四十六

 拍手の中、小山オーナーが演壇に登った。フラッシュが二発、三発焚かれる。ウエイターやウエイトレスが二百人の前にビールグラスを置いて回る。小山オーナーはビールグラスを手に壇上から会場を見回し、
「みなさん、一年間ほんとうにご苦労さまでした。リーグ優勝、日本一と、滞ることなくつづけてまいった破竹の進撃をここに終え、深い充足感の中にも、さぞ肉体は疲れ切っていることと推察いたします。百三十試合にわたる獅子奮迅の働き、ほんとうにご苦労さまでございました。みなさんの大いなる働きに酬いるに、慰労と感謝の上っ面な言葉ばかりでなく、相応の評価をもって応える所存ですので、どうかご安心ください。就任三年目の若輩球団オーナーとして、何をおいても、みなさんのこの一年の奮闘に心よりお礼を申し上げます。きょうのめでたい会合にあたって、水原監督を迎えた新生ドラゴンズの一年と銘打って語らせていただきます。銘のわりには長い話にならないので、ご安心のほどを(笑い)。―さて、昨年の秋季自主参加キャンプから鋭意指揮を執ってくださった水原監督の指揮のもと、春キャンプからオープン戦へつづく好調な滑り出しを見て、今年はだいぶちがうぞという期待感を高めました。そして、その後の経過はかくのごとく、きょうのめでたい納会に結実しております。水原茂は一貫している。選手一人ひとりの特色を活かして、ファンにその姿を見てもらうというスタイルを貫く。成果をだれかに頼ったり、失敗をだれかのせいにするのではなく、おまえはおまえのやり方でやってみろ、その結果はみんなで共有しよう、と。その自由な基盤を築き上げるために、昨年十一月から首脳陣の一新にとりかかった。口うるさくない人、いじらない人、というのがコーチに求めた彼の条件でした。言ってみれば、その人となりがそびえていて、何もしない人ということであります(大きな笑い)。おかげで、選手個々も自発的に巻き返しの意欲を燃やし、新指揮官のもとで、この一年、生きいきとした気持ちで進軍することができた。その表情はまことに新鮮だった」
 彼がビールグラスを傾けるのに合わせて、各テーブルの動きも賑やかになる。
「勝利に次ぐ勝利。早くも五月までに、前年最下位からの脱出を目指す新体制の船出として、十分な結果が得られることになりました。みなさん、私は思うんですよ。選手の能力を活かし、育てる。たしかに、われわれ首脳陣はそのサポート役としての仕事を徹底します。しかしそれは、お節介口を叩くことではない。選手個々の能力を信じて見守ることだとね。肩が凝ってきましたか? そろそろ話をやめますよ(笑い)。これで最後にしましょう。私は、チームを取り巻く状況の変化も実感しています。昨日、中日球場で催されたファン感謝祭には、主催者発表では三万六千人が詰めかけ、球場は終始熱気にあふれ返りました。こういった明らかな熱い期待感がファンのあいだに広がっている要因について、私は《神無月効果》を指摘したい。やっぱりそうきたか、と思いましたね? 動かしがたい事実なので、そうきました。神無月くん個人を褒めてるんじゃありませんよ。褒めると彼は席を立って逃げていってしまいますから(爆笑)。昨年十一月初旬、水原監督が神無月選手と電撃契約を成功させたときに、フロントにも選手のみなさんにも幸運が舞いこんできたんです」
「そうたい!」
 という江藤のかけ声。
「その日をもって、ファンのわがドラゴンズに対する見方、評価、熱の入れ方が変わってきたものと思われます。加えるに選手のみなさんに同胞愛が芽生えるとともに、野球人としての自意識が再燃し、自己改造の規模が変わってしまった。個々が過去の自分の最高記録を塗り替えていくような規模になった。もちろん塗り替えられなかった人もいると思いますが(恥ずかしそうな笑い)。当然、チーム全体の規模が変わり、ウルトラマン軍団になった(大爆笑)。―しかし、ここで油断せず、怠ってはならないのが、十全な自己改造の継続です。規模の大きいものは、土台の規模も大きく強くしなければならない。その際注意しなければならないのは、無意味な強化のしすぎで、せっかく作り上げた土台にヒビを入れることです(納得の笑い)。中日ドラゴンズは、かくのごとく、天才ウルトラマンの集まりなのです。ウルトラマンはがむしゃらな鍛錬をして足腰を痛めることはしません(大爆笑)。根底の才能がちがうので、それを信頼して要領よくエネルギー補給をするのです。人びとを救済する使命を決して忘れないからです。来年も、華麗で、大きくて、強い姿をファンにお見せし、名古屋市民を筆頭に全国市民を救済すべく、全力で戦っていきましょう。以上」
