週言コーナー 週に一度拓矢先生の生の声が聞ける
5月
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 5月6日

 知能指数怖い言葉だ。

私は母に「おまえは頭のいい子だ」と言い聞かされて育った。三歳のころ、東京の保健所の催しで大勢の同年輩の子供といっしょに計ったのだという。「どんなゲームもいちばん早く処理してね、八歳から十歳の知能だって判定されたんだよ」と得意げだ。私も得意だった。

 中学一年の夏のある日、授業中に保健婦がやってきて、

「重要な試験ではないので、気楽に受けてください」と言った。

すぐさまクラス打ち揃って別室へ連れて行かれた。みな何事かと興味津々の顔をしていた。十数ページの小冊子が配られ、

「始めなさい」

と号令がかけられたとき、私は、二列前に座っている清水明子と、夏休みに控えている野球部の練習試合のことで頭がいっぱいだった。私は成績優秀な生徒だったし、「大切な試験ではない」という保健婦の言葉が頭にあって、杜撰な気分でいた。十五分ぐらい数字や図形に関する問題を解いたあと、適当に鉛筆をもてあそびながら、清水明子のなまめかしい後ろ姿や、窓の外の青葉を眺めていた。そして時おり目の下のペーパーを見下ろしては一つ二つの解答をした。

 二週間ほどして、担任の岡田先生が飯場を訪れた。裏のトラック駐車場でバットを振っていた私を母が呼んだ。私は食堂のテーブルに先生に対面するように座らされた。

「聞きにくいことをお尋ねしますが、お母さん、無理をして拓矢君に日ごろの学習を強いているんじゃありませんか?」

「どういうことでしょう」

「……成績が良すぎるんですよ。拓矢君は校内五番を下ったことがありませんからね。先日、抜き打ちで知能検査を実施いたしまして、これは非常に信頼できる試験なのですが、拓矢君は普通よりもかなり低い数値が出ましてね。教師一同、首をひねりました。こりゃ、家庭でスパルタ式でしごかれているんじゃないか。家庭の教育方針に口出しする権限は学校にありませんが、成績と知能との関係は興味深いことなので、参考のためにもこりゃひとつ伺っておいたほうがいいということになって。……私としては、拓矢君の顔色がふだんから冴えないのが気になっております。健康を害するほど勉強を強いると言うのは

「失礼な!」 

 母は鋭い眼で先生を睨んだ。私は清水明子の背中や、なぜか真剣だった教室の雰囲気を思い出しながら、だまされたと思った。

「成績のいいのが、そんなに目障りですか? この子の知能が高いことは証明済みですよ。色が白いのだって生まれつきのもので、どこもからだ具合の悪いところはありません。だいたい、この子は学校から帰ると、何百回もバットを振って、疲れるとそのまま寝てしまうんです。試験前は朝まで起きてることもあるようですけど……。拓矢、その試験、ほんとにできなかったの?」

「保健の先生が重要でないって言ったから……。あんまり書きこまなかったんだ。でも、簡単な試験だったよ」

「今さら!」

 母は舌を鳴らした。

「それほどおかしな結果が出たのなら、この子の手落ちとはいえ、どちらにとっても不本意なことでしょう。もう一度、計り直してやってくださいませんか」

「いや、それはちょっと……」

 先生は、とにかくわかりました、と呟き、腰を上げた。

「ほかの教師にも事情を伝えておきます。不思議がっている者もおりましたので。なに、こんなものは、ちっとも進学にひびくものではありませんから」

 それならなぜやってきたんだ、と私は思った。少しばかり疑わしい目つきで先生は別れの挨拶をした。母はうなだれていた。その姿が長く私の後悔に結びついた。取り返しのつかないことをしたと思った。

 ……………………

 早稲田の四年の冬、教育学部で社会心理の研究をしている水野というマージャン仲間が、

「留年が決まったそうだな。暇だろ。俺は卒論準備で目が回りそうだ。ついては、おまえに卒論のための被験者をやってもらいたいんだ。二日間、からだを預けてくれないか。寿司でも焼肉でも、腹いっぱい食わせるからさ」

