百三

 ツーアウト二塁。七対八。星野のできからして、一点差は安全圏だ。
 バッター二番高木。きょうはレフト線二塁打、セカンドフライ、レフトフライ。凡打はストレートにやられている。ブルペンの星野が祈るように高木を見つめている。高木のグリップが下がる。背中を丸める。ホームラン狙いだ。初球、内角低目に食いこむ速球。見逃してボール。いつもの早打ちにいかない。もう一点取ればダメ押しと見ているからだ。二球目、真ん中へさらに低いストレート。掬い上げた。
「いったか!」
「いったろ!」
 伸びない。それでもフェンスぎわだ。末次がトトトトと打球の下へ走る。菱川走る。末次捕球。チェンジ。声出し役の中が田宮コーチに、
「金田さん、ほんとに引退するの? ぜんぜんその気配ないよ」
「しかし、八点取られてるぞ」
「たしかにね」
 金田はうつむいてのしのしベンチに下がった。
 七回表。王から。外角のストレート、見逃し、ストライク。内角ストレート、ファールチップ。真ん中パーム。高いバウンドでセンターへ抜けるヒット。さすがだ。王が打てば長嶋が燃える。星野の正念場だ。初球真ん中低目へ速いカーブ。引っかけた。ショートゴロゲッツー! 江藤が捕球したグローブを叩いて喜ぶ。末次、真ん中高目を空振り、真ん中低目の速球で当たり損ねのキャッチャーゴロ。ベテランを手玉に取っている。天才投手だ。
 七回裏。金田はここで降板した。四百一勝はお預け。たぶん来年まで。金田はベンチで首にタオルを巻いている。ホッとした顔だ。グランドをやさしい目で見つめながら楽しい思いにふけっているようだ。私はバッティングしか知らないが、野球は楽しい。うまく打てれば、からだじゅうに快感が駆けめぐる。ベースを回るときの気分は人生で最も爽快なものだ。ピッチャー交代。眼鏡の中村稔。太田コーチが、
「あ、中村はね、正真正銘、引退登板」
 くにゃくにゃ縄が解けるような投げ方をする。中が、
「長嶋より古い人だよ。タイミングを外す遅いボールで十三年も投げてきた。打ってあげなよ。金太郎さんに打たれるのは最高の栄誉だから」
「打ちます」
 江藤が打席に入った。打つと決めている構えではない。中村の引退試合だとわかっているのだろう。外角にドロンと落ちるスローカーブを打ってセンターフライ。これは作為的な手加減ではない。あふれ出る慈愛だ。私は戻ってきた江藤のやさしい手と強く握手した。
「金太郎さん、派手なやつ一本! 中村に思い出作ったれ」
「はい!」
 江藤が破顔してベンチに退がった。
 バッターボックスへ歩いていく。中村にヘルメットを脱いで礼。二万五千人の観衆がどよめく。
「金太郎さん! もう一本!」
「金ちゃーん! もう一本!」
「もう一本!」
「もう一本!」
 ホームランを願うシュプレヒコールだ。うれしい。みんなが一本でも多くホームランを願っている。
 くにゃくにゃモーションで初球外角高目、何かの変化球。ボール。二球目真ん中ストレート。ストライク。多少沈んだ気がする。腕はしっかり振れているがボールがこない。なるほど。思い切りボックスの前に出た。キャッチャーの吉田が、
「神無月くん、もうきょうはいいんじゃないの、いいかげん」
「いや、江藤さんの厳命ですから」
 クネクネ三球目。真ん中低目ストレート。フッと落ちる前に叩く。田宮コーチが、
「はい、イッチョ上がりィ!」
 ベンチ全員がバンザイをする。ラジオアナウンサーの甲高い声が聞こえる。
「センターバック、センターバック、いったか、いった、いった、いや消えた、消えたァ! 百六十四号!」
 センターの柴田もライトの柳田も打球の行方を見もしないで、拱手し、一塁に向かって走っていく私を眺めている。バックスクリーンのさらに後方のボードを越えて、スコアボードの左脇から場外へ消えていった。場内が息を呑んで静まり、やがて大歓声を噴き上げた。宇野ヘッドコーチとバチンとタッチ。下通のアナウンス。
「神無月選手、百六十四号ホームラン! 今シーズン中日球場における七十三本目のホームラン、オープン戦も含めると八十二本目でございます。拍手!」
 喝采するスタンドに手を振りながら走る。土井も黒江も長嶋もグローブを小脇に挟み手を叩いている。川上監督以下巨人軍ベンチも全員立ち上がり、手を叩いている。水原監督と抱擁。江藤と抱擁。迎える全員と握手、タッチ、握手、タッチ、握手。バックネットに手を振る。一塁ベンチ上に手を振る。徳武が、
「前人未到、後人未到!」
 小川が、
「拝啓、野球の神さま!」
 深々とお辞儀をする。ブルペンから星野が駆け寄って飛びつく。揉みくちゃ。
 七対九。木俣、高い高いピッチャーフライ。セカンドの土井が捕った。江島ライト前ヒット。
