七十九

 式台の一段上に大きな屏風が立ててあった。土間の鴨居には『闘』と墨書した扁額が掲げられている。
「どうぞ、お上がりください」
 屏風の後ろから案内に現れた黒背広の若い男には、小指と薬指がなかった。彼はこぶしをついて私を迎えた。光夫さんと康男が廊下に立って待っていた。礼儀正しいその男に案内され、光夫さんの背について康男といっしょに長い廊下を歩いた。部屋の数は二階と合わせて十以上あった。広い家だった。康男が小声で言った。
「二階の端の納戸部屋が四畳半でよ、俺はそこに寝泊まりしとる」 
 通された部屋は、中庭に廊下を渡した離れで、質素な造りの小庵だった。薄暗い六畳の部屋全体に夕方の窓明かりが射している。案内の男が膝を突いて、
「お連れしました」
 声をかけて仕切り襖を開けると、すでにこざっぱりした浴衣のようなものを着た一人の男が、違い棚を背にあぐらをかいて、茶の角テーブル越しにこちらを向いていた。案内役が室内の蛍光灯を点けて襖の内側に控えた。ほの暗さの中に沈んでいた襖の花鳥図が息を吹き返した。私は目を見張り、黒っぽい天井や床柱を眺めた。違い棚の上の鴨居に、康男がいつか言った『敢為』という額が掛かっていた。
「あとで顔を出してくれ」
 そう言ってワカは案内の男を帰した。
「きたね、神無月くん」
 柔らかい笑顔になった。あの夜は気づかなかったけれど、笑うと、片頬にえくぼができて甘い風貌になる。恐ろしい感じがしない。オールバックの額が頑丈そうに盛り上がっている。光夫さんはワカの脇に控えてあぐらをかいた。康男もテーブルから離れた畳に腰を下ろし、両脚を投げ出した。胡坐もままならないのだ。私は康男の隣に正座した。
「膝を崩して楽にしなさい」
 人を従わせる力のある穏やかな声で言った。私は傍らにあった座布団を引き寄せ、二つに折って康男の足にあてがおうとした。康男はそれを手で押し戻した。それが礼儀なのかと思って、私は座布団をもとの位置に返した。
 ワカの部屋は屋敷内ではいちばん奥まった客室のようで、三方が庭になっていた。小さい藤棚のある中庭に面して、幅の広い濡れ縁があり、そこに置いた大きなガラス鉢に金魚が涼しげに泳いでいた。縁側の端に古びた手水鉢(つくばい)が見えた。南天とナギの木の茂みがこんもりした感じで鉢前に庇を作っている。背の低い竹がむらがっている庭の奥に、小さい石燈籠が据えてあった。私がじっと見ていると、
「古い家だろう? ここは私の実家なんだよ。私は鉄筋というやつが嫌いでね、早いうちに名古屋駅のそばの役宅を返上したから、みんなをここに住まわせて不便をさせている」
「ビルディングなぞより、ずっと落ち着きます」
 光夫さんが言った。
「ならいいけどね。所帯がふくらんでも、私はここを動かないよ」
「願ったりです」
 鴨居に数人の老人の顔写真が飾ってあった。どれも髪はすっかり白いのに、精悍な顔つきをしていた。
「こんなところへきて、怖くないかい」
 眼の奥が澄んでいる。
「怖くありません」
「ヤクザは華冑(かちゅう)界じゃないぞ」
「え?」
「貴族じゃない。与太者だ。まあ、干城(かんじょう)のつもりではいるけどね」
「カンジョウ?」
「庶民を守る軍人といったところかな。松葉会はこの世界でも名門の一つなんだよ。勲章を佩用(はいよう)しているわけじゃないが、この壁に会の功績を讃える銘句を書いたら、部屋を一周するかもしれん。年端もいかないころは、自分がほんとうにここの家の胤(たね)だろうかと疑ったこともあったが、いまでは肚を据えている」
 語り口の難しさが光夫さんに似ている。言っている意味はおおよそわかった。
「強くて、頭がいいのは、好きです」
 私の言ったことが、とびきり愉快なことででもあるかのように、ワカはからだを揺すって笑った。
「きみはおもしろい子だね。たしかにこの世界も、流行りすたれがあって、いまどきのヤクザは、きみが危ぶむとおり、頭が回らないせいで世に仇なす悪党どもが多いからね。もともと半チクな一生を、さらに半チクにして終わるという情けなさだ。な、寺田」
「はあ。しかし世間から見れば、ワシらも迷惑な悪党どもですよ」
「たしかにな。―しかし、神無月くん、八カ月余りも、よく友だちの面倒をみたね。感服した。たとえ肉親でも、できることじゃない」
 床の間の細長い壺に、私の知らない白い花が束ねて無造作に差しこんである。花のすぐ脇が丸い雪見になっていた。雪見の外は真っ黒い夜だった。雪見の外の世界と、彼らのいるこちらの世界はまったく別のものだった。夜が押してくるのと同じ重い質量が、彼らを囲む部屋の明るさの中に詰まっていた。私はワカの温和な顔を見ているうちに、尊敬の念が細胞の隅々にまで沁みわたり、全身を浸していくのを感じた。
「それは、何の花ですか」
「うん? さあ、知らないな。壺は唐津だが。花に縁ある男じゃないんでね。そうだ、これをあげようと思ってた」
 彼は違い棚に手を伸ばして、用意してあったらしい本を取り上げると、光夫さんに手渡した。光夫さんはそれをわざわざ私の前まで持ってきて差し出した。高校生用の使い古しの日本史の参考書だった。
「書きこみや線引きがあって申し訳ないが、私の思い出の品だ」
 ぺらぺらやった。どのページにもまめまめしく赤線が引いてある。
「社会は不得意なんです」
「ヤスからそう聞いてね。そんなことまでこいつはちゃんと覚えていて、私に教えたんだよ。きみのことが気がかりなんだね」
「ありがとうございます」
 私は一礼し、それから康男に微笑みかけて、参考書をカバンにしまった。
「不得意とわかっていても、一所懸命やるのはいいことだよ」
「ワカは、神無月くんのように、勉強でも努力する人なんですよ。中央大学の法科を出たことは、いつか病院で話したと思いますが、なかなか入れる大学ではありません」
 光夫さんが静かな声で言った。ワカは素朴に照れ笑いをした。教育と生業とのアンバランスのせいで、ワカはあらためて奇妙な毛色の人物に見えた。
