四十七

 灼熱の太陽に焼かれながら、四週つづけて日曜日ごとの試合をこなしていった。中村区の笹島中学校との五回戦(四対一)、天白区の平針中学校との六回戦(七対三)は、無難に勝ち進み、そしてきょう、昭和区の強豪北山中学校との準決勝を迎えた。
 きょうからは、背番号をきちんとつけ、九回表裏を戦うことになる。これに勝てば、すでに決勝進出を決めている同じ熱田区の日比野中学との決戦だ。みんなの願いどおり、目と鼻の先の熱田球場で試合ができるのだ。
 ここまでの六試合で、私は七本のホームランを打っていた。名古屋市の中学生記録は九本。決勝までいけるとして、あと二試合で三本打てば新記録になる。しかも、二年生のうちに達成することになるのだ。ぎりぎり間に合いそうな気がした。私をいたずらに緊張させないよう、和田先生はじめ、本間もデブシも関も、だれ一人としてそのことを口に出さなかった。
 レギュラー十一人、補欠五人、白鳥橋から名古屋駅まで市電に揺られていき、国鉄に乗り換えて鶴舞公園駅に向かった。縫いつけたり、フックで留めたりした背番号が、レギュラーの背中でピカピカ輝いている。
「かっこええな、背番号。やっぱり本間先輩の3がいちばんええわ。次は、関の1番やな」
 おしゃべりな大島のほかは、みんな沈黙している。
 鶴舞公園駅の改札を出るとすぐに、崎山が先発を言い渡された。目が充血していた。眠れなかったのだろう。私も同じだった。夜中に何度も目を覚ましては、玄関から庭に出て、笹の茂みに立小便をした。そのたびにシロが、ウホッ、と声をかけた。
 駅の出口に接するように、鶴舞公園の門が開いている。この駅は路面電車の分岐点になっているので、何本も細く光るレールの上を、宣伝文句を横腹に書きつけた玩具のような市電が右往左往していた。スパイクを鳴らして公園の緑の中へ入っていく。油蝉がしきりに鳴いている。
「むかしこの敷地内に鳴海(なるみ)球場というアマチュア用の球場があってな、昭和の初期に日本で最初のプロ野球の試合が行なわれた。いまその跡地は、自動車教習所になっとる」
「どことどこがやったんですか」
 めずらしく内気な高須が尋くと、
「名古屋金鯱(しゃち)と東京巨人。三連戦の初戦は、金鯱があの沢村栄治を打ちこんで、十対三で勝った。二戦、三戦は巨人が勝った」
 デブシが、
「へえ、もし鳴海球場が残ってたら、きょうの試合もそこでやったかもしれんがや」
「そうだな。鳴海球場は両翼百六メートル、センター百三十二メートルのバカでかい球場だったが、ちゃんと九十一メートルラインにラッキーゾーンがあった。年に五、六試合しかやらない地方球場だったんで、中日球場ができたあとはほとんど使われなくなってしまった。それからも細々と生き延びていたんだが、つい五年ほど前、完全に閉鎖された」
「よう知っとるなあ、先生」
 大島が感嘆した。
「俺は小学校も中学校も鶴舞だ。ここが地元でな。そういう話は、小さいころから何度も聞かされて、耳にタコができとる」
 緑したたる公園の中を、一路北山中学校へ向かう。スパイクが鳴る。和田先生はときどき足を止めて、
「名所の竜ヶ池や」
 とか、
「あれ見ろ、八幡山古墳だ」
 などと、さかんに指を差すけれど、だれも見ようとしない。
「あのテニスコートの裏は、名大の医学部。俺も名大を目指したが、スコンと振られて愛教大へいった。このあたりの地理は手のひらを指すごとくだ。何でも聞いてくれ」
 先生の思い出話や公園の設備の配置などに、だれも興味を持たない。それどころではないのだ。きょう勝たなければ、熱田球場はない。
「おい、おい、なに緊張しとるんだ。せっかく俺がリラックスさせたろうとしとるのに。もっとゆったり構えろ。俺はここまでこられただけでも、上出来だと思ってるんだぞ。ここ数年の宮中の成績を考えたら、準決勝までこぎつけられたのは、まぐれ以上のできだ」
「でも先生、目標は優勝だと言ったじゃないですか」
 デブシが噛みついた。
