九十一

 タクシーがとつぜん道の肩に止まった。
「東大の神無月選手だってが!」
「はい」
「東大、準優勝、おめでとごぜます。野辺地中学校出身、生ぎた伝説。東奥日報でいっつも特集してます。びっくらこいたな。サインもらっていがべか」
 ボールペンといっしょに差し出した手帳に名前を書いた。よしのりが、
「あまり言い触らさないでよ。のんびりしに帰ってきたんだから」
「おお、しゃべらねじゃ。だども、すぐに大騒ぎになるべおん」
 ―あしたの朝は、じっちゃばっちゃに会いにいこう。近況を話し、金を渡す。それから種畜場に顔を出そう。帰りに山田三樹夫の家に寄って、線香を上げ、一子や母親と話をする。それからボッケの店で芋まんじゅうを食いながらコーヒー。ボッケが電話でガマを呼び出すだろう。合船場で夕食をとり、一泊してから青森市へ……すべて思い描ける。やっぱりミヨちゃん母子にも会うべきだろうか。
 倉庫と事務所ばかりの海沿いの道を二十分ほど走り、野辺地には似合わない高台のスロープに乗りつけた。タクシーを降り、車の外に出て最敬礼する運転手に礼を返しながらスロープを登る。六階建ての鉄筋コンクリートの旅館だ。フロントもロビーも広い。やはり野辺地らしくなく、人がうじゃうじゃいる。よしのりの絣姿にだれも目を向けない。
「野辺地にこんな豪勢なホテルがあったんだね。知らなかったな」
「俺も初めてだ。全国から客がくると聞いたことがあるが、ここまで繁盛してるとはな」
 こぎれいな和室に案内される。窓から海が一望できた。中年の仲居が標準語で言う。
「和室をということでしたけど、ここは全館ほとんど和室なんですよ。どの客室からも海が見えます」
 夕暮れの陸奥湾の彼方に、うっすらと下北半島が浮かんでいる。よしのりが仲居に千円札を一枚握らせた。
「すぐめしにして。ビール二本」
「北前御膳をお持ちしますか」
「何でもいい。風呂はどうなってる?」
「ヒバの大浴場と露天風呂がございます。どちらも十二時までです」
 仲居が去ると、
「宿代はぼくだよ」
「ごっつぁん」
 よしのりはホテルの浴衣に着替えた。脱いだ絣を大事そうに衣桁にかける。窓辺の椅子に落ち着き、ユベシを齧りながら、ゆっくり煙草を吹かす。海を見つめている。太宰治に似た顔をした美男子だ。
「絣を浴衣に着替える必要もなかったろう」
「あれは高級品だ。浴衣に似てるが、ちゃんとした着物だ。日舞をするようになってから着物に美を見出した」
「日舞?」
「ああ、三鷹に西川流を習いにいってる。西川、花柳、坂東、藤間、若柳、日本五大流派の一つだ」
 誇らしげに笑うので、私もつられて笑った。
「年増のお師匠さんがきれいでさ、高嶺の花だ」
「それが目的だな。どうせモーションかけるんだろ」
「考えてる」
 夕食が運びこまれる。ひさしぶりに北国の食い物にありついた。
「北前御膳でございます」
 ほとんど海のものだ。イカ、マグロ、ホタテ、ウニ……。ビールを飲みながらすべてつまみ終わると、牛すき焼きの鍋と、めしと、味噌汁が用意される。仲居がおさんどんをする。すき焼きのタレをまぶしたササゲうどんをダメ押しに、メロンのデザートまでついて、腹いっぱいになった。
「さあ、ひとっ風呂浴びて、出かけるぞ」
「どこに」
「敵情視察。本町あたりのスナックだ」
「敵って、それじゃ、日本全国敵だらけになるぞ。だれもラビエンのことなんか知らないだろ」
「俺は野辺地にきても、やることがないんだよ」
 露天風呂に入る。小ぶりなものだったが、温度も湯触りもよく、短い時間で快適な汗が出てきた。二人ともからだは洗わず、カラスの行水で出た。
「あしたの朝、大浴場でからだを流そうや」
「そうしよう。ぼくは二日頭を洗わないとくさくなる」
「俺はチンボだ。包茎だからな」
 カカカと笑う。腰を突き出して示すので、見下ろすと、根もとの太い先細りの陰茎が視野のぜんぶを占めた。自分で亀頭の包皮を剥いて見せた。親指の先みたいな小ぶりの亀頭がニュッと現れた。
「太くて、長くて、ぼくの二倍はある」
 本体を褒めた。
「根っこで入口を刺激するだけだから、たいていの女は不満でさ。カリの引っ掛かりが悪いせいだな」
「奥を何度も突けばいいだろう」