「まだあんのー! やめなよォ!」
 吉田の悲痛な叫びが聞こえた。太田、初球の内角シンカー(?)をレフト上段へ三十一号ツーラン。七対十一。
「やけのやんぱちだ、どうせなら大雨こい!」
 また吉田が叫んだ。一枝セカンドゴロ。三塁側スタンドから安堵のため息が聞こえた。
 八回表。柳田の代打に相羽。知らない。あっけなく三振。当たっている吉田、ピッチャー星野のグローブを弾く内野安打。中村稔の代打上田武司、ショートゴロゲッツー。
 八回裏。ピッチャー田中章に交代。川上監督のベンチに座る姿をきょうは数えるほどしか見ていない。王、長嶋のホームランのときは出てこなかった。
 星野秀孝、すべて真ん中ストレートを振って上品に三振。菱川、上品にライトフライ。高木フォアボール。王がしきりにこぶしに息を吹きこんでいる。江藤が私にネクストバッターズサークルを譲りながら、
「これ以上は気の毒ばい、セカンドゴロいくぞ」
 みごとにチョンとセカンドゴロを打った。きょうの江藤はサード強襲のワンヒットだ。打率を落とした。豪気な男だと感心する。プロ野球選手。とりわけ中日ドラゴンズの選手たちは私にとって、言葉では言い表せないほどの才能と情緒にあふれている。笑ったり、泣いたり、これほど夢中になって野球を楽しむ大人を見たことがない。私もいつかこうなりたいと思って生きてきた。私を導く光として彼ら以上にすばらしい人びとはいないだろう。中日ドラゴンズの一員であることに感激する。中日ドラゴンズのおかげで、夢の中の時間をすごすことができる。いまを逃したら、中日ドラゴンズには二度と会えない。
 九回表。黒江、内角高目の速球で三振。柴田、内角カーブに合わせただけのショートゴロ。土井、パームで空振り三振。試合終了。外山初勝利。外山が静かにベンチから出てきて、星野と握手し抱擁した。
「ありがとうございました!」
 うなるように搾り出すと、外山はタオルを顔に当て男泣きした。
 四時二十五分。インタビューは外山を伴った水原監督にまかせる。すぐさまトンボが入る。観客が席を立ち、ぞろぞろ歩いていく。偵察組の背広姿はすでになかった。スコアボードを見ると、

 
近鉄―阪急 3―5 終

 となっていた。
         † 
「三対三の同点、延長十一回、ピッチャー宮本のサヨナラツーランですよ。きょうは西宮でダブルヘッダーでして、第二試合も阪急が勝っちゃったら、近鉄は崖っぷちに立ちます」
 帰りの車中で菅野が言った。私は、
「西鉄、大洋、近鉄か。三原監督、三度目の奇跡は無理そうですね。天王山で初戦を落としたのは、二勝すればいいという油断からでしょう。初戦に勝てば、あと四戦に一勝すればよかった。三連敗はまずあり得ないから」
 主人が、
「阪急で決まりそうですな。米田、梶本、石井、水谷。阪急はピッチャー王国だから、相手にとって不足なし。やり甲斐があります。近鉄は鈴木啓示一人だもの」
「きょう、相羽という代打が出たけど、何者ですか」
「甲子園で尾崎にやられた中商組です。巨人に入団して八年、ずっと外野をやっとりますが、中商ではショートやった。同期は山中巽、省三さん、一年下が木俣さんですわ。万年控えです」
 菅野が、
「相羽って、マーシャルの幻のホームラン事件の男でしょう」
「そうやそうや。何年ごろやったかな」
「五、六年前ですよ。マーシャルのホームラン性の当たりを客がグローブ延ばして捕ってしまって、レフトの線審がアウトを宣告したんですよ。相羽が捕れていた打球だということでね。じつは相場のグローブの先っぽに当たって撥ねて、客の掌にスッポリ入っただけで、客はグローブなんかはめてなかったんですよ。西沢さんが怒って選手を引き揚げさせて、危うく没収試合になるところでした」
「左ピッチャーに滅法強いんで、代打で出てきたんやろう。星野は打てん」
「マーシャルって、ぼくの中学時代の選手だな。あまり野球を熱心に観ていなかったころです。野球に夢中になったのは、小四から小六の三年間。スカウトを追い返されてから急に情熱がなくなった。それからぼんやり野球をやってきた。こんなに楽しいものだって知ったのは、プロに入ってからです」
「……悲しいですね。ようやくプロの誘いがきたのは、スカウト追い返しの六年後の八坂荘ですからね。悲しすぎます。でもよかったですよ。野球をつづけてくれたおかげで、私たちはいまこうして奇跡を見ることができる。百六十本なんてホームランを生きているうちに、現実にこの目で見ることができたんですよ」
「ほんとにそうやなあ。今年偶然生きとった人は、みんな生きとってよかったと思っとるやろ。ありがたいことやわ」
         †
