七

 奈緒は私をおぼろに見つめ、
「……神無月さんにとって、女とはどういうものですか。どんな答えでも受け入れます」
 睦子も千佳子も、素子もメイ子も百江も、ほかの女たちといっしょに私に注目し、菅野まで身を乗り出した。
「―家に帰ってゆっくりドアを開けたら、まるで引っ越してきてくれてたみたいに、部屋の中に田んぼや山や海や、川や野原が広がっていて、それがぼくのからだを通って、ドアの外へ飛び出しそうになる。閉じこめられていた広々としたものは広々とした世界へ飛び出していくのがあたりまえだからね。でも飛び出していかずに、ぼくのからだに流れこんでいっしょになるんだ。それがぼくにとっての女かな。都合がいいね」
 奈緒は思わず目を押さえた。女たちもみんな目を押さえた。主人夫婦も菅野も目を押さえた。奈緒が、
「神無月さんを愛していることを誇りに思います」
 直人の頭を撫でながら言った。睦子が、
「女は郷さんにとって具体物ではなく、神秘的な霊なんですね。……うれしい」
 カズちゃんが、
「きっとキョウちゃんは私たちのことをほんとにそう思ってるのよ。だから、神秘的な霊に人間らしい感情があることが不思議なのね。いつも女のことを不思議そうな目で眺めてるでしょう? 不思議を確かめるために、神秘的な霊と総ぐるみ命を共有することで生きていく力にしようとしてる。ほんとに、こんなにうれしいことはないわ。女も神秘的で気高くいつづけようって気持ちになれるもの」
 菅野が、
「無理にそんな気持ちにならなくても、女は神秘的で気高いですよ。私にそれを教えてくれたのは神無月さんです。北村の女の人たちを見る目はもちろん、女房を見る目も変わりました。女のすることはすべて自然で、神秘的で、気高いです。そういう気持ちの中で暮らしていると、人生、ほんとうに幸せですよ。疑い、嫉妬、体裁、出世欲、金銭欲、そういったものがぜんぶ消えてなくなります」
 奈緒が、
「……ここは理想郷ですね。こんな場所があるなんて知りませんでした」
 カズちゃんが、
「みんなそう言うけど、キョウちゃんそのものが理想郷なのよ。私たちはその中に住んでるだけ。奈緒さん、こんな世界を見て不安じゃない?」
「ぜんぜん不安じゃありません。神無月さんを囲む世界の調和を感じます。だれが築き上げたわけでもなく、そういう世界ができ上がってます。秘密にすることも、ごまかすこともない世界。いちばん大切にするべきものは、心やさしく人と人が生きていくことだってわかる人たちのいる世界。なんてすばらしいんでしょう」
「そういう世界は、キョウちゃんの周りだけってことを忘れないでね。人をごまかす必要はないけど、秘密は大切に守らないとね。この世界の話はこの世界だけでする話にしておかないと、ほかの世界で暮らしにくくなるわ。社会の爪弾きなんて、人間らしく生きるうえでは突き詰めれば怖いことでも何でもないけど、できるだけそうされずに暮らしやすい生活を送るに越したことはないから、じょうずに乗り切っていきましょう」
「はい。心します」
「こちらにくることがあったら、私がぜんぶ便宜を図ってあげます。あなたは〈キョウちゃんの女〉よ。安心したわ。生活で苦しまないでね。キョウちゃんに向ける心に濁りが出るから。何でも私に相談して」
 トルコの中番とアヤメの中番が続々帰ってきた。みんな奈緒に挨拶するが、彼女がだれなのかわからない。しかし、北村の女たちにとってそんなことはどうでもいいことなのだ。下通がきたときもそうだった。
 直人の皿から始まって、次々と皿鉢が並んでいく。ビールも並ぶ。トモヨさんが奈緒から直人を抱き取って自分の膝に乗せる。賑やかな食事が始まる。毎回レストランのような品揃えなので、料理の名を尋ねたがる人はいない。みんなの箸が動きはじめると、ソテツと幣原が勝手に教えていく。千佳子が奈緒に、
「あしたの試合は観ていかないんですね」
「ええ、きょう帰ります。小牧空港から二十時五分の便に乗ります。向こうに二十一時半」
 千佳子が、
「空港から家まではどのくらいですか」
「夜ですから、車で十五、六分です。十時前には帰れます」
 女将が、
「東京出張はちょくちょくなん?」
「いえ、年に一回です。年に一度のバス会社同志の研修という形なんです。主にバスガイドの研修です。私は西鉄バスではいちばん古株のほうなので、毎年ガイド研修に出されて研究報告をすることになってます」
「息子さん、さびしがっとるやろね」
「祖母になついてますからその点はだいじょうぶです。ただ、あしたの朝から仕事が入っていて、次の便があしたの七時ですので、乗務に障りが出ます。もちろん、早く帰れば息子も喜びます。……寝てると思いますけど」
