二十八  

 すがすがしい風の吹く坂道を下っていく。右は現代ふうの石垣、左は樹林。ポツポツと人が通る。バスや自家用車とすれちがう。坂道の途中に、両脇を鬱蒼とした森で囲まれた広い径があった。低く張った鎖に立入禁止という小さな標札が吊るしてある。
「大きな行事のあるときの臨時駐車場に使われてるんだな。いってみよう」
「はい」
 二人で低い鎖を跨ぐ。百江は嬉々として歩きだす。道の先に数十台駐車できる空間があって、周囲は手入れをしていない密林のような森だった。数メートル入るとまったく姿が隠れてしまうとわかった。
「さ、二、三分ですましてしまおう。出すよ」
「はい、あとでしゃがんでオツユを出しますからだいじょうぶ」
 百江はスカートとシュミーズをまくると、まとめて前で縛り、一本の木に手を置いて慣れた姿勢をとる。きれいな肛門がはっきり見える。触ってみる。ピクッと震える。右手で腹を抱え、左手でよく濡れたクリトリスを弄(いら)う。百江は後ろ手に私のものを握る。十秒ともたずに、
「神無月さん、イク!」
 気をやった。百江の手はしっかりと私の怒張したものを握っている。
「ください!」
 挿入して、過剰な緊縛に驚きながらあわただしくこする。アクメの連続がたちまち訪れ、
「すごい、イク! すごい、イク!」
 の発声が間断なくつづいた。
「神無月さん、気持ちよすぎる、もう、だめえ、イッックウウウ!」
 発声と同時に吐き出した。入れたままだと百江のアクメが止まらなくなるので、引き抜き、律動の残滓を肛門に吐きかけた。溝のほうへ流れていく。百江はひたすら激しく痙攣する。
         † 
 坂を下り切ったところで市電通りに出る。店構えの質素なジュエリーツツミという宝石店があった。
「誕生石ってわかる?」
「はい」
「十一月は?」
「トパーズです」
 店に入り、
「トパーズのネックレスを見せてください」
 店員はうやうやしく頭を下げ、ブルーの石が並んでいるショーケースの前へ連れていった。一目で気に入ったものがあった。紺に近い深みのある色をした涙状の石だった。指を差して示すと、
「ロンドンブルートパーズでございます。チェーンはプラチナ、石を固定する爪の部分にダイヤを埋めこんでございます」
「ください。プレゼントとわかる包装で」
「承知いたしました」
 三万五千円。廉いのか高いのかわからない。並んでいる他の品物を見ると、七千円のものも三十二万円のものもあった。百江が払い、バッグにしまった。
「あしたはトモヨ奥さんの誕生日ですね」
「うん」
「喜びますよ」
「うん」
 タクシーを拾い、松屋旅館へ帰った。三十分近くかかった。運転手が話すばかりで、やはり二人とも生返事をしながら無言でいた。
「武者返しちゅうのは熊本城独特のものでして、最初は勾配が緩やかで、だんだんきつうなって、最後は垂直になるので、忍者でも引き返すちゅうしろもんですわ。武者返しちゅう和菓子もあります。私は陣太鼓のほうが好きですばい」
「はあ。その二つ、土産に買って帰りましょう」
「熊本は地震台風がようくるけん、年じゅう気を抜けませんわ。去年の二月から三月までひと月つづいた地震で、熊本から鹿児島までやられました。特に鹿児島がひどうて……」
「熊本はあまりやられ……」
「熊本は台風と高潮と、たまあに阿蘇の噴火ですわ。ま、阿蘇のおかげで日本一おいしい水が飲めるんやが」
「水がね」
「南阿蘇の天然水は名水百選に選ばれました。シリカが含まれとるんですわ」
 訊かれることを期待しているのだと思い、
「何ですか、それは」
「皮膚や毛に含まれとる成分です。免疫力をつけ、肌のコラーゲンを再生する重要な成分です。それから阿蘇の水はミネラルが日本一です。骨を作るんですな」
「天然水というのは、湧き水や地下水を引いたもののことですか」
「そうです。南阿蘇村の明神池の湧き水が有名です。そこの水を飲むと子宝に恵まれるゆう伝説があって、誕生水と呼ばれとります」
「万能水ですね」
 これが人間の会話だろうか。百江はずっと私の手を握っていた。
 三時を少し回って松屋に帰り着いた。
「お帰りなさいませ、神無月さま、新庄さま。田浦はいかがでしたか?」
 女子従業員が笑顔で言う。
「静かな海がすばらしかった。あんなに山と海だらけの町はないですね」
