第二部


一章 野辺地中学校




         一

 ばっちゃといっしょに、下駄箱に囲まれただだっ広い玄関に入った。新品のズック靴に履き替え、廊下に踏み出した。左に曲がってすぐ左手の職員室の戸を開ける。ほんの一瞬私は敷居でためらい、暗い危険にひるんで、明るい廊下へ後戻りしそうになった。たしかに危険はあった、想像という危険が。
 敷居を跨ぐと、職員室じゅうの眼という眼が私に集まった。壁の時計の針が八時二十分になろうとしている。ばっちゃがだれにともなくお辞儀をすると、一人の中年の教師が立ち上がってお辞儀を返した。
「神無月くんですか」
「そんだす」
「私、三年一組、五十二名の担任の奥山と申します。神無月くんはうぢの組さ入ります」
「新道の佐藤(さどう)です。ガヘンバの」
「は、承知しております。手続に手間取り、転校が遅れて申しわけありませんでした」
 なんとか訛りを消そうとしている。それでも、オグヤマ、と聞こえた。彼以外の教師たちは挨拶を渋るようにしていた。その気配から私は、マサちゃんの先触れとちがって、自分の前評判が予想以上に芳しくないことを知った。ばっちゃは私を促し、遠慮がちに奥山先生の前に進み出た。私は上半身を深く傾けた。
「佐藤善吉さんのご高名は、かねがね聞いております。秀才の誉れ高いご家系ですね。ご子息はみなこの中学校の主席に君臨してきたとか。私どもも、お孫さんにお会いするのを楽しみにしておりました」
 私は奥山の姿にちらちら目を留めながら、注意深く観察した。背丈はそれほど高くないが、筋肉の引き締まった俊敏そうなからだつきで、形のいい鼻や、一文字に食いしばったような口つきに、意志の強さと度量の広さが現れていた。二重まぶたの深く切れこんだ目は、情熱にあふれて澄んでいた。
「型破りの野球選手だと聞いておりましたが、運動家というよりは、芸術家か学者といった雰囲気ですね」
 奥山はこの少年に会ったとたんに、深い哀れみを感じた。不思議に明るい静かな顔に、同情しないではいられない深い悲しみが刻まれていたからだ。かたくなで実直な人間特有の悲しみだった。
「神無月くん、こっちの学校じゃ物足りないかもしれないが、がんばってください」
「はい」
「悪たれだすけ、なにぶんよろしぐお願げします」
 それにはうなずかず、
「十年も前のことになりますか、私、新米のころ、善夫くんを教えたんですよ。彼もずっと首席でした」
「そたらのは、じっちゃの手柄だべせ。オラはなんも関わりがね。オラにしてみたら、みんな曲がらねでつつがなぐやってくれれば、それだけでなんもいらねのよ」
「なるほど。善吉さんと二人三脚、人間的薫陶のほうを担当なさったわけですか。……ところで、あわただしい転校でしたね」
「ほんだの。あっちで悪さして、送られてきたの。ワは、キョウが悪いことをしたとは思ってねよ」
「私もそう思います。あちらの担任の先生に電話でおおむね伺ったところでは、少なくとも私には郷くんの行状が、果たして悪さというものに当たるかどうか疑問です。じつはその先生も、ゆきがかり上こうなっただけで、郷くんに非はないとおっしゃっておりました」
 苦い顔をしている教師も二人、三人いる。〈不良〉として送られてきた少年がいったい何をしたのかということは、なまなましく彼らの興味をそそっていた。私は、彼らがそう思っていることを手に触れるほどはっきりと感じた。
「母親が面倒くせ女で、針を棒にして騒いで、このワラシをぶん投げたんだ。……とにかく、よろしぐお願げします」
 ばっちゃはもう一度深く腰を折った。奥山は彼女に丁寧な辞儀を返した。彼女はあたりの教師にもお辞儀をしながら職員室を出ていった。
 奥山は私を廊下へ導いた。
「最初はとまどうと思うが、なに、取って食われるわけじゃないから。山田三樹夫くんという立派な統率役がいるので安心だ。山田くんはこの学校のナンバーワンでね、きみのいいライバルになるぞ」
 職員室の隣は校長室だった。ドアの小さな磨りガラスに灯りが点いていた。奥山がノックした。ハイ、と声がした。奥山は私を連れて入った。
「神無月くんです」
 私を脇に随えて、眼鏡をかけた白い口髭の男に腰を折った。釣られて私もお辞儀をした。
「私は校長の野月です。事情は聞いた。自然でありきたりで不器用な非行少年がくることを予想していたが、まったくちがった。きみは不良じゃないね。義侠の徒だ。その精神に永遠の美しさと真実がある。きみのような生徒を迎えることができて、光栄に思う。卒業まで残り四カ月しかないが、ふだんの気持ちで、のんびりと勉強と運動に励みなさい」
「はい」
「いい顔をしている。孤独感が胸に迫るね。子供は親や先祖とは顔立ちもちがえば心映えもちがう。孤独にならざるを得ない。やさしい親族に預けられて幸運だったね。長く待たせてすまなかった。PTAの頭の固さには手がつけられない」
