十         

「焼物でございます」
 金目鯛柚庵焼、花蓮根、はじかみ。金目の色が濃く、照りが出ている。コゲのつけ方も絶妙だ。蓮根は断面の切れがするどい。アルミかハガネのような存在感だ。こういう美感は北村席にはない。だから気楽に食える。焼き魚のあとの口直しに、はじかみは最適だった。中が、
「監督、来年のコーチ陣は決まってるんですか」
「うん、宇野くんと太田くんはこれまでどおり、田宮くんと半田くんが抜けるから、そこへ打撃コーチとして杉山悟くんを抜擢し、守備・走塁コーチとして二軍から森下くんを上げる。ピッチングコーチは太田くん。二軍ヘッドはこれまでどおり本多くん、二軍打撃コーチにはおととし退団した井上登くんを入れ、ピッチングコーチはこれまでどおり長谷川くん、守備・走塁コーチは徳武くん、バッテリーコーチは吉沢くん、トレーニングコーチは塚田くんです」
 江藤が、
「中日の生え抜きやった登さんは、たしか入団二年目に優勝を経験しとる。ドラゴンズでワシの六年先輩やった。ワシとは三年いっしょにやった。山内のごたるシュート打ちの名人で、四番を打ったこともある。モリミチの前の名セカンドばい。モリミチのような天才ではなかったばってん、中日名二塁手のサキガケたい。中日時代に五回もベストナインを獲っとる。野球記者の大和球士がプロ野球三大試合と言った二十九年の日本シリーズ最終戦で決勝打を放った。左中間三塁打やった。三十七年に半田さんとの交換トレードで南海にいって、おととし中日に帰ってきたけど、一年で退団した。あの人ならよか打撃コーチになるやろう」
 私の記憶にもハッキリとある。背番号51、上半身のガッシリした中距離ヒッターだった。水原監督がつづける。
「一軍ヘッドコーチは宇野くんのまま、ピッチングコーチも二軍の長谷川くんを片腕にして太田くんのまま。打撃コーチの杉山くんには期待するところ大だ。守備・走塁コーチは森下くんに兼任してもらおうと思ったが、それでは負担が重いので、走塁のほうは鏑木くんと協力してやってもらうことにした。鏑木くんは文字通りランニングコーチでもあるんでね。コンディショニングは池藤くん一党にまかせる。二軍は、これまでどおり監督兼ヘッドコーチは本多くん、ピッチングコーチは長谷川くん、守備および走塁コーチに徳武くん、トレーニングコーチは塚田くんのまま」
 太田が、
「塚田さんは日本球界初のトレーニングコーチですよね」
 水原監督が、
「いや、川上くんが東京オリンピックの陸上選手だった鈴木章介さんを採ったのが、塚田くんより三年早い。専任のバッティングピッチャーも川上くんがいちばん早く採り入れた。うちは二軍から上げるつもりの選手を打撃投手にする。星野くんの先例は貴重だからね」
 私は太田に、
「トレーニングコーチって、どういうことするの?」
「池藤さんのようなトレーナーに似た仕事です。グランドに出てトレーニングを手伝うんです。トレーニング方法を教えたりもします。現場で故障したりしたときの応急処置や治療、リハビリなどは、池藤さんのようなアスレチックトレーナーが面倒見ます」
 酒のお替わり、ビール瓶のやり取りが頻繁になってきた。焚き合せ。合鴨醤油煮、冬瓜(とうがん)、カボチャ、大莢(おおさや)えんどう豆、湯葉、洋辛子つき。合鴨はしっかり味つけがしてある。辛子をつけて食う。うまい。一枝が、
「むちゃくちゃビールに合うな。ここはいわゆる料亭の薄味じゃなく、しっかり味をつけてあるのがいい」
 水原監督が、
「この店の方向性だね。私は関東人だから口に合う」
 私は、
「ぼくも東京のしょっぱい立ち食いそば、好きです。青森はもっとしょっぱいです」
「青森にはいつ帰るの?」
「十二月の第一週を予定してます」
「青森高校で講演するんだね」
「はい。寺山修司がくるので気が進まないんですが、約束したことなので」
 木俣が、
「中商の講演はいつだっけ」
「十二月十三日です。OBの木俣さんにほとんどまかせていいですよね」
「ちょっと待て! 俺は口下手なんだ。壇上に登ると考えるだけで、いまから緊張してるくらいだ。大金太郎と小金太郎なら、大金太郎にまかせるのが筋だろう」
「大も小もありません。木俣さんはOBなんですよ。ぼくはスカウトされ損なっただけの男です。木俣さん七、ぼくが三でいくのが筋です」
 江藤が、
「そうたい、それが筋たい。達ちゃんが真打をやれ」
「そうですよ。本来ぼくなんか場ちがいです」
「ちぇ、何をしゃべればいいんだ。原稿書かんといかんな」
 小川が、
「達ちゃん、原稿書けるのか」
「要点と、しゃべる順番くらいは」
 私は、
