三十一

 ソテツが睦子に、
「お料理はどんなものが出ました?」
「料理したものというより、素材のままがほとんどでした。三河湾の朝獲れのスズキ、アワビ、アカザエビ、ガザミ、三河牛、みんなおいしかった。万葉の小径の話を千佳ちゃんとしてたら、仲居さんの中に万葉食について詳しい人がいて、メモしてきました」
「万葉食って?」
「千三百年前の貴族の食べ物です」
「たとえばどういうもの?」
 睦子はメモ帳をめくりながら、
「蘇(そ)。牛乳を十分の一くらいまで煮詰めたもので、古代のチーズと言われてます。チーズよりやさしい味でキャラメルほど甘くありません。カヤの実。緑の果肉を灰に漬けて一週間くらいアク抜きをし、干したものを炒って食べます。アーモンドのような味だそうです。ヒシの実。殻を割って中身を食べます。フユアオイ。おひたしにして食べると、ヌルッとした食感で、栄養満点です」
 トモヨさんが、
「海岸に生えてますよ。冬でも青々してます」
「それでフユアオイか」
「万葉植物事典でギザギザの葉っぱと白い小さな花を見ました。奈良時代から食べられてるそうです。最後に、赤米。飲みこむのに苦労するほどまずい米です。突然変異で玄米ができるまで赤米を食べてたようです」
「白米は?」
「玄米を精米したものです。上流階級の食べ物です。白米はビタミンが少ないので、脚気になりやすいんです」
 直人といっしょに寝起きの歯を磨きに洗面所にいく。小さな歯ブラシで磨き粉をつけずに丁寧に磨いてやる。裏庭から蒲団を叩く音がする。終日上天気だったので、いまごろの時間がちょうどいいのかもしれない。直人に水を汲んだカップを手渡し、
「はい、クチュクチュ、ペして」
 素直にクチュクチユ、ペをする。
「あしたはお散歩しような」
「うん。カンナは?」
「カンナは置いていこう。まだ小さすぎるから」
「おかあちゃんといっしょならいいでしょう」
「うん、いいよ。でもメイチカに入れなくなるぞ」
「メイチカはこんど。そとのみちをあるく」
 いい子だ。一人天下の気質ではない。
         †
 夕刻、アヤメの遅番を除いて全員集まってきて、賑やかな食卓になる。カズちゃんが睦子に、
「どうだったの、西浦の万葉の小径は」
「すばらしかったです。入口は二十段ほどの急な階段になってて、登りきると小砂利の坂道で、両側が常緑樹の樹林になっていて、木漏れ日を浴びながら歩きます。石に彫られた最初の歌碑は、くしろつく、手節(たふし)の崎に、今日もかも、大宮人の、玉藻かるらむ―人麻呂」
「ムッちゃんが歌を詠むと、何だかホッとするわ。意味はわからないけど」 
「持統天皇と黒人が旅をしているあいだ、京に残った柿本人麻呂が詠んだものです。くしろつくというのは腕輪をはめることです。手の枕詞で、手節の崎を引き出しています。手節の崎は三重県の答志島のことです。持統天皇に随行した都人たちはきょうも海藻を採って遊んでいるだろうか。天皇の無事を直接祈るのは恐れ多いので、随身の無事を祈る形で天皇の行幸の無事を祈ってるんです」
 睦子は確実に学者になると思った。彼女の声をバックグラウンドに、直人のスプーンの音や一家の者の箸の音がする。幣原が直人の後ろに控えて、食べこぼれた飯粒や惣菜を拾ったり、食べ具合を見たりしている。殿さまの侍り女(め)だ。幣原は座敷に顔を出すことはめったにない。顔を出すのはもっぱらソテツとイネで、最近では千鶴も多い。睦子の話がつづいている。
「……そこから緩やかな上りの階段に沿って、歌碑が五つあります。くどくなるのでそれは省略します。途中に三河湾を一望できる展望デッキがあって、四人がけぐらいのベンチを置いたバルコニーが道の外へ突き出してます。少しいくと、右下にくだっていく階段があって、歌碑が一つ。黒人の安礼の崎の歌です。伊良子岬を詠った人麻呂の歌碑もありました。稲村神社には登らずに鳥居の前を通り過ぎました。そこから山をくだる階段になります。つづら折りの階段をしばらくくだっていきます。大きな歌碑が一つありました。夢のみに、継ぎて見えつつ、小竹島(しのしま)の、磯越す波の、しくしく思ほゆ。作者未詳。夢にばかり絶えず見えて、小竹島の磯を越して押し寄せる波のように、しきりにあの人のことが想われる。あとはぐるっと回ってもとの入口に戻りました」
 カズちゃんはしきりにうなずきながら聴いている。主人が、
「ムッちゃんは写真なんか撮る必要がないな」
「いいえ、そうもいかないので、千佳ちゃんにだいぶ撮ってもらいました」
「ムッちゃんの頭の構造ってすごいんです。よしのりさんとちがって、ちゃんと選んで正確にものを覚えちゃうし、深く考えるし、推理するし、理解するんです」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんと同じね」
「そうです。運動音痴のところがちがいますけど」
 睦子が、
