七

「ご苦労さまでした」
「びっくりした。スピーチさせられちゃった」
「知ってます。CBCラジオが実況してました。車で聴いて、涙が止まりませんでした。今夜のニュースで観ましょう。CBCのほかに、東海テレビも入ってましたから」
「新聞のインタビューがなくてラクだった。秋月さんが止めてくれたんだろうね」
「そうでしょう。実際、コメントなんかいらないですよ。あのスピーチで満点です。秋月節もすばらしかった。秋月さんは演説がうまいことで有名なんです。面倒見のいい人で、名古屋市の市会議員、県会議員のほとんどは、彼の秘書出身が多い。国政レベルでも同じです。宇賀神さんは出世しますよ」
「文学を目指した人というので、いっぺんに親近感が湧きました。さあ、あさってはパレードだ。これだけ浮かれた日々がつづくと、酒飲みはたいへんだなあ。ぼくはだいじょうぶ。酒とセックスと、どちらがからだを痛めるかは歴然としてるからね」
「秋月さんも艶福で有名なかたです。愛人がいることも子供がいることもマスコミに隠しません」
「宇賀神さんが自由におやりなさいと言ったのは、そういうことなんだな」
「何につけ尻拭いは厭(いと)いませんということですよ。この賞状と同じ大きさの額縁を買っていきましょう。先日のMVPトロフィーは、秀樹に持たせて写真を撮りました。もうファインホースに戻しときました」
 納屋橋の高山額縁店に寄る。賞状と勲章を並べて収める木目調の額縁を買う。店主が、
「名誉市民賞おめでとうございます。実況放送を聴いとりました。しみじみするスピーチでした。ほう、立派なメダルですね。いま額縁にお収めしましょうか?」
「お願いします」
 臙脂のビロードを背に、左四分の一に勲章、右四分の三に賞状。均整がとれた額縁ができ上がった。菅野は大事そうに小脇に抱えた。私は六千円を支払った。
 北村席の数寄屋門の前で五分もフラッシュに引き留められた。菅野が額縁を頭上にかざした。
         † 
 チャンネルを替えながら、一家がテレビ各局の名誉市民賞の録画に見入っている。ビールは進むが箸が留守になる。直人がテレビの前を走り回る。食卓に引き戻される。主人が、
「秋月さん、ここまで神無月さんに惚れとるとは知らんかったな」
「杉戸市長もやがね」
 女将がカズちゃんに向かって微笑むと、
「やっと公の人がキョウちゃんの文才を口にしてくれたわね」
 主人が鴨居の真ん中に据えた額縁を見上げながら、
「秋月さんは岐阜県の農家の生まれでね、勉強のできる子だったらしく、男は望むなら王まで望まなくちゃいかんと母親に背中を押されて、名古屋逓信講習所高等科に入った。二年制の専門学校です。卒業して中央電話局に入局したんですが、文学に入れこんでしまって、未練なく退社すると詩人を志して上京。詩人の生田春月に無理やりねじこんで師事したのはええんやが、才能のなさに絶望して自殺未遂。そこから政治家に転身です。メカケがようけいたことでも知られとって、むかしの三木武吉さんは七人だが、私は六人だ。日曜日は女房のためにとってある、という言葉が有名です。天心無頼がモットーで、まあ神無月さんに似た豪傑ですわ。相通じるものがあったんやと思いますよ」
 トモヨさんが、
「郷くんは六つ七つの花にホースでかける水じゃなくて、木にも岩にも降る雨ですよ」
 睦子が、
「今月の十一日はトモヨさんの誕生日ですね」
「そう。四十歳」
「何を贈ろうかな」
「もういっぱい。人生のプレゼントぜんぶいただいちゃってます」
 江藤から電話が入った。
「みんなで中継ば聞いた。ニュースも観たっちゃん。金太郎さんはやっぱりわが竜の眼玉ばい。ドラゴンズの天草四郎たい。塵の自覚、胸にきたばい」
「思いつきで言っただけです。自分にふさわしくない場に出ると、ああいうしゃべりかたになってしまうんです。すみません」
「何ば言いよっと。金太郎さんのようにいつも自分のあり方ば考えてなかりゃあ、塵以下の傲慢な人間になってしもうとたい。ところで、あさってのパレードな、ユニフォームのスパイクは運動靴でよかげな」
「はい、送られてきたハガキをおさらいします。九時半、栄の商工会議所ビル一階の応接室に集合」
「おう」
「そこに控えている実行委員会のメンバーの指示通りにユニフォームに着替え、バスで名古屋駅前へ移動、十時半、パレード車に乗り換えて旅行公社前出発、久屋公園まで行進」
「おう、そうや。公園のステージでファンに日本一の報告をし、商工ビルに戻る。河文で〆会。九時解散」
「十五日はファン感謝祭、十六日、球団納会、二十二日、東京で年度授賞式。肝臓が破裂しますね」
「十分の一てゆうたやろう。心配いらん。金太郎さんこそ、調子乗って飲むんやなかぞ」
「はい。どうしても酒だけは強くなれません」
「それでよか。ノン兵衛の金太郎さんはイメージできん。じゃ、あさってな」
「はい、失礼します」
 カズちゃんが、野辺地へいくことを女たちにすまなさそうにしゃべっている。
「みんなでいく予定がころころ変わって、とうとう私一人がいくことになっちゃったけど、ごめんね」