 カズちゃんが、
「東京から早く帰れたのに、どうしてもキョウちゃんに逢いたかったのね」
「はい……お顔を一目見なければ帰れませんでした」
 菅野が、
「小牧空港まで送っていきますよ。ここから四十分ぐらいなので、六時半に出てじゅうぶん間に合います」
「ありがとうございます。お世話をおかけします」
 女将が、
「息子さん、何てゆう名前?」
「大吉です」
 一家のほとんどが奈緒に視線を注いだ。奈緒はその視線にうなずき返し、
「……偶然ですけど、神無月さんのお父さんと同じ名前です。不思議な気がします」
 観光旅行でバスを利用した九大生が父親だと問わず語りをする。妊娠してすぐ捨てられたことも言う。主人が、
「男の風上にもおけんやつやな」
 素子が、
「ふつうの大学生って、そんなもんや。あたしも捨てられたわ」
 おさんどんをしていた千鶴が、
「あのときのおねえちゃん、すっかりショゲてまって、見とるのつらかったわ」
「なんであんなやつに熱上げたんやろね」
「大学生ゆう肩書やろ」
「逆に、惚れられて結婚なんかせんでよかったわ。キョウちゃんに遇えんかった」
 百江が、
「奈緒さん、どんな事情で生まれた子も、かわいがってあげなければいけませんよ。子供には罪はないんですからね」
「はい。子供はかわいいです。神無月さんのことを思わないときは、いつも子供のことを思ってます」
 トモヨさんが、
「私もよ」
 そう言って、直人の口を拭いた。
「イネちゃん、直人をお風呂に入れてあげて。カンナにお乳あげて寝かせてから、すぐ追いかけるから」
「はい」
 直人が、
「おふろまだ。オレンジジュース」
 ソテツが、
「はいはい、オレンジジュースね」
 トモヨさんは笑い、カンナを女将から受け取って離れへいった。奈緒を交えた一家の食事が始まった。
 直人はジュースを飲み終わると縁側へいって、子供らしくあぐらをかきながら、スケッチブックにクレヨンでお絵描きを始めた。私は手早く食事をすまし、寝そべってその様子を眺める。ほとんどでたらめの渦巻きや直線だ。それでもクレヨンの色を変えてみたりする。
「それは何?」
「ボールとバット」
 色合からそう見えなくもない。青いボールと黄色いバットだ。直人はしばらく考えてボールとバットの下に緑色をぐしゃぐしゃ塗った。芝生だろう。
「いいぞ、野球場だな」
「うん、おとうちゃんがいるところ」
「これ、おとうちゃんを見てるお客さん?」
「うん、ぼく」
「いいなあ、一人きり。ほんとのファンだ」
「ファンて?」
「おとうちゃんを好きな人」
 箸を動かしながら一家の者たちが二人の会話を聞いている。やがて直人はあくびをしはじめる。イネがやってきて、
「さ、直ちゃん、風呂さ入(へ)ってまうべ」
「うん」
 今度は素直にクレヨンを置き捨てて立ち上がった。
「股っこに汗かいてるすけ、毎日ちゃんと洗わねばまいねよ」
 奈緒がイネの気取らない訛りに驚き、それから心底感動したように微笑した。直人がイネに手を引かれていくと、幣原が散らかったクレヨンを片づけた。カズちゃんが、
「私たちも直人といっしょに入りましょ」
 ごちそうさまを言って、七、八人立ち上がった。睦子が、
「奈緒さんもごいっしょに」
「はい」
 トモヨさんも混じって大人数の風呂になるようだ。私は主人夫婦と菅野とビールを飲む。
「日本シリーズの最中だなんて思えませんなあ」
 菅野が、
「あしたもふつうに中日球場の公式戦に出かけていく感じですね」
「けっこうアガッてるんですよ。ぼくもみんなもガチガチです。あしたはもう少し解れると思います」
「川上監督が第一、二戦のゲスト解説で出てました。四打席連続ホームランを打ったときにポロリと言ったんです。こんなすばらしい選手を苦しめたことを申しわけなく思っている。慙愧の念しきりである。たしかに、あまりの能力の高さと人間性の素朴さに驚き呆れて、彼のやり方も人柄も気に食わない時期があった。いまや彼を嫌っているのは私ではなく、巨人軍という権威を愛するファンだ。それは個人の嗜好だからといって許せるものではない。抹殺まで図られる彼の前途多難を考えると私は身をよじられる思いだ。もはや神無月くんは私にとって揺るぎなく大切な人間なので、この先も嫌がらせをされることがあれば、身を挺して、いやジャイアンツ球団ぐるみで防御策をとりたいと思う。神無月くんにいつまでも迷惑をかけては、読売巨人軍の品性が疑われる。ひいては諸外国に対してわが国民性の信用を失墜することになる、と言ってました」
 優子や信子、百江が寄ってくる。たがいにビールをつぎ合う。ソテツたちはあと片づけにかかる。
