六十二

 中村専修郎が、暗殺されてこの世を去ったばかりのネルーの偉大さについて語っていた。そんなことには耳を貸さない羊たちが、王貞治の驚異的なホームランペースについて囁き合っていた。でも、だれも、彼らの偉大さのいきつく果てについては説明してくれなかった。秘密を固く守って口外しないのだった。私は、寺田康男の夢見るような大きな瞳を思った。私を夢中にさせてきた偉大な男―彼のいきつく果てはどこだろう。どこであろうと、私はあのスズメバチのように利発な男のそばに、いつもいるだろう、けっして離れることはしないだろうと思った。
 午後の陽が傾きかかり、教室の窓から、誘うように白鳥古墳の森が見えた。きょうはユニフォームやストッキングを洗濯するから見舞いにいけない、と康男に言ってある。あさっては笈瀬中戦だ。
 遅い野球部が退けたあと、私は学生服とグローブを袋に詰め、部員たちといっしょにアスファルト道にスパイクを鳴らしながら歩いていった。久しぶりにユニフォームを着たままだ。歩きながら、神宮の蒼い杜を眺めた。康男は自力で訓練できるようになったし、私はもうすっかり用なしになってきた。口づけの夜からもうひと月が経っている。この一週間、看護婦たちの交代勤務の時間帯が見舞いのタイミングに合わず、私は滝澤節子と話す機会はなかった。一、二度、廊下やロビーで私服姿を見かけただけだった。
「王はやっぱり、ベーブルースの記録を破るんでにゃあか」
「わからない。どうでもいい」
 つれなく応える。大島は長い首を傾けて臆病そうに笑った。デブシが私の冷たい反応にびっくりしたような表情をした。
「どうした、緊張しとるんか」
「帰ってすぐ洗濯だ。あしたの晩までにユニフォームを乾かさないと。一着しか持ってないから。それを考えたら、うんざりだ」
 実際、王やベーブルースのことなどどうでもよかったし、ましてやユニフォームの洗濯など関心の外だった。
「ユニフォーム一着しか持っとれせんやつなんかおれせんで。三回戦までに、もう一着買っとけや」
「うん。三回戦があればね」
「あるに決まっとるやろ。このごろ、おまえ、おかしいで」
 デブシたちはいきつけのパン屋の軒先にたたずんで、汚らしく咀嚼したパンを牛乳で流しこんだ。牛乳だけ付き合った。彼らがパンを噛むたびに、吹出物に冒されたあごの筋肉が浮き出る。牛乳瓶を握る節くれ立った指、そして頑丈なからだを支える大きな足。太く醜いふくらはぎ。彼らには毎日、家路があるだけだ。家に帰ることのほかに何もすることがないのだ。そしてそれは、ついこのあいだまでの自分自身の姿だった。野球をし、勉強をして、ときおりオナニーをする。くだらない競争にうつつを抜かしながら未来を夢見るだけで、何も考えない。食べて、動いて、疲れて寝るだけだ。夕映えに赤々と照らし出された彼らのもの思わない顔を、私は念入りに観察した。
 関と二人きりで大瀬子橋を渡った。
「俺、本間先輩と同じ熱田高校にいくことにしたわ」
「野球は?」
「もちろん、つづける。神無月はどうする? そのうちスカウトがくるんやろうけど、おまえは勉強もできるで、旭丘や明和にもいけるし、いろいろ考えてまうやろ」
「スカウトがこなかったら、何の予定もないからね。ぜんぜんうれしくないけど、結局そういうことになるだろうな」
「おまえが高校で野球しとらんの、想像できんが」
「今年の公式戦しだいだね」
「優勝しよまい」
「うん」
 飯場では、いつもの酒宴が始まっていた。食堂裏の隘路を抜けるとき、ざわめきの中にカズちゃんのすがすがしい笑い声が聞こえた。酒井棟の労務者たちの声も混じっているようだ。何か小さな工事が一段落したのかもしれない。
 庭に大盥を置き、蚊取り線香を焚きながら、ユニフォームとストッキングを洗った。スパイクも泥を落として、中までしっかりタワシで拭う。シロがかたわらに行儀よく控えて見守っている。めずらしく小山田さんの歌声が聞こえてきた。聴いたことのない歌だ。
「山の煙のほのぼのと、たゆたう森よ、あの道よ……」
 顔に似合わない高くていい声だ。土方たちの手拍子。夜が早く過ぎていくようにと願う社員や労務者は一人もいない。夜が明ければ単調で過酷な労働が待っているから。彼らが義眼のように冷めた世間で発散できるのは、そのあり余る精力しかない。乱暴に掌でテーブルを叩く音、野放図な笑い声、下心のない相槌。私は彼らの気質を心から愛している。彼らと触れるたびに、どんなときも気分が明るくなる。
