百三十三

「ところで、今夜もおトキさん?」
「もちろん、きょうあすと袖を絞らなくちゃ」
「俺は、席の女と約束ができた。年増だけど、サックなしでいいって言うから、ひさしぶりにたっぷり楽しませてもらう」
 私は山口に並んで湯船に沈み、
「おトキさん、幸せいっぱいだね」
「ほんとに幸せそうにしてくれる。性処理のための女とはまったくちがう。生まれてきてよかったとしみじみ思うよ。この先、ほかの女とはしないし、おトキさんがセックスできなくなったら、俺はもう女を抱かない」
「おトキさんに言ってやれ。泣いて喜ぶぞ」
「いや、それじゃいけないと叱られるから言わない」
 よしのりは、
「俺はそんな余裕はないよ。女を喜ばせる器じゃない」
「いずれ相思相愛の相手が出てきたら変わるさ。自分本位でなくなる」
 よしのりは悲しそうに笑いながら、
「おまえの今夜の相思相愛は、トモヨさんか」
「いや、きょうはゆっくりカズちゃんと寝る。彼女の胸がいちばん落ち着くんだ」
 山口が、
「和子さん以上の胸はないだろう」
「いいなあ、おまえら二人は。俺には落ち着く胸がないよ」
「横山さんは落ち着きたくないんだよ」
「いや、俺ぐらい女の胸に落ち着きたい男はいない。俺もおまえたちのように愛されたいんだ。……愛してくれる女はいないかな」
 湯船に入ってくる。私は、
「しばらく女を忘れて、夜間高校でもいくか。いまから高校へいっても遅くないぞ。高校で勤労女性を引っかけているうちに、相思相愛の女にぶつかるかもしれない」
「いまさら高校なんかいってられるか。愛し、愛されか。やっぱり俺には似合わないな。そういうのは辛気くさい。健全なオスのやることじゃない」
「射精に喜びを見出さなくなったら、健全なオスだ。動物界全体で考えれば、オーガズム自体不健全そのものだ。人間は思想も不健全なら、性反応も不健全だ。愛情だけでも健全でなければ救いようがない」
 山口がパチパチと手を叩く。私は、
「で、きょうの歌は何にしようか」
「流れにまかせよう。きょうこそ横山さんの佐渡情話をやってもらうぞ。触りだけ、十分ぐらい」
「よし」
「なるべく英語の歌はよそう。意味が伝わらないと情感が半減する。神無月はタイガースを一曲やってくれ。銀河のロマンス。主旋律を頼む。俺が裏を入れる」
「オッケー。そのあとぼくはデュエットを二曲やる。節ちゃんと青春の城下町、吉永先生と南国土佐を後にして」
 風呂から上がると、おトキさんとトモヨさんはじめ賄いたちが大わらわになって、いつもの豪華な食卓を用意している。イセエビの造りを真ん中に、刺身の盛り合わせ、キンキの煮つけ、うなぎの白焼き、中華皿もろもろ、白身魚と野菜のてんぷら、サラダ各種、すき焼きの大鍋、鶏の唐揚げ、トウモロコシ、トマト、モロキュウ、ビール、燗酒。
 三味線を抱えた痩せた女が二人玄関から入ってきて、居間に上がると、さっそく主人にビールをついでもらった。日本髪を結っている。何年か前にここで会ったことがある。フラッシュが瞬く。
「うちら芸妓(こ)もとんと呼ばれなくなりましたわの。お役所筋、商店さん関係のお座敷に出るくらいになりました。個人で呼んでくれるのは、北村席さんと塙席さんくらいのもんや」
「芸妓を呼べる置屋や料理屋がほとんどなくなったことが原因やな。あんたたちはからだを売らんから、需要はもともと少なかったやろ。芸のほかには、びた一文要求せんしな。それがプライドというもんや。せいぜいがんばって生き残らんとあかんで。きょうはよろしくな」
「へい、よろしゅう」
 浜中が主人に、
「北村席さんは、芸妓さんを置かないんですか」
「うちは検番じゃないからね。芸妓は検番から派遣されてくるんです。妓娼をあつらえる置屋とか揚屋とか言っても、この何カ月かはトルコ風呂を経営しとりますから、もうそういう仕事もしておりません。大きな宴席にトルコ嬢を送って酌婦をさせるくらいのもんです。そのあと客とどうするかは本人にまかせとります。ここに住んどる女たちは、全員トルコ嬢でして、ここと大門で寮住まいをしとるんですわ。気に入った子がいたら、ここを使ってもええですよ」
「いやいや、けっこうです。お心遣いありがたくいただいておきます」
 飲み食いが始まった。フラッシュが光る。芸妓たちが三味線を弾きはじめた。女将が縁側に近い畳で、独り舞いをはじめた。初めての披露だ。堂に入っている。みんな静まり返って見つめる。舞い終えると、店の女たちが先頭切って拍手した。カズちゃんたちからもやんやと褒めそやす声が上がる。
「はじめて見せてくれましたよ。見直しちゃったなあ」