「口下手なのでと言ってしまって、甲子園の思い出や、マサカリ打法のことを思いつくままにしゃべればいいんじゃないですか。筋トレや食餌法に話を飛ばして、基礎訓練や体調管理の重要性を説き、最後に、しっかり基礎体力をつけた諸君の入団を待っているとか何とか言って〆るんですよ」
「なるほど! それでも原稿が要るな。金太郎さんは何をしゃべるんだ」
「考えてません。青森高校も。そのとき思いついたことをしゃべろうと思ってます。思いつかなければ、青森高校に学んだ年月があるおかげで、いまのぼくがありますとやって、話をふくらまそうと思います。中商に学んだ経験はないので、中商にスカウトされそこなったおかげでいまのぼくが、とやります」
「しゃべりも天才だからな。どうにでもなる」
 菱川が、
「俺もマイクの前ではしゃべれません。来年のヒーローインタビュー、困ったな」
 高木が、
「何、取らぬタヌキをやってるんだ。まあ、そのチャンスは増えるだろうから、金太郎さんみたいにスタコラ逃げちまえばいいんだよ」
「それももったいないです」
「言っとれ」
 菱川は笑いながら、照れ隠しに、関係のない太田をヘッドロックする。
「揚物でございます。穴子の天ぷら、松葉独活(うど)の天ぷら、レモンを添えてございます」
 衣が柔らかくて好みだ。しかも天ぷらなのに、油っぽくなくカラッとしている。千原が隣の江島に、
「マツバウドって何だ」
 仲居が、
「アスパラガスのことです」
「ああ、そうなんですか。ついでに伺いますが、きょういろいろわからないものがあったんで、訊いていいですか」
 興味が湧いた。耳に聞きながら品書きで目に記憶させただけなので、実体を知りたかった。
「はい、どうぞ」
「マコ、マツカゼ、シンジョウ、ハツカダイコン、ギンアン、ユズアン、トウガン」
 水原監督が、
「私も知りたいね」
「眞子というのは魚の卵です。反対は白子。マツカゼは厚いお好み焼きに砂糖水を塗って芥子粒をつけたものです。シンジョウというのは、鶏や魚介の肉をすり潰して、山芋や玉子の白身をつなぎにした練り物です。だし汁が肝心なんです。ハツカダイコンはよくサラダに使うラディッシュのことです。ギンアンはふつうの餡かけの餡です。柚庵というのはユズの香りをつけたタレのことです。トウガンをご存知ないんですね。平安時代から食べられてきた野菜なんですよ。ラグビーのボールみたいなウリです。淡白な味です」
 女将が入ってきて、
「盛り上がってますね。そろそろお食事になります。お酒を召し上がりながらでもお食べになれます。鯛ごはんの焼おにぎりのお茶漬けです。おダシに浸して、海苔と浅葱(あさつき)を散らした上にワサビを載せてあります。崩してお食べください。お香のものは、奈良漬と柴漬と青菜です。大きなおにぎりですのでお腹いっぱいになりますよ」
 ここに入ったのが二時半少し前。もう五時近くになっている。あっという間だ。女将が去るとお茶漬けがやってきた。みんなホウとため息をつきながら焼きおにぎりを崩しにかかる。水原監督が足木マネージャーに、
「足木くん、十六日の納会のあとの予定はどうなってる?」
 足木は一箸で止め、
「十七日の午前十時五十五分の特急飛騨に乗り、二時間弱で下呂到着です。当日はゆっくり温泉に浸かって、十八日の朝から下呂カントリークラブでゴルフコンペとなっています。夜、反省会。翌日は自由行動で帰宅です」
「わかりました。二軍選手も納会に参加できるんだね」
「原則はそうですが、だれも参加しません。二軍監督、コーチたちは参加します」
「そう。自由参加だからそれでいいんだ。金太郎さんは参加しない。プロ野球選手になった喜びをそんなことで確かめるのは、邪道と言えば邪道と言えるかもしれない。納会ゴルフは、かなりのベテラン選手と、監督コーチ陣と、フロントの娯楽とすべきだね。現役まっしぐらの選手は、ゴルフなどにうつつを抜かすべきじゃない」
 中が、
「赤バット青バットのころから、プロ野球選手とゴルフは切っても切れない関係らしいですね。青田さんは、プロ野球選手にオフシーズンなんかあるわけがない、その証拠に年がら年中ボールを追いかけ回しとる、と言ってる。巨人は最も盛んだ。読売カントリー倶楽部があるくらいだから。新人に洗礼のようにゴルフを押しつけるのはよくないな」
 森下コーチが、
「そうか、俺も考えが甘かったな。金太郎さんを温泉に連れてってゴルフを覚えさせるなんて言ってもうたさかいな。二年、三年でプロ野球を引退していくようなやつ以外は、ほぼ全員ゴルフをやるもんな。ほぼ全員やるゆうことは、俺たちがやらせとるゆうことや。おととし西鉄を引退した尾崎正司なんてやつはその逆で、オフのゴルフ三昧が高じてプロ級の腕になって、たった三年で引退、来年はプロテストを受けるという話やで。野球をやらせるために払った契約金を野球以外の可能性につぎこまれたんではかなわんわ。本末転倒やで」
