二十五
  
 自転車を漕ぎながら、私は暗い気持ちでトランクのことを思い出した。カズちゃんのように愛する人間に誠実に寄り添うことこそ、滝澤節子が学習しそこなったことだった。しかし、あのトランクもまた、別種の深い愛情の象徴かもしれなかった。力のかぎり人を愛することができる者は、世間的な知恵など愛情のそばへもってくれば何ほどの値打ちもないということを、そんな知恵が愛情の中へ割りこむのがどのくらい難しいかということを直観で知っている。母を代表とする〈彼ら〉は知らないのだ。たとえそれを学習したにせよ、愛のない生活にかまけて心の泉を枯らしてしまった人びとに、何が理解できるだろう。私はふたたび滝澤節子を発見したのだ。私のせいで風向きが悪くなった彼女の愛情生活を修復してやらなければならない。それは肉体を通してではない。母子の生活にささやかな金銭的な手助けをしてやり、節子に勉強をつづけさせることだ。正看の資格を取れば、彼女の生甲斐もおのずと湧いてくるだろうし、母子の生活も安定するだろう。
         †
 寮では社員たちが明るく騒ぎ立てながら、酒盛りの真最中だった。母は流しでつまみを作っていた。
「よ、遅かったな。悪さしてきたか」
 山崎さんが片目をつぶりながら言った。三木さんが大声を上げる。
「腹へったろう、すぐ食え。三杯食え!」
 母が味噌汁を温め、厨房の水屋から豚肉のソテーとキャベツ炒めを出してきた。機嫌がいい。
「山崎さんが、おまえの部屋の電気を大きな蛍光灯に付け替えてくれたんだよ。三木さんはスチール本棚をあげるって。佐伯さんからはトランジスタラジオをもらった。みんな物置に置いてあるから、ご飯すましたら、整理しなさい。畳に積んである本も、ぜんぶ」
 母がますます機嫌よく言う。テーブルの端についた。三人ともニコニコしている。テレビのそばで、満腹になったシロが寝ていた。
「友だちの家で勉強してるうちに、話がはずんじゃって、夕食までご馳走になっちゃった。腹へってないよ」
「何言ってるの。どうせ遠慮して、一膳めしだろ。夜中に腹減らしてるんじゃないかと思ったら、かあちゃん寝られないじゃないか。早く食べちゃいなさい」
 台所で炒め物をしながらやさしいことを言う。
「じゃ、食うよ。電話すればよかったんだろうけど、寮の番号覚えてなくて。そいつ、話好きなやつでさ、なんとか振り切って帰ってきたんだ。お母さんに頼まれて、これから毎週土曜日にいっしょに勉強することにした。えへん、これでも西高の一番だからね」
「なんだ、体(てい)のいい家庭教師か。一食つきの」
 三木さんが私の頭をゴシゴシやった。
「どこの子?」
 厨房から食堂に出てきて、少し光る目で母が訊いた。
「枇杷島の鴇崎ってやつ。一学期からべたべたくっついてきて、最初は気持ち悪かったんだけど、話してみるとけっこういいやつでさ。勉強できないんだよ」
 一瞬の疑懼(ぎく)は消えたらしく、
「長居しないようにしなさいよ。最初はありがたられても、すぐ飽きられるからね」
「わかってる。どうせ、三学期のあいだだけだよ。ぼくだって、土曜日は図書館で自分の勉強しなくちゃいけないから」
 疑いが消えると、母は、先日の山口や古山のことも含めて、豊かになった私の交友関係に驚くと同時に、この子のどこにそんなに人を惹きつける魅力があるのかと、見直した眼差しになった。感嘆ではなく、無機的な見直しだということは鷹の表情の和らぎ具合から明らかだった。とは言え、中学時代の私の突発的な反抗を思い出し、名古屋にきてからの素直すぎる態度に、チラと疑惑の思いが動くようなそぶりをすることはあった。しかしこの半年の熱心な勉強ぶりと、その成績を考えると、たぶん杞憂だろうと思い直すしかないようだった。私はソテーにかぶりついた。
「キョウちゃん、音楽は聴く?」
 酔いで顔を赤くした飛島さんが尋いた。
「はい。ポップスが好きです」
「そりゃよかった。ぼく、ステレオ持ってるから、留守のときに、いつでも勝手に聴けばいい。ぼくはペエペエだから、土日はよく現場に出てるんだ。二階の五号室。たまに部屋にいるときは、所長命令でいろいろ勉強をしてるときなんで、悪しからず」
「帝王学ってやつか。暇なことしやがって」
 三木さんの揶揄に頭をぽりぽりやりながら、
「難しい土木建築の本ですよ。ぼくは経済出身なんで、そっちの方面は素人なんです。キョウちゃん、ステレオの扱い方はわかる?」
「わかります。自分のレコードが貯まったら聴かせてもらいます」
「ぼくのを聴けばいいよ」
「はい」
 手持ちのレコードはすべてカズちゃんの家へ運びこんでしまっていた。
 所長が風呂から上がってきて、山崎さんにビールをつがせた。若者たちが始まった。飛島さんがテレビに合わせて主題歌を唄う。

 きみのゆく道は 果てしなく遠い
 なのになぜ 歯を食いしばり
 きみはゆくのか そんなにしてまで

「キョウ、必要な参考書があったら、リストを作っておきなさい。ぜんぶ丸善から取り寄せてやる」
 母はひたすら恐縮して、