「女にもよくそう言われる。そればかりやってるよ。女はいいだろうけど、俺は気持ちよくない。やっぱり、自分でやるにかぎる」
「まだ自分でやってるのか!」
「仕方ないよ、租チンなんだもの。しかし神無月のチンボはほんとにグロテスクだなあ。本体の割りに頭が大きすぎないか。俺のを見ろよ。頭なんかいつもすっぽり皮の中だぜ」
 返す言葉がないので、ただ微笑する。
「天はいったいおまえに何ブツを与えたんだ。やめた、おまえ相手だと、愚痴のみっともなさが倍増する」
 フロントに鍵を預け、タクシーで本町に向かう。郵便局の前で降り、あたりをキョロキョロ見渡す。城内の道へ歩みだす。幼稚園の通りの外れに、『すえ』という青いネオン看板が立っていた。八時を回っている。
「十時くらいまでな」
「おまえ、酒弱いからな」
「最近、多少飲めるようになったけどね。二時間ぐらいなら、大して酔わないだろう。四戸末子って知ってる?」
「ああ、浜のな」
 この道を百メートルも戻れば、四戸末子のいる浜町に出る。いまごろ彼女は家の外にいて、取りこみ忘れた洗濯物をたぐり寄せているかもしれない。やさしい目と、形のいい唇と、ずんぐり大きな下半身を思い浮かべた。
「この店、ひょっとして……」
「スエ子はキューピーマヨネーズにいったんでなかったか。Uターンか?」
 ドアの鈴を鳴らして入った。
「いらっしゃいませ!」
 カウンターだけの店だ。すでに入口近くに二人の客が坐っている。
「やっぱり! 四戸さん!」
 前を開けた素人くさい白いワンピースを着て、突き出した胸が一段と豊かになっている。整った少女らしい顔が、大人の風貌に変わっていた。肩に埋まるほど短かった首も、スラリと長くなっている。象の下半身が浮かんだが、それは見えない。四戸末子は私を訝しげに見つめ、
「……え? 神無月くん?」
「はい、神無月です」
 末子は祈るように両手を組み合わせた。
「たまげたじゃ! さ、こっちさ坐って」
 奥の椅子に落ち着き、おしぼりを受け取る。
「店を出したんだね。きみの名前がついてる」
「借りてるんです。持ち主が西舘セツさん、憶べでるべ?」
「ああ、ゴリラ」
「うふふ。彼女のお母さんが野辺地に三軒の店持っててね、セツさんも山田医者の通りに店を出してる」
「へえ! あの顔で」
 四戸末子は手で口を押さえて笑った。化粧のせいか目もとに華やかさが増している。よしのりが、
「海皇(かいこう)だろ。俺もこっちにいたころ、何度かいったことがある。ありゃ化け物だ」
「ときどき、うちに客を回してくれるんです」
「四戸さん、驚くほど美しくなったね」
 フォードアは恥ずかしそうにうつむき、
「あの神無月くんが、ここさいるんだニシ。夢でねべが。……うだで有名になったニシ」
 握手を求める。強く握った。よしのりが彼女の目の前でひらひら手を振り、
「ここにも男が一人いるよ」
「あ、すみません。あらァ? 横山くんでねな」
「透明人間になったかと思ったぜ」
 四戸末子がアハハハと笑うと、よしのりは空元気を出して絣の帯に手を突っこみ、胸を張った。
「あんたもいい男だたって、神無月くんの前では影薄いな。なんなの、盆踊りでもねのに浴衣着て」
「浴衣じゃない、絣だ。ダンディズム、ダンディズム」
「たしか十和田さいったんでねがった? 恵美ちゃんがへってらった」
「江戸っ子よ。花の東京は、阿佐ヶ谷で、バーテンやってる。末子はUターンか」
「ンだ、三年働いて帰ってきた。もう東京さいぎたぐね」
「さんざん男に騙されたか?」
「……もう、こりごり。野辺地がいぢばんだ」
 都会の孤独の中で、つらいことや不満なことを思いめぐらしているうちに、自然にアタマの中に、ふるさとの人びとと風光を至上のものにする思いができ上がる。私は、
「ビール」
 と告げ、
「店、うまくいってるの」
 末子は突き出しのピーナッツの小皿を二つ置き、ビール瓶の口を差し出した。
「まあまあです。五月に開げたばりだすけ、フリの客があんまりこねんだ。気長にやるじゃ。ビールでも、ウィスキーでも、好きなだけ飲んで」
「ぼくは弱いから、あとは薄い水割りで」
「俺はロック」
 末子は新しいボトルを探したり、氷を作ったり、人参スティックを削ったりしながら、しばらく無言で動き回った。チラリと下半身が見えた。象でない!
