九十三

 カズちゃんが素早くメモした切れ端を法子に与えた。
「これ、北村席と私の住所。いつでも遊びにきて。まず北村席を覗いて、私がいなかったら、ここにきてね。それでもいなかったら、鍵はかかってないから、勝手に家の中で遊んでなさい。ステレオはいじらないでね」
 法子は、
「……和子さん、私も東京へいきます」
「やっぱり。キョウちゃんの大学生活をみんなで応援しなくちゃね」
「はい」
「ゲッ! なんやそれ」
 原が目を丸くした。竹内がすかさず、
「あたりまえやろ、絶世の美男子なんやから」
 へい、お待ち! と言って、主人がナポリタンを運んできた。女将と婆さんもどんどん運んでくる。
「神無月さん、ドラフト、小気味よく蹴ったね。ドラゴンズが一位指名の予定やったらしいで、ホッとしたわ。あと四、五年もしたら、中日球場で神無月さんが走り回る姿を見れるなあ。楽しみだよ。じゃ、ゆっくりしてって」
 みんなでナポリタンにかぶりついた。金原が、
「神無月くんの世界って、不思議」
「中学校からこうだったのよ」
 法子が得意そうに応える。竹内が、
「卒業したら、もう、神無月には会えんのやろな」
「そうね、二人目のキョウちゃんには会えないわね。何度生まれ変わっても」
 カズちゃんの言葉に金原が、
「だからしっかり憶えておかんと。二度と会えん人やもん」
 素子が、
「私、こうしているのが夢みたいや。キョウちゃんに遇えてよかった。あのとき大門で立ちん坊してなかったら―」
 素子が言った。カズちゃんが、
「逢える運命だったのよ。ほんとによかったわ」
 原が、
「立ちん坊って、なんや」
「あたし、売春婦だったんです。和子さんの実家のすぐそばに住んでました」
 カズちゃんが、顔をしかめた原をやさしい眼で睨んで、
「売春婦だって、好きな男に命を捧げるのよ。素ちゃんはキョウちゃんからお金を取らなかったの。遇ったとたんに愛したから」
 金原が、
「ほうよ、原。いつまでも童貞でいると、心が狭いままやよ。ビールの一杯ぐらい飲めんでどうするん」
「それを言うなよ。体質なんやから」
「いつか一度でも死にかかってみればええわ。堅い気持ちが冒険を拒んどるんよ」
 カズちゃんが
「あなたたちの演奏、すばらしかったわ。小夜子さんの声もすてき。何か一曲唄ってくれる?」
「神無月くんといっしょなら唄う。田島、何がいい?」
「悲惨な戦争。神無月、知っとる?」
「信也に教えてもらった。もう声は張れないよ」
「神無月くん、小さな声でええから主旋律やって。私、裏つけるから」
 三人のギターが和音を奏でる。すぐに唄い出す。

  The cruel war is raging, Johnny has to fight
  I want to be with him from morning till night.
  I want to be with him, it grieves my heart so,
  Won’t you let me go with you?
  No, my love, no.

 金原の和音とギターのハーモニーに涙が出そうになる。こらえて唄う。

  Tomorrow is Sunday, Monday is the day
  That your Captain will call you and you must obey.
  Your Captain will call you, it grieve my heart so,
  Won’t you let me go with you?
  No, my love, no.

  I’ll tie back my hair, Men’s clothing I’ll put on,
  I’ll pass as your comrade, as we march along.
  I’ll pass as your comrade, no one will ever know.
  Won’t you let me go with you?
  No, my love, no.

  Oh johnny, oh Johnny, I fear you are unkind
  I love you far better than all of mankind.
  I love you far better than words can ever express
  Won’t you let me go with you?
  Yes, my love, yes.
  Woo… woo… woo…
  Yes, my love, yes.