 千佳子が、
「私はもともとムッちゃんと二人で里帰りする予定だったので、野辺地に合流するのはきつかったんです。アイリスやアヤメのみなさんも、お店が暇なしでたいへんだと思います。青森どころじゃなかったんじゃないでしょうか」
「そう言ってくれてホッとしたわ。一週間もキョウちゃんを独り占めしちゃうの、少し気が引けて」
 睦子が、
「だれもそんなこと考えてません。みんな自分が独り占めだと思ってます」
 トモヨさんが、
「ほんとにそうですよ。独り占めの元締めがお嬢さんだと思って、みんな安心してます。野辺地では忙しいと思いますよ。飛び歩くようになるんじゃないでしょうか」
「だいじょうぶ。キョウちゃんが飛び歩いてるあいだ、お祖父さんお祖母さんの話し相手をしてあげようと思ってるから」
 ひとしきり野辺地にいたころの話になる。海、山、雪の話、食べ物の話。人の話は出てこない。カズちゃんは隠れるように住んでいたから無理もない。今度は堂々と出歩いてもらおう。直人が好物のオムライスにケチャップをたっぷり載せて食べている。トモヨさんの胸に抱かれたカンナが、それに手を差し伸べる。菅野がめずらしく、
「居候、三杯目をそっと……」
 と言ってお替わりをした。うまそうにめしを噛みながら、
「公機関の表彰というのは賞金が出ないんですよ。そういうのがほんとうの表彰だと思いますね」
「うん、ぼくもそう思う。日本シリーズのMVPのときは驚いた。結局カネなのと思っちゃった。子供のころ、そんなこと考えもしなかった。大学の特待生まではわかるけど、プロ野球の契約金あたりから違和感が消えない。すべてが金で報われすぎる」
「吉沢さんみたいに選手生命が途切れれば、多すぎる金から足を洗えますけどね」
「あるいは辞めるかすればね。あしたも走るよ」
「ほーい。則武出発ですか」
「うん、ランニングから帰って筋トレするから。千佳子、カラオケの中身増えてる?」
「はい。三カ月ごとに増やしてます。業者さんがきて、勝手にやってくれるので助かります。歌いたい曲があるんですか」
「別にないんだけど、ただ今月は歌うチャンスが増えるんじゃないかと思って」
「わあ、楽しみ」
「ワシは相変わらず演歌でいくか」
「私も演歌で」
 菅野がようやく箸を置いた。トモヨさんが直人の口を拭く。母子の退出の時間だ。子供のおかげで、賑やかさの中にメリハリのある時間が流れる。トモヨさんと直人が風呂へいく背中に、カンナを抱いた女将がつづく。主人と菅野が二度目の見廻りに出た。数百回の規則的なこの風景のあとで、いつの日か、別れが待っている。規則的な時間を惜しみながら記憶する。ひさしぶりに酒が進む。
         †
 十一月七日金曜日。七時起床。晴。三・七度。うがい、歯磨き、下痢便、シャワー。ジムトレ、三種の神器。
 きのうキッチンテーブル隅に小型のカラーテレビが置かれた。朝食をしたためながら観る。きょうから冷えこみがつづくと言っている。きょうは百江は遅番。家で掃除洗濯。
 カズちゃんとメイ子が出勤してから、菅野と太閤通を大鳥居の向こうの稲葉地までバットを手にランニング。テレビ中継車や新聞社の車の追跡はなし。深呼吸しながら、旧中村図書館のある稲葉地公園を徒歩で一巡りする。がらんとした公園。配水塔のほかに、野球場、花壇、池、ブランコなどがある。配水塔を眺める徒渉池のそばで素振り。菅野は三種の神器。
 走りに緩急をつけて帰る。いつもより一キロほど距離が伸びたせいで、往復一時間半かかった。
 菅野と別れ、もう一度ジムで三十分鍛錬。汗をかいたせいでまた下痢。シャワー。百江を風呂へ呼び、背後から挿入し、柔らかい緊縛の中で射精する。百江は苦しげなうなり声を上げて頭を跳ね上げる。律動を与えながら乳房を強く握り締めてやる。抜き去り、平らに押し伏せてやり、私は湯殿で仰向けになる。いっときの交歓が終わる。
「きょうもありがとうございました。生き返りました」
 尻で呼吸しながら言う。
 散髪に出かける。待ち時間のために駅の売店で『週間ベースボール』。定価60円。太閤通のいきつけの床屋で順番を待ちながらページを繰る。
・熱戦! 日本シリーズ
・野村・稲尾内閣 チーム再建の旗頭
・近鉄破れたり 三原脩が打ち明けた無念の胸中
・金田2000万円でテレビタレントに転向? 本当に400勝投手は球界を去るのか
・黒いユニフォーム
・山中正竹に30の質問
 三原の記事が気にかかったので目を通す。今年の六月には「勝った、勝った、また勝った。負けてもよいのにまた勝った」とファンの大合唱を受けていた近鉄が、結局僅差でペナントレースに敗れたのだが、リーグ二位の躍進を遂げた理由は、超二流選手の組み合わせだったと言う。超二流の意味が初めて書いてあった。攻・走・守のうち一つが欠ける選手は二流であり、二つが欠ける選手は超二流だと定義づける。走れない王は二流か? 打てない大半の選手は二流か? 思うところなし。
 シーズン回顧の一つ二つのコラム記事がおもしろかった。
・膵臓炎で死んだジャクソン。春キャンプ、ビールと焼き鳥だけで一カ月。女癖悪く、遊び好き。