 玄関の戸を開けると、元気な直人が走り出てきた。トモヨさんがあわてた声を上げる。
「直人、おとうちゃん風邪に弱いから、あまり近寄っちゃだめよ」
「はーい。おとうちゃん、きょうホームランうった?」
「打ったよ、二本」
「わあ、すごいなあ。ぼくもうちたいなあ」
「直人は大きくなったら野球をやるか?」
「うん、やきゅうせんしゅになる」
「そうか。小学校入ったら、たくさん練習しような」
「うん、れんしゅうする」
 トモヨさんに、
「幼稚園は何歳から?」
「満四歳からです。昭和四十七年の春からになります」
「あと二年半か。五十年の春に小学一年生―」
「子供の成長を人生の道しるべにしないでください。気持ちが老けますよ」
「だいじょうぶ。ぼくは目先のことしか頭にないから」
         †
 アイリス組も晩めしの食卓に並んだ。車海老の天丼、里芋の煮転がし、マツタケと銀杏の天ぷら、シュリケのワイン蒸しが載る。直人は小さなハンバーグとケチャップチャーハン。里芋も二つに切って食べさせられる。
「シュリケだ。これはうまいんだ。何年ぶりだろう。横浜から野辺地に里帰りして以来かな、いやもっと前だな。五歳……」
 ソテツが、
「何ですか、シュリケって。これはムール貝、日本ではムラサキ貝と言います。身に濃厚な旨味が含まれていて、加熱するだけでもおいしいんですけど、これはニンニクを効かせたワイン蒸しにしてあります。おいしいでしょ?」
「うん、うまい!」
 直人もチャーハンを口に入れ、
「うん、うまい!」


         百四

 主人がビールを含み、
「夕刊フジに、もう外山のことが載ってますよ」
 かなり大きい見出しが目に入った。

  外山・プロ一勝・引退再考
 中日ドラゴンズの外山博投手(22)は名電工のエースとして、三年生時に二十三勝三敗の好成績を挙げるなどして活躍した右投げの本格派である。昭和四十一年のドラフト会議で近鉄バファローズから三位指名を受けるも拒否し、ドラフト外で中日ドラゴンズに入団した。それほどドラゴンズへの思い入れは強かった。その後肩をこわし、二軍生活を余儀なくされてきたが、ついに本日十八日、一軍登板を果たした。王に通算四百号を打たれるなど、五回まで七失点、同点のまま降板したが、継投を託された星野秀孝が四点の加点を守り切って、めでたく初勝利をプレゼントした。
 同投手は今月十日に球団事務所を訪ね、右肩痛を理由に任意引退を申し入れていたが、慰留される見こみが高まった。球団はすでにシーズン中から、同投手を今シーズンかぎりで整理対象選手にする方針を決めていたが、再考することになりそうだ。なお大西譲治投手(20)も同日球団事務所を訪れ辞表を提出していたが、球団は慰留することにしている。大西投手は、百八十六センチ、八十六キロと、チーム一の体力に恵まれ、年齢的にもこれからで、球団は将来性を評価、来春には大リーグドジャースのキャンプに参加させることになっている。

「だれですか、大西譲治って」
「外山と同じころドラフト外で入団した愛媛のピッチャーです。父親がアメリカ人の混血で、スタルヒンに似た投手として有名やったな。球は速いがコントロールなし。ドジャースで練習しても、化けんやろ」
 菅野が
「今年、明石キャンプにも二軍で参加していたんですよ。水原監督が気に入って、新聞でもコメントしていたんだけど、結局一軍の紅白戦には投げさせなかったですね」
 いろいろな選手が身の周りにいたことに驚く。野球選手になりたいと願いながら、活躍できる選手になれない人びとがたくさんいる。……ほんの一握りの人間の生涯は、創りものの物語に似ている。物語には山場がある。輝く一瞬がある。ほとんどの人間はその一瞬をだれにももらえない。私はどういう幸運な巡り合せでここにいるのか。睦子が、
「金田投手の記事も載ってます。四百勝は通過点、引退なんて考えとらん、まだ三十六歳だぞ、ですって。でもそういうことを言って当然の人なのよね、千佳ちゃん」
 千佳子が、
「うん。神無月くんにバットを快く貸してくれた人だし、騒動のときも好意的な意見を言ってくれた人なので、詳しく調べました。金田選手は、昭和八年に愛知の稲沢に在日朝鮮人の子として生まれて、二十六年後の昭和三十四年に日本に帰化してます。長嶋と対決した翌年です。名古屋の大曽根中学校のときに野球を始めて、電気専門学校から共栄商業に編入して本格的に野球をやりだしてます。昭和二十三年には補欠で甲子園に出ました。すごいピッチャーがいるという評判が立って、国鉄スワローズが金田家の生活費と、金田さんの教育費の面倒をいっさい見ることになりました。で、二年生の二月に中退して国鉄に入りました。昭和二十五年、十六歳のときです。初登板は十七歳になったばかりの夏の広島戦で、押し出しサヨナラ負けでした。その年、八勝を挙げました。翌年九月の阪神戦でノーヒットノーラン。十八歳での達成は史上最年少です。二十二勝を挙げました」