 もう見なくてもわかっている。みんな泣いているのだ。私も泣きたいのだからみんなが泣くのはあたりまえだ。襖口からひっそり拍手の音が聞こえた。女将が唇をへの字にして手を叩いていた。
「すごい……」
 女将の背後に婆さんが立って、盆を抱えたままぼんやり立っている。
「……食後のお飲み物ですよ」
 そう言ってテーブルに、一つひとつ丁寧に置いていく。カズちゃんがハンカチを差し出した。
「お婆さん、泣いてくださって、ありがとう」
 と言って掌で目を拭った。
「天から降ってくるような声やったわ。ええ耳の保養やった」
 女将も婆さんと同じように飲み物を置きながら、
「運のいい巡り合せなんでしょうね。ほんとに感謝してます。ありがとうございます。神無月さんが最初ぶらっと入ってきたとき、なんだかきれいな青い鳥が飛びこんできたみたいで……やっぱり青い鳥でした」
 原が、
「このままいけば、俺たちプロデビューできるのにな」
「神無月くんがおればね。神無月くんの声は特殊というより、別の世界の声」
 素子が、
「キョウちゃんて、人間やよね」
 法子が、
「私もむかしから疑問に思ってた」
「やめましょ、キョウちゃんは褒められるのが苦手なの。こっそり陰で褒めてね」
「カズちゃんは西高の大先輩なんだ。二回生」
 ウオーッと喚声が上がる。
「大学は椙山。みなさんのような秀才じゃないの。さ、お開きにしましょう。女将さん、ごちそうさまでした。座敷までお借りしてすみませんでした」
「いえいえ、いつでも寄ってくださいよ」
 私は、
「女将さん、お婆さん、お世話さまでした」
「どういたしまして、青い鳥さん」
「ごちそうさま!」
「ごちそうさま!」
 どやどやと庭を抜けていく。厨房へ声をかける。
「マスター、またきます」
「毎日でもきなよ!」
 マスターが叫んだ。
「さあ、解散よ。私は支払いして出るから」
 榎小学校の交差点で、素子が手を振っている。カズちゃんが花屋から出てきて、何か声を投げると早足で追っていった。金原と法子が口々に、素子さんさよなら、和子さんさよなら、と言いながら手を振った。カズちゃんと素子はいっしょに市電通りへ去っていった。田島たち男三人も、私たちに手を振って文化祭の会場へ戻っていった。私は、
「自転車を取りに西高に戻る」
「私も」
 金原が言うと、法子が、
「神無月くん、名古屋駅まで送ってくれる?」
「ああ、いいよ。自転車牽いて歩いてく」
 かなりの数の生徒たちが、校舎内外の出店の解体にかかっている。
「あ、ガンジーやが」
 金原が言った。自転車置き場から、古文教師のガンジーが暮れなずむ校庭で義足を引きずりながら、一人ぼっちでゴミをポリバケツに拾っているのが見えた。
「陰徳というやつだね」
 金原が、
「ほうやね。たとえ東大を卒業しても、あれがいき着いたせいぜいのところや」
「東大とは関係のない彼の徳だ。東大そのものには何の神通力もないんだから、彼だけを見つめなくちゃ」
 好き、と言って、法子の目にかまわず金原は抱きついてきた。
 法子がびっくりして金原の横顔を注視した。自転車を牽いて正門を出る。金原が法子を見てやさしく笑いながら、
「驚いたやろ、抱きついたんで。私、神無月くんのこと大好きだから。つくづく神無月くんて、静かな人やね。されるまま。何しても拒まん。うれしがるとか、嫌がるとか、そういうことと関係ない感じ」
 法子がそっと私の腕を握ってくる。金原が法子に、
「神無月くんはここにおらんのかもしれん。青い鳥ってこの世に存在しないものなんよ。……東京いったら、大事にしたってね」
 金原は法子に私との関係をにおわせないよう懸命に努力していた。
「大事にどころか、私のぜんぶを捧げるわ。女神さんみたいに……」
「あの人にはなれんよ。模範とか、ライバルにならん。私たちは自分なりに神無月くんを愛しとればええんよ。神無月くんは見てのとおり、地面にいるのか空にいるのかわからん人やから。……この世を風みたいに通り過ぎとるだけやから」
「金原さんは神無月くんを追いかけないの?」
