七十一

 節子は近寄ってきて、私のだらりとしたものを握った。
「わあ、グランツが大きい」
 その意味は察することができた。カズちゃんより乾いていて、遠慮のない言い回しだった。私も立ったまま遠慮なく指を彼女の陰部に差し入れ、カズちゃんの構造を思い出しながら探った。そうされながら節子は私を抱き締めた。襞の様子はよくわからなかったけれど、全体に水気が多いように感じた。クリトリスらしきものに指先が触れると、かすかなため息が漏れた。突起が奥に引っこんでいる感じがした。そこを刺激しつづけていても、一本調子のあえぎ声を上げるばかりで、彼女に高潮が訪れる様子はなかった。
 指を離すと節子は私をそこに立たせたまま、自分を見てほしいというふうに、みずからベッドの上に仰向けになった。窓からの淡い光に顔のこちら側が陰に沈んでいる。臍から下の下腹が形よく盛り上がり、陰毛の量の多い丘がそれと比例するようにプンと突き出ている。私はたたずんだまま、黙ってその全身を見つめていた。節子は私のほうを見ないように窓を向いていた。私は、その丸い美しい腹と、隆起した二つの乳房と、陰毛のシルエットを眺めていたが、触れようと思わなかった。ひたすらカズちゃんの裸身を思い浮かべた。彼女はみぞおちのあたりに手を組んで待っていた。私がゆっくり近づくと、彼女は顔をこちらに向け、私の性器を見て、かすかに息を呑んだ。それはいつのまにか天を向き、包皮の先からしっかり亀頭の全身が張り出していた。節子の唇がくっきりと直線を引いた。広い額とふくよかな頬が青白く見えた。節子は気を取り直したように、
「キョウちゃんは、きれいな子ね。申しわけないわ……」
 彼女は私の性器に手を触れようとしなかった。私は屈みこんで、彼女の茂みのいただきに唇を触れた。それから彼女にかぶさるように跨ぎ越え、窓側に並んで横たわった。私は左利きだったので自然とそうなった。
 左手で胸を揉み、茂みをさすりながら、指を奥へ割り入れようとしても、彼女はなかなか脚を開かなかった。ひたと両腿を合わせて、私の手を豊かな腿のあいだに挟みこんでいる。逆に彼女に引き寄せられて、弾力のある胸を押しつけられた。皮膚の湿ったぬくもりが伝わってきた。石鹸のにおいがする。私はもう一度片手を乳房に当て、手のひらいっぱいに柔らかい肉塊を握った。そのとたんに、びっくりするほど大きな呻き声が洩れた。揉みしだくとさらに連続的に大きな声が上がった。それは機械仕掛けのようで、わざとらしかった。私は顔を両乳房のあいだに埋めた。石鹸のにおいにビスケットのような香ばしい体臭が混じった。ゆっくりと腹を撫で回し、陰毛に触れた。さらさらしているのにカズちゃんより硬い。この奥に、カズちゃんと同じものがある。二カ月前に私の性器を包んだものだ。溝に指を滑りこませようとすると、節子はこちらに向き直り、強く抱きしめてきた。下腹部がぴたりと密着し、手の動きが封じられた。
「だめ」
 と彼女は囁いた。私の昂ぶったものを握り、唇を求めてきた。指がふたたび股間に向かおうとすると、
「キスしたままでいて」
 目をつぶったまま言った。私は節子の掌の中で自分のものが強く脈打っているのを感じた。私は手をしつこく彼女の腿(もも)から付け根のほうへ動かそうとした。節子がおびえたふうに目を開いて、私の手を自分の手で押しとどめた。彼女は黙って訴えるように、まるで私のがまんの限界を探ろうとするかのように、私の顔を見つめた。それから私のそそり立ったものをそっと離し、
「きれいな目……。キスして」
 と言った。からかわれているのにちがいないと思った。私はいやいやキスをした。ようやく唇を離すと、節子は私の片方の目に、それからもう片方の目に乾いたキスをして、いとしげにすがりついた。
「このあいだはごめんなさい。あんなふうな誘い方をして。すぐ興奮してほしかったの。ああでもしないと抱いてもらえないと思って。……もういいわ、好きにして」
 節子は両腿を広げ、膝を立てた。ほとんど小陰唇が痕跡しかない奇妙な性器だった。窓からのかすかな灯りに薄白く見える前庭が光り、クリトリスが長い包皮の奥に潜んでいた。私は指で襞の痕跡をなぞり、屈みこんで、カズちゃんにしたのと同じように突起を舌先で押したり回したりした。灰のようなにおいがする。
 とつぜんかすかな声が上がり、ピクンと腹が跳ねた。
「大好きな人と比べて、嫌いにならないでね」
 うなずき、挿入する。水っぽく、温もりもなく、抵抗もなかった。たがいの感激のなさが静かに迫った。節子は顔を横向けて目を閉じている。カズちゃんと比べて、快感も少ないようだ。早くすませたいのに、なかなか射出感が迫ってこなかった。少しスピードを上げて腰を往復させた。
「あ、いい、キョウちゃん、気持ちいい!」
 節子の膣が急にカズちゃんのように緊縛を強めた。ようやく射精の予感が迫ってきた。
 ―カズちゃんを裏切ってしまう!
