三十四

 原稿の郵送を終えて菅野が帰ってきた。
「ちゃんと送っときましたからね。日本野球機構から、二十二日の授賞式の式次第と式の内容が送られてきましたよ」
 開封した封筒と便箋の束を手渡す。三枚あった。テーブルに並べると、みんなが覗きこんだ。一枚目はシンプルなものだった。

 一般社団法人日本野球機構は、十一月二十二日土曜日、高輪プリンスホテル(東京都港区高輪3―××―××)地下一階プリンスルームにて、一九六九年度のプロ野球年間表彰式を開催いたします。
 第一部ファーム表彰式    十二時半~一時半
 第二部公式記録賞表彰式   二時~四時

「一時半に品川に出かけていけばいいわけだから、十時四十五分ぐらいの新幹線だね」
「そうですね、調べて買っておきます」
「もう一回、二十二日からの予定をお願い」
「はい。二十二日、表彰式のあとプリンス一泊。二十三日五時から神楽坂で飛島ファンクラブの会合、プリンス一泊。二十四日東大ファンクラブサイン会。白川さんから連絡ありまして、午後一時より本郷第二生協食堂です。そのあと吉祥寺へ」
「吉祥寺じゃなくてもいいんだよね」
「はい、とにかく、適当に二、三日ゆっくりしてきてください」
 トモヨさんが、
「三泊してくればいいわ。河野さん、吉祥寺、法子さん」
「うん、それも適当に決めるよ」
 二十二日はサッちゃんではなく、ネネに逢おう。大きなホテルなら呼び寄せてもだいじょうぶだろう。二十三日。山口と江藤といっしょに神楽坂。山口は帰るだろうが、江藤はどうなるかわからない。たぶんホテルにもう一泊するだろう。一日江藤とすごそう。二十四日は、江藤と別れてから東大ファンクラブへ。それが終わったあと、サッちゃんの家に泊まろう。子育てで忙しいサッちゃんは出歩けないだろうから泊まってやるしかない。二十五日の昼にセドラのアヤを訪ね、夜に法子のもとに泊まろう。二十六日の午前に吉祥寺へいく。詩織はこの時期、後期授業の真っ最中(私の記憶ではたしか一月三日まで)なので呼べない。トシさんと雅子とゆっくりすごそう。二十六日はちょうどトシさんの休日の水曜日だ。
「二十七日じゅうに帰ってくる。予定は未定だけど」
 睦子が、
「あんまり予定に縛られないでくださいね。東京へいくのだけでもたいへんなんですから。いまは休養期間だということを忘れないで」
「うん。心がけるよ」
 トモヨさんが、
「河野さんと菊田さんと福田さんだけは励ましてあげてくださいね」
「わかってる」
 便箋の二枚目から三枚目には、表彰される選手の名前が書き連ねてあった。

 表彰選手
 セントラル・リーグ   最優秀選手賞    神無月郷(中日)
              最優秀新人賞    神無月郷(中日)             
 パシフィック・リーグ  最優秀選手賞    長池徳二(阪急)
              最優秀新人賞    有藤通世(ロッテ)
 シーズン記録表彰選手               
 セントラル・リーグ  投手部門 
 最優秀防御率投手賞 星野秀孝(中日 ○・九九)
              勝率第一位投手賞  星野秀孝(中日 十四勝零敗)
              最多勝利投手賞   小川健太郎(中日 二十六勝)
              最多三振奪取投手賞 江夏豊(阪神 二六二)
             打撃部門
              首位打者賞     神無月郷(中日 ○・六五四)
              最多本塁打賞    神無月郷(中日 一六八)
              最多打点賞     神無月郷(中日 三八三)
              最多安打者賞    神無月郷(中日 二九九)
              最多出塁数賞    神無月郷(中日 四○○)
              最多盗塁者賞    神無月郷(中日 四五)  
 パシフィック・リーグ 投手部門 
 最優秀防御率投手賞 木樽正明(ロッテ 一・七二)
              勝率第一位投手賞  清俊彦(近鉄 十八勝七敗)
              最多勝利投手賞   鈴木啓示(近鉄 二十四勝)