「好きよ、大好きやよ。でも、風みたいな人を追っていけんでしょ。風が気持ちいいって憶えとくだけで精いっぱい。見送るだけ。風といっしょに渡っていけるのは風だけやもん。法子さんも風になれる?」
「そんな高級なものにはなれません。きっと神無月くんもそういう人じゃないと思う。地面で生まれて、地面で死ぬ人だと思います。いろいろ飛び抜けた才能を持っていて、その才能で地面を飛び回ってるんです。でも私が好きなのは、それ以上の何かなの。うまく言えないけど、その何かが好きでたまらないんです。離れることなんてとてもできない。結局、この世には、その何かが好きで離れられない人と、何かよりも自分が好きで離れられる人と、二とおりいるんだと思います。離れられる人は、心の底で自分をいちばん愛してる人です」
「そのとおりやよ。……女神さんや法子さんや素子さんは、神無月くんが死んだら死ねるでしょう。私は死ねんの」
「金原さんにとって、神無月くんが死んでも、この世が無にならないからです。何か希望が残るんです。私には何も残りません。中学一年のときからそう思ってました。ああ、もう一度会えてほんとによかった。会えた以上はもう離れません」
 金原がポロリと涙を落とした。
「いい人やね、法子さんは。平凡でないわ。私は凡人よ。長生きしたいし、親兄弟を大事にするし、物欲もある。凡人中の凡人。神無月くんを追いかけたら、どこかでそれが出てまって迷惑かけるわ。話ができるときだけ話をしてもらい、才能を見せてくれるときだけ才能を見せてもらう、それでええの」
「金原さんもいい人ね。ずっとお友だちでいたい。うんとお話したい。じゃ、神無月くんに駅前まで送ってもらいます」
 金原はさびしそうに法子と私に、さよなら、と言った。


         九十四

 庄内川河原の土手の見物は一人もいなくなった。記者らしき姿はときどき見かける。低気温の中、投打の練習やベーランやダッシュは故障を警戒して控え、三種の神器も二十回程度で止め、もっぱら柔軟体操とゆるいランニングに打ちこむ。素振りだけは百八十本やった。
 部長の渋山から、秋の総当たり戦センバツ予選結果は、十勝十二敗で、去年より六勝も増えたと知らされた。優勝校は中商、準優勝は愛工大名電だったということだった。残念そうな表情も自嘲の笑いも浮かべていなかった。このチームは強くならないと思った。
         † 
 十月二十日金曜日。朝方八・八度。通学路の空気を寒いと感じる。文化祭の夜に吉永先生とセックスして以来、二週間禁欲して勉強に励んでいる。
 数Ⅰは一次関数、二次関数、因数分解、分数式、無理式、連立方程式、二次方程式、解の公式、不等関係の証明、指数対数、三角形の合同、三角形・四辺形の相似、円周角、直線と円、円と円、円と三角形、円と多角形、軌跡、正射影、三角関数。数ⅡBは、因数定理、分数方程式、無理方程式、指数関数、対数関数、二次関数、三次関数、分数関数のグラフ、加法定理、直線の方程式、円の方程式、二次曲線とその方程式、放物線の軌跡、ベクトル。これだけの教科書の章末問題をすべてやった。鉛筆は試験のときと同様ゆっくり動かした。
 吉永先生とは学校の廊下の挨拶程度でしか顔を合わせていない。文化祭の夜に、おたがいに自重しようと申し合わせたからだ。登校時間もずらしている。花の木やお城のマンションにも、節子母子のところにも、神宮前にも出かけていない。ひたすら勉強の毎日だ。瀬戸以来放っている素子が気にかかっている。
 ティミ・ユーローのマイ・フーリッシュ・ハートを聴いてから、机に向かう。きょうから年末にかけて、古文研究法の読破と、英単語トレーニングペーパー、英語難問集、漢文句法にかかる。いのちの記録を開く。

 無感動(ニルアドミラリ)―それは根っからの私の在りようかもしれない。私の精神には本質的な欠落がある。この欠落を矯正することに、ひそかに、かつ懸命に後半生を費やさねばならない。そして、そのことに固執しなければならない。なぜなら人は、身の危険を感じるほどの実害を与えられないかぎり、無感動の在り方を容認するからだ。容認して、無感動のまま巻きこまれ、その在り方と心中する破目になる。恐ろしい。共感と涙でみずからを矯正することが何よりも重要だ。
