九十四 

 本町から袋町へ曲がりこみ、山田三樹夫の家を過ぎて、海皇を目指す。オレンジ色の大きな置看板がすぐ目についた。ドアを開けると、カウンターの中から厚化粧のゴリラ顔がこちらを振り向いた。
「いらっしゃーい」
 私だと気づいていない。壁に灯りも飾りもない寒々しい店だ。長居しているふうの客が三、四人カウンターの丸椅子に坐り、たった一つのボックス席に五人の客がいる。訛りまる出しで会話している。三年一組の岡田パンと、赤泊材木、あとの二人は、親しくはなかったが見覚えのある顔だった。彼らの中に着物姿のよしのりがいた。あまり飲んでいないようだ。
「おう、きたか。神無月、こいつらは、おまえが話をしてもおもしろくもなんともない田舎成金だ。カウンターで飲んでろ。三十分ぐらいしたら帰ろう」
 また彼らはズーズー弁に戻った。野辺地の産業振興とやらが話題のようだ。よしのりはどんな話題にでもまぎれこめる。私はカウンターに坐った。下腹に違和感がある。末子のやさしい顔を思い浮かべてほのぼのと幸福に浸った。
「ビール」
 百キロもありそうな西舘セツが、コップにビールをつぎ、
「あんた、神無月くん?」
「うん。気づかなかったろ」
「髪伸ばしたんだね。いい男になったニシ。うっとりしてまる。東大三冠王。新聞はおめのことばりだじゃ」
「旬のものだよ。しばらく静かになって、九月にまたやかましくなる。この店、繁盛しているようだね」
「おかげさまで」
「岩みたいな貫禄だ。男たちが飲みにきたくなる理由がわかるよ。安心する」
「永遠の処女だすけな!」
 ボックス席から声がかかる。ドッと笑い声が上がったが、セツは動じることなく、
「大切にしてるんだでば。文句あっか」
「ない、ない」
 また笑いが弾けた。黒い皮付きの硬い干物が出た。
「何、これ」
「カンカイ。コマイともへる。叩いて、毟って食う」
 カウンターに叩きつけ、歯で身を毟り取ろうとしても太刀打ちできない。セツが怪力の指で丁寧にほぐして、マヨネーズを小皿に盛った。七味を振る。つけて食えと言う。カウンターの客が、
「神無月、ワを憶べでるか」
 見たとたんにわかった。瓜実顔の肥後の守だ。
「……キミオくんか」
「キミオくん、てが。くすぐってじゃ。おめ、うだで喧嘩つえかったな」
「馬鹿だったんだ。もうあのエネルギーはないよ。きみはいまどうしてるの」
「熊谷組の三下よ。ミカジメ集めて歩ってら」
「ショバ代か。同級生からも取るの?」
「仕方ねべや。組の軍資金だすけ。この店と、セツのかっちゃの店は半額だどもな。一万円。三万も出させる店もあるんで。だば、仕事が残ってるはんで、いぐじゃ。熊谷に伝えとぐ。野辺地で困ったことあったら、熊谷に頼め。助けてくれるこった。おめのこど尊敬してるすけ」
 ご苦労さまでした、とセツが言った。背中がドアを出たとたんに、
「出世しねな、キミオも。ヤクザするしかねたって、気が弱えものな」
 ボックス席のだれかが言った。セツが、
「神無月くんにぶったくられて、ツラつぶしたんだおん。スーパーマンにやられても、恥でねのにせ」
「ぼくはスーパーマンか」
「だべせ。勉強一番で、喧嘩が強くて、女にもてて」
「女に?」
「おうよ。みんなあこがれてたんで。安部のリッちゃんだべ、添野道子だべ、小川スズだべ、田村久子だべ」
 一人の名前も顔も記憶になかった。マヨネーズをつけてカンカイをつまんだ。噛むほどにうま味が滲み出てきた。
「うまいもんだね、これ」
「ワもうめよ。神無月くん。試してみねが? うまがったらあんたの女にしてけろ」
「男を女にするのが! 無理だべ」
 爆竹のような笑いが上がった。
「マンジュウあるのが。見せてみろじゃ」
 なんだかセツがかわいそうになってきた。よしのりがその気持ちを一瞬に察して、
「神無月、バカな気を起こすなよ。セツの面倒を一生見ることになるぞ」
「ワが神無月くんの面倒見るすけ、いがべ」
 私がほとほと困った顔をすると、セツはビールをつぎながら、
「冗談だ、神無月くん、冗談。かんべん。あんまりいい男だすけ、フラッとなってまったのよ。毎年、二月に同窓会やってんだわ。二次会がいっつもこの店だ。気が向いたら、たまに顔出してけんだ」
「うん、わかった。女を連れてくるよ」
「神無月くんの女、見てみてじゃ。お姫さまだべな」
「目がつぶれるぞ!」
 よしのりが叫んだ。
「お姫さまっていえば、きれいなイツミちゃん、どうしてる?」
「東京の大学さいった。たまに帰ってるみてだ。同窓会には一度も出たことがね。お高くとまってんだ。おめ、四戸の末ちゃん好きだったべ」
