第二部


三章 名古屋西高校





         一

 八月五日金曜日。曇。朝から三十度近い暑さ。カズちゃんと大座敷に寝転んで、歴史の年号の暗記をした。やはり女たちが私たちの周りでしゃべったり、ものを食べたり、菅野といっしょに出かけたり戻ったりした。トモヨさんも私のそばから離れなかった。
「塙席で、建築屋と話し合ってくる」
 主人が菅野と出かけると、女将は帳場で算盤を弾いた。屋敷じゅうにゆったりとした時間が流れる。
 昼めしのあと、古文単語と英単語、数学Ⅰの定理の暗記をする。
 四時近く、主人と戻ってきた菅野が冷コーを飲んでいるあいだに、紺のブレザーに身を固めた。
「菅野さん、いきましょうか」
「ほーい」
「じゃみなさん、しばしのお別れ」
「腹が立っても短気起こさんでね。最初が肝心やよ」
 と女将。主人が、
「まず名西の試験や。短気起こしてオジャンになったらたいへんや」
 玄関を出る。クラウンの横に立っていたカズちゃんが私から学生鞄を受け取り、後部座席に乗りこんだ。私は助手席から見送りの人びとに頭を下げた。北村夫婦、トモヨさん、おトキさんをはじめとする大勢の女たちがお辞儀を返した。
「じゃ、神無月さん、二十六日に待っとります。歌を聴かせてくださいよ。座敷の奥を板間に改造して、ステージマイクと、スピーカーを用意しておきますから」
 と主人。一年もしないで取り壊すことになっている部屋を改装するつもりだろうか。たった数日の〈ショー〉のために。
「はい。全力で唄います」
「ギター用の小椅子も買っておくでね」
 と女将。
「試験、油断のないように」
 トモヨさんが涙ぐんで手を握った。車が走り出し、指が滑って離れた。彼女が手を振る姿を窓から首を出していつまでも眺めた。カズちゃんも眺めていた。菅野はバックミラーを見ていた。
「お嬢さんが立ってるみたいですね」
「姉妹だと思ってるうちに、おたがいに似てきちゃったのかしら。不思議なものね。菅野さん、引越しのとき、荷造りの手伝いよろしくね」
「了解です。神無月さん、いい家ですよ。びっくりしますよ。庭がいい、風呂がいい、トイレがいい」
「庭はふつうでしょ」
「ですかね。大家もシブチンだなあ。家の管理をしてもらうようなものなのに、高い金を取りやがる。サラリーマンのひと月分の給料より高い」
「だから、いままで借り手がつかなかったのよ。私はうれしいわ。あんなきれいな家を借りられて」
 蜘蛛の巣通りから椿町口を右折して、市電通りに出る。
「きょうは、ちがう経路で岩塚へいきます。鳥居から稲葉地のほうへ直進します」
「途中で喫茶店に入るわよ。五時ぐらいに寮に着けばいいんだから」
 市電の駅名を暗記していく。太閤一丁目、笈瀬通、竹橋町、太閤通三丁目、大門、太閤通六丁目、太閤通七丁目、中村公園前。大赤鳥居を右に見て、交差点を直進する。飛島寮からこの道を経由して登下校するわけか。鳥居西通、稲葉地公園北、稲葉地本通で終点。そこから三百メートルほどいった交差点で左折する。
「ここを真っすぐいけば、このあいだの西栄町です」
「八百盛商店というのが角にありましたね」
「うほ、すげ記憶力!」
「何度かきましたから」
 カズちゃんが、
「そこらへんの喫茶店で一休みしましょ。三十分ぐらいしたら私たちは帰るから」
 市営住宅がたくさん建ち並ぶ荒輪井という区域に出る。子供たちが草野球をやっている公園の前で停める。目の前に小ぎれいな喫茶店がある。若い夫婦らしいカップルがカウンターに立ち、一人だけのウェイトレスが客のテーブルを動き回っている。
「小倉トーストとコーヒー」
「ゲテですよ、神無月さん、子供の食い物です」
「アズキが好きなんだ」
 菅野とカズちゃんはコーヒーだけ頼んだ。
「おふくろの前で口に出しちゃいけないことが、二つあるんです」
「何ですか」
「野球と女」
「……つらい話ですね。しかし、北の怪物の話は知れ渡ってるんじゃないですか?」
「母は身内から知らされて知ってます。ほかに知っているのは青森の一般の人たちだけでしょう。甲子園に出ないかぎり、青森以外では無名だと思います。大手の一般紙には載らないから、菅野さんやお父さんみたいな野球通じゃなきゃ知らないと思うな」
「まあねえ……」
 カズちゃんが背筋を正し、
「一年半、がまんしてね。猫をかぶるのよ」
「ふつうにしてれば、そうなる」
「はい、カバン。お金、足りてるわね」
「カバンの底に、四十万円以上入ってる」
「四十万! わが家の貯金とどっこいだな」
 小倉トーストを半分カズちゃんにあげる。おいしそうに食べた。