・ロッテ飯島打席ゼロ、盗塁十、太もも肉離れ。
「日本記録はいくつですか? 八十五? そりゃわけないや」
 ところが十。野球はほんとうにむずかしい。
 帰ってシャワーで散髪カスを落とす。机に向かい、夕方まで牛巻坂。
         †
 十一月八日土曜日。八時間寝て六時起床。濃い曇り空。パレードの日。
 きょうは走らないと菅野と約束していたので、三十分ゆっくりジム。八十キロバーベルを五回。うがい、歯磨き、ふつうの排便、シャワー。新しい下着。そっと電気髭剃りをあてる。爪切り、軽く耳掃除。耳鳴り確認。ふつう。女三人と朝食。鮭フレーク丼、豚バラと大根のきんぴら、ネギ入りの卵焼き、長ネギと油揚げの味噌汁。美味。
 七時半。四人で北村席へ向かう。革靴でいく。見えないほどの霧雨が降っている。アイリスの前の路がざわざわしている。土曜日なのでアイリスは休業。メイ子が隘路を通って素子を迎えにいく。
「わが家はここから目と鼻の先なのに、知られてないようだね」
 カズちゃんはニッコリ笑い、
「とっくに知られてるでしょう。高円寺は不思議にうまくいったけど……。騒がれたとは言え、まだ学生のころだったからね。スターに秘密の隠れ家なんてないのよ。これでも不気味なくらい近づいてこないほうよ。各新聞社が自主的に報道規制をかけているからかもね。キョウちゃんがいろいろな権力に守られていることが知れわたったから、会社の不利益になるようなことはしないということ」
 素子とメイ子が出てきて五人で歩きだす。カメラがついてくる。北村席の門前にも腕章を巻いた報道陣の群れ。放送中のアナウンサーの声が聞こえる。MVP、名誉市民といった単語が飛び交う。組員が十人ほど勢揃いして、胸でカメラマンたちに垣を作っている。フラッシュの中、ソテツたちに導かれて数寄屋門を入る。
 居間に北村夫婦とトモヨさんと菅野。早起きの直人が座敷をばたばた走り回る。かわいらしいユニフォーム姿だ。背番号8をつけている。おしゃれをした女たちが十人ほどいる。きょうの見物組だ。運転手で駆り出された蛯名がコーヒーカップを手に挨拶する。きちんと背広を着ている。見物でない留守役の女たちもいる。仕事があるからというよりも、見物にいきたいと願い出なかった女たちだ。親しい人間のだれもがたがいの日常に関心があると考えるのは大まちがいだ。イネがカンナを抱いている。
「イネはいかないの」
「いぐよ、カンナちゃん抱いていぎます。おとうちゃんの晴れ姿を見せてあげねばニシ。直ちゃんは奥さんが連れでいぎます」
 カズちゃんが、
「蛯名さんはクラウンでトモヨさんたち厨房組をお願い。私はハイエースで残りの子たちを乗せていくわ」
「はい」


         八

 カズちゃんとトモヨさんに、黒デニムのワイシャツふうジャケットと、象牙色の綿パンを着せられる。主人と菅野がうなずき、
「相も変わらず水も滴るやな」
「決まりましたね。まぶしいですよ」
 ソテツと幣原たちがうっとりと見ている。トモヨさんが、
「ネイビーブルーのスニーカー。ヒモは茶色です。ユニフォームを着たとき、スパイクの雰囲気になっていいでしょう。白の運動靴はへんです」
 イネに抱かれたパッチリお目めのカンナが、膝前の畳にうつ伏せにされ、からだを腕で支えて頭を持ち上げた。
「じょうずだっきゃ、カンナちゃん」
 手にガラガラを握らせる。振り回して口に持っていくが、すぐにポイと離す。エプロンの端を持たせると、ギュッと引っ張る。イネと引っ張りっこをする。もう一度抱き上げてあやすと、声を出して笑った。トモヨさんが抱き取り、大きな胸を出して授乳する。カンナは乳首を吸いながら、周囲をキョロキョロ見回す。
「まだ、一日八回ぐらいお乳を上げないといけないんですよ。そろそろ乳母車でお出かけをさせる時期なんですけど」
 女将が、
「寒くなりすぎんうちにな」
「はい」
 私はカズちゃんに、
「東京の表彰式には、白靴下と黒のローファでいくからね。痛くない柔らかいローファがいいな」
「そんなローファあるかしら」
 睦子が、
「東京の世田谷にキング堂という老舗があります。もともと女子学生の通学靴専門の職人さんたちのお店で、柔らかいローファで有名です。東大のころ同級生に教えてもらって買いました。とっても履き心地がよくて、いまもそれを履いて名大にかよってます」
「そこから取り寄せましょう、二足くらい」
 千佳子が、
「私も一足お願いします」
「ムッちゃんと千佳ちゃんの分は四足ずつにしましょう。靴を長保ちさせるには、履きつぶさないで何足も履き分けるようにするのがコツよ」
「これからそうします。二人とも二十四センチです」
「私と同じね。服のサイズも同じみたいだから、いま着ていない服があるけど、お下がりでいいならぜんぶ二人にあげるわ。二、三日中に取りにきてね。好きなのを選んでちょうだい。あなたたち服に関心がないみたいだから、着せ替え人形にしないと」
 睦子が、
「和子さん、ありがとう。優子さんとイネさんも私たちと同じサイズなので、分けてあげます」