「独創性もありません。ぜんぜんちがいます」
 千佳子が、
「妊娠したら産んでね。中絶はだめよ。天才に決まってるんだから。もったいない」
「いいえ……郷さんのそばにずっと暮らしていられれば、このままのほうがいいわ」
 睦子は恥ずかしそうにうつむいた。女将が、
「ムッちゃんにかぎらず、北村の女の子はだれが妊娠しても天才を産むんやないかな」
 主人が、
「ワシもそう思う。みんなでどんどん産んでや。こんな広い家に十人おっても不思議やない。むかしのふつうの家には、七、八人はおったもんや」
「そんなにいると、うるさいわよう!」
 カズちゃんが笑う。素子が、
「あたし、一年ぐらい、子育てママさんやってみたいな」
「こんなかわいい子、産む自信ある?」
 直人の頭を撫でながら言う。幣原が直人の背中で微笑む。
「ない。やっぱりやめとく」
 和やかな笑いが広がる。カンナがトモヨさんの胸に貼りついている。直人はデザートのアイスクリームをスプーンでほじって舐めている。主人が、
「産むなら三十五あと先の、女引退まぎわがええわ。仕事に障りが出んやろ」
「失礼ね、引退なんて。出産も仕事も、それができるかぎりはいつもバリバリよ。特に仕事は、キョウちゃんみたいな仕事でないかぎり、一生現役でしょ。―出産は、年齢と相談ね。おとうさんの言う〈女〉引退というのは男の気持ちしだい。年齢関係なし」
 メイ子が、
「子供を産むことは、避妊に失敗するか、何かの事情で神無月さんと遠くに離れることになったら考えます」
「しょうがないな、みんなして。頼むから失敗してや」
 トモヨさんが噴き出し、座敷が大笑いになった。菅野が、
「十五日のファン感謝デーの進行予定表が送られてきました。主催中日ドラゴンズ、中日新聞社、CBC放送、特別協賛トヨタ自動車。三万五千人まで入場無料。当日八時からイベント参加の種類を決める抽選番号つきプログラムを先着順に三百三十枚配布。そこまでで被抽選者制限。種類というのは、選手とキャッチボール三十名、写真撮影百名、サイン会参加二百名などとなってます。開場九時、開演十時から二時までの四時間。歩行中の選手にサイン要求禁止、抽選に当たった人以外は選手との撮影要求禁止、前日からの場所取り行列禁止」
 千佳子が、
「行列していいのは何時からなんですか」
「当日朝六時から」
「寒そう!」
「会の途中で、抽選に当たった人がグランドへ入場して、選手を撮影したり、いっしょに撮影されたり、会話したり、サインしてもらったりするイベントもありますが、そのときはスパイクやハイヒールのような尖った履物はだめ、飲食物の持ちこみも禁止ということになってます」
「十時選手入場、場内音楽に合わせて入場して整列する」
「グランドにどうやって入場するの?」
「ポール脇のゲートからです。それから順次、三つ、四つのイベントに適当に受け応えすればいいんですよ」
「ということは、九時半にロッカールームに入ればいいな」
「そうですね。十時十五分、中日新聞年間最優秀選手賞発表、白井社長による表彰と賞金百万円の授与。まちがいなく神無月さんでしょう。十時半、抽選に当たった人による撮影会とサイン会。三十分ずつその順序で行なわれます。十一時半からフェンスぎわを一周しながらのサインタイム。抽選に当たった二百人がフェンス前に並んでます。十二時から十二時半まで昼食。十二時半から、三回までαありのソフトボール紅白戦。ドラゴンズのチームメイト同士で戦います。一時から一時十五分まで抽選に当たったファン三十名との軟式キャッチボール。控え選手も駆り出されます。一時十五分から一軍の守備練習公開。一時半から、中、高木、江藤、神無月、木俣によるファンへの感謝の言葉。二時選手退場。アナウンスは最初から最後まで下通さんです」
 カンナがトモヨさんの胸に頭をつけて眠り、直人が食卓でうとうとしはじめたころ、優子や木村しずかや近記れんたちアヤメ遅番組が帰ってきた。丸と三上もいる。彼女たちは相談し合って厨房に入ったりアヤメに入ったりファインホースに入ったりして、たがいに便宜を図り合いながら仕事をこなしているようだ。住みこみの賄いたちがあらためておさんどんに立つ。千佳子が、
「お父さん、二階はあと何部屋か空いてるんですよね」
「こないだ浅井さんが見た八つの部屋と対になって八つ、それと向かい合わせて八つやろ、下の客部屋と厨房の上にも何部屋かあるはずや。この家は旅館もできるくらいのこしらえになっとる。大門やアヤメから新しくここにきたのが四、五人おるけど、出ていった女もおるでな。まだ相当空いとるんやないかな。なんで?」
「まんいち子供が増えることになっても問題ないなと思って」
 よほどの関心事なのだろう。
「ないない。何部屋かは、将来直人とカンナの遊び部屋にするつもりや。トモヨの離れにも二階に二部屋あるんやが、それは勉強部屋やろ。千佳ちゃんも産みたなったんか」
