十三

 七回表。三塁側内外野のスタンドがきょうも火が消えたように静かになる。モーツァルトのレクイエムでも流れてきそうだ。それでも彼らは気を取り直し、奇跡を信じて、声を張り上げながら応援歌を唄う。山口富士雄、当たっていない。小川のスローボールにあごを上げサードゴロ。足立のピンチヒッター住友ツーワンから三振。大熊セカンド後方のテキサスヒット。代走山本。だれだ? ものすごく小さい。思い出した。私の盗塁王が確実だと言われたときに調べた。山本公士(こうじ)。昭和三十三年からバルボン三年連続、広瀬五年連続、山本、西田、安井、阪本それぞれ一回。その山本だ。四十一年にパリーグの盗塁王になった男。セリーグは同じ三十三年から、岡嶋二回、中一回、近藤和彦一回、河野一回、そこから高木、古葉、高木、柴田、柴田、そして去年の古葉。三十五年と三十八年の中と高木がともに五十個、四十二年の柴田が七十個。三十七年の河野の八十五個が最多だ。盗塁王など自分の領分ではないと思っていたが、今年の柴田が三十五個だったせいで、四十五個の私にボタモチが落ちてきた。
 山本公士、坂本の初球に躊躇なく盗塁敢行、木俣に刺されて立派に憤死。記念盗塁。
 七回裏。戸田登板。ブルペンに石井茂雄がいく。最終八回裏の記念登板だろう。隙っ歯の戸田は、初戦の九回に出てきて、私を含めて三人を凡打に打ち取ったピッチャーだ。第二戦でもケガのない敗戦処理をした。今回もそうなるだろう。
 一枝セカンドゴロ。小川サードゴロ。中三振。みごとだ。この投手力を完投型とリリーフ型に仕分けて、一試合二、三人でじょうずに使い回せば、阪急は毎年日本一になってもおかしくない。打撃にしても、シーズン中の得点力を見ると、五点以上挙げた試合が七十六勝中、四十勝以上ある。このシリーズだけ、おそらく小刻みにピッチャーを使いすぎたために、投打ともに歯車の噛み合わせが狂ったのだ。それほどドラゴンズの破壊力が精神的なショックを与えたということだ。
 中日ベンチの動きがあわただしくなる。控え選手がバットスタンドからバットを抜いて片づけにかかる。
 八回表。阪本、落ちるシュートを打たされてショートゴロ。森本、落ちるシンカーを打たされてサードゴロ。きょうは最後まで島谷の出番はなかった。長池、真ん中高目のスピードボールに詰まってライトフライ。青空がいつの間にか灰色に変わっている。すでに三時四十五分、あと一時間もすれば夕暮の気配が訪れる。
 八回裏。石井茂雄登板。もう打席のない長池に代わって福本がライトの守備につく。センターは山本公士。高木はまるで狙ったように、ライトへファールフライを打ち上げる。福本が目の覚めるような速さで打球の下へ走って捕球した。中日ファンのひしめく一塁側のスタンドから、ひとしきり敵のプレイに拍手が上がった。福本は何ごともなかったかのように守備位置に走り戻った。江藤、シゲボールをレフト前へクリーンヒット。下通のアナウンス。
「ピッチャー、石井に代わりまして、米田、ピッチャー米田、背番号18」
 ドドーと歓声が上がる。人間機関車米田がブルペンではなくベンチから出てくる。やっぱり登場した。偉大なピッチャーへの礼儀として、しっかりフォークを打とう。米田はスパイクでマウンドを均し、一球、二球、からだの調子を確かめるように投げる。フラッシュが連続で瞬く。投球姿勢はじゅうぶん低い。股関節はだいじょうぶのようだ。
「四番、レフト神無月、背番号8」
 歓声の中、私はヘルメットの庇をつかみ、米田に向かって少し挙げた。米田も帽子の庇をつかんだ。水原監督の高松商業の後輩である岡村が、
「水原さんの言うとおり、礼儀正しい男やなあ、あんたは。……ワシも一つ礼儀を尽くしておくわ。初球はフォークじゃわい。わかっとっても打てん」
 そう言って低くしゃがんだ。初球、外角低目のフォークボール。ベースの角でショートバウンドした。その撥ね上がりばなを、すかさず腰を入れて叩く。三遊間を真っ二つに割った。
「ヒョオー!」
 岡村の賞賛の叫びが聞こえた。ワンアウト一、二塁。木俣、高目から真ん中へ落ちるフォークを叩きつけて、ショートゴロゲッツー。ドラゴンズの攻撃がすべて終了した。
