百一

 七日の土曜日、昼めしを終え、散歩にいってくると祖父母に断って外に出た。新道から野辺地中学校の正門に出、ぴったり校舎沿いの道を歩いて右折し、そのまま真っすぐやわた荘に突き当たった。やわた荘の垣根で仕切られた隣の一戸建に、北村と真新しい門札が釘で打ちつけてあった。門を入ると、やわた荘との仕切りの生垣に沿って、納屋のような小屋が建っていて、それと直角に連なるL字形の母屋が小庭を囲んでいた。母屋の生垣の向こうは、広い畑地だった。見回すと、どの方角からも母屋の内部を見通せない設えになっていた。庭の物干しに蒲団と、雑巾が五枚ほど、それからシュミーズや下着がずらりと干してあった。それを眺めていると、縁側のガラス戸が開いて、大きなからだがすっくと立った。
「わァ、キョウちゃん、いらっしゃい。何見てるの、いやね」
 にこにこ笑っている。白いスカート姿がまぶしい。
「うん、豪快だなって思って。カズちゃんらしい」
「生垣の向こうが畑だから、覗かれる心配がないのよ。あっちはアパートの壁だし、とにかく環境はグッドよ。買ったばかりの下着ってチクチクするから、かならず洗濯することにしてるの。さあ、玄関から上がって」
 ばっちゃが買った下駄で敷居を跨いだ。下駄はもうかなり磨り減っていた。カズちゃんは玄関に裸足で降りてきて、私に抱きついた。ぶつかった胸がゴムまりのように弾んだ。長い口づけをする。カズちゃんは安心したふうにからだを離すと、私の顔をじっと見つめ、
「まちがいなくキョウちゃんだわ。ますますいい男になっちゃって。ほんとにきてくれたのね。ありがとう」
「ぼくのほうこそありがとう。こんな北のはずれまできてくれるなんて、信じられない」
「信じられるようなことをしてたら、キョウちゃんは喜んでくれないわ」
 式台に並んで立ち、もう一度こちらを向かせて見つめる。鼻も目もすばらしく整っている。ギョッとするほど美しい異国ふうの顔だ。だれとも似ていない。
「カズちゃんて、ほんとにきれいだね!」
「キョウちゃんたら。もう三十のおばさんよ。お世辞はやめて」
「齢なんか関係ない。きれいなものは、きれいなんだ」
 カズちゃんは困ったふうに微笑みながら、私の手を引いて八畳の居間のテーブルへいった。畳が青々と真新しい。筒型のストーブが焚かれ、テーブルのそばに座布団が置いてあるきりの、さっぱりした部屋だった。西向きの大きなガラス戸に、内側のレースに重ねて淡いベージュのカーテンが引いてある。
「長い一カ月だったわ。これからはずっといっしょよ」
「うん、ずっと、死ぬまで離れない」
「うれしい! ここはすてきな町ね。山もあれば海もあるし、町に出ればお店もほとんど揃ってる。買い物が楽しいくらい。少なくともあと四カ月はいるでしょうから、ソファぐらい買わないとね。台所には食器棚と冷蔵庫、コーヒーメーカー、庭に洗濯機、六畳には鏡台と箪笥を買ったのよ。庭の物干しも買ったわ。カクト家具店という大きなお店。知ってる?」
「うん、老舗だ。でも、すごい出費だね」
「私、お金持ちなのよ。五、六年働かないで生きていけるだけの貯金があるの。……実家のこと言ったことがなかったわね」
「うん。どうでもいいことだと思うけど」
「どうでもよくないの。聞いてね。きっといまキョウちゃんが想像してることと反対よ。私の家は、名古屋駅の西口で、北村席という置屋をしてるの。キョウちゃんが想像できないくらい儲かる商売よ」
「置屋?」
「売春斡旋所。芸者を気取ってる人もいるけど、五十歩百歩ね。私、そこの一人娘なの。職業柄、その筋の人とお付き合いもあるから、大将さんの事情はよくわかったわ」
「ふうん、太閤通りだね。康男が筆下ろししたところだ」
「大将さんが? おませなのね」
「でも、斡旋所って言われると、なんだかさびしくなる」
「そうね、さびしくなるわね。その種の商売が邪道だからよ」
「……ヤンキーだったって、そういうわけか。家に反撥したんだね」
「若くて単純だったのね。いっそ自分もそういう女になってやれって、ヤケっぱちな気持ちになったこともあったのよ。どんな商売だって、やりくりしていくのは苦しいんだって知らなかったから」
 開けっ広げで、ちっとも飾らず、裏心もない。整った異国風の顔立ちと合わせて考えても、カズちゃんほど美しい女はいないとしみじみ思った。彼女のような美貌と頭のよさを兼ね備えた女が、なぜずっと年上のつまらない男と結婚したのか、どう考えてもわからなかった。私には理解しがたい焦りか自棄で、まるで性格の異なる男と結婚したとしか考えられない。いつか彼女が母の前でその男のことを語ったとき、その声には何の感情もこもっていなかった。
