百九

 二階家の白壁の大邸宅の屋根に、夕暮れと交じり合って黒々とした瓦が載っていた。玄関の両脇にライラックが茂っている。木の香の立つ戸を引いて、むかしより倍も広くなった玄関土間に入った。下駄箱の上の大鉢にオオデマリとユキヤナギの白い花が活けられている。明るい。吉永先生たちはトモヨさんに抱かれた直人に寄っていき、覗きこみ、突っつく。記者三人もめずらしそうに覗きこむ。事情はわかっているので、私の顔と見比べたりする。私はトモヨさんから抱き取って、頬を寄せた。
「文字どおり、玉のようなお子さんですね。輝いてる」
 恩田はそう言って、パシャリとやった。私はしばらく直人の顔を見つめた。造作のいい異様な美しさだ。もう一度頬すり合わせてからトモヨさんに預けた。式台の框から、八畳の居間と六畳の帳場がすぐ見える。居間と帳場の鴨居に、額に入れた私の写真や直人の写真がずらりと並んでいる。水屋の上の写真も、直人を中心に北村一家を写したものだ。見回して田代が呟いた。
「ミステリーゾーンというのか、ワンダーランドというのか、これで神無月さんの一部だと言うんだから、記事にできるのは百分の一ですよ」
 浜中は動じない表情で、
「庶民の読物の新聞に、異端児のすべてを紹介することはできないし、しちゃいけない」
 新居は小ぶりにすると聞いていたが、屋敷全体の規模が以前のふた回り近くにもなっている。居間も台所も、おそらく二階の従業員部屋も、風呂場も特大だろう。私はため息をついて、
「大きな家になりましたね。座敷はラジオ体操でもできるんじゃないですか?」
 父親はにやりと笑い、
「できるでしょうな。ま、みなさん、奥のほうへどうぞ」
 広い廊下の右側には十五メートル以上にも渡るガラス戸が立っていて、たぶん台所と賄いの控え間と風呂場になっているのだろう。廊下の左側に沿って襖が開け放たれ、玄関のほうの端から十六畳が三部屋、それに接して、庭に面した明るい三十二畳の間が広々と横たわっていた。その部屋の隣の八畳の間を隔てて、奥の十六畳間の突き当たりの壁に、一段高いステージが設けられている。天井から中型スピーカーが二基吊るされ、ステージにはマイクが二本立っている。楽譜スタンドも四脚、革張りのスツールも四脚置いてある。カラオケのセットまで据えられていた。エアコンが効いているうえに、扇風機が何機も回っている。
「すごーい!」
 女五人が声を合わせた。キクエが、
「どうしてこんなに広くしてるんですか」
「食事をせんときは、芸妓さんが踊りの練習をしたり、発表したりできるような歌舞練場のつもりやね。そういうチャンスもだんだんなくなるやろうけど、基本は整えておかんとな。将来神無月さんが野球関係のお客さんを大勢連れてくることも考えられるでね。ふだんは大人数の会食部屋やな」
 女将が、
「花街にも置屋やお茶屋には練場があるんよ。娼妓だけの建物でにゃあゆうことやね」
「あのステージは?」
 浜中が訊く。
「神無月さんと山口さんのために作ったものです」
「はあ! 八畳は観客部屋と」
「お二人は、プロ以上ですからな。ふだんは手つかずの部屋にしとります」
 三十人も坐れる三十二畳に、接ぎ合わせテーブルが置かれ、全員着席するとさっそくビールが運びこまれた。豪華なつまみと飯櫃まで運ばれてくる。二階から非番の女たちが降りてくる様子まで春の旧家と同じだ。
「飲むなり、食べるなり、お好きにしてちょう」
 女将がにこやかに言い、主人が上座に着いて、おトキさんにビールをつがせた。
「おトキさん、俺、どんぶりめし」
 山口が言った。俺も、とよしのりがつづき、浜中たちはビールをつぎ合った。女五人と北村席の女たちはみんな箸を取った。節子が、
「ここのごはんは、ほんとにおいしいんですよ」
 腕っこきの賄いたちの作った和洋中のご馳走だ。私も賄いに茶碗を差し出した。直人を抱いたトモヨさんが、カズちゃんに隣り合って坐った。私はよしのりと素子を左に、カズちゃんとトモヨさんを右に、四人に挟まれる格好になった。素子の隣に法子と山口、トモヨさんの隣に節子と吉永先生が並んで坐った。山口が主人の下座で隣り合う格好になった。素子、法子、山口の対面に東奥日報の三人、その隣に女将と菅野が坐った。
 おトキさんと賄いの女たちが、おさんどんに大わらわになる。ビールで喉を冷やした記者たちも箸をとり、しばらく和やかな時間がつづいた。
「連載も長くなりましたな」
「おかげさまで百回を超えました。次の目玉は東大の優勝です」
 私は、
