七十九

 大瀬子橋までゆっくり走り、神戸町の坂から内田橋の大通りへ出る。傾いた陽が真横から差してきた。伝馬町のゆるやかな上り坂を立ち漕ぎでいく。大型のトラックが猛スピードで通り過ぎる。ふと、巻きこまれたら木田ッサーになるな、と思った。思いもしない誘惑があったけれども、すぐに消えた。
 急速に暮れていく牛巻坂を立ち漕ぎで登る。野球だけが人生じゃない、という平凡な言葉が活字になって頭に浮かんだ。何でもかんでも人生だ―格言の意味はすべてそのひとことになる。アスファルト道をくだっていくとき、自転車ごとからだが落下していくようで、血がすべて抜き去られて生まれ変わった気分になった。
 牛巻病院に射しかかる街灯の光が、きょうはどこか沈んだ色合に見える。自転車を桜の木の下に停め、スリッパを履いてロビーに入る。リノリウムの廊下、白っぽい壁、あたりにただよう薬品のにおい―いつもと同じだ。ちがうのは、とうとう康男が退院するということ、もうこの病院にかよわなくてすむということだ。
 七時を回ったロビーには人影がなかった。受付にめずらしく婦長が座っている。節子は非番のようだ。頭を下げ、三階へ昇っていく。康男と何百回も歩いた階段。手すりを触りながらゆっくり昇る。大部屋は人工の光でいっぱいだった。三人ほど新顔が増え、三吉一家のベッドに、中年の痩せた男が掛蒲団をはいだパンツ姿で横たわっている。
「いてェんだよ。早く医者呼べよ!」
 片足が膝からないことに気づく。袋を縫い閉じたような切断面が目を射った。付添いの女に足の痛みをしきりに訴えている。目を逸らした。康男はすでにさっぱりとした半袖のシャツと麻のズボンに着替えていた。笑いながら寄ってきて手を握った。強く握り返す。
「とうとう、退院か……」
「八カ月ゆうと長く感じるけど、何年おるかわからんやつに比べたらましや」
 そう言いながら、リューマチ先生を振り返る。先生はにこやかに手を上げた。三吉に代わっていつもの言葉をかける。
「一段と男前ですね」
 看護婦を連れた白衣の医師が入ってきて、男の足に注射を打った。男は一分もしないうちに静かになった。付添いが、お騒がせしてすみません、と頭を下げた。
「ない脚が痛むらしいわ」
 康男がめずらしく同情めいた表情を浮かべて言った。
「こんなところに三日にあげずかよってきて、イヤになりませんでしたか。みんな能もなく病室にこもっているだけのヤカラだったでしょう」
「ひでえこと言うなよ。病人なんだから仕方ねえやろ。俺が退院したら、もうあんたの憎まれ口を聞いてやるやつもおらんようになるで」
 康男が笑いながら言う。新顔たちもつられて笑った。
「いやいや、聞いてもらえなくてもしゃべりますよ。もう少し世にはびこって、日本の行く末を見てみたいですからね。とにかくよかった、康男くんもついに退院ですか。これで郷くんの顔も見れなくなるなあ」
「いえ、また康男と、ときどききます」
「俺はこんぞ。こんなシンキくさいところには二度とこんわ」
「まだリハビリが残ってるでしょ」
「まあな。それも週に一回や。ここには寄ったらん」
 笑いながら言う。白いスーツを着た光夫さんが、両手に果物籠を提げて入ってきた。みんなに向かって深々とお辞儀をする。
「みなさん、長いこと弟がお世話になりました。いろいろ失礼なこともしでかしたでしょうが、どうぞご寛恕願います。おかげさまで退院できることになり、もとの生活に戻してやれます。中学生は学校で勉強するのがいちばんです。どうぞ、これ、みなさんで召し上がってください。付添いさん、よろしく」
 大きな籠を戸口に並べて置く。リューマチ先生が康男に、
「康男くんは?気(おとこぎ)もあるけれど、頭もよさそうですからね。勉強するのも、オツなものかもしれませんよ」
 康男は胸を張り、
「くだらん。俺は、自分に似合わんことはせんのや」
「とにかく、ときどき顔を見せてください。いつでも待ってますよ。私はここに永住ですから」
「もうこんと言っとるやろ」
「郷くんは遊びにきてくれますね」
「はい」
 光夫さんが先生に向かって、
「こいつもよこしますよ。こんなふうに事情を同じくするかたがたが、一つところにつどっている生活からは、落ち着いた〈いにしえぶり〉というものが学べます。けっこう模範になるんですよ。互いに助け合ったり、かばい合ったり、かける言葉も工夫し合って、いい意味の徒党を組んで暮らしていく。見る目のある人間には、輝いて見えると思いますよ。私も何度かかよってきて、病院というものを好きになりました。みなさんは病人らしく神妙に猫をかぶっているというわけではなくて、正直に、のんびりと暮らしている。世間の浮ついた連中に比べれば、病院暮らしの人たちのほうがずっとましですね。少なくとも、頭を養っていらっしゃる人間が多い―」
 なにやら小難しいことを言い出す。光夫さんらしい口ぶりだ。
「あなたも、じゅうぶん頭を養ってらっしゃいますよ」
 二人の会話はたいていこの調子になる。
「ありがとうございます。だいたい、世間のまじめでない連中は―いや、ワシはまじめですよ、仕事を選びそこなっただけで(と言って笑いながら頭を掻いた)。まあ、一般に覚悟のない連中は、これといった職にもつかずにただぶらぶらと遊び暮らしながら、棚からぼた餅が落ちてくるのを待っている。退屈しのぎに外へ出てみても、別に気晴らしになることがあるわけじゃなし、それでもエネルギーは発散しなくちゃならんというわけで迷惑千万な馬鹿騒ぎをやりはじめる。昼日なかに悪さをすれば露見するおそれがあるし、悪さの度が過ぎれば警察に挙げられてしまう。だから、抜け目なく夜陰に乗じてイタズラに及ぶわけです。いつかの三吉一家のボンボンなんかその好例です。あの節は、ご迷惑をおかけしました。ま、こういう世の中に、こんないい環境があれば、神無月くんのような理解のいい子の例も出てきて当然です。愚弟のためばかりでなく、かよいやすさもあったでしょう」
「言い得て妙ですな。郷くん、また、ほんとに顔を出してくださいよ」
 康男はベッドの下から大きなトランクを引きずり出し、洗濯をしていない下着だの、靴下だの、スリッパも、使ったことのないような箸も茶碗も、手当たりしだいに詰めこんだ。光夫さんがそれを持った。私は蒲団一組を担いで、光夫さんが乗ってきたライトバンまで運んだ。忘れ物を確かめに一人で大部屋へ引き返したとたん、看護帽をかぶった節子が戸口に顔を出した。