「反発をバネにして、勉強して大学へいって、栄養士の免許まで取ったんだね。それなのに、謙虚に飯場なんかで下働きしてさ。あんなおふくろの下で」
「理屈は実践にかなわないもの。いい勉強になったわ」
「そのうえ、ぼくにまで目をかけてくれて……。とにかくカズちゃんはすごいな」
 カズちゃんは照れくさそうに笑って、居間からサンダルを突っかけて庭に降りた。買ったばかりらしい蒲団を掌で丁寧にはたいている。
「蒲団叩き買えばいいのに」
「忘れちゃった」
 六畳の縁側の戸を開けて放りこみ、下着と雑巾も取りこんだ。
「シロ、元気でいる?」
 蒲団に丁寧にシーツを掛けているカズちゃんに訊いた。
「ええ、でもいつもさびしそうに勉強小屋の玄関の前に座ってたわ。胸が痛くなった」
「あいつが生きているうちに、もう一度会いたいな」
「いつか、こっそり会いにいきましょ。熊沢さんたちにも」
「うん」
「コーヒーの挽き豆とフィルターのセットをこっちで買うつもりだったんだけど、売ってないの。いまインスタントコーヒーいれるわね」
 奥の間から、恥じらったふうに呼ぶ声がした。
「キョウちゃん、きて」
 箪笥と鏡台二つきりの落ち着いた部屋だった。清潔そうな蒲団が敷いてあった。いま取りこんだばかりの新品の蒲団だ。カズちゃんはカーテンを引き、長袖の上着とスカートを脱いだ。ブラジャーを外すと、大きな乳房がこぼれた。パンティを脱ぎ捨て、私をやさしい目で招いた。蒲団に立たせ、ズボンとパンツを下ろした。私は厚手のセーターとワイシャツを自分で脱いだ。
「逢いたかった、真っ白できれいなからだ! 何度も夢に見たのよ」
 私たちは横たわった。少し寒かった。カズちゃんは私のものを握った。すぐに固くなった。口に深く含んだ。
「待たせたわね……」
 私は右手で豊かな胸をつかみ、利き手の左指をカズちゃんの襞に滑らせた。なつかしい潤いがあった。
         †
 長く、充実した行為のあと、カズちゃんは手を伸ばして私の胸をさすった。唇を吸い、いつものように涙を流した。
「毎日、カズちゃんのことを思ってた。思うたびに、スーッと気持ちが楽になった」
「私は、思うたびに、胸が苦しくなったわ。恋しくて、悲しくて」
 カズちゃんは裸で台所に立っていき、しばらくするとコーヒーを二つ持ってきた。二人で蒲団に正座してすすった。おいしかった。ここが野辺地で、合船場のすぐ近くであることが信じられなかった。
「だいぶ歩いたの?」
「ほとんど。キョウちゃんの家も見たわ。きれいな浜辺も。小さいころ、あそこで遊んだのね」
「うん。義一って従兄と犬掻きして泳いだ。シュリケも食べた」
「シュリケ?」
「カラス貝のお化け。黒くて、大きな靴べらみたいな貝。うまいよ。でも店じゃあまり売ってない」
「ムール貝みたいなものね。今度見つけてみるわ。バスで馬門温泉にもいってきたのよ。いいお風呂だった」
「ふうん、いったことないな」
「野辺地駅のほうまでずっと歩いて、松ノ木平というところまでいったわ。景色がさびしくなったから、野辺地駅へ戻って、さかもと食堂でラーメン食べて、タクシーでゆっくり回ってもらった。野辺地高校、運動公園、図書館、そこから長い農道を通って、運転手さんが指差した烏帽子岳、八幡宮、243号線を通って、野辺地小学校、常光寺、役場、引き返して城内幼稚園、本町商店街、金沢海岸、ええとそれから、若葉小学校、野辺地中学校、そして新道」
「すごいな! 野辺地ぜんぶだね」
「今度はもっと細かく、歩きながら見て歩かなくちゃ」
 二人で蒲団にもぐりこんだ。
「新道と浜坂のあいだに、踏切があったでしょ」
「ええ」
「あそこで、けいこちゃんという幼稚園の同級生が、汽車に轢かれて死んだ」
「まあ!」
「渡るたびに思い出す」
「好きだったの?」
「うん。彼女の家の庭でオチンチンの見せ合いをした。ぷっくりした割れ目が見えた。ぼくの前でしゃがんでオシッコした。白いのっぺらぼうの股から、オシッコが足もとに飛んできた。クリトリスなんかどこにもなかった」
「小さいころは目立たないから。……気の毒に。かわいい子だったんでしょう」
「顔をしっかり思い出せない。笑うと歯が濡れてた」
「きっと、私に似てたんじゃないかしら。好みの顔って、遺伝子で決まってるっていうから」
 たしかにそうだ。青木小学校の福田雅子ちゃんといい、宮中の清水明子といい、滝澤節子といい、私の目に留まる女はみんなけいこちゃんに似ていた。私は、これまでけいこちゃん以外の女を好きになったことがないような気がした。