「海にすぐ丘が迫っているので、気候が穏やかで日当たりがよく、柑橘類がおいしく育つんです。お二人とも少し日焼けなさいましたよ。歩かれたんですね」
「それほどでもないけど、ふだんよりは」
「予約風呂にすぐお入りになれますよ」
 得意そうに言う。
「ありがとう。六時にルームサービスをお願いします。おにぎり、鶏のスパイス焼き、ポテトサラダ、それぞれ一人前」
「承知いたしました。あしたの朝食はいかがなさいますか」
「やはりルールサービスで。朝からですが、牛ロースのステーキを一人前、それと松屋さんの朝食を一人前いただきます。七時半にお願いします。あしたの午前九時五十五分の小牧行の予約をぼくたち二名の名前で入れといてください」
「かしこまりました」
 部屋に戻り、すぐさま予約風呂にいく。百江は前割れのパンティとシュミーズと私のパンツを持った。私は湯船に浸かりながら百江が洗濯するのを眺めていた。私のパンツをやさしい目で洗う。
「こんなに幸せな時間をすごさせていただいて、どうお礼を言ったらいいものか、言葉が浮かびません。冥土の土産ができました。毎年お一人と旅行なさったらどうでしょう。みんな喜びます」
「……長生きしないとね」
 洗いあげた下着を絞って乱れ籠に入れ、湯船に戻ってきた。二人でからだを流し合う。
「さあ、帰ったら忙しくなるぞ。とにかく毎日走らないと」
「小説もお書きにならないと」
「うん。分をわきまえながら」
「芸術に分が?」
「天才たちの領域を侵さないように、素人としてこっそり書くということ。書く内容は遠慮しないけど、作品と関係のない文化活動に引っ張り出されて、押しつけられた文化人としてくだらない意見を言わされないようにするということ」
「外出好きの人と付き合わないということですね」
「そう。公の外出は野球だけ」
 風呂から上がって、下着を替え、サッパリした気分で冷蔵庫のビールを飲みながらテレビを観た。百江は洗濯物をタオル干しに掛けたあと、私と並んでソファに座った。夕方の地元テレビのニュースで、私がきのうコマーシャル撮影のために来熊(らいゆう)して、阿蘇山を背景にマツダの自動車で走ったと放送されていた。
「情報が正確ではないね。走ったと言うとぼくが運転したみたいだけど、実際走ったのは中介さんで、ぼくは乗っただけだ。コマーシャルを観たら驚くぞ」
「主役が助手席というのはめずらしいですから、受けると思います。……優子さんが神無月さんのためにマフラーを編んでるって聞きました。私も腹巻を編みます。神無月さんはいつもおなかをくだしてる感じだから」
 手を差し伸ばして私の腹をさする。
「ありがとう。でも、便が軟らかいだけで、めったに水っぽい下痢はしないんだよ」
「冬の寒いときは、腹巻をして寝てくださいね」
「うん」
 ルームサービスがきた。まず山菜弁当の残りに手をつけた。
         †
 一日の疲れから、二人ともまだ宵のうちから泥のように眠った。
 五時四十五分に起き、歯を磨き、交代で排便をしてからシャワーを浴びた。二人で髪を洗う。
 ベッドに戻り、正常位で名残のセックスを丁寧にする。厚い小陰唇の溝を上下に陰茎を滑らせながらクリトリスで気をやらせてから挿入し、口づけをしたままのピストンで心ゆくまでアクメを貪らせた。百江が悶絶しかかる最中に射精し、喪心してもなお脈動をつづける膣に包まれて安らいだ。
 七時半にルームサービスの朝めしを食ってから、簡単な旅支度。

 北村席に電話する。女将が出たので、旅の無事と、CMの撮影が成功裡に終わったことを報告し、トモヨさんに代わってもらった。誕生日おめでとうを言い、父の旧居がある小田浦を訪ねたことをつけ加えた。百江に代わり、
「はい、無事に終わりました。……はい、とてもいい人たちばかりで。……はい、もちろんです、それはたっぷりかわいがっていただきました。……ええ、そうです、九時五十五分の飛行機に乗ります。……はい、よろしくお願いいたします」
 八時半、チェックアウト。フロントの女が、
「これお二人の搭乗予約番号です。サイン、ありがとうございました。弟が飛び上がって喜びました。私ども姉弟ばかりでなく、松屋従業員一同、神無月選手の末永いご活躍を心から願っております。また折がありましたら、どうぞお気軽にお立ち寄りくださいませ」
「ありがとう。ぜひそうさせてもらいます」