「ヤッちゃん、退院おめでとう」
 小声で言うと、私を見ないようにして足早に立ち去った。私はその後ろ姿を何の思いもなく見送った。光夫さんが戻ってきて、
「それじゃ、先生、みなさん、失礼いたします。ほんとに長いあいだ、弟がお世話になりました。ありがとうございました。また、折を見て寄らせていただきます」
 光夫さんに合わせて、私も大部屋の人たちに向かって頭を下げた。ベッドからリューマチ先生が小さく手を振った。
「じゃ、神無月くん、いこう」
「はい」
 彼は廊下を歩きながら、
「若頭があんたに会いたがっとる。ワカは名古屋抗争で一躍勇名を馳せた男ですが、頭が切れるだけでなく、義理人情にも厚いかたで、今回の神無月くんの行いには痛く胸を打たれておりました。もちろんワシは、それどころでない感謝の気持ちでいっぱいです。これからも康男のこと、くれぐれもお頼みします」
 立ち止まって会釈をする。私は、ハイ、と応えたけれども、自分の不安定な心を振り返って、あてのない悲しさを感じた。それにしてもなんという律儀な口の利き方だろう。私にとってこれまでヤクザとか暴力団員というのは、映画でしか知らない夢まぼろしの人びとだった。けっして近づくことのできない、覗き見することさえできない、想像の世界の人びとだった。その世界に君臨している幹部の一人に、いまこうして丁重に話しかけられ、頭を下げられている。きっと、何か自分の行動や態度に、この種の人びとに強く響く要素があるのにちがいない。若頭という男の、おごそかな、するどい顔を思い出した。私は、自分の不器用な直情の性質が、荒ぶる人たちの胸を打つような洗練されたものにすり替えられてしまった気がした。玄関に康男が立っていた。
「いくぞ、神無月」
「ぼくは自転車なんだ。ここで見送るよ」
「そうですか、ワカにはきょうのことを伝えておきます。じゃ、またの機会に」
 光夫さんが運転席に乗った。カーラジオから、スー・トンプソンの『ハヴ・ア・グッド・タイム』が流れていた。看護婦や医者たちは、申し合わせたように、玄関に顔を出さなかった。節子も姿を現さなかった。康男は助手席に乗りこみ、手を振った。光夫さんと康男を乗せた車は信号を渡り、テールランプを光らせて夜の牛巻坂のほうへ走っていった。康男がからだをねじって、いつまでも手を振っていた。
 もう病院に用はない。一月から九月。真冬が秋になった。立ち漕ぎで夜の坂を登っていった。いただきで自転車を停めて振り返った。灰色の四角い三階建ての病院が、街灯の薄い光の中にたたずんでいる。カズちゃんのくれた千円札がポケットにあるのに気づき、ノラのそばの甘味屋で、きつねうどんと白玉あんみつを食った。カズちゃんのやさしさを思いながら食った。店を出ると、ふとなつかしくなり、自転車を牽いてノラの看板の前までいった。丸ガラスの中で、女たちの動く影が見えた。
         † 
 水のような諦念などまがい物だとわかった。スカウトの件ですっかり勉強意欲が失せてしまっていた。勉強そのものに何の意義も見出せなかった。野球の未来への希望あっての勉強だったと思い知った。私はまったく机に向かわなくなった。学校ですごす時間以外のすべてを、本を読み、音楽を聴くことに費やした。
 一つ目の練習試合には、ホームランを一本打って勝利した。対戦相手の名前も、得点差も、ホームランの軌道も、何日もしないうちに記憶から消えていった。教室に私はぼんやり座っていた。カズちゃんの笑顔だけを想った。
 九月の十九日に、年に二回の恒例行事である校内実力試験が行なわれたが、いくらがんばっても、頭の中にひねり出せる蓄えがなく、何の思いつきも、記憶の切れ端も浮かんでこなかった。試験結果の望みのなさは自分でも笑いたくなるほどわかっていた。ついに勉強する気が根こそぎなくなり、もともと投げ出していた社会科の次に理科を、理科の次には数学を投げ出した。それから急に、知識のひどい欠乏に苦しみはじめた。その結果、抜き打ちの補習テストでさえ、校内で五十番を外れた。
 野球の声望とは関係なく、教師たちや級友たちのあいだで、自分の評価がだんだん下がっていき、満点から八十点へ、八十点から五十点へ、最後には二十点や十点まで落ちていくのを、私は何の不安もなく眺めていた。
 近視が進んだせいで、授業の最中に決まったように頭痛がするようになったけれど、眼鏡をかけたいとは思わなかったし、母にも何も言わなかった。頭痛がしないときは、カズちゃんのことを考えながら、ぼんやり教室の外を眺めていた。するとなぜか野球に対する奇妙なファイトがみなぎってきて、授業を終えると、だれよりも先にグランドへ走り出ていった。
 数学の和田先生と、社会科の久住先生だけが、評判を落とした私に同情を示した。和田先生は補習テストを回収している最中に、私の机に近づき、明るく笑って、
「どうした、最近は。簡単すぎて勉強する気がなくなっちゃったか? おまえはいいな、野球の才能があるもんな。でも、気が向いたら、勉強も頼むよ。俺を喜ばせてくれ」
 と言った。太くて響きのいい声なので、私は元気よく、ハイ、と応えた。
 片腕の久住先生は、私を廊下で呼び止めて、
「だれに何を言われようと、好きなように生きろ。勉強なんてのは、どんなに曲がりくねった人生の中でも、その気になればいつでもできる」
 と肩を叩いた。これにもまた私は、ハイ、と元気よく応えた。
「このあいだの練習試合、見てたんだぜ。でっかいホームラン打ったな。驚いたよ。和田さんが、記録に残らないホームランだけに何か価値がある感じだって言ってたぜ。あと何試合あるんだ?」
 長髪を左手で掻き分けながら尋く。
「今月の末に一試合、十月に二試合です。別に出なくてもいいんですけど」
「出ろ、出ろ。いいか、神無月、野球をやりつづけろ。おまえは絶対モノになる。それからな、いまおまえは人からいろいろ言われてるが、めげるんじゃないぞ。世間常識の提灯持ちなんか、何を言おうと屁でもない。どんな人生歴をたどろうと、教育の結果得られる精神の高さがなければ、人間はけっして大を為すにはいたらないのさ。おまえは教育されることに素直だし、勉強というものを愛している。これからどういう道をたどろうと、将来は心配ない。神無月郷はね、一般の中にかならずいる明達の士とか、俊敏な人びとといった人格じゃないんだよ。もっと次元のちがう孤高の人間だ。やつらの考えには収まらないよ」
