百九

 三塁側のカープファンの一人が、ブルペンで新宅とキャッチボールをしている菱川に野次を飛ばす。
「おい、菱川、おまえきのうの夜、環状線の韓国料理屋で太田と女連れでめし食っとったやろ。あの姐(ねえ)ちゃんたちとどこいったんや。遊んでばっかりおったら、腰やられて打てんようになるぞ。シリーズだいじょうぶか!」
 菱川はその客を指差し、
「まかしとけェ! 色気にやられるようなヤワじゃない。食い気がいちばんだ。矢場トンをベンチに差し入れてくれ!」
 観客席がワッと盛り上がった。矢場トンというのは、オヤジたちが一杯ひっかけるためのミソ串カツだ。バックスクリーン裏で売っている。一度太田が買ってきのを食ったことがある。一串たった五十円だと言っていたけれども、うまかった。
         †
 星野は三回に外木場にセンター前ヒット、九回に古葉に右中間の二塁打を打たれただけで完封した。打者三十人、被安打二、小川弘文の代打山内一弘にフォアボール一、三振十四。見逃しストライクのたびに、マッちゃんの右手が派手にクルクル回った。ノーヒットノーランに近いピッチングだった。
 中日は一回裏、ツーアウトから、レフト前ヒットの高木を置いて、私が右中間の場外へ百六十五号ツーラン。キリンビールの看板の上を越えていった。
 四回、レフト前ヒットの私を置いて、木俣が左中間の深いところへ五十二号ツーラン。野村の記録と並んだ。
 六回、フォアボールの私とライト前ヒットで出た菱川を置いて、江島がバックスクリーンへ九号スリーラン。千原ライトポールぎわへ九号ソロ。八番バッターの重要性を自分なりに納得する。この一点がだめ押しになるかもしれないのだ。ゼロ対八。外木場から大石弥太郎に交代。星野秀孝フォアボール、太田フォアボール、一枝外角ストレートを空振りして三振。スイングの真剣さから店仕舞いでないとわかる。高木、ツースリーから二球ファールで粘ってフォアボール。ノーアウト満塁。
 私の打席。さすが最終試合、押し出し敬遠などせずに勝負してきた。私は外角低目のカーブを屁っぴり腰で左中間の看板へ百六十七号グランドスラム。キャビンの看板に当たった。主人や菅野の、トルコ嬢たちの喜ぶ顔が浮かんだ。水原監督が尻ポーンをしながら、
「ナイスホームラン! 最終試合はもう一本で打ち止め!」
「はい!」
 ゼロ対十二。木俣、菱川と連続内野ゴロ。
 七回裏、右中間三塁打の江島、フォアボールの千原を置いて、星野がライト中段へ二号スリーラン。袋叩き。小川がいちばん強く叩いていた。一日バヤリースを忘れていた半田コーチがベンチ全員に大盤振舞い。ゼロ対十五。つづく太田レフト最上段の日本信販の看板へ三十二号ソロ。きょうはいやに看板や割り看板の文字が目につくのは、その文字が球場を静かに飾り立てるすばらしい模様だとあらためて感じたからだ。神宮球場をのっぺらぼうに感じるのは、この模様がないせいだ。
「太田、チームホームランが八本まできたぞ」
「はい! あと二本!」
 一枝、レフト中段へ十九号ソロ。高木、左中間前段へライナーで突き刺さる三十八号ソロ。観客席がねぶたのような大騒ぎになる。だれが何と言おうとホームランは野球の華なのだ。
「十本達成!」
「達成!」
 江藤が、
「なんだ、なんだ」
 太田が、
「一試合、十本塁打達成!」
「五月に神宮で一度やっとるやろう。十一本。アトムズ戦で金太郎さんが六打席連続で打った試合でな。三十二対一」
 太田は、
「きょうの目標です。とにかく達成!」
 なんだかうれしくなってみんなで拍手。ゼロ対十七。ノーアウト。ピッチャー安仁屋に交代。私は初球のスライダーをライナーでライトの前段に打ちこんだ。百六十七号ソロ。一試合十一本のタイ記録。平和生命のフェンスの真上だった。袋叩き。江藤の手のひらの大きさを尻にしっかり感じた。ゼロ対十八。ベンチに球場職員の手で矢場トンが三十本差し入れられた。
「お客さまから菱川選手へということでした」
「菱、ゴッツァン!」
 みんなで串に手を出す。うまい。あっという間に捌(は)ける。食いはぐれた次打者の木俣がネクストバッターズサークルからバッターボックスへ歩き出しながら、
「矢場トンは食い飽きてるからいらないよ」
 強がりを言い、笑いながらバッターボックスに入った。どこの球場だったか、やはり菱川のリクエストで何かの食いものが届けられたことがあった。どの球場で、どんな食い物だったか忘れた。木俣ショートライナー。菱川フォアボール。打者一巡して、江島ショートゴロ、ゲッツー。
 四時十七分。七回裏が終了すると、満員でないかぎり、中日球場は全席無料で開放される。そのせいで観客が二割方増える。客はどの席で観るのも自由だ。ただし一度席に着いたら内外野間を往来できない。
 八回裏、先頭打者の千原がライト前ヒット。星野がファーストライナー。太田フォアボール。水原監督がマッちゃんのもとに早足でいき、一枝の代打を告げる。
「一枝に代わりまして、江藤、バッター江藤、背番号9」
 轟々と歓声が上がる。やはりトリは大将の彼だ。中日ドラゴンズは彼が軍旗を立てて率いてきた。一枝が、
「慎ちゃん、七十号、一発決めろ!」
 ベンチの大拍手、大歓声。江藤が上機嫌にピースサインを出す。ツーワンまでじっくり見て、安仁屋の決め球のホップするシュートをレフトのデュプロの看板にぶち当てた。七十号スリーラン。打った瞬間、大空にするどい打球音がこだました。この音こそ、私の心の中で長く記憶されてきたものだ。江藤バンザイをして二塁を回り、水原監督の胸に飛びこみ、尻ポーン。タッチ、タッチ。袋叩きはなし。
「いい打球音でした、ありがとう、江藤さん!」
 江藤を抱き締める。
「うれしかよ、金太郎さん!」
「江藤選手、七十号のホームランでございます。このホームランにより、チーム一試合本塁打十二本となり、五月十四日にドラゴンズが達成した十一本を超えてプロ野球新記録の達成でございます。感無量でございます」
 拍手喝采、鉦太鼓、ラッパ。ゼロ対二十一。青いテープを巻いたベンチのバーを握り締めてウェイティングサークルの高木に呼びかける。