「みなさんにこんなにしていただいて、もし郷が期待に添えないようなことにでもなったら、親子ともども合わせる顔がありません」
「キョウが合わせる顔がないだけだろ。佐藤さんは苦虫噛み潰してればいいだけなんだから。ま、とにかく、このかわいらしい顔見てたら、だれだって何かしてやりたくなるよ。人間は顔だね。こいつらの荒くれ顔、見てみろよ」
 所長の言葉に、山崎さんはガハハと笑い、貴族顔の飛島さんも頭を掻いた。そして、兄弟喧嘩が延々とつづくテレビドラマに視線を戻した。
 部屋に戻り、テープレコーダーでティミー・ユーローの『ルック・ダウン』を二度聴いた。カズちゃんへの慕情がこらえがたく募ってきた。彼女の顔と重なるように、節子のうなだれた横顔が浮かぶ。淡い喜びを伴った負担が一つ増えた。計画を立てなければならない。計画を立てようとする心に安らぎがないのは、私が愛のない人間だからにちがいない。愛ある人びとの心が安らいでいるのは、彼らの心にいつも献身の思いがあふれているからだ。献身に計画はない。愛ある人びとは善人だ。真の善人の行動はとても地味だ。一人の善人が傷つくとき、善人はみな共に苦しむとエウリピデスも言った。彼らが衝き動かされるのは、人にすぐれたい気持ちからではなく、人に尽くしたい気持ちからなのだ。
 究極のところ、私は愛のないことに不安を覚えながらこういう生き方しかできない。人間の価値はきっと、やみくもに人を愛し、人に与えることにある。ひたすら愛を求める心は、計画を重んじる人工の心にかならず出会う。長いあいだ私は、そのことに気づかなかった。やさしい康男が危惧していたとおり、滝澤節子の行動の根に計画があったことが明らかになり、いや、節子だけではなく、心のあるふりをしていた自分も、その世界の住人だったことが明らかになった。生き延びた意味がそこにしかないなら、そのように生きるしかない。だからこそ、愛される奇跡に感謝しなくてはならない。
 ―キョウちゃんがだめになる!
 滝澤節子もそんな麗しい言葉で他人がだめにならないための計画を主張して、いま私が確認している世界で生きてきたのだ。
 あと一年半―いちばん肝心な計画を果たし終えたら、カズちゃんのそばを離れずに暮らそう。計画のある場所を去り、善き人の愛情のそばへいって暮らそう。そして自分が愛の人でないことを正直に打ち明け、愛に守られる喜びに感謝し、自分を改革しながら、愛に応えて生きよう。
 シロといっしょに夜の道に出て、庄内川の土手を目指した。滝澤節子は私から愛を与えられず、また去っていくだろう。私は何も眼に入らず、ほとんど駆け出すように夜の道を歩いた。


         †
 黒板の前に教壇があり、黒板の左に地図が垂れ下がっている。一人用の六列の机がぎっしり並んでいる。教壇には教師がやってきて講義をし、椅子には学生が座って講義を受ける。それは現実だけれども、象徴でもある。一つの席が空いていても、そこにはいつも〈そいつ〉が座っているし、教壇に姿がなくても〈そいつ〉はそこでいつも声を張っている。
 一日の勉学の疲労にぐったりしながら、夜のしじまの中で机に向かっていると、肌寒くなるほどの人恋しさが私をさらっていく。愛ではなかった。あの夜、牛巻病院のロビーで滝澤節子に会い、彼女の声を聞き、それから半年ものあいだ彼女のそばで息づくことができたのは幸福だったという思いだった。彼女は自分にとって、母親でもなければ、恋人でもなければ、女神でもなかったのに、かつてまぎれもなく身近にいてくれたという事実がありがたかった。この感謝の気持ちは、かならず伝えなければならないと思った。
 ―中村区の岩塚に母の寮があるのは、おそらく偶然ではない。滝澤節子は私のそばで暮らすためにあのアパートへやってきたのだ。
 暗い道でさびしげに見送っていた滝澤節子の姿を心の隅に残したまま、同じ週の土曜日の昼、カズちゃんの家にいく前に、葵荘にいった。ドアをノックすると、母親が涙目で迎えた。私を見るとたちまち笑顔になった。節子は浮かない顔つきで、手にレース編みの道具を抱え、窓敷居に凭れていた。いままで親子で口論をしていた様子だった。
「どうしたんですか?」
 節子は私を見ようともしなかった。ただ打ちしおれ、追いつめられた表情をしていた。その態度は、最も大切だと思う人間を大切に思う態度ではなく、だれよりも自分を大切に思う態度だった。ものごとの面倒さにイラ立ち、感情を爆発させて、大切な人間の価値を忘れる態度だった。
 部屋の真ん中に炬燵の替わりに、買ったばかりらしい小さな石油ストーブが燃えていた。おそらく、母親が私のために用意したものだろう。私はそのことに感謝したが、節子の感情を認めようとは思わなかった。
「この子ったら、急に、知多に帰るなんて言いだしよって」
「なぜ?」
「職探しが、うまくいかんからやと」
