第三部


十二章 日本シリーズ



         一

「おはようございます!」
「ウス!」
 竹園旅館の宴会場が賑やかだ。水原監督を含めて四十人くらいいる。井手はいない。報道陣も入っていない。大窓の外は薄曇り。柱の温度計は十七・九度。試合開始のときは二十度ぐらいか。野球日和だ。一枝に礼を言う。
「すばらしいレコード、ありがとうございました」
「気に入った?」
「はい、とても。ブルッフと、バーバーを聴きました。胸を刺されました」
「それはよかった。また来年、見つくろって送るよ」
「ありがとうございます」
 足木マネージャーが、
「みなさんおはようございます。いよいよきょうから日本シリーズです。巨人が相手でないので、五万五千人収容の西宮球場は六割の入りと予想されています。それでも三万三千人です」
 観客の少ない理由はそういうことではないと私は知っている。
「大観衆の前で、いつものように楽しんで野球をしてください。そうすれば、四連勝まちがいありません。午後一時試合開始ですので、ビジターのドラゴンズは十一時からバッティング練習。西宮球場まで二十分ですから、信号なども見こんで十時十五分に出発します。それまでゆっくりくつろいでください」
 まったくハツの姿が見えないのは、もちろん気を差してのことだろう。ありがたい心遣いだ。
 始球式のようなセレモニーはないと中がしゃべっている。腹いっぱい食って、部屋に戻り、脱糞。小指ほどの軟便が二本出た。からだが緊張し切っているのにちがいない。おそるおそるナショナル髭剃りをあてる。痛くない。適当なところでやめる。素振りを六コース十本ずつ。倒立腕立てインターバルを置きながら五回ずつ三回。腹筋と背筋五十回ずつ。だいぶほぐれた。あとは球場で走ればいい。からだに力がみなぎってきた。
 ユニフォームを着、お守りを尻ポケットにしまい、曇り日なので昼から眼鏡をかける。
 十時十五分出発。街並を記憶しようという癖が戻ってくる。親王塚、阿保親王の墓という知識を思い起こす。町並の低い芦屋の豪壮な高級住宅地。マンション、アパート、動物病院、すべてが豪壮だ。そのほとんどに翠ヶ丘という冠がついている。目をつぶる。仲間たちの声が聞こえてくる。一枝が、
「オープン戦、たった一日雨で流れたのが西宮だったよな。でっけえ球場だぞ」
 徳武が、
「お城みたいな正門には仰天するぜ。白い外壁が不気味だ。ロッカールームへいく周回ゾーンの通路に青と赤の横線がずうっとつづいてて、シャンデリアがぶら下がってる。あれも場ちがいな感じだ。急に天井が低くなって頭をぶつけそうになる」
 水原監督が、
「私や中くんはだいじょうぶだろう」
「じつはだれもぶつけません。百九十以上もある外人だけですよ」
 中が、
「素振り部屋の地面は砂なんだよね。あれはいい」
 江藤が、
「ロッカールームは広かばってん、選手用ロッカーは衣紋掛け棒が渡してあるだけのシンプルなもんたい。ま、ふつうやな。隣のミーティング室にもロッカーがあって、何かの控室に使えるやろう」
 小野が、
「風呂場は狭い。四人入ればいっぱい。浴槽はビックリするぐらい深い。トイレはきれいだね」
 山手幹線・西宮市の標示。相変わらずの町並。浅い神田川のような夙(しゅく)川を渡る。甲南大学を左折して、西宮球場到着。二十分弱。
 正面駐車場でバスを降りる。大歓声が上がる。仕切り綱が張られているのでファンたちは近づけない。警備員に混じって組員が点々といる。綱の内を歩きながら、ところどころ灰ずんだ壁柱が突き出した五層の白い外壁を見上げる。白い城(カーザビアンカ)というヴィッキーの名曲が浮かんだ。

 
祝日本シリーズ 阪急ブレーブス―中日ドラゴンズ

 の横断幕。いたるところに人が行列を作っている。選手名鑑を手に持って売り歩いているおばさんがいる。ズボンにしゃれたカーディガン。入場口の上に堂々と銀行やビール会社の看板を掲げているのは趣味が悪いと感じるけれども、とりたてて違和感はない。
 水原監督を先頭に、三塁側の選手通用口へ歩いていく。喚声を上げて押し寄せるファンの群れを松葉会の組員が背中と腕で押し戻している。大勢の白ヘルメットの警官や警備員に誘導されながら通用口に入る。徳武の言っていた回廊が目の前に延びている。シャンデリアが灯っているが暗い。とつぜん低くなる天井はたしかに窮屈な感じでも通り抜けるのに支障はない。パーティションで仕切られた選手食堂の立て看に、ビフカツ定食と書いてある。
 だだっ広いロッカールームに入る。一本のバーしか渡していないただの箱型のロッカーが並んでいる。テーブルも真ん中に二枚くっつけてあるきりだ。素振り室というのがある。覗く気はしない。鉄アレイ二本をダッフルから取り出してテーブルの上に置き、バットケースも置く。みんな揃ってスパイクに履き替える。グローブと鉄アレイとバット一本を持ってベンチに入る。とつぜんまぶしくなる。