 ユニフォームとストッキングを物干し竿に吊るし、部屋に戻って、コニー・フランシスのLPを小さくかけながら、グローブにグリースを塗った。四つの壁。いい曲だ。ふと玄関に目をやると、シロが三和土に寝そべっている。きょうのねぐらを、うるさい食堂ではなく、私の勉強小屋に決めたようだ。
 十時に近かった。六月初旬の第一回中統模試のことを気にかけながら、ぼんやり数学の勉強とりかかる。窓辺に人影がゆらりと立った。ぎょっとして窓を開けると、曲がった鼻が覗きこんだ。
「勉強してるな」
「なんだ、クマさんか。どうしたの。きょうはこっちで晩めし?」
「小山田たちに誘われてな。酒井頭領の配下をつれてきていっしょに飲んでる」
 生酔いの赤い顔に笑いを浮かべながら、片目をつぶってみせる。内緒らしいそぶりで受話器を耳に持っていく格好をした。
「大将から電話だぞ。所長の机だ。たまたま俺が電話とってよかったよ。母ちゃんに知れたらうるさいからな。そっといけよ」
「うん」
 康男がこんなに夜遅く何の用だろう。訓練の成果の自慢話かな。それとも、皮膚移植についての愚痴かな。そっちのほうだろうな。
 私はサンダルを突っかけ、庭から下駄屋の前を通って、食堂とは逆の表通りへ出た。戸を引いて入った事務所の中は薄暗く、飴色の床板の上に、クマさんの吸い捨てた煙草が燐光を放っていた。所長の机の上に黒い受話器が横たわっている。受話器というものを手にするのは初めてだった。掌で握りしめ耳に当てた。
「もしもし……」
「おお、神無月か、俺や。センセイ、見張っとれせんか」
「だいじょうぶ、いまクマさんたちの酒の相手をしてる」
「ほうか……。おまえ、今月の五日、誕生日やったやろ」
「うん―」
「もう三週間も経ってまったけどよ、セッチンが、遅ればせながらプレゼントしたいんやと」
「滝澤さんが―」
「おお」
 思わず顔がほころんだ。
「いつ病院にこれる」
「あさっての二回戦が終わったら、二時過ぎぐらいまでにはいける」
「いまセッチンがここにおる。うるさいでいかんわ。替わるで」
 うれしそうな声で言う。
「……もしもし、キョウちゃん?」
「はい」
 私は受話器をきつく耳に押し当てた。
「私です、節子です」
「はい」
 私はかすれた笑い声で応えた。筋肉が硬直し、案山子のように直立不動の姿勢になっている。くつろごうとして、おそるおそる所長の革椅子に腰を沈めた。
「このごろキョウちゃんと話せなかったから、さびしかったわ。キョウちゃんて、五月五日生まれなのね。子供の日。だからいつも明るくて、生き生きしてるのね」
 言葉を返すことができない。受話器の向こうから私を誘いかける光がゆらめいて近づいてくる。それだけがわかる。その光の強さと大きさは、加藤雅江とも、山本法子ともちがう。カズちゃんの大きさに似ている。けれどもカズちゃんとは質がちがう。カズちゃんのような親密さがない。
「私は二月生まれ。二十一歳」
「はい……」
 その年齢がどういうものなのか見当がつかない。たぶん私よりもずっと面倒な生活にまみれている年齢だ。こうして電話しているあいだにも、きちんと区分けされたいろいろな仕事が迫っている年齢だ。
「切手集めとるって? ヤッちゃんに聞いたわ」
「集めてません」
 孫一郎と切手屋へいった話を何気なく康男にしたことがあった。牛巻病院を探し当てた経緯を話しているときだった。康男は、切手屋か、とおもしろがった。きっとその情報がおおげさに伝わったのだ。
「集めてるのはぼくじゃなくて、切手マニアの同級生です」
「そうなの。プレゼントは切手帳にしようと思ったのになあ。じゃ、何にしようかな。ふふ……」
 紙をこすり合わせるような忍び笑いが耳をくすぐった。
「プレゼントなんかいりません」
 ときどき顔を見て、ほんの少しでも話ができればいい、それだけでいい。それを伝えるのが恥ずかしくて、私は意味もなく喉を鳴らして笑った。事務所の掛け時計の音がうるさく迫ってきた。息苦しくて、革椅子で尻もだえした。どうしてこんなに息苦しいのだろう。
「困っちゃう。それじゃ私の気持ちがすまないし……」
「ほんとにいいんです」
「今度はいつくるの? ヤッちゃんさびしがってるよ。いちばん大切なお友だちでしょ」
「はい。試合がすんだら」
「そっか、野球の試合があるんだ。すごいのね、ヤッちゃんに新聞の切り抜き見せてもらったわ、ホームラン新記録の。がんばってね。野球が終わったら、すぐきてあげて」
「おめえが会いたいんやろ」
 という康男の大声が遠くで聞こえた。
「あさって……二時過ぎに……いきます」
 磨りガラスの表面を車のライトが素早く動いた。明かりが射してきて、闇の中で頬をほころばせている私の顔を照らし出した。なぜか恥ずかしい気分になった。食堂のほうからドヤドヤと酒席を切り上げる音が聞こえてきた。酒井棟の人夫たちが隘路を通って引き揚げていく。