 母親は身も世もない調子で言った。節子に仕事など探す気がないことはその様子を見てすぐにわかった。理由が別にあり、それが私に関係しているらしいこともわかった。おそらく再会した私が彼女のイラ立ちの素なのだ。素朴で情熱的な人間は大切なものを見誤らない。感情のままにイラ立って見誤るようなことをしない。母親が台所に立って湯を沸かした。
「あ、お母さん、お気遣いなく。すぐ帰りますから」
「あかん、あかん、上がってちょ」
 母親は私を帰したがらなかった。その素朴な情熱は真剣な表情から見て取れた。私は玄関の狭い式台に腰を下ろした。
「石油ストーブ、ありがとうございました」
「いいえェ、寒なってきたもんでねェ。名古屋は知多よりも冷えるね」
 狭い式台に茶が出され、問わず語りに母親のあっけらかんとした〈計画〉話が始まった。
「私の貯金もそろそろ底をつきはじめたし、テレビ塔の仕事も週に四日だから、アパート代を払って、食べるものを食べると、かつがつなんよねェ」
 物乞いの調子のない、ただの打ち明け話という感じだった。
「だから、私も働くって言ってるでしょ!」
「つまらない仕事をしてほしくないんよ。しっかりした勤め口が決まるまで、私が毎日働くって言ったら、ヒステリー起こしてまって」
 先日この部屋にいてぼんやり感じていたことがはっきりしてきた。母子を一対で眺めるとそれがよくわかった。母親に比べて節子の生活の炉が熱く燃えている気配がない。それでいながら、生活の挫折について回る疲労が目立っていた。母親の態度は明るく、蓮っ葉な感じさえして、自分というものを成りゆきに任せきっている感じなのに、節子はますます固く窮屈に自分を閉ざしているという印象だった。しゃべりながら彼女が見せる投げやりな笑いに胸が痛んだ。
「知多に実家があるんですか?」
「そう。それに生まれ育った土地やから、すごしやすいんやないの」
「すみません、もとはといえばぼくのために、節ちゃんの生活がすっかり……」
「だれの責めもないんよ。この世は、なるようにしかならんのやから」
 感に堪えたように、母親は涙声になった。節子が私に眼交ぜして言った。
「キョウちゃん、きょうは遠慮して。送っていくから」
 つい先週、あれほど喜んで私の手を握り、むせび泣いた女とは思えなかった。私は五分もしないうちに腰を上げた。母親に頭を下げ表に出た。


         二十六

 節子は、自転車を牽く私の先に立って歩いた。スカートの尻を眺める私の眼に、性の対象ではない女が映った。もうそのからだの細かい部分を思い出すことは不可能だった。私は自転車のハンドルを握ったまま立ち止まった。
「節ちゃん―」
「なに」
「世の中って、単純だよ。複雑だと思いこまないで、努力さえしていれば、就職できると思う。勉強してるあいだ、お母さんみたいにアルバイトをしてみたら?」
 私は、ほんのかりそめの会話でも、だれかに向かって言葉を吐くときは自分の全力を注ぎこまなければすまい人間だった。
「相変わらず、キョウちゃんて甘いのね」
 どこが甘いのかわからなかった。滝澤節子は怠惰なうえに、ゆきとどいた欺瞞で化粧していた。たしかに私はそう感じたけれども、彼女にしてみれば、私との一件のために泣く泣く職場を追われた因果が、いまにつづいていると信じているのだろう。しかし、私の直観では、彼女は職場を追われたのではなかった。私の母の来訪や浅野に対する告白などにイラ立ち、諸所からの諫言に嫌気がさして自分で去ったのだ。母にせよ、浅野にせよ、生活の資である職場から去れと命じるほどの狂気は持ち合わせない。
「ごめんなさい。私、このごろ、自分で自分がどうなってるのか、ほんとに……。おかあさんにも、意地の悪いことばかり言っちゃって」
 反省する気持ちは残っているようだった。
「牛巻病院でぼくと遇いさえしなければ―」
 節子は否定しなかった。大門の停留所が見えるところまで二人無言で歩いた。
「めったにこないようにするね」
 節子は自転車に並んで立った。
「そうよ、大事な勉強があるんだから。こんなことがお母さんに知られでもしたらたいへんでしょう。二年前と同じことになっちゃう」
「ぼくは利口になった。静かな大人になったんだ」
「いいえ、まだ高校二年生よ。人の事情より、自分の事情で頭がいっぱいの年ごろよ。とにかく、いまはちゃんと勉強して、安心して会える時期を待ってちょうだい。じゃ、さよなら」
 節子は背中を丸め、もときた道へそそくさと消えていった。
 あの早春の日の、勤勉で、やさしい、生気にあふれた節子が足早に去っていった。青森へ発つ夜の勉強小屋で、カズちゃんは節子のことを、馬鹿な女と言った。たしかにそうかもしれない。でも、そんなひとことで切って捨てるのはあまりにも哀れな気がした。もう会わないほうがおたがいのためになることはわかっている。このまま遠ざかってしまえば、節子は重荷から解放されて、もとの計画どおりに生きていくだろう。せっかく再会できたむかしの恋人を幻滅させてしまったと、しばらくは深く後悔するかもしれないが、その悔いも未来の計画の中で忘れるだろう。