 そう思ったとたん、私はいまにも完了しようとする射精の誘惑を必死でこらえた。
「ああ、キョウちゃん、お腹が熱い、ああ、うれしい、あああ、イキそう、イクッ、イクッ、イクッ、イク!」
 ググッと腹が引き絞られ、それから両脚が松葉の形のままピンと伸びた。同時に強く膣に握り締められ、私も勢いよく放出した。カズちゃんに許しを請いながら、自動的な律動を伝える。そのつど節子の膣が締まり、私に合わせて収縮する。目を閉じたまま首をもたげ、私の唇を求める。私は強く吸った。
 小学生のとき、私は男の生理の秘密を知った。後ろめたかった。いまはもっと後ろめたい。尻の前後運動という間抜けな行為が加わったからだ。手淫は男も女もあまり間抜けな感じはしない。実際の性交で間抜けを一手に引き受けるのは男だ。カズちゃんは私に間抜けなまねをさせなかった。自分がそれを一手に引き受けた。彼女の尻の前後運動はまったく間抜けではなく、神秘だった。交接と同時の発話と、オルガスムスの発声と不随意な痙攣も神秘だった。
 閨房以外では決して見聞できない運動と発話と発声と痙攣。これが世間の道徳的な人びとの癇に触れ、嫌悪され、秘密の中へ押しこめられる。きょう私は痛切に理解した。愛する者同士のあいだでは愛情を確認するためのふつうの運動と発声と痙攣も、世間の目や耳に入れれば侮蔑や怒りのもとになるということだ。ただ、途上の無言の運動の大半は、勃起だけが主な役割の男にまかされている。発声と痙攣は、快楽が極端に微小な男のものではなく、ほぼ百パーセント、人類の神秘である女のものであり、彼女たちがそれを抑制するのが困難だという理由で、隠蔽の度合いはますます濃くなっていく。愛する女の〈醜態〉は人目に曝すわけにはいかないからだ。
 桑原の〈秘密〉の写真も、オトコは性器でしか登場せず、女は顔と性器を含めて大舞台に登っていた。女の痴態はその神秘性ゆえに存在が秘密視される。神秘的な発声と痙攣をしない女にさえ、秘密をにおわせる裸体があるせいでその機密性は当てはまるだろう。しかしこれはあくまでも肉体の話であって、精神となると話は別だ。精神の澄みわたった女には、どんなに肉体のすぐれた女も敵わない。たぶんほとんどの女は、その二つのどちらも備えていないだろう。カズちゃんはその二つを兼ね備えている。女の中の例外ということだ。私は彼女しか愛せない。これからも彼女一人でじゅうぶんだ。
 遠い廊下でざわめきが起こった。どうやら各部屋の見回りを終えた看護婦たちが、そろって寮へ引き揚げていくところのようだ。いつか彼女といっしょに階段を下りてきた看護婦もいるかもしれない。私が耳を立てていると、黒髪、黒髪、あのひとの黒髪が、という唄声が流れてきた。まだ快楽の余韻に浸っている節子には聞こえていない。私はまだ繋がっていた節子から離れ、薄いベッドに並んで横たわった。ひびの入った角天井がすぐ間近に見えた。看護婦たちのざわめきが遠ざかった。節子の腕が胸の上に伸びてきた。顔を見ると、やつれたふうに笑っている。
「これで、もう、キョウちゃんには嫌われないわ。幸せ。こんなかわいらしい顔して、キョウちゃんてすごいのね。いままでの男って、何だったのかしら。自分勝手で」
 いやな言い方だと思った。抱かれたということは、いままでの男に少なくとも意地悪をされたというのではない。おまけに、節子は自分の僥倖に悦ぶだけで、私を愛しているとひとことも言わない。カズちゃんは自分自身の嫌悪感がもとで男を断ち、私への愛から自分のからだにも目覚め、そのことを心から感謝し、死ぬほど愛していると言ったのだ。もう滝澤節子とはこれきりにしよう。
「やっぱり、康男に会っていく」
「そう、私は寮に戻る。長く外出してると、へんに思われるから。キョウちゃんも早く帰らなくちゃね。……お母さん、心配してるわ」
 これもわざとらしい言葉だった。私は透けたカーテンの反映に眼をやった。すぐ近くの樹の影だけが、看護婦寮から洩れる明かりのせいで窓に映っていた。手を伸ばして、よれよれのカーテンといっしょに窓を開けた。夜気がすがすがしく流れこんできた。私は起き上がり、下着をつけ、服を着た。横たわったまま節子が言った。
「今度は、いつこれるの?」
「康男が退院するまで、ほとんど毎日くると思う」
「もっともっとキョウちゃんに抱いてもらいたいんだけど、難しいかもしれないわ。何日か口を利かないほうがいいと思うの。顔を合わせるだけなら、ヤッちゃんの見舞いのときにいつでもできるもの。……それから、その指、お家に帰ったら、洗ってね」
 カズちゃんの言葉は美しかった。カズちゃんはこんな言葉を吐かない。節子は私の指を握って揺すった。私はその指を鼻へもっていった。かすかに灰汁のにおいがした。
「いや……」
 節子はもう一度私の指を握ると、両手で包みこんだ。
 急患室を先に出た。私は早足で廊下を進み、大部屋を目指して飛ぶように階段を上っていった。
         †