「いっしょにきて、めいめい好みのものを持っていきなさい」
「はい、そうします」
 優子とイネが、ありがとうございます、と声を上げた。素子が、
「あたしは少し小さいから、お姉さんの服が合わんのよ」
 愛のある集まり。しかし、だれもが属せる集団ではない。ソテツがユニフォームをダッフルに入れて持ってきた。
「ホームのユニフォームを一式入れておきました」
「サンキュー」
 主人が、
「じゃ、ワシらは先に出かけるかな。混雑せんうちに」
 カズちゃんと蛯名が立ち上がる。菅野が、
「私と神無月さんは、九時十分ぐらいに出ます」
 主だったメンバーが出かけてから、留守居役の女将や幣原とコーヒーを飲む。女将が、
「神無月さん忙しいねェ、気の毒に」
「これも仕事ですから。監督に言われてます」
「そうかもしれんけど、野球以外の仕事で忙しいのは気の毒や。気楽にいっておいで」
「はい。気楽に手を振ってきます」
         †
 路面は濡れているが霧雨は上がっている。駅前から人混みが始まり、広小路通は車が走れない状態だ。もうすぐ車両通行止めになる。混雑していない錦通を走っていく。
「いつか千鶴をあてがってもらったことがあったよね」
「ええ」
「厄介な体質だけど、このごろだいぶよくなった」
「そうですか。豪傑の要素が少し減りましたね。でも神無月さん、そんなもの厄介な体質じゃありませんよ。若いころにはときどきあることです。かく言う私も、何度かそうなった経験があります。性欲や好奇心というより、若いからだの自然な反応です。社長夫婦もトモヨ奥さんも好意的に見てます。ハブ酒まで用意して、精力減退を心配したくらいですから。そういう状態になるのがふつうの男のようにときどきじゃなく、しょっちゅうというのが、神無月さんが豪傑の証拠だと言ってます。和子お嬢さんはそれをいち早く見抜いたんですね。見る目がするどい」
「でも、一度に何人もの女とするというのは、自分でも嫌悪感を催すことがある。犬や猫だって一度に一匹としかしない」
「お嬢さんや素ちゃんから聞いたことがあるんですが、そうするのはひたすら女のほうの事情だそうです。神無月さんがそうしたいからじゃなく、女のほうがつらくなるからだと言ってました。理由がもう一つあって、妊娠を避けるためだということでした。つまるところ、いつ孕んでもいい犬や猫とは事情がちがいます。……世間が許す考え方ではないでしょうが、私たちは世間じゃありません。悩む必要なんかまったくないですよ」
 伏見を右折し広小路伏見に出ると、警官が出動するほどの人出になっている。彼らの笛に導かれて十字路を過ぎる。
「ぼくを降ろしたらすぐ戻ってね」
「はい、そうしないと身動きできなくなります」
 三ブロックいって、商工会議所ビルに到着。車から降り、ダッフルを担ぎ、菅野に手を振る。蜂の巣のように異様に窓の多い真四角なビルの玄関に立つ。すでに玄関口に、三十人に余る平服の選手たちが待っている。江藤たちに手を上げて合流する。
 入ってすぐ天井モザイク壁画。題して、夜空の饗宴。深海の青の中を鳥が飛び、蝶が舞い、ヒトデが泳ぐ。巨大なパノラマだ。実行委員会と書かれた腕章をつけた男たちが迎えに出て、選手たちをエレベーターに分乗させ、三階の三つの会議室へ導く。会議室は七つほど並んでいる。そのうち二つを使った。黒板のある教室のような殺風景な部屋だ。真ん中にテーブルを寄せ集め、その上に乱籠のようなものが何十も置かれていて、脱いだ服を入れるようになっている。
「みなさま、どうぞユニフォームにお着替えください。監視員がパレードの終わるまでついておりますので、貴重品も入れたままでけっこうです。着替え終わったら、玄関の駐車場へお集まりください。私どもの一部は、パレードのあいだ安全を図って終始随行いたします」
 みんな雑談しながら着替えにかかる。きのう飲みにいった話がほとんどだ。太田や菱川たちは、遅くまでバットを振った話をしている。江藤が、
「来年、また外人がくるそうやな」
 徳武が、
「こないよ。コンちゃんがアメリカ帰っちゃったとき、ドジャースから売りこみがあったんで、オーナーが生返事しただけ。状況がガラッと変わっちゃったから、正式に断ったはずだ」
 太田が、
「ミラーとバビエリですね。百八十センチと百七十センチ。どちらもほとんどメジャー出場の経験のない選手でしょ。きても出番はなかったんじゃないですか」
 高木が、
「ミラーは一塁で、バビエリは外野の予定だったろ。バビエリは江島の控えで、ミラーは慎ちゃんの控えということだったんだな。そのときも水原さんは、結果が目に見えてる選手をわざわざ採るなと進言したそうだ」
 私は、
「外人を採ること自体、ぼくは疑問に思ってます。ドラフトの意味がなくなります。保険のためならドラフトでじゅうぶんですよね。お客さんが一流の大リーガーと思いこんで喜ぶのを当てこんでるからかもしれない。活躍できないことがわかってるのに、お金のむだ遣いです」
 中が、
