六十七

 門を出たところで上野詩織に出会った。
「やあ、マネージャー。いつもお世話さま」
「どういたしまして。きょうはじっくり練習してたそうですね。白川さんから連絡ありました」
「うん、新人戦が一日から始まるからね。きょうは出てなかったの?」
「新人戦までの期間は四人交代で出ます。私は水、日。バス旅行楽しかった。野球以外にもあんな才能があるなんて知りませんでした。感動しました。みんなどうしてシラッとしてたのかしら。ほんとに東大生ってタチが悪い」
 林と同じようなことを言う。レンズからあふれるような大きな目が輝く。
「悪口も闘いの一種だよ。闘わなくていい。勝敗のつかない闘いは空しい。波佐見とは闘ったけどね」
「山内くんに聞いた。あの人、言いまくってるのよ。既修組をやりこめようって作戦みたいね。ほんと、いやんなっちゃう。恥ずかしいわ。神無月くんみたいにスパッとやれないんだから。……前期の教場試験の日程が出たら、自分の科目をメモしといてね。予想問題と解答をレポート用紙にまとめておくから」
「え、この掲示板にあるの?」
「大ボケ。すてきね。でもまだ出てないみたい」
「貼り出されたらメモ取っておくよ。波佐見のフランス語の試験は受けない。落第にする。英語の教場試験は受ける」
「レポートはぜんぶ書いてあげる」
「ありがとう、助かる。少しばかり崖っぷちの雰囲気があったんでね。二年間はおふくろに茶々入れられずに野球をやりたいから。授業に遅れるよ。いかないの?」
 彼女は授業に出る様子もなく、
「神無月くんに会ったら、その気がなくなっちゃった。飾り判子を作ってあげようか」
「何、それ」
「絵柄の中に名前を彫りこむの。たとえばこんなの」
 カバンから判子とノートを取り出して、捺して見せる。棕櫚の木の下に横たわる腰巻だけの女の図だ。彼女を囲むように、Shiori Ueno と彫ってある。手先足先まで精密に彫ってある。
「器用なもんだ。こんな判子、何の役に立つんだい」
「蔵書印ぐらいかな。机に飾っておいてもいいじゃない」
「なるほどね。本に判子を捺す趣味はないけど、飾りにはいいな。この図案でお願いしよう。名前は漢字にしてくれる?」
「ローマ字がいいのよ、この手の図案は」
「じゃ、それで」
 詩織はじつに美しい笑顔を作った。
「女の美しい笑顔は得がたい」
「え? ありがとう」
「ぼくの女はみんな、そういう笑顔をする」
 なぜ私に判子を作ってくれるのかというような問いかけはしたくない。私のことを気に入っているからにきまっている。
「ぼくのって……女は所有物?」
「そう、おたがいにね。所有の安堵感がなければ、男と女は生きていけない」
 上野詩織は教室で初めて神無月郷を見たときのことを思い出している。彼を見たとたん彼女の胸に何ともいえない不安の感情が湧いた。それは場ちがいな、何かあまりにも大きすぎるものを見たときの驚きに似ていた。彼女の不安は、神無月という男がどことなく内気そうな、何か読み取ろうとするような、それでいて少しの不自然さもない知的な眼差しを周囲に向けていることからきていた。その眼差しは、そこに居合わせたすべての男たちが持っていないものだった。容姿全体が愁いを宿したようで、どうでもいい向上欲と精気を持て余しているようなほかの東大生たちとはあまりにも極端な対照をなしていた。倦怠が強くにおった。それはリーグ戦のベンチでも同じだった。授業の半ばになると、彼はもうすっかり飽き飽きして、講師の話を聞くのも、学生たちを眺めるのも退屈しきっているようだった。
 ―なんてきれいな人なんだろう。
 たまたま彼の眼がこちらを見つめたとき、上野詩織は何かの奇跡に打たれたように、思わず感謝の目を伏せた。
 二人、駅の階段に向かわず、右手の坂へくだっていく。
「満留賀(まるが)でカレー食べよ」
「うェ、あのまずい店」
 駒場を未練たらしく歩き回っているとき一度だけ入った。蕎麦屋のくせにソバがまずい店だ。
「そんなことないわよ。おソバ以外はけっこうおいしいわよ」
「どんな舌をしてるんだ」
「女の舌よ」
 人けのない二階のテーブルについて、カレーライスを注文する。