 ―しかし節子が、金銭的に楽になることで生活の軌道が少しでも改善され、あの日の自分を回復できるなら、もし金銭的なことだけが問題なら、カバンの底の金をそっと母親に渡すのがいいだろうか。いや、いい大人が高校生の差し出す金を図々しく受け取るはずがない。しかもそんな涙金なぞ道端で拾った小銭と同じで、彼女たちが計画を立てて長く暮らしていく生活の足しにはならないだろう。そしてたぶん、問題はそんなところにはないのだ。
 これは何のための献身だろう? なぜ私は、この母娘の生活のために悩まなければいけないのだろう。滝澤節子はいったい何が不満で、じっとしているのだろう。私が彼女の心の励みにも生活のバネにもならないとするなら、何のためにせっかくめぐり会ったのかさっぱりわからない。そして実際、私は彼女の心の支えにも生活のバネにもならなかったのだ。
 夕暮れの中を節子と別れた足で自転車を走らせ、カズちゃんの家に寄った。そして、思い切って打明けた。どうしても彼女の判断を仰ぎたくなった。
「そう! 巡り会ったのね。それはキョウちゃんの運命だと思うわ。節子さんにとっては奇跡。……でも、ほっとけばいいのよ。キョウちゃんが二人を助けたいと思うなら、それはそれで仕方ないけど。……でも、早く手を引いたほうがいいわね。その二人、親子でへんよ。いちばんいけないのは、会いにやってきたキョウちゃんに対する感謝がないということね。謝罪してラクになるより先に、まず感謝だと思うわ。キョウちゃんがどれほどのものを犠牲にしてここまで生きてきたと思ってるの。節子さんは職をなくしただけでしょう。そんなもの、その気になってちょっと探せばすぐに見つかるわ。キョウちゃんがなくしたものは、一度なくしたら一生見つけられないものだったのよ。……十万でも二十万でもあげて、足長おじさんやって、さっさと切り上げたらいいわ」
「いま持ってるお金をあげようと思ってたんだけど」
「そのお金はキョウちゃんの大事なお小遣い。手をつけちゃだめよ。私があげる」
「でも、断られるんじゃないかな―」
「プライドがあればね。高校生の前で生活の不如意を口に出す人に、プライドなんかない。断らないわ。とにかくそうしなさい。キョウちゃんはあと一年で受験なんだから、ぼやぼやしてられないわよ」
         †
 一月十五、十六、十七日と、三日連続で積もらない雪が降った。毎朝の気温はほとんど零下になった。青森ほどではないが、さすがに寒いと感じる。
 食堂でみんなとわいわい朝めしを食う生活にもすっかり慣れた。玉子を落とした味噌汁と、白菜の浅漬けと、板海苔で山盛り一膳めし。山崎さんが、
「キョウちゃん、あっちはどうしてる」
「夢精してます」
 ドッと笑い声が上がる。母は聞こえないふりをする。私は彼らのマスコットであり、希望の星だ。
 一月二十一日の土曜日、朝から夕方にかけて、三学期最初の実力試験があった。遅くまで勉強したからだを、朝の冷気が元気づける。冷えたコンクリートの駐車場から道路へ自転車を漕ぎ出して、顔を挙げた。空は少し灰ばみ、冷えた毛布のような太陽の光が低い家並を包みこんでいる。
 教室に入ると騒々しい熱気が顔に吹きつけてきた。定期試験や小テストとちがって、虎の巻に救いを求められない羊たちのワル足掻きの熱気だ。産休教師の安中が試験用紙を持って入ってきた。アジーア川村の元気な号令で、腰掛が音高く鳴った。あらためて川村を眺めて、制服がはち切れそうなデブだとわかった。ときどきチラと周囲を見やる目が、テルヨシのような片チンバだ。
「二年生の東大志望者が全校で三人、この教室にも一人います。神無月くんです。このままいけば彼は確実に受かるでしょう。みなさんはまだ二年生です。時間はたっぷりあります。成績の伸びしだいではいくらでも上が狙えます。じっくり腰を据えて勉強してください」
 一瞬、羊たちのあいだに称賛と嫉妬の雑じったざわめきが起こった。自分たちを卑下する高笑いも聞こえる。
「去年京大に受かったやつは浪人だったらしいがや。現役で東大京大は無理やろ」
「俺は愛教大か南山がやっとや」
「名大はクラスの何番までや」
「四、五番やろ」
 皮肉屋の平岩が訊いた。
「神無月、おまえ二学期の期末試験何番やった」
「クラスの八番、全校の九十九番」
「それで、なんで東大確実なんや」
「実力試験が二回連続で一番だからだね」
「内申書で落とされるやろ」
「大学の入学試験は内申書を見ない」
「ホラ吹くなや」
「はい、静かにして! 名前の書き忘れのないように」
 教師になってまだ日の浅い安中の顔は、窓から射しこむ光に照らされ、羊たちを信頼する熱心な善良さをたたえていた。
 試験が始まったとたん、解答用紙に向かう学生たちが打って変わって白っぽく落胆したように見える。的外れの暗記に憂き身をやつしながら、二流が三流になりきれないあきらめの悪さで夜通し起きていたせいだ。ある者はあくびをし、ある者は腕の中に顔を埋めていた。彼らのあいだには、もうどこにも、受験を一年後に控えた真剣な様子は見えなかった。できればいますぐにでも試験を放棄して帰りたいという願いしか見て取れなかった。