「そうじゃなくて、そういうことになっても、みなさん安心だなって思って」
 カズちゃんが、
「千佳ちゃん、もし自分が妊娠したら、青森に戻って一人で産みたくないなって思ったんでしょう? 部屋なんてものはどうにでもなることだけど、ただ、母子という単位で何家族も増えるとなると、それぞれの生活が立ちいかなくなるという心配があるわ。お父さんは能天気にあんなことばかり言ってるけど、しっかり母子の生活を送るには、席を出なくちゃいけなくなるでしょうね。めいめい外で産んだ子供たちがここに遊びにくるというのなら問題はないし、起こり得る現実だけど、一つ家に何家族も暮らして、出産から子育てまでいっしょにやっていくというのは非現実的ね」
 主人もハタと思い当たったように大きくうなずいた。
「たしかにそのとおりやな。この二年、トモヨ親子を見てきただけでも手いっぱいやとわかるわ」
「そうよ、おとうさん。私の子供がほしいという理由だけで、そんなことばかり言ってきたんでしょう? 無責任なことはあまり言わないことよ。みんなでここを出ていくことになっちゃうわよ。トモヨさんの妊娠と養子縁組は、尊敬するキョウちゃんの初子(ういご)をほしかったおとうさんたちにしてみたら、絶妙のタイミングだったの。私をトモヨさんに投影したわけね。その幸運はトモヨさんも感じてるわ。だからトモヨさんは北村の長女になってここに暮らして、精いっぱいキョウちゃんにもおとうさんたちにも恩返しをしようとしてる。子供をほしい人たちに残酷なことを言うようだけど、トモヨさんの出産はふつうの人の家庭作りの模範じゃないのよ。たまたまそうなったんだけど、まねのできない幸運なケースなの。最近になってやっと理解できた。トモヨさんの出産はキョウちゃんの心の充実にはどうしても必要な社会生活の一つの形でもあったのね。母と子のほんとうの平和な図を目撃したいという意味でね。そして実際、無条件に私たちの心も明るくしてくれるすばらしい母子だった。この北村席で別の家族が同じ形では両立できないでしょうね。産みたいなら、だれの力も借りずに産むしかない。……ムッちゃんみたいに、ただキョウちゃんと生きていたいだけでしょう? その気持ちに戻らなくちゃ。おとうさんたちに助けてもらって、キョウちゃんの尻拭いをしたいわけじゃないはずだもの。尻拭いなんかしてもらってるつもりのないキョウちゃんが、ほんとに尻拭いをされてるような気持ちになっちゃうわよ。よく考えたらキョウちゃんの子供を産むというあこがれがあるだけで、ほんとうに産みたいわけじゃないでしょ」
 千佳子は反省するようなまじめな顔でうなずいた。トモヨさんがしきりにまぶたをいじっていたが、
「和子さん、ほんとにありがとうございます。おとうさんおかあさん、そしてみなさんのおかげで、こうして生活できることを心から感謝しています。じゃ、直人も寝てしまいましたので失礼します。お休みなさい」
 と言うと、直人とカンナを抱いてイネといっしょに離れへ去った。
「すてきでしょ? 私を幼いころから見守ってくれてる人よ。……もちろん、北村の外で家庭を作ると言うなら話は別なのよ。そういうことが起きたら起きたで、北村席と関係なく、人生が楽しくなるような解決方法をいっしょに考えましょうよ」
 女将が大きく笑って、その話は静かに立ち消えになった。


         三十二

 優子が百江に、
「百江さん、あなた則武に入る前、北村に越してきたいって言ってなかった?」
「はい。あの家、シロアリに根太をすっかりやられて、あのままだと一、二年で倒壊するって近所の大工さんに言われて。結局、お嬢さんに則武に呼んでいただくことになりました。家はそれ以来ほったらかしです」
 主人が、
「根太の腐った家を建て直すのはてぁへんだわ。取り壊すのがええやろ。鑑定士に土地を見てもらって、どのくらいの価値か見積もりを出してもらおまい。椿町で生まれて、椿町で結婚して、椿町で離婚までしたんやろ。あそこに未練があるなら、そのまま残しとけばええし、ないなら土地を売り払って則武で暮らせばええ。ここに越してきてもかまわん」
「則武に置かせてもらいます。少しでも神無月さんのお世話をしたいですから。新しく建て替えても独り暮らしをするのはさびしいですし、神社界隈も薄暗くて気分が沈みますし、いまの家を取り壊すのがいちばんいいと思います」
「ほうか。それなら取り壊しはうちの棟梁に頼んでみるわ」
 カズちゃんが、
「費用は出すから心配しないでね」
「だいじょうぶです。そのくらいの貯金はありますから」
「甘えなさい。あなた、もうしばらく末っ子にお金がかかるでしょう?」
「はい。……精いっぱい働かせていただきます」
 女将が、
「あそこは一等地やから、土地は高く売れるで。あの広さなら七、八百万くらいやないかな。取り壊しは百万ぐらいですむわ」
