百三十

 脱衣場で服を脱ぐトモヨさんの、しっとりして輝くほど白い背中を眺める。
「ほくろを見つけるね」
 ほくろの場所と数を確かめる。足首から背中までは一つもない。右の首筋に一つある。こちらを向かせて足首から見上げていく。まったくない。紅みを帯びた顔には、左頬に二つ並びの淡いほくろ。子供を産んだと思えない腹の筋肉。この一年で、大きな胸の乳首が少し長くなっている。
「ほんとにきれいだ。乳首が長くなってるのは直人のせいだったね?」
「はい、恥ずかしい。吸う力が強いんです」
 浴槽の縁に坐らせ、陰部を調べる。黒ずんだ小陰唇が肌色に変わるあたりに、かすかにシミのようなほくろがある。愛液が滲み出ている。
「ここにほくろがある」
「……知らなかった。ああ、郷くん、おかしくなってきました」
 陰唇を広げて、ほくろを舐める。小陰唇が硬く張ってきて、クリトリスが突き出る。含みやすい。
「あ、だめ、イキます!」
 腹を縮めて数度痙攣する。
「入れたい?」
「はい」
 後ろを向かせて、乳首をつまみながら挿入する。
「ああ、気持ちいい! 愛してます!」
 すぐに気をやり、三度、四度と縛めつけてくる。ゆっくり動くたびに同じ反応を繰り返し、走る、走るとうめきながら、ついに緊縛が極限に達して、
「もうだめ! キスして、キスしてください!」
 顔をねじ向けて唇を求める。唇を吸いながら、潮を高めていく。一瞬の強い反応を待ち構え、一気に射精する。唇を離さないで反射を伝える。膣が箍のように締まって、口が離れる。湯につきそうになる顔を持ち上げ、もう一度唇を吸いながら、性器を抜く。
「走る、走る、ううーん、イク!」
 抱きかかえてこちらを向かせ、痙攣する腹に腹を押し当てる。
「愛してる、トモヨさん」
「ああ、郷くん、好き、大好き!」
 ふるえが治まりかけたからだを抱え上げて湯船に沈む。ふと、東大の部室で重量挙げをしているような気分になった。唇を吸う。
「出産は、もうつらいんじゃない?」
「あと一人くらいはだいじょうぶ。子供のかわいさに感動すると、何でも耐えられるようになります。出産の苦しみなんかどうということありません」
「きょうは?」
「安全日。残念だけど」
 やさしく唇を吸ってくる。それから頭のにおいを嗅ぐ。
「ここだけが人間らしいにおいをさせてます」
 洗い場に上がり、私を床几に腰かけさせて洗髪シャンプーをつける。指の腹で皮脂を搾り出すように丁寧に揉む。
「上手だね」
「ときどき女将さんの髪もやってあげるの。上手だって言ってくれます」
 湯をかけて流す。
「トモヨさん、幸せ?」
「とっても」
「よかった。人の不幸はつらいから」
 からだの水気をすっかり取ってもらい、清潔な下着をつけて二階へ上がった。ニスのつやの初々しい褐色の廊下が長くつづいている。左右に店の女たちの部屋が並ぶ。
「ここ、おトキさんの部屋」
 トモヨさんが耳打ちする。襖ふうの引き戸が新しい。トモヨさんが戸を引いたのは、その向かいの和風の豪華な客部屋だった。私たちが風呂に入っているあいだに女将が整えたのだろう、ふかふかの蒲団の枕もとに、行燈と水差しとティシューボックスが置かれていた。ふたりであらためて全裸になり、掛蒲団の上に横たわる。首筋から美しい下腹までをゆっくり撫でる。
「トモヨさん、こんな人生でいいの?」
 私は手を止め、訊いた。
「郷くんは自分の存在の大きさをわかってないようですね。一から十まで満足なんですよ。こんななんてもったいない。そう言いたいのは私のほうです。さっきお嬢さんもおっしゃいましたよ。二度と自分を卑下するようなことをおっしゃらないでください」
「うん……東奥日報さんが言ったとおり、だれにも理解されない人間関係だ。トモヨさんに遇ったころは、カズちゃんしかいなかったのに、いつのまにかこうなってしまった」
「女がたくさんいるのはあたりまえです。輝くような美男子だし、若いんだもの。もっともっといてもいいくらいです。引け目を感じることはありません。みんな郷くんそのものを愛しているんです。郷くんを知らない人に、郷くんの引力が理解されるわけがないでしょう。引力が届いていないんだもの、実感できないわ。人間関係なんて大げさなことを言ったって、郷くんと私たちだけの関係ですよ。世間の片隅のちょっとしたグループ。人間関係というほどのものじゃありません。公になったら郷くんが葬られるということはきっとほんとうだと思います。だから郷くんが何か楽しいことをしているあいだは、私たちはそれをじゃましないように細心の注意を払わなくちゃ」