「ホー! 広かァ!」
「でか!」
 初体験でないはずなのにベテランたちが感嘆の声を上げる。中が、
「後楽園と同じ昭和十二年開場だ。この二階席スタンドは日本初」
 太田コーチが、
「ラッキーゾーンが近いな」
 グランドに記者やカメラマンが溜まっている。すぐに蒲原の姿を見つけた。水原監督とコーチたちは、すでに阪急の監督コーチ連とバックネット前で談笑している。満員盛況とまではいかないが、観衆のざわめきがすごい。阪急チームがバッティング練習をしている。コンクリートの床に固定した椅子に腰を下ろす。一脚一脚の間隔が空いているのがめずらしい。オレンジ色アンツーカーと芝のコントラストがどぎつい。ファールゾーンはオレンジと緑のツートンカラー、フェンスぎわはぐるりとオレンジのアンツーカーだ。ホームチームとビジターのブルペンはラッキーゾーンの向こうにある。外野のファールグランドの中間に鏃(やじり)型に食い込んだ空間は何のためのものだろう。レフト側とライト側外野スタンドの端に、かなりの幅で工事中の屋根みたいな斜面がある。来年から鉄傘をつけて客席を増やすと主人が言っていたものだ。照明は六基、三塁ベンチ真上の一基のみが甲子園のようなライオン型だ。右中間の照明塔に阪急百貨店の広告。大中小と長方形の積木を積んだような、外周がオレンジ色のスコアボード。小は時計、中は得点板で十八回まで記載できるようになっている。大は上部にカウント表示ランプ、審判名、途中経過標示板、下部はメンバー名だ。中央が正方形のスクリーンになっていて、ときどき硬球ボールや選手の写真が映し出されるが、たいてい何も映っていない。両翼百一メートル、ラッキーゾーンまでは九十一・四メートル、センターフェンスまで百十八・九メートル。
「どや、金太郎さん、何本かいけそうや?」
「右中間は百三十メートルくらい飛ばせば場外です。工事中の斜面を越すには百五十メートルは必要ですね。バックスクリーンは階段状の斜面で百二十メートル、スコアボードまで百四、五十メートル」
 風がある。三本の旗がたなびいている。小野が、
「横に長いでしょ。十八回まで標示できるんだよ」
「スコアボードにぶつけるのは可能です。でも、その上に箱形の時計塔が突き出ているので、あれを越えるのは百パーセント無理です」
 一枝が、
「俺はラッキーゾーン狙おうっと」
 ネット裏と右翼の外れの内野席は局部的に銀傘で覆われているけれども、内野二階スタンドは日に曝されている。秩序がなく、どこか気分がサッパリしない。
「なんで銀傘なんかつけてるんだろう」
 葛城が、
「あんなのつけてもむだなんだよね。夕方四時ごろになると、一塁スタンドの上のほうの照明塔の影がマウンドとキャッチャーの中間に落ちるんだ。バッターはボールが見にくくなる。ボールがその影をよぎってくるからね。四時までに勝負つけてしまいなよ」
 変則とは言え、日本最大の球場だとわかる。しかし、外野スタンドはパラソル屋根で水増ししても、スタンド幅が甲子園の半分ほどなので、場外ホームランは出やすいだろう。ブレーブスのバッティング練習に目を戻す。太田が並びかけて座り、選手パンフレットを取り出す。
「立派なベンチですね」
「ああ、何もかもすごいね」
「さっきの鉄アレイ、何ですか」
「朝のランニングと、グランドのランニング用。そういう小冊子はどこから持ってくるの」
「球場事務所です。売り物ですけど、選手がくださいといえばくれますよ」
 高木が覗きこむ。
「俺も知らないやつが多いから、金太郎さんは全員知らないよな」
「長池だけはわかるけど、三月に一度対戦しただけなので、全員忘れてしまいました。じゃ太田、まずショートとセカンドから」
「ショート阪本、セカンド山口。阪本は三年目、二十六歳、平安高校から立命館、ホームラン十本程度、俊足、二割七、八分」
「うん、プロだ」
「セカンドの山口は七年目、二十七歳、高松商業から立大。内野のユーティリティプレイヤー。ホームラン三、四本、二割二、三分」
「一ランク下」
「サード森本、ファーストは石井晶かアグリー。森本は七年目、二十七歳、西条高校から立大を経て社会人。阪本、山口、森本は百七十センチ以下です。森本も内野の便利屋。ホームラン三、四本、二割四、五分」
「ワンランク下」
「石井晶は十年目、三十歳、足立高校から東京鉄道局。スペンサーのあとの四番打者を一時期勤めたことがあります。ホームラン十本以上打った年は二度だけ、あとは三、四本、二割五分前後」
「それでも要警戒のプロ」