 九回表。観客席のトランジスタから中継の声が切れぎれに聞こえてくる。
「……中日球場……九回に……ました……三連勝……日本一に王手をかけ……ゴンズ、いよいよこの回を抑え……十五年ぶり二度目……に輝きます……マウンド上は……エース小川……日本一……フィナーレを迎えようとしております……」
 石井晶、初球真ん中高目のカーブを打ってレフト前段へ突き刺さるホームラン。最後まで当たり屋だった。打球がスタンドに飛びこんだ瞬間、阪急ファンがウオーという歓声を上げた。最後の最後にホームランで一矢報いたことが、山かげで見つけた湧き水のようにうれしかったのだ。私もホッとした。西本監督とチームメイトがこぞって石井を暖かく迎えた。二対十二。
「……ブレーブスにも意地が……ここで石井晶のホームランです!」
 矢野、私の前へワンバウンドのヒット。レフトスタンドの大歓声。三塁スタンドも総立ちになって拍手。ブレーブスに、いや、西本監督に善戦の意欲はあっても、優勝の計算はなかった。前評判にふるえて、中日打線を封じこめることだけを考え、打線には打線で立ち向かって打ち勝とうとはしなかった。観客の中にはわざわざ西宮からきている人もかなりいるだろう。気の毒なことをした。岡村、ボールにする外角のストレートを無理に叩いて、高く弾むサードゴロ。菱川の送球を受けた高木はベースを踏んで矢野を封殺しただけに終わった。ワンアウト。
「……何とも言えない雰囲気がただよって……中日球……三塁側……必死の応援……さあここにきてこう……阪急ブレ……持てる力をすべて……観ているほうも……心臓の鼓動が速く……いきます……」
 一塁側スタンドのファンたちが金網にしがみついた。中日ベンチには、バーから身を乗り出したり、バーに片脚を乗せたりして優勝の瞬間を待ち構えるような下品な連中はいない。みんなベンチの中にじっとたたずんでいる。山口キャッチャーフライ。
「……ツーアウトォ! さあツーアウトになりました、阪急はランナーなし……ピッチャー小川、にっこりほほえんだ……ドラゴンズの選手たちの……みな笑っています……あとアウトカウント一つです!」
 いいかげんなものだな。だれも笑っていないのに。中日ベンチ全員がようやくバーの背後に立ち並んだ。米田の代打中沢。
「……バッターボックスは中沢……小川初球投げた、一塁線ファール! さあ、一塁ベンチの面々、いまにもグランドに飛び出していきそうです……二球目、ボール! ……一九七○年代最強のチームへ……驀進です……ツーストライク! ……ベンチ後方に控え、あくまで、腕組みをつづける水原監督……スタンドのお客さんも、みな立ち上がっています……一塁側ベンチは、ごらんのように……空振り三振!」
 木俣がピョーンと跳び上がり、小川のもとへ走った。コアラのように抱きつく。私たちもマウンドへ走る。四時三分。三時間三分のあいだ寄せては退いていた喧騒の波が、一転して怒涛の大歓声にまとまる。
「ゲーム!」
 竹元球審が右手を挙げて試合終了の宣告をする。内野のフィールドに金網を越えたファンたちが雪崩れこみ、マウンドに向かって走ってくる。ペナントレース優勝のときと同じように、水原監督がコーチ連に背中を押されてベンチから出てくる。選手、コーチ、ベンチスタッフ全員で、輪の中に入った水原監督の手足にまとわりつく。その外側をファンが取り囲む。
「五回ですよ、五回!」
 水原監督が叫んだので、五回胴上げした。今回も私の手は届かなかった。江藤や中がユニフォームをつかまれ宙に放り上げられた。私も加わるが要領がつかめない。高木が舞い上がりながらウオーと叫ぶ。フィールドのあちこちでチームメイトたちがファンの手で胴上げされている。狂噪状態のスタンドから五色のテープが投げこまれ、紙吹雪が舞う。外野スタンドの金網をよじ登った観客がグランドに跳び下りる。数千人。水原監督の胴上げに加わろうとするが、すでに終わっている。仕方なくでたらめに叫びながらめいめい目についた選手へ走り寄る。
「よっしゃ、みんなで胴上げいくばい!」