「……このままでいいんだね?」
「くどいですよ。もちろんこのままでいてもらわないと困ります。私、とても生きていられない」
「お金に困ってない?」
「困ってるもんですか!」
「餞別を飛島の社員からたくさんもらった。二十四万円。ぜんぶ置いてく。ぼくは使い方を知らないんだ。トモヨさんが役に立てて」
「郷くん! 私はぜったいあなたからお金をもらわない。どんな種類のお金も、どんな目的のお金も。お金に困るのは、お金に聡い人だけ。私はそういう人間じゃないの。だからむかしからお金に困ったことはありません。身を売ってたのは、お金がほしかったからじゃなく、人が嫌いになって、愛せなくなったからです。郷くんに会って、心底愛して、短気に行動してきたことを死ぬほど後悔してます。つくづくきれいなからだで会いたかったと思いました。こんな私を気にかけてくれるだけで、もう何も望むものはないんです。これっきり、そういうことは言わないでね」
「……ぼくは幼いころ、貧乏な祖父母に預けられて育った。金なんてものは見たこともなかったから、ほしいと思ったこともなかった。飯場に入ってから、急に金が手に入るようになった。おふくろにすべて取り上げられたせいで、金にまつわる状況は野辺地にいたときと同じだったけど。いや、ちがうな。社員たちから〈もの〉をたくさん買ってもらうようになったから、ぜんぜんちがうな」
「それじゃ、お金をほしくなるなんてことはなかったでしょう」
「なかった。金を財物として経験できなかった。だから、いろいろな人から金が直接手に入るようになってからも、使いたいという気持ちになれないままきょうまできた。どう使ったらいいかわからないんだ。使おうとすると、みんなに使うなと言われる。貸してくれとも、おごってくれとも言われたことがない」
 腕枕をしてやる。どんな話も交歓の余韻を味気なくすることはない。私は金の話をつづけた。
「金にあくせくする人たちの集まりを社会と呼んでるようだけど、だからこそ社会というものを理解できないし、関心も持てない。ぼくの周りの人たちは、不思議なことに一人も金にあくせくしていない。人数や規模の問題じゃなく、正真正銘、彼らは〈社会〉じゃない。母は、単品でも社会だ」
 トモヨさんは熱くほてった腕で私を抱き締め、
「あくせくしている人にもキョウちゃんは親切にしてあげられる人です。いいえ、そういう人にこそ、キョウちゃんは親切にしてあげようとするんです。ほんとに郷くんのすることに理屈はないってつくづくわかります。私もむかしからお金の使いみちがわからない女なんです。ましてや、いまはお義父さんお義母さんにまかせっきりで生きてますから、よけいです。……とにかく、私の前ではもうお金の話をしないでくださいね。直人との生活は、お給料でじゅうぶん足りてますし、お嬢さんの代わりに箱入り娘になったような具合ですし」
「よくわかった。いくら貯まるかわからないけど、このまま貯めつづけるよ。もう、何百万円にもなった」
「そんなに! お嬢さんに預けておくのがいちばんいいわ」
「預けてる分もあるよ。お義父さんまで送金してくれるし、もう困ってしまう。いくら貯めたって、メンコやビー玉を貯めるほど楽しくはないからね」
 トモヨさんは私を眠りにつかせるように、胸をやさしくリズミカルに叩いた。私はその手を押さえ、脈絡なく長い話をつづけた。国際ホテルのこと、破傷風のこと、保土ヶ谷のこと、寺田康男や滝澤節子のこと、野辺地中学校、青森高校、山口のこと―。
「何度繰り返し聞いても、すてき……まるで百冊の小説ね。世間の人は、紙の表紙に挟まれた小説だったら歓迎するかもしれませんけど、生きた人間の皮で製本された小説は、たとえばキョウちゃんの場合のように、黄金の皮膚で仕立てたものでも、不思議なほど警戒するのがふつうです。キョウちゃんのすばらしい身の上話をだれか一人にでも話したら、たちまちとんでもないホラ話になって世間に広まるでしょう。東奥日報さんの言ったとおりです」
 眠気は襲ってこなかった。たがいの話が休まる合間に唇を吸い合い、また話をした。
