百十五


  らん、ら、らん、ら、らん、ら、らららら、らん
  らん、ら、らん、ら、らん、ら、らららら、らん
  花よりやさしいマリア
  瞳のきれいなマリア
  まだ恋など知らないバラの花のつぼみ

 神宮の灰色の森が見える。この曲を唄いながら、牛巻坂を登ったことがあった。歓声と拍手が遠くに聞こえる。だんだん大きくなる。

  星よりきれいなマリア
  かわいいしぐさのマリア
  長い髪に野菊を飾って微笑む

 緩やかで力強いスタッカート。拍手の音が消え、親しい人たちがうっとりと聞き入っている。畳に片手を突いて前のめりになっている女もいる。記者たちが驚愕の目と口を開いている。文江が音のしないように胸前で手を拍ち合わせている。

  だれかが恋してる
  マリアに恋してる
  でも そんなことには気がつきもしないで
  あの街角歩いていく
  みんなのあこがれマリア
  だれでも知ってるマリア
  甘い香り含んだ春風のように

 私の横顔を見上げる山口の湿った目を見つめながら、彼の指に合わせて、マイクから遠ざかるようにフェイドアウトする。

  らん、ら、らん、ら、らん、ら、らららら、らん
  らん、ら、らん、ら、らん、ら、らららら、らん……


 ウオー! と菅野が叫ぶ。キャー! と法子が立ち上がる。節子と吉永先生が素子に抱きつく。拍手が止まない。
「田代、これ、声だよな!」
 恩田が言うと、田代と浜中が激しくうなずく。浜中が興奮して、
「和子さんが野球なんかどうでもよくなる、と言ったのはこのことだね」
 拍手が静まったところで山口が、
「いかがでしたか。この声に憶えのある北村席のかたがたも、半年間待った甲斐があったでしょう。俺もめったに聴けない。神無月がめったに唄わないから。人間の喉から出た神の声だ。裏声じゃありません。地声です。ビブラートも天然のものです。もうすぐ俺は泣きますよ。確実に。じゃ、神無月、ご主人リクエストの演歌、何をいく?」
「都はるみの、白樺に涙あり」
「……名曲だ。三曲つづけていっちまえ。それから休め」
 イントロが始まる。演歌と思えないニューミュージックふうの響きだ。ギターの背後にいろいろな楽器のオーケストレーションも聞こえてくるようだ。山口の天賦の才のなせる編曲だろう。

  白樺林の 細い道
  そのまま泉に イイ つづく道
  思い出ばかりと 知りながら
  そっときました きょうもまた
  ああ あの人に
  あの人に 逢いたくて

 ほぼ全員がほとんど同時に手で顔を覆った。山口の目から一粒の涙がギターの腹に滴り落ちた。節子があのときと同じように、唇だけでキョウちゃんと何度も呟きながら、涙を流している。吉永先生も素子もトモヨさんも、目を拭おうともしない。カズちゃんはタオルで両目を押さえ、おトキさんはエプロンを顔に当てている。胸を掻きむしる間奏。ふたたび唄いだす。

  形見のこけしを 抱き締めて
  落葉に埋もれて エエ 眠りたい
  もうすぐいっしょに なれるねと
  きみがやさしく 囁いた
  ああ あの言葉 あの言葉
  いまは夢

 畳に手を突いていた女が、うつ伏せになって背中をふるわせた。彼女の背に折り重なる女がいる。女将が店の女に凭(もた)れかかり、主人は口をへの字に結んで天井を向いていた。浜中たちが目もとの涙を指で拭った。私の歌がみんなを泣かせている。長い哀切な間奏。山口はからだを前のめりにして顔を挙げようとしない。喉を思い切り拡げ、女の傷心を唄い上げる。