「高木さん、二十二点、ぞろ目で区切りよく!」
 うなずき、バッターボックスに入ると、バットを肩口から水平にピッチャーに向かってスッスッと振り出す。独特の癖だ。そしてあの構えに入る。安仁屋の初球内角高目のシュートをガシッと打つ。
「ヨッシャー!」
 ワリコーと書かれたファールポールをかすめて、レフト中段席へ一直線に突き刺さる。三十九号ソロ。高木らしくなく調子に乗り、跳びはねて抱きついた水原監督の頬っぺたにキスをしてスタンドの爆笑を誘う。江藤が、
「あいつアホたいね。大監督水原さんの頬っぺたにキスしたやつなんか、プロ野球の歴史始まって以来一人もおらんぞ」
 太田が、
「気持ちわかりますよ。俺もキャンプ中にホテルの廊下で監督に声をかけてもらったことをずっと感謝してますから」
 私外角低目のシュートを打ってレフトライナー。木俣左中間深くレフトフライ。ドラゴンズの一年間にわたるすべての攻撃が終了した。
 九回表、古葉をセカンドに残して田中尊が三振し、広島の一年間の全攻撃も終了。山本浩司も衣笠もノーヒットだった。山本一義は出場すらしなかった。
 ゼロ対二十二。十四勝目を挙げた星野秀孝が、マウンドにゆっくり近づいていく水原監督と固く握手。私たち全員とも握手。記者たちに囲まれる。下通のアナウンス。
「本日はご来場くださいましてまことにありがとうございました。昭和四十四年度、中日対広島二十六回戦はごらんのようにゼロ対二十二で中日ドラゴンズの勝利となりました。今シーズンの中日ドラゴンズは、百七勝十八敗五分け、勝率八割五分分六厘で全日程を終了いたしました。この勝率は、昭和二十六年の南海ホークスの七割五分零厘を大幅に上回る日本新記録でございます。一リーグ制時代にまで遡っても、昭和十三年に大阪タイガースが記録した八割二分九厘を上回っております。一試合一チーム十本以上の本塁打は、松竹ロビンスの九本を破る日本新記録でございますが、すでに中日ドラゴンズは今シーズン二度達成しております。本日十三本を記録し、日本新記録を更新いたしました。なお、百六十八号ホームランを打って全日程を終了した神無月選手の打率は、六割五分四厘、打点は三百八十三でございました。もちろん三冠王でございます。これまでの最高打率は、昭和二十六年の巨人軍川上哲治の三割七分七厘、最多打点は、昭和二十五年の松竹ロビンス小鶴誠の百六十一でございます。神無月選手の今シーズンの驚異的な記録は、おそらくプロ野球がつづくかぎり、ご本人以外には永遠に破られないものと思われます。もう一つうれしい記録の報告がございます。本日十四勝目を挙げた星野秀孝投手の投球回数が規定投球回を超えて百三十四に達し、防御率○・九九というすばらしい数字を記録いたしました。これは昭和十八年巨人軍藤本英雄投手が記録した○・七三に次ぐ史上二位の記録でございます。今年度最優秀防御率投手として栄えある受賞をされることが決定いたしました」
 観客がこぞって拍手し、歓呼の声を上げる。鉦、太鼓、笛、ラッパが追いかける。空席の目立つ球場に響く音の一粒一粒が明確で、密度もわかる。耳に心地よい。
「神無月選手、ひとこと!」
「なんだかさびしいです。百三十試合やり遂げたという満足感もあります。全試合には出ていませんけど」
「新人一年目で、お疲れになったでしょう」
「自覚はないんですが、たぶんそうだと思います。何より、百三十という数字に驚いてるんです。小学校から大学まで、九カ月もぶっ通しで野球をやったことがありませんでしたから。来年もできるかなあ……。この調子でできることを願ってます」
 水原監督が愉快そうに笑った。レポーターは気が抜けたような顔でマイクを星野秀孝に移し、
「星野投手、十四勝目、そして最優秀防御率の獲得おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「完全試合、ノーヒットノーラン、もう少しでしたね」
「まさか。三回で外木場さんにヒット打たれて終わってますよ。それより来シーズンへの手応えを感じられたことが大きいです。きょうはストレートが走ってました。木俣さんがそのことをしきりに褒めてくれて、テンションを維持できました。できすぎです」
「水原監督、日本シリーズがいよいよ五日後に迫りました。対阪急対策はどのようになっておりますか。何か対策をお考えですか?」
「まったく考えていません。オープン戦で一度対戦しただけですので、戦力の把握もできていない。ま、コーチやスコアラーたちと頭突き合わせて、これから研究です。投手力打撃力の揃った強豪であると聞いていますので、打ち崩すにはかなり厚い壁だと覚悟しています」
「神無月選手、今年、強敵と思われたピッチャーは?」
「ぼくは自分がホームランを打てることを心のどこかで信じていないんです。確信がもてない以上、強敵もカモもありません。一打席一打席工夫して、バットを振っているだけです。江夏投手には三振を三つ喫しています。苦手と言うなら、彼です。強敵と言うなら、すべてのピッチャーです」
 星野と私は水原監督といっしょに帽子を脱いで一礼し、ベンチに退がった。ベンチメンバー全員スパイクを鳴らしてロッカールームに向かう。
「きみたち、日本シリーズは、活躍したら毎試合インタビューを受けることになるよ。面倒くさがらずにマイクの前に立ちなさいね」
「はい!」
「オス!」
「ウィース!」
 ロッカールームはふだんと様子がちがって、テーブルに白布が敷かれ、缶ビールやコーラやバヤリースが林立する中に、柿の種やポップコーンや裂きイカを盛った皿が置いてあった。ウインドブレーカーを着た球団職員が何人か壁ぎわに控えている。選手たちはめいめい折り畳み椅子に腰を下ろす。音頭とりの足木マネージャーがいないので、江藤が立ち上がり、