 私は首を振り振り、
「オンナ菅野と化してるね」
「菅野さんに追いつくのはまだまだです。それからは、十四年連続二十勝です。昭和三十二年の八月に、中日球場で完全試合。左ピッチャーで完全試合を達成したのは金田一人です。三十三年の四打席四三振のとき、長嶋は、カーブとドロップが切れていて手が出なかったと言ってます」
「威力の凄まじいストレートのことを言わないのはズルいね。いまでこそ衰えてるけど、百六十キロ近いスピードは出てたと思うよ」
 主人が、
「神無月さんのバット事件と同じような災難が、彼の身にも降りかかったことがあるんですよ。彼がデビューした年、長野での阪神戦で、金田正泰という阪神の打者が、ボールが速すぎる、マウンドからの距離が短いんじゃないのか、とクレームをつけたので、ゲームを中断して審判がメジャーで計ったら、規定どおりの間隔だった」
「また審判が絡んでるんですか。思わず計ってしまったんでしょうね。彼は大柄で、踏み出し幅が広いので、近くから投げているように見えたんだな」
 千佳子が、
「長嶋との対決の年に、二十四歳の史上最年少で二百勝、五十一試合目で史上最速二十勝も達成してます。とにかく三振はじめ、記録ずくめの人です。金田さんはきょう神無月さんを敬遠しましたけど、これまで十七年間敬遠をしなかったんですよ。お父さんに戒められたことばかりでなく、大きな理由があるんです。昭和二十七年の八月札幌円山球場の巨人戦で、四対四の延長十三回の裏、巨人はワンアウト一塁、三塁」
「ふんふん」
「ピンチヒッター、あの藤本英雄」
「ふんふん。彼は肩を壊してた時期に外野手をやってたからね。三番を打ってた」
「国鉄ベンチは金田に敬遠を指示。そして―」
 菅野が、
「金田のボールが速すぎてキャッチャーが捕れなかった」
「そうです。それでサヨナラ負け。それ以来金田投手は敬遠をしたことがなかったんです。それがきょう、何のためらいもなく神無月さんを敬遠しました。引退を決意したからじゃなく、十七年間の封印を切るくらい神無月さんが怖かったからです。そんなに勝負に真剣に打ちこんでいる金田さんが、引退など考えるはずがありません」
 主人が、
「巨人フロントが引退を画策したんやったら、そうもいかんのやないかなあ。それに、細かい複雑骨折が重なって、肘が曲がったままになっているそうや」
 キッコが私のコップにビールをついだ。カズちゃんが、
「金田さんにかぎらず、いろいろなヒーローが辞めていく転機にキョウちゃんは遭遇したんじゃなく、立会いにきたのよ。新しいプロ野球界を作るヒントを与えるためにね。私もそれに気づいたのは最近よ」
「ぼくは転機の一員としていっしょに辞めたいな。目指した場所はこの中日ドラゴンズだったから。間に合ってやってこれたことで、目的は達成した。新しいプロ野球世界には興味がない」
 カズちゃんは、
「そうよ、それでいいの。新しい世界を作るきっかけをプレゼントしたんだから、キョウちゃんは新しい世界に入っていく必要はないわ。安心して未来の世界から去ればいいの」
 一口ビールを飲んで、海老天丼に精を出す。菅野が、
「水原監督がこのあいだの会合で、黄金の背景と言ってましたね。中さん、高木さん、江藤さん、木俣さん、菱川さん、太田さん、一枝さん、小川さん、星野さん、小野さん―彼らとちがった背景は考えられませんよね」
「おなかいっぱい。おかあちゃん、おちゃをのんで、おふろにいこ」
 直人がマセたことを言う。みんな思わず顔を崩した。
「お茶飲むの? 直人」
 イネが、
「薄くてぬるい麦茶だす」
「そうか、麦茶はからだにいいんだぞ」
 適当なことを言う。
         †
 十月十九日日曜日。七時起床。快晴。気温十二・九度。下痢のあとの腹痛がいつもより長くつづく。寝冷えしたようだ。
「カズちゃん、そろそろ綿の重い掛蒲団出しといて」
「はーい」
 百江が、
「きちんと干してから、押入にしまっておきます」
「きょうはメイ子ちゃんも百江さんも、アヤメお休みでしょう。洗濯もよろしくね。私はお掃除するから。午前中にやっつけちゃいましょう」
「はい。そのあと巨人最終戦ですね」
「そう。一時ごろ出ましょう」
 トレーニング室に入る。やがてからだが温まり、腹痛が消えた。
         †