「まことに……。では、失礼します」
 奥山に合わせてもう一度お辞儀をした。
 廊下の窓から射してくる明かりが、ヒゲの剃り跡の青い中年教師の顔をくっきり照らし出した。私はなぜかそのヒゲの濃さに安心した。奥山先生は廊下の外れから二つ目の、校長室に隣接する教室に元気よく入っていくと、私の背をそっと押して教壇に上げ、ざわめく人声を手で制した。教壇の脇に鉄製のストーブが据えてあったが、火は入っていなかった。
「このあいだおめんどに話した、神無月郷くんだ。名古屋から転校してきた」
 そう言って彼は黒板に私の姓名を丁寧に書いた。大きくて太い文字だった。私は上半身をまっすぐ伸ばして倒した。私に向けられた五十四人の目が、強い好奇心と温かさにあふれていた。奥山先生はもちろん私の転校の理由は言わなかった。
「神無月くんはいろいろ事情があって、こんな押しつまった時期に名古屋から転校してきましたが、うるさく詮索しねよに。静かに見守ってやってください」
 全員の顔を見回しながら言った。真剣な視線がこちらに向けられている。私はもう一度軽い会釈をした。教室のどこかから、季節はずれの大きな蝿が一匹、うなりを上げながら黒板にぶつかってきた。身をかわすと、ドッと笑い声が上がった。
「野中も一学年に四百人以上もいるマンモス中学校だども、神無月くんのいた名古屋の中学校もそれに輪かけたマンモスです。神無月くんはそこで首席を争う大秀才で、おめんどとはちょっとケタがちがる。野球も愛知県のホームラン記録を何度も塗り替えて、スカウトに引っぱられるほどの逸材です。ひとことで言うと、天才だな。ほんだすけ、勉強の仕方やら、スポーツやらも、いい手本にならねかもしれね。だども、見習うべき点は見習い、また神無月くんの慣れないところには、進んで手を貸してやってけろ。山田くん、ひとつ、神無月くんが早ぐこの学校のことを覚(お)べるよう、バックアップ頼むじゃ」
「はい」
 丸顔の山田という男が、後ろのほうの廊下側の窓際からにこやかな顔で返事をした。かすかな八重歯が人相を柔らかくしていた。
「神無月くん、私の希望は、これまできみが大事にしてきたことに誇りと自信を持って、明るく暮らしてくれることだ。なんも軌道修正なんかしなくていい。―山田くんの隣に座りなさい。だば、一時限目は、自習!」
 戸を引いて去ろうとしたとき、少し頭をかしげた奥山先生の様子は、まるでこの新入生にあらためてお辞儀でもしたいという様子だったが、さすがにそうもできずに、私から顔を逸らしてゆっくり出ていった。彼が廊下に去ると、私は後ろの席に歩いていき、山田に頭を下げながら座った。山田は才気走った白い顔をほころばせた。
「十年ぶりだニシ」
「……?」
「幼稚園がいっしょだったべに」
 目のぎょろりとした馬面の生徒が寄ってきて、
「文雄だ。本町の佐藤菓子。オラもおめと幼稚園が同じだったんで。覚(お)べでるな?」
 たしかに見覚えがあった。
「佐藤菓子の……ボッケ?」
「ンだ。これ、見ろ」
 文雄はわざわざ持ってきたらしいアルバムを拡げた。
「これがオラだ」
 きょとんとした幼い馬面が私の隣に立っていた。最前列に山田の顔もあった。どやどやと何人か集まってきた。にやにやしながら覗きこむ。覗きこんでいる連中はみんな幼稚園の同級生のようだ。それぞれが写真の自分を指差し、恥ずかしそうに笑う。見ているうちに、たちまち思い出した。
「あ! わかったよ」
 私は一人ひとり指差していった。
「この口の大きい子は、村上幸雄(よしのりの言ったガマだった)、このまるまると肥ってる子が岡田パン、これが材木屋の赤泊(あかどまり)、この小さいのが種畜場の中島チビタンク。これが鉄道官舎の四郎……」
「四郎!」
 ボッケが思わず叫ぶと、
「おお!」
 と応えて、タンク型の少年が進み出た。
「すげホームランだったな。ワといっしょに東奥義塾さいがねが」
 名電工のスカウトが言っていたという東奥義塾だ。ドクンと心臓が打った。
「きみはスカウトされたの?」
「夏にな。野高のグランドでホームラン打ったすけ。一年間に四本打った。おめの記録は何本だ」
「十本ぐらいだったと思う。中二のとき。今年もホームラン王だったけど、何本打ったか忘れた。七、八本、かな。小学校五年からずっとホームラン王だった」
「敵わねな」
「きみはほんとうに幸運だ。だれの妨害も受けない。プロ野球にいくつもりでがんばってね。ぼくは野球はしばらくおあずけだ」
 私はアルバムから顔を上げ、あらためて一人ひとり成長した顔を眺め回した。女子も何人か彼らの背中からこちらを見ていたが、笑っているばかりで、近づいてこなかった。中に人形のようにのっぺりと美しい子がいた。黒い細縁の眼鏡をかけ、醒めたような笑顔をしていた。私の視線に気づいて、山田が言った。