「四戸さん、痩せた?」
「中野のキューピーで、朝から晩まで歩き回って働いたすけ。会社のバレー部にも入ってた。補欠だったけど。十キロも痩せた」
 注文してもいないのに、人参スティック、柿種、チーズまで出る。
「神無月くん、ますますきれいになったニシ。東大で大活躍してるツケ。プロ野球の人もいろいろ動いてるって新聞に載ってた。ぜんぶ切り抜いて持ってるよ。東京にいるときから二年分だすけ、五冊にもなった。……オラみてにいつも地べたを這いずり回ってる人間には、もう雲の上の人だねェ」
 手の甲を指先でこすってさびしそうにした。
「マスコミに名が売れたってだけのことだよ。有名人とは付き合ってないし、これからも付き合わない。雲の上を馬鹿にしてるから……。東大はつまらない大学だけど、プロにいくまでは居座るつもりだ」
 よしのりの目が輝いた。
「現実の話なんだなァ……プロ野球か」
「ああ、来年か、再来年。それまで野球をやりながら、のんびり学生の身分でいるよ。おふくろの横槍が入らないかぎりね」
「入ったら?」
「運を天にまかせる。もともと野球は運よく天から降ってきたものだからね」
 末子がレジに走っていき、
「毎度ありがとうございます」
 と明るい声を上げた。年配の二人の客が会計をして去った。さっきまで何度かこちらを物欲しげに見ていたが、結局声をかけてこなかった。末子はスティックで二つのグラスを掻き回しながら、
「三年一組にいたときと同じだね。神無月くんは静かな人だニシ。よく浜さ散歩にきたとき、遇ったニシ。いっつも、神無月くんがこねがなって、外さ出て待ってたんだ。何回かに一回遇えた」
 涙を浮かべた目で私を見つめる。あのころより、ますます節子に似てきていた。豊頬の目が吊っている。
「ふうん、四戸は、神無月が好きだったのか」
「……うん。いまも好ぎだ」
 末子は真赤になった。
「神無月は麗しい根性には応えるよ。今夜抱いてもらえばいい」
「……そったらこど」
 赤い頬から血の気が退いた。
「好きな男に抱かれたくないのか」
「そったら、夢みてな……」
 抱く気などなかった。息抜きに帰ってきたふるさとでうるさい人間関係を作りたくない。


         九十二 

 何分もしないうちにまた二人の客が入ってきた。いちばん端のカウンターに二人並んで坐った。一人は知らない顔だったが、一人に見覚えがあった。
「おんやァ、神無月でねが」
 おしぼりで顔を拭いながら声をかけてきた。よしのりが小声で、田島鉄工だ、と言った。
「高校三年生か―」
 田島が聞きとがめた。
「あん?」
「きみ、歌がうまかっただろう」
 私をジロリと見て、
「歌はやめだ。NHK喉自慢全国大会で優勝したばって、プロの道は厳しいんだでば。金とコネがねばダメだ。あとはツラな。おめみてに派手なツラでねばダメだ。結局はただの旋盤屋よ。まだ声は出るど。唄って聴かすが?」
「聴きたいな。高校三年生」
「一杯飲んでがらな。ンガ、東大さいったツケ。大学野球の記録も作ったツケ。大したもんだじゃ。あとにも先にも、そたら男は野辺地から一人だべおん」
「ンだ、ンだ。神無月、オラ憶えでらが?」
 もう一人の男が、後ろにからだを傾けて、田島の陰からこちらを見ながら言った。黙っていると、
「おめが熊谷と金沢で喧嘩したとぎ、ワもそごさいたんだ。おめの背中ぶったくった」
「憶えてるはずないよ。夢中だったから。熊谷はどうしてる?」
「地廻りしてら。いっぱしのヤクザよ。ときどきおめのこど思い出して、ビョッとしゃべることがあら」
「だば、歌、いぐど」
 田島が唄いだした。とんでもない声量で一番を唄い切った。記憶していたほどではなかった。声質が林や山口よりはるかに劣っていた。しかし、私は盛んに拍手した。よしのりがまた小声で言った。
「うまいだけだ。沁みてこない」
 末子が、
「初めて田島さんの声聴いた。でっけ声だな。うだで、うめじゃ」