 馴れ親しんだ埃っぽい道がありきたりに映らなくなった。見慣れた光景が目にいっそう深みをもって迫ってきた。おそらく人間の究極の経験―性の経験という鎧で身をまとい終えた安心感のせいで、五感を外に向ける余裕ができたからだろう。しかし、性の経験を手続のうえで完了させただけで、その経験の本質のところはまだ解決できない謎なのだった。肌も、髪も、唇も、乳房も、性の器官も、謎と言えば謎だったけれども、もう一つけっして解決できないと思われる謎があった。心向きの差異だった。
 カズちゃんと節子には極端なちがいがあった。慈愛という神秘的な精神は天賦の才能に近いものに感じられた。十五歳の私は、たった二人の女のからだと精神しか経験していなかったけれども、この神秘の覚醒は、その後の私の人生にとてつもないエネルギーを与えた。私は、この二つの謎を併せ持つ女という生きものを敬慕してやまなくなった。選別は簡単だろうと思われた。精神の希薄な女を省けばいいだけのことだった。
 大人のカズちゃんを駆り立て、あれほど異常な行動をとらせたのには、きっと私にはわからない何か深い理由があるのにちがいなかった。同情とは思えなかった。愛していると何度も言ったのだから。ただ、私が彼女のからだの奥へ分け入ったことは、彼女にとってからだの地下室へ松明(たいまつ)を投げこんだくらいのものかもしれないという気はした。高潮を表現するめずらしい発声も、からだの痙攣も、きっといくばくかの女に共通のものだろう。少なくとも、それは私の手柄ではなかった。しかも、私以前にすでにだれかに示していた生理的な反応かもしれなかった。その〈だれか〉に、私は深く嫉妬したけれども、嫉妬する相手の顔を思いつかず、カズちゃんは大人として、からだではなく、与えられるかぎりの精神を自分に与えてくれているのだと思い直した。からだの反応は、性の相手に与える彼女の習慣の中にあった。私にしても、カズちゃんが相手でなくても、同じ反応をするにちがいなかったし、それは節子で確認できた。だから、肉体の習慣の中にいた〈だれか〉を嫉妬することは人間として卑しい行いだと感じた。
 私には、カズちゃんのやさしさはわかっても、精神の深さや濃密さまではわからなかった。でも、ぼんやりした広がりがあるということだけはわかった。そして自分はその広い原野に生息する生きものの一つにすぎないとさびしく理解した。と同時に私は、教室やグランドや勉強小屋の机の前で、やさしさに包まれている幸福に酔いながら、何かただならぬ悲劇を予感しはじめた。彼女を失うことは、とりもなおさず、私の人生の終焉を意味していた。
         †
 毎日康男を見舞いはつづけていたけれど、節子とはときどき顔を合わせるだけで、話しかけもしなければ、話しかけられもしなかった。自分なりの選別の結果だったので、それは苦痛ではなかった。愛情と性の神秘を感じるようになるにつれ、仲間たちに縁を感じることが薄くなり、野球や授業に注意を集中することがますます容易になってきた。そういったものはカズちゃんに見守られながら打ちこむ人生の趣味と観じれば、じつに簡単なことだった。ただ、趣味など持たずに、朝、登校するのをやめてこのまま彼女と遠くへ旅立つことができればどんなにいいだろうと思うことが度々あった。野球の練習のない雨の日など、特にそう思った。
 学校という共同社会のいろいろな行事や、試験や、成績による格付けのようなものにはほとんど心が留まらなかった。これからも同じ日々がつづくとしても、私の心の中でそんなものはもうすっかり終わってしまっていた。北村和子の原野に注ぐ滋養にあふれた雨となること、その努力をしたうえで彼女に愛されて恥ずかしくない人間になること、それだけがただ一つの願いだとすると、彼女の原野の中で遊び回っているだけではすまないのだった。私はいっそう野球と勉強と友情の実践に励んだ。
 野球では相変わらずチームの主力であり、ひときわ目立ってもいた。野球は私の一本道だった。しかし、たとえ私の活躍が新聞に採りあげられようと採りあげられまいと、評判を嗅ぎつけてスカウトがやってこようとくるまいと、そんなことはもう何ほどの価値も持たなかった。
 勉強―それは康男の言う、ガキの遊びだった。私は知恵と感覚のすべてを利用して懸命に〈遊んだ〉。その結果が上位にランク付けされようと、下位にランク付けされようと知ったことではなかった。


         七十二

 夕めしのとき、カズちゃんに訊いた。
「カズちゃん、勉強って、意味があるのかな」
 カズちゃんの言うことなら、再考せずに信じられる。彼女はしばらく考え、
「勉強そのものに意味があるかどうかはわからないけど、キョウちゃんの成績が悪いより、成績がいいほうが気分はいいわ。でも、私は、キョウちゃんが勉強している姿を見るのがうれしいの」
 吉冨さんが聞きつけ、
「そうだね。勉強って、イコール成績のことだもんな。意味があるとするなら、自分を喜ばせるより、他人を喜ばせる要素のほうが大きいってところかな。学者は逆だけどね。キョウちゃんは、野球で自分も他人も喜ばせることができるぜ。羨ましいかぎりだ」