「いよう!」
「そりゃ!」
 フラッシュ、フラッシュ。拍手と笑いがやまない中、司会者が、
「抱腹絶倒で、意義深いお話、ありがとうございました。では、ここで、中日ドラゴンズ監督水原茂さまより、ひとこといただきます」
 グラスに給仕係たちの手で手際よくビールがつがれていく。水原監督はフラッシュに打たれながら壇上に立ち、
「一年間お疲れさまでした。じゃ、ほんとにひとこと。来季の目標を球団始まって以来の二年連続セリーグ優勝、球団史上初の連覇、ここ一本に絞りたい。仲よきことは強きことかな。仲よく肩を組み、抱き合って、もう一度だけ優勝しよう。来年も同じことを言わせてください。以上」
「オォォ!」
 大拍手。フラッシュ。フラッシュ。
「三連覇!」
「五連覇!」
 の声が上がる。江藤がグラスを手に壇の裾に立ち、
「ドラゴンズ、愛しとるぞ、みんな、愛しとるぞ、離れんたい、カンパイ!」
「カンパイ!」
 みんな直立不動になる。水原監督と小山オーナーがグラスを打ち合わせ、宇野ヘッドコーチと白井社主がグラスを打ち合わせる。中央カウンターから次々と料理が運びこまれる。
「それでは、いよいよ球団制定各賞の授与にまいります。どうぞ、お食事をつづけたままご注目ください。中日スポーツから昇竜賞正賞の授与。昭和三十七年より、江藤慎一、柿本実、江藤慎一、江藤慎一、中利夫、小川健太郎、木俣達彦とつづいてきて、今年度第八回昇竜賞正賞は、神無月郷選手です!」
 歓呼の声、拍手喝采。私は壇上に進み出て、むにゃむにゃ賞状を読み上げた白井文吾中日新聞社社長から小さな楯と、賞状と、金一封を手渡された。にこやかな顔で強く手を握られ、抱き寄せられ、背中を叩かれた。
「神無月選手、ひとことどうぞ」
「愛情いっぱい、胸いっぱい。泣きながら、倒れるまで、粉骨砕身します」
「ワシも!」
「俺も!」
「つづいて昇竜賞新人賞は、星野秀孝投手です!」
 むにゃむにゃ、楯と賞状と金一封。ひとことどうぞ。
「恋の奴隷です」
 大爆笑。三十勝! 沢村賞! のかけ声。
「昇竜賞特別賞は小川健太郎投手、中利夫選手、高木守道選手、木俣達彦選手、菱川章選手です!」
 むにゃむにゃ、楯と賞状と金一封。ひとことずつどうぞ。
「フロントのおかげで命拾いして、ウルトラマンのメンバーから外されずにすんだ。来年も金太郎さんといっしょに野球できるよ」
 大拍手。指笛。ギャンブル投法やめるな! ギャンブルもやめるな! 
「膝に古傷抱えたウルトラマンですが、水抜きとサポーターでもう少しヒーローでいようと思います。ウルトラマン大将の言葉に慰められながらね」
 日本一! 一番センター中! あんたが大将!
「俺、ほかのチーム知らないけど、これ、プロ野球のチームじゃないでしょ。細胞蘇生工場? 何なの。へんなやつばっか。おかげで大変身させられちゃったし」
 爆笑。モリミチ! の連呼。おまえがへんなやつだ!
「俺、縁の下じゃなく、縁の上に出てビュンビュンバット振るからね。来年は目標、野村越え五十三本。人間らしいでしょ。どんな強烈なやつがそばにいても、人間らしい基準を失っちゃだめよ。超人相手に下手なライバル心を起こすと、墓穴掘るから」
 スモール金太郎! 大金太郎に跨って操縦しろ!
「ようやく混血パワーの使いどころを見つけました。星野と同じく恋の奴隷が、来年五十本を目指します。神無月さん、愛してます」
「よ、よ、よ!」
 いい男! 絶倫! 金太郎、ケツ貸してやれ! わけのわからないかけ声が上がる。フロントの三つの卓がうれしそうに笑っている。
「つづきまして中日ドラゴンズ球団から贈られる殊勲賞は、江藤慎一選手です!」
 むにゃむにゃ、楯と賞状と金一封。小山オーナーが手渡す。ひとこと。
「ワシャ、奴隷どころやないとよ。金太郎帝国と心中するばい。水原さんが連覇してくれ言わっしゃるなら、それにも命を懸くるったい。とにかく、ワシャ、愛を知りそめし男やけん、めくらめっぽうがんばるばい。気持ち悪かろ」
 大爆笑。気持ち悪いぞ! 俺も愛してるぞ! 