              最多三振奪取投手賞 鈴木啓示(近鉄 二八六)
             打撃部門
              首位打者賞     永淵洋三(近鉄 ○・三三三)
              最多本塁打賞    長池徳二(阪急 四一)
              最多打点賞     長池徳二(阪急 一○一)
              最多安打者賞    永淵洋三(近鉄 一六二)
              最多出塁率賞    張本勲(東映 ○・四二一)
 最多盗塁者賞    阪本敏三(阪急 四七)
 式の模様は招待関係者のみに公開されます。特別な許可を得た報道関係者以外は入場できないことになっております。各メディアには概要を知らせることになっております。
 司会進行役は日本テレビの徳光和夫が担当いたしますが、表彰式の模様はテレビ放映いたしません。なお、ドレスコードは設けませんので、極端に目立つ服装でないかぎりお好みの服装でご出席ください。授賞式終了後の公式インタビュー、食事会等は催しません。ご自由にご退席ください。そのままご宿泊の場合は、表彰式関係者にかぎり四割の割引がなされます。ご友人知人等はこのかぎりでありません。
 高輪プリンスホテルは、品川駅高輪口を出ると正面に望見できます。徒歩五分ほどの距離です。
              日本野球機構コミッショナー 宮澤俊義

「サッサと終わりそうで、うれしいね」
 トモヨさんが、
「二時間もあるなら、やっぱりインタビューされるんじゃないかしら」
「たぶん、受賞のあとちょこっとね。そろそろ直人のお迎えの時間だよ。散歩だ」
「やっぱりメイチカにいきたがるんじゃないかしら」
 主人が、
「戦後、本格的な地下街を作ったのは名古屋が最初ですわ」
 女将が、
「オリンピックの二年前にオープンしたんやったな。名古屋駅とつながるサンロード。あの当時、もぐらのチカちゃんゆうマスコットがおった」
 千佳子が、
「私みたい」
 睦子が、
「かわいい感じ」
 菅野が、
「いまはいないんですよ。通路はサッパリしたもんです。あのころはナゴヤ地下街の歌というテーマソングが流れたりしてました。なつかしいなあ」
 主人が、
「同じ年に、伏見駅の地下に伏見繊維街も作られたやろ」
「そうでした。いまの名古屋は地下街だらけです。じゃ奥さんいきましょ」
「はい。お母さん、カンナをお願いします」
 はいはいと言って抱き取る。
「カンナもいっしょじゃないといやだって直人が言ってたよ。メイチカに入れないなら、外を歩けばいいって」
「そうですか。じゃ、私、おぶって散歩にいきましょう」
二人が出ていくと、睦子が、
「散歩、いっしょにいっていいですか」
「いいよ。本を買うの?」
「コンパルで名古屋名物の征服。まだ食べてないものを一つひとつ」
「大須のコンパル本店へは、先月菅野さんといっしょに走っていったな。阪急がパリーグ優勝を決めた翌日。キャベツのホットドッグを食った」
 ソテツが飛んできて、
「私もいきます。まだ食べてないものがあるんです。鉄板ナポリタン」
 女将が、
「あれはうちで作れんわね。鉄板と板の敷きものを用意するのがコトやから。コンパルはサンドイッチとトーストしかあれせんよ」
 主人が、
「太閤通口のエスカ地下街に、リッチゆう店が鉄板ナポリタンを出しとるで」
「エスカ?」
「意味は知らん。新幹線が走った年にできた地下街や」
「じゃ、散歩ついでに回ってみようか」
「はい。散歩でお腹をへらさないと」
 千佳子が、
「どてめし」
 睦子が、
「餡かけスパゲティ」
 幣原がやってきて、
「そういうものは、うちでも作れますよ。今夜は餡かけスパゲティにしましょう。あしたの昼は、どてめし」
 私は、
「どてめしって?」
「鍋の縁に八丁味噌の土手を作って、大根、牛スジ、モツなんかのおでんを煮こむんです。それをごはんのおかずにしたら、どてめし」
「うまそうだ。鬼まんじゅうというのも食ってみたいな」
 女将が、
「鬼まんじゅうは、千種区の梅花堂やな。覚王山までいかんとあかん」
 主人が、