「あしたからアイリスとアヤメは、有給で二日間臨時休業です」
 百江が言う。主人が、
「うちも一律有給で二日間休業や。優勝が五戦目以降にもつれこんだら、もう一日休業にする。西宮に戻ることになったら、ワシと菅ちゃんだけでいく。二人で、前の日に東名飛ばしていくわ。とにかくワシは優勝戦だけは見逃さん」
 菅野が、
「こっちで優勝したら、その夜江藤さんたちがくるでしょうね」
「寮で祝賀会がないなら呼びたいと思ってます。そのつもりでよろしく。今年から、日本一になったときのビールかけはしないと決まったようですし、煩わしいイベントもありません」
 主人が、
「そりゃええ。あんなのやってもしょうがないですわ。マスコミといっしょに遊んでるだけでしょう。目にもからだにも悪いし」
 女将が、
「水原さんたちはいらっしゃるん?」
「監督たちやフロントはいろいろ忙しいので、こられないと思います」
 赤い頬をした女たちが風呂から上がってくる。みんなきちんと身仕舞いをしている。しばしのコーヒータイム。裸の直人が走り回る。イネがバスタオルを持って追いかけ回す。
「ほんとにかわいらしい」
 奈緒がしみじみと言う。トモヨさんが奈緒を気の毒そうな目で見たが、何も言わなかった。どんな人生も自分で背負うしかない。カズちゃんが、
「奈緒ちゃんは、西鉄の仕事が好きなのね」
「はい。定年まで勤めようと思ってます」
「―がんばってね」
 トモヨさんと似たような目をした。女将が、
「またこっちへくることがあったら、遠慮せんと寄ればええが」
「はい、そうさせていただきます。神無月さんはみなさんを愛しているといつも言っていらっしゃったので、どうしてもその世界に浸ってみたかったんです。ほんとにここにしかないすばらしい世界でした」


         八

 女将が紙袋に有松の着物を入れて奈緒に持たせた。
「何でしょう?」
「有松絞りの着物。子供用も入れといたでね。春先からでも着なさいや。涼しいよ」
「……ありがとうございます。こんなにしていただいて、お礼の申し上げようもございません」
 頭を深く下げ、立ち上がった。カズちゃんたちも立ち上がった。私は菅野に、
「じゃ、よろしくお願いします」
「はい、じゃ送ってきます」
 奈緒と握手した。すがりつくような目をした。
 みんなで門まで送って出る。菅野が奈緒をクラウンの後部座席に乗せてガレージから出たのを見届け、座敷に戻った。睦子がまぶたを拭い、
「大信田さん、お気の毒」
 千佳子が、
「子供さえいなければ、ここに飛んできて暮らしたいでしょうに」
 カズちゃんが直人の髪をバスタオルで拭きながら、
「その学生に引っかかった流れだけは変えてあげたいわね。でも変えるのは、自分の意志の力と、寄り添う人だから」
 トモヨさんが、
「こちらに出てくるのは、仕事やご両親やお子さんのことを考えると、無理でしょう」
 女将が、
「あんたたちみたいに、ぜんぶ捨てて火の中水の中に飛びこんで、遠く近くで助け合って暮らしとるようなんはめずらしいんよ。神無月さんの周りの女は、自分の口以外は、もともと抱えとる生活ゆうもんがなかったし、抱えとっても子供や家族に手をかけんでもええ境遇になっとるでしょう。メイ子や百江さんはまだ子供の面倒を見てやっとるけど、くっついて暮らしとらん。奈緒さんは、トモヨが一人でがんばっとるようなもんやろ。ここに飛びこんでこんかぎり、どうやって助けたらいいかわからんわ」
 素子が、
「助けてほしないんやない? 仕事に生甲斐持っとるし、両親と子供の関係もしっくりいっとるみたいやし、ときどきキョウちゃんに逢えるだけで、何もいらんと思っとるんとちがう?」
 睦子が、
「あんなにすがるような目をして……」
 カズちゃんが、
「あなたしかいないという意味で、そんな深い思いはないのよ」
 幣原が、イネに捕まえられた直人に服を着せながら、
「そうですよ。お嬢さんたちも、私も、一方的に神無月さんを愛してるというだけで幸せなので、その報いは求めていません。神無月さんを思うこと、それだけなんです。それほど幸せなことは秘密にして守ろうと思います。神無月さんにすがってはいけません。追いつめてしまいます。何も考えていないようで、何もかも考えてる人ですから」
 睦子が、
「郷さんのことを深く考えていたら、すがりついてはいけないということですね。―そのとおりだと思います。……下通さんは立派でしたね」