 江藤が、
「ドラゴンズはそのプロ野球界の伝統を無視せんばいけんな。ひっくり返すことはできんけん、無視するしかなかろ」
 みんなペロリと食事を終え、
「しかし、納会ゴルフをしないと、一年が終わった気がしないよなあ」
 とか、
「年に一度の大事な親睦会だから、人付き合いの悪い野郎だと思われるのもいやだし」
 とか、
「納会卓球でもいいんじゃないの。ゴルフをやらないやつもけっこういるし、球団職員と親睦が図れる」
 などと言って杯を重ねている。小川が、
「いずれにせよ、納会のあとは何らかの親睦を図れということだろ。こうやって河文や北村席で飲み食いしても、優勝会のホテルで飲み食いしても、試合後の外食で飲み食いしても、じゅうぶん親睦は図れる。ゴルフや卓球なんてものでからだ動かしてダメ押したって意味がないよ。俺たちは一年じゅうからだを動かしてきたんだ。それがないだけでも、ノンビリした気分になれる連中はたくさんいるはずだ。オフはのんびりしなくちゃ。今月末の秋季キャンプに、新人といっしょに出る予定のやつもいるんだろう? ゴルフが好きなら、好きな者同士で同好会でも作っていくべきじゃないの。おれは納会ゴルフいくけどさ。シングルの腕前だから、優勝して大型テレビをいただいちゃう。金太郎さんなんかにこられて、先天的にゴルフがうまかったなんて日にゃ、シラけるぞう!」
 ワッと笑いと拍手が上がる。
「甘味でございます。西尾抹茶冷やし汁粉、黄粉茶アイスクリーム、枇杷ゼリー寄せでございます」
 水原監督が、
「デザートだよ。これで酔いを醒まして、ミコシを上げよう。十五日のファン感謝祭までとにかく一週間かけて、一年分の疲れを取りなさい。私はしばらくゴルフの練習に明け暮れます」
 大爆笑になる。私は、
「結局、みなさん下呂にいくんですか」
 江藤が、
「監督はいかんと格好がつかん。仕方なか。ワシは、今年は福岡に帰ってのんびりする」
 中が、
「私も群馬に里帰りだね」
 水原監督が、
「私は、赤バット青バット以来のゴルファーだから見逃してもらうとして、大リーガーはほとんどゴルフに興味を示さないということを言っておくよ。たしかにゴルフは打って走るというダイナミズムからは遠い。打って歩くからね。それだけ娯楽の要素が多い」
 菱川が、
「神無月さんは大リーガーだということですね」
「そう。プロゴルフはきちんとしたスポーツだけど、素人ゴルフは金を象徴するようなところがある。有名人や財界人のコンペが多いことからわかる。アメリカにはそういう文化はない。反権力気質の金太郎さんは、金のにおいを嫌うんだ。だれよりも高給取りなのにね。金は周囲の人たちに放出してしまう。江藤くんもそうだったが、金太郎さんも契約金は親族にすべてくれてやった。いまも給料の大半を名古屋や東京や青森の困窮している人たちに分け与えて、自分のポケットには十万円しかない。ま、悪く思わず見逃してやってほしい。いつもべたべた抱き合ってるんだからじゅうぶんだろう」
 木俣が、
「じゅうぶん以上ですよ。ここにこうしているのが奇跡の人間に、贅沢を言えるはずがない。自分のささやかな趣味なんか押しつけられないですよ。ゴルフ以外はほとんど付き合ってくれるんだ。健太郎さんが金太郎さんのパレードの背中を見て泣けたという気持ちが痛いほどわかるもん。きょうのオープンカー、隣に座れてよかったァ! 大金太郎、いつまでもいっしょにいてくれよ」
「はい、いさせてください」
「これだ、アハハハハ」
 列の端で太田が目を拭った。


         十一

 河文の玄関門前に呼ばれた何台ものタクシーにめいめい同乗し合って帰っていった。高木と半田コーチ、彼らはホテルの静かなバーかどこかで師弟の別れを惜しむのだ。菱川と太田と星野秀孝と千原、親交を暖めるために居酒屋で飲み直しをするだろう。中が江島に声をかけて乗りこんだ。喫茶店かどこかで守備の要諦を伝授するためにちがいない。宇野ヘッドコーチと太田コーチと森下コーチと足木マネージャー、彼らは下呂を含めた今後の打ち合わせをする雰囲気だ。水原監督と小川は単身で帰った。私と江藤と木俣と一枝が残って手を振った。自然とそういう形になった。
 私たち四人はダッフルを担ぎ、夕暮から夜へ変わっていく魚ノ棚通をゆっくり歩いて、堀川端の木挽町通へ出た。
「よか飲み会やったのう。人間同士ここまで仲良くなれるゆうことが信じられんたい」
 一枝が、
「慎ちゃんが十年目、俺たちは五年目。生え抜きだから、ほかのチームのことはよくわからんけど、ドラゴンズは特殊だろう。特に今年のドラゴンズは」
「これからは特殊でなくなるっち」