「最後に、中日ドラゴンズ球団から贈られる努力賞は、太田安治選手です!」
 むにゃむにゃ、楯と賞状と金一封。小山オーナーが手渡す。太田は演壇を降りて司会からマイクを奪い、
「俺、夢の中にいます。みなさん、ありがとうございます。中学で神無月さんに遇っていなかったら、この夢は見れなかった。神無月さん、ありがとうございます。来年、四十本打ちます」
 絶句。また泣きやがった! 泣き虫! 江藤二代目! 司会者が、
「中日ドラゴンズチームのすばらしい結束力を見せていただきました。私ひどく感激しています。高木さんの気持ちがよくわかります。ドラゴンズメイトは何者なのでしょう。フロント、監督はじめ、みな変わり者です。優勝など当たり前に感じられて、一年間の大進撃がかすんでしまうほどです。期待などしなくても、来年もまた優勝でしょうね。これでめでたく球団納会の式次第は終わりました。一時間ほど余裕がございます。みなさまご自由に会食なさっておくつろぎください。お話なさりたいかたは、どうぞマイクのほうへ」
 途中だったコース料理がこつこつ運びこまれる。各所でフラッシュが光る。賞を受けなかった人たちが、一人ひとりマイクの前に立ってしゃべる。千原が、
「私、秋季キャンプに自主参加します。ここ一、二年が正念場だと思いますので。東京の靴屋は継ぎたくないのでね。きょうのみなさんのお話は、私のような選手には遠いお話なんですよ。ウルトラマンには百年経ってもなれない。しかし、彼らの通り道をお掃除してあげられるくらいの力をつけなければ、軍団の行進に参加できません。がんばります」
 徳武が、
「私、来年より、現役を退き、二軍のコーチになります。よろしくお願いいたします」
 森下コーチがグラス片手に、
「ワシらフロントは、今夜球団納会ゴルフに出発する。長野白神温泉。選手諸君は二十日の選手納会で楽しんでくれ。だれか金太郎さんの食わず嫌いを治してやってくれよ。彼の愛する水原監督はゴルフの達人なのになあ」
 江藤省三が、
「俺も秋のキャンプにいきます。新人たちといっしょに揉まれてきます。兄の名を辱めないようがんばります。来年もかわいがってください」
 伊藤竜彦が、
「十一年間ユーティリティに甘んじて、変身できなかった。同期が慎ちゃんというのも情けないかぎりです。器のちがいとあきらめずに、一踏ん張りします」
 水谷寿伸が、
「十五勝挙げてエースと呼ばれたのは四年前に一度きり。ノブヒサをヒサノブと改名した年です。気の持ちようなのかなあ。俺も慎ちゃんや竜ちゃんと同じ昭和三十四年組。めげそうになるけど、先発二十回を目指してがんばります。先発すれば、金太郎さんたちが大量点を挙げてくれますから」
 葛城が、
「阪神移籍決まりました。来年から敵になりますが、よろしくお願いします」
 何をよろしくなのかわからない。半田コーチが、
「みなさーん、二年間ありがとね。イッショ忘れないよ。今度優勝したらハワイいらっしゃい。きれいなとこ、おいし店連れてくよ。ドラゴンズすごいチーム、ヒトたちすばらしい、それいちばんね。才能、ヒトについてくる。ラフプレイだめよ。才能関係ない。ササヤキだめよ。ずるさ、ヒト関係ない。金太郎さん、きれいなヒト、まちがいない」
 小野が、
「三十七歳。もう一年、雑音を気にせず、みんなと野球をやります。みんなが好きです」
 デザートが出、コーヒーが出、会話が近くにいる人との雑談に流れる。
 やがて三々五々フロントから順に引き揚げていき、選手たちも控え組からおのずと散会になった。堅い服装に反して、拍子抜けのするほど肩の張らない気楽な会合だった。たぶんほかの球団の納会は、まったく異なったいかめしいものにちがいない。水原監督はじめコーチ連が主だった選手とあらためて握手を交わした。私は見知らぬ長老たちからしきりに握手された。すべてに笑顔で応えた。下通とも固く握手した。小山オーナーが、
「これ、約束のプレゼントだよ」
 箱包みを差し出す。
「読書家の金太郎さんに、牛革のブックカバー三点セットだ。文庫、新書、単行本用。最高級品だよ。長く使える」
「ありがとうございます。読書が楽しくなります」
「それだけじゃないよ。北村席の庭に砂場つきのブランコを敷設する注文を出しておいたからね。先日の会合で、そんな予定のあるという話をご主人からチラと聞いたのでね。すでに席のほうには連絡しておいた」
「ほんとにありがとうございます。来年もがんばります」
「ふつうにやりなさい」