「康男から聞いたところだと、きみのお母さんは、えらく教育熱心なかたで、男は頭だというのが口癖だそうだね。それで、野球のスカウトを追い返して、きみの進む道を妨害してしまった……。ひとくさり言わせてもらうよ。もしきみの野球に対する情熱が、野球がなければ夜も日も明けないというほどのものなら、ほんとに野球がそこまで好きなのなら、スカウトがきたとき、泣いても叫んでもお母さんを説得するはずだ。どこかで自分の才能を恃(たの)む気持ちが強すぎたんじゃないかな。ここでじゃまをされても、いつかだれかが救い上げてくれる―そんなふうに自惚れていたんじゃないのかな。うまくいかないときは泣き叫ばないと、人は認めてくれないよ。そこがきみの至らないところだった。お母さんにも至らないところがあって、それは、男は頭だと思っているところだね。男も女も肝心なのは頭じゃない。心だ。頭が及ばないところで働く心なんだよ。ほんとうの知性というのは、それだ。それさえあれば、野球をしようと、学問をしようと、関係ないんだ。きみの心は一級品だ。だからお母さんは、きみがどちらを選ぼうと賛成すべきだった。きみの至らなさは、ある種の表現不足からきていて、人に害を与えるものではないが、お母さんの至らなさは明らかにきみの前途を妨害するもので、その罪は重い。しかし、その罪を招いたのはきみの消極性なのだから、お母さんを責めるわけにはいかないよ」
 ワカの言葉は精神を語るようにできているようだった。私はこれまで、ヤクザの中にもインテリがいるなどと一度も考えたことはなく、その世界に棲んでいるのは、知性などには価値を置かない根っからの無頼漢だと思っていた。私は感動した。ワカは私の紅潮した頬を眺めながら安堵の表情をして、
「きみはダイアモンドの心を持ってるようだ。野球とか、勉学とか、そういった単一のもので輝くレベルじゃない。人に影響を与え、人を揺すぶる、高いレベルの心だ。友人を愛し、女を愛する。それは簡単なことじゃない。ほとんどの人が一生できないことだ。きみは、そうやって思いどおりに生きていけばいい。失敗の多い人生になるよ。裏切られて、見かぎられて、捨てられるというような人生になるよ。でも決してその心を捨てちゃいけない」
「はい」
 なぜか涙が流れて、私は頬を拭った。
「俺は裏切らんで」
 康男が言った。若頭はアハハと笑い、
「おまえもダイアモンドだからね」
 と言った。光夫さんが微笑しながら一連の掛け合いを眺めていた。
 襖の向こうに、ドスの利いた声がした。あとで顔を出してくれとワカに言われた男の声だった。
「食事はこちらでいたしますか」
 あとでこいというのは、御用聞きにこいという意味だったようだ。
「神無月くん、腹へってるか」
「へってます」
「じゃ食い物を神無月くんに。ワシらには酒とつまみをあつらえてや」
「は」
 光夫さんは私に座布団を勧め、頭を下げた。
「あんたの面倒見のおかげで、これもめでたく退院できました。つまらない人間一匹救うために、あんたは相当な犠牲を払ってしまったようですね。感謝のしようもありません。ワシどもを必要とするときは、いつでも力をお貸ししますよ」
「いや、ミツさん、神無月くんに私たちは必要ないよ。遠く離れていく人だ。彼が面倒ごとに落ちたとしても、必要なのは私たちが貸せる力とは別種のものだろう」
「……そうですね」
「神無月くん、刺身でもつままんか。それとも、やっぱりめしのほうがいいか」
「両方いただきます」
 ワカは光夫さんと顔を見合わせて笑った。
「入ります」
 襖が静かに開き、案内役がかなり年配の男と盆を持って入ってきた。見るとその年配の組員は、あの夜ボンに小便をかけた一文字眉の男だった。彼はギターケースも提げていた。若衆の盆の上には、酒の銚子が四、五本、一文字眉の盆には刺身の盛り合わせを主に、天ぷら、煮しめ、茶碗蒸し、冷奴、アラ汁と、大盛りの一膳めしが載っていた。冷奴の上には鰹節がかかっていた。彼らに向けるワカの視線から、私は彼がつねづね下の者によくしてやっている雰囲気を感じ取った。一文字眉はギターケースを光夫さんに渡し、ごゆっくり、と畳にこぶしをつくと、若者を促しながら敷居まで下がって襖を閉めた。
「ミツさん、まあ一杯いきなさい」
 ワカは、ふたたび自分の脇に胡坐をかいた光夫さんに盃を与え、酒を注いだ。
「ほう、これはうまいですね」
「うん、広島の地酒だ。香りが高くて、いいものだよ」
「俺も、もらってええか」
 康男が光夫さんに尋く。
「ああ、食え。ほれ、皿と醤油だ」
「刺身でにゃあ、その酒やが」
「ああ、いいぞ」
 ワカが徳利を持ち上げると、康男はいざっていって、与えられた大振りの猪口に受けた。グッと飲み、
「うまいかどうか、ようわからんわ」
 ワカは微笑し、
「強いね。でもだめだよ、ちびちびやらなくちゃ。斗酒なお辞せずというのは趣がない。暴飲は徳ならず。酒は味わって飲まなけりゃね。まだ子供には酒のコクはわからないよ」
 光男さんがケースを開けてギターを取り出した。柔らかいタッチで弾きはじめる。美しい曲だった。
「それは何という曲ですか?」
「タレガの『ラグリマ』。涙という意味だ。アルハンブラも彼が作曲した」
 ワカは康男をテーブルに呼び寄せ、小皿に自分の刺身を盛り分けた。
「神無月くん、遠慮しないで食べなさい。わさびを切身に載せるのが近ごろオツらしいが、私は醤油に溶いて食うほうがうまい。それからマグロはトロよりも赤身がうまい。いずれにしても好みだが、自分の好みに嘘はつけない」
 彼は光夫さんの猪口に銚子を傾けた。そして、さりげなく二人の少年の様子を窺っていた。康男は醤油をつけずに切身を口に放りこみ、私はわさびを醤油に溶いて、赤身を食べた。それから次々と箸をつけていき、めしを掻きこんだ。



         八十

 光夫さんは徳利を手に取り、ワカの大きな猪口についだ。一口すすった。それから煙草をくゆらせながら、雪見を開けて外の夜を眺めた。
「ところで、神無月くん、ひとつ、個人的な質問をさせてもらうが……いまのような暮らし方をしているのは、自分に似合わないと思わないかい」
 心の底まで見とおすように、じっと私の顔を見つめた。
「いまのような?」
「偉そうなことを言えた義理じゃないが、きみはこのところ勉強や野球ををサボってないか? 人まねをして生きていないか?」
「まねはしていないと思います。康男のまねをして生きたかったことはありますが、まねそのものができませんでした。康男は偉大ですから」
「そうか、それならいい。きみと寺田の弟は、成り立ちがちがうんだからね。成り立ちというのは重要だ。たとえば、数は多くないが、うちにも、ヤクザの成り立ちがないのにヤクザをしている組員もいる。芯の強さと、自分の役回りに対する自信が不足しているせいで、命令したり、禁止したり、強要したりすることがまったくできないやつがいる。そういうやつは、下っ端に甘んじるしかない。……ヤスには、彼なりの生き方がある。きみにはきみなりの生き方がある。きみを重んじて引き上げる人もいれば、ヤスを重んじて引き上げる人もいる。その人間に見合った手づるというものが、かならずある。それが成り立ちだ。まねをせずに尊重し合って生きればいい」
