二十三

「ダッコちゃんのお見舞いにいってくる」
「また?」
「退院して、クニに帰るそうなんだ。これで最後だよ」
 ―どうしてダッコちゃんのことが気になるんだろう。もらった本も読んでないし、会いにいったって、何も話すことがないのに。
 病室を訪ねると、ダッコちゃんのベッドがきれいに片付いていた。私の古巣のベッドには、腰に袋を垂らした初老の患者が横たわっていた。枕もとのトランジスタから、ボビー・ビントンの『涙の紅バラ』が流れている。彼に似合わなかった。
「ここにいた人は、退院したんですか?」
「さあ、私がきたときは、もうだれもいませんでしたよ」
 私は階段を下りて受付へいった。
「ぼく、不随者病棟の篠崎さんと同室だった神無月郷ですけど。篠崎さんはいつ退院したんですか」
「きのうの午後、いえ、おとといだったかしら」
「住所を教えてください」
「さあ、うかがっておりませんが。担当の者に訊いてみましょうか」
「お願いします」
 受付の看護婦は電話を取り上げた。そうですか、と一回うなずいて話が終わった。ダッコちゃんは、帰郷先の住所をだれにも知らせていないことがわかった。
 病院からの帰り道、千年の交差点を渡りかけたとき、ふと『土田基督教教会』という白塗りの看板が目に入った。蔦をからめた門口のたたずまいに魅かれ、深い考えもなく入っていった。ダッコちゃんと最後に交わした会話が頭に残っていた。
 二十人ほどの人たちを前に、黒い服を着た外人の会師が、少し高い教壇からあまりうまくない日本語で声高に話しかけていた。私は座らずにじっと突っ立ったまま、彼の様子を見守った。天国というものについて説いているらしかった。話の内容はひどく難しくて、そのうえ古風な言い回しで説明するので、何の意味も汲み取れなかった。死後の世界というものに私は興味を持っていなかった。何かを成し遂げる場所はこの世にしかなくて、その場所で、その何かのためにがんばることこそ大事なのだと思っていた。
 説教を聞いているうちに、私は最近中学生の勉強室で聴いたばかりの〈抽象〉と〈具体〉という言葉を思い出した。抽象名詞、抽象画、抽象芸術……。冷たい感じ、失敗のないように検算をしている感じ。人を教え諭す牧師というのは、きっといつも深い抽象の世界にいるせいで、胸の中の温かい具体的な想いが、冷たく洗練された抽象語に変わってしまうのだろう。
 牧師が急所の言葉らしいものをしゃべると、大勢の人たちが胸に手を組み合わせて、ぶつぶつと祈りの文句を唱えた。そのすきに牧師はブーと鼻をかんだ。祈りつづける信者たちの服装はきちんとしていて、ものごとに動じない雰囲気があった。仲間同士仲がよさそうで、説教の合間にふとおたがいに顔を見合すときなど、じつに愛想がよかった。ただその礼儀正しい態度には、どこか冷ややかで、人を寄せつけないものがあった。
 ―こんな人たち、見たことないな。
 祈るという行為は信者たちにとって、何かもともと必要な、生活に欠かせない習慣のようだった。祈ることで彼らは自分を捧げる儀式に浸りながら、イエス・キリストと一つになろうとしているようだった。私には、それが何か真剣さのない、もったいない時間のように思われた。キリストと一つになることは、こうして儀礼的に寄り集まらないでも、自分の心の内部でできることだった。
 彼らは、ダッコちゃんとはぜんぜんちがう雰囲気をただよわせていた。私は、ダッコちゃんが私に住所を知らせないで去ったのは、無関心や裏切りではなく、もったいない時間をすごすなという、精いっぱいの誠意だったのではないかと思った。
 ―きっと、ぼくがこれから野球や勉強で忙しくなることを考えて、手紙を書くようなもったいない時間を使わせないようにしたんだ。ぼくの手紙はきっと、ここにいる信者たちみたいに、ダッコちゃんへの同情と、祈りと、礼儀でいっぱいになるだろうから。そんなつまらないものは、ぼくにも、ダッコちゃんにも必要のないものなのだ。