「アグリーは八年目、三十歳、大洋、西鉄、また大洋と渡り歩いて、今年阪急にきました。右投げ左打ち、これまた内野の便利屋です。ホームランは均すと十本程度です。二割六、七分」
「プロ」
「あとは外野とキャッチャーだね。長池はいい」
 木俣が、
「あいつら、叩き上げだな。泥臭くて、好みじゃない」
「レフトの当銀はウインディの当て馬です。二年目二十三歳、サッポロ商業から駒大。ふだんは代打か守備固めです。ホームランは一本打つか打たないか、二割五、六分」
「一ランク下」
「ウインディは大リーグでパッとせず、日本にきました。阪急で六年目の三十六歳。スペンサーのころの五番打者です。ホームラン十五本前後、二割五、六分」
「プロ」
「センターの大熊は六年目二十六歳、浪商から近大。彼も百七十一センチしかありません。去年から急に花開いて、ホームラン十本以上、二割七、八分」
「プロ」
「キャッチャーの岡村は九年目、二十九歳、高松商業から立大。二割前後の低い打率ながら一発長打を秘めたバッターです」
「一ランク下」
 先発の小川がやってきて、パチパチと拍手した。
「要領よく紹介したな。さあ、そろそろうちのバッティング練習だ。投げてやろうか」
 江藤が、
「冗談よしおくん」
「それを言うなら、冗談よしこさんだ。きょうは肩が軽いんだよ。五十球ぐらい投げてウォーミングアップするわ。一人五球ずつ、十人な」
 水谷則博が、
「小川さんの次、俺いきます」
「阪急ブレーブス、バッティング練習時間終了でございます」
 阪急ナインがぞろぞろと引き揚げたが、記者やカメラマンたちは、一つしかないバッティングケージの後ろを動かない。小川はほんとうにマウンドに上がった。歓声が湧く。蒲原が一塁のファールゾーンからシャッターを切っている。


         二 

 背番号51の真田ピッチングコーチが私たちの背後にやってきた。
「すんません。ちょっと見学させたって」
 中がケージに入る。私は監督コーチ連とケージの金網に貼りついた。シャッターの音が響く。小川はシュッと真ん中に放ってくる。敵コーチに隠そうともしない。一球、二球、コントロールも球威も抜群だ。中は五球すべてバントして、正確に三塁前に転がした。阪急ベンチに対するデモンストレーションだ。私は思わず拍手した。高木はシュートを要求し、一球目をレフト前へ、二球目をレフトラッキーゾーンに放りこんで打ち止め。
「外角カーブ! 三球」
 江藤はすべてライト前に打ち返した。私の番になり、フラッシュが瞬き、スタンドから盛んな拍手が上がる。
「外角シュート、ボール球! 五球目内角カーブ!」
「オーライ!」
 四本レフト前へライナーを打ち、最後の一本を右中間の蒲鉾屋根で弾ませた。めったに見ない大ホームランだったらしく、観客がどよめいた。木俣は、
「内角高目!」
 五本とも左中間へ運び、二本スタンドインした。
「外角のボール球と内角のボール球!」
 菱川は三本ライト線へ、二本レフト線へ打った。
「真ん中高目ストレート!」
 太田は五本ともレフトスタンドへ運んだ。
「五球とも真ん中低目!」
 一枝は四本センター前へ、一本レフトラッキーゾーンへ打ちこんだ。
「終了!」
 そう叫ぶと、三十五歳の小川は飛び跳ねるようにして外野へ走っていった。目覚ましいデモンストレーションになった。水原監督がニコニコ顔で拍手した。
「さすが沢村賞ピッチャーやな。今回かて辞退せんでもよかったのに。ギャンブルの一つ二つ、周りが騒ぎすぎやで」
 首を振り振り真田コーチが去っていった。打ち終えた私たち全員外野へ回り、千原、江島、葛城、江藤省三、伊藤竜彦の打球を拾った。きょうの水谷則博のボールは切れているので、五人ともなかなかまともに飛ばせない。外野と内野の中間に鏑木と池藤がグローブを持って立ち、楽しそうに捕球する。私はアレイを持ってポール間ダッシュ。センターに立っている鏑木を目安に急・緩・急、急・緩・急で一往復する。菱川と太田と星野秀孝が倣う。ダッシュのあと、四人でフェンス沿いをゆっくり二周する。
「きつくないですか」
 星野が両手のアレイを見つめて言う。
「人のやらない無理をするのが好きだから」
 スタンドから大きな歓声が降り注ぐ。ここが阪急のホームグランドであることを一瞬忘れる。菱川が、
「それ、効果ありそうですね」
 太田が、
「まねしないほうがいいんじゃないですかね。神無月さん独自のものですから。フッと油断したとき、ケガをしますよ。神無月さんには油断がないんです」
 星野が、
「ぼくもそう思います。倒立腕立て十五回なんて、人間業じゃないでしょ」
「たしかにね。それをやったって百六十本ホームラン打てるわけでもないものね」
