百六

 右打席の柴田の初球。星野肘を畳んだオーバースローからど真ん中へきょう最速のストレート。球界ナンバーワンのスピードだ。柴田驚いてファールチップ。よくかすった。喚声と拍手。私はレフトスタンドの盛んな応援を振り向いて微笑んだ。二球目、外角の快速球。懸命に合わせて一塁線のファールボール。太田が打球を拾いにいき、ボールボーイに投げ返す。私はラインぎわに深く守備位置を変更し、線審の鈴木に、
「一時間半、超えました?」
「一時間三十五分!」
 スコアボードを見ればすむのに、わざわざ腕時計を見て答える。プロ野球史上最短試合時間は五十五分であることを思い出す。最長は知らないが、四時間ぐらいだろう。
 速球、速球、次はたぶん内角へゆるいパーム。きょうの柴田はボールがよく見えているようだ。私はフェンスぎわまで守備位置を下げた。三球目、内角高目へパーム。ジャストミート。
「ウオォォ!」
 速い打球だ。ふつうの守備位置なら頭上を抜かれていた。私はキャッチボールでもするように胸の前でしっかり打球を受けた。喚声と嘆息が同時に上がった。ゲームセット。鈴木が、
「畏れいりやの」
「タイミングが合いだしていたので」
「あさっての広島戦は主審です。どうぞよろしく」
「こちらこそ」
 ベンチへ駆け戻る。水原監督が、
「ナイスプレイ!」
「ありがとうございます」
 菱川が走ってきて、
「最初からあそこに立ってたんですか」
「はい。柴田は長打力があるし、内角パームだと思ったから引っ張ってくると思って」
 ジャイアンツのナインがサッパリした顔でベンチの奥から引き揚げていく。偵察組も引き揚げていく。川上監督が一塁ベンチにやってきて水原監督に声をかけた。
「日本シリーズ、がんばってください。もっと恥ずかしくない試合ができるよう鍛練を積んで、来年出直してきます」
「出直しなどと言わないでくださいよ。痛み入ります。うちの荒削りの野球が今年はうまくはまりました。こちらこそもっと緻密な野球に近づくことができるようがんばります」
 決勝ホームランを打ったということで、水原監督を真ん中に、二十六勝目を挙げた小川と並んでマイクの前に立たされた。十人に余る記者たちが取り囲む。クビにタオルを巻いたチームメイトがベンチで腕組みしてこちらに笑顔を向けている。
「水原監督、対ジャイアンツ最終戦も勝利しました。百六勝ですよ。勝率八割四分八厘」
「何かに取りつかれてますね。シリーズ終了まで憑き物が落ちないよう願っています」
「江藤選手がきょう出ておりませんが、調子でも崩されたんでしょうか」
 ベンチの江藤を振り返り、
「背中に張りがね。シリーズに万全の態勢で臨んでほしいので大事をとりました。あさっては何打席か出る予定です。七十号がかかっていますから」
 江藤がVサインを送ってよこす。
「神無月選手、百六十五号おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「神無月選手にしては、きょうのホームランはぎりぎりでしたが」
「先っぽでしたし、遅くて重いボールはバットにうまく乗せないと飛ばないんです。入るという感触はありましたけど」
「来年は二百本ですか?」
「ぼくはプロ野球の世界にいます。工夫と努力を日課とする人びと戦っているんです。本数は半減するでしょう。……五十本から七十本。そのあたりでデッドヒートになると思います。小技もたしかに得点に結びつきますが、今年の中日の優勝のせいで、ホームランがいかに試合の決着に影響を与えるかという考えが浸透したはずですから、来年以降バッティングの研究をして、ホームランを打てるバッターがどんどん増えてくると思います。チームに一人二人は、五十本以上打てるバッターが出てくるんじゃないでしょうか。三試合に一本、十二打席に一本打てば、四十本です。研究すればその数字は可能です」
「研究のコツは何でしょう」
「バットの可動範囲を広くする素振りをすることです。ピッチャーがきびしいところをついたと自信の持てるコースを甘いコースだと判断できるようにする。ストライク、ボールにこだわらずにね。変化球を想定した素振りはしない。人は直球しか打てないんです。変化球は直球の点として打つ。曲がりではなく、スピードの変化しか考えずに、ある静止した一点で遅い直球と考えて打つ。どう曲がろうとかまわないから、ゆるいストレートがここにくるだろうと予測した一点で打つんです。それで打ち損なったらあきらめる」
 ベンチ全員が拍手した。
「ありがとうございました。小川選手、二十六勝おめでとうございます。二十六勝一敗、二位高橋一三投手の二十二勝五敗を抑えて、今年度の最多勝に輝きました」
「ありがとうございます。一年間、天馬金太郎はじめ、大変身したチームメイトのおかげで勝ちを重ねることができました。防御率トップはだれですか」
「江夏投手の一・八一です」
「あれ? 星野のほうが上なんじゃないの」
「はい、一・○一で、戦前の藤本英雄の○・七三に次いで史上二位です。投球回数が規定回の百三十に達していなければ受賞対象になりません。しかし、あと五イニング投げれば規定投球回数に達します」
「そうか、よかった!」
「三十イニングをクリアしているので、入団三年以内という規定の新人王は確実でしたが、今年は神無月選手にもっていかれます」
「新人王は来年獲れる。新人王以外は来年から続々獲れる。気にしなくていい。連続イニング無失点記録は?」
「星野投手は二十一イニングを記録しましたが、四十一年の堀内の四十四イニング、三十七年の小山と戦前のスタルヒンの四十七イニング、三十年の別所の五十というふうに、三十三年の金田の六十四イニングを筆頭にズラリと並んでいますので、まだまだ遠く及びません。ところで、あさって発表の沢村賞は高橋一三投手で本決まりです。沢村賞辞退に悔いはありませんか」
「ありません。お祭りごとは一度でいい。今年は気持ちに油断があった。身も心も引き締めて、来年も最多勝を狙います」
 水原監督が、
「金太郎さんの最後のファインプレー、すごかったでしょう」
「驚きました」
 小川が、
「あれ抜かれてたら、星野もガタガタッときてたと思うな。クリーンアップだったからね」
「神無月選手、どうしてあの守備位置をとれたんですか」
「柴田さんは長打力があるし、次はパームと読んだので、ぎりぎりまで守備位置を下げました。真正面に飛んでくることは予測していませんでした」
         †
 帰りのクラウンの車中で、主人から椿会報という会誌を見せられる。