「うれしい! あさって、夜中の当直まで非番なの」
 食堂から事務所の裏口へ渡された板張りの通路に足音がして、背後に人影が立った。いやな予感がして振り返った。逆光を背負って母が立っていた。
「何してるの! だれの許可を得て事務所に入ったんだ。電話を切りなさい! 大事な連絡がいつ入るかもしれないだろ。偉そうにふんぞり返って、何さまだと思ってるの!」
 一瞬のうちに頭が沸騰しそうになった。でも、電話の向こうの女のために爆発してはいけないと思い直した。
「いま切るよ」
「よし、わかった、これでおまえの正体はハッキリした。ふとい男だ。とにかく、電話を切りなさい!」
 母はいつもの不機嫌な形相をさらに険しくさせながら、電話に耳を当てたままでいる息子のほうへじわじわ寄ってきた。顔面は蒼白で、何かを恐れるように、ぎこちなくゆっくりと近づいてくる。
「早く切りなさい!」
 電話の向こうで節子が息を呑んだ気配が伝わってきた。
「その電話は一日じゅう空けておかなくちゃいけないんだよ。夜通し現場で働いている人がいることぐらいおまえもわかってるだろ。もし事故が起きて、連絡がつかないなんてことになったら、かあちゃん、どうやって申し訳を立てればいいんだ!」
 母が叫んでいるあいだも、私はそれ以上近づいてこない彼女の白い顔にぼんやり視線を注ぎながら、受話器に耳を押し当てていた。
「どうしたの、キョウちゃん、叱られてるの」
 滝澤節子が呼びかけてくる。
「早くその電話切りなさい! いつ緊急の連絡が入るかもしれないんだよ。切りなさい」
 このしつこさは何だろう。電話はほかに二つも三つもあった。緊急の電話ならかならずどれかが鳴るはずだ。また車の灯りが窓をよぎり、真正面から母の顔を照らし出した。くぼんだ眼窩の奥の眸(ひとみ)が怒りに燃えている。


         六十三

「もしもし、もしもし、キョウちゃん、何か言って」
「―何でもないんです。きょうはこれで。あさって、かならずいきますから」
「いいの。お話の相手をしてもらって、うれしかった。ありがとう。……さよなら」
 私は受話器をそっと置くと、思わず椅子から飛び離れて仁王立ちになった。
「くそババア!」
 一声叫んで、突進した。母はヒーという叫び声をあげながら、つんのめるように食堂へ逃げこんだ。戸口の陰にちらっと人の気配を感じたけれど、私は確かめもしないで通り抜けようとした。横から体当たりで突き飛ばされた。私は目標を失って食堂の隅へ転げていった。
「キョウ!」
 一喝する声が上がった。クマさんだった。彼は充血した目で、お手上げだという身振りをした。
「なんだかなあ……。こういうのってマズイだろ。キョウらしくないんだよ」
 私は立ち上がって、ズボンの膝を叩いた。細かくふるえながら流し台に貼りついている母をかばうように、原田さんが立っている。食卓の五、六人の中に小山田さんや吉冨さんの顔もある。みんなうつむいている。シロまでしょんぼりしていた。吉冨さんはわざとらしくビールを小山田さんの空のコップの上に傾けた。
「正体がハッキリしただと? どうわかったんだ。鬼か、蛇か、それとも悪魔か。自分でもわからないものを、てめえがわかるわけがないだろ。薄っぺらい脳味噌でちまちま考えやがって」 
 茶色く油の抜けた母の横顔が、流しに沈みこんでいる。後ろからやってきたカズちゃんが、両手を垂らした格好で私の真横に立ち、私を何かから防ぐように肩を寄せた。クマさんと小山田さんと吉冨さん以外の社員は、私の悪口雑言にホーッとため息を吐いて、その場を外してしまった。とはいえ残った三人は、私に何か話があるわけではなく、それ以上暴れさせまいとしてその場を動かないだけのようだった。私はいたたまれず、
「クソッたれ!」
 ともう一度叫んで、裏庭から勉強小屋へ戻っていった。
 すぐに寝支度にかかった。眠いわけではなかった。煮えくり返ったはらわたを、机から離れて冷ましたかった。ついでに眠ってしまえれば好都合だと思った。それにしても、あの女は私のすることをいちいち妨害する。まるでそれが生甲斐のようだ。だいたい、あんな小さな電話の声を食堂の喧騒の中でどうやって聞きつけたものだろう。クマさんがしゃべるはずはない。社員たちが散会するのにまぎれてふと事務所にやってきたというも不自然だ。しかも私は生まれて初めて受話器を握ったのだ。
