六十四

 食事の皿が数分置きに運びこまれる。目を瞠るほど豪華な料理だ。生もの以外は一つひとつの素材がわからない。素子が目を丸くしている。
「こんなの、見たことないがや。お品書きがあるけど、どれがどれかわからん。お姉さん教えて」
 カズちゃんが指差しながら説明していく。
「ユズにナマコの酢の物、大根おろし、醤油イクラ、タラコの煮物、ツルムラサキのお浸し、針ユズ」
「何、それ」
「ユズの皮を細切りしたものよ。こっちは鈴形のクワイ、ニシンの昆布巻、京芋のウニソース載せ、大和豚の炙り、下仁田ネギの天ぷら、ミニ大根、辛味噌、子持ちワカメと茎ワサビの和え物、笹に載ってるのは、ホウバ味噌焼きね。銀鱈、きのこ、茄子、京唐辛子、ニンジン、ゴマ豆腐。お吸い物は、蒸し鶏、ホウレンソウ、シイタケ。小鉢に入ってるのは生湯葉、刺身こんにゃく。刺身はマグロとヒラメ」
 山口が、
「うん、この刺身はうまい」
「フカヒレ餡の茶碗蒸し。上に載ってるのは、食紅で縁どったユリ根よ。白い平鉢に入ってるのは、湯の花饅頭の蕎麦の実餡かけ。もう一鉢は、ゴボウのパリパリ揚げ、海老、銀杏、里芋、木の芽」
 私は、
「木の芽って食べられるの」
「食べてもいいけど、ほとんど食べないわね。香りづけだから。サンショウの若芽のことよ。次のお皿からメインね。榛名山麓牛の炙り。添えものはジャガイモ、ブロッコリー、アスパラ。おろしポン酢で食べるみたい」
 キクエが、
「お肉、柔らかーい」
「ごはんと、シジミの赤だし。香の物が豪華ね。赤カブ、白菜、ニンジン、大根」
 山口が、
「しかし、どうやっても、北村席の料理には敵わないな」
「そりゃそうだよ。おトキさんもトモヨさんも、飾るよりも、食べてもらおうとするから」
「この夏は、その料理を食べられるんですね」
 吉永先生が言うと、法子が、
「楽しみ!」
 と言ってみんなにビールをついだ。バーのテーブル実習のようだ。
「手つきがすてき」
「天職ね」
 吉永先生と節子が同時に言う。素子と山口とカズちゃんはすでに後半の料理に舌鼓を打っている。
「来月から武蔵境の小さなバーで働くの。雇われママ。出発よ」
「がんばってね、法子さん」
「はい」
「みんなにごはんよそってあげて」
「はい」
 法子はいそいそとめしを盛る。
 デザートに柿とユズのゼリー、夏蜜柑のシャーベット。カズちゃんは手帳のカレンダーをめくり、みんなに向かって、
「八月十四日の水曜日から十八日日曜日までの五日間、名古屋行き、変更なしということでいい?」
 全員だいじょうぶだとうなずいた。私は、
「着いた翌日に、直人の誕生日か」
 節子が、
「びっくりするくらいかわいらしくなってるでしょうね」
 山口が、
「俺、早めに免許取っておくよ。和子さんと交代で運転したほうがいいからね。レンタカーは向こうで乗り捨てられるし、交通費が五倍もちがう。帰りも車にしよう」
 男二人は肘枕で横たわり、女四人は横坐りになった。私は母から下宿に電話があったことと、婆さんたちの話をした。母の手紙のことは言わなかった。私が処理すべきことだからだ。カズちゃんが、
「早いうちにアパートに移ったほうがいいわね。女の出入りをとやかく言われるようになったらオシマイ」
 山口が、
「危ないな」
「あることないこと言われちゃいそう。そうなったら、お母さん出てくるわよ。入間の斉藤さんのところに下宿させられるかもしれない。野球はアウトね。大家さんとお母さんが連絡とれるような下宿はだめ。やっぱりアパートでないと。ひと月ぐらいかけてゆっくり考えましょう」
 山口が、
「来年の二月まで前家賃入れてるんだろう?」
「そんなのくれてあげましょう」
「……五人に素朴なことを訊きたいんだけど、神無月の女関係を放任しておいて、自分たちはなぜ浮気しないのかなと思って。そこまできれいだと誘惑も多いんじゃないの」
 カズちゃんが、
「多いわよ、よく声をかけられるもの」
 全員でうなずく。
「でも、ぜったいそういうことはしないわ」
「それが不思議なんだよな。世間の女は亭主がほかの女に手を出すと、復讐でもするみたいに浮気をすることが多いよな」