 中日―巨人最終二十六回戦。微風。観衆一万四千人。中日のバッティング練習中に、ネット下を振り向いて下通にピースサイン。年間席にピースサイン。一塁スタンドにピースサイン。巨人戦なのでテレビカメラが稼動している。もちろん中継はされていない。
 ライト外野席の球団旗の揺れが目に涼しい。フェンスまで走っていって、五十メートルダッシュ往復二本、三種の神器。
 十二時。巨人のバッティング練習開始。長嶋の左肩が入りすぎている。それでも右に左にすばらしい打球を飛ばす。とりわけ顔の高さのボールを叩きつけるスイングが独特だ。王の打法は独楽を大きな腰に乗せて回転させるスイングだ。低目も高目もじょうずにレベルに掬う。外野のストレッチ組の中に金田がいる。トレーニングコーチと組んで黙々とやっている。ソテツ弁当のあと、ドラゴンズの守備練習。つづけて巨人の守備練習。伊熊がらんらんと輝く目をフィールドに注いでいる。語りかける。
「伊熊さん、今年はけっこう出てますね」
「きょうが十一試合目です。あさっての広島戦が引退試合になります。どちらも打席を多く取れるように、一番バッターで出してもらうことになってます」
 二十一歳。三年前のドラ一。気の毒だが仕方がない。バッターはピッチャーのような再生の可能性はほとんどない。
「そうですか、がんばってください。慰留されることもありますから」
「はい、精いっぱいやります」
 巨人の守備練習終了。王も長嶋もベンチの前列にくつろいでいる。川上監督がその真ん中に座っている。長谷川コーチが、
「巨人は監督コーチが十三人もいるのに、一軍コーチは中日と同じ四人しかいないんだよ。ヘッドコーチ牧野、打撃コーチ荒川、守備コーチ白石、ピッチングコーチ藤田」
「二軍に力を入れてるんですね」
「それはないね。二軍はぬるま湯体質。引退後も球団が面倒を見てくれるだろうと思ってノンベンダラリとしているコーチが多すぎる。一度でも巨人の人事に難色を示したり、反旗を翻したりした選手はコーチで呼ばれない。ほんとはそういうやつこそコーチに呼んで、ぬるま湯を熱湯にしなくちゃいけないんだけどね。それで、巨人にきたがるぬるま湯希望者の外様コーチをたくさん迎え入れる結果になる。カネやんも呼ばれないよ」
 下通の流麗なアナウンス。
「中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツ二十六回戦、間もなく試合開始でございます。昨年度までリーグ優勝十四回の読売ジャイアンツと、リーグ優勝一回の中日ドラゴンズとのシーズン最終戦でございます。ちなみに、ジャイアンツは昨年度リーグ優勝かつ日本一、ドラゴンズは昨年度リーグ最下位でございました。今シーズンのドラゴンズとジャイアンツの対戦成績は、ここまで十八勝五敗二分けでございます。ちなみに昨年度はジャイアンツの十七勝九敗一分けでございました。悲喜こもごも、それぞれの思いを胸に、存分にご声援くださいませ」
 さわさわと笑い声が上がる。水原監督が、
「悲喜こもごもとは、下通さん、ファンの深層心理をくすぐるようなことを言うなあ。うまい、うまい」
 長谷川コーチが、
「今年は巨人とのあいだにいろいろありましたからね」
 江藤が、
「背中の張りが取れんけん、きょうの試合は休みます。みんなよろしく頼んます」
「オース!」
 中日の先発は小川健太郎。松本忍ではなかった。速球がないので、きのうの外山どころではなく打ちこまれると水原監督が考えたのだろう。巨人は渡辺秀武。ピッチャー以外のスタメンは両チームとも少し入れ替えた。巨人は六番レフト末次に代わって槌田。中日は中に代わって一番センター伊熊、江藤に代わって三番ファースト千原。
「ここまでドラゴンズ小川健太郎投手は、二十五勝一敗、防御率二・○八。ジャイアンツ渡辺秀武投手は、十勝七敗、防御率三・三六でございます」
 最終戦なので発表しているのだろう。広島球場のまねをしているわけではない。きょうはドラゴンズベンチに二軍コーチも顔を揃えている。一塁側内野スタンドでは二軍の有志たち二十名余りが観戦している。ネット裏には十人ほどの偵察隊だ。太田に、
「きのうの天王山の第二戦はどうなったの」
「八対二で阪急の勝ち。梶本が勝って佐々木が負けました」
「佐々木? まあどうでもいいや」
「佐々木宏一郎。鈴木啓示と並ぶ近鉄の主戦ピッチャーです。この二試合、長池が九の二で当たってないので、次の二戦のどちらかで打ちまくって試合を決めるでしょう。三割バッターですからね。十中八九、阪急の優勝です」
 小川が、
「俺、何度も言うようだけど、おととしのオールスターで、長池にスリーラン打たれてるんだよね。それであいつMVP。長池のおかげで阪急は初優勝できたと思うぜ。今年で三年連続優勝」