「みんな、キャンプからの十カ月間、まっことご苦労さまでした。一人ひとり、老いも若きも、百三十試合、すばらしい奮闘やった。中日ドラゴンズ、飛躍も飛躍、大飛躍の年やった。自分について言わせてもらうと、野球というものがどれほど緻密で、かつ底の深いものであるかを思い知った一年やった。この一年をあと五年延ばしたか。毎年そう答えて、四十の坂を越えていこうと思うとる。仲間について言わせてもらうと、何と言っても健太郎たい。きょう沢村賞が高橋一三に決まった。賞の辞退は健太郎が決意したことやけん、残念とは思わん。多少の傷でも自分に非があると認める野球人のいさぎよさが身に沁みた。バカでかい他山の石になった。他人ごとやなか。世相がごちゃごちゃうるさなっとる。長い目で、わが身を引き締める教訓にしてくれ」
 盛大な拍手。
「じゃ、缶ビールば持ってください。監督もよろしく」
 水原監督に従って全員立ち上がり、
「水原軍団の永遠を願って、乾杯!」
「カンパーイ!」


         百十

 ドヤドヤと腰を下ろし、歓談が始まる。小野が、
「下通さんのドラゴンズ贔屓のアナウンス、やりすぎじゃない?」
「中日ドラゴンズの職員だから、あれでいいんだよ。お客さんは喜んでる」
 と徳武。木俣が、
「俺たちも燃えるしな。西宮からこっちへ戻ってきたときが楽しみだぜ」
 門岡が、
「神無月さんのときだけ、一塁を回ったところでアナウンスですよね」
「惚れてるけん、しょむなか。金太郎さんは神さまやしな、同列には扱えん」
 江藤が二本目の缶ビールを開ける。高木が、
「金太郎さんが区切りよくいけって叫んだのは、二十二点のことだよね」
「はい。ぼくはぞろ目が好きですから。自分が五月五日生まれだからだと思います」
 中が、
「今年はみんなよくホームランを打ったなあ。私もに十三本も打った」
 高木が、
「俺の三十九本はピークだね。もう打てない」
 私はうなずき、
「ぼくもこの本数はもう打てないと思います。来年は半分以下に減るでしょう。打率もぐんと減ります。今年はヒットの半分以上がホームランでしたから」
 小川が、
「その根拠、俺にはわかる。研究されるというより、まともに勝負されないということだろう?」
「はい。ぼく、今年、四死球がたった七十三個なんです。敬遠の二十八個を入れても百一個です。しっかり勝負してもらえました。来年はこうはいきません。王さんの今年の記録を見たら四死球百十一、敬遠十二です。警戒されているということです。ことしはものめずらしさもあって勝負してもらえました。来年は期待できません」
 水原監督が、
「私の考えは少しちがうね。金太郎さんは今年も王以上に警戒されて、ボール球をたっぷり投げられてる。王なら振らないようなボール球をね。見逃していれば、フォアボールは二百個ぐらいになってるよ。それを金太郎さんはホームランにしてるんだ。超人技だ。来年も百本は打つだろう」
 長谷川コーチが、
「敬遠が二十八個か。王は十二個。たしかに王の倍は警戒されてる。それで百六十七本のホームランを打ったということは、ほとんどボール球を打ってるということじゃないの」
 ホー! と選手たちがため息をついた。水原監督が、
「木俣くんの五十二本は立派だった。最後はすごい勢いで追いこんだね。どうだい、成せば成るだろう? まあ二、三年のうちに王くんの記録は塗り替えるだろう。菱川くんと太田くんの飛躍がとりわけ目覚ましかった。三十九本と三十二本。中くんも一枝くんも自己記録を更新したし、千原くんも江島くんもトントンの成績を残した。連覇に現実味が増したよ。ところで、私はご相伴に与れなかったが、矢場トンとかいう串カツ、うまかったそうじゃないか。西宮からこちらに戻ってきたら、足木くんに差し入れさせよう。私も食べてみたい。六回の攻撃開始前くらいがいいかな」
「はあ、百本ぐらいいきましょう」
 笑いがロッカールームに満ちる。宇野ヘッドコーチが、
「さあ、いよいよ日本シリーズだ。二軍からは森下くんと長谷川くんと本多くんが帯同する。一塁コーチの長谷川くんや森下くんとタッチし慣れてるだろうからね。それから、森下くんのかしましいサインは何の意味もないから承知しておくように」
 ワハハハとみんな笑った。森下コーチが、
「そんなやりつけんことをして諸君たちを惑わせたら、コーチとして面目しだいもないやろ。わがドラゴンズに決めごと約束ごとはないよ。各チームのフロント連中が理屈をおっしゃるのを俺は残念に心得とる。ところで、盗塁王も金太郎さんに決まった。柴田に十個も差をつけて四十五個だ」
 大きな拍手。木俣が、
「打者で本当に怖いのは長池一人だ。ただし、インロー、アウトローが弱い。特にアウトローに曲げておけばまず打たれない」
 先乗りスコアラーが必要ないというのはこのことだろう。田宮コーチが、
「次は警戒すべきなのは〈十年目の新人〉矢野。阪急は去年も崖っぷちの最終戦で優勝を決めてるんだが、矢野がサヨナラホームランを打って決めた。今年も二十五本打ってる。ただ、ブンブン振り回して三振ばかりするので、打率が二割もない。おととしまでレギュラー未満だった理由がわかる。つまり怖くない」
 太田コーチが、
「ピッチャーは梶本、米田、石井、水谷の四人が横並びで、二十勝投手は一人もいない。できれば四連勝といきたいが、箸直しに一敗してもいいくらいの余裕を持ってぶつかってくれ」
「オコウコで、もの足りないめしを一杯食う感じですか」
 太田がまじめな顔で言う。
「よくわからんが、そんな感じだ」
 爆笑。宇野ヘッドコーチが、
「敗戦も身になるからな。優勝は中日球場で決めるぞ」
「オイース!」
 水原監督が、
「中くんと江藤くんは、初戦からいってみんなを引っ張ってください。とにかく、みなさん、一年間ほんとうにお疲れさまでした。私は、独立独歩、たゆまず努力するきみたちのことを心底誇りに思っている。ウマの合ったいい友人だ。すばらしい骨の埋めどころを与えてくれた。心から感謝する。ありがとう。じゃ、みんな、体調をシリーズで最高に持っていくように管理すること。二十五日の午後、元気に竹園に集合してください。解散!」
 元気溌溂としている。私のために水原監督を老いさせないよう心に誓った。
         †
 監督と名古屋在住でないコーチたちは控室で着替えを終わると、迎えの車数台で名古屋観光ホテルへ去った。私はロッカールームを去りかね、中、高木、小野、小川、一枝ら自家用車組が私服に着替えるのを見ていた。高木が、