と言ってきた。

「何の実験だ?」

「いや、それは協力してくれたあとで教えるよ。きみは実にオモシロイ人物なのでね」

 私は彼の下宿で二日間寝泊りしながら、一センチ厚ぐらいの冊子に載っている二百問ほど、数値や、図形や、論理学様のさまざまな問題を解かされた。中学校の苦しい記憶が蘇ってきて、私は気持ちを引きしめ真剣に解答した。

「あれ、知能試験だったんだろ」

 二日間の奮闘を終え、寿司屋で彼のおごりの鮨種をつまみながら私は言った。

「ご明察。あれじゃ情操知能は計れないんだが、いわゆる頭のよさというのは概ねわかる。ま、結果を楽しみにしててくれ」

「で、何のための実験なんだ?」

 水野は意地の悪い微笑を浮かべて、

「中学で女のもとに通い、野球の名門校のスカウトを受け、高校では女教師と同棲……か。ついに鈍才に転落し、それでもめげずに勉強し、ことごとく受験にも成功しつづけるなんて、格好よすぎないか。どう考えても普通じゃないし、ちょっと信用できないな。嘘だろ」

「嘘じゃない! 誇張はあったかもしれないが、まぎれもない事実だ」

「まあ、まあ。四年間言いつづけてきたんだ。引っ込みがつかないよな。男なんて、格好つけの生きものだ。気にするな」

「それ以上侮辱すると、その分じゃおかないぞ」

「いいんだ。虚言癖の持ち主は知能が高いという。俺が知りたかったのはそれだけだ。おまえが嘘つきだろうと、そうでなかろうと、どっちでもいい」

 私は杯を音立ててカウンターに置くと、表へ飛び出した。憤りの遣り場がなかった。アパートの部屋に戻り、いっしょに暮らしている女に、夜遅くまで不満のたけをぶちまけた。

 何日かして、彼の形ばかりの謝罪文が法学部の伝言板に書かれていた。

 悪気はなかった。冗談だと思って許してくれ。喜べ。おまえの知能はオン・コンディションで10(±10)。世界でも有数のものだ。びっくりしたよ。人を見て過去を語れ。また飲もう

『虚言癖』の雑言の詫びはなかった。しかし私は、積年の重苦しい後悔が霧消するような気持ちになり、思わず晴れやかな笑みを漏らした。

 この文を書きながら、私はひどく淋しい気分で岡田先生の顔を思い出している。彼は担任であるばかりでなく野球部の顧問でもあって、あの日からもこの上なく私に親切に振舞い、

「おまえはきっと、将来プロになるだろうな。ドラゴンズの四番を打ってくれよ。あんまり勉強の方面は無理するんじゃないぞ」

と、励ましつづけたのだった。



5月13日

成十七年度レギュラー授業初出講。初々しい生徒たちの顔を見る。溌溂としたいい表情をしている。出席率も抜群で、授業にもよくついてきてくれる。そのこと自体まぎれもない喜びだ。やる気が出る。しかし、いざ教科書に目を落すと、勉強の情熱を強い、ひたすら知識を教えること以外に、彼らに語りかける言葉の〈核〉が見つからない。ふと目を挙げて彼らを見回し、総論的に「青春を意義深く過ごせ」とか、「生活の余白に関心を持て」と唐突に呼びかけることはあっても、愛、友情、哀しみ、倦怠といった私の命の〈核〉を形成している求心的な言葉を語ることはない。語る場ではないと知っているし、経験上そういう倫理的な想念は彼らの魂には反響しないと私なりに合点しているからだ。淋しい。だから、家路につくときは、何か満たされない気分で電車に乗る。