「そうですか。……これでホッとしました。お嬢さん、古い箪笥とか、お蒲団とか、まだ少し荷物が残ってるんですけど、則武に運ばせてもらっていいですか」
「いいに決まってるじゃない」
 菅野が、
「小型トラックに積んで運びましょう。日にちを指定してくれたら私がやってあげます」
「ありがとうございます。……なら、今度の日曜日に」
「十六日ですね。神無月さんを観光ホテルの納会に送り届けてからいきます」
「ほんとにすみません」
 主人が、
「百さんはいくつやった?」
「五十です」
「子は産めんな」
「はい……上がってますから」
「おとうさん、意地悪言っちゃだめよ」
「意地悪やない。神無月さんと同じ気持ちや。子産みの勤めを終えただけで、人間としての青春は終わっとらん。そういう女は精いっぱい慈しまんとな。おトクも同じや」
 女将が、
「ほんとかね。うれしいこと言うやないの」
 主人がやさしい顔で、めずらしく百江に猪口を勧めた。
「ひとつやんなさい」
「あ、私、不調法なんです」
「まあそう言わないで」
 百江は一口受けた。ニガそうな顔をしたので、一座の笑いを誘った。
「千佳ちゃんたちもいくか?」
「はい!」
 カズちゃんが、
「なるべくビールにしておきなさい。お酒は二日酔いしたらたいへんよ」
 菅野が二人にビールをついだ。
「ビールの二日酔いもたいへんですよ。適当にね」
「はい」
 女将やトルコ嬢や賄いの連中も加わって、楽しい酒になった。
 睦子たちが〈適当〉に引き揚げた頃合に、一座も解散になった。私たちも則武に引き揚げた。
 百江とメイ子はカズちゃんの部屋に集まって深夜まで笑い合っていた。そのまま三人で寝たようだった。私は一人の蒲団に羽を伸ばし、父とサトのことを思いながら目をつぶった。父の顔は浅間下の水屋の写真ではなく、自転車屋の階段のそれだった。サトの顔はのっぺらぼうだった。やさしい雰囲気だけを思い出すことができた。
         †
 十一月十三日木曜日。六時半起床。気温五度。カーテンを開けると、イワシ雲を浮かべた青い空。ランニング前のルーティーン。バーベルは七十キロ五回に落とした。
 みんなさわやかな顔で食卓についた。食卓に白菜の浅漬けが戻ってきた。まずそれで一膳。ステーキとコーンスープ。それで二膳目。女三人は目玉焼きと、鯵の開きと、豆腐と油揚げの味噌汁で一膳。百江が、
「きのうのお嬢さんのお話はしっかり胸に落ちました。千佳ちゃんには少し酷だったと思いますけど」
「そうね。でも、あこがれだけでわがままを言ってると、結局キョウちゃんの首を絞めることになるのよ。居どころがなくなっちゃう」
「そうですね。それをいちばんに考えるのがあたりまえです」
「どう? アヤメはつつがなく勤められてる?」
「はい、優子さんや信子さんとは気が合うので、疲れません」
「気の合わない人がいるの?」
「気心が知れていないというか、そういう人といると疲れちゃうことはあります。レジはラクをしてるなんて陰口を叩かれることもありますから」
「言わせときなさい。忙しそうに見えて、ホールがいちばんラクなんだから」
「はい」
「厨房はいい雰囲気よ。ソテツちゃん、イネちゃん、幣原さん、千鶴ちゃん、みんないい感じ。三上さんと木村さんとオバチャンたち五、六人も、いい人たちばかり。栄養士さんが二人いて、いつもソテツちゃんや幣原さんの相談受けながら仲よくやってるわ。みんなキョウちゃんつながりだし、トモヨさんの人柄の影響もあるでしょうね。どう、百江さんも厨房に移る?」
 百江が、
「いえ、アヤメはやり甲斐があります。がんばります」
「ぼくも百江のように、北村席に気心が知れない人はいるよ。挨拶でちょっと頭を下げるくらいのね。まだ一度も口を利いたことがない人が、トルコにも賄いにも何人かいる。それで疲れることはないし……このままでいいと思ってる」
 カズちゃんが、
「私だって知らない人がけっこういるわよ。新しいメンバーも入ってきたから対応できない。いつも雀卓囲んでる人とか、座敷の隅で花札やってる人なんかほとんど知らない。さすがに賄いさんの名前は全員知ってるけどね。いいのよ、口なんか利かなくても。挨拶だけしてればじゅうぶん。むかしからいる人たちでもそういう芸妓さんはいるわ。トモヨさんぐらいの齢か、それ以上の人たち。ごはん食べに降りてきて、食べ終わったらさっさと二階へ上がっちゃう。ステージで何か始まっても、スッといなくなる。水原監督がきたときは別だったけど……。悪気はないのよ。クニの家族を背負ってるから、辞めるに辞められないでいるの。人に寄ってこない人にはその人なりの理由があるのよ。無理にこじ開ける必要はないわ」
 食事がすみ、三人でシンクに立った。カズちゃんが、
「内風呂にも入らないで、椿町の銭湯にいく人たちもいるのよ。三十五円も出して。みんなと入ればいいのにって思うけど、それもめいめいの都合なのよね」
 私は、
「部屋代と食事代はどうなってるの」
 メイ子が、