 たぶん母の天秤には二つの分銅しかなくて、一つの皿には息子を物堅い人間にする計画が、もう一つの皿には息子の軌道を外さないように打ち据える警棒が載せられているのだろう。息子の希望を測る天秤など、もともと持っていない。秤を手に吊るしてバランスを測るときの彼女には、ただ父に似た息子の正体を探ってそれを暴こうとする魂胆があるだけだ。一竿だけの天秤は、うまく平衡をとりながら、ふらふら揺れつづけ、皿が上がったり下がったりしている。上下動が激しいときは分銅の量を調節する。いま私にはそのことがよくわかった。
 スカウトの件以来、母は、社員たちから、頑迷な価値観を持った、ひどく扱いづらい人物だという評価が定まったように見える。そのことは社員たちの目つきですぐにわかった。クマさんや吉冨さんは、反感さえ抱いていた。それでも基本的には、彼女はなるべく刺激しないほうがいい気の荒い親熊であり、かわいらしい子熊にもなるべく親しまないほうがいいと判断しはじめているようだった。
 クマさんも小山田さんも吉冨さんも、それぞれ胸を痛めていることは彼らの表情から明らかだったけれど、親熊の目をはばかって勉強小屋にやってくる危険は冒さなかった。そんなことに頓着しない、もと不良少女のカズちゃんだけがやってきた。玄関のガラス戸が開き、影が三和土に立った。
「キョウちゃん、いる?」
「いるよ」
「あら、真っ暗。もう寝ちゃったの」
「寝てない、気を静めてるんだ」
「私、キョウちゃんの荒れてる理由が、たぶんわかるような気がするの。私の考えすぎじゃないと思うけど……。今夜、十一時に上がるわ。そのあと、きて。大瀬子橋のたもとで待ってる。かならずきてね」
 そう言って、暗い部屋の蒲団に膝で摺り寄り、唇にそっとキスをして帰っていった。滝澤節子のそれよりはるかにやさしい、魂に滲み透るような口づけだった。この口づけの意味は何だろう。まさか、大瀬子橋のたもとで、中学生らしい生活の大切さや、人としての倫理感の重さや、性的な欲求不満こそ心を荒らすもとだといったことを、知ったように説き聞かせるつもりではないだろう。〈不良〉のカズちゃんがそんなことをするはずがない。私を慰めるために、康男のような義侠心から、孤立無援の私を慰めるために、ひたすらあの〈約束〉を果たすつもりなのだ。
 十一時を過ぎて、母はこっそり縁側から自分の部屋に上がり、しばらくごそごそやっていたが、思いついたように猫を呼び入れ、やがて静かになった。万年炬燵にもぐりこむ姿を浮かべてゾッとした。板襖の隙間から明かりが漏れている。私は起き出して学生服を着、わざと音を立てて小屋の玄関から外の闇へ出た。
 脇目も振らず小屋から遠ざかるように歩いた。
 ―なんだ、あの女は。キチガイか。あんな女とよく長いあいだ暮らしてきたものだ。もうまっぴらだ。
 心がざわめき、憎しみの糸をほぐすどころか、怒りの原因を見きわめることさえ難しかった。この夜まで私が引きずってきた律儀な日常は、たった一瞬の爆発的な怒りのせいで、取り返しのつかないほど変形してしまった。こうなってはもう、見舞いの口実で康男や滝澤節子のそばへ近づくことは許されないだろうし、スカウトもことごとく門前払いにされるだろう。
 すさんだ笑いがからだじゅうに拡がっていく。もうほとんどヤケと言ってよかった。いまたった一つのよるべは、カズちゃんとの約束でウサを晴らすことだった。それが果たされれば、母への怒りが薄れる予感があった。カズちゃんはだれよりも美しい女だ。このごろ横顔を盗み見て、しみじみ感じはじめた。彼女を抱き締めたい。そして、美しい女に未知の領域へ導かれたい。
 大瀬子橋のたもとに、カズちゃんの引き締まった大柄のからだが立っていた。目と鼻の先に、加藤雅江の家の大楠が見えた。
「歩きましょ」
 カズちゃんは橋を渡り、堀川沿いに宮の渡しのほうへ歩いていった。目の前に堀川があった。宮の渡しのベンチに腰を下ろした。ベンチは冷たかった。私は水面から立ち昇るねばねばと濃密な空気を吸った。川面は暗くて、どこからの光の反映もなかった。遠く眺めると、川が大瀬子橋の橋脚にどんよりまとわりついて流れていた。流し台に曲がり落ちていた母の首筋を思い出した。木綿の半袖シャツから突き出した、細い、シワ垂れた腕も。
 私はこの世に自分ひとりが存在しているように感じた。でも、もうひとりが私に並びかけて腰を下ろした。
「キョウちゃん―二人の約束を憶えてる?」
「うん」
「きょうがその日よ。キョウちゃんを慰めるためじゃないわ。私が大好きなキョウちゃんに抱いてもらいたいの。だから、これは私のお願いなの。叶えてくれる?」
「うん」
「キョウちゃんに初めて会ったのは、五年も前ね」
「うん、小学校四年生のとき」