 彼女をはじめ、七、八人の従業員に見送られてタクシーに乗る。あの運転手だった。快晴。
「料金はもらいませんけん」
「あ、はい」
 今度こそ、父とサトが暮らした街の風景を見納める。
「運転手さん、ちょっとすみません、途中で熊本商業に寄ってみてくれませんか。遠回りですか?」
「同じ道筋ですたい。三分とちがいまっせん。飛行機は何時ですか」
「九時五十五分」
「空港まで三十分やけん、いま八時四十分、じゅうぶん間に合います」
「ちなみに、大江というのはどのあたりですか」
「松屋の周囲一帯が大江です」
「そうだったんですか!」
 私は百江の手を握った。運転手が、
「何かあるんですか?」
「父の生まれ育った土地です」
「ほう、奇遇やねェ。松屋に泊まったのも何かの縁でしょう」
 心底そう思った。今度の熊本行は父の面影に会う旅だったのだ。百江が私の手を強く握り返した。少し南にくだって、タクシーの窓から夏目漱石の大江旧宅というものを金格子の柵越しに見る。ガラス窓の多いただの平屋だった。古ぼけた民家が並ぶ細道をさらに南下して、肥後銀行の脇から大通りに出た。
「県庁通りです」
 左折して、水道局の信号から南の隘路に入った。四階建の校舎が切れ目なく一列に並んでいた。正門の脇壁に『感謝の心・校門一礼』と大きな標識板が貼ってある。
「熊本商業は、県立では唯一の商業専門高校ですばい」
 授業はもう始まっているようで、あたりに学生の姿はない。
「校門の大木二本は楠木か。門が頑丈に閉められてるから校庭には入れないようだ。ありがとうございました」
 県庁通りへ引き返す。市電の通らない道。街路樹は楠木。ここにも瓦屋根の土蔵造りの味十粒麺がある。繁華でない大交差点に出る。名古屋の賑やかな大交差点とちがって奇妙に落ち着いている。
「ここから先も同じ道筋やけんが、空港線と言います」
「空港まで直行ですね」
「はい」
 小型ビルと、空地、剪定を施した楠木の若木の並木。大きな空が覆いかぶさる。自衛隊正門前の交差点を右折。『陸上自衛隊西部方面隊』の大看板。道なりに左折。東町一丁目。並木が楠木の古木に戻る。


         二十九 

「ここから二十分ばかりです。九時二十分には着きます。……生まれ故郷ば訪ねて、感無量やったでしょう」
「はい、父の若いころの話が聞けました」
「お父さんとは、幼いころに別れなさったそうで。新聞で読みました」
「はあ、生まれて数カ月で」
「さびしか。ドラゴンズの選手のほとんどが、父親の気持ちで神無月さんに接しとるちゅう話が週刊誌に載っとったけんが、ようわかりますばい。神無月さんを見とると、ワシもそげん気持ちになるとです。あんたもそういう気持ちになるんやないですか」
 百江に訊く。
「ええ、母親の気持ちになります。何でもしてあげたくなります。でも、神無月さんのほうが何でもしてくれるんです。ドラゴンズの選手たちもそう思ってるでしょうね」
「東大も、ドラゴンズも、優勝させてしまったわけですけんね」
 花立五丁目。
「東町一丁目から花立五丁目まで、だいたい八十五メートルあります。ここまでが正方形の自衛隊基地の一辺ですばい。八十五メートル四方が敷地になっとるんです」
「想像もつかない広さですね」
「自衛隊は大金持ちですたい。医療費、車の購入費、結婚費用、すべて手当てが出るとですよ。休みも多いし、点検と訓練がなければ天国ですな」
 この種の話は避けたい。
 楠木の並木の連なりがみごとだ。お菓子の香梅という店の前に、陣太鼓の大看板。空港で買っていこう。ガソリンスタンドと食い物屋の多い町並が美しく見える。楠木のせいだ。とつぜん家並が途切れ、両側に田畑の広がる景色になった。空と山並が迫る。巨大な楠木がこんもりと枝葉を広げて連なる。遠くに屋敷がポツポツと見える。その風景が延々とつづく。
「これがむかしからの田舎の風景なんでしょうね。その時代に生きてたら、どうやって暮らしたかな。食べて、寝て、農作業をして―」
「野球はなかったですけんね」
「みんなの共有できる文明はあっても、個人の才能に関わる文化は、むかしから都会にしかなかった。そういう格差が身分のちがいになる。賃取り仕事に格差ができて、一国の階級ができあがる。どちらにも共通しているのは、寝食と、種の保存だけ。それが人間のもっとも純粋な営みですね」
