四

 八回裏。長池、速球に詰まってショートフライ。大熊、速球に詰まって私へのフライ。ウインディ、私の前へ詰まったヒット。星野は緊張して八点差あることを忘れ、岡村にフォアボールを与えた。代走に福本が出る。初めてお目にかかる。足が速い選手だと聞いている。ストッキングが丸見えになるようにユニフォームの裾を捲っているのがめずらしい。八点差のツーアウトから走ってくるはずもない。これも謎の作戦だ。アグリー、振り遅れて私へのフライ。
 九回表。水谷孝から戸田善紀に交代。聞いたことのある名前だがどうでもいい。高木センター前ヒット。六の五。大当たりだ。江藤の代打千原、セカンドゴロゲッツー。私、レフトフライ。
 九回裏。戸田の代打八田、私の前へ流し打って、ラインドライブのヒット。八田? 名前に聞き覚えがある。あの小さなからだも見覚えがある。大毎オリオンズ、ミサイル打線―田宮、榎本、山内、葛城、柳田、矢頭……そして八田……。一番打者、セカンド、右投げ左打ち、まちがいない。八田正だ! バットを短く持ってシュアに振り抜き、けっこう打率もよく、ときどきホームランも打っていた。もう何歳になるのだろう。背番号24か。たしか背番号1だったはずだ。ここにも忘れがたい選手が生き延びていた。
 一番打者に戻った。しかしすごいものだ。星野も三振が取れない。日本シリーズであることをあらためて思い知る。山口、私へのフライ。阪本ファーストゴロ。島谷センター前ヒット。あ、また気を抜いた。次は長池だぞ。ホームランを打たれてもいい。ぜんぶ渾身のストレートでいけ。初球、真ん中高目のストレート、空振り。そうだ、それだ。二球目、ど真ん中ストレート。ピッチャーゴロ。星野一塁へスナップスロー。終わった。四時四十九分。三時間四十九分の長い試合だった。
 フラッシュが連続で光る。木俣が駆け寄り、星野と握手。私たちも駆け寄り、一人ひとり星野とタッチしてベンチへ戻る。星野は歩み寄った水原監督と固い握手、小川と腕を回し合って抱擁する。全員報道陣に囲まれる。インタビューは水原監督のみ。選手たちはロッカールームに引き揚げる。半田コーチのバヤリースの差し入れをみんなで飲む。宇野ヘッドコーチのひとこと。
「初戦勝利、おめでとう! あしたも決めて、中日球場で優勝だよ!」
「オース!」
 球場の駐車場に黒山の人だかりだ。テレビ局のマイクが何本も突き出される。
「初戦勝利おめでとうございます。無事に試合を終えたご感想は?」
 小川が、
「また秀孝に助けられちゃったよ」
 星野が、
「背広を着て野球をやった感じです。一戦一戦慣れていくと思います」
 バスへ駆けこむ。江藤が、
「あしたから打つばい。見よってや」
「俺は打たないよ。二日分打っちゃったから」
 と高木。一枝が、
「あんな格好いいホームラン打ったことがないよ。レフト中段一直線だぜ。自分でも驚いたね」
 水原監督は、
「きょうは柱のヨネカジを立ててこなかったでしょう。あした柱を打ち倒したら、そのままドドッといくかもしれないね」
 マイクを振り切ってどやどやとバスに乗った。隣の太田に、
「八田というピンチヒッター、なつかしかったなあ」
「俺も憶えてました。いいヒット打ちましたね」
 水原監督が、
「八田正だね。ミサイル打線の中で渋い役どころだった。東映の監督時代、いいところでよく打たれた」
 バスに揺られながら、あしたもまたなつかしい選手に遇えるかもしれないと胸がときめいた。
         †
 芦屋竹園の宴会場に全員集まった。みんなワイシャツ姿かジャージ姿だった。水原監督が立ち上がり、
「初戦をつつがなく勝利して、第二戦以降への弾みがつきました。いつものとおり打線の爆発で勝ってくれたことがうれしい。小川くんと星野くんがよく投げてくれた。たまたまだろうが、星野くんは打たせて取るピッチングができたせいで、大いに投球術の幅が広がったように見受けられる。小川くんと二人でたった三振四個だよ。パリーグの打撃力がいかに高いかの証拠だ。無理に力でねじ伏せようとしてもシッペ返しを喰らう。第一戦の阪急は長池がネックになった。一本柱に頼ると、ああいう結果になる。しかしあれは本来の長池じゃない。もっともっと打ってくる。軽く見ずに、徹底して抑えてください。あしたはたぶんヨネカジだ。米田は投球間隔が短く、梶本は長い。焦らず、イラつかず、自分のバッティングをすること。きょうはファインプレーが一つ出た。金太郎さんと菱川くんの連繋で島谷くんを刺したことだ。神経を張っていた証拠です。島谷くんの二打数二安打は、ある意味うれしいできごとだったね。とにかく阪急はねちっこい。油断するとつけこまれる。第二戦以降も、気を抜いたウッカリミスをしないように、緊張した姿勢で臨んでください」