 
中日ドラゴンズ神無月選手の後援会発足

 という見出しが出ていた。

 昭和四十四年十月十九日(日曜)、名古屋西高出身のプロ野球選手神無月郷さんの後援会発足式が市内椿会館で行なわれました。発足にあたっては、竹橋町町内会長兼太閤通商店会会長の北村耕三さんが発起人となり、百四十名の会員をもって発足しました。

 ほかにも、中村区長が出席したとか、名古屋市長が名誉会員になったとか、応援激励のスピーチが行なわれたとか、チャリティオークションが行なわれたとか、いろいろ書いてあった。バットやトレーニングウエアのチャリティオークションというのは菅野の発案だと思った。
「きょうだったんですね」
 菅野が、
「はい。一時から。だからきょうは八、九回しか観てないんですよ。神無月さんのホームランが観られなかった。売上金の七万円は、中村区少年野球連盟に寄付しました」
「本人不在ですみませんでした」
 主人が、
「いやあ、試合がありましたし、われわれに都合のいい日曜日でもあったしね。また来年の同じ時期に報告会をやります。都合がついたら顔を出してやってください」
「はい。……伊熊さん大活躍だったなあ」
 菅野が、
「伊熊は整理予定選手でしょう?」
「でも、これで慰留されるでしょう」
「本人が引退試合のつもりだったら?」
「野球を進んでやめたがる人はいません。さあ、あさってはシーズン最終戦だ」
 主人が、
「キャンプから長かったですねェ」
「はい。長くてすばらしい一年でした。つらくないので、何年でも繰り返せます」
 四時半を回ったばかり。日曜日なので北村一家全員に迎えられる。カンナはトモヨさんの胸に吸いつき、直人はユニフォームを着ていた。抱き上げる。
「ユニフォームでき上がったのか」
「うん、できあがった。かっこいいでしょ」
「おお、かっこいい」
「おとうちゃん、けいえん!」
「うん、敬遠されたね。つまらなかったね」
「こわいこわいされた」
「ホームランを打つ人はときどき怖い怖いって思われちゃう。ホームランを打たせてもらえないのもおとうちゃんのお仕事の一つなんだ。怖い怖いされないときのほうが多いから、たくさんホームラン打てるよ」
「よかった!」
「よかったね。このユニフォーム着て、おとうちゃんのパレードを見るんだね」
「うん!」
 直人の素朴な振舞いのおかげで、あたりに幸福の空気が満ちる。みんな笑顔だ。ユニフォームを脱ぎ、トモヨさん親子、カズちゃん、素子、メイ子、百江、睦子、千佳子と風呂へいく。トモヨさんはカンナを洗い、メイ子が直人を洗い、百江が私を洗う。カズちゃんと素子、睦子と千佳子はたがいに流し合う。この状況で勃起しない。そのことにだれも気づかない。私を洗っている百江も、私の反応に敏い素子も気づかない。記念すべき団欒の日だ。一足先に風呂から上がって、ソテツのコーヒー。
「日本シリーズは、二十六、二十七日が西宮、二十九から三十一日が中日球場、十一月二日、三日と西宮ですね」
「はい。できれば三十一日までに決めて、もう西宮へいきたくないな」
 主人と菅野が顔を見合わせて意味ありげに笑う。
「どうしたんですか?」
 主人が、
「二十六日の日曜日だけ、ワシと菅ちゃんだけで観にいくことになりましたよ。車で名神ひとっ走り、西宮球場まで二時間半。朝の十時に出れば十二半に着きます。練習も見たいので、八時に出ます」
「入場できますか。日本シリーズですよ」
 菅野が、
「前売り券を買ってあります」
 黄土色のチケットを出して見せる。