 小山田さんが、
「勉強も、野球も、適度に目立ってたんじゃ、だれも喜ばん。飛び抜けてないとな。勉強そのものの意味となると、ないみたいなもんだ。吉冨の言うように、小中高の勉強なんざ古今の学者の集積物をなぞるだけのもんだから、凡人にとっては鍛錬としての意味しかない。精神修養、だな。写経みたいなもんだ」
 どうしても野球の話が入りこむ。ただ、小山田さんの考えは私に近かった。母が、
「何をみんなでくだらないこと言ってるんですか。勉強の仕組みがどうだろうと、意味がどうだろうと、勉強は社会で出世する手段ですよ。キョウも気取っちゃって、なにが勉強の意味だ。落ちこぼれの考えそうなことだよ。成績が落ちてきたからそんなことを言うんだろ。さっさと部屋にいって勉強しなさい」
 私は、カズちゃんの、好成績は気分がいいという意見を採った。彼女が気分をよくしてくれるのなら、無心に励むことができる。カズちゃんが、
「キョウちゃん、成績が落ちたの?」
「万年二番から五番」
「なあんだ、上等じゃないの。八カ月も病院にかよいつづけたんだもの、人の五分の一も勉強してないじゃない。大将さんさえ退院したら、あっという間に一番よ。あ、思いついた。勉強の意味って、競争の楽しさということじゃないかしら。もちろん理解の楽しさもあるけど」
 吉冨さんが、
「なるほど、それを楽しめれば、意味もあるわけだ。ジャンケンだけでも、勝った負けたを楽しめるもんね。カズちゃんの意見に賛成だな」
「そうよ、キョウちゃん、勉強を楽しんでね。学者さんじゃないんだから、野球みたいに勝ち負けを楽しめばいいのよ。入学試験だって勝ち負けでしょう。キョウちゃんがそんなことに価値を置いてないことをわかって言ってるのよ」
 私はにっこりうなずいた。
「もう一膳食べたら、机に向かう」
 社員たちはホッとしたように、新幹線の話題に移った。
「高架橋工事に着工したころさ、そんなに速く走ってもしょうがないって意見が多いときに、内田百閧ェ、東京大阪ポチポチ停まって走らずにノンストップにしろって言ったんだよ。速い乗り物が好きだったみたいでね。高速度時代か。これからは何でもかんでも、無意味に速くなるぜ」
「商取引を早めたいだけですよ。人間の生活テンポじゃなく、商売のテンポですね。しかし、そのおかげで俺たち土建屋は給料もらってるわけだから、悪口は言えないけど。あと二カ月で営業開始か。山さんは乗ってみますか」
「乗るしかないだろ。鈍行がなくなっちまうに決まってんだからよ。情緒も何もありゃしねえ。考えたらさ、たった二週間の東京オリンピックのための国内整備だろ。アジアで初のオリンピックか何かしらないけどさ、罪なもんだよな」
「所長は、最大インチのカラーテレビ入れるって言ってるぜ」
 カズちゃんが浮き浮きして、
「私、観ようっと。前畑がんばれだもの」
「おいおい、いつの時代だい?」
 母はツンボ桟敷だった。
         †
「ここまで七本か。あと三試合で十本は確実やろ」
 デブシが言う。
「三試合あれば、たぶんね」
 六月末の荻山中学との三回戦で、私はスリーランホームランとツーランホームランを打った。会心の当たりだった。九対ゼロの圧勝でベスト十六に残った。百メートルを超えるライナーのホームランと、高く舞い上がったホームランの軌道は、私の記憶の中で最も印象深いものになった。そしてそれが最後のホームランになった。
「あと三試合勝ち抜けば、今年も決勝に駒を進められるぞ」
 と和田先生は気の早いことを言った。去年の実績を思い出して、部員たちのほとんどがその気になった。そして七月、夏休みに入る直前、四回戦の大曽根中に一対ゼロで辛勝して、なんとかベストエイトに首をつないだ。以来、和田先生や部員たちは、市大会の優勝を狙う胸算用でいたけれども、私は、去年のように決勝までいけるかどうかは怪しいと思っていた。ホームランも七本で止まったままだった。私の願いは優勝ではなく、少なくともベストフォーまで残って〈最後の〉思い出にしたいということと、自分の記録がどこまで伸びるかということだけだった。
 ほとんどの部員たちの気持ちは高校受験に傾いていた。デブシや太田は野球で進学する大望を抱いている少数派だったので、トーナメントに賭ける意気ごみは人並はずれたものがあった。その彼らも野球の名門校から誘われないかぎり、受験勉強を放棄するわけにはいかなかった。雨に打たれ、乾燥してあばたになった宮中のグランドの上を、彼らの中途半端な野心が走り回っているのだった。