「来年なら、あり得ますね」
 山口が、
「ピッチャーがもう少しましになったら、今年の秋もあり得るぞ」
「法政三羽烏を抑えるのはなかなか……。田淵の弱点は高目だとわかってるんだけど、山本浩司と富田に穴がない」
 菅野が、
「ピッチャーは山中と江本。この攻略も難しい。やっぱり来年でしょう」
 浜中が、
「神無月さん一人が打っても、連鎖反応がないかぎり得点は望めないですからね」
 女将が呆れ顔で、
「野球になったら止まらんね、いつものことやけど」
 よしのりが、
「女将さん、俺は野球に興味はないんですよ。神無月の本領は頭を使うことです」
 素子がギロリと睨んだ。キクエと節子が苦い顔をし、法子はカズちゃんと顔を見合わせて微笑んだ。主人が、
「神無月さんのバッティングを見たことがないんですか」
「一度もね。本領でないものは見ても仕方がない」
「ある意味奇特なご仁ですが、友だち甲斐がないですな」
 山口が、
「横山さん、神無月の野球は、横山さんの水泳や俺の器械体操のようなクラブ活動じゃない。一見に値するぜ。一度ぐらい見ておいたほうがいい」
「いつかね」
 菅野が主人の目を見て、決定的な判断をする表情をした。彼らはよしのりに対して根本的な悪印象を抱いた。その思いが座に感染するのを避け、主人はにこやかに、
「横山さんは水泳をなさってたんですか」
「平泳ぎ。NHK中学水泳で優勝しました。若乃花の弟の花田に勝ってね」
 田島鉄工か熊谷の口から二位だったと聞いている。たとえ鼻差でも二位は二位だ。
「そうですか、それならクラブ活動の域を超えてますな。知り合いに見てほしかったでしょう」
 私の親しい人間の言うことだと遠慮している気配が滲み出る。
「趣味程度のものなので、見てほしいわけじゃなかったけど、その筋のいろいろな人が見てました」
「うれしかったはずです。神無月さんも同じですよ。神宮球場に観にいってあげてください」
 三十分もしないうちにほとんど全員が食事を終え、酒一本になった。恩田がよしのりに、
「神無月さんの頭は折り紙つきでしょうが、野球は神業です。山口さんの言うとおり、一見にも百見にも値します。ぜひご覧になることをお勧めします。私たちは神無月さんのアタマを取材しにきてるんじゃありません。あの神業の持ち主の寸暇に興味があってきてるんです」
 よしのりは聞いていなかった。やがて、二階から残りの女たちが下りてきて、十六畳三部屋のうち端部屋のテーブルが満席になった。春とちがって、みんなかなり若く、着物姿は一人もいない。全員スカートだ。その華やかな様子に、新聞記者三人は目を丸くしている。中の何人かが、女っ気のない東奥日報トリオのあいだに挟まりこむように坐った。田代はもじもじと照れ、恩田が盛んにシャッターを切った。私は、
「トモヨさんはもう賄いはやらないの」
 みんなの様子を眺めながら、胸を慎ましく隠して直人に乳をやっていたトモヨさんに尋いた。
「きょうは、みんなが到着したら郷くんのそばについてろって、おとうさんに言われたんです」
 トモヨさんはしみじみと直人を見下ろす。私も覗きこむ。きらめくように白い肌だ。カズちゃんが、
「キョウちゃんそっくり」
 と頬を寄せる。菅野が、
「そうなんですよ、怖いぐらい瓜二つです」
 法子が立ってきて、覗きこんで、チュッと唇にキスをした。主人と女将がこらえきれずに笑っている。恩田がパシャパシャやる。
「神無月さんがいると、その場が神秘性を帯びますね。グランドでも感じることですが」
 田代が言うと、浜中が、
「うん、ずっといっしょにいたくなる。規則とか計画といった時間の制約を許さない感じだ。存在感、カリスマ性、すべてが神無月さんにはある。学んで手に入れられるものじゃない。最初からあるかないかだ。どの瞬間にも、神無月さんからその要素が一度も失われたことがない。神秘というより、神性を帯びてる。すごい五日間になりそうだ」
 よしのりが、
「書き溜めたら、半年ぐらい、いい連続レポートが書けるんじゃないの」
「すごい五日間は私どもだけの体験として堪能します。実際活字にするのは、いいものと言うより、さりげないものですね。神無月さんのお母さんや飛島の社員のかたがたとの触れ合いとか、道端のファンとの遭遇とか、遊山先の言行といった、人柄が滲み出るものだけにしようと思います。目の前のこんな状況は、どんな読者にも、何一つ理解できませんよ。神無月さんの神性に触れたことのない人間は、くだらない拒絶反応を起こすでしょう。もったいない。神無月さんの伝記は私のライフワークにします。この五日間は、神無月さんとみなさんとの不思議な交流の世界に手放しで浸りたいと思います」