「カズちゃんはだれにも似てない。たった一人の顔だ」
「目が嘘言ってる。いいのよ、代用品だなんて思わないから。ラッキーだったわ、けいこちゃんに似てて」
 玄関に見送るカズちゃんの美しさ! 紅潮した頬が切れ長の目を白く浮き上がらせ、結んだ厚い唇が夕日を反射してきらきら光った。
「送っていきたいけど、野辺地ではだめ。行動は慎重にしましょう。私たちがけっして離れないために」
「うん、わかってる。転校が決まったら、もっと慎重にしようね」
「ええ。キョウちゃんが散歩する場所は、どこがいちばん多い?」
「海岸」
「じゃ、そこには近づかないようにするわ。いちばん少ないのは?」
「八幡さまを左へいった農道」
「そこを私の散歩道にする。偶然そこで出会ったときだけ、時間をずらしてこの家で会いましょう」
「うん」
         † 
 ボールがスタンドに飛びこんだ瞬間、目が覚めた。しばらく動かないで、重苦しい心臓の鼓動を聴いていた。胸を圧(お)してくる悲しみは、いま見ていた夢の名残だった。どこのスタンドだろう。あんな満員の球場で野球をしたことは一度もない。しかもスタンドの観衆の中に康男の顔があった。私は薄い敷蒲団の上で目を大きく見開いた。足もとに毛布が丸まっている。窓に青白い光が溜まり、顔の周りの空気が冷たい。冬の気配だ。
 この蒲団の上でひと月以上暮らした。季節の変化に心は動かない。光も闇も、退屈も喜びも感じない。何も考える気力がなく、カズちゃんのほかは、だれのことを想うなつかしみもない。それでも容赦なく暦はめくれていき、本格的に雪の降る季節が近づいてきた。
 私は手術跡のある左肘をさすった。実際、野球こそ私のすべてだった。それはどんな逆境も、皮肉な突発事も、冒すことのできない事実だった。考えてみればなんとバカバカしいことか! 野球以外のものが、あんなに重要に思えたとは! ホームランを打つことこそ、何にも増して重要だった。私には野球しかなかったのだ。
 なぜそれが重要だったかいまは理解できる。生活の軌道の上で野球は何の位置も占めていなかったからだ。位置がないのに、大きな価値だけがあった。野球は私に生きる力を与えた。なんとすばらしかったことか! ほんとうに、なんとすばらしかったことだろう! ボールを打つときの熱い感覚が全身に蘇り、生活の軌道と関わりのなかった栄光が、いま北国の蒲団にいる私の胸を冷やす。しかし、もう遅い。もう遅いと感じる心の底を探ってみるのが恐ろしい。もう何の期待も持たず、希望をつなぐのは馬鹿げたことだと思いこむことができたいま、これから先のことは、私にとって、ただ好奇心を満足させるというだけのものだ。


         百二 

 ひと月が経っても、転校の手続は完了しないようだった。
 暮れるにはまだ早い時間に、散歩に出た足で、野辺地中学校のグランドへいった。野球部員たちが残り少ない季節を惜しむように走り回っていた。眼鏡をかけた小柄な教師がノックをしている。宮中の連中に比べると、部員たちのグラブさばきはひどく見劣りがした。一人だけ馬力のある三塁手が目についた。宮中の太田よりはるかに肩がよかった。タンク型なのに身のこなしも素早く、自信に満ちていた。バッティング練習が始まった。
「打たしてくれませんか」
 ネット裏から小柄の教師にそう声をかけたとたん、私は笑った。それは恥ずかしいからでもうれしいからでもなく、おそらく空しさからだった。眼鏡の教師は、何だという顔で振り向き、学生服姿の飛び入りを睨みつけた。
「今度転校する者です。入部するわけじゃありません。野球がなつかしくて、打ってみたくなりました」
 教師はジロジロ私の全身を眺め、
「オメか、名古屋からの転校生は」
「はい」
「いいぞ、打ってみろ」
 私は中学生用の軽っこいバットを拾って、バッターボックスに入った。下駄を履いていることに気づき、脱ぎ捨てた。エースピッチャーらしい少年が、マウンドに立った。一球投げた。ゆるいボールがショートバウンドした。
「もう少し前に出て、全力で投げてください」
「なまいぎだでば!」
 教師が叫んだが、恥じ入ったように少年は一メートルほど前に出た。全力で投げた。力のないボールがまたベースの前で弾みそうになった。思い切り掬い上げた。あっという間にボールはライトの金網を越えて、鉄道線路のほうへ消えていった。部員たちは何ごとが起きたのかという顔で、しばらく金網のほうを見ていた。