「フロントはわかってると思うよ。むかしはそういうことでしかフロントはチーム強化の手柄を評価されなかったんだ。仕事をしていないとみなされるからね」
 菱川が、
「外人を拒むことで、井の中のかわずと思われるのがシャクなんじゃないんですか。外人がきて、活躍できなければ、日本の野球がすごいからだ、国際レベルだからと胸を張れる」
 小川が、
「金太郎さんの言うように、もっと浅いところじゃないのか。メジャーからきたという話題を作って、観客動員を図るということだろう。野球というものをわかってない。外人を混ぜようと混ぜまいと、野球が変わるわけじゃない。ファンも二流外人のプレーを観て喜ばないと思うぞ。外人補強なんてのは、野球本来の楽しさを忘れたどうでもいい習慣だよ」
 一枝が、
「何人かたまにヒットした選手もいたけどね」
 江藤が、
「おったな。ニューカム、トビー、か」
「うん。たまにそういうこともあるさ。半田さんも、スペンサーもそうだろう。なつかしいところでは、スタンカやバッキーもね。百人に一人だ」
 全員凛々しいユニフォーム姿に整えると、監督コーチ一行が顔を出し、みんなで駐車場に下りる。
「五十万の人出だそうだ。ハレの舞台だよ。いい笑顔、よろしくね」
「ウス!」
「オッシャ!」
 木俣が小声で、
「クリーンアップはいっしょに乗るんだそうだ」
 歯を輝かせて笑った。
 すでにすさまじい人波が歓声を上げながら駐車場の外をうねっている。中日新聞社のバスが三台停まっていた。どやどや乗りこんで、錦通を名古屋駅に向かう。水原監督はじめ全員感無量の表情で街並を眺めている。群衆であふれる駅前ロータリーの日本交通公社前で降りる。大歓声。メガホンを持った何十人もの警官が人垣を整理している。ロータリーにオープンカーが二十台ほどずらりと半円を描いて並んでいた。半円の先に数十名の吹奏楽団と、これまた数十名のバトンガールが待機している。
 公社を借り受けた実行委員会の女性たちの手で、首に金色のレイを掛けられていく。赤色金色の花輪や縁飾りを施されたオープンカーを見て、気恥ずかしい気分になる。後部座席の背凭れの上に腰を下ろす格好で乗るよう指示される。
 小山オーナーら三人の球団関係者が先頭車の後部座席にきちんと座り、助手席に振袖姿の女が立った。二台目の後部座席左側に無帽の水原監督、中に白井社主、右に帽子をかぶった宇野ヘッドコーチ、助手席にカメラマンが直立する。三台目に江藤と私と木俣、助手席にCBCのアナウンサーが乗る。四台目に小川と中と高木、助手席に小野、五台目に菱川と太田と星野、助手席に一枝、六台目に伊藤久敏と水谷寿伸と門岡信行、助手席に水谷則博、七台目に江島と千原と葛城、助手席に徳武、それ以降の車には助手席に実行委員会の係員を立たせて、コーチ陣や、そのほかの控え選手たちが分乗した。ラストの二台にマネージャーやトレーナー陣がきちんと座って乗りこんだとたん、スピーカーから下通の声が流れ出した。
「苦節十五年の宿願をようやく果たした中日ドラゴンズ、日本一の栄光の祝賀パレードの開始でございます!」
 盛大な拍手と喚声の中、楽団とバトントワラーに導かれてオープンカーが続々と走り出す。タイケの『旧友』が響きわたる。胸が掻きむしられる。とつぜん涙が噴き出す。それを見て江藤が涙をこらえる。木俣は泣く。小山オーナーが立ち上がって手を振る。噴水を過ぎ、市電道を渡り、青年像を右に見てゆっくり走る。いや、歩く。江藤がついに嗚咽を始める。
「金太郎さん、おめでとう!」
「おめでとう、江藤さん! 木俣さん!」
 ものすごい人の群れが車の両脇に押し寄せる。水原監督が両手を差し出して、だれとも知れない人びとの手を握る。私は差し出された花束を左腕に抱え、身を乗り出してくる沿道の人びとと右手で握手していく。握手が途切れる合間に手を振る。涙は消え、笑おうとしなくても自然に顔がほころぶ。
「中日ドラゴンズ、バンザイ!」
「大統領!」
「水原、ようやった!」
「十冠王!」
 そんなに獲っていないと思うけれども、笑顔を向ける。前をいく吹奏楽団から大太鼓の音が響いてくる。行進曲が次々と変わっていく。バトンガールたちの動きが整然として崩れない。路上中継のアナウンサーの声が錯綜する。
「江藤、まだ花道歩くのは早いぞ! 来年は七十本いけ!」
 江藤はうなずきながら手を振る。
「高木さーん、すてき!」
「いいオトコ、菱川!」
「太田ァ、味のある顔だ! 来年も頼むぞ!」
「木俣、日本一のキャッチャー!」
「優勝バンザイ! 死んでもええわ!」
「巨人ファン握手すんな、追い出せ!」
 名古屋の目抜き通りに歓喜のどよめきがこだまする。沿道の人びとにピッタリ吸いつかれながら、のろのろと車が進む。
「おめでとう!」
 握手。
「おめでとうございます!」
 握手。
「おめでとう!」
 着物を着た老婆、カメラを突き出す高校生、ジャージ姿の角刈り、背広にネクタイのサラリーマン、直人ぐらいの子供を抱いた若い女もいる。タイヤに足を轢かれないのだろうかと心配になるが、彼らの足もとはまったく見えない。マイクが突き出される。何か応えるいとまがない。待ち受けていたもう一団のブラスバンドに先導される形になる。スーザの勇壮な金管の響き。『自由の鐘』。