  泉のほとりの 茜雲
  真赤に燃えても オオ すぐ消える
  短い小さい 幸せも
  大事に大事に しまっとく
  ああ さようなら さようなら
  さようなら

「神無月さん! まるでパイプオルガンです!」
 浜中が叫び、素子と法子が走ってきて私の腕にしがみつく。主人が顔をゆがめながら、頭の上で厚い手のひらを拍ち鳴らす。山口はうなだれたまま、涙をぽたぽた落としている。フラッシュがしきりに焚かれる。頬を手で拭いながら、
「都はるみにこんな歌がありましたっけ?」
 田代が訊いた。山口がステージから、
「そう思うのも無理はないね。都はるみがくだらない歌ばっか巷に流してるからだよ。昭和四十一年のこの曲は、都はるみの最高傑作と言っていい。神無月はいい歌を発見する驚くべき天才だ。彼の発見した歌をふつうの人間がその歌手の声で初めて聴くと、傑作には思えないので無視してしまう。神無月がたちまち発見する。傑作は、歌詞とメロディがいい結婚をしてる。この歌の歌詞から読み取れるのは、男との死に別れだね。この女はあとを追いたくなって白樺林にやってきたんでしょう。……でも生きる決意をした」
 私はボーッと立っていたが、頬がゆがんで涙があふれた。
「神無月の喉の限界は三曲です。あしたがないと思って唄うからです。みなさんの耳には大きな音で聞こえないかもしれない。それでも耳に突き刺さってくるでしょう? 特殊な発声法で、最大の精力を使って唄うからです。彼がもう一曲唄ったら、そのあとは俺がバックグラウンドを流します。神無月の歌を聴いた耳の痺れを取るには、時間がかかりますからね。では神無月の最後の歌にリクエストをください」
 端の部屋にいた非番の女が遠慮がちに手を挙げた。三十代の半ば、ひっそりとした様子の女で、これまで何度か目にしてきたはずだけれど、顔を見たのは初めての気がした。むかしからそうだが、私は好みの顔をした女に強力に焦点を合わせたらそれでおしまいで、そのほかの女に流す視線は空ろになる。主人は何度か彼女たちの名前を呼びかけていたはずだが、名前どころか顔も記憶していなかった。
「童謡を唄ってくださいませんか」
「はい」
「故郷の空をお願いします」
 私はやさしくうなずいた。山口が解説をする。
「スコットランド民謡ですね。蛍の光を作ったロバート・バーンズという詩人が作詞しました。原題は、ライ麦畑で出会ったら。ライ麦畑の中での男女の開放的な営みを讃えた大らかな歌です」
 忍び笑いが起きた。
「生命を謳い上げるすばらしい歌です。リクエストしたあなたも、その溌溂としたメロディを唄った少女時代がたまらなくなつかしかったんでしょう。日本語の訳詞は妖しい雰囲気を取っ払って、健康な内容に替えてあります。神無月も童謡が大好きで、野菊とか、みかんの花咲く丘などをよく唄いますよ。故郷の空は作者不詳で、むかしから伝わる民謡です。じゃ、いきましょう、ハイ!」

  夕空晴れて 秋風吹き
  月影落ちて 鈴虫鳴く
  思えば遠し 故郷の空
  ああ わが父母 いかにおわす

  澄みゆく水に 秋萩垂れ
  玉なす露は ススキに満つ
  思えば似たり 故郷の野辺
  ああ わがはらから たれと遊ぶ
  
 みんなの頬から徐々に涙が干上がり、ほのぼのとした微笑に変わった。歌が終わると部屋じゅうに慎ましい拍手が起こり、おたがいの歓談を誘い合った。いい歌で締めてもらったと満足した。
 私はステージを降り、山口はギターを弾きつづけた。節子と吉永先生は台所へおトキさんの手伝いに入り、法子は菅野といっしょに、主人を取り囲む女たちの仲間に入った。トモヨさんは女将と二人で直人をあやしていた。カズちゃんと素子と三人の記者が寄ってきた。浜中が、
「神無月さん、みなさんの言うとおり、野球はあなたのほんの一部なんですね」
 田代が、
「こんなことはだれも信じないだろうな。信じてほしくもない。しかし、この歌声のテープは青森のテレビ局に届けようと思ってます。早いうちにニュースで流れるはずです。浜中さん、いい記事書いてよ」
「もちろんだ。まだ二日目だよ。あと三日取材できる。友人や知己に恵まれ、話す言葉には超絶な論理があり、不思議な声で歌を唄う。いまのところ書けるのはそれだけ。どういう恵まれ方をして、どのくらい不思議なのかは書けない」