 私は江藤に袖をつかまれ、横倒しにされ、数十本の腕で宙に放り上げられた。ユニフォームを着ていない観客の腕も混じっている。神宮奉納相撲を思い出し、私はアハハ、アハハと笑いながら宙に舞った。猛烈な数のフラッシュ。光、光、光。
「次、宇野ヘッド!」
「健太郎!」
「森下コーチ! それ!」
「小野親分!」
「カールトンさん!」
「陽三郎!」
「足木さん! ヨイショ!」
「秀孝!」
「田宮コーチ!」
「菱!」
「修ちゃん!」
「タコ!」
 コーチ陣、トレーナー陣と無差別に宙に舞う。地面に降ろされるとファンたちに抱きつかれる。土屋や水谷則博が号泣している。水谷寿伸も長谷川コーチも一枝も森下コーチも江島も、鏑木も池藤も、たがいに抱き合い、涙を垂れ流している。球団旗のはためくスタンドでドラゴンズの歌の合唱。バンザイのシュプレヒコール。乱入したファンたちが警備員の手で根気よくスタンドに戻されていく。下通のアナウンスが降ってくる。
「ただいまより、昭和四十四年度日本シリーズ優勝チームの表彰式を行ないます。中日ドラゴンズのみなさまはマウンド前へ、阪急ブレーブスのみなさまはベンチ前へご整列ください。役員のかたがた、カメラマンのかたがたは所定の位置におつきください」
 白布を敷いたテーブルがホームベースの前に二つ用意され、三十人に近い背広姿が私たちの前に整然と並んだ。白井社主、小山オーナー、村迫球団代表の見知った顔もある。荘重な演奏が場内スピーカーから流れ出る。
「まずは、みごと日本一に輝きました中日ドラゴンズ監督水原茂氏に、各種の優勝チーム賞が贈られます。水原監督はホームベースまでお越しください」
 列の真ん中に立っていた水原監督はホームベースまで小走りにいって、居並ぶ黒背広たちの前に立った。マウンドの周囲が灯りはじめたカクテル光線で明るく引き立つ。
「はじめに、日本社団法人日本野球機構会長日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー宮沢俊義(としよし)より、ペナントとチャンピオンフラッグの贈呈です」
 水原監督は、四角く折り畳まれたズシリと重い布を両手で辞儀をして受け取り、宮沢なる人物と固く握手した。何か声をかけられている。傍らに洋服で正装して控えた球団女子職員に布を渡す。
「つづいて、内閣総理大臣杯の贈呈です」
 同じ男に銀色の縦長のカップを渡される。受け取り、お辞儀して固く握手。
「また、優勝チームには、優勝記念品台も贈呈されています。つづいて民放各局より、勝利チーム賞の贈呈です。本賞は、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京、フジテレビの民放各局より、トロフィーならびに優勝楯、そして各社から賞金が贈呈されます」
 いちいち礼をして受け取る。こりゃ水原監督はたいへんだと同情した。
「民放各局を代表する、本日の中継局日本テレビより賞金が贈呈されます」
 別の若い背広に楯と大きな熨斗袋を渡される。
「以上をもちまして、優勝チーム賞の授与式を終わります。水原監督、ありがとうございました。どうぞ列にお戻りください」
 水原監督が小走りに列に戻ってきた。ここまで渡された一連の記念品や賞品や賞金は白布の長机に並べ置かれている。
「つづきまして、個人賞の表彰を行ないます。初めに昭和四十四年度日本シリーズ、最高殊勲選手賞、MVPの表彰です。MVPは、中日ドラゴンズ、神無月郷選手です! 神無月選手、ホームベースまでお越しください」
 スタンドからウワァァーという歓声が上がった。私は帽子を尻ポケットにしまい、球場じゅうの拍手の中を歩いていった。
「神無月選手には、日本社団法人日本野球機構よりトロフィーが贈られます」
 宮沢が小さな楯状のものを持ち、私の前に立った。手渡し、私は受け取り、握手した右手を揺すられた。
「生きているうちに、きみのような神人を目にすることができて光栄です」
 そう言ってまた手を揺すった。私はどう返していいかわからず、ただ辞儀をした。