「オッケー!」
「ヨッシャー!」
 長谷川コーチが、
「あしたは小野さんと、久敏。小野さん、肩は?」
「たっぷり休ませてもらったおかげで万全です。打たせて取りますよ。できれば完投して、伊藤くんを温存するようにがんばります」
「よろしく」
 太田ピッチングコーチが、
「第三戦は水谷寿伸と門岡、第四戦は水谷則博と土屋と若生を予定している。五戦以降は状況しだいだ。しかし、つねに健太郎と秀孝は控えているように」
「オス!」
 賑やかな会食になった。給仕をする仲居たちの中にハツの姿を見かけたが、視線を交わすことはしなかった。ハツも近づいてこなかった。まじめな顔をしていた。
 みんな早めに引き揚げ、あしたに備えた。シャワーを浴びて出ると、フロントから電話が入っておりますと連絡があった。
「どうぞお話しください」
「あ、神無月さん、ワシです、北村です。まず、初戦勝ちおめでとうございます」
「ありがとうございます。車で帰る途中ですか?」
「いや、応援でくたくたになりましたんで、一泊することにしたんですわ。運転は疲れますからな」
「それがいいですよ。安全第一です。今回も、やっこ旅館ですか」
「そうです、甲子園のオールスターのときのね。いやあ、ファンの質のいい球場で安心しました。ライト場外の一直線のホームラン、目にしっかり残りました。西宮であそこをこえたのは初めてだそうです。あしたも度肝を抜くようなホームランを打ってください」
「がんばります」
 菅野に代わった。
「神無月さん、ありがとう! またいい夢を見させてもらいました。あしたの午前、機嫌よく名神を飛ばして帰ります」
「スピード出しすぎないようにね」
「ぬかりはないです。そうだ、米田は足か腰の調子が悪くて、登板予定に入ってないそうです。夕刊に載ってました」
「江夏のいない阪神みたいなものですね。気の毒だけど、ドラゴンズの優勝ですね」
「まちがいないです。や、遅い時間にすみませんでした。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
「あしたテレビに間に合うように帰りますよ!」
 という主人の大声が聞こえた。
         †
 十月二十七日月曜日。八時間睡眠、七時起床。朝の気温が十五度を切った。カーテンを開けると、真青な空。ひさしぶりにふつうの排便、シャワー、歯磨き、洗髪。三種の神器と倒立腕立て十回。健康そのもの。ロビーに降りて、神戸新聞。見出しは、

 
連発! 神無月が止まらない
  二打席連続本塁打 日本シリーズ新記録


 内容は読まなくてもわかるから読まない。
 江藤、小野、中、小川と同席して、レストラン『あしや竹園』でハンバーグライス、味噌汁、香の物。店内にヒデとロザンナの愛の奇跡が小さく流れている。これは音楽ではない。
「米田は肩をやられたんですか」
 小野が、
「私たちのような並のピッチャーとちがって、大投手は肩をやられない。特別仕立てだから。たぶん肘だね。その肘も何カ月かで回復してしまう。米田は高校時代にも一時期肘をやられたみたいだけど、すぐ治った。いま十何年ぶりかでまた痛くなったんだろう。投げたくてウズウズしてるだろうな。まあ仕方ないね」
「無理のない理想的なフォームをしてます。クルッと弧を描くように肩が回る。小野さんも堀内もそうです。江夏のような、弓を引き絞るようなワインドアップから腕を叩きつける投手って、なかなかいないものですね。いずれ無理が祟りそうな気がする」
 小川が、
「金田のワインドアップもめずらしいぞ。江夏よりも引き絞りが大きい。弧を描く回転であれ、弓弦(ゆづる)を引き絞る叩きつけであれ、要は効率的な腕の振りだからな。秀孝は回転じゃない。引き絞り。ワインドアップは静かだけど、引き絞りも腕の振りも超一級品だ。球も江夏より速い」
「小川さんは、引き絞り、速射ですね」
「無手勝流。自分がどんな投げ方をしてるのかわからん。アハハハ」
「……こういう楽しい会話に参加できない選手はかわいそうですね。せっかくプロ野球選手になったのに」
 江藤が、