         百十六

 山口がギターを置いてテーブルに戻ってきた。目がカラリと晴れ上がっている。
「ああ苦しいほど泣いた。半年ぶり」
 カズちゃんのタオルで目頭をごしごしやる。恩田が山口に、
「迫力がある潤った演奏でした。間奏にも泣けました」
「ありがとう。泣けたという感想がいちばんうれしいです。神無月には三つの超弩級の才能があるんです。文章と野球と喉。試験勉強はこいつなりの努力だから、才能とは言えない。世間の秀才とドッコイドッコイだ。つまり文系の学者になる才能はない。他人の思想の注釈にすぎないことを、さも自分が一つの思想を編み出したかのように得意に語る、そんなものは才能の中でも最も低劣なものだからどうでもいい。名を成すには有効だけどね。神無月が東奥日報さんに見せてないのは、文章の才能だけだ。神無月は一生見せないかもしれない。なぜなら、人に見せるほどのものだと思っていないからなんだ。ちょいと見せたって、野球や歌のように人が大騒ぎしてくれないからね。とりわけ芸術の分野ともなると、人は判断を下すのが慎重になる。もろ手を挙げない。それが神無月を傷つける。だからこいつは見せない。俺たちのあいだでは、神無月の文章こそ最も神がかりだと言われてる。それに比べたら、野球も歌も霞んでしまうくらいだ。文章を書きつけたノートが何冊かあるが、和子さんの宝物なので門外不出だ。神無月は書きっ放しの男なので、自分の書いたものにこだわりがない。俺たちが大事にとっておくしかないわけだ。これを要するに、神無月は自分のどんな才能にも関心がないということになる」
「……そのようですね。神無月さんのたたずまいを見ていればわかります」
 浜中が言った。
「ただ神無月はね、自分を愛する人間が自分の才能を見て喜ぶということだけはわかるんだよ。それが神無月の生甲斐だ。そんな神無月を見てると涙が出る」
 カズちゃんが素子といっしょに三人の肩口に顔を寄せ、
「キョウちゃんが〈負け〉を望んでるというのが、私の結論ね」
「負け? よくわかりませんが……」
 浜中が私を見る。
「キョウちゃんに答えを求めてもむだよ。そんなことハッキリ意識してないから。そうだなあ、人に勝つのがどうにも気詰まりだということかなあ。キョウちゃんは根が明るい人だから、そんなことおくびにも出さないけど、とにかく、負けることが正常な状態だと思ってるわけ」
 素子がうなずきながら愉快そうに笑う。ぽかんとしている記者たちにカズちゃんはつづけて、
「たぶん、負けてるほうが気楽なのよ。キョウちゃんは面倒くさがりなの。勝つといろいろ面倒なことが出てくるでしょ?」
 恩田が、
「負けると人は安心して意地悪してきますよ。気楽じゃないんじゃないですか」
「意地悪を撥ね返すこともキョウちゃんの娯楽。いろんな意地悪をキョウちゃんは乗り越えてきたの。その娯楽もだんだん面倒になったんでしょう。それで馬鹿になった。超人が馬鹿になる。先天的な勝者がね。愉快でしょう」
 トモヨさんがやってきて、
「直人が寝ちゃいましたから、ちょっと添い寝してきます。夕飯のころには起きると思います。郷くん、飲みすぎないでね」
 そう言って文江さんのほうをチラリと見る。その文江さんが立ち上がり、
「四時から九時まで授業やよって、お先に失礼します」
 きちんとお辞儀をして、玄関土間へ出ていった。節子が送って出る。主人は女たちの酌を受けて大笑いしている。法子が先頭切って酌をしているのが微笑ましかった。恩田がカズちゃんに、
「失礼なことを伺うようですが、そういう、積極的に勝ちたくない神無月さんを引き受けるのは、たいへんだと感じませんか」