「椿商店街でも買えるやろ。角切りのサツマイモが入っとるだけのまんじゅうだがや」
 イネと千鶴もやってきて、品目をあげはじめる。
「ういろう、名古屋コーチン、味噌煮こみうどん、ひつまぶし」
「天むす、小倉トースト、エビフライ、きしめん」
 女将が、
「小倉トーストはコンパルやな」
 千鶴が、
「カレーうどん、味噌カツ、手羽先、味噌おでん」
 睦子は千佳子と顔を見合わせ、
「名古屋コーチンとカレーうどんは食べてないわね」
「味噌おでんも」
 ソテツが、
「ぜんぶうちでできます。メモしといてください」
 睦子が、
「なんだかお腹いっぱいになっちゃった」
「そりゃそうよ。昼ごはん食べたばかりやもの。若い子は食い意地が張っとるなあ」
 元気よく直人が戻ってきて、
「おとうちゃん、カンナはやっぱりしんぱいだから、つれてかなくていいよ」
「そうか、聞き分けのいい子だなあ。カンナがいまの直人くらいになったら、いっしょにいこうな」
「うん!」
 トモヨさんが、
「カンナといっしょに残ります」
 菅野が、
「私もファインホースを覗きますんで」
「わかった」
 散歩に出る。睦子、千佳子、ソテツ、直人と私。
「たかい、たかい」
 と要求するので、肩車をしてやる。
「あ、おとうちゃん、あれ!」
 直人が真っ青な秋空を指差す。一本、煙の直線が引かれている。
「飛行機雲だね」
「ひこうきはくもをだすの?」
「飛行機のエンジンが吐くのは煙じゃなく、排気ガスの蒸気なんだよ。それがギュッと固まって水になって雲ができるんだ」
「わかんない」
「ハハハハ」
 みんな笑う。千佳子が、
「知らなかった!」
 直人を肩から下ろして手をつなぎ、ガード下の食い物屋のオンパレードの〈うまいもん通り〉から、中央コンコースの新幹線北口乗り場に出る。多少様変わりしはじめたが、何度見てもなつかしいコンコースだ。
「なんだ、もう餡かけスパゲティの看板があるぞ」
「今夜幣原さんと作ります。そう言ったでしょう」
 ソテツが頬をふくらませる。


         三十五

 コンコースを表玄関に向かって直進し、大時計の下の桜通口に突き当たる。駅舎の外へ出る。例の幟おじさんの方向にある東山線出口の階段を降りる。メイチカの看板がある。小山田さんや吉冨さんたちが作った地下街だ。店の群れ。人の波。巡り歩けばゆうに二時間はかかる迷路。
 一つ目の回廊辻を左折。延々と歩き、コンパル到着。《コーヒーとサンドイッチ コンパル》と銘打ったかわいらしい看板。
「おやつ!」
 直人の叫びに通行人が振り向く。
「このあいだはオレンジジュースだったね」
「うん、きょうもオレンジジュース」
 テイクアウトコーナーのショーウインドウを眺めてから店内に入る。直人はオレンジジュース、睦子と千佳子は小倉トースト、ソテツはチョコレートサンデー、私はコンパル特製コーヒーを注文する。
「ムーミン人形が発売されたら買ってやるぞ」
「スナフキンとミーも」
「うん、ぜんぶ買おう。メイチカじゃ手に入らないだろうから、次の散歩のときは名鉄百貨店にいこう」
「うん」
 オレンジジュース、コーヒー、チョコレートサンデー、小倉トーストの順で注文の品が出てくる。
「小倉トーストおいしい!」
「不思議な味」
 ソテツはアイスクリームを掬う手を止め、直人をしみじみ眺めながら、
「こんなかわいい子が十人もいたら、北村席は雛祭りになりますね」
 先日のカズちゃんの戒めがあるので、二人の女はすぐには応答しない。やがて千佳子が、
「ソテツちゃんはいつかまじめな男の人と結婚して、まじめな家庭に収まって子供を産むべきよ。神無月くんにこだわらないほうが幸せになれると思う」
「そうでしょうか」
 睦子が、
「ぜったいそうだと思う。幸福な家庭が築けるわ」
 ソテツは少し考えて、私に、
「そういう気持ちになるまでは、神無月さんのそばでうろうろしてていいですか」
「もちろん。気のすむまでうろうろしたら、きちんと結婚して、五、六人産んで、ドッシリしたお母さんになってほしいな」
「私の子は、馬の世話係みたいな子だと思います」
 睦子が、
「偏見よ、それ」
 私は、
「馬キチガイの友人に聞いたことがあるんだけど、厩務員には馬のようなやさしい目をした美男美女が多いって話だよ」