 ―彼らは何のために学校にやってくるのだろう。毎日毎日、休み時間まで犠牲にして勉強しながら大した成果を得られない。まじめで、できの悪い羊たち。私は彼らの中で孤独だった。一人の友も持たなかった。そしてそのことに満足していた。
 一日かけた試験が終わった。ほぼ満足のいく答案を書きあげることができた。天神山中学校の校庭から、クラブ活動の明るい笑い声が聞こえてくる。曇り空を透いて射してきた夕日が、鉛筆をもてあそぶ手の甲で暖かく戯れる。得体の知れない倦怠が私のうちにくすぶっている。私はその気だるさを疲労のせいにし、短い徒競走のときめきから開放されたことに安堵した。
         †
 カズちゃんから二十万の金を渡された。
「渡したらすぐ帰るのよ」
「うん」
 私は銀行の真新しい封筒に入った金を内ポケットに入れ、自転車を飛ばして環状線を走った。冷たい向かい風が顔を切るようだ。中村区役所から若宮町へ曲がりこむ。目に見えないほどの細かい雨が落ちてきた。
 アパートの階段のところで、封筒に自分の三十万円を足して入れた。封筒が少し丸くふくらんだ。十号室の扉を叩いたが、返事はなかった。何気なくノブを回すと、内側から押し出すようにドアが開き、目の前に白いネグリジェ姿の節子が立った。下着が妖しく透けてパンティが見えた。母親の姿はなかった。仕事に出ているのかもしれない。石油ストーブのせいで部屋の空気がムッとしていた。節子が眉をしかめた。
「何しにきたの。帰って。調子悪いから」
 邪険に言い放つと、節子は腹立たしげにネグリジェを揺すりながら、窓ぎわに敷かれた蒲団に戻っていった。髪だけを残して彼女の全身が蒲団に隠れた。彼女がそんな態度に出たせいで、私は自分が卑しい期待を持ってやってきたように思われているとわかった。蒲団の中から彼女は気難しい調子でもう一度言った。
「どうしてきたの。性欲?」
 感情がどこかで低くうめいた。私は節子の針を含んだ言葉に、侮辱よりも凛とした無関心を感じて立ちすくんだ。二年間の無意味が喉もとに迫った。蒲団からはみ出した髪を眺めた。深い、呼びかけるようなさびしさが湧いてきた。憂鬱も湿った後悔もなく、たださびしかった。
 階段に足音がして、母親が昇ってきた。
「あら、キョウちゃん、きたの。コーヒーをいれようね。インスタントコーヒー買ってきたんよ。なんやの、節子、キョウちゃんに失礼やないの」
 私は部屋の中に招き入れられた。節子はもぞもぞと起き出して、下着姿を隠そうともせずにスカートとセーターに着替えた。そして寒そうにストーブの前に横坐りになった。
「見つかったんかい、仕事」
「そう簡単には見つからないわよ。はい、あしたからどうぞ、なんてところは、なかなかあるものじゃないのよ」
「じゃ、勉強しとればよかったがね。資格取るまで、かあさん働くから」
「ここんとこ、とっても気分が悪いのよ。本を開くとクラクラして。ああ、もっと頭がよく生まれたかったわ」
 節子は腹立たしげに言った。不機嫌な彼女の存在のために、この少し整いはじめた小さな部屋が私の眼に汚らしく映った。
「そういうふうにツンケンしゃべるの、やめんかね」
 ストーブの周りの編み物や、散らかった衣類を眺めても、何か真剣でないものが感じられた。このときほど節子がつまらない人間に見えたことはなかった。私の行いにはたぶん責められるような咎もあったにちがいない。でもそんな罪も、彼女の怠惰にくらべれば影が薄い。節子はこれ以上自分のからだを小さくすることができないというところまで縮んでいた。この女に、かつて一瞬でも恋をしたことがあったとは信じられなかった。
「キョウちゃん、しばらくこんかったね」
 母親が言った。
「はい、実力テストの期間中で、毎日学校から遅く戻りましたから。それに、たびたびくるのは迷惑だと思って」
「こんな様子やから、遠慮させちゃったんやね」
「いえ、ほんとに、テストでこれなかったんです。……節ちゃん、看護婦の仕事は好き?」
「あんまりやりたい仕事じゃないわ」
「そんなこと、あらすか! この子は、看護婦の仕事ができたら、それだけで大喜びなんよ。本気にしたらあかん。いつもヤケみたいなことを言って痩せがまんして」
 母親は台所に立った。やっぱり節子は看護婦でいたいのだと思った。言うことに掛け値があるのだ。どうしてそういう態度をとらなければならないのかわからないけれど、本心を隠すのはつらいことにちがいなかった。
「看護婦になるには、准看の資格を取らなければなれなかったんだよね。そして節ちゃんはめでたく看護婦になれた。じゃ、なにも正看になる必要はないんじゃないかな。節ちゃんにはきっとそれがわかってるんだ。だから勉強なんかする気にならないんだよ。准看のままでじゅうぶん立派にやっていけると思う。牛巻病院でも、節ちゃんがいちばん輝いてたよ。節ちゃんが病室に入ってくると、みんな大喜びだったんだ。どんな病院でもいいから、看護婦をやってほしいな。患者は肩書を待ってるんじゃなくて、節ちゃんを待ってるんだよ。よけいなお世話かもしれないけど、職探しの資金を用意してきた。ここに五十万円ある。これでしばらく動き回れると思うよ。ある人が出してくれたんだ。おふくろではないので安心して」