        † 
 二十二日日曜日。二十・八度。ポカポカ陽気。
 河原の練習は、フリーバッティング三十本と、滑りこみ三十本を主体にして全員でやった。私のフリーバッティングのあいだ、二軍選手全員が守備と見学に回った。五人がライトとレフトの金網の外に控えた。一種のショーになった。二十二本のホームランを打った。十四本場外。滑りこみは二塁へ二十本、三塁へは三塁打を打った想定で十本、一塁から回りはじめて三塁へ足から滑りこんだ。へとへとになった。
 八坂荘に帰り着いて、全身を濡れタオルで拭く。下着を替える。英単語トレーニングペーパー、日栄社三十日完成漢文句法、赤摂也数ⅡB。
 昼を過ぎて、息抜きしなさい、と迎えにきたカズちゃんと素子と、自転車を並べて、トモヨさん母子の顔を見に北村席へいった。自転車を漕ぎながら、
「素子はもう喫茶店に勤めてるの?」
「お姉さんが、来年からにしなさいって。無理して働く必要ないって。いっしょに水泳や弓道にかよっとる」
「それでも来月から働くって言うのよ。きれいだから人寄せはできるでしょうけど、むかしのお客さんがいたら面倒なことになるわ」
「なるほどね。とぼければいいと思うけどな。むかしの素子は厚化粧のせいで、だれがだれかわからなかったはずだから」
 素子が、
「あたしもそう思う」
「東京でいっしょに働きましょう。安全第一」
 直人を真ん中に一家の人たちと菅野がいた。おトキさんが、
「ちょうどお昼ですよ。餃子とニラレバです。旦那さんは湯豆腐だけでしたね」
「おお」
「菅野さん、そろそろ、私、免許を取るわ」
「岩塚のほうに教習所がありますよ。三、四カ月かかるかな」
「今度連れてって。東京に出るまでにとっておかないと」
「かようようになったら、送り迎えします」
 トモヨさんに抱かれている直人は生後二カ月。まだ言葉すらない。明るい眼差しで人間ばかり眺めている。
「かわいいな。子供といると、お世辞を言わない性格になる。心から褒める性格になる」
「あら、キョウちゃんはもともとそうよ」
 主人が、
「そうです。褒めるときは心からです。わざとらしさがありません」
 菅野が、
「だぜ、神無月さん。この直人みたいに、ピッカピカの笑顔で褒める」
 昼食のあと、主人夫婦と菅野が持ち場に散ると、
「いつから素ちゃんとしてないの?」
 とカズちゃんに耳打ちされた。素子は聞こえないふりをしている。
「してないってわかるの?」
「わかるわよ、肌のツヤが落ちるから」
「七月にアオカンしたきり、三カ月くらいかな。気にはかかってたんだけど」
「ひどい! 最後に相手したのはだれ?」
「吉永先生。文化祭の前」
「それでも十日以上になるわね。キョウちゃんもつらいでしょうけど、いくら女とは言え、素ちゃんの三カ月はひどいわ。素ちゃん、もう限界でしょ?」
 素子はニッコリ笑って、
「まだだいじょうぶやよ」
「何言ってるの。今夜八坂荘に訪ねていって、泊まってらっしゃい」
「ええの! キョウちゃん」
 私はもちろんという表情で大きくうなずいた。
「吉永先生にカズちゃんのことを話したら、会いたいって」
 カズちゃんは私に小鳥のキスをし、
「いまからいきましょ。私も会いたいわ。素ちゃん、ここでゆっくりしてて。夕食までには帰るから」
「うん。直ちゃんと遊んどる」
 カズちゃんと自転車を連ねて八坂荘へ向かう。
「そうなったことを申しわけなく思ってるんでしょう。キョウちゃんの魅力に勝てる女なんていないのよ。そういう好いた惚れたじゃなくて、私が確かめたいのは、キョウちゃんの自由を束縛するような人かどうかだけ。キョウちゃんの口から褒め言葉を聞いただけじゃ信用できない。自分の目で見てみないと。そういう人には、キョウちゃんに近づいてほしくないから」
 吉永先生の部屋の戸をノックした。はい、と返事があったので、ドアを開けると、流しで下着を洗っていた。私だと思って安心して背中を向けている。