「みんな毎月払ってます。あたりまえです。名大二人組とキッコちゃん以外は全員払ってます。ソテツちゃんや千鶴ちゃんも学校へいけば払わなくてもよくなります。もちろん学費も。お嬢さんの決めたことです。進んで向学心を持った人間には、衣食住で負担をかけちゃいけないって」
「大したお金じゃないし、キョウちゃんの命令だから」
 百江が、
「旦那さんが部屋代と食事代を取るのは、まちがったことじゃありませんよ。慈善事業をしてるわけじゃないんですから。給料をちゃんと払ってるのに、住む場所と食事まで提供するのはやりすぎです。困ってる人のために自分のお金を使ってくれって神無月さんは言いますけど、苦労して稼いだ大切なお金をそんなことに使うわけにもいきません。大門のほうの寮費も食事代ももちろん徴収してるようです。それ以外の電気代や風呂代なんかを取らないのがせめてもの心づけなのに、わざわざ外湯に入りにいくのはおかしいとお嬢さんは言ったんです」
 カズちゃんがうなずき、
「みんな困って北村席にくるんだけど、その全員を助けてたらいくらお金があっても足りないわ。だからキョウちゃんのお金はきちんと貯金して、学校にかよってる人や、キョウちゃんがそうしてやってくれって言う人に分配してる」
「お金だけでなく、すぐれた人というのは、いろいろな意味で周りのすべてを潤わせます」
「そのとおりね。お金やものを越えて人を潤すほどの人は、次元のちがう人。つくづくありがたいわね」
 メイ子が、
「そうそう、このごろ直ちゃん、ムーミン、ムーミンて言ってますけど、何ですかムーミンて」
「先月から放送しはじめたアニメよ。スウェーデン人が原作だそうよ。一度観たけど、かわいらしい河馬のような顔をしたムーミン一家と、何人かの人間がホンワカしたムードで交流する物語。小説の原稿をいつも一枚目で破り捨てるパパとか、丸太に腰掛けてギターやアコーディオンを弾いたり、釣りばかりしているスナフキンとか、ちょっと哲学的で難しい漫画ね」
 私は、
「スウェーデンは哲学の国だからね。映画も難しいんだ。一度観てみよう。どこでやってるの?」
「東海テレビ。日曜日の夜七時半から八時までよ」
「ムーミン人形売ってないかな。直人に買ってやりたい」
「まだでしょう。来年ぐらいにならないと」
「おはようございまーす!」
 菅野がのしのし上がってきた。
「おはよう! さ、おいしいコーヒー飲んで」
「はい、いただきます」
「菅野さんも北村の食費払ってるの?」
「なんですか、やぶからぼうに。払ってません。一度社長に言ったんですけどね、人の三倍働く人間がけち臭いこと言うな、三倍食えって言われました。おまけに給料二十万ですよ。いま世間相場は三万からせいぜい七万でしょう。信じられませんよ」
 カズちゃんが、
「少ないくらいよ。副社長なんだから」
 菅野はコーヒーをすすり、
「副社長は女将さんです。私は専務。ファインホース社長。ようやくファインホースの会社届出が完了しました。税務署に四つ、市役所に二つ、労働基準監督署に二つ、年金事務所に三つ。うちの税理士さんにやってもらいました」
「何人か正社員として雇ってたわよね?」
「はい、二交代制の常勤として、面接して四人雇ってます。神無月さんの雑収入で、十分給料が払えますから。球団事務所の経理とも連絡をとって、その種の収入はファインホースのほうへ振り込むよう手続しました。いままでは賞金等は一時預かりとして球団が保管し、翌日お嬢さんの口座へ振り込んでたようでしたから。神無月さんが選手でいるあいだだけの会社ですけど、これからも大きくなるでしょうから、一月までに増築して、社員も六人ぐらいに増やす予定です」
 百江が、
「ごはんなんかはどうするんですか」
「食堂を作って、賄いも一人雇います。増築費は五百万以内だろうと棟梁が見積もりました。諸設備を入れて、七百万くらいですね。庭の建物は神無月さんのトロフィーなど、記念品の展示棟に改築します。あ、それから神無月さん、毎日新聞から、今年一年を振り返って、というテーマで原稿用紙五枚程度の文章を書いてくれないかという注文が入りましたけど、どうします。締め切りは十二月二十日です」
「書きます」
「わかりました。そのように返事をします。返信用封筒を送ってくるそうです。これからもその種の注文は受けていいですか」
「暇なときに挿しこんでね」
「はい。ファインホースが潤います。それから、青森高校の講演料は十万円、中京商業は五十万円です。どちらもちゃんと足代が出ます。十九日の名古屋観光ホテルの最長不倒賞は、阪神球団から三百万円とタクシー代が出ます」
「ありがたく受け取っておこう。お金で評価されるのがプロだから」


         三十三

 七時半。ミズノのジャージを着こみ、タオルを腰に挟む。四人の女に見送られて菅野と玄関を出る。椿神社まで歩き、取り壊し前の百江の家をチラリと見てから、赤ひげ薬局を背に昭和通りの直線路を走りだす。