 阪急の守備練習につづいてドラゴンズの守備練習。その前にレフトの私とライトの菱川は遠投キャッチボール五本。ワンバウンドでピタリと相手のグローブに収まるようにする。次に、中を中継にして、強いハーフ遠投を三人で。胸にピシッとはまるようにする。観客がめずらしいものでも見るように、ホーとため息をつく。阪急ベンチが静けさの中に憩っている。勝利を確信しているなら危ない。
 外野ノックは私から。二塁送球三本、一本だけ低く糸を引かせる。バックホーム。地を這うワンバウンド二本。本試合以外はノーバウンド投げないように心がける。球場を揺るがす大歓声が上がる。ベンチへ走り戻る。中も同じようにやるかと思いきや、バックホームを三塁送球に替えた。みごとなワンバウンド。温かい喚声。ベンチへ走り戻る。太田は二塁送球一本、三塁送球二本、ノーバウンドバックホーム二本。拍手喝采。ほんの少し山なりだが強肩の面目躍如たるものがあった。ベンチへ走り戻る。
 内野ノックはまるでサーカスのようだった。難ゴロの処理、飛びつき、ラインぎわの逆シングル、バックトスのダブルプレー、キャッチャーからの送球を素早くベースタッチ。どれ一つとっても流麗の極み。ため息と拍手と喚声。水原監督が見こんだ菱川は大成長を遂げていた。高木と一枝コンビに勝るとも劣らない華やかな守備だ。
「中日ドラゴンズの練習時間終了でございます。グランド整備が入ります」
 江藤たちに、
「ビフカツ定食食いにいきませんか」
「おお、いこう」
 ドヤドヤと五、六人でアストロ食堂という中華料理店ふうの洋食屋に入る。全員ビフカツ定食を注文する。高木が、
「おばさん、ここ場内放送聞こえてくる?」
「はい、聞こえますよ」
 洋皿にライスを半盛りにした横に、ビーフのカツが五本立てかけてある。そこにナポリタンを少々添えただけのシンプルなもの。少し歯応えがあるが、ソースが絶妙な味だ。全員五分で平らげた。コップの水を胃袋へ流しこみ立ち上がる。
「あとでマネージャーが払いにくるけん、ツケといて」
「はい、よございますよ」
 ドヤドヤとベンチに戻る。江藤が、
「足木さん、通路の洋食屋に食事代届けといて」
「ほい。阪急球団は六割の入りを予想していたらしいですが、なんと七割強の入りだそうです。四万人」
 グランドに出ると、スタンドがほぼ満員になっている。記者やカメラマンたちが引き揚げた。試合開始前の阪急ベンチののどかな動きの中に、ピリピリした緊張感がただよいはじめた。水原監督と西本監督がにこやかな表情でメンバー表を交換する。レフトのラッキーゾーンのブルペンで、小川と星野秀孝が投げている。ライトのラッキーゾーンでは、だれとはわからないが、二人投げている。
「ただいまより、阪急ブレーブス対中日ドラゴンズ、日本シリーズ第一戦を開始いたします。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先発ピッチャーは、阪急ブレーブス、石井茂雄、中日ドラゴンズ、小川健太郎。先攻は中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番サード菱川、サード菱川、背番号4、七番ライト太田、ライト太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小川、ピッチャー小川、背番号13。対しまして、後攻は阪急ブレーブス、一番セカンド山口、セカンド山口、背番号1、二番ショート阪本、ショート阪本、背番号4、三番サード森本、サード森本、背番号9、四番ライト長池、ライト長池、背番号3、五番センター大熊、センター大熊、背番号22、六番レフト当銀、レフト当銀、背番号41、七番キャッチャー岡村、キャッチャー岡村、背番号29、八番ファースト石井晶、ファースト石井晶、背番号6、九番ピッチャー石井茂雄、ピッチャー石井茂雄、背番号20。球審は田川、塁審は一塁竹元、二塁道仏、三塁岡田功、外審はレフト筒井、ライト久喜。以上でございます」
 阪急ナインが守備に散る。ドラゴンズから移籍した島谷は先発出場していない。ベンチに彼の姿を瞥見できた。森本の牙城は崩せないらしく、七月に一号を打って以来、サードの控えで四十三試合に出場してホームラン三本、打率二割二分一厘。移籍初年度はそんなものかもしれない。
 三塁ベンチ上方のスタンドで、子供会らしき少年たちや出張応援団のおじさん連中五十人ほどが、太鼓を叩き、ドラゴンズの球団旗を振り、両手で日の丸の扇子をひらひらさせている。
「カッセ、カッセ、ナーカ!」
「カッセ、カッセ、ナーカ!」
 一塁側スタンドから、聞き取れない野次が飛んでくる。ライト側のラッキーゾーンの出口から白地にストライプのユニフォームがゆっくり歩いてきてマウンドに上がり、おもむろに投球練習を始める。一瞬オーバースローに腕を引くが、振り出すときにスリークォーター気味のサイドスローになっている。七カ月前。この投げ方に見覚えがある。