「浮気には浮気をということでしょう。精神的に亭主を愛していない場合、そうなるわね。不潔感を覚えるのは、ふだん自分の性行動を不潔に思ってる証拠。セックスほど清潔なものはないのに。キョウちゃんはだれ一人裏切ってないの。心変わりや気移りでもない。〈ほかの女〉に手を出してるわけじゃないから。キョウちゃんのような原始人にとっては、愛する女は何人いても一人に見えるのよ。もとの鞘。私たちも、キョウちゃんがほかの女としていると思えない。そう思えるのは、キョウちゃんが愛情を感じない女に強姦されたときだけかしら。だから、結果として、感覚的にはキョウちゃんも私たちも一夫一婦制を守ってるようなものね。世間の常識としては矛盾があるかもしれないけど、感覚は矛盾してないの。すべて私たちの常識の範囲よ。つまりキョウちゃんは、不潔でもなければ、裏切ってもいないの。だから私たちの一人が浮気をしたら全員が浮気をしたことになって、キョウちゃんの収まる鞘が汚れるわけ。そんなことより、もっと根本的なことがあるわ。私たちはキョウちゃんを死ぬほど愛していて、その気持ちで一心同体になってるということ。いちばんつらいのは、キョウちゃんが強姦されて射精しちゃうことだけど、まず起こらないわね。キョウちゃんがひっぱたいて押しのけちゃうから。文明人は文明の訓練を受けてきたから、愛する男は一人しか決められない制度の中に生きてる。彼らを説得するのはむだなことだから、説得しない。沈黙を通すわ」
「ふう、明快だ―」
 吉永先生が、
「キョウちゃんと私たちは共生関係にあるんです。太い樹とヤドリギ。支え合うことで存在してる。どちらも、おたがいなしじゃ生きられない。私たちを守ってくれるもの、キョウちゃんを守ってあげるもの、おたがいがおたがいの宿主で寄生虫なんです。キョウちゃんは、愛する女を増やしたとしても、自分に害を与える女は共生させない、私たちも自分に害を与えるつまらない火遊びで、この共生関係を台なしにすることはしない、そんなことは自殺行為ですから」
 山口は湧き出しそうになった涙を押しとどめ、
「俺の自由な心はその理屈をよくわかる。しかし、世間の不自由な心はちょっかいを出してくる。俺は神無月を護る。そうすればみんなを護ることになる。神無月は、野球という人気商売で世間に出た。これからが厳しい。世間は徹底的に攻めてくる。俺は護る。沈黙が最大の防御だ」
 節子が、
「だれにもじゃまさせません」
 法子と素子が、文化祭のときに花屋で交わしたような親しげな目で見つめ合う。カズちゃんが、
「こんなにロマンチックに生きられて、幸せ! さ、作戦会議はこのくらいにして、まだ残ってる料理を平らげちゃいましょ。デザートも残しちゃだめよ」
 深夜、夢うつつの耳に、深酒に寝入っている山口のいびきと、女たちがバルコニーの露天風呂で賑やかに笑い合っている声が聞こえてきた。
 朝、山口と屋上の露天風呂にいった。谷川連峰を望みながら、二人のんびりタオルを使った。
「神無月、おまえ、百八十は超えたぞ。俺より少し大きい。その足だと二十八はある。足はそれで止まっても、背はもう一センチくらい伸びるな」
「中学まではチビだったんだけどな」
「長嶋もそうだったらしいな。―プロらしいからだになった。とにかく筋肉のつき方が美しい。日本一見映えのいいプロ野球選手になるぞ」
「西高での徒食時代に伸びたってことだね」
「徒食して、基礎鍛練を欠かさなかったせいだな。いい休息期間だった」
「山口もな。ギターの音に深みが増した。技術はもともとすごかったけど、音色が神秘的なふくらみを持つようになった」
「おたがい完成のない仕事に就いた。鍛練しないと、衰えも早いしな」
「そのとおりだね。野球の技術は大雑把で、いちいち名前すらついてないけど、ギターはいろいろ技術の名前があるんだろうな」
「まあな。一とおり知っておくと、鑑賞のときに楽しみが出るかもしれん。一応ザッと教えておこう」
「うん。ぼくが知ってるのは、トレモロだけ」
「そうか。右手だな。じゃ、右手からいこう。ピッキング。弾くことだな。オルタネイトピッキングはダウン、アップ、空(から)の三通り、速弾き二通り、トレモロもその一つだ。スウィープ、エコノミー、ハーモニクス、ストローク、それぞれ一通り、カッティングはブラッシング、単音の二通り、アルペジオ一通り、指弾きはチキン、ハイブリッド、スラップの三通り。次にミュート五通り、特殊奏法十一通り、フィンガリング六通り。合計三十七通りもある」
「もうじゅうぶんだ。左手もすごいんだろう」
「ざっと三十通りだ」
「今度に回そう。いや回さなくていい。野球の千倍複雑だ。鍛練イノチだね。才能がなければ鍛練すらできない。楽器のプロはほんもののプロだ」