 睦子が、
「かわいい子が生まれるわよ。ソテツちゃんかわいいもの」
「うそ……。千佳ちゃんやムッちゃんは美人だから簡単に人を褒められるけど、ブスの目ってきびしいんです。ほんとにきれいでないと、なかなか褒めない。自分についても同じです」
「家庭の幸せって、親子が愛情に満たされて暮らすことでしょ。顔やスタイルの良し悪しなんて、その幸せのためにはちっとも大事なことじゃないわ。容姿はいっときのもの、愛は永遠よ」
 千佳子が、
「ソテツちゃんは、だれなら褒められる?」
「神無月さんの恋人はみんなです。和子お嬢さん、トモヨ奥さん、素子さん、東京の法子さん、ムッちゃん、千佳ちゃん、千鶴ちゃん、キッコちゃん、どこをとっても文句なし。イネちゃん、優子さんも芸能人顔負けの美人。文江さんと節子さんは飛びっきり女っぽいし、メイ子さん、キクエさん、百江さん、近記れんさん、三上ルリ子さん、丸信子さん、アナウンサーの下通さんも人並以上の美人です。幣原さん、木村しずかさんもフッと目を惹かれることがあります」
 直人がストローでブクブクやっている。睦子が、
「自分だけは褒められない?」
「はい。輝きの強さと言うんでしょうか……うまく説明できません。もっともっと輝かないと」
「ソテツちゃんはとっても輝いてるわ。もうそんなこと言わないでね。伝染して、私も自信がなくなっちゃう」
 千佳子が、
「そうよ、私なんかいつも自信ないんだから。おたがい、うんと輝きましょ」
「はい!」
「耳が痛いよ。いちばん輝かなくちゃいけないのはぼくだ。さ、直人、いくぞ。ソテツお姉ちゃんの鉄板ナポリタンを食いにいこう」
「うん! くう」
 コンパルを出ると、斜向かいの何軒目かに、キクヤという衣料雑貨店があり、直人がふと目をやって、
「おとうちゃん、ムーミン!」
 と叫んだ。私たちはびっくりして立ち止まり、
「え、ムーミン?」
 直人はとことこ店内に入っていき、
「これ!」
 子供用の枕を抱き締めた。カバーに漫画の愛らしい河馬を染め出してある枕だった。
「ふーん、これがムーミンか。ほのぼのしてるね」
 女の店員が寄ってきて、
「新発売のムーミン枕でございます。スナフキンとミーと合計三種類ございます。肌触りのいい、丈夫で長持ちする素材で作られております」
「ぜんぶください」
「はい、ありがとうございます。―あ、神無月選手!」
 客たちがこちらを見た。
「それはなし。散歩でくつろいでるところだから」
「あ、はい、すみません。どうぞこれからもご贔屓に。ありがとうございました」
 神無月選手よ、金太郎さんだわ、と客たちがひそひそ言う。三人に枕の包みを持たせ、直人の手を引いて太閤口へ出、すがすがしい駅西の空気を吸う。すぐにエスカの階段を降りてふたたび地下街へ。これまたすごい店舗の数だ。中央廊下を二区画歩いた突き当りが喫茶リッチだった。
「いい雰囲気!」
「ほんと!」
「知らなかった。エスカって、すぐ近くなのにあまりこないから」
 直人は席につくやいなや、包み紙をバリバリ破って枕を取り出した。三つの枕を見比べ、スナフキンを抱き締めた。睦子と千佳子は残りの二つの枕を包み直し、セロファンテープをしっかり貼った。鉄板スパゲティを四人前と、ホットケーキ一人前と、ブレンドコーヒーを一つ頼む。
「直人がほしいと言ったらスパゲティを食べさせるね。残したらぼくが食べる」
 アイリスをふた回り小さくしたような店。静かだ。ぼんぼり形の古風なランプシェードが垂れている。黒い前掛をした女店員が二人で持ってきた鉄板スパゲティを見ると、ベーコン、ハム、赤ウインナー、タマネギ、ピーマン、マッシュルームと、茹で置きされたスパゲティをトマトケチャップで炒め合わせたもの。つまりナポリタンが、熱々に熱した鉄皿に盛られ、縁から溶き卵を流しこんでいる。グツグツ煮立っている様子は味噌煮こみうどんふうだ。すぐにはかぶりつけない。
「直人、ほしいか」
「うん」
「すぐ食べちゃだめだよ。やけどするから」
「じゃ、ぼくホットケーキたべてる」
 スナフキンを抱きながら言う。
「汚れちゃうから、スナフキンを横に置きなさい」
 素直に置く。老舗だけあってコーヒーはうまい。おそるおそるスパゲティをすする。
