四十三

 睦子が染井に微笑みかけながら、
「私、鈴木と言います。神無月さんのそばにくるために、東大を一年で中退して、名古屋大学に入りました」
「自己紹介なんかしなくても、存じてます。鈴木マネージャーですね」
「はい。去年まで黒屋さんと上野さんと三人でがんばってました。ちょっと言わせてくださいね。神無月さんの言葉が簡明すぎて、かえってみなさんに伝わってないような気がしたものですから……。一般論から言うと、プロ野球選手と東大出身の女性が結婚した例は過去に一つもありません。彼女たちにとって野球選手なんか、江戸時代で言うと、藩お抱えの相撲取りか芸人みたいなものでしょう。東大の女子が結婚する相手は、藩に属している人たちだけです。政治家、医者、法律家、資産家、お役人、学者。そういう女性の眼からすれば、なぜ藩の首脳に属さないで下っ端の相撲取りになんかなるんだろうということですよね? 簡単。相撲取りの才能があるからです。東大のコンバットマーチを作曲し、ピッタルーガギターコンクールで優勝した山口さんも、東大中退です。政治家をはじめとする、いま並べ立てたような人たちは、勉強以外に才能と呼べるものはありませんが、権力とお金があります。それを維持するためには、いろいろな方策を講じて勝ち抜かなければなりません。彼らの価値観は、勝ち負けに基づいています。相撲取りや芸人の価値観は、才能の開花にあります。勝ち負けは自分のためでなく、人のために見世物として行なうためです。そのためには、他を蹴落とす智謀ではなく、他を喜ばせる才能が要ります。才能の開花は個人の喜びだし、それを楽しむ人たちの幸福です。才能を喜びとするか、勝ち負けを喜びとするかで、真っ二つに人種が分かれます。その二つの人種は価値観で反目し合っているので相容れないんです。神無月さんが東大を中退したのは、いやなものに触って思わず手を引っこめたというところです。引っこめる前に触った理由は、触ることが才能の開花を認めてもらう唯一の条件だったからです。東大だから触ったんじゃありません。触るものを東大以外に指定されていたら、それを触ったでしょう。だから東大そのものには関心がないと言ったんです。あなたたち東大生を貶めるためじゃないんです」
 染井が、
「××さんが東大や京大の中退率のことを言ったのは、神無月さんに疑問を持ったからじゃなくて、私たちがこだわって手に入れたものをスパッと捨てたことに感動したからなんです。私たち、大学時代から神無月さんの大ファンです。相容れないなんて言わないでください。ごめんなさい、神無月さん」
 主人が、
「いいからいいから、染井さん、歌いなさい」
「はい!」
 千佳子が、
「ムッちゃん、私たちも歌おう」
「うん、何にする?」
 みんなで固まってステージ部屋にいく。カズちゃんが素子に笑いかけ、
「見た? 砦の強さ」
「見た見た。キョウちゃんのことになったら、ムッちゃんは怖いわ」
「キョウちゃん、いつだったか、野球界を引退したら、塾の先生でもやりたいと言ってたわよね」
「うん。英語を教えたいと思ってたことがあった。悪くはないけど、嫌いな勉強はやりつけない。オバカサンの気の迷いだったね。まったくタッチする気はなくなった」
「よかった。私、河合塾の教務部にいって訊いてきたの。そしたら、大学中退者は高卒扱いなので、どの予備校も雇った例はないって話だったわ。人はこういう不遇に泣きたくないから大学を卒業しておくのよ。ルールがこの世のすべてだから」
「そうか。大学中退は高卒の資格になるのか。意外なところに盲点があったなあ。それなら、名画館でも一軒経営しながら、部屋で好きな本を読むしかないね。暇を見つけて、少年野球教室に出かけたりして」
「賛成。方向性が決まっちゃった。スッキリしたわね」
「うん、スッキリした」
「でも少年野球はうまくいかないんじゃないかしら。やっぱり教えるための規制があるでしょうから。そんな時間があったら、自由にものを書いたり、図書館がよいをしたりしたらどう?」
「そうしよう。少年から脱したころは、肩書・資格クソ喰らえの気持ちが人より早く熟したことを得意に思ってたけど、二十歳にもなると、それがないといろいろと面倒なことが出てくるってわかる。得意なんて気持ちは吹っ飛んだ。面目ない頑固者ですごすのが楽しくなってきた」