「傷んでるようには見えないけどな」
「シロアリは土台を食い荒らすんです」
 駅西銀座のアーチ看板が新しくなっている。いつものとおり店名を読みながらいく。まったく無意味な作業なので、あえて記憶する気もないし、記憶を引き出そうとしたこともない。しかしやめない。これがいま私の生きている環境だ。野辺地でも横浜でも、こうやって歩いた。貸本屋から借りて着た漫画も微細に一コマ一コマを見つめたし、保土ヶ谷の映画館の暗闇でもスクリーンを念入りに眺めた。オーケストラのすべての楽器に耳を凝らすのと同じ気持ちなのだ。レコードから流れてくる一つ一つの音の要素に耳を澄ますように、私は周囲の景物を〈聴こう〉とする。
 包装用品のデパートミヤキ書店、書店が包装用品を? 鬼頭不動産、鬼頭という苗字は名古屋でしか聞いたことがないな。たこ焼らいおん堂、雨の日に菅野と並んで食ったっけ。うまかった。コインランドリーという名のコインランドリー、怠けすぎてないか。中華料理平和園、北村席よりうまいはずがないと思いながら眺める。御きもの処玉喜屋、かならず出店の下駄を買いたくなる。洋傘卸小出商店、一般には売ってくれないんだろうな。キタジマ電気、家電は胸躍るが、高い。老舗商店や新しく進出したラーメン屋などに混じって、四、五階建てのビルもポツポツ建ちはじめている。商売が繁盛して小金が貯まったんだろう。まだシャッターや窓が閉まっていのでどういう商売かわからない。クリーニング杉戸呉服店、呉服のクリーニングもするということか? それとも、クリーニング屋を併業しているということか? 豪壮な平屋の民家が一軒、商店街の真っただ中で暮らすのは便利だろうな。ファイブスター自転車店、大ガラス戸の内側に大小の自転車が並んでいる。自転車は家電の次に魅力的だ。ネジ棒だけ立っている名無しの理髪店、きょう初めて気づいた。これは怠惰というより、商売放棄のすご腕職人なのかもしれない。店に入ってみる気にはならない。ひときわ古びた丸勝串カツ店、串カツには食指が動く。婦人子供洋品キクヤ、どんな商店街でもいちばん寿命が長い服飾の店。売らんかなの精神ゼロに見えるのは、どの店もこの地域では知る人ぞ知る有名店だからだろう。
「お金で評価されるのもプロの宿命だけど、マスコミに騒がれるのもプロの宿命だね」
「そうです。もともとジャーナリズムというのは有名人好きの大衆を相手にしてますから、彼らの好奇心を惹きつけるような方向へ話題を作り上げて、有名人の提灯で明かりを取るんですよ。それを警戒し、敬遠して、できるだけ距離を置こうとするのは、ほんものの職人気質です。作り上げられた話題に乗っかってうれしがるニセモノが多い中で、ひっそり時流から超然としている―ほんものの職人にしかない美徳です」
「根性で超然としてるんじゃなく、面倒くさいだけだよ」
「美徳です! 静かな気合ですよ。ふつうの人間は、褒められることを面倒くさがりません。面倒くさがるというのは、怠慢じゃなくて、気合をこめた断ち切りです」
 高だか五百メートルのあいだに、中華料理屋と焼肉屋と焼鳥屋とラーメン屋が十軒余りも乱立している通りを過ぎ(ほとんどの人間は自炊が嫌いなのだ)、則武本通に出て商店街終了。
 環状線を横断する。家並はグンと低くなる。ほとんど木造二階建ての民家だ。どれも浅野の家に似ている。布団店、不動産、旅館、カラオケスナック、畳屋、遊郭の遺構、郵便局、有料駐車場、何でもある。商売人がいるので、人びとは身を預けるだけで生きていける。預け代を払わなければならないが―。
 マンションが間隔を置いてトタンの家並からピンのように突き出る。異様な景観だけれど、慣れてしまえば何と言うこともない。何度も走っている道だ。トルコ街に入った。ブラジル、インペリアル・フクオカ、ニュー・レイジョ。遊郭跡が混じる。目の前に日赤病院がそびえ立つ。たんぽぽ薬局まで二キロ余り。正門脇の石垣にタッチし、タオルで汗を拭い、屈伸運動をしてから引き返す。
         †
 菅野とシャワーを浴びて座敷に戻ると、幣原が一通の封書と一通の角封筒を持ってきた。
「ファインホースに届いてました」
 手にとって見ると、青森高校の相馬先生と、東奥日報社の浜中からの手紙だった。相馬先生からの手紙には、講演開始の時間と、その後の寺山修司を交えた歓迎会の打診、浜中のそれには、講演会の写真撮影の許可に対する感謝と、野辺地への同行取材を求める旨が丁寧にしたためてあり、東奥日報社の歴史という小冊子が同封してあった。読まなかった。
「どちらにも了解の電話を入れといてください」
「はい」
 菅野が、
「寺山修司ってどういう人ですか」
「さあ、まったく知りません。十四歳年上の青森高校の先輩だとしか」
「おとうちゃん、きょうほいくしょからかえってきたら、おかあちゃんとカンナとさんぽ」
「うん、待ってるよ。いっておいで」