「もう二時。寝ましょう」
「うん。幣原さんて?」
「賄いの人。住みこみで、もう長いわね。私より二つ上。とても直人をかわいがってくれるの。もう何回かお願いしたわ。安心よ」
 トモヨさんはやさしく私を抱き締め、規則的な寝息を立てはじめた。
         †
 八月十八日日曜日。塩鮭と海苔と漬物で二膳食って満腹になったあと、ピータンの中華粥が出た。別腹で食えた。朝の庭に降る霧雨を食卓から眺めた。ひさしぶりの雨だ。眼鏡をかけると、鮮明な緑が濡れて光った。
 トモヨさんとおトキさんがコーヒーを出した。縁側にあぐらをかいて飲む。山口とよしのりは食卓にいて、主人たちとベトナム戦争に関する話をしている。ソンミ虐殺とか北爆部分的停止という単語が聞こえてくるが、何のことやらわからない。私の横で女将が直人を膝に遊ばせている。店の女たちが私に寄ってきて、
「ええ男やねえ」
「一度抱いてほしいわ」
 頬をさすられた。
「きょうも仕事ですか?」
「そ。指名があったら電話が入るの。歩いて五分や」
 彼女の隣にいた女が、
「指名を待たんで歩合を稼ぎにいく子もおるよ」
 左右の女たちをしみじみと見る。ほとんどが三十代のようだ。もっと年増もいる。見映えのいい女が多い。
「狭い部屋でするの?」
「そ。空気マットで」
「ゴムをつけるの」
「あたりまえやが。病気になってまうがね」
「じゃ、ぼくは遠慮するよ」
「神無月さんとするときは、ゴムなんかせんわ」
 カズちゃんたちの愉快そうな笑い声が飛んできた。私は、
「寮のほうに泊まってる人は、若い人たちばかりでしょう」
「年とった人もおるよ。職場から近いってだけ。ここほど楽しくごはんは食べられないけど、自由に時間が使えるし、出入りも気楽でしょ」
「給料はいいの?」
 おいおい神無月さん、という主人の声がした。
「質問がストレートすぎますよ」
 女は構わず、
「むかしは一分九分なんてひどい搾られ方してた時代もあったらしいけど、戦後に四分六になって、売春防止法が出てからは五分五分にしてる店がほとんどやね。北村席は六分四分や。そんな店、大門では一軒きり」
 ウホンと主人が得意げな咳払いをした。
「人気商売ですからね。お客一人につき二千五百円から五千円の子までおります。素子さんの妹のハルカちゃんは三本指の売れっ子で、五千円です。きのうトクに聞いて、驚きましたよ」
 素子が、
「え、あの子が! そんならあたしが仕送りする必要がないわけや」
「六分四分ですと、千五百円から三千円までですな。一日最低五人の客を取るとして、七千五百円ないし一万五千円の稼ぎの幅が出ます。月に二十日働けば、十五万から三十万の収入になります」
「世間の女性事務員の十倍から二十倍の給料ですね」
 女は満足げに、
「そう、バンスを返しても、かなり贅沢できるわよ」


         百三十一

 女将が、
「因果な商売ですよ。どんな贅沢も身を切り売りしてのうえやからね。惚れた男とできるわけやなし、神無月さんたちみたいないい男がいつもきてくれるとはかぎらないし、無理やり、味気ないオマンコせんといかん。頭にはお金のことしかなくなってまう。好きな男とすれば天国やけど、嫌いな男が相手やと地獄や」
「そのとおり!」
 と山口が声を上げ、よしのりがうなだれた。私が、
「ハルカちゃんには会えたのか」
「一時間待たされているうちに気が変わって、シャトー鯱にいって別の女を抱いた。素ちゃんの妹だと思うと、ちょっと罪悪感があってな。自腹切ったぜ」
「横山さん! そのお支払い、お返しします。私の顔を潰すようなことをしないでください。何ていう子でした?」
「お父さん、俺は神無月や山ちゃんみたいにもてないんです。棚からぼた餅を断るのが男の面子です」
「ハハハ、男の面子はヤクザにまかせときなさい。素人さんはそんなもの捨てて、ぼた餅をただおいしく食べればええんです」
 朝のうちに一人だけで駆けつけてきた田代が、真剣な顔でテープレコーダーを回しはじめた。
「記事に採れる部分が少なかったので、編集も七、八時間で終わりました。浜中と恩田は昼にきます」
 節子が、
「ほとんど採れなかったでしょう」
「思惑どおりです。だいじょうぶです」
「……発表できないのが残念ですね。結局、キョウちゃんの全貌が世の中に知られることは永遠にないんでしょう?」