 私は主人に向かって、
「カズちゃんの実家である北村席さんとは、この先きわめて長い付き合いになると思いますので、あらためて紹介をさせてもらいます。ぼくの隣のこの男は、横山義範(よしのり)、野辺地中学校の同級生です。本人の言では、祖母方の遠い親戚らしいです。島流しの時代にぼくにニョロニョロ近づいてきたのがきっかけで、親しく口を利くようになりました。中学を出て、十和田でバーテンの修行をし、本人いわく一流の腕になって、いま東京の阿佐ヶ谷のラビエンという店でバーテンをしています。山口やカズちゃんのような博覧強記というほどではありませんが、先天的にカメラ眼を備えているせいで、驚異的な記憶力の持ち主です。野球には興味がないようで、スタンドに応援にきたことはありません」
 菅野が皮肉らしくハハハと笑い、父親が目を剥いてよしのりを瀬踏みしている。
「本人の言ではやめろよ。ホラ吹きみたいじゃないか」
「ホラは嘘より質がいい。よしのりの隣が、すでに北村席とは顔馴染みの兵藤素子、太閤口の個人売春の家の娘です。高二の冬、大門の市電停留所で立ちん坊をしている彼女に出会いました。ぼくに惚れこんでくれ、六時ごろ大門にくることがあるかもしれないとたった一回した約束を信じて、大学受験までのあいだ一年間商売を忘れ大門の停留所で待ちつづけた純粋無比な女です。カズちゃんが気に入って同居するようになりました。ぼくもいたく感動し、東京に連れていくことにしました。妹はいま、カズちゃんのお父さんの経営するトルコ風呂に勤めています。素子は将来、調理師と栄養士の免許を取って、カズちゃんといっしょに喫茶店を営む希望を持っています」
 素子は法子と手を握り合った。
「あちらが吉永キクエ、高知女子大の看護学科を出て、名古屋西高の保健の教諭をしていました。ぼくは受験期に、八坂荘という西高のすぐそばのアパートを借りて勉強しましたが、ある夜ゼリーを持って部屋を訪れ、それからしばらくして、六歳年下のぼくに転校以来の恋心を打ち明けてくれました。その素朴さに打たれて、関係を結びました。生徒との関係が取り沙汰されて大ごとになる前にいさぎよく教職を退き、一足早く上京してぼくを待ち、上板橋というところで看護婦の職に就きました。博愛と慈愛に富んだ類まれな気質の持ち主で、来年は節ちゃんと同じ正看護婦、併せて老人医療のためのホームヘルパーの資格をとろうと計画しています。持ち前のエネルギーで、大勢の人に光を与えることでしょう」
 節子が先生の肩を抱いた。
「素子の隣にいるのが山本法子。熱田区の千年小学校および宮中学校の同級生です。神宮前のノラというバーの娘です。中一のときに彼女の母親と姉が経営するその店に招待され、下にも置かない歓待を受けました。その後五年間会っていませんでしたが、西高へ転校した年に、通学の道で、彼女が年末の手伝いをしていた親戚の蕎麦屋に雨宿りで飛びこむという偶然で再会し、しかも、彼女から五年間にわたるぼくに対する一途な恋心を打ち明けられ、感動して関係を結びました。四月に上京して武蔵境の蕎麦屋に勤めましたが、素質は隠せず、スカウトを受けてスナックの雇われママになりました。遠からず、大きな店の経営者になるものとぼくは確信しています」
 法子は素子とまた握手し合う。
「ぼくの隣はカズちゃん、言わずもがな、ぼくの女神です。その隣がトモヨさん、直人の母親です。この二人は説明を要しません。眺めていれば全体像がわかります。トモヨさんの隣が滝澤節子。節ちゃんのことは、北村席のかたは彼女の母親の文江さんともどもよく知っているでしょうから、手短に話します。節ちゃんは、本人が思っているのとはちがって、ぼくの流謫の原因というよりも、遠因(えんいん)となった人です。カズちゃんが言うには、節ちゃんはぼくの女の原型のようです。そうかもしれません。逆に彼女にとってもぼくが男の原型なのでしょう。磁石が引き合うように、西高の通学路で奇跡的な再会を果たしました。ぼくが感謝しているのは、カズちゃんを中心にして彼女たち全員が、何の角逐もなくぼくを庇護する関係をつづけてくれていることです。彼女たちがいなくなれば、ぼくの人生の地盤は変わります。地殻変動を起こして、地中に沈むかもしれません」
 小さい吉永先生が小さい節子を抱き締めた。


         百十 