 菅野が言う。次に主人とおトキさんが舞った。二人とも並でなくうまい。私たちはみんな感嘆して惜しみない拍手をした。トモヨさんが直人を膝に抱えて、おトキさん特製の離乳食を与えている。私と目が合うと、うれしそうに笑った。しきりに箸を動かしているカズちゃんが、
「完了期の離乳食よ。歯茎で噛める固さのご飯を与えるの。あと半年もしたら、みんなと同じものを食べられるようになるわ」
 主人とおトキさんが舞い終えた。拍手。
「みんな芸達者だね。この世界の歴史を感じる。よしのりが口をあんぐり開けてるよ。西川流も真っ青か」
「トモヨさんも上手なのよ。私はだめ」
 直人母子を見つめながら言う。
「文江さんから電話あったわ。やっぱり今夜キョウちゃんがくると思ってたんですって。からだをいたわるようにするから、寝つくまでいてほしいと言ってたわ。いってあげて。九時に塾が終わるみたいだから、九時半ころ」
「声をひそめなくていいよ。ここの壁の耳は怖い耳じゃないから」
「うん。東京組は?」
「がまん、がまん。楽しみは東京で」
 宴がたけなわになり、座の賑わいが高まった。
「佐渡情話、いきます」
 ビールのコップ片手に、よしのりが舞台の裾のスポットライトの当たる場所であぐらをかいた。三味線が両側に端座して控える。カメラとデンスケが彼の前に陣取った。
「いよ、横山さん!」
「オハコ、よろしく!」
 主人と菅野の拍手が拍手を呼んだ。まだ縁側のガラス戸を閉めていないので、薄暮の涼しい光が宴席に射している。トモヨさんが直人を寝かしつけに立った。ここに到着した初日からわずかばかり尾を引いてきた不興を吹き払うような歓心を得たよしのりは、心地よさそうに目を閉じ、渋い喉でうなりだした。
「佐渡へ、佐渡へと、草木もなびくゥ、うううん。佐渡は居よいか、住みよいかァ、あああんん」
 ベベン、ベンベンという三味の音に、よしのりの嗄れた声がじつに快適に調和する。
「せーい!」
 三味の声がかかる。
「歌でぇぇ、知られぇぇた、うん、ああああん、佐渡がっ、島ああうんん」
 ベンベン、ハイホーという合いの手。
「寄せてはァ、返すゥ、ううう波のォ音ォォうううん。発つはァ鴎ェか、濡れ千鳥ィィ」
 ベン、ベン、エッ、ハア。
「浜の小岩にたたずゥむはァァ、若きィ男女のォォ、ああん、ははん、ああ、ううんううんええ、語り合いィィんんん」
「よ、大統領!」
「ねえ、ゴサクさん、柏崎に帰られたら、島の娘の私のことなんか、すぐに忘れてしまうのでしょうね。馬鹿なことを言うもんでねえよ、オミッつぁん、おらあ、死んだっておまえのことなんか忘れやしねえだよ。それよりか、いつも、唄ってくれた、おけさ節でも唄って聞かしてくれ」
 ヘエイ、べんべん。
「恋しいィ人にィ望まれて、声朗らかに、唄ァい出すうう」
 ベンベンベンベンベン。三味の一人がおけさ節を唄いはじめる。天井を貫くような強く透き通った声だ。ペペペン、いやあ!
「唄いィ終わりて、オミツぼは、男ォの胸にィ、顔当ててェェ、さめざめと泣く、しおらしさっ、雨のあしたの、あああんんん……」
 よしのりは延々と十分近くうなった。私は正直感激した。もったいない男だ。山口も主人夫婦も目を潤ませている。彼が立ち上がって礼をすると、大喝采になった。三味線の女たちも拍手を惜しまない。主人が声を投げる。
「やあや、大したもんだ、横山さん、玄人跣(はだし)だ。虎造、米若も真っ青。ぶったまげたよ」
 頭を掻きかき戻ってきたよしのりの脇に、一人の年増がついてビールの酌をした。痩せてシラッとした美人だった。今夜の相手だろう。よしのりにはうってつけの女に思われた。彼はどうしてもこういう情の薄そうな女に惹かれるようだ。
 表からの明かりが薄れるにつれて、ステージの青い照明が目立ちはじめた。
「じゃ、いくか」
「うん」
 キンキの皿を途中にして、山口が立ち上がった。直人を寝かしつけて帰ってきたトモヨさんと、山口を恋するおトキさんが大きな拍手をした。記者たちはステージ前に控え、八畳の賄いたちの卓が満員になり、東京組の女たちの卓とトルコ嬢たちの卓がピタリと付けられて長くなった。主人夫婦はトルコ嬢たちの卓についた。みんな喜びを待ち構える顔をしている。ギターを抱えた山口が、マイクにからだを傾け、
「今夜もまた、神無月の妙なる声をお聴きいただきます。俺はハーモニーを務めます。まず、いまふうにグループサウンズからいってみましょう。では、さっそくタイガースの銀河のロマンス」
 美しい短い前奏。山口が私にうなずきかける。