 主人が聞きつけて、
「まあ、お重ねどうぞ」
 徳利を差し出す。自分にもついで盃を含み、
「うまい、ばかうま。神無月さんとこうして飲むのはひさしぶりですな。菅ちゃんと二人で呑んでもさむしい」
「ぼくの酒は底が割れてます」
「それがおもしろいんじゃないですか。ねえ、神無月さん、ワシらも頑固者ですよ。どっちつかずになったらアカンです」
「パーだからなれません。しかし、野球界という制約のきびしい社会に入りこめたのは奇跡だな」
 カズちゃんも猪口を傾けながら、
「才能がないと入りこめない社会なのが幸いしたわね。制約と言っても、才能以外の制約がほとんどないもの。山口さんも優勝できてほんとによかった」
「うん、優勝しなければ下積みの面倒ごとに食いつかれてた」
「そうね。でも、有名になると反権力の気持ちはふつう引っこんじゃうものなのよ。引っこめざるを得ないというか。盲腸も手術できないくらい腕が悪いくせに妙にふんぞり返ってる医者とか、法律をいじる職人にすぎないのに正義漢のような態度をとる弁護士とか、そんな人を見るとムカムカしてたのが、スッと治まってしまう。ムカムカしたのは、その人たちを見てる自分がいっこうに名声を得られなかったからというのが多いの。そういう嫉妬もそれはそれで人間味にあふれてるんだけど、名声を得たら最後、その立場を捨てたくなくなる。有名になっても反権力のままというのは奇人ね。山口さんもきっとそう。奇人は退屈しないわ。キョウちゃんの女は、その奇人に一生寄り添うから、退屈知らず」
 矮小な私をきょうは〈奇人〉と表現する。私は甘えて大言する。
「奇人の生きる場所は、いつも崖っぷちだね」
「そうよ、安全ネットがないと命取り」
 安全ネットのカズちゃんが、きっちり私の器を認識させる。受けるネットが必要な器だ。
「……いつも安全ネットに飛びこんで遊んでる」
「死ぬほど愛してる人が危険なところで遊んでるんだから、安全ネットになるしかないじゃない」
 十時を回って宴が終わった。主人夫婦、菅野、睦子と千佳子、店の女たち、賄いたちと腰を上げていき、バトンガールたちもほろ酔いかげんで客部屋へ案内されていった。
「じゃ、私たちもそろそろ則武に帰りましょう」
 カズちゃんは最後まで座敷に残っていた黒屋に、
「じゃ、またあしたの朝」
「はい、お休みなさい」
「あしたは何時に帰るの?」
「東大球場に二時集合です。だから、十時ごろの新幹線に乗れば、東京に着いてからめいめいの家にいったん帰れます」
「ふつうに朝食を食べて出発すればいいわね」
「はい」
 いつもの五人で夜道を歩く。素子が、
「あの女の子たち、ムッちゃんとぜんぜんちがうが」
「比べものにならないわよ」
 アイリスの前で素子が明るく手を振った。カズちゃんが、
「あした、北村の朝ごはんでね」
「うん、バイバイ」
 カズちゃんが私たちに、
「素ちゃんは、いまあれだから撤退」
 則武の玄関に上がって、みんなでキッチンテーブルにつく。コーヒーで一息ついてから、 五人で風呂に入った。立ったまま百江とメイ子にシャボンを立ててもらい、カズちゃんに咥えてもらった。しっかり隆起したものをメイ子、百江の順で含む。百江がメイ子に、
「やっぱり、神無月さんに〈女〉にしてもらいたいと思ったんですね」
「と言うか、抱いてほしいと思ったんです。そしたら思いがけない歓びに出会えて。……三人も子供を産んでますけど、からだの歓びを知らなかったものですから、びっくりしました」
「私も同じです」
 メイ子が、
「お嬢さんは経験豊富だったんでしょう?」
「遊んでたわりには意外と少ないの。キョウちゃんが三人目。メイ子ちゃんは?」
「何百人目……だと思います」
「そっか、羽衣のナンバーツーだったんだもの、仕方ないわよね」
「イッたことのないオマンコだったので、神無月さんに処女を捧げたつもりでいます。いくらたくさんの男としても、きちんと急所をこすってもらうことと、相手の人をものすごく好きだという気持ちがないと、女はしっかりイキません。私は初めて遇ったときから神無月さんのことを心底好きだったのでそうなりました」
 百江が、