「客は一人か。舌は正直だな」
 ねえ、と詩織が呼びかける。
「……私、いま一人暮らし。お願いがあるんだけど」
「言わなくていい。それはしばらく遠慮しよう」
「うん……」
「処女は面倒くさい」
「がんばります」
「何を?」
「面倒くさくない処女になることを。でも、鈴木さん、処女だったんでしょう」
「聞いたの?」
「女の勘」
 あらためて顔の造作を見る。近眼で大きい目―思い出した。野辺地中学校のイツミちゃん。カクト家具店のイツミちゃん。彼女よりは鼻も小ぶりで、頬がふっくらとした親しみのある顔だ。
「相当な美人だね。最近気づいてびっくりした。東大にいないタイプだ。鈴木睦子もかなりのものだけど」
 トレーナーをだらしなく着た寮生らしき男が、爪楊枝を咥えて階段を降りていった。彼の姿が消えるまで待つ。
「まるで中年のオッサンね。寮生って汚いんだから」
 私たちのほかに二階には客が一人もいなくなった。カレーが出てきて、詩織はもりもり食べる。この女が東大生であることを再確認するつもりで眺める。彼女の食欲を見ているうちにうれしくなって、スプーンを動かしはじめた。
「まずい! よく食えるな」
「味に文句をつけないほうなの。……しばらく、というのは、期待して待っててもいいってこと?」
「そういう関係になっても、ぼくにこだわらないって約束してくれるなら、いずれね。ところで、家はどこ?」
「次の駅。神泉」
「家を見ていきたい。他意はないよ」
 学生の群れと電車に乗りこむ。永遠に親しめない人びと。彼らを照らす車内の明かりが異様にまぶしい。
「きみのように人なつこい女が、どうして東大にきたの」
「私、山形東高校出身なの」
「聞いた」
「進学校って、そういうものよ。千メートルの山より二千メートルの山に登りたがる。ぜんぶ背比べ。神無月くんはもっと切実ね。週刊誌で読んだわ。嘘くさいって、私の周りのだれも信じてないけど、私は信じてる」
「週刊誌の記事は眉唾くさいものね。でもほんとうだ。そのほんとうのことも、人にいろいろ説明しているうちに忘れてしまった。思ったとおり、東大に入ったら、母は目立って理不尽なことを仕掛けてこなくなったからね。ただ、今回は大学の試験の成績が不良だったら、野球部の責任者に訴え出るって脅しをかけてきた。東大で野球をさせないって意味だ。彼女はやると言ったらかならずやる」
「そういう親が実際にいるのが驚き。お母さんさえいなければ、いまごろプロ野球の花形選手になってたでしょうに。でも、その虐待のおかげで、ほかにも能力があることを確認できた。そうじゃないですか?」
「何の価値もない確認だね。急がば回れはまちがった美徳だと思う。自分がまちがったことを強いられてる事実に苛立って、別のエネルギーに方向転換してみた。どいつもこいつも東大東大とうるさいから、世間評価というのはおおよそ真実と反比例するってことを証明してやろう、こんな馬鹿でも受かるじゃないか―幼稚なルサンチマンだね。そういう気持ちの前では、野球ができないという苦しみのほうが弱くなる。そういう好都合に頼った期間が数カ月あった」
 神泉の南口を出て、道玄坂にぶつかる手前で詩織は指差しながら、
「この裏手が、有名な円山町。旅館街」
「山口とフグを食いにきたことがある。―マンションに男を連れこんだらマズいんじゃないか」
 羽振りのよさそうな三階建のマンションが建っていた。エントランスの奥に管理人室がある。中年の男が座っている。
「だいじょうぶ。学生マンションじゃないからうるさくないの。三○七号室。窓から神泉のトンネル駅が見えるわ」
 部屋に案内された。洋室八帖、和室六畳、睦子のアパートの二倍もある大きなユニットバス、広い台所。トイレも洗面所も広い。
「豪勢だな」
「びっくりした? 五万円の部屋。お父さんのプレゼント」
 家庭の事情には興味がないので父親の職業は訊かない。八帖の洋室には、机と、書棚と女物らしい家具類が壁を埋め、ベッドは置いていなかった。トンネルの中にある神泉駅が窓から望まれた。六畳の和室に万年布団が敷いてある。気分が爽快になった。