「何かあったら、ほんとに電話くださいよ。すぐ迎えにいきますから」
「菅野さんの正体が疑われないようなときだけね。このあいだも言ったけど、おふくろはカズちゃんがまさかぼくのそばにいるなんて知らないから」
 コーヒーを飲み干して席を立つ。店を出、二人と握手する。走り去る窓に手を振る。
 八百盛商店を右折して、照り返しの強いアスファルト道をいく。右に三浦米穀店、それを過ぎるともう道の左右にまばらな民家しかない。飛島寮の敷地の斜め前に、岩塚モータースという自動車整備工場がある。入口につながれたセパードが吠えた。寮脇の隘路に接して、梱包された大箱を店前に積んだ事務所がある。明菱サービスと看板が出ている。運送屋の構えだ。
 開放門から敷地へ入っていくと、去年と同じ景色に包まれた。右手に鉄筋コンクリートの二階建て、その裾に細長い花壇、門の左手に社員用の二階建てのバラック、正面に食堂と住居を兼ねた二階建てのバラック、それらに囲まれたコンクリートの駐車場。花壇には今年も何も植えられていなかった。怠惰な母が花を植えるようなマメなことをするはずがない。
 食堂のドアを開けて入った。母がテーブルにいたが、挨拶の言葉を思いつかない。煮物や肉の焼けるにおいがした。
「きたか」
 男のような口の利き方だ。私の中に険しい気持ちが芽生えはじめる。
「ああ」
 私はかすかに手を挙げた。四十三歳。半白の髪を引っ詰めにして、くすんだ色のシャツとだぶだぶのスラックスを穿いている。小さな顔に穿たれた目はするどく、額と目尻の皺が深い。テレビ台の裾にいたシロが、のそのそ足もとにきた。腰を落として頭を撫でられるの待っている。しゃがんで撫でる。毛触りでますます齢をとったことがわかる。食堂と台所の仕切り壁の隅に、北村席よりも大型の扇風機がゆるく回っていた。
「贅沢な服着てるな。革靴も分不相応だ。いつ着いた?」
「一時間ぐらい前」
「西高はこれまで東大合格者を出したことがないんだってさ」
 開口一番、東大の名前を出す。出鼻を制する威嚇だ。どう応えるべきか迷う。青森高校にいればよかったかな―これは不可。
「欠員がなかったんだから仕方ないよ。残念だけど、与えられた環境でがんばるしかない」
「欠員のある学校の中で、いちばん優秀な学校を選んだから、何とかがんばって東大にいってくれ。ほかの国立、私立の妥協は許さないよ。現役で受かること。だめなときは高卒で働け。浪人なんかさせてる余裕はないんだから」
 たちまち耳慣れた平凡な価値観が押し寄せてくる。一年ぶりに会った親子の最初の会話だ。野辺地のことも訊かない。
「どんな高校だろうと関係ない。一生懸命やれば、東大にいけるよ」
「冗談は私の前だけにしときなさい。西高に受かるかどうかもわからないのに。定員一名だってよ」
「受かるよ」
 私はそう言いつづけるしかない。相変わらずインコがさえずっている。シロは長卓の下に寝そべった。
「受かっても、旭丘や明和じゃないからな」
 なんというねじくれた物言いだろう。知っていて、そこに決めたんじゃないのか。
「結局、こっちで最初から高校入試を受ければよかったってことになるね。ぼくが信用できなかったんじゃなかった?」
 危険な物言いになっている。
「屁理屈言うな」
 いつもの意味不明の会話になってきた。私も意気消沈していると思わせたほうがいいかもしれない。そうすれば母は、私が本来の事情を知らないと考えて、自分の考えは露見していないと安堵するだろう。被虐者を演じていれば安全だ。
「ぼくも旭丘か明和にいきたかったけどね。とにかく空きがなかったんだから、おふくろの責任じゃないよ」
「浅野先生に尋いたら、名古屋西高は市内でもちゃんと五本指に入ってる高校だってよ」
 何を言いたいのかさっぱりわからない。もう一度足もとにきて潤んだ目で見上げているシロの頭を撫ぜた。
「浅野とまだ連絡とってるの」
「ときどき向こうから連絡をくれるんだよ。義理堅いね。いい先生じゃないの」
 私は同意するふうにうなずき、
「試験は、あさってか」
「何十人も応募者がいるらしいよ」
「一番で受かれば関係ない」
「大口叩くんじゃないよ。落ちても青高に戻れるようにしてあるって、石崎先生が手紙よこしたよ。それはそれでおまえは助かるけど、外聞が悪いだろうね。またおだてられてヤクザな野球をやるだろうしな」
 そうしてもらえれば、私も山口もそんなありがたいことはないが、そうなったらそうなったで、あれこれ口実を設けてまずまちがいなく来年の春にはもう一度呼び寄せるだろう。もっと〈優秀〉な高校を用意して。