「感じいい子だったね」
「いま、空き家だず」
「興味ないね。東京の女で手いっぱいだ」
 よしのりが立ち上がった。
「神無月、いこう。あしたが早い」
 男たちと握手している。都会からきたというだけで人気者なのだ。割り勘だろ、と言って飲み代を払った。
「同窓会、忘れねでね。毎年やってるすけ、いつでも連絡してけんだ」
 私はセツの四角い大きな顔に片手を上げた。男たちは挨拶してこなかった。岡田パンも赤泊も、じっとこちらを見ているだけだった。もう二人の男は、結局だれだかわからなかった。
「嫉妬よ、嫉妬」
「野辺地に自慢話をしにきたわけじゃないんだ。なつかしけりゃそれでいい」
「錦の御旗を遠くから眺めるだけで、沿道にも立たん」
「自分は生きてるけど、他人は死んで存在するだけだ―そう見るのがふつうだ。生きた人間が死者を観察するわけがないだろう。自分が死んでれば生者は見える。生者に死者はぜったい見えない」
「俺たちは死んでるのか」
「さっきも言ったろう。おまえは生きてる。ぼくは死んでる。ものが見えるというのはそういうことだ。自分の生を主張できないから、他人の生を観察することになる」
「自分も相手も生きてるときは?」
「きょうの海皇だ。尊重し合ってるように見えて、和気藹々ともたれ合ってるだけだ。生きてる安心感があるから、軽口叩いてけなし合う」
「両方死んでたら?」
「寄り添って愛し合う」
「四戸は死んでたか」
「立派にね」
「……こうやって口を利き合うのは生きた者同士だからだぜ。死んでるってのは言葉のアヤだろ?」
「もちろんからだは生きてる。死んでるのは自己愛だ。相手に愛を注げるのは、死んでる者だけだ」
 縦貫タクシーに寄って車を一台出してもらう。長袖のポロシャツ姿の男が車を回してきた。乗りこみ、よしのりが馬門の冨士屋と告げる。
「お!」
 運転席のバックミラーを見た男が声を上げた。
「あんた……」
 男が振り向いた。
「あ! あのときの運転手さん。たしか、清川さんでしたよね」
「憶えていてくれたか」
「まだ縦貫にいたんですね」
「ああ、野辺地で転職もないだろうからね。しかし、ひさしぶりだなあ。大した男前になった。あのころも美男子だったけどさ。あれからどうしてたの」
 車を走らせはじめる。背中に言った。
「青高から名古屋の高校に転校して、いまは大学生です」
「大学か! アダマいがったものなあ」
 この人は世間に疎い。たぶん新聞や週刊誌の類は読まず、テレビもあまり観ないだろう。ホッとした。
「足の調子はどうですか」
「騙しだましやってるよ。冬場は痛むけどな。そっちのかたは?」
 バックミラーに向けた視線でよしのりを示す。地元の人間ともあまり交流がないようだ。
「新道の横山です。合船場の向かいの」
「ああ、横山さん。常光寺を何往復かしたなあ。いつだったかな」
「オヤジが死んだときでしょ」
「ああ、そうだった」
 よしのりも気持ちよさそうに笑っている。
「この運転手さんは、青森に荷物を運んでくれたんだ。東京で運送屋のトラック乗ってて足の血管を悪くしちゃってね。野辺地中学校の先輩だよ。善司の一つ下」
「ハハハ、ほんとによく憶えてるな」
 よしのりが、
「そりゃたいへんだ。なかなか治らないでしょう」
「治らないね。新道には寄らないの」
「あしたいきます」
「馬門まで迎えにいってあげる。何時に出るの」
「そうですね、じゃ、十時にお願いします」
 ホテルに着くと、もう深夜の二時を回っていた。フロントでまだ風呂に入れるかどうか尋いた。露天は洗い場の清掃が早朝なので、三時まで入れると言う。新しい下着を持って二人で直行した。
 星の多い夜空が頭上にある。性器にしっかり湯をかけ、石鹸で洗っていると、
「やさしくしてやったか」
 よしのりが心配顔で言う。
「うん」
「そうか、よかったな。滝澤節子に似てたな」
「ああ、似てる。こっちにきて、節ちゃんの面影を重ねた唯一の女だ」
 二人で深々と湯に浸かる。だれもいない。
「長く放っておくことになるな」
「かならずくるって約束した。守れるかぎり守る」
「そうか。それで四戸も安心しただろう。箪笥におまえの写真を飾ってる女だからな」
「なんか、貴いものに感謝するって感じだった」
「恵美子は根性なしだから、追いかけてまでっていう熱がない。生活人なんだな」
「責めるわけにはいかないよ。カズちゃんたちみたいなのは、常識にかからないエキセントリックなモノノケだ。愛情というのは、もともと常軌を逸したものなんだ」
