七十四

「ここからキョウちゃんの家は近いの?」
「ええ、歩いて十分ほどです」
「……それじゃ、牛巻まで一時間はかかるわね。ふうん、毎日たいへんな思いをして見舞いにきてたんだ。えらいわ。野球と勉強、がんばってる?」
 すぐに口ぶりが戻った。じわじわ私に近づいて並びかけた母が、節子の品定めするように口を引き結んだ。節子は母から顔をそむけた。その表情の移ろいを母は見逃すまいとした。 
「あなた、この子のこと、ずいぶん詳しいんですね」
 節子はようやく母を見つめた。
「お母さんですか」
「そうですよ。見ればわかるでしょ。郷の母です。あなた、牛巻病院のかたですか」
「はい」
「康男がお世話になってる看護婦さんだよ」
 私は引き取り、二人の顔を見比べながら笑った。
「初めまして。わたくし、牛巻外科で看護婦をしている滝澤と申します。キョウちゃんの友だち思いには、いつも感心しています」
 一礼をした節子は、静かな眼で母を見つめ返した。
「友だち思いというのはおかどちがいでしょう。この子はうれしいんですよ、病院に通うのが―何かイイことを教えてくれると思ってるんですよ。勉強より、ずっとおもしろいことをね」
 節子はすぐに言い返した。
「そんないいかげんな気持ちで、八カ月も九カ月もあんな遠くまで、お友だちの見舞いに通えるものですか。お母さんは、キョウちゃんの性格が少しもわかってないんですね。キョウちゃんは立派な人です」
 康男とキスをした口で、よくそんなことが言えたものだ。私は滝澤節子の冷静さに、何かひどく特異なものに対する恐怖を感じた。母は聞く耳持たないというふうに視線を逸らした。押美スカウトにとった態度と同じだった。
「そっか、お母さんのお目付けで、お祭り見物だったんだ」
 切って捨てるような口ぶりだった。
「でも、逢えてよかった。……ヤッちゃんもうすぐ退院なの。それまで一回でも見舞いにきてあげて。たった一人のお友だちでしょ」
「はい、退院のときはいきます」
「そう。―じゃ、さよなら。失礼します」
 節子は母に一礼し、私に向かって鼻に皺を寄せると、ふたたび行列のほうへ駆けていった。そして、すぐに人混み中で見分けがつかなくなった。
「なんだろね、あの女。母ちゃん、ああいうの大嫌い。おまえは、ああいうのとつるんで遊んでたんだね」
 私は目の前で、よごれた雑巾を打ち振られたような気がした。しかし、何も言い返さなかった。早く、清潔なカズちゃんの待っている飯場へ帰りたかった。暗い空から光と音がしきりに降ってきた。母はその空よりもいっそう暗い声でこう言った。
「何か問題を起こしたら、かあちゃんにも覚悟があるからね……」
 私は母を置き捨て、橋にたむろしている人びとのほうへ歩きだした。あとからあとから人が押し寄せてきて、私を押しつぶそうとした。私は圧力に逆らい、狂ったようになって飯場に向かった。人の波が激しく私を揉みしだいた。祭りのフィナーレを飾る仕掛け花火が、ヘドロの運河一面に現れた。赤や黄や白や緑がどぎつく溶け合った。
「ちゃんと歩かんかい!」
 私はこうやって押されていく自分の一生を思った。おとなしく人波に揉まれ、あてもなく流されていく一生を。どこからかカズちゃんに見つめられているような気がして、すがりつくように人混みから首を伸ばした。醜く引きつった青白い顔が、愛する女の眼に護られながら別の空気を吸おうとしてもがいた。
         †
 足の幅しかない橋を渡っていた。足のはるか下にオパールの海が広がっていた。落下すれば、あの海はコンクリートの硬さである、という知識を反芻したとたん、足を滑らせ、まっさかさまに転落しはじめた。海の青さがしだいに薄くなり、からだを砕く灰色の水面が迫ってくる。私は静かにあきらめた。目覚めて、闇の中に目を開いた。生きている。私はそのことがうれしかった。生きてカズちゃんにまた会えることがうれしかった。  
 その夜から、私は母といっさい口を利かなくなった。たがいに視線を逸らし合う顔は仮面のように無表情だった。母にはもう息子に何か言う気力はないようだった。ただ、寺田康男だけは許すことができないようで、ある夜、襖越しに言った。
「あのヤサグレにさえ会わなかったら、おまえもそんなふうにならなかったのにな。ぜんぶあの小童(わっぱ)のせいだ。あいつは、おまえを殺したんだ。なんだ、あの女。一癖ありそうな顔して。あんな女にどんなふうに誘惑されたんだか」