「四郎!」
 教師が三塁手を呼んだ。
「おめ、投げろじゃ」
 赤い頬をしたタンク型の三塁手は、はい! と返事をするとマウンドに走ってきて、二球ほど投球練習した。速かった。名古屋でも速球派の部類に入るだろう。一球目、胸のあたりにきた。軽いバットを上からかぶせて強振し、金網の外へ高く舞い上がるフライで叩き出した。みんなあごを上げて空を見た。
「なんだってが!」
「たまげだこだ!」
 二球目は膝もとにきた。力とタイミングのすべてを測って思い切り掬い上げた。低く伸びていくライナーが、遠く線路の砂利の上で弾んだ。三人の外野が全員で金網に走り、線路を覗きこんだ。
「おめ、だれだ? 名古屋の有名な選手な?」
 教師が尋ねた。私は下駄を履き直した。
「もうすぐ転校してくる者です。ひさしぶりにバットを振ってみたくなったんです。すっきりしました。ありがとうございました」
 タンクたちが集まってきた。みな私より二、三センチ背が高かった。
「何もんだ、おめ」
「今月で、クラブ活動もおしめだど。もっと早ぐ入ってればな」
「いい男だな。役者みてだ」
「雪がこねば、もう一つ、練習試合があるんだけんどな」
 教師が言った。
「ぼくは名古屋市の、小中学校のホームラン記録保持者です。嘘ではありません。将来プロ野球へいくのが夢でしたが、スポーツ嫌いの母が再三スカウトを追い返したので、夢が断たれました。それで不良になったというわけじゃないんですけど、ふだんの素行が悪くて、とうとうこの土地へ島流しをされました。そういう事情から、いますぐ野球をしようという気になりません。しばらく忘れたいんです。以上」
 みんな尊敬の眼差しで大きく笑った。
「いつ、学校さくるのよ」
「わかりません。手続にてこずっているみたいで。不良を受け入れるかどうか、悩んでいるんでしょう」
「いい勘してらな。オメの考えだとおりだ。だども、あと一週間もしねで転校だ。十四日の土曜日でながったがな」
 今度は教師が愉快そうに笑った。私はみんなにお辞儀をし、空を見上げ、鼻で深く息をするとグランドを離れた。
         †
「おばんです」
 土間に声がした。台所で夕食の後片づけをしていたばっちゃが、おい、と返事をした。
「どちらさん」
「よしのりだァ」
 囲炉裏に戻ってきたばっちゃの表情がゆるんだところからすると、かなり近しい者のようだ。このひと月で初めての客だ。じっちゃが渋い顔をしたので、
「だれ、よしのりって?」
 と彼に尋いてみた。
「横山のタフランケよ」
 眉の濃い地黒の顔が障子を開けて覗き、炉端にいた私に愛想よく笑いかけた。初対面のようではない笑い方だ。日本人離れした彫りの深い顔をしている。見覚えがなかった。老人二人にぺこりとお辞儀をした。
「もっと早ぐくればいがったばって、わげがあるみてだったすけ、気兼ねしてまって」
「おめが気兼ねしたってか」
 ばっちゃが笑った。
「きみが神無月くんか。ぼく、斜め向かいの、横山よしのりという者です。長男のユキオが善夫さんと同級で、次男のアキオが義一さんと同級でした」
 私の顔だけを見つめて、無理に標準語を使おうとする。ユキオもアキオも私には正体が知れない。
「おめに兄貴がいるもんだってが」
 じっちゃの顔がますます渋くなった。その少年はへこへこ首を縮め、断りもなく居間に上がってきて、炉端にちょこんと正座した。動きが機敏だった。でもその機敏さは肉体に関してだけのことで、茶色い顔、広すぎる額、快活な口ぶりほど表情のない暗い眼は、どこか愚鈍な感じがした。中学生らしくない長髪を垂らしている。
「ぼくに、何か用?」
「用というわけでもねたって、いっぺん会っておこうと思ってせ」
 すぐに訛りを戻した。
「じゃ、ぼくの部屋にいこう」
 祖父母に気を使わせたくなくて、自分の部屋に招き入れた。彼はへこへこ部屋についてきた。
「用がねなら、早ぐ帰れ」
 じっちゃの声が彼の背中を追った。
「ほう、ステレオてか。初めて見るな。なんか聴かせてけねが。チャイコフスキーでもよ」
「クラシックは持ってない。好きなの?」
「クラシックやらなんたら、なんも知らねじゃ」
 よしのりはそう言って愉快そうに笑った。炬燵はきのうから電気炬燵になっている。
「炬燵に入んなよ」
「贅沢だでば。大名だな」
「善夫が帰るとき、横山に寄ってくって言ってたけど、きみの家だったんだね」
「おう、この合船場とは親戚だんでェ。婆さんのほうとな」