「聖歌、××番!」
 会師が厳かに命じた。信者たちはあわててページをめくった。オルガンが鳴り、太い声や細い声が、てんでばらばらに弾けた。調子の外れた胴間声も聞こえる。
 歌が終わったあとで、黒い帽子を持った女が、
「お心づけをお願いします」
 と言いながら回ってきた。灰色の服から枯れ草のようなにおいが昇ってきた。私がためらっていると、
「ほんの少しでけっこうです。五円でも、十円でも」
 とその場から動かない。
「すみません。持ってないんです」
 私は顔を赤らめて答えた。お金を求められるとは思いもしなかった。女はやさしい微笑を浮かべ、
「いいんですよ。次の機会で」
 と言って、ほかの人のほうへ移動していった。私はそっと踵を返して表へ出た。
 一日、しみじみとさびしく、夜遅く寝床に入ってから、ダッコちゃんからもらった『ドクトル・ジバゴ』を開いてみた。思っていたとおり一行も意味がわからなかった。 
 ―これで、ダッコちゃんとは一生会えないんだな。
 キリストも生きていたころは無名だった、とダッコちゃんは言った。死んだあとで有名なるというのは、生きているときにすばらしい生き方をしたからこそのことで、そういう生き方をしなければ名は残らないわけで、さもなければ、たとえ生きているうちに名を挙げても、やがて忘れられてしまうのだ。ダッコちゃんは私にとっての有名人で、永久に私の胸に残るだろう。
 それからしばらくして、ダッコちゃんのことはあまり思い出さなくなった。それでもときどき、長身で、黒縁の眼鏡をかけた、動作が緩慢で陰気臭いけれども、それだけにかえってやさしい感じのするなつかしい姿を思い出すことができた。するとかならず、私の胸に淡い喜びのようなものが湧き上がってきた。
         †
 十月の末に、奇妙な試験があった。
 青山先生の国語の授業中に、白衣を着た保健婦が教室にやってきて、
「いまからクラス一斉で、ちょっとした小テストを行ないます。これは学期試験とは関係のない生活調査用の簡単なものです。心理テストみたいなものなので、通知表とは関係ありません。気楽な気持ちでやってください。試験時間は五十分です」
 明るい顔で言って、青山先生にうなずきかけた。授業が中止になり、みんなでぞろぞろ音楽室へ連れていかれた。桑原は廊下の壁を相手に、
「ファイティング原田、ラッシュ、ラッシュ」
 と言いながらシャドーボクシングのまねをしていたけれど、河村千賀子も天野も清水明子も、なぜかいつもとちがう強張った表情をしていた。音楽室の机につくと、保健婦の手で七、八ページの『××式メンタルテスト』という表紙の小冊子が配られ、すぐに、
「はじめ!」
 の合図がかかった。
 ―何だ、これ。
 細かい足し算、引き算、図形がびっしりと並んでいる。問題の指示どおりに五分ほどやってみると、保健婦の言ったとおりひどく簡単だったので、私は鉛筆を置いた。あまりにも簡単すぎるので、これはたしかに勉強の成績とは関係ないな、といつもの打算を働かせたのだった。それでなくても、このごろの私は勉強そのものに、そしてその結果の成績そのものに、中学へ入った当初ほど価値を認めていなかった。それが、ふだんの試験より重要でない試験となればなおさらだった。私は鉛筆を指で弄びながら、周囲の観察にかかった。机に屈みこんでいる清水明子の後頭部を眺めた。ポニーテールをゆさゆさ振りたてながら、懸命に何か書きこんでいる。ときどき髪をかき上げる指が赤ん坊のようにふっくらしている。
 ―まじめなやつだな。どうしてこんなつまらない試験を夢中でやってるんだ? 後藤ひさのは? 天野は? 河村千賀子は? 加賀美は?