 私は山口の手をとって指先を撫ぜた。白く輝いて硬かった。
         †
 五月二十七日月曜日。雨。東大球場の練習中止。山内の案を実行するべく、午後に駒場東大前で待ち合わせ、三人で生協食堂裏の教授棟へいった。ペタッとした二階建ての建物だった。波佐見の講師室は二階の上がりハナにあった。朝からしとしと雨で、階段を昇る前に傘をすぼめて水を切るのが鬱陶しかった。
 山内がノックすると、はい、と不機嫌そうな低い声がした。電話でもそうだが、返事の仕方で人格のありようがわかる。ロクなやつではなさそうだ。ドアを開けて入り、三人背筋を伸ばして立つ。机と椅子と書棚があるきりの、八帖程度の小さな室だった。椅子を回して振り向いた中年の講師は、三人の学生に向かって横柄に構えた。尻の下にふくれ返ったクッションが置かれている。薄い髪を七三に分け、縁なしの眼鏡をかけている。山内は小さくなり、
「お願いがあってきました」
「はい、何でしょうか」
 一応丁寧な調子で尋く。
「……あの、これどうぞ」
 ロングホープのカートンを差し出す。
「何だそれは―」
 一転して、蔑んだ語調に変わる。山内は手柄を上げたように笑い、
「先生がよく吸ってるロングホープです」
「いらん、いらん! だいたい、どういう用件だね」
 難し屋を気取りながら眼鏡を押し上げて睨みつける。
「オラたち未修組は不利です。試験の点数にゲタを履かしてほしいんです。実質、あのクラスは既修組ですから、反則です」
「きみたちのクラスは、全員未修のはずだ」
「少なくとも何らかの手段で基礎課程は終えた連中ですよ」
 私が言うと、林が、
「全員未修というのは先生の誤解です。神無月は一回しか授業に出ていないので、直観で事情を察しただけですが、俺はずっと出ているのでわかります。まちがいなく、半数以上の学生が既修です」
「くだらん! 自分の勉強不足を棚に上げて、何を卑劣なことを言っているんだ。帰りなさい、帰ってきちんと勉強しなさい」
 これは悪人だ。未修の人間に初日からフローベールはないだろう。私は波佐見の前に進み出て、
「いや、相当数、卑劣な既修者がいます。先生もわかってるでしょう。とぼけちゃいけませんよ。ああいう嘘つきたちを優遇するのは考えものです。あなたの人品が落ちる。ぼくは泣き寝入りが得意な人間ですから、零点でいいです。しかし、こいつらのようなほんとうの未修組は容赦してやってください」
 危ういところまで感情が高まっている。


         六十五

「だれに向かって口を利いている! 神無月くんだね。東大野球部のスター選手か何か知らんが、無礼な言動は許さんぞ。きょうのところは容赦しよう。じつにくだらん。さっさと帰りなさい」
 私は少し声を高めて言った。
「見下げ果てた野郎だ。ぼくはあんたの試験は受けん。勝手に落第にしろ。来年以降は別の講師の授業をとる。結局はそいつも同じ穴の狢だろうがな。ぼくは自分がスターであるかどうかなど意識したこともないし、いわんや意識したこともない立場を利用して卑劣な言動をしたこともない。人に希望を与える生き方をしている人間だと思っている。あんたも大学者なんだから、学問を目指す人間に希望を与える生き方をしろ!」
 波佐見は椅子をくるりと横へ回転させてそっぽを向くと、
「由々しき言動だ。執行部に連絡させてもらう」
 と呟いた。
「連絡するのは、ぼくのことだけにしろよ」
 それで、ザッツエンドだった。山内はカバンに煙草をしまい、深く礼をした。私と林はさっさと廊下に出た。林はにこにこしながら、しょんぼり引き揚げてくる山内の肩を抱いて、駅の階段を昇った。
「いやあ、スカッとしたな、あの啖呵。心から喝采を送る。おまえ、本気で中退する気だな。語学を落としたら、卒業できないもんな。中退したら、戦争みたいにプロ球団が押し寄せるぞ」
「それも煩わしいね。まあ、なるようになるさ」
 母の鬼面が浮かんだ。いや、喜面か。東大も野球もクビになる。山内が、
「おめ、やめる気なのな?」
「やめさせると言うならね。それまではいるよ。野球があるから。彼には〈上〉に連絡する勇気はないと思う。だいたいぼくの言ったことを言葉どおりに繰り返せないだろう」
 渋谷に出て、ボーリングをやった。借り靴を履いたきり、椅子に腰を下ろしたままボールを投げようとしない山内に林が言う。
「語学なんて、何年もかけて単位を取ればいいだろう。なに焦ってるんだ」