 日本選手権試合・阪急―中日第1試合・内野A指定席券・C16段・04〈3塁側〉3番入口・試合開始1時・主催社団法人日本野球機構・西宮球場・¥2200

「西宮は五万五千人入れる球場ですが、この天王山の近鉄戦でも四万から四万五千人しか入らなかったんです。日本シリーズは三万から三万五千と予想されてます。セリーグはあまり人気ないんですよ。去年の巨人戦も二万五千人しか入りませんでした。日本シリーズ自体、ペナントレースの優勝戦より人気がなくて、後楽園でさえ一万人以上減ります」
「……知りませんでした。なぜですか」
「ダフ屋が高額転売のために買い占めた入場券は、庶民には高すぎて買えないからなんです。十五パーセントは買い占められます。この入場券も一万五千円くらいで売られるはずです。結局、買い手が少ないから、その筋の金持ちに義理で買い取ってもらうことになるんですが、金持ちたちはほとんど野球を観にいきません」
「結局、買占め屋が儲かるわけですね。コワッパやくざはいつの世も癌だなあ」
「ガッカリしないでくださいよ。入場者たちは野球大好き人間ばかりですから」
「はい」


         百七

 十月二十日月曜日。曇。きょうから秋晴れの日がつづくとの予報。則武の朝の食卓の新聞に、

 
西本阪急三連勝 三年連続優勝

 の活字が躍っている。凡ミスをした選手に平手打ちを加えることも辞さないきびしさ、グランドの外での面倒見のよさ、悪口を言う選手は一人もいないほど慕われる監督。チーム成績が悪いと、フロントではなく選手に監督去就の信任投票を求めることでも有名と書いてある。コチコチの堅物。それを読んだとき、心してやらないとコテンパンにやられると直観した。日本シリーズ終了まで禁欲することをカズちゃんに告げた。
「賛成。キョウちゃんがだいじょうぶなら、私たちは何ともないのよ。それより、西宮がちょうど一週間後だけど、もし不自由を感じるなら、だれかを連れていく?」
 メイ子もうなずき、きょうは早番で出勤している百江を候補にあげる。まんいちのことが起きたら、設楽ハツに頼もうと思った。しかし、気が張っているので、たぶん不埒な気分にはならないだろう。水原監督の日本一がかかっているのだ。設楽ハツも同じ気持ちでいるにちがいない。
「緊張でぐったり疲れて、それどころじゃないと思う」
「そうよね。あ、そうだ、久保田さんからバット三十本届いたわ。西宮へは五本送ればいいわね」
「うん」
 菅野と曇り空の下をランニング。きょうは大須コンパル本店まで。笹島のガードをくぐって名駅通を下広井町までいき、左折。
「市道の江川(えがわ)線です」
 菅野の脇について、ビルと工場に挟まれたものさびしい道を名駅南三丁目という交差点まで黙々と走る。右へ信号を渡って直進。同じ風景の中を水主町の信号までやはり黙々と走る。左折。
「大須通です」
 堀川に架かる岩井橋を渡る。出し抜けにビルが建てこんでくる。銀杏並木の道を走る。イチョウの陰から住宅ビルに挟まれた石鳥居が見えた。菅野は指差し、
「白山神社です」
 説明はない。私は、
「使用ずみのバットやスパイク、シャツなんかをぜんぶチャリティオークションに出しといてください」
「了解。バットを寄付したい高校や大学もあるんですが、いいですか」
「よろしく。響きが悪くてもあたりまえに使えるバットばかりだからね」
 西大須の交差点。直進。大須の信号。左手奥に〈大須〉のアーケード看板が見える。その筋へ入る。ここまで二十八分。東仁王門通りのアーケード、万松寺通のアーケードと過ぎていき、右折して猫の額の大須公園に出る。人通りが多いので走れない。一曲がりして到着。軒にローマ字看板、きれいなショーケース。
「ここの創業は?」
「昭和二十二年です」
「地下街のコンパルは支店だね」
「はい」
 店内に入ると、かなり客がいる。テーブルや椅子はフジによく似ているが、フジよりは空間が二倍も広い。腰高のカウンター厨房は品出しだけ。黒チョッキのウェイトレスが二人ついている。隅の座席は空いていないので、入口近くの四人掛け板パネルのテーブルにつく。地下街と同様、取り立てて風趣はない。ネルドリップで二度出しというコーヒーを飲む。深煎りだがふつうのコーヒーの味。塩胡椒をしただけの素キャベツのホットドッグを食う。いけた。
「出ましょう」
「ほい」
 厨房にいた白帽子に黒蝶ネクタイの男が、にこやかにありがとうございましたと言う。
 レジを終えて出るまでだれにも気づかれなかった。幹線道路に出て走りはじめる。
「片道三キロちょい?」
「はい」
「あしたは近鉄ビルだから、歩いていけるね」
「はい、三年前にできたばかりのピッカピカのビルです」
「名前忘れちゃった」
「リヨンです」
「近鉄ビルって入ったことないけど、百貨店なんでしょう?」
「はい。地下一階が食料品、一階から七階までレディース雑貨、八階が書店、九階が音響機器、十階が美容室とクリニック」
「ミーハーチックだな」
「……やっぱりやめましょう」
「どうして?」
「店内に芸能人のサインがビッシリです」
「やめた。あしたからふつうに走ろう」
「はい」
 数寄屋門の前で別れる。則武に戻ってジム部屋で基礎鍛練をしたあと、一日中書斎部屋に籠もって牛巻坂を書いた。小学校時代の試合を思い出しながら、十五枚ほど進んだ。昼近くに百江が戻って、洗濯機をゴトゴトやっていた。
 夕方、シャワーを浴びて新しい下着とジャージに着替える。郵便受けを開けに出ると、ヒデさんからの手紙が届いていた。開封して立ち読みする。