「先生、女神を連れてきたよ」
 びっくりして振り返り、
「ま、恥ずかしい。いま……」
「いいのよ。下着なんか流しでチャッチャッと洗ってしまいたいものね。やってしまってください」
「いえ、こんなのあしたでもできますから。いまお茶を。びっくりしました。……おきれいなかた! 文化祭のときにもお見かけしましたけど」
「お茶なんかいれてたら、せっかくお話できる時間がなくなってしまうわ。どうぞかまわないで」
「はい」
 三人で炬燵に入った。吉永先生はカズちゃんに頭を下げた。
「初めまして、西高で保健婦をしている吉永キクエと申します」
「北村和子と申します。この三カ月無職で、親もとにいます。かいつまんで自分の立場をお話ししますね。八年前、西松建設の飯場で炊事婦をしていました。二十五歳のとき。あなたと同じように、大人気なく十歳のキョウちゃんに強い恋心を抱いちゃって……日増しに愛する心に変わっていったの。……夫とも別れ、キョウちゃんが十五歳、私が三十歳のときにようやく結ばれました。それ以来、天にも昇るような気持ちで生きてきました。いまもまったく変わりません。その気持ちがキョウちゃんの負担にならないように、いつも自分を抑えながら、そばを離れず見守ってきました。キョウちゃんは永遠に自由な天使です。見ているだけで幸せになります。永遠の天使をその自由といっしょに永遠に愛していく覚悟がないかぎり、キョウちゃんのそばにはいられません。待ちつづけることと、受け入れつづけること、その二つがキョウちゃんの女でいる大切な条件です」
 こんな堅いしゃべりかたをするカズちゃんを初めて見た。不覚にも目頭が熱くなった。
「もちろんその覚悟です。いずれ、教職も辞そうと思っています。自由な神無月さんを自分も自由に追いかけていくには、倫理観のきびしい職業についていては叶いません。私は大学の看護学科を出ましたので、教職を辞めたら看護婦をしようと思っています。それなら神無月さんがどこにいっても、ずっとそばにいられます。まさかこんな幸せな関係になれるとは思っていませんでしたけど、いまは北村さんと同じ天にも昇る気持ちです。神無月さんが転校してきたその日に廊下ですれちがって以来、ずっとお慕いしてきました。偶然このアパートでお会いして、心が決まったんです」
 カズちゃんはそっと吉永先生の手を握った。
「キョウちゃんには、たくさん女がいますよ。彼女たちといっしょに愛していけますか?」
「何人いようと私の気持ちには関係のないことです。こんなに美しい神無月さんが私一人のものであるはずがありません。嫉妬するにはあまりに美しすぎます」
「よかった、キョウちゃんの言うとおりの人で。先生というから、もう少し堅い感じの人を予想してたわ。教師と名がつく人は危ないから」
 ふだんの口調に戻った。吉永先生はにっこり笑って、
「私もそう思います」
 カズちゃんはアハハと笑って、
「キクエさん、いつも神無月さんて呼んでるの?」
「いえ、キョウちゃんて」
「じゃ、遠慮なくそう呼びなさい。最大の難物は、キョウちゃんのお母さんよ。気をつけてね。見つかったら悲惨なことになるわ。バレないようにするのよ」
「はい。事情はじゅうぶんお察ししてます。キョウちゃんが東大に受かるまでは、神経を尖らせて気をつけます。もちろん受かってからも油断はしません。それから決して妊娠しないようにします」
「それは状況に応じて、自分で判断しなさい。あんまり先の計画は立てないほうがいいわ」
「……はい」
「じゃ、帰るわね」
 カズちゃんはスカートのポケットから手帳を出して、自分の住所と電話番号をメモすると先生に渡した。
「何か困ったことがあったら連絡してね。キョウちゃんの上京は三月の下旬よ。あなたと同じ気持ちの女の人が、あと何人かいるわ。いずれ会うことになるでしょう。私が知ってるかぎりでは、滝澤文江さん、滝澤節子さん、山本法子さん、兵藤素子さん。あ、それから、キョウちゃんは一児の父親よ。母親は私の親友の北村智代さん。その子のために、私の父が彼女を養子縁組したの。驚いたでしょ?」