 木俣が、
「球界にこういう和気が蔓延することはないでしょう。それでいいと思うな。いまの酒でも、優勝とか日本一の話なんかこれっぽっちも出なかった。そんなことで大騒ぎしないチーム、おたがいのことしかしゃべらないチーム。すばらしいな。そしてどんどん優勝していく。いいなあ」
「そんとおりばい。そんためには勝ちつづけないけん。チームが弱いと、一人ひとり自分の成績ばっかり気にして和気が崩れる。いままで何度も経験しとるジレンマたい。ばってん、金太郎さんのごたる飛び抜けた人間がチームにおると、だれも自分の成績なんか気にせんようになる。ワシも個人成績ば気にせんようになったら、あれよあれよと成績が伸びた。何も気にせんと百六十本打つ手本がおったら当然やろう」
 一枝が、
「常勝中日の伝統を来年から作っていこうや」
 私は、
「きょう初めて、優勝することがものすごいことだと知りました」
 江藤が、
「ワシもつくづく感じた。口から生まれた板ちゃんもアガッとったぞ。ロクなこと言えんかったごたァ。板ちゃんも優勝やら日本一やらは初めての経験やけんな。早う口達者ば取り戻して、芸能界でうまくやっていってほしかな」
 木俣が、
「うまくやりますよ。板東さんは人脈作りがうまいから」
 一枝が、
「正反対なのが、小野さんだ。孤立無援、奥さんと二人きりの人だから。今回は残念だった。腹わたが煮えくり返っただろうな。俺もむちゃくちゃ腹が立った。……とにかく一年でも思い留まってくれてよかった。慎ちゃんと金太郎さんのおかげだ。もう止められないと思ったよ。若手の投げる機会を奪いたくないんて心にもない理由までくっつけて、波風をこれ以上大きくしないような口実を作って、サッと身を引こうとしたんだからな」
 木俣が、
「マスコミは恐ろしいよ。あることないこと……。勉ちゃんは一度も小野さんの名前は言わなかったらしいぜ」
「あたりまえたい。あんなホトケさまみたいな人間ば悪う言うやつの気が知れん。アンチ中日のタチの悪い記者がでっち上げたんやろう」
 中橋を渡って堀川を越え、杉ノ町通を歩く。木立に囲まれた家の窓から哀調を帯びたクラシックのバイオリン曲が流れてくる。途中で早いテンポに変わる。
「ステレオですね。なんていう曲だろう」
 一枝がホクロを掻きながら、
「モンティのチャルダッシュ。五十年くらい前の曲だ。モンティが五十過ぎて作曲したもので、彼は実質これ一曲の無名の作曲家だよ。イタリア人」
「一枝さんのクラシック通はほんものですね。先日はレコード送っていただいて、ほんとにありがとうございました。まだ聴き残しているレコードがありますから、心して聴きます」
「旅館の道楽息子。中学のころからクラシックが趣味でね。レコードが四千枚くらいある。何か聴きたいものが出てきたら言って。また送るよ」
 木俣が、
「俺にもお薦めのレコード貸してよ。五枚くらい。ちゃんと聴くから」
「そんな趣味あった?」
「なかったから頼んでんだ」
「わかった。折を見て送ってやる。ところで、今回の八百長は黒い霧事件と言われだしたらしいけど、池永の名前が上がったそうだぜ」
 江藤が大きな目を剥いて、
「池永やと!」
 姿勢を低くして、するどい腕の振りで投げこんでくる池永の姿が浮かんだ。木俣が、
「嘘だろう。あの男は正義漢だ。オープン戦で何度か話したことがある。あり得ない」
 木俣が江藤の顔を見つめた。江藤はうなずき、
「ぜったいあり得んたい。五年で百勝のピッチャーぞ。パリーグをしょって立っとるピッチャーが、何の不足があって不正ばせんといけんのや。それはなか」
 一枝も強くうなずき、
「だよね。小野さんと同じ濡れ衣だな」
「まだ二十三歳やろ。疑われたら戦わんば。何に載っとった」
「週刊読売」
「週刊誌か。でっち上げたい。すぐ鎮まる。大ごとにはならん」
 浅間神社を前に見て右折し、四間道と石柱に刻んである町並に出る。ガス燈に似た古風な街灯が連なっている。古い町家に白壁の土蔵が混じる。先月の中ごろ、ハセコーヒーを訪ねたとき、主人や睦子たちと昼間にきた。
「シケミチと読みます」
 木俣が、
「なんでこんな名前がついてるんだろうな」
「このへんは商店が九十七軒もある商人の町なんです。元禄のころにこの一帯で大火があって、復興のとき商人たちが延焼を防ぐ目的で道幅を七メートル三十センチにしたそうです。一間は百八十二センチです。百八十二かける四で七メートル二十八センチ。それで四間道」
「利ちゃんのごたる。何でん知っとうな」
「西高のころ、散歩したときカズちゃんに教えてもらいました。カズちゃんは物知りですから。西区のこのあたりは、円頓寺商店街と並んで名古屋の有名な散歩コースです。浅間神社から円頓寺商店街の入口まで名古屋市の町並保存地区になってます。河文から偶然ここにこられてラッキーでした」