「焦ってねたって、これだば不正を働かれてるよんで、アッタマくるのよ。波佐見、最初から既修組に教えてるよんでながったか?」
 私の目を覗きこむ。林が一投目をガーターに放りこんで戻ってきた。
「そのとおりだよ。でも、これが伝統的な東大のやり方なんだろう。不正組に泡を吹かせるほど勉強するしかない。俺はやるよ」
「ぼくはやらない。フランス語のフの字も知らないで勉強できるはずがない」
 私の一投目もガーターだった。林が山内に言う。
「それとも、神無月みたいに、やめるか?」
「だあ、やめるってが! 東大だど。もったいね」
 林は楽しげにボールを投げにいく。五ピン。へたくそなくせに、鉛筆でスコアをてきぱきつける。私の二投目。端っこの一ピン。
「神無月は下手だなあ。ぜったい上達しない下手くそさだ」
「野球しかできない男だよ。何かに挑戦するたびに痛感する」
 山内は相変わらず座ったきりで、
「ワ、新聞社さいきてのよ。新聞記者になりたくてせ。留年したんだば、入社試験で落とされてしまる」
 林が、
「そんな新聞社はないだろう。とにかく、泣き言を聞く耳はもたないよ。ま、せいぜい勉強するんだな。俺はフランス語の家庭教師でもつけようかな」
 今回のボーリングは、三百点満点の六十三点だった。節子とやったときは何点だったか。林は百十八点。山内は投げなかった。
「じゃ、神無月、いくか」
「うん。ちょっと付き合ってよ。例のグリーンハウスにいってみよう。月曜日は山口が出演してる」
「おお! いこう」
「オラは帰る。家庭教師あるすけ」
 林が、
「そのズーズー弁で教えられるのか」
「喜ばれてるじゃ。めずらしがられてよ。月ぎめで二万だど。晩めしつきだ」
「相場はどのくらいなの」
 私が尋くと、
「八千円だ。破格だべ」
 渋谷駅で山内と別れた足で、林と新宿に向かった。人混みに押されて新宿駅のホームに降りた。街なかに入るとそれに数倍する人混みだ。林が眉根にシワを寄せながら、
「人間の海だな。乗降客数が日本一らしい」
「まだ都電が走ってるね。本郷を通るのと同じだ」
「再来年までに撤収されるってさ」
 駅前からグリーンハウスに確認の電話を入れると、ステージの準備中だったらしい山口が、ぜひ飲みにこい、おごるから、と言う。道順を詳しく説明した。
「きょうは俺以外に、外人のロックバンドも入るんだ。おまえ、それをバックに唄え」
「一人、ものすごく歌のうまい男を連れていくよ」
「大歓迎だ。楽しみにしてるぞ」
 黄昏が降りてきた。林と歌舞伎町の猥雑な街並を歩いた。絶え間なく人が湧き出してきては、けばけばしいネオンに映える道を往来する。
「なんだか息が詰まっちゃうね」
「ああ、長く歩いてられないな。夜にネオンの下を歩き回るやつらってのは、昼間の明るさから離れたくないんだろう。暗闇恐怖症だな」
 うまいことを言うと思った。
「山口という男は、青森高校以来の親友で、ギターの達人だ。歌もピンだ」
「俺も、クラッシックギター、エレキギター、ベースギター、何でもこいだ。おまえの歌はクラッシックだな。エレキは、おまえの声に合わない」
 東口に出、紀伊國屋の通路を通って広い靖国通りに出る。信号を渡り、区役所通りを歩く。並木に寄り添う小さな店々のネオン看板が輝き、屋台もいくつか並んでいる。駅前に比べればよほど寂れた雰囲気だ。
 グリーンハウスに着くと、まだ開店十五分前で、真っ白いワイシャツに黒蝶ネクタイが優雅に右往左往している。山口はアコースティックギターを手に、パープルシャドウズの小さなスナックを熱心に練習していた。
「あいつ? 山口というのは」
「そう」
 林は感嘆したふうに首を振りながら、
「くそ歌を別物にしてやがる。スゲ」
 たしかに山口が唄うと、原曲とまったく趣がちがう。
「歌もえらくうまいが、ギターが超一級だ」
「だろ?」
 私はうれしくなった。山口が手を振ってこっちへこいと言っている。林がずんずん近づいていった。
「スゲェな、山口さん。俺、林。神無月と同じクラス」
 手を差し出す。山口はその手を握り、
「おたがい呼び捨てでいこう。歌がうまいんだって?」
 光本を咎めたのとは大ちがいだ。
「たぶん」
「林は天才的な喉をしてる。いま時間があるなら、ちょっと唄わしてやって」
「わかった、何にする?」
 林は少し考えて、
「日本のバラードがいいな。俺の喉の力がわかる。布施明のおもいで。一番だけ」