 仲よきことは強きことという哲学は浜野百三にない。彼が出席していたら不愉快な納会になっていただろうと思った。ドラゴンズの円卓の中にも、甘っちょろい集いだと感じた連中は相当いたにちがいない。気楽さよりも厳格さを好む無能な人間は多い。何を覚悟するのかわからないが、気楽さのせいで〈覚悟〉の気持ちがスカされるからだ。私は無能な人間を信じていない。彼らはどんな悪さを仕掛けてくるか知れない。面倒くさい彼らに逆らうつもりはない。多勢に無勢になったら、潔く撤退しようと思っている。
 二十日の夕刻までに下呂温泉に到着することを約して、ホテルの玄関でみんなと別れた。
水明館ちゅう旅館ばい。下呂駅から歩いて四、五分やけん、面倒はなか」
「わかりました。ちゃんといきます」


         四十七

 四時に近い。ビジネス街に囲まれた下園公園に入る。すばらしい緑だ。紅葉している木もあり、中に桜の枯れ木も混じっている。生垣に椿の淡いピンクが美しい。遊具などの小道具はなく、石で縁取られた小池があるきりだ。石の小橋を渡り、大きな屋根つきの四阿のベンチでしばらくぼんやりする。ところどころのベンチで休憩中のスーツ姿が煙草を吸いながら、秋の名残を楽しんでいる風情だ。名古屋観光ホテルを見上げる。大きい。歩いて帰った。三十分もかからなかった。玄関の戸を引くと、百江が真ん中になって出迎えた。
「引っ越し終わったの?」
「はい、すっかり。どうでした、納会は」
「くつろいだ会合だった。みんな素敵な人たちばかりだ。はい、これ、昇竜賞の楯と賞状と賞金。お父さんに渡して」
 主人と菅野が、
「やっぱり昇竜賞でしたか! 菅ちゃん、これすぐファインホースに飾って」
「はい」
 菅野が持っていく前に、しばらく座敷のみんなで金竜の浮き彫りの楯を見つめる。トモヨさんが、
「五十万円の小切手でした。机の抽斗に入れときます」
「そんなことしないで、お父さんに引き出してもらって使って。余ったら抽斗にブッこんどいて。直人は?」
「四時ごろ散歩から帰ってきたんですけど、遊び疲れたみたいで、さっき寝てしまいました。七時ごろ起きるでしょう」
 私は上着を脱ぐと縁側にゴロリと横たわった。トモヨさんがワンタッチネクタイを外しにきた。
「人中から戻るといつも疲れた顔。東京が思いやられますね」
「こんな顔で飛島の会合に出られないな。明るい顔をしたいんだけどね。明るくしようとすると、どこかに力みが出る。こんな顔からよくみんな去らないね」
「去ってほしいんですか」
「まさか」
 主人が、
「あしたからブランコを作りに作業員が入ります。屋根つきで下が深い砂場ですから、頭から落ちても安全です」
「このプレゼントには驚きました。ブックカバーにも溜め息が出ましたけど」
 カズちゃんたちが戻ってきた。
「あ、暗い顔。表彰されるたびにそんな顔してたらだめよ。まだまだ先が長いんだから」
「うん」
「頭を切り替えなくちゃいけないわ。浮ついた風景が目にこびりついてるのよ。野球場とはぜんぜんちがう風景なんだから、早く慣れなくちゃ」
 女将が猪口一杯のハブ酒を持ってきた。
「はい、滋養強壮」
 クイと飲む。菅野がファインホースから戻ってきた。
「しっかり飾ってきました。あれ、どうしました? みんなで心配顔しちゃって」
 トモヨさんが事情を言う。菅野が私を見て、
「だいじょうぶ、すぐに元気になりますよ。疲れたんですよ。人混みが苦手だから」
「ぼく、疲れてませんよ。はあ、食欲が出てきました」
 女将が、
「あら、効いたわね」
 主人が、おお元気出た、と笑い、周りを見回して、
「うへ、みんな目を光らしとるが。こりゃいかん」
 ドッと女たちが笑う。菅野は一座を見回し、うーんと顔をひねる。
「有志を一人に絞るのは難しいですね。女の戦争が起こる。戦争なんかされた日にゃ、神無月さん、ますます疲れてしまいますよ」
 またみんなでワッと笑う。トモヨさんが、
「喉から手が出ますけど、そろそろ忙しくなる時間ですから、ちょっと遠慮しときます」
 カズちゃんが、
「私は忙しくないけど、戦争したくないから」
 女たちがうなずき、睦子と千佳子がクスッとわらった。私は、
「食欲ですよ。そっちのほうじゃありません」
 主人が、
「とにかく、神無月さんの顔色がよくなったんはよかった。選手納会は下呂温泉ですな」
「二回の乗換えが面倒くさそうだけど、なんとかなるでしょう」
 素子が、
「それもあったんやな、浮かん顔しとったのは」
 菅野が、
「そうですか。一人旅は楽しそうだと言ってましたけど、やっぱり心細いですよね。自分じゃやりもしないゴルフコンペにいくのも気が重いし。江藤さんとの約束を果たすためだけにね。前日は阪神電鉄の表彰ときたら、そりゃ気持ちが沈むわ」
「とにかく、イベントに年々自分を慣らしていくことにします」
 菅野が主人の顔を見た。
「菅ちゃんいってこい。真っすぐ北へ走って三時間かからんやろ。一泊で家族旅行してこんか。秀樹くんは休ませればいいだろ」