「あたりまえだ。どんな勝負ごとも、目標は優勝にきまってるだろ。とにかく、ゆったりとした気持ちで、全力を尽くす。ふだんの練習の成果を、試合で確かめる。じつにうれしいことじゃないか。世間じゃ、三池争議やら、釜ヶ崎暴動やら、きびしい現実にヒーヒー泣いとるときに、何の心配もなく野球を楽しめる幸せを思うと、ほんとに涙がチョチョ切れるよ」
 ミイケとかカマガサキとか、何のことやらだれもわからないし、わかったところで聞く耳はない。そんな耳を持っているのは直井整四郎ぐらいだ。
「きょうは作戦なし。何の指図もせんから、自由にやってくれ。打ち勝つんだろ、キャプテン」
 本間に向かって含み笑いをする。みんな先生につられて愉快な気分になってきた。
「はい!」
 和田先生はヨシとうなずき、
「夏がきたかよ、宮中のお庭には、ドンブリバチャ、浮いた、浮いた、ステテコシャンシャン、と」
 鼻歌をうそぶく。御手洗が、
「それ、岡田先生も歌っとった!」
「岡田さんから教えてもらったんだよ」
 北山中学校は、公園から外れた商業地区の中ほどにあって、平たい校舎に囲まれた広いグランドには、一面に柔らかそうな土が敷かれていた。ライトの後方は鉄筋校舎からつづく渡り廊下が通っているきりで、そこまでは優に九十メートルはあった。センターには体育館、レフトの背後には金網越しに大きなテニスコートが広がっている。その金網までやはり九十メートルほどある。
「ホームランの決めはどうなってますか」
 私はいつものとおり、主審に尋いた。
「え、ホームラン?」
 和田先生がニヤニヤしている。私にとって常に関心事はそれだけなのだ。主審は北山中の教師ではなかった。彼に呼ばれた体操教師らしい塁審が走ってきて、
「ホームランですか? 左翼はテニスコートに飛びこめばOKです。右翼は渡り廊下の屋根をノーバウンドで越えた場合、センター方向は、校舎か体育館の一部にノーバウンドで当たればホームランとします。……しかし、ランニングホームランは別にして、ここではまずホームランは出ませんよ」
「そうかなあ―」
 と私が首をひねると、デブシが、
「俺も一発いくぜ!」
 と張り切った声をあげ、遠くテニスコートを眺めた。
 本間がジャンケンに勝って先攻を取った。ガッツポーズが上がる。これでいつもどおりだ。北山中のピッチャーは下手投げで、大してスピードがなかった。アンダースローには去年の与野のボールで慣れていたから、簡単に打ち崩せるとみんな思った。
「与野さんより遅いで。あれなら、ソフトボールを打つみたいなもんやろ」
「神無月の全打席全ホームランが見れるかもな」
 そうは問屋がおろさなかった。低いところから浮き上がってくる球が、膝もとでナチュラルにシュートしたり、外角へひょろりとカーブしたり、胸のあたりから地面すれすれに落ちたりするので、みんなきりきり舞いすることになった。
「なんだ、あれ。中学生のくせに、魔球か?」
 二回に関がフォアボールを選び、三回にデブシ、御手洗がそれぞれボテボテのヒットを打ったきりで、あとは五回まで全員凡打を繰り返した。私も二打席つづけて打ちそこないのセカンドゴロだった。
 崎山はいつものコントロール重視で、のらりくらりと抑えるつもりだったのが、早くも二回に、四番から七番まで、シングル、二塁打、シングル、三塁打、と四連打を食らって三点を失った。和田先生はあわてて今にスイッチした。するとおもしろいことに、いつもは全力投球の今が、カーブ主体の意外な軟投で後続を内野ゴロに切って取り、そのあとのイニングは得意の速球をびしびし決めて、なんと五回までパーフェクトに抑えた。
 六回表の宮中の攻撃は六番からだった。変則の球筋にようやく慣れてきた大島がしぶとくフォアボールを選んだのを皮切りに、高田の一塁線を抜く三塁打で一点を返し、御手洗のレフト前ヒットで二点目、ピッチャーの今までが一、二塁間のイレギュラー安打でつづき、関のセンター犠牲フライで御手洗が帰ってさらに一点返した。あっという間に同点になった。これで打線が調子に乗った。高須のセカンドゴロで今が三塁へ進み、本間のライト前ポテンヒットでついに逆転した。さらに私、デブシと、シングルヒットを打って打順が一巡し、合計七点をもぎ取った。七対三。