 難しい物言いだったが、励まされていることだけはわかった。私は廊下を去っていく彼の背中に深く礼をした。


         八十

「神無月、サンフランシスコ講和条約締結は何年だ」
 日本史の時間、中村の馬公が、教壇から長い顔を伸び上げて言った。
「知りません」
 実際、私はその年号を知らなかった。言い捨てて、窓の外を無聊げに眺めた。これまでの中村なら、生徒のその程度の反応に誇りを傷つけられることはなかった。しかしこの日は何かの事情が、彼に怒りの導火線を用意していた。彼は教壇を跳び下りて、私に駆け寄った。
「なんだ、その態度は! なめくさって」
 ビンの毛を引っ張り上げようとした。私はその手を払いのけ、中村の目をまともに睨みすえた。馬公は怒り狂って、
「いいかげん態度を小さくしろ! 傲慢な野郎だ。この世のみんなが、おまえの味方だと思ってるのか」
 私は自分のいる位置の感覚をすっかり失った。沸騰する頭で私がとりあえず考えたことは、このしゃべりすぎる男に恐怖感を与えなければならないということだった。
「気をつけてものを言えよ。オレは寺田の留守番だぜ」
 馬鹿なことを言った。私は恥の上塗りをするように、オレは松葉会のワカのお気に入りだ、とまで言おうとした。教室のどこかで、せせら笑う声が聞こえた。その声に励まされて馬公も頬で笑った。
「そんなことで俺がすくみ上がるとでも思っとるのか!」
 中村専修郎はたちまち一振りビンタを飛ばした。私は座っていた椅子から転がり落ちた。中村はなおも私を立たせて胸倉を絞め上げ、平手を打ち下ろした。加藤雅江が椅子を鳴らして立ち上がった。
「やめてください!」
 ガラスを引っ掻いたような声の余韻が、耳の中でジンジン疼いた。
 放課後、私は浅野に職員室へ呼びつけられた。私はグランドにいた和田先生に事情を言って野球部の練習を休み、そのまま職員室へいった。浅野はカバンを提げている私を横目で制し、おもむろにカラス色のライターで煙草を吸いつけた。窓から射しこむ西陽に頬の傷がくっきりと浮き出し、どうしても目がそこへいってしまう。浅野は説教の釣果をあげるための重厚な語り口を思案しているようだった。煙を吐き出しながら、チューと鼻をすすり上げた。
「どうだ、最近は―」
 冷静をてらいながら彼が見やった窓の外、たいして遠くないところで、テニス部員が並んでラケットを振っていた。中に、片脚の短い加藤雅江の姿もあった。まだテニスなんかやっているのか。
「雅江はええ子やな。美人だし、頭もええし。おまえ、雅江と交換日記しとったってな。聞いたで。なかなか、やるやないか」
 明るく気取っていた時期の苦々しい思い出だ。
「馬鹿でしたね。恥ずかしいですよ。脚を治してやるなんて書いてね。格好つけてたんですね」
 浅野が、ふん、と鼻を鳴らした。
「露悪的だな。そんな話を聞いたら、雅江が悲しむぞ。しかし、そこまでものを考える力のあるおまえが、このごろ、どうしたんや」
「どうしたって、ふつうです」
「ふつうのはずがあるか! 何きばっとるんや。寺田のまねしとるつもりか」
 遠くの机から久住先生が目を上げ、片目をつぶった。
「まねなんかしてません」
「そうか……。どうのこうの言っても、あいつは大人物や。おまえごとき小物じゃ、とても追っつかん」
 浅野は歯をこすって笑った。醒めた笑い方だった。浅野は自分の言葉が生み出した効果を上目で観察していた。そして、大時代な身のこなしで椅子を回した。
「ま、さしずめ、いまのおまえは、屋根の樋に挟まってしぼんでまったゴムボール、あれやな。飛びすぎて、逸れて、とんでもないところに嵌まっちまったな」
 そのイメージは私にも鮮やかにイメージできた。人目につかないところで雨風にさらされ、硬くなってしぼんでいく―。
 浅野は私の表情の変化を認めると、傷のある側の頬をゆるめた。もともと声の小さい浅野の揶揄はほかの教師たちの机までは届かず、彼らはめいめい雑談に興じていた。声が聞こえてくる。
「高島忠夫の赤ちゃんを殺した十七歳の女中は、新潟から出てきた金の玉子らしいわね。上京した当初は、相当高島夫妻にかわいがられたんですって」
 つまらないことに関心があるものだ。
「そのあとで生まれた赤ん坊を、自分よりかわいがるようになったから、夫婦に復讐したという話だけど、まったく見当のつかない理屈だなあ。山口二矢(おとや)以来この数年、十七歳の犯罪ばかりで、空恐ろしい気がするよ」
 応えるほうも応えるほうだ。
「祭壇に死んだ子の笑顔の写真なんて……。私なら、立ち直れません」
 浅野がもう一本煙草に火を点けた。
「……俺はな、おまえにしぼんでほしくないんだ。―寺田はたしかに大人物かもしれんが、あれは、カスだな。頭はいいが―」
 足の裏にひやりと寒けが走った。浅野は机に置いた濡れ羽色のライターを指で弄んでいたが、人の悪そうな笑みを浮かべながら横ざまに煙を吐いて、こう言った。
「おまえの頭の良さとは質のちがうもんだ。ひょっとしたら、知能はおまえが一番かもしれんと先生方も言っとる。事情は山田先生から聞いとるからな。しかしな、それとは関係なく、とにかく小物はカスにもなれんのよ」
 校庭を走り回るテニス部のランニングの地響きが、とつぜん職員室を揺すり上げた。何か大きな憤りに似た悲しみが私を満たした。
「よくわかりました。じゃ、帰ります」
「今度よからぬ報告を受けたら、ほんとにうちへきてもらうぞ」
「はい―」
 私は立ち上がると、離れた机にいた久住先生に目礼をして、職員室を早足に出た。
 校門を抜け、飯場と逆の方角を目ざして歩いた。練習に精を出している関やデブシや大島の顔が浮かんだ。沈みかける陽を追って歩きつづけているうちに、いつのまにか神宮の境内の大楠の前にきていた。参道に冷えびえとしたまだらの夕日が落ちている。肋骨のように張り出した根方に横たわり、カバンを枕に仰向くと、痛みを覚えるほど高ぶっていた神経が静まっていった。見上げた目に、高い梢の隙間の明るい空が見えた。