「万年布団、好きなんだ。気が向いたらすぐ倒れこめる。いつも、こう?」
「そう。たまに干すけど」
「じゃ、確認は終わったから退散する」
「キスぐらいしてって」
 眼鏡を外した。顔だけ近づけて、唇だけのキスをする。詩織は目をつぶって受けた。
「社内恋愛は仲間の士気に響く。たとえそういう関係になっても、ぼくの友人や恋人たち以外には完全な秘密厳守にするよ。鈴木睦子は自然体で守ってる。きみには見抜かれたけど」
「いつまでも待ってます。ほかの人には抱かれたくないの」
 眼鏡をかけ直す。
「上野さんには性欲が湧く。性欲を湧かせる女は、かならず抱くよ」
「ありがとう。……新人戦に、どうして二打席しか出場しないの」
「ほんとうは一打席も立ちたくない。ほかの東大の新人の力じゃ、出塁も危うい。いくらぼくがホームランを打ったって勝てない」
「勝ち負けじゃないの。みんな神無月くんのホームランを見たいんです」
「うん、監督もぼくもそれがわかってるから、あえて二打席にしてもらった。どうせ負けるから、ぼくはその二打席ともホームランを狙う。二試合で四本狙う。そのうち一本でも打てれば、みんな満足してくれるだろう」
「……送っていきます。神泉駅まで」
 駅までの坂道を下る。
「ほんとに、すごい才能ですね」
「自分でも夢の中にいるように感じるんだ。この才能はいつか消えてしまうと思う。夢から醒めたようにね」
「……自分で無理やり途切れさせないでくださいね」
「これしかないのに? 大事に長保ちさせるよ」


         六十八

 きょう着たユニフォームをカズちゃんに預け、素子の三助でひと風呂浴び、ハンバーグライスの夕食を馳走になる。
「思い切りサボれる時期なのに、キョウちゃんはまじめねェ」
「これでふつうだよ。好きなことだからね」
 素子が、
「ここに移ってくることはできんの?」
「私たちを相手にする疲れなんて、野球の練習に比べればどうということはないの。マスコミもうまくやりすごせば何とかなるでしょう。でも、まんいちお母さんに知れたときがたいへんなのよ。大悶着が起きて野球どころでなくなるわ。このあいだのお婆さんの話もあるし、やっぱりアパートを借りるのが最善」
「東大に入ったら、ほんとに何も言ってこんようになってまったね」
 手紙のことはけっして言わない。よけいな気を揉ませる。
「きちんと勉強して、ラジオ体操程度に野球をやって、きちんと卒業すると思ってるからよ。野球で未来を切り開いてるとは思ってないの。才能があるから大学野球で騒がれてるだけだと考えてるのね。世間の意見もあるし、ここはじゃましちゃいけないって自重してるわけ」
 カズちゃんはほんとうに心根のやさしい女だ。底抜けだ。
「めちゃめちゃ大事なときなんやね」
「そうよ」
 あたらしいユニフォームを詰めたダッフルを担いで阿佐ヶ谷に帰ると、ヒデさんから手紙がきていた。

  拝啓
 おととしの夏に、合船場のお婆さんと一子さんといっしょに神無月さんを野辺地駅に見送ってから二年がこようとしています。私は青高入学以来、勉強漬けの一年を送りました。これからは、もっともっと一所懸命勉強して、再来年、確実に名古屋大学に合格するつもりでいます。
 大学生活はいかがですか。大学の勉強って、とても難しいんでしょうね。そのうえ東大ときては、どれほど難しいのか想像もつきません。野球をやりながらではますますたいへんでしょう。私も死にもの狂いの勉強をしなければ、名古屋大学を受験することさえおぼつかないかもしれないと覚悟しています。
 恵美子さんは、これから先、野辺地町から東大へいく人は一人も出ないと思う、と言っていました。いっしょの中学校に在学できたことを誇りに思ってる、とも言っていました。彼女は水商売をやめて、勉強し直し、できるだけ早く国家二種の免許をとって野辺地の町役場に勤めるつもりだそうです。一子さんは今年から野高の三年生。本格的な受験勉強に入りました。訪ね合うこともほとんどなくなりました。