 ふと、西高時代にカズちゃんとこのあたりを散歩したことはなかったと思い当たった。ずっとそう思いこんでいたが、百江とキッコと三人で歩いたのだった。でも、ただ散歩しただけだった。こういう知識がいつついたかもわからない。知識が入ったとすれば、北村席に転がっていたパンフレットか何かからだろう。
 那古野一丁目の大通りの信号を渡る。那古野の五叉路に出る。夜の市電が走っている。
「もう名古屋駅です。ぼくはこの右手へいった名古屋西高にかよってました」
「野球をやらんとがまんした時期やな。その金太郎さんをドラゴンズが虎視眈々と狙っとった」
 一枝が、
「金太郎さんはがまんの人だからね。こうしてゆっくり歩くのも、ある種のがまんだ。俺たちはふだん、がまんしながら相当走ってるけど、歩いてない。金太郎さんが散歩好きだということはタコから聞いてた。こうやって無意識にがまんして、いつも世界を広げてるんだな」
 私は、
「楽しんでるだけですよ」
 木俣が、うん、と言い、
「やっぱりがまんだね。釣りも、筋トレも、結婚生活も」
 一枝が、
「へへ、まことにそのとおりでございます。ゴルフもね」
「またゴルフか。ワシャ、納会では温泉にしか浸かったことがなかけんが、達ちゃんも修ちゃんもゴルフをやるんか」
 木俣が一枝とうなずき合い、
「年に一度、納会のときだけ。あれはがまんの限界ですよ。ボールが思ったように飛ばない。散歩のほうががまんできるな」
「見納めと思って歩くと、散歩好きになりますよ。あしたもあさっても見納めしたい気持ちになって、結局長生きします」
 木俣がギョッとした目で、
「見納めって……怖いこと言わないでよ。俺、いつも金太郎さんのちょっとした言葉を聞いて怖くなるんだよ」
「ハハハ、愛されすぎてるので、死ねません」
 則武へのトンネルをくぐらずに、中央郵便局のほうへ曲がる。旅行公社。
「おう、きょうパレードに出発した場所たい。もうだれもおらんな。金太郎さんはいつもこの景色を散歩しながら見とるんやろう」
「たまに青年像と噴水を見にきます。北村席に寄っていきませんか」
「菅野さんが気を使う。それにめしどきやろ。腹がパンクしてしまう。ワシャ、タクシーで帰るわ」
 木俣が、
「俺は名鉄で帰ります」
「岡崎やったな」
「はい。きょうデザートで西尾抹茶のアイスクリームが出たでしょ。抹茶は西尾茶が日本一です」
 抹茶のアイスクリームを食べたことを思い出した。岡崎のそばに西尾という町があるのかもしれない。
「修ちゃんも名鉄ね」
「いや、タクシーで帰る。東山のほう。電車でもいけるけど、早く帰りたいんで」
「三歳の息子がおるんやったな。広島で言っとったやろ」
「内緒、内緒。江藤さんと菱と太田が知ってるだけ。それ以外は、球団の中でさえ女っ気なしで通してるからさ」
「なんで通さんばいけんと」
「まだ籍を入れてないんだよ。もう少し悪いことをしていたいからね。人間、いいことばかりしてたら息が詰まる」
 タクシー乗り場から手を振って一枝を送り出した。江藤と二人で名鉄の改札まで木俣を送っていく。
「ワシらベテランはほとんど所帯持ちやが、ワシだけ名古屋に家ば持たん。みんな家ば持て、家ば持て、言うばってん、ワシは家族の気持ちば考えてしまうけん、しょっちゅう家に帰って女房子供の機嫌ばとってしまうやろ。それでフニャッと芯がのうなる。金太郎さんのごたァ泰然と構えとられん。現役のあいだはいまの形ば通そうて思うとる」
「北村に下宿したらどうですか」
「家族の待つところへ帰るのと同じやろう。フニャッとなるのは変わらん」
「名古屋に別宅を置いたらどうでしょう。家族の都合があるなら、別に呼び寄せなくてもいいということで」
「家族のおらん家は意味なかろうもん。アパートの一人暮らしも侘びしか。やっぱり寮がいちばんやな。人が待っとるわけやなかばってん、人はかならずおるけん」
「江藤さんは強くてやさしい人ですね。自分が恥ずかしくなります。ぼくはただボーッとしてるだけの男なので、ものごとに頓着しない強い人間に見られがちですが、じつは人を恋しがるタチで、独りぼっちだとすぐ暗い気持ちになる平凡な人間です。自分の小ささはよく知っています。ラッキーの連続が小さい人間を大きく見せてる。……たとえば、利き腕の左腕は大したことなかったのに、利き腕でない右腕が強かったのは不思議です。ボールが遠くへ飛ぶのも不思議です。勉強のできない子だったのに、高校や大学に入れたのも不思議です。人間的に取り柄のない男なのに女に大切にされるのも不思議です。……すべて、小さな身に合った人生じゃなく、宝くじに偶然当たったようなマグレの人生なんです。いまこうして、がんらい強い、才能にあふれた人びとの中で生きている自分が不思議でなりません。驚いて感謝する時間の連続にボーッとなってしまいます。……いつか、もとどおりの小さな姿に戻っても、そばにいさせてくれますか」