 と言った。私の大好きな曲だった。山口はうなずき、
「平尾昌晃の傑作中の傑作だ。バック、お願いします!」
 山口が舞台裏に声を投げると、ぞろぞろと三人の男が現れ、ピアノ、ベース、ドラムの所定の位置についた。
 山口がイントロを弾きはじめた。バックが合わせる。すばらしい調和だ。楽譜などいっさいない。林はマイクも持たずに山口の横に立った。うなだれて、それから顔を上げた。

  あなたと歩いたあの道に
  夜霧が冷たく流れてた
  何も言わずにうつむいて
  涙に濡れてたあの人よ
  さよなら初恋
  もう二度とはかえらぬあなたのおもいでを
  さびしく切なくきょうもまた
  呼んでみたのさ 霧の中

 ―やっぱり、この男は天才だ。
 バック演奏者たちが楽器を打ち鳴らして賛美する。両腕に噴き出した鳥肌がなかなか退かなかった。林を見上げる山口の顔も紅潮していた。店長らしき中年の人物がレジカウンターからじっとこちらを見ている。
「じゃ、神無月、こんどはおまえだ」
 山口に促されて、林と入れ替わった。マイクを持ち、岸洋子の夜明けのうた、と言った。私に林のような爆発的な声量はない。林の顔が期待に満ちた。
「あれは難しいんだ。ブレスが」
 私が言うと、
「考えたこともなかったな」
 天才林が答えた。ギターとピアノのイントロに促される。

  夜明けのうたよ
  あたしの心の きのうの悲しみ
  流しておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心に 若い力を
  満たしておくれ

「うへ! おまえも別の歌にしちまってる。ブレスの区切れもわからない。まいった」
 林に軽く頭を下げる。拍手がレジとバック演奏者たちから上がった。店長はこちらに近づいてきて、
「あんたたち、何者? プロ?」
 山口が笑いながら、
「俺と同じ東大の一年生ですよ。俺も、こんなハスキーで、力強くて、大きな声は初めて聴いた。種類はちがうけど、神無月にまさるとも劣らない声だ」
「万能東大生だな」
 髪をオールバックに撫でつけた店長がニコリともしないで言う。
「この二人は例外でしょう。ほとんどの東大生は音痴ですよ」
「山口くんも、とんでもないハイレベルな能力の持ち主だよ。どう、きみたち、うちで唄ってみない。楽器もアンプ設備もぜんぶ揃ってるぞ。山口くんと日替わりのステージで、週二回」
 山口が、ちょっと渋い顔をした。林がその顔色を察して、
「俺はいいんだけど……こいつが無理だ」
 山口があとを受けて、
「いま話題の神無月ですよ。東大準優勝の立役者、三冠王の神無月」
「え、神無月選手! あなたが……」
「喉がすぐ疲れて、せいぜい三曲ぐらいしか唄えないんです。遊びにきたときに、ちょっと唄うぐらいならいいですけど」
 山口が、
「神の声だからね、ダイヤみたいに希少品です」
 林が、
「俺はバイトできるよ。週一回ぐらいなら……」
 店長は、
「週二はお願いしたいんだけど。あの声は受ける。大入りになる。勉強が忙しいの?」
「一応ね。四年後に就職先が決まってるんで、神無月とちがって、選択肢の中に中退はないんですよ」
「中退……。プロにいっちゃうわけね。惜しいなあ、神の声。……ふうん、あなたが神無月選手ですか。何度か新聞で見て写真うつりがいい男だなと思ってたけど、実物のほうがはるかにすごい。とんでもない美男子だ。歌まで唄えるとはね」
 林が、
「神無月は特殊なんですよ。ほかにもいろいろ才能を持ってると思うけど、どれもこれも訓練を受けたわけじゃないんだな。才能のかたまりと言えば、確かにそうだが、しかし単なる多才というのを超えてるんですよ。そういう、一定の才能が均一に分散されるイメージじゃない。こなすんじゃなくて、一つひとつ完璧に賦与されてる。たとえば歌だけど、まずもって声質が異様だ。喉から出てくる音とは思えない。舞い上がって、ただよって、降ってくる。俺の声なんか常識の範囲内ですよ」
 山口が、
「林、おまえも悪謙虚な男だな。おまえの声も、万人に一人だよ」


         六十六

 店主は深く息を吸い、
「たしかにね。二人とも、実際に聴いた人間にしか信じられない声だ。……わかった。神無月選手は遊びにきてくれたときだけの特別ゲストにしましょう。林くんは週に一度、そうだな、山口くんが月木だから、そのあいだの水曜にしよう。八時、九時、十時の、三十分三ステージ。ワンステージ三千円。演目は好きにやっていい。客からのリクエストなしでいこう」