「しかし、木金と休むことになると、あいつ、まじめなやつなので、たぶんいやがりますから、私だけでいってきます」
「ほうか」
「じゃ、一泊の予約を入れます。下呂温泉水明館ですね」
「はい。車でいってくれるんですね。ありがとう」
「たった二時間半です。いい景色はないですが、話しながらいきましょう。帰りもごいっしょします」
         †
 十七日月曜日は半日『牛巻坂』にかかりきった。あまりにも上天気なので、昼下がり、登校前のキッコと、たまたま授業のなかった睦子を誘って散歩に出た。笹島のガードをくぐって名駅通の交差点に出、一筋向こうの細道に曲がりこんだ。
「この道は初めてだな。博士の睦子がいるから安心だ」
「柳街道です。愛知県西部の佐屋から熱田の宮までを結ぶ佐屋路の一部で、この笹島から岩塚まで通ってます。笹島の向こうの終点は広小路の柳橋です。飽きるまで歩いてみましょう」
 キッコが、
「神無月さん、きのうめちゃくちゃ疲れとったでしょう? 千鶴ちゃんに聞いたんやけど、厨房に四十七歳の独身の人がおって、若いころから、あそこ触られても腕や脚に触られたみたいに感じるくらいで、それどころかオマメちゃんもイッたことがないんやて。ついとるものはいっしょやし、あたしらみたいに感じすぎてバタバタせんさかい、そういう人とやれば神無月さんも疲れないんやない? ほんとに疲れとるときは、そういう人とやったらええと思わん?」
「からだがピッと緊張するね。まったくイカない女の中に気兼ねなく射精はできないと思うよ。ひとことも口を利かない、これといった反応もしない、最終的にイカない、そんな女とやったら、神経くたくたになっちゃう。自分の息しか聞こえてこないんだから」
 睦子が、
「性欲しかないわがままな男の人は、それでいいと思ってるんじゃないかしら。そんなマネキンのような女の人としたら、自分だけ自由に昇り詰めて、早かろうと遅かろうと自分の好きな時間をかけて射精して、心地よい解放感を味わうことができるでしょう?」
「それじゃ、女のからだを大切に神聖な気持ちで抱けないな。何の神秘もない、ただの穴のお化けだもの」
 キッコが、
「その人、お医者さんに診てもらったら、冷感症ゆう病気で、イク神経が切れとる先天的なものやそうや。抱いてもらってうれしいという気持ちはあるし、その気持ちだけで濡れるらしいんやけど、あそこはただ棒がいったりきたりしてるように感じんねんて。千鶴ちゃん、その人のこといつも気の毒に思っとるてゆうとった」
 ビルの群れを抜け、笹島ガードの手前の歩道橋を渡る。
「このガードの上を五本の鉄道が通ってるんだ。知ってる?」
 キッコが、
「名鉄、東海道本線、新幹線、中央本線……」
「あと一本、名古屋港に通じる貨物線がある。名古屋から出る中央本線は正確には中央西線と言うんだ」
「中央西線?」
「東京から高尾、甲府を通って長野の塩尻までいくのが中央東線、塩尻から中津川を通って名古屋までくるのが中央西線」
 サイクルショップの左手のガード沿いの道へ入り、駅西では見慣れた感じの民家と商店とビルが入り混じった道に出る。廃屋もある。ふつうの二車線の通りに出た。睦子が、
「これが柳街道です」
 右折して、併行する太閤通を感じながら歩く。睦子が、
「その人、抱かれたいという気持ちがあって、きちんと濡れるなら、きっと冷感症じゃないわ。不感症でもない。セックスに対する罪悪感だと思います。親が宗教人だとか、教師だとか、人に言えない性的な体験があるとか、お気の毒な事情があるんでしょう。徐々に治していくべきだと思う。かならず治るわ。やっぱりからだが感じないのは、女として不幸だから」
「相変わらずやさしいこと言うちゃうん。ひょっとして、子供堕ろして、手術失敗の後遺症ちゅうことはあらへんか?」
「あるかもしれません」
「その人、聖母マリアかもしれないぞ。マリアさまにはたぶん快感はないだろうから」
「茶化しちゃだめよ、郷さん」
「うん、ごめん」
「男は相手が感じないと、愛せないけど、セックスはできます。強姦だってできる生きものなんだから。……もちろん、郷さんはそういう人じゃありませんけど」
「女も、男は感じんでもええさかい、自分だけ感じたくて、ただこすってほしいちゅうことはあるんちゃう? 張り型や電動こけしみたいに」
「愛を知らないうちはそういうこともあるでしょうね。知ったらそんなことぜったいしなくなるわ。愛してる人が感じるのといっしょに感じないのは空しいもの」
「そのとおりやで。でも、その人は電動こけしも役に立たんへんのやね。気の毒やわ。オマンコの気持ちよさは、口では教えてあげられへんさかい」