 外角の高目を打ち返し、ライナーでセンター前に抜けていく打球を見やりながら一塁ベースをふくらんで回る。センターがハンブルする。勢いよくベースを蹴って全力疾走、セカンドへ滑りこむ。大きなレフトフライを追って左中間へダッシュし、ジャンプして飛びつく。レフト前に転がってくるボールをショートバウンドで掬い上げ、セカンドへノーバウンドで投げ返す。ついこのあいだまでの私は、そんなことをしていれば、不安や、苛立ちや、喜びさえも、心に懸かっているすべてのことを忘れることができた。いまは、何をしていてもカズちゃんのことが浮かんできて、おのずと、ふだんの練習もみんなと足並み揃えた気分でいられなくなった。
 ―手術を受け、右投げに変えてまでがんばってきた、この何年かの野球生活は何だったのだろう。
 レフトの守備についているときも、ふと空を見上げ、こんな娯楽にかまけていていいのだろうか、もっと一人の人間としてやらなければならない大切なことがあるんじゃないだろうか、と考えるのだった。そう思うたびに、私は白々とした気持ちになった。
「きょうは、上がれ!」
 降りだした空を見上げながら、和田先生は練習を切り上げさせ、そのまま職員室に引っこんでしまった。みんな更衣室へ急いだ。雨のグランドに人目はないので、戸を開けたまま着替える。たちまち雨脚が強くなり、更衣室のスレート屋根をうるさく鳴らしはじめた。雨滴が地面を叩いて穴をうがっている。冷えた風が入ってきて気持ちがいい。太田がいつもの西郷輝彦を唄いだした。いっぱしにビブラートを効かせている。

 星空のあいつは すてきなあいつ
 きらめく夢をもっていた
 流れる星ならつかまえて
 キラリかがやくペンダント
 おれは作るといったやつ


 現実味のない、隙間風のような歌だと思った。メロディも粗悪なものだった。
 仲間より一足先に着替えを済ませて、病院に向かう。大切なこと―康男を喜ばせること、カズちゃんを喜ばせること。もっと大勢の康男やカズちゃんを喜ばせること。そんな気持ちでかよっていく牛巻病院で、康男が退院するまでだと心に決めて、節子と受付のガラス越しや、ロビーのベンチに座って長話をするようになった。節子の話の内容といっても、他愛のない芸能界の話や、身内話ばかりだった。ほかの看護婦や、寝巻姿の康男まで参加することが多かった。
         †  
 八月も半ばになった。康男はなかなか退院しなかった。遅い帰宅が復活し、それが度重なったことが、とうとう母の逆鱗に触れた。彼女は担任の浅野に直訴した。浅野はわざわざ夜の十時過ぎに飯場の勉強小屋に出向いてきて、帰宅したばかりの私をつかまえ、母を同席させたうえで、
「今度遅く帰ったら、俺の家に下宿させるぞ」
 と言い渡した。それからの浅野は、いつも下の校庭から上がってきて、グランドの私の様子をじっと窺うようになった。きょうも彼は、階段に半身を隠すようにしながら、険しい目で私を監視していた。そして、練習の終わるころに無表情で職員室へ戻っていった。
 ときを合わせたように康男が部室を訪ねてきた。
「あれ? 康男、どうしたの。二、三日いけなくてごめんね。歩いていいの?」
「兄ちゃんにここまで乗せてきてもらったわ。外出許可が出たんや。リハビリをかねてな。ここんとこおまえの顔を見とらんで、会いたなってよ」
 彼はこの数日の私の事情を知らなかった。私は正門までゆっくり歩きながら事情を話した。こうしているあいだにも、どこからか浅野が監視しているかもしれないという恐怖に襲われた。彼の家などに下宿したくなかったし、何よりもカズちゃんと離れたくなかった。
 康男が肩を組んできた。私は康男の目を見た。康男は大きく微笑した。
「退院までこんでええわ。おまえ、ボンの騒動以来、セッチンに義理立てしとるやろ。いらんことや。あの女はあかんで。きょうはそのことを言いにきた。あの女は俺とキスしたで。ベンチに座っとった俺にむこうからキスしたんや。ビックリしたで。頬っぺたひっぱたいたった。あんな女、おまえの相手やない」
 康男は肩から腕を外し、私の視線に何かを認めて、
「……一発やったんやろ?」
「うん。ぼくの代用品にしたんだね。ぼくと康男は一心同体だと思ってるから。冷たくしてたし、さびしかったんだ」
「勘弁しろよ。くだらん女でもおまえと一発やった女に……」
「それこそそんなくだらないことを言うために、痛い脚引きずって……。康男らしいね」
 康男は手のひらでゴシゴシと私の頭をこすると、また私の肩を抱いた。
 正門で待っていた黒塗りの車まで康男を送った。光夫さんが運転席から降りてきて、しばらく康男と話をした。私の事情を知ると、康男を後部座席に慎重に乗せ、それから私に礼をした。
「いつもお世話になっております。病院でヤンチャしたことで、いたく落ちこみましてね。聞いてみれば不可抗力なんですが、どうしても神無月くんに謝りたいと言うもので、連れてきました。事情聞きましたよ。どうかご無理をなさらずに。来月の十日に退院です。退院をしたら、しばらく組のほうで静養させます。そのときには、いつでも遊びにいらしてください。弟がどうしてもラーメンをおごりたいと言ってますので、二人を神宮商店街に届けます。帰りはタクシーにでも乗せてやってください。どうぞ、後ろに乗って」