 私は襖を開けて怒鳴った。
「下衆が! あんたの世界の中だけで人が生きてると思ったら、大まちがいだぞ!」
 母の額に、冷たい絶望の色が現れた。
「わが子が死ぬのを見るのよりも、もっと悲しいことがあるんだよ。それは、生きている自分の子が悪い生活に溺れて、転落していくのを見ることだよ。……かあちゃん、ほとほと疲れたよ」
「勝手に疲れとれ! 転落って何だ。近所の目に悪いというだけのことだろ。学校なんていつでもやめてやるし、あんたのそばからいつでも離れてやるよ」
 おそらく、息子が大瀬子橋の人混みの中へ歩み去ったとき、母は確信したのだ。父親が抱えていたのと同じヤケっぱちな気持ちを、まちがいなく息子も持つだろう、いずれ傷ついてヤケになるだろう、そのせいで傷は膿んで、もっとタチの悪い、手のつけられないものに変わるだろう。彼女の考えが不足していたのは、父にせよ、私にせよ、だれがヤケな気持ちにさせたのかという点だったし、サトコやカズちゃんのおかげで、私たちがちっともヤケになっていないという点だった。
         †
 母が流しの前に立ち、目の回りの皺をさすりながら、社員たちに交じってめしを食う私を長いこと見ている。動かないで、ただ見ている。私を見ることで、悲しい確信をどうこれからの行動に結びつけるかを必死に考えているようだ。カズちゃんが微笑みかける。
「いい男ねえ、ほんとに」
 私も微笑を返す。小山田さんたちもまぶしそうに目を細めている。
「それだけじゃない。深みがあるんだよ、キョウちゃんの顔には」
 めずらしく西田さんが発言する。
「こんな顔で生まれてきたら、俺の人生も変わってたろうな」
 小山田さんが歯を剥いて笑った。
 私の素朴な頭では、十五歳の自分が、性の開花によってどんなふうに怠惰になっていくか、毎日の不安定な心の原因がどこにあるのかまったくわからなかった。私はもう何も考えられなかった。ただ、ときどき、カズちゃんの神秘的な痙攣を思い出しながらオナニーをしたり、レコードをかけながら八月末の中統模試のヤマをかけたりしていた。私の胸はカズちゃんへの気持ちですっかり満たされていたけれども、ふだんの生活では、野球や勉強の習慣のレールの上を相変わらず律儀に走っていた。
 わけても野球は、私の生活の核心を占めていた。それは何と言っても、自分が野球の技量を発揮することに痛快さと誇りを感じていたからだし、周囲の人びとから前途を嘱望されていたからだし、自然に発揮できる能力がほかにないと見極めていたせいで、前途の希望のすべてを注いでいたからだった。
 私はまちがいなく、飯場の人たちや、野球部の連中から愛され、尊敬され、誇りに思われていた。一つのことに華やかな才能を持ち、栄達への大道が開けていると思われる人物が人一倍熱心にその道に邁進する姿に、彼らは明るく確実な未来を見ていた。
 私は自分の胸の内を学校仲間のだれにも語らなかった。帰り道で彼らが、快い疲労から気軽に自分の悩みや家庭の事情を話題にするときでも、けっして軽率な言葉が私の口から洩れることはなかった。しかし、彼らに対して以外は、つまり、私に深い愛情を寄せ、私の行動を肯定するカズちゃんに対しては、自分のすべてを開放して甘えた。彼女はときどき帰りがけに小屋を覗いて、
「どう、うまくいってる?」
 と尋いた。私は熱田祭りで節子と遇ったときの様子や、母と浅野が結託して運んできた厄介ごとの次第を話した。するとカズちゃんは、白く美しい顔を紅潮させて、
「何ごともなければいいけど、何かあったら、天地がひっくり返ってもなんとかしてあげる。なんともならなかったときは、かならず私がキョウちゃんを引き受ける。……私、心からキョウちゃんのこと愛してるの。女として、人間として。この言葉を信じて、いつまでも忘れないでね」
 と言った。私は、満ち足りた気分で、うん、と言った。カズちゃんの尻の動き方を思い出しながら節子を努力してイカせたことを語ると、
「努力しなくちゃいけないようなからだは、キョウちゃんを疲れさせるわ。そういう人にかぎって感謝の心がないものよ」
「もう彼女とは、ぜんぜんする気がなくなった。エロ本は捨てたけど、どうしてもカズちゃんのこと思い出して、オナニーしちゃうんだ」