  愛しい神無月郷さま。
 日々新聞やテレビで超人的なご活躍が聞こえてきます。健やかに過ごされている様子が刻々と知ることができて、とても安心し、うれしく思っています。今年の夏から白百合荘に入居し、ときどき私の部屋に遊びにいらっしゃる青高一年生の葛西美代子さんと、管理人さんの羽島百合子さんと、私の三人で堤川沿いを散歩をしたりして、飽きずに神無月さんのことを語り合っては、笑ったり泣いたりしています。日曜日になると娯楽部屋にいき、羽島さんが定期購読している中日新聞に連載中の五百野を三人で回し読みしています。胸に迫り、みんなかならず泣きだします。まぎれもなく天才の作物だと思います。花園の下宿部屋でノートを書いていた神々しい後ろ姿を思い出します、と美代子さんがおっしゃっていました。いまは、羽島さん、美代子さんともども、十二月の神無月さんの青高講演をひたすら楽しみにしている毎日です。
 山口さんの快挙、新聞で読んで驚きました。常々すごいかただとは思っておりましたが、世界レベルだったんですね。ピッタルーガコンテストの模様は、青森テレビで大々的に放送されました。青高から新たに二人の偉人が輩出されたと、小野校長先生が臨時朝礼でおっしゃられておりました。山口さんの顕彰碑をラグビー場のほうに建てようという話が出ています。グランドにある神無月さんの顕彰碑の台座と銅像の周囲には、涼しげな木立が植えられました。
 この二年半、白百合荘(もとの健児荘)でまじめに受験生活を送ってきました。おかげでどうにか納得のいく成績を維持して、国公立合格のメドが立ち、来春名古屋大学の文学部を受験することになりました。三月一日から名古屋にまいります。当初予定していた母の同行は断りました。私の真の旅立ちにしたかったからです。父も兄も、私が神無月さんのそばへ旅立つことの意味を理解し、賛成してくれました。
 三月三日と四日が試験日です。ホテルに数日泊まりながら受験いたします。試験を終えてから二十日の合格発表までのあいだ、まことに厚かましいお願いですが、神無月さんのお許(もと)ですごさせていただけないでしょうか。その期間、神無月さんはオープン戦の最中で地方に出かけることが多いでしょうから、不在を守っていらっしゃるいろいろなかたにご迷惑をおかけすることになるだろうことはわかっております。それを承知のうえで、わがままを申し上げます。神無月さんの最愛の和子さまをはじめとする守護者のかたがたみなさんにお会いしたいのです。極力ご迷惑をかけないようにいたしますので、どうかよろしくお願いいたします。お仲間の一人として迎えていただければ、この上なくうれしく思います。
 神無月さんに種畜場で初めてお会いしてからもう五年になります。五年目にとうとう神無月さんのそばにたどり着きました。あのときの感動のまま、いつまでも神無月さんを心から愛しています。この気持ちは言葉には尽くせません。かしこ。