 タオルに浸した湯で頭髪をこすり洗う。
「俺さ、子供がほしいんだ。財布に写真入れて歩いて、仕事の励みにしたくてさ。……生活人だな。恵美子のことをどうのこうの言えねえや」
「生きてるんだよ。正常だ」
 部屋に戻ると、よしのりの紙袋から下着を出して、おたがいに着替えた。すでに敷いてある蒲団に入る。
「旅館の蒲団て、なんで薄いんだろうね」
「打ち直ししやすいからじゃないか。いや、押入の出し入れがしやすいからかな。ま、客のことを考えたら商売にならない」 
「あしたはどうする。ぼくは合船場にいくけど。ばっちゃに連れて歩かれるだろうな」
「俺もかっちゃのツラ見にいくよ。オヤジの死に目にしか帰ってきてないからな。一日いてやるさ」
「じっちゃばっちゃならまだしも、おふくろとは到底ムリだな」
「俺だってあのセンセイは御免こうむるぜ」
「康男もよく、おふくろのことをセンセイって言ってたな」
 どんな事情があるにせよ、自分の母親のことを悪く言うのは聞いていて気持ちのいいものではない、と人はよく言うが、それは肉親に虐げられた経験のない幸福な人びとの言うたわごとだ。母の話はそれでやめにした。
「いつかそのヤクザに会わせてくれよ」
「あまり近づくなって言われてる。マスコミに殺されるからって。殺されたほうが、みんなで寄り添って静かに生きられるんだけどね」
「……あさっては、おまえ、青森にいくんだろう。俺は十和田の先輩を訪ねて、むかしの女のところに一泊してくる。ひさしぶりにチンポ活躍だ」
「男がいるだろ、ふつう」
「十中八九な。都合つけさせて逢引きするさ。おまえも一泊してくるだろう」
「うん。あしたはゆっくり鋭気を養う。と言っても、いろいろ歩き回るだろうな」
「じゃ、しあさって二十三日、青森駅で落ち合おう。何時にする」
「三時。グランドホテルのロビー」
「了解」
 すぐに寝息が聞こえはじめた。


         九十五

 七月二十一日日曜日。八時起床。睡眠五時間。陽ざしが淡く暖かい。野辺地湾の見える窓を開け、深呼吸する。白い海だ。八月に入ると、北国の海は人が近づくのを拒むように冷たくなる。もちろん海水浴などもってのほかだ。山口と飛びこんだ海は氷の海だった。
「大浴場にいこう。露天じゃあまり洗えなかった。カランもなかったし。からだじゅう思い切り石鹸使いたい」
「そうだな。さっぱりして出かけるか」
 鶴の湯という暖簾をくぐる。〈の〉が〈乃〉になれば、柴山くんの風呂屋の屋号と同じだ。柴山くん……相変わらず歯笛を吹いているだろうか。ときどき私も思い出したように歯笛を吹く。そしてかならず、柴山くんのことを思い出す。
「俺は汗っかきで、脂性(あぶらしょう)だから、しっかり洗わんといかん」
「ぼくは、頭がそうだ」
「ツヤツヤしてるぞ。俺の髪とは大ちがいだ」
 硬そうな髪をしごいた。背中を流し合う。浴槽の縁に肘をかい、ゆっくり浸かる。
「おまえをよくテレビで観るようになったけど、画面だと、おまえのユニフォーム姿が遠い世界で動いてるようにしか見えない。ここにいる神無月がどうしてもあの姿に重ならない」
「ぼくもグランドにいるときは、架空の世界で動き回ってるような気がする。それをテレビのニュースで観ると、よしのりほど遠くには感じないけど、ホントの自分だとは実感できない。いつか山口が〈化けの皮〉って言ったことがあったけど、剥がされないように苦労しなくちゃいけない皮をかぶってるように感じるんだ。……野球が好きだから、がまんしてる」
 風呂から上がり、広間で朝食。納豆と味噌汁がうまい。ふつうの茶碗に二膳食う。部屋に戻り、もう一度海を眺める。フロントから電話があり、タクシーが待っていると言う。約束を守って清川さんがきてくれたようだ。どんな些細なことでも、生きているあいだ約束を守るのは人間の基本だ。
「佐藤製菓に寄ってください」
「おう、ひよこ饅頭だな」
 有名のようだ。
「中学の同級生がその店の息子なんですよ。彼が開発したと聞きましたけど」
「そうか、友だちとは知らなかった。ありゃうまいぞ。大したもんだ。少し粉っぽい、饅頭というよりは、高級和菓子だ」
 よしのりが、
「俺も一折買ってくわ」
 ボッケ菓子の前に乗りつけた清川さんは、
「料金なしだ。青森の引越しは、お祖母さんが払ってしまったからな。三年越しの借りを返すよ。あしたはどんな予定だ」
「ぼくは青森市へ、よしのりは十和田へいきます」
「野辺地駅まで乗るか」
「二人で町を見物しながら駅まで歩きます」