「つづいて日本プロ野球組織パートナー、株式会社三井、住友両銀行より、それぞれ賞金百万円が贈られます」
 その程度のものなのだと知った。清潔な感じがした。賞金額を印刷したボードを別の中年男から渡される。握手。男は微笑むだけで何も言わなかった。それからもいろいろな会社名を告げられ、いろいろな男に、百万円のボードを八枚贈られた。その中にトヨタも入っていた。
「つづいて打撃賞を発表いたします。中日ドラゴンズ、神無月郷選手!」
 轟々と歓声。賞品は宮沢からトロフィー、二つの会社から十万円の熨斗袋を、ミユキ毛織からオーダースーツと寸志を贈られた。
「つづいて最優秀投手賞を発表いたします。中日ドラゴンズ小川健太郎選手。おめでとうございます」
 彼も大型テレビ等大小の記念品と賞金を贈られた。大きく笑う小川を初めて見た。
 ―つづいて優秀選手賞三名を発表いたします。中日ドラゴンズ江藤慎一選手、木俣達彦選手、星野秀孝選手。おめでとうございます。
 ―つづいて技能賞二名を発表いたします。中日ドラゴンズ高木守道選手、中利夫選手。おめでとうございます。
 ―つづいて敢闘賞三名を発表いたします。中日ドラゴンズ菱川章選手、太田安治選手、阪急ブレーブス石井晶選手。おめでとうございます。
 石井は泣いていた。江藤以下八人は賞金のほかに、種々の電化製品や、商品券、米、果物詰め合わせが贈られた。
 十人がフラッシュの前に立たされ記念撮影が行われ、ペナントとフラッグを分かち持ったドラゴンズメンバー全員も記念撮影された。


         十四

 フラッグの端を持ち合い、手を振りながらの場内一周が終わると、私はトランクに風船をつけた花電車のようなトヨタクラウンのボンネットの端に坐るよう求められた。手に花束と鍵の型抜き板を持たされ、笑顔の写真を撮られた。ふたたび球場内に群衆が現れ、あふれ返りながら叫んでいる。金太郎さん! 金太郎! 何百ものカメラがシャッターを切り、ものすごいフラッシュが瞬いた。うれしかった。まちがいなく一生忘れられないできごとだった。五時を回っていたが、スタンドの観客はだれ一人家路に着こうとしなかった。
 やがて、応援団以外の観客がようやく引き揚げはじめ、背広たちもそれぞれ秘書のような男に連れていかれた。ベンチ前で大勢の報道陣に囲まれている水原監督と小川を横目に中に尋く。
「もう、帰ってもいいんですよね」
「いや、受賞者はいまから特別室でさっきの人たちから賞品や記念品や賞金の目録を渡され、報道写真を撮られる。それで終わり。目録の品物は持って帰るのが面倒に決まってるから、車以外は球場には置いてない。各社から選手個々にあとで郵送するようなってる。各賞の楯とトロフィーだけは持って帰らなくちゃいけないよ」
 私は、
「あの車も賞品ですか」
「そう。ちゃんと所有者名が金太郎さんとして登録してある」
 報道陣がめずらしい会話としてメモを取っている。ストロボが焚かれる。江藤が、
「ワシらといっしょに帰ろう」
「じゃ、北村席にきてください。泊まってくださいね」
「おお、そうさせてもらうわ」
 インタビューの終わった水原監督は微笑みながら、
「十一月四日火曜日一時から、名古屋観光ホテルでベストナイン授賞式、八日土曜日の午前はパレード、十五日土曜日は中日球場でファン感謝祭、十六日日曜日は名古屋観光ホテルで納会。球団関係はそれでオシマイです。試合に比べればからだはラクだから、がまんして出席しなさい」
「はい。それからはしばらくみなさんとお別れですね」
「さびしいね。二月のキャンプまでは会えない。二カ月半」 
「あっという間です。別れたわけじゃないですから。ちょっと、失礼」
 一塁スタンドのカズちゃんたちに呼びかける。
「先に帰ってて。お父さんたちにも言っといて。あとで江藤さんたちとタクシーで帰る」
「わかった。じゃ、先に帰ります。日本一おめでとう!」
「ありがとう!」
 素子や、千佳子、睦子たちにも手を振る。蛯名も立ち上がり、頭を下げた。居残っていた周囲の客たちが、彼らを何者かという顔で見ていた。
         †