 ―石井茂雄か。
 太田のスクラップ写真を見る。いかつい。投球練習はカーブとスライダーばかり投げる。力投型ではなく、飄々と投げるタイプだ。シゲボール(シンカー気味に落ちるゆるいボール)は投げない。水原監督が三塁コーチャーズボックスへ歩いていく。
「おおお、燃えるのう!」
 江藤の雄叫び。舞い上がっている。いつもの鷹揚さがない。
「ヨ!」
「ホ!」
「ヨイショー!」
 森下コーチが一塁のコーチャーズボックスへのんびり向かった。中が、
「小野さん、田川球審の特徴は?」
「うーん、威勢よくテキパキしたジャッジ。酒好き。ときどき酒のにおいがしたな。さすがに日本シリーズは飲まないだろう。コースどりは正確だよ」
 声と拍手の応援に背中を押され、中がバッターボックスに向かう。高木はネクストバッターズサークルに入って膝を突いた。
「プレイ!」
 押し寄せる喚声。初球内角カーブ、見逃し。遅いボールだ。
「ストーライ!」
 田川の発声がめずらしい。発声と同時に二本指をプルプルと振る。二球目内角高目の速球。中、驚いてバックネットへファールチップ。けっこう速かった。見上げると異様に高いバックネットの向こうに二階席が重なっているのが見える。その上に銀傘がかぶさっている。マンモス球場だ。バックネット下部の放送席までもかなり距離がある。後逸したら厄介だ。
 三球目外角へ超スローボール。中は待ってましたとばかりひっぱたく。レフト前クリーンヒット。中日ベンチが沸き上がる。
「よーし、イケイケイケー!」
 江藤が叫びながらネクストバッターズサークルへ。高木、腰までグリップを下ろした静かな構え。初球内角低目のカーブ。ギンと振り抜く。左中間へ一本ライン。中、ホーバークラフトで一挙にホームイン。高木は二塁へ滑りこむ。三塁側スタンドが燃え上がる。団旗が振られ、鉦太鼓が乱打される。あの人混みの中のどこかで主人と菅野が観ているはずだ。江藤、外角重視のバッティング練習を目撃されたか、三球つづけて内角攻め。痺れを切らして四球目を窮屈なスイングで振り抜く。フラフラとレフトライナー。
 歓声と嬌声と拍手とフラッシュの中、バッターボックスに向かう。岡村が立ち上がる。躊躇なく敬遠。ものすごいブーイング。一塁ベースに立つと、高木から指で×印のサイン。ダブルスチールはなし。木俣、二球目のシゲボールを打ってショートフライ。菱川、しつこく警戒されてストレートのフォアボール。ツーアウト満塁。太田、フルカウントからシゲボールを打ってサードのファールフライ。みんなアガッている。一点止まり。
「きょうは打ち合いの接戦だよ。エラーに気をつけて!」
 ベンチに戻ってきた水原監督の第一声だ。
「ウィース!」
 小川のボールがすばらしく走っている。今年いちばんのデキだ。きょうは徹底してアンダースロー。一塁ベンチ上で、法被着た一軍が平丸太鼓と団扇の応援を始める。奇妙な吹流しも打ち振っている。
 一番山口富士雄。百七十センチ、七十四キロの小柄、今年二割八分二厘、九本塁打。当たり年だ。一ランク下ではない。少し守備位置を深くする。ライトスタンドで阪急の大きな球団旗がバタつくように振られている。期待されている。小川アンダースローからの初球、内角ストレート。強振。詰まった打球が私に向かって飛んでくる。意外に伸びて金網フェンスぎりぎりでジャンプして捕球する。喝采。ラッキーゾーンのブルペンの折り畳み椅子に坐っていた星野と吉沢と目が合う。微笑み交わす。半球のリリーフカーが片隅に置かれている。捕球したボールを一枝に投げ返す。日本シリーズが始まった。スタンドを見回す。ビッシリ満員だ。オレンジの支柱に載ったオレンジの蒲鉾屋根。オレンジの出入り口。チームカラーはオレンジなのだ。鋸形の空間にベンチが置かれ、控え投手が二人坐っている。その真上の照明灯の広告は〈大和証券〉。照明灯の支柱もオレンジだ。二メートルフェンスにはコカコーラの広告が三枚。空に綿雲が浮かんでいる。
 二番阪本敏三。百七十センチ、七十キロの小柄。二割八分四厘、十三本塁打。やはり当たり年だ。優勝チームの先兵はこういうものだろう。要警戒。スコアボードの三本の旗がレフトへたなびいている。坂本ワンスリーからじっくり見てフォアボール。小川も肌で危険を察知している。
 三番森本潔、百六十八センチ、七十四キロの小柄。パーマ髪にヒゲのサングラス。森ヒゲと呼ばれているようだ。二割四分九厘、十六本塁打。どいつもこいつも当たり年だ。ドラフトを考えれば当然か。要警戒。初球内角スローカーブ、打って出てショート深いところへゴロ、惜しくもゲッツーならず。ツーアウト一塁。