「金太郎さんは帰らないの?」
「ゆっくり帰ります。みなさんを見送ってから」
 小川が、
「人を見送りたがるのは、金太郎さんの最高の美徳だな。恐縮しちゃうよ。うれしいけど」
 一枝が、
「もっと素っ気なくしたほうがいいよ。大スターなんだから」
 中が、
「金太郎さんは人に素っ気なくできないんだ。天然の少年だ」
 小野が、
「そんなことしたら、金太郎さん本人がまいっちゃうよ。俺たちを兄貴か父親みたいに慕ってるんだ。ありがたいことだ。じゃ、金太郎さん、西宮でね」
「はい、失礼します」
 彼らは一般駐車場に去った。江藤が、
「金太郎さん、五日間の別れは名残惜しかばってん、ワシらも帰るぞ。寮の晩めしの時間があるけんな」
 星野が、
「神無月さん、それじゃシリーズで」
「うん、シリーズで」
 菱川と太田が万感の思いをこめた目で私の手を握った。千原や省三や江島も、われもわれもと握った。彼らはユニフォーム姿のまま、臨時駐車場から寮バスに乗りこんで帰っていった。私は彼らに手を振った。木俣だけは、中日球場前から名鉄で帰ると言って、ユニフォームを着たままダッフルを担いで駅のほうへ歩いていった。少年ファンたちにしつこくまとわりつかれていたが、嫌がらずにサインしてやっていた。その子供たちもやがっていなくなった。私はふっとさびしくなり、
「木俣さーん、いっしょに名古屋駅まで帰りましょう」
 と背中に声をかけた。
「おう、三分だぞ。そこで東海道本線に乗り換えて岡崎に帰る。待ち時間が十一分ある。少しは話せる」
 私は一般駐車場に走っていって、菅野と主人にダッフルを預け、
「木俣さんと名古屋駅まで名鉄で帰ります。北村席に同じくらいに着くと思います」
 菅野が、
「はあ、神無月さんのいつもの癖ですね。わかりました。いってらっしゃい」
 主人が、
「晩酌を用意して待っとります」
 ユニフォーム姿二つ、名鉄中日球場前まで歩き出す。
「十分ぐらい歩くよ」
「はい。一度江藤さんと太田と歩いたことがあります」
「俺たちのセメダインが野球だけじゃないって、このごろ感じるんだ。中高大とこういう親密な関係は一度もなかった。金太郎さんがいなかったからだろうな。遠くから俺たちに会いにきてくれた。……でかいよ。フロントまでくっついちゃった。損得抜きで」
 露橋公園。露橋小学校。事務所や小工場ふうの建物。暗い一本道。
「五十二本、かならずいくと思いました」
「どうでもいいことだな。一本一本のホームランが楽しい。……腹へってないか」
「へってません。岡崎まで、直通でいけるんじゃないですか?」
「うん、神宮前で名鉄の急行に乗り換えてもいいんだけど、国鉄のほうがのんびりして好きだからね。あせる必要もないし」
「岡崎は実家ですか」
「そう。自分の家を実家のそばに建てたんだ。やさしい両親と嫁さんだからね、俺は岡崎から出る気がまったくない。と言うより、ドラゴンズに一生を捧げる気なんでね。クビになったら野球をやめる」
「ぼくも同じです。じゃ、中日球場へはかよいですか」
「うん。片道五十分くらい」
「ファンがうるさいでしょう」
「よく声をかけてくるよ。パンをもらったこともあった。女性ファン。俺、かわいい顔してるんで、女にもてるから」
 私はいい気持ちになり、
「そのパン、どうするんですか」
「その場で食えないから、家に帰ってから食う」
 二人声を合わせて笑った。
「勝っても負けても通勤電車ですか」
「ああ、ユニフォーム着て、袋担いでね。負けるとファンから怒鳴られることもある。アタマにくるけど、しょうがないよねえ。すいません、ごめんなさいって小さい声で言う。今年はそういうことはぜんぜんないなあ。握手攻めが多い」
 いつまでもしゃべっていたい気がした。黒い空に星がある。康男を送っていった東海通りを思い出した。
 中日球場前駅。切符を買って乗る。木俣は定期券。北口一つしかない改札を通り、ホームに出る。
「この駅は野球開催のときはひどく混雑する。北口しかないから、上下列車をずらして停車させたり、通過列車を徐行させたりして、大勢の客に対応するんだ」
 赤い車体が入ってくる。鵜沼行。ユニフォーム姿が乗りこんできたので車内がオーとなったが、男二人の真剣な様子を見てすぐに鎮まった。吊革をつかんで立ち話をする。
「木俣さんを見習って、ぼくもジム機器を少し入れました。毎日二、三十分やってます」
「やりすぎないようにな。せっかく柔らかい筋肉してるんだから」
「はい。小川さんもジムの鬼ですよね。木俣さんは小川さんの恋女房ですけど、彼はどういう人ですか。豪快なかたですよね」
「豪快というか、変人。千種区の春岡通というところに住んでる。借家の二階家。一度遊びにいって驚いた。廃屋みたいにボロボロ、障子という障子がぜんぶ破れてるんだ。子供が破っちゃうんだろう。健ちゃんはそういうことをいっさい気にしないやつでね。対照的に、板ちゃんは千種区の池下の高級団地に住んでるし、高木さんは西区の又穂(またほ)の高級団地に住んでる。公団はいまどきみんなのあこがれだよ。設備が最高級だから。LDKなんて言葉が生まれたのは名古屋の池下団地が日本で最初だ。抽選だけど、球団の根回しで入れてもらえる。健ちゃんはそういうところには住まない。ふだん野球をやってるときもそうだけど、ほとんどもう一匹狼だからね。徒党を組まない。それでも板ちゃんがよく送り迎えしてたな。ピッチャーで球場にいく時間が同じということもあるけど、唯一頭の上がらない男だったからだろうね。金太郎さんが大阪球場で板ちゃんに怒鳴ったとき、あとで健ちゃんが板ちゃんに懇々と説教してた。おまえが悪いって」
「やっぱりそういうことがあったんですね。急に坂東さんが素直になったんで驚きましたから。……気組みもすばらしい人ですが、小川さんが何よりもすぐれてるのは野球です」