「男の人はその人としたいと思わないでしょうね。心で応えてあげられるとも思えないし……。やっぱりお気の毒」
「中村年金事務所、古アパート、駐車場、フラワー薬局か。神社仏閣はなさそうだ」
「神無月さん、ぜんぜん聞いてへんちゃう」
 睦子が、
「二月一日までほぼ二カ月、野球をやらなくなるんですね」
「うん、寒さは筋肉に負担かけるから故障のもとだ。観客も寒いスタンドはがまんできない。冬は家に閉じこもっているにかぎる。おや、スサノオ社。ここに出るのか。ここを右にいけば笈瀬通だよ」
「ですね」
 睦子がニッコリ笑う。小病院、床屋、クリーニング店、学習塾、呉服と染物、建築中の家、人の住んでいる遊郭ふう古民家。
「くねくねしてるでしょう? 百曲がり街道とも呼ばれてるんです」
「ムッちゃんなあ、学者さんになったあとも、ずっと北村席に住むん?」
「はい。私たちが自立してそばにいることが、郷さんの安心のもとです」
「そうでんなあ、あたしもそうする。あたしらで旦那さんたちを看取ることになるね」
「ええ。それまでご夫婦に長生きしてもらいます。千佳ちゃんは大門に店舗を借りて会計士事務所を開くと言ってました」
 環状線に出る。
「歩いたなあ!」
「右に曲がって昭和通りまでいきましょう。昭和通りを真っ直ぐ戻れば椿神社に出ます」
 環状線沿いに平坦なビルの街並を歩いて、駅西銀座の看板に出た。この商店街の一本道が昭和通りだ。
「いつもこの道を走って環状線を越えていくんだ。パナソニック愛電館みやじま、キッチンマザー弁当惣菜、質鈴木か。やる気なさそうな店ばかりだなあ。でもぼくの後援者たちだ。ありがたく思わないと」
 私は二人に問いかける。
「……ねえ、道を眺めていちばん意識しないのは、何?」
 キッコが、
「……電信柱と電線」
「舗道、屋根、並木、郵便受け、掛け渡した小旗……」
「家の戸、通行人、車」
「ぼくは、空。地球の書割。空は意識しないと見ない。地面に近いものは、かならず意識してる。ぼくはいつも店の看板や表札を意識するだけじゃなく暗記しようとしてるくらいだ。それでも覚えられないけどね。……空はめったに見ない。と言うか、気づかない。だからぼくはあえて見るようにしてるんだ。暗記しなくていいしね。いつも意識しないうちに包んでくれてる。まるで愛してくれる女だ。愛し返さないと。……地上のものはすべて知識のもとになる。空は、太陽や星や月を研究する天文学者の目で見なければ、色以外何もない。シンプルな神秘の中で生きてることをひしひしと感じさせてくれる」
「それでいつも球場の空を見てるんですね」
「うん。女に抱かれてる気持ちでね」
 キッコが腕を取ってくる。
「一生抱いてまっせ」
 睦子ももう一方の腕を取った。


         四十八 

 出店が賑やかになる。
「やる気ある感じのお店ばかりになってきたわ」
「店先にグダッと置いてある品物を取っ払わないと、本気が見えないね」
「あれもやる気のあるうちです。売ろうとしてるんですから」
「なるほど。戸を閉めてる店よりはやる気があるわけだ」
 椿神社に出る。左は百江の家とアイリスと則武の家と文江の家、右は牧野小学校、牧野公園、北村席。
「百江の家を見てから、アイリスに寄っていこう」
 石垣塀に沿って歩き、百江の家を眺める。
「立派な家だよ。取り壊さなくてよかった」
 二百メートルほど歩く。アイリスは九分の入りだった。レジのメイ子に目で合図し、店内に入る。ヒャッという声が上がったので、カウンターに手を挙げ、すぐに窓際の観葉植物の陰の席へいく。十人に余る男女の店員のだれもが、ひどく統制のとれた動きをし、品出しもスムーズにやっている。カウンターに黒いベストを着たカズちゃん、素子、南山の三人が並んでいる。きびきび忙しそうで、愛想もいい。改築した奥のガラス張りの大きな厨房は、調理の活発な様子がすっかり見えるようになっている。品出しのカウンターも広い。その右奥は店員用の賄い部屋のようだ。スッキリしたお仕着せを着た女の店員がやってきて、水を置く。
「いらっしゃいませ、神無月さま。写真、サインはお断りしております」
「ありがとう。子供はいいよ」
「わかりました」
「あたし、ナポリタン」
「私も」
「ぼくはミートソースの大盛り。混んでるみたいだから、ゆっくりでいいです」
「お飲み物は」
「じゃ、先にサントス三人前ください」
 何人かの子供客が近づいてきて、植物の陰からシャッターを押す。サインは求めてこなかったので気抜けした。よほどきつく戒めているのだろう。男の店員がコーヒーを運んできた。三枚の色紙とサインペンを持っている。
「申しわけございません。店長が神無月さまの周りにたむろさせちゃいけないとおっしゃるので、お子さまの色紙だけお持ちしました。これが三人の名前です」