 田島は彼女のついだビールをうまそうにあおった。それきり店はシンとなった。彼らと交わす会話などない。彼らは内輪の話に落ちていった。私は末子に話しかけた。
「奥山先生はどうしてるかな」
「元気にしてら。社会科の中村先生は教頭になった」
「ボッケやガマは?」
「ボッケさんは三沢商業出てがら、東京で修業して戻ってきて、家継いだ。ひよこ饅頭ってのを発明して、大した繁盛してら」
「ボッケが発明したの?」
「そんだツケ。ガマさんは、左官の腕つけて東京から養子先さ戻って、会社立ち上げようとして一所懸命やってら。四郎さん連れて、ときどき飲みにくる」
「四郎か! 彼は野球やってないの?」
 端の席から田島が、
「おめにくらべたら、あったらのは提灯に釣鐘だべ。野辺地駅で切符切ってら。会わねがったか?」
「会わなかった」
 よしのりが小声で、
「みんな生まれた場所にがんじがらめだな。田島もあのとおりだし、岡田はパン屋、赤泊は材木屋、四郎もガマも―」
 私はよしのりを目でさえぎり、
「静かで幸せな人生じゃないか」
「神無月、社交辞令はやめろ。それで幸せな人間がいるはずがないだろう」
 勘定、と言って田島たちが腰を上げた。
「神無月、またな。合船場に泊まってるんだべ」
「きょうは馬門、あしたは合船場に泊まる」
「ジジババによろしぐな。ババちゃのほうはしょっちゅうオラんどさきて、おめの自慢ばりしてら。今度も、おめの帰ったあとがたいへんだこだ。野球ケッパレじゃ」
 彼らが出ていくと、また店に静けさが訪れた。よしのりが末子に、
「きょうは早じまいにしたらどうだ。神無月はもうしばらくこない。俺はセツの店で飲む」
 末子は頬をますます赤らめ、
「ンだね、閉める。……信じられねほどうれしいけど、神無月くん、ほんとにいいの」
 私はうなずき、
「家まで送ってくよ。海岸をデートしよう。ぼくも四戸さんのこと好きだったからね。ぶらぶら歩こう。海を見ておきたい」
「はい!」
「うちの人は?」
「とっくに寝でる」
「ゆっくり歩けるね」
「じゃ、神無月、俺はセツのスナックで飲んで時間をつぶしてるから。カイコウって店だ」
 末子に一万円渡そうとすると、
「いらね。やっと会えたんだすけ。うれしいのがゼロになってしまる」
 末子が表のスタンド看板を消すのを手伝ってから、私たちは味噌屋の通りから金沢海岸のほうへ歩いた。黄色い月が出ている。石浜伝いに汀に出る。あのころよくきた突堤の先へ進んでいく。
「この突堤(ちっこ)でよくよしのりと話をした。……ボンヤリ不安だったころだ。でもハッピーエンドになって、もうボンヤリも消えた」
 末子は黙って聴いている。
「いや、まだハッピーエンドになってない。少しばかりの人にすがって生きるという決意ができたから、ボンヤリは消えそうなものだけど、なかなかね」
「気持ぢが決まったのに、不安でボンヤリというのはどたらことだべ」
「人間は、自分を見かぎっている人間と、見かぎっていない人間と、その二種類しかいない。自分を見かぎっていない人間は圧倒的多数派だ。他人を愛せる人間は、自分を見かぎっている人間で、この世に一握りしかいない。ぼくはその一握りの人びとの愛にすがって生きるしかない。ぼくのせいで自分を見かぎらせている……それがボンヤリした不安のもとだ。他人を不幸にして手にした幸運にすがるしかない」
 腰を下ろして黒い海を眺める。波に月の光が映る。背後に足音がして私たちの肩口に近づいた。
「やっぱりツヤっぽい話をしないで、くだらない哲学やってるな」
 よしのりだった。
「四戸がかわいそうだろ」
「そんな、あだし、うれしいです」
「ふん、なるほどな、俺も自分を見かぎってる。しかし、自分を見かぎるのは不幸じゃないんだ。神無月郷という数少ない一人に会わなかったら、いまの俺のシアワセはなかった。あれから四年か。みっちり中身の詰まった四年だった。光陰なんとやらじゃない。なかなか過ぎていかない」
「ああ、いろいろあったからね。長かった。もういいって感じることもあった。……ぼくも徹底的に救われてきた。それがなければ、ぼくは蘇生しなかった。いまも、救われっぱなしだ」