「落ちないよ。そんないいかげんな気持ちで名古屋にきたんじゃないんだ」
 私は、まるで自分が望んで出てきたような口ぶりで言う。母は皮肉な微笑を浮かべてうなずいた。いままで気づかなかったが、このシニカルな表情は人生の途中でできあがったものではなく、彼女の顔に生まれながらに貼りついていたものかもしれない。歌人になりたいと言った父は、この表情を何千回も見たのだ。そして、絶望した。
「会社の人たちは?」
「あと三十分もしたら帰ってくる」
 門脇の別棟のバラックに連れていかれ、一階の六畳間を見せられた。厚い青地のカーテンが引いてある。ユリさんが青森から送りつけたテープレコーダーや、いくつかの段ボール箱が部屋の隅に積んであり、その横に粗末な椅子つきのスチール机が置いてあった。十ワットの小振りなスタンドと小さな本立ても置いてある。机は平畑の勉強小屋のものよりほんの少し新しかった。古巣に帰ってきたようで、不思議に心が安らいだ。
「社員の人たちがみんなで用意してくれた。蒲団も買ったからね」
 母は押入を開けて見せた。真新しい蒲団が畳んで重ねてあった。
「六時から夕飯だよ。みんなにちゃんと挨拶しなさい」 
 そう言って食堂へ戻っていった。
 ダンボールを開けて、カズちゃんに買ってもらった学生服を鴨居のハンガーに吊るし、カバンから木谷千佳子のスタンド敷きを取り出してスタンドの下に敷いた。机の上でその紺と白の綾織模様だけが真新しかった。ほかのダンボールは開けなかった。見覚えのない大きな箱は、ばっちゃが送ってよこしたレコードだろうと思い、開けてみると果たしてそうだった。教科書や参考書をカバンから取り出して本立てに納め、代わりにレコードを数枚カバンに詰めた。
 カバンの底の茶封筒を確かめた。この金で、コツコツ本やレコードを買い集めようと思った。四角い紙切れがカバンの横袋の底に覗いたので、つまみ出してみると、赤井の名刺だった。思わず笑って、机の抽斗に放りこんだ。一抹のさびしさがよぎった。彼とは、もう生涯会うことはないだろう。


        二

 夕食のときに、顔の長い頭の禿げた大沼という所長と、そのほかの社員たちに引き合わされた。
「うほう、いい男だなあ! 背が高い!」
 ひょろりとした大沼所長は、あの西松建設の岡本所長とはまったくちがう面相とたたずまいをしていた。理屈ではなく感覚で人を見分けようとするような、ほどよい緊張感が全身にただよっていた。自分以外の人肌を嫌わない度量の広さを感じた。母がすぐ、
「ウドの大木ですよ。アタマは空っぽ。所長さんは、東大の建築科を出ててね。東京から単身で赴任していらして、社員たちとわざわざ寮暮らしをしているんだよ」
 と言った。手紙にあったとおり岡本所長と同じ肩書だ。五十あとさきの大沼所長は、プライドを誇示するのとはちがった鷹揚さで母の紹介を受け流した。
「神無月郷と言います。よろしくお願いします」
 私が頭を下げると、
「頑固者で、父方の姓を名乗りつづけてましてね」
 母が説明を加えた。
「ゴロがいいので」
 私が言うと、所長はにっこり笑い、
「私も、佐藤郷より神無月郷のほうがいいな。華のある名前だ」
「東大にいきたいなんて、大きなこと言ってましてね」
 やはり私にかぶせるか。
「名古屋西なら、ぜんぜん悪くないぞ。徒党を組んで東大にいくような高校より、ずっと励み甲斐がある。私も長野県の名も知れない高校から東大にいった。名古屋西なんかよりずっと低ランクの高校だよ」
 テーブルにいた社員が自己紹介を始めた。三木です(丸まっちい愛想顔)、山崎だ(ヒゲの濃い武者顔)、佐伯です(ふんわりした内気顔。ひどく背が低い)、飛島と申します(一人だけ長身。顎のしゃくれた外人顔)、とめいめい笑顔で自己紹介していくとき、西松の社員たちと同様、みんな仲間意識が強く、なごやかな気分が満ちていて、少しもえらぶったところがないのに気づいた。ただ、クマさんや小山田さんのような、豪快さと人情味が入り混じった大きなスケールは感じられなかった。私は社員の一人ひとりに頭を下げた。最後に自己紹介した彫りの深い面立ちをした飛島という男のことを、本社の社長の三男だと大沼所長が教えた。
「酔っぱらうと、すぐ若き血に燃ゆる者を唄いだす。そうなったら止まらなくなる。しばらくがまんしてもらうしかないな」
 背の高い飛島さんは、白くて長い指で頭を掻いた。だれも北の怪物の話題を出さなかった。まったく知らないか、その存在は知っていても、母が話題に出さない以上それが私と同一人物だとは思っていないかのどちらかだった。彼らがビールをすすっているあいだ、私はポークソテーと、一膳の飯を食った。