「……神無月選手もあれをしますか。そうは見えないけど」
「ふつうの男です。みなさんと同様、セックスはスポーツ選手のエネルギー源です。健全なセックスに健全な精神が宿る。武勇伝の持ち主はたくさんいます。水原監督も宇野ヘッドコーチも本多二軍監督も、みんな華々しい青春を送った人たちです。ファンはスポーツ選手を聖人君子に祀り上げてはいけない」
「なるほど、すごい人間がワシらと同じようなことをしとるんやなくて、健全な人間ならみんな同じようなことをしとるゆうことですな。そう思えば、スターがワシらと同じことをしようが、何も目くじら立てる必要がなくなりますな。同じ健康な人間なんやから」
「そのとおりです」
「サインお願いします。色紙ば持ってきました」
「はい」
 平田。景色はいっさい変わらない。短い区間だが、間歇的に、飾りとして剪定された平たい円柱状の楠木が分離帯にも並ぶ。再春館製薬所の美しい緑地帯を過ぎる。さらに広大な緑の丘を左手に見ながら走る。地名は信号にも標示されないのでわからない。ようやく信号標示があった。益城町小谷。読み方は不明。楠木と、山並と、空と雲の調和がすばらしい。左右は刈田だ。夏になるとどれほど麗しく稲穂がなびくだろうと思う。小谷。右折。
「着きました!」
 九時二十分、熊本空港到着。管制塔と並んで、阿蘇くまもと空港の大看板。管制塔を見上げながらロータリーに入る。
 運転手はやはり料金を受け取らなかった。足が出たはずだと気の毒に思ったが、せっかくの好意として受けた。彼は車を降りて色紙を差し出した。すらすらとサインし、××さんへ、昭和四十四年十一月十二日佳日と書き添えた。
「ありがとうございました! 一生の宝物にします。それじゃ名残惜しかけんが、これで失礼します。また熊本にいらして、移動の足が必要になったら、あの名刺の番号に電話してください。来季の活躍を祈っとります。あ、ワシ、ドラゴンズファンになったけん、オールスターの投票はぜんぶドラゴンズの選手に入れます。じゃ」
 手を振って走り去った。私たちも手を振った。
 北村席に電話して、菅野に飛行機の離陸時間をもう一度告げたあと、すぐに予約カウンターで搭乗券を手に入れる。それから土産物売り場で、陣太鼓と武者返しを買った。
 機内で百江はずっと私の肩に頭を預けて寝ていた。私はブレザーのポケットから『天の夕顔』を取り出して読んだ。
 登場人物は純愛一途な〈わたくし〉と、平凡な自覚から肉体を拒む、子持ちで、夫は外国勤務の〈あの人〉。わたくしは相当な門地の生まれ、あの人は下宿屋の娘である。物語の骨はそういうことになっている。あの人はある種の魔性だろう。少なくともあの人に純愛の感覚はない。
 読み進む。わたくしは七歳年上のあの人と学生時代に知り合って以来、精神的に蹂躙される一方である。つまりわたくしは自分の精神しか見つめていない。女は身の修養に凝って禅味を深め、男は剣道に凝り、軍隊に入り、さらに気象観測所員になり、ついには入山して猟師を目指す。その展開の破天荒と描写のくどくどしさ。
 難読に類する本だとわかる。わたくしがストイックをてらいながら、ふつうのオスの生理であの人に欲情しているのが興醒めだ。心理描写も上っ面で、真実味に欠ける。心身ともに、たがいにあるがままの姿を求め合う者同士の付き合いではないので、いたるところに言行の矛盾が目立って拍子抜けする。四十七歳の女に四十歳の男が迫って、五年待てと言われ(五年の意味がわからない)、五年待つ決意をするなぞ、精神的な畸形の感じが否めない。女が五十二歳になるまで何を待つというのだ。
 あらあら読み終える。どうしても疑問が湧く。あの人の夫を自認する男の存在だ。何十年外国にいれば気がすむのか。たとえ外勤先で浮気していたとしても、ここまで帰巣しない男の心理は異常なものなので、相性の齟齬があって日本と外国で別居しているのにちがいないと推測する。それを書きこむべきだ。しかし、それを書けば、夫への貞節を守るためにというあの人の建前が崩壊する。
『気に食わない夫は幸い長く身近にいないが、私自身セックスは好きではないので、言い寄る男には応えたくない。応えるフリをして、〈女らしい〉生活を充実させましょう。ただ、子供に不潔感を与えることは恐いので、いかにしても夫以外の男との交接は避けなくては』