「私は、夫しか知りませんでしたから、神無月さんが二人目です。だいぶあいだを置いてですけど。……メイ子さんの言う意味でなら、私も処女です」
 カズちゃんが、
「私もよ。でも、こういう形をしてないと目覚めないわ。急所をこすってもらうって言ったでしょう?」
 私のものを握って示す。メイ子が、
「お嬢さんがこういう形にしたんですよね」
「私はきっかけを与えただけ。私と結ばれたとき、キョウちゃんはようやく剥けたばかりで、もともとカリは大きかったけど、ここまでは発達してなかったわ。私とセックスして剥け切ってから、一、二年でグングン大きくなった。手に負えないくらい」
 五人、ゆっくり湯船に浸かって、カズちゃんのむかし話を聞いた。カズちゃんは、毎日降る青森の雪の話をした。雪の中でキョウちゃんとこの世に二人きりだと思うと、とても幸福だったと話した。
 風呂から上がってからだを拭くと、みんなで裸のままメイ子の離れへいった。カズちゃんが、
「男も女も、きょうが初体験で、きょうが最後の体験になるかもしれないっていつも覚悟してれば、心に甘えがなくなるから全力で励めるわ」
 百江が、
「セックスは心の美しさを傷つけるものではありませんけど、ほんとうのセックスはかなりどぎついものだと知っておかないと、自分に起きる変化を恥ずかしがったり、軽蔑したりすることになります。明石で初めて抱いていただいたときはそういう気持ちでした。変化が起きたときには、それを素直に受け入れて人間らしい心に戻ればいいって、すぐに気づきましたけど」
 カズちゃんが脚を開いた。
「じゃ、キョウちゃん、お願い」
 挿入するとすぐに脈を打ちはじめる。尻を抱えながら、狭さと摩擦の具合を計り、すぐに抜く。カズちゃんは一瞬達して腹を引き攣らせ、歓喜の発声をする。準備の体勢をしていたメイ子に移る。入口に亀頭が入ったとたんに締めつけ、大きく痙攣して高らかに発声する。抜いてカズちゃんに入れる。抜く。これを数回繰り返しているうちに二人はあらゆる発声をして、ほとんど息も絶えだえになった。百江を見ると赤らんだ顔でうなずき、からだを硬くしながら脚を開いた。顔を見つめながら挿入する。百江は目を閉じ、
「ああ、神無月さん、うれしい! 好き」
 と言った。入口だけが閉まり、亀頭をくすぐる。さらに進入するといつもの狭さになって誘いこむ。奥を突く。カズちゃんのように握手が始まる。やがて小陰唇が快感で固くなって左右に開いたので、抽送がスムーズになる。すでに何度か達して歓喜の声を上げている。奥をしばらく突いて快感を増幅させ、大波を催させようとする。回復したカズちゃんとメイ子が励ます目で百江を見ている。百江は目をつぶって両手を私の背中に当てていた。私は往復を速め射精を呼び寄せた。百江が苦しみだす寸前まで昇らせると、
「愛してます!」
 という叫びに合わせて柔らかいからだを抱き締めながら吐き出した。心ゆくまで律動する。百江は激甚な痙攣で応えた。カズちゃんとメイ子がニッコリ笑った。六、七分ですべてを終えた。意外なことに、カズちゃんがまだ下腹をふるわせていた。メイ子がその腹をさすった。
 メイ子はタオルを持ってくると、私を清潔にし、裏返しにして百江に渡した。百江は股間を拭い、風呂場へ立っていった。
 11PMを観ている最中に、メイ子が作った三人分のインスタントラーメンを四人で分け合って食べた。
 六時に目覚めて下痢をし、シャワーを浴び、三人の寝ている蒲団に戻って一時間ばかり二度寝をした。


         四十四

 十一月十六日日曜日。快晴。コーヒーを一杯飲み、朝七時半、四人で北村席へ向かう。
「百江の家、何ともなさそうだったけど、あれでやられてるんだね」
「むかしはシロアリ駆除の予防をしないで家を建てましたから、気づいたときはボロボロってことが多いんです」
 カズちゃんが、
「コンクリートの土台はしっかりしてるから、取り壊さずに、宗近棟梁に頼んで、根太(ねだ)や大引(おおびき)だけ補修して、別荘として置いておくことになったわ。たまにお子さんたちが帰ってくる家がないと気の毒だもの。今月中の引っ越しは小物だけでいいんじゃないの」
「はい。蒲団一組と、鏡台と、衣類、履物くらいですね。箪笥は置いときます」