「プロに同情は禁物たい。才能のないことが原因のどんな問題も、結局自分で打開せんばいかん。九割以上のプロ野球選手は、才能がほんのちょびっとしかなか。プロ球団はそのちょびっとを買い付けて、大物になる可能性に期待する。そこを期待どおり大物になってのし上がってくるには、相当の根性と努力が必要たい。だれも助けてくれん。菱とタコと秀孝はもともと一割のほうやった。めでたか」
「九割からのし上がった選手なんかいるんですか」
「……おらん。せいぜい、控えで活躍するくらいやな。ばってん、一割の中におっても、衰えたら九割の仲間入りたい。潔う身を引かんば」
 吉沢さんを思い浮かべた。
「吉沢さんは……」
「十月二十二日付けで現役から退いた。もう中日ドラゴンズには選手として帯同せん。山中、金、松本、佐々木、堀込もおらんようになる。金は、たった二年のプロ野球生活やった。さびしかばってんが、しょうのなかことばい」
 中が、
「彼らが達成できなかった分、私たちは華々しく野球生活を送らなくちゃね。それが私たちの使命だ。じゃなきゃ、彼らのあこがれが幻だったことになる。後進の意欲にも影響を与えるからね」
「はい」 
 きのうと同様、十時半に出発。空がどこまでも高く、アスファルトの照り返しがまぶしい。
「あしたは移動日か。中日球場の連投はないから、きょうは思い切りいこう」
 小野が言う。伊藤久敏が、
「調子が悪くなったら、遠慮しないで言ってください。俺たち、総力戦でいきますから」
「ありがとう。いけるうちはいくよ」


         五

 満員! 驚いた。ビッシリ観客席が埋まっている。きょうも少し風があり、スコアボードの旗が球場の外へゆるくたなびいている。ベンチの気温は十五・五度。
 代わりばえのしない敵チームの練習を眺め、時間がくると彼らと交代して練習にとりかかる。ふだんの試合と変わらない。ポール間ダッシュを一往復。そのあと、ダンベルを持ってフェンス沿いをゆっくり一周。自分が発見した練習方法だけに楽しい。スタンドから声がかかる。ダンベルを掲げる。歓声が帰ってくる。満員のスタンドも見慣れると大してときめかない。感謝だけがある。命の継続に対するときめきのない感謝。
 バッティング練習をしていたとき、ケージの後ろから浅井慎平に挨拶される。
「やあ、おひさしぶり」
「きのうからきてます。神無月郷の日本シリーズ、という写真集を作るつもりです。ベストセラーになると思います。そのときは謝礼金をお支払いします」
 監督コーチ連が苦い顔をした。
「いりません。がんばってください。先日は、いい写真をありがとうございました。ご主人が家じゅうに飾ってます」
「蒲原さんの、地上の天馬、すごい売れゆきです。一冊もらいましたか?」
「いいえ。ぼくがそういうものを喜ばないことを知っているんでしょう」
 ピッチャーに向き直って、バットを構えた。
 きょうもビフカツ。仲間たちはめしのあとかならずうまそうに一服吹かす。自分の経験からすると、煙草はうまいものとは思えない。受験勉強をしていたころ煙草を吸っていたことがあったが、頭痛に悩まされた。王や長嶋も喫煙するという。私は血管が粗悪にできているのかもしれない。酒もうまいと思えないが、頭痛がないので、適度に飲んで愉快な雰囲気に溶けこむことはできる。人の半分も飲むとグラグラするのは、やはり心臓と血管が粗悪なせいだろう。高度な思索をするためには、体調を不全にしなければいけないと考えたこともあった。いまでもその考えは変わらないが、野球はちがう。粗悪な循環器をなるべく正常に保たなければならない。
 勝ったり負けたりがない。勝ったり、勝ったり。仲間や水原監督のためにと考えを切り替えなければ、こんな日常には耐えられない。これで、立派な人びとの向上欲に感動できなくなったら、私は一巻の終わりだ。
 スターティングメンバー発表。わが軍は昨日どおり。阪急ブレーブスは、一番セカンド山口、二番ショート阪本、三番サード森本、四番ライト長池、五番センター大熊、六番レフト矢野、七番ファースト石井晶、八番キャッチャー岡村、九番ピッチャー足立。ウインディと矢野を入れ替えてきた。
 足立はきのう四回、五回の二イニング投げているが、連投というほどではない。足立からはきのうサードゴロを打っている。サイドスローが美しくないピッチャー。球威はないが、シンカーがえげつなく落ちる。主審筒井、一塁久喜、二塁竹元、三塁道仏、レフト富澤、ライト沖。