「そっか。今度きたときは、一杯やりたいな。声をかけてくれよ」
「はい」
「きょう縦貫のオヤジさんに聞いた。大学野球ナンバーワンのバッターだって? ぶったまげたよ。勉強は付録だったのか。この二枚の色紙にサインしてくれ。一枚は、縦貫さんへ、二枚目は、清川さんへって書いてな」
 色紙とマジックペンを差し出す。相変わらずの楷書でサインした。
「これからは新聞読むようにするよ。世間が知らせてくれるから、野球のほうが応援しやすいや。日本一を目指してくれよ。いつか俺と一杯やるの、忘れないでな」
「清川さんは、結婚してますか」
「チョンガーよ。縦貫の社宅暮らしだ。金が貯まると、愛車カローラで全国を旅して歩いてる。全国と言っても西にいくことはない。もっぱら北海道だ。じゃ、元気でな」
「さよなら」
 タクシーはそのまま野辺地駅のほうへ去っていった。
「いい人間しか引き寄せないな、おまえは」
 ボッケ菓子の店内はしゃれた内装になっていた。けっこうな客足だ。アルバイトの高校生らしい女店員が二人立ち働いていた。眼鏡をかけた恰幅のいい女が、ウインドウの中にドンと立って彼女たちの応接の様子を見ている。ボッケの母親だ。
「こんにちは」
「あらら、キョウちゃん、立派になって。銅像建てに帰ってきたのな」
「まさか」
「そっちは、横山のオズカスでねの。ひさしぶりだニシ」
「ひさしぶりってほどでもないよ。オヤジが死んだときに帰ってきたから」
「ンだったな。あの節は、贔屓にしてもらってありがとさん」
「いやいや、俺などただ出席しただけだから。ひよこ饅頭ください」
「はいよ。ちょっと文雄、呼んでくるすけ」
 母親は奥へ引っこんだ。やがて引戸を開けて、手を粉だらけにしたボッケが母親といっしょに出てきた。
「神無月! 天下取ったな」
「まさか」
「取った取った。よしのりもいっしょが」
「いまから合船場にいくところだよ。東京からよしのりと二人できたんだ」
「よしのりは、十和田でなかったのな」
「今年東京に出た。阿佐ヶ谷って町でバーテンやってる」
 私が代弁する。
「ンだな。おめんど、仲いがったもな。悪いな、忙しくしてて」
「お菓子まで発明して、すごいね」
「習ったことの応用よ。ま、多少のオジリナリチー入れてな」
 おどけた顔で自分のこめかみを指差す。
「コーヒーでも飲んでゆっくりしてげ。かっちゃ、コーヒーとひよこ出してやって。だばオラ仕事戻るすけ。ほんだった、毎年二月か三月に、三年一組の同窓会やってるすけ、都合ついたら出てこい。ガマが会長だ」
「わかった、じゃね」
 母親にコーヒーを断り、ひよこ饅頭の折詰を入れた紙袋を持って表に出る。よしのりは一折、私は三折買った。よしのりは小さく舌打ちして、
「商売、商売か。何だかなあ、あのかっちゃも。鎖付きのキン縁かけて、ブルジョア気取りだぜ。いまどきはどいつもこいつも金に目がくらんで、世も末だ」
「生きてるんだよ。生きてると競争したくなる。あこがれが強いと腹が立つ。腹を立てるというのは、彼らと競い合ってる証拠だ」
「あこがれちゃいないよ。軽蔑してるんだ」
「気にならないやつは、軽蔑もしない。少なくとも関心があるということだ。関心が深いと、嫉妬が湧く。……人の出世は放っておけ」
 ひよこ饅頭を入れた紙袋を提げて新道を歩く。郵便局、教頭になった中村マサちゃんの家、体育の立花先生の家、祭りの季節には中二階が太鼓と笛の練習場になる角鹿米店、へんに愛想のいい年増が店番をしているヤジ煙草店、立木に囲まれただれも話題にしたことがない〈名士〉の邸宅、杉山畳店、杉山惣菜店。相変わらず住人は表へ出てこない。行き交うのは見知らぬ人ばかりだ。ランニングをつづけているうちに、日本じゅうどこの町筋もこんなものだとわかってきた。彼らは家の窓から外を窺っていて、人の気配がないとわかると出てくるのだ。まるで虫だ。
「あの豪邸、話題にすらなったことがないね」
「フクシマか。知ってるやつはいないな。大した大百姓で、勲章をたくさん持ってる人物らしいな」
 横山家の静かな玄関。やっぱりだれも出てこない。
「じゃ、あした、出かけるときに寄ってくれ」
「じゃね」
 斜向かいの合船場の戸を引く。外より少しひんやりする土間に踏みこむ。
「ただいま!」
 声をかけて障子を開けた。じっちゃが囲炉裏の上座に坐って煙管を吹かしている。
「どちらさん? ほほ、キョウか!」
 奥の八畳の障子があわただしく開き、ばっちゃが出てくる。
「キョウだてか!」
「長いあいだ、会いにこなくてごめんね」
「夏休みな?」