 ―十年一日、ポークソテー。
「青森高校というのは、県下ナンバーワンの高校だね。太宰治や寺山修二の母校でしょ」
 はい、と私は飛島さんに応えた。ぽっちゃり太ったやさしい眼の三木さんが、
「ほう! そりゃすごい。そこで成績はどうだったの」
 直接的な訊き方をする。
「だいたい五番以内です」
 飛島さんが、
「え、それならそこにいてもじゅうぶん東大にいけたんじゃないの」
 予想外に早く始まった。母が渋い顔をした。
「いえね、私も旭丘や明和のほうが確実だと思って、この子と連絡を取り合ったんですけどね、そしたら今年は受け入れの定員がないということがわかって、それでもいいとこの子が言うんで、こういう結果になりました」
 恐れ入った。その二つの高校のがんらいの転入の制限など、彼らが知る由もない。
「来年のチャンスもあったでしょう。キョウくんの早とちりだったんじゃない?」
 所長が、
「いいんだ、いいんだ、それでいい。高校までは、親のそばで寝食の心配なく勉学にいそしむというのがまともだ。これで心を落ち着けて勉強に励むことができる。な、キョウ」
 所長が私を呼び捨てにして肩を叩いた。初対面でキョウと呼ばれたのは初めてだったが、なぜかしっくりきた。中背でがっちりした山崎さんが眼を光らせて、
「……青森高校の神無月? ひょっとして、キョウちゃん……北の怪物?」
「はい―」
 知識のある人間には正直に答えるしかない。隠す理由がない。がやがやと場が色めき立った。母が苦虫を噛み潰している。三木さんが、
「おいおい、ほんとかよ! 全国高校球界二年連続三冠王の?」
「ウッホー!」
 みんな箸を止めて、目を剥いた。
「佐藤さん、何も言わなかったな。知らないわけないでしょ」
「向こうの先生からの手紙には、何か書いてあったようですけど。何ですか、三冠王って」
「いや、まいったな!」
 大沼所長がパチンと両手を拍った。
「こっちの高校の野球部は?」
「硬式野球部がありません。青森の最後の試合で休止宣言をしてきました」
「ヒャー!」
 めしどころではなくなった。子供のように背の低い佐伯さんが、
「野球を休止する宣言をして、彗星のように名古屋へ去っていく……あの怪物ですね。東奥日報から転載された中日スポーツで読みました。きみだったんですか。新聞で写真を見たことがある……そうだ、この顔ですよ。ほんとにお母さんはひとことも言いませんでしたよ」
 佐伯さんは感激して涙目になった。みんな目を見開いたまま無言でいる。大沼所長が、
「しかし佐藤さん、一般の新聞にも取り上げられたんだから、知らないわけないでしょう。どういうことなの、佐藤さん」
 母が黙っていると、山崎さんが、
「おばさんはほんとに北の怪物を知らなかったんだろう。しかし、ここにいるのが信じられないな。まちがいなく来年の各球団のドラフト一位が、いまここにいるという……」
 彼は口を引き結んだまま大きく鼻息を漏らした。所長は解せないという顔で、
「しかし、こうして、野球と関係ない高校に転校しようとしてるんだろ。なんで?」
 母を立てなければならない。ここで陥落させるわけにはいかない。私は転入試験を受けなければ大学へいけないのだ。私は社員たちの顔を見回し、
「野球をお休みしたんです。やめたわけじゃありません。青森では騒がれすぎました。やかましいことが嫌いですから、しばらく野球から離れて、野球と関係ない世界へ逃げてきたんです。来年の秋のドラフト以降は、うるさくなると思いますけど、そのあいだぼくは逃げていますから、どうかよろしくお願いします」
 母がアングリ口を開けている。
「……おまえ、大学でまた野球をやる気じゃないだろうね」
 山崎さんが、
「おばさん、そういう言い方はないだろ。しばらく野球から離れると言ったじゃないか。北の怪物だよ。野球をやるに決まってる。これじゃ親子のあいだがあまりにも疎遠すぎだろ。ちゃんと意思疎通しようや」
 飛島さんが、
「高校で急に野球に目覚めたってこと?」
「いえ、小学校、中学校と、名古屋市の連続ホームラン王でした」
 ここも不正直になる必要はない。みんな気まずく沈黙した。三木さんが、
「そんなふうだと、小さいころからスカウトが引きも切らずということになるよね」
「追い返しました」
 母が胸を張った。不気味なものを見る視線が母に注がれた。母が言った。