「ゴシップ雑誌なら、事実から遠くなるように、しかも、尾ひれをつけて書いても笑ってすまされるんでしょうけど、神無月さんの周辺記事も大幅な割愛が入るので、捏造された記事みたいに思われるでしょうね。最終的に実像は知られないままでしょう」
 アァ、アァ、と直人が主人夫婦に甘えかかる。さっきとは別の女が、
「神無月さん、きれいな髪やね。ツヤツヤしとる。何か塗っとるの」
「いや。地毛です」
 女は私の髪を撫でた。
「わあ、気持ちいい」
「××さん、キョウちゃんはお地蔵さんでないのよ。気持ちはわかるけど」
 そうカズちゃんが言って笑った。吉永先生がその女に向かって、
「和子さんがいつも話してくれることですけど、だれかをとてもなつかしく思うことがあるでしょう? その人に会うのは初めてなのに、前からずっと知っていたような感じ」
「あるかなあ」
「それなのに、いつどこで会ったかと考えると、場所もときも思い出せないの。それなら前世のことじゃなかったのかしら、なつかしいというのも、前世での思い出が甦ったのじゃないかしら、と思っちゃうような」
「ないと思う」
「そうですか。人を好きになったことがないんですね」
 節子が、
「みんなにそういう気持ちを期待しても無理よ」
「だって、キョウちゃんの髪を撫ぜてたわ。てっきり……」
 鬼頭倫子を思い出した。法子がキクエに、
「きれいなものを触りたかっただけのことでしょ。なつかしいというのとはちがうんじゃない?」
 カズちゃんが、
「惹かれても叶わないとあきらめて、好きになる直前で遠慮してるのね。思惑は人にあり、定めるは神にあり。なかなか思うようにはいかないものよ」
 よしのりが、
「名古屋名物、パチンコでもしてこようかな」
「私もいく!」
 カズちゃんが立ち上がった。
「私も!」
 残りの四人も立ち上がった。山口が手を挙げ、
「俺はお父さんたちと話をしてるよ」
「傘は要るかしら」
「ほとんど上がっとるわ」
 髪に触れた女が庭の縁を眺める。私は、トモヨさんの胸にかぶりついている直人の頭を撫ぜた。庭を眺めながら山口たちといっしょに一日すごしたい気がしたが、彼らについて表に出た。ときおり顔に感じる程度の霧雨だ。
「ああ、すがすがしい!」
 キクエが両手を拡げた。節子が、
「私、パチンコなんて初めて」
「みんなそうよ。儲かるといいな」
 法子が言う。私が尋く。
「資金ある? なければ回すよ」
「ある、ある」
 カズちゃんが、
「五百円までにしなさいよ。ちょっと楽しんだら、タクシーで花屋へいきましょう」
 駅前の大きなパチンコ会館に入る。千台ほどもある大型店だ。ホールを廻って歩くのはたいへんなので、入口近くの台を物色する。女たちもそれぞれお気に入りの場所へ散っていく。
 空き台を探してうろうろ隘路を巡っていると、見覚えのある横顔が煙草を吸いながら熱心に玉を弾いていた。一瞬、血が退く思いがした。まさかと思いながら、彼の背中を通り過ぎたり戻ったりして、いろいろの角度からその眼鏡面を眺めた。口を開けたあごをだらしなく上げ、舌を円筒形に丸めて突き出したまま、ゆっくり指を動かしている。片方の手が器用に玉を流しこむ。ときどき灰皿の煙草を指に挟んで吸う。
 私は眼鏡をかけて彼の横顔を確認した。まちがいない。守随くんだ! これほど長いあいだ変化しない顔というものがあるのだろうか。私は背後に立って声をかけた。
「守随くん―」
 眼鏡の痩せ面がゆるゆる振り向いた。しばらく私を見つめてから、
「だれ?」
 おまえなどまったく知らないという表情だ。彼の顔は少しも変化していないのに、私の顔はひどく変わってしまったのだろうか。
「神無月です、神無月郷」
 顔が明るく輝くかと思っていると、彼は無表情に、
「ああ、神無月くんか」
 とボソリと言った。パチンコ台のほうを向き直ったので、私はてっきり黙殺されたのかと思った。守随くんは、受け皿に残っていた玉をプラスチックの小箱に入れると、隣の男に渡した。
「これ、あげるわ」
 男はぽかんとした顔で、どうも、と言って頭を下げた。知り合いではなさそうだった。守随くんは能面の表情を崩さずに、
「うちにくる?」
 と言った。水曜日にきて、きょうが日曜日だった。あさっての昼に帰る予定だ。
「あしたの午前なら。きょうは予定があるから」