「はい、あのかたの立派さには、お嬢さんがすぐ気づいて声をかけてあげました。睦子さんもみなさんも深く考えて生きているので、反省することなんかありませんよ。自分の気持ちが動いたとき、それが神無月さんの負担にならないかどうか、それを第一に考えれば問題はないと思います。私も一度だけわがままを言って神無月さんを煩わせたことがありましたが、しばらく気持ちが落ちこむほど反省しました」
 カズちゃんが、
「あなたが自然だったから、私も素ちゃんもご相伴させてもらったの。落ちこむことなんかなかったのよ。キョウちゃんを愛していれば、行動は自然になるわ。奈緒さんも自然な感じになったら手を貸してあげましょ」
 睦子と千佳子が背中からカズちゃんの首に抱きついた。トモヨさんが、
「ああ、私、幸せ」
 と言って、直人を抱えて頬ずりをした。ソテツがやってきて、カズちゃんの頬に唇をつけた。
「さ、帰って寝ましょう。あしたは第三戦よ」
「うん。実質優勝戦だ。勝てば四連勝だろう。それじゃ、ぼくは則武に帰って寝ます。お休みなさい」
 主人夫婦とトモヨさんと幣原に挨拶し、直人の濡れた頭を撫でて北村席を出た。睦子と千佳子とソテツとイネが門まで送ってきた。いつもの四人といっしょに則武に戻った。素子も則武に泊まることになった。私は先に休み、女四人は遅くまでキッチンで笑い声を立てていた。
         †
 十月二十九日水曜日。七時起床。八・八度。軟便、うがい、シャワー、歯磨き。丁寧に髪を洗う。風呂から上がり、爪にヤスリをかける。素子の姿がない。
 ガスストーブを点け、五人でコーヒーを飲む。
「朝ごはんは北村席で食べましょう。お店はぜんぶ臨時休業。きょうの〈出勤〉は直人だけだから、おかあさんとトモヨさんと賄いの何人かがお留守番」
「先にいってて。ジムのあとランニングしてからいく」
 ジムトレ。三種の神器。一升瓶、きょうから左右十回ずつに落とす。倒立腕立ても、息継ぎなく十回をワンセットだけ。バーベルなし。素振り、真剣に九コース計九十本。
 八時に迎えにきた菅野と日赤までランニング。気温が上昇していく。
「きのうはありがとう。大信田さん元気で帰っていった?」
「はい。夢みたいだったと言ってました。心がぜんぶ解放されたって」
「菅野さんのことだから、何か声をかけてあげたんでしょう」
「……よかったですね、今度は大吉ちゃんを連れてくればいいですよ、直人やカンナの遊び相手になってやってください、と言いました。そしたら、機会がありましたら、とにかく一生懸命働きます、と涙ぐんで。少しかわいそうな気がしました」
「人生は流れのままだよ。カズちゃんの言った意志の力と寄り添う人が作る流れだ」
「はい」
 北村席に帰り着いて、菅野とシャワー。
 直人とカンナも交えて一家で和やかな朝食になる。アイリス組もアヤメ組もいる。素子は早めにきて台所の手伝いをしていたようだ。庭からいい陽射しが入ってくる。低い陽射しだ。
「おとうちゃん、きょう、やきゅうじょう?」
「そう、きょうとあした。あさってもあるかもしれない」
「あさってって、いつ?」
「あしたの次の日。それが終わったら、直人と野球ができるよ」
「うん、まきのこうえん」
「牧野公園でうんとボールを飛ばそう」
 園児服を着せられる。着せ替え人形。私もユニフォームに着替える。菅野に、
「じゃ、菅野さん、保育所お願いします。帰ってきたら、すぐ出かけましょう」
「社長と千佳ちゃんとムッちゃんも神無月さんといっしょにいきます。蛯名さんは、ほかのメンバーをハイエースに乗せてあとで追いかけます」
「八人乗りじゃ足りないでしょう」
「あとはクラウン二台にしました。時田さんともう一人の組員さんが乗せてってくれます。ミニバス一台レンタカーするという話も社長から出ましたけど、案外女たちは野球に関心がないんですよ」
 主人が、
「張り合いのないことや」
「駐車場は足木さんに頼んで、裏ゲートに確保しました。帰りは、寮住まいの選手たちが寮バスで帰ります。ファンに囲まれるのはそのバスです。囲まれても、それに乗ったほうが安全かもしれないですね」
「そうかなあ」
「裏ゲートも大混雑しますから、結局ファンに囲まれてしまいます。神無月さんはバスに乗りこんじゃったほうがいいでしょう」
「混雑しなかったらセドリックで帰ります」
「了解です」
 トモヨさんが、
「お義母さんと直人と私は、留守番の人たちといっしょにテレビで観てます」
「留守番って何人ぐらい?」
「賄いと合わせて、二十人くらいかしら」
 菅野はトモヨさんと直人を連れて保育所へ出かけていった。
         †
 九時半、菅野のセドリックで出発。四台の車を連ねて走る。助手席の主人が、
「やっぱり、実質きょうが優勝戦になりますか」