「野球なんてやくざなスポーツで、精神を腐らせます。それに才能、才能と騒いでも、口先だけの褒め言葉ですからね。西松の所長さんもおっしゃってました」
 山崎さんが、
「何者だい、そのバカヤロウは」
「大沼所長さんと同じ、東大建築学科の―」
 所長が、
「わかった、わかった、佐藤さんの言い分は理解した。佐藤さんは一本気でそう思ってたんだろ。女手一つで育てた息子だもんな。悪人はその西松の所長だ。キョウは周りの嫉妬にやられたんだよ。佐藤さん、口先だけの褒め言葉ってのはおかしいぞ。それだけの実績があれば、褒めたんじゃなくて、認めたんだよ」
「とにかく私は郷に勉強させようと、幼いころから決めてますから」
「了解、了解。遠回りになったけど、キョウは身を捨てて母親の願いを尊重したんだ。なに、東大いくことが佐藤さんの願いなら、東大いって野球やればいいんだ。それで恨みっこなしだ」
 所長は一挙に理解した。佐伯さんが、
「それじゃ、キョウくんが一方的に、一人ですべて……」
「いいんだよ、佐伯。これで、いい流れに戻ったと思おう。野球界のだれもキョウを見捨てないよ」
 飛島さんが、
「じゃ、来年のドラフトは蹴ってプロ入りは拒否と……。で、大学にいくと……。大学で野球を再開すると。大学へいくまでは?」
「静かに勉強します」
「静かにね―」
 三木さんが、
「何はともあれ、とんでもないすぐれものがきたぞ。これだから人生楽しいよな! たしかに、おばさんも人が悪いよ。手に余って突き放したって言ってなかったっけ。そのあとはまったく無視か」
「それは、心を鬼にして―」
 私が青森でどうやって暮らしていたかなど、彼女のあずかり知らないところだ。大沼所長が、
「不良少年だったって言ってたな、佐藤さん。キョウはそれだけの実績を上げて、どうやって身持ちを悪くする暇があったんだい」
「……夜遊びですよ。いろいろありましてね。野球をしたあとは、夜遊び。悪い仲間が多かったかですから」
「佐藤さん、くどいことは言いたくないけどね。野球をして、夜遊びをして、残った時間は何をしてたんだろう」
「さあ、ぼんやりしてたんじゃないですか」
「学校の成績は?」
 母が答えないので、所長は私を向いた。
「ずっと二、三番でしたが、中三の春以降、一度五十番を切ったことがありました」
 飛島さんが、
「天才だ! どういう夜遊びだったの」
「女ですよ!」
 思わず母が叫んだ。山崎さんが大声で笑った。
「愉快、愉快。簡単な話だ。中三で女遊び。それが気に食わなくて、キョウちゃんの人生をぶち壊しちゃったんだな。西松の所長も佐藤さんも悪人だ。才能は認めない、人間の摂理は認めない。キョウちゃんの人生をなんとも思ってなかったってことだよ。そういうやつが、キョウちゃんの周りにもっとたくさんいたんじゃないの。キョウちゃんのすごいところはだ、そういう不運を自力でぜんぶ帳消しにしちまって、それどころか華々しく回復して、悪人の存在を忘れさせちゃったところだよ。愉快、愉快。要するに、おばさんの息子は正真正銘の天才だってことじゃないか。抜け上がった天才だ。何でも願いは叶えてくれるよ。これから毎日楽しくなりそうだぞ。ね、所長」
 山崎さんに振られて大沼所長は、考えこんでいた表情を明るくし、
「ん? あ、そうだな、とにかくキョウは三冠王で、美男子で、頭がよくて、笑い顔がかわいくて」
 山崎さんが豪快に笑い、
「何言ってんですか、所長。あせっちゃって。いや、佐藤さん、俺は悪気があってこんな言い方をしたわけじゃないんだ。あんたが徹底した悪人でなきゃ、こんな反動的な、突拍子もない天才は育たなかったよ。たぶん甘えて、もっと怠け者になっちまったろうな。いやあ、どっちも裏表がない。わかりやすい。感謝、感謝。よし、飲もう! 神無月郷くん、飛島建設寮へようこそ!」
 大沼所長が、
「うん、キョウが木石でないのがうれしいな。佐藤さん、いい子を呼んでくれた」
 佐伯さんが拍手し、酔ってもいないのにさっそく飛島さんの《若き血に燃ゆる者》が出た。あらためて彼らがたがいに乾杯する。極悪人にされた母は、ひどく機嫌を損じながらも、ただ薄笑いをしていた。私にはうろたえているように見えた。三木さんが、
「あさっての試験は何時から?」
「九時半からです。夕方まで」
「発表は」
「二、三日後だと思います」
 佐伯さんが、
「キョウくん、きみが受かったらみんなでカンパして通学用の自転車を買うことに決めたんだよ。後ろの車輪脇にカバン納れをつけたやつ」
 母が、
「そんなことしていただく必要はありません。倉庫に何台か見かけたあれで―」