「うん。でも、あしたの朝帰る。あさってから夏の試験なんだ。それが終わると野球部の合宿。勉強と野球の合間を縫って遊びにきた」
「いっつもほとんど日帰りみてなもんだな。とにかく上がれ」
 うれしさを隠せないじっちゃの下座にあぐらをかく。ばっちゃが私に向かって坐る。じっちゃが目もとをこれ以上ないほどほころばせた。
「おがったでば。しっかりした顔になった。如才なぐ勉強してるが」
「がんばってるよ」
「東大の勉強は難しが?」
「どこにいっても勉強は難しい。それより野球で忙しくて」
「表彰されたが?」
「何の?」
「三冠王獲って、東大を準優勝させたんだべ。種畜場の秀子がここさきて、うれしそうに語ってらった」
「そういうことでは表彰されないよ。プロ野球じゃないんだから。……あと一年、精いっぱいがんばるけど、個人記録が伸びるぐらいで終わりそうだ」
 じっちゃは微笑を収め、
「一年てが。東大が肌さ合わねのな?」
「いままでの学校でいちばん嫌いだ。野球のためにがまんしてる」
「どれほどアダマいぐ生まれついたんだが。衆に属すということが不得手なんだべ」
 おまえはきわだったところもなければ、性格も弱い、これといった才能もない、きわめて平凡な人間だ、と言われれば、たぶんたいていの人間は侮られたと考えて滅入ってしまうだろう。しかし私は、そう言われてようやく生き返ったような気持ちになる。私を一芸しかない人間と見抜いて、それを指摘してくれさえすれば、多芸をてらわないで等身大で生きられる。
「じっちゃ、ばっちゃ、ぼくは二人が大好きだよ。二人もぼくのことが好きだと思う。だから、ぼくの言うことを掛け値なしに信じてほしい。これはいままで人に何十回となく言ってきたことで、そしてやさしく笑われて、謙虚な言葉として受け流されてきたことだけど、ぼくは、野球以外の成功はぜんぶマグレなんだよ。運なんだ。運も実力のうち、とよく言うけど、それはほんとに実力のある人に対して失礼だ。運は運、それこそ謙虚に素直に認めなくちゃいけない。どうもぼくは、ぼんやり、人の愛情を感じながら、考えたり、本を読んだりして生きるのがいちばん性に合ってるようなんだ。じっちゃがよく言う桜狩するような気分でね。―野球で身を立てようと思ってる。それで生きていこうと思ってる。みんなもうれしいし、もちろんぼく自身もうれしいことだからね。でも、ふとしたときに、机に戻りたくなる。学問や勉強のためじゃなく、本を読んだり、思いついた文章を書いてみたり、それに手を入れてみたりして、時間に縛られずにボーッとものを考えたくなるんだ。そういうことについては、自分が満足を感じるだけのことで、能があるわけじゃない。小さいころ、机に向かいたいなんて一度も思ったことはなかったからね。たとえ能がないとしても、無能なことに努力しながら、能のある野球で息抜きをするという生活が理想に思えるんだ」
 じっちゃは莞爾と笑って、
「こったら孫が合船場に生まれてきたもんだってが。うだでな変り者だな。野球以外はマグレだてか。ウハハハ、東大にいたくねんだべ。まあ、野球しながら、東大を遊び場にすればいいんでねが。それでもやめたくなったら、やめればいがいに。おめは、東大をやめて価値がねェという人間でねんだすけな。おめが学問に向いてねこどは、とっくにわがってたじゃ。世の中なんど雑学でどうにでもなるすけな。学問はそうはいがね。おめは、ものの理屈をこつこつ積み上げていげね人間だ。アダマの仕組みは上等に作られてるたって、その仕組みを使って、やれナンタラ学だ、やれカンタラ学だて、味のね理屈をこね回すのが得手でねんだべ。野球も、モノ書ぐのも、みっしり、からだとアダマを使う。理屈に味がある。好ぎにしろ。オラんどだば、もう何ほども生ぎられね。おめが好ぎだように生ぎるのを見て、おもしろおがしぐ死んでいきてじゃ」


         九十六

 ばっちゃは茶をいれながら、
「郷が何しゃべってんだがよくわがねけんど、青高も東大もマグレでねべ」
「ばっちゃ、雑学程度でどうにかなるものは、ぜんぶマグレなんだよ。これまでぼくのマグレにいちいち喜んでくれたことに、ほんとに感謝してる。これからは、暇を見つけて帰ってくるからね。ぼくはいまたくさんの女の人と付き合ってるから、こっちに帰るときはだれかを連れてくるけど、みんな、じっちゃやばっちゃにやさしくするよ。そういう女たちなんだ。ぼく一人よりはずっと楽しいはずだ。大勢連れてくることもあるかもしれない」
 ばっちゃが腰を屈めて笑って、