「たいへんだなんて言ったら、キョウちゃん、いなくなっちゃうわよ。ちっともたいへんじゃないの。私たちがキョウちゃんに降りかかる意地悪を口惜しがらなければいいだけのことでしょ? そうするだけでキョウちゃんはそばにいてくれる。自力で意地悪を撥ね飛ばすし、野球は観られるし、歌は聞けるし、詩は読めるし、いいことだらけ」
「たしかに……しかし、何で勝つことが気詰まりなんでしょう」
「キョウちゃんは自己主張をしない人だから、他人の自己主張が面倒くさくなるのね」
 よしのりがシラッとした顔で宴席を見回している。私はこういう顔を避けて暮らしたい。私はカズちゃんたちの話を聞いているのがそれこそ面倒になり、
「山口、せっかくこんな立派なステージがあるんだ。みんなの歌に伴奏つけてやったらどうだ。グリーンハウスの練習にもなるだろう」
「おまえのあとで唄うのは鉄面皮だ。だれもいないよ。ギターだけのリクエストは受けてやる」
 遠くで聞きつけた吉永先生が、
「禁じられた遊び!」
 と言った。田代が、
「アルハンブラ!」
「はいはい、それも弾きましょ」
「影を慕いて!」
 台所の戸口からおトキさんの顔が覗いた。
「オッケー!」
 照れくさそうに笑いかける。菅野がビール瓶を持ってやってきた。
「山口さん、俺にも弾いてよ」
「何がいい?」
「リンゴの唄とか、港が見える丘とか」
「昭和二十年代ね。わかりました」
 早出の女たちが四、五人戻ってきて、五時出勤の女たちと入れ替わりに、主人のかたわらに坐った。おトキさんが麦茶を出す。
「わあ、山口さんのステージね。神無月さんの歌は終わっちゃったの?」
 山口が苦笑いして、
「神無月、求められちゃったぞ。リクエストを弾く前に、もう一曲だけいけるか?」
「いいよ。おトキさんの影を慕いてはギターで映える曲だから、リンゴの唄をデュエットで唄う。もともと霧島昇と並木路子のデュエット曲だろ」
「ああ、だれと唄う?」
 五人の女全員を指差す。ええ、やだあ、と笑いながら、楽しそうにカズちゃんたちが立ち上がった。外から帰ってきたばかりの女たちが拍手する。
「よし、神無月が一番と三番、和子さんたちが二番、みんなで四番。歌詞は知ってるか」
「知ってる」
「何でも知ってるな」
「一度聴いた歌はね。よしのりはカメラ眼、ぼくはカメラ耳」
 あえてよしのりの渋い顔に笑いかける。
「彼女たちはちがうだろ。ステージにカラオケの歌詞本がある。それをスタンドに載せておいてやろう」
 おトキさんと賄いたちが台所へと去ろうとすると、女将が引き止めた。
「この一曲、聴いてからにせんね」
 みんなうれしそうに腰を下ろす。主人は座布団を枕に寝転がっている。そのまま寝入ってしまうだろう。私は菅野につがれたビールを飲み干した。女五人と男二人でステージに向かう。フラッシュが四発、五発。ステージライトが点る。
「みなさん、四番になったら拍手でリズムをとってください」
 マイクの前に立つ私の後ろに、五人の女が譜面台を見下ろしながら立つ。背の高い順に左から、カズちゃん、素子、法子、節子、吉永先生。
「イヨ! 五人衆!」
 菅野の声がかかった。五人は顔を見合わせて笑う。トモヨさんが戻ってきて、テーブルから拍手を送った。主人は完全に寝入ったようで、女将に頼まれた菅野が背中に担って離れの寝室へ連れていった。
「じゃ、一番、神無月いくぞ」
 どこかで聞いたことのある前奏だ。テレビのリバイバル番組で聞いたのかもしれない。私は踵をトンと打って唄いだす。