「はい」
「ええやつやで、神無月は。俺は、一生面倒見たるつもりや」
「おまえの志はそれでいい。しかし、軽々しくものを言わんようにな。先はどうなるかわからんのやから」
 康男は不満げにうなだれ、
「もう一杯いただきます」
 と言って、自分で二杯目の酒を猪口につぎ、思い切り喉の奥へ流しこんだ。康男の顔が歪んだ。私は康男に苦しく笑いかけた。そして、自分が康男でありたいと願っていたころの物思いから、微妙に遠ざかりはじめたことを告白しようとしてもだえた。ワカが言った。
「つまらないこと言って、すまなかったね。きみたちの友情にケチをつけたわけじゃないんだよ」
「そんなふうには受け取りませんでした。ただぼくは……好きな人間以外と暮らしていけないんです。好きな人間と世界じゅうで独りきりと言うか、好きな人間のおかげであらゆるものを観察する瞳を得たという自覚からすると、それは孤独というよりも排斥に近いものです」
「神無月、おまえ、おかしいぞ」
 ワカが、
「いや、おかしくないよ、ヤス。これほどの人間であることを私は見損なっていた。そのオトコに惚れられたヤスの価値も見損なっていた。神無月くんはね、おまえのことが好きでしょうがないから、まねと見られようとそうでなかろうと、いっしょに生きていきたいと言っとるんだ」
「血迷っとるわ。俺みたいなカスと。俺は神無月を護ったるだけや」
「強がり言うな。いっしょじゃないと護れないだろう」
 パンパンとワカがカシワ手を打った。襖が開いた。
「座敷に執行委員以上を集めなさい。神無月くんという俠(おとこ)の顔を覚えてもらう」
「は」
 笑っているような明るい返事だった。光夫さんが、
「三顧の礼ですね」
「そうや。この子はまぎれもないオトコだ。そう思わないか、ミツさん」
「はい、オトコですよ。手離したくないだろ、なあ、康男」
「おお、あたりまえや。だれが見たってわかっとることを言いやがって」
 私は目を挙げて、両脚を投げ出している康男を見た。赤く目を潤ませて、やさしく微笑んでいた。
 光夫さんが立っていって、私と弟に扇風機の首を向けた。
 やがて案内役に数十畳の大座敷に導かれ、紋章の前の首座の場所に、ワカと光夫さんと康男といっしょに立たされた。三十人以上の男たちがずらりと整列して正対した。ワカが、
「集まってもらったのはほかでもない。一人のオトコの顔をしっかり覚えてもらうためだ。一目見てわかるね、神無月くんだ。彼のオトコたる理由もわかるね。おまえたち、たとえば一週間、あらゆる義務をこなしたうえで、一人の人間の見舞いにかよえるか」
 どよめきが起こった。
「危篤の親族の死に目が長引いたというならわからんでもない。それでも八カ月は無理だ。神無月くんは寺田副会長の弟寺田康男を永遠の友と心酔し、雨の日も風の日も八カ月と十日かよいつづけた」
 どよめきがさらに大きくなった。
「十五歳という年齢に瞠目してくれ。末恐ろしい。彼こそ侠客、オトコだ。今後は彼の危急存亡を見つめ、ことあるときは、できるかぎりの援助を惜しまない。この顔をしっかり覚えてくれ。彼に惚れられた寺田康男の顔もな。三度訪ねて平伏の礼を尽くすことは、カタギの巷では物理的にできない。たまたま我が家に迎えたこの好機に、端座し、深く叩頭を捧げる」
「オー!」
 ザザザと全員正座し、光夫さんが叫んだ。
「末永くよろしゅうお願いします!」
 ワカと光夫さんが直角にからだを折ると、組員たちもガバと平伏し、
「末永くよろしゅうお願いします!」
 数秒静止した。私と康男はわけがわからず、ぎこちなく辞儀をした。
 大座敷に宴の席が設けられ、私たち四人は離れへ戻った。ワカが光夫さんにウィスキーを注がせた。ワカは私に向かって目の高さにグラスを掲げた。私は笑顔を搾り出した。
「きみは飄々とした人物だ。どんな大業を果たしても、そういう顔をして生きていくんだろうね。会えてよかった。ヤスばかりでなく、私も惚れた。きみの行く末の困難には、手を貸せるかぎり貸して、その打開に尽力する。もっとゆっくりしていってほしいが、きみの立場が危うくなる。そろそろ御輿を上げてください」
「だいじょうぶです。……いま、何時ごろですか」
 光夫さんが、
「八時を回ったところです。車で送っていきましょうか?」
「いえ、歩いて帰ります」
 ワカが、
「そうか。……コーヒーでも飲んでいかないか」
「いえ、けっこうです。もう帰ります」
 廊下に足音がして、若い組員が襖を開けた。
「表にパトがきとります」
 ワカは訝しげにうなずくと、光夫さんに目で合図をした。光夫さんはうなずき返してすぐ腰を上げ、ワカの先に立って廊下に出た。私は妙な興奮を覚えて康男を見た。彼は悪い足で素早く立ち上がって、獲物を狙う動物みたいな眼差しを廊下に投げていた。やがて玄関のほうから一方的に言いつのる女の声が聞こえてきた。耳を疑った。康男がするどく私を見た。彼の視界の中でからだが縮んでいく。私は怒りをこらえて立ち上がった。
「センセイやな。俺がわび入れてくる」
「どうしてここがわかったのかな。警察まで連れてくるなんて」
 私は身の置きどころがなく、康男の背中について廊下へ出た。玄関の式台で神妙に話を聞いているワカと光夫さんの後姿が目に入った。
「いいかげんにしてくださいよ、未成年者をこんなところに引き止めて。手塩にかけて育てたたった一人の息子を、悪事に引きずりこむつもりですか。そちらがその分では、私も命がけで闘いますよ」
 戸口の敷居をわずかに跨いだあたりで、二人の警官を脇に控えた母が一家の者を睨みつけている。驚いたことに、玄関先に停めたパトカーのかたわらに、背広姿の浅野がうつけたようにたたずんでいた。
「俺が悪いんや」
 康男がワカの前に進み出て、悪い脚で玄関に下りた。
「あんたは引っこんでなさい。子供の知恵じゃないでしょ。……あわよくば、組にでも入れるつもりだったんじゃないの」
「なに言っとるんや。神無月にヤクザが勤まるわけがないやろ。きょう、俺、ワカに退院祝いしてもらってな、兄ちゃんといっしょに神無月に礼を言うつもりでよ。……神無月は長いこと病院に見舞いにかよってくれたでよ。……もっと、はよ帰したったればよかったんやが。けどな、おばさん、何もパトカーで乗りつけんでもよかったやろが」
「康男、やめなさい」