「うまい!」
「おいしい!」
 ソテツが、
「酸味の奥で、濃いケチャップが甘く感じるんです。見た目は卵が派手ですけど、スパゲティとじょうずに絡んで、いい味を出してます。鉄板を仕入れて、北村席の定番にしようっと」
 千佳子も睦子もフォークが止まらない。小皿と小さなフォークを頼み、鉄板から掬って直人に取ってやった。
「ケチャップ、だいすき、うまい!」
 私の口まねをする。ホットケーキを半分以上残していたので、睦子が平らげた。思ったとおりスパゲティも三口四口で残した。私とソテツで平らげた。各テーブルが腰高の仕切り板と観葉植物でたがいに見えないしつらえだったので、だれからも声をかけられなかった。店員は気づいたようで、帰りのレジで深々とお辞儀をした。
 帰りも肩車をした。女三人が三つの枕を持つ。
「いい散歩だった。カンナも早く大きくならないかな」
「ぼくがさんぽにつれてく」
「車が危ないから、おとうちゃんもついていくよ」
 きっとこれが、神無月大吉の望んでいた私との生活だったにちがいない。父の代わりに大切にこの生活を送ろう。私は神無月大吉だと思おう。人生でただ一度、生涯にわたる父の代打だ。
 コメダ珈琲店の角を曲がり、則武の家に立ち寄る。
「ここは、おとうちゃんがときどき運動しに帰る家だよ。ここで寝て、朝起きて運動し、迎えにきた菅野さんと走ってから、直人の家にいくんだよ」
「ぼくのいえにはおとうちゃんのねるところがないの?」
「あるよ。ここの家で、おとうちゃんは運動だけじゃなく、書き物もするんだ。書き物の意味はおかあちゃんに訊きなさい。おとうちゃんはうまく言えない」
「うん」
 肩車のまま戻っていく。アイリスの前を通る。
「和子オバチャンのお店だ。いるかな」
 肩車のまましゃがんで、大きな窓ガラスを覗きこませる。
「いないよ。もとこオバチャンとめいこオバチャンがいる」
 直人とソテツが手を振ると、二人も手を振った。私も振り、睦子と千佳子も振る。素子に呼ばれたカズちゃんが窓ガラスに出てきて、やさしく笑いながら手を振る。
 店前を離れ、歩き出す。もうすぐ取り壊される百江の家。椿神社の長いブロック塀。駅西銀座。あかひげ薬局。砂糖小麦粉販売後藤商店。右折。乾物雑貨卸小崎商店。左折。広大な敷地に建つ北村席に帰還。直人を肩から下ろす。直人は門をカラカラ引いて入り、庭石を走り、玄関を開けて母親や祖父母を呼ぶ。トモヨさんに飛びついて、きょうのできごとを話す。トモヨさんは私たちに茶を用意しながら、紙包みを開ける。菅野はそれを手にとってめずらしそうに眺める。二人の傍らでカンナがハイハイをしていた。
「ムーミンの形のままカバーになってるのね」
「洗うときは枕ごとですかね」
 女将が、
「透明なガーゼみたいな生地で覆うとええかもしれん」
 主人が、
「そのまま使って、よごれたらまた買えばええやろ」
 千佳子と睦子は直人を連れて金魚の餌をやりにいく。座敷では、キッコが学校に出かけるために早めの食卓についていた。千鶴がおさんどんをしている。
「夜間高校はセーラー服じゃないんだね」
 キッコはにんまり笑い、
「着てもええんよ。神無月さんはそのほうがええ?」
「ぼくはそういういびつな興奮をしなくても、自然と発情するから必要ないよ」
 千佳子が、
「いびつな興奮! そういう神無月くん見てみたい。私、着ようかな」
 千佳子は睦子に尻を平手で打たれた。
「二十歳過ぎてそういう格好したらグロになるってこと」
「そうよねェ。グロだからいびつに興奮するのよね。正常に興奮してもらえなくなってから考えることかも。わかった? キッコさん。それ相応の年齢でちゃんと興奮してもらえるうちは、そんなもの要らないって」
「はーい、わかりました」
 千鶴が、
「定時制でも、ふつうの高校生の齢の子はセーラー服着とるんやろ?」
「うん、着とる。よう似合うけど、あんまり色っぽくないわ」
「セーラー服が似合わんようになったら、齢やゆうことやね。七、八年前やったかな、橋幸夫の江梨子ゆう映画で、三条魔子がセーラー服着とったんやけど、まだ十九歳なのに老け面やから、グロかった。橋幸夫も同い年なのに学生服が似合わんかった。キッコちゃんは二十四歳でもすごく若いから、セーラー服がグロにならんよ。千佳ちゃんもムッちゃんも十五、六歳の顔しとるで、グロないわ。もちろんあたしもな。それでも着たいて思わんのは、ええ齢して制服着たがる気持ちがグロいからや」