 いよいよ四番長池。百七十五センチ、八十四キロ。ガッチリタイプ。三割一分六厘、四十一本塁打でホームラン王、打点百一で打点王。出塁数三百八十八で私の四百とほとんど変わらない。対策は万全だ。内角低目シュート二球でツーナッシング。外角低目へ速いカーブ。肩口から振り下ろすレベルスイング。いい当たりだがライト定位置へのフライ。短い首を載せた背中が一塁ベンチへトコトコ走り戻っていく。


         三

 競輪場と併用しているせいでデコボコしている禿げ芝を走り戻る。トンネルをしたらたいへんだ。すべてのゴロを腰を落として捕ろう。鋸の柄の部分のスタンドからヤンヤの声援。
「ええ男ォ!」
「神無月さーん、がんばって!」
「早く一本見せてくれェ!」
 二回表。一枝、ワンツーから内角ストレートを打ってショートライナー。小川もワンツーから外角のゆるいカーブを打ってセンターフライ。中、ツーツーから真ん中高目のストレートを打ってセンターフライ。目が慣れてきた。ここからだ。
 二回裏。レフトスタンドの阪急ファンは野次を飛ばさず、旗を振り、歓声を上げるだけで上品だ。たまに拍手。一塁側スタンドのベンチ上に応援団らしき人たちはいるが、拍手に合わせて、打て、とか、がんばれと叫ぶのがせいぜいで、徒党を組んで騒ぎ立てることはない。
 五番大熊忠義、百七十一センチ、七十四キロの小柄。二割六分三厘、十二本塁打。要警戒。初球外角高目ストレート、一塁スタンドへファール。振り遅れている。小川と初めて対戦すればだれでもこうなる。二球目真ん中低目ストレート、一塁ベンチ上へライナーのファール。二階スタンドの壮大さが目に入る。三球目、内角シュート、詰まりながらセンター前へポトリと運ぶ。
 六番当銀に代わってウインディ。三十六歳。百八十八センチ、八十二キロ。二割三分六厘、四本塁打。その背の高さにスタンドが少し沸いた。今年の成績からは安全牌。バカでかい男が初球にバント! サード菱川一塁へ送球。大熊二塁へ。中と顔を見合わせる。初めて目にする作戦だ。バントなら当銀でもいいだろう。
 七番岡村浩二、百七十五センチ、八十キロ。長池を小太りにした感じ。二割六分二厘、十五本塁打。要警戒。ツーワンからサードへ強い当たりのゴロ。菱川セカンドへ送球、飛び出していた大熊タッチアウト。高木すかさず一塁へ送球してダブルプレー。小川がグローブを叩いて喜ぶ。みんなバットに当ててくる。たしかに打ち合いだ。三振がない。
 三回表。二番高木、また初球の真ん中低目のカーブを打ってセンター前のクリーンヒット。ネクストバッターズサークルで江藤が、
「ワシャ、きょうは振りがしっくりこん。見ていくわ」
 高木、江藤の初球に悠々盗塁。江藤は自分の言葉どおり、カーブ、スライダー、シゲボールをきちんと見逃してフォアボール。手拍子交じりに、金太郎さん、金太郎、金太郎さん、金太郎。声援が大球場甲子園とよく似た圧力でやってくるが、スタンドの反響がないので新鮮な感じだ。初球外角シゲボール。名づけるほどでもない。逃げるシンカーの別名だ。遠く外れる。やっと投げてきたが外れすぎだ。敬遠のサインは出ていないようだ。二球目外角低目カーブ、ストライク。たしかにコーナーをかすっている。上背のあるピッチャーだが威圧感がない。三球目内角胸もと伸びのあるストレート、明らかにボール。水原監督パンパンパン。いつもこの拍手はタイミングがいい。
「ヨ! 一発!」
「また敬遠か! せこいぞ!」
「ホ! めげずに一発!」
 四球目外角へ懲りずにシゲボール。ここは一点もらおう。まず相手の得意球を打っておく。屁っぴり腰でセンターの左へライナーで打ち返す。左中間のシングルヒット。高木生還。江藤三塁へ。二対ゼロ。ノーアウト一、三塁。木俣、高目のカーブを叩きつけてピッチャーゴロ。江藤ホーム突入の構え。石井一瞬江藤を睨んで三塁に釘づけにし、私を二塁に封殺―したつもりが滑りこんだ足が速く、セーフ! もちろん木俣もセーフ。思わぬボーンヘッドだ。ノーアウト満塁。
「つづけ、つづけェ!」
「やれいけ! それいけ!」
 菱川内角シュートに詰まってピッチャーゴロ。1―2―3のゲッツー。江藤生還。私は三塁へ。ツーアウト三塁。三対ゼロ。太田、初球内角高目の難しいシンカーを叩いて、レフトポールぎわへホームラン性のファール。阪急ベンチから何か大声の指示が出て、岡村が立ち上がった。敬遠! 西本監督の直観なのだろうが、節操のないいき当たりばったりの戦法だ。一枝、シゲボールをショートゴロ。なるほど、これで作戦成功というわけなのかもしれない。スタンドを眺めながら守備位置につく。いい風が吹いている。デコボコの芝が気になる。
 三回裏。早くも小川に勢いがついた。スイスイ投げる。石井晶ライトフライ、山口、私へのファールフライ、阪本ライトフライ。無理に三振を取りにいかない。星野はたぶんこの投法を体得したのだ。