 光夫さんがたしなめた。
「お礼が遅れました。康男の兄です。息子さんには、ふつつかな弟に長いあいだ情をかけていただきまして、感謝のしようもありません」
 一文字眉が怒鳴った。
「あんたの息子さんは、オトコですよ!」
 母は彼らを相手にせず、ふたたびワカに向かって、
「こんなに人をたくさんはべらせて、宗教家気取りですか。ただのヤクザ者にすぎないくせに。この家は有名ですからね。警察に頼んだら、すぐ連れてきてくれましたよ」
 彼女の眼は、ひたすら自分の内部にだけ向けられていた。いますぐにも何かが起こるのではないかと私は思った。しかしワカは、母の命がけの悪罵を聞き流した。素人に責めさいなまれながら、怒りよりはむしろ抑制のために、蒼ざめていた。もの言わない彼の張りつめた表情から察すると、ものを言うまいとすることに気を配るあまり、周囲の人間では考えの届きようのない領域に気持ちが沈んでしまって、しかも彼は、だれにもそのことを説明する気もなさそうに見えた。そのせいで、母の大げさな身振りと言葉が反撃を受けずにすんでいた。
 組員たちは、手も口も感情も出さないワカと、怖いもの知らずの母を、呆気にとられて見比べていた。彼らは組織された社会の規則を受け入れることを拒否し、他人の支配を拒否するまれに見る男たちだった。いかなる力も、いかなる人間も、彼ら自身がそう望むのでないかぎり、その意思に反した行動をとらせることはできなかった。彼らは馬鹿にされるのを拒否した人間たちであり、常識に支配された人たちが操る糸の下で踊ることを拒否した人間たちだった。つまり、人並みすぐれた知恵と暴力で自分の自由意思を守ってきた男たちであり、彼らの意思を覆すことができるのは、たぶん義理人情と、死をもって彼らに向かってくる勇気だけだった。
 ワカは私をやさしく手招きして言った。
「きみの事情がすっかりわかったよ。野球に関してぼくがきょう言ったことは失言だった。悪かったね。しかし、きみのできる範囲でお母さんに孝行してあげなさい。しかし縛られちゃいけないよ。縛られることは、長い目で見ると、孝行じゃない。きみの人生は、きみだけのものだからね」
「はい」
 すべての言葉が簡明だった。私は彼の言葉をすべて理解した。
「さ、早く帰りなさい。また遊びにいらっしゃい。お母さん、ほんとうに申し訳ありませんでした。すばらしい息子さんなもので、こちらも喜びすぎたきらいがありました。重ねがさね、謝ります。勘弁してください。くどいようですが、神無月くんには、寺田の弟がひとかたならず世話になりました。心よりお礼を申し上げます。おーい、この子のカバンを持ってきなさい」
 組員の一人が奥へ走った。光夫さんが母に深々と礼をしている。ワカは私が靴を履き終えるのを待ち、ガラスの引き戸まで肩をそっと抱きながら導いて出ると、年かさの警官のほうへ押した。浅野は微動だにしなかった。
「口も利けねえで、それでも先公かよ。その傷はダテか。見損なったわ」
 康男が憎々しげに言った。浅野は小さく舌打ちをした。それから私の腕をとると、パトカーの後部座席に押しこんだ。玄関のあたりで組員たちのざわめきが起こった。一文字眉が、この夜のできごとを歯牙にもかけていない感じで、
「神無月さん、あんたはオトコやで。命を懸けてお護りします」
 と言った。ワカと光夫さんが深々と私に頭を下げた。両脇に控えた男たちが、二人に倣って、パトカーに向かっていっせいに礼をした。私は恥ずかしくて彼らに視線を戻すことができなかった。
 パトカーは寝静まった街を、堀川沿いに走りだした。後部の窓を振り返ると、康男が片手を真っすぐ上げていた。両脇にいる母と浅野は、私から顔をそむけて街並を追っていた。彼らが何を考えていようとかまわなかった。私は運転する警官の首筋を見た。一つの恐怖で頭がいっぱいになった。
 ―もう、カズちゃんに会えなくなる。
 浅野がカラス色のライターで煙草に火を点けた。助手席の年輩の警官の背中が私に語りかけた。
「あの家はね、人間のゴミ溜めみたいなところでね、きみのようなまともな学生の近づく場所じゃないよ」
「ほんとにすみませんでした。父親代わりのつもりでいても、なかなかいき届きませんもので。……曲がったことだけはしないように育ててきたつもりなんですが」
 はらわたが煮えた。曲がったことばかりしているのはおまえのほうだろう。
 ふと私は、自分は母にだけ腹を立てているのではない、彼女の存在を許している世界に、彼女を後押ししている世界にこそ腹を立てているのだと気づいた。彼女はその世界を後ろ盾に、薄笑いを浮かべながら歩き回り、わがまま放題のことができる。世界は彼女のようなクソッたれのために造られている、そう思い至ってはらわたが煮えたのだった。
 母は警官の背中にペコペコと頭を下げた。運転している警官が、風を入れるために大きく窓を開け、スピード上げた。助手席が言った。
「先生という仕事もたいへんですな。こんな夜中まで生徒指導をしなくちゃならんのですからなあ」
「はあ……」
 なんという得体の知れないやつらだろう! 私はつくづく、母の、そして浅野の、自分という人間に対する執着の深さを思い知った。いったい私をどうしようというのか。われとわが情熱が、この私だとでもいうのだろうか。
 母がネズミのような真っ黒い眼で私の横顔を窺っている。私はその黒い視線を感じながら、幼い怒りが叫ばせるものを、喉にせり上がってきた気持ちの悪い胃液とともに飲み下した。
 ―何もかもおまえたちの思い通りになると思ったら、大まちがいだぞ。


         八十一

 浅野が何か言い出そうとするときの癖で、唇を突き出し、鼻をチューとすすり上げた。
「もう寺田と付き合ったらあかん。あさってから、俺の家に下宿しろ」
 予想していた恐ろしい宣告なのに、なぜか安らかに耳に響いた。そもそも、私に予定や計画があっただろうか? ない。カズちゃんを連れて、また別の運命へ流れていこう。彼女はどこまでも私についていくと言った。かならずそれを実行するだろう。カズちゃんの存在だけが大切だ。彼女が私のそばにいるかぎり、何が起ころうと、それが起こったというだけのことだ。何も変わっていない。
 堀川の流れを見つめた。びっしりとくっつき合った黒い水が生きもののようにふるえている。人生なんて簡単なものだ、すべて予想どおりに運ぶ。桜の根方に放り出されたボンの背中と、男たちの吠え声と、看護婦たちのおびえた顔と、振り下ろされた木刀の記憶が絡まり合いながらいっときによみがえってきた。