「はい、大差勝ちすれば確実だと思います。三戦連続大差負けで、やる気をなくすでしょうから。僅差勝ちは気力を回復させるかもしれないので危ないです。僅差勝ちするよりはかえって負けたほうが、気力が充実して一気にいけるでしょう。とにかくきょう大差勝ちすれば、あした優勝ですね」
 内野席券売所、外野席券売所の前にものすごい群衆。当日券の発売は、試合開始三時間前の十時から。柵のある狭い裏駐車場に車をつける。難なく降りることができた。主人たちは正門ゲートへ、私はすぐ裏ゲートへ。
 ロッカールームでみんなと元気に挨拶。
「勝つぞ!」
 菱川が叫ぶ。
「大差勝ち!」
 私も呼応した。その声は仲間たちの自信ありげな笑いと混じり合った。みんな四連勝で優勝することを信じている。
 ベンチ温度二十一度。グランドに上がって、ますます快晴。ほとんど風はない。ネット裏と一塁側ベンチ上の特別席に、十数人ずつ北村席の人びとが詰めている。観客三万五千人。早くも埃の入りこむ余地もない満員。世界の時計SEIKOとマツザカヤに上下を挟まれたいつ見てもなつかしい得点掲示板。応援団長らしき野球帽かぶった痩せぎすの男が一塁ベンチ後方のコンクリートの敷居に乗り、両手に扇子、口に笛をくわえて、観客席に応援を促している。大ぶりの応援旗が何本も振られる。バックネット下の貴賓客たちが並ぶ網窓のフェンス、右手の網窓に下通の顔が覗く。サントリーモルツ、安田第一生命、東芝、NEC、黄桜、クリナップ流し台、HOYAメガネ、等々ずらりと広告の並んだ外野フェンスも慕わしい。
 自分たちの守備練習を終え、阪急の守備練習が行なわれている合間に、ロッカールームにいって、独りソテツ弁当を食う。丁寧に作られた幕の内弁当だ。おいしくいただき、洗面台で口を漱ぎ、ベンチに戻る。十年一日? 入団してからまだ一年も経っていない。
 水原監督、コーチ、選手たちが続々とグランドに上がる。メンバー表交換から戻った監督が、
「みんな、集まってください」
 自然と肩寄せて円陣の形になり、試合前の即席ミーティング。
「これをするのはきょうだけ。いつもどおり試合は全力で臨んでください。一つの結果に増長しない。一つの結果にめげない。その気持ちできょうあしたと二連勝して、優勝するよ。星野くん、何点取られてもいいからね。じゃ、中くん、檄をよろしく」
 中は円陣の真ん中で屈みこみ、
「いくら点差が離れて勝ってようが最後まで油断せずに、いくら点差が離れて負けてようが最後まであきらめずに、自分のできることをしっかりやろう。われわれ選手を含め、観ている人たちも納得できるプレイを目指そう。さ、狙いは四連勝だ。いくぞ!」
「オーシャ!」
 ライトスタンドで、中華街の祭りの出し物のような竜がうねる。大旗が六、七本。鉦太鼓笛、扇子、小旗。ドラゴンズの歌。
 スターティングメンバー発表。下通の緊張した美声。
「昭和四十四年度日本シリーズ、中日ドラゴンズ対阪急ブレーブス、まもなく第三戦の試合開始でございます。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻は阪急ブレーブス、一番セカンド山口、背番号1、シーズン本塁打数九本」
 オオーと喚声とともに、拍手が上がる。変わったことをやってきた。打率を言わないところに配慮が見える。阪急レギュラーのうち三割打者は長池一人だからだ。
「二番ショート阪本、背番号4、十三本、打席数パリーグ一位でございます。三番サード森本、背番号9、十六本、四番ライト長池、背番号3、四十一本、パリーグ本塁打王かつ打点王でございます。五番センター大熊、背番号22、十二本、六番レフト矢野、背番号23、二十五本、七番ファースト石井晶、背番号6、三本、八番キャッチャー岡村、背番号29、十五本、九番ピッチャー足立、背番号16、二本」
 水原監督が、
「おもしろいねえ! すごい拍手じゃないか。ドラゴンズ讃歌になるよ」
 中に訊く。
「やっぱり米田は出てこないんですか」
「肩でも肘でもないようだ。痛風がひどくて、股関節の具合が悪いんだそうだ」
「ツウフウ?」
 長谷川コーチが、
「酒の飲みすぎ、運動のしすぎ、そういうのが原因になって、関節に尿酸結晶が溜まるんだよ」
「運動のしすぎって、どの程度ですか」
「さあ、個人差があるだろうね。ドラゴンズ以外のプロ野球選手はみんなやりすぎだ」
 下通の声。
「対しまして後攻は中日ドラゴンズ、一番センター中、背番号3、二十三本、三塁打王でございます。二番セカンド高木、背番号1、三十九本、三番ファースト江藤、背番号9、七十本、四番レフト神無月、背番号8、百六十八本、セリーグ三冠王かつ盗塁王でございます」