 九回の表、先頭打者の御手洗はショートゴロに凡退したが、今がピッチャー強襲の内野安打で一塁に出ると、とうとう北山中は左のオーバースローに交代した。速い。ベンチから見るかぎり、野津以上のスピードだ。しかし、このくらいの速球のほうがコースを見定めて打ちやすい。
「こうなったら、コールド、いったれ!」
 和田先生が叫ぶ。準決勝からはコールドの規定がないことを忘れているのだ。私はおかしくなって、くすくす笑った。とたんに、関がサードの頭を越える二塁打を打った。ワンアウト二塁、三塁。
「高須! フライを打て、フライだ!」
 ベンチから和田先生が大声で叫ぶ。いいアドバイスだ。犠牲フライを打つつもりで楽に振れば、当たりどころがいいと長打になる。高須は低目の球を思い切りすくい上げた。浅いセンターフライになった。
「なに力んでるんだ! 犠牲フライも打てんのか」
 和田先生の贅沢な愚痴が聞こえてきた。ランナー動けずツーアウト。内気な高須はうなだれてベンチに帰ってきた。本間が何か考えごとをするような表情でバッターボックスに入った。一球目、ど真ん中のストライクを見逃す。
「それにしても、芸がないな。何球もつづけて真中にストレートを投げてきやがる。変化球は一つもないぞ。本間ァ、でっかいの頼むわ!」
 和田先生がテニスコートを指差して叫んだ。本間は先生を見てニッコリ笑ったかと思うと、なんとサード前にセーフティバントを敢行した。サードはびっくりして一歩も動けない。三塁から今が生還して、八点目。これで五点差になった。ツーアウト一塁、三塁。何点取っても野球に安心はない。私はバッターボックスに近づきながら、ちらりとライトの渡り廊下を見た。
 ―内角、低目。内角、低目。
「いけ、金太郎! 一発決めろ!」
 和田先生の叫びに重なって、金太郎! 金太郎! という仲間の声がいくつも重なって聞こえた。
「金太郎さん、ホームラン! 金太郎さん、ホームラン!」
 北山ベンチに奇妙な緊張が走った。もう勝ち目はないという意味ばかりでなく、私のホームランをぜひ見てみたいという期待から固唾を呑んで見守る雰囲気だった。私はどうしてもホームランを打って見せたくなった。
 初球だ。何が何でも、初球をひっぱたく。少々外角でも、高くても、とにかくひっぱたく。直球だけのピッチャーはたいてい暴投を怖がる。だからど真ん中に投げてくる。ぜったい初球からストライクを取りにくる。
 ―打ち損じませんように!
 キャッチャーがホームベース前に出て、外野にバックするよう指示した。ピッチャーが振りかぶり、投げ下ろす。思ったとおり、ストレートがきた。低くはないけれども、外角の打ちごろの高さだ。しっかりと手首を利かせて叩いた。
「いったァ!」
 味方ベンチが沸き上がった。右中間にライナーがぐんぐん伸びていく。あっという間に打球は鉄筋校舎の二階の窓ガラスを突き破った。
 ―よし、これで八号。
 ホームベースにチーム全員が出迎える。金太郎さん、金太郎さん、と言いながら抱きついてくる。デブシが、どんなもんだというふうに敵のベンチを睨みつけ、和田先生と本間は小躍りしながら握手し合っていた。
 九回裏、今は三者三振に抑えて、十一対三で勝った。ホームベースに集合。礼。何人かの敵選手がまぶしそうな目つきで私に握手を求めた。北山中の監督がベンチに走って挨拶にきた。
「完敗でした。しかし、神無月くんは聞きしに勝るスラッガーですね。バッティングはもちろんのこと、守備もすばらしい。すごい肩だ。全国中学生ナンバーワンじゃないですかね」
 私は肩を褒められたことが何よりうれしかった。これで完全復帰したと思った。服部先生は満面の笑みで、
「ありがとうございます。神無月はじめ、将来有望な選手が何人かいます。見ているだけで楽しいですよ」
「ぜひ優勝してください」
「はあ、なんとかこのチャンスを生かすよう、がんばります」
 みんなで宮中まで意気揚々と引き揚げる。いよいよ決勝だ。
「あと二本やね、新記録まで」
 関が言う。本間が寄ってきて、