 トモヨさんが直人に園児服を着せながら、
「寺山修司は言葉の魔術師と言われてます。『田園に死す』という歌集持ってます。私にはほとんど意味不明の歌ばかりですけど、郷くんならわかるかもしれない。読みます?」
「うん、読む」
「どうしてもわからない気味の悪い歌があるんですけど。―大工町寺町米町(こめまち)仏町老母買う町あらずやつばめよ」
「うーん、母親が売春婦で、作者はポンビキしてるんじゃないのかな。ツバメを先導役にして町から町を歩きながらね。もちろんイメージとしてだと思う。母を喜ばせてくれる若いツバメを求める意味もあるかもしれない。……幻想的な歌だなあ。フィクションだろうけど、抒情にあふれてる」
「すごい解釈!」
 そう言い残して、トモヨさんは直人といっしょに菅野と出ていった。イネが、
「その歌(うだ)ば高校で習ったじゃ。大工町(まぢ)も寺町も米町も、いまの本町にあったほんとの町だんだ。仏町はねェの。仏のような人の住む町という意味で想像して書いたの。だから三つの町は仏町の枕詞なのせ。学校でだば、からだの不自由になったカッチャをだれか買ってくれと頼んで歩く姥捨ての地獄図だって教えだども、オラはちがると思って図書館さいって調べたんず。姥は捨てるもんで、買うもんでねもの。神無月さんが言うとおり、寺山のかっちゃは三沢のアメリカさんのオンリーだったず。その兵隊が九州さ転勤するってんで、カッチャは寺山を捨てて兵隊といっしょに出てった。八(はぢ)年間。中学から寺山は叔父さん夫婦に育てられたの。かっちゃは四十そごそごで独り身になって東京さきて、大学生だった寺山と立川で同居するようになったの。そして、有名になった寺山を食いものにしてさんざん苦しめたんず。そたらわげで寺山は、かっちゃを捨てたぐなったのせ。四十くれの女は、むがしは婆さんと見られてだはんで、老母と書いだのよ。婆さんだけんどその道のプロですよ、仏さんみたいな人がいだら、買ってくれませんか、つばめさん、買う人がいだらそごさ連れてってけへ……。神無月さんの解釈、ほとんど当だりだけんど、ほんとに歩き回るポンビキは考えすぎだでば。寺山がアダマの中(なが)で考えだこどだじゃ」
「すばらしい!」
 私は拍手した。主人夫婦もソテツも拍手した。イネはカンナを抱いて帳場へ昼寝をさせにいった。女将のいる文机の脇のベビーベッドに寝かせて、すぐに戻ってくる。
「意味がわからないことを魅力に思う人のアイドルだね、寺山修司という男は」
 アヤメの早番から優子といっしょに帰ってきたキッコが話を聞きつけ、
「宮沢賢治の詩も小説も、アメニモマケズノのほかは、まったくわからんわ。でも伝説になるくらい人気がある。日本人はわかりやすいものは馬鹿にするさかい。神無月さんの五百野が国語の授業で採り上げられたんやけど、こんなわかりやすいもの芸術やない言う生徒までおったわ」
「ぼくもそう思うよ。このごろよく思うんだ。芸術作品というのは、わかりにくさの圧力のようなものが必須なんじゃないかって。ぼくはわかりやすい〈作文〉を書くよ。自分の好きなようにね。作文にも駄作と傑作がある。傑作を書くよ。作品がそれを書く人の特性によって成り立つ以上、他人は同じものを書けない。特性が人並なら書くものは人と同じようなものになり、駄作になる。そうでなければかならず傑作になる。ルイズ・ド・ラ・ラメーの『フランダースの犬』や、エリ・ビーゼルの『夜』のようにね。だれにも書けない世界最高の作文だ。たとえ作文でも表現することは苦しい作業だけど、がんばる。……書くことが好きだから、だいじょうぶだ」
 その場にいたみんなが悲しそうな顔をした。
「芸術って何なん……」
 キッコがポツンと言った。
「学者が研究したがるもの。そのためには傑作の太鼓判を捺さなくちゃいけないから、学術的に価値のあるもの。研究には感情のふるえは厳禁だから、感情移入させないもの。ほくにとっては要らないもの。その意味での芸術家は、ぼくとっては駄作しか書けない詐欺師だ」
「あたしも要らんわ」
 イネが、
「ワも要らね」
「日本の学者が研究しようとしない人を読めば、まず中りだよ」
 新聞の切り抜きにかかった主人が、
「ハンマー・パンチ藤猛のことが載ってますよ」
 へえ、と思って覗きこむ。昭和四十二年四月三十日に藤がロポポロを破った瞬間の写真が載っている。ロポポロはロープのあいだに倒れこみ、それに向かって藤がこぶしを突き入れようとするのをレフリーが止めている写真だ。その下に、勝利を宣告された藤が飛び上がって喜んでいる写真も載っている。