  赤いリンゴに 唇寄せて
  黙って見ている 青い空
  リンゴは何も 言わないけれど
  リンゴの気持ちは よくわかる
  リンゴかわいや かわいやリンゴ

 拍手が巻き起こる。立てつづけのフラッシュ。おトキさんの一団が肩を左右に揺らして聴いている。山口が五人の顔にうなずいて、ハイ、と二番を促す。譜面台を見ながらバラバラと唄いだし、すぐに呼吸がしっかり合いはじめる。

  あの娘(こ)よいこだ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た かわいい娘
  どなたが言ったか うれしい噂
  軽いくしゃみも 飛んで出る
  リンゴかわいや かわいやリンゴ

 女たちの歓声。いい声だ。いちばん低音は素子だとわかった。カズちゃんの声はよく伸びるアルト。節子、吉永先生、法子は女っぽい高い声。五人とも音程は同じなのに、まるで微妙に重ねたコーラスのように美しく聞こえる。山口のすばらしくリズミカルな伴奏が、そのハーモニーにもっともらしさを与える。間奏のあいだ、五人は抱き合って喜ぶ。歌は心を解放する。私の番だ。

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに 囁けば
  言葉は出さずに 小首を曲げて
  あすもまたねと 夢見顔
  リンゴかわいや かわいやリンゴ

 ひたすら拍手。フラッシュ。よしのりが扇子を手に即興で踊りはじめた。
「はい、四番です、みんなで拍手のリズムを!」
 あごでリズムを取りながら私といっしょに五人同時に唄いだす。テーブルの全員がステージを見つめて手を拍ち合わせる。よしのりの踊りが佳境に入っている。

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なお楽し
  みんなで歌えば なおなおうれし
  リンゴの気持ちを 伝えよか
  リンゴかわいや かわいやリンゴ

 指笛、拍手、歓声。職場から疲れて戻った女たちが感激している。女将とおトキさんが涙を拭いている。


         百十七

 ステージ前にいた浜中たちがテーブルに戻った。
「山口さんのギターって、ちょっと、すごくないか。そばで聴いてよくわかった」
 たがいに顔を見合わせてうなずいている。
「神無月さんの声だけじゃない、だれの声にも食われないでハッキリ聞こえてきますね」
「あの指さばきも一級品だ。こういうことってあるんだなあ」
 よしのりが、
「変わり者ってのは、ひとつところに寄り集まるもんだよ。いじめられていき場がなくなって、庇ってくれる場所に逃げこむからな」
 カズちゃんが大きな声で、
「よしのりさん、皮肉はいいかげんにしなさい。山口さんは逃げてきたんじゃないのよ。キョウちゃんについてきたの」
 山口がギターを奏ではじめたので、私はステージを降りた。港が見える丘。胸を打つメロディだ。編曲のすばらしさ。山口は本能で装飾音を入れ、この上なく心地よい絃の音を響かせる。菅野がうっとり聴いている。女将がふと思い出したように、
「あ、そうだ、菅ちゃん、××ちゃんを歯医者に連れてってあげて。混んでるようだったら帰ってらっしゃい。二時間ぐらいで夕食やから」
 女将が言う。
「ほいきた。旦那さんは」
「夜中に起きて、お茶漬けでも食べるんやないの。よほどうれしかったんやろ。酔いつぶれてまって離れで横になっとるわ」
 菅野が女を連れて出ていく。カズちゃんが、
「素ちゃん、家族には会ったの?」
「うん、会ってきた。おかあさん、立ちん坊すっかりやめたって言っとった。妹の給料でふつうに暮らせるからやって。いろいろ贅沢してたから、叱ったった」
「ステーキから味噌汁とタクアンには戻れないぜ。どうするの」
 よしのりが言うと、カズちゃんが、
「もう、ありきたりなことばかり言うわね。どうもしなくていいわよ。素ちゃんも、何も叱らないで好きにさせとけばいいじゃないの。あなたが千鶴ちゃんの二の舞にならないようにすればいいだけよ」
「うん、ほっとく」
 私はよしのりに、
「ぼくはステーキより味噌汁とタクアンが好きだよ」
 よしのりはフンと鼻を鳴らした。山口がリクエストを弾き終えて戻ってきた。恩田が、
「感銘しました、尋常ならざる演奏技術です」
「神無月と同様、学才はないんでね。将来、これを生活のたずきにするつもりです。数年したら、イタリアのコンテストに出ます。ミケーレ・ピッタルーガ国際コンクール」
 田代が、
「聞いたことありますよ。クラシックギターのコンクールの中でも、世界最高峰と言われているものですね。今年初開催のはずですが」
「ええ、そうです。でも今年は出ません。少し度胸をつけてからね。最終的には、作曲をやりたい。神無月の詩のイメージを音符に乗せたいんです」
 浜中が、
「神無月さんの詩の一部でもお聞かせ願えませんか」
 私を見る。
「自分の詩は憶えてません」
 頼まれもしないうちに、よしのりが浜中の顔を凝視しながら唱えはじめた。