 みんなうつむいて熱心に取り組んでいた。鉛筆の音が絶え間なくしている。桑原までせっせと鉛筆を動かしていた。なんだかいつもと様子がちがう気がした。後藤ひさのの脇腹を指で突っつくと、邪険に振り払われた。一段落ついたのか、清水明子は疲れた様子で窓の外に横顔を向けた。
 ―どいつもこいつも、よっぽど試験が好きなんだな。学期試験と関係ない生活調査って言ってたじゃないか。……でも、こんな足し算や引き算が、毎日の生活とどういう関係があるんだろう。問題のできが悪いと、生活の仕方がなってないということになるんだろうか? そう思われるのはちょっとイヤだな。
 仕方なくまた五分ほど問題を解いてみた。あまりのつまらなさに、今度は完全に鉛筆を置いた。そして頬杖をついてみんなの様子を眺めたり、窓の外を眺めたりしながら時間をつぶした。五十分という試験時間は、おそろしく長かった。


         二十四

 何日か経った夕方、飯場にスモールティーチャーが訪ねてきた。母が勉強小屋にいた私を呼びにきた。まだユニフォーム姿だった。
「忙しいときに、いったい何だろうね。おまえ、学校で何かしくじったの?」
「べつに」
 母と私は、まるで父兄面談のような格好で山田先生と向かい合った。カズちゃんがせっせと炒めものをしている。いいにおいがする。
「担任の、山田と申します。なんだ神無月くん、まだユニフォーム着てるのか」
 山田先生が硬い笑顔で言う。
「すみません。いつもこうなんですよ」
 時分どきに仕事を中断させられた母は、妙にイライラした感じで飯台をさすりながら言った。スカウトに対面したときの格好だ。
「ご用向きは何でしょう。ごらんのとおり忙しいので、手短にお願いします」
「お時間は取らせません。じつは……申し上げにくいのですが、先日、公式に知能テストを行いまして」
「は? ええ」
 母の目が吉報を期待するように輝いた。
「……神無月くんの結果に、私ども驚きまして。ひどく低い数値が出ましてね。ま、低いといっても、普通を少し下回る程度のものなのですが、ただ、ふだんの成績があまりにも優秀なので、これはおかしいということになって―」
 山田先生は丁寧な物腰で、母のほうにからだを屈めた。カズちゃんが一瞬手を止めて振り向いた。
「どういう意味でしょう?」
 たちまち母の顔から血の気が引いた。
「や、お気を悪くなさらないでください。神無月くんがこれだけの学習効果を上げているということは、ひょっとしてご家庭で、本人の能力を超えたスパルタ教育がなされているのではないかと、一同、そんなふうに……」
 母は鷹のように眼光を鋭くして、山田先生の目をまともに見つめた。
「能力を超えたとは何です、失礼なことを! この子の頭の良さは折り紙つきですよ」
「……それはわかっておるつもりでしたが」
「つもり? わかってないでしょう。この子が三歳のころ、当時、私ども親子は事情があって、一とき東京に住んでいましたが、そのおり、たまたま健康優良児か何かのコンテストに駆り出されて、近くの保健所で知能検査を受けたんです。一時間ほどいろいろなテストをされて、結局八歳児の知能だと判定されました。三歳の子が八歳ですよ」
「はあ、それは、まことにどうも。私どもとしましても、ただ……」
 ぺこぺこと上半身の動きが盛んになる。ふだんのゆったりとした立ち居とちがった彼のあわただしい動作は、私を不安にした。カズちゃんは少し怒ったふうにせかせかとまたしゃもじを動かしはじめた。中華鍋がわざとらしくガチガチと鳴った。
「この子の知能が高いと言われても、ちっとも驚きませんが、低いと言われるのは心外です。郷! どうしたの、何かあったの!」
 母はすごい剣幕で私を睨みつけた。カズちゃんが炒めものの手を止め、どういう態度をとったものかわからないふうに縮こまった。私はひどい羞恥心に苦しめられながらニヤニヤ笑った。初めて経験する異様な脱力感だった。
「メンタルテストって書いてあったけど、知能試験だなんて知らなかった。こりゃ、カックンとやられちゃったなあ。だって、学期試験と関係ない生活調査だって保健婦さんが言うから、メンタルテストって生活調査の意味だと思っちゃった。だから、適当に五分か十分やって、あとはよそ見してたんだ。みんなまじめにやってたけど、バカじゃないかと思った。でも、みんな試験の意味がわかってたんだね。すごいなあ、ぜんぜんバカじゃないや。メンタルって、知能のこと?」
 山田先生は申しわけなさそうにうなずいた。
「やあ、ほんとにやられちゃったなあ! チョイサット」
 私は人に褒められたりすると、たちまち胸を張りたくなるたぐいの少年だったけれども、誤解されたり、軽蔑されていると感じたりすると、相手に合わせてわざと愚か者らしいおどけた振る舞いをしがちな性格でもあった。 
「生活調査だって? ほんとにそう言ったの?」
「ほんとだよ」
「騙したんだね。コスイやり方だ」
 ギロッと山田先生を睨む。彼はとぼけたふうに目を細め、
「それは、生徒を緊張させないように……」
「いいえ、姑息なやり方ですよ」
 先生は意味もなく深呼吸して鼻をふくらませた。
「おまえにしたって、何もそんな改まった雰囲気のときに、わざわざ格好つけてよそ見なんかする必要ないでしょ。みんなみたいにまじめに受ければよかったでしょ。なんて子だろう、親に恥をかかせて」
私にとってこういう難詰は、予想もできない一種の悪夢のように思われた。私は、自分で思うほどは気位が高くなく、ほかの人たちの能力と自分のそれとを比較して、彼らの価値を決定するということはしなかった。ときには、私は自分がだれよりも優れた者になれるかもしれない、勉強にしたって、少しがんばれば一番になれるかもしれない、などと思うことはあったけれども、その本来的な意欲も情熱もない希望をまともに実現させようとは思わなかった。
 私はスモールティーチャーの顔を見た。たしかにいつもの高成績を、能力を超えたなどと言われるのはひどい侮辱だったし、また精神的な拷問でもあった。しかし、私は何も言わなかった。からだ全体がただ一つの、ぼくは馬鹿じゃない、という考えで凝り固まったようになっていた。
 ―康男は? 