 という設定のほうがはるかに現実味があった。
 肉体の満足を嫌い、婚姻という制度の保護にすがって妻としての身の安定を図りながら貞節を守り抜く―そんな非人間的な女が、プラトニックなアバンチュールを二十数年もつづけることなどあり得ないと断言できる。
 この小説のプロットを成立させるためには、アイデアが二つ考えられる。一つは、セックス好きの女が肉欲を満たす相手はひそかに確保しながら、自分に言い寄る純朴な男を利用して精神的な高揚に役立てる魔性の女だとする。もう一つは、セックス嫌いのせいで夫の撤退を招いた女が、それを好機に、ふつうの性欲の持ち主で精神性の高いと思われる男に媚態を示して翻弄し、精神だけの満足を得るゲームをする。いずれにしても、そのプロットではいくら言葉の装飾を凝らしても純愛小説たり得ない。
 愛らしい百江の寝顔を見つめる。健全な性と、気高い愛情。私は何とすばらしい女たちに囲まれていることか。グロテスクで不潔な小説を読んでしまった。
 十一時十七分、曇り空の小牧空港到着。タラップに装着されたチューブ通路で到着ロビーに出ると、〈健全な〉菅野と千鶴が迎えにきていた。
「千鶴ちゃん、きれい!」
 百江が思わず声を上げた。千鶴は赤くなって思わずうつむいた。
「お帰りなさい!」
 菅野が笑顔で言う。百江の紙袋とボストンバッグを引き受けて歩きだす。
「お疲れさまでした。十五日に最新型ファミリアが届くそうです。マツダ社長から直々にお電話ありました」
「車が増えすぎちゃって困るね」
「いっそのこと、免許とりますか」
「や、それは遠慮する。蛯名さんにでもあげたら?」
「そうですね。そしたら、蛯名さんたち仲間が乗り回せる車になるでしょうね。トルコの有志たちの足になりますよ」
「松葉会の人たちは、いつまであんなことをしてくれるんだろうね」
「神無月さんが生きてるかぎりですよ」
「……あしたから走ります。期待に応えないと」
「ほーい」
 千鶴が、
「百江さん、かわいがってもらえた?」
「たくさん!」
「いいんだァ」
 百江が、
「神無月さんは何でも期待に応えてくれました」
 菅野が、
「百ちゃんがわがままを言いさえしなければ、でしょ?」
「はい」
 百江と千鶴と手をつないで歩く。玄関の外の駐車場から乗りこんで、ゴー。名古屋空港の交差点から幸田の交差点まで西に進んで、そこから一直線に南下する。ビルは疎らで親しみのある密度だ。
「ああ、名古屋はいいなあ。新しさも古さも感じさせない。何十年も変わらない」
「浮きうきしてますね。なんかわかりますよ。古い家がごちゃごちゃ並んでないし、新しすぎるビルでびっしりというのでもない、適当に入り混じって、どちらが優勢でもないということでしょ」
「はい」
 新川中橋北から右折。庄内川の氾濫原沿いに走る。
「洗堰(あらいぜき)緑地です。もう枯れてますね。洗堰野球場。百メートル飛べば川に落ちます」
「ベンチがほんとに長ベンチだ。もろに地面に置いてあるから、坐ってる人にファールが当たっちゃう」
「バックネットの小ささからすると、ソフトボールしかできませんね」
 サッカーコート、ラグビーコートがずらりと並んでいる。庄内川橋を北詰から南詰へ渡る。大きな橋だ。さらに南下。家と、仕事場と、道。定住と、仕事と、移動。人は常にこの三つの場所にいる。そこへ思考と娯楽の間充質を挟まなければ生きていられない。名塚町。庄内通から市電の末端、秩父通へ。停留所の角柱がなつかしい。次が浄心だ。西高が近い。
「市電を見るとホッとする」
「来年、再来年でお別れです。悲しいなあ」
「広島も熊本も永遠に残すそうだね」
「横浜も名古屋と同じ運命のようです。日本で初めて市電が走った京都は、ただいま思案中と」
「車の跳梁跋扈か。もともと車が増えて交通渋滞が引き起こされて、市電が遅れるようになったから人気がなくなったんだ」
「それでバスと地下鉄が活躍するようになったわけですね。市電を残すとどんないい点があるんでしょうかね、なつかしさは別として」