 四回表。石井から足立光宏に投手交代。シンカー一本槍のピッチャー。デッドボール警戒。小川、打つ気なしのところへ内角ストレートがきたので、思わず振ってサードライナー。中、ツースリーから一球ファールで粘ってフォアボール。高木二球目ヒットエンドラン、外角カーブをライト前ヒット。三打数三安打。ワンアウト一、三塁。江藤、セカンドへボテボテのゴロ、高木二塁に封殺。中生還。四対ゼロ。江藤が残って、ツーアウト一塁。私、敬遠気味の外角攻め、四球目のボール球を無理やり打ってサードゴロ。凡打を打ってナメられておかないと、次に勝負してもらえない。
 四回裏。小川スイスイ。森本ライトフライ、長池セカンドライナー、大熊、私の前へヒット、ウインディサードゴロ。三振のない奇妙な試合だ。
 五回表。木俣、外角のシンカーに詰まってファーストゴロ。菱川、太田とつづけてレフトフライ。いつもと様子がちがう。このままだと本気でナメられる。
 五回裏。嵐の前の静けさ。これで終わるはずがない。岡村ピッチャーゴロ、石井晶内角高目のストレートを振って三振。きょう初めての三振だ。足立の代打、岡田幸喜、もう何者でもいい。センターフライ。チェンジ。トンボが入る。太田に思わず訊いてしまう。
「岡田って?」
「岡村の控えキャッチャー。足立よりはというので出しただけでしょう」
 六回表。ピッチャー大石清に交代。江藤が、
「ようあれこれ出してきよるなあ。西本ゆうんは、性格がネズミやな」
 長谷川コーチが、
「大石清は俺のあとの広島のエースだよ。肘をやられて、いまじゃ見る影もないけど、カーブ史上最速のピッチャーだった。カミソリストレートと言われたんだ」
 ピッチング練習を見ると、ヘロヘロ球だ。足立から替えた意味がわからない。目先を変える作戦だろうか。先頭打者の一枝レフト前ヒット。小川、ライトフライ。中レフトファールフライ。高木ライトファールフライ。西本監督の作戦成功というところか。いや、これは作戦などという高級なものではない―この監督は策に溺れて、実がない。へたくそな采配と言い切っていい。この人の下で働く選手は不幸だ。
 六回裏。一番山口から。センターフライ。二番阪本、何でもないサードゴロを菱川がハンブルエラー。
「コラー!」
 小川の声が響いた。菱川が帽子を取って最敬礼している。森本センター前ヒット。長池内角シュートで三振。大熊センターフライ。ベンチへ走り戻る。水原監督が、
「健太郎くん、次の回もいくかね」
「はあ、連打を浴びて二、三点取られるまでは投げます。取られなければ投げ切ります。打たれたときは、勝ちは星野にやってください」
 星野は五回からブルペンで投げこんでいる。阪急ブルペンでも二人のピッチャーが投げていた。
 七回表。江藤三振。江藤の爆発はあした以降だ。わかる。過剰反応は江藤の特徴だ。プロ入り十一年目、初めて出場する日本シリーズで人一倍アガッているのだ。金太郎コールが始まる。木俣が、
「金太郎さん、いいかげん景気つけてよ」
「はい、ヘロヘロ球を打ってきます」
 大歓声の中、緊張して打席に立つ。森下コーチと水原監督のパンパン。ライトの蒲鉾屋根の彼方を見やる。コースはわからないが、かならずスライダーを曲げてくる。バットに乗せやすい。
「ヘイヘイヘイ、今度は遠慮なく一発!」
 初球外角高目遠く外れるストレート、ボール。勢いのないボールがお辞儀をするのがはっきり見えた。
「キンタマ縮み上がってるヨー!」
 二球目、内角低目のスライダー。外し球のつもりだろうが、私には絶好球だ。腰を入れ、ゴルフスイングで弾き返す。フラッシュがパチパチ光る。江藤が、
「いったばい!」
 と怒鳴る。森下コーチがバンザイをしながら跳びはねる。三塁側スタンドが大歓声とともに立ち上がった。打球は瞬く間に右中間照明塔の左脇を通過していった。球場全体のどよめき。森下コーチと両手ハイタッチ。ベンチ全員、私が二塁を回らないうちにホームベース前に集合する。119米と書かれたフェンスの上で、後楽園より幅広の噴水が低く上がる。三塁ベースを回って止まり、水原監督と抱擁。どの観客もこの図が見たかったらしく、大喝采になる。尻ポーンでホームへ。握手、握手、小川の抱擁。ヘルメットを取って三塁スタンドの見えない二人の男に掲げる。嵐のような歓声。五対ゼロ。
 木俣がビュン、ビュンとバットを振り回しながら打席に入る。ゆるいボールにタイミングが合わず、三球三振。和んだ笑い声が上がる。菱川ショートライナー。
 七回裏。ウインディ三振。岡村、三遊間深いところへ内野安打。懸命に一塁へ駆けこむ姿に胸を打たれた。石井晶の代打アグリー、ワンスリーからきわどい内角球を選んでフォアボール。小川のストレートの勢いが少し落ちたように感じる。木俣が心配そうに立ち上がったが、マウンドにはいかなかった。大石の代打に矢野が出た。噂どおりブンブン振り回すだけで三振。ツーアウト一、二塁。ここから小川が崩れるとは思わなかった。