「あれは、カクト家具のイツミちゃん。うだでめんこいはんで、だれも口きけね」
 眼鏡をかけた細面が恥ずかしそうにうつむいた。隣にいたゴリラのような四角い体型の女生徒が彼女を連れてきて、
「きれいだべ?」
 と胸を反らした。そして勝手にイツミちゃんの眼鏡を外した。のっぺりとした美しさに変化はなかった。カズちゃんのような重厚さもなく、杉山啓子をただ日本風にした感じだった。イツミちゃんは恥ずかしがって逃げていった。
「奥山のことをグダヤマってへると、ぶん殴られる」
 とガマが言った。たしか彼の家は、幼稚園のそばで駄菓子屋をやっていて、そこの婆さんに一度だけトコロテンを振舞われたことがあった。
「君の家は駄菓子屋で……」
「おお、いまは店やってね」
「英語の沼宮内(ぬまくない)も、ウマグナイってへると、やっぱしぶん殴る」
 と赤泊。
「西舘セツは―」
 と岡田パンが、さっきの顔も肩も角張った女生徒を振り返り、
「一組の奉行だはんで、逆らうとぶん殴られる」
 彼らは新入りの気を引き立てようとして、勝手に笑いの波を立てた。私の耳は、すべての笑い声にわざとらしくない素朴な好意を感じた。陽の射す側の窓辺に、生徒たちの騒ぎに関心なさそうにぼんやり座っている女生徒の横顔が見えた。ふくらんだ頬が節子に似ていた。
「フォードア」
 山田が囁いた。
「え?」
「浜町の四戸(しのへ)末子。あの人も、めんこいニシ」
「そうだね」
 関心もないことに注釈を入れている山田を気の毒に思い、うれしそうにうなずいた。
 授業の進度は名古屋よりかなり遅れていた。学年が一つちがうかと思うほどだった。教師たちは私の視線を気にして、ときどき、自分の講義の進み具合と正確度を、私の顔色に照らして確かめようとした。しかし、私の真剣な表情に突き当たると、ほっとしたように教科書に目を戻した。


         二

 毎日昼休みになると、廊下に並べてある保温器から、胸の悪くなるような弁当のにおいがただよってくる。私はそのにおいを嗅ぎたくないので自分の弁当箱は温めないことにしていた。石のように硬くならないかぎり、冷飯は好物だった。ばっちゃのおかずは毎日ササゲ炒めと、タクアンと、玉子焼きだった。これも好物だった。山田三樹夫も弁当を温めない。いつも黙々と冷飯に箸を突き立てている。彼は繊弱な雰囲気の生徒だったが、仲間たちの中でひときわ大人の風貌をしていた。昼めしのあとも、教室の後ろの壁に凭れ、腕をこまねいて微笑みながら、仲間をまるで年下の子供たちのように眺め渡し、だれよりもできあがった様子をしていた。
 授業のあいだ、私はちらちらと山田を盗み見た。誇らしげな目鼻立ちや涼しい目もとはもちろんのこと、彼のどんな小さな動作も見逃さなかった。きちんと姿勢を正した座り方、教科書のめくり方、メモの取り方、坊主頭に白い手をやる仕草。彼は青みがかった顔をじっと黒板に向けたり、ときどき教科書の上に戻したりした。その静かなたたずまいが、かぎりなく私を魅了した。
 山田くん、と彼は教師から指名され、立ち上がり、滑らかに回答する。答えは信頼されたとおり、周到で適確だった。直井整四郎とちがって饒舌ではなく、いやみがない。私はじっとこの不思議な少年を見つめていた。自分とまったく同い年なのに、まるで別の世界に属しているようだ。たぶん彼は、どこの中学生に混じっても、常に頭角を現す人物にちがいない。それを知ってか知らずか、彼が努めて目立たないようにしているような気がした。そう感じると、ますます強く見つめないではいられなかった。
 山田に気後れしているのは私だけではないようだった。言葉遣いも動作も活発で、お互い教室で押し合いへし合いしているようなほかの連中も、彼に注意されるとみんなおとなしくなり、あるいは彼が立ち上がってどこかへいこうとしても、すぐに道をあけるというふうだった。教師たちも彼に一目置いて気を使っていた。
 山田はそういった周囲の反応を別に気にしている様子はなかった。傲慢だとか、見栄っ張りだとか、自分のことを特別の人間だと思っているとか、そういう感じもまったくなかった。それどころか、ほとんどの仲間たちとはちがって、口の利き方がとても丁寧で、話しかけるとかならず微笑を浮かべる。朝、みんなのいやがるコークス運びなどを率先してやる。仲間たちはそんな彼を心から尊敬しているのだった。
 何日もしないうちに、遠慮せずにしゃべり合う仲間が何人かできたが、特別な親しみを感じるというのではなかった。彼らにしても、押しつまった時期に、たぶん危ない事情でやってきたらしい〈不良〉が、案外おとなしい生徒で、むしろ模範生になろうと努力しているようだと看て取り、安心して近づく気になったようだった。しかしそれだけのことで、もっと肌のそばに寄って心臓の鼓動を聴いてみるほどの親しみはなさそうだった。