 受賞者たちと合流し、特別室へいった。足木マネージャーほかコーチ陣も全員ついてきた。だだっ広い会見室だった。こんな広い部屋が中日球場にあることを初めて知った。先ほどの宮沢コミッショナー以下三十人ほどの役員が詰めていた。愛知県知事桑原幹根、名古屋市長杉戸清、それから白井中日新聞社社主、小山中日ドラゴンズオーナー、村迫球団代表も座っていた。水原監督はじめ私たち受賞者全員は、フラッシュやストロボの瞬く中、知事、市長と握手し、短い労いの言葉をかけられた。それで、報道陣と球団職員はいったん室外に出された。宮沢コミッショナーは水原監督に、
「あなたの率いる中日ドラゴンズは日本プロ野球界に対して、筆舌に尽くしがたいほど多大な貢献をしてくれました。人間信頼に基づいた和合と精神的団結をモットーに、自由奔放に野球に打ちこむ姿勢は、国民の情操にも深い影響を与えました。あなたのチームの清らかなありように、みずからの人生を振り返り、少なからず赤面する人びとも多かったはずです。日本一おめでとうと衷心からお祝いを述べるとともに、中日ドラゴンズの選手諸君のもろもろの努力に対して心から感謝いたします。どうか来年もがんばってください」
 深々と礼をする。私たちも水原監督に倣って深々と礼を返した。にこやかな桑原県知事に大テーブルの椅子に腰を下ろすよう勧められ、
「神無月くん、きみとは一度、始球式で抱き合ってるんだよ。自分が女になったようないい思い出だ。冥土の土産だね。いつもきみと抱き合ってる水原くんや、江藤くんたちが羨ましいよ。ま、みなさん、おかけください」
 コーヒーが部屋の全員に供された。球団女子社員の手で受賞者全員に金箔の名入りの漆箱が配られる。小山オーナーが、賞金小切手と記念の時計が入っていると教える。白井社主が、
「どうかね、天馬くん、MVP獲得の感想は?」
「はあ、身に余る光栄です。感激しています」
 小山オーナーが、
「年間MVPも文句なく金太郎さんで決まりだろう。最近とみに溌溂としたプレイぶりになってきたように見えるんだが」
「最近プロ野球人というものに対する感動が確固としたものになってきて、プレイをすることが楽しくてなりません。自分をプロ野球人として受け入れてくれたかたがたに、どう感謝していいか。ぼくは水原監督を父と思い、チームメイトを兄と思っています。みんな男性ですが、まるで母親のようにぼくをこの世にあらしめた人たちだと思っています。ファンのためというより、彼らのために野球をやりつづけます」
 経営陣が大きくうなずく。杉戸市長が、
「父であり兄であり母である江藤くん、きみは神無月くんのように若々しいが、姿かたち以上に精神が若々しい。その秘訣は何だね」
「うーん、取り柄が少ないことですかね。野球だけを楽しく追求できますから」
「ふむ。耳の痛い言葉だね」
 小山オーナーが、
「来年はご両親や、奥さんや子供にも、その楽しさを分けてあげなさい。こちらに家を一軒建てたらどうかね。資金は援助するよ」
「はあ、ありがたいお言葉ですが、父母、妻子は遠きにありて思うもの。修練のじゃまになります。家族のことを考えすぎて、一度野球以外のことで失敗しとります。水原監督に助けてもらっとらんかったら、いまここにおりません」
「水原さんが助けたんじゃなく、自力で立ち上がったことはだれもが知ってるよ。奥ゆかしい男だね。いずれにしても経験を糧にしてるんだね。そういう気持ちがあればじゅうぶんだ。小川くんや中くんや高木くんらの家族孝行を見れば、いまのきみなら修練のじゃまにはならないと思うよ」
「はあ、彼らは私より人間ができとりますから」
 一座が和やかに笑った。白井社主が、
「江藤くん、木俣くんはじめ、チームのほとんどが、打撃力において目を瞠るほどの長足の進歩を示した。投手力も最多勝の小川くんを筆頭に、小野くん、星野くんが他の投手陣を牽引した。星野くんはまるで夢のように現れた。特筆すべきは、菱川くんの再生と、新人太田くん、水谷則博くん、土屋紘くんの活躍だ。田宮くん、長谷川くん、森下くん、きみたちの力に拠るところ大だと思うが、菱川くんのサボリ癖が影を潜めたのは、神無月くんの影響じゃないのかね」