 木俣は改札を通るのも忘れて立ち尽くした。江藤はボロリと涙をこぼし、私を抱き締めた。
「なんでそんなふうに思うようになってしまったかのう。かわいそうやのう。ワシらでよければ一生そばにいるばい。憎いのう、金太郎さんをこんな考えにしてしまった人間どもが憎いのう」
 木俣は頬をゆがめ、江藤に抱かれてぶらりと垂れた私の手を握り、
「神さまにどういう大小のランク付けがあるか知らないけどさ、金太郎さんは人間界のトップランクだよ。ランク付けがいやなら、突然変異と言っておくよ。金太郎さんの身に起きたことはぜんぶ突然変異だと思えば、不思議でないから、卑屈な気持ちにもならないだろう? 突然変異にはだれも敵わない。……なんてすばらしい男だ。こんな男とは思わなかった。恥ずかしくなるのはこっちだよ」
 江藤は涙を流れるにまかせ、
「帰って、ゆっくり休んだほうがよか。和子さんの言うとった感情の波というやつやな」
 彼らは、正直に話している私の言葉を信用しなかった。ただ私を愛しているだけだった。私は極端に疲れてきて、笑顔になった。
「すみません。またいつもの悪い癖が出ました。嫌味な男ですね。もっと自信満々に生きるようにしないと。どうぞ、木俣さん、気にせずいってください」
 二人が動こうとしないので、
「感情の波です。すぐ平らになります。こうしていっしょに飲んだり、しゃべったり、歩いたりするのがうれしくてしょうがないので、つい甘えてしまいました。すみません。あさっては熊本でマツダ自動車のCM撮影です。テレビに流れたら観てください」
「熊本か! いっしょにいくばい」
「ほんとですか!」
「おお、いこ。ワシはそこから電車で博多へ引き返すけん」
「うれしいな。あしたの夜はうちでめしを食って泊まってください。十日朝、七時五十五分の飛行機ですから。江藤さんの切符は買っておきます」
「何言っとる。自分の分は電話で買っとく」
「つづきの席にしたいので。ぼくが買いますから、あとで精算してください」
「わかった。あしたのめしどきにくる。よし、じゃ、達ちゃんば見送るばい」


         十二

 木俣は国鉄の改札を入った。立ち止まり、手を振り、私の様子を見ている。私は手を振り返してからタクシー乗り場に向かって江藤と歩き出した。木俣は私たちが最後に振り返るまで見守っていた。
 西口のタクシー乗り場には会社帰りのサラリーマンがかなり並んでいた。江藤は、
「金太郎さん、人目につくけん、もうよかよ。ワシは笹島あたりでタクシーば拾うけん。ああ、きょうはつくづく、よか散歩やった。入団から十年、だれともここまで親しく話したことはなかったばい。金太郎さんと初めて同部屋になったときも、まだケツが落ち着かんかった。あれからどんどんこみいった話ばでくるようになって……」
「ほんとにもう何の気兼ねもなくなりました」
「おお、兄弟ごつなった。こん先はどんなこって兄弟分だから勘弁してもらえる。うれしかのう。―ほんなこつ、きょうはよか気持ちばい。ぐっすり寝よ。じゃ、あしたのめしどきにいくけんな」
「はい、待ってます」
 江藤は乗客の列を離れ、手を振るとガード沿いに笹島のほうへ歩き去った。ダッフルを軽く感じながら、とっぷり暮れた道を歩いて北村席へ帰り着く。
「腹がいっぱいです」
 と、夕食を終わりかけている一家に言い、彼らの傍らで背広を脱ぎ、トモヨさんに浴衣を着せてもらって、千鶴のいれたコーヒーを飲んだ。直人が、
「おとうちゃんにてをふったよ!」
 と首っ玉にかじりつく。
「おとうちゃんも振ったぞ」
「うん、ふってた。おとうちゃーんてよんだよ」
「よく聞こえたぞ」
 素子が、
「頬がこけとるが。よっぽど疲れたんやな。めでたいことが嫌いやから。すぐお風呂に入って、きょうはここで寝ればええ」
 ソテツがせっせとダッフルの中身を取り出している。
「菅野さん、あした江藤さんが夜にきて泊まって、翌朝いっしょに熊本行の飛行機に乗ります。つづき席で二枚航空券をとっておいてください。カズちゃん、菅野さんにお金渡しといて」
 菅野は、
「神無月さんはご存じないでしょうが、ファインホースの口座に運転資金が何百万も入ってるんですよ。九月にお嬢さんが開設してくれました。ファインホースを通して神無月さんが行動することに、だれかがお金を出す必要はないんです。それから神無月さん、新幹線は切符を購入しなくちゃいけませんけど、飛行機は予約さえ取れれば、搭乗券は現場の手続で発行してもらうんです」