 コーヒーを持ってきた母親が、
「あらあ! どうしよ」
 と叫び、たちまちぽろぽろ涙を落としはじめた。
「ほんとにお母さんに出してもらったんやないの?」
「いえ、母には、こんな大金は作れません。名古屋にぼくの野球のタニマチ、つまり後援会があります。ぼくは二年連続で高校球界の三冠王というものを獲ったんです。それで地元の名古屋にファンクラブができました。そこにふだんの学費とお小遣いを頼んだら、ポンと出してくれました。もちろん返済不要です。遠慮しないで使ってください」
 カズちゃんのことは言えない。節子のプライドを傷つけるし、余計な意地を張らせることにもなる。涙を拭いながら母親は頭を下げた。三冠王の意味はわからないようだった。
「そんなすごい選手やったんやね。……ありがたく使わしてもらいます」
 やはりよほど逼迫した生活をしていたのだ。節子はいつのまにか、黙りこくってレースを編んでいた。指が機械的に動き、目に確かめられないほど、ほんのわずかずつ編んだ毛糸の丈が伸びていくようだ。彼女は私から顔をそむけていた。頑固そうな顔がレースの上に屈んで、鉄針を動かしながら自分だけの孤独に引きこもっていた。私のすぐそばで、私のことなどかまわずに一人離れていた。封筒は炬燵のテーブルに載ったままだった。


         二十七

 風があるのか、窓の外の電線がにぶく揺れていた。私は、これ以上、もうどんな言葉も不要だと思って立ち上がった。むかしの節子が戻ってくることなどあり得ないのだ。
「もう帰るの? ゆっくりしていきゃあ。サイコロステーキ買ってきたんよ。それとクリームシチュー。おいしい晩ごはんにするからね」
 母親が台所へ立っていった。
「やっぱり、失礼します。寮の食事時間は決まっていますから。就職できるといいね、節ちゃん」
 節子はレースを編む手を止めずに、目を伏せたまま黙っていた。その目は一度も私を見なかった。新しく持ち上がった厄介な問題を見定めるように、毛糸の網目を見つめていた。私はそんなふうにしている彼女を理解したいと思わなかった。母親も弱りきっている様子だった。
「また、何カ月かしたらきます。節ちゃんのうれしい報せも聞きたいし。こようと思えばいつでもこられるんですけど、目障りになるでしょうから」
「今度きたときは、何、食べたいん?」
「キャベツの油炒めと、ポテトサラダ」
 母親は愉快そうに笑った。カズちゃんに似た美しい八重歯だった。
 節子は不機嫌にうつむきながら、階段の上がり口までほんの数メートル送ってきただけだった。私は階段の下の小暗い庭に立って、彼女のシルエットを見上げた。彼女は小さく手を上げた。かすかに微笑んだようだった。顔に霧雨を感じた。私は声を投げ上げた。
「さよなら!」
 節子はもう一度かすかに手を振った。
 自転車を走らせながら考えた。金を渡したところで、彼女の生活の改善に何の影響もないかもしれない。彼女にとって、きょうまで何もかもうまくいかなかったのだ。でもあの金があれば、あしたからは少しはうまくいくだろう。髪と服を整え、気を取り直して、職探しに出かけられるだろう。
 大門の大通りへ出る角に、派手な服装をした女が三人立っている影が見えた。車の往来が激しいので、向こうへ渡るために自転車を停めた。
「へい、学生!」
 二人が近づいてきた。すぐに立ちん坊の女たちだとわかった。一人だけ電柱に凭れて残っている女は、警戒するようにあたりをキョロキョロ窺っていた。
「遊ぼ。千円ポッキリ」
 あっちへいけ、と罵った赤井の気持ちがよくわかった。私は無視して道を渡った。
「気取るんじゃないよ、スケベ学生!」
 下品な笑い声が追ってきた。奇妙な満足感が胸を満たした。これと似たような気分になったことがあった。思い出そうとしたけれども、思い出せなかった。通りを渡って、やっと思い出した。過去とのつながりがすっかり断たれたとわかったときの、あの夜行列車の中で感じた気分だった。
         †
 翌週二十八日の土曜日、カズちゃんに五十万円の報告にいった。何カ月かしたら訪れると約束したことも教えた。
「大切なお小遣いだったのに……キョウちゃんらしいわ。あら、雨」
 晴れ上がっていた空から雨が落ちはじめた。カズちゃんは庭に出て洗濯物を取り入れた。
「ちょっと待ってて。おやつ作るから」
 キャベツとモヤシのインスタントラーメンを二人前作る。キッチンテーブルに向かい合ってラーメンをすする。
「インスタントと思えないな」
 カズちゃんが微笑みながら、