 水原監督が、
「いまおっしゃったことすべてが金太郎さんの影響です。金太郎さんは、しっかり鍛練と工夫をして、楽しく自由にプレイするという考え方を浸透させましたし、投げこみすぎないことを進言してくれましたし、星野くんや土屋くんが一軍に上がったのも、彼らの実力を見抜いた江藤くんの言を信頼して、バッティングピッチャーに呼んで打ってみたときのひとことがきっかけです。コーチはコントロールの良し悪ししか見ませんから。そうでしょ、長谷川コーチ」
 長谷川コーチが、
「その傾向が強いです。コントロールが悪いと、まず一軍には送り出しません。そのせいで、ボールそのものの力を見落とすことが多いです。その星野が金太郎さんと対決すると、とつぜんコントロールがよくなったんですよ。緊張したんでしょう。そしたらボールに力のあるピッチャーだとはっきりしたというわけです」
 田宮コーチが、
「菱川は金太郎さんのまじめさと情熱に打たれました。こうなったのは必然です。金太郎さんには、人を本筋に戻す力があるんですよ。戻したあとは、逆にその人に感動して眺めているといった、ウルトラ変人ですね。監督、コーチ陣もすべて彼の好影響のもとで一年間動きました」
 太田コーチが、
「私と同姓のこの太田安治は、奇遇にも金太郎さんと中学が同窓でしてね。そのころから桑原知事のように金太郎さんに惚れこんでいて、彼が金太郎さんの人格を誤解のないようにチームに喧伝したということも大きな影響力を持ちました」
 小川が、
「金太郎さんは俺たちを本筋に引き戻して傍観者になった。つまり、中日ドラゴンズはもう神無月郷に負んぶに抱っこのチームでなくなったということです。金太郎さんの敬愛する水原監督を大将にする常勝軍に生まれ変わった。これがいちばんでかいでしょう。来年からは、俺たちが金太郎さんに、そして金太郎さんをのびのび遊ばせた水原監督以下フロント陣に恩返しをしていかなくちゃいけません。金太郎さんにかぎって言えば、四割、六十本、二百打点程度の負担ですませてあげるようにね。じゃないと、金太郎さんはどこかの時点で頓死しますよ」
 名大の入学式にも顔を出していたトヨタ自動車の豊田英二社長が、
「麗しいチームですね、水原さん。すべてあなたの統率力あってのものです。みんなあなたを尊敬している蚊(か)弟子ですよ。あなたを胴上げするために一年間死力を尽くした。指導者の鑑(かかみ)ですな。感激の至りです。われわれ経済人も、あなたの生き方を見習わなければいけない。小山さん、トヨタはこの先ずっと、誠心誠意、中日ドラゴンズを支援させていただきますよ」
「ありがとうございます」
 宮沢が杉戸に、
「警備等、政治の方面で支援できることは手抜かりなくお願いします」
「わかりました」
「麻雀・パチンコのような個人的娯楽はもとより、市町村や国家の収入源である競馬・競輪・ボート・オート等、不正を働かないかぎり趣味の域にある娯楽に目くじらを立てないよう。野球の敗退行為とは何の関係もないんだからね。大ごとにすると小川くんのように陸(おか)に上がった河童になって、受賞辞退まで引き起こしてしまう。沢村賞辞退なんて悲惨だよ」
「承知しました」
「目くじらを立てると社会の木鐸を気取っているマスコミが寄ってくる。マスコミはクソもミソも区別なく叩くからね。小川くんはそれがチームに迷惑をかけることを予測して潔く辞退した。実に立派だった。いろいろな意味で最優秀投手だよ」
 白井社主が、
「足木くんも、アメリカから広報の勉強をして戻ったことだし、ますますドラゴンズの足場が固まったね。足木くん、これからは自分の要望をどしどし上に進言して、ドラゴンズの繁栄を図ってください」
「はい!」
 足木は感極まった声で返事をした。小山オーナーが、
「カールトンさん、あなたの貢献は大きかった。技術的な面はもちろん、ベンチにあなたがいることで選手たちがどれほど励みに思ったか知れない。その貢献に対して、些少ではありますが、ボーナスをお出しすることにしました」