「俺も救った一人か」
「もちろん」
「そう言ってもらえるとうれしいが、おまえに感謝されるのは俺のシアワセじゃない。おまえに振り回されて、おたおた生活を送るのが俺のシアワセなんだよ。何も考えない静かなシアワセなんて、自分を見かぎれないやつの理想だろ。クソでも食らえだ」
「……ぼくもこのまま、よしのりのようにせいぜい振り回されて生きていたい。よきにつけ悪しきにつけ、これまでもそうやって生きてきたからね。これからもそうやって生きていこうと思ってる。よしのりの言うように、それがぼくみたいな、自分を見かぎってる人間の幸福なんだろうな」
「神無月!」
「なんだ」
「おまえが生きてるかぎり、俺は生きてるからな」
「女たちもそう言ってる」
「女どもといっしょにするな。俺は、俺は……」
 泣きだしたので、私はよしのりの肩を抱き寄せた。末子もびっくりして、私の背中に手を置いた。
「よしのりは情愛の深い男だね。義侠にあこがれてるんだね。たしかに義侠こそ人間の真実だと思う。でも―真実を語るのはただ機知なき者のみ。よしのりは機知のかたまりじゃないか。義理や人情こそクソ食らえで、あっけらかんと生きてほしいな」
 よしのりは私の言葉に何か応えようとしたが、はぐらかされたと誤解して傷ついたようだった。涙を流したまま、
「おまえってやつは……だから好きなんだけどさ。とにかく、俺はお前が生きてるかぎり生きてるよ。死なないかぎり死なない」
 私はどうにもがまんしきれなくなって、ふいに落涙した。
「どうもわからないみたいだな。ぼくとおまえは、はっきりちがった人間なんだよ。義侠というのは死んだ人間の道だ。ぼくやカズちゃんや寺田康男や山口は死んでる。同じ側の人間だ。おまえは生きてる。ぼくは生きた人間にもやさしくできるけど、死んだ人間としか生きられない。ぼくに友情を感じてくれてるあいだだけそばにいてくれればいい。いっしょに死ぬ必要はない」
 四戸末子が、
「何か、うだでぐ深け話みてだけんど、ふたりのしゃべってるこど、なんもオラにはわがんね。たんだ、神無月くんと付き合ったら、みんな横山くんみてになると思う。それだけはわがる。オラも、四年間、どったらとぎも、ずっと神無月くんのこど忘れられなかったすけ。卒業写真の神無月くんのとごだけ引き延ばして、箪笥の上に飾ってら。きょう逢えたのは、そのご利益だと思ってる」
 よしのりは驚いて、涙に濡れた目で末子を見つめ、
「神無月、一度でいいから四戸を抱いてやれ。……俺がどっち側の人間かなんてどうでもいい。おまえが何と言おうと、俺はおまえと生き死にを共にする」
 と鼻声で言った。
         †
 郵便局の角でよしのりと別れると、末子と二人で野辺地駅のほうまで引き返した。
「ほんとだべか、神無月くんと……」
「ぼくも信じられないよ」
 鳴海旅館の玄関の戸がカラリと開いた。美しいふくらはぎの末子が式台の前に立ち、ものめずらしそうに目を輝かせた。自分で〈ふつう〉だと言うほどもスレていないとわかった。奥の帳場から出てきた中年の女がうなずき、何も言わずに先に立って階段を昇った。女は案内を終わるとすぐに去った。二階は三室きりで、すでに灯りを薄くした一室に蒲団が延べてあった。末子はびっくりしたように見つめた。
「こういうところ、初めてなんだね」
 こくりとうなずく。壁に接してソファがあったので、私は腰を下ろした。向かい壁に小さなカラーテレビが置いてある。末子が私に遠慮がちに並びかけ、うつむいた。肩が細かくふるえている。私はふるえる肩を抱き寄せ、唇を吸った。末子はあえぎながら両腕を垂らしてぎこちなく唇を動かした。やがて濡れた口の中から舌が伸びてきた。そうしなければならないと教えられて覚えた作法だろう。いじらしかった。私はその舌を大胆に吸った。末子は大きくふるえた。股間に手をやった。下着がしっとり濡れていた。スカートをまくり、臍からパンティへ手を差し入れて、湯溜まりの溝を探った。指先がクリトリスに触れた。吸いついていた唇が、細い息を吐いて離れた。しっかり腿を閉じる。