 野球をしていない時間がゆっくりと過ぎていく。私はその時間の中で、自分に誠実に生きるという意味を考えようとした。しかし何も、何一つ、これといった意味を思いつくことはできなかった。たった一つ、目まいがするほど喜ばしいことを確信できた。それは北村和子を心から愛しているということだった。彼女を抱擁し、口づけをし、その性器に自分の性器を埋没させる悦びを思うとき、憂鬱な気分はあとかたもなく消えていった。
 あの廊下の暗がりで節子と口づけをして以来、葉が枝から離れ落ちるように、母親という枝から抜け落ちていく自分を感じてきた。しかし、そのすがすがしい感覚の浄化は、異なった世界へ生まれ変わるというほど革命的なものではなかった。単に古くて気に染まないものを捨てて、未来を楽観するという快さに基づいていた。私はカズちゃんによって生まれ変わったのだった。彼女に対する自分の気持ちを見極めようとは思わなかった。なつかしく胸を満たす思いを、曖昧なまま放っておきたいと思った。
         †
 涼しい風が吹きはじめた。
 退院以来どこにいるとも知れない康男に会っていなかった。また、リューマチ先生の期待を裏切り、一度も牛巻病院へ出向かなかった。私はひたすら野球に没頭した。そうしなければ自分の悍気(かんき)を抑えきれない気がしたし、いまここで日常の習慣から逸脱すれば、せっかく大事に護ってきたすべてを失いそうな気がした。
 本城中との練習試合まで、あと一週間と迫っていた。場所も二年前と同じ笠寺球場に決まった。和田先生が張り切っている。
「ここにきて中村には確実な長打力がついたし、野津のコントロールも見ちがえるほどになった。大砲二台じゃ、ちょっと心もとないが、これまでの勢いでなんとかいけるだろう」
「ウース!」
「いけるで!」
 背高ノッポの関と、いやに尻のあたりに筋肉のついた大島が、ドスの利いた声を上げた。俺の存在も忘れるなというデモンストレーションだ。御手洗がニヤニヤしている。私は関や大島よりも、御手洗のシュアなバッティングのほうを高く買っている。
「リリーフも二枚、バッチリだ。向こうも今年ベストエイトまでいったチームだ。二年前に一度やられてる相手だが、今年は互角以上だろう。気負わないでいけば、勝てる」
 卒業していった崎山と今に代わって、三年生の補欠から抜擢された努力家らしい右投げの二人が、この春から野津の控えとして投球練習している。私は彼らを見ても、名前を思い出せなかった。野津に比べたら小便球しか投げられないけれど、一、二回の救援で目先をくらますにはこれでいいのかもしれない。
「あいつらが投げたら、ぜったい打たれるで。野津がもてばええけど、いつ乱れるかわからんもんな。やっぱり、打って勝つしかないやろ。もう本間さんもおらんし、神無月一人に頼っとれんぞ」
 二人のピッチャーを眺めながらデブシが言った。その日は部員たちのバッティング練習に力が入った。私は、十本のうち五本はするどい当たりを飛ばせるよう、確実なミートを心がけた。関や大島も強振せずに、コンスタントにライナーを飛ばしている。
 ベーランが終わり、後輩たちの後片づけを手伝っているところへ、康男が、足を引きずりながら現れた。思わず私は階段の上がり口に目を凝らした。浅野の気配はない。
「ちょっと待ってて。いま着替えてくる」
「おお」
 康男から視線を逸らしてうつむきがちにしている部員たちを尻目に、更衣室に駆けこんで着替えをすませると、並んで歩きだした。
「リハビリ、順調にいってる?」
「あと、五、六回やな」
「いま、どこにいるの」
「松葉」
「あのアパートは?」
「かあちゃんと男の、チンチンカモカモ部屋や。あの年になって、よう飽きんもんやで。弟の教育に悪いけど、しょうないわ。リハビリついでに、リューマチに会いにいったったわ。さびしいやろ思ってな。帰りにセッチンにも廊下で会った。おまえのこと、細かく報告してくれって言われた。報告せんけどな」
「とにかくぼくは、彼女のことは何とも思ってないんだよ。誕生日のプレゼントまでもらって、冷たいやつだと思うかもしれないけど。……リューマチ先生、喜んだろうな。康男はやさしい男だね」
「あの先生も、よう生きて、あと二、三年やろ。これも何かの縁やからな」
 私はとつぜん、リューマチ先生に対するなつかしい気持ちでいっぱいになった。
「そのうちぼくも会いにいくよ」
「無理すな。……浅野に見張られとることだけは、セッチンに言っといたで。おまえが薄情者(もん)て思われたら頭にくるからな。―ちゃんと浅野がおらんのを確かめてから上がってきた。心配せんでええ」
「きょうは、どうしたの。まさか節ちゃんの伝言を知らせにきたわけじゃないだろ」
「……兄ちゃんが連れてこいってよ」
「光夫さんが? どこへ?」
「松葉の本宅やが。兄ちゃん、いま、校門で待っとる」
 敬愛をともなった好奇心が湧き上がった。
 校門の外に、トレンチコートに灰色のスーツを着た光男さんが待っていた。
「ご迷惑でなかったですか?」
 彼は頭を低くして尋いた。
「いえ、ぜんぜん」
 光夫さんはかすかな笑みを浮かべた。彼にはヤクザ者らしくないぎこちないところがあった。それが恐ろしげでもあり、魅力でもあった。彼は康男の脚を気遣うように、下目使いに歩きだした。
 松葉会の本宅は、宮中から歩いて五分ほどの、本遠寺裏の民家が建てこんだ一画にあった。しかし、一見してその種の人たちが棲む建物だとわかった。あたりの家とはちがって旅館ふうの棟長の二階家で、黒木の柱を対に並べた門の両側に、葉の大きいタイサンボクと、寒竹が植えてあり、打ち水をした玄関まで飛び石が伸びている。踏み石の両側に砂利が敷きつめられ、竹以外に表からの視線をさえぎる障害物はなかった。すぐ目につくのは全面ガラスの引き戸で、ガラス一枚ごとに松葉会の紋章が金で捺(お)されていた。
 ガラス戸を空けて、何人かの男が光夫さんを迎えに出てきた。光夫さんはコートを脱いで中の一人に渡し、康男を伴って式台を上がった。カバンを持った学生服の私だけが玄関土間に残された。
 土間に居並ぶ男たちの目つきには、ふつうの大人らしい分別も窺えたけれど、それと同時に何か挑みかかるような光もあった。しかし彼らはいかにも礼儀正しかった。顔を見ると一々礼を返す。彼らはまばゆい者たちだった。命に関わる仕事をしている人びと、たとえば兵士とか、ボクサーとか、機動隊といった人びとの身の周りにただよう、死に侍っている者の発する威光のようなものが彼らにあった。ふつうの人は、そういう光を発している人間がそのへんを悠々と歩き回っているのに出遭えば、ひたすら畏怖するだけで、それ以上近づきにはなろうとしない。懇意になって、いきなり死のほうへ連れていかれてはかなわないからだ。