「うれしい。でもそんなことしちゃだめ。ごめんなさい、もう何カ月もしてないわね。つらいでしょう。女の私でもつらいもの。……どうしましょう。なんとかチャンスを作らなくちゃ」
「うん、三十日の日曜日は模擬試験の日だから、帰りに寄れるよ」
「三十日は危険日じゃないわ。私、日曜日は夕方出勤だから、キョウちゃんを送り出したあと、少し遅れて出る。これからも、ときどきそうしましょう。オナニーなんかもったいない。キョウちゃんの大切なもの、ちり紙になんかあげないで、私にちょうだい」
 カズちゃんは私にやさしくキスをすると、下着の中の濡れた襞をしばらく触らせたあと、バッグを開けて、ショートケーキやらチョコレートやら菓子パンやらを取り出し、
「勉強のとき食べてね」
 と言って、畳の上に置いて帰った。
         †
 中統模試は朝の八時半に始まり、午後の二時に終わった。私は飛ぶようにして神戸町まで走っていった。鶴田荘の鉄階段を上り、二○三号室のドアを叩く。待ち構えていたようにドアが開いて、
「いらっしゃい!」
 カズちゃんの笑顔が覗いた。沓脱ぎでディープキスをする。スカートの下の股間を触る。何も穿いていなかった。
「安心した? ちゃんとキョウちゃんのものが準備万端で待ってたわよ。さあ、コーヒーを飲みましょ」
 長テーブルを置いた六畳の居間に接して、採光のいいきれいな台所がついていた。奥の襖は閉まっていたけれど、敷かれている蒲団が目に浮かんだ。カズちゃんは台所で湯を沸かし、少し猫背になってフィルターでコーヒーをいれた。刺激的ないい香りがする。クマさんが連れていってくれた喫茶店のにおいだ。デザインのちがう別々のカップにいれて運んできた。
「新しいカップよ。飲んでみて」
 香りを嗅ぎながら飲んだ。喫茶店よりも濃い味わいだった。
「おいしい!」
「よかった。キョウちゃんにはぜったいコーヒーが似合うと思って。……私ね、高校時代は〈やんちゃ〉だったけど、これでもきちんと女子大を出てるのよ。名古屋の椙山女学園の家政学科。栄養士の資格を持ってるの」
「どうりで」
「どうりで、何?」
「いつも言うことに理屈が通ってると思った」
「まあ」
 カズちゃんは心からおかしそうに笑った。
「きょうから私、キョウちゃんのオンナよ」
「とっくにそうじゃないか」
「キョウちゃんが生きているあいだだけ生きているということ。キョウちゃんが死んだら、私も死ぬということ。キョウちゃんの倍も生きてきたんだもの、ぜんぜん惜しい命じゃないわ。キョウちゃんが長生きしたら、私も七十、八十までちゃんとセックスもできるようがんばる」
 こういう屈折のない言い方が大好きだ。私も率直に答えた。
「ぼくも、いつまでもカズちゃんとセックスする」
「ほんと? すごくうれしい。でも私とだけして、男の世界を狭めちゃだめよ。キョウちゃんには女の前では堂々としていてもらいたいの。これからの長い人生、キョウちゃんが相手をする人間は、男も女もどんどん増えてく。男との親しい関係は友情というもので強くできるでしょう。女との関係は、友情とは別の形をとることになるわ」
 思ったとおりカズちゃんは、新鮮な表現をする大らかな女だった。白い皮膚、大きな二重の目、形のいい鼻、玉子型の輪郭。彼女の顔と、からだつきと、下心のない言葉は、私を大空の下に解放する。カズちゃんは四畳半の襖を引いた。タオルケットだけの涼しげな蒲団が整えてあった。
「服を脱いで裸になって」
 素直に従った。最初は蒲団にしか目がいかなかった空間に、淡い黄緑色のカーテンが引いてあるのがわかった。隅の壁に、ぎっしり本の詰まった書棚が立ち、大きな和ダンスと鏡台が別の壁に接していた。本の種類は、栄養学の専門書から、和洋の小説本まで、多岐に渡っていた。カズちゃんが読書家であることがわかった。


         七十五

 カズちゃんはこの前と同じように蛍光灯を点けて小部屋を煌々と明るくした。明るい光に照らされた立像を隈なく見る。長い首、少し外に張り出した大きな乳房、柔らくふくらんだ腹、縦長にへこんだ臍、淡く翳る陰毛。ためらいもなく開放された肉体が、鮮やかに私の目に焼きつけられ、心を解放する。カズちゃんは蒲団に横になった。