 激しく浜中のペンが動いている。田代が、
「いまおっしゃったこともまた、神無月さんの十分の一の女性史で、女性観でしょう。それでもじゅうぶんショッキングでした。やはり神無月さんの住む場所は、ワンダーランドと言っていいですね」
 菅野が、
「十分の一も、五分の一もない、神無月さんはそのままですよ。いっぺんにぜんぶしゃべらないだけでね。一回一回、足し算して付き合っていけばいい。その足し算が楽しい。心から感動しますよ」
「ぼくが生きる栄養にしているのは、女性ばかりじゃありません。ときめきです。ときめきがなかったら、ただ生きている昆虫と変わらない」
 浜中たちのあいだに挟まっている店の女たちが、ふとさびしげな顔をした。私は彼女たちに言った。
「そんなさびしい顔しないで。あなたたちを昆虫だなんて思ってません。きょうもときめいたでしょう。それを栄養にして暮らしているからですよ。あしたはもっとときめきますよ」
 主人が、
「おまえたちも、どっかの男に惚れて、早く出ていけ。ちゃんと借金返してな」
 彼女たちは仲間の女たちといっしょに屈託なく大声で笑った。女将が晴れやかな声を上げた。
「あら、文江さんがきた。おトキ、文江さんに食事の用意をしてあげて。それから、トモヨ、もう直人を寝かせなさい」
 カズちゃんがもう一度直人の頬を突っつくと、トモヨさんは立ち上がり、
「ちょっと寝かしつけてきます」
 と言って立ち上がった。女将の傍らに寄ってきた文江さんが、
「キョウちゃん、お帰りなさい」
 と頭を下げた。一見して、彼女の立ち居がしとやかになっているのがわかった。みんなに挨拶するように深々と畳に手をついてから、菅野の隣の席に着いた。女将が、
「みなさん、お風呂をどうぞ。上がったら、また好きなだけ飲んで、酔ったら寝てください。五、六人はゆったり湯船に入れますよ」
「日光杉ですよ」
 主人が得意そうに胸を張る。
「おとうさんたら、また日光杉?」
 カズちゃんが笑った。浜中が、
「もうしばらくお話を聞いてからいただきます」
 北村席の女たちが東奥日報の記者たちにビールをついだ。
「じゃ、食事の終わった私たち五人が先に入りましょ」
 カズちゃんが女たちを促して立ち上がった。素子が、
「下着忘れた人、おらん?」
 みんな首を横に振った。五人が去ると主人が、
「あしたの夜は、山口さん、神無月さん、よろしくお願いしますよ」
「まかしといてください」
 山口が応えた。私がグラスを持ち上げると、山口もグラスを掲げた。主人はおトキさんにコーヒーを注文すると、
「コーヒーいれたら、ここでゆっくりしとけ」
 と言って、自分の下座にいる山口の隣を指差した。箸を動かしている文江さんに女将が親しげに問いかけた。
「で、具合はどうなん?」
「もうすっかりええんですよ。術後一年検診も異常ありませんでした」
 向かい側の私の顔を見てニッコリする。
「よかったわねえ。生徒も百人を越えたし、商売繁盛やね」
「段持ちも二人出よりました」
 菅野が、
「うちのかみさんも二級を取って、びっくりしたよ。息子は自分なりにまじめにやってるんだけど、なかなかね」
「あの子は慎重すぎて、縮こまっとるんです。五級まではもう少しかかるかな」
 また私を見て、ニッコリ笑う。
「あしたの夜にいくからね。十時ごろ」
「楽しみにしとる」
 節子と微笑みを交わす。浜中たちは、触らぬ神に―という表情でグラスを傾けた。
「あしたのご予定は」
 浜中が私と山口に尋いた。
「別に何もありません。どんなふうに花街が整理されたのか、見にいきたいけど。トルコ風呂というものも見てみたい」
「俺も見たいな」
 山口が言うと、菅野が、
「東奥日報さん、思い切ってトルコにでもいったらどうですか」
 浜中が顔の前で手を振り、
「いや、それは遠慮します。まじめな取材ができません。神無月さんたちについていきます」
 恩田が笑いながら言った。
「きょうの取材のまとめとか、あしたの打ち合わせがありますから」
 よしのりが手を挙げ、
「俺、志願します。いまからいいですか」
「いってらっしゃい。この門を出て、左の辻を曲がって十五分です。シャトー鯱と羽衣というのがうちの店です。神無月さんが名付け親です。電話しときますよ。どちらでもお好きなほうにどうぞ」
 よしのりは浮きうきと出ていった。記者たちが呆れ顔で彼の背中を見送った。主人が、
「おもしろい人ですな。神無月さんのことをデキのいい弟のように思ってるんじゃないかな」
 山口が、