「処女でねくて、ごめんね」
「ぼくも童貞じゃないよ。おあいこだ」
「ありがと。……末子って呼んでけんだ」
「末子―」
「はい」
 蒲団に横たえ、服をぜんぶ剥ぎ取ると、吉永先生のような堅肥りのころりとしたからだが出てきた。象の下半身が、絵画に描かれるようなヴィーナスに改造されている。縦長の柔らかそうな陰毛だ。臍も縦長だ。高い腰の位置が目立った。陰毛をさすりながら、
「きれいだ」
「ああ、恥ずかし……」
 私も全裸になり末子の顔の脇で立て膝をした。末子はしばらく私を見ないようにしていたが、恐るおそる顔を振り向け、
「……あ、神無月くんのカモ……おいや、アダマが……どしたの、腫れてるでば」
「腫れてるんじゃないよ。こういう形なんだ」
「……よく見せてけんだ」
 少女の表情に戻った目もとが赤らんでいる。少しも浅ましい感じがしない。握ったり裏返したりしながら検討している。早急に私の隅々を知りたいのだ。
「信じられね。こたらのまで格好いぐ、愛(め)んこくできてる」
 半勃ちのものを愛しそうに両手で包んで含んだ。舌がキスよりも滑らかに動く。これこそ、二人の男に作法として教えこまれたのにちがいない。キスよりも性技。哀れな男関係が偲ばれた。
「ああ、神無月くんの……オラの口さ入(へ)ってる。夢でねべか」
「末子のも見せて」
「風呂さ入(へ)ってくる」
「余計なことだ。末子のにおいが消えてしまう」


         九十三

 末子は遠慮がちに股を拡げた。左右対称な長くて黒い小陰唇がまず目にきた。それを開いた。色濃い前庭だ。割れ目のいただきの大きな突起をまじまじと見つめた。見ているだけで末子の呼吸が乱れてきた。
「恥ずかし。やんだ。おがしぐなってしまる」
 言い終わらないうちに突起に唇を当てた。ためらわずに舌を使う。
「ああ、気持ぢいい、神無月くん、オラ神無月くんのこと、ずっと、ずっと好ぎだったんだよ。初めて見たとぎから、ずっと好ぎだったんだよ。好ぎで、好ぎで……ああ、気持ぢいい、ああ、恥ずかし、もう、イキそんだ、どうすべ、どうすべ、ああ、イ……」
 突起を吸い上げた。
「あ、ああ、イグじゃ、イグイグイグ!」
 スッと尻を引いて、それから腹を突き出し、股を開いたまま強く硬直した。反射的に何度も跳ね上がる。私は自分がいつのまにか完全に可能になっているのを不思議に思いながら、躊躇せずに挿入した。
「神無月くん!」
 弱く膣が締まった。抽送をはじめる。下腹を見下ろすと、黒い小陰唇が私のものにまとわりついて、引きこまれ、まくれて出てくる。それがだんだん固く縮んで、引きこまれずに外へ開いていく。ゆるい膣の壁が迫ってきて脈動し、気をやる直前のふるえが始まる。ようやく膣の内部に、カズちゃんたちと慣れ親しんできた感覚がうごめいた。
「あ、ああ、イグじゃ……」
 末子の上半身が起き上がり、頭が低くやってきて、額の温もりが私の額に触れた。気持ちだけで早急にやってきた強い快感だとわかった。きちんと達していない。背中を丸めていたからだが伸びはじめる。
 横臥させて彼女の片脚を抱え、後ろから挿し入れる。
「あああ、いい、神無月くん、いい……」
 カズちゃんたちと異なった女体への好奇心が湧いたからではなく、私は愛しさから腰を動かした。
「あ、あ、おがしぐなってまる、おがしぐなってまる」
 末子に新しい悦びを与えたいと言う気持ちで頭がいっぱいで、まったく快美感は募ってこない。末子はむこう向きに首を折った格好で高潮の訪れを待っている。膣がゆるやかに脈動を始める。もうすぐ達するという合図だ。そしてきっと、その経験の浅さから、絶頂の度合いもあまり激しくないことを彼女のからだが知っている。それを越えなければならない。私はなぜか和んだ気持ちになった。こういうからだには、射精を焦らずに甘えられる。手を尽くしながら甘えよう。