「親切にしてあげなくてもよかったかもしれないわね。何カ月もあいだを空けちゃだめよ。へんな予定が残るでしょ。きょういってらっしゃい。早いところ後腐れをなくしたほうがいいわ。もう節子さんはいないと思う。住所を変えて再出発。そのことを確かめにだけいくの。お金がちゃんと使われたということになるから。お母さんはしばらくそこにいるでしょうけど、いずれいなくなるわね。こういうことは早めにすましたほうが、お人好しのキョウちゃんの心にわだかまりを残さないことよ。これを最後に、長いあいだキョウちゃんを苦しめてきた思い出とはさよなら。節子さん、いっときでも好きだった男に思いがけなく助けてもらって、複雑な気持ちだったんじゃないかしら。でも、親子二人にはぜったい役立つお金よ。彼女がまじめな人なら、さっそく動くはず。……でも、どうかなあ」
 カズちゃんの心配はよくわかった。私も不安だった。
「自転車とカバンを置いてタクシーでいきなさい。それからね、キョウちゃん……もぬけの殻ってこともあるわよ。そうなってもガッカリしちゃだめよ」
 二人ラーメンをすすり終えると、カズちゃんは私の好物の玄米茶をいれた。
「わかってる。そのほうがかえってホッとする。彼女たちの生活がいいほうへ変わったってことだから」
「早くいってらっしゃい。傘を持って出てね。いまタクシー呼ぶわ」
 雨の中をタクシーで葵荘に乗りつけると、カズちゃんの予想していたとおり、部屋には節子の母親しかいなかった。胸の中に何か、予想通りのことを目撃したあとの茫漠とした憂鬱が昇ってきた。しかし私はあえて明るい声で尋ねた。
「節ちゃんの仕事決まったんですか」
「それがねえ……」
 母親はすまなさそうな表情を浮かべた。炬燵は片づけられ、火の消えた石油ストーブが文机のそばに寄せてあった。彼女はそれを部屋の真ん中に引いて火を点けた。私は沓脱ぎに立ったまま、母親の横顔を見つめた。
「知多にいったんよ。まあ、上がりゃあ」
 私はゆっくり畳に上がると、ストーブのそばにあぐらをかいた。
「ツテがあるんですね。仕事を紹介してもらいに―」
「そう言っとったけど……」
「よかった。これでお母さんも安心ですね」
「つくづくええ人やね、キョウちゃんは。……節子、こんな失礼なことしてまって。もう一度キョウちゃんがくるって知っとったのに。……気悪くせんといてね」
「しません。それで、報告のためにお母さんだけ残っていてくれたんですね」
「ほうよ。しっかりお礼を言わんとあかんし。節子が動く気になったのも、結局はキョウちゃんのおかげやから」
「そんなことはありません。節ちゃんはほんとに看護婦の仕事が好きだったんですよ」 
 神宮の旅館に置き去りにされたことを思い出した。まちがいない。滝澤節子という女は別れのドラマが好きなのだ。
「コーヒーいれるね」
 台所に立った。母子のあいだにどんな会話が交わされたか、知るよしもなかったけれども、節子の心がいつも私から遠いところにあったことだけはわかった。ぬるそうなコーヒーが出た。わびしく泡立っている。母親は申しわけなさそうにうなだれ、
「お金、ほんとうにありがとうございました」
 いつもの開けっ放しの表情は消えていた。私はうなずきもせず、長押(なげし)の棚に眼をやった。トランクがもとのまま載っていた。
「トランク、置いてったわ」
 いまは沈黙がもっともふさわしいものだった。母親も、自分の娘が愚かなせいで親切な男にとどめを刺したという自責の念から、同じようにしばらく沈黙していた。私はあぐらを解いて立ち上がった。
「じゃ、帰ります。もう会えないと思いますが、お元気で」
「キョウちゃん!」
 母親は勇を奮ったように高い声を上げた。
「私、お礼をするわ。節子の代わりに。誤解せんといてね。これは私がキョウちゃんを気に入ってすることやからね。長いこと、引きずり回した挙句、こんなに親切にしてもらったのに、何もしてあげられんかったもんね。節操のいい人やから、むかし節子としてから何年もしとらんのでしょう? 若いのに気の毒に。……節子だと思っておばさんを抱いてくれん? おばさんじゃ、いや?」
 無理に作ろうとする母親の微笑がふるえた。小太りのからだを真っすぐ伸ばし、真剣な様子で発する尻上がりの声は、若い女にはない馥郁とした愛情をにおわせるものがあった。とつぜん深夜に忍びこんできたユリさんとちがって、清楚な感じさえした。
「お願い、いい年した女に恥かかさんといて」
 ―抱いてあげなさい。女が勇気を出して挑んできたのよ。
 というカズちゃんの声が耳のそばに聞こえた。言いようのない脱力感に襲われて、胸が苦しくなった。
「私の気持ちやから……お願い」
 私は脱力感を気取られないように努めながらふたたび腰を下ろした。母親は明るい窓のカーテンを引き、部屋の電球を点けると、手狭な台所へいって洗面器に水を汲んだ。厚手のブラウス、シャツ、枯れ草色のスカートとシュミーズを脱いで、下着姿になった。ブラジャーをしていることに驚いた。股上の高いパンティを脱いで洗面器に跨ると静かな音を立てて秘部を洗った。尻が真っ白だった。タオルで股間を拭い、それから彼女は前を手で押さえてこちらにやってきた。私に尻を向けながら、ストーブを少し端に寄せると、壁沿いの万年布団を押し広げ、ブラジャーを取って仰向けに横たわった。