  銀河に浮かべた 白い小船
  あなたと訪ねた 夢のふるさと
  シルビー マイラブ
  (山口のファルセット、シャラララララララ)
  シルビー マイラブ マーハイラブ(マーイラブ)

「そりゃ、タイガースと別物ですよ!」
 恩田の声だ。
「すてきー!」
「ジュリー!」
 店の女たちの叫び。吉永先生と法子が立ち上がって拍手している。フラッシュ、指笛が鳴る。ギターのスタッカート。ダッダッダッダ―。

  アイラビュー 燃える頬に
  美しい 愛の口づけ
  青いしずくは 月の涙
  恋するぼくらの ため息に揺れる
  シルビー マイラブ(シャラララララララ)
  シルビー マイラブ マーハイラブ(マーイラブ)

「ひょー!」
「神さまァ!」
 長い間奏。山口はまだ泣いていないが、危うい。スタッカート。ダッダッダッダダ。ギターに合わせて店の女たちが指でテーブルを叩く。

  シルビー マイラブ(シャラララララララ)
  シルビー マイラブ マーハイラブ(マーイラブ)
  アイラビュー 燃える頬に
  美しい 愛の口づけ
  流れるような バラの香り
  瞳を閉じて 甘えておくれ
  シルビー マイラブ(シャラララララララ)
  シルビー マイラブ マーハイラブ(マーイラブ)

 短い後奏。二人でゆっくり礼をする。喝采。北村夫婦のテーブルの拍手がいちばん激しい。女将が、
「チャラチャラしとらん。これ、グループサウンズなんやろ」
 主人がアハハと笑いながら、
「山口アンド神無月サウンズだ」
 山口が、
「きょうは涙腺を締めていった。危なかった」


         百三十四

「横山さん、踊ってや」
 女将の声。ふたたびよしのりに歓心を集めようとする。彼のボンヤリした劣勢が気にかかるのだ。私たちも同じ気持ちだった。彼は三味線の女に、
「適当にひいてください。適当に踊るから」
 芸妓たちが愛想よくうなずいた。私は舞台を降りてきた山口に、
「もう少し腹に詰めるよ。あと三、四曲いける。しっかり声を出したい」
「そうか! じゃ俺はビールだ」
 口笛と拍手の中で、よしのりがぎこちなく踊っている。ドジョウ掬いのような振りも混ぜている。和やかな笑い。無事踊り終える。ぱらぱらと拍手。きびしい。よしのりはしょんぼりしてしまった。
「女将さんたちの踊りのあとじゃなあ。まだまだ研鑽の余地ありだ」
 よしのりが沈んだ顔でテーブルに戻る。
「我流であれなら大したものです」
 主人が励ます。
「節ちゃん、いっしょに青春の城下町唄って」
「はい!」
「すぐ次に、先生と南国土佐を後にしてを唄うから、先生、準備してて」
「え? はい―」
 山口と舞台に上る。山口はマイクに屈み、
「かつて牛巻病院の廊下をいい声で唄いながら通り過ぎた滝澤節子さんの制服姿が、神無月の脳味噌にこびりついてると聞きました。梶光夫の黒髪でした。それでたぶん節子さんは梶光夫のファンだと踏んで、神無月は彼女に青春の城下町をリクエストしました。一番神無月、二番節子さん、三番デュエットでお願いします」
 和気藹々と飲食しているテーブルの人びとの様子が、なぜかなつかしく映る。ファルセットを入れながら長い前奏。私に並んで立つ節子の顔を見つめると、潤んだ目で見つめ返した。肩を抱いた。温かく小さい肩がテーブルのみんなに申しわけなさそうに、少し私から遠のいた。私は山口から渡された歌詞を節子に見せる。リズミカルで叙情的な前奏。山口がうなずく。