 キクエとカズちゃんが並んで台に向かっている横顔が目に入ったので、手を振った。気づいて二人でやってきた。
「ぼくに勉強を教えてくれた、あの守随くんだ」
「エー!」
「ちょっとみんなを捜してくる」
 キクエは駆けていって、やがて節子と素子と法子を連れてきた。
「横山さんは、もう少しやっていくって」
 景品交換所で六人分の玉をハイライト四箱に替えると、守随くんに渡した。彼は、サンキューと言ってあたりまえのように小さな紙袋を受け取った。
「お茶を飲みにいくけど、いっしょにどう」
「ああ、いく。おごってや」
 店の外へ出る。霧雨が降りつづいている。法子が彼に近づいて、
「憶えてる? 中二と中三のとき同じクラスだった山本法子」
「え? ああ、なんだか憶えとる。飲み屋の娘やろ」
 守随くんは、すっかり軽薄な感じになっていた。法子は小声で、チンケなやつ、と言った。
「こいつらは、何や」
 と守随くんが言うと、素子は露骨にいやな顔をした。私は黙っていた。七人で駅前の信号を渡った。ロータリーでタクシー二台に分乗して花屋に向かう。カズちゃんは節子とキクエと素子といっしょに先行の車に乗り、守随くんと法子と私は後続の車に乗った。
「神無月くんはよくあなたのことを話してたのよ。勉強のお師匠さんだって」
「冗談やろ」
「ビックリするような人に遇ったって言うから、だれかと思ったら」
「がっかりやろ」
「あんた、ほんとに神無月くんに勉強教えたの?」
「俺はそう思っとらん」
「そうでしょうね。神無月くんなんか、いまじゃ―」
 私はさえぎり、
「こんな遠くまでパチンコしにくるんだね」
「行脚だよ。市内の店を回り切ろうって決めて、高校のときからつづけとる。ここんとこ何カ月か中断しとった。東京に就職してな。夏の有給で帰ってきたから、行脚のつづきってわけや」
「高校、中退したんだってね」
「だれから聞いた?」
「加藤雅江か鬼頭倫子だったと思う。鬼頭には道で偶然遇った」
「加藤雅江とは一回メイチカですれちがったで。一家で歩いとった。オニアタマは顔忘れてまった。もっとも、俺、中学時代からだれとも付き合っとらんからな」
「東京の何て会社にいるの?」
「品川発條。大田区の雪谷というとこに本社がある。できて十年も経たん小さな会社や」
「信じられないな。あの守随くんが……」
「あのって、どんな人間やと思っとったんや。もうええが、そんなこと。もともと〈ただの人〉だったってことだがや。分相応な生き方やで。それより神無月くんは、なんであのパチンコ屋におったんや。女どもといっしょに」
 私は微笑んでごまかした。法子はムッと押し黙っている。
「帰省でこっちにきたんか?」
「うん」
「大学は」
「いかなかった」
 法子がハッと私を振り仰いだ。
「神無月くんなら、そうやろな。人と同じ道はいけせん。野球はやっとるんやろ。抜けとったで」
「やってない。いまはプー太郎だ」
 法子がまた何か言いかけたので、私は膝を押さえた。
 タクシーを降りると、法子はすぐにカズちゃんたちの中へ走っていった。店の前でしばらくたむろしながら話す。カズちゃんが守随くんに向かってつかつかとやってきた。
「あなた、キョウちゃんに見かぎられちゃったわね。キョウちゃんが自分のことをプーと言ったのは、あなたを見かぎったからよ。これを最後のお付き合いにしなさい」
 どやどやと店に入る。守随くんはトロンとくっついてきた。
「いらっしゃい! あら、あなたたちひさしぶりね。吉永先生! 何年ぶり?」
「一年も経ってません」
「そうだったっけ。おや、初めての人も混じってるわね」
 女将さんが節子に笑いかける。節子は頭を下げた。守隋くんはそっぽを向いていた。レジからお婆さんも出てくる。
「おや、おたく文化祭以来だね」
 カズちゃんが深く頭を下げ、
「あのときはお騒がせしました」
 女将が、
「とんでもない。あんた、神無月さんがきてくれたわよ!」
 女将はテラテラした笑顔を厨房に向ける。マスターが厨房から顔を覗かせ、
「よ、ご無沙汰。東大準優勝、三冠王、おめでとう。色紙のおかげで千客万来だよ」
 店内がざわざわとなる。
「東大のバケモノか?」
「神無月だ、神無月」
 守随くんは口をアングリと開け、壁の色紙を見た。
「どういうことや、神無月くん」