 このあいだ合船場を訪ねてきました。神無月さんが東大の野球部で大活躍していることを新聞やテレビで知り、その喜びをお祖父さんお祖母さんと分かち合いたかったからです。お二人は、郷は欲のない人間なので、どんなに騒がれても道を誤ることはないだろうと言っていました。合船場にもよく東奥日報の記者が訪ねてきて、その人が親切に神無月さんの近況を教えてくれるそうです。
 山口さんはどうしていますか。東大の法学部へいったと聞いています。学部はちがっても、二人仲良くすごしているものと思います。あのギターをまた聴きたいです。
 兄は、帯広畜産大の獣医学科に合格しました。あの冬の勉強がなければいまの自分はない、といつも言っています。ほんとうにありがとうございました。神無月さんの分もいっしょに山田さんの墓前に報告しました。雪の積もった朝、兄の家庭教師にやってきた神無月さんの白くてきれいな顔を思い出し、思わず泣いてしまいました。
 神無月さんに会いたいです。いつも心からお慕いしています。
    神無月さんへ        秀子


 ヒデさんの楚々とした笑顔を思い浮かべ、短い手紙を書いた。

 ときどききみのことを思い出し、胸を締めつけられることがあります。ぼくの筆不精のせいで、きみとの音信が途絶えたことを日ごろ残念に思っていたところだったので、今回は待望の手紙でした。
 山口は西荻の実家からかよっています。新宿のパブでギターの弾き語りのアルバイトをしています。彼の伴奏で一度唄いました。すばらしい音響の店です。
 一年のうち、四、五、九、十月は野球まみれです。この四月、五月は、練習を含めてきわめて順調でした。監督や仲間たちから大切にされ、頼りにもされていますので、やり甲斐があり、つらい気分にはまったくなりません。いつまでも野球そのものは楽しいです。秀でた才能を与えてくれた神さまに感謝しています。
 兄さんのこと、おめでとうと伝えてください。彼はついに念願をかなえましたね。幸福な人生の道を歩みはじめました。大学進学の意味をだれよりも重く捉えられる選択の仕方です。ふつうの人間の大学進学には大した意味はありません。今度はきみが意味を持たせる番です。
 先回も話したとおり、ぼくは東大には最大限二年生の夏までしか在学しません。中退して、中日ドラゴンズにいきます。そうなると、一年間百三十試合の半分は名古屋の中日球場でやり、東京には遠征試合で訪れるだけになります。敵五チームを分割すると、遠征地は東京二チーム、神奈川一チーム、兵庫一チーム、広島一チームとなって、六十五掛ける五分の三で、関東地区にいけるのは一年間にたった四十日足らずです。休暇もほとんど名古屋ですごすので、ぼくのそばで暮らすことがもしヒデさんの念願だとするなら、やはり名古屋の大学を受けるのが得策だと思います。もちろんきみの本来の方針が上京して東京の大学に属すことにあった場合、ぼくの報告でその方針がねじ曲げられないようにと願っています。いずれにせよ、がんばり屋のきみなら、東大だろうと名古屋大学だろうと、どこにでも受かるでしょう。入学の意義があると思える大学を慎重に選んでください。
  秀子さま        郷


 その手紙を、エンゲルベルト・フンパーディンクの『独りゆく路』というEP盤のレコードといっしょに小包にして送った。
         †
 五月二十九日水曜日。曇。ランニング。阿佐ヶ谷駅からガード沿いに中野駅を目指す。七時出発。十二分で高円寺。さらに十二分で中野。道路沿いから眺める幾筋もの線路の軌道が美しい。
 駅の出口のそばで立ち食い。天ぷらうどん。すぐ引き返す。
 本郷へ。一連の練習。満足し、つつがなく二時終了。高円寺でユニフォーム交換。
         †   
 三十日木曜日。晴。前日にまったく同じ。
         †
 五月三十一日金曜日。晴。二十二・六度。南風が吹いている。九時。阿佐ヶ谷の下宿を出て、人けのない高円寺の家に寄り、玄関に用意してある練習用無番のユニフォーム一式を詰めたダッフルを担ぐ。新しく入ったバッティングマシーンを打ちに本郷へ出かける。