「やってみる?」
 山口の言葉に林は、
「一日九千円なら御の字だよ。神無月の声を聴けさえすれば、金なんかいらないんだけど、一人でやるならバイト料はいただきます。俺、先週、バス旅行で神無月の声を聴いて、奇跡を感じたんですよ。アンディ・ウィリアムズよりパンチがあって、スカイライナーズのジミー・ボウモントよりも透明な地声だ。ファルスのようでファルスでない。二人といない天の声だ。自然とからだがふるえてくる。聴くチャンスのあるときは、いつも聴いていたい。神無月は楽器ができないから、俺たちといっしょにしか唄えない。おまえがたまたま遊びにきたら、俺か山口がギターを弾くよ。おまえがこないときは、仕事として弾き語りをする」
「そうしよう!」
 山口と林が握手した。
 七時に店が開き、バック演奏者たちは舞台裏に引っこんだ。山口と三人、店長に奥のボックス席を勧められ、バーボンのボトルを預けられた。大盛りの中華風のつまみがテーブルに三皿。
「林の歌を聴いて、鳥肌がおさまらなかった」
 私が言うと林は、
「……天才は人を褒めすぎる。自覚が足りないな。悲惨な人生を送るぞ」
「本気だよ。でも、悲惨と聞くと、わくわくするね」
 山口はニコニコしている。バーボンの水割りをたがいに作り合ってちびちび飲んだ。エビチリをレタスに巻いて食う。こりこりとしたクラゲもうまい。もう一皿は大きなシュウマイだった。
「一節唄ったぐらいで、悪いみたいだね」
「ほんとほんと」
「じゃ、俺楽譜合わせだから」
 山口はバーボンの水割りを一杯空けると、舞台裏へいった。私は林に、
「波佐見の授業、これからも出るんだろう?」
「まあな。隅っこに隠れてるよ。ああいうやつは、しっぺ返しが怖いからな」
 飲み、食い、八時まで待って、山口の一回目のステージを楽しんだ。客からのリクエスト(恋のしずく、思案橋ブルース、愛の園)をさばきながら、自分のお好みの曲(オーブル街、悲しくてやりきれない)も唄うという趣向だったが、バック演奏も相俟ってすべて聴き応えがあった。彼の歌が玄人跣(はだし)だとあらためて知った。耳を傾けていた林が、
「建築物みたいに均整の取れたカチンとした声だ。おまけに俺と同じでハスキーだから飽きがこない」
 林はしきりに褒めた。こういう出会いを運命だとまで言った。
 休憩時間に山口は私たちのテーブルにやってきて、バーボンをちびちびやった。
「三人でバンド組めそうだな」
 と林が言うと、
「俺は神無月を引っぱり回すつもりはない。神無月は芸術家だ。芸人じゃない。いまは野球というギラついた皮をかぶってるが、蛹(さなぎ)の殻みたいなもので、いずれ脱け出て、もっと普遍的に人びとを喜ばせる蝶になる」
「わかるよ。そこが神秘的に映る所以だ。脱皮したら魂だけの白い煙だったなんてな。いや、本気で言ってるんだ。ま、たまには、エレキギターとクラッシックギターと神無月の歌でセッションしようや」
「よほどのチャンスがあったらな。俺はこの店ではクラッシックギターは独演のときしか弾かない。ほとんどアコースティックだ」
 二回目のステージは、外人バンドだけの演奏になった。白人と黒人の混成バンドだった。私たちとボックスにいた山口が私の肩を押した。
「いけ、神無月。前もって話してある。『好きにならずにいられない』だぞ」
「あれ? 『ひみつ』じゃないの」
「彼らはカンツォーネに詳しくない。それに、ひみつは最初の唄い出しで音が取りにくいから、合わせることもできない。またの機会にしよう」
「好きにならずにいられないって、プレスリーの歌だろ? レイ・チャールズじゃないよな」
 林が私に尋いた。
「うん。そっちは、愛さずにはいられない、だ。あれは黒っぽくて、好みじゃない」
 私は頭を掻きながら外人のバンドマンたちのほうへ歩いていき、
「Can’t help falling in love」
 と曲名を告げた。OKと答えたとたんに、ピックギターが前奏を奏ではじめる。私はマイクの前に立ち、
「Wise men say only fools rush in…」
 と唄いはじめる。とつぜん、三つ四つの楽器の音がいっせいにあとを追いかけてきた。アドリブまで入れて、すばらしい演奏だ。林が指笛を吹いた。私は歌に集中した。

  …But I can’t help falling love with you