 ―すべてが起こり、すべてが予想どおりに終わり、そして忘れられるのだ。
 カズちゃんと腰を下ろした宮の渡しのベンチが浮かんだ。私は目をつぶった。
 パトカーが事務所の前で停まった。小山田さんと吉冨さんとカズちゃんと、そしてクマさんまでが、不安そうな顔で立っていた。きっとカズちゃんがクマさんに連絡したのだ。母がパトカーを見送り、みんなに短い言葉で詫びた。それから、
「片づけが残ってますから」
 と言って、カズちゃんと食堂へ入った。浅野は私を立たせたまま、三人に教師らしい口調で、今夜の事情を説明した。三人とも苦々しい顔をしながら、無言で聞いていた。
「そいつらは、キョウに礼が言いたかっただけだな。大将の身内だろ。筋を通して、立派なもんじゃねえか」
 クマさんが言った。
「そうですよ。何か問題があったんですか。それともわざわざ問題にして、ことを荒立てたかったのかな、おばさんは。……偏見のきつい人だから」
 吉冨さんが言った。
「たしかに、偏見じゃないの? ヤクザ者ほど義理と人情に篤いやつらはいないぜ。俺たちは毎日そういうやつらを扱ってるから、よくわかるんだ」
 小山田さんが言った。浅野は言葉に窮して、ただ薄ら笑いを浮かべるだけだった。母が出てきて、どうぞお茶でもと浅野に声をかけた。とたんに三人は、寮の裏手に姿を消した。
「いえ、まだ家の者に連絡してませんから、すぐにおいとまします」
 その隙に私は一人で勉強小屋へ戻った。真っすぐなトネリコの若木の肌が、庭の闇の中でかすかに光っていた。何分かしてクマさんが顔を出し、
「大将のせっかくの退院祝いがなあ。キョウ、ほんとにおまえって、運が悪いな。なんでいつもこうなるんだろうな。……おまえのやってることは、まちがってないよ。会社のみんなだってそう思ってる。母ちゃんには言ってもむだだけどな」
「あさってから浅野の家に下宿させられるんだ。これから、もっともっと悪いことが起こりそうだね」
「とんでもねえことになっちまったな。スカウトは追い返されるし、踏んだり蹴ったりじゃねえか。母ちゃんは人間として問題外だが、あの先生も気に入らん。キョウのことを本気で心配してない。母ちゃんの太鼓持ちじゃねえか。イヤになったら俺の社宅に逃げてこい。房ちゃん、喜ぶぞ」
「赤ちゃんでたいへんなのに」
「たいへんじゃねえよ。もうそろそろ二歳だ。赤ん坊も喜ぶぞ」
         †
 つい何カ月か前までは溌溂として非の打ちどころのなかった少年が、何かの風の吹き回しで、だんだん無気力になっていくらしいのを、教師たちは訝しそうに見ていた。少年にとって野球が学校のクラブ活動ではなく、将来の職業としての希望を託すものであり、その希望を母親の手で実質的に奪われてしまったことを、彼らはまったく知らなかった。
「何か悩みがあるんですかね。スポーツも勉強も図抜けた能力を発揮してるし、これといって彼のゆく手を遮る障害なんてものもないわけでしょう。長期の病院がよいにしたって、麗しい友情からやったことだし、あれだけの成績を収めているなら親もさほど責め苛(さいな)んだということもないだろうし、大した不都合があったとは思えないですがね」
 浅野は〈不良〉少年のもの思わしげな貌(かお)を思い浮かべながら、彼の行状の不可思議さをめずらしがる同僚たちにこう説明した。
「寺田のように、人生のドブ板を踏み外したような生き方を、男らしいと考えているんじゃないんですか。まねしてるんですよ。もともと神無月は、寺田と似た心の動きをする人間じゃないんだが、育った環境が貧困な母子家庭だという点で類似点がある。木はその山で見分けると言いますからね。類は友で惹き合うところがあるんでしょう」
 それは、秀才の転落を環境から説明するにはうってつけの理由だったけれども、少年の幼いころからの痼疾であるコンクリートのように凪いだ心を知らないという点で、まったく見当外れな推測だった。少年は絶望していたが、悩んではいなかった。
「なるほど、寺田、ですか」
 寺田康男に関しては、彼らはその天才的な気質を不気味に思っていた。知能検査で群を抜いた首席の成績を納めていながら、学業成績は常に下から数えたほうが早かった。天才の風変わりな性癖を知らないせいで、彼らは康男の人を嘲るような目つきにプライドを傷つけられ、こちらの本質まで見透かしているような微笑に不安を覚え、えも言われぬ不快な思いをしてきたのだった。浅野が慕う大先輩の久住が言うには、
「神無月も寺田も、山に生えてそこから動かないというわけじゃない。そんな、もともとあてにならない環境論で、持って生まれた性質を決めつけることはできないね。まあ、環境と知能のアンバランスなどという難題は、とうてい公教育では解決できないよ。友情は男にとって正義だよ。正義のためには闘え、でなければ腹の中が腐る。是非を考えずに行動するべきときもあるんだ。寺田は太古の忘れ物だね。人間の悠久の歴史さえ感じる。神無月は寺田のために闘っているんだ。たとえ打ち倒されても、闘ったあとは気にならない。闘わずに切り売りした恥ずべき自分は、回復不能だからね」
 久住でさえ、母親の進路妨害のことは知らなかった。浅野はいつも、久住のもろ肌脱いだような物の考え方を心底尊敬していたが、そのことだけは教えなかった。
 天才と凡人のあいだには、もともと深い溝がある。その隔たりを顕示するために天才たちが学校でやってみせることといえば、もって生まれたせっかくの才能を足腰立たなくしてしまう愚行ばかりだ。どれほど励ましたり褒め上げてやったりしても、自分をけっして買いかぶらず(謙虚というのではなく、自分を捨てているのだ)、酒や煙草や、女色に走り、人生を気ままな旅に見立てて、何も計画せずに世間を闊歩しようとする。そんな旅へいま、もう一人の有能無比な天才少年が仲間入りしようとしている。それが久住の考え方だった。彼は教師仲間に言った。
「教師根性の強い人間なら、自分の受け持つクラスに一人二人の天才的な生徒がいるよりは、五人、十人の間抜けがいるほう好む。あたりまえの話で、教師の役目は常軌を逸した突飛な人間を育てることではなく、英語や数学のできる、計画的で実直な人間を育てることだからね」
 しかし、久住という片腕の教師はそんな腰抜けでなかった。早くから神無月郷のするどい天稟を知り、見る影もなく衰えた評価を哀れに思っていた。