「うん、プー太郎にはちがいないよ。他人のすねを齧ってる」
「あなた、新聞読まないの」
 法子が睨む。女将さんが、
「どうぞ、奥の部屋へ。クーラー点けてあげる。特製オムライスいく?」 
「はい。みんなは?」
「俺は焼肉定食」
 守随くんが言う。カズちゃんが、
「あとは、みんな特製オムライス。それからコーヒー」
「俺はお茶でええわ」
「いちいちうるさいわね」
 法子が言う。クーラーを点けて女将さんが去ると、
「なんで大学にいかんかったって言ったんや」
「思わずね」
「同情したんか」
「同化だね」
「ふうん。……東大の野球部でどんな記録作ったんや」
 守随くんが虚ろな眼で訊く。カズちゃんが、
「知りたくもないことをご機嫌取りに訊くなって、あなたむかしキョウちゃんに言ったんでしょう。何度もキョウちゃんから聞いたわ。あなたもそうしなさい」


         百三十二

 女将がまた入ってきて、
「すみません、お客さんがサインをくださいと言っとるんやけど。ほとんど西高の学生さんですけど、いいですか」
「ええ、いいですよ」
 学生服とセーラー服がどやどや入ってきて、手帳やノートを差し出す。
「ほんとに神無月だ」
「ほんものや」
「神無月って、美男子やなあ」
「あんたたち、呼び捨てやめなさい」
 吉永先生が叱る。思わず教師気分が出たようだ。彼女の顔を見知った学生はいないとわかった。私は楷書のサインと、相手の名前と、昭和四十三年八月十八日という日付を記して彼らに返した。
「ありがとうございます」
「一生、記念に持ってます」
「土橋校長先生や加藤信也先生に会ったら、よろしく伝えといて。今度、きちんと会いにいきますって」
「はい!」
「加藤って、入院しとるんやなかった」
「おお、もう半年になるで」
 お婆さんが盆に載せた水を、女将さんが両手にオムライスを器用に二皿ずつ持って入ってきた。引き返してすぐオムライス二皿と焼肉定食を運んでくる。お婆さんが、
「すごいご活躍で。息子はいつも壁のサインをお客さんに自慢してるんですよ」
 そう言って店に出ていった。入れ替わりにマスターがタオルで額を拭きふきやってきて、
「神無月さんがドラゴンズにいってくれれば、あの色紙の価値はとんでもないものになりますよ。もちろん売りませんけどね」
「お子さんはいるの?」
 カズちゃんが訊いた。
「高校二年生の男の子がね。勉強も運動もダメで、山田高校にかよってます」
 女将が、
「神無月さんのことは、うるさがって聞こうとしないのよ。テレビは歌番組ばかり。グループサウンズって言うんですか?」
 カズちゃんが、
「ノンビリ放っておけばいいんじゃないかしら。だれも赤の他人のことなんか聞く必要もないし、他人のことをいちいち自分の身に引きこんで考えてたら、人生いくら時間があっても足りないわ」
「そうでしょうかね」
「お子さんの人生ですからね。大切な時間です。話しかけられたら応える程度でいいと思いますよ」
 素子が、
「ほうよ、みんな自分のことで忙しいんやもの。うちらはちがうけどね」
「……それからね、女将さん、勉強にせよ、スポーツにせよ、集団のレベルどおりの結果が出ることはめったにないんですよ。山田高校でだって、本人にやる気さえあればいくらでもがんばれます。じゃ、いただきます」
「いただきまーす!」
 マスター夫婦が笑顔でお辞儀をしながら去った。守随くんは焼肉をめしといっしょに頬張りながら、
「神無月くん、すっかり有名人やが」
 吉永先生が、
「すっかりなんて、いやな言い方ね。守隋さんも小学校のころは有名人だったんでしょう。キョウちゃんが有名になったのは、周りの人たちが眼鏡をかけ直したからよ」
 おいしい、おいしい、と黄色い声が上がる。カズちゃんが守随くんに、
「キョウちゃんは知名度になんか関心がないの。でも、有名になりたくなくても、能力が高ければ有名になってしまう。キョウちゃんの能力を見たくて待ってる人が何千人、何万人もいるの。私は、能力とか有名無名とか関係なくキョウちゃんが大好き。……ここにいる女の人たちも同じ。キョウちゃんを愛さない人たちは、能力や有名無名にこだわるわね。恋人や親友は特別な関係だから取り巻くのはあたりまえだけど、それ以外の人が取り巻くのはそういう関心がある場合だけ。そういう人たちは、そのうち飽きて離れていくわ。私たちはどんなときも離れない」