 歓声が爆発した。
「五番キャッチャー木俣、背番号23、五十二本、六番サード菱川、背番号4、三十九本」
 拍手とどよめきが止まない。
「七番ライト太田、背番号40、三十二本、八番ショート一枝、背番号2、十九本、九番ピッチャー星野秀孝、背番号20、二本」
 拍手と歓呼の嵐でスターティングメンバー発表が締めくくられた。水谷寿伸ではなく星野秀孝できた。
「球審沖、塁審一塁富沢、二塁久喜、三塁竹元、線審レフト岡田功、ライト田川。以上でございます」


         九

 小柄な右腕、足立光宏。三連投だ。米田がいないとこうなるわけだ。十一年目、二十九歳、大阪大丸出身。大阪市立西高校一年のときにネズミができて一年間休養。痛みは消えたが、再発の不安からアンダースローに換える。球種はカーブ、ストレート、シンカー。入団のころの武器は浮き上がる速球だったが、いまはボールが遅いのできびしいコース攻めが武器。遅いピッチャーはきわどいところを突くようになるのでデッドボールが多くなる。じつは死球は宮本のほうが多い。以上太田の報告。
 星野がいやに緊張してマウンドに上がった。水原監督に何点取られてもいいよと言われたにも関わらずだ。初めて滅多打ちにされるような気がしているのだろう。杞憂だ。ただ彼の場合、私に初めて投げたときのようにガチガチに緊張しているほうが、投球に好影響を与えるにちがいない。
 一番山口がバッターボックスに入る。低、高、低、ストレート一本で、三球三振。二番阪本、二球目の真ん中ストレートを打って私の定位置へのフライ。球威に押されている。三番森本、初球の絶好球を叩くもやはり球威に押されてセンターフライ。ほらね。
 一回裏。中シンカーを狙い打ってショートゴロ。高木シンカーを狙い打ってサードゴロ。シンカーの連投。シンカーに備えてオープンスタンスに構えた江藤は、外角カーブに泳がされてライトフライ。あっという間に一回の表裏が終わった。
「阪急ブレーブス二回表の攻撃は、四番、ライト長池、背番号3」
 三塁側スタンドの狂ったような拍手と歓声。背番号51の西本監督が、ベンチを出ようとする長池に何か言い聞かせる。長池はうなずき、バッターボックスに向かう。へなちょこ新人なぞブッ潰してやれ、とでも言ったのだろう。
 ツーワンからインハイのストレートを独特のスイングで叩き下ろし、レフト中段へライナーのホームラン。出会い頭だったが、さすがの打球だ。やはり彼が三戦目以降のキーパースンだとわかる。主砲の復活を待ちに待っていた三塁スタンドに大歓声が上がる。首の短い四角いからだがダイヤモンドを回る。顔はギョッとするほどの美男子だ。星野は、ここまでストレート一本。ウェイティングサークル前で次のバッターの大熊が素振りしている姿を見つめながら、まったく動揺している様子がない。バッター四人に対戦してすっかり緊張が解けたようだ。足もとのロジンバッグで指の滑りを止める。ドラゴンズベンチから星野を励ます声が上がる。
「球、いってるよー!」
「伸びてるよー!」
 大熊、初球の浮き上がるストレートを打ってキャッチャーフライ。矢野パームボールに泳いでセンターフライ。ようやくパームを投げた。石井晶、ツーツーから外角ストレートを振って三振。よし! 一対ゼロ。
 二回裏。声援が鳴り止まないうちに私は初球のシュートを労せずセンター前ヒット。チャンスメイクを心がける。木俣のワンナッシングのときに二盗成功。ノーアウト二塁。木俣ライトフライ、私は三塁へ。菱川シンカーを引っかけてサードゴロ。動けず。太田内角攻めで三振。様子見はこんなものだろう。
 三回表。岡村、ワンナッシングから内角低目のストレートに詰まりながら私の前へヒット。腕力のあるバッターだ。足立、パームにのめってセカンドゴロ、ゲッツー。山口、外角のパームにのめって、セカンドへのハーフライナー。一対ゼロのまま。
 三回裏。一枝、ツースリーから外角きわどいカーブを見切って、フォアボールで出た。このシリーズで彼は早打ちを控えている。星野外角高目のシュートを打たされてショートゴロゲッツー。中、外角シュートでチップ三振。足立が好投している。このままいかせるわけにはいかない。
 四回表。二番阪本、センターへ抜けそうな当たりを高木が横っ飛びで好捕したが、一塁へ送球できず。内野安打。とにかく当ててくるチームだ。感心する。しかし当てにくるなら、打たせて取ればいい。星野はすでにこの新境地にある。日本シリーズで新境地に磨きをかけている。森本ツーツーから快速球で三振。このバリエーションだ。長池、初球真ん中のカーブをジャストミート、センターオーバーの二塁打。きょうのキーパーソン。阪本一塁から長駆生還。星野が懸命に学習する。あれこれ投げて〈何点か〉取られるつもりだろう。あたりまえだが、真ん中のカーブは打たれた。大熊、パームを打ってセカンドフライ。二対ゼロ。