 白百合荘の住所と電話番号が書いてあった。
 玄関へ引き返そうとして人の気配に振り向くと、ガレージへ自転車を入れようとしているキッコの姿が見えた。
「どうしたの、いまから学校だろ?」
「うん。そうなんやけど。……神無月さん」
「なに?」
「きょうから禁欲やって?」
「そう。シリーズ終わるまで」
「私に出してってや。向こうで二日間がまんできるように。私もすごくしたかったし……ええ?」
「わかった。そのほうがスッキリして、西宮でがんばれると思う」
「ありがと。あのパンティ穿いてきたんよ」
「玄関で前哨戦」
「そのほうがええわ。玄関から帰るさかい」
「妊娠は?」
「あれが終わったばかり。みんな安全日や危険日やて言っとるけど、排卵日なんてあてにならへんねん。ほとんどいつも危険日でっせ。生理中かて危ない。うち、妊娠してもええで。学生ママさんやる覚悟があるさかい」
 式台に手を突いてスカートをまくる。学生カバンから出したテッシュを右手に握っている。穴開きパンティのあいだでキラキラ濡れて光る厚い小陰唇が左右から迫り合って、縦に狭い溝を作っている。
「ビッショリだ。よほどしたかったんだね」
「うん、三週間しとらんかったさかい。ほら、千鶴ちゃんたちとしたことあったでしょう。あれ以来溜まっとった」
「だれといつしたのか、ぜんぜん憶えてないなあ」
「ほうやろね。神無月さんはやさしい人やさかい、くる者拒まずやもの。一人で最後までしてもらえるの、うれしいわ。ぜったい逃げんから、最後まで離れんでね」
「うん」
 人間の義務にちがいない射精をあえて求めない清潔な日常こそ、人間として正しい生理のあり方だと、一昨日の朝考えたことを苦しく思い出しながら、滞らずに挿入する。
「ア、ハア、気持ちええ、あかん、神無月さん、すぐイッてまう、イッてまう、イ……」
 早くも達しようとするので、腰を止め、クリトリスを押し回して愛撫する。
「あ、あああ、イクイク、イク!」
 尻がグンと突き出されて収縮すると同時に、膣壁がうねりはじめたので、心置きなく抽送を始める。やがて連続的なアクメがやってくる。緊縛が最高潮になったのを見計らい、強く突いて射精する。
「好きいィィィ!」
 律動に合わせて腹を収縮させながら、キッコは私の貯蔵物を吸い取っていく。腹の中が晴れわたる。収縮と弛緩を繰り返す腹をさすりながら、
「キッコ、ありがとう」
「うん、うん、愛しとる」
 それから五回、六回と腹を収縮させた。その腹をさすりつづける。
「キッコ、ありがとう」
 声を届かせようとする。清潔の意味を考えている。おそらく人間でありつづけるためには考えてはいけないことなのだろう。
「わてこそ、おおきに」
 キッコはようやくティシュを当てて抜き取った。新しく痙攣するからだを抱いて式台に横たえる。かわいらしい唇にキスをする。
「神無月さん、愛しとる、ほんとに愛しとる」
 キッコはやさしい口づけで応える。それからピンクの穴開きパンティを脱ぎ、カバンにしまうと、清潔な白いふつうのパンティを取り出して穿いた。
「遅れるで、いくね」
「がんばって。千鶴とソテツのいい先輩になってね」
「うん。じゃ、いってきます」
 スカートを下ろして立ち上がり、玄関の外に出た。黄昏がやってきていた。もう一度抱き寄せてキスをすると、キッコは私をしばらく強く抱き締めてから、自転車に跨って一本道を去っていった。角を曲がるまで何度も振り返って手を振った。あれは不潔なことをしたあとの女の仕草ではない。もし彼女と私のしたことが不潔なことだとすると、強い愛ははなはだしい不潔さと離れがたく同居している。とっくにわかっていたことだ。いまさら認識し直すべきことではない。朝の快適さを思い起こすときに、愛を犠牲にしてはならない。いっときの爽快さに負けて愛を傷つけてはならない。
 シャワーを使ってから北村席に出かける。アヤメの中番が帰ってきている。遅番が交代で出かける。優子、丸信子。百江は則武にいる。すっかり風邪の治った直人を中心に、色とりどりの皿が並ぶ食卓を囲んだ。直人を膝に抱き上げ、頬ずりをする。
「おとうちゃん、ジャリジャリする」
「え、ついにおとうちゃんも大人になったか! 二十歳にしてヒゲが生えたぞ! これで立派なオヤジだ」
 ドッとみんなが笑った。菅野が私の顔を覗きこみ、
「ん? そんなに生えてるかなあ。まばらにチロチロあるだけですよ。離れたらほとんど見えません」
「それでも生えたことにはちがいがないですよ。直人、ありがとう。おとうちゃん、毛なし人間だったから、ちょっとさびしかったんだ。ヤカンてあだ名で呼ばれたこともあったんだよ」
 トモヨさんが半信半疑の顔で私の頬を撫ぜ、
「少しカリッとします。でも、これで大手を振って髭剃りが使えますね」
「うん、電気のね。カズちゃん、いまのブラウンの髭剃り少し痛いから、フェザータッチの電気髭剃り買っといて」
「わかった。いろいろ調べて買っとく。素ちゃん、協力してね」
「うん、お客さんたちに訊いてみる」
 主人が、
「ヒゲの剛(こわ)い人はT字髭剃りでええけど、皮膚が弱くてヒゲの薄い人は電動髭剃りでないとあかんわな。外国製より日本製やろ」
 菅野も、
「そう、ナショナルでしょう。高いですけど」