         八十一

 式台の一段上に大きな屏風が立ててあった。土間の鴨居には『闘』と墨書した扁額が掲げられている。
「どうぞ、お上がりください」
 屏風の後ろから案内に現れた黒背広の若い男には、小指と薬指がなかった。彼はこぶしをついて私を迎えた。光夫さんと康男が廊下に立って待っていた。礼儀正しいその男に案内され、光夫さんの背について康男といっしょに長い廊下を歩いた。部屋の数は二階と合わせて十以上あった。広い家だった。康男が小声で言った。
「二階の端の納戸部屋が四畳半でよ、俺はそこに寝泊まりしとる」 
 通された部屋は、中庭に廊下を渡した離れで、質素な造りの小庵だった。薄暗い六畳の部屋全体に夕方の窓明かりが射している。案内の男が膝を突いて、
「お連れしました」
 声をかけて仕切り襖を開けると、すでにこざっぱりした浴衣のようなものを着た一人の男が、違い棚を背にあぐらをかいて、茶の角テーブル越しにこちらを向いていた。案内役が室内の蛍光灯を点けて襖の内側に控えた。ほの暗さの中に沈んでいた襖の花鳥図が息を吹き返した。私は目を見張り、黒っぽい天井や床柱を眺めた。違い棚の上の鴨居に、康男がいつか言った『敢為』という額が掛かっていた。
「あとで顔を出してくれ」
 そう言ってワカは案内の男を帰した。
「きたね、神無月くん」
 柔らかい笑顔になった。あの夜は気づかなかったけれど、笑うと、片頬にえくぼができて甘い風貌になる。恐ろしい感じがしない。オールバックの額が頑丈そうに盛り上がっている。光夫さんはワカの脇に控えてあぐらをかいた。康男もテーブルから離れた畳に腰を下ろし、両脚を投げ出した。胡坐もままならないのだ。私は康男の隣に正座した。
「膝を崩して楽にしなさい」
 人を従わせる力のある穏やかな声で言った。私は傍らにあった座布団を引き寄せ、二つに折って康男の足にあてがおうとした。康男はそれを手で押し戻した。それが礼儀なのかと思って、私は座布団をもとの位置に返した。
 ワカの部屋は屋敷内ではいちばん奥まった客室のようで、三方が庭になっていた。小さい藤棚のある中庭に面して、幅の広い濡れ縁があり、そこに置いた大きなガラス鉢に金魚が涼しげに泳いでいた。縁側の端に古びた手水鉢(つくばい)が見えた。南天とナギの木の茂みがこんもりした感じで鉢前に庇を作っている。背の低い竹がむらがっている庭の奥に、小さい石燈籠が据えてあった。私がじっと見ていると、
「古い家だろう? ここは私の実家なんだよ。私は鉄筋というやつが嫌いでね、早いうちに名古屋駅のそばの役宅を返上したから、みんなをここに住まわせて不便をさせている」
「ビルディングなぞより、ずっと落ち着きます」
 光夫さんが言った。
「ならいいけどね。所帯がふくらんでも、私はここを動かないよ」
「願ったりです」
 鴨居に数人の老人の顔写真が飾ってあった。どれも髪はすっかり白いのに、精悍な顔つきをしていた。
「こんなところへきて、怖くないかい」
 眼の奥が澄んでいる。
「怖くありません」
「ヤクザは華冑(かちゅう)界じゃないぞ」
「え?」
「貴族じゃない。与太者だ。まあ、干城(かんじょう)のつもりではいるけどね」
「カンジョウ?」
「庶民を守る軍人といったところかな。松葉会はこの世界でも名門の一つなんだよ。勲章を佩用(はいよう)しているわけじゃないが、この壁に会の功績を讃える銘句を書いたら、部屋を一周するかもしれん。年端もいかないころは、自分がほんとうにここの家の胤(たね)だろうかと疑ったこともあったが、いまでは肚を据えている」
 語り口の難しさが光夫さんに似ている。言っている意味はおおよそわかった。
「強くて、頭がいいのは、好きです」
 私の言ったことが、とびきり愉快なことででもあるかのように、ワカはからだを揺すって笑った。
「きみはおもしろい子だね。たしかにこの世界も、流行りすたれがあって、いまどきのヤクザは、きみが危ぶむとおり、頭が回らないせいで世に仇なす悪党どもが多いからね。もともと半チクな一生を、さらに半チクにして終わるという情けなさだ。な、寺田」
「はあ。しかし世間から見れば、ワシらも迷惑な悪党どもですよ」
「たしかにな。―しかし、神無月くん、八カ月余りも、よく友だちの面倒をみたね。感服した。たとえ肉親でも、できることじゃない」
 床の間の細長い壺に、私の知らない白い花が束ねて無造作に差しこんである。花のすぐ脇が丸い雪見になっていた。雪見の外は真っ黒い夜だった。雪見の外の世界と、彼らのいるこちらの世界はまったく別のものだった。夜が押してくるのと同じ重い質量が、彼らを囲む部屋の明るさの中に詰まっていた。私はワカの温和な顔を見ているうちに、尊敬の念が細胞の隅々にまで沁みわたり、全身を浸していくのを感じた。
「それは、何の花ですか」
「うん? さあ、知らないな。壺は唐津だが。花に縁ある男じゃないんでね。そうだ、これをあげようと思ってた」
 彼は違い棚に手を伸ばして、用意してあったらしい本を取り上げると、光夫さんに手渡した。光夫さんはそれをわざわざ私の前まで持ってきて差し出した。高校生用の使い古しの日本史の参考書だった。
「書きこみや線引きがあって申し訳ないが、私の思い出の品だ」
 ぺらぺらやった。どのページにもまめまめしく赤線が引いてある。
「社会は不得意なんです」
「ヤスからそう聞いてね。そんなことまでこいつはちゃんと覚えていて、私に教えたんだよ。きみのことが気がかりなんだね」
「ありがとうございます」
 私は一礼し、それから康男に微笑みかけて、参考書をカバンにしまった。
「不得意とわかっていても、一所懸命やるのはいいことだよ」
「ワカは、神無月くんのように、勉強でも努力する人なんですよ。中央大学の法科を出たことは、いつか病院で話したと思いますが、なかなか入れる大学ではありません」
 光夫さんが静かな声で言った。ワカは素朴に照れ笑いをした。教育と生業とのアンバランスのせいで、ワカはあらためて奇妙な毛色の人物に見えた。