         三十六 

 主人が、
「おまえら、いつもええこと言うなァ。仰せのとおりやわ。中年越えた男が女に着てくれゆうなら、セーラー服にあこがれた当時をなつかしく思い出しながら、からだに鞭打つゆう哀しい理由があるけど、若くない女がセーラー服を着たがる目的は一つや。なつかしさとかあこがれとは関係なく、男を興奮させてただ突っこんでほしいだけやろ。たしかにそれはグロい気持ちやな」
 菅野が、
「性欲が強いのはほとんどの女のサガで、神さまが子を産ませるためにそうしたんでしょうから、若いころなら生理的に仕方のないことです。しかし、そんな仮装をすることでしか興奮してもらえない齢になると、さびしい気持ちになるでしょうね。女にそういうことをさせちゃいけないし、そういう気持ちにさせてもいけないと思うな。ありのままの姿に興奮するというところを見せれば、女も幸せでしょう。義理マンとよく言いますが、義理でも実際勃つうちは〈して〉あげないと、女はさびしい生きものになってしまいます」
 女将が、
「菅ちゃんもええこと言うがね。子を産めんようになっても性欲が強いままなんは、なんでかなあ」
 千佳子は、
「快楽が男よりも強すぎるからだと思います。それを捨て切れないんです」
 睦子が、
「相手を愛していなければ、性欲も萎みます。年齢と関係なく女の性欲の強さは愛の強さと比例すると私は信じてます」
 女将が、
「ほんとにええこと言ってくれるわ」
「そうですか? あたりまえのことだと思いますけど。それより菅野さん、リッチの鉄板スパゲティ、今度奥さんと秀樹くんを連れてってあげて。とってもおいしいから」
「そうなの? ゲテモノだと思ってたけど」
 ソテツが、
「すごくおいしいんです。私も挑戦します。女将さん、鉄板を十枚くらいと、木の受け皿の仕入れをお願いします」
「はいよ。そんなにおいしいなら、文江さんと食べにいってみようかね」
 主人が、
「鬼まんじゅう、どうした?」
「メイチカとエスカには売ってませんでした」
「椿商店街の味多喜に売っとるで。梅花に負けんくらいうまい。あそこの主人に頼んでいま届けてもらうわ」
 百江が、
「旦那さん、私買ってきますよ。自転車お借りします」
 返事を待たずに出ていった。女将が、
「私は、モサモサしてうまいと思わんけどな。ま、一度食べてみればええわ」
 直人はと見ると、優子と縁側でお絵描きをしていた。ホットケーキの絵のようだった。
 菅野が、
「ファン感謝祭のネット裏優待券が十枚、足木マネージャーから送られてきました。イベントは年間パスでは入れないんだそうです。来年度の年間パスは五席に増えて、小山オーナーが送ってよこしました。球場に二つしかない五席一組のコンパートメントで、強化ガラス張り、広くて立派なテーブルつきです。ネット裏の中継席の真下にあります。一般の人が買うと年間百八十万だそうです。企業サラリーマンの二年分の給料ですね」
 女将が、
「世界一の神無月郷のタニマチやよ。あたりまえやろ。私もたまに連れてってもらお」
 トモヨさんが、
「騒いでもだいじょうぶな席なら、直人を連れていけますね」
「おう、そろそろ父親の仕事場を見せたらんとな。感謝祭の十人はどうする」
「土曜日ですよね。だれが暇かなあ」
 私は、
「あんなもの、何の見どころもないでしょう。菅野さん一家と、アヤメの早番組がいったらどうですか」
「ワシもいくで。写真班も連れてかんと」
「写真班、いきます!」
 睦子と千佳子が手を挙げた。キッコが玄関へ出ていった。
「勉強してきまーす」
「いってらっしゃい」
 トモヨさんが背中に声をかけた。
         †
 ソテツと幣原の作った餡かけスパゲティを二杯お替りした。鉄板スパゲティと同じように調理したものに、デミグラスソースとミートソースを混ぜたとろみのあるスパイシーなタレをかけたものだった。カズちゃんも二杯食べた。幣原が、