「どんなにするどい素質を持った人間も、顔立ちが定まっていない幼年時代にまるで魯鈍のように見えたとしても、目鼻立ちが整ってくると、さまざまなものごとにするどい注意を向ける生まれながらの習性から、その顔面は引きつったようになるんだ。神無月は、毎日まさにそういう表情で教室に坐ってるよ」
 久住は老眼鏡をはずして歯に挟み、
「少しばかりの瑕(きず)を顕微鏡で拡大するように言っちゃいかん。神無月はじっさいに人を傷つけたわけでも、殺したわけでもない。彼の寺田に向ける気持ちは、塵のような身が塵に対して抱く共感というのじゃない。もっと質のちがった、どちらかといえば崇高な感じのするものだね。友情に殉じたんだよ。心中だね」
「彼も、ヤクザの仲間入りですか」
「神無月は寺田の続編のような人間にはならんよ。彼には寺田のような機略がない。駆け引きということにかけては、見るからに無能だろう。きみも担任教師なら、あの純情な子と歩みをともにしてやらなければだめだ。先生風を吹かせすぎちゃいかん」
 と浅野を諌めた。目尻が切れて恐そうな顔つきをしているけれど、どことなくとぼけた雰囲気も合わせ持っている先輩に向かって、浅野は素直に、
「はい」
 と答えた。
 同じ日、久住は職員会議でも長広舌をふるった。
「あんた方は神無月のことを、世間知らずのガキだと思ってるらしいが、彼には墓に近づいた人間に自分の一生を振り返らせるような、啓示力がある。あの情熱的な少年は、簡単に世間の思惑など見抜いてしまうまぎれもない天才だよ。彼が周囲の目を惹いたり、嫉妬と悪意の的になったりするのが、それこそ天才の証だし、宿命だ。この一年の神無月のドラマは、環境がもたらしたというよりは、彼の混乱した感情のせいだ。若い者にはいろんな発作があるものだよ。だが、若いころ混乱を起こしやすかった者が、あとになって非常にハッキリした人間になるということがよくあるんでね。彼はその才能のせいで、今後も無鉄砲な行動を重ねたあげく、人生の苦しみに矯(た)められて、大した男になるにちがいないな。いまここで、そういう貴重な芽を摘むわけにはいかないだろう」
 校長や和田先生など、一部の教師はうなずいていたが、反発する者が多かった。 
「おっしゃることはよくわかりますが、彼の未来だけを尊重するわけにはいかないでしょう。中学生として、ほかの仲間と足並をそろえてもらわないと。集団生活の秩序が乱れますからね」
 顔に似合わぬ意見を吐いたのは、フランケン中村専修郎だった。
「もっともな意見に聞こえるけれど、教育的ではないね。教育の基本はエコ贔屓だよ。贔屓されない子がそれなりの生き方を学ぶのも、学校だ。そんな子は、目をかけてやらなくても、神無月や寺田よりはマシな未来を手にするものさ」
         †
 野球部が終わるのを待っていた浅野に連れられて、私は暮れなずむ伏見通りの坂道を国鉄熱田駅へ下っていった。五年前、母子を乗せた列車はちょうどいまごろの時刻、この坂を見下ろす陸橋をのろのろと渡った。病的に澱んだ汚水の表面に豚の死骸が漬かって動かず、水はどこまでも同じ厚みでつづいていた。私はいま、あの日汚水の下に深く沈んでいた坂道を下りながら、自分の澱んだ内海を遡っていくように感じた。
 浅野は、天井の高い待合のベンチに私を待たせ、私にだけ切符を買った。壁に東京オリンピックの宣伝がべたべた貼られていた。なぜかバレーボールの写真ばかりだった。世界の魔女、おれについてこい、ど根性、などと書かれていた。
 蒸し暑い待合の中へ夕方の風がまぎれこんできて、湿気を散らすのが心地よかった。自分と北村和子との関係は将来どうなるのだろうという具体的な考えは、もうたまにしか浮かばなかった。私はカズちゃんを信じていたけれども、努めて明るい希望を持つまいとした。どこからか人びとが湧きだし、改札に向かって進みはじめた。浅野に促されて列につづいた。男よりも女の姿が目についた。女は意味もなくよく働く。働く理由や事情を抱えている女はまれだろう。
 カズちゃんの肉体を知るまでは、道で女たちに出会っても薄ぼんやりとした影にしか映らなかったのに、それがいまでは衣服の内側で蠢く胸や、尻や、下腹のくぼみ具合まで手に取るようにわかるし、肌の滑らかさも、女たちの視線にこめられた熱気も感じることができるようになった。何かよくわからないけれども、女という存在の中に十五歳の自分を強く惹きつけるものがあるのに気づいた。こんなつらい時期に、こんな浮ついた気持ちになるのは、私が下劣な男だからにちがいない。心はカズちゃんに忠誠を誓っているのに、からだが裏切っている。私はがんらい頑迷なほどの道徳漢だったので、慎ましい人間によくあるように、自分の正しいあり方には極端にこだわっていた。だから、どんな中学生にもありがちな小さな背徳が、自分にとって第一の属性になり、自分の美徳を変質させてしまったのかもしれないと考えると、ひどく不安になるのだった。
 古ぼけた焦茶色の電車がホームに入ってきた。満員の電車の座席を求めることなど思いもよらなかった。浅野は車体と車体のあいだの連結部に場所を占めた。定位置のようだった。電車が走り出すと、足もとの鉄板が不安定にきしり合い、からだが揺れ動いた。車輪の単調なリズムが足裏に響いてきた。浅野と私は前後の乗客に押されながら、かろうじて胸を触れ合うように立っていた。浅野は自分の呼気を気にするふうに横を向いた。深い傷が目の前にあった。私はふと、朝夕こうやって、人いきれと振動に身を任せながら通勤を繰り返さなければならない男の身の上を気の毒に思った。しかし気まぐれな同情も、カズちゃんのやさしい眼差しを思い浮かべたとき、一瞬のうちに憎しみに変わった。
 なぜ自由を奪われ、気に入らない教師のもとで暮らさなくてはならないのか。そのことについて、私はだれにも問いかけなかった。問いかけても何の解答も得られないとわかっていた。自分の行動の結果が引き起こした不自由であることはまぎれもなかったし、何よりそんな疑問のゆくたてを考えるのは、ひどく面倒くさかった。どうやってこの軟禁状態から逃げ出し、どうやってカズちゃんと逢瀬を果たすかだけが重要な問題だった。私は静かにあきらめていたけれども、希望を捨ててはいなかった。拘束の鎖を断ち切ることに奇妙なファイトを感じていた。