「そうだったんですか」
「そうですよ。いっしょについていって搭乗手続きをしてあげます」
 カズちゃんが、
「そっか、青森を往復したとき何度かやったのに、私も忘れてたわ」
「熊本は江藤さんの里でしたね」
「うん、でもいまは一家全員福岡。熊本から電車で福岡へ引き返すそうです。ぼくは到着したらすぐ中介さんと打ち合わせ」
 トモヨさんが、
「着ていくのは紺か茶のスーツですね。郷くんは紺が似合うんですけど、自動車と撮影するなら、機械っぽい色は何かしら」
 トモヨさんが首をかしげる。
「機械は中性だから、どんな色も合うと思うけど、法子さんが買ってくれたライトブルーのブレザーがあったでしょう。中日ドラゴンズのチームカラーだし、秋口によく合うんじゃない?」
「そうですね、それにしましょう」
「直人、しばらくおとうちゃん忙しくて、あっちこっち飛び回るから、いっしょに遊べなくなるけど、がまんするんだぞ」
「うん」
 主人が、
「いやあ、五十万人に手を振ったら疲れるわな。すごかったな、こんなに名古屋に人がいるのかと思ったわ」
 女将と賄いたちがわいわい、
「笹島まで出てみたけど、道が見えんかった。パレードなんかぜんぜん見えん」
「見えたのは紙吹雪だけやった」
「神無月さんの晴れ姿、見たかった」
 菅野が、
「格好よかったですよ。ユニフォームを着た五月人形でした。江藤さんも格好よかった。武者人形でしたね」
「牛若丸と弁慶ね」
 カズちゃんがくすくす笑うと睦子と千佳子も笑う。キッコが、
「プロ野球選手って、美しすぎるわ」
 メイ子が、
「ドラゴンズは特にそうですね。みなさん美男子で。ここにお集まりになられたとき、息を呑みました」
 主人が、
「たしかにそうや。しかし、中日が美男子軍団ゆう話はとんと出たことないな。アトムズは豊田だけ、巨人は長嶋だけ、阪神は村山だけ、阪急は長池だけ、あとは……おらんもんな。オシドリ夫婦の話はよう出るけどな。江藤さん、板東さん、高木さん、小野さん、小川さん。ほかのチームでは聞いたことがあれせん。中さんは聞かんな。謎や」
 一枝の話は出ない。私は、
「中さんは、奥さんと七歳か八歳の一人娘が東山にいるんじゃなかったですか」
「そうでしたっけ」
 カズちゃんが、
「ここにきたとき、そう言ってたわよ。オシドリは理想の姿だけど、拘らないほうがいいと思うわ。オシドリみたいにいつもピッタリ寄り添ってないことが、男女の生活を長つづきさせるコツね」
 菅野が、
「ドラマだと、たいてい結婚生活は破綻しますよね」
「理由は簡単ね。ふつうの男にとって、好きな女といっしょにいて、身の周りの面倒を見てもらったり、食事をしたり、テレビを観たり、遊山に出かけたり、セックスしたり、そういう甘い夢を見たゴールが結婚なのよ。結婚した当座はその夢がしばらく叶って楽しくしていても、男はだんだん精彩をなくしていく。ハネムーンが終われば、その夢にまつわるいろんな負担も背負わなくちゃいけなくなるからよ。いちばん重い負担は女房が物理的にいつも貼りついてるということね。家に戻ればかならず女房がいる。毎日べったりとほとんど隙間のないくらいそばにいる。上機嫌や不機嫌を男に露骨にぶつけながらね。夢を与えてることに自信があるからよ。だから、好きになると朝から晩までつきまとい、嫌いとなると髪一本触られるのもいやというくらい極端なことをする。そういう支配者的なオール・オア・ナッシングの振舞いに付き合わそうとする。それでも男は夢を見てくれてるって自信があるからよ。その単調さと、女のわがまま、それを背負うことに疲れることが掛け算し合って、男は少しずつ怠け者や臆病者になっていく。私たちもいつもキョウちゃんのそばにいるけど、キョウちゃんはそれを単調に思ったり負担に思ったりしないし、寄り添われることに疲れないので、怠け者や臆病者にならない。だから人間としての精彩がなくならない。なぜかしら。―キョウちゃんの目的がふつうの男の目的とぜんぜんちがうからよ。キョウちゃんの目的は、自分が幸せになることじゃなくて、相手が幸せになることだからなの。無意識に自分を捨ててるわけ。そんな男を見て、女は自分が夢を叶えさせたなんて自信を持てないし、いい気になってオール・オア・ナッシング的なこともできない。ただ感謝して愛するだけ。それは女というわがままな生きものの敗北ね。愛という距離―接触しすぎない隙間。キョウちゃんの献身が、快適な距離を作ってるの。オシドリのようにくっつきすぎてる男女ではこうはいかないわ。ふつうの男は距離を失くすのが夢だったから、単調な生活と女のわがままをわけもわからず受け入れて憂鬱になる。そして疲れて、精彩をなくしてしまう。それが結婚生活よ。うまくいくはずがないでしょ」