 肉体が先にある―簡明な真実だ。七面倒くさい心の手続からゆきちがいが生まれる。カズちゃんのからだは、節子よりも豊かに肉づき、乳房は彼女より一回り大きかった。自然と私の手が胸に伸び、腹に伸び、陰部に伸びて、触れた。目が感じ取ったとおりの柔らかさと湿りだ。片方の胸を揉みながら、片方の乳首を吸った。その私をカズちゃんは掌で押して離し、仰向けに横たえると、腰の傍らに正座した。頭の先から足の先まで眺めわたす。
「真っ白! ほんとに大理石の彫刻みたい。いつ見ても不思議。腕も、脚も、脇にも、ぜんぜん毛が生えてない。オチンチンにだけ少しあるのがアダムそっくり」
 陰茎を握って仔細に点検し、
「ぜんぜん色がついてない。きれい―」
 屈みこみ、口に含んだ。いよいよ血が流入する感覚があった。びっくりしてカズちゃんは口を離した。
「すごい。何カ月かのあいだに、こんなに立派になっちゃった」
 カズちゃんはもう一度それを含んだ。やさしく舌が動く。
「わあ、どこまで大きくなるのかしら。怖いぐらい。ぴんと張って、はち切れそう」
 いったん顔を離して眺め、もう一度含む。頬をふくらませて口を上下させる。喉にまで入っていくのではないかと思った。とつぜん下腹が熱くなり、射精しそうになった。カズちゃんは口を離し、やさしい目で見上げた。
「いいのよ、出して」
 もう一度温かい口の中に包みこみ、待ち構えるように陰茎の腹をさすった。ドクンと打ち出した。呼吸を合わせたように飲み下す。私が反射するたびに、睾丸を揉み包みながら飲みこむ。少しも奇異な行為に思えなかった。
「おいしい。これで、長もちするはずよ。さ、横になって。口の中に残ったものを漱(すす)いでくるわ。キスしたいから」
 台所にいって口を漱ぎ、戻ってくる。横たわって抱き合いながら、舌を絡めたキスをした。少し力を失った私のものは彼女の手にしっかり握られていた。そうしているうちに、ふたたび血が流れこむ感覚が強くなった。
「うれしい。すぐ回復してくれて。ドクドク脈打ってる」
 私は新しい自信をそこに見た。これまでは、こういう本能的な衝動を何の恥じらいもなく受け入れることはできなかった。性の衝動はふだんとちがう肉体の反抗や敵意と感じたし、克服しなければいけないもののようにも感じた。でも、カズちゃんの掌の中で心地よく脈打っている分身の〈意志〉を感じて、こんなふうに抑えきれない欲望がふいに現れてもそれは恥じるべきことではなく、堂々と主張するべきことなのだと信じることができた。カズちゃんは私のものをいっそう強く握りしめた。それからカズちゃんは大きく股を開いた。明るい光の下に口を開けた陰部は、カズちゃんの美しい顔と不思議な対照をなしていた。カズちゃんは襞を押し開き、最初のときと同じように包皮を剥いて見せた。小指の先ほどのクリトリスが現れた。
「感じると、もっと固く大きくなるわ」
「最初のとき、ここに触ったら、感じちゃうから強くしたらだめ、って言ったね」
「ごめんなさい。そうしてほしかったんだけど、あのときはいけなかったの。私の感じるのを見たら、キョウちゃんがそれだけじゃすまなくなっちゃうから。いまならわかるでしょ? あれ以上のことをしたら、結局キョウちゃんを苦しめることになったわ」
 そこを刺激すれば女のからだがどうなるかは、すでにカズちゃんと節子の反応で知っている。その反応を見せれば、私が苦しむことになると気遣った彼女の思いやりがうれしかった。私はカズちゃんの開いた両腿に手のひらを載せ、首を伸ばして突起に舌先をつけた。カズちゃんの腿と腹がブルッとふるえた。
「……あのときもこうしてほしかったの。がまんするのがつらかったんだから」
 カズちゃんはもっと大きく股を拡げた。舌が動きやすくなったので、自信を持って上下に動かしたり、押したり、回したりした。厚い小陰唇も含んでみた。絶え間なく出てくる愛液も舐めた。クリトリスが固く大きくなり、舌の表面で脈を打ちはじめた。
「ああ、キョウちゃん、ごめんなさい、私、もうだめ、あ、イクわね、あ、あ、イク!」
 カズちゃんは腰を私の顔の前に突き出し、それからグンと尻を引いた。二度、三度と痙攣する。腹の筋肉が臍のほうへ引き上げられては縮む。腹をさすると、カズちゃんはにっこり笑った。
「わ、すごい、キョウちゃんの、見てごらんなさい」
 下腹を見下ろすと、分身がいきり立っていた。脈打つように前後に動いている。カズちゃんはからだを反転させて尻を向け、私の顔の上に跨った。目の前が性器でいっぱいになった。その格好で、カズちゃんはまた私のものを含んだ。