 私はゲイル・ガーネットの『太陽に歌って』をかけた。よしのりはスピーカーの前にあぐらをかいたまま、片手で髪をかき上げたり、さも興ありげに指をタクトのように振ったりしながら聴いていたが、音楽そのものに感想はなく、
「ンガ、三年一組さ入るこった。山田ミキオがいるすて、そごさ入れられるって話だ」
 私はレコードを止め、炬燵に入った。
「山田というのは、だれ? ぼくと何か関係あるの」
「ガッコの一番よ。ンガはたいしたできるって話だはんで、同じクラスに入れるってじゃ」
「親切なことだね。きみも一組?」
「オラは四組だ。校長室の隣よ。二組に悪いのがいら。気をつけろ」
「ふうん、田舎にもそんなのがいるんだ」
「そりゃ、いるべせ。本町にはヤクザもいら。熊谷組。七、八人しか組員はいねたって。そこの息子が番長よ。喧嘩ふっかけられても黙ってろ。殺されるど」
 大仰に目をギョロつかせた。私は、いざというときの康男の危険な眉を思い浮かべた。
「静かにしてても、喧嘩を仕掛けてくるのかな」
「何するかわがんね。二組はゴミ溜めだ。クマガイの連れは、ぜんぶ二組にいら。危ねすけ、とにかぐ気をつけろ」
「熊谷というやつは暴れん坊なんだね。ふつう番長というのは、静かに周りを見てるもんだけど」
「そんな上品なもんでね。手がつけられね」
 私はふと金井のことを思い出して微笑した。
「おっかなぐねのな」
「別に。そういえば、熊谷って、うさぎやのようこちゃんと同じ苗字だね」
「ほんだが? よぐわがんね。関係ねんでねが。ヤクザだすけ」
 退屈な気分になり、また立っていってレコードをかけた。ビーチ・ボーイズのドン・ウォーリ・ベイビー。
「……腹すわってるな」
「どうのこうのいっても、みんなもうすぐ受験だから、そんなにうるさくしてられないんじゃないの」
「受験? ほとんど就職だ。クラスで高校さいくの、五人もいね。ワ、高校さいって水泳やりて。NHK中学水泳で、ワ、花田を負かして優勝したんでェ。北海道でいちばん速えやつよ。若乃花の弟だ」
「へえ! あの若乃花に弟がいるのか。……でも、いやに年が離れてるね」
「二十歳以上な。田舎じゃよくあるべ」
「そんなに水泳がすごいなら、ぜひ、高校いかなくちゃ」
「いかしてもらえね。なさぬ仲だすけ」 
「なさぬ仲?」
「親がちがうのせ。とっちゃかっちゃってへってるのは、ジジババだ。ワは長女にほっぽられた孫よ。おめと同じだ」
「よく知ってるね」
「恵美子はワより二つ下だども、ジジババの末っ子だすけ、オバになる。でぎがいくて、ちゃんと高校さもいがしてもらえる」
「年下の叔母さんというのがおもしろいね」
「おもしろくねじゃ。オラのほうがアダマいんで」
 訴えるような響きがあった。部屋に重苦しい沈黙がよどんだ。なんだか落ち着かない気持ちで、もう一枚レコードをかけた。ダニー・ウィリアムズのホワイト・オン・ホワイト。つづけて、カーラ・トーマスのジー・フィズ。よしのりは聴いていない。私はステレオのスイッチを切って、机の椅子に座り直した。
「きみは、ぼくに何を訴えたいの」
 あごをこぶしで支えながら、あらためてこの奇妙な闖入者を仔細に眺めた。そして、めずらしいほどの美貌や、すらりとしたからだつきや、吹き出物ひとつない地黒のみずみずしい肌につくづく感嘆した。愚鈍な印象は変わらなかった。
 ―杉山啓子のお父さんも、色白だったけど、たしかこんな顔をしていたな。
「聞いてもらいてだげだ」
 悲しみも、不安の影も、その表情からは窺えなかったけれども、ふと、そのきれいな顔に皮肉な笑いが閃くとき、はっきりと唇の端に深い憂鬱が刻まれた。
「ンガ、こたら時期に、なして―」
 よしのりはすぐに言葉を呑みこんだ。
「表に出ようか」
「おう、海さいぐべ」
 よしのりは素直に立ち上がった。私は囲炉裏の老人二人に声をかけた。
「ちょっと散歩してくる」
「はやぐ帰るんで」
 ばっちゃが柔らかい声で言い、じちゃは相変わらず不機嫌そうに煙管を吹かしていた。


         百三

 北国の冬の日が暮れている。七時を過ぎたくらいだけれど、路灯の少ない道は暗かった。海岸へくだっていった。T字路に突き当たって右手に折れ、突堤(チッコ)のほうへ歩く。雲に覆われた空が頭のすぐ上にある。
「さびしい景色だね。好きだなァ」
「ワはきれだ」
 漁師たちの家が何十軒か浜沿いの道に連なっている。柾(まさ)を編んだ屋根に丸石を載せた家、トタンをかぶせただけの家、きちんと青瓦を葺いた御殿ふうの屋敷も雑じっている。海辺の町全体は小さく、夕暮れの沖に浮かんでいる船の数は少なかった。道の側溝をきれいな水が流れている。覗きこむと、底に沈んでいる小石や茶碗のかけらが夜目にはっきり見えた。