「私は二十五だったわ。あのとき、一目で好きになっちゃったの。おかしいでしょ、いい大人が」
「ぼくも、カズちゃんのこと、最初から好きだった。プンとしたからだつきが、とっても好きだ。顔も……」
 カズちゃんが手を握った。私も強く握り返した。しばらくそうしていた。
「お母さんが事務所に忍んでいくのを見て、後ろからそっとついていったの。キョウちゃんが女の人のことで悩んでるのは、しばらく前からわかってたわ。愛してるから、しっかり感じるの。きっと、大将さんの病院の看護婦さんでしょう。……あんな夜遅く電話してくるなんて、キョウちゃんのことを考えない人ね。……きっと、からだも、心も、キョウちゃんにすべてを与えることはないわ。ただ気を惹いて振り回すだけ。こんな話、信じないでしょう? 確かめるのは自分ですればいいわ。よく納得するまでね。それまでは信じてあげなさい。だめだとわかったら、振り切るのよ」
「うん。……ぼくの荒れてる理由がわかるって、言ってたけど」
「キョウちゃんが荒れてるのは、お母さんの意地悪のせいじゃない。お母さんなんか、キョウちゃんは最初から信頼してないから、腹が立たないはずよ。あきらめて、心の中で笑ってるはず。その人を信頼したいけど、深いところで信頼できないとなると話は別。そのせいよ、心が荒れてるのは。キョウちゃんは、その女の人を見抜いてるのよ。だから不安でしょうがないの。……自分じゃわからないでしょうけど、キョウちゃんはすごい人なんだから。余裕をもってほしいの。思い切り笑い飛ばしてほしいの。キョウちゃんに比べたら、女の五人や十人―。そんなもので悩むのは、キョウちゃんに似合わない。女のからだなんてつまらないものは、早く知っておいたほうがいいの。心と比べたら、大したものじゃないんだから。そんなものにキョウちゃんともあろう人が、いつまでも期待を持ってたり、あこがれたりしちゃだめ」
 私はただ驚くばかりだった。まるで預言者のように何もかも見抜いている。ただ、私がすごい人間だというのは、カズちゃんの勘ちがいのような気がした。
「……いらっしゃい。キョウちゃんは私の心臓なの。いつもいっしょよ。どうせ、ヤケッぱっちな気持ちでここにきたんでしょう? もうどうなってもいいって思って。そうはさせないわ。だれかがキョウちゃんをどうかしようとするのは防ぎきれないけど、キョウちゃんが自分でどうかなろうとしたら、ぜったい止めてみせる。人がキョウちゃんをどうかしちゃったとしても、そのあとかならず救い出してあげるわ。けっして失敗させない。キョウちゃんと私は死ぬまでいっしょよ」
 カズちゃんの暮らしている鶴田荘は、年季の入ったアパートで、孫一郎の家から一分ほどのところにあった。鉄の階段を彼女の後ろについて上った。真っすぐできれいなふくらはぎをしていた。三号室の戸口に《北村和子》という厚紙の表札が掛かっていた。丁寧にビニールで覆われていた。 
 靴脱ぎに入ると、立ったまま抱き合ってキスをした。滝澤節子のときとはちがった感激が首と背中に走った。
「キョウちゃんにこんなに強くキスしてもらえるなんて、信じられない」
 カズちゃんの顔を見ると、目が真っ赤に潤んでいる。
 掃除の行届いた部屋の真ん中に大きな丸テーブルが置いてあった。クマさんの社宅と同じ六畳に四畳半の造りだった。奥の部屋に蒲団が敷いてあり、豆燭だけを灯して暗くしてあった。〈そのこと〉だけに私の神経を集中させるためのようだった。これまで夫婦で生活してきた部屋のせいか、六畳の部屋には家具がたっぷり詰まっていた。それが清潔に整っている。テーブルに向き合って坐った。
「この部屋、アパートにしては広いでしょ。もう八年も暮らしてるの」
「きれいにしてるね。カズちゃんの雰囲気にぴったりだ」
 壁に立派な書棚があり、本がぎっしり並んでいた。古い作家の本が多かった。宮本百合子、林芙美子、平林たい子。藤森成吉とか宮嶋資夫といった見慣れない名前もあった。
「さ、キョウちゃんの童貞をさっさと捨ててしまいましょう」
 彼女は奥の部屋に私を連れていき、豆燭を蛍光灯に切り替えて部屋を明るくすると、蒲団の脇に立ったまま、するすると自分の服を脱ぎ捨て、私の服も脱がせた。
「これが女の裸よ。よく見て」
 まとめていた髪を下ろし、両手を後ろ手に組んで、すらりと立った。思ったより首が細く、肩が形よく張り、大きい胸が反り上がっている。長く豊かな脚の付け根に淡く陰毛が翳っていた。私は近寄って胸をつかみ、揉んだ。手のひらに吸いつくようだ。カズちゃんが微笑んだ。肩を撫ぜ、腰を撫ぜ、尻を撫ぜた。尻は反り上がるように隆起していた。陰毛を掌でさすった。なんと美しいからだだろう!