「小さいころから身近すぎて、見ても焦点が合わないんでしょう。神無月の誠実な本質を破天荒と見誤っているうちは、その身ぶりだけをまねしたくなりますよ」
 トモヨさんが戻ってきて、私の隣に坐った。きちんとした白いブラウスを着て、ゆるやかな藍色のプリーツスカートに穿き替えている。主人が訊いた。
「寝たか」
「コロッと」
「十二時間から十六時間は寝んとあかんゆうからな」
 浜中が尋く。
「這い這いとか、伝い歩きをする時期でしょう」
「はい、そろそろ。浜中さんもお子さんがいらっしゃるんですか?」
「いえ、二十七歳、独身です。この二人も独身です。……神無月さんを見てると、直人くんとあまり齢が離れている感じがしなくて、妙な気分になります」
「郷くんには最高の褒め言葉ね。郷くんに引け目を感じない子に育ってくれればいいんですけど」
「直人はぼくなんか歯牙にもかけない大人物になるよ」
 女将が、
「直人は好きなようにさせてやります。神無月さんの子やから、何の心配もないやろ」
「外交官がええな。オックスフォード、ハーバード」
 女将は主人の気炎には耳を貸さず、
「ただ人付き合いがねえ。その点も神無月さんの子やから、保育所にはやらんことにしようかと思っとる。幼稚園も考え中」
 浜中が、
「どちらもいかせたほうがいいんじゃないでしょうか。……人間嫌いになってしまいますよ」
「ほうやろか」
「喧嘩したり、仲直りしたりで、成長していくものですから」
 寺田康男の顔が浮かんだ。菅野が、
「私が相手じゃ、喧嘩も仲直りもできないですもんねえ」
 カズちゃんたちが浴衣を着て戻ってきた。頬が赤く光っている。
「ああ、いいお風呂だった。記者さんたちもどうぞ。垢を掬って埋め直しときましたから」
「あ、はい。じゃ、いただこうか」
「浴衣を用意しておきます」
 男たちは立ち上がり、廊下へ出ていった。非番の女たちがひとしきり、素子と風呂の広さを話題にしてはしゃいだ。みんな素子よりも若い。
「こっちは十人やろ。寮の風呂は二十人ラクに入れるんよ。風呂焚きの夫婦がいるくらいやから。うちらもときどき、あっちへ入りにいくんよ」
 カズちゃんが、
「あら、よしのりさんは」
「トルコにいった」
「そう。彼、溜まってたみたいだものね」
 吉永先生が店の女たちに、
「お仕事は、出たいときに出るんですか」
「無理に休むんよ。一日四、五人を相手にするから疲れてまってね。店の玄関に貼っとる写真にお休みの日が書いたるわ。それでも、月に半分も出れば、三十万にはなる。世間の女の子の十倍以上やろ」
「借金なんて、二年もしないで返せるんだけど、ここは住み心地がいいから、つい居ついちゃうのね」
 先生は黙ってしまった。素子が、
「そのお金は貯金するん?」
「私はここに入るのに百万の前借(ぜんしゃく)しとるから、それ返し終わったら、好きに使えるわ。クニにも送ったらんとあかんし」
 節子が、
「つらくありませんか」
「ダンナさんやオカミさんがええ人やから、ぜんぜんつらない。栄のほうはコレもんが直接やっとるで、返済やらノルマやらきついそうや。休みなんかあれへんて。北村は、松葉さんがついとるから、恐いものあれせん」
 主人夫婦が慈愛に満ちた顔で聞いている。カズちゃんが、
「不幸中の幸いを絵に描いたようなものね」
 父母が笑いながら娘を睨んだ。女たちは食事を終えた順に、おやすみなさいと言って二階へ上がっていった。何か役目をを仰せつけられないかぎり、なすこともなく、もとの玩具箱へ戻っていく人形のような存在だ。トモヨさんや素子のような幸運な出会いがあって、愛されることができれば、彼女たちは不自由な人形にはなっていなかったはずだ。世間の人びとはこの種の女との出会いに冷淡だ。先入観の枷に縛られている彼らには、愛情を引き出すすべがない。素子が女将に、
「千鶴は寮におるんですか」
「かよいやわ。寮費が惜しい言うて」
 素子はうなずいた。妹の名前が千鶴だとわかった。女将は山口を見て、
「あとで、山口さんはおトキと入りなさい。神無月さんはこのまま菅野さんの車でトモヨと帰って、あちらのお風呂に入ってね。朝の八時ごろ、菅ちゃんを迎えにやるわ」
 記者たちが風呂から上がってきた。
「いい風呂でした。杉の香りがじつにすばらしくて」
 菅野が、
「もう十一時ですよ。いきましょ、神無月さん」
 女五人が寛大な笑みを浮かべて、いってらっしゃい、と言った。文江さんもにこやかに頭を下げた。主人が、