 と私は思った。康男も知っていたんだろうか。そういえば、彼はいつか、試験なんかわかりさえすればバンバン解いてやる、と言っていた。何のテストとも知らず、あんなわかりやすい問題を康男はバンバン解いたにちがいない。
「もう、仕方ないよ。どうせふだんの成績と関係ないんだから、どうでもいいさ」
「ふだんの成績が何だって言うの。そんなつまらない学校の成績より、こっちのほうが大事な試験だったんだよ! もう一度やり直してもらいなさい。先生、お願いします。もう一度、その試験を受けさせてやってください。この子みたいに騙された子は、ほかにもたくさんいるはずでしょ」
「いえ、基本的に、あれが知能試験だと知らない子は、どうも一人もいなかったようでして」
「基本的に? どういう意味ですか―前もって、何か子供たちが感づくような告知でもしたんですか」
「いえ、ただ、常識の範囲内で……」
「常識? 実際にこの子は知らなかったじゃないですか。一人もいないなどと断定できるわけがないでしょう。この子に常識なんかありませんよ。この子のウカツさは、私もよく知っています。たしかにうちの子にも責任がありますけれども、もしその試験が公式のものだというのなら、これで神無月郷の頭の評価が一生定まってしまうわけでしょう?」
「え? まあ……。しかし、これですっかり事情がわかりました。……やはりそうでしたか、どうもおかしいと思ってはいたんですが。神無月くんは、私ども仲間内では、天才の評価が高いんです。諸先生方にはきちんと伝えておきます。みなさん、なるほどとうなずいてくれると思います」
「それなら、なおさら、試験のやり直しを」
「これは、一度きりの、追試規定のない試験でして。いまさら新しい試験問題を用意することもできませんので」
「いいえ、口頭でも何でも結構です。もう一度お願いします」
 母は必死だった。
「それはいささか難しいのではないかと……。まんいち、郷くんのような生徒がいた場合、その子たちとも機会が均等でなくなりますし、今回はこれであきらめていただくということで、どうか。けっして、郷くんの評価が下がるなどと思わないでください。かならず事情を各先生がたに伝えますから。きょうはまことに失礼しました。ほんとうに、つまらないお時間を取らせてしまって」
 お世辞笑いをしながら、スモールティーチャーは深く頭を下げると、立ち上がった。
「ちょっと待ってください。生活調査と偽ったんでしたね。それなら、学校に出向いて私の口から説明させていただきます。スパルタなんて、とんでもない。この子は、ふだんは夕飯を食べたあと、バットを振って、三十分ほどラジオ講座を聴くと、ストンと八時か九時には寝てしまうんです。試験の前には徹夜か何かしているみたいですけど、とにかくこちらがイライラするくらい勉強しない子なんですよ。ほんとに中学生としてはだらしない生活でしてね。それであれだけ成績がいいというのは、持って生まれた素質でしょう。そう思いませんか」
「ええ、ええ、ほんとうによくわかりました。今回の事情は試験本部にもまちがいなく詳しく伝えておきます。どうか、お気を鎮めて」
「今回、今回とおっしゃいますが、次回がございますんですか?」
「それはなんとも……」
 私は、母に、いやそれ以上に、優秀な自分に、こんなにまで恥をかかせた知能試験を憎んだ。愚か者の烙印を捺された私は、ようやく落ち着きを失い、足もとがぐらつくような感じがしてきた。めまいがした。
「なんて子だろう、この子は。肝が焼ける!」
 母はばっちゃの言葉で叫んだ。彼女にとって息子は将来、頭の方面で名を成すはずの人材だった。だからこそ、野球のスカウトを追い返したのだ。
「まったく、世間をなめた態度は、この子の致命傷ですね。まあ人間にはだれにも、命取りの傷があるものですけど。……さしずめ、私にはこの子が傷ですけどね」