「康男から聞いたところだと、きみのお母さんは、えらく教育熱心なかたで、男は頭だというのが口癖だそうだね。それで、野球のスカウトを追い返して、きみの進む道を妨害してしまった……。ひとくさり言わせてもらうよ。もしきみの野球に対する情熱が、野球がなければ夜も日も明けないというほどのものなら、ほんとに野球がそこまで好きなのなら、スカウトがきたとき、泣いても叫んでもお母さんを説得するはずだ。どこかで自分の才能を恃(たの)む気持ちが強すぎたんじゃないかな。ここでじゃまをされても、いつかだれかが救い上げてくれる―そんなふうに自惚れていたんじゃないのかな。うまくいかないときは泣き叫ばないと、人は認めてくれないよ。そこがきみの至らないところだった。お母さんにも至らないところがあって、それは、男は頭だと思っているところだね。男も女も肝心なのは頭じゃない。心だ。頭が及ばないところで働く心なんだよ。ほんとうの知性というのは、それだ。それさえあれば、野球をしようと、学問をしようと、関係ないんだ。きみの心は一級品だ。だからお母さんは、きみがどちらを選ぼうと賛成すべきだった。きみの至らなさは、ある種の表現不足からきていて、人に害を与えるものではないが、お母さんの至らなさは明らかにきみの前途を妨害するもので、その罪は重い。しかし、その罪を招いたのはきみの消極性なのだから、お母さんを責めるわけにはいかないよ」
 ワカの言葉は精神を語るようにできているようだった。私はこれまで、ヤクザの中にもインテリがいるなどと一度も考えたことはなく、その世界に棲んでいるのは、知性などには価値を置かない根っからの無頼漢だと思っていた。私は感動した。ワカは私の紅潮した頬を眺めながら安堵の表情をして、
「きみはダイアモンドの心を持ってるようだ。野球とか、勉学とか、そういった単一のもので輝くレベルじゃない。人に影響を与え、人を揺すぶる、高いレベルの心だ。友人を愛し、女を愛する。それは簡単なことじゃない。ほとんどの人が一生できないことだ。きみは、そうやって思いどおりに生きていけばいい。失敗の多い人生になるよ。裏切られて、見かぎられて、捨てられるというような人生になるよ。でも決してその心を捨てちゃいけない」
「はい」
 なぜか涙が流れて、私は頬を拭った。
「俺は裏切らんで」
 康男が言った。若頭はアハハと笑い、
「おまえもダイアモンドだからね」
 と言った。光夫さんが微笑しながら一連の掛け合いを眺めていた。
 襖の向こうに、ドスの利いた声がした。あとで顔を出してくれとワカに言われた男の声だった。
「食事はこちらでいたしますか」
 あとでこいというのは、御用聞きにこいという意味だったようだ。
「神無月くん、腹へってるか」
「へってます」
「じゃ食い物を神無月くんに。ワシらには酒とつまみをあつらえてや」
「は」
 光夫さんは私に座布団を勧め、頭を下げた。
「あんたの面倒見のおかげで、これもめでたく退院できました。つまらない人間一匹救うために、あんたは相当な犠牲を払ってしまったようですね。感謝のしようもありません。ワシどもを必要とするときは、いつでも力をお貸ししますよ」
「いや、ミツさん、神無月くんに私たちは必要ないよ。遠く離れていく人だ。彼が面倒ごとに落ちたとしても、必要なのは私たちが貸せる力とは別種のものだろう」
「……そうですね」
「神無月くん、刺身でもつままんか。それとも、やっぱりめしのほうがいいか」
「両方いただきます」
 ワカは光夫さんと顔を見合わせて笑った。
「入ります」
 襖が静かに開き、案内役がかなり年配の男と盆を持って入ってきた。見るとその年配の組員は、あの夜ボンに小便をかけた一文字眉の男だった。彼はギターケースも提げていた。若衆の盆の上には、酒の銚子が四、五本、一文字眉の盆には刺身の盛り合わせを主に、天ぷら、煮しめ、茶碗蒸し、冷奴、アラ汁と、大盛りの一膳めしが載っていた。冷奴の上には鰹節がかかっていた。彼らに向けるワカの視線から、私は彼がつねづね下の者によくしてやっている雰囲気を感じ取った。一文字眉はギターケースを光夫さんに渡し、ごゆっくり、と畳にこぶしをつくと、若者を促しながら敷居まで下がって襖を閉めた。
「ミツさん、まあ一杯いきなさい」
 ワカは、ふたたび自分の脇に胡坐をかいた光夫さんに盃を与え、酒を注いだ。
「ほう、これはうまいですね」
「うん、広島の地酒だ。香りが高くて、いいものだよ」
「俺も、もらってええか」
 康男が光夫さんに尋く。
「ああ、食え。ほれ、皿と醤油だ」
「刺身でにゃあ、その酒やが」
「ああ、いいぞ」
 ワカが徳利を持ち上げると、康男はいざっていって、与えられた大振りの猪口に受けた。グッと飲み、
「うまいかどうか、ようわからんわ」
 ワカは微笑し、
「強いね。でもだめだよ、ちびちびやらなくちゃ。斗酒なお辞せずというのは趣がない。暴飲は徳ならず。酒は味わって飲まなけりゃね。まだ子供には酒のコクはわからないよ」
 光男さんがケースを開けてギターを取り出した。柔らかいタッチで弾きはじめる。美しい曲だった。
「それは何という曲ですか?」
「タレガの『ラグリマ』。涙という意味だ。アルハンブラも彼が作曲した」
 ワカは康男をテーブルに呼び寄せ、小皿に自分の刺身を盛り分けた。
「神無月くん、遠慮しないで食べなさい。わさびを切身に載せるのが近ごろオツらしいが、私は醤油に溶いて食うほうがうまい。それからマグロはトロよりも赤身がうまい。いずれにしても好みだが、自分の好みに嘘はつけない」
 彼は光夫さんの猪口に銚子を傾けた。そして、さりげなく二人の少年の様子を窺っていた。康男は醤油をつけずに切身を口に放りこみ、私はわさびを醤油に溶いて、赤身を食べた。それから次々と箸をつけていき、めしを掻きこんだ。


         八十二

 光夫さんは徳利を手に取り、ワカの大きな猪口についだ。一口すすった。それから煙草をくゆらせながら、雪見を開けて外の夜を眺めた。
「ところで、神無月くん、ひとつ、個人的な質問をさせてもらうが……いまのような暮らし方をしているのは、自分に似合わないと思わないかい」
 心の底まで見とおすように、じっと私の顔を見つめた。
「いまのような?」
「偉そうなことを言えた義理じゃないが、きみはこのところ勉強や野球ををサボってないか? 人まねをして生きていないか?」
「まねはしていないと思います。康男のまねをして生きたかったことはありますが、まねそのものができませんでした。康男は偉大ですから」