 メモを見ながら、その場でサインして渡した。
 うまいナポリタンだった。睦子とキッコもすばらしい笑顔で食べた。睦子が、
「いま、ノートにリアルタイムの名古屋弁をまとめてるんです。大学でだいぶわからない言葉にぶつかって」
「あたしもや。大阪弁とぜんぜんちゃう。〈おそがい〉とか、〈こそばい〉ぐらいならわかるけど、だましかる、まあひゃあ、もーはい、いざらかす、なんてのはわからん」
 私は笑いながら、
「それはキワメツケだね。だましかるは黙ってる、まあひゃあはもうすぐ、もーはいはもう、いざらかすは動かす。小学生のころよく聞いたな」
「言葉の接続から、デラすごい、鉛筆がトキトキ、みたいにすぐわかる言葉も多いんですけど、放課とか、つるとか、しんで、なんかは、びっくりしました」
「放課は放課後のことじゃなくて休み時間、つるは運ぶ、しんではしないで。一時間目の放課に弁当食った、机つり係、そんなことしんで。でも、そこまで極端な言葉はめったに使わないよ。ふつうは標準語だね」
「ケッタ、て知っとる?」
「自転車だね。それもまず言わないなあ。えびふりゃあとか、ジャンケンの意味のいんちゃんとか、坊さんの意味のおっさまとか、ぜったい言わない。どえりゃあみたいな、にゃあにゃあ言葉は死語だね。うん? 使うのもあるか、はよやりゃー、いいかげんにしときゃー、なんてのは使うね。馬鹿の意味のタァケ、もうだめだのマァカン、遅いよのオセェテ、放っといてのホカットイテなんかもよく使うな。名古屋弁はとうとうマスターできなかった。ノートなんかまとめずに、ホカットケばいいんじゃないの」
「それもそうなんですけど、古代語に繋がる言葉もあるんじゃないかと思って。みゃあ、とか、ぎゃあなどという語尾は古代からあったことがわかっていますから」
「へえ、さすが」
 明るく笑い合う。キッコが、
「あ、そろそろ、あたし、学校いくわ」
「まだ四時になってないよ。六時にいけばいいんじゃなかった?」
「数学の宿題まだやってなかったさかい、学校に持っててやる。ムッちゃん、ゆっくりしていき。じゃ、バイバイ。神無月さん、ごちそうさん」
 キッコの去ったあと、睦子と見つめ合う。
「一時間ぐらい、則武でゆっくりして帰ったら?」
「はい。……していいですか?」
「そのつもり」
 メイ子に金を払い、カウンターのカズちゃんと素子に手を挙げて店を出る。
         †
 ついさっき耳に聞いて知っただけの不感症の女を思いながら、カズちゃんに負けないくらい愛している女の〈口で言えない気持ちよさ〉をひもとく。
「最愛の女だから、思い切りいやらしいことをするよ」
「うれしい、うんといやらしくしてください」
 睦子はキッチンテーブルに左足を載せて右足で立ち、椅子の背板をつかんで開脚した格好で屈む。秘部を全開にして観察する。美しい形の陰毛はちょうど見えない。この一年で少し色づいた包皮と陰核。相変わらず形のよい二枚の小陰唇。清潔にすぼんだ肛門。すべて丁寧に舐める。ブルッ、ブルッとふるえる。
「……ください」
 挿し入れ、大きな乳房を片方だけ握りながら、ゆっくり抽送する。睦子はふるえるからだを右脚だけで支える。
「ああ、郷さん、愛してます、死ぬほど愛してます、イク、ううーん、イク!」
 私は右手を腹に回して彼女が崩れ落ちるのを支え、数度痙攣をさせる。結び合ったまま両腿を持ち上げて椅子に座り、この数年で身についた怪力で上下させる。
「クク、気持ちいい! ああ、好き好き、郷さん、死ぬほど好き、イキます、イクイクイク、イクウウ!」
 睦子は愛液を小水のように飛ばす。ガクンガクンと揺れるからだをひねって懸命に口を求める。背中に密着しディープキスをしながら、そのまま突き上げる。
「イ! イクウウウウ!」
 腹を抱え下ろして床に四つん這いにし、二つの乳房を握りながら抽送する。
「ププ、イクイクイクイク、イック!」
 睦子は逃げない。尻に意志が見える。猛烈な緊縛とうねりがくる。私の限界もくる。
「睦子、イクよ!」
「はい、あああん、郷さん、郷さん、愛してます! イクイクイク、イクウウウ!」
「イク!」
 睦子は両掌を床に突き立てて自分の重みを支え、尻をピッタリ押しつけた。すべての律動を受けて悶える。
「グッ、グッ、イグ、郷さん、好き、離れない、好き! イイックウウウ!」
 尻が尋常でなく跳ね上がったので、引き抜いて抱きかかえ、床にゴロリと一体になって横たわった。向き合い口を吸う。涙で顔がぐっしょりだ。睦子は片脚を私の腰に掛け、陰茎目がけて何度も愛液を吐きかけた。
「好き、死ぬほど好き!」
「ぼくもだよ、睦子、死ぬまで離さないよ」
「いっしょに死にます!」
 涙にじっとり脂汗が混じっている。