 自転車を漕ぐ顔に風が心地よく当たる。東京の空と街並に馴染んできた。生きていることがうれしい。新高円寺から丸ノ内線。ブレザーを着て下駄を履いた近眼鏡の男にだれも近づいてこない。
 最近、本郷の街並を歩くとき、かならず過去が思い起こされるようになった。似たような街並の記憶はない。思い出すのはクマさんとすごした日々だ。わずかな勾配の坂の上空にかかる雲に、ダンプカーの助手席から眺めた雲が重なる。
「カックント、ヤッタッカナ、チョイサット」
 まだ彼に会える。まだ彼は死なない。彼といっしょに野犬収容所に引き取りにいった老犬のシロでさえまだ生きている。
 東大球場で新人戦メンバーと合流。報道陣は五、六人。上野詩織が新しいバットを五本用意していた。どれも手に馴染んだ。きょうから新人戦が終わるまで、監督以下スタッフは全員グランドに出る。詩織が、
「そのバット、ホームラン打てそうですか?」
「確実にね」
「判子できました。ロッカーに入れときました」
「ありがとう。机に飾っとく。朱肉をつけるのはもったいない」
 睦子が寄ってきて、
「木谷さんが来月遊びにきます」
「ついにくるか。楽しみだね」
「はい。忙しい神無月さんに気兼ねしてます」
「阿佐ヶ谷のアパートは無理だから、どこに泊めようか」
「うちに泊まればいいです。二泊するって言ってました。浅草と東京タワーにいきたいんですって。もし都合がついたら、私もいっしょに連れてってください」
「うん―」
 百四十五キロに設定して、五十本打った。ホームランは二十本余り。機械の調整具合のせいか、高目にくることが多いので、手首のカブセの訓練に利用できた。
「克己キャプテン、いやに部員が多いですね」
「おお、この月末に十人入部した」
「十人も! 一チームできてしまいますね」
 それらの部員も含めて、四十人ほどがグランドを走り回っている。監督もスタッフも参加していたが、レギュラーの姿はちらほらだった。新人戦にはレギュラーはほとんど参加しないからだ。
 新入生の遠投に付き合う。みんなあこがれの顔で、フェンスに向かって延びていく私のボールの行方を見つめる。マシーン打撃のときは、彼ら全員球拾いに回った。私は彼らの捕球の身ごなしに目を光らせた。
         †
 新旧含めた補欠選手の名前も覚えないうちに、六月一日と二日に神宮球場で行なわれた新人戦は連敗に終わった。一対十二、一対四。二日間、監督に約束したとおり二打席ずつしか立たなかったので、遅いボールに手こずって、四打数二安打、一ホームランという成績だった。観客は七千人しかいなかった。
 高円寺に戻ってのんびりする。三人で風呂に入り、居間で晩めしを食いながら、巨人―阪神戦。五対五の同点から九回裏森のサヨナラホームラン。高橋一三が打者二人を打ち取っただけで勝利投手になった。カズちゃんの胸で眠る。
 翌三日、スポーツ紙を駅の売店に並んでいる分ぜんぶ買った。新人戦の自分の〈ふつう〉の成績に対する評価を知りたかった。こんな気持ちになったのは初めてだった。二十六号。どの新聞にも採り上げられたのは、春季通算のその数字だった。
 新人戦は法政の優勝、立教準優勝、三位明治、東大、慶應、早稲田四位。つまり、レギュラーと新人の格差がここまで大きい大学は、東大が一番、早稲田が二番だという評価だった。総合力がなければチームは一勝もできない。校庭の三角ベースでさえそうだ。
 フジでコーヒーを飲みトーストを齧りながら、店に備えつけの一般紙のスポーツ欄を見ていた。
「キョウちゃん、また書かれてたわよ」
 カズちゃんに読売新聞を差し出されて目を落とすと、〈大のマスコミ嫌い〉という活字が浮き上がって見えた。威勢のある者たちの反撃のにおいがした。スターならスターらしく、持ち上げてくれる人たちに愛想よくしろ、という威嚇だ。だれのおかげでスターでいられる? まったく野球と関係ない威嚇だ。
 ポートへ回る。歓声が上がる。ホットココア。客の一人が、
「毎日練習で、たいへんですね」
「楽しいです。きょうも昼から出ます」
「今月から八月末まではオープン戦でしょう」
「はい、補欠の出場を含めると二十試合以上です。東大球場は六、七試合。それと他県でのキャンプです。でもぼくはどちらにも出ません。休暇の許可をもらって自主トレです」