「ちょっと考えればわかりますよ。市電は大気汚染がなく、美しい風物詩になる。もともと都市は碁盤目状に発達するもので、路面電車が輸送手段にいちばん合ってる。都市は田舎よりも観光と学問の中心地になる。ゆっくり移動するのはそれに最適で、市電の軌道を優先させるせいで広い歩道も確保され、観光や学芸が発展して、地元の経済や文化向上に貢献することになる。電車や地下鉄は都市から都市へ早くいきたい人のためのものだからあってもいい。都市の内部を早く移動する必要はないし、移動しようとしても車やバスはどうしても渋滞するので、高速道路をたくさん作らなければいけないことになる。都市の風物は吹っ飛んでしまう」
「ぐうの音も出ませんね」
 百江が、
「市電を愛してるというのは、都会を愛してるということなんですね」
「そうだね。ぼくは都会が大好きだ。横浜にきて初めて野球を知った。名古屋にきて野球に入れこんだ。横浜、名古屋。―どちらも都会だ。市電が好きなのは都会の風物だからだし、野球は都会のスポーツだからだと納得した」
「市民栄誉賞を受けたとき、そう言ってましたね」
 浄心西から天神山。名古屋西高は通らずに帰る。那古野。
「帰ったら昼めしだ。ひさしぶりに天ぷらきしめんが食べたいな」
 千鶴が、
「うち、作る」
 百江が、
「私、天ぷら揚げます」
 アイリス組やアヤメの早番組が昼めしに戻って、テーブルについていた。千佳子と睦子は出かけていて、食卓にいなかった。箸を置いた素子やキッコに抱きつかれる。トモヨさんまで抱きついた。


         三十

 百江がバッグから包装ケースを取り出して私に渡した。私はそれをトモヨさんに渡し、
「はい、誕生日のプレゼント」
「まあ!」
「ロンドンブルートパーズのネックレス。つけてみて」
「はい!」
 包装を解き、細長いケースを開けて見下ろす。
「すてき!」
 みんな寄ってきた。口々に、すてき、を連発する。トモヨさんは首にかけて見せた。胸もとに清楚で神々しい輝きが増した。
「ありがとうございます。大切にします」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんにプレゼントされると、みんなしまいこんじゃうんだから。ときどきつけて見せてね」
 百江が、
「若い子はブローチが似合いますけど、女も中年を過ぎると首に齢が出ます。胸もとを引き立てたほうがいいと思います。奥さんはまったく衰えてませんけど」
「いいえ、そのとおりだと思うわ」
「ぼくは何も考えずに買ったんだけどな」
「わかってます、フフ」
 メイ子が、
「私もしまいっぱなし。たまには使わないと」
 素子が、
「さびしかったわ。熊本から帰ってこんかも知れんて、フッと思った」
 主人が、
「ワシもや。今度は特別な気持ちやった。生まれ故郷が気に入ってまって、腰落ち着けたらどうしようって、女房といっしょに心配しとったわ」
「すごい辺鄙な田舎で生まれたことがわかりました。空き家になってましたが、生まれた家も見てきました。地元の商店の人が、たまたま父と母のことを憶えていて、詳しく教えてくれたんです。父は善人でした。父についていった女も善人でした。それがわかっただけでじゅうぶんです。もう熊本へいくことはありません。田舎が肌に合わないんです。今回はCM撮影で仕方なくいっただけです」
 カズちゃんが、
「そうよ。青森だって一週間で帰ってくるわよ。キョウちゃんのふるさとは名古屋」
 食卓のキンピラゴボウと茄子炒めで一膳食っているあいだに、百江と千鶴が天ぷらきしめんを用意した。女将が、
「お父さんがええ人やったとゆうことは、やっぱり原因(もと)はお母さんかね?」
「はあ、結婚二年後にぼくが生まれたということは、ほとんどからだの関係もなかったということでしょう。産児制限などなかった時代ですから、おたがいに触れ合いたくなかったということです。……夫婦喧嘩ばかりしていたようで、ぼくを連れて出たのは母のほうでした。父の浮気話やギャンブル好きの話は、母の作り話だったようです。父は地元民のいろいろな問題にまじめに尽力して、よく周囲と馴染んだ人間だったという話でした。歌がうまかったそうです。父を愛して、最終的に愛人となったサトという女は、地元の農家の娘で、父と母が冷却期間を置くために別居をしていたころ、母とぼくの世話役に父が雇った人でした。父に思いを寄せていたことを父は知らなかったようです。サトは母にだいぶいじめられたらしいですが、なんとかこらえたのは父をほんとに好きだったからでしょう。母が黙ってぼくを連れてその家を出たあと、父は母に何度も手紙を書いて、私の取り戻しを図ったようですが、なしのつぶてで、そのうち横浜の友人に建築士の仕事を斡旋されて熊本を去ることになりましたが、サトも当然ついていきました。ぼくが横浜で、父を訪ねていったときに遇ったサトコという女がその人です。母はぼくにサトコと教えましたが、サトだったんです。横浜で正式に離婚が成立したあと、サトは父と結婚したと思います」