「まだ決まってませんけどね」
 太田が言うと、高木が、
「まちがいないだろう。長池のホームラン王と打点王も確実だ。八年連続ホームラン王の野村が、今年ガクンと衰えたからな」
 一枝が、
「長池は三十九本、野村は二十二本。達ちゃんは五十一本、慎ちゃんは六十九本だぜ。あさって七十号打ってほしいな。パリーグいったら、二人ともホームラン王じゃないの。どうなってんだ」
 中が、
「打ちすぎだね。来年が怖いよ」


         百五 

 スターティングメンバー発表で、一番伊熊と告げられたとき、少なからぬ拍手が上がった。地元の星として期待された選手だったことを忘れていない人たちがいるのだ。
 主審はきのう一塁塁審だった大里。目玉のマッちゃんがライト線審に入った。きのうは控えだったようだ。
 小川がマウンドに上がる。オーバースロー、サイドスロー、アンダースロー、さまざまな形で投球練習。切れている。打たれない感じ。外野のキャッチボールの球を太田がボールボーイに投げ返す。木俣のセカンド送球を内野が回し終えたところで、大里のプレイのコール。下通のアナウンス。
「一回表、ジャイアンツの攻撃は、一番、センター柴田、背番号12」
 柴田が左打席に入る。戦後初のスイッチヒッター。戦前には、私が生まれた年に死んだ外国人選手第一号、スイッチヒッター第一号のジミー堀尾という強力無双の男がいたらしいが、どういう選手だったかは寡聞にして知らない。
 ちぎっては投げの小川は、まずスリークォーターできた。内角腹のあたりに食いこむ速いカーブ。柴田は少し腰を引く。ストライク。ボールがよく見えている。スンスン、と肩を縦に揺すって構える。小川は最初打たれたほうがいい。打たれてファイトを湧かせるタイプだ。二球目、サイドスロー外角低目のシュート。ピッと流し打つ。私の前へいい当たりのヒット。
 ―よし、これでいい。
 一点二点献上してから試合が始まる。柴田が赤い手袋をする。気障な野郎だと思っていたが、週刊誌でその理由を読んで納得した。おととしのベロビーチキャンプで、ドジャースの選手にヘッドスライディングを教わって掌にケガをした。革手袋をして練習しようと思い、ゴルフショップに買いに出かけたが、男物はみんなデカい。ちょうどいいのが女物の赤い手袋しかなかった。以来、女物の赤い革手袋をしている……。たしかに納得したけれども、事実かどうか疑わしいと思っている。一般的な外国人の女の手が日本人プロ野球選手の手のサイズだとは思えないからだ。走塁で脱げ落ちないようなピチッとした手袋がほしかったのだろう。そのためにはたまたま女物しかなかった。ただ、女物には白も黒も灰もあるので、別に赤でなくてもいいと思うが、推測するに、カラーテレビに映えるからという理由で赤にしたのだろう。やはり一癖ありそうな男だ。その勘から私は一度も彼に近づいたことがない。彼も一度も近づいてこない。
 二番土井、初球アンダースローで外角へ浮き上がる直球、ピッチャー前へバント。柴田二進。ここで小川が苦手にしている王。外角攻め。シュート、ストライク、シュート、ファール。外角高目ストレート。待ってましたと右中間の真ん中へ打ち返される。ツーベース。赤手袋の柴田生還。一点。ホッとする。長嶋、三球目の外角カーブを打ってセカンドベース際のショートゴロ。王動けず。黒江、空振り、ファール、空振り、ファール、五球目内角低目のシュートをうまく掬って私の前へ痛烈なヒット。王、私の肩を考えて三塁ストップ。槌田セカンドゴロ。チェンジ。いい感じだ。これで小川のウォーミングアップはすんだ。
 一回裏。伊熊、ツーワンまでじっくり見て、内角速球をセカンドライナー。気力のこもった当たりだ。高木、外角カーブを軽いスィングでライト前ヒット。千原三振。私、ついと曲がるシュートを強く叩いてレフト前ヒット。木俣外角高目のストレートをセンター前ヒット。高木還って一対一の同点。菱川内角高目カーブにスカを食ってピッチャーゴロ。 
 からだの温まった小川は、二回から五回表まで打者十五人、二塁打一(王二本目)、シングル二(長嶋・槌田)に抑え、零封。
 渡辺も、二回裏から五回裏まで同じく打者十五人、シングル三(伊熊二本と私一本)に抑えて零封。私はセンター前ヒットとライトフライ。両投手完投の勢いだ。
 六回表。長嶋三遊間ヒット。彼の打球はゴロでもグローブに心地よくピシッと収まる。黒江ライト前ヒット。槌田5―4―3のダブルプレー。長嶋三塁へ。柳田ライト前ヒット。長嶋還って一点。吉田三振。二対一。
 六回裏。三番千原から。外角低目のカーブを引っ張ってライト前ヒット。進軍開始の鉦、太鼓、ラッパ、旗。ヨ! ホ! ヨーオ!