 私をこうして夕方の満員電車の中に立たせている原因は、他人の思惑に逆らわないという怠惰ではなく、言いかけて効果のない人間に向かって言葉を失うという怯懦でもなく、学校や勉強小屋の生活への未練のなさでもなかった。私はカズちゃんを知って以来、いろいろ気ままに振舞っていたけれども、行動の細かいとりこぼしがきっかけで、かけがえのない人間を失うことを心の底から恐れていた。私は母や浅野に与する人びとに、彼らの思いもよらない大切なものを、北村和子というひとりの人間を奪われることが、何よりも恐ろしかった。その恐怖を悟られないためにも、更生のゲームにうなだれてしたがう不良を装わなければならなかった。
 ただ不安なのは、世間のしきたりの中で生きている大人であるカズちゃんが気弱になったり、その気弱な彼女に降りかかってきたりする〈都合〉だった。彼女はだれかに私のことを洩らし、道徳的な説得を受けないだろうか。長く逢わないうちに、ちがった男が彼女に親しく声をかけないだろうか。いつまでも連絡をとれない私を不実に思い、考え直して、私とした行為と同じ行為をほかの男としないだろうか。同じ顔をし、同じ声を上げて……。
 いや、そんな不安を抱くのはカズちゃんに対する侮辱だ。彼女は私とちがって根っからの〈不良〉だから、自己満足のための相談を人に持ちかけるような脆い女ではあり得ない。彼女はいつか、自分にとっての都合はキョウちゃんの生き死にだけだとハッキリ言った。それに、愛の相手と思い定めた私と交わるために、寡黙に五年も待ち、思いを遂げたあとも、キョウちゃん以外の愛してもいない男とは決して交わらないと誓った。私に思いを告げるために五年も待った女が、何週間かわからない束の間の拉致期間に、音信が途絶えたからといって不満をかこつはずがない。いまこそ、彼女の寡黙を私の模範にしなければならない。あの夜の疼痛が甦ってきた。あの疼痛が、そしてカズちゃんの流した涙が、私の恋の拠りどころだった。痛みと涙で恋する者と結びついているという自信が、何よりも私を寡黙にし、信念の人になることを強いた。


         八十二

 電車が名古屋駅のホームにすべりこみ、浅野と私は大勢の人びとといっしょに吐き出された。コンコースの人混みの中を歩いて駅裏へでた。まばらなビル街がすっかり夜に包まれている。
「ここはな、太閤秀吉の凱旋を記念して造られた遊郭の跡地だ。入り組んでるので、蜘蛛の巣通りと呼ばれて、いまもちゃんと機能しとる。近づくなよ」
 和田先生よりも陰湿な口ぶりだった。
 平べったい軒並が、ネオンを反映しながら不規則な形でうずくまっている。康男はこの暗がりのどこかで筆下ろしをしたのだ。そのとき康男は、相手の女にどんな言葉をかけたのだろう。女はどんな方法で康男を愛撫し、どんな言葉で康男を受け入れたのだろう。きっとあの軒の下には、私の知らない興奮があり、肉体の接触があり、想像もつかないような言葉のやりとりがあり、行為のあとのだれにも咎められない安全な手続があるのにちがいない。しかし、愛情もなく〈そのとき〉をすごすことができるのだろうか。私が知る必要のないことだ。カズちゃん以外の女との肉体の時間など、何の興味もない。
 浅野は終始無言だった。彼は蜘蛛の巣通りの暗がりから遠ざかっていくように、ビルに挟まれた道を歩いた。それでも電信柱の陰に人待ちの牛太郎がちらほらいて、浅野は彼らを見かけるたびに巧みに辻を曲がった。ところどころの板塀や電信柱に亀島町という表示が見て取れた。古い軒並を抜けた十字路で浅野は立ち止まり、あそこだ、と指差した。炭と書かれた大きな板看板が軒にぶら下がっていた。
「俺の家の生業は燃料屋だ。土間がちょっと散らかってるぞ」
 出店もなく、連子戸の立ったふつうの民家にしか見えなかった。浅野は戸を引き、
「ただいま」
 と甘えるような声を上げた。ギョッとした。戸敷居の内側からすぐ裏へ抜けるように踏み固めた土間が通っていて、壁沿いに炭俵や灯油缶がうっちゃってあるのが見通せた。浅野のあとについて入った。鞘土間全体に、いがらっぽいにおいが滲みついている。土間に並行して三間つづきの畳部屋があって、それぞれの上がり框に障子が立っている。私は一瞬、野辺地の合船場の土間に立っているような錯覚を起こした。最初の部屋は障子を開け放してあり、痩せぎすの五十年配の男が、あぐらをかいて新聞を読んでいた。彼は探るような目つきでこちらを見た。浅野が、おやじだと紹介したので、私は頭を下げた。彼のことをとっつきの悪い人間に感じたのは、たぶん母に似た眼をしていたからだろう。浅野はそのまま進んで、いちばん奥の部屋の前に立った。足もとを見ると、俵からこぼれ落ちた炭のかけらが土間の途中の仕切り板まで掃き集められ、その板の向こうがさらに土間になって薄暗い風呂場の空間につづいていた。仕切り板の脇から頑丈そうな階段が二階へ昇っている。
 三番目の部屋の障子が待ち構えたように開いた。襟あきのゆったりした和服を着た大柄な女が、笑いながら上がり框に立った。
「お帰り。郷くんやね」
「はい」
「こいつがいつも言ってた神無月だ」
「待っとったんよ。まあまあ、上がりゃあせ」
 土間から見上げたせいか、背が高く、からだ全体がたくましく見えた。その部屋は蛍光灯が明るい六畳の居間で、すでに準備された食卓に、眼鏡をかけたニキビ面の若者がこちらを向く格好で坐っていた。私が挨拶する前に、柔和な笑みを浮かべてお辞儀をした。私もお辞儀を返した。
「こいつは弟のタケオだ」
 と浅野が言った。
「ここに座れ」
 浅野は私に無愛想に命じた。私は敷居ぎわに正座した。仕切り襖を開けて父親がやってきて、あらためて軽く会釈をしながら食卓についた。糊の強い浴衣を着ていた。
「めし、めし!」
 父親が低い声で言う。キンメの煮つけと、香の物が目の前にあった。母親がめし櫃の前に坐った。いきなり夕食の時間になった。時分どきがくれば、何があろうとめしを食わなければならないというふうだ。私はまるでめしをよばれにきたようだった。母親はひととおりめしを盛り終わると、台所に去って味噌汁を盆に載せてきた。父親が飯台に向かってぶつぶつ言った。
「この節、安いものなんかあれせん。だいたい世の中というのは金のあるやつに―」
 浅野は父親の言葉をさえぎり、 
「犬にやるくらいの食い扶持だよ。とにかくこいつをしばらく家に置くから」
 浅野の言いようで、父親の愚痴の意味がわかった。人ひとりに食わせるということになれば、相応の入費がかかるのだ。浅野の丸い顔には、家じゅうでもっとも稼ぎのある人間だと自得しているような、気負った表情が表れていた。考えがありそうで、そのじつ何も考えていない、そこらでよく見かけるような顔だ。清川虹子のような顔をした母親は終始笑顔で、それでいて微妙に私との対話を避けていた。