 飛島さんが、
「もう注文しました。ブリジストン。長いこと通学するんですよ。オンボロ自転車じゃだめだ。キョウちゃんはもうわれわれの家族の一員です。佐藤さんだけの身内じゃありませんよ。机とスタンドも気になってましてね。机はまあ木製でなくてもよしとしても、スタンドが小さすぎる。書棚もないし。所長が会社に注文を入れました。少しでも環境を整えないと、学生生活に支障が出ます。山崎さんじゃないが、いくら天才でも、そんなことは自力で解決することじゃないですからね」
 またみんなで笑いながら、たがいにビールをつぎ合った。




 翌六日は、社員たちが出払ったあと、朝めしを食わずに一日机に向かった。ベクトルと三角関数をやった。母に呼ばれた昼めしどきだけ、食堂に出ていった。
「―野球をやるんじゃないよ」
「心配しなくていいよ。勉強をするために名古屋にきたんだから」
「名古屋じゃない。その先の話だよ。根性が腐るからね。浮ついた気持ちじゃなく、大学を出るまでちゃんと勉強してくれ。おまえを育ててきた甲斐がないからね」
 育てた? 浅間下の二年半のことだろうか。
 夕方、社員たちは昨夜の興奮が冷めないまま、道草を食わずに帰ってきた。すぐに酒盛りになった。新聞記事の研究をしてきたらしい所長が、もっぱら質問する。
「二年連続三冠王。三部門とも全国一だね。高校出たら、ほとんど全球団ドラフト一位指名確実の逸材じゃないか。まあ、その実力発揮は先延ばしになったがね」
 山崎さんがため息を漏らした。
「もう二、三年すれば、プロだったのにな」
 母が、
「お金ですね。こういう騒ぎは、まったく現実味がないお金が関係してるんでしょう。身に合わない騒ぎからは離れて暮らすにかぎります」
 山崎さんはうなずきながら、
「わかるよ、おばさんの言いたいこと。しかし、金が才能の付属物なら、もらっとけばいいじゃないの」
 所長が、
「凡人には、ものごとが自分の希望するように動くなんてことはめったに起こらないんですよ。希望を叶える才能がないから、凡人は這いずり回って残飯を漁る。才能があるのに這いずり回りたがるのは、どっかへんだと思いませんか。おっと、きょうも目覚ましい会話が始まっちゃったな。この年になって、初めてだよ。こんなワクワクする会話。私が思うに、おばさんは、報酬と天職を結びつけて考えてないんだろう。見てみなよ、キョウの顔を。金のことなんかぜんぜん考えてないよ。人間らしい充実感というやつを追求することを天職と決めて、つまらない金のことなんか問題にしないという顔だ。私ならその心意気を祝福してやりたいな。おばさんはこの顔に安心しちゃったんだろう。祝福なんか思いもしないでさ」
 みんな大きくうなずいている。所長はつづけて、
「キョウ、好きなようにやんなさい。大学に入るまで、ここに金を持ってやってくるいろんな野球関係者の動きが目に入らないような、防波堤になってやるから。心なくもな。おばさんもそれで納得だろ。よし、あしたの試験がまず大事だ。もう寝なさい」
「所長、まだキョウちゃん、めし食ってないですよ」
 三木さんの言葉にみんな笑った。
「そうか、食ったらすぐ寝ろ」
 佐伯さんが、
「転入試験て、何人採るの」
「一人です」
 ウエーと食卓がざわついた。母がうなだれて見せた。所長が、
「佐藤さん、何心配してるの」
「高校側に問い合わせたら、志願者は四十一人だそうです」
「志願者が何人だろうと、一番で受かればいいだけのことでしょ」
 所長がカズちゃんと同じことを言った。飛島さんが、
「九時に教室に入るということだな。送っていこう」
「いえ、バスでいきます。緊張感が保てますから。出発という感じもします」
「わかった。門の前のバス停から名古屋駅前行きが出てる。駅前からは、市電でいけばいい」
 すでに知っていることだった。
「はい、ありがとうございます。七時半にここを出ます」
 大沼所長が、
「佐藤さん、早くめし出してやって」
 大きな焼きホッケと味噌汁が出てきた。ふと、去年の夏にきたときにいた下働きの中年女がいないことに気づいた。母の下につくのは並大抵の苦労ではない。カズちゃんのような草原の大らかさがないかぎり、ひと月ともたないだろう。
         †
 八月七日日曜日。じゅうぶん睡眠が足りた。六時に起きて、去年と同じようにシロと庄内川の土手を散歩した。快晴。