「これ、シックスナインていうのよ。私のも好きなように舐めて」
 言われたとおりにした。絶え間なくカズちゃんの下腹に引き攣りが走る。
「指を入れていい?」
「いいわ。入れてみて」
 透明な液体が染み出しているあたりに人差し指を入れると、体温よりも熱い襞に触れた。ザラザラした感触があった。指を何度か往復させてザラザラをこすってみた。
「ああ、がまんできない……後ろからして」
 カズちゃんは四つん這いで蒲団の裾へ移動していき、その格好のまま私を待った。私が彼女の股間に自分のものを押しつけると、彼女は、そこはちがうの、と言って後ろ手につかみ、正しい位置へ導いた。
「そのままグッと」
 熱い油の中に滑りこんだとたん、カズちゃんがハアーという長い息を吐いた。
「ああ、うれしい、キョウちゃん、うれしい」
 私はゆっくり動きはじめた。
「ああ、ほんとにうれしい、あれからなんべんも夢に見たのよ、キョウちゃんとこうしてるの」
「気持ちいい?」
「とっても。どんどん昇っていくの。……入口のところで、ゆっくり動いてみて」
「こう?」
「そう。それを五、六回したら、奥に深く入れるの」
「―こう?」
「そう、上手よ。それを何回か繰り返して。そうよ、そうよ、奥だけゆっくり何回か押して。ああ、上手よ。そう、入口、奥、入口、奥、だんだん速くして。そうよ、ああ気持ちいい」
「なんだか、グイグイ締まってきたよ」
「イキそうになってきたの。グッと一回、奥を突いて」
 言われるとおりにした。
「ああ、気持ちいい! 引くのを速く、押すのをゆっくり、ときどき回すようにして、そう、あ、あ、ほんとに気持ちいい。そうやって、何度もキョウちゃんがイキたくなるまで繰り返して。あああ、キョウちゃんの大きい、気持ちいい!」
 ひどく純粋な興味が湧いてきて、亀頭をいちばん強く包みこむ奥のほうだけを何度か速く突いてみた。
「あ、だめ、そんなことしたら、すぐ……。キョウちゃんは、まだだいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ」
「強いのね、あ、だめだめだめ、キョウちゃん、速くしちゃだめ」
 速度を緩めないままでいると、
「ああ、だめ、ほんとにだめ、私が先に……キョウちゃんに悪いィ!」
 カズちゃんはそう言って、あわててからだを離し、こちらに向き直って仰臥すると、膝を立てて両腿を開いた。屹立したものにもう一度指を添えて熱い襞の中に導く。数回往復しただけで、
「ああ、やっぱりだめ、キョウちゃんより先にイッちゃう!」
 と言って私の腰を押さえて止め、両脚を直線に伸ばして浅く挿入させた。すべてが目新しい経験だった。私は襞に強く挟みこまれるのを感じながら動きつづけた。性器が窮屈に感じたけれども、ぬるぬるしているので刺激が強い。カズちゃんはしばらく歯を食いしばるようにがまんしていたが、耐え切れなくなって、ふたたび脚を拡げて深く導き入れた。彼女の目が急に細くなった。
「あー、ごめんなさい、キョウちゃん、私どうしても先にイッちゃいそう。気持ちよくてがまんできないの。でも、だいじょうぶ、イキながらキョウちゃんを待ってるから、好きなときにイッてね、あ、あ、だめ、ごめんなさい、イクわね、だいじょうぶよ、そのまま動いていて、私先にイクから、あ、あ、ごめんなさい、ウクク、イクウウウ!」
 膣がぐいと奥へ引きこむように蠕動した。弛緩と収縮を繰り返す動きが強い刺激になって、たちまち私にも迫ってきた。腰の動きが本能的に速くなった。
「あー、またイッちゃう!」
 ふくよかな腹筋が縮み、上半身がわずかに起き上がる。耐えられなくなった。
「カズちゃん、ぼくも!」
「イッて、キョウちゃん、イッて! ああ、イク、イク、イクウウウ!」
 からだがクの字になってこちらに起き上がってきた。私は絞るように狭まってきた空間へ激しく射精した。カズちゃんのからだが跳ね、膣が何度も収縮する。それに合わせて私も反射を繰り返した。
 からだを合わせたまま、大きな乳房に頬を預け、カズちゃんの心臓の速い鼓動を聴いている。この上なく満たされた気持ちだ。やがて下腹の余韻がゆっくり消えていき、彼女の中で自分の性器が縮んでいくのがわかった。まだ間歇的に膣が動いている。坊主頭がやさしく愛撫された。カズちゃんはしばらく無言で目をつぶり、横を向いていた。引き攣るような腰のふるえはなかなかもとに戻らなかった。私のものも痺れたように感覚がない。私は明るい蛍光灯を見上げた。シミひとつないクリーム色の部屋だった。カズちゃんの生活の部屋だ。襖の陰から台所の壁の一部が見える。布巾が掛かり、俎板が立てかけてある。磨りガラスの窓から明るい光が射している。