 ベンチに戻ると、長谷川コーチが星野に、
「だいたいつかんだか」
「はい、だいたい。カーブはコースを工夫しないと打たれます。とにかくスピードボールに敵うものはありませんね。トレーニングのメドも立ちました。走ることと、肩の強化です。あと五キロぐらい速いボールが投げられるようになればいいですけど」
「五キロ増だと大リーグ級だ。あと二、三キロで敵なしになると思うぞ」
「五回からのイニングはコースで勉強してみます。一点ぐらい取られるかもしれません」
 そう言ってブルペンへいった。大した男だ。
 四回裏。早打ち高木、初球のシンカーをレフト前ヒット。水原監督のパンパンパン。進軍ラッパが高らかに鳴った。江藤初球のカーブをライト前ヒット。高木、三塁を陥れ、ノーアウト一、三塁。私はホームラン狙いで打席に入ったが、ツーナッシングから外角低目のシュートをボールと見切り、見逃し三振。その一瞬、江藤が二盗を敢行した。岡村があわてて送球するのを見て、高木がダブルスチール。セカンドの山口がワンバウンドで捕球し、江藤を黙殺してホームへ送球。高木は足から滑りこむと同時に岡村に弾き飛ばされた。沖球審はセーフのジェスチャーを繰り返した。左バッターボックスの外で見ていた私の目にも、高木のスパイクの先が岡村の股間からくぐった残像があった。ブロックに絶大の自信を持っている岡村はアウトだといきり立って主張し、野手や審判が集まってきてホームベース付近が騒然となった。私はベンチに退がり、葛城や徳武たちとその騒ぎを見つめた。
「足が入ってましたよ」
「タイミングアウトというやつじゃないかな。同時だったらね」
 西本監督が飛び出してきて沖球審を怒鳴りつける。岡村が顔面蒼白の沖球審にミットでジャブを食らわしたので、即刻退場処分になった。数分間フラッシュが瞬きつづけたが、ようやく試合再開。水原監督がひとこと高木に、
「踏みましたか?」
 と訊いた。高木は、
「踏みました」
 と躊躇することなく答えた。水原監督はニッコリ笑ってうなずくと、三塁コーチャーズボックスへ戻っていった。木俣サードゴロ。ツーアウト。二対一。江藤は二塁塁上に残ったまま。ここから怒涛の攻撃が始まった。菱川センター前ヒット。江藤生還。二対二の同点。太田センター前ヒット。一枝のショートゴロを阪本がハンブルしてツーアウト満塁。星野、今度はシュートをうまく流し打って、森本の頭を越えるレフト線二塁打。菱川、太田まとめて生還。中ライト前ヒット、一枝、星野まとめて生還。高木レフトフライで攻撃が終わった。一挙六点。二対六。ホームランを打つしか能のない私は、プロ野球の技の結集に心の底から感銘を受けた。とりわけ岡村と高木のホームでのクロスプレーは脳裡に焼きついた。三振した私だけが、この一連の美技に参加できなかった。
 五回表。六番矢野、パームに泳いでセンターフライ。いまのところパームは一球も打たれていない。石井晶、外角シュートにのめってセカンドゴロ。初めて秀孝がシュートを投げた。すばらしいキレだ。岡村の代わりに入った中沢、真ん中低目カーブを掬い上げてレフト前段へホームラン。やはりカーブは打たれる。コースも甘かった。学習完了だろう。三対六。小刻みに点を取られているけれども、星野の態度に揺るぎがない。進んで〈打たれ球〉を学習しているからだ。探究心がひしひしと伝わってくる。足立の代打八田、内角カーブに詰まってセカンドゴロ。このコースならカーブもよい。学習の成果だ。
 五回裏。阪急のピッチャー、西宮の初戦の後半に出てきた大石清に交代。中が、
「長谷川さんの次の広島の大エースも、肘をやられて衰えたね」
 長谷川コーチに聞いた話をする。キャッチャーも中沢に代わった。太田が、
「中沢は肩が弱いですけど、リードは両リーグ一と言われてます。今年三年目、二十三歳」
「じゃ、塁に出たら走るよ」
 先頭打者の江藤、外角スライダーを引っかけてショートゴロ。私は敬遠気味のフォアボール。盗塁を頭に置いて、さっきの感動的なダブルスチールを思い浮かべながらぼんやり塁を離れたとたん、大石の素早い牽制でアウトになった。たぶん中沢かファースト石井晶の指示だろう。神経の散漫な日だ。木俣センターフライ。
「すみません」
 と、ベンチ仲間に深く頭を下げて守備につく。