「もう何十年もしとらんから、ちゃんとキョウちゃんに応えられるかどうか心配やけど」
 私は、むかし恋した女の母親ではなく、女という錯綜したレールの上の一つの駅に降り立とうとしているだけのことだと思おうとした。心を預けることなく、また別のレールに乗り換えて去っていけばいい。
 彼女は私に見つめられ、恥ずかしい、と囁いて、肥満気味の色白の裸体を壁に向けた。足の裏が立ち仕事のせいか硬くなっているように見えた。背中を向けた姿勢のまま、胸を両手で覆っていた。私は学生服と下着を脱いだ。蒲団に並んで横たわり、腰に手を置いた。彼女の肩が緊張して強張り、背中が深々と呼吸した。裸体を上向けると、今度は手で顔を覆った。全身を見下ろした。カズちゃんには比べるべくもないけれども、美しい皮膚をしていた。棒状の陰毛が真っすぐ縦に走っている。私のものは惨めなほど萎れていた。
「できないみたいです」
 私が言うと、母親は顔から手を離し、だらりとした私のものを正視した。
「抱き締めてくれるだけでええです。きれい……。こんなにきれいなものやったかしら」
 彼女は紅潮した顔で正座すると、とつぜん私の性器を口に含んだ。その瞬間、滝澤節子の母親がただの女に変身し、私の中に奇妙な安堵感がやってきた。彼女は唇も舌も使わないまま、なすすべもなくじっとしていた。私のものも萎れたままだった。私は混乱し、その姿勢のまま、手を伸ばして彼女の背中をさすった。どう反応すればいいかわからない様子で彼女は私の性器を咥えたままでいる。私は彼女を離して仰向けにし、乾燥している襞に指を使った。少しぬめりが出てきて、慎ましい声が上がった。
「あ……なつかしい。キョウちゃん、おばさん、ええ気持ちよ」
 目をつぶり、〈なつかしい〉感覚を確かめている。私はもう一度股を拡げて屈みこんだ。
「あ、お口で、そんなこと―」
 驚いたように腰を引く。私は両手で彼女の太腿を高く押し上げ、その部分をすっかり曝すようにした。
「あ、キョウちゃん、私、恥ずかしい」
 母親はやがて下腹をグーッと引いて果てた。恥ずかしそうにまた壁を向く。カズちゃんやトモヨさんよりはかなり鈍感で、達しかたも激しくない。腹を絞ったのも一度だけだった。背中に触ると薄っすらと汗をかいている。彼女なりに強い快味を覚えたようだった。私はめずらしいものを見る思いでまたこちらを向かせ、強く抱き締めた。
「じゃ、ぼく、帰ります」
「え? それじゃ申しわけないわ。私がええ思いしただけで」
 私は下着を引き寄せ、穿こうとした。
「あ、待って、キョウちゃん、ちゃんとしてもらわんと、お礼したことにならん」
「お礼は、ここにきた最初の日からずっといただいてます。やさしくしていただきました」
「あかん、あかん、口先だけの女のやさしさなんかアテにならん。女のほんとうのやさしい気持ちは……」
 彼女は私の腰を捕まえ、性器を握った。しばらく見つめ、また含んだ。今度は、慣れないふうに、ただ一心に舌を亀頭の先でチロチロさせている。睫毛がしばたたく。年齢に似合わぬ初心な様子を見ているうちに、私のものが彼女の口の中で甦ってきた。彼女はあわてて口を外し、私のものを凝視した。彼女は自分の視線をいかにも浅ましいと思ったのか、すぐに分別のある顔でうつむいた。それから、躊躇なく股を広げ、
「入れてください―」
 彼女は欲望のない善行の微笑を浮かべて受け入れたが、挿入したとたんに痛そうな顔をした。ネバついて滑らない。私はこれ以上母親に苦痛を与えないように引き抜いた。
「キョウちゃん、ごめんなさい、おばさん、あかんかった?」
「心配しないで。長いあいだしてなかったから濡れにくくなってるんです。だいじょうぶです、心配しないで。今度の機会にしましょう。かならず訪ねてきますから」
「あかん、あかん、きょうお礼したいのに、またのときなんてあかん」
 頬をふるわせ、涙まで浮かべている。私は意を決して彼女の股間に屈みこみ、一度潤ってすぐに乾燥してしまった性器を唾液で濡らした。気をやって間もないクリトリスを含み、舌先で丁寧に愛撫した。すぐに二度目の高潮が迫ってきた。
「ああ、キョウちゃん、私……あああ、ウン、ウン、ウーン!」
 陰部が前後に動く。間髪を置かずすぐに挿入すると、思ったとおり潤っていた。心置きなく動きはじめた。茫洋とした膣から何の反応も返ってこない。
「キョウちゃん、気持ちええ?」
 微笑みかける。いじらしい。
「はい、とても」
「うれしいわ、うんと気持ちようなってね。私、恩返しできてうれしいわ」
 彼女の純朴な〈恩返し〉は私が射精すれば完了する。しかしこれでは射精できない。私は、摩擦を強くするためにあわただしく動きはじめた。
「ああ、キョウちゃん、そうやって速よすると気持ちようなるん?」
「はい」
「好きなようにして、うんと気持ちようなってね」



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