「おまえが入ってきた去年の春は、俺、天狗になってたころでな。最初のフリーバッティングで度肝抜かれたわ。ええもの見させてもらった二年間やった。野球やってて、こんなに楽しかったことないわ。ありがとう。ぜったい記録作れよ」
「はい」
 がやがやしゃべり合っているデブシたちの話題は、もっぱら熱田球場の広さについてだった。和田先生の情報によると、両翼九十二メートル、センター百十六メートル。とんでもなく広い。ラッキーゾーンは設置しないとのこと。外野のあいだを抜かれたら、まちがいなく三塁打かランニングホームランになる。センター本間との左中間の守りを万全にしなくてはいけない。
「本間さん、左中間のフライはぜったい声を出してください」
「オーライ! ライナーで抜かれたら、どっちが中継に立つ?」
「先輩です。いっしょに追っかけちゃったときはしょうがないけど、そうでないかぎりぼくが塀まで追っかけます。直接バックホームすることがあるかもしれないから」
「わかった。おい、高田、右中間はどうする」
「本間さんのほうが肩いいから、俺が中継に入るわ」
「了解」
 スカウトが他県からも何人もネット裏にくるだろうという御手洗の予想だった。あの押美さんもその中にいるだろうか。いいところを見せたい。できれば新記録を―彼がきてくれたら、今度こそ母も折れるかもしれない。
 宮中の正門を入ると、和田先生がみんなの士気を確かめるように大声で言った。
「ひと練習していくぞ!」
「オー!」
 全員の声が上がった。


         四十八

 八月二十五日。最終日曜日。一晩降りつづいたしとしと雨が明け方にやんだ。ラジオからまた坂本九のスキヤキが流れている。曲に合わせて歯笛を吹く。歯笛を吹くたびに、鶴乃湯の柴山くんを思い出す。母は休みで寝ている。


 背番号8のユニフォームに身を固め、グローブを差したタイガーバットを肩に担いで食堂へいく。社員のいない食堂で、日曜出勤のカズちゃんが作った目玉焼きとアジの開きでどんぶり一膳のめしを食う。彼女は日曜には夕食を作るだけでいいことになっている。昼間に出てきたのは、私にめしを食わせるためだ。
「はい、これも」
 差し入れの牛乳を一本飲む。
「きょうは決勝なんだ。熱田球場」
「がんばってね」
「うん。あのスカウトが、またくるかもしれない」
「ぜったいくるわよ。今度こそ、お母さんも降参ね」
「だといいんだけど」
 カズちゃんが頬にキスをする。柔らかい唇だ。外国映画のようだ。
「ケガに気をつけて」
「うん」
 見送られて表に出る。バットを担ぎ、カズちゃんに手を振る。
 まだ道のところどころに水溜まりが残り、遠くの空に明るい雲がかかっている。雲のへりが金色に輝いているのは、陽射しが強まってくる証拠だ。私はわざと水溜まりをスパイクで踏んだ。ついに日比野中学との決勝戦だ。熱田区内の中学校同士で優勝を争うのは数十年ぶりのことだと和田先生が言っていた。熱田球場―きょうは、二本打ちたい。記録を塗り替えたい。また楠木の下で加藤雅江に遇った。彼女はあらかじめ玄関に出て、私を待ちかまえていた。
「がんばって。決勝戦やね。ホームラン記録もかかってるんでしょ?」
 何でも知っている。善良そうな目―いつも悲しそうな、そしてがまん強い目。
「うん。二本打たないといけないから、難しいかもしれない」
「きっと打てるわよ。ちょっと、後ろ向いて」
 雅江に背を向ける。
「わあ、背番号8、かっこいい!」
「……交換日記、さぼってゴメン」
 私は背中のまま言った。
「いいの、いいの、それどころやないでしょう。はい、こっち向いて。これなめて元気出して」
 大きなザラメの飴玉だった。私の手のひらに載せる。私は笑顔で口に放りこんだ。
「きょうは家族で出かけるところがあるから、応援にいけんけど、ごめんね」
「いいんだよ。応援にこられたら、かえって緊張しちゃう」
 飴玉で頬っぺたをふくらませながら、大瀬子橋から雅江に手を振った。いつにも増して雅江はきれいな顔をしていた。
 宮中の正門に全員集合。トレパン姿の和田先生をはじめ、みんな洗濯したてのユニフォームをさわやかに着こんで立っている。