         †
 康男に肩を貸して神宮前の商店街を歩きながらラーメン屋を探しているとき、山本法子が買い物袋を提げて、ひょいと乾物店から出てくるのに遇った。ほとんど二年ぶりの顔を見て、私は思わず上ずった声を上げた。
「山本さん!」
「神無月くん! ひさしぶり。わ、寺田君も。こんなところで何してるの」
「ラーメン食おうと思って」
「寺田くん、こんにちは。一度雅江ちゃんとお見舞いにいったきりご無沙汰しちゃってるわね。ごめんね」
「一度でもくりゃええが。一回もこんやつがほとんどだでよ」
「もう歩いてだいじょうぶなの」
「ようやっとな。見てのとおり、片輪者になってまったわ」
「そんな言い方しちゃだめよ。心配してくれた人が気の毒でしょ」
「だれも心配しとれせんわ。神無月だけは別やけどな」
「雅江ちゃんだって心配してたわよ」
「同じ片輪者やでな。同病なんとかってよ」
「ひどいこと言って。考えてもいないくせに」
 そう言って、にっこり笑った。
「どう、神無月くん、私の買い物姿、サマになってる? 三年生になってから、ずっとお店の買出しばっかり。いつかまた遊びにきてね。私、神無月くんのこと大好きなの。一日も忘れたことないのよ。憶えておいてね。じゃ、さよなら」
 山本法子はサンダルを鳴らして小路に入っていった。
「大好きなの、か。いきなりやな。強引な野郎だ」


         七十三

 通りに一軒しかないさびれたラーメン屋に入った。風邪気味の鼻をすすっている女店員が面倒くさそうに注文を聞いた。
「ラーメン二つください。いよいよ十日に退院か。八カ月と十日」
「最後の用心でな、十日延びた。長かったわ。しかし神無月、浅野の家に下宿なんかしたら、死ぬやろ。ほんとに、もう病院にはこんほうがええ」
「退院の日はかならずいくよ。大部屋の人たち、元気?」
「リューマチが、おまえに会いたいて、さびしがっとる。三吉は先月退院したわ」
「知ってる。なつかしい人だったね」
 早々とラーメンが出てきた。康男は割箸を口で割り、目をすがめた。
「―セッチンのことは忘れろ」
「だいじょうぶだよ。野球以上の恋人はいないから」
 康男がラーメンを一口すすった。私も箸を割ってすすりはじめた。ひどくしょっぱい。康男は厨房をギロリと睨み、箸を置いた。
「ふざけとるのか、おやじ! 醤油汁を食わせる気かや! 商売できなくさせたろか。ここらは松葉のシマやろが。松葉は俺の身内や。電話入れたるど」
 白髪の痩せた男が平身低頭で出てきた。申し訳ない、と何度も頭を下げる。
「いちゃもんつけとるんとちがうで。しょっぱて食えん。食えるもの持ってこいや。飯ものはだいじょうぶか」
「いえ、ちゃんと作り直します」
 五分ほどして、いいにおいをさせたラーメンが出てきた。一口すすると、別物のようにうまい。
「どうしたんや、おやじ。うまいで」
「すみません、出前ものを準備していたもので、娘に作らせてしまって。お代はいりませんので、ゆっくり食べてってください」 
「乞食やない。ちゃんと金は払うで」
 康男はうつむいて話しだした。
「おまえはキンムクやで。剥がすメッキはないんや。おまえと釣り合う女がいるか。おまえに惚れるには覚悟がいるんやで」
「覚悟?」
「……守ったらんとあかんのや。守ったらんと、おまえは壊れてまうんや。野球も、勉強もな。生まれっぱなしの人間やでな」
 私はふと穏やかな気持ちになった。私はこの男に愛されている。そしてまちがいなく私も愛している。中断したことなどなかった。ずっと愛していたのだった。この男といっしょに、ヤクザになりたい。もちろんそれは叶わないだろう。でも、一生そばにいたい。カズちゃんと同じように。
 それにしても、なんという人間信頼だろう。ぼくはキンムクなんかではない。野球にせよ、勉強にせよ、目標のない毎日にたまたま見つけた気散じだ。でも、ついに目標が現れたのだ、真剣に生きるためのほんとうの目的が現れたのだ。北村和子。彼女といっしょにいるためなら、すべてを捨てよう。捨てたところで、ぼくの価値は上がりも下がりもしない。
「康男は、もう……知ってるの?」
「あたりまえやろ。中一のとき、ワカの手下(てか)に駅裏へ連れていってもらったわ。兄ちゃんに内緒でな」
 中一! 私は康男の早熟に驚き、一瞬、頭が痺れたようになった。
「こんな足になってまって、もう女の前でズボン脱げえせんけどよ」
 私は痺れた頭で、康男のケロイドを思い出した。私は彼の氷に閉じこめられたような不幸を思って、一瞬、彼の境遇と自分のそれを交換してやりたい気持ちになった。でも、カズちゃんのためにそれはできないと冷たく思い直した。
 ラーメンを食い終わると、康男は店の女に二人分の金を払った。白髪が出てきて、またぺこぺことお辞儀をした。
「送ってこんでええぞ。浅野はおそがいやつやでよ。勘でわかる。バス乗って帰れ。俺はタクシーで病院に戻るで。おまえの顔が見たかっただけだでよ。ほんとにおまえは、いつもええ顔しとるわ」