         九

 柳橋を通り抜けるとき、ホテルや企業ビルの窓に鈴生(な)りになっている顔の群れに向かって帽子を振った。紙吹雪のせいで、主人やカズちゃんやトモヨさん母子たちがどこにいるかわからない。街路樹が真っ白だった。
 長島町で車が立ち往生する。また霧雨がやってきた。
「動きません、車がいっさい動きません!」
 助手席のCBCアナウンサーが絶叫する。
「パレードではなく、パレードンです!」
 意味不明のシャレを言っている。ドン詰まりか? 沿道からシャッターの音が絶え間なく立ち昇る。後続車を振り返ると、選手たちが無数の手に触られまくっている。先行車の水原監督も、宇野ヘッドコーチも、江藤も、私も、触られ、握られ、叩かれる。水原監督は握手を求めるファンに向かって笑顔を絶やさない。ようやく丸栄百貨店前。助手席のアナウンサーが叫びつづける。
「丸栄百貨店を通過しました! たいへんな人だかり、何万人というお客さんがいます、何万人というドラゴンズファンがいます、ほんとうに人数はわかりません、何人いるかわかりません、オリエンタル百貨店を南へ曲がろうとしております、お客さんがワーッと押し寄せました! 後続車の選手の顔はまったく見えません、私に見えるのは江藤選手と神無月選手と木俣選手の顔だけです、第一車には小山オーナーはじめドラゴンズ球団関係者、第二車には水原監督と白井中日新聞社主そして宇野ヘッドコーチ、私が同乗している第三車には江藤、神無月、木俣三選手、第四車に小川、中、高木、小野四選手、第五車に菱川、星野、太田、一枝四選手、第六車には……まったく見えません! ただいま松坂屋百貨店前を過ぎました、十二時到着の予定時間が大幅に遅れて、一時近くになりそうです、したがいまして、私どもアナウンサー陣は中継車に乗り換えまして目的地に向かうことにいたします。そちらへ連絡ください!」
 アナウンサーは失礼しますと言うと、マイクと受信機を持って車を降り、人混みを漕いで前方へ進んでいった。中日ビルまで二十メートルもないというところへきて、車が完全にストップした。群集が前からも押し寄せてきたのだ。ラッセル車のように五センチぐらいずつ掻き分けていく。ようやく玄関に到着。みんな車から人波の中へ溺れこむようにして降りる。威風のある一人の男を連れた板東がマイクを持ち、泳ぐようにして水原監督に近づく。
「水原監督がきました! 水原監督です、いま水原監督が目の前にきたんですが、どうもたいへん……おめでとうございました」
「はいはい、どうもありがとう」
 監督は人混みを漕いで進む。
「こちらCBCの社長です」
「どうも」
「来シーズンもがんばってください」
「はい、がんばります」
 なんじゃ、この間の悪い掛け合いは。
「いまCBCの社長から、来シーズンもがんばってくださいという激励の言葉がありましたが、水原監督はニッコリ笑ってありがとうと応えてくれました! 水原監督、宇野ヘッドコーチおめでとう! やあ江藤選手、金太郎さん、木俣選手おめでとう!」
 江藤はむにゃむにゃ応える。私は笑ってうなずく。木俣は板東の肩を叩く。玄関口から押し戻され、小突かれ、もう一度路上から押し返される。板東の声。
「どうも、ありがとうございます」
「どうも」
 小川と中の声が聞こえる。
「さあ、いま高木守道選手と小川選手が到着しました、高木さん、おめでとう! 小川さん、おめでとう!」
「どうも! ありあとあーす」
「さて次は星野秀孝選手と菱川選手と太田選手です、星野くん!」
「どうもどうもです」
「どうもありがとうございました。社長、よかったですね」
 は、むにゃむにゃ、よかったよかった。
「もう人の波でなんともなりません。いったんマイクを返しますけど、も、なんともなりません、こちらのほうでは、菱川さん、おめでとう、おめでとう」
 はい、むにゃむにゃむにゃ。
「いま続々と選手のかたたちが到着しておりますが、どうにもなりません、あ、ドラゴンズの歌がかかりました、リスナーのみなさん、聞こえますか、ドラゴンズの歌です」
 いつもの板東とちがって、気の利いたことをいっさいしゃべらない、いや、しゃべれない。人にぐいぐい近づく図々しさがあるだけだ。係員の大声が上がる。
「どうぞこちらへ!」
 玄関にもぐりこみ、どんどん進む。エスカレーターが通じている地下階は食堂街と聞いているが、向かうのは地上階だ。エスカレーターはない。エレベーターは大量輸送に効率が悪いというわけで、階段で二階へ導かれる。プラネタリウムのような飾り照明に目を瞠る。喫茶サンモリッツ。鉄板ナポリタンのウィンドーを見て腹がへってきたような気がする。三階の会議室へいくのかと思ったら、二階の非常口からビルの端へ進み、各室の仕切り塀を取り払った二百メートルもあるベランダに並ばされた。幅の広いベランダだ。着替えをするだけのために戻ったのではなく、ちがう段取りになっている。みんな戸惑い顔だ。実行委員会の指示通りに動けというのはこういうことだったのか。