「きみの立場はわかったよ。年上の叔父さん二人と、できのいい年下の叔母さんがいるんだね?」
「ああ。あとは、ジジババ。ばっちゃは毎日遊び回って、じっちゃはチュウブで寝たきりだ。一家の金はぜんぶユキオとアキオが遠洋で稼いでら」
「なぜ兄さんたちは、きみを学校にいかせてくれないんだろうね」
「金貯めて、家建てるんず」
「高校の学費なんか、一人も二人も同じだろう。はした金だ。そんな金、ぼくが出してやるよ」
「おめが!」
「ああ、一年間、一万円もあればじゅうぶんだ。三年分すぐあげよう」
「変人だな、ンガは。そたら金、いらねじゃ。……なさぬ仲だすけ、仕方ねんだ。あぎらめてら」
「くだらない」
「なしてよ」
「うまく説明できないけど、くだらない。苦しみのレベルが低い。そうとしか言いようがない」
 海浜の路は入り組んだ坂が多く、よしのりと並んでぶらぶら歩いていると、いつのまにかまたもとのところに戻っている。私は暗い空と暗い地面に挟まれて歩きながら、康男と夜の東海通りを歩いているような気がした。
「ぼくが三年一組に入るって、どうしてわかったんだ」
「ガマがへってらった。奥山がホームルームでしゃべったツケ。ガマもおめのばっちゃと親戚でェ」
 ガマも奥山も正体不明だ。
「ばっちゃは親戚がたくさんあるんだなあ」
 波打ちぎわの砂利浜に風が吹いている。風の強いチッコのほうへ歩いていった。陰気な海を眺める。
「……暗い海だ。このにぶい波の音も、好きだ」
「おめ、くだらねのばり好きだな」
 私は口をつぐみ、風の中から必要な言葉を捕まえようとした。乾いた悲しみ。ようやく捕まえた言葉をカズちゃんの笑顔が打ち消した。
「悲しいことなんか何もなかったのかもしれない。なんてバカバカしいことだろうね」
 よしのりは、穴の開くように私の顔を見つめていた。私はほとんど彼がそこにいることを気にしていなかった。つまり私にとって彼は、そこにいてもいなくても何の影響もない男だった。
「……あんべ、うだでシバレできた」
 よしのりは先に立って突堤を引き返した。夜漁のカンテラがいくつか黒い波間で揺れ動いている。絶えず潮騒がし、海より少しだけ明るい空がのしかかっている。私はよしのりのあとから早足でついていって並びかけた。
「ぼくがいまここにこうやっていることは、人目にはたいそうなことに映るかもしれないけど、ぼくには幸福なことなんだ」
 口が勝手に動いている。
「はあ?」
 横山よしのりは気味の悪そうな視線を私に向けた。
「あんべよ!」
 荒々しい声で彼はもう一度言った。
         †
 襟のカラーを確かめ、学生服のボタンをいちばん上まではめる。ばっちゃの用意してくれた足袋を穿き、下駄を履いて出る。転校前の最後の散歩のつもりだ。小雪がちらついているけれども、傘を差すほどではない。
 井戸に立ち寄って氷のような水で顔を洗った。顔面の水滴を手のひらで払うと、周りの空気の心地よい冷気が肌に滲みた。
 明け方の浜坂を下っていく。耳のそばに海の音が聞こえた。軒のあいだから、少しずつ海が見えはじめる。道が明るんできた。
 海岸に出る。投網の干してある海辺の寒々としたたたずまいがすがすがしい。金沢(かねざわ)の町が右のほうに小さく見える。空も雲もだんだん淡く染まって、やがてオレンジ色からくすんだ金色に変わった。太陽が水平線に現れた。
 浜伝いに金沢のほうへ足をのばす。弓形に延びていく汀(みぎわ)がはるか先のほうで朝焼けに溶けこみ、空と一つになっている。図体の大きいカモメが目の前の波打ちぎわを滑空していった。
 ボロ船が砂山に打ち棄ててある。舵も帆もなく、ペンキは剥げていて、傾いた船体に貝殻がこびりついている。暴風雨に打ち上げられたというのではなく、長く使われているうちに老朽化して、どこかの沖でへたばったのをやっとここまで引っ張ってきたというふうだ。こんな船にもきっと華やかな思い出があるのだろう。
 帰り道、本町の警察署まで歩き、けいこちゃんの味噌蔵の白壁沿いの隘路を覗いた。記憶がこっそり蘇ってきた。思い出の庭へつづく小径の先に木柵が立っていた。柵越しに見上げると、あの二階家はもうなかった。
         †
 祖父母とくつろいでいた昼下がりに、頭の禿げちょろけた丸眼鏡の男が、ぺこぺこ土間に入ってきた。
「ごめんください、中村です」
 ばっちゃが障子を開けた。
「おいや、マサちゃんかい。上がってけへ」
「すぐ学校さ戻らねばなんねすけ、ここで」