「ゆっくりしてこい。直人のお乳は冷蔵庫に入ってるやつだな」
「はい、ちょっと温めてあげてください」
「じゃ、山口、あしたな」
「おう」
 みんなで玄関まで送って出た。記者たちまで勢いに引きずられて出てきた。彼らの戸惑った顔つきを除けば、どの表情にも戸惑いの色がない。トモヨさんの年に一度か二度の幸福をこぞって祝福している。カズちゃんがトモヨさんの肩を叩き、
「思う存分ね。半年にいっぺんなんだから」
「はい、ありがとうございます」
 山口が照れたふうに手を振った。


         百十一

「東奥日報さんたち、ショックの連続のようでしたけど、持ち堪(こた)えてましたね」
 ハンドルをいじりながら菅野が言った。
「まずオブラートを剥いで、彼らの目の前に記事にできない現実を曝しておかないと。きれいな人間に思われちゃうから。それは誤解だもの。ぼくがこういう状況になったのも心にまかせた自然の流れだから、不潔なこととはまったく思っていないけど、新聞の読者はそう思わない人たちが大半だからね。こうなった以上、浜中さんたちにも胸の底に秘密を抱いてもらう。世間に明らかにできない状況をしっかり隠しながら、それでも真実が垣間見えるような記事を書いてもらいたいんだ。きれいでもなければ汚くもない真実をね。尻尾を巻いてもとの場所へ逃げ出すか、腰を据えてぼくを追いかける覚悟をするか、彼らしだいだよ」
「なるほど。神無月さんが一人ひとり女の人たちを紹介したのは、東奥日報さんにわざと聞かせて、神無月さんのほんとうの状況を知ってもらうためだったんですね。そういえば、いつもの無口な神無月さんらしくなかったですからね。相変わらず語り口は感動的でしたけど」
 トモヨさんが、
「東奥日報さんは、退散しないと思います。あの人たちもきっと、最初郷くんに遇ったとたん、私たちと同じように深く心を打たれたにちがいないですから。郷くんのすることもしゃべることも、臆病な常識や世間体に汚染されてないものだってわかるから。生まれて初めて、めずらしい置屋の世界や、郷くんの奇妙な人間関係を見て、少し尻ごみしたかもしれないけど」
 私は、
「そういう現実はほとんど記事にはしないだろうね。一生懸命メモ取ったり、写真撮ったり、テープレコーダーを回したりしてたのは、あくまでも記録保存のためで、紙面に載せるものとしてはほとんどボツだと思う。彼らは北村席の一人ひとりを眺めて感動してたけど、その感動は伝わるはずがないとあきらめてるに決まってる。でもぼくの皮を剥いだときの赤剥けの姿は、きっと書こうとしてくれるはずだ」
「きっと、郷くんの周りの〈へんな〉世界は、永久に世の中に知られることはないでしょうね。一人の人間が経験できる枠を超えてますから。一般的に健全だとか正常だとか思われることしか載せられないとなると、きょうみたいに何をしゃべっても、何を見せてもだいじょうぶということになりますね」
 菅野は力強くうなずき、
「とにかく神無月さんのことは、神無月さんに直接関係した人間しかわかりませんよ。正確に伝えるのはまず無理だし、伝えても常識人を嫌な気分にさせる。新聞社には何の得にもならない。健康な高校球児でも見るような気持ちで神無月さんを追いかけてるなら、いずれ撤退するしかなくなると思います」
「あの浜中さんという人は、郷くんに人間的にまいってるわ。一生懸命理解しようとしてる。だから、郷くんの入り組んだ女性関係のことは一行も書かないでしょうし、野球人としての郷くんの行く末をずっと見守りながら、明るい記事を書きつづけるでしょう」
 西の丸のマンションに着いた。
「あしたからまる五日間、忙しくなりそうだ。楽しいな。じゃ、菅野さん、あした、九時」
 トモヨさんが、
「七時にしましょう。おトキさんのお手伝いをしたいし、長い一日にしたいから。郷くんはだれよりも忙しいわ。いっしょにいられるときは、なるべく長く目を覚ましていたいの」
 菅野は深くうなずきハンドルを握った。
「じゃ、七時に」
 最上階の七号室に、北村智代という表札がかかっていた。部屋に入ると、トモヨさんはたちまち顔をゆがめて、
「会えたのね、郷くん、会えたのね」
「うん、長いこと手紙書かなくてごめんね」
「私も。文章が下手で、恥ずかしくて。何度か書いたんだけど」
「これからはときどき書くよ」
「いいの、手紙なんか書こうと思ったら、義務感でいっぱいになってしまうわ」