 祝日本一の幕を何本も垂らしたベランダから見下ろすと、何万人もの観衆が松坂屋前の大公園広場に集まり、歓声を上げながら手を振ったり、小旗を振ったり、シャッターを押したりしている。人混みに横断幕がいっさいないので、かえって黒い頭の数の多さに迫力がある。小山オーナーの姿がないと思ったら、ベランダの端から彼の声が飛んできた。
「水原くん、選手、コーチのみなさん、パレードに時間とらせたうえにまことに申しわけないが、あと五分だけ時間をください」
 からだをかしげて覗くと、小山オーナーと背広の音たちが列の端に立ち並んでいる。
「CBCラジオにこの段取りを前もって約束してしまってね、さっき昼のニュースで流してしまった。予定を一時間半以上も超過してしまったので、久屋公園で予定していた優勝報告イベントにこれを代替するということでね。手を振ってくれるだけでいいんだ。頼みます」
 私たちは笑いながら承諾し、右からアットランダムに並んだ。おのずと、水原監督、江藤、中、高木、木俣、一枝の順番になった。そこへ宇野ヘッドコーチを左端に四人のコーチ陣が並び、彼らを挟むように、伊藤竜彦、徳武、葛城、菱川、江島、千原、私、太田、江藤省三と並び、そこから小川を先頭に、門岡、伊藤久敏、水谷寿伸、星野秀孝、水谷則博、土屋紘の投手陣、池藤、鏑木両トレーナー、足木マネージャーと整列し終える。観客に礼をする。小山オーナーが、
「じゃ、お願いします!」
 と声を上げるのに合わせていっせいに礼をして、帽子や手を振る。歓声が轟き、嬌声や悲鳴が空気を切り裂く。親友や恋人でもないのに、ここまで人びとが他人に関心を持てることに驚愕する。めいめい盛んに激励の言葉を投げてよこすが、遠くて届かない。風が冷たい。ベランダを右往左往するカメラマン連中が、私たちの横顔にフラッシュを浴びせる。観客のほうからもフラッシュの光が飛んでくる。笑顔を作り、手を振りつづける。ドラゴンズの歌の合唱が高らかに空へ昇る。合唱が止むと、ふたたび群衆に礼をして、非常口へ向かう。小山オーナーはじめ背広姿の重鎮連は廊下の途中で立ち止まり、私たち一人ひとりに丁寧な握手をして去った。私たちは着替え室へ戻った。
 みんなで着替えをしてダッフルにユニフォームを詰め終わったころ、水原監督が入ってきて、
「これで、十五日のファン感謝祭まできみたちはお役御免です。のんびり家族孝行をするなり、帰郷して骨休めをするなりしてください。きょうはこれから河文へいって慰労会をするが、出席は強制ではない。心せく人はここから引き揚げてよろしい。河文へは中日新聞社のバスでいく。七、八分です。めいめいの都合で中座してけっこうです。小山オーナーはじめフロントはこない。球団納会のほうに顔を出すことになっている。気兼ねなく飲み食いできるよ」
 江藤が、
「少年野球教室以来二度目ですばい。今回も監督のポケットマネーですか」
「ああ、私のおごりだ。こんな形でしかきみたちにお礼ができないが……」
「これまで、じゅうぶんお世話になっとります。ばってんうれしかけん、ありがたくおごられます!」
 中日ビルの裏手の駐車場からバスに乗る。すっかり霧雨が晴れ上がっている。テレビ塔、NHKビルを通って桜通に出る。桜通本町から右折して丸の内のビジネス街を走り、魚ノ棚通の河文へ。二重庇の数寄屋門の前に二台のバスを停め、ダッフルを担いでぞろぞろと降りる。小野、伊藤久敏、門岡、水谷寿伸、水谷則博、土屋ら投手陣の姿がない。小川と星野秀孝はいる。伊藤竜彦、新宅、徳武、葛城、江藤省三の顔もない。太田コーチ、田宮コーチ、本多コーチ、長谷川コーチ、トレーナーたちもいない。半田コーチがいるのがうれしい。足木マネージャーはいる。どんなに気心知れた人間同士でも、のっぴきならない個人の都合はある。
 表門の両脇の大鉢に蓮の葉が形よく活けられている。鮮やかな緑だ。開放された格子戸に五分けの白暖簾が掛かっている。真ん中に大きく葵紋、左下に河文。名古屋で最も古い料亭で、四百年の歴史を誇っている。あたりまえだが、ゴミ一つ落ちていない。
 暖簾をくぐると、狭い沓脱ぎの向こうは磨き抜かれた広い式台になっている。すぐに女将と仲居が五、六人出てきて平伏した。
「ようこそいらっしゃいました。毎度ご贔屓に、ありがとうございます」
 二十人部屋の個室に通される。畳に置かれた長大な黒檀のテーブルに、十人ずつ向かい合うよう十対の洋椅子が並べられている。椅子の間隔も広い。大きなぼんぼりふうの白色蛍光灯が二つ吊るされ、それでじゅうぶん明るい。部屋の戸障子も渡り廊下のガラス戸も開け放たれ、雨上がりの植えこみの緑が深々と目に涼しい。縁側とステージのあいだに水鏡のように光る石舞台がある。ステージの下もツルツルの石だ。いそいそと仲居たちが河文の縫い取りのある白タオルをテーブルに置いて食膳の準備をするあいだに、女将が丁重な挨拶をする。