 カズちゃんが、
「……ぜんぶわかって、サッパリしたということにしましょう。お父さんはキョウちゃんソックリの人だったということよ。信じられないでしょうけど、キョウちゃんのような男を嫌う女は世の中にけっこういるのよ」
 イネが、
「神無月さんのトッチャはどったら男だったべな」
 カズちゃんは、
「才能があって、やさしくて、世間知らず。そういう男は、社会のしきたりに価値を置く女には苛立ちのもとなの」
「社会のしきたりって何だべ」
「努力して、勝ち抜いて、社会的な安定を得ること。才能って、ある意味努力の省略でしょ。やさしさは自分以外の人間への愛情の分散、世間知らずは安定を得るには一番危険なもの」
 菅野が、
「明快ですね。自分一番の人間に神無月さんは愛されない―」
 天ぷらきしめんをすする。うまい。ツユまで飲み干した。ソテツが、
「十五日のファン感謝祭のユニフォーム、クリーニングから上がってきてます。来年使うユニフォームが五式と、帽子が三つ届きました。トモヨ奥さんが箪笥にしまってあります」
「ありがとう。菅野さん、十五日の一式と直人に残してやる一式を除いて、今シーズンのユニフォームはぜんぶ慈善オークションに送っといて」
「はい。今年はバットを八十本ぐらい使いましたが、それも?」
「うん。スパイクと、アンダーシャツやストッキングも、直人に残すものを除いて。いつも身の周りをサッパリさせておこう」
「帽子はどうしましょう?」
 ソテツが訊く。
「それもクリーニングに出したあと、一つ残してぜんぶ。ひさしぶりにバットを振ってこよう」
 玄関のバットを持って芝生に出る。池の縁で九コース二百七十本振る。七部の力で。外角高目三十本全力で。噴き出てきた汗がすがすがしい。風呂に入る。湯殿で腕立て百回、腹筋背筋五十回ずつ。人心地に戻った。湯船にゆっくり浸かる。素子千鶴姉妹が入ってきた。千鶴が、
「和子お姉さんがからだを流してあげてって。無理にしてもらおうとしたらあかんよ、疲れとるからって」
 そうはいかない。股間を洗っている二人の大きな乳房を見ているうちに、たちまち屹立してくる。湯船から立ち上がると、
「わ、いつもといっしょ!」
 千鶴が湯船から出る私を待ち受け、ひしと抱き締める。私と交代で素子が湯に入り、柔らかい視線で私たちを見つめる。
「中がやけどするくらいに熱うなって、たまらんのやと。したって。あたしはオツユ出すときでええで」
 湯殿にあぐらをかき、千鶴を抱きかかえる。ひどく熱い膣に包まれる。
「ほんとだ、すごく熱くて気持ちいいよ」
「ああ、好きや、神無月さん、気持ちええ、あ、イク、イッてまう」
 両手を床に突き、アクメの態勢をとろうとする。突き上げてみる。初めて膣が複雑にうねった。
「あ、あかん、イク、あああ、気持ちええ! イク、ウウウ!」
 みごとにうねって緊縛した。離れないように抱き寄せる。千鶴の尻が勝手に動き、子宮から熱い湯を噴きかけながらうねりにうねる。完全な女体になった。感情があふれた。
「あかん、あかん、くううう、イックウ!」
 ガクンとあごが上がり、尻が飛び離れた。湯殿に仰向けになり、両脚を伸ばして硬直する。それからうなぎのようにのたうった。私は興奮して瞬間的に射精が迫り、姉の素子を見ると彼女はあわてて湯殿から出てきて私に跨った。
「出して、出して、いっしょにイクで、あ、ええ、最高! イクイク、強うイク、イク!」
 吐き出した。素子は座位のまましがみつき、
「あ、イクイクイク、イク! うう、イク! あーん、イッック! 離さんといて、抱き締めといて、あああ、イクウウウ!」
 短時間のいつもの絶妙の緊縛で搾り取る。
「愛しとるう! イクウ! も、あかん!」