 眼鏡のにこやかな細面が、土間に立ったまま頭を低くしている。
「えらく久しぶりでねな。きょうは何の用だべ」
 じっちゃがあごを反らして応対した。
「郷くんの転校が決まりましたので、お知らせにまいりました」
「決まったてが!」
 ばっちゃが明るい声を上げる。
「はい、ようやく決まりました」
「野辺地さきて、四十日にもなるでば。うだで待たせたニシ」
「申しわけございませんでした。向こうの中学校との交渉がギクシャクいたしまして。要するに、常軌を逸した非行少年なので、いや、野中の教師側でそう考える者は一人もおりませんが、とにかく、たいへんだろうが引き受けてほしい、ということで話が決着しました。しかし、PTAの一部が渋りましてね。郷くんの野球の活躍ぶりを示す新聞記事を見せたり、とんでもなく優秀な勉強成績などを紙に刷って配るなどして、なんとか説得いたしました。田舎の人間には、頭の固いのもおりますからね。どうか、心配なさらず、あしたから登校なさってください。あしたは十四日、土曜日、半ドンですし、顔見世としてはちょうどいいんじゃないでしょうか」
「顔見世って、オメ、役者でもあるめえし」
「教師どもはみんな、そんな気持ちでおります。送付されてきた資料を見るかぎり、秀才というより、天才少年ですからね。……ところで、英さんは元気でおりますか」
「おお、名古屋のほうの建設会社にいら。おめ、同級だったおんな」
「はい。大した出世をしたと聞いとりますが」
 ふん、とじっちゃは鼻を鳴らし、
「どんだんだが。なんも言ってこねすけ、わがらね。おめ、いま野中で先生してるのな」
「はい。弘大出て、すぐここさきて、それからずっと社会科を教えとります」
「そろそろ校長になるんだべ」
「いえ、四、五年してようやく教頭、校長になるのはそれから先の話です。なつかしいなあ、この土間」
「もう二十年になるべよ」
「はあ、二十年以上かなあ」
 三人の会話を聞いているうちに、マサちゃんという男が英夫兄さんの親しい友人で、中学生のころよくこの家に遊びにきていたことがわかった。
「キョウの事情はわがってるのな?」
 ばっちゃが尋いた。
「はあ、あらましは……。更生の具合が順調なら、三学期中にも名古屋のほうへ再転校もあるんじゃないか、と聞いとりますが」
「そたらワチャクチャなことがあるもんだってが。タライ回しもいいとこだべ」
「はあ、私もそう思います。こちらでじっくり勉強して、ちゃんと卒業すれば、受験は向こうでするという手もあるわけでして。宮中さんも、再転校を渋っておりましたし、やはりこっちの中学を卒業するということになりそうです。当校としては、ありがたいことです。三年間の成績が送られてきましたが、神無月くんはとにかく驚くほど優秀で、教育県である愛知県の五本指、愛知岐阜三重、三県総合の十本指というんですから、尋常じゃありません。この中学校で満足できるかどうか、危ぶんでおります」
 じっちゃが上機嫌に煙を噴き上げた。
「いらね心配だじゃ。あの中学もこの中学もあるもんだってが。もともと勉強というのは難しいもんでェ。〈上がり〉はねえのよ。どたらに優秀なアダマでも、学ぶ場所を馬鹿にしたら、オシャカだべ」
 煙管をはたいた。ばっちゃもうれしそうに、
「ンだ、ンだ、高校もこっちで上がればいいんだ」
 マサちゃんはさらに腰を折り、
「そうしていただければ、本校にとっても願ったり叶ったりでして。ところで神無月くんは三年一組に編入されることになりました。奥山允(まこと)先生の担任です。全校一番の山田三樹夫が級長をしておりましてね、彼は神無月くんに会うのを楽しみにしております。ひととおり教科書を持ってまいりましたので、お渡ししておきます」
 中村先生は私に紙包みを差し出した。
「奥山先生は、きょうは授業が詰まっているので、報告を頼まれました。あした職員室であらためてと申しておりました」
 じっちゃが、
「山田? 山田医者な」
「はい。縦貫タクシーの裏の山田医院です。先代が亡くなってからは、もう病院は閉じておりますが」
「そんだおんたな」
「だば、きょうはこれで失礼します。神無月くん、がんばってけんだ」
「はい」
 マサちゃんが何度も腰を屈めながら帰ると、ばっちゃは私を連れて、本町のクボタ制服店にいった。
「学生服は、名古屋から着てきたものでじゅうぶん間に合うよ」
「んだな。へば、帽子買うべ」
 野中の徽章をつけた学帽を買った。ついでに、校内用の上履きと襟章も買った。上履きは青い縁取りで、宮中のものとほとんど同じだった。