 菅野が、
「結婚している私もきっと、適当な隙間があるんでうまくいってたんですね。タクシー時代から」
「そうよ。おとうさんもおかあさんもそう。結婚が破綻しない夫婦は、おたがいに自立して暮らし、適当な距離を楽しんでるの。とにかくくっつきすぎないこと。プロ野球選手には、キョウちゃんと私たちに似たような適当な男女の隙間があるようね。女の意のままにされないことででき上がる距離。そういう隙間があるから、いとしく思われる。まるで永遠の恋愛みたいに」
 千佳子が、
「隙間がないと愚かに振舞ってしまうなんて、女って、なんだかイヤな生きものですね」
「あなたたちはちがうわよ。私は愛に目覚めてない女のことを言ったの。あなたたちはキョウちゃんの理想よ」
 菅野が、
「……話は変わりますが、神無月さんもいつか老けますよね。こうして見ていると、そんなこと起こり得ないような気がして」
「肉体的に輝かしいときは長くつづかないわ。あと五、六年がたぶん青春の最後の輝きで、やがてその輝きも少しずつなくなっていって、中年壮年に入っていく。それがキョウちゃんにとってどんな意味を持った時代になるかわからないけど、いろいろなプラスマイナスの条件が加わって、いまよりバラ色ではなくなると思う。でも私はキョウちゃんのどんな時代もいっしょにいるから関係ないの」
「白髪が出て、シワが増えても」
「そうね。若いと相手のことをあまり気にしないけど、老けると気になってくるわ。人間関係が上の空のものでなくなるでしょう? すばらしいことね。それをいちばんよく知ってるのはキョウちゃんじゃないかしら」
「理屈ではわからないけど、感じてる。人生がぼくの嫌いなバラ色よりもシットリした菖蒲色になる。年輪の少ない木よりも多い木に魅力がある」
 睦子が、
「うれしい……安心して老けていけます」
 ソテツが、
「私も早く三十、四十になりたい」
「無理に老けることはないさ。赤ちゃんじゃないかぎり、みんな老ける兆候は目に見えてくるから」
 大して兆候も見えないうちに二十二歳で青春を終えたダッコちゃんの顔が、不意に浮かんできた。
「……早くきてほしいなんて思わなくても、とつぜん菖蒲色よりももっと濃い群青色に無理やりさせられてしまった人もいたけど」
 カズちゃんに彼の名前を言うと、遠い日を思い出してさびしそうにうなずいた。名前の主の正体を周囲が知りたがったので、私はザッとしゃべった。
「精神が肉体にまさるというのは嘘っぱちだと、彼は心の底で思っていただろうね。そうあってほしいという自分の願いにすぎないとね。―眠りから覚めることは、あらゆる死の中でいちばん恐ろしい死だって、彼はたしかにそう言ったからね」
「自分に肉体があることにとつぜん気づいて、絶望しちゃったのね。ふつうはうれしいことなのに」
 他人が受ける肉体の拷問を対岸の火事と考えないことはひどく難しい。ダッコちゃんのように、この世には肉体の拷問に打ち克って精神の高貴を守りとおそうとする勇者もたくさんいるにちがいない。でもダッコちゃんには、それが肉体を持った人間のほんとうの姿とは思えなかったはずだ。精神の高貴こそほんとうの人間の姿だと私には思えるだろうか。肉体の拷問を受けることこそ精神の贅沢の極みだと感じる自分が、それこそほんとうの人間の姿だと納得できる自分が確実にいる。ダッコちゃんは私の心の中では、精神の贅沢を極めた人に思える。
 肉体の花園にいる素子が、そんな話には頓着せず菅野に、
「熊本まではどのくらいかかるん?」
 彼女のてらいのない明るさに救われる。対岸の火事とも感じていない。所詮遠い、愛したことのない他人の話だ。
「七時五十五分に離陸して、九時二十五分着陸ですから、一時間半ですね。私たちのランニング時間が少し長引いたくらいです。飛行機はすごいですよ」
「翌日早い便で帰ろうと思ってたけど、中介さんに頼んで田浦町(たのうらまち)に連れてってもらう。帰りは十二日になる」
 カズちゃんが、
「いいわね。生まれ故郷を見てくるのは。でも、一日目のホテルは中介さんが用意するにしても、二日目はどうするの」
「同じホテルに泊まるよう中介さんに手配してもらう」
「ホテルは用意してもらうとして、田浦までいくとなると中介さんも忙しくて都合がつかないかもしれないわよ」
「そうだね。のんびり一人旅でもしながら訪ねていくよ。翌朝のいちばん早い便で帰ってくる。九時五十五分だったね」
「はい。乗る前に電話ください」
「よし、これで問題なし」



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