 性器を引き抜き、四つん這いにさせる。乳房に指を突きたてるようにして揉みながら、もう一方の手でクリトリスを愛撫する。ときどきその指を滑らせて膣へもぐりこませ、壁の動きを確かめる。それをやさしく丁寧に繰り返しているうちに、末子は達しようとする態勢で尻に力をこめた。尻が高く突き出された。二つの乳房を愛撫しながら、ふたたび私は挿入する。抽送しながらさらに腰が浮いてくるのを待つ。
「ああ、イグよ、神無月くん、イグよ、イグよ、イグ、イグ、イッグ!」
 快楽の発語に反して、これほど柔らかに達する女を経験したことがなかった。浮いた尻を両手で支え、抽送を激しくする。
「うれしい! ああ、イグ、イグー! あ、あ、何回もイグ、イグ、イッグ! もうだめだ、もうだめだ、あーイッグ! クククク、イッグー!」
 それからも末子は、だめだ、だめだと言いながら十回以上も気をやった。自分も達しなければこの女を侮辱したことになる。そんな焦りを感じているうちに、ようやく私にも解放の気配がやってきた。
「末子、イキそうだよ」
「うれしい! 出してけんだ、ああ、プーッと大っきぐなってきた、うれしい、イッてけんだ、イッて、ああ、ワもまたイグ、好ぎだ、神無月くん、好ぎだ、たくさんけろ、たくさん出してけろ、ああ、イグ、イグ、イグ、あああ神無月くーん、好ぎだァ、イッググウウウ!」
 私は硬く収縮する尻を引き寄せ、精気を残らず吐き出した。動物的な生活を送ることで自然に目覚めた私の本能が、いつもこの瞬間、目の下の女の存在を危険なもの、不吉なものと感じてきたけれども、いまはちがった。痙攣が止むと末子は、精液を洩らさないように大切そうに私から離れ、からだを仰向けに戻し、見上げてにっこり笑った。頬に涙の跡がある。
「忘れたことねがったよ。好ぎだ男に、やっと抱かれた。初めて抱かれた。マンジュウも初めて気持ぢよぐなった。うれしくて、死にそうだじゃ」
 私も横たわった。末子の涙を指で拭いながら、達成の大きな悦びがやってきた。
「神無月くん、ほんとうにありがと。オラと寝たことは、だれにも言わねでけんだ。自分だげの思い出にしたいすけ」
「うん。でもこれを一生の思い出にはしないよ。もし野辺地にくることがあったら、また逢おうね」
「うれし……」
「店が繁盛することを祈ってる。末子の才覚なら、もっと大きな店を出しても成功するよ。田島鉄工の扱い方なんか、大したものだった」
「才覚ってほどのものでもねよ。神無月くんにはわがんね平凡な人間の平凡な道だず。ほとんどの人がたどる道だず。神無月くんには、はなばなしい道を歩ってほしい。いっつも応援してるがら」
「はなばなしい道って、どういう道なのかなあ。送っていくよ。もう一度、海まで歩こう。歌を唄ってあげる」
「はい!」
「それから、そんなに大切にぼくの精液をからだの中にしまっておくことはないよ。お風呂で洗ってしまいなよ」
「そたらこどでぎね」
「妊娠したいの?」
「きょうは妊娠しね。腹さしばらぐしまっておきてんだ」
 末子はそのままパンティを穿くと、身仕舞いをした。私は短い時間でシャワーを使って性器を洗った。
 玄関に下りると、二人の靴が揃えてあった。帳場で女に休憩代を払った。女は無表情に紙幣を受け取った。私に視線を向けようとしないことで、正体が知れているのではないかと疑ったが、道行く人びとの反応や、タクシー運転手の反応や、田島鉄工のそれから、この町で私の顔を一目見て正体がわかる人間は、よほど私と親しくした経験がないかぎりまずいないと確信できた。映画やテレビの俳優だけが、田舎の有名人なのだ。
 灯りの気配のない合船場を過ぎて、けいこちゃんの踏切を渡り、海へ下っていった。
「合船場のお祖父さんお祖母さんには、あした会うんですか」
「そう。高校二年生の夏以来。……冷たい孫だ」
「身内の都合に合わせては生きられねすけ。中学のとき、あんなにたくさんいっしょにいてあげたんでねの。もういいべ。神無月くんは上さ昇ってしまったんだ。人のことをかまってる暇はね。こうやって帰ってきただけで、じゅうぶんだ」