「このグラグラだば、使えね。薪にしてまる」
 登校まぎわに、ばっちゃが机を見下ろして言う。
「まだまだ使えるよ」
「もうカクトで買ったじゃ。きょうの昼間に届くこった」
 夕方学校から戻ると、机と椅子が届いていた。立派な一枚板のものだった。ニスがつやつや光っている。じっちゃと二人で部屋に運んだ。
「クルミだな。たげんだ、クルミは」
 彼は古い机を一人で抱えて、裏土間へ持っていった。鉈で叩き割る音が聞こえてきた。ばっちゃが雑巾を持って入ってきて、新しい机の足もとの埃を拭き取った。
「カクトのイツミ、おめと同じクラスらしな」
「ああ、眼鏡をかけたきれいな子」
「ただみてな値段で売ってけだ。椅子も高級だってへってらった。長持ちすべ」
 小さな本立てもついてきた。私はそれを机の上に置き、教科書と参考書を並べた。
「山田医者のカツ子は、おめのかっちゃと女学校が同じでせ。風呂敷でよ、息子自慢ばりしてらい」
「女学校って、何?」
 母が折々口にしていた言葉だった。いつかサイドさんが、私の母も椙子姉ちゃんも女学校では優秀だったと言っていた。英夫兄さんもなんだか褒めていた記憶がある。
「野辺地実科高等女学校てへるのよ。小学校卒(お)わってから、上さいきて女子(おなご)が試験受けていぐ学校だ。おめの生まれる前の年に野辺地高校と合わさって、女学校てのはなぐなった。椙子も君子も野高を出た。スミは女学校から樺太の師範さいきてってへってらったんだども、戦争で世の中が忙しくなってきたすけ、いがなかった」
 別の卓袱台で一足先にめしをすましたじっちゃは、話に耳を貸さずに炉端で煙管を吸っている。そんなことにはまったく興味がないのだ。ばっちゃはめし茶碗に注いだ白湯(さゆ)で箸を洗いながら、
「女学校のころは、カツ子がかっちゃのいい競争相手だったんだ。親子二代で競争してるわけせ」
 見つめるとうなずき返し、微笑するだけで、控えめに離れている山田のことを思い出した。
「でも、山田くんはほんとに優秀だ。勉強だけじゃない、人間的にも……」
「何語ってんだが。勉強はおめが一番だべせ」
 聞いていなかったはずのじっちゃが、煙管をはたきながら大きく笑った。
「キョウ、おめのちゃっけトランジスタな、聴がねなら、ワにけねがな。ステレオってのには、ラジオもついてるんだべ」
「うん、あげるよ。まだ真空管ラジオもあるし」
 私はこころよくうなずき、ちびたトランジスタラジオを机の抽斗から持ってきてじっちゃに進呈した。名古屋から送られてきた文具の中に鉛筆や消しゴムといっしょに混ざっていたものだった。一度も聴いた記憶のないラジオだったけれど、電池を買ってきて鳴らすとけっこういい音で聴けたので、ときどき机に置いて流していた。
「音が弱くなったら、電池を換えるといいよ。わからなかったら言って。買ってきて入れてあげる」
「強欲たかりエ」
 ばっちゃが微笑しながら呟いた。私はじっちゃにラジオのスイッチとボリュームを教え、じゃ勉強する、と言って部屋に戻った。理科の教科書を開き、比重と浮力を一時間ぐらいやってから、ステレオをつけた。ブレンダ・リーのアイ・ウォント・トゥ・ビー・ウォンティッドとウイ・スリーを、小さな音で二度聴いた。それから炬燵に入った。中原中也の詩を読みながら、この数日の疲労で充実した目を閉じた。転校の日にはいかなかったカズちゃんのところに、二十一日の土曜日と、木曜日の勤労感謝の日にはいこうと思った。
         †
 甕から洗面器に汲んだ水で顔を洗い、歯を磨き、目玉焼きと漬物と味噌汁の朝飯を手早くすませる。弁当をカバンに入れ、着古した学生服を着る。半オーバーは持っているけれども、重ね着に美を感じないので着ない。
 身が引き締まるような冷気の中へ歩み出ていく。葉の落ちたポプラの梢が灰色の空に突き立っている。心の中でさびしく動くものがある。そのさびしさは正体が知れないので見きわめようがない。
 教室では、訛りを出すように努力したが、うまくいかなかった。ボッケたちはニヤニヤ笑い、西舘セツは、無理しねんだよ、と言った。そういえば、義一と暮らしていたころも私には訛りがなかった。奥山先生はいつも私の身の上を気の毒に思っているようで、
「がんばれじゃ」
 と、下校しようとする私の背中に声をかける。私は、合船場の暮らしについては不満がなかった。家の生活の規律はきちんと守っていたし、祖父母とよく会話もしたし、ふだんの勉強も怠っていなかったからだ。ただ学校では、仲間たちに首尾よく溶けこんでいるとはいえ、ふとしたときに、沈黙してみたり、人から遠ざかろうとしたりするのが自分でも気がかりだった。
 学校から帰ると、天秤棒にバケツを吊るして夕暮の道に出る。甕を覗いて、ばっちゃが朝汲んだ水が少しでも減っていると、汲み足しておくことにしている。このごろは、私のそういう姿を見かけて声をかけてくる人が多くなった。