「うん……天才だな。速い。すごいボールを投げる。おまけにクセ球。受けてて怖いくらいだ。しかも、黙々と投げる。とにかく筋力と腱力(けんりょく)がすごいんだ。バッティングピッチャーを楽しんでしょっちゅうやってるけど、バッターが打てないような球をビュンビュン放る。だれも打とうとしないよ。慎ちゃんでさえ打とうとしない。そんな健ちゃんが、キャンプで金太郎さんの洗礼を受けた。あれからひれ伏しちゃった。野球教室もすばらしい見ものだったよ。ホームランを打つと信じて剛速球を投げこんだ。あんな球、だれも打てないよ。涙が出た。あのときキャッチャーについた新宅も泣いたって言ってた。健ちゃんがただ一人認める男が金太郎さんだ。……とにかく変わった人だよ。今年は金太郎さんがいてうれしいんだろう、口数が多くなった。去年まではほとんどチームのだれとも口を利かなかった。今年のキャンプでも、金太郎さんが遅れてやってくるまでは、ホテルのドアに釘を打ちつけて開かなくして、だれとも付き合わなかった。金太郎さんがきてから、ガラッと変わった。天才は天才を好むからね」


         百十一

 木俣はしゃべりやめ、窓の外に視線を移した。
「心のこもったお話、ありがとうございました。……とんでもない人にそこまで認められて、しみじみとうれしいです」
「金太郎さん……」
「はい」
「早死にするなよ」
「え?」
「神さまは死なないか。……どっかへ帰っていかないでね」
「帰る場所がありません。ここしかないんです」
「そうか、よかった……」
 すぐに名古屋駅。ホームを二つ移動し、ベンチで東海道線を待つ。
「……五百野、すごいよ。転々としてきたんだな、転々としてきて、魂を失わない。すごいよ。……金太郎さん、ちゃんと睡眠とってな。心配だ。安心しながら、みんなどっかで心配してる」
「ありがとうございます、木俣さん」
「金太郎さんは俺たちの生甲斐だからな。忘れないでよ」
 名古屋にくるときに乗ってきた東海号のような、なつかしい電車がやってきた。木俣が乗りこむ。
「じゃ、木俣さん、日本シリーズで」
「おれはその先の、パレードのオープンカーでと言いたいよ。金太郎さんと並んで写真に残りたい。じゃ、元気で竹園で会おう」
「はい」
 木俣は手を上げると小さく会釈した。私は直角の礼を返した。
         †
 北村席に帰ると、段ボール箱に一つ、一枝からクラシックのレコードが届いていた。食卓が整っていくのを横目に、千佳子と睦子に頼んでステージ部屋のラックに整理してもらった。睦子が、
「五十枚もありますよ。モーツァルト『魔笛』、ビゼー『カルメン』、ブラームス『ハンガリー舞曲』、ベートーベン『月光』、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第二番』、チャイコフスキー『眠れる森の美女』、シベリウス『フィンランデイア』、ショパン『ワルツ集』、メンデルスゾーン『スコットランド』、バッハ『バディネリ』、プッチーニ『蝶々婦人』、ロッシーニ『ウィリアムテル』、グリーグ『ホルベルク組曲』……すごい、名曲ばかり」
 千佳子はスパイラルノートに曲名をノートしていった。睦子がターンテーブルにブルッフのバイオリン協奏曲第一番を載せて針を落とした。しばらく大掛かりな管弦楽の響きにものめずらしい感じで品定めの気分になる。第二楽章が始まったとたん叙情的なバイオリンの世界が拡がった。それは一枝の精神世界でもあった。意外だった。直人が私の膝に乗ってきて耳を澄ませた。
「おとうちゃん、これすき?」
「うん、好きだ」
 トモヨさんもやってきて私の傍らに坐り、じっと聴き入る。
「すばらしいですね。あの一枝さんのレコードなんですね。不思議」
 第二楽章が終わると睦子は針を上げ、バーバーの『管弦楽のためのアダージョ』を代わりに載せる。トモヨさんが直人を抱き取って食卓へいった。これまたすばらしい抒情の世界だった。流れていく冷たい風の中に温かい光が射す。忘れてしまった人びと。喪失の苦しみがよみがえる。涙が流れ出し、止まらなくなった。一枝も泣くのだろうか。たぶん泣くだろう。喪失の苦しみの涙を心の奥から流すだろう。睦子と千佳子がうつむいて目にハンカチを当てている。
「悲しい……」
 千佳子が呟いた。喪失の苦しみではないのかもしれない。人間の魂が抱える原初の悲しみにちがいない。
 トモヨさん母子が食事を終えて離れに退がると、私は主人たちの晩酌の相伴にあずかった。カズちゃんや睦子たちもコーヒーを飲みながら歓談に加わった。菅野が、
「小笠原さんの記事がチラホラ載るようになりましたよ。巨人、中日、阪神が食指を動かしてます」
「ドラフトで中日が引き当ててくれないかなあ。戸板と小笠原、そこへ小川さんと星野ときたら磐石だ」
「話は変わりますが、いつかお話した豊橋マラソンですけど、参加するには日本陸上競技連盟に登録する必要があるそうで、三時間以内完走でないと失格になるようです」
「なに菅ちゃん、マラソンなんか出ようと思ってたの?」
「はあ、何年かしたらって思ってました。でも豊橋マラソンはかなり硬派な大会で、コース設定の悪さや風の強いことでも有名みたいです」
「菅野さんは四十歳か。二、三年後はもっと齢とってる。レース中に心臓麻痺でも起こしたら元も子もないですよ。考え直したらどうですか」
 功利的なことを言ってみる。
「そうだよ。神無月さんといっしょに走って、からだを鍛えるだけにしといたほうがいい」
 主人も合わせる。実際、菅野のからだを労わる気持ちがあるからだ。
「はあ。一月に千葉の松戸で市民参加のマラソン大会が開催されるんですが、七草マラソンというらしくて、昭和三十年からつづいてるそうです。二キロ、三キロ、五キロ、十キロと分かれていて、今月の三十一日が参加募集の締め切りです」
「出るんですか?」
「十キロに出てみようと思ってます。まだ若いうちに、一つでも挑戦ということをしてみたくて。制限時間一時間十分ですから、いけるでしょう」
「一月のいつ?」
「十一日の日曜日です。参加費千二百円」
 カズちゃんが、
「すぐやる課の松戸にぴったりじゃない。若いときの自信は大切。自信があるうちにやっといたほうがいいと思う。でも上位に入ろうなんて無理しないでね。完走することよ」
 千佳子が、