「特別待遇なんですか?」
「入部のときからの口約束です」
 ひとしきりサイン攻めになる。五人もいないので、しっかり書く。素子が助け船を出す。
「忙しい身なんやから、油売ってられんよ」
 ホットココアを飲み干し、客たちに頭を下げて店を出る。


         六十九

 阿佐ヶ谷に戻ると、ヒデさんから二通目の手紙が届いていた。長い手紙だった。

  拝復
 独りゆく路、すばらしい曲でした。神無月さんのことを思い、泣きながら何回も聴きました。どこからこんないい曲を見つけてくるのだろうと感心しました。言わずもがなのことですが、張りめぐらした感受性のアンテナがすごいんですね。
 東大中退の予定をあらためて知らせてくれたおかげで、とても心が落ち着きました。私の予定は変わりません。名古屋大学一本です。私の針路はいつも神無月さんに向いています。ただ、初心どおり、東大を受けるくらいのつもりで、気を張って勉強しつづけます。
 名古屋にいったら、ときどき神無月さんを訪ねて、こんなこと言うのは生意気のようですが、私でよければ、これからの長い人生についてお茶飲み話でも付き合ってもらえたらと思っています。もっと深く付き合っていただければ、もちろんそのほうがうれしいに決まっていますが、神無月さんはもともと女のからだそのものに執着がなく、心を清潔に保ったまま、つまり好奇心が動いたときだけ肉体を解放させている人なのではないかと最近感じるようになりました。それは神無月さんの欠陥なのではなく、人間くさい欲望を超越した長所なのだと思います。肉体的な行動に好奇心しか発動しない、まるで幼子のような純潔性です。愛情は相手の心に対してだけ発動するのです。そしてその発動は成熟した大人のものです。
 どうして神無月さんのことを清潔に感じるのか、私は長いあいだ考えてきました。自分なりの結論にたどり着きました。神無月さん本人は逆に思っているかもしれませんが、幼子の純粋さを持って生まれついた神無月さんは、その愛らしい幼子の好奇心のゆえに愛されるのです。愛されていよいよ好奇心の度合いを増し、一直線の肉体的行動をとるのです。その行動は純真で清潔な光を発しているので、愛でられる女は激しい喜びに浸るのです。愛さざるを得なくなります。神無月さんを愛する女は、神無月さんの純真で清潔な輝きを浴びて、自分も神無月さんに同化しはじめます。するとその反応を神無月さんは心の成熟と理解して、深い愛を感じはじめます。純真で清潔なまま熟した大人の心になるのです。純真で清潔な幼児を核にして、大人の熟した精神でくるみこむ。それが、私がたどり着いた神無月さんのことを常に清潔に感じる理由です。興奮して、うまく言葉が出てきません。
 もう少し考えながら書いてみます。〈できること〉と〈すべきこと〉についてです。〈愛情〉と〈モラル〉についてです。神無月さんは前者を取り、神無月さんのお母さんは後者を取りました。たとえば法律家のように、結果や影響を考えずに後者を実行できる人は、崇高な心の持ち主と讃えられることが多い。実行の口実は〈不本意ではあるが〉です。でも私は、崇高な心とは愛情に基づいてできることを〈本意〉でする人の心だと思っています。愛のある人は相手の目に真実を見ようとしますが、モラルの人は相手の行動に真実を見ようとします。狭い真実です。目には宇宙があります。愛のある人はモラルの人よりはるかに多くのことを考えています。そして相手の痛みは自分の痛みなのです。まともな人間としてまともなことをします。モラルの人は大勢のふつうの人のことしか考えません。目の前に愛の人がいてもぜったい気づきません。その人たちの心は白か黒です。だれが善人でだれが悪人か。―私の前に神無月さんが現れました。私の世界に紛れこんできて、灰色もあるのだと教えてくれました。あ、いま神無月さんは否定しようとしましたね。ぼくはそんな人間じゃない。でも、何も言わないでください。神無月さんのおかげで私は自分で気づくことができたのです。灰色ばかりでなく、青もあり、緑もあり、黄色も赤もあるということに。そして私は神無月さんになりました。心の扉を開けてくれた神無月さんに感謝しています。私は〈できること〉をするために進みます。