「何人でも連れてこい。寿命が延びそんだ」
「ばっちゃ、気散じ程度に貝通しの日傭(ひよう)取りにいくのはいいけど、そのくらいの生活費、毎月ぼくが送るよ。学費免除を受けてるし、野球にかかる費用は東大が出すし、女たちも定期的に援助してくれるし、おふくろの会社の社員たちも義捐金みたいなものを送ってよこすから、お金がたまって仕方がないんだ。毎月二人に三万ずつでも送らせてほしい。ここに、十万ずつ持ってきた。断らないでよ。九月までの分だと思ってね。貯金しとくなんて言わないで、ちゃんと使ってよ。十月からもきちんきちんと送るから、安心して」
 立っていって二人の老人に封筒を手渡した。じっちゃが、
「どれほど金が貯まっても、贅沢しねんだ。贅沢の習慣は勢いがつぐからな。贅沢しねでいられなくなるんだ。人に金をくれてやるのも贅沢だ。たんだ、これは受け取らねば、わざわざ金持ってきたおめの気持ちの収拾がつかねべ。ありがたぐ受け取っておぐじゃ。この先、こったらことはするな。自分で好きだように使うんだ」
「うん―」
 私は、打ち克ちがたいと世間で言われている奢侈の力を信じていなかったので、じっちゃのむかしながらのまじめな言い回しを、心の中で感謝しつつ、嗤った。私も、私を愛してくれる女たちも贅沢を拒まず、むしろ好むくらいだけれど、けっしてそれに溺れることはない。じっちゃが膝もとに封筒を置くと、ばっちゃも同じようにした。
「金が集まるのは、おめの人徳だべ。その徳をおらんどに分ける必要はね。とにかぐ、これっきりにしろ。……かっちゃは金送ってよこさねのな」
「一円も」
「……そんだが。どうしようもねな。おめの徳に甘えて、親の仕事を忘れたんだべ。いい死に方しねな。おめに集まる金は、おめが使え。おめは気が向いたとぎに遊びにくるだげでいい。なんも気使うな」
 ばっちゃが仏像のように微笑んで、
「オラんどを親だと思ったころがあったべ。いつまでもあのころの気持ぢでいろ。親には孝行しても、不孝してもいんだ。たまに顔見せれば、親はうれしんだ。スミのことは勘弁してけろ。東大さいがねば野球でぎながった理由は、新聞読んでわがった。東大からプロさいぐとぎじゃまされたら、オラんどが親になってプロと掛け合ってやる」
「もうだいじょうぶだよ。おふくろには、ほしいものがなくなった。これからはいっさいじゃましてこないと思う。もともとおふくろには、ぼくをいじめてるという意識はないんだと思う。本能的なものなんだよ。本能的に気に食わない人間て、まちがいなくいるものなんだよ。いじめる意識があるなら、じっちゃやばっちゃが腹を立てるのも当然だという気がするけど、本能だと思えば見逃せるでしょ。ボッケの店でひよこ饅頭買ってきた。どんなものか食べてみようよ」
 紙袋を押しやる。ひととき、近所の人たちの噂話になって場が和んだ。清川さんが表現したとおりの粉っぽい菓子を食いながら、道で往き遇うことのない人びとについての話に相槌を打つ。
「じっちゃは、明治何年生まれ?」
「二十六年」
「一八九三年か。いま七十五歳だね。ばっちゃは?」
「三十年」
「一八九九年。六十九歳か。おふくろは大正十一年、一九二二年生まれだから、じっちゃが二十九、ばっちゃが二十三のときの子だ」
 ようやく二人の正確な年齢がわかった。母がいま四十六歳で、文江さんより三つも年下であることにあらためて驚いた。母はあまりにも早く女をやめてしまったのだ。三十半ばでの、あの浅間下の崖の男とのロマンスは、彼女にほんのいっとき性のなつかしい香りを嗅がせて吹き過ぎた風だった。
「末子(ばっし)の善夫を四十二で産むまで、二十歳(はだち)から八人の子をなしたじゃ。長女は赤ンボのうぢに死んだ」
 深く思うところがあった。それは、じっちゃとばっちゃが、かつては相思相愛の仲だったということだった。八人の子をなすためには、それに百倍する情を交わさなければならない。男女の肉体的な機微に関しては、知り抜いているだろう。それは母とはまったく異なる人間的な長所だった。私は彼らを身近に感じた。
 それからばっちゃは一時間のあまり、煎餅の行商時代の話をした。椙子叔母や君子叔母がよく働いたことや、雪の中の行商はつらかったなどという一度聞いた話を、飽きずに繰り返した。じっちゃは海軍時代の上官の厳しさや、水夫仲間の交友の温かさについての話を、これも飽きずにした。私は彼らのきらめく思い出を、ほとんど子守唄を聴くような気持ちで聴いた。じっちゃは入れ歯の具合が悪いのか、しきりに上下の奥歯をこすり合わせるような仕草をしていた。きっと十万円が役立つだろうと思った。