  海さして なだれていく坂道に
  ほうはいと
  草の香はみなぎり
  海がきこえる……
  仰向けた私の耳もとに 膝すりよせ
  ひたいに髪に 細い指をふれた心は
  いづへの町に どちの村に?
  それはいたずらに
  樹と空のあわいを移り
  この海のつづきに さすらうだろう


 山口のゆるい涙腺が危うくなっている。浜中は嘆息し、
「……天才ですね」
 山口が、
「これが、神無月の詩のすべての雰囲気だ。どの一語も、どの語の羅列も、人には書けない。戦慄というのはこういう気分じゃないのかな」
 じっとうなだれていた浜中が、
「……最初青高のグランドで神無月さんのインタビューを聞いたとき、生涯にわたって見守ろうと決意しましたが、神無月さんの人間性に対する戦慄が原因でした。いまの詩を聞いて、それとは比較にならないくらいふるえました。……神無月さんの詩を世に出すことに社をあげて尽力できるかもしれません」
 私は首を振り、
「大衆性があるものなら、だれが尽力しなくても、おのずと世に出るでしょう。ぼくのホームランにも歌にも大衆性がない。愛する人たちだけが信じる価値です。大衆性は価値だと思わない。そう言うと、現代の文化人に目くじら立てられそうですけどね。たぶん世間で言う価値というのは、人間ではなく、ものごとが長生きする時間のことだと思う。そんな、人間よりも寿命の長いものごとの価値は、いま生きてる人間には幸福の対象とは考えられない。そんなものを延命させようとする人は、愛するもののいまの命より、世間評価を優先させようとする人じゃないかな。ぼくの周りの人たちは、ぼくにまつわる評価を延命させようとは思っていない。彼らが生き永らえさせたいのは、ぼくの物理的な命だけです。ぼくにまつわる評価が延命したとしても、確認できない将来に幸福を感じない。……ありがたいことに、ぼくという人間に絶対的な価値を認めてくれている。浜中さんがご提言くださったように、ぼくが言ったりやったりすることを大衆的な価値の中へ組み入れて長生きさせようとする労力には感謝しますが、それはぼくにとって絶対的な幸福じゃないんです。身近な周囲の人びとのこの瞬間の喜びや愛を感じないからです。ぼくは幸福な命を生き永らえさせてくれる人たちの喜ぶことを、いまこの瞬間にしたい。見知らぬ人びとに、ぼくが生きていない未来の中で評価されることは、いちばん避けたいことです」
 山口が私の手を握り締めた。女将は目にハンカチを当てると、
「和子もえらい人に惚れたもんやわ。あんたらも」
 女将は周りの女たちに微笑みかけて、縁側から降りた。庭の左の隅に、ハクモクレンに守られた古い稲荷の祠があり、女将はその周囲の落葉を竹箒木で掃いた。水を打つ。私たちも記者三人と庭に降りて、夏の花を見て回った。山口が、
「いつもの知識開陳を頼む。まず、あの岩陰の花からだ」
 恩田が花に向かってシャッターを切る。
「山アジサイ。ふつうのアジサイは小花が枝先に群がり生えるけど、このアジサイは白い飾り花が散らばって生える。岩の向こうの、なよっとした黄色い花は美容ヤナギ。糸のような蘂(しべ)の先のポチポチは油点というんだ。小池の前の白い大きな花はクチナシ。くちなしのさびしう咲けり水のうへ、子規」
「子規が坊主頭でそんなことを考えてるのは不気味だな」
「あの坊主頭の左顔の写真は、死ぬ二年前、一九○○年に撮られたんだ。最後の写真だ。脊椎カリエスのせいできちんと正面を向くのがきつかったらしい」
「何歳で死んだんだ」
「三十四。薬のヘチマの水も間に合わなかった。これといった句は残していない。少なくともぼくの好きな句はない」
「木にいこうか。その背の低い木は?」
「ムクゲ。葉がギザギザだからすぐわかる。あのでかい淡紅色の五弁花は、朝開いて夜しぼむ。道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり、芭蕉」
 ハハハ、ホホホ、とみんな笑い出した。山口は泣いている。吉永先生が、