「麺が少し太いでしょう? 栄の『そーれ』というスパゲティ屋さんが六、七年前に出したメニューなんです。いま大流行りになっちゃって」
 このごろの幣原は着物ではなく、地味な生地のスカートを穿いている。いつ私のお呼びがかかってもいいようにだろう。ただ、まだ四十二歳なので妊娠の心配がある。すっかり心配のないときに、お誘いの空振り覚悟でスカートを穿くようだ。一家のみんながそれを知っていて、やさしい微笑みを浮かべながら眺めている。
 七時半。夕食が終わり、カンナを抱いたトモヨさんと、イネに手を引かれた直人がお休みなさいを言い、離れへ去る。カズちゃんたちアイリス組は風呂にいった。そのすぐあとに江藤から連絡が入った。夜九時からNHKのドキュメンタリー特番で『神の技・神無月郷のバッティング』が放送される、ということだった。
「解明はできんにしても、スローモーションが見れるけんのう。本人は見んほうがいいかもしれん」
「いえ、見てみます。外角高目の凡打が見れるかもしれませんから」
「凡打は映さんと思うばい」
 礼を言って電話を切る。まだ放送まで一時間近くある。主人に告げると、
「みんな知っとりましたよ。知らぬは神無月さんばかりなり」
 菅野が、
「神無月さんは新聞のテレビ欄なんて見たことがないでしょう」
「はい」
 女将が幣原に小声で、
「照子、ちょっといっといで。かわいがってもらい」
「……はい。いいですか、神無月さん」
「うん、いいよ」
 女将は幣原があまり〈かわいがられ〉ていないことを日ごろの観察でわかっているのだろう。幣原の部屋にいく。蛍光灯を点けると、愁いを帯びた調度が浮かび上がる。幣原はいそいそと蒲団を敷く。二人服を脱ぐと、幣原はやはりあのパンティを穿いているのがわかった。色は純白。
「お願いします。あそこはきれいに洗ってあります」
 と言って、横たわる。
「ゆっくりしよう。いろいろ話をしながら」
「はい。いちばん最初に抱いていただいたときは、図々しいことをして、ほんとうにすみませんでした。しばらくお顔もまともに見れなくなって。……それなのに、門の外でまた図々しいお願いを聞いていただいて」
「何もかもぼくにとっては新鮮なことだよ。かえってうれしい。……幣原さんは、北村(ここ)の厨房にきて十二年になるって言ってたよね」
「はい。いつかも言いましたが、三十のときに厨房に入りました」
 パンティの割れ目に指を置く。
「あ……」
「最初から厨房だったの?」
「……いいえ、こちらにきたときは、芸を覚えるには遅いということで、トモヨ奥さんみたいに長屋に入ってお客さんを相手にするような暮らしをさせられてたんですが、愛想がないので客受けが悪くて、三年ほどで厨房に回されたんです。三十五でようやく年季が終わりました」
「流れてきたんじゃ、お金はないものね。有馬温泉のほうのつらい事情はこのあいだ聞いてわかったけど、こっちへきてからの十二年間に何度か恋愛した?」
「……年季の終わった三十五のときに、ここに出入りしてた化粧品の業者さんと知り合って、三年ほどお付き合いしました。……神無月さんの訊きたいことはわかります。私が隠してた玄人経験のことですね」
「個人的に経験した詳しいところは別に訊きたくない。ただ、どんなにつらい経験をしたにしても、十二年ものあいだ一度も恋愛経験のない女はちょっとさびしい感じがするから。女としてというより、人間としての深みというか。……安心した。十二年前というと、売防法のころか。しばらく長屋で青線時代をすごしたわけだ。たいへんな時期にここにきたんだね」
「はい。売防法でこのあたりはすっかり寂れました。お嬢さんはまだ大学生で、旦那さんや女将さんとぶつかり合ってて……。昭和二十一年に建て直したとかいうこのお店も、むかしほどは繁盛しなくて。このあたりではいちばん質のいい客寄せがあったんですけど、そういう人たちだけでは店が潤うというわけにはいきませんものね。お店の女も玉石混交でないとお客さんの数は増えません。で、青線ぽいことにもちょっと手を出してたんですが、女の子の質が悪くなるというんで、すぐ手を引きました。和子お嬢さんの大反発もありましたし……。少ない宴席芸者だけでやりくりすることにしたんです。そんなわけで席は不景気のまま、おまけに旦那さんが面倒見のいい人ですから、みんなのお給金をちゃんと払ったうえで、結局、家財を切り崩しながら赤字経営をつづけてたんです」