  流れる雲よ 城山に
  登れば見えるきみの家
  灯りが窓にともるまで
  見つめていたっけ逢いたくて
  ああ 青春の思い出は
  わがふるさとの城下町

 山口のファルセット。長い間奏。節子の肩をマイクの前に押し出してやる。拍手がないのは、テーブルの関心が唄い出そうとする節子そのものにいっているからだ。

  白壁 坂道 武家屋敷
  初めてふれた細い指
  一つちがいのきみだけど
  矢羽根のたもとがかわいくて
  ああ 青春の思い出は
  わがふるさとの城下町

 細かいビブラートをふるわす高い声だ。
「いよ、奥ゆかしい!」
「島倉千代子ばりだぞ!」

 長い間奏。もう一度肩を抱き寄せ、横顔を覗きこむ。涙が流れている。山口がこちらを向いて声をかける。
「はい、二人、声を合わせて」 

  どこへも だれにも 嫁(い)かないと
  誓ってくれたきみだもの
  故郷にぼくが帰る日を
  待っておくれよ天守閣
  ああ 青春の思い出は
  わがふるさとの城下町

 短いドラマチックな後奏。しばらく節子の肩を抱いている。テーブルの女たちが泣いていた。
「すてきよ、節子さん!」
 カズちゃんの声につづいて、部屋全体から柔らかな拍手がきた。舞台を降りた節子に菅野が、
「やられました、滝澤さん。神無月さんに寄り添ってる姿を見て、お嬢さんたちがしくしく泣いとりました。やられました。私も、涙が出ました。五人のかたがたがどれほど神無月さんを好きなのか、それを思うと、泣けました」
 山口も目頭を指でサッと刷いた。キクエが真っ赤な顔をして目の前にいた。あごあたりまでしか背丈がなかった。抱き寄せた。先生はひしと私を抱き締めた。奇跡だ、とデンスケを回している田代が呟いた。
「こんな人間関係なんて、考えられない」
 田代はいっときの非現実の中で感動していた。浜中と恩田は、たぶん私の声に打たれて涙を流していた。彼らの膝もとには冷酒が置いてあった。
「じゃ、キクエ、ぜんぶデュエットでいこう」
「いいえ、節子さんと同じような順で。山口さん、お願いします」
 私の手をぎゅっと握った。
「オッケー。みなさん、吉永キクエさんは、兵藤素子さん山本法子さんとともに、初めて北村席を訪れた女性です。去年の冬まで二年間、名古屋西高の保健の先生をしていて、高三の二学期に神無月と知り合いました」
「いいえ、神無月さんを知ったのは高二の二学期です。廊下で見かけたのが最初です。話をしたのは高三の二学期です」
「なるほど。高二の二学期に廊下で見そめ、たちまち恋に落ちた彼女は、高三の二学期にようやく念願成って結ばれ、今年神無月に添い遂げるために教職を捨て、神無月が東大に合格する前に、いち早く上京して待機しました。なんという信頼感。神無月が落ちたらどうするつもりだったか。どうするつもりもなかったか。受かるに決まってると思っていたか。とにかく、どんなときも、ひたすら信じて神無月を待つ。自分の人生をそれだけに絞ったんです。節子さんと同様、吉永さんも看護婦さんをしています。ナイチンゲールに似た博愛の持ち主のお二人は、酬いの多い人生を送ると思います。ところで吉永さんは、自分じゃブスだと思ってますが、どうですか、みなさん、吉永さんはブスですか」
「ちがいまーす! 美人です」
 法子が声を張った。
「そりゃ、かばいすぎですよ」
 山口の切り返しにドッと笑い声が上がった。
「情緒が反映された顔です。脳味噌が顔を作るんです。たしかに、美貌にも知性にも恵まれた女性はいます。しかし、情緒の豊かさは美貌にも知性にも勝るとも劣らないくらいその姿全体を輝かせるんです。おトキさんも、きれいでしょう?」
「結局、そこへいきますか」
 と菅野。ふたたび爆笑。主人夫婦は楽しくて仕方がないという表情をしている。山口がマイクに口を突き出し、
「吉永さんは、ふるさとの南国土佐をあとにして名古屋に出てきました。そのときの彼女の志を偲びながら、彼女の要望どおり、神無月が一番、吉永さんが二番、デュエットで三番を唄います。横山さん、ステージにきてくれ。民謡部分を俺と二人で唄ってほしいんだ」
「よっしゃ」
「前奏部分と民謡部分を、三味線のかた、ぼくに合わせて適当に演奏してください」
 よしのりと日本髪二人がステージの脇に控えた。彼女たちも浮きうきしている。日ごろ鍛錬した芸が発揮される場面だ。指を舐め、絃をしごき、糸巻きをよじる。山口のギターが始まる。三味線が絶妙のタイミングで合奏に入った。山口が大きくうなずく。私は先生の手を握って唄いだした。