         百八

 和む会話だ。こういう生活にこそ心が安らぐ。人は欲深いものだ。和やかな家庭と安定した仕事があっても、自分への賞賛がないと生きられない。いや、賞賛では足りず、金がほしい、身分肩書も、装飾品も、うまい食い物もほしい、いやそれでも足りず、もっと手応えのある仕事がほしい、評価がほしい、才能がほしい。まだまだ足りない。愛がほしい! 人はいつも何かが足りていないのだ。
 私にはそういうものに対する欲望がない。そういう欲望自体がわからない。私が欲するものは、知りたいことを知る幸福だ。しかし、学術的な研究でないかぎり、知りたいことを知りたがる行為は人が最も嫌うものだ。私は人から嫌われ、嫌われることに免疫ができている。だから、こうして人から好かれてその免疫を機能させられないことに違和感がある。でも、違和感を覚えながら、和やかに、慎ましく、知りたいことを知り、人びとと睦み合って暮らす生活に幸福を見出す。これが私の真の願いだ。そんな願いで人が救われるはずがないと言う人もいるだろう。救われる必要はない。願いというものは、それだけで満足するためのものだ。ここには、ほんとうに知りたい生活の細部に答える思いやりのある人びとがいる。
 ヒデさんの手紙をカズちゃんに示すと、しばらく読み下し、
「連絡をとって、受験のあとは発表まで則武に泊まってもらうことにしましょう。学生生活を北村席で送るか、お城のマンションで送るかは、本人に決めてもらえばいいわ」
 とうれしそうに言った。主人が、
「三月ゆうたらたしかにオープン戦の季節やな。ワシらにぜんぶまかせておきなさい。中日球場で試合があるときは、神無月さんはこっちにおるわけやから、たっぷりかわいがったればええが」
 女将が、
「布団とか台所道具なんかはうちらで揃えてあげよまい。必要な身の回り品は青森から送ってもらえばええ。どうせこっちに腰落ち着ける前に、ちょこっと里帰りするんやろ」
 カズちゃんが、
「だと思うわ。ムッちゃんみたいに」
 千佳子が、
「すっごく楽しみ! 二年後にはミヨちゃんという女の子もくるんでしょう? 青森高校四羽ガラス揃い踏み」
 金魚の餌やりから戻って卓についた睦子が、
「話がはずんで、しょっちゅう徹夜しそう。外出も楽しいでしょうね」
「ローバーが大活躍できるわね」
 千鶴が、
「秀子さんとミヨちゃんて、きれい?」
「うん、とてもきれいだ。みんなに負けてないよ」
 素子が、
「お姉さんより?」
「カズちゃんは別。そびえてる。でも、みんな高い山だ」
 ソテツが、
「私は……丘ぐらいでいいです」
「ソテツも山だよ。とてもきれいになった」
 菅野が、
「また目の保養が増えますね。鼻が高いや」
 直人が、
「すがしゃん、おはながたかいの?」
「そ、うれしくなって、自慢したくなって、この低い鼻がピノキオみたいに高くなっちゃうんだよ」
「ぴのちお、しってる」
 血族ではない人びとのすばらしい会話。彼らだけを〈実物〉として信頼できる。母や父や祖父母や、叔父、叔母、従兄妹といった血族は、たぶん影のようなものだろう。遠ざかろうとすれば追ってくるし、近づけば逃げる。
 トモヨさん母子が風呂にいった。羽衣やシャトー鯱の早番、中番が帰ってきて食卓に混じる。私たちに挨拶する。中の何人かが、
「ああ、もうまっぴら。引退、引退。女将さん、賄いかアヤメの手配よろしくお願いしますね」
「私もすっかり疲れたわ」
「わかっとるよ。みんな安心してや。五年も十年もよう勤めてくれました。年季がとっくに明けとる子もおるのにねえ。一回実家に帰ってこんでもええの?」
「いいんですよ。借金返したうえに、親に家まで建ててあげたんですから。もう私は用なし。それより、××ちゃん、あんたあと三年も年季残ってて、ぜんぜん売れないんでしょう? もう三十五で、この先ないわよ。実家に仕送りする程度のことなら、アヤメで十年でも働いたほうがいいんじゃない」
「百姓仕事は安定しないから、辞められないのよ。頼られちゃって。でも、心の支えの旦那さんや女将さんもいてくれるし、私、これでじゅうぶん幸せなのよ」
 私は、
「××さん、辞めたいですか?」
「だめですよ、お人よしの顔をしたら。年季が明けたら、こちらにお世話になる方向で考えます。クニに帰ろうとは思ってませんから」
 食事を終えた遅番のトルコ嬢が出かけていく。いってきますの声。カズちゃんが、