「きれいだ……」
「ありがとう。男の人にこんなふうに触ってもらったの、初めて」
 カズちゃんは私を抱きしめながら蒲団にそっと押し倒した。並んで横たわり、半身を起こして、私がしたのと同じように、肩をさすり、胸と腹をさすり、生え揃いはじめた陰毛をさすった。
「きれいなからだ! この世のものと思えないくらいよ。オチンチンの毛のほかは、おヒゲも生えてないし、脛毛も腋毛も胸毛も生えてない。ほんとに大理石みたいなからだ。あら、伸びてきた―」
 カズちゃんは私の性器をそっと握った。ぐいぐい大きくなってきた。
「頭が出てきたわ。大きなおカメさん!」
 おどけたふうに言い、柔らかい眼差しを注いだ。
 十五歳の想像力が、これから起きることを過不足なく汲み取ることは難しかった。灼熱の火口に近づいていくような危機感と、不安と、期待があるばかりだった。カズちゃんは片手で私のものを握りながら、顔を寄せてやさしいキスをした。その唇を胸に滑らせ、乳首を舌で愛撫し、臍を舐め、さらにその口を下へもっていって、石のように硬くなった棒を呑みこんだ。指で包皮をほんの少し強く引くと、口の中で亀頭が露わになった。ゆっくり顔を上下させたり、舌で舐め回したりする。昇りつめるほどではなかったけれども、するどくて、心地よい感覚だった。やがて顔を離すと、
「何もかもすばらしくできているのね。ふつうの大人よりずっと立派よ。カリがとても高くて、くびれが深いわ」
 指先でその部分をさすった。カズちゃんは私と手を組み合わせた。
「ほとんど剥けているから、きょう私とすればすっかり大人になるわね。……私のオマンコ憶えてる?」
「うん」
「指を入れたところがあったでしょ」
「うん。それ以上はだめって言ったよね」
「そう。どうしてダメって言ったか、きょうすっかりわかるわ。いまからそこにキョウちゃんのオチンチンを入れるのよ。……恐い?」
「少し。……でも、あんな小さい穴に入るの?」
「入るの、伸びるから。さあ、今度は私のを見て」


         六十四 

 カズちゃんは大きく脚を拡げた。私は明るい光の下で彼女の性器を克明に見た。股の付け根の内側に薄く陰毛を生やした低い堤が肌色の会陰までつづき、そのさらに内側に、濡れて光る薄茶色の襞が一対、ひらひらとよじれるように左右に貼りついて少し口を開けていた。私はその襞を指で開いた。あのときと同じ淡いピンクの領域に水が溜まっていた。襞のいただきの包皮から、ほのかに色づいた丸い突起が顔を覗かせて光っている。
「触って……」
 一つひとつ触っていった。記憶していたよりもはるかに水っぽく、温かく指先に触れた。突起に指がきたとき、カズちゃんの脚がかすかにふるえた。
「ここにキスしていい? カズちゃんがしてくれたみたいに」
「まあ……うれしい」
 そこに唇を触れた。カズちゃんがかすかにうめいた。いまは教えないと言われたところに指を入れた。滑らかに入り、奥のほうに、どこまでも深い、温かい泉を感じた。私はカズちゃんのしたことをまねて、舐めたり、唇で引っ張ったり、舌を圧し当てて回したりしてみた。彼女は何度も小さくうめきながら、だんだん呼吸を荒くしていき、とうとう引き攣るようにふるえるると、ガクンと腹の表面を縮めた。それを二度、三度繰り返した。私はなだめるようにその腹をさすった。固く縮んだり、緩んだりする。カズちゃんは私を見つめ、
「驚いたでしょう?」
 と恥ずかしそうに言った。
「うん、どうなっちゃったの?」
「からだが思いどおりにならなくなるの。いやな感じ?」
「ううん、かわいらしかった」
 実際、そう思った。
「うれしい。さあ、キョウちゃん、童貞を捨てましょう。キョウちゃんの童貞をもらえるなんて、うれしくて天にも昇りそう。心配しないでね。とても気持ちいいことよ。……私もさっきよりもっと強く感じるから……ほんとに驚かないでね。かわいらしくないかもしれないわ」
 カズちゃんは起き上がって、小便をするような格好で私の腰に跨った。猥褻本の人形写真では見たことがあったけれども、目覚ましい感じがして胸が轟いた。クリトリスの包皮と突起がはっきり見えた。私の反り返っている性器を三本の指でつかむと、真っすぐに立て、その先でしばらくクリトリスを愛撫し、それから温かくぬるついたものに押し当てた。私は心の底から揺り動かされて、大きな秘密に近づいていくのを感じた。
「キョウちゃんの初めての女になるのね。うれしい」
 カズちゃんは私の腹を両手で支えると、そろそろと腰を下ろしていった。
「入っていくのがわかる?」
「うん」
 密着した滑りのいい真皮に性器の先が包みこまれた。その瞬間、彼女は遠いところから呼びかけるように、
「ああ、愛してるわ―キョウちゃん、死ぬまでよ」
 と囁き、深く腰を落とした。とつぜん、狭い暖かな空間へ滑りこむ感覚があった。いっぺんに性器全体に熱い襞が密着してきた。なんという感覚の翔(はばた)きだろう! 感覚だけがあった。私は眼を開いたまま、その感覚を通してカズちゃんの内部の鼓動を聴こうとした。
「ああ、キョウちゃんが入ってるわ。なんて気持ちいいの」
 彼女の尻が上下に動きはじめた。性器が熱く濡れた襞を滑り動く。目を閉じた彼女の顔に悦びの表情が浮かんだ。
「キョウちゃん……気持ちいいわ、こんなの初めて、あああ―」
 明るい光に照らされるカズちゃんの顔を見つめながら、いつのまにか乳首が突起している大きな二つの乳房を握った。掌に余る大きさだった。柔らかく包みこむ道を幾度も往復する感覚がつづいていた。それは自分の指でするよりもはるかにやさしい圧力だった。カズちゃんは喉の奥から連続して不思議なため息を洩らした。暖かい空間がじわじわと狭まってきた。強く切迫した感じがあった。
「ギュッとなってきた、すごく気持ちいい」
「私も……」
 そのことを詳しく告げるのがカズちゃんはなぜか恥ずかしい様子で、そのまま静かに動きつづけた。
「ああ、気持ちいいわ。キョウちゃん、愛してる、大好き」
 カズちゃんはうっすらと目を開け、やさしく言った。尻の上下が速くなった。とつぜん高潮の予感が押し寄せてきた。彼女には私が昇りつめようとしているのがわかるようだった。
「すごく大きくなってきたわ、イキたいのね、いいのよ、イッて。ああ、気持ちいい、私もイキそう、いままでとぜんぜんちがう―」
 膣のうごめきが私の性器の表面に伝わってきた。空間が私を握り締めるように狭まり、腰の動きがさらに速まった。私はこらえ切れなくなった。たちまち排泄の予感に襲われた。それは飯場の便所で自分を汚すときの瞬間にひどく似ていたので、とっさに私は腰を引こうとした。
 ―汚いものがカズちゃんの中に入ってしまう!