 メイ子が、
「ああ、からだが爽快!」
 カズちゃんが、
「ほんとに私たち幸せね」
 百江が、
「どうにかなりそうなほどイキました。途中で一度、気が遠くなって」
「女の鑑ね。拍手したくなっちゃった」
 メイ子が、
「神無月さんが性欲を湧かせる女はかぎられてます。だから一人ひとりの女に一生懸命応じてくれる。それから、美人、不美人、年齢を差別しません」
 カズちゃんが華やかに笑い、
「人生歴もね。差別するのは真心だけ。キョウちゃんのそばにいると、男も女も人間的に美しい人にだけ会える。みんな、ほかの女の人といっしょにセックスするということに驚くのは最初だけで、すぐに慣れちゃう。おたがい真心のある、貞操の堅い女だという信頼感があるから」
 バトントワラーたちが快活に厨房をいききしていた。ソテツが命令を下している。
「あ、おはようございます。このかたたちがどうしても手伝いたいと言うもので」
「おはようございまーす!」
 黄色い声が上がる。カズちゃんが、
「夜更かししたんでしょ。クマができてるわよ」
「話が弾んでしまって」
 下級生の一人が、
「二十四日のサイン会、かならずいきます。いっしょに写真撮ってくださいね」
「はい。白川さんが撮ってくれるでしょう」
 廊下をトコトコ走ってきた直人がバトンガールたちにまとわりついた。
「おねえちゃん、きいて」
「何を?」
「なまえ」
「あなたの名前は?」
「きたむらなおと」
「お、言えたわね。すごいなあ」
「おねえちゃんたちは、きょうかえるの?」
「そうよ」
「どうして?」
「お仕事があるからよ」
「どうしておしごとがあるの?」
「どうしてかなあ、直人くんはどう思う?」
「うーん、わかんない」
「直人くんのお仕事は?」
「……ほいくしょ」
「じゃ、おねえちゃんたちのお仕事は大学よ。直人くんがあと九倍生きたらする仕事よ」
「きゅうばいって、なに?」
 手をとって、指を九本折ってやる。
「いまの直人くんはいくつ?」
「ふたつ」
「じゃ、ふたつを九回繰り返したら、おねえちゃんたちと同じお仕事をするようになるわよ」
「わかんない」
 ハハハハ、ホホホホ、と笑い声が上がる。黒屋が抱き上げて頬にキスをする。
「ほんとにかわいい! トモヨさん、二歳児は四つぐらいまでしか数を認識できないんです。九つは無理」
 カンナに乳を含ませていたトモヨさんが、
「そうなんですか! 三日前のことをきのうと言うのは、どうなんでしょう」
 大山が、
「もうすぐとか、おとといとか、三日前とか、あしたという認識が出てきます。二歳の子は、いまと過去しかないんです」
「あしたという認識も!」
「ぼんやり、きょうじゃないとは思うんですけどね」
 私は、
「まさにきょうを生きてるんだね。本能的に未来志向じゃないんだ。すごいな。直人、えらいぞ!」
 頭を撫ぜると、直人はやっぱりよくわからないという顔で私を見上げる。
 いただきます、の声がいっせいに上がる。直人が東大女子の一人の膝に座る。食欲のなさそうな主人が、新聞を前に砂糖をまぶした梅干を頬ばりながら茶を飲んでいる。女将の顔がつやつやしているので、理由がわかった。カズちゃんが母親の肩を抱き締める。
「バトンさんたちの踊りが効いたんよ」
 小声でも聞こえてくる。主人が照れくさそうに新聞を開き、
「移籍と退団が本決まりになりましたよ。半田コーチ退団、田宮コーチは東映フライヤーズのヘッドコーチに、葛城さんは阪神タイガースに移籍、小野さんが思い留まってもう一年やることになりました」
「やった!」
「水原さんと小川さんが説得したようです。板東さんは退団、山中さん退団、吉沢さん二軍バッテリーコーチ、堀込退団、金退団、佐々木退団、外山退団、松本退団」
 伊熊は馘首されなかった。
「小野さんが抜けなかったおかげで、戦力維持ですね」
「ほうやね。うちのトルコも、千鶴、メイ子、キッコの抜けを埋めて、ようやく維持できるところまできました」
 女将が、
「維持なんかせんと潰してもよかったんよ。耕三さんは商売熱心なんやから。とっとと楽隠居すればええのに」
「隠居はできん。従業員はみんな生活を抱えとるんやぞ」
「ほんなら、はよ菅ちゃんかトモヨに譲ってボチボチやればええがね」