しかし、学期初めは毎年この気分だ。いずれそのような人間味のある内容を引き出せる教材に出遭えば、勇を鼓して自分のエピソードに言葉を添えて語り出すだろう。それに心中うなずく生徒もあるかもしれない。彼らは知識だけは確実に吸収し、合格していく。しかし、情操を吸収するつわものは少ない。この中の何人が、これからも長く忘れず私に語りかけるだろう。愛や友情や人生の悲しみについて語り合える学生が、この中から何人出るだろう。講師の職に就いて十九年が過ぎた。何万という数え切れないほどの学生に触れた。だが、いまなお我が家を訪ね、人間くさい言葉に真剣な言葉で反応してくれる〈人材〉は、ほんの数名しかいない。

予備校の事務の雰囲気はやさしい。人をおとしめる不機嫌が彼らの顔に浮かぶことはない。また講師のたたずまいもやさしい。それは作ったやさしさではない。権威を倦み、吹きだまってきた人びとには、言葉の壁がないのが当然だ。吹きだまった人びとの肩は接している。彼らは学問を基盤にして生活しているだけに恐ろしく幼児的だが、決して自己憧憬にまみれているのではなく、情緒に殉じようとする本質だけで生きている。それが私を落ち着かせる。私を育てた飯場の土工たちに似ている。安らぎばかりでなく、鋭い緊張感もある。男はひそかに、しかもかならず、ヤクマンを張っていなければならない。そしてそのヤクマンを、ひそかに流した経験を持っていなければならない。男と男の関係は、「こいつ、ヤクマンを張っているかもしれない。それとも流してしまったかもしれない」という緊張感のもとに継続されなければならない。ひらのピンフの積み重ねで質量が膨らんでいるような男には何の魅力もないのだ。
 
先日、古文の未友先生から、掘りたての筍をもらった。去年につづいて二度目。こういうことが胸にくる。形式ではない、人間本来のやさしさを感じるからだ。そういえば康井先生の励ましの言葉もそうだった。謙虚さの中に、悲しみを知り尽くしたユーモアが感じられた。現国の斉藤さんの突然のお歳暮も微笑ましかった。思わずお菓子を返礼に贈ったら、「川田さん、お歳暮返しは必要ないんだよ」とやさしくたしなめた。私の本好きを知っている小貝さんがミュッセの短編『二人の愛人』を持ってきて、「どうぞ」と差し出した。うれしくてその日のうちに読んだ。性質なのだろう、若いころから私は、こういう触れ合いの一こま一こまにしか生きる意味を見出せないでいる。

5月20日

松尾から九月に同窓会を催す旨、連絡があった。『牛巻坂』を上梓したころに一度その案件が持ち上がった記憶があるから、ほぼ十四年ぶりに話柄にのぼったことになる。今回は話柄にのぼるどころではなく、彼の情熱的な決断で、たちまち実現の運びになった。なんと1976年に卒業以来、初めての同窓会である。まことに不実な同窓生だ。彼が一人一人に連絡をいれ、すでに十五人の参加が決定していると言う。私が十六人目だ。クラス全員三十人を集めるつもりだと張り切っている。

「よくやってくれた、ありがとう」

「先がないけんな」

「え?」

「先がないけん」

 ふむ、と応え、私は彼の心臓がペースメーカーで動いていることを思い出した。

「心臓の具合が悪いのか」

「いや。とにかく、人間というのは、先がないけんな」

 そのとおりだ。ものごとはできるうちに迅速にやっておかなければならない。この会合は遅すぎたきらいがある。第一回を開くのにここまでかかった経緯を考えると、第二回目はもう話柄にすらのぼらないと考えるのが順当なところだ。私は五十路なかばの学友の顔を思い巡らした。目頭が熱くなった。政治家、弁護士、大学教授、司法試験予備校の校長や会社社長などの出世組を筆頭に、ほとんどの人間が各分野で大成しているなかで、私のように転々流浪してかつがつ日々を凌いでいる落ちこぼれ組もかなりいる。その一人である松尾が音頭を取って、最初で最後の同窓会が、大隈通りの『金城庵』でおこなわれる。

「気が早かろうと思ったばってん、もう予約してしもうた」

 彼らのことは、今回の『光輝あまねき』に詳細を尽くして実名で書いた。書いたとたんに、松尾から連絡がきた。彼は私がそんな小説を書いたことはまったく知らない。この符合に私はある種ふるえるような感銘を受けた。松尾、お前の召集した会合をかならず記憶に残るものにしてやる。だから、一日でも長く生き延びてくれよ!