 彼女は逃れようとする私の下腹を両掌で押さえ、強く自分の性器を押しつけた。
「あ、キョウちゃん、イクわね、いっしょにイキましょ、あああ、信じられないほど気持ちいい、イク!」
 疼痛―。快い痛みが下腹に走り、それがカズちゃんの内側にほとばしり、暖かい空間を満たした。彼女は私に覆いかぶさり、しっかりと両腕で抱きしめた。私は、まろやかで深々とした感覚にからだを浸されながら、何度か律動をくりかえした。そのたびに彼女の尻が跳ね上がった。
「あああ、だめ! ウン!」
 私の唇を強く吸いながら、痙攣する腹を私の腹に打ちつける。すぐに唇を離して持ち上げた顔が苦痛に歪んでいる。
「あ、だめ、またイク!」
 カズちゃんの痙攣は一分余りもつづいた。尻と腹を前後させる彼女の目に涙が浮かんでいた。どうして彼女が泣いているのかわからなかった。
「かわいい人、かわいい人……死ぬほど愛してるわ」
 やがてその目を開き、私をしみじみ見つめると、カズちゃんは私の唇を強く吸った。性器の根もとに自分の排泄物があふれ出してきた。
「カズちゃんのお腹の中が汚れちゃった」
「ちがうわ。キョウちゃんが浄めてくれたのよ」
 微笑みながら言うと、結合していた性器を離し、私のものに付着した体液を丁寧に口で舐め取った。それから安心したように肩を並べて横たわった。
「汚くないの?」
「汚いもんですか。キョウちゃんと私の愛情が混じり合ったものよ」
 私は彼女の胸の谷間に顔を押しつけた。幸福だった。
「あんなにふるえて、だいじょうぶだった?」
「だいじょうぶよ。キョウちゃんのこと大好きだから、止まらなくなっちゃったの。今度こそびっくりしたでしょ」
「びっくりした。でも、信じられないくらいかわいかった」
「ありがとう。キョウちゃんの大切な童貞をくれたのね。ほんとうにありがとう」
「ぼくこそありがとう。口で言えないほど気持ちよかった。カズちゃんは?」
「キョウちゃんの十倍も気持ちよかったわ。何度もイッちゃったでしょ? ビックリしたのは私のほうなの。……若いころから男の人とだいぶ遊んできたけど、こんなふうになったの初めてだったから。―幻滅した?」
「ううん。幻滅なんかするはずがないよ。男よりも快楽が強いって、本で読んだことがあるもの」
「私もきょうまでそう思ってた。気持ちよさが男より強いんだと思ってた。それなりに満足してただけだったのね。愛してる人とするとぜんぜん別物、こんなにちがうものだったのね。ありがとうキョウちゃん、私、キョウちゃんのおかげで、ほんとうの女にしてもらったわ」
 新鮮な言葉の響きだった。私はその言葉を甘露のように飲み下した。
 その姿勢のまましばらくのあいだじっとしていた。そうしているさなかにも、私は神秘の正体に触れたくなり、自然と指がカズちゃんの股間を探り動いた。
「魔法の指みたい。気持ちいい」
「ここが気持ちいいと、あんなふうになるんだね。不思議だ、ほんとに」
「私、もう、いつ死んでもいいわ」
 カズちゃんは私の肩に固く額を押し当てた。
 私は自分のものがふたたび硬直して立ち上がっているのを感じた。カズちゃんの手を導いてそのことを知らせた。彼女は強く握り締め、
「またしてくれるの? うれしい」
 仰向けになってからだを開いた。
「入れるところ、わかる?」
 私はうなずき、カズちゃんのしたように亀頭の先でクリトリスを上下にこすってから、柔らかな膣口へ挿し入れた。ハアッ、とカズちゃんがせつなそうな声を上げた。さっきとは異なった感覚が私を圧倒した。濡れそぼった空間が強く緊張していた。私は短い時間に教えられて目覚めた感覚を求め、本能的に腰を動かした。長く予定されていたことのようにその行為は滞らなかった。亀頭の刺激に神経を集中する余裕さえあった。
「ああ、キョウちゃん、気持ちいい、どうしよう、私……」
 ますます空間が緊迫してきた。カズちゃんは泣きそうな顔をしながら、自分から腰を動かしはじめた。たちまち快感が強まり、
「カズちゃん、ぼく、もう―」
「ああ、どうしよう、どうなるのかしら、ほんとに嫌いにならないでね、どうなってもびっくりしないでね、私、もうだめ、ああ、ほんとにもうだめ」
 だめという意味が私の性器に伝わった。軋るように緊縛の度合いが増した。
「キョウちゃん、私、イッちゃう、ごめんね、あ、イクウ!」
「カズちゃん!」