 バス賃を私の手に握らせた。私はやってきたバスに乗り、窓から手を振った。康男はまっすぐ伸ばした片足を引きずりながら、ロータリーのタクシー乗り場まで歩きだした。
         †
 雨混じりの八月二十三日、準々決勝で宮中はあっさり敗退した。四対ゼロ。私はセカンドゴロ二本、ファーストゴロ二本だった。言うまでもなくホームラン記録の達成も成らなかった。和田先生が夏風邪をひいて休んだので、代わりに浅野が監督として指揮を執った。たぶん私の監視のために買って出たのだろう。そんなこともあって、半ばヤケぎみにグランドを駆け回ったせいか、試合が終わって何日もしないうちに、球場の名前も相手チームの名前も忘れてしまった。月末と九月の練習試合をいくつか残していたけれども、スタンドにスカウトの影もなく、この試合を最後に私の希望はすべて潰えた。
 そうなるとかえって、野球そのものに対する未練が湧きはじめた。どんな形でもいいから野球をつづけていきたいと思った。私は翌日から、関や太田やデブシを除いた三年生のいない宮中グランドで、私たちを歓迎しない下級生どもから離れて、人一倍熱心に練習に打ちこみはじめた。
         †
 夕食後、だれが言い出すともなく、堀川の花火を見にいこうということになって、私は小山田さんと吉冨さんにくっついて飯場を出た。母も後片づけをカズちゃんに任せ、半袖のブラウスに着替えてついてきた。平畑の街路の橡(とち)の並木に、細長い白い花がいちどきに咲き、スダレを下ろした軒に風鈴が揺れていた。道々、ベストフォーまでいけなかったことを小山田さんたちに語ったけれども、彼らは私の将来に関して、相変わらず何の不安も抱いていなかった。
「だいじょうぶ。キョウちゃんは、野球をするために生まれてきた子だよ。だれが放っておくもんか。かならずスカウトはくるよ」
 そう小山田さんは言ったけれど、私には信じられなかった。
「そうだぞ。飛び抜けた才能というのは、見つけられるまではなかなか険しい道のりだけど、もうキョウちゃんはとっくに見つけられてるんだから、あとは待つだけだよ」
 吉冨さんの言葉も、やはり信じられなかった。何かの階段をスムーズに登っていくためには、才能よりももっと単純な、たとえば、誘いの手が伸びるタイミングとか、誘う人間の機嫌とか、そういう要素が関わっているにちがいない。私は誘いのタイミングを母の手で二度も失ったし、誘う人の気持ちを二度も挫けさせてしまった。この先、私の心がけるべきことは、野球の技術はもちろん、肩や肘を絶えず衰えないように保ちながら、たとえ弱小の高校にいても、そこからプロを目指そうという情熱を失わないことだけだ。ほかに能力がないからには、私の将来の仕事は野球しかないのだ。チャンスがタイミングよくやってきたら自分から進んで捕まえ、それが叶わないときは、テスト生でもいいから、骨惜しみせずに挑戦してみよう。
 母は、なんとなく、明るい顔をしていた。野球の季節が終わったことや、私がこのごろ早く帰宅することなどもその一因かもしれなかった。彼女は相変わらず、忙しさをてらった生活の中で、私に生じた決定的な変化に気づかなかった。私の無愛想で気のないものの言い方、はぐらかすような応え方、いつまでも沈黙を決めこむ態度にはとっくに慣れていて、それを思春期のもやもやした情緒障害のためか、少年から大人への反抗的な移行期のためだと割り切っていた。しかも、最終的に学校へ注進に及べば、かならずことは解決すると高をくくっていた。
 それにしても、もう息子が遠く手の届かないところへいってしまい、大人らしい孤独を大事にしているらしいと気づく勘のよさは、驚くべきものだった。自分の周囲にだれも近づけない垣根を張りめぐらした孤独―つまり、息子はほかの中学生仲間とはちがった自分の異質性を悟ったのだ、と気づくするどさだった。彼女は私の向こう見ずの性格や、挑戦的で気まぐれな傾向や、それに加えて、すでに私の心に育っている淡い諦念の影にさえ気づいていた。カズちゃんの存在にだけは気づかなかった。
 母は私の顔つきが異様に大人びたものに変わっていく理由を探ろうとしていた。彼女の考えていることは透けて見えた。
 ―たぶんサカリがついたんだろう。あの悪ガキに誘われて夜歩きしているうちに、タチの悪い女に引っかかったな。親父に似て好色に生まれついたみたいだからな。それとも野球ごときでチヤホヤされて、気が大きくなって、褒めそやす周りの人間どもにくっついて、飲み食いし回っているのかもしれない。
 きっとそんなふうに考えているのだ。もう少し私のことを心配する真心とアタマがあれば、こんなふうに考えるだろう。
 ―どんな成長の芽生えも、くだらない因果ばかり重なると、そのせいで生活の覇気を欠くような習慣に毒されてしまう。いつのころからかこの子には、同じ歳ごろの子供の素直さや明るさがちっとも見られなくなった。よほど風変わりな、子供らしくない経験をしているのにちがいない。よく見ると、思慮深そうだけれども、悪意を含んだ、つまらない独立心のほとばしった表情だ。あの顔つきは、私がいくらがんばって説得しても、いくら嘆願しても無駄だということを警告している。