「ありがとございます」
「ビッグイニーング、はいバヤリース、ハハハハ。ハワイに帰られても、野球およびその他の方面でも多大な貢献をなさることでしょう。また来日する話が持ち上がることがありましたら、遠慮なくご連絡ください。お力になります」
「ありがとございまーす」
 経営陣が微笑んだ。
「木俣くん、ほぼ独りきりの捕手として体力の維持がたいへんだったろうとは思うが、これからも投手陣の面倒見ばかりでなく、ベテラン選手たちと協力してチームの牽引もよろしくお願いしますよ。それから五十五本超えもね」
「わかりました。がんばります」
「中くん、高木くん、球界の要として、これからもプロ野球発展に尽力してください。きみたちが名人でありつづけることが、将来のプロ野球人の希望の光になります」
「はい!」
 村迫が、
「みなさん、ほんとうに日本一おめでとうございました。きょうはお疲れのなかお集まりいただき、ありがとうございました。それではこれからカメラを入れて記念撮影をするので、もうしばらくご辛抱ください」
 写真屋を連れた球団職員が入ってきて雛壇をしつらえた。写真屋が、ユニフォーム姿の水原監督、コーチ陣、選手らを最前列に、宮沢を中心に背広姿の貴賓たちを後二列に立たせてストロボを焚いた。それを合図に報道カメラマンたちがかぎりなくフラッシュを浴びせた。


         十五 

 ロッカールームに戻り、みんなでスーツに着替えた。漆箱とMVPトロフィーと賞状を納めた筒をダッフルに入れて担ぎ、バットケースを提げる。みんな同じ格好だ。監督たちもミーティングルームで着替え、ボストンバッグを持って回廊に出た。警備員と組員に護られて駐車場まで歩く。まだファンが人垣をなしている。フラッシュもしきりに光る。宇野ヘッドコーチが、
「泣き出しそうだったが、こらえたよ」
 江藤、菱川、太田、星野が泣いていた。おかまいなしにファンたちが触ってくる。
「生きていてよかったばい。よか人間たちと出会えた。手柄を挙ぐることもできた」
 水原監督が、
「風来坊の江藤くん、ドラゴンズに居ついてくださいよ」
「言わずもがなばい。監督と金太郎さんと遇ったのは幸いです。二人のいるかぎり、ドラゴンズをよか骨の埋めどころと思っとるのはワシばかりではなかでしょ」
 中が監督に、
「この五日間、新聞もテレビもオフリミットしてました。何の情報も入れたくなかったので。おかげで野球に集中できました。しかし、技能賞をもらえるほどのプレイをしましたかね。どうも……」
 私は、
「初戦一人目の打者として立ち、シゲボールをレフト前ヒット。あれで勢いがつきました。最終打席にもう一本、レフト前ヒットを打ってます。第二戦も初打席レフト線二塁打で切りこみ隊長になり、最終打席にセンター前ヒットで括弧閉じ。第三戦の第三打席にレフト前ヒット、最終打席にセンター犠牲フライ。きょうの試合は、第三打席にセンター前ヒット、第四打席にレフト前ヒット。七本のヒット、すべてセンターから左です。完璧な技能賞です」
 高木が、
「俺は?」
「初日の固め打ち。四試合で六本のヒット。中さんと逆に、すべてセンターから左です。引きつけて巻きこむ技能です。何と言っても、きのうの走塁でしょう。ブロックされた股間に足を入れることは危険すぎて、だれもしません」
「金太郎さんの頭はタコ以上のコンピューターだな」
「太田の足もとにも及びません」
「岡村が弾き飛ばしてくれなかったら、骨折してたな。ついてた」
「弾き飛ばされる直前に素早く足を抜いてました。ツキではなく超絶技能です」
 木俣が、
「ほんの少しだけど、モリさんにツキがあった。岡村はあの一瞬、ホトケ心を出して、尻を落とさずに、上体だけで弾き飛ばしたんです。尻を落としてたらモリミチさんの足は折れてた。キャッチャーとして、岡村の気持ちよくわかります」
 森下コーチが、
「そうか、達ちゃんあのとき、一塁側のネクストバッターズサークルにおったんやな。よう見えたろ」
「はい。アウトだと自信があったので岡村は尻を落とさなかったんですよ。あの一瞬の油断がなければモリさんの足は折れてました」