 ようやく微笑みながらカズちゃんが目を開いた。
「いっしょにイッたわね。よかった。……少し休みましょう」
 手がそっと私のものをつかんだ。カズちゃんは力を絞って起き上がり、いとおしそうに両手で包みこむ。口を寄せ、二人の体液でねとねとしたものをくわえた。丁寧な掃除を始める。
「キョウちゃんが生きてるかぎり、私死なないわ。愛してる。どれくらい愛してるかきっとわからないでしょうね」
 カズちゃんは私の腹に顔を埋めた。腹が涙で湿った。
「わかるよ。カズちゃんが信じさせてくれるから」
「そうよ、私はキョウちゃんしか愛せないし、ぜったい裏切らないわ」
 嵐のような感覚に襲われた。
「愛してる―」
「うれしいわ。気まぐれの言葉でも」
「ほんとうに愛してる」
「しあわせ……。一度だけでいいのよ、そう言ってくれるのは。一生、胸の奥にしまっておくから。いつまでも私を信じてね」
「うん」
 長い口づけをした。カズちゃんが囁いた。
「死ぬほど好き。……私には、キョウちゃんしかいない。一生いない」


         七十六

 九月五日、土曜日、快晴。八月下旬の第三回中部統一模試の結果が返ってきた。律儀なヤマカケのおかげで、なんとか二番に返り咲くことができた。英語はもちろん満点だったし、数学と国語も全県の十指を外さなかった。直井整四郎には負けたけれども、最上位の成績者の位置に踏みとどまったということだけが私には大収穫だった。
 すぐにカズちゃんや小山田さんたちに伝えた。
「ほら、何も心配することなんかないのよ。キョウちゃんの頭は、底力があるんだから」
「ただただ、感服だ。勉強家ぐらい勉強したら、どうなっちまうんだ? 東大だろうが、ハーバードだろうが、どこでもいけちまうんじゃないのか」
「よっぽど事情がないかぎり、キョウちゃんが勉強に打ちこむことはないですよ。俺は予想したくない図だな。それって、キョウちゃんにとっては、夢破れて都落ちってことだもの」
 吉冨さんがしみじみ言った。そして、流しに向かっている母の背中をチラッと見た。
 二学期に入り、ほとんど毎日、早朝練習に出ている。デブシや太田や関以外の三年生たちがチラホラ参加するようになった。九月の十三日から二週間おきに練習試合が四つつづくからだ。二十七日の第二戦の対戦相手は南区の本城中学校だ。おととし笠寺球場で負けている相手だ。これを最終戦にする三年生は多い。出場しようと思えば、十月の末まで居残ることはできるけれども、スッパリ退部して、半年間の受験勉強に打ちこむつもりなのだ。私は四試合とも全力を尽くして有終の美を飾ろうと思っている。そうしてスカウト待ちだ。もしこなければ、進学先の高校で、これまた全力を尽くしてやっていこうと決意している。野球から離れることはできない。
 毎日、一時間ほどで練習を切り上げるので、現場から戻っている小山田さんや吉冨さんや西田さんたちといっしょに食堂で晩めしを食う。原田さんやほかの親しくない社員といっしょになることもある。このごろ彼らは、私に対して腫れものに触るように寡黙だ。笑いかけてきても、いつもとちがって馴れなれしい感じがしない。たぶん、年じゅう不機嫌な母に対する気遣いが積もり積もった結果なのだろう。そればかりではなく、彼女は私の野球の命運を握っているから、彼らも気が気でないのだ。
         †
 九月十日木曜日。気温が三十度を超える快晴。きょうは康男の退院の日だったので、練習をボイコットして帰り、晩めし前に、持ち帰ったユニフォームとストッキングをひさしぶりに手洗いした。洗濯のあいだじゅう、シロがじっと盥を覗きこんでいた。
 洗濯物を丁寧に拡げて干して、食堂へ入ると、小山田さんがいつもより憂い顔で私を見つめた。カズちゃんはせっせとおかずを並べるのに忙しくしているのに、やっぱりしゅんとした雰囲気だ。母はガスレンジから振り返らなかった。
「吉冨さん、自転車貸してくれる? きょう、康男の退院なんだ」
「あれはキョウちゃんにあげたんだよ。好きに乗りな」