「五年は譲らん。神無月さん、きょう一時から、東海テレビの中継が入ります。授賞式の時間帯だけですがね」
 トモヨさんが、
「紺の背広に、スカイブルーのワイシャツ、紺のワンタッチネクタイ、茶のローファにしました。ローファはキング堂のが届きました」
「ありがとう。同じ格好で東京にもいきます」
 トモヨさんは、賑やかにしゃべり合いながら箸を動かしているバトントワラーの面々に、
「九時台も十時台も、ひかりは二十六分と三十七分しかありませんよ」
 染井が、
「十時台だと着いてからあわただしくなるので、九時三十七分にします。切符を買う時間を考えて、ここを九時に出ます」
「十一時四十分に東京に着きます。これ、名古屋名物のウイロです。向こうに着いたら、みなさんで召し上がってください」
「ありがとうございます、何から何まで」
 黒屋が頭を下げると、
「こちらこそ。ええ思いをさせていただきました」
 女将が頭を下げた。カズちゃんが微笑み、主人が私にはにかんだ笑いを与えながら茶をすすった。こっそり私に、
「ハブ酒、いらんかったわ」
「おめでとうございます」
 カズちゃんとメイ子がごちそうさまを言って出かけた。厨房を手伝っていた百江はアヤメの中番ということで、ゆっくり箸をとった。賄いたちもトモヨさんやバトンガールたちといっしょに食卓についた。私は百江に、
「土曜日も休日にするのは来年から?」
「一月からの予定でしたけど、日曜日も含めて考え中だそうです。飲食商売なので、土日を目指してくる家族客も多いから、ウィークデイを休みにしたらどうかって」
 女将が、
「なかなか土日は休めんわな」
 主人が、
「羽衣もシャチも、年明けから日曜を全休にするわ」
 千佳子と睦子が降りてきて、食卓に加わった。幣原がおさんどんをした。睦子が、
「神無月さん、ローファ、履きやすいですよ。私たちも部屋で履いてみました。これまでより柔らかくなってます」
 九時まで一時間ほど時間があったので、バトンガールたちはもっぱら千佳子と睦子を中心に話に花を咲かせた。大山が、
「名大にバトンクラブはあるんですか」
 睦子が、
「七月の名大祭で、豊田講堂前に赤いバトンとポンポンを持った三十人くらいの女の子が集合して記念写真を撮ってました。濃いブルーのミニを穿いてました。ほかの大学のバトンだったかもしれません」
 千佳子が、
「あれ、金城大学か南山大学よ。外人もいたでしょう。名大にはまだバトンはないんじゃない。バトンの練習っていつやるんですか?」
 メンバーの一人が、
「たいてい夜です。昼の授業が終わってからの自主練習もよくやります。応援部との合同練習は、日曜日の朝から晩までです」
 ソテツが、
「たいへんですねえ。落第しちゃうんじゃない?」
「それはまずありません。どんな短い時間でもちゃんと勉強しますから」
 イネが、
「アダマいいんだねえ。東大の女の人は、どったらとごさ就職するの?」
 チアガールたちは一日でイネの東北弁に慣れたようだ。みんなで顔を見合わせながら答える。
「官公庁、大学の事務職」
「予備校や学校の教師」
「出版社、NHK、博報堂」
「三菱銀行、三菱商事、野村證券、伊藤忠」
「帝国ホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ」
「松下電器、東芝、ソニー」
「大手の百貨店、自動車会社」
「なんだべ、それ! オラは北村席」
「ここにも就職試験があるんですか?」
「なんもありません。おねげするだげで合格です」
 大笑いするバトンガールたちの横顔を睦子と千佳子がきつい目で睨んだ。イネのウィットを喜ぶ打ち解けた笑いではなかった。明らかに北村席に所属する人びとを嘲笑(あざわら)っていた。主人夫婦もソテツも幣原も、芯から不快そうな顔をした。彼らの代弁をしなければならない。私は、
「生きる場所が永遠にちがうようだね」
 と呟いた。黒屋がギョッとして私を見つめ、
「場所がちがっても、優劣はありません」