 朝めしは味噌汁に生玉子をポン。アルマイトの薄手の弁当箱を持たされた。学生服の胸にシャープペンシルを差し、ポケットに消しゴムを入れた。時計は持たない。もともと持っていないからだ。問題を解いているとき、時計を見るなどもってのほかだ。集中していない証拠だ。いのちの記録を盗み読みされたくないので、カバンは持って出る。レコードが入っているので少しカバンが重い。七時半、開放門を出ようとすると、所長を除いた四人とシロが見送りにきた。山崎さんが、
「ふつうにやってこい」
「はい」
 名古屋駅前までバスで出て、そこから市電に乗り換え、天神山で降りた。塀沿いに歩いて、ソテツの門に立つ。志願者たちが門前にたむろしていた。眼鏡をかけた学生が何人かいる。私もかけた。とたんに全身に気力が満ちあふれた。
 午前八時四十五分、受験生といっしょにスリッパを履かされ、太った女教師に導かれて長廊下を歩く。明るい教室に入った。廊下も教室も年季が入っている。ただ青森高校よりも廊下は狭く、教室も小さい。
「五教科の予定でしたが、社会科、理科を割愛して、英・数・国三教科に変更します」
 下唇の厚い肥った女試験官がまじめな顔で告げる。山口の言ったとおりだった。
「主要三教科が不出来で、サブ二教科にすぐれているとしても、真の実力は測れないと当校側で判断しました。英語は九時から十一時、昼食を挟んで、国語は十二時から二時、二十分の休憩ののち、数学は二時二十分から四時二十分までです。長丁場ですが、どうか全力を尽くしてがんばってください」
 青高のときと同じように、受験生全員が秀才に見える。この中でほんとうに一番で受かることができるのか。これまでしゃべってきたことがとんでもない世迷言に思えてきた。山口はだいじょうぶだろうか。いや彼はまちがいない。
 シャープペンシルと消しゴムを机に置く。問題用紙と解答用紙が配られる。
「名前を記入し忘れてませんね。―では、始めてください」
 一限目、英語。二時間。こんな長い試験時間は初めてだ。青高のサブリーダーに比べるとあまりにも簡単な英文だ。文法も紋切り型。満点の手応えがあった。問題用紙が上質紙で答案用紙も質がよく、鉛筆の滑りがよかった。青高は藁半紙なので、めずらしい気がした。
 昼休みになり、生まれて初めて母が作った弁当を不思議な気分で食った。鮭の切り身がうまかった。この高校にかようようになったら、毎日こんな弁当を作ってもらえるのかとふと思ったが、それはあり得ないだろうとすぐに打ち消した。渡り廊下のそばに売店らしき小屋があったので、あそこでパンでも買って食うことになるだろう、パンなど食いたくないから、もとの習慣に戻して昼メシ抜きでいくか。
 国語。満点の手応えはなかった。漢字の書き取りに、一つ、二つ、不安があった。
 最後は、苦手の数学だった。二次方程式、軌跡、三角関数の三問を完答し、数列の応用問題を一問白紙にした。どの科目も青高よりかなり簡単に感じられたし、不出来だと思える科目はなかった。それでも、この四十一人の中からたった一人しか選抜されないのかと思うと、あらためて不安を覚えはじめた。最後の答案を集め終わってから、肥った女教師が言った。
「結果はあさって九日の午前十時に発表します。こちらからは連絡いたしませんので、めいめい教務部のほうへ電話をかけるか、直接出向くかして、合否を確認してください。本日はご苦労さまでした」
 ぞろぞろ校舎の外に出た。校門を出て、市電通りに向かった。郵便局に隣接するグランドで、背番号つきの連中がのろのろ硬式野球の練習をしていた。選手全体に野球に対する熱が感じられない。センター方向に大きな当たりを飛ばしているセンスのいい右打者が目についたが、青高の金や山内ほどの迫力はなかった。
 ―社会人野球か。
 一日の会社仕事を終わり、ハードな練習をして、へとへとになって家路につき、たぶん下宿のめしを食い、風呂に入り、少しラジオでも聴いて、あしたの出社のために寝る。考えただけで疲労する。そんな日常の果てにプロ野球に誘われ、腐れ縁の野球をやり、いまより多少ましな金を稼いだからといって、充実した人生を手に入れられたと言えるのだろうか。
         †
「十中八九とは言えないけど、たぶんだいじょうぶ」
 と母に言った。
「自信ないんだね」
「ない。満点を取れなかったから。でも、試験全体のデキと、周りの鉛筆の動きから考えて、たぶんだいじょうぶ。試験は相対的なものだから、人よりできてればいい」
「わけのわからないこと言って。恥ずかしいことになるんじゃないだろうね」
「たぶんならない。落ちてもぼくは恥ずかしくない。得意なことで負けたわけじゃないから」
「何だい、得意なことって」