 一時三分。プレイボール。応援合戦はなく、内外野スタンドひとしなみのざわめき。足立の初球、地を這うように投じられたスピードボールを中は自信を持って見逃した。ストライク。こんなに速い球も持っているのか。たった一球で一塁側スタンドが盛り上がる。中が待っているボールがわかった。足立の得意球を打って切りこもうとしている。きょうは短打攻勢だという気持ちがナインの胸にしっかり固まった。二球目、中はシンカーが外角に浮き上がって落ちようとするところを叩いて、レフト線へ痛烈な二塁打を放った。三塁側スタンドが上品にドンチャンとなる。きょうも始まった。
 高木、初球を軽いスイングでセカンドゴロ。中三塁へ。犠打を打とうとする高木の心構えがベンチに浸透する。大量点のにおいはしない。
 江藤、ツーナッシングから外角カーブをジャストミートしてセンター前ヒット。まず一点。私もつづかなければならない。まだ水原監督の進軍ラッパは鳴らない。歓声と金太郎コール。
 初球、外角のシンカーを叩き損ねて高く上がる三塁ファールフライ。ランナーを溜めようと軽く振ったのがまずかった。鏃型のフェンスまで追いかけた森本が、グローブを突き出したが捕球できず。一塁側スタンドの嘆きの声。三塁側スタンドは安堵のため息。助かった。思い切り振ろう。
「ヨー!」
「ホ!」
「それ、一発!」
 水原監督パンパンの進軍ラッパ。二球目、外角をえぐるカーブ。ストライク。水原監督のパンパンパン。ボックスのいちばん前でクローズドスタンスをとる。三球目、地面すれすれに振られた腕からボールがピッと上方へ弾き出される。地面に水平に弾き出されればストレートかシュート、上に弾き出されればカーブかシンカーだ。三球目、ボールが上に弾き出された。内角に向かってきた。私は素早くクローズドを平行スタンスに戻した。胸に近づいたボールがフッと真ん中へ逸れようとするところを強打。よし、乗せた! ドッと上がる歓声。森下コーチと江藤がライト上段に向かってバンザイをする。黒っぽい建築資材が縞模様に並んだ斜面をこするように弾んで、場外へ消えた。森下コーチとタッチ。手を拍ちながら走る江藤を追う。甲子園に勝るとも劣らない歓声。水原監督と抱擁。
「お化けホームランだ。お客さん、びっくりしてるよ」
 中継アナウンサーの声が聞こえてくる。
「……いまだに見たこともない、西宮球場の特大ホームランです!」
 江藤とガッチリ抱き合う。
「チョンとヒットなんか打とうとしたらいけんぞ。ガッカリするけんな」
「はい!」
 勢揃いしたベンチメンバーとタッチしながら走り抜ける。バヤリースをひさしぶりに一気飲み。三対ゼロ。木俣、シンカーを狙い打って三遊間ヒット。菱川、外角カーブを打ってセカンドゴロゲッツー。
 一回裏。山口三振。小野のボールが好調時のように走っている。真上から地面に向かってクルリと円を描くような腕の振りが美しい。二番阪本センター前ヒット。ネチネチとくる。森本、私へのフライ。長池センターフライ。打球が中のグローブに落ちてくる背景のオレンジ色のスコアボードが目に映える。異様に文字が小さいのに気づく。
 二回表。太田、外角カーブを打ってセカンドフライ。一枝、シンカーの上をこすってショートゴロ。バッティングのいい小野、ライトライナー。
 二回裏。大熊、私の前へヒット。矢野、私へのフライ。石井晶、外角低目のストレートをうまく掬い上げて、ライトラッキーゾーンへツーランホームラン。岡村、私の前へワンバウンドのヒット。足立、セカンドゴロゲッツー。三対二。
 三回表。中、セカンドベースぎわへ内野安打。高木、三塁ベースに当たって跳ね上がる内野安打。江藤痛烈なファーストゴロ、3―4―3のダブルプレー。三塁に中が残る。ツーアウト三塁。ドーッと大歓声が上がる。入り乱れる中継放送の声、金太郎コール、鉦太鼓、拍手。
 初球、外角低めストレート、ボール。二球目真ん中低目カーブ、ボール。三球目、外角シュート、ストライク。四球目、内角膝下のストレート、クソボールを掬い上げる。これも乗せた。高く舞い上がってライトスタンド上段に落ちる。歓声のこだま。五対二。木俣内角高目のストレートを振って三振。
 三回裏。山口セカンドフライ。阪本、私へのフライ。森本サードゴロ。小野のピッチングがリズムに乗った。ストレートの力が落ちない。阪急は小休止になる。きのう以上の大差勝ちの気配がしてきた。
 四回表。足立続投。菱川、高目の内角ストレートを狙い打って、サード森本の頭を越える左翼線二塁打。太田、同じ内角ストレートに詰まってショートフライ。一枝ピッチャーゴロ。小野三振。ドラゴンズも小休止。
 四回裏。長池、スカを食ったサードゴロ、菱川捕球せずボールの行方を追うが、ライン上で止まる。一塁スタンドのものすごい歓声。大熊センターフライ。矢野、ぶん回してショートゴロゲッツー。