「ゾゾゾゾォ!」
「冗談でなく、モリさん、来シーズンからはあんな危険な走塁はやめてくださいよ」
「わかりましたァ!」
 水原監督が、
「星野くん、二軍と一軍じゃ天国と地獄だろ? 金太郎さんに感謝しなさい」
「はい。いつも感謝してます。テイクバックが小さい、コントロールが悪い、で一年間意味もわからずやってきましたが、今年神無月さんに速球を褒められてから、コントロールを意識せずに、大きく振りかぶって胸を張って投げるようになりました。そしたら、どんどん打ち取れるようになりました」
「そうなる素質を金太郎さんは見抜いてたんだよ。その後、わざわざ二軍戦を観にいってくれたのに、人材はいなかったようだ」
 太田が、
「俺も、明石キャンプのときの神無月さんの推薦です。感謝してます」
 長谷川コーチが、
「来年は二軍を充実させて金太郎さんにちょくちょく見にきてもらわないと」
 駐車場にすでにバスはいない。寮組を乗せて帰ってしまっている。小野や葛城たちの自家用車もない。水原監督以下、宇野ヘッドコーチ、太田コーチ、半田コーチ、長谷川コーチ、森下コーチ、小川、木俣、中、高木と握手して別れる。監督は運転手付きの車で、ほかの九人は自家用車で帰った。江藤、菱川、太田、星野、私の五人は大通りに出てタクシーを拾い、二台に分乗して北村席に帰った。
 北村席の門前に黒山の報道陣が待ち構えていた。車を降りて門を入るまでフラッシュの目潰しを喰らった。ソテツたちが荷物を受け取りに出てくる。十人に余る組員たちがカメラを押し戻し、私たちを門内へ導いた。菅野が報道陣に向かって、
「江藤選手たちは、きょうはここに泊まります。待っていらしても無駄骨です。お引きとりください」
「写真を一枚!」
「一枚、お願いします!」
「喜びの顔を!」
 五人門前に立ち、ピースサインを掲げた。数分ストロボやフラッシュが瞬いた。
 家の中は上を下への大騒ぎだ。文江さんや節子たちも集まっていた。浅井慎平までいた。
「図々しくお頼みして、ご主人に撮影の許可をいただきました」
 菅野がさっそくトロフィーと楯をみんなに示し、主人は賞状を筒から出して、用意してあった額縁に入れると、座敷の仕切りの欄間に掲げた。私はカズちゃんに、
「この漆箱にけっこうな金額の小切手が入ってるから、いいように処理して」
「はい。いつものとおり、みんなが役立つように使わせていただきます」
 早番で帰ってきていたトルコの女たちが、座布団と座椅子を整えて四人の男たちを座らせた。直人が男たちにまとわりつく。一家の者と女たちが畳に額づき、
「みなさま、日本一、おめでとうございます!」
 といっせいに言った。男たちは口々に、ありがとうございます、と返す。ビール瓶といっしょに皿が大量に並べられる。主人が私たちのコップにビールをつぐ。直人にはイネがオレンジジュースをつぐ。千佳子が山口のLPをバックグラウンドに流す。一家の者も、賄いも、女たちも食卓についた。菅野が、
「では、中日ドラゴンズ、悲願達成にカンパイ!」
「カンパイ!」
「日本一、おめでとうございました!」
 浅井がフラッシュを連写する。江藤が、
「最優秀投手賞の健太郎と優秀選手賞の達ちゃん、技能賞の利ちゃんとモリミチは、トロフィ持って恋しい女房のところへご帰還たい。あとはおるけん、よかろうもん」
 主人が座の者たちに、
「最高殊勲選手賞、神無月さん、優秀選手賞、江藤さん、星野さん、敢闘賞、菱川さん、太田さん。今年のプロ野球界の華が勢揃いだ」
 江藤が直人を膝に抱き、
「おとうちゃん、日本一だぞ。うれしいのう」
「うん、ぼくもにっぽんいちになる」
「そうだ、その意気だ」
 トモヨさんがにこにこ別テーブルに直人の食卓を整える。私はトモヨさんに、
「カンナは?」
「イネちゃんが看てくれてます。直人をお風呂に入れたら交代します。おいで、直人、ごはん食べてしまいなさい」
 直人がトモヨさんのテーブルへ走っていく。




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