「そうか、それならいい。きみと寺田の弟は、成り立ちがちがうんだからね。成り立ちというのは重要だ。たとえば、数は多くないが、うちにも、ヤクザの成り立ちがないのにヤクザをしている組員もいる。芯の強さと、自分の役回りに対する自信が不足しているせいで、命令したり、禁止したり、強要したりすることがまったくできないやつがいる。そういうやつは、下っ端に甘んじるしかない。……ヤスには、彼なりの生き方がある。きみにはきみなりの生き方がある。きみを重んじて引き上げる人もいれば、ヤスを重んじて引き上げる人もいる。その人間に見合った手づるというものが、かならずある。それが成り立ちだ。まねをせずに尊重し合って生きればいい」
「はい」
「ええやつやで、神無月は。俺は、一生面倒見たるつもりや」
「おまえの志はそれでいい。しかし、軽々しくものを言わんようにな。先はどうなるかわからんのやから」
 康男は不満げにうなだれ、
「もう一杯いただきます」
 と言って、自分で二杯目の酒を猪口につぎ、思い切り喉の奥へ流しこんだ。康男の顔が歪んだ。私は康男に苦しく笑いかけた。そして、自分が康男でありたいと願っていたころの物思いから、微妙に遠ざかりはじめたことを告白しようとしてもだえた。ワカが言った。
「つまらないこと言って、すまなかったね。きみたちの友情にケチをつけたわけじゃないんだよ」
「そんなふうには受け取りませんでした。ただぼくは……好きな人間以外と暮らしていけないんです。好きな人間と世界じゅうで独りきりと言うか、好きな人間のおかげであらゆるものを観察する瞳を得たという自覚からすると、それは孤独というよりも排斥に近いものです」
「神無月、おまえ、おかしいぞ」
 ワカが、
「いや、おかしくないよ、ヤス。これほどの人間であることを私は見損なっていた。そのオトコに惚れられたヤスの価値も見損なっていた。神無月くんはね、おまえのことが好きでしょうがないから、まねと見られようとそうでなかろうと、いっしょに生きていきたいと言っとるんだ」
「血迷っとるわ。俺みたいなカスと。俺は神無月を護ったるだけや」
「強がり言うな。いっしょじゃないと護れないだろう」
 パンパンとワカがカシワ手を打った。襖が開いた。
「座敷に執行委員以上を集めなさい。神無月くんという侠(おとこ)の顔を覚えてもらう」
「は」
 笑っているような明るい返事だった。光夫さんが、
「三顧の礼ですね」
「そうや。この子はまぎれもないオトコだ。そう思わないか、ミツさん」
「はい、オトコですよ。手離したくないだろ、なあ、康男」
「おお、あたりまえや。だれが見たってわかっとることを言いやがって」
 私は目を挙げて、両脚を投げ出している康男を見た。赤く目を潤ませて、やさしく微笑んでいた。
 光夫さんが立っていって、私と弟に扇風機の首を向けた。
 やがて案内役に数十畳の大座敷に導かれ、紋章の前の首座の場所に、ワカと光夫さんと康男といっしょに立たされた。三十人以上の男たちがずらりと整列して正対した。ワカが、
「集まってもらったのはほかでもない。一人のオトコの顔をしっかり覚えてもらうためだ。一目見てわかるね、神無月くんだ。彼のオトコたる理由もわかるね。おまえたち、たとえば一週間、あらゆる義務をこなしたうえで、一人の人間の見舞いにかよえるか」
 どよめきが起こった。
「危篤の親族の死に目が長引いたというならわからんでもない。それでも八カ月は無理だ。神無月くんは寺田副会長の弟寺田康男を永遠の友と心酔し、雨の日も風の日も八カ月と十日かよいつづけた」
 どよめきがさらに大きくなった。
「十五歳という年齢に瞠目してくれ。末恐ろしい。彼こそ侠客、オトコだ。今後は彼の危急存亡を見つめ、ことあるときは、できるかぎりの援助を惜しまない。この顔をしっかり覚えてくれ。彼に惚れられた寺田康男の顔もな。三度訪ねて平伏の礼を尽くすことは、カタギの巷では物理的にできない。たまたま我が家に迎えたこの好機に、端座し、深く叩頭を捧げる」
「オー!」
 ザザザと全員正座し、光夫さんが叫んだ。
「末永くよろしゅうお願いします!」
 ワカと光夫さんが直角にからだを折ると、組員たちもガバと平伏し、
「末永くよろしゅうお願いします!」
 数秒静止した。私と康男はわけがわからず、ぎこちなく辞儀をした。
 大座敷に宴の席が設けられ、私たち四人は離れへ戻った。ワカが光夫さんにウィスキーを注がせた。ワカは私に向かって目の高さにグラスを掲げた。私は笑顔を搾り出した。
「きみは飄々とした人物だ。どんな大業を果たしても、そういう顔をして生きていくんだろうね。会えてよかった。ヤスばかりでなく、私も惚れた。きみの行く末の困難には、手を貸せるかぎり貸して、その打開に尽力する。もっとゆっくりしていってほしいが、きみの立場が危うくなる。そろそろ御輿を上げてください」
「だいじょうぶです。……いま、何時ごろですか」
 光夫さんが、
「八時を回ったところです。車で送っていきましょうか?」
「いえ、歩いて帰ります」
 ワカが、
「そうか。……コーヒーでも飲んでいかないか」
「いえ、けっこうです。もう帰ります」
 廊下に足音がして、若い組員が襖を開けた。
「表にパトがきとります」
 ワカは訝しげにうなずくと、光夫さんに目で合図をした。光夫さんはうなずき返してすぐ腰を上げ、ワカの先に立って廊下に出た。私は妙な興奮を覚えて康男を見た。彼は悪い足で素早く立ち上がって、獲物を狙う動物みたいな眼差しを廊下に投げていた。やがて玄関のほうから一方的に言いつのる女の声が聞こえてきた。耳を疑った。康男がするどく私を見た。彼の視界の中でからだが縮んでいく。私は怒りをこらえて立ち上がった。
「センセイやな。俺がわび入れてくる」
「どうしてここがわかったのかな。警察まで連れてくるなんて」
 私は身の置きどころがなく、康男の背中について廊下へ出た。玄関の式台で神妙に話を聞いているワカと光夫さんの後姿が目に入った。
「いいかげんにしてくださいよ、未成年者をこんなところに引き止めて。手塩にかけて育てたたった一人の息子を、悪事に引きずりこむつもりですか。そちらがその分では、私も命がけで闘いますよ」
 戸口の敷居をわずかに跨いだあたりで、二人の警官を脇に控えた母が一家の者を睨みつけている。驚いたことに、玄関先に停めたパトカーのかたわらに、背広姿の浅野がうつけたようにたたずんでいた。