 どう考えようとも、もう母の権威は私の中で〈品がすれ〉になっていた。彼女は、ことあるごとに、自分が運悪く抱えこむことになってしまったそういう疑心を反芻していた。そしてあらゆる機会を捉えて、息子によく似た夫のことをほんの些細な部分まで思い出すようだった。
 祭りの夜店が見えてきた。屋台が並ぶ橋のたもとの人混みに踏みこむと、アセチレンの明かりのせいで、真っ白い夜に包まれた感じがした。幼いころから私はこの雰囲気が嫌いだった。露店の並びを通り抜け、車両通行止めになっている大瀬子橋を渡る。風の具合なのかヘドロがにおいが強い。黒い川面のずっと遠いところから、ドン! という破裂音が聞こえた。少し遅れて、上空にバラバラという音を立てながら大輪の花が咲いた。押し合いへし合いしていた人混みが身動きできないほどのものになった。
「うおう、きれいだなァ!」
 手拭を首に垂らした小山田さんが、歩道橋の桁に手を突き歯を剥き出して叫んだ。吉冨さんも、花火が弾けるたびに、腹の底からうれしそうな笑い声をあげながら夜空を見上げている。何かの拍子で、母の生暖かい腕が私の腕にねばりついた。ぞっとするような肌触りだった。漆のようにねっとりした水面を、赤一色の提燈で飾り立てた屋形船が舷(ふなばた)を深く沈めてすべっていく。鉦や太鼓をかまびすしく打ち鳴らしていく船もある。
「ほんとに、きれいだねェ。いいねェ、こういうのも。たまには……」
 母が川面を見下ろしながら言った。もともと人生の余りごとを好まない母が、わざとらしく興味をかき立てている。私は鼻白む思いがした。母子は数を増した見物人に橋の半ばまで押されていき、人混みに揉まれた。ドン、ドン、と何発も花火が打ち上げられる。黒い空一面がきらびやかな光の飾りに染まった。真っ黒い空に大小の輪が矢継ぎ早に開く。見物の群れがいっせいに空を仰ぎ、美しい空の下に動きの止まった顔がのっぺりと照らし出される。目と口が虚ろになり、粘土に切られた傷口のようだ。光の輪は数を増しては消えながら、高く、低く、放射状の丸模様を描いて交錯した。追い討ちをかけるような爆発音が轟き、いよいよあたりが騒然となった。新参者のせいで見物の列がふくらみはじめた。五メートルの幅に足りないコンクリートの橋の上を、人波がこすり合いながら流れていく。間断なく花火が打ち上げられる。母と子は橋のたもとの暗い舗道へ吐き出され、ようやく前後に立って歩きはじめた。飯場とは逆の、宮の渡しに向かっている。いつのまにか小山田さんや吉冨さんの姿が見えない。母だけが私のそばにいた。
「ついでだから、氷イチゴでも食べていこうか」
 遊山の余韻に浸っている母を見て、私は苦々しい気分になった。
「いらない。もう帰ろう。花火はまだまだつづくみたいだから、具突神社から裏道を回っていこう」
「そうだね、小山田さんたちも帰ったんだろうし」
 母が軽い足どりになった。そのときだった。
「キョウちゃーん!」
 道の反対側の、大瀬子橋へ向かう行列から女の声が飛んできた。すぐに節子の声だとわかった。私は嫌悪と胸騒ぎを覚えながら、声のやってきた方角へぼんやり目を泳がせた。小さな浴衣姿がカタカタ下駄を鳴らしながら走ってくる。私はその女っぽい身のこなしにおびただしい緊張を強いられた。母の眼が妖しく光っている。不吉な思いに心臓をつかまれ、私はめまぐるしく頭を回転させた。節子が一メートルも胸先にやってきて私の顔を見つめたとき、私は何の策も思いつかないまま、細心に表情を整えた。
「やあ、滝澤さん」
「やっぱりキョウちゃんだった」
 節子は小さくうなずきながら微笑んでいる。浴衣を着て、髪を高く上げ、手に丸団扇を握っていた。喜びに輝く目で私を見つめている。私はわざと彼女の全身を眺めるような散漫な目つきをした。彼女は一歩私に近寄った。黄色い三尺帯を締めた彼女にもう少しで胸を接する格好になった。紅潮した顔が首を傾げて見上げている。ふたたび嫌悪感がきた。私はあやふやな表情を作りながらかすかに横を向いた。
「びっくりしちゃった。こんなとこ歩いているんだもの」
 節子は何もしゃべらない私に焦れたように言った。
「母と花火見物で、いま、帰り道です。どうしたんですか、きょうは? お仕事お休みですか」
 背後に母の気配を感じながら、わざと丁寧な言葉遣いをした。節子は私のあらたまった口調に、おや、という表情になった。そして私の後ろに控えている母を見て、とっさに丁寧な口調に切り換えた。
「はい、仕事仲間と花火を見にきたんです」
 彼女が道の反対の舗道を振り返ると、見覚えのある顔が私に向かってお辞儀をした。         




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