「四番、レフト神無月、背番号8」
 大歓声と、拍手と、金太郎ォのシュプレヒコール。水原監督、パンパンパンパン。吉田がマウンドに走り、内野陣が集まる。学級委員会。
 ―シュートとシンカー。屁っぴり腰。
 私の頭にはそれしかない。川上監督が出てこないので、勝負と決まって委員会が解散する。田宮コーチの声が空に昇る。
「それいけ! 一本!」
 江藤がベンチの手すりに凭れ、
「ぶちかましたれ!」
 サイドスローから初球、胸もとのストレート、浮き上がりがきつく、ボール。強い球だ。これで押されれば打てない。
「ヨシャ、ヨシャ、ヨシャー!」
 二球目、内角低目へ小さなカーブ。ボール。
「オシ、オシ、オーシ!」
「ナイッセン、ナイッセン!」
「メリーちゃん、怖がってるよ!」
 中日ベンチの手すりにずらりとレギュラーの顔が並んでいる。三球目、外角へフワリとシンカーが落ちてくる。腰を沈めて踏みこみ、両足を踏ん張りながら思い切り水平にスイングをする。少し先だが、バットに乗せた。
「そりゃ、いったァー!」
 左中間へ一直線に舞い上がる。伸びる打球ではないが、届く打球だ。一塁上の千原がバンザイをしたので、安心して走り出す。左中間前段に落ちる。線審の鈴木がクルクル白手袋を回す。一塁スタンドの二軍選手たちが立ち上がって拍手している。その前方で睦子たちが拍手している。宇野ヘッドコーチとタッチ。
「ナイスバッティング!」
 王の祝福。下通の弾む声。
「神無月選手、百六十四号のホームランでございます」
 二塁を回る。ベース踏みを確認にきた黒江が土井に、
「足し算できるか」
「まだ三点だろ。きのうのつづきかって錯覚しちゃうよ」
 水原監督とハイタッチ、抱擁。長嶋が、
「ピッチャー、コース甘いなあ」
 素っ頓狂なことを言う。小川とハイタッチ。
「一点差でだいじょうぶですか」
「がんばる。でも、もう少し取ってくれるんだろ?」
「たぶん」
 木俣、痛烈なショートゴロ。菱川、左中間へ深いフライ。柴田ランニングキャッチ。太田レフトフライ。二対三。
 七回表。渡辺三振。柴田三振。土井セカンドゴロ。小川のちぎっては投げのインターバルの短さが最高潮に達した。
 七回裏。一枝、内角シンカーをクルリと掬ってレフトフェンスぎりぎりに十八号ソロ。去年の本数を五本超えた。ニヤニヤ顔で水原監督とタッチ。バッターボックスに向かう小川とハイタッチ。二対四。
 小川サードライナー。伊熊、右中間を矢のように抜く二塁打。中の打球に似ていた。小さなからだから低い弾道で飛んでいく中の打球は、私がプロに入って最初に心の底から感動したものだった。キャンプのシートバッティングで、中のレフトへのするどい打球が揺れたり曲がったりして伸びてくるのを目のあたりにしたとき、私はプロ野球選手になったのだと実感した。その軌道と似ていた。セカンドベース上の伊熊の顔が歪んでいる。私は千原といっしょに拍手した。火事場のバカ〈当たり〉。確実に慰留されるだろう。
 高木ライト前ヒット。伊熊が足から滑りこんで生還する。二対五。高木、渡辺の二球目に盗塁。千原センター右へヒット。高木生還。この回三点目。二対六。
 スコアボードを見ると、阪急が七回終了時点で三対一で勝っている。森下コーチが裏口からベンチに入ってきて、
「長池が四十号、四十一号を打っとる。石井から梶本に継投したので、これはもう阪急やな」
 長谷川コーチが、
「やったな阪急さん、三連勝で決めたか」
 長池に会える。わくわくした。ベンチの江藤が、
「金太郎さん、もう一本いくか」
「はい、取れるだけ」
 敬遠された。中日ベンチがドッと笑った。木俣、サードゴロゲッツー。今度は一塁側スタンドがワッと沸いた。
 八回表。関屋さんが三塁ベンチの上に立ち、笛を吹きながら紙吹雪を撒く。名古屋まで出張してきたのだ。ジャイアンツはきょうが百三十試合目だ。すでに日程を終了している三位の阪神は、六十二勝六十六敗二分け、中日とゲーム差四十二・五、二位巨人はきょう負ければ、六十二勝六十一敗七分け、四十・五ゲーム差。最下位広島とのゲーム差は、五十七・五。どこかの新聞に、笑うしかないゲーム差と書いてあった。