 五回表。矢野に代わってレフトの守備に正垣がついた。懐かしい感じがする名前だ。さっそく太田に訊く。
「おととしのドラ四。熊本工業出身、二十四歳。百六十八センチ、七十二キロ。中さんと同じ身長体重です。中さんほどホームランは打ちません。今年の春一軍に上がったばかりです。チャンスに強いのでもっぱら右の代打で起用されてます」
「左の代打は初日の当て馬の当銀だね」
「はい」
 正垣はなつかしい人ではなく、新人だったと知る。
 一番中、グンと胸もとへ伸びてくるストレートに振り遅れてサードゴロ。高木、フォアボール。江藤、シュート気味の内角ストレートに振り遅れてショートゴロゲッツー。小休止続行。
 五回裏。石井晶ピッチャーゴロ。岡村フォアボール。一塁側スタンドのあきらめたような喧騒。チャンス到来と思っていないようだ。足立の代打アグリー、私へのフライ。山口ショートフライ。あきらめればあきらめたようにものごとは展開する。
 六回表。私からの打順。ピッチャー足立からサウスポーの梶本に交代。完璧なスリークォーター。キャッチボールのようにひょいひょい投げてくる。脱力フォームだが、米田と同様リリース直前に肘がしなる。三十四歳のストレートが速い。バッターボックスに入り、スコアボードの旗を見る。センター方向へ強くたなびいている。かなりの順風なので、風に乗せれば中段から上に運べるだろう。
 梶本は仏像のような視線でキャッチャーを見て、首の後ろを抱えるようなセットポジションから、初球、シュッ、外角低目ストレート、ストライク。これはタイミングをとりづらい。小川のような〈ちぎっては投げ〉ではなく、投球間隔はかなり長い。オープン戦で彼から打ったホームランはどんなボールだったろう。忘れた。一からやり直しだ。手もとだけ見つめよう。なかなか投げない。これと〈シュッ〉には苦労しそうだ。指先の球離れだけに集中しよう。二球目、シュッ、内角低目ストレート、一塁横へするどい当たりのファール。内角高目にシュートがきたら逃げ切れずに当たってしまうかもしれない。そんなことを考えたら腰が引ける。三球目、シュッ、外角高目カーブ、ボール。また長い投球間隔に入った。岡村が立ち上がり、無言のまま腰を下す。何か予感がするのだ。四球目、強い腕の振りでシュッ。外角のスピードボールがわずかにシュートしてベースの角に入ってくる。クロスに踏みこみ、左手首を捩じこむ。
「アチャー!」
 岡村が叫んだ。森下コーチがスコアボードに向かってこぶしを突き出している。追い風に押されセンターバックスクリーンの黒い階段斜面に向かって一直線に飛んでいき、スコアボードの下端に当たった。四囲のスタンドから合唱のような歓声が沸き上がる。観客は喜びの頂点では敵も味方もなくなる。森下コーチと水原監督をタッチで駆け抜ける。真っ昼間のフラッシュの連発。あの中には浅井慎平もいるだろう。六対二。半田コーチのバヤリースを断り、ロッカールームの洗面所へいって顔を洗う。スパイクの紐を締め直し、ストッキングを整える。素振り部屋で千原と伊藤竜彦がバットを振っている。千原が、
「三本連続ですか。シリーズ記録更新ですね」
「はい」
「タコが当たってないので、出番がありそうだ」
 竜彦が言う。ウオーと歓声が聞こえてくる。木俣が打ったようだ。
「よし、いくぞ」
 竜彦が私の前に立ってベンチに向かう。木俣が一塁ベース上に立っていた。私は顔を乾いたタオルで拭いながら江藤に、
「三遊間ですか」
「ようわかるな。ビッグイニング!」
 半田コーチのまねをする。菱川フォアボール。水原監督が三塁コーチャーズボックスから主審沖のそばへ歩いていく。
「中日ドラゴンズ、太田に代わりまして、伊藤竜彦、バッター伊藤竜彦、背番号7」
 太田がサバサバした顔で、
「伊藤さん、よろしくお願いします!」
 と頭を下げた。去年十本のホームランを打っている伊藤は、
「オウ」
 と鷹揚にうなずいた。初球の内角ストレートを強振してレフト前ヒット。初球を振ると決めていたようだ。ノーアウト一、二塁。太田が、
「さすが、いざというときのベテランだなあ」
 高木が、
「何言ってんだ。んなことほざいてると、次の試合も出してもらえないぞ。もっと口惜しがれ」
「はい。チクショウ!」
 ベンチが大笑いになる。一枝、ツーナッシングからライト前ヒット。木俣、慎重を期して三塁ストップ。ライトの長池はピッチャー出身で、大学から外野に転向した強肩だ。ノーアウトフルベース。苦虫を噛み潰したような顔で西本監督が出てきた。