「感心だこだ」
 とか、
「水汲みかい。ご苦労さん」
 などとそんな何でもない挨拶が、ひどくうれしい。
 こまめに勉強するようになった。この数年来、自分にとって価値のあることなら挑戦する気になっても、人と争うばかりの退屈でくだらないことには興味が持てなかった。それでも、カズちゃんや西松の社員たちの歓心を買うために、曲りなりにも四年、五年と勉強をつづけてきたのだった。ときには勉強そのものに快適さを感じることもあったけれども、やはり退屈のほうがまさっていて、いつでも投げ出したい気持ちでいた。だから机に向かうときはいつも、あわよくばサボってやろうという気分があった。どうにか勉強の努力をつづけてこられたのは、自分がスポーツだけの人間ではないということを示したかったのと、心の底に知識人に対する軽蔑があったからだった。ぼくのような馬鹿にも負けるのかという軽侮である。いずれも、ただ威張っているやつを打ち砕きたいという相手の知れない根深い復讐心に基づいていた。
 英数国理社―詩や小説に比べてなんと底の浅い没我だろう。しかし、そんな勉強も三日、四日と繰り返してやっているうちに、飽きがくるまでの時間の間隔が長くなり、取るに足らない知識を覚えこむことに熱中できるようになる。とはいえ、夜遅く寒い部屋で勉強していると、カズちゃんや、寺田康男や、加藤雅江や、山本法子や、滝澤節子や浅野のことまで心に浮かんできて、しばらくのあいだ別の没我に向かっていく。
 牛巻病院のロビーに座って滝澤節子を待っていたときの気持ち、中統模試の出来栄えに一喜一憂していた仲間たちの顔、ボールを打ち上げたときに眺めた空の色、日当たりのいい教室の窓辺から草の斜面を眺めたときの風のにおい。すべてはるかむかしのような気がしたし、ついきのうのことのようにも感じた。
「張り合いが出てきたじゃ」
 ばっちゃが近所に吹聴して回っている。じっちゃまで来客に同じことを言う。めったに来客のなかった合船場に、ちょくちょく人が立寄るようになった。私は二人のやさしさに報いるために、土間を掃いたり、縁側や台所や居間に雑巾がけをしたり、井戸から水を汲んできたりして、精一杯感謝の気持ちを示した。大きな蛍光灯スタンドの明かりで夜遅くまで勉強することも忘れなかった。自分が中学生らしい生活をすることが、彼らの面目をほどこし、彼らの心の平穏を保つための善行のように思われたからだ。善行はいきがかりの一時的なものであってはならず、常に積まなければならないものだった。
 少し重い雪が降りはじめ、砂糖をまぶしたように道を白く染めた。家々も、その隙間から見える畑も白みがかって、景色がだだっ広くなった。
 土曜日の学校帰りに、カズちゃんの家に一時間寄った。危険日だったので、外出しのセックスというものを初めて教えてもらった。射精する寸前に素早く性器を引き抜き、カズちゃんのお腹に吐き出すのだ。引き抜く瞬間にカズちゃんもイクので、痙攣する腹に性器をこすりつけるのが心地よく、まったく不満が残らなかった。
「つらいでしょうけど、ときどきこうしてね」
 お腹に散った精液をティシューで拭いながらカズちゃんが言う。
「ぜんぜんつらくないよ。カズちゃんがつまらないんじゃない?」
「ううん、抜くときにカリが引っかかるから、グンて強くイッちゃうの。とっても気持ちいいのよ」
 勤労感謝の日に、合船場で遅い昼食をすませてから散歩に出た。銀映で映画を見てくると言った。朝方雨が降っていたが、きのう一日降った雪を解かすほどではない。午後から曇り空になった。雨模様だ。長袖のワイシャツに紺のセーター、それに学生服をまとい、足袋に下駄を突っかけた。
 午後の海が穏やかな黄緑色をしている。塀や垣根のない質素な家並を眺めながら歩く。唐突に四戸末子に出会った。板切れを貼り合わせて仕上げたような小屋の前で焚火をしていた。教室で見たとおりの豊頬で笑いかけてきた。いつもぼんやりと座っている上半身しか見たことがなかったので気づかなかったが、下半身がアンバランスなほどずんぐりしていた。思わず気持ちが引いた。顔だけが美しかった。あらためて見ると、柔道家のように丸く盛り上がった肩にその顔が埋まっていた。辞儀をして通り過ぎた。
 浜通りから裏道を少し戻って、野辺地中学校のサブグランドに出る。ここで何かのスポーツイベントが行なわれているのを見たことがない。ただの空地だ。土手道を登り、汽車の気配を確かめてから、けいこちゃん親子がしたようにレールを渡る。大きな校舎にL字に二方を囲まれたメイングランドを通って、八幡さまの鳥居前に出る。土の一本道の向こうに夕映えの美しい山々が見える。雨に解け残った雪道はゆるやかな勾配になっていて、ひときわ高い烏帽子岳の麓まで伸びている。烏帽子のいただきに雪が積もっていた。カズちゃんの家に向かう。