  南国土佐をあとにして
  都へきてからいくとせぞ
  思い出します 故郷の友が
  門出に歌った よさこい節を

「なんて声だ。はらわた抉られますよ!」
 田代の声だ。恩田が、
「まるっきり讃美歌だ!」

  土佐のォ 高知のォ 播磨屋橋で
  坊さァん 簪ィ買うを見ィた

 よしのりの渋い喉と山口のテノールがない交ぜになって唄い上げる。三味が助ける。下棹(しもざお)の胴の部分を爪で弾いたりする。そのあいだずっと私は先生の肩を抱いて小さな目を見下ろしている。先生の肩をマイクへ押してやる。

  月の浜辺で焚火を囲み
  しばしの娯楽のひとときを
  私も自慢の声張り上げて
  歌うよ土佐の よさこい節を

 ビブラートのない澄んだソプラノが座敷全体に浸透していく。民謡部分になり、山口とよしのり、三味の手を動かしながら芸妓たちも加わった。

  見ませ見せましょ うら戸を開ァけて
  月の名所は桂浜

 マイクから退こうとするキクエを押しとどめ、並びかける。短い間奏。先生と声を合わせる。節子と同じように彼女は涙を流しはじめた。テーブルの菅野も泣いている。シンパシーの強い男だ。

  クニのとおさん 室戸の沖で
  クジラ釣ったという便り
  私も負けずに励んだあとで
  歌うよ土佐の よさこい節を

 高い声で吉永先生がしっかり訛りを出して民謡部分を唄いだしたので、みんな静まり、ギターと三味線も音を殺した。

  言うたちいかんちや おらんくの池にゃ
  潮吹く魚が 泳ぎよる
  ヨサコイ ヨサコイ

 ジャ、ジャ、ジャー、ジャー、ジャンという感じで、ギターと三味が弾き終えた。
「よ、よ、よ、よー!」
「最高!」
 拍手、拍手、歓声。先生が私にむしゃぶりついた。
「愛してます、死ぬほど」
 女四人も駆け寄って、先生と私の背中にしがみついた。拍手がやまない。
「神無月を休憩させます。唄いたい人は、どうぞステージへ。俺が伴奏します。まず、素子さんと法子さんの歌声を聞いておきたい」
 法子が、
「私、音痴。歌だけは勘弁して」
 素子が、
「あたし、フランク永井、低音の魅力。歌だけは勘弁して」
 笑いが弾けた。山口は許さない。


         百三十五
 
「じゃ、ヘイ・ポーラを神無月くんといっしょに日本語版で」
 法子が言うと、
「田辺靖雄と九重祐三子ですね。いってみよう! 神無月だけは英語でいけ」
「わかった」
「昭和三十八年、ポールとポーラ、ヘイ・ポーラ!」
 伴奏なしの唄い出し。

  ヘイ ヘイ ポラ アイワナメリーユー
  ヘイ ヘイ ポラ ノーホワンエルス クッド エバドゥー
  アイブウエイテッド ソーロング フオー スクール ビースルー
  ポラ アイキャントウェイト ノーモア フォーユー
  マハイラブ マハイラブ