「阪急ブレーブス、梶本に代わりまして、石井、ピッチャー石井茂雄、背番号20」
 これまた連投の石井だ。水原監督が動く。
「中日ドラゴンズ、小野に代わりまして千原、バッター千原、背番号43」
 伊藤竜彦とちがって千原は打ち急がずにじっくりと待つタイプだ。フルカウントからのシゲボールを右中間へ打ち返した。走者一掃の二塁打。太田が盛んに拍手する。九対二。まだまだいけそうだ。中、情け容赦なくセンター前ヒット。千原還って十対二。
「ええかげんにせいよ!」
「おちょくっとんのかー!」
 ネット裏から怒声が飛ぶ。静かな阪急ファンが怒っている。一塁側スタンドが騒然となった。知ったことではなく、水原監督のパンパンパン。高木の初球、中、ほんとうにひさしぶりの盗塁。もちろん成功。岡村がミットで腿を叩いて口惜しがる。


         六 

「もうやめてくれー!」
 スタンドの悲痛な叫び。高木押っつけてライトフライ。中タッチアップして三塁へ。江藤、セカンド後方のフライ。まるで阪急ファンを宥(なだ)めるようだ。ツーアウト、三塁。駆け戻ってきた江藤が、
「石井からホームラン打っとらんやろう。打っとけ。あとは米田だけになる」
「はい」
 打者一巡。はい、と答えはしたが、マトモな勝負にはこないだろう。案の定、初球、岡村が立ちあがり、外角高目に遠く外すストレート。三塁スタンドからはさすがに不満のブーイングは上がらず、やっぱりという溜息が洩れる。二球目、三球目と同じコース。ノースリー。四球目、同じコース。ん? ほんのボール一つ内へ入った! マサカリ! まるで袈裟懸けのように斬り下ろす。快適な手応え。ボールはバットに当たりさえすれば飛んでいく。ほとんどのバッターが忘れている真理だ。ギュンと白球がセンターへ上昇し、バックスクリーンの黒階段の右で弾んだ。
「ウアァァァ―」
「ヒャァァ!」
 球場にこだまする驚嘆の叫び声。森下コーチとタッチ。水原監督と抱擁。
「技あり、一本!」
「マグレです」
「アハハハ」
 江藤と抱擁。静かに全員と握手。だれもかれも罪の意識さえ芽生えて、これ以上はしゃぐのを遠慮している。十二対二。木俣三振。チェンジ。水原監督がベンチへ走ってきて、
「木俣くん、あんなへろへろボールを三振して、いいことしてあげたとでも思ってるんですか! 日本シリーズなんだよ。もっと派手にやっていいんです。うちが強いことは罪じゃない。お客さんといっしょに騒ぎなさい。好きなだけ点を取ろう!」
「オス! すみません!」
 一瞬にして全員の気持ちが引き締まった。 
 六回裏。左腕の本格派伊藤久敏がマウンドに上がる。小野より少し速く、重い。パリーグの打者にとっては打ちごろかもしれない。阪本、ツーツーから内角高目の速球をレフトスタンド中段へホームラン。背の低い噴水が幅広く何条も上がる。三塁側のファンが旗を波打たせて喜んでいる。十二対三。森本フォアボール。代走に島谷が出る。長池登場。
「ええかげん一本いけよォ!」
「四番やろが! 試合放棄せんと名古屋へ乗りこむゆう気持ちを見せたらんか!」
「ここでがんばらんと、中日球場いったらあかんぞォ!」
 ファンの檄が最高潮に達する。長池は懸命にファールで粘ったが、五球目の外角シュートを打って、セカンドゴロゲッツー。深い落胆のどよめき。この二戦、長池がネックになっている。グッスリ眠っている。ここまで眠りこんでいると、中日球場では要警戒バッターになる。大熊、ホッとした伊藤の初球を叩いてライトオーバーの二塁打。と思いきや、当たりがよすぎてシングルヒット。伊藤竜彦の返球の速さにスタンドが沸いた。正垣ライト前ヒット。ツーアウト一、二塁。当たっている石井晶、ノーツーからセンター前ヒット。大熊生還。十二対四。岡村ライトライナー。
 七回表。きょうの菱川は、ゲッツー、二塁打、フォアボール。そろそろだ。ひどく冷えてきた。廊下を走って小便をしにいく。男女別の瀟洒なトイレ。ユニフォームをしずくで濡らさないように大便用に入り、足首まで下ろして用を足す。しっかりズボンを穿き直す。走り戻ると、まだツーツーだった。
「さあ、菱、ダメ押しのダメ押し!」
「一号、打っとこう!」