 居間のソファの上や寝室のベッドの上に、かわいらしい玩具が載っている。クマの起き上がりこぼし、絵合わせパズル、動物形の木琴、玉落とし、積木。相変わらず天井からガラガラがぶら下がっている。二十歳にもならない男の分身が愛用するおもちゃだ。部屋じゅう隅々まで片づいている。自分と子供に使う調度こそ増えたものの、ごちゃごちゃした感じはない。長屋以来の文机がきちんと窓辺に置かれ、襖ぎわの壁にたくさんの本を納めた大きな書棚が立っている。窓から、ライトアップした名古屋城が見える。
 トモヨさんは音の静かな扇風機を回した。調理道具の調った流しのガスレンジによく磨いたヤカンが載っている。落ち着いた生活が窺われた。
「いまはどういう仕事してるの」
「何もするなって言われてるんですけど、直人が寝てるあいだは、おトキさんを手伝ったり、寮の賄いを手伝ったりしてます」
「塙席はどのあたりに移ったの」
「もとの北村から七、八分先の若宮町です。塙さんにはごくたまに顔を出して、旦那さんや女将さんとお話します。区画整理を利用できたのは、北村と塙だけ。親方日の丸の幸運は従業員の幸運。私は薹の立ったシンデレラだって笑われます」
「トモヨさんは従業員じゃない。北村さんの子供だ」
「そうですね。でも気持ちは従業員。子供には定年がないから長く勤められそう。……それにしても、自分だけの幸運に気がとがめます。あの人たちを見てると」
「トモヨさんのように積極的に愛を求めてたら、ちがった人生になったかもしれない」
「自分の責任?……」
「そう思うしかない」
「……直人は幸運の星のもとに生まれました。ぜんぶ郷くんとお嬢さんのおかげ。この幸運を守り抜きます」
         †
 結び合ったまま横たわり、顔を見つめ合う。少し長くなった髪が乱れ、頬が赤い。
「そんなに見つめて、恥ずかしい……」
「いつまでもきれいだ。まだ小皺もない」
「ありがとう。郷くんが自分の思ったとおりの言葉を口に出して褒めてくれてるのがわかります。素直にうれしくなります」
 抜き去り、たがいにティシュであと始末をする。
「月に一度は逢いたいけど、いまは無理なんだ」
「こうやって会いにきてくれるのは、ふつうじゃありません。ほんとうに感謝してるんです。郷くんは思う存分生きてるとは言えないわ。山口さんもそう。気の毒です。……会いたいときは、こちらから東京へいくのがほんとうです。そうすべきなんです。みんな忙しいのに、北村席に振り回されすぎです。旦那さんに言わなくちゃ」
「だれにも何も言わなくていい。年に何度も帰ってこない場所だし、いずれこちらに戻ってきたら入り浸りになる場所でもあるからね。こうやって訪ねてくるのも、ちっとも苦痛じゃない」
 生身の私がいつも女たちみんなといっしょにいるにはどうすればいいのだろう。
「みんな、トモヨさんみたいに子供を産んだらどうだろう―」
「だめ! そんなことしちゃだめです。早とちりして、他人(ひと)の人生に自分の人生をノリではりつけるみたいな生き方をしちゃだめです。だれもそんなこと願ってません。死ぬまでいっしょにいたいと思ってるだけです。それでじゅうぶんだと思ってるんです。私にはわかります。子供がほしいなんて思うのは、私みたいに年に何度も会えない、遠く離れてる女だけです。たとえば、文江さんがそう。産めたら産むはずです。郷くんは何も考えずに思う存分生きてください。人にでたらめにやさしくしちゃだめです」
 私は強くうなずき、
「……山口はおトキさんとうまくやっていけるよね」
「はい、そう思います。たしかにおトキさんはきれいな人ですけど、山口さんはどこに惹かれたというのじゃなく、郷くんの女性関係に理想を見ていたんでしょうね。だからおトキさんに遇った瞬間、年上の包みこんでくれる人を見つけたと感じたんだと思います。おトキさんが郷くんを愛する私たちみたいな一途な人間であることを祈ってます……。でも一途さを私たちみたいに露骨に出さないほうがいいのかもしれません。山口さんはとてもスケールの大きい、献身的な人ですけど、郷くんとちがって、生まれつき、ぜったいに揺らがない奇人じゃなくて、才能豊かな正常人です。きちんとした常識の持ち主です。一途に愛されることには慣れていないと思います。そうなったとき、郷くんのように女を自然に愛し返せないでしょう」
「……そうかな、とても自然に見えるけど」
「それは郷くんが混じりけのない自然な目で、他人を自分と同じ人間だと見てるからです。郷くんは女というものを超えた愛し方で女を愛します。……山口さんは、一途な愛情を郷さんにしか注ごうとしないから、女は〈生活の一部〉になるしかないでしょうね。山口さんも、おトキさんが一途に愛すれば、ひょっとして彼女を生活の一部だとは思わなくなるかもしれません」