 小学校のしまいごろからだんだん成績が上がって、少しばかり勉強の方面でも目立つようになってきても、彼女は決して私を手放しで褒めることをしなかった。彼女は、息子の能力に非常な期待をかけていた。この万能と言っていいほど頭のいい子は、これから自分のためにいろいろなことをしてくれるはずだと思っていた。だから彼女は、自分にとっても人生にはまだ多くのものが残っていると信じていた。彼女の願いはかならず叶い、それまでの自分の努力は無駄にはならないはずだった。
 スモールティーチャーはこめかみを揉んでいる母に向かって、ふたたび深々とお辞儀をすると、せかせかと帰っていった。私はそれから三十分ものあいだ、殺気立っている母からこってり嫌みを聞かされた。彼女の口調には気安い落ち着いた感じがなく、息をつかせることがなかった。私は母を嫌悪すると同時に、自分のことも嫌悪しないわけにはいかなかった。彼女の最後の言葉は恐ろしいものだった。
「取り返しのつかないことしちゃったねェ。しようがない。自分が好きでバカと決めたんだから、バカと思われながら生きていきなさい」
 母は私をあからさまに傷つけることで、自分が息子をどれほど期待していたかを素直に表現した。おかずの支度をし終えたカズちゃんが母に近づき、
「おばさん、堪忍してあげて。キョウちゃんは頭がいい子よ。そんなことぐらい、顔を見ればわかるでしょうに。学校の先生って、頭が悪いのかなあ。サボって受けたのに、普通の子ぐらいの知能指数が出たわけでしょう。ちゃんとやれば、軽く二倍、三倍になったんじゃないかしら」
「わかってますよ、そんなこと! ただ、肝心のときにこの子は、こういうヘマをやっちゃう人間なのよ。どうしてこうなんだろう」
「そうですね、キョウちゃんよりずっとバカな人からバカと思われちゃうのは、なんだか口惜しいですね。でも、ふだんのキョウちゃんを見てれば―」
「人は数字を信用するのよ。ただ、この試験のやり方は、ずいぶん下品なものだね!」
 カズちゃんがいくらとりなしても、一向に母の不機嫌は収まらなかった。
 翌朝、私はふだんどおりの時間に家を出た。うららかな秋日和だった。堀川のインク色の川面に空がきらきらと反射し、アスファルトは白く輝きわたっていた。それなのに私はガッカリ気落ちしていて、柔らかい陽射しの通学路で出会う人びとみんなが、
「あの子は、頭が悪いんだよ」
 と言っているような気がした。
 私は宮中の校門をこっそり入って、職員室の網ガラスを覗きながら歩いた。七、八人の先生が、ぼんやり煙草を吸ったり、書類に屈みこんだり、互いに挨拶をし合ったりしていた。そのとき何人かの先生と目が合ったので、私はひどく肩身の狭い思いをしながら、何も気にしていない振りをして上の校庭へ登っていった。
「馬鹿が、何をしに学校へきたのだろう」
 と思われているような気がした。教室ではだれも私を観察している気配はなかった。授業は相変わらず簡単で、退屈なものだった。私が英語や国語の質問に答えると、いつもと同じ賞讃の眼差しが私に注がれた。みじめな思いがだんだん消えていった。
 私は自分が相当な人間だと思い返そうとした。実際、自分があまりに易々といつもの地位を回復することができたのが不思議に感じられた。私は深く安心し、教室の窓の景色に目を移した。民家の板塀の上に色あせたヒマワリの花がいくつものぞいていて、道を見下ろしていた。背の高い柿の木には、まだ熟していない実がたっぷりついていた。その梢の上に、高い、広い青空があった。教室に目を戻すと、清水明子の眠っているような横顔が黒板を向いていた。ふくよかな白い頬が日光を吸収して、大福餅のように見えた。



(次へ)