「でも盛り返したんだよね」
「はい。北村席はもともと身売り芸者がほとんどいない店だったので、衛生上安心できる女を働かせる店は北村席だけだという評判が広まって、たまの宴席にもお役所や商店主や大会社のお客さんが戻ってきたんです。お役所だけはケチくさく値切りましたけどね。ようやく波に乗ったところへ区画整理。売防法以来の大打撃でした。才覚のある旦那さんは思い切ってトルコに乗り換えして、じょうずに切り抜けました。席以来の女の子を継続して雇ってあげられるし、七面倒くさいお役所付き合いもなくなるって言って。それからはトントン拍子。松葉会さんの力添え、秋月先生の後ろ盾まで得て、安定した大船になりました。この二年ほど、名古屋市の長者番付では五本指に入ってます」
「それだけ屋台が大きくなると、お父さんやお母さんも経営の大舵をとるのがたいへんになるよね」
 私は指を動かしはじめる。
「は、はい……。いくつかの大きな銀行さんや、コンサルタントとかいう人たちが経営方針を指導してくれますし、細かいところは会計士さんとか税理士さん、弁護士さんや司法書士のかたが教えてくれるようです。帳場に出入りしてるのはほとんどそういう人たちです。旦那さんと菅野さんは、トルコ二店舗とアイリスとアヤメのお給料の調達、設備点検や拡充、それから従業員の雇い入れに関わってるだけで、女将さんはその経費と私たちのお給料の算盤を弾いてるだけです」
「お父さんはアイリスやアヤメにも目を配ってたんだね」
「はい。しゃしゃり出ないように縁の下で。菅野さんはもうほとんどファインホースと神無月さんの送り迎えの二本立て」
「蛯名さんたちは相変わらずトルコに寝泊りしてるの?」
「はい、六人。ひと月ごとに顔ぶれが変わります。でも、この夏に、駐車場つきの立派な一棟を女子寮のそばに建てました。ふつうの一戸建て民家で、八部屋、風呂、台所、お便所も完備してます。食事は寮食堂で三食いただけます」
「すごいなあ、北村城は」
「そうですね。あ……神無月さん、もうすぐです」
 少しずつ動かしていた指がすっかり濡れそぼっている。股間に屈みこみ、舌でフィニッシュする。舌の先で張り詰める陰核の感触を確かめる。穴開きパンティの股間に挿入する。幣原はすぐ果てるのをこらえている。往復する陰茎の付け根の白い布にじっとり愛液が滲みてくる。
「ああ、もうだめです、一度イキます!」
 ようやく痙攣する。初期のころよりもよほど動きが慎ましいが、膣の反射は強い。クレバスの頂点でひくつくクリトリスが妖しい。私は腰を動かしつづける。
「だ、だめだめ、神無月さん好き、大好き、イクウ! あああ、熱い、イックウウ!」
 激しくうごめきはじめる。最近、膣のこういう動きは子宮に向かって精子を送るための精密な反応で、強いアクメにしても、子宮を活性化させて精液を受け入れやすくするためのものだと思うようになった。そう理解しても、女体の反応の神秘性は消えない。映画でときどき観るような木偶の坊みたいに黙っている女が相手だと、ひたすら射精をすませるのに必死になるだろう、とふと思うことがある。女もそんな交わりなど早く終えたくなるに決まっているし、そんな交わりから愛情が芽生えるはずもない。世のカップルの大半が鬱屈した顔をしているのはそのせいにちがいない。
「ああ、神無月さん、私、そろそろだめです、ウン、イク!」
 愛液を勢いよく吐き出し、ギュッと亀頭のあたりを吸いこむように緊縛する。腹の筋肉が円形の瘤を作って収縮した。それに合わせて射精する。律動を三度、四度とすると、グウ、ググ、とうめきながら連続のアクメに入る。幣原特有の脂汗をかきはじめる。苦悶を和らげるために、抜いて横たわり、幣原の頬にキスをする。語りかけながら、痙攣が治まるのを待つ。
「……はああ、もうだいじょうぶです、ごちそうさまでした、はあァ……とても気持ちよかったです、生き返りました」



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