「俺が悪いんや」
 康男がワカの前に進み出て、悪い脚で玄関に下りた。
「あんたは引っこんでなさい。子供の知恵じゃないでしょ。……あわよくば、組にでも入れるつもりだったんじゃないの」
「なに言っとるんや。神無月にヤクザが勤まるわけがないやろ。きょう、俺、ワカに退院祝いしてもらってな、兄ちゃんといっしょに神無月に礼を言うつもりでよ。……神無月は長いこと病院に見舞いにかよってくれたでよ。……もっと、はよ帰したったればよかったんやが。けどな、おばさん、何もパトカーで乗りつけんでもよかったやろが」
「康男、やめなさい」
 光夫さんがたしなめた。
「お礼が遅れました。康男の兄です。息子さんには、ふつつかな弟に長いあいだ情をかけていただきまして、感謝のしようもありません」
 一文字眉が怒鳴った。
「あんたの息子さんは、オトコですよ!」
 母は彼らを相手にせず、ふたたびワカに向かって、
「こんなに人をたくさんはべらせて、宗教家気取りですか。ただのヤクザ者にすぎないくせに。この家は有名ですからね。警察に頼んだら、すぐ連れてきてくれましたよ」
 彼女の眼は、ひたすら自分の内部にだけ向けられていた。いますぐにも何かが起こるのではないかと私は思った。しかしワカは、母の命がけの悪罵を聞き流した。素人に責めさいなまれながら、怒りよりはむしろ抑制のために、蒼ざめていた。もの言わない彼の張りつめた表情から察すると、ものを言うまいとすることに気を配るあまり、周囲の人間では考えの届きようのない領域に気持ちが沈んでしまって、しかも彼は、だれにもそのことを説明する気もなさそうに見えた。そのせいで、母の大げさな身振りと言葉が反撃を受けずにすんでいた。
 組員たちは、手も口も感情も出さないワカと、怖いもの知らずの母を、呆気にとられて見比べていた。彼らは組織された社会の規則を受け入れることを拒否し、他人の支配を拒否するまれに見る男たちだった。いかなる力も、いかなる人間も、彼ら自身がそう望むのでないかぎり、その意思に反した行動をとらせることはできなかった。彼らは馬鹿にされるのを拒否した人間たちであり、常識に支配された人たちが操る糸の下で踊ることを拒否した人間たちだった。つまり、人並みすぐれた知恵と暴力で自分の自由意思を守ってきた男たちであり、彼らの意思を覆すことができるのは、たぶん義理人情と、死をもって彼らに向かってくる勇気だけだった。
 ワカは私をやさしく手招きして言った。
「きみの事情がすっかりわかったよ。野球に関してぼくがきょう言ったことは失言だった。悪かったね。しかし、きみのできる範囲でお母さんに孝行してあげなさい。しかし縛られちゃいけないよ。縛られることは、長い目で見ると、孝行じゃない。きみの人生は、きみだけのものだからね」
「はい」
 すべての言葉が簡明だった。私は彼の言葉をすべて理解した。
「さ、早く帰りなさい。また遊びにいらっしゃい。お母さん、ほんとうに申し訳ありませんでした。すばらしい息子さんなもので、こちらも喜びすぎたきらいがありました。重ねがさね、謝ります。勘弁してください。くどいようですが、神無月くんには、寺田の弟がひとかたならず世話になりました。心よりお礼を申し上げます。おーい、この子のカバンを持ってきなさい」
 組員の一人が奥へ走った。光夫さんが母に深々と礼をしている。ワカは私が靴を履き終えるのを待ち、ガラスの引き戸まで肩をそっと抱きながら導いて出ると、年かさの警官のほうへ押した。浅野は微動だにしなかった。
「口も利けねえで、それでも先公かよ。その傷はダテか。見損なったわ」
 康男が憎々しげに言った。浅野は小さく舌打ちをした。それから私の腕をとると、パトカーの後部座席に押しこんだ。玄関のあたりで組員たちのざわめきが起こった。一文字眉が、この夜のできごとを歯牙にもかけていない感じで、
「神無月さん、あんたはオトコやで。命を懸けてお護りします」
 と言った。ワカと光夫さんが深々と私に頭を下げた。両脇に控えた男たちが、二人に倣って、パトカーに向かっていっせいに礼をした。私は恥ずかしくて彼らに視線を戻すことができなかった。
 パトカーは寝静まった街を、堀川沿いに走りだした。後部の窓を振り返ると、康男が片手を真っすぐ上げていた。両脇にいる母と浅野は、私から顔をそむけて街並を追っていた。彼らが何を考えていようとかまわなかった。私は運転する警官の首筋を見た。一つの恐怖で頭がいっぱいになった。
 ―もう、カズちゃんに会えなくなる。
 浅野がカラス色のライターで煙草に火を点けた。助手席の年輩の警官の背中が私に語りかけた。
「あの家はね、人間のゴミ溜めみたいなところでね、きみのようなまともな学生の近づく場所じゃないよ」
「ほんとにすみませんでした。父親代わりのつもりでいても、なかなかいき届きませんもので。……曲がったことだけはしないように育ててきたつもりなんですが」
 はらわたが煮えた。曲がったことばかりしているのはおまえのほうだろう。
 ふと私は、自分は母にだけ腹を立てているのではない、彼女の存在を許している世界に、彼女を後押ししている世界にこそ腹を立てているのだと気づいた。彼女はその世界を後ろ盾に、薄笑いを浮かべながら歩き回り、わがまま放題のことができる。世界は彼女のようなクソッたれのために造られている、そう思い至ってはらわたが煮えたのだった。
 母は警官の背中にペコペコと頭を下げた。運転している警官が、風を入れるために大きく窓を開け、スピード上げた。助手席が言った。
「先生という仕事もたいへんですな。こんな夜中まで生徒指導をしなくちゃならんのですからなあ」
「はあ……」
 なんという得体の知れないやつらだろう! 私はつくづく、母の、そして浅野の、自分という人間に対する執着の深さを思い知った。いったい私をどうしようというのか。われとわが情熱が、この私だとでもいうのだろうか。
 母がネズミのような真っ黒い眼で私の横顔を窺っている。私はその黒い視線を感じながら、幼い怒りが叫ばせるものを、喉にせり上がってきた気持ちの悪い胃液とともに飲み下した。
 ―何もかもおまえたちの思い通りになると思ったら、大まちがいだぞ。



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