「苦しかっただろう」
「いいえ、郷さんになら殺されたって本望です」
 睦子の呼吸が安らぎ、
「シャワー浴びましょう。あとで床を拭き掃除します」
         †
 二人で北村席へ戻りながら、
「その人、こんな歓びを知らないなんて、なんてお気の毒なんでしょう」
「知らなければもともとないのと同じだから、気楽に生きられるよ。そういうノンビリした人生にわざわざ茶々を入れて教えてあげる必要もないし、気楽な人を気の毒がることもない。ぼくも、物理学や経済学を教えてもらいたくないなあ」
「でもこれは知識じゃなくて、本能の歓びですから」
「……そうだね。いつか力を貸してあげられればいいけど、不能や、ふにゃチンじゃ力を貸してやれないな。ビンビンになるにはやっぱり気に入らないと無理だから」
「ソテツさんのときは……」
「うん、彼女のことを満点で気に入ってたわけじゃないから、幣原さんに手伝ってもらった。幣原さんが思い切り乱れてくれたので、ソテツは自分が不道徳なセックスをしていると感じたと思う。でも自分と同じ女の本能的に淫らな様子を見たおかげで、かえってセックスの〈罪悪感〉が消えて、すっかり解放されたようだった」
「どれほど奔放に振舞っても、セックスをするときはだれにでも罪悪感はあるんです。郷さんにも、和子さんにも、私たちにも。……人間は罪の子ですから、その意識こそ本能かもしれません。人間は奔放に生きようと、禁欲的に生きようと、かならず死にます。その自覚があれば、生きているあいだのどんな罪でも背負えます。身の滅び方は、自殺か、病死か、殺されるかしかないので、私はどれにも心を構えて生きてます。郷さんのそばにいられるなら、何も怖くありません」
「不感症の女を救うことは、睦子にとってどんな意味があるの?」
「意味なんかありません。気の毒な人が、せっかく身近にいるんですから、救ってあげたいと思うだけです」
「〈せっかく〉か―やさしい女だね、睦子は」
 この期に及んでも、彼女の母親のことは言えなかった。
「そろそろ女の人の数が郷さんの手に余ってきましたね。あとどれくらい増えるんでしょう?」
「もうこれ以上は、誠実に対応できない」
「誠実って?」
「気に入った女と、きちんと会話をしながら、死ぬまで交わるってこと。通りすがりの女とは交わらない。チンボを勃てるのがもったいない」
「通りすがりなのに気に入ってしまったら?」
「そんな簡便なチャンスは利用しない。カズちゃんと睦子とトモヨさんにそっくりな女がいたら、じっくり時間をかける。不可能だな。もう現れない」
「うれしい……。郷さん、夕方の空がきれいです」
 見上げた。
「ほんとだ!」
         †  
 夕食後、直人と菅野と庭に出て、ブランコの具合を見にいった。門を挟んでファインホースとちょうど反対側の木陰に、おっと思うほど立派なブランコが出来上がっていた。木枠の砂場も目の細かい多量の砂でしっとりこしらえられていた。三種類の尻の幅のブランコが、間隔をかなりあけてぶら下がっていた。いちばん小さいブランコに直人を乗せて揺すってやった。
「じぶんでやる!」
 薄青い空に細かい星が瞬いている。
「お星さまだよ」
 空を指差しても直人は関心を示さない。地上の遊びに一心になっている。空は暮らす場所ではない。だれも関心などない。だからこそ関心を注いでやらなければならない。
「すがおじちゃん、ゆすって!」
「あの一つひとつの星のことは何も知らないけど、空は美しいね」
「はあ、そう思います。私には空を見ている神無月さんのほうが美しく見えますけどね」
 直人のブランコを揺すってやりながら言う。サンダルを履いた睦子と千佳子がやってきて、いちばん大きいブランコに交代で乗った。
「なつかしい!」
 千佳子が叫ぶ。
「私も小学校以来!」
 睦子が叫ぶ。二人裸足になって砂の上を歩く。
「気持ちのいい砂!」
 直人も真似をして裸足で歩く。菅野はひたすらニコニコしている。心配してトモヨさんがやってきた。直人が靴に砂を入れだした。
「さ、直人、おててパンパンして、またあした遊びましょう」
「うん!」
 私は直人の足の裏をはたき、肩車した。玄関に入ると直人が座敷の科学絵本へ走っていった。最近トモヨさんが買い与えたお絵かきボードや風船やシールには見向きもしない。イネがカンナのハイハイの面倒を見ている。寄っていって仰向けに寝そべり、しばらく腹の上で遊ばせる。顔のほうに這い昇ってきた。よだれがあごに落ちた。腕で拭いながら、
「菅野さん、あの砂場の逆方向から滑り台を据えるんだね」
「はい。今週中に完成します」



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