 反射的に逃れ、まだ腹を出したり引いたりしながらふるえている妹の脇へからだを投げ出して痙攣する。よるべを求めて千鶴の腕を握る。私は四つの乳房をつかんで思い切り揉むと、もう一度湯船に浸かった。女のきわめて健康な反応だ。母もこの快楽を知っていたら父と離れたいとは思わなかっただろう。私にも深い愛情を注いだだろう。快楽を知る以前に、セックスを不潔なものと見切ってしまったのだ。野辺地のじっちゃとばっちゃを見習うことができなかった。大吉への復讐のためだろう、横浜の一度の浮気が母の人生唯一の冒険で、たぶん快楽を知らずに子を一人堕(おろ)して挫折した。哀れな母。同情というほど潤った気持ちではない。憐憫に近い思いだ。
「あ、また何か考えとる」
 肘で起き上がった素子が、心配そうに見ている。千鶴が、
「迷惑やったんやない?」
「そうじゃない。二人の喜んでる姿を見ながら、おふくろのことを考えてた。こういう歓びを知ってたら、父とうまくいってたろうって」
「ほうやな、ぜったい別れられんわ。でも、心底好きやないと、ここまで感じられんしなあ」
 姉が、
「うん、惚れ抜いとらんとな。からだが先やないから」
 妹がうなずき、
「好きでもない男に、オマンコにオツユ出されて、子供ができてまうのは不幸やね」
「考えたないわ」
 素子が陰部を洗い終えると、二人で湯船に入ってくる。千鶴が、
「どうしておっぱいギュッと握ったん?」
「姉妹二人並べて抱いちゃったと思うと、いけないことをしてる感じがした。でも、すごくうれしくなった」
「わあ!」
「キョウちゃん!」
 二人で感極まったように抱きついてきた。
         †
 アヤメの中番が戻ってくるころ、座敷に寝転がって夢の中にいた。いつの間にか直人が横に寝ていた。二人に蒲団がかぶせてある。素子はカズちゃんたちといっしょにアイリスに、千鶴は厨房に戻っていた。柱時計は四時半。縁側に睦子と千佳子が横坐りになってこちらを向き、笑いながら話をしていた。私は直人を起こさないようにそっと起き、
「三時間ぐらい寝たな」
「私たちさっき帰ってきたところ。二人ソックリなんで、写真撮っちゃった」
 千佳子が言う。
「かわいらしくて、ぺろぺろ舐めたくなりました」
 睦子が言う。
「きょうは大学へいったの? 試験準備?」
 睦子が、
「秋期試験は一月末から二月の初めです。西浦温泉に泊まりがけでいってきたんです。渥美半島と知多半島のあいだに、小さな西浦半島というのがあるんですけど、いつかお話しした高市(たけちの)黒人が、『いづくにか船泊(は)てすらむ安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟(おぶね)』、と詠んだ安礼が西浦半島のことだという説を信用して、万葉の小径もあると聞いたので、千佳ちゃんの車に乗せてもらっていってきました」
「歌の意味を教えて」
「いったい今夜はどこに泊まるのだろう、安礼の崎を漕ぎ廻って消えていくあの船べりのない丸木舟は」
「ふうん、変わった疑問だね。だれかの乗っていく丸木舟が今夜どこに泊まるんだろうなんて。ふつう考えもしないよ」
「高市黒人が持統天皇に付き随って三河国に旅したときの歌です。だから、その船には自分たちが乗っていて、それを外から眺めている人が歌ったように書いているんだと思います」
「なるほど、そう歌ったほうが、旅人の孤独がよく出るね」
 千佳子が、
「西浦温泉まで一時間半ぐらいでいけたのよ。秋晴れの快適なドライブだった」
 主人と菅野が表回りから帰ってきて、私たちに混じる。菅野が、
「あ、お帰りなさい。西浦温泉の話みたいですね。土古競馬場から名古屋港を通って、刈谷、安城、矢作川を渡って西尾、蒲郡か。いいドライブでしたね」
「名鉄の西浦駅からはずっと海沿いの県道をくだっていくんです。季節外れだから車も人も混雑してなくて、運転しやすかった」
「板塀の家が多くて、青森みたいだったわ」
「温泉にものんびり浸かれた?」
「はい。半島の先っぽの銀波荘という民宿に泊まりました。お料理がおいしくて」
 聞きつけたソテツが武者返しと陣太鼓を持ってドスドスやってきた。千鶴もコーヒーを盆に載せて興味深げに座敷にくる。直人が起きた。千佳子が抱き上げ、
「おとうちゃんといっしょにオネムしてるお写真撮ったのよ。でき上がったら飾りましょうね」
「うん」
 トモヨさんが笑いながら抱き取った。




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