「…………」
 時分どき、社員たちに、たぶん受かりましたと告げ、拍手をもらうと、めしも食わずにさっさと部屋に引き揚げて、段ボール箱の整理をした。合格に確信は持てなかったが、そうやって時間を潰すしかなかった。
 夜遅く、同じバラックの二階にいる佐伯さんが、三食パンを差し入れてくれた。
「一日びっしり試験で疲れたんだね。食欲なくても、少しでも食べておいたほうがいいよ」
「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」
「……お母さんを怨まないでね。乗りかかった船だ。乗っていくしかないよ」
「はい」
         † 
 八日月曜日。猛々しいくらい暑い。強烈な下痢。激しい耳鳴り。緊張して試験を受けたことがわかった。
 朝と夜の食事どきに食堂に顔を出したきり、暑い部屋の中で、窓を磨いたり、抽斗の整理をしたり、部屋を掃き出したりしてすごした。飛島の社員たちは、新入りの少年に少し人嫌いの気があると感じたのか、そそくさと席を立つ私に何も言わなかった。
 晩めしのあとのまだ明るい夕方、シロと寮の周囲を歩き回った。西栄町辻の八百盛を右折し、いきつけるところまでと定めてひたすら道なりに歩く。何の変哲もない古い民家の連なり。戦後からほとんど変わらない家並だろうと思われた。野辺地と同じように、めったに人といき会わない。犬を連れた若い女に遇った。シロの首輪を押さえる。
「こんにちは」
 女は私の挨拶に応えず、そのまま通り過ぎた。
 こんもりとした緑地があったので近づいていく。宮塚公園という標示がある。千年公園と同じくらいの大きさだった。シロと歩き回る。遊具は鉄棒と砂場きりなので、バットを振るにはじゅうぶんな広さだ。夜、ここにやってきてバットを振ろうと思った。しかし寮にバットを持ちこむのは不可能だと思い当たった。
 道を突き当たると、立派なクスノキに囲まれた神社になっていた。灰色のコンクリートの鳥居の脇の石柱に七所社と彫られている。庄内川のほうへ回る。土手につづく薪(まき)の階段を上り、アスファルト道に出る。シロがうれしそうだ。広い河川敷を見下ろしながら二十分ほど歩く。
 開放門まで戻ってきた。一時間ほどの散歩だった。公共の建物は一つもなかった。飛島寮の前のバス停は〈稲西車庫〉であることを確認する。ここから見やる堤の空は高く青い。
         †
 九日火曜日の午前十時少し前、西高側から合格の連絡が入り、母は低頭して電話を切ると、
「郷、受かったよ! あたりまえだよね、明和だろうと旭丘だろうと難なく受かる頭なんだから。いまから合格書類を取りにきてくれってさ」
 喜んでいるのが不思議だ。不合格を喜んで、嫌味の一つでも言いながら悩んで見せる計画だったはずだ。ふだんの冷笑的な自分の人柄を忘れ、それこそ〈大口叩き〉ながらの恥ずかしい喜びようだ。
「青森に戻るのはみっともないから、専門学校でもいくかい?」
 それが予定していた言葉だったはずだ。ところがあまりにも予定外のことが起こり、思わず気分が上ずってしまったようだ。本音ではない。
 連絡はしないと志願者に断りを入れながら、向こうから連絡してきたということで、私も何か特別扱いをされたようで悪い気はしなかった。インコが騒ぎ立て、シロまで母の足もとをうれしそうにうろつき回った。居残りの佐伯さんが食堂に顔を出して、
「あ、受かったんですね! おめでとうございます。よくやったね、キョウくん。一人しか採らないということで、じつはみんなで心配してたんですよ。ほんとによかった」
 母が、
「じゃ、いまから西高に顔を出してきます。書類を受け取らなくちゃいけないので。何時間か留守をします。よろしくどうぞ」
「このことはすぐ大沼所長に連絡しておきますから、早くいってらっしゃい。所長の言いつけどおり、いまタクシーを呼びます。帰りもそれで帰ってくればいいという話でした」
「ありがとうございます。じゃ、遠慮なくそうさせていただきます」
 新しい灰地のスラックスとブラウスに着替えた母と二人で、寮の前に出迎えたタクシーに乗った。
「ほんとによく合格したねえ。一名しか採らないわけだから、落ちるほうがふつうだものねえ。西沢先生や石崎先生の言うとおりだった。かあちゃん鼻が高いよ。ああ、やっと一段落ついた。この次は、東大だね」
 私は窓の外を向いて嗤った。
 ―ひとまず一歩踏み出した。


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