「出発!」
 歩きはじめたとたん、だれからともなくこの夏の高校野球の話題になる。大島が、
「中商は三回戦で横浜に負けたで」
「優勝はどこや」
 御手洗が訊く。勉強家の御手洗は、あまりテレビを観ないようだ。
「大阪の明星。四十年ぶりに出て、優勝してまった。大した選手もおらんのによう」
「甲子園に出るだけ、大したもんでにゃあか」
「長嶋や野村や山内みたいに、甲子園と関係ない人もいるよ」
 私の言葉に、
「そうだ、情熱と努力さえ忘れなければ、夢はかならず叶う」
 和田先生が真剣な顔でしめくくった。なぜだろう、夢と聞いて、ふと水のように静かな気分が全身を浸してきて、私は懸命にそれを沸騰させようと努力した。
 二十分も歩かないうちに熱田球場に着いた。東海三県の高校球児が毎年集まって熱戦をくりひろげる野球場は、小ざっぱりしたものだった。内外野のスタンドが質素な造りなので、土のフィールドだけが目立つ。でもそれがかえって重厚な感じがして、私は武者ぶるいをした。エンゼル球場よりも立派なダッグアウトがある。バックスクリーンにシンプルな緑のスコアボードがそびえている。外野は一面の天然芝。二メートルほどの高さのコンクリートのフェンスが柴を囲んでいる。両翼に92と書いてある。和田先生は帽子をかぶり直しながら、
「さすがにこの広さじゃ、金太郎ぐらいしかスタンドに入らないだろう」
 九十二メートルの距離がいやに近く見える。二本いけるかもしれない。観客はほとんど内野席に集中していて、外野には百人もいない。一塁側の日比野中のベンチの上に、二十人ほどの男女生徒の応援がきていたが、三塁側は地元の人たちに占められていた。
「だれもきてないな。きょうが決勝だって知らないのかなあ」
 関に言うと、
「先生たちが四、五人きとるで。それから、あそこにおるの、山本やろ」
 三塁ベンチのはるか上のほうを指差した。山本法子がいた。彼女が目についたとたん、一つ、二つと、友人ではない生徒の見覚えのある顔に気づきはじめた。徒党を組んでいないだけで、何十人かの生徒がちゃんと観にきていることがわかった。ネット裏にスカウトとおぼしき面々が並んでいる。目を凝らしてみたけれど、その中に押美の顔はなかった。水のような気分が深くなった。
 ジャンケンに勝った日比野中が後攻をとった。両チームのスタメンの名前がセンターボードで、くるり、くるりと返っていく。ペンキで塗った名前がみるみる乾いて、鮮やかな白文字に変わっていく。チームメイトの眼がそれに吸い寄せられたまま動かない。女性アナウンサーの声がメンバーを紹介しはじめた。
「先攻、名古屋市立宮中学校、一番、ファースト関くん、二番、ショート高須くん、三番、センター本間くん、四番、レフト神無月くん、五番、キャッチャー中村くん……」
 その声を、中日球場のウグイス嬢の声に重ねて聞いた。なぜか耳に甦ってきたスターティングメンバーは、ドラゴンズではなく巨人軍のものだった。
『一番、ファースト与那嶺、二番、ショート広岡、三番、センター藤尾、四番、サード長嶋、五番、レフト坂崎……』
 私には野球しかない。静かな水に波が立ちはじめた。
「九回表まで攻撃できる。あせらず、無心でいけ!」
 和田先生は肩を怒らせ、まじめな顔で、いつもと同じような檄を飛ばした。記録がかかっている私は、とても無心ではいられなかった。
 ―あと一本でタイ。二本で新記録。
 そればかり心に唱える。これが達成できれば、のっぴきならない前途が目の前に開けるような気がする。
「日比野の四番××、あいつ来年中商にいくらしいぞ」
 本間が、ベンチ前でキャッチボールをしていた先発の今に言った。みんないっせいに、ショートを守っている男に視線をやった。私はまた水のような悲しみに襲われた。その中商で私は一年生から四番を打つはずだったのだ。和田先生がじっと私の横顔を見ていた。
「××は二本しかホームランを打っとらん。金太郎の敵じゃないぞ」
 微笑みながら私に声をかけた。