 六回表。もちろん星野続投。一番山口、真ん中高目のストレートをこすってキャッチャーフライ。阪本内角高目のストレートをこすってショートフライ。森本、真ん中低目のストレートを叩いて私の前へ痛烈なヒット。三塁側内外野スタンドの歓声。ピー、ピー、ピーという笛の音。いまの三人はストレートのコースの確認だろう。きょうは島谷の出番はないな。長池の二球目に森本盗塁成功。ピー、ピー、ピー。長池、大きなライトフライ。ドーと失望のため息。
 六回裏。主人からベンチに矢場トン百本の差し入れがあった。串に刺した味噌カツ。ベンチメンバー二十数人でたちまち平らげる。水原監督はダンディらしくもなく、口をもぐもぐさせながら三塁コーチャーズボックスに向かった。彼の天真爛漫な一面だ。
 キャッチャーが中沢から岡田に代わる。菱川外角カーブをライト前ヒット。太田、なんとピッチャー前へ真っ正直なバント。一点でも多く取って星野を何とかしてやりたいという気持ちの表れだ。あ、大石ハンブル! 尻餅をつく。ノーアウト一、二塁。一枝、このチャンスに、内角高目ハーフスピードの直球にやられてキャッチャーフライ。バットで自分のヘルメットをコンと叩く。星野外角ストレートを引っ張っていい当たりのライト前ヒット、菱川生還。太田二塁ストップ。三対七。ワンアウト一、二塁。中、センター右へテキサスヒット。太田生還。三対八。高木一塁後方のフライ。セカンドの山口がファールグランドに出て捕球した。ツーアウト一、二塁。江藤、ワンワンから内角高目のストレートを叩いてレフト場外へ特大ホームラン。ついにシリーズ一号が出た。森下コーチとバチン、水原監督とペチン、喜びいっぱいにダイヤモンドを一周してきた江藤と握手し、抱擁し合う。
「江藤選手、シリーズ第一号ホームランでございます」
 とつぜん下通の声が耳に入ってきた。あらためてここが中日球場だったことを思い出し、緩んでいた神経の糸がピンと張った。三対十一。
「シリーズのアベックホームラン記録も作りましょう!」
「おう! いけ!」
 私はホームランボールをワンスリーまで辛抱強く待ち、内角低目のスライダーをライト場外へ叩き出した。
「神無月選手、シリーズ七号のホームランでございます」
 三対十二。木俣センターフライ。菱川三振。太田センターフライ。三人ともしっかりバットを振っている。仕事仕舞いのつもりはない。
 七回表。ラッキーセブン。微笑ましい迷信。阪急の球団旗が内外野で振られる。レフトスタンドで応援歌らしきものが立ち昇る。西宮球場でも慎ましく立ち昇ったが、ここでもさらに慎ましい声だ。切れぎれに聞こえてくる。

 晴れたる青空……萌え立つ緑……勝利を目指して……
 われらのブレーブス……おお阪急ブレーブス……


 打点三の大活躍をした星野が水谷寿伸に交代した。いつも冷静な水谷寿伸の顔面が紅潮している。九点差。ファンが逆転の希望に燃えるのは難しい点差だ。三塁スタンドとレフトスタンドの声援が盛り上がる。Hと染め抜いた大きな団旗が振られる。二旗、三旗。紙吹雪。私の頭上にも流れてくる。
 大熊、初球を私の前へ球足の速いヒット。ファーストの江藤がマウンドに向かって大声を投げる。矢野初球、私の前へこれまた球足の速いワンバウンドのヒット。ノーアウト一塁、二塁。石井晶に代わってウインディ。目先変えだ。当たっていないのは石井にかぎらないが、三十歳のコワモテ石井を三十六歳のヤサ顔外人に代えてみたかったのだろう。ウインディ、初球のカーブをライト線へ流し打って二塁打、大熊生還。打率二割三分の外人がようやく仕事をした。四対十二。すべて初球の三連打。ノーアウト、二、三塁。ブルペンにだれも出ない。水原監督も動かない。星野と同様、水谷寿伸の〈学習〉を尊重している。それとも乗り越えるべき試練と思って静観しているのかもしれない。江藤がタイムを取ってマウンドに小走りでいく。水谷に面と向かって何か言う。
 プレイ。中沢、外角するどいカーブをセカンドフライ。大石、高目ストレートで三振。山口、内角シュートをサードゴロ。カーブ、ストレート、シュートの絶妙な配球だった。あっという間にチェンジ。水谷寿伸はブルペンへ走る。私は、
「江藤さん、さっき水谷さんに何て言ったんですか」
「寿伸は同期やけんな、ワシも思い入れのあるったい。で、みっともなく打たれんな、おまえらしいボール投げて、なるべく早くチェンジにしてくれて言うたっちゃん」
「いままでどおりにやれということですね」
「おう。大舞台だという意識が強すぎるばい。入団したときだけだけやなく、退団するときもカッコよくせんとな。その気持ちがあれば、あと二、三年もつ」



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