「俺はここにきたくてきたんやないから、離れるも何も……」
 節子が、
「引き寄せてもらえただけ、ありがたいと思いなさい」
「俺にはどうでもいい世界や」
 私は言った。
「守随くんの言うとおりだ。不本意な関係は、しばらくしたら平穏に戻る。好ましい関係は最初から平穏だ」
「何言っとるか意味がわからんで」
 私は軽蔑顔の女たちに言った。
「これも何かの縁だ。あしたの午前中、守随くんの家にいってくる」
「いいわよ。東京には二十日の夜までに帰ればいいから。みんな出勤は二十一日からのはずよ」
「守随くんの家にいってどうするの」
 法子が訊く。
「むかし世話になったお父さんお母さんに挨拶してくる」
 みんな呆れたように微笑む。いや、呆れたふりをする。だれも呆れてなどいないのだ。
「ついていこうか」
 法子が言う。カズちゃんが、
「話が面倒になるから、キョウちゃん一人でいってきたほうがいいわ」
「はーい。抜け駆けしようと思ったけど、だめだったか」
 みんなでゲラゲラ笑う。素子が、
「東京に戻れば、抜け駆けでも何でもゆっくりできるやろが」
 守隋くんは理解をあきらめ、一心に焼肉を食いはじめた。私たちもしばらく無言でオムライスに集中した。めしを食い終えた守随くんが、茶をすすりながらおもむろに、
「神無月くん、ええことだらけで、ぼんやりしてまうやろ」
 素子が、
「キョウちゃんのことは、あんたが七回生まれ変わってもわからんわ。自分が人のためにちゃんと生きられんて苦しむこと、あんたにある? 苦しそうな顔しとるけど、ほんとに苦しいのかいな。何のための高校中退やの。思わせぶりやなあ。怠け者なだけやないの? これからの世の中、あんたみたいな人が増えていくんやろな」
 吉永先生が、
「社会的に成功できない苦しみより、個人と深く関わるために社会的に成功したくないという苦しみのほうが、ずっと深いと思うわ。成功できたら解消される苦しみなんか、一人ひとりを深く愛したいという苦しみに比べたら、ゼロみたいなものね」
 法子が、
「きょうからは、その皮肉面をやめたほうがいいわね。勉強を教えてくれたときのあんたは、とても大らかな人だったって聞いたわ」
 カズちゃんがみんなを手で制した。
「キョウちゃんのお師匠さんよ。もっとやさしくしてあげて。小学校五年生のとき、守隋さんのおかげで、キョウちゃんが勉強の仕方を覚えたことは確かなのよ。私、そのころのキョウちゃんのこと憶えてるの。表情に自信のようなものが出てきてね、見ていて頼もしかった。それまでは野球一筋だったから」
「いっしょに勉強しようって、守随くんのほうから声をかけてくれたんだよ。ぼくみたいな野球小僧に」
 守随くんは、ふん、と笑って、
「勉強なんか教える気はあれせんかった。種を明かせば、話がしたかっただけや。いざ参考書を開くと、神無月くんがあんまり真剣なんで、思わず俺もまじめになってまった。それからすぐに追い抜かれたわ。話をしても、なんやろな、思った以上に一本気で、圧倒された。つい悪口を言ってまった寺田くんを神無月くんが必死でかばったときには、こっちを殺しかねない勢いやった。……あれから、神無月くんとは遠ざかったな。自分の凡人性が見えて、なんだか頭の中がワヤになってまった」
 吉永先生が、
「ショックを受けたからって、自分を悪く改造することはなかったのよ。そのまま勉強家を通せばよかったの。小学校の一番だったそうね。高校までいったのなら、大学なんてどこでも受かったでしょうに」
 節子が、
「そう、それこそ、あなたの生き方よ。無頼なんて似合わない。無頼というのは、もっと真剣なものよ」
 守随くんは頭を垂れた。妙に芝居じみていた。
「さ、そろそろ帰りましょ。長い散歩になっちゃったわ」
 カズちゃんがママさんを呼んで金を払った。
「タクシー呼びますか」
「いえ、市電で帰ります。ごちそうさまでした」
 お婆さんが、
「神無月さん、今後のご活躍をお祈りしております。こちらにいらっしゃったら、かならずお寄りください」
「はい。またしばらくこれませんが、きたらかならず」
 マスターが厨房の窓から顔を出し、
「秋、優勝を期待してますよ。あの色紙の脇にホームランの本数を書くことにしてるんですよ。いまは二十六と書いてあるでしょ」
