕を絞ってみごとにミートした。ギューンとフックした打球がファールライン上で白煙を立てた。太田、胸を反らせてドタドタ本塁へ、菱川は華麗にセカンドベースへ滑りこむ。




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