「わいはあ、三年生のいまから転校だってが! うだでだこだ」
 店の者がばっちゃの話に嘆じてみせた。
「眼鏡も買わねばなんね。いっつもマナグ細ぐして具合悪そんだ」
 やなぎや眼鏡店で三十分ほどかけて視力を測った。思った以上に悪くなっていた。しかし、鏡に映した眼鏡面があまりに間が抜けていたので、ふだんはかけないことに決めた。
 その足で、菩提寺の常光寺へ回った。十年前のお盆の夜を思い出したけれども、何の感慨もなかった。それなのになぜか涙が湧いてきたので、私は眼鏡をかけてあたりを見回すふりをした。角の丸く削れた、腰の高さほどしかない墓石を洗い、香華をたむけ、線香を立てて合掌した。
「ばっちゃ、これ何のお参り?」
「おめが中学さ入(へ)ったお礼だ」
 カズちゃんの町内めぐりに刺激を受けて、ばっちゃといっしょに、あらためて観光気分でゆっくり町並を眺めながら帰った。町役場、カクト家具店、郵便局、大湊写真館、高野薬局、五十嵐商店、石造りの青森銀行、佐藤製菓、縦貫タクシー、うさぎや文具店、平尾時計店、栃木精肉店、照井酒店、喫茶レモン、戸館医院、沼沢青果店、銀映。カズちゃんの言うように何でも揃っている。でも、平五郎ちゃんの床屋は姿を消し、銭湯の隣の野辺地東映は、このひと月気づかなかったが、近づいてよく見ると、看板が野ざらしの廃屋になっていた。
 うさぎやの並びの小さなレコード屋が目に入ったので、ばっちゃともう一度引き返し、三百三十円のEP盤を九枚も買った。西郷輝彦の君だけを、チャペルに続く白い道、星空のあいつ、涙をありがとう、十七才のこの胸に、岸洋子の夜明けの歌、弘田三枝子の砂に消えた涙、ロイ・オービソンのオー・プリティ・ウーマン、プレスリーの好きにならずにいられない。西郷輝彦をたくさん買ったのは、野球部の連中をなつかしんだからだった。ばっちゃは私の無駄遣いをにこにこ見ていた。
「思い切って買うもんだでば。無駄遣いしねで、高校さ入(へ)ってからの小遣にとっとくんで」
「うん。このあいだ、よしのりに三万円上げようと思ったけど、断られた」
「なしてやらねばなんねのよ!」
「高校にいかしてもらえないって言ってたから」
「いがなくていいじゃ、あったらの。おめも、まあ……」
 ばっちゃはいつもの口を隠してうつむく格好で、くっくっと笑った。
「お金って、あまり手にしたことないから、持ってると居心地が悪いんだ。早く手放したくなる。幼稚園のころ、じっちゃに一度五円もらったきり、小学校四年生の正月まで一円も手にしたことがなかった。いや、そりゃオーバーだな。十五円の昼めし代で貸本は借りたし、映画も観たし、かあちゃんの給料袋を落としたこともあったな。つまり、自由に使える小遣いをもらったことがなかったというだね。だから、生まれて初めて飯場の人にお年玉もらったときには驚いた。何万円もくれるんだ! ぜんぶかあちゃんに取りあげられたけどね。そういえば、抽斗の奥にへそくりを何千円か入れっぱなしで忘れてきた。かあちゃんが見つけたろうな」
 ばっちゃはうつむいて歩きながら、
「神無月さんと別れて、こっちさ帰ってきたあたりから、ジェンコ、ジェンコってへるようになったな。……おめも難儀したな」
「この何年かのあいだにぼくがかあちゃんに巻き上げられたお年玉を合計したら、きっと大した額になるよ」
「もともと、おめがめんこくて人がけだ金だべや。てめのためにけだのでねえものをふところに入れて貯めこんだら、腐れ金になるべ。飯場の給料なんてのは、涙金だべや。あれが貯めこんだ金は、お年玉ばりでねはずだ。いろんな捩じくれたことして、貯めこんだんだべ。そたら腐れ金はいつか湯水のごとく使ってしまるものだんだ。あれがこっちさ送ってくる金だば、ぜんぶそうやって貯めた腐れ金だべ。使ってしまればいんだ」
 だからばっちゃは、私から金を受け取ろうとしなかったのだ。人がぼくのために気持ちをこめてくれた金に手を出してはいけないのだ。
「取られ損だったでば。だども、だいじょぶだ。スミが悪さしねかぎり、おめはこの先金に苦労しねこった。人がおめに腐ってね金けるすけ。人がけるだげでねェ。おめも、大っきぐなったら、じっぱと稼ぐようになら」
「そうかなあ、信じられないな」
「金稼ごうとするやつは、悪さしねば稼げねんだ。おめには稼ぐ気がねすけ、悪さしねでも金がくっついてくるんだ」


(第一部六章宮中学校終了)


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