 王が生まじめな表情でバッターボックスに立った。伊熊が右中間へ動き、私は左中間深く守備位置を変える。初球スローボール。ヘッドアップしてバットの先っぽに当たるファール。三塁の牧野コーチの前にトロトロ転がっていく。小川は気をよくして二球目もスローボール。きっちり打ち返して、センターオーバーの二塁打(きょう三本目)。伊熊が守備位置を変えたその頭上を抜いた。どうしても王は苦手のようだ。長嶋、ライトへ深いフライ。王タッチアップして三塁へ。黒江、私への浅いフライ。王、タッチアップの格好だけで釘づけ。私は三塁へ少し強い返球。槌田ショートゴロ。
 八回裏。先頭打者の菱川が一塁ベンチ上のファンに声をかけられる。
「もっとバシバシいけよ!」
「オッシャ!」
 初球、外角カーブをみごとに押っつけて、ライト柳田の頭上を抜く二塁打。田宮コーチが次打者の太田に、
「もういいだろ、タコ」
「敵のスコアラーたちが見てますよ。手を抜かずにいきます」
 初球ヒットエンドラン。太田は外角へ浮き上がるボールをつんのめってライトへ打ち返した。みごとにライト線に転々とするツーベース。菱川還って二対七。ここまでしつこくする必要がないのにあえてやったということは、バックネット裏の偵察隊にドラゴンズの機動力を見せつけるためだろう。一枝、内角シュートに詰まってショートフライ。小川楽しそうにレフト前ヒット。ワンアウト一、三塁。田宮コーチがくどい調子で、ベンチ組の中に、
「もういいだろ? 利ちゃん」
「はい、もういいですよ」
 うれしそうにうなずく。伊熊、サードゴロ、5―4―3のダブルプレー。
「オッケイ、やっとチェンジだ!」
 長嶋の甲高い声が聞こえてきた。
 九回表、星野登場。広島最終戦のためのウォーミングアップだろう。
 巨人最後の攻撃。柳田、内角ストレート、内角パーム、外角パワーカーブで空振り三球三振。アーというため息が三塁側スタンドから上がる。吉田、外角低目のストレートをからだを乗り出して叩く。地を這うようなゴロでセンター前ヒット。ため息が大きな拍手に変わる。星野が帽子をかぶり直す。凛々しい顔がレフトから望見できた。五点差。ジャイアンツが希望を捨てる点差ではない。川上監督がゆっくり大里に近づいていく。私は一枝の後ろまで走った。
「代打ですね。定位置でいいですか」
「高田でも末次でも定位置。左なら、国松か森永だろう。前進守備」
「わかりました」
 高木が一枝に声をかける。
「走ってきたら、頼むぞ」
「吉田じゃ走ってこないでしょう、最終回だし」
 不思議な喚声が湧いたので、スコアボードを見た。

 
近鉄―阪急 2―3 終

 渡辺の代打に森永が出る。二メートルほど前進守備。初球真ん中高目猛速球、ファールチップ。ガシャンとネットへ。二球目外角スローカーブ、空振り。スイングにそろそろ引退のにおいをただよわせている。小学校六年、小山田さんと吉冨さんに連れられて中日球場に広島戦を観にいったとき、森永の肩が弱い、とこましゃくれた批評をしたことを思い出す。あのころは背番号9だった。いまは19。かつて坂崎の背番号だった。二人ともグリップの位置を低くして瓜二つのスイングをする。高三のときテレビでピンチヒッターの打席に立った森永を見たとき、東映に移籍した坂崎が代打専門で戻ってきたのかと錯覚した。しかし、二人とも片手打ちだが、叩きつける力強さが坂崎のほうがはるかに強いと気づいて、森永が別人だとわかった。
 今季森永は、ホームラン一本、打率二割一分。あのころも坂崎と同じようにそんなにホームランを打つバッターではなかったし、打率も二割五分程度だったけれども、さすがにこれはさびしい数字だ。ツーナッシングから内角ストレートを力なく打ち上げてライトフライ。ツーアウト。巨人との最終戦がアウトもう一つで終わりだ。


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