         三

「きょうくるって予感がしてたの。幸せ!」
 式台でカズちゃんが跳びはねた。下駄箱の上板に載せた水盤にアザミの赤い花束が活けてあった。
「春の花なのに、めずらしいね」
「花屋さんで買ってきたの。温室栽培でしょう。敵から守る、が花言葉。私の心の象徴よ。室外排気の重油ストーブを居間に取りつけてもらったわ。二部屋ぐらいすぐ暖まるんですって」
 長い口づけを交わす。すぐに暖かい六畳へいき、たがいに衣服を脱ぎ捨てて、愛撫もなく交わる。
「キョウちゃん、きょうは危ないの。外へ出してね。お願い」
 私を収めたまま何度も腹を引き攣らせながら言う。
「だいじょうぶ、イキそうになったら、抜いてお腹に出すから」
「ああ、気持ちいい、もう一回イクわね、あ、イク!」
 膣が猛烈に締まってきて、危うくなった。タイミングがよくわからなかったが、急速な快感の高揚にあわてて引き抜いた。その瞬間、カズちゃんの陰毛にこすりつけた陰茎の先から勢いよく精液が飛び出し、彼女の胸の谷間に飛んだ。カズちゃんの下腹が痙攣するたびに私のものも律動し、さらに真っすぐ彼女の唇にまで飛んでいった。腹を幾度も収縮させながらカズちゃんは、ごちそうさま、とあえいだ。私は新鮮な言葉と新しい交わり方を覚えた。カズちゃんは唇にへばりついた精液を指でこそいで舐めた。
「おいしい……。ごめんなさいね、つらいことをさせちゃって。今月の末ぐらいからだいじょうぶよ」
「こんなの、へっちゃらだよ。カズちゃんが何回もイケないのが悲しいけど」
「私は二、三回イケばじゅうぶんなの。むかしは強くイクことなんて知らなかったんだから。もう幸せすぎて怖いくらい」
 ティシューでみぞおちの精液を拭うと、いつものように私のものを舐めて清潔にした。
「映画にいこう。銀映。いまじゃ野辺地には、映画館はあの一軒しかない」
「知ってる。洋画と邦画をかわりばんこにやってる映画館ね。都会より半年遅れぐらいかしら。散歩がてら、一度観てきたのよ。愛と死を見つめて。宇野重吉がとてもよかった」
 二人で服を着、居間のコタツに落ち着く。
「コタツ買ったんだね。気づかなかった。夢中だったから」
「うふ。いつまで夢中になってくれるかしら」
「永遠に」
 表に出ると、遠くの空に稲妻が光った。カズちゃんはローヒールを履いていた。
「また雨がくるのかなあ。雪がびしょびしょしてる」
「もう一度雪がきたら、地面が固く締まるんだ。歩きにくくなるから気をつけてね。転んだら頭を強く打つから」
「長靴買うわ。キョウちゃんも、いつも足袋に下駄じゃ霜焼けになっちゃうわよ」
「ぼくも長靴を買うよ。革靴も買わなくちゃ。名古屋からズック靴できたから」
 カズちゃんがキッと前を向き、いままで見せたこともない表情をした。
「信じられないことね。キョウちゃんは大らかな性格で、人を許すタチだから、運命(さだめ)のままにという気持ちでいるのはよくわかるけど、私は許せないの。キョウちゃんをとつぜんこんな環境に追いやった人たちを、ぜったい許すことができないの。……キョウちゃんがこうして無事でいるあいだは、がまんする。この先あの人たちが、あの人たちに似たような人たちが、キョウちゃんの進む道に立ちふさがろうとしたら、全力を尽くして追い払うわ。まんいちキョウちゃんを自殺でもさせようものなら、地の果てまでも追いかけて復讐する。そのあと私も死にます」
 私は歩きながらカズちゃんの手を強く握った。
「本人のぼくもそのくらいの気持ちで生きないとね」
「……ほんとに大らかな性格ね」
 美しい歯列を覗かせながら笑った。八幡さまから本町通りへ曲がる。軒の低い料理屋がある。籠行燈に灯を点している風情がすばらしい。
「帰りにここで食事をしようか」
「だめだめ、知り合いに会ったらたいへんよ」
「そうだね、自重しなくちゃね。じゃ、喫茶店にしよう」
「賛成。お酒は飲んでも、コーヒーはまず飲まないでしょうからね」
 銀映の前にきた。博士の異常な愛情という映画をやっていた。政治的なにおいがして気が進まなかったけれど、思い切って入った。
「理解できないものはきらいだ。短い人生、わけのわからないものに時間を使いたくない」
「私もよ。わかろうとしないで観ましょう。どうせわかるものしかわからないんだから」
 この映画館の席に座ってスクリーンを眺めるのは、幼稚園以来だ。なつかしい空間に腰を下ろす。カズちゃんと手を握り合って幕が開くのを見つめる。
 いい映画だった。すばらしくいい映画だった。アメリカとソ連の冷戦が背景になっていてわかりにくいストーリーだけれど、アメリカの狂った将軍が原爆投下を命じて、軍事基地に立てこもるという設定はシンプルだった。原爆が投下されれば、それに対抗して自動的に発射されるソ連側の原爆は、地球の全生命を絶滅させるのだという。とてもわかりやすい。軍人、政治家、学者入り混じってさまざまな策を講じるが、結局、狂った将軍の思惑どおりになる。最後に原爆のきのこ雲が空高く巻き上がる場面で、悲しくふるえる女の歌声がドラマチックに響きわたる