「あの高い木は、上板橋の大家さんの庭にそびえてます。房みたいに垂れ下がってるあの赤い実、よく見るわ」
 恩田が見上げるような格好で、暮れだした空にフラッシュを光らせる。
「イイギリ。高級な下駄の材料だよ」
 素子が、
「歌はないの?」
「あるかもしれないけど、知らない」
 山口が頬を濡らしたまま大きく笑い、
「ね、神無月は娯楽の種も提供してくれるんだ。いつも静かに、退屈そうに閉ざしてるドアじゃない。叩けよ、さらば……あれ、意味がちがったかな」
 私は笑いながら、
「そう、ちがってる。ぼくは神じゃないから」
 カズちゃんが、
「大きな意味で当たってるわ。祈ればかならず応えてくれる」
 節子が近づいて、私の腕や肩をさすりながら、
「キョウちゃん、好き……」
 縁側からおトキさんが呼びかける。
「ひやむぎできましたから、それをおやつにして夕食を待っててください。一時間ぐらいかかります」
 恩田がおトキさんに向かってシャッターを切った。
 やがて、おトキさんといっしょに素子と法子が大小の皿鉢と箸を配置しながら動き回り、賄いの若い女たちが料理を盛った大鉢を運びこみはじめた。
         †
 豪勢な夕食が終わり、カズちゃんたちとトモヨさんが風呂にいき、よしのりがトルコへ去り、記者たちと菅野が雀卓を囲んだのを潮どきに、文江さんの塾へ出かけていった。北村席の新居からは十分ほどかかる。
 暗い庭の奥に教室のガラス戸が明るく輝いている。文江さんは二人の生徒を居残らせて指導していた。増設した塾は、高段持ちの教師を二人雇って河合塾のそばで開いていると聞いた。この家で三十名ばかり教えているとすると、そちらで百名近い生徒を引き受けているとわかる。病み上がりのからだで百人は教えられない。教えたくもないだろう。田舎で数人の生徒を教えるだけで満足していた女なのだ。思わぬ〈出世〉をして、がらりと変わってしまった生活に戸惑っているかもしれない。やがて二人の生徒が自転車に乗って帰った。
「こんばんは」
「わあ! キョウちゃん、待っとったよ」
 笈瀬通の旧宅とはすっかり様子のちがう家の中に上がる。下駄箱の上にアイリスが一輪挿してある。
「好きだ言っとったでしょ」
 言ったかもしれない。健児荘に移った日、表に買いに出た覚えがある。牛巻病院の受付カウンターにあったのと似た花を買った。節子のいない葵荘でその記憶をしゃべったのかもしれない。あれ以来花を買うような気持ちになったことは一度もない。
 —―閃くものがあった。
 私が父の姓を名乗っているということだ。育ての親ではない人間の苗字を望んで名乗っているということだ。これこそ母の怒りの源にちがいない。
「滝澤って、別れたご主人の姓?」
「私のよ」
「吉永先生はどっちなんだろう。姉妹二人だけで生きてきたと言ってたけど」
「そういうときは、どっちでもええんやないの。ようわからん。どしたん?」
「おふくろがいつか、ノーベル賞だろうとヘーベル賞だろうと、親不孝な人間がどんなに華やかな賞を受けても何の価値もないと言ったことがある。彼女は一生ぼくを許さない」
 文江さんは教室の長机を隅に寄せ、箒で畳を掃きながら、
「お母さんがキョウちゃんの何を許さんの。お父さんの苗字を名乗っとること? ちっとも悪いことやないでしょ。キョウちゃんは小っちゃいころから何一つ悪いことしとれせんのよ。かわいそうに、いつまでもお母さんに遠慮して。お母さんに申しわけのうて、私をかわいがってくれとるん?」
「まさか。あっちがああだから、こっちでこうという考え方はしないよ」
「わかっとるわ。私がキョウちゃんを愛しとるからよ。癌、ほんとにようなったで。オリモノもぜんぜん出んし、体重も五キロも増えた」
「よく濡れる?」
「それも変わらん。キョウちゃんのこと考えただけで、めちゃんこ濡れるよ。でも、自分ではせん。気持ちようないで」
 文江さんの陰部を無性に見たくなった。
「見せて」
「……ええよ。もう濡れとるで」
 

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