  Shall I stay, would it be a sin
  If I can’t falling love with you
  Like a river flows surely to the sea
  Darling so it goes some things are meant to be
  Take my hand, take my whole life too
  Cause I can’t help falling love with you
  Cause I can’t help falling love with you

 よほど感動したのだろう、林が立ち上がって頬を拭っている。客たちもグラスを置いて盛んに拍手していた。バンドマン一人ひとりが、指で楽器を叩きながら賞賛する。私は舞い上がるような気持ちになった。山口がつかつかとやってきて、サックス奏者に、
「Could I ask you to have another guy sing, please?」
 と言った。ふたたび、OK、と声が返り、山口は林を手招きした。その瞬間、林の全身が光を発したように見えた。彼は早足でステージへいき、
「オー、キャロル!」
 と叫んだ。たちまち演奏が始まり、林の天にも届きそうなしゃがれ声が爆発した。最初から大喝采だった。客たちは二度とめぐり合えない、いい夢を見ていた。私の目にも涙があふれてきた。
「どこに才能が転がってるかわからないもんだな。いい友人になれそうだ」
 大音量の中で山口が私に言った。ジャズメンたちの身振りが激しい。私は、才能に触れることの快さと、なぜか胸に沁み透るような哀愁を味わった。才能は哀しい。どうしてだろう。
 林と私は外人バンドそれぞれと握手した。リードギターの男が言った。
「You guys are extremely excellent singers. We are glad to have had a session with you. Thank you so much. We hope to see you again some day, and work at together if you make it.」
 聞き取れる英語だった。
「イフ・アイ・エバー・ハブ・ザ・チャンス、アイ・ド・ライク・トゥー」
 店長にご馳走の礼を言い、山口に手を振って林と店を出る。
「腹へったな」
「へった。いい夜だったね」
「いい夜だった。神無月と知り合わなければ、経験できなかった」
「おたがいさまだ」
 末広亭のそばの桂花という店で、白濁したスープのラーメンを食った。紅ショウガを載せて食う変わったラーメンだった。
「ほんとにすばらしい夜だった」
 どうしても目が潤んでくる。
「バス旅行までは、つまらねえ毎日だったけど、がぜんおもしろくなってきた」
「いっしょにバイトできなくてすまなかった。これでも飛び歩いている身だから」
「その言い方は、野球だけじゃないな。女のところか?」
「よくわかるね」
「わからせようとしてるだろ」
「五人だ。おまえとの付き合いは長くなりそうなんで、早めに口を滑らせておく」
「おまえ絶倫なのか」
「からだよりは心がね」
「渋いこと言いすぎだぜ」
「林はどこに住んでるんだ」
「明大前。新宿から京王線で十五分。駒場東大前からだと井の頭線で八分」
「便利な場所だ。グリーンハウスに定期的にかようとなると、楽器の練習が必要になるね」
「山口やジャズバンドを見たろ。楽器やってるやつは、自然と歌に合わせて手や口が動くんだよ。歌さえあれば、練習はいらない。もともと知ってる歌はなおさらだ。歌のレパートリーは、多々ますます弁ず。たまに二、三曲唄うにしても、二、三百曲は知っておいたほうがいい」
「それ以上知ってる。演歌は自発的に唄うのは名曲と思ったものだけ。歌謡曲と、英語の歌は、名曲、駄曲含めてたくさん知ってる。ハードロックとシャンソンと日本民謡は唄わない。林の声を女たちに聴かせたい。ときどきグリーンハウスに連れていくよ」
「ヤニ下がってるな。新聞におまえのこと、鉄仮面て書いてあったぞ。教室でもそうだもんな。鉄仮面がうれしそうな顔しやがって。神無月の女ってどういうやつらなのか見てみたいぜ」
「みんな人生のシナリオを書かないジプシーだ」
「だからいいこと言いすぎだって」