「……はい、とても。……でも、キョウちゃんのやさしさに感動します。北村さんのお父さんを動かしたのはキョウちゃんだと思いますから」
「そのとおりよ。滝澤節子さんのお母さんの文江さんとは、最初は同情から関係を持ったの。その人は八月に子宮を摘出して、いまようやく健康になりつつあるわ。いつか会う人たちなので言っておきました。キョウちゃんを愛する人はそんなにいます。嫉妬なんかしてられないわよ。がんばってね」
「はい」
「それじゃ、キクエさん、私帰ります。キョウちゃん、しっかり勉強してね」
「心配無用」
 吉永先生と玄関まで降りた。先生はカズちゃんとしっかり手を握り合ってから、自転車に手を振った。階段をいっしょに戻りながら先生は、
「がんばってね。じゃましませんから。私、今年じゅうに、進退を決めます」
「先生の将来だ。よく考えてね」
「最初から決まってます」
 先生と廊下でキスをして右と左に別れた。
 夜十時までみっちり勉強し、翌日の授業の教科書をカバンに入れ、蒲団に入った。十一時、助六寿司をバッグに入れてやってきた素子が、湯を沸かして茶をいれた。
「お便所のすぐそばの部屋って教えられてきたけど、ほんとやな。いややない?」
「別に」
「これ、お姉さんと作ったんよ。うまいで」
 大事に素子を抱いた。この数日の胸のつかえが下りた。




         九十五

 十月末日火曜日。冷えびえとした快晴。一日の授業を充実して終える。
 勉強計画はほぼ軌道に乗った。現国は一切やらない。数Ⅰ、数ⅡB、古文、日本史、世界史は参考書でせっせとやる。地学と生物は問題集を解く。英語と漢文は単語、句法程度の最低限に留める。
 十一時を回り、ひさしぶりに勃起が治まらなくなってきたので、吉永先生を起こさずに花の木まで自転車を飛ばした。カズちゃんは危険日だと言うので、先日交わったばかりの素子と彼女の寝室で深夜まで二度交わった。二度とも尻を抱き寄せ奥深く射精した。素子はそのつどからだを離し、丸くなって尻を突き出しながら悶えた。
 回復の早い素子は、キッチンへいってコーヒーをいれてきた。枕もとにトランジスタを置いて深夜の音楽を流しながら、
「キョウちゃん、あたし、仕事探しに歩いとって、喫茶店を見つけたんよ」
「どこ?」
「花の木の水仙というきれいな喫茶店。西税務署前の交差点を曲がって百メートルもあれせん。ここから自転車で二分」
「よかったね! カズちゃんは何て?」
「いやなことがあったらすぐ辞めなさいって」
「素子をここに同居させてくれて、カズちゃんには感謝してたんだ。もう素子の帰る背中を見て泣かなくてすむって」
「泣いてくれとったん?」
「なぜかね。一途なものを見ると泣ける」
「……ありがとう」
 ブレンダ・リーのウイ・スリーが流れ出したので耳を凝らした。
「なんてすばらしい曲だろうね。スローロックて言うんだ。六十年代の名曲の宝庫だ」
「すてき……」
 下着をつけて居間へいくと、カズちゃんは深夜映画を見ていた。ヒッチコック。
「ダイヤルMを廻せだね。グレイス・ケリーか。好きじゃないな。失われた週末のレイ・ミランド。彼が犯人役というのもなあ……」
 しばらくいっしょに観る。手のこんだ冤罪ものは苛立つ。現実とちがって、作り物の冤罪はかならず晴らされる。途中でうんと苛立たなければカタルシスを起こさない。最後には冤罪が晴れるという安心感のもとに画面を見ているのが退屈だ。
「その前に、ヒッチコックの種明かし自体がいつもおもしろくないわ。シナリオが練れてないの。レイ・ミランドは目に魅力がない」
「ヒッチコック映画は有名だから、つまらなくても何度も観ちゃうよね」
 カズちゃんがリンゴを剥く。私は素子の就職の話をする。
「働かなくてもいいって言ったのに、素ちゃん、頑固なの」
「お姉さんがいっしょにいってくれたから決まったんやと思う。いままで北村席で賄いをしてたことにしてくれたんよ。私、こういう仕事は不慣れやけど、追々慣れていきたいって言ったの。お姉さんの貫禄で一発やった。給料は少ないけど、仕事に慣れたら昇給するって。東京の下準備やよ」 