 私は強く恥骨を押しつけて、カズちゃんの奥深く放射した。彼女の陰阜が二度、三度と跳ね上がった。私は射精の律動を繰り返しながら、彼女の唇を吸った。激しく吸い返してきた。彼女の膣が私のものの周りで痙攣して異様にうごめいた。
「中が、ずっとビク、ビクしてる」
 カズちゃんは恥ずかしそうに何度も夢中でうなずいた。膣が箍(たが)のように締まり、不思議な蠕動が始まった。
「ああ、おかしいわ、止まらなくなってきたわ、わあ、だめだめだめ、イッちゃう、イッちゃう、イク! ああああ、苦しい、お願いキョウちゃん、抜いて!」
 私はあわてて引き抜いた。瞬間、カズちゃんは喉の奥から声を絞り出し、横向きになるとからだを屈めて三度、四度と激しく痙攣した。私は彼女の背中に寄り添い、乳房ごと抱き締めた。尻が私の腹を何度も打つ。深い神秘があった。桑原の写真を見ただけでは窺い知れない神秘があった。そしてその神秘は、この上なく清潔に感じられた。滝澤節子の白衣姿が抵抗もなく遠ざかった。
 だんだんふるえが間歇的になっていった。カズちゃんは速い呼吸をしていた。少し口を開け、かわいらしい苦悶の表情を浮かべている。私は丸くなっているカズちゃんを仰向けにして、唇を吸った。カズちゃんはからだに自由が戻ってくると、
「嫌いになった?」
 と尋いた。
「どうして? とても清潔で、美しいのに」
「みっともなくなかった?」
「ぜんぜん。ますますカズちゃんが好きになっちゃった」
 カズちゃんは、キョウちゃん、とむせんで抱きついてきた。
「だいじょうぶね、その人に裏切られても、がっかりしないわね。からだを与えることをもったいぶったら、それはキョウちゃんを愛していない証拠よ。気をつけてね」
 奇異な感じを抱いた。滝澤節子が私にからだを与えないことは裏切りであり、与えれば愛情のある証拠だと言うのだ。つまり、滝澤節子と肉体を交える私の裏切りには何のわだかまりもないということだ。
「カズちゃんは、ぼくがその人としてもいいの?」
「もちろんいいのよ。彼女に愛があれば、ぜったいするはずだから。愛を受けるのはキョウちゃんの幸せよ。キョウちゃんが幸せになるのは、私の幸せでもあるわ。でも、その人は私の勘だと、キョウちゃんとしないわ。いいえ、たとえしたとしても心からじゃない。だから、きっと最後はキョウちゃんのことを面倒に思うようになる。キョウちゃんが苛立ってたのは、その人が自分の身を守るために、こんな簡単なことを叶えてくれそうもないし、叶えてくれたとしても、それに見合うほどの信頼感を与えてくれそうもないって感じるからよ。……きっとキスはしたはずね。キョウちゃんに何かを期待させるようなキスをね……。もう目に見えるようだわ。キョウちゃんはとってもかわいいから、きっとキスをしたかったんでしょう。無理もないことよ。でも、私のようにキョウちゃんを愛してるわけじゃないって気がするの。いやな予感がするの。でもそれは、キョウちゃんが自分で確かめなければいけないことよ。かならずそうしないといけないわ。私はキョウちゃんのすることは何も訊かないから、遠慮なんかしないでね。苦しくなったら、いつでもここにきてね。どんなときも、私はキョウちゃんといっしょにいるわ」
 カズちゃんはティシューで股間を拭うと、また私のものを丁寧に舐めた。
「ほら、キョウちゃん、もう、きちんと剥けてるわ。これで一人前の男よ」
 何度も包皮を往復させると、もう一度口に含み、いとしそうに短い時間舌を使った。私はカズちゃんの独占欲のなさにこだわった。
「……ぼくがそんな破廉恥なことをして、カズちゃんは平気なの」
「私は、キョウちゃんが何をしようと、キョウちゃんそのものが好きなの。キョウちゃんのすべてが好きなの。男はセックスごときで、人格まで変わらないわ。少し幸せになるだけ。女は人格を保とうとしたら、貞節を貫かなければいけないの。セックスで人格が変わってしまうからよ。だから、愛する人にだけにしかからだを捧げなくちゃいけないの。そういう生きものなの。愛していない人とすると、かならず裏切ることになる。私が亭主にしたみたいにね。だから私は、これから死ぬまで、キョウちゃん以外の男にからだを触れさせない。さあ、帰りましょう。私たちのことはだれにもじゃまさせないわ。だから、うんと用心しなくちゃ。キョウちゃんも用心してね」
「うん」
 カズちゃんは服をつけ、私にも促した。箪笥の上の置時計が二時を指していた。



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