 先頭打者なのでライト打ちは考えていない。引っ張り一本。シゲボールは逃げていくのでファールで払えばいい。五球目、シゲボールが逃げていかずに、ただのゆるい真ん中低目のシュートになった。餌食。引っ張らずにセンターへ掬い上げた。ガシュ! という小気味よい音。とてつもない当たりだ。ベンチが一瞬息を呑んだ。森下コーチが、菱川とタッチするために構えるのも忘れて左中間の空を見やっている。菱川は照明灯の下の看板に打球が当たるのを確認して一塁ベースを回った。ベンチから彼の躍動する姿を見つめる私たちの顔に、涼しい風が当たる。みんなでベンチ前に並ぶ。はしゃがずにタッチ。半田コーチが、
「マーベラス! 菱川さん、今年最高のアタリね」
「ありがとす!」
「バヤリースは?」
「二本!」 
 爆笑。十三対四。七番伊藤竜彦。今度も初球を振って、レフトフライ。一枝、きょうは内野ゴロ二つとライト前ヒット。金属音。出たか二号! 左中間の深いフライ、あと一メートルだった。伊藤久敏、ツーナッシングから打ち上げて浅いセンターフライ。
 七回裏。風が強い。旗が目にうるさくはためいている。石井茂雄の代打八田、ピッチャーゴロ、山口ファーストライナー、阪本ショートゴロ。ファンも静かになった。
 八回表。戸田善紀登板。太田が、
「入団五年目で、ようやく今年一勝しました。甲子園の二十一奪三振は、いまも選抜大会の記録です。いずれ出てくるピッチャーだと思います」
「さあ、手を緩めないで!」
 水原監督の檄を励みに、追加点を取りにかかる。そういう気構えになると、逆にうまくいかないものだ。中ピッチャーゴロ、高木キャッチャーフライ。一枝や菱川が早々にグローブを持ち、守備につく準備をする。江藤レフトフライ。
 八回裏。たぶんこれで終わりの球場を目に焼きつける。わけてもオレンジ色のスコアボードを記憶する。三本の旗、時計塔、手動の得点板と選手名板。島谷平凡な当たりのサードゴロ。そうそう連日ヒットは打てないものだ。長池がようやくまともな当たりのセンター前ヒットを放つも、大熊セカンドゴロゲッツー。
 九回表。三時四十分。西日のせいで一塁側の照明塔の黒い影がマウンドの前方にくっきり落ちてきた。たしかにボールが見にくい。私サードライナー、木俣センターフライ、菱川ショートゴロ。戸田善紀からはきのうきょうと二打席とも凡打に終わった。
 九回裏。正垣三遊間ヒット。石井晶フォアボール。もう一波乱あるかと思ったが、岡村センターフライ、戸田の代打岡田三振、山口ショートゴロでゲームセット。
 四打席連続ホームラン、七打点の私がインタビューを受けることになった。
「日本シリーズ一試合三本以上、三打席連続以上、シリーズ五本以上、いずれも昨日打ち立てた自己記録を更新する新記録でございます。しかも二試合目にしてです」
「野球神の憑依がまだつづいています。このシリーズが〆でしょう。来季、二月のキャンプから心新たに再出発です」
「あと二勝ですね。あさってから中日球場です」
「はい。ホッとして連敗しないように、毎試合取れるだけ点を取ります。西宮に戻ってきたら、水原監督の胴上げが確実と言えなくなりますから」
 水原監督がベンチから出てきて、あとをつないでくれた。
「二連勝、三連勝から、四連敗というのはあたりまえに起こることですから、一瞬でも気を抜けません。あさって以降もメガトンでいきますよ」
         †
 二連勝の祝勝を兼ねた夕食会で、程度の差こそあれ、ほとんど全員がアルコールを入れたが、私は自重した。少しでも浮ついた気持ちになると、正真な意欲に傷がつくと思ったからだ。水原監督が言った。
「小川くん、小野くんと、二本柱で順当な連勝ができました。日本シリーズに優勝した場合、ビールかけをやらないことはすでに伝えたね。来年からも同様です。ビールかけはリーグ優勝の場合だけ行なう。日本シリーズ終了後に極端にあわただしくなるスケジュールを遺漏なくこなすために、できるだけ体力を消耗させる行事を催さないようにというフロントの方針が打ち出されたからです。もちろんチーム親睦を図る納会コンパは行ないますが、企業、マスコミ、芸能界との寄り合い、パーティ、テレビ出演等は極力避けて、自主トレと家族サービスに励んでください」
「よか、よか!」
「大賛成!」
          †
 十月二十八日火曜日。上天気。昼間の十二時半、北村席に帰り着く。一家が食事中だった。カズちゃんたちはアイリスで賄いめしのようだ。
「二連勝、おめでとうございます!」
 みんなが座敷に額づく。
「気兼ねしないで、食事をつづけてください」
 ソテツやイネに服を剥がされ、浴衣を着せられる。
「ありがとう。中日球場で優勝を決められそうです」