「いままで神無月くんと走ってきたんですから、優勝しちゃうかも」
 睦子が、
「松戸にいったら、野菊の墓の矢切の渡しに乗ってみるといいですね」
 主人が、
「わたる川は江戸川やな。矢切から寅さんの柴又まで百五十メートル。一度いったことある。両岸は農村や。一月は寒いやろう」
 睦子が、
「そうですね。……政夫と民子。悲しい話」
 私は、
「あれは江戸川だったのか。野菊の如き君なりき。いい映画だった。曳き舟に乗ってむかしを思い出してる笠智衆……。遠くなります、という科白が忘れられない」
 菅野が、
「映画があったんですね」
「はい、その七草マラソンが始まった昭和三十年の冬に公開された野菊の如き君なりきという映画です。ぼくはNHKの名作劇場で観ました。民さん役の有田紀子がよかった。新日本髪のかわいらしい女。映画の当時十五、六歳だから、いま三十歳ぐらいか」
 カズちゃんが、
「私も椙山のころ、駅前の松竹で封切りを観たわ。泣いた。あれ、信州で撮られた映画なのよ。笠智衆って小津映画の屋台骨よね。あの当時五十歳くらい。映画では七十歳以上の老人を演じてるの。どうしても過去を吹っ切れない遠い目がすてきだった。民子の好きな野菊の花言葉は、清爽(せいそう)。政夫の好きなリンドウは、あなたの悲しみに寄り添う。政夫の母役の杉村春子も小津映画の常連。民子をわが子のようにかわいがって、政夫との仲のよさを黙認していたのに、長男のヨメからちょっと入れ知恵されただけで二人を引き裂いてしまう……微妙な人物造形ね。周囲に強いられて嫁にいって流産して死ぬなんて、ちょっと残酷すぎるわ。私には民子が意志薄弱に映った。八方美人。残酷な目に遭っても仕方ないと思った。でも泣いたわね。特に矢切の渡し場で政夫を全寮制の中学校へ見送る場面。万感迫る表情をしてた。最後の民子の言葉がよかったわね。わたし、死ぬほうがいいの……」
 カズちゃんはそっと目頭を拭った。
         †
 十月二十二日水曜日。昨夜は野菊の墓のことを聞いたり話したりしながら、調子に乗って飲みすぎて正体がなくなり、ステージ部屋に寝かされた。嘔吐を警戒してカズちゃんが添い寝をした。
 朝、いっしょに風呂。
「吐かなかったわね」
「うん、かなり飲めるようになった」
「自信を持っちゃだめよ。いつもお付き合い程度にしないと」
「うん。……ドラゴンズのみんなとふつうに飲めるようになりたいな」
「高望み。ふつうにお酌できるようになるほうが肝心よ」
「なるほど」
 一般紙に、西鉄ライオンズ中西太監督退団の見出し。テレビも、日本シリーズそこのけで、八百長問題のことばかり報じている。
本日、セ・パ両リーグ合同会議が開かれ、西鉄ライオンズの永易投手の敗退行為が議題として初めて採り上げられました。会議の席上、ライオンズ球団社長国広直俊氏は、新聞報道が事実であることを認め、プロ野球首脳たちは大きな危機感を抱かざるを得ない状況となりました」
 スポーツ新聞にはもう少し詳しく報じられていて、

 本事件の発端は、西鉄ライオンズ外国人野手カール・ボレスが、対戦相手であったロッテの与那嶺コーチに「うちにわざとエラーをする選手がいる気がする」と洩らしたことに始まる。報知新聞の西鉄番記者がそれを耳にし、ネタとして社に持ち帰った。
 西鉄球団内ではすでに一昨年四十二年のシーズン中に、T一軍投手コーチが、関西の試合になると不審なピッチングをする投手陣がいることに疑惑を抱き、八百長をしているのではないかときびしく問い詰めていた。詰問された選手の答えはクロ。このことはただちに中西太監督および球団に報告された。球団はTコーチを「むげに選手を疑った」として二軍降格にする一方、極秘に調査を開始した。
 今年七月、対南海戦で徹底的に打ちこまれたにも関わらず、悪びれる様子もなかった益田、与田両投手に疑念を抱いた西鉄球団社長国広直俊は、二人を呼び出して問い詰めた。両人は肯定も否定もせず、ひたすらふるえるのみなので、国広はクロと確信し、さらにきびしく問い詰めて、主犯の永易を割り出した。十月八日、報知、読売両紙がこれをスクープ。永易は普段着のまま行方をくらました。

 朝の清潔な光あふれる静まり返った登校道。私はユニフォームを着ている。放課後に野球ができる喜びに満ちている。彼らにもそんな時代があったはずだ。
 野球選手としての私の行動に影響を与えるものは、直接私の身に降りかかるものばかりとはかぎらない。話を聞いただけでも、私の意識の深部に影響が及ぶこともある。実際に自分で目撃したわけでない彼らの敗退行為の話ほど、私の態度を決定的に支配するものはない。彼らは遠くにいるのに、幼いころの私と波長が同じ時代を暮らしたはずだというだけで、いつ流れ弾がわが身を襲うかわからないと身構える。その危惧に私の意識は懸命に向かわざるを得なくなり、思考と感情をとことん清潔にしようとする。私と彼らとの世界のあいだに、致命的な距離があるのに気づく。才能の距離だ。
 ―彼らは他山の石にはならない。私とはがんらいちがう人間だったのだ。彼らには私のような清潔な時代はなかった。野球の能力が並だったから。
 その記事よりも小さい扱いで、沢村賞の選考が有楽町の交通大飯店で行われ、東京運動記者クラブ加盟新聞社の各部長が出席して投票した結果、高橋一三が選出されたと載っていた。
 二十四日まで三日間、順調に日課をこなした。ジムトレ二十分、菅野と日赤までランニング、戻ってリングバットで素振り百二十本、一升瓶左右二十回ずつ。
 そのあとの午前を牛巻坂の執筆にあて、七十枚まで進んだ。午後にしたことと言えば、トモヨさん母子との散歩ぐらい。毎日二人の子供の顔を目に焼きつけた。散歩はいつも牧野公園でゴムボールとプラスチックのバットで直人を遊ばせたあと、メイチカへいった。喫茶店で直人はジュースを、トモヨさんと私はコーヒーを飲み、カンナには哺乳瓶を含ませた。最後に直人に玩具を一つ買ってやることで締めくくった。夕食はかならず北村席でした。水原監督の自己管理という言いつけを守り、女体に触れなかった。夜はかならず八時間は眠るようにした。


         百十二