 新宿駅の中央コンコースで手を振って別れた。林は西口へ歩いていった。
 高円寺に寄り、無番のユニフォームと古いスパイクを受け取る。むかしのダッフルに詰めて阿佐ヶ谷へ帰る。
         † 
 五月二十八日火曜日。曇のち晴。朝九時、十九・九度。軟便。シャワー。耳鳴りが高いのは、きのうの音の洪水のせいだろう。
 本郷へ練習に出る。念入りにフェンス沿いのランニング、三種の神器、片手腕立て、右十回、左五回。痛まない。素振り百八十本。兼コーチのノックで二塁返球二十本。部室に寄り、臼山の介添えで、五十キロバーベル十回。那智を相手にフリーバッティング三十本。三時終了。
 母の電話の話が頭に引っかかっていたので、ひさしぶりにじっくり構内掲示板を見てみようと思い、練習の帰りに駒場に寄った。正門脇の道端に、ガラス張りの小汚い掲示板があり、何カ月も貼られたままのような変色した紙が何十枚もピンで留められていた。紙に書かれている字面を見ても、どういう注意を喚起しているのか、自分との関連性がどうなっているのか、重要な告知なのかそうでないのか、いっさい不明だ。わざわざここまでやってきた甲斐がない。掲示板を見にくる学生たちの根気のよさにあきれる。もう二度と出かけてこない。踵を返そうとすると呼び止められた。
「神無月!」
 林だった。四限の英語の授業の帰りのようだ。
「練習は本郷だろ」
「ああ、いまやってきた。帰るのか」
「いや、四時五十分からもう一コマある。でもサボる」
 生協でコーヒーを飲んだ。
「ただの茶色い湯だね」
「ほうじ茶だと思え」
 きのうのきょうで音楽の話になった。好悪を訊ね合い、感想を述べ合った。ほぼ十年間にわたって蓄えた記憶と情感の欠けらを彼に吐き出した。クラシックから日本の流行歌にいたるまで、不気味なくらい二人の趣味は一致していた。
「神無月の基本はロックだな。まちがいない。スローテンポも、アップテンポも、すべて音階とビートの複雑なメロディアスなものしか好まないが、基本はロックだ。俺と同じだ」
 と彼は言った。
「ロックって、何?」
「何と言えるものじゃないんだ。自分の好みにたまたま大衆性がなければ、それはロックの範疇にある、と俺は勝手な解釈をしている。ただし、メロディとリズムがすぐれていることが条件だ。いま聞いたところだと、ドゥーアップも含めてロックの傑作、それがおまえの好む曲だ。大勢の人間は十中八九それを好まない。たとえば、このあいだ俺たちが唄った曲はすべてロックだ」
「おもいで、夜明けのうた、オー・キャロル、好きにならずにはいられない、が?」
「ああ、すべて超絶な名曲だ。滑らかなブルース、ビート、メロディ。しかし、ほとんどの人間が好まないか、看過する曲だ。リトル・リチャードやチャック・ベリーやプレスリーをロックと考える者たちは、ポール・アンカやニール・セダカやガールズ・グループの音楽は毒気を抜かれたものと解釈してる。耳と感性が悪いんだな。きょう俺たちの話の中で並べ立てた曲も、ことごとく彼らから唾棄される曲だ」
「悲観的にすぎないか? 一般人は名作を好まないという……」
「そう。ロックにかぎらず傑作とはそういうものだ。才ある人間だけの魂を揺すぶるものだ。才能のない人間は、なぜか自分の知性や感覚が最高だと思ってるから、他人に揺すぶられることを好まない。負けるのが嫌いだからね。それが才能のない人間の特徴だ。聞き流したい、読み流したい、見流したいんだ。俺のような才能のある人間はちがう。作品を残す僥倖に恵まれた芸術家が、俺たちのような人間のために、こっそり自分だけのマスターピースを作って、大量の駄作の中に紛れこませておいたんだ。天才の作品のほとんどは自堕落な生活から作り出された駄作だ。本人たちも知っている。それを見抜くのも、俺たちの義務だ。しかし、傑作は確実に存在する。だから耳を澄ませなくちゃいけない。俺は傑作だけを唄いたいから、生活のかかった歌手にはならない」
「……一度、山口ともこういう話をしてほしいな。ぼくと同じように理解し合えるだろう」
「当然だ。彼が唄った曲は、ぜんぶロックの傑作だ。とくに、オーブル街は、だれも知らないだろう。フォーク・クルセダーズの加藤和彦の脳味噌のしずくだ。森山良子が唄うオーブル街がいちばんいい。じゃ、またな。やっぱり授業に出てくるわ」



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