「あと五カ月。何の波風も立たないことを祈りましょう」
「私、東京にいっても迷惑はかけんよ。一人でちゃんとがんばる。家居(いえい)で客を引いとる千鶴ゆう妹がおるんやけど、来年から北村のトルコにいくことになっとる。そうなったらあたしはもう、ほんとに家に送金せんでええ」
 北村席の女たちのように身売りされてきたわけでもないのに、身内同士一丸となって身を売りながら一家の生計を立てる。そういう生活を断ち切れない人たちが確実にいる。もしかしたら、売春という行為そのものが一家の精神的な絆になっているのかもしれないと思うと切ない気分になる。
「今夜は安心したわ。文化祭からきょうでもう三週間よ。キョウちゃんが女のからだに興味なくなってきてるんじゃないかって心配してたの。セックスなんて深い意味のあるものじゃないんだから、したいときにすればいいの。何をするにも、食欲や性欲をきちんと満たしておくことはエネルギーのもとよ。そのエネルギーがあって初めて、仕事も成功するし、人を愛する心も生まれるの」
 素子がうれしそうにうなずいた。
         †
 十一月三日は文化の日で休み、四日の土曜日は一、二年生の模試で三年生は休みになった。それでなくても高校三年生は二学期に欠席することが多い。だから三学期の出席は三年生全生徒に対して強制されていない。そしてそういったサボタージュは卒業資格にまったく影響しない。今月末の期末試験には半数以上が欠席するだろう。十二月の実力試験も同じにちがいない。つまり先月の十月で、高校三年間が終わったということだ。
 ……私はまだ危機を乗り越えたと言えない。乗り越えようとする強い意志があるだけだ。援助を受けて、チャンスをつかんだ。そのおかげで私はただ生きていくだけではなく、幸福になろうとすることができた。いまはそのことに強くうなずくだけにしておく。油断してはならない。最終的に彼らに応えなくてはいけない。
 『世界の歩み』再読にかかる。産業革命から第二次大戦までを区切りに熟読に入る。予定は一週間。同時に、第一次大戦の従軍医カロッサの『ルーマニア日記』を一時間置きに三十分ほど併読。戦争文学特有の美しい描写。美しいだけで、思索がない。
 夜八時過ぎに自転車で文江さんを訪れる。だれはさておき、文江さんだけは心して訪ねてあげるようにと、日ごろカズちゃんに言われている。小庭の一部を自転車置き場に改造し、生徒の出入りの賑やかな活気のある書道塾になっていた。
「様子を見にきた。生徒、すごい数だね」
「三十人を超えたんよ。もう薬も要らなくなったよ」
 まだ中学生らしい生徒が長机に五、六人いる。教室からは見えない居間に導き、すぐにスカートをまくって腹を曝す。傷跡は白く薄くなり、もうほとんど目立たない。くびれた二段の腹が若々しい。見つめる私をしっかり抱き締める。
「愛しとる、死ぬほど愛しとる。憶えといて、私の残りの命はぜんぶ、キョウちゃんのものやからね」
「わかってる」
 私は文江さんの頬の涙を指で拭った。
「じゃ、勉強しなくちゃいけないから、帰るね」
「うん、私もあの子たちの朱入れの仕事が残っとる。またきてね、待っとるよ」
         †
 冬の気配が立った。
 十一月十日、前日のドラフト選択会議の結果が、一斉に新聞に載った。拒否に遭わなければ私を一位指名に予定していたのは、中日ドラゴンズ、サンケイアトムズ、阪神タイガース、南海ホークス、西鉄ライオンズの五チームだった。全十二チームが一位指名するという前評判だったので、私に対するプロの評価というものを思い知った。ドラゴンズが獲得したのは、ピッチャー三人、土屋紘(ひろし)、若生和也、星野秀孝、外野手二人、江島巧、金博昭、内野手は一人だけ、村上真二。巨人の一位指名は明治大学の高田繁だった。他チームの指名選手の名前はまったく聞いたことがなかった。
 土橋校長から、選択会議を挟む六日から十四日までは、たぶん西高内にも記者の出入りが激しくなるので、登校せずに自宅で勉強するようにという命令が下されていた。その二週間私は不登校の命令を忠実に守った。勉強を集中的にやるチャンスだと喜んだ。カズちゃんに連絡した。