「はあ、ありがとうございます」
「からだに気をつけてがんばってよ」 
 店の扉の前で腰を低くして見送る女将とお婆さんに手を振った。西高の学生たちも彼らの背後で手を振っていた。
 市電道に向かって歩く。守隋くんに西高を見せたが、定まらない視線をあたりに配るばかりで、その場を早く去りたそうだった。素子が私のそばに寄ってきて言った。
「あした、あいつの家にいったらすぐ帰ってきて。あいつ、おかしいで」
 みんなで市電に乗った。守随くんに合わせて無言だった。むだな道草を食っている気がした。名古屋駅で降りるとき守隋くんは、オミクジのように丸めた切符を、車掌の掌からわざと外すようにステップにポトンと落とした。車掌はギョッとした顔をしたが、守随くんの行動に異常を覚えたのだろう、何の咎め立てもしなかった。節子がそれを拾って車掌に渡したときには、守随くんはもうステップを降りて道を渡りかけていた。
「なに、あいつ」
「鬱病かもしれないわね」
 ぷりぷりする法子に節子が言った。吉永先生もうなずき、
「治療は難しそう」
 私たちに追いつかれた守随くんは、
「あした、十時に熱田高校の垣根で待っとる」
 そう言うと、細い首を振りながらまたさっきのパチンコ店のほうへ歩いていった。カズちゃんが気の毒そうにその背中を見送った。私はカズちゃんに近づいて言った。
「今夜、文江のところへいかない。いやなわけじゃないんだ。彼女のからだに響くような気がして……」
 カズちゃんは思案顔になり、
「だいじょうぶだと思うけど。でも、それでいいかも。文江さんもきっと、きょうはキョウちゃんがこないと思ってるわ」
 北村席に帰りつくと、四時過ぎだった。すでに菅野やよしのりや浜中たちが直人を中心に座敷に集まっていた。私たちはひとしきり直人をいじった。菅野が、
「成果はどうでした。足がくたびれたでしょう」
「それがね―」
 法子が守隋くんのことを菅野や浜中たちに報告しているあいだ、カズちゃんたち女四人は、直人を抱いた主人夫婦の脇で脚を投げ出しながら、煎餅を齧ったりコーヒーを飲んだりした。
 私は縁に出て、しばらく古いツゲの木を眺めた。旧宅からここに移し替えたものだ。灰色の幹から伸びた枝に、ハート型の葉が群がり生えている。黒い土や、厚くかぶさるほかの木々の繁みが、新居の土壌にじゅうぶん湿気と養分があることを証明していた。
 ―守随くんはあんなにいたぶられたのに、どうしてあした待ってると言ったのだろう。いやな予感がする。
「きょうは一番風呂にしたら?」
 トモヨさんが背中にきて言うので、山口とよしのりを誘って風呂に入った。
「よしのり、きょうの成果はどうだった」
 背中を流しながら尋く。
「ぜんぜんだめ。席に帰ったらオヤジさん夫婦に散歩に誘われた。柳橋まで歩いて、直人の玩具を買いまくったよ。足が疲れた」
「ふところは痛まなかったか」
「一円も。それどころか、いい足袋と帯を買ってもらった。稽古に身が入るぞ。しかしおまえは直人に冷たいな。あんまり顔も見ないじゃないか」
「独立した卵子と独立した精子が直人のからだの中で新しい共同生活を始めたんだ。親代わりも三人いる。口出しは無用だ」
「それもまたひどい言い草だな」
 そう言って山口が笑った。
「……じっと見てると、かわいくて離れられなくなる。自分の子供だと思うとますますかわいい。でも、子育ては禁欲すべきだ。ふつうの親のように責任を全うできない。直人はぼくに愛されてることを知らないし、親だとも知らない。追々知るようになるだろうけど」
「なるほどなあ。子育てを禁欲するか。変わった考え方だが納得できる」
 よしのりが、
「俺は納得したくない」
「納得されなくていい。―浜中さんたちと話は弾んだか」
「山ちゃんと俺に、おまえとの馴れ初めをしつこく訊いたよ。昼から城を撮りにいってたみたいだな」
「雨の中をか」
「ああ、浜中氏は本気でノンフィクションを書く気らしい。これからも追いかけ回されるぞ」
 山口が湯船でタオルを使いながら、
「追いかけ回しはしないな。彼ら、青森に戻って夢から覚めたら、おまえを遠く感じるんじゃないかな。世間的な価値がある報告になるかどうか、熟慮すると思う」
「だろうね」



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