 ―また、いつか、どこかで、ある晴れた日に会いましょう。
 歌声が胸に突き刺さるという経験を初めてした。エンディングロールから、ベラ・リンという歌手のウィル・ミート・アゲンという曲だとわかった。カズちゃんを見ると、泣いていた。この十五歳年上の女と、一生、ともに生きていくのだという切実な思いが胸に迫った。彼女の膝にそっと手を置いた。
「またいつかどこかというのは、死後のことだ。ぼくたちは、いつもいっしょに生きていこうね」
「ええ、キョウちゃんがいれば、原爆も水爆も恐くないわ」
 レモンという名の喫茶店で、ソーダ水を飲んだ。野毛山の病院を思い出した。坂道のアイスクリーム―。
「子供ができたら、どうする?」
「キョウちゃんに迷惑をかけないように産むわ。でも、なるべくできないようにする。キョウちゃんの道を塞ぐ張本人になりたくないから。子供を産むのは、キョウちゃんのことが大好きで、そしてキョウちゃんのじゃまをしないように子供を産んでくれるような人にまかせるわ。そうなったら、私、ぜったいそのひとの力になる」
 店の窓から通りを眺めた。また稲妻が走った。
「……野球で生きるより、本を読んだり文章を書いたりして生きるほうが、ぼくの気質に合ってるような気がする。野球を奪われたから、そう思うんじゃないよ。野球というものが単純で、つまらなく思えてきたんだ」
「複雑なのは人生のほうよ。人がする〈何か〉じゃないわ。野球をしようと文章を書こうと、他人と生きていく人生は複雑よ。そして、人生は複雑じゃないと、生きていく甲斐がないわ。価値があると世間で定評があることより、好きだと思うことをいちばんの目標に据えてね。どうせ人生は複雑になるから。野球をつづけながら道端の花を摘むように、本を読んだり文章を書いたりすれば、人間関係ばかりでなく、ますます複雑で充実した人生が送れるでしょう? 野球もし、勉強もし、人並の生活もする。そうやって生きるキョウちゃんを私は愛するわ。割り切っちゃだめ。どちらか選ぶような生き方だと、あれをする必要もこれをする必要もなくなってしまう。とても単純な人生になるわ。たぶん充実というものからは縁遠くなるでしょう」
 心に響いた。
「そのとおりだね。……でも、気質に合ってると感じることと、実際の才能があることとはちがう」
「いいえ、キョウちゃんは野球も文章も才能のかたまりよ。選択なんかしないで、何もかも取り混ぜて、高い緊張感で生きてほしいだけ。疲れない人でいてほしいの。疲れないことを人生の中心に据えてね」
 カズちゃんは微笑んだ。何もかも胸に落ちた。
「わかった。精いっぱいがんばるよ。こんな単純な言い方しかできないけど」
「野球をつづけるには、たしかにきびしい状況になっちゃったけど、大きな試練だと思ってね。名電工のスカウトが言ってた東奥義塾という高校はどうなの?」
「ぼくのプレイを見たわけじゃないから、スカウトにはこない。東奥義塾の選手はスカウトで引っ張られたやつばかりだ。野辺地中学校にも一人いた」
「それなら、ふつうの高校にいって、そこで野球をやりつづけるのね。野球の才能を開花させながら、芸術の才能も同時に発揮するよう努力するの。できるはずよ。そうして、大学へいってもできるかぎりつづけるの。どちらかに没頭しなくちゃいけない期間は素直に没頭するのね。野球から引退する時期は早いでしょうから、そうなってから、全人生を芸術に捧げればいいわ」
「野辺地高校か……。プロ野球にいけるかな」
「かならずいけるわ。キョウちゃんはどこで野球をやってても、ぜったい人目につく。野球と勉強にただ邁進してればいいの。いまはやっとそういう環境が手に入ったのよ。私の言うことを信じてね」
「信じる」
「さあ、方針は決まったわね。帰りましょう。そろそろ五時よ。八幡さまのほうから帰りましょう」
 夕暮れの道をカズちゃんの家まで歩いた。
「またとつぜんくるね」
「いつも待ってる。十二月の一日から、いつか話した鳴海旅館で、朝だけの賄いをすることにしたの。朝六時から十時まで。少しお勤めに慣れておかないと、キョウちゃんが高校に入ってからたいへん」
 玄関で手を振って別れた。
         †
 加藤雅江から手紙が届いた。もう手紙にはうんざりだった。どんな好意もこれ以上追いかけてきてほしくなかった。

 神無月くんがとつぜんいなくなって、クラスのみんなが驚いています。私にはそのわけが薄々わかります。神無月くんが自分から転校を申し出るはずがないので、寺田くんの二の舞だったのだろうと思います。負けないで! 