 二十五日土曜日。六時起床。朝から雨。きょうはトレーニングも牛巻坂もなし。歯を磨きながらシャワーを浴びている途中で腹が渋くなる。あわててからだを拭き、トイレに駆けこんで激しい下痢をする。これが私の快便だ。いつも下痢をするたびに生きていると感じる。野球は苦痛ではないので現実の命を感じさせない。第二波がきたのでうなりながら搾り出す。落ち着く。とつぜん予想していなかった勃起が始まり、治まらなくなる。下痢のときは十中八九こうなるけれども、この数日は安らかだった。トイレから出ると、心配顔のカズちゃんが立っている。
「だいじょうぶ? わ! 困ったわね。仕方ないわ、願掛けを反故にして、スッキリ出しちゃいなさい。これもお腹が渋る原因なのよ」
 メイ子と百江もやってくる。
「あら!」
「!……」
「キッコと二十日にしたばかりなんだけど」
「ばかりって、五日も経ってるじゃないの。出さなくちゃだめ。西宮から帰るまでこれから三日もあるのよ。足したら八日間。たいへんなことになってたわ。シリーズが終わるまでなんて、もともと無理だったのね」
「そうですよ」
 百江とメイ子も大きくうなずく。
「じゃ、気持ちよさそうな声を上げたり、イクって言ったりしないでくれる? 機械的なものにしたいんだ。どうしても好色な気分になっちゃうから」
「気持ちはわかるわ。好色ってそんなに汚いことかしら。とにかく、日本シリーズに懸ける意気ごみを汚したくないのね」
「そう」
 三人はすぐに百江の部屋へいって蒲団を敷き、全裸になった。カズちゃんの胸を握って挿入する。
「大き……」
 たちまちうねりはじめ、二度、三度とあごを噛みしめて気をやる。尻をつらそうに少し引いたので、抜いてメイ子に入れる。
「ククク、クウ、イ、ウムムム、ウー!」
 強烈に締めつけ、シーツをつかんで激しく痙攣する。私はひたすら射精を呼ぶためにあわただしく腰を動かす。
「も、ももも、だ、だめです、ウグウウウ! グ! グ! グ!」
 ようやく迫ってきたので、抜いて百江に挿入する。
「あああ、すぐ、すぐ、すぐです、すぐ、ムゥゥゥ!」
 グンと跳ねる。抜いてカズちゃんに入れる。
「あ、キョウちゃん、愛し……愛……! ! !」
 吐き出した。カズちゃんは私の尻を両手で抱え、律動に合わせて無言のまま苦しげに陰阜を打ちつける。快楽の言葉を抑えることが女にとっていかに苦しいことか、初めてわかった。メイ子も百江も早く痙攣を鎮めようと懸命な様子で呻吟している。カズちゃんが私の尻をさすった。
「……うんと出してくれてよかった、安心したわ。ごちそうさま。キョウちゃんがどんなつもりでしても、死ぬほど気持ちいいのよ。それを言葉で伝えられないのはとってもつらいこと。そのことは知っておいてね」
「うん。きょう、よくわかった。これからいつも、ちゃんと声を出してね」
「はい、自然にそうなるわ。だからキョウちゃんは興奮するんでしょう? 真剣にすることなんだから、好色な気持ちにならなくちゃまじめとは言えないわ。まじめとまじめ。男と女はうまくできてるの。好色って、上の空じゃない真剣な気持ちよ。こんな真剣な気持ちですることが、ほかの真剣な行動を汚すはずがないわ。あしたから何もかも忘れてがんばってね。さ、ごはんにしましょ」
 尻をポンと叩く。そっと抜く。
「イ! ……真剣な反応よ。フフフ」
 汗っぽくからだを光らせたメイ子が、私のものを含んで舐める。
「ごちそうさまでした。まだお腹の奥がジンジンしてます」
 百江が、
「ありがとうございました。ほんとに、どう言ったらいいか、胸が苦しくなるほど愛してます」
 便意を催したせいで中途半端だったシャワーをもう一度浴びる。髪を洗う。少し伸びているが、シリーズが終わるまで散髪はしないことにする。
 鯵のヒラキ、卵焼き、菊のおひたし、板海苔、ワカメと豆腐の味噌汁。みんなで腹を満たす。手と足の爪を切る。メイ子に耳掃除をしてもらう。
「よし、これで準備万端ね。さ、北村にいきましょ。きょうは土曜日だから、アヤメ組以外みんなでお見送りよ」
 メイ子とキス、百江とキス、カズちゃんとキスをしてから、居間に用意してあった紺のスーツを着る。窓の外はざんざん降りの雨。この数カ月ではめずらしい。
「あしたとあさっては、アイリスもアヤメもテレビはかけっぱなしにするわね。がんばって!」
 傘を差していっしょに北村席にいく。冷える。
「本、持たなかったな」
 カズちゃんが大きなバッグから、
「はい、夜のお供」
 二冊の漫画単行本を取り出した。
「ちかいの魔球だ! 荒田さんが買ってくれたものと同じ講談社」
「柳橋で閉店する貸本屋から買い取ったの。初版全十巻揃えで一巻も欠けてないわ。残りは私の本棚に入ってる」
「ありがとう!」
「スポーツバッグに入れていきなさい」
「うん」
 玄関から居間に呼びかける。
「おはよう!」
「おはようございます!」
 トモヨさんがカンナに授乳している。さっそく直人とじゃれ合う。主人と菅野がものめずらしそうにちかいの魔球をめくる。
「二宮、久保、か。巨人の星によく似てるなあ。こんな漫画があったんですな」
「はい、巨人の星はほとんどこの漫画の換骨奪胎です。物語の出だしが、クリーニング屋のバイト高校生と貧乏長屋の特訓小僧という点がちがうだけで、あとはたぶん瓜二つでしょう」
 ソテツに荷物が手配ずみであることを確認する。漫画をタオルといっしょにスポーツバッグにしまう。
 十時に江藤、菱川、太田を迎える。しばしコーヒーを飲みながら、座に集まった一家の者たちと歓談。菱川がファンとのやりとりや、矢場トンの話をする。主人が、
「水原監督の次は、私が差し入れをしましょう。中日球場の二戦目と三戦目。六回の表に入る直前ですな。四連勝なら三戦目はないか」
 江藤が、
「六戦までもつれこむことはないんやないかな」
「敵地で胴上げゆうんもシックリしませんな」
 菱川が、
「失礼な感じもしますしね」
 太田が、
「四連勝すると思いますよ。別に甘い考えでなく」
「そうなることを祈っとります」