「さ、キョウちゃん、ごはんすんだら、ビール飲んでサッサと寝てしまいなさい。あしたは最後の最後よ」
「うん」
 イネと幣原がビールを持ってくる。菅野と私につぐ。主人が晩酌を始めた。ソテツが鶏肉とレタスのサラダを運んできた。近記れんや木村しずかや三上ルリ子の声が厨房から聞こえた。主人が、
「西本監督が、今年は三度目の正直、是が非でも優勝したいと言っとります。今回のリーグ優勝は怒涛の三連勝でしたからなあ」
 千佳子たちも興味深そうに耳を傾ける。菅野が、
「三原―西本差しちがえ対決ですか。初戦がすべてでしたね。三対三、延長十一回裏、リリーフの清(せい)が、十回にリリーフした宮本にまさかのサヨナラツーランを浴びたんですからね」
「三原近鉄に初優勝の美酒を味わわせてやりたかったな。中日には勝てんやろうけど」
「阪急も中日相手じゃ善戦止まりですよ」
 睦子が主人に、
「巨人が四連覇できたのには何か大きな理由があるんですか?」
「巨人自慢の情報部隊ですよ。007顔負けのスパイ野球ですな。ペナントレースの終盤になると、パリーグの優勝候補チームの試合に腕利きの先乗りスコアラーが大挙して乗りこんで、情報収集を徹底的にやる。その情報を川上監督や知恵袋の牧野ヘッドコーチら首脳陣が徹底的に分析して、敵チームの弱点を探り出す」
「先乗りスコアラーって何ですか?」
「自軍と別行動をとって相手チームの試合を偵察する人です。三、四人の部隊で動きます。ふつうのスコアラーは、チームに帯同して自軍の選手に関する情報を集めて、先乗りスコアラーから送られてくるデータと合わせて分析して毎試合の作戦を立案する人です。もちろん試合のスコアもつける人もいます。やっぱり三、四人の部隊で動きます。立案した作戦はミーティングなどでチーム全員に伝えられます。ドラゴンズはミーティングをほとんどやらないので、作戦は監督・コーチに伝えられてるでしょう。選手はそんなことあまり関心ありませんからね。総合して分析をしなくちゃいけない分、チームつきの仕事のほうがたいへんです。分析する対象は、相手投手の映像、相手打線の映像、相手の試合映像などです」
 菅野が、
「チームつきスコアラーは、練習の球拾いなんかもしてることが多いです。選手とフラットに付き合うためにね。会食に出ることはあるでしょうが、ベンチにはめったに入りません」
「知らなかった! おかしな人たちがいるなと思ったことはあったけど」
「スコアラーだけじゃなく、巨人の場合は、相手チームのエース級投手に関する情報収集は、森が毎年、パリーグの情報通の野村の自宅に出向いて事細かに聞き出すということまでやってました」
 主人が、
「中日ドラゴンズは、そういうスコアラーを必要としない唯一のチームだと言われとります。水原監督やコーチ陣の情報収集力がすごいことと、選手個々人の研究能力が高いことからそう言われてます」
 私は、
「スコアラーはいることはいるんですね」
「きっちりおります。ちゃんと仕事をしてます。足木マネージャーもその仕事をやってたことがあります。水原監督になってから、分析役は監督とコーチがやるようになりました。つまりチームつきの仕事が別のものになったということですね。チームつきの役職の人たちは、ほとんどスカウトに飛び回ってます」
         †
 十月二十一日火曜日。朝のテーブルで、
「カズちゃん……」
「何が言いたいかわかるわよ。××さんのことね」
「うん。十日後に、その気のある女の人たちといっしょに引退させてあげて」
「……そう右から左へいく話じゃないの。彼女たちもよくわかってるわ。農民や漁民の借金て並じゃないのね……。月々バンスが増えていって、もうウン百万になってる。肉親が老齢になって引退するまで無理ね。それまでは××さんたちもバンスをつづけながら働くつもりなのよ。家族が引退してくれたら、××さんたちもいまの仕事をやめたくなるはずだから、あらためて相談を受けてあげましょう。バンスをアヤメや賄いのほうに切り替えればいいだけのことよ。とにかく本人が言い出すまで待ちましょう」
「そのときは返済の負担が軽くなるように、できるだけ援助してあげてね」
「もちろんそのつもりよ」
 メイ子と百江が目を拭っている。