「おためごかしはいいんだ、黒屋さん。気持ちはわかるよ。人間という意味で優劣はないでしょう。でも、国民を動かす場所と動かさない場所という意味で、支配・被支配の優劣はある。勝ち抜かないと支配階級にはなれない。でもここの人たちみたいに、劣った被支配の場所にいるのがいちばんいい。勝ち抜く必要がないし、総和の国民ではなく愛する個人とコンタクトし合えばいいだけだから気楽だ。国民なんてシロモノに会ったこともないから、彼らを動かす気にもならない」
 バトントワラーたちは蒼ざめてうつむいた。


         四十五

 私は、
「負け犬の論理だから気にしないでね。ぼくはものごとを規定しない人間です。規定するのは支配場所にいる人間でしょう。彼らの規定では、野球選手なんて敗残者です。そのうえぼくは生まれたときから劣悪の場所を転々としてきたから特級の敗残者です。敗残者のいる場所でしか呼吸できなくなった。だからいまは、そういう場所でホームランを打っているのが楽しいんです。しかし、そんな場所にもローレベルの支配者はいる。……彼らとは首尾よく縁を切りました。そして、彼らが二度と追ってこないように、敗残者のいる場所に逃げこんだ。誤解しないでください、ぼくの言う敗残者というのは、人間としてトップクラスの人たちのことです。唐突な話をするようだけど、ぼくはトップクラスの女にしかチンボが勃たない。あなたたちに勃たないわけじゃない。こちらの場所にいて、しかもトップクラスの人間なら、しっかり勃つ。あなたたちも支配場所にいて、なおかつ男好きのする人気商売をしてるからには、心の底で、自分に勃たない男がいるはずがない、と思ってるはずです。それは甘い考えで、トップクラスの女じゃなきゃ勃たないという男はけっこういるんです。敗残者になれと言ってるんじゃありません。敗残者になってもトップクラスになる素質のない人間もいる。ともかく、所属場所の優劣に関わらず、男を勃たせられない女は不幸です。いずれわかるでしょう」
 染井が、
「……あたりまえのことですけど、被支配者が敗北者とは思いません。でも、東大のほとんどの男子学生はそう思っています。そういう考え方を好む女子学生も大勢います。だからそういう男女は、人間としてトップクラスでないのにおたがいに救われてます。放っておきましょうよ。低レベルの人たちのことをとやかく気にしてもしょうがありません。……神無月さんは思ったとおりの人でした。ますます神無月さんの大ファンになりました。ここにいるみんなもそうだと思います。人生の目標を、男を勃たせられる女になることにします。またイベントのあるときはかならず駆けつけます。そしてこの北村席に泊まらせていただきます。―黒屋さん、私、心が洗われたわ。またきましょうね」
「ええ、呼んでもらえるならぜひ!」
 染井は私に手を差し出し、強く握った。こんな気持ちの高揚は二、三日もすれば薄れるだろうとわかっている。トモヨも睦子も千佳子も薄笑いを浮かべていた。トルコ嬢たちは凍りついたように背筋を伸ばして正座していた。菅野がやってきて、キョトンとしている直人に、
「さあ、保育所だぞ」
 トモヨさんが、
「菅野さん、きょうは日曜ですから、保育所はお休みです」
「そうだった! じゃ、百江さんの蒲団でもぼちぼち運ぶか」
 百江が、
「急がなくても、きゅうじゅうでいいですから。きょうは一日待機して、玄関先の部屋に蒲団や小物を出しておきます」
「了解。神無月さんを納会に送ってからゆっくりやりましょう。必要のない重たいものはそのまま置いといたらいいですよ。どうせ別宅としてとっておくんだから」
「はい、旦那さん、女将さん、ほんとにありがとうございました」
「なんのなんの」
「ええのよ。ぜんぶ和子の気持ちだから。あの家は百江のふるさとやろ。ふるさと捨てたらあかんよ」
「はい」
 黒屋が立ち上がり、
「そろそろ私たちおいとまします。このたびは温かいもてなし、おいしいお食事、ほんとうにありがとうございました。また何かの折にはお役に立てたらと思います。今後ますます神無月さんのご活躍、北村席さまのご繁栄、心よりお祈りしております」
 大山が、
「二十四日のファンクラブサイン会、楽しみにしております。しっかりパフォーマンスさせていただきます。みなさま、これからもよろしくお願いいたします」