 この日ノーヒットの山口が、初球を打って左中間を抜いた。二塁打。岡村三塁を蹴ってホームイン、大きなアグリーは三塁へ。ツーアウト二、三塁。つづく阪本が三塁ベースをかすめる二塁打を放った。アグリー生還、アグリーに次いで山口突入。私は鏃の後方のアンツーカーへ走りながら逆シングルで捕球し、懸命にバックホームしたが、間一髪セーフ。ツーアウト二塁。西宮球場の歓声が銀傘にグワンワンとこだまする。五対三。小川の言ったとおりになった。
 水原監督が出てきて、小川と少し話をし、投手交代になる。
「中日ドラゴンズのピッチャー小川に代わりまして、星野、ピッチャー星野秀孝、背番号20」
 レフトラッキーゾーンのポール横から、半球形のリリーフカーに乗って星野がやってくる。きょう太田がバスの中で、半球は阪急のシャレだそうですと言っていた。星野は三塁ベンチ脇のアンツーカーで下ろされ、マウンドまで小走りにいく。小川からボールを受け取り、肩を叩かれる。いつものゆったりとしたピッチング練習。きょうもボールに伸びがある。
 バッター三番森本。ピンチヒッターに島谷が出る。背番号8をつけている。一瞬スタンドが沸いた。ツースリーからの内角ストレートを私の前へヒット。なぜか心底ホッとした。投球と同時に走り出していた阪本がホームイン。五対四。私が三塁へ速い球を送球するのを見た島谷は、バックホームと誤解してそのまま二塁へ走った。菱川は胸前で私のボールを受けるや否や一枝へ転送した。島谷タッチアウト。
 星野はベンチに戻ると、
「すみません! 小川さんの勝利投手の権利は消しません」
 と一礼した。
「気を使うな。あのまま投げてたら、俺は一点どころじゃすまなかった。逆転されて負け投手になってたよ。逆転されてもいいぞ。それでもおまえは勝利投手だ。この回、大量点が入るからな」
 いつもの慰め方だ。テープレコーダーを聞いているようだ。
「ありがとうございます!」
 菱川が、
「神無月さん、あんなトリックプレー、いままでやったことなかったですよね。もう少しボールが高かったら、俺、しゃがんじゃうところでしたよ。真っすぐ胸にきたんでわかりましたけど」
「ランナー残したくなかったから、一か八かでやってみました」
 木俣が、
「すごかったぜ。菱が外したらワンバンで俺のところにきてたけど、二塁は間に合わなかったもんな。二塁に返球したら島谷は走らなかったし、アウトを取るにはあれしかないというプレーだった。とにかくすごい」 
 八回表、西本監督の〈趣味〉で大石から速球派の水谷孝に交代。とにかく交代の好きな監督だ。目先を変えることを作戦だと思っている。
 水谷とは初めての対戦だ。二十一歳、おととしのドラ一、オーバースロー、百五十キロ近い速球。ピッチング練習を見たところでは打ちやすそうだ。四時を回ったが、曇り空のせいで、一塁スタンドの照明塔の影がマウンドとホームベースのあいだに落ちてくることはない。ついている。打順は太田から。初球、また大ファールをかっ飛ばして、必要以上に警戒され、フォアボールで出された。きょうはヒットこそないけれどもある意味大活躍だ。八番一枝。江夏に三振記録を作られたとは言え、速球にはめっぽう強い。初球のストライクカーブを見逃して、二球目の速球をひっぱたいた。
「よォォォし!」
 ベンチがいっせいに声を上げる。あっという間にラッキーゾーンを越えてレフトスタンドへ突き刺さった。ツーランホームラン。噴水。七対四。ドラゴンズベンチが沸き立つ。つづく星野ライト前ヒット。中、みごとな流し打ちでレフト前ヒット。当たり屋高木がセンター前ヒット。水原監督がグルグル腕を回すのを見ながら星野生還。八対四。
「それそれェ、もっといけ!」
 ノーアウト一、二塁。江藤、試合前のバッティング練習が実って、ついにライト前ヒット。あしたから爆発だ。中生還。九対四。ノーアウト。一、三塁。西本監督がベンチの片隅に立ち、何ごとが起こったのかという情けない顔をしている。ドラゴンズの怒涛の攻撃を目の当たりにして驚かない野球人はいない。
 私は初球アウトコース高目の速球を、左中間の蒲鉾屋根の柱に打ち当てた。フラッシュの嵐。たるんだ噴水はもう目に入らない。十二対四。コーチ、監督、仲間たち全員とタッチですませる。流れを途切らせたくない。木俣セカンド強襲ヒット。菱川三振。打者一巡して、太田レフトフライ。中の代打江島ショートゴロ。八点差ならばよしとしよう。



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