 時間がきて、神信心とは関係のないお守りをブレザーのポケットにしまい、革靴を履いた。直人とトモヨさんにキスをする。女将が玄関で四人に切り火を打った。
「がんばってらっしゃい」
 主人、菅野、カズちゃん、メイ子、百江、睦子、千佳子、ソテツ、それに時田はじめ松葉会の組員たち四人が、傘を差して見送りにきた。新幹線の改札で大勢の人びとに囲まれる。
「がんばって!」
「二連勝!」
 組員たちが押し戻す。ソテツから四人前の焼肉弁当を渡された。江藤が、
「ごっつぁんです」
 カズちゃんが、
「何があっても怒らないこと」
 菅野が、
「足立のデッドボールを警戒してください。有名ですから」
 百江が、
「汗だらけのシャツはかならず脱いで、お風呂に入って着替えてから寝てくださいね。風邪をひかないように」
 睦子が周りを見回しながら、
「ファンの人混みにはくれぐれも気をつけて、油断しないでくださいね」
 菱川が、
「俺が目を配ります」
 千佳子が、
「ほんとにくれぐれもケガをしないように。あしたからきちんとスコアブックをつけます。とくに球種に注意してメモします。無事を祈ってます」
 主人が、
「二戦とも、ラジオ中継をテープレコーダーに録音しますよ。千佳ちゃんにやってもらいますわ」
 一人ひとりに温かい言葉をかけられ、握手し、手を振って階段を上がる。真昼のホームに親しい男三人と立つ。幸い報道陣の影は見えず、ファンも遠巻きのまま押し寄せてこない。いい旅立ちだ。菱川が、
「星野は朝早く出ました」
 太田が、
「投手陣は、阪急の連中と混ざってランニングと投げこみをするそうです。早くマウンドに慣れておいたほうがいいですからね。足木さんの申し入れで実現しました」
「足木さん、アメリカから帰ったの?」
「はい、トレーナーたちといっしょにもう竹園のほうにいるはずです」
 目立たないように組員四人が同じ新幹線の別の車輌に乗りこむ姿が見えた。席に座るとすぐに、阪急投手陣の復習をする。
「阪急の四本柱はみんなデカいけんな。梶本は百八十六。金田よりでかい。あとの三人は百八十ちょいや。なら、米田からいこ。金太郎さん、よろしく」
 私は、
「決め球はフォーク。腰から下のフォークを見切らないとやられます。フォアボール多し。敬遠癖あり。肩肘の故障経験なし。打撃よし」
「梶本」
「ゆっくしたフォームからスリークォーターの意外なスピードボール。フォームを見ないでボールだけ見ていればいいです。外角パームの見切り。この二人からは一本ずつホームランを打ってます」
「石井茂雄」
「彼からもライトスタンドへホームランを打ってます。切れのいい変化球とシゲボールという超スローボール。打撃よし」
「水谷孝」
「速球。大量点のあと、みんなでわざとらしく凡退したのを憶えてます。ぼくは対戦してません」
「足立。これは小さか男ばい」
「やっぱり対戦したことありません。決め球は、アンダースローから浮き上がって落ちるシンカー。デッドボール多し」
「菅野さんが気をつけろて言っとったな」
 菱川が、
「バッターの研究はいいですよね」
「ああ、いらん。ただ、長池は意外と内角打ちがうまかぞ」
 ソテツ弁当は米原で食った。焼肉と鶏ひきそぼろ。しみじみとうまかった。食いながら雨空を見上げ、小さくてうまい弁当に比べて無意味な世界の広さを感じた。
 同じ新幹線から井手を連れて降りてきた森下コーチと阪神バスに同乗する。路面が濡れていたが、雨は止んでいた。江藤が井出に、
「おまえも合同練習ね」
「いえ、自費で見学にきました。来年からポツポツ代走で出させてもらえそうなんで」
「ほうね、がんばりや」
 冷たい応答だ。森下コーチが、
「井出がピッチャーをあきらめたんは、肘を故障する以前や。健ちゃんの球威を見てブッ飛んだんやて」
「肘はもう痛まないんですか?」
「うん、三年休めたからね。もともと肩と足はいいんだよ」
 自己過信だろう。森下コーチが、
「いずれ外野の守備要員で使うたらんとな」
「無理せんでも、いずれフロントやろ」
 江藤がズバッと言った。
「いえ、球団と関係のないサラリーマンをやるつもりです。クビになるまで野球をやります」
 西高の水野に似た顔をしている。ひょっとしたら、ただ野球が好きなだけの頑固者なのかもしれない。
 二時半、竹園旅館到着。玄関に警官まで動員して厳戒態勢を敷いている。ファンはキャーキャー騒ぐだけで近寄ることができない。足木たちと合流。チェックイン。
 部屋に入り、ユニフォーム、バット、グローブ、スパイク、タオル類、帽子、運動靴、カズちゃんの用意したナショナルの髭剃り、一キログラム鉄アレイ二本の確認。内風呂に浸かる。六時まで仮眠をとる。試合の重要さがわかっているのか、設楽ハツは忍んでこなかった。
 歯を磨き、シャワーを浴び、ルームサービスを注文する。ハンバーグステーキとどんぶりめし。味噌汁もつけてもらった。食いながらテレビを観た。時おり、ミズノのコマーシャルが流れた。恥ずかしいのでチャンネルを回す。ニュース番組しかやっていない。仕方なく近江正俊という男がキャスターをしているニュースを観ることにする。悪徳の栄え事件で最高裁が有罪判決、澁澤龍彦に罰金七万円。ソマリアでクーデター、モハメドなんとかが実権を握る。国際反戦デーに新宿で新左翼各派が機動隊と衝突、逮捕者数が過去最大となる。どの一つの意味もわからない。日本シリーズのことはまったく採り上げられていなかった。ここでも私のコマーシャルが流れた。
 ニュースを観れば、この世に出来(しゅったい)する事柄の価値と、向けるべき関心の序列がわかる。その序列を認識できない人びとが、芸能人やスポーツ選手に群がる。学問やイデオロギーや政治に疎いおかげで、世間から軽視される世界に属せたことに安堵する。男は頭だという母の持説から逸脱したおかげで、野球という遊びだけに没頭できる。
 夢の世界旅行クイズジャンボ、お笑い頭の体操、8時だヨ!全員集合、キイハンター。チャンネルを替えずに観つづける。そのうち眠った。


第十一章 消化試合 終了

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