 舌足らずのつまらないことばかり書いたような気がします。お許しください。
 神無月さんの予定をしっかり知ることができてうれしいです。とにかく神無月さんに向けた針路は変わりません。がんばりつづけます。この手紙に返事は不要です。神無月さんにそんな暇はありません。いずれまたお便りします。健康にお気をつけて。
 心から愛する神無月さんへ      秀子


 最近阿佐ヶ谷の下宿に戻る足が鈍る。駅から遠く、食事や風呂も不便だし、大家の老婆二人に常に見張られて、細かいことに苦情を言われるのも癪だ。きょうは、帰る早々かならず窓の鍵を閉めて寝てくれと言われた。傷み具合を見回して、この家にとってそれほど大事な部屋とも思われない。
 それだけではない。カメラ機材を提げた連中が電信柱の陰にいて、フラッシュが光ったりする。高円寺の家を突き止めることのできない報道陣は東大グランドに出向くか、阿佐ヶ谷で偶然捕まえるかしないかぎり、ほとんど私を取材できない。捕まえても、私の仏頂面に黙殺されるか、大家に追い払われるのは業腹(ごうはら)だ。
 しかしそれは建前で、彼らマスコミ人に突き止められない場所などない。こっそり追跡すればすむことだ。ただ高円寺のカズちゃんの家は、村迫代表にも鈴下監督にも知らせていないので、ほんとうに人づての情報を手繰れないのかもしれない。力にひれ伏さない人間は扱いづらい。それが彼らの苛立ちのもとだとしても、私は彼らに同情して便宜を図るつもりはない。
 昼近く下宿を出て高円寺へ。商店街のラーメン屋でラーメンライス。
 玄関のダッフルを担いで本郷へ。
 柔軟のあと、ポール間ダッシュ往復一本と、五人のピッチャーを相手に二盗の練習をしっかりやった。スタートが肝心なので、一歩目を二塁に向かって直線に踏み出す。全速で走る。スピードを落とさず、一メートル半ほど手前から左手を地面に軽く突きながら左膝横で滑る。スパイクの先をひねって立ち上がって次の塁を狙う。そこまで一連の動作を十回繰り返した。
「美しい!」
「完璧!」
 監督やコーチたちから嘆声が上がった。最後にベーランを三周やって、これも、
「速い!」
「速ェ!」
 を連発していた。
 五時、高円寺帰宅。
「今月いっぱいで阿佐ヶ谷を出るよ。荻窪のアパートを探す。丸ノ内線の始発だから便利だ。本郷三丁目まで四十分。高円寺からあんまり離れるのもいやだし」
「いっぱいまでがまんする必要ないわよ」
「そうだね。駒場東大前までも、吉祥寺に出て、井之頭線で二十五分程度でいける。多少駅から遠くてもいいな。散歩気分でかよえるから」
「手配は私がするわ。ステレオは慎重に運んだほうがいいわね」
「近所の自転車屋でリヤカーの貸し出しをしてる。よしのりといっしょに運ぶよ」
 山口に電話した。
「あそこは出るのが正解だ。いくら目と耳を塞いだって、野球ファンたちが鳴らす笛太鼓の音はおふくろさんのからだに響いてるだろう。女の存在は耳で聞かされないかぎり知るのは難しい。何も言ってこないのは、まだ婆さんたちが言ってないからだ。あの二人は危険だ」
「一つ知られたら、あとは芋づるだからね」
「そうだ。ところできのう、林が初舞台だった。見にいった。エレキをパブロックふうに弾きながらビーチボーイズのスローナンバーを唄いまくった。すごい受け方だったよ」
「あの渋い声でビーチボーイズか。ドン・ウォーリー・ベイビーやアイ・ゲット・アラウンドなんか最高だったろうな。その二曲とも唄ったんだろ?」
「ああ。鳥肌ものだった。九千円もらってホクホクで帰ったけど、ワンステージ一万払ってもいいくらいだ。おまえは一曲一万だけどな」
「オーバーだ」
「いずれホームラン一本百万になる」
 電話を切ると、カズちゃんが、
「ほんとに怖い人よ、お母さんは。いまのいままで言わなかったんだけど、キョウちゃんが青森にいったあと、節子さんのこと探偵使って根掘り葉掘り調べさせたんですって。牛巻病院にもお母さん本人だけじゃなく、何度も調査員がやってきたって聞いたわ。とどめを刺すようなことをしたのね。それでとうとう節子さんは……」