 怒ったような顔で言う。みんなどうしたのだろうと思った。
「大将によろしくな。とにかく、めしを食ってからいけ」
 小山田さんが憂い顔のまま声をかける。
「七時には退院しちゃうから、あまり時間がないんだ」
「そうか。どうなってんだ、夏の野球の具合は。調子いいのか」
 小山田さんが尋く。
「今年も、ベストエイトまではいけた」
「キョウちゃんが打てば、当然だよね」
 吉冨さんの顔が泣き出しそうに歪んでいる。
「でも、そこで終わった」
「そう悲観したもんでもないさ。……きょう、また、あの中商のスカウトがきてたぞ」
 彼らの憂い顔の原因はそれだったのだ。
「え! 何時ごろ?」
「キョウちゃんが出て、一時間もしないころだったかな。まだ九時前だった」
 母の背中を見た。
「やっぱりあの押美という男は、口先だけの人間じゃなかったんだよ。きっと、この三年間、スタンドのどっかでキョウちゃんの姿を見守ってきたんだろう」
 私は、背中を向けつづけたままでいる母に言った。
「で、押美さん、何て言ってた?」
 母は振り返らないまま、
「知らないね。すぐ帰ってもらったから。今回もしつこく食い下がったけど、二度と訪ねてこないようにってお引き取りを願ったよ。まあ、遊び好きの〈ぼんくら〉には渡りに船だったかもしれないけど、残念だったね。スポーツなんてのは、どれもこれもヤクザ商売だからね。うまいことを言う人間ほど、下心があるんだよ。世の中、そんなに甘いもんじゃない」
 なんということだろう。とうとうこれをかぎりに、あのスカウトとは完全に絆が断たれてしまったのだ。吉冨さんが眉間に皺を寄せて、涙を拭きながら母の背中を見た。
「キョウちゃん、押美さんはね、夜にでもキョウちゃんにどうしても会いたいと言ってたんだけど、おばさんが強引に追い返しちゃったんだ。そういうときにかぎって、あの暇人の所長もいてさ。さんざん押美さんにイヤミ言って……」
 西田さんが唇をふるわして、
「おばさん、学歴がそんなに大事ですか。ぼくなんかポン大でも、こうやって一流会社で働くことができるし、自分に何の劣等感もありませんね。ぼくは野球は知らないけど、名門に勧誘されることがどれほど稀有なことか、学歴なんてものをぶっ飛ばすくらい価値あることだぐらいわかります」
 吉冨さんはまだ振り向かない母に、
「おばさん、いずれ後悔しますよ。少なくともおばさんは、キョウちゃんの野球人生の前半の幕を下ろしてしまった。自分勝手な思いこみでね。後半の幕がうまく上がるかどうかわかりませんよ。そのへんの高校からじゃ、プロ野球になんかいけっこないんですからね。わかってるんですか」
 母は振り向いて目を剥いた。
「そんな他力本願の野球なんかやらなきゃいいでしょ。それほど才能があるなら、どんな高校からだって実力でいけるでしょ」
「無理ですね。どんな高校からでもってわけにはいかない。中学生までです。スカウトが足を使ってくれるのは。そのあとは、無名の高校には回っていかない。いくら実力があっても、彼らの網にはかからない。なぜ、いまスカウトされた時点で、それに素直に従わないで、もう一度あえて無名の高校で実力を見せつけなければならないんですか。何のための回り道ですか。勉強で名門の学校へいくのだって、学力という実力でスカウトされるようなものでしょう。同じですよ」
 私は三年前の怒りをあらためて蘇らせた。しかし、はらわたが煮えくり返っているはずなのに、なぜか頭の中は凪いだ水面のように静かだった。たしかにあの押美スカウトがもう一度やってくることを切実に願っていたけれども、たとえやってきたとしても、とりわけ、いまの親子の角逐の中で、母がそういう態度をとるのはハッキリと予想していたことだった。
「じゃ、しっかり勉強でスカウトされるようにしてもらいましょ」
「いまからでも遅くはない、原隊に帰れ、ですか。いまからでも遅くはないどころか、いまのままでふつうに受験校に受かりますよ。キョウちゃんの成績は、学校で一、二を争ってるんですよ。……キョウちゃん、俺は泣きたいくらいなんだけどね、いや、実際、涙が止まらないんだけど、キョウちゃんがほんとうに、しっかりぼんくらに生まれていたら、おばさんも気を散らさなかったろうと思うよ。残念だ!」