「しっかり勉強してるか」
 浅野に問いかけられたニキビ面の若者は、おっとりとうなずいた。
「郷くんに会いたいって、早いうちに下に降りてきたんだわ。いっしょにごはんを食べる言って」
「勉強も野球も天才だって、兄さんが言ってたからさ、どんな子だろうと思って」
「つまらんこと気にかけんと勉強しろ。しっかりやらんと、また浪人だぞ」
 この貫禄のない弟は、主人格の兄にちょこんとくっついているという格好だ。しかしそれは牛のような従順を演じているだけで、兄の権威に寄生しているという雰囲気ではなかった。
「きょうは特別だからええがね、修ちゃん」
 母親は頓着なく笑い、息子である浅野に、チャンづけで呼びかけた。私は、絡みつくような血の煩わしさを感じた。
「ロウニンて何ですか?」
 弟に訊いたのに、兄が答えた。
「大学に入るのに何年もかかるやつのことだ」
「大学って、難しいんですね」
「人による。―かあさん、神無月はワルだけど、ふつうに勉強すれば旭丘にいける人材だ。ふつうに勉強するよう、よろしく頼むわ」
 母親はニコニコうなずいた。
「ここに坐りなよ」
 タケオさんが私を手招きした。私は彼の隣に腰を下ろした。
「ふうん、すごい美男子だね。睫毛がこんなに長いや」
 と言って、親指と人差し指で空間を作った。私は応えようもなく、かしこまり、目のやり場に困って箪笥の上の日本人形を眺めた。
「ぼくはお兄ちゃんとちがって頭悪いから、二浪もしとるんだ」
「ニロウって、二回、大学に入れなかったってことですか」
「そう。三回目もだめかもしれないな」
「なに悠長なこと言っとるんだ。今度だめなら、社会に出ろ」
 タケオさんは兄の威嚇に動じるふうもなく、笑顔を崩さないで私に話しかけた。
「郷くんは音楽好きかい」
「はい」
「じゃ、いろいろ聴かせてあげよう」
「ステレオ、ありますか」
「うん、兄ちゃんからもらったやつ」
「神無月はそれどころじゃないんだ。おまえだってそうだろう。そんなくだらないことばかりしとるから、二浪もするんだ。とにかく今年がタイムリミットだからな。その覚悟でいろよ」
 行事的な心配事や悩み事があれこれとついて回るアタリキの生活、というやつだ。飯場とはまるでちがう。それきり一家は何の話題もなく、父親が箸を取り上げると食事になった。彼の小柄な姿は、下座に控えている頑健そうな母親に比べると、ひどく見劣りがした。
「キンメ、おいしいわよ。ごはんどんどんお替りして」
 こんな夜をあと何度迎えなければならないのかと思うと、げんなりした。まったく食欲が湧かず、一膳のめしを半分も残した。
「おとうさん、お酒つけますか」
「めしのあとは、いらん」
 母親が言うと、ちぎって投げつけるような調子で応えた。いつもと生活のリズムが狂ったと言わんばかりの語気だ。私は色にこそ出さないが、軽侮の念が起こるのをどうしようもなかった。人は不機嫌で生きてはいけない。不機嫌は人の気分を怒りと恐怖で満たす。
「お風呂、見てくるわ」
 そう言って母親が土間へ降りたのを機に、一家の箸の音が絶えた。土間の奥から、
「マコ、甘えてばかりでごめんね、ミコはとっても……」
 と唄い上げる母親の太い声が聞こえてきた。浅野が眉に皺を寄せた。この弟と母親とだけは、うまくやっていけると思った。私が微笑んでいると、タケオさんが、
「郷くん、あの歌知ってるの」
「歌は知らないけど、顔の骨肉腫で死んだ大島みち子のことでしょう」
「あら、郷くん、詳しいんやね」
 風呂場から戻ってきた母親がテレビをつけた。ちょうど歌番組をやっていたが、父親がすぐにNHKに切り替えた。
「郷くん、お風呂入りゃあ。五右衛門だから気をつけてね」
 強いられるままに、はじめ湯を使った。豆燭に照らされた洗い場の床板が少しぬるついた。手入れがおろそかになるのは、家庭風呂の気に食わない点だ。英夫兄さんの家もそうだった。飯場の風呂はカズちゃんのおかげで、いつもキュッキュしている。内風呂は銭湯や飯場よりも蒸し暑くて狭苦しい。五右衛門仕立ての風呂については知識がなかったけれども、鉄の縁を触ると熱かったので、やけどをしないように気をつけながら、釜から木桶で湯をすくって手早くからだを洗った。濡れた手拭に皮膚が打たれて、ぴたぴたと音を立てた。
 脱衣場に真新しいパンツとランニングが用意してあった。風呂から上がって居間に戻ると、父親の姿はなく、母親と浅野と弟の三人が茶を飲んでいた。
「よし、今度は俺が入るか」
 浅野が立ち上がった。
 弟の案内で広い階段を上がった。廊下は障子を立て回した造りになっていた。八畳間に蚊帳が吊られ、早ばやと一対の蒲団が敷いてあった。九月も下旬なのに、このあたりは蚊が多いのだろう。蚊帳は萌黄色の真新しいものだった。釣手の金具が電球の灯りに光っている。蚊帳を見るのは何年ぶりだろう。野辺地に里帰りしたとき、ばっちゃ部屋で見て以来だから……五、六年か。しみじみと眺めた。
「蚊帳がめずらしいの?」
「青森以来しばらく見なかったから、なつかしくて。でも、蚊帳は暑苦しい感じがするから好きじゃない」
「おもしろいことを言うね。このへんは蚊が多いから、蚊帳なしで寝るとたいへんだよ」
 蚊遣りの焚いてある細いベランダから見下ろすと、浅野と歩いてきた通りだった。街灯がまばらに連なって薄暗かった。目の前にスレート屋根の工場のブロック塀があった。何を作っているとも知れなかった。
 蚊帳の枕もとの壁にくっつけて、浅野の使い古しの机が置いてあり、足もとに荷箱がいくつか積んであった。
「郷くんの会社の人が、昼のうちに運んできたんだよ」
「ああ、それで……」
 新しい下着が脱衣場に置いてあったわけだ。クマさんが買って入れたのだろう。開けてみると、教科書やノートの類と、着古した下着やワイシャツだった。小屋の机の中身は一つも入っていなかった。カズちゃんに手紙やペンダントや写真を預けておいてよかったと思った。
「鼻が曲がった人だった?」
「さあ、ぼくは部屋から出なかったから。……郷くんは、ワルに見えないね。ちょっと破目外しちゃったの?」
「……いろいろね」
「少しいい子のふりしてれば、すぐ帰れるよ」
「ぼくの母は、そんな簡単な人じゃないんだ。へたしたら、来年の受験までここに置かされるかもしれない」
「それはない。一時的なお仕置きだと思うよ。いい経験になるさ」



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