「お天気もなんとか持ちこたえ、パレードを無事終えられてほんとによろしゅうございました。店の者たちも交代交代で、三時間ほどテレビとラジオにかまけておりましたよ。みなさまの勇姿に感激いたしました。あらためて、日本一、おめでとうございます。どうかきょうはおくつろぎくださって、一年間の労をおねぎらいください。腕によりをかけておいしいごちそうをお出しいたします」
 水原監督が、
「ありがとうございます。来季もよろしくお付き合いください。河文さんで盛大に祝勝会ができるようがんばります」
「お約束ですよ。それではお料理をお運びいたします」
 仲居が飲み物の注文を聞き、まず冷えた瓶ビールが林立する。生ビールのジョッキの者もいる。水原監督と太田は大分の冷酒を頼んだ。仲居たちが一人ひとりのコップについでいく。
 前菜の器が運ばれてきて目を奪う。仲居たちがいちいち品目を言っていく。何のことやらわからないまま耳を立てる。九谷焼の平鉢に鮭の松前酢、数種の深鉢に眞子(まこ)和え、鯛の子寄せ、子持ち昆布、芹とずいき、いんげん胡麻和え、銅の楕円の椀に巻きスルメ、越前焼きの平皿に松風(まつかぜ)、厚焼玉子。ときに器の名前も言う。仲居の接客ばかりでなく器もすばらしい。小川が箸を動かし庭を眺めながら、
「ときどき気づくくらいの雨だったな。秋晴れよりも記憶に残った」
 星野が、
「小川さん、なんだか一日上の空でしたね」
「金太郎さんのことを考えてたんだ。にこやかに沿道に手を振っている後ろ姿が胸にきてね。五百野の第八回を読み終えて感無量だった。あんなにひっそりと悲しく生きてきた男なのに、周りの人たちに対する気配りがすごい。傑作だ。専門家でないのでこみいった評価はできないけど、これ以上に非の打ちどころのない、またこれほど人間への敬意に満ちた文章を書くことは難しい」
 水原監督が、
「金太郎さんは、野卑な連中の傲慢さにつらい思いをしてきたからね。でも持って生まれた性格で、そういう人間たちの態度に嫌悪を感じないんだよ」
 江藤が、
「うれしくはなかろうが、腹が立たんとたい。心底やさしい男やけん。監督も同じ性格ばい。腹を立てて爆発することはあっても、嫌いにはならん」
 菱川が、
「ふつうは根に持ちますよね、浜野みたいに」
「おお、人間への敬意がなかけんな。健太郎も水原さんと同じで、人にやさしい。今年はそんな連中ぎり、ドラゴンズにおる」
 高木が、
「むかしからだったんじゃないの。金太郎さんがもとに戻したんでしょ」
「来年もこういう人間でやっていきたいのう」
 大分の酒に切り替えて、ちびちびやっている。漆塗りの御椀が出る。海老真蒸(しんじょう)、熨斗(のし)大根人参、つる菜、花柚子と説明する。星野が、
「これ、汁がうま!」
 中が、
「海老がぷりぷりで弾けるね。五、六杯いけそうだ」
 半田コーチが、
「オイシね! ハワイ、こんなのないね」
 森下コーチが、
「日本料理屋があるんやないの」
「ありますけど、こんなオイシのない」
 宇野ヘッドコーチが、
「一年もしたら、家族連れて戻ってきなさいよ。あなたなら引く手あまただ」
「はい、そのときはよろしゅうお願いします」
 水原監督が微笑みながらうなずいた。砥部(とべ)焼の平皿に御造り。鮪、真鯛、トリガイ、大葉、紅蓼(たで)、撚(よ)り胡瓜、廿日(はつか)大根、本山葵(わさび)、花穂。トリガイの印象が強い。食通という評判の長谷川コーチが、
「ほう、量は少ないが、一つ一つ順序よく食べる喜びがあるな。盛りつけがとにかくきれいだ。まさに造りだね。ワサビがうまい」
「御凌(しの)ぎでございます。ギンアンをかけてございます」
 餡(あん)をかけた小豆おこわ蒸に三つ葉を添えたものが生姜汁に浸してある。
「オシノギってどういう意味ですか」
 私が訊くと、中が、
「懐石というのはもともと空腹を凌ぐ程度のものという意味なんだ。ちょっとした腹つなぎということ。寿司、ソバ、うどん、それからこんな一口おこわなんかもそうだね」
 水原監督が、
「デリケートな味かと思ったら、おこわにキッチリ味が乗ってるね。ん? 金太郎さん、静かだねェ、こういう食いものはいやかな」
「耳新しいことばかりで、正直、感動しながら食ってます。どうしようもなくうまい。こんな店に二度も連れてきてもらえるなんて、大感謝です」
 太田と星野秀孝も、ありがとうございます、と頭を下げた。
「プロ野球選手は、接待される前に自分で食べ歩くことが多い。それで食通になる。うまいものは栄養価が高い。食通になったほうがいい。ベテランはすでに食通だ。だから若い選手に食通になるきっかけを作ってあげなくちゃね。ま、こんな高い店は年に二、三回でいいけど。北村席のディナーはこういう店と遜色がない。ベテラン、新人を問わず、ときどき寄せてもらいなさい」
 星野が、
「めし食わせてくださーいはまずいですよね」
 小川が、星野の頭をコツンとやった。
「だめに決まってるだろ。ときどき金太郎さんに誘われたらいくんだよ」
 座が大笑いになる。



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