 中日球場。十一時、ドラゴンズのバッティング練習開始。気温十九・七度。センター方向へ柔らかな風がある。曇り空の下、タバコの煙が球場のあちこちで上がり、すぐに秋風に吹き飛ばされる。弁当を使っている親子連れの姿が見える。ラジオ中継の音が聞こえる。
 一時ドラゴンズの守備練習開始。外野は中継練習のみ。バックホームなし。不慮の故障をしないため。十時半のミーティングで、水原監督が、大リーグでは外野からの返球練習で肩を壊すことが多いと言った。日本でも過去何人か選手生命を失っている。連続で全力送球するからだそうだ。試合中のバックホームで故障が生じないのは、神経を集中して一回かぎりの送球をするからだと説明した。納得。
 ソテツ弁当。シャケと昆布の大きな握り飯二つ。筑前煮。美味。
 一時半。下通のアナウンスが流れる。
「本日は中日スタジアムへご来場まことにありがとうございます。中日ドラゴンズ対広島カープ二十六回戦、両チーム最終戦でございます。スターティングメンバーを発表いたします。先攻広島カープ、一番ファースト衣笠、背番号28」
 変則メンバーできた。ロッカールームで田宮コーチの言ったこと。
「序盤で点を取って、チャッチャッと試合を終わらせよう」
 この一年の〈決まり檄〉になっている。
「二番レフト井上、背番号25、三番センター山本浩司、背番号27、四番サード興津、背番号10、五番ライト小川、背番号9」
「だれ?」
 太田に訊くと、スタンドで売っているパンフレットをペラペラやり、
「小川弘文、六年目、二十四歳、徳島鳴門高校、白石静生の一年後輩。万年控え。一割後半から二割の打者」
 万年控えなどと勝手な注釈を入れる。太田は常にパンフレットの類を買い足す。それを切り抜いて切手帳のようなアルバムを作る。
 下通の顔を見ようと、バックネットの下を見つめる。金網越しの窓にぼんやりと白く顔が見える。マイクに向かっている。
「六番セカンド古葉、背番号1、七番キャッチャー田中、背番号12、八番ピッチャー外木場、背番号14」
 川上監督の流行らせたドジャース戦法、ピッチャー八番が多くのチームにすっかり浸透した。よくない傾向なので、数年で消滅するだろう。八番打者が九番に落とされる弊害は大きい。ピッチャーよりも打撃能力の高い野手の年間打席数が相当減る。ピッチャーで攻撃が終了した場合、九番から攻撃を開始できるという理論は眉唾だ。打撃機会の少ない九番打者がチャンスを作る可能性は低い。九番で終わって一番からのほうが、はるかに攻撃力は高い。
「九番ショート今津、背番号6」
「ひさしぶりに二十点いくか。仕事納め」
 太田に言うと、
「ホームラン十本いきましょう。俺も二本ぐらい打って、来年の四十号につなぎますよ」
 下通のアナウンスがつづく。
「対しまして、後攻の中日ドラゴンズは、一番ライト太田、背番号40(こちらも変則メンバー)、二番ショート一枝、背番号2、三番セカンド高木守道、背番号1、四番レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、背番号23、六番サード菱川、背番号4、七番センター江島、背番号37、八番ファースト千原、背番号43、九番ピッチャー星野、背番号20。球審は松橋、塁審は一塁田中、二塁鈴木、三塁丸山、線審はライト福井、レフト大里。以上でございます」
 伊熊はベンチにいたが、出番はあるのだろうか。中は途中で七番に、江藤は八番に入るだろう。心配ない。
「さ、いこ!」
「そら、いけ!」
 中と江藤はしばしベンチで声出し係。ペナンレース最終戦。アガリの小川も含めてレギュラー全メンバーがすべてベンチに入っている。小野も伊藤久敏も水谷寿伸も水谷則博もいちばん奥の席にいる。
 トンボが入り、鉦太鼓の応援の音が響きわたった。中日球場にしかない特徴は、日本一低いフェンスと、日本一高い三十六メートルのポール。あらためて観客席を見ると、四割そこそこの入りで、スタンドの縞模様がスッキリしている。両軍のピッチャーがブルペンに出た。星野秀孝十三勝零敗、外木場義郎十勝二十敗。
 サウスポーの星野がマウンドに登り投球練習が始まる。直球にものすごい伸びがある。カーブも気持ち悪いほどキレている。今シーズンの登板数は二十六。二年目、十九歳。百七十八センチ、少し細身。



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