 拍手。千鶴がいれたコーヒーを一杯飲んでから、風呂に入る。トモヨさんが背中を流しにきた。
 風呂から二人サッパリして上がると、主人と菅野がコーヒーをすすりながら、新聞を覗き合っている。
「シリーズそっちのけで、黒い霧やがね」
 私もあぐらをかいて覗きこむ。千鶴がコーヒーを持ってくる。すっかり賄いが板についている。ため息が出るほど美しい横顔だ。

 西鉄ライオンズの永易投手は、コミッショナー委員会(宮沢俊義・金子鋭・中松潤之助)の裁定により、日本プロ野球初の永久追放処分を受けることになった。なお永易投手は事件表面化以来姿をくらましており、西鉄ライオンズ球団およびコミッショナーの呼び出しにも応じなかった。本日二十八日、コミッショナー委員長も永易を永久追放とする厳罰処分を下すことになった。

 トモヨさんが、
「きのうの夜、オオシダナオさんというかたから電話がありました。福岡のバス会社のかただそうです。きょうの午前までが東京の出張研修の期間だったので、きょうの午後に名古屋に伺った足で小牧から飛行機で帰りたいとのことでした。福岡の《港》さんですね」
「うん。オープン戦のときに知り合ったバスガイドさん」
「和子お嬢さんも、これで九州オッケーねって笑いながら、とても喜んでました。一目惚れされたんですね」
「ちがうんじゃないかな。平和台のオープン戦のときに球場まで往復してくれたバスのガイドさんだった。東京の遠征のとき第3部12章の1、ホテルから散歩に出た道の途中で、集団研修にきていた彼女とバッタリ遇った。その勢いで自然とね。オールスター戦のときに逢ったのが二度目の逢瀬だった。年に一回出張研修があるそうだから、ついでに逢いたくなったんだと思う」
「ここの電話を知らせておいてよかったですね。郷くんに隠すつもりがなかったとわかります。北村で食事をしてから、帰ってもらえばいいわ」
「うん。あしたの試合は観ないで帰るんだね」
「そうでしょうね。でも、向こうでテレビでも観られますから」
「うん」
「じゃ、ちょっと早いですけど、直人を迎えにいってきます。菅野さん、いいですよ。少し歩かせようと思いますから」
「だめだめ、手を離れて道に飛び出したりしたら危ない」
 菅野も立ち上がった。ソテツがてんぷらきしめんを持ってきた。
「おやつでどうぞ」
         †
 則武に帰り、机に落ち着いて牛巻坂を四時過ぎまで書く。名古屋にきてから出会った一人ひとりの人間をじっくり描く。季節のことは書かない。四季の移り変わりというものが好きではない。好きなのは季節ごとの花だけだ。とりわけ、春のアカシア。黄色い花が滝のように咲く。一枚目に戻ってエピグラフを書いた。

  思い出の窓から光があふれますように
  そしていつまでも目に残りますように


 北村席へ出かけていく。厨房の音。玄関にかわいらしいローヒール。菅野を含めて一家が全員いる。睦子が出てきて、
「千佳ちゃんと名古屋駅まで迎えにいってきました。大信田さんてきれいな人ですね。もうだいぶお話しました」
 座敷にいくと、主人夫婦とトモヨとカズちゃんたちが奈緒と親しげにしゃべり合っていた。直人はちゃっかり奈緒の膝に乗っている。女将はカンナを抱いていた。カズちゃんが私を見上げて、
「ドラマチックな出会いだったみたいね」
「そのうち話そうと思ってた」
「いつも言ってるとおり、話す必要なんかないわ。奈緒ちゃんは素ちゃんと同い年なのね。そして子供一人。トモヨさんは四十歳で子供二人。トモヨさんみたいな形でないと、子供は恋路(こいじ)の障害になると思うけど、根性で乗り切らないとね」
「はい」
「キョウちゃんと付き合うには、思いの強さが大切よ。じゃないと、奇妙な世界に入りこんじゃったように感じるかもしれない。たいがいの男は、女の心なんてものは存在しないと思ってる。女なんて自分に都合がいいことしか考えないご都合主義者だと思ってる。自分が女より上等な人間だと思ってる。キョウちゃんは天地がひっくり返ってもそう思わないの。女が自分の利益のために動くと思ってないの。愛のためだけに動くと思ってる。女ってほんとはそういう生きものなのよ。思いが強ければ、かならずキョウちゃんに幸せにしてもらえるわ」
「はい。これまでもじゅうぶん幸せにしていただきました」
 素子が、
「心がいつもそばにおれば、キョウちゃんもずっとそばにおるよ。ほかのことはおまけ。住んどる場所が離れとるのはたいへんやけど、がんばってな」
「はい」




日本シリーズその2へ進む


(目次へ戻る)