 話が途切れると、ばっちゃが、
「浜さいぐべ」
 と立ち上がった。ひよこ饅頭の紙袋を持った。じっちゃは苦笑いをした。
 私と並んで歩くばっちゃの腰は曲がっていない。焦げ茶の簡易着物に下駄。内股でコツコツとのめるようにして歩く。きょうはいつもの花のクイズをする気がしない。
「じっちゃ、ひよこ饅頭食べなかったね」
「じっちゃは、甘いもの嫌いだの。酒も飲めねの。うまいってへるのは、魚だげ」
「善郎に無責任男だって叱られた。口ばかりで、ばっちゃを放っておいてって。そのとおりだ。いままでほんとにごめんね」
「隣の杉山さ、サイドさんから電話がかがってきたとぎ、オラが口滑らせたせいだ。キョウがこったらこと言ってよ、って自慢したんだ。なんも愚痴でなかったのせ。悪く取ったんだべ。ひねくれたガキだすけ」
 胸が温かくなってきた。
「じっちゃは浮気したことある?」
「ねな。若げころは、さんざん遊んだこった。オラといっしょになってからは、堅(か)で」
「ばっちゃは?」
「すたらのあるもんだってが。ワはハナからじっちゃふとりだ」
「理想だね。ぼくは五人も六人もだよ」
「そたらにが! 悶着起ごらねが」
「起こらない。みんな変わり者だから。おまけに、仏さまみたいにやさしい。じっちゃは嫌がるだろうな」
「僻目(ひがめ)のねえ人だすけ、何とも思わねべおん。からだ壊さねようにしろ。野球もあんだすけな」
「うん」
 ばっちゃは痛ましそうな目で私を見た。
「母親があれだば、おめがそうなるのもあたりめだ。おなごたちも、母親みてな気持ちでおめのこどめんこくて仕方ねべ。じっぱとかわいがってもらえばいんだ」
「ばっちゃ、ぼくのこと薄情だなんて思わないでね」
「なに、薄情なもんだってが。やさしいワラシだじゃ。心持ちがふつうでねェだげだ」
 末子がトタン屋根を背に洗濯物を干しているところにいき当たった。きのう穿いていたにちがいないパンツが混じっていた。
「四戸さん!」
 末子はパッと顔を赤らめ、お辞儀をした。ばっちゃもお辞儀をした。人気のない通りに暖かい浜風が吹いている。
「遊びにきたんですか」
 とぼけている。
「うん、とんぼ返りだけど」
「今度遊びにきたときは、オラのやってる店に飲みにきてください」
「きっといきます」
 また深くお辞儀するので辞儀を返した。別れの手を振って歩きだす。
「おめは、ふんとにおなごにモデるな。きれいな仏さまだすけ、安心するんだべ。末子はうだでめんこぐなった。あれは感心なおなごだんだ。トッチャが海難で死んだはんで、あれが東京から戻って家のやりくりしてるんず。西舘のカッチャから城内に飲み屋を一軒借りてよ。弟が海さ出てるたって、使いっ走りみてなもんだすけ、何ほどの実入りにもなんね。カッチャは漁業組合で荷役してら」
 事情がすべてわかった。東京がいやになって帰ってきたのではなかったのだ。無性に末子が愛しくなった。振り返るとまたお辞儀をした。私はもう一度大きく手を振った。
「恵美子も、西舘から店借りてバーをやってたんだよね」
「根性ねすけ、すぐやめて、家さ戻ってら。野高の定時制さいった。もう二年も分校のある横浜町さバスでかよってら。勉強が性に合ってたんだべ」
 ばっちゃは坂本の戸をギシギシ引いた。
「いるがい」
 土間の障子が開いて、三角面の女房が顔を出した。
「わいはあ、キョウちゃん。夏休みが」
 きのう会ったかのような表情だ。
「あした帰ります。野球が忙しいんで」
「上がれ、上がれ」
 ばっちゃが紙袋から一折抜いて差し出した。
「なに、アネちゃ、土産なんかいらねんだ」
 そう言いながら受け取る。居間に早々とストーブの支度がしてあったが、火は入っていなかった。ストーブの前に切られた囲炉裏の灰をいじりながら、にやけた坂本が坐っている。一家の主人が昼なかにこうして炉端に落ち着いているのは、漁のほとんどが深夜か早朝だからだ。女房が、
「カレイ煮つけてるすけ、昼めし食ってげ」
 私を披露できる喜びから、いつになくばっちゃは腰を据えたくなった様子だったが、
「ちょっと茶飲んだら帰るじゃ。キョウも回らねばなんねとごがあるすけ」
 察しがいい。私は坂本の下座に坐った。内気な五十男は私にしゃべることがなさそうだった。うつむいてにやにや茶をすすっている。女房がテレビを点けて、夫を救ってやる。
「子供たちは?」
 私は訊きたくもない質問をした。
「寝でら。長男はトッチャの船に乗ってるのせ。漁から帰ったら、すぐ寝るのよ」