「今年じゅうは机に籠もる」
 彼女は、女たちみんなに連絡しておくと答えた。
 十一月六日から十四日までの九日間、私は人生でいちばん勉強をした。目覚めてから寝るまでのあいだの時間に何も入りこまなかった。ランニングも筋トレもせず、もちろん女体にも触れなかった。目がニチャつき、どちらかの目が痛みはじめると、ようやく床に就いた。
 十五日からランニングと筋トレを再開し、学校に顔を出した。
 十六日、職員会議で遅くなると言っていた吉永先生を待たずに外食に出ようか迷いながら、薄い地学の教科書を開いて机に向かっていた。ふと音楽が聴きたくなり、トランジスタラジオのチューニングをした。また愛田健二が何やらしゃべっている。引越しした日に聞いたのと同じ元気な声でしゃべったあと、
「聴いてください。年明けに発売予定の『琵琶湖の少女』です。今年いっぱい、木曜日のこの時間にみなさまにお届けして、耳に馴染んでいただこうと思います」
 また情緒纏綿、耳障りな京都物かと思ったとたん、すばらしくリリカルな前奏が流れ出した。一聴して完成品だとわかった。風と水の音がした。胸を打たれ、二番から旋律の暗記にかかった。目をつぶって聴き、しっかり覚えた。歌詞は三番だけ頭に残した。

  名前なんかは知らないけれど
  忘れられない琵琶湖の少女
  おそらくこれが若い日の
  胸に芽生えた初恋なのさ
  風よやさしく吹いてくれ
         †
 金原に誘われて、五日の日曜日に気まぐれに受けていた河合塾主催の名大模試が、全国四十位で戻ってきた。東大より受験生の質が高いのだと感じた。信也が言った。
「神無月はとにかく模試に強いんだな。しかし、定期試験はオシャカだよな」
「え? 中間試験、上出来だったでしょう」
「なに威張っとるんだ。わざとらしいぞ。一回こっきりの付け焼刃だろう。しかし、西高もいいかげん、範囲指定の定期試験を考え直さんといかんな。生徒のご機嫌取りばかりしとっては、ほんとの名門校にはなれん」
「青森高校は、定期試験も実力試験も差がありませんでしたよ。数学は六十点を超えれば校内トップでした。ときどき八十点を取る猛者もいましたけど」
「そうそう、そういうふうにしないといけないんだ。せっかくおまえがいいヒントを与えてくれたのにな。……あれ以来、新聞もピタリとおまえのことを書かなくなった」
「あれ以来って、ドラフト拒否以来ですか」
「ちがう。ドラフトは拒否のあともしばらくおまえのことで騒いでたろ。そうじゃなく、文化祭以来だよ。おまえが金原たちと唄っとる写真が中日新聞に載ったからな。天はナンモツを? なんて見出しで、かなり大きく載った。宗教音楽のように清らかな歌声と書いてあった。土橋校長も聴いてたんだぞ」
「知ってました」
「松田さんも吉永さんも聴いとった。吉永さんは泣いとった。愛してる、なんて冗談言ってな」
「でもどうして、文化祭以来ぼくのことを書かなくなったんですか」
「高校生活にいそしみだした、大学進学一本に進路が固まった、ということだろ。もうプロ野球に関しては新聞ネタがなくなったということだな」
 ときどき、産休上がりの松田と廊下でいき会うことがあったが、彼女は去年とは打って変わってにこにこと挨拶した。
「中間試験だいぶ進歩したそうだから、内申書もだいじょうぶじゃないかしら。期末もがんばってね」
 とぼけたことを言う。シラを切り通すつもりだ。模試のとき金原から聞いたばかりだ。
 ―三年生の二学期以降の成績は、信也の言っとった教育系の単科大学でさえ見んのよ。出席日数も見ん。内申、内申て、三年間騙されたわ。
「ありがとうございます。せいぜいおだてて書いてください」
「書くのは信也先生よ。もっと素直な口の利き方できないの。とにかくがんばってね。みんな期待してるんだから」
 セックスアピールのない尻を振って去っていった。




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