「力道山がリキジムを設立して、三十七年にハワイからトレーナーのエディ・タウンゼントを連れてきたんですな。翌年に力道山は刺されて死んで、吉村という力道山の秘書が会長になり、三十九年に海兵隊を除隊した藤(アマ勝率九割・州大会二度優勝)を、藤が少年のころからハワイで知り合いだったタウンゼントがリキジムに引っ張った。ぼく、ケンカボクシングね、海兵隊、マリンコ、いちばん荒っぽいの、フツーじゃない、弱い人できない。―この吉村というのが、そんなことしゃべるな、試合に勝ったらこう言えと仕込んだようです。『岡山のおばあちゃん観てる? 勝って兜の緒を締めよ』。それを、勝ってもかぶってもオシメよ、と言ってまった」
「じゃ、岡山のおばあちゃんは作り話?」
「いや、藤のおばあちゃんはハワイの人だけど、ロポポロの試合のときは岡山に墓参りに戻ってたようです。三十九年にデビューして、四十二年にロポポロに挑戦する前の三年間は、二十七戦二十五勝二敗二十KO、初戦2ラウンドKOから十連勝して十一戦目で日本スーパーライト級王座獲得、1ラウンド四十五秒、これは日本記録です。つづけて2ラウンドKOで防衛、3ラウンドKOで東洋太平洋スーパーライト級王座獲得、2ラウンドKOで防衛。東洋に敵なしとなって、ロポポロに挑戦したわけですね」
 トモヨさんと菅野が帰ってきた。千佳子と睦子も降りてきた。二人とも夜遅くまで勉強したような顔をしている。トモヨさんはすぐにカンナに乳をやりに帳場へいった。菅野が新聞を瞥見して、
「お、藤猛ですか。むちゃくちゃ強かったですね。いまはどうしてるんですか」
「いま見てるところや。この写真のロポポロに2ラウンドKOで勝ってから二連勝、2ラウンドKO一回、4ラウンドKO一回。そして、ニコリノ・ローチェとやることになった」
 私は、
「ああ、いやな試合でしたね。8ラウンド試合放棄」
「いや、10ラウンドです」
「よしのりとリアルタイムで観ていたのに、8ラウンドだと思ってました」
 菅野が、
「藤がそんなに長く闘うとは思いませんもんね。私も10ラウンドまで長引いたという記憶がないなあ」
「親指が自由に利くグローブによるサミングにやられたと書いてある。『ローチェ、グローブの親指縫わない、彼、サミングうまい、専門、ローチェ汚い、でも逃げなかった、十ラウンド、もう目が見えない、後悔してないね』―コーナーから立って出なかったことで除名されたんじゃないようや。それからも四戦やっとる。三KO、一引き分け。今年五戦目の試合直前になって出場拒否、それで無期限試合出場禁止の処分を食らっとる。金銭面で折り合わなかったからやと。息子のいるハワイに帰って、悠々自適の人生を送っとるそうや」
「今年引退したばかりか。それも意外ですね」
 考えたら、花屋のあの興奮から二年しか経っていない。ひどく古い時代のようになつかしく思い出されるのは、私の生活環境がガラリと変わってしまったからだ。受験生からプロ野球選手へ。なつかしがっている暇がなくなった。これまで古い順番で強く思い出されてきたことが、その順番で淡くなっていく。淡くなった人たちと、あと二週間もしたら会う。対面する私の態度は曖昧で難しいものになるだろう。
 千佳子たちが歯を磨きにいった。信子とルリ子が、アヤメの中番で出かけていく。三上ルリ子は結局厨房ではなく、アヤメのホールに落ち着いたようだ。厨房の物音がしげくなる。私は昼めしまでのあいだトモヨの離れにこもり、新聞社宛ての原稿五枚を速筆で書き上げた。
 ―一年間異次元の別世界に遊んだ、もっと遊んでいたい。
 それが原稿の要旨だった。水原監督以下ドラゴンズのメンバーにどれほど愛情を感じたか、また彼らからどれほど愛情が注がれたか、その相互関係がなかったらこれほどの数字は残せなかっただろうとも書いた。ファンの温かい視線への感謝、潔く闘ってくれたピッチャーの心意気への感謝を書き、来年は研究され尽くすだろうから、さらなる鍛練を積まなければ今年の半分の実績も挙げられないだろうと書いてまとめた。
 箸が進んでいる食卓の前で菅野に渡した。菅野は頭を下げて受け取り、
「人の十分の一の時間でやっつけちゃうんですね」
「小説じゃないからね。だからといって、うんと引き受けると、みっともない重複になっちゃう」
「心がけます」
 そう言って菅野はゆっくり箸を動かした。私は数種類のおかずから、ナスの油炒めとキンピラゴボウを選んだ。ソテツはひさしぶりに具の多いインスタントラーメンの注文も受けた。菅野はめしをすますと原稿の封筒を抱えて外へ出た。うまそうにラーメンを食い終えた千佳子が、
「木曜はおたがい講義がないから、夜遅くまで話しこんじゃう」
 女将が、
「毎日いっしょにいて、何そんなに話すことあるん?」
 睦子が、
「女同士って、いろいろ話の種があるんです。取るに足らないことばかりですけど」
「ほうやったなァ、うちも。いちばん楽しいころやね」
「ワシに遇う前かい」
「楽しさの意味がちがいますよ。箸が転がっても楽しいころの話」
 カンナを抱いて戻ってきたトモヨが、
「私はいまがそうです」




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