「ぼくにひとことも言わなかった―」
 素子が、
「それは言えんよ。気持ちが一段落しとったキョウちゃんがまた荒れ狂ってまうもん。節ちゃんが悪人になって身を引くゆうんが、いちばん波風立たん解決策やったんやわ」
「キョウちゃんのそばに戻ってきたのは、よほどの勇気よ。えらいわ」
「もうみんな人生の方針が固まった。……全身秘密のかたまりにしないとね」
「私たちも、キョウちゃんもね。でも、行動は堂々としてないとだめよ。何も悪いことしてないんだから」
         †
 九日の日曜日にカズちゃんといっしょに荻窪に出た。素子は日曜出勤だった。
「来月、青森高校の同級生が遊びにくる」
「女の人?」
「うん」
「抱いたの?」
「いや」
「青森高校は、四、五人?」
「一人。それもつい最近。東大野球部のマネージャーの鈴木睦子。これで、青森については隠し事がなくなった」
「頭がまとまったわ。健児荘の管理人さんと、鈴木睦子さんね」
「うん。南阿佐ヶ谷に住んでる。来月出てくる女は、将来青森の役所に勤めようとしている木谷千佳子。鈴木睦子の友人」
「木谷という子は、遊びにくるだけなのね」
「うん。ぼくに逢いたくて」
「わかったわ。将来出てくるかもしれないのは、美代子さんと秀子さん?」
「そう。たぶん名古屋に」
「東京に申告洩れの人はいない?」
「東大にもう一人、そうなりそうな女が一人いる。野球部のマネージャー。上野詩織」
「そんなものなのね。これからも大して増えないでしょう」
「全身全霊で愛してるのはカズちゃんだけだ」
「ええ、それはからだじゅうで感じてるから言わなくていいの。キョウちゃんの愛する人は、みんな幸せになってほしい。遊びにくる子は、どこに泊まるの」
「鈴木睦子のアパート。二人とも青高の野球部のマネージャーだったんだ。木谷は、一年生の冬、インフルエンザにやられたとき、看病にきた」
「あ、山口さんといた子ね。すてきな子だった」
「今月、浅草の康男に会いにいくときに、節ちゃんたちといっしょに鈴木睦子も連れてくことになってる」
「楽しみにしてるわ。キョウちゃんの都合のいい日がわかったら、大将さんに連絡しとく」
 荻窪駅前の小さな不動産屋にふらりと入る。いろいろな貼りものをピンで留めた奥の壁の前が、カウンターで仕切られたちょっとした空間になっていて、そこの机に向かって五十あとさきの中肉中背の女が一人で仕事をしていた。厚手の茶のツーピースをピシッと着ている。老人と言うには若すぎる。オバサンとかトシマと言うのだろうか。目もとが涼しく、男好きのする人相をしている。初老の風が吹いているにもかかわらず、まだはっきり白くなりきっていない髪が魅力的だ。鴨居に掲げた免許証に菊田トシとある。
「おや!」
 彼女は大きく目を見開いて、戸を引いて入った私の顔を見つめた。訝しく思い、見つめ返すと、
「―いえね、知り合いにそっくりだったものでね。ま、そんなことはどうでもいいわ。いらっしゃいませ。学生さんね。季節外れの下宿探し?」
「そうです。わかりますか」
「見たらすぐわかりますよ。あなたは、早稲田か学習院の学生さんで、そっちはお姉さんでしょ。美男美女、姉弟(きょうだい)にまちがいないわ。こんな半端な時期に部屋を探すのは、大家さんに追い出された証拠ね。麻雀かな? それで親に言えないから、お姉さんに泣きついた」
 カズちゃんと二人でうなずく。気さくな女だ。この不動産屋で決めようと思った。
「だいじょうぶ、いい物件がありますよ。麻雀し放題。学生から麻雀取ったら、何も残らないものね。じゃ、さっそく見にいきましょ」
 女は店の鍵を閉めた。アーケードの商店沿いに徒歩で十分足らず、四面道という大きな交差点を左折し、環八から一本目の細道を右折してすぐ右側、石手荘と壁看板が出ている平屋のアパートに連れていかれた。


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