 見習いの労働がきついということだろうが、同じように疲れている父親が起きているのに自分だけ眠れる神経が解せなかった。
「次男は東京さ出た。品川の工場よ。帰りてって手紙コきてらった」 
 頻繁に往き来するのに生涯顔を合わせない人間もいる。路に人を見かけないよりもずっと異様だ。女房はひとしきり私の〈偉業〉を称えた。坂本は感情を押し殺したふうにテレビを観ている。振り向いてようやくばっちゃに口を利いた。
「義姉(あね)ちゃも大した自慢だべせ。郷が青森一から日本一の孫になったんだすけな」
「おお、自慢だ。合船場の血が煮詰まってできた子だんだ。何やらしてもいぢばんだ」
「大した変わりもんだず新聞さ書いてあったども、天才とキチゲは紙一重ってへるもんなあ」
「ちゃっけとぎからおがしなワラシだったけんど、ずっとおがしいままだ。じっちゃの千倍も変わり者だ。テンサイでもキヂゲでも、オラは楽しぐてたまらね。笑いながら死ねるじゃ。五人も女がいるとせ。近けうぢにヒマゴの顔が見れるべおん」
 坂本が興味を示して、私に顔を向けた。
「大吉さんに輪かけだイロ男だでば。連れてくるのな?」
「少しずつ」
 ワハハハと笑った。初めて彼の笑い声を聞いた。
「おもしれなあ。やっぱり大吉さんの子だな。血は争えね。こごさも連れてこいよ。美人が?」
「とびっきり」
 たまらず膝を叩いてまたワハハハと笑った。ばっちゃも女房も噴き出した。
「父に会ったんですか?」
「おお、じっちゃとばっちゃに連れられで、お披露目に回ったんだ。二十年以上もめだ。酔っ払って昔語りしてらった。スパッとしゃべる人でなあ。女の話ばりよ。スミの手前なんぞ考えてねのよ。おもしれがったなあ。いい声で歌っコ唄ってよ」
 女房が、
「スミちゃんだば、あのふと、抱えきれねべ。キョウちゃんを連れて戻ったとぎは、やっぱりなあって思ったじゃ」
 父に対する私の評価はまちがっていなかったのだ。胸にうれしさがこみ上げた。
「そたらに女がいたんだば、野球やる暇ねべ」
「だいじょうぶです。小分けにしてるから」
 女房が豪快に笑い、
「それだば、女がかわいそんだ。おめのじっちゃを見習わねば」
 ばっちゃも愉快で仕方がないというふうに、
「じっちゃはオラ一人だったもの、女房孝行だったでば」
 こんな話が彼らを和ませるとは予想していなかった。そういう風土なのだろう。目くじら立てて私を野辺地に送りつけた母のことを彼らが嫌忌する理由が、いよいよハッキリした。倫理とか道徳を超えて、彼らは人間の本能を礼賛している。女房が、
「スミちゃんも、柔らけ女だったけんど、大吉さんにはかなわね。モガだモガだってへっても、そっちの守りは堅がったすけ」
 坂本が、
「遊び回ってたけんど、浮いた話はながったもんな」
 女房が、
「合船場のオナゴはみなそんだ。プライドが高くてよ。椙子ちゃんにしても、君子ちゃんにしても、みんな外から立派な男を連れてくるのせ」
 ばっちゃが、
「じっちゃの教育だんだ。士族の末だってへってよ」
 この風土で育った母の若いころの、制限つきの奔放が偲ばれた。坂本が、
「もう中学生でねんだから、好きだようにやればいんだ。話聞いてスッとしたじゃ。郷は石部金吉だとばり思ってたすけ。野球で新聞さ載ったときもスッとしたけんど、この話にはかなわねな」
 女房が、
「野辺地さ落ちついてたら、そこらじゅうの女から手出されて、あぶれだ男どもが悔し涙を流すところだったでば」
 結局ばっちゃの尻が坐って、煮つけた子持ちカレイが茶の肴で出た。魚の身を箸でほじくるのは苦手なので手をつけなかった。坂本に押しやった。
「野球をやってるときの気持ぢってのは、どったらもんだ」
「頭の中で行進曲が鳴ってる感じかな。ホームランを打ったときは、頭の中の音楽がサーッと消えます」
 女房が、
「ほんとにどっから生まれ落ぢたんだべな。スミちゃんが遠くさやりたぐなった気持ぢがわがるじゃ。オラだったら、そばさ置いて離さねけんど」
「バガだすけ、見抜けなかったのい。こったらおもしれワラシがあるもんだってが」
 ばっちゃがため息をついた。
「ンだ、ンだ」
 坂本がコップ酒をやりはじめ、近在の人の生き死にの話になった。ばっちゃが潮時と見て立ち上がった。私も立ち上がり、
「じゃ、また顔出します」
「おう、元気でやれ」
「ホタテとウニ、晩げに食(か)へてやれ。重てすけ、キョウちゃん持って」
 バケツ一杯のホタテと、板ウニを二枚もらった。バケツはズシリと重かった。


(東京大学 その9へお進みください。)

(目次へ)