「もうそうなってると思うな。よしのりはだめだ。愛しも愛されもしない」
「横山さんは常識のないへんな人ですけど、平凡な価値観しか持っていません。変わった凡人です」
 秘部に触れる。
「私、もう限界です」
「もう一回だいじょうぶだよ。ここが、そう言ってる」
「郷くん……あなたってほんとに……ほんとに、神さまの子です」
         †
 六時に起床した。トモヨさんと朝風呂に入る。頭をしっかり洗う。
「慎太郎刈りにしてしまうつもりだ」
「短い髪は似合います。野球にもそのほうがいいんですよね」
「うん。北村の朝ごはんは何時くらいになる?」
「八時には」
「直人の誕生会は?」
「そのあとで」
「何もプレゼントを用意してない。山口たちは持ってきてるみたいだけど」
「郷くんは誕生会なんてしてもらったことがないんでしょう」
「カズちゃん以外にはね」
 下着とワイシャツをトモヨさんの用意したものに替え、麻のブレザーの上下を着る。トモヨさんは淡い茶色のシャツと、焦茶色のセミロングスカートを穿いた。
 クラクションが鳴った。ガラガラを見上げ、文机を見下ろして、トモヨさんの部屋に別れを告げる。車の外で出迎えた菅野が、
「ベビーウォーカーにしました。格好いいものなんですが、カタカタはついてないんですよ。トランクに積んできました」
「高かったでしょう」
「直人に贈って高すぎるものはありませんよ」
「見こまれたものだ。ありがたい……。大門の通りに床屋はありますか」
「ありますけど、ガード下にもありますよ。髪切るんですか」
「慎太郎刈りにする。汗を流しやすい。坊主頭よりちょっと長めに」         
         †
 十六畳の仕切りを開け放して、すでにみんなテーブルについてコーヒーを飲んでいる。三人の記者がわざわざ立ち上がり丁寧な挨拶をする。よしのりが浪花節をうなって座を笑わせていた。彼だけがビールを飲んでいる。山口が手を挙げた。
「お帰り。早かったな」
「六時に起きた。爽快だ。よしのり、トルコどうだった」
「大名になった気分だったぜ。大久保や川崎のトルコとは大ちがいだ」
 非番の女はまだ寝ているのだろう、顔が見えない。父親がトモヨさんに、
「ゆっくりしてこいって言ったやろ。貧乏性やな」
 トモヨさんは女将に抱かれている直人を覗きこむ。
「冷蔵庫のミルク、ぺろりと飲んでまったわ。さっきおトキが、ジャコと炒り玉子の小っちゃなおにぎり作ったら、それもきれいに食べた。すごい食欲やよ」
「チーズごはんも好きなんですよ。お昼は、それと豆腐ハンバーグにします」
 トモヨさんが直人を抱き取る。おトキさんが出てきて、
「ごはんにしますよォ」
 明太子、イボダイのヒラキ、ナスとミョウガの浅漬け、山芋の千切り、海苔、土用シジミの味噌汁。それだけ告げると、山口をチラリと見て、頬を赤らめて台所に戻った。
「土用シジミって?」
 トモヨさんに訊くと、
「夏場のシジミのこと。宍道湖のヤマトシジミです。砂を抜いたあと冷蔵庫で冷やしてあるので、うま味が出て格別においしいんですよ。身も食べてくださいね。冬場のシジミは寒シジミといって、川のきれいな場所に育つマシジミのことなんですけど、いまは川が汚れたせいでほとんど採れないの」
 詳しい答え方をする。田代が箸を取り上げ、女将に、
「大所帯の賄いさんの知識って、すごいもんですね」
「おトキとトモヨがすごいんよ。かよいの人は、二人の言うとおりなぞっとるだけ。早く住みこみの新人が入ってきて勉強してくれんと」
「蒲団の寝心地、すばらしかったです」
 浜中が女将に言う。恩田が、
「遠くから扇風機が効いてて、ちっとも寝苦しくありませんでした。今夜からは宿をとります。とつぜん押しかけてご迷惑さまでした」
 よしのりが、
「佐渡情話は、今夜あらためて聞かすわ」
 記者たちが辟易したふうに頭を下げる。田代が、
「神無月さん、朝食のあとは、散歩なさるんでしたね」
「はい、その前にそこらへんの床屋へいってきます。慎太郎刈りにしようと思って」
「慎太郎刈り! 似合うだろうなあ」
 主人が顔を上げ、
「昼は直人の誕生会だから、みなさん、一時ぐらいまでには帰ってきてくださいよ」


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