 バトントワラーたちが全員立ち上がり、ありがとうございました、と深々とお辞儀をした。きょうも直人が彼女たちの足もとにまとわりつく。染井が抱き上げて、頬に唇を当てた。
 黒屋とバトンクラブの連中を門の外に送り、一人ひとりと握手をする。直人も小さな手で握手した。ソテツとイネが彼女たちを駅まで送っていった。みんなくつろいだ気分で座敷に戻った。主人が、
「ムッちゃん、神無月さんのこととなると、顔つきが変わってまうな」
 睦子がニコニコして、
「郷さんを怒らせちゃった、たいへん、て思って。イネさんを、いいえ、北村席を笑ったんですから! 逆鱗に触れて当然」
「神無月さんは、説き伏せようとして言っとるんやない。自分を負け犬と断って、遠ざけようとして言っとることがようわかった。敗残者はトップクラスの人間か! 神無月さんが言うと真実味がある。胸がいっぱいになったわ」
 女将が、
「そういう気持ちでここにおってくれるんやね。ありがとう」
 私は主人に、
「きょうの式次第はどうなってますか」
「ほいほい、ちょっと待ってくださいよ。一時から、小山オーナー開式の辞、一時五分から、水原監督挨拶、一時十五分から球団各賞表彰式、となってます。中日ドラゴンズ球団の納会ですから、中日新聞の白井社長はコメントしません」
「遅くとも、三時には終わりますね」
 保育所から戻ってきた菅野が聞きつけて、
「あ、それから神無月さん、これ言ってなかったんですが、二十日の木曜日五時から、岐阜の下呂温泉水明館で選手会納会があるんです。ところがその前に、十九日の一時から阪神電鉄さんの最長不倒記念楯授与式があります。翌日の選手会納会に出ると、その翌日二十一日に帰ってきて、その日のうちに東京に出発というたいへんなスケジュールになります」
「二十一日の名古屋出発は夜でいいんでしょう? 授賞式は二十二日だから。だいじょうぶですよ。小川さんや星野さんだってそのスケジュールでいくわけだし」
「そうですか? じゃ、乗り換えを教えておきますね。名古屋駅から名鉄特急に乗って鵜沼まで三十分、鵜沼から途中の美濃太田の乗換えを含んで下呂まで一時間、下呂駅から徒歩五分で水明館ということになります。二時くらいの名鉄にしましょう」
「その一人旅、楽しそうだな」
 女将が、
「江藤さんたちがいっしょにいくやろ」
 菅野が、
「いや、朝から仲間のゴルフコンペの見学でしょう。下呂カントリークラブ」
 私は、
「義理堅い人ですからね。向こうに着いたら、のんびり温泉に浸かって、ゴルフ隊を待ちますよ。球団納会のコンペにも参加して、連続で下呂にもくる猛者もいるんじゃないかな。体力的に無理か。それに球団納会のコンペは、監督コーチ連の専売らしいから」
 主人が、
「二十日はドラフトやから、納会はそのニュースを肴にということになるやろな」
 百江が、
「じゃ、荷物整理に帰ります」
 菅野が、
「一時前に軽トラをレンタカーしていきます」
 睦子が、
「私たちも手伝います」
 十一時。賄いたちが昼めしの準備にかかった。近記れんと木村しずかと三上ルリ子がステージ部屋で花札をしている。ぼんやり眺めていると、菅野が、
「やさしい目をしてますね。余計なやさしさを一つひとつ捨てていかないと、神無月さんの命そのものがもたなくなるでしょう。さ、支度してください」
 トモヨさんが背広とワイシャツとワンタッチネクタイを持ってきた。
「じゃ、三時ぐらいに帰ります。いきましょう」
 トモヨさんに門まで送られる。菅野が、
「帰ってきたら百江さんのところにいきます。一段落したら、ムッちゃんたちが直人を連れて散歩してくれることになってます」
「ありがとうございます。……でも、どうなんでしょう、菅野さん、郷くんは情け心だけでなく、女の人を見つめてることがあると思うんですけど。純粋にぼんやりと」
「はい、景色としてですね。そういうことはよくあります。もう一つは、情け心というのではなく、悼(いた)みの目ですね。ほんとうにかわいそうにという目で見るんです。何でもしてやろうとね。最後に一つ、愛情のある性欲の目です。めったにありません。お嬢さんとトモヨ奥さんと睦子さんにだけ向けます。きょうは悼みの目でした。心配なのは、たとえ悼んでも、使う精力は同じになるということです。ただ、そういう目をすることもめったにありません。でも、その積み重なりを私は心配するわけです」