5月27日

 五月五日が誕生日なので、この二十年、一日から五日までの期間はひっきりなしにわが家に人が集まる。幸いなことに全国的な休日であることも手伝って、集まり具合に大崩れはない。連日変わる顔ぶれと、語り、音楽を聴き、映画を観、投票し合った地方競馬の結果に一喜一憂し、打てる人間とはマージャンを打つ。その間、睡眠時間は二時間から四時間に削られ、かなり肉体的に消耗するが、喜びのほうが大きいので徹底した疲労感はない。快適なリフレッシュ期間になる。

今年は、一日目に早大OBの美貴ちゃん、二日目にやはりOBのサッちゃん、参考書『英語のツボ』に登場する森っちょ、三日目にはもと早予生の人科三年是山、商四年米内、これまた参考書のシマ、都合七人がきた。美貴ちゃんとサッちゃんは最後までおさんどんを努めた。私は一日の大半を、生活空間である居間の蒲団に寝転がり、彼らが思い思いの言葉で語りかけるのに盃を含みながら精いっぱい応える。むろん彼らもマイペースでチビチビやっている。大坂の社長の息子である是山には入手困難な書籍の探索を頼み、司法試験受験生の米内には勉強の進み具合を尋ねた。折を見て、愚妻、美貴ちゃん、サッちゃんが目立たぬように立ち上がり、食事の支度をする。食事が終わると、全員で音楽部屋へ音楽を聴きに行き、聴きくたびれると会話に戻り、そして不意に映画のリクエストが出て上映が始まったりする。やがてマージャン。順ぐりに時間の尽きた者は帰っていく。そうやって皆、数日、現実を離れる。

誕生日にかぎらず、こうしてわが家に出入りして交流を保っている人間を自分の念頭から去らせないことは、私の人間的義務だと観じている。彼らが私を延命させていると公言することは、人嫌いだったある時期に他人の手で命を拾ってから、しだいに人恋しい人間に変貌してきた私の差し引きのない本音である。以来私は人を忘れなくなった。たまさか人といても、たまさかそこにいない人のことを思い出すようになった。

距離の遠近に関わらず、生活のよしなしごとのやりくりがつかずになかなか出会いのチャンスに恵まれない人々熊本の堤君、東京の後藤、福島の阿部、岩手の浦島、東京の星野、彼らの顔を忘れたことはない。医師二人、厚岸の小川と横浜の井畑さん、フランクフルトの床屋の合田、いや、忘れないのはアファーマティブな関係の人びとばかりでない。内的な葛藤を抱えて去っていったひろえちゃん、野中、岩ちゃん、松下、ひろみちゃん、ナベちゃん、藤原、アッちゃん、陽子ちゃん、菊池、大柳、いまなお精神の病と闘っている青木、そして弥生ちゃん……彼らのことも、やはり忘れたことはない。

 年々、予備校から人間関係規制の厳しいお達しが届く。在校生、卒業生とはいかなる手段によっても、いかなる理由からも交流してはならないというものだ。私は常にその禁を破る。破らなければならないと思っている。現瞬を懸命に生きている人間の内蔵する言葉を聴かなくなったとき、私の文化(表現への精力)は途絶するという危機感があるからだ。彼らにしても同じだろう。互いの精神の泉から精力の源薬を汲み合いながら自分の人生を表現するという習慣は、終生、倦じてはならないものだ。自然は私を人嫌いな者として生を享けさせたが、偶然が私を人恋しい者にした。私は選択することをしないで両方をとった。私の中にある諦めや忍耐心や反省力も、人間に対する愛着を制御することはできなかった。私は自分の心に対しても、自分を惹きつける人間に対しても逆らおうとしなかった。こうして私はアンビバレンツな人格を抱えることとなり、永久に自分自身と矛盾した生活をつづけることになった。その素晴らしい成り行きを、私は大切にしなければならない。