 ―悔やんでも仕方がない。泣き叫んででも自分の意志を最後まで押し通さなかった自分が悪いのだ。押し通していれば、いまごろは中京中学で……。いや、もう考えるのはよそう。とにかく、一本でも多くホームランを打つように努力しよう。
 西の地平線から、切れ目なくつながったねずみ色の雲が湧きはじめた。雲のあいだに青空の隙間が見える。空がぐんぐん低く降りてきて、大粒の雨が地面を打ちはじめた。
「天気雨だ。すぐ上がる」
 和田先生が言った。甲子園とそっくりのサイレンが鳴った。
「整列!」
 雨の中を走っていく。
「礼!」
 敵チームが守備に散った。和田先生の言ったとおり、雨はたちまち上がり、深い青空が広がった。芝生も鮮やかな緑になった。
 日比野のエースピッチャーは、中学生には珍しいスリークォーターだった。たくみに平衡をとって足を跳ね上げる投球フォームが、大洋ホエールズの秋山に似ている。かなりスピードもある。
「あれだな、やつの武器は」
 和田先生があごで指した。キャッチャーのミットにドロップが斜めにストンと曲がり落ちた。
「すげえ!」
 大島がため息をついた。あんなの打てっこないが、と御手洗が呟く。
「手を出さなければ、なんとかなる」
 和田先生はみんなを見回しながら眼鏡を押し上げた。
 ―そうだ、直球に絞り切れば、一本はいける。一本はいけるけど、新記録は難しいかもしれない。私は深く息を吸った。
「プレイボール!」
 主審が叫んだ。スピーカーから柔らかい声が流れる。
「一番、ファースト、関くん」 
「いけ、いけ、いけェェェ!」
 ベンチの声に励まされて、関が張り切ってバッターボックスに立った。初球、胸もとのホップボールが、目の覚めるような音を立ててキャッチャーミットに吸いこまれた。関があわててのけぞった。投球練習のときよりずっと速い。武器は二つ、速球とドロップだ。
「ナイスセン、ナイスセン」
 外角低めにドロップ。ぎりぎりストライク。さすが決勝まで駒を進めてきたピッチャーだ。緩急の差がすごい。三球目、内角低目へシュート。ストライク。
「うへ、シュートもあるのか」
 本間がベンチから身を乗り出した。四球目、もう一度胸もとへ速球。たまらず関はヘッドアップしながら空振りした。速球を打つしかない、と私は決めた。つづく大島はピッチャーゴロ、本間はショートゴロ。二人ともなんとかバットに当てただけ。あっという間にスリーアウトになった。全員守備位置へダッシュしていく。
「今、ど真ん中へいけ!」
 和田先生の大声が聞こえてくる。今は言われたとおり、一番バッターの一球目に、ど真ん中の直球を投げた。出会い頭に合わせられた。鋭い打球がレフトに飛んでくる。私はそれを大事に拝み取りしようとして、グローブの土手に当てて前へ落とした。一瞬、目の前が暗くなり、私はあわててボールを拾い上げると、何を思ったか、ピッチャーへ思い切り返球した。これを見たランナーが猛スピードで二塁へ向かう。不幸中の幸い、今がノーバウンドで受け取ったボールを素早くセカンドに送球して、間一髪タッチアウト。
「悪―い!」
 私は今にグローブを振った。胸が太鼓のように拍っている。
「ドンマイ、ドンマイ!」
 今が笑顔で振り向いて叫ぶ。センターの本間からも同じ声が聞こえてきた。危うくピンチを逃れたことに気をよくしたのか、今は得意のカーブで後続を二人とも三振に切って取った。
 二回、三回、四回と、敵味方ともに凡打をつづけ、試合は膠着状態になった。息が詰まりそうだ。暑い。グランドを囲んでいるスタンドが、芝生と入り混じってゆらゆらと揺らいで見える。拭っても、拭っても、汗が額から流れ落ちてくる。目の中に入らないようにしきりにタオルを使う。
 五回の裏に日比野は、フォアボールをきっかけにヒットエンドランを決め、四番の××が右中間へ二塁打を放って二点を入れた。その××をバントで三塁に進め、六番の犠牲フライで還した。三対ゼロ。北山中と同じ展開だけれども、決勝戦だけに絶望的な点差に感じた。
   


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