 相変わらず、直井くんと甲斐さんが勉強のデッドヒートをしています。私は五十番から百番のあいだをうろうろ。熱田高校にでもいければいいなと思っています。野球部の活気がすっかりなくなりました。神無月くんのいないグランドって、こんなに寒々としたものだったのですね。ただのクラブ活動……。
 神無月くんも寺田くんも修学旅行にいけなくて気の毒でしたね。開通した東海道新幹線で大阪までいきました。九州の指宿のほうまで足を伸ばしましたが、どこを見て回っても、神無月くんがいないのでさびしかった。
 写真を四枚同封します。東京オリンピックの開会式の写真です。競技場に七万人の歓呼の声が上がりました。エチオピアのアベベ選手がぽつんと入場してきたのが印象深かったです。無数の風船が舞い上がる青空に、ブルーインパルスが描いた五色の輪が鮮やかでした。
 さようなら。愛しています。
    神無月くんへ            雅江


 唐突に書き添えた、愛していますというひとことが浮き上がって見えた。カズちゃんのアパートまで追ってきた彼女の姿が甦り、少し目が痛んだ。彼女が学校を代表して東京オリンピックを観にいくことになっていたのを思い出した。四枚のうち三枚は、開会式の行進と、空に架かった五輪の輪のカラー写真だった。もう一枚は、いつか彼女が浅野の家を訪ねてきたとき、いっしょに撮った白黒の写真だった。工場のブロック塀にもたれかかって不機嫌な顔をしている私に、雅江はぴったり寄り添っていた。 
 二の舞―康男のいさぎよい身の振り方が胸に迫った。
「おまえが転校させられることは、あれせん」
 と彼は言った。友情の名のもとに友の窮地を救おうとするような男は、もうけっして現れないだろう。康男の努力は水泡に帰してしまったけれども、わが身を犠牲にして友を救おうとした彼の侠気は、まるで錘(おもり)のように私の心の底に永遠に沈んでいる。
 私は、浅野の手紙と同様、雅江の手紙にも返事を書かなかった。彼女の手紙を読んだとき真っ先に感じたのは、失った生活へのぼんやりとした未練だった。とりわけ飯場の人びとの顔と、彼らとすごした日々がなつかしく浮かんできた。そして、短い幸福だった時間を細かく思い出そうとしている自分に驚かされた。その中にはもちろん桑キンタンや木田ッサーも含まれていた。そういったものは、それが失われたときにはさほど貴いものとは思わなかったけれども、いまはとてつもない魅力をもって甦ってきた。
 私は、まぶたの裏にストロボのようにきらめくものを見つめた。ふだんよりものごとをはっきりと感じ取れる瞬間が訪れ、きっと彼らも同じように、私を思い出しながらまぶたの裏にストロボをきらめかせているだろうと思った。クマさんや小山田さんや吉冨さんや西田さんや荒田さんやシロのことが、そして、新幹線の高架橋のそばの小さな勉強小屋が無性になつかしかった。
 ほどなく、直井からも手紙が届いた。明和高校を受験すると決めたこと、東大に進んで建築士を目指すこと、そのあとで、私を諫める、何か堅苦しい、訓戒めいたことが書き連ねてあった。もちろんその便りにも返事を出さなかった。どんな些細なことでも、いま私が語りかけたい相手は、遠くから感想を投げてよこす彼らではなく、身近にやってきて心とからだを捧げてくれたカズちゃんだけだった。
 感傷はときどき、夜の夢の中に降ってきたけれども、やがて消え去り、何日かするとまた戻ってくるということを繰り返した。私は新しい環境の中で、しだいにその繰り返しにも慣れ、苦痛には感じないで、それなりに不思議な甘さを持つ疲れのように捉えるようになった。しかし、机に向かっているときそれに襲われると、鉛筆を捨てて、ごろりと蒲団に横たわり、目もつぶらずに何時間も名古屋の街並や、神宮の杜や、牛巻病院の屋上にたなびくシーツや、受付の前の暗い廊下や、急患室の滝澤節子の影法師や、とりわけ大部屋の人たちの笑顔を思い浮かべた。
 滝澤節子との肉体の交歓を思い出すことはほとんどなかったし、その感覚すら思い出せなかったけれども、まれに思い出すと、カズちゃんの肉体に充足しているいまの自分の幸福に酔ったようになり、取るに足らない記憶として遠ざけた。そして、程度の差こそあれそういったものすべてが、手の届かない彼方へ消え去ってしまったのだと感じた。その喪失感は骨身に沁みた。カズちゃんはおそらく無意識に、私のこの未練に強く感応したのにちがいなかった。彼女にも私と同じような心細さがあるだろう。彼女は三十年間、名古屋で暮らしてきたのだ。何年後かにはかならず、カズちゃんといっしょに名古屋の街並へ戻っていかなければならない、私はそう心に決めた。




(次へ)