「郷くんがいたましい目を向ける人はだいたい見当がついています。でも、そういう心遣いがないと、郷くんでなくなるわ」
「はい、仕方のないことでしょう。おもしろいことに、そういう女はまず求めてこないんですよ。それだけにかえって神無月さんに気を使わせることになる。複雑です」
 セドリックに乗りこんだ。
「帰りはタクシーを使うから。三時までには帰れると思う」
「わかりました。気をつけていってらっしゃいね」
 トモヨさんが手を振った。
         †
 名鉄前から錦通に入る。広小路通の一本手前だ。空き地のような小さな西柳公園。名古屋観光ホテルのある錦通には市電が通っていない。東西に貫く道幅四十メートルのものさびしいビル街だ。真下に地下鉄東山線が走っている。堀川に架かる錦橋を渡る。ビル街がつづく。遊歩のための景色がない。帰りはどうしてもタクシーになる。
「タクシーでは、運転手に気を使わずに黙ってればいいんですよ」
「うん。そうだね」
 錦通中ノ町。立派な下園公園の前の名古屋観光ホテルに到着。玄関前で私を降ろしてセドリックが去っていく。ロビーにたむろしていた仲間たちに紛れる。江藤のそばに小野を発見して寄っていった。
「小野さん、よく思い留まってくれましたね!」
「金太郎さんはだれが欠けてもファイトを失ってしまう。そのことを考えたら、たまらなくなってね。でも、もう一年だよ。もう一年、腕がちぎれるまでやる。それで勘弁してくれるかい?」
「はい!」
 握手する。レギュラー全員が小野と握手する。みんな赤っぽいネクタイをしている。案内役に連れられて、三階のホテル最大の宴会場である那古の間に通される。演壇前面の白カーテンに《1969中日ドラゴンズ納会》の横断幕、その下にドラゴンズの二種類の球団旗が垂れている。演壇の袖の大花瓶に、種々の花が茂るように活けられている。会場中ほどに料理人用のカウンターがしつらえられている。演壇下には白布を垂らした七人がけの円テーブルが三十も並べられ、天井に煌々ときらめく大ぶり小ぶりのシャンデリアが垂れていた。
 前の三脚のテーブルには、一卓に二人しか知った顔がいない。左の卓から水原監督と小山オーナー、真ん中の卓には村迫代表と榊渉外部長、右の卓には白井中日新聞社主と宇野ヘッドコーチ。残りの十五人は球団の重鎮だろう、だれ一人の顔にも見覚えがなかった。
 卓上に置かれた名札に従って、私は二列目真ん中のテーブルにつき、江藤、中、高木、木俣、一枝、小川と同席した。左の卓は小野、星野、菱川、太田、江島、伊藤久敏、水谷寿伸。右のテーブルは田宮、半田、長谷川、森下、太田の各コーチ、そして足木マネージャー、下通ウグイス嬢。列の浅いテーブルには、そのほかふだんの親しい顔がすべて揃っていた。中が、
「二百人だ。壮観だろう。球団納会というのは、監督、コーチ、選手、そして関係者全員が集まるんだ。スカウト、スコアラー、トレーナー、ウグイス嬢、球場整備員、ボールボーイまでいる。納会が終わると、シーズンがやっと終わったという感じがするな。二十日の選手会納会は骨を抜く日だから、ふにゃふにゃになろう」
「はい」
 高木が、
「来月中旬になれば契約更改だ。また骨が入る」
 壇端の議長用テーブルのようなものに司会進行係が寄り、
「私、進行役の司会を務めさせていただきます当ホテル支配人××でございます。中日ドラゴンズのみなさま、本日はわが名古屋観光ホテルにご足労いただき、まことにありがとうございます。恒例の中日ドラゴンズ球団納会、今年は十五年ぶりの優勝かつ日本一という最高の成果を携えてのめでたいものとなりました。心よりおめでとうございますと申し上げます。来年に向けてのさらなる躍進への祈りをこめて、充実した会合にしてまいりたいと思います。それではただいまより、昭和四十四年度、中日ドラゴンズ球団納会を催させていただきます。まずは、中日ドラゴンズ球団社長小山武夫さまから開式の言葉をいただきます。小山社長、どうぞお願いいたします」




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