「彼らにはよく会う?」
「あんまり会わね。五十嵐市場でときどき見かける。神無月くんのお祖母さんは、雪の降らね季節は、浜で帆立貝の紐通しの仕事してるこった。合船場のお祖父さんはブルジョアだすけ働かなくてもいいたって、お祖母さんは働きづめだって、オラ家(え)のかっちゃがへってらった」
「ブルジョアか、たしかにね。……あした一泊して帰る」
 金沢海岸に出た。ところどころ敷きつめられた帆立貝が、月明かりに光っている。砂浜に寄っていく。
「股がベトベトしない?」
「する。神無月くんを感じる」
「パンツがゴワゴワになるよ」
「あしたちゃんと洗う。もったいねけんど」
 海に目を向ける。末子は私の横に立ち、
「神無月くんて、なんだかさびしくて、せづね。……そばにいきてなと思う。したら、ワも神無月くんもさびし思いしねですむ。けんど、ワが働がねば家さ金入れられね。貧乏だすけ、働がねわげにはいがねんだ」
「だいじょうぶだよ。ぼくはすばらしい女たちに囲まれてる。末子と同じようないい女たちばかりだ。さびしくない。ぼくがふつうの男なら、末子とはこれっきりだろうね。それじゃ末子を幸せにしてやれない。ぼくに触れた人間が不幸になれば、せっかく幸福に暮らしていたぼくも不幸になる。これからは、野辺地に帰ってくるたびに末子に逢う。じっちゃばっちゃのことも、もっと考えることにする。遠く離れていることがどんなにさびしいことか、末子のおかげでよくわかった。ありがとう」
 末子は私に抱きついて唇を求めた。心をこめて吸った。
「いつも、いつも、待ってる」
「末子のことを女たちに話す。末子は、ぼくの好みの女だ。彼女たちは、ぼくの好みの女にはやさしい。さ、唄うよ。唄ったら、帰ろう。長谷川きよしの『歩きつづけて』という曲を唄うね」
 末子が腕を組んできた。私は汀に沿って歩きだした。

  
歩きつづけて このまま
  どんなことでも その声を聞いていたい
  こんな気持ちで一人になったら
  とてもさびしくて……

  歩きつづけて このまま何も言わずに
  言葉などいまの二人に 何になるだろう
  別れられずに 寄り添う心に
  愛が通うだけ

  水銀灯の光に 二つの影が淡く浮かぶ
  二人はふと立ち止まり
  熱い口づけを交わす
  別れのときがきたって
  握りしめてるこの手は 離したくない

  思いつづけて いつでも変わることなく
  たまらなくさびしいときも
  抱きしめ合って
  この世の外に 二人で生きる
  その日求めて その日求めて


 末子は腕を離し、私を見上げてたたずんだ。静かな涙を流している。
「悲しい声だニシ。神さまの声だ。……神さまを自分のものにしようとした自分が恥ずかしじゃ。ほかの女の人も、どっかで恥ずかしぐ思ってるべね。神無月くんはだれのものでもね。待ってねばならね人だ。待ってればかならずくる人だ。だすけ、ずっとずっと待ってる」
 笑いかける大きな歯が美しくきらめいた。
「どんな人間もだれのものでもないし、本人のものでさえないよ。心のままに、そばにいること。自分の居場所を捨ててもね。いまの歌のとおり、愛がかよい合えば、心は遠くへいかない。かよわなければ、心は離れて生きる。現実の距離は関係ない」
 四戸末子の家の前に立った。低い、ごろた石を載せたトタン屋根。爪先立てば屋根の面が見えそうなくらいだ。飯場よりも貧しい。一家で働いているのに、どうしてこんなに貧しいのだろう。
「―元気でね。さよなら」
「神無月くんも元気で。さよなら。いっつも待ってるよ」
 板戸を引く背中を見送った。ポニーテールに結っていたことに初めて気づいた。
 けいこちゃんの踏切を過ぎ、暗い合船場の窓を見つめる。かわいそうなじっちゃ、ばっちゃ。二年ぶりに会うというのに、あしたもほんの少ししかいられない。私を待っている女のもとにいかなければならないから。


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