 何を言ってもヌカに釘の母に、吉冨さんは怒りの涙を微笑に変えてあてつけを言い、彼女のかたくなな心に波を立てようとした。カズちゃんがそっと私の肩に手を置いた。見ると、彼女の目にも涙があふれていた。私は自分に同情する人たちの前で、悔しがってみせることだけはぜったいしたくなかった。
「小さな集団で、一番二番をとったって、しょせん井の中のカワズ。この子はもともとしっかり〈ぼんくら〉ですよ。勉強以外のよけいなことに精を出して、うまくやっていけるほどの器ですかね」
「いやはや、とにかく勉強させたいわけだ!」
「吉冨、もうやめろ!」
 小山田さんが叫んだ。
「俺が中商にいって、交渉してくる。押美に会ってくる。親でもない俺じゃ、権限逸脱で話にならんかもしれんが、とにかくしつこくきてくれるように言ってくる」
「私もいきます!」
 カズちゃんが涙声を上げた。母は薄く笑って、二人を見た。
「何度きても、最後は私の承諾が必要でしょ」
 吉冨さんが、ドンとテーブルをたたいた。私は彼に明るい笑顔を向けた。
「だいじょうぶだよ、ぼく、将来プロテストを受けるつもりだから。あきらめたわけじゃないんだ」
 吉冨さんは泣き笑いになり、小山田さんは苦しそうに笑いながら、ピースサインを出した。西田さんがこぶしで目を拭いた。親しくない社員たちまでしんみりうつむいている。東大が、
「キョウちゃんは強いですね。がんばってください。みんなで応援してますから」
 もう、だれもかれも泣き笑いの顔をしていた。他人の不幸を見たり想ったりすることは、ある一定の限度までは人びとの最良の感情を引き出すだろう。しかし、もっと特別な、一線を越えてしまった不幸の場合には、そうではなくなる。あまりにも大きな、根っからの不幸は是正してやれないとあきらめるからだ。心やさしい人びとにとって、同情が苦痛に変わらないことはめったにない。その同情が、効果のある援助につながり得ないことが明らかになると、健全な人びとの心は、その同情を取り除くようにと自分に命令するのだ。
 倉庫から自転車を引き出し、道に出た。カズちゃんが追ってきて、
「ほんとにこれでいいの?」
 と、乾かない涙のまま訊いた。
「どうしようもないよ。だれかの養子にならないかぎり、ぼくは野球選手になれない」
「……そうね。私が母親になってあげられればね。こればっかりはね―」
 カズちゃんはハタと思いついたふうに、
「家出でもしたらどうかしら。そしたらお母さんも考えて……」
「それっきりになったら、もうほんとうに野球ができなくなってしまう」
「……そうね、私がついていったら、それはそれで面倒くさいことになるし」
「ありがとう、カズちゃん。とにかく退院の手伝いにいってくるよ」
 カズちゃんは、にっこり笑い、
「ほんとにキョウちゃん、強いわ。……どこかにいきたくなったら、かならず連れていってね。どこへでもついていくから」
「ありがとう。ぼくはカズちゃんを心から愛してるよ。どこへいくのもいっしょだ」
「キョウちゃん! 愛してるわ。死なないでね。キョウちゃんが生きていさえすれば、私も生きられる。キョウちゃんの生き死にだけが、私の〈都合〉なの。それ以外の都合なんて私にはないのよ」
「死なないよ。ほかのスカウトがくるかもしれないし、まだ絶望してないんだ。食堂のみんなをお願い。あんないい人たちが母に意地悪されたら気の毒だから」
「わかった。ほかのスカウトがくるかもしれないって慰めとく。車に気をつけてね。いってらっしゃい。これ、何かに使って」
 手に千円札を握らせた。うなずいてポケットにしまい、自転車を漕ぎだす。水のようなあきらめが押し寄せてくる。ようやく涙が湧いてきた。
 ―これからぼくはどうなるのだろう。きっとごくふつうの高校にいくんだろうな。その高校で野球をしながら、ときどきカズちゃんと逢う。高校を出たら二人は結婚し、ぼくは中日ドラゴンズのプロテストを受ける。もちろん合格し、一軍に登録され……。
 そこまで考えて、あたりに雲がかかったように視界がぼやけた。そんな克己の理想に燃えた人生が、はたして私を待っているだろうか!
 杉山薬局の前に自転車を止め、電話ボックスに入る。康男を呼び出す。
「退院だね。いまからいくよ。自転車でいく。三十分くらいで着くと思う。待っててね」
「おお、待っとる。リューマチ野郎、会いたがっとるぞ」



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