  ヘイ ポール 憶えているわ
  ヘイヘイ ポール あの日からは
  あなただけが 大切な大切な人よ
  いまもなお

 とんでもなく高いストレートな声が飛び出してきた。怒涛の拍手。ビブラートは一切なく、まったく音痴ではない。感動的だ。

  トゥルーラブ ミーンズ プラニング アライフ フォトゥ
  ビーントゥゲザー ザホールデイ スルー
  トゥルーラブ ミーンズ ウェイティング アンド ホウピングザットスーン
  ウィッシュイズ ウイブメイド ウィルカムトゥルー
  マハイラブ マハイラブ

「はい、いっしょに、日本語で!」

  私  ヘイヘイ ポラ きょうも逢おうよ
  法子 ヘイヘイ ポール あしたも逢うのよ
  二人 好きと言わなくても わかっちゃう二人
     いつまでも変わらない 二つの心
     きっと きっと

「ヘイ、ヘイ、ヘイ!」
「すばらしい!」
 法子は私に抱きついたまましばらく動かなかった。フラッシュが五回、六回と瞬いた。
「次、素子さん!」
「仕方あれへんなあ。お姉さん、いっしょにお願い。だれよりもきみを愛す」
「古い! いいわよ、唄いましょ」
 山口は真剣な顔でギターを弾きはじめた。ウーというファルセットを微妙に入れている。二人はユニゾンで歌い出した。和音など思いのほかだ。しかし、音程のずれないアルトがピッタリ調和して、心地よい響きが耳を打った。

  だれにも言われず たがいに誓った
  かりそめの恋なら 忘れもしようが
  ああ 夢ではない ただひとすじ
  だれよりも だれよりもきみを愛す

 すてきだ、と山口は声をかけ、まじめな和田弘ふうの間奏に入る。二人の美女もまじめに立っている。緊張している姿が愛らしい。主人夫婦と菅野の拍手。胸の内がシンとなった。恩田たちの動きがスローモーションのように見える。

  愛したときから 苦しみが始まる
  愛されたときから 別れが待っている
  ああ それでもなお 命懸けて
  だれよりも だれよりもきみを愛す

 お辞儀をする二人に浜中たちが握手をしにいった。二人は恥ずかしそうに手を握り返した。山口がしみじみとした声で、
「掘り出し物ばかりですね。畏れ入りました。ここはみなさんのステージ部屋ですよ。ふだんから大いに活用なさるべきです。芸妓さんのかたがた、ご協力ありがとうございました。東奥日報さん、撮影と録音ご苦労さまでした。じゃ、くつろいで飲みましょう」
 座に和気が広がった。ひとしきり飲食の時間がつづく。よしのりが芸妓たちと話しこんでいる。私と山口は主人夫婦に酌をされる。
「ご苦労さまでした。夏というより、一年が終わった感じですよ。今度は来年の春か」
 山口が、
「なるべく都合をつけます」
 三味線をしまいはじめた芸妓たちに女将が心付けを渡した。よしのりが主人といっしょに玄関まで送って出た。
 芸妓たちが去ったあと、みんな勝手に畳に散らばって杯のやり取りをしている。私はよしのりに、
「何か頼みごとをしてただろ」
「深川あたりの三味線の師匠を知らないかって尋いた。知らないって」
「三味線まで習うつもりなのか」
「芽があるかもしれないからな」
 何か切なくなった。素子が私にビールをつぎながら、
「こういうのがいつもキョウちゃんの言ってる静かな生活ってものなんでしょ?」
「うん、まさに静かな原始生活だね」
 山口が心地よく同意する調子で、
「静けさというのは孤独な原始人の安らかな巣だ。しかし、神無月の言いたいのは、一人でいたいという俗な孤独じゃない。気に入った原始人同志見つめ合って暮らす坦々とした生活のことだな」
「うん。ぼくは見知らぬ者同士のお祭り騒ぎより、親しい原始人同士の集会が好きだ。その集会は静かでもにぎやかでもいい。親しい原始人同士なら心は静かだ」
「ほらな」
 山口は得意そうにうなずいた。素子が首をかしげながら、
「少しの原始人だけと好いたり好かれたりするのって、不安やない?」
「まったく不安はないよ。シンプルで強い愛情は百人力、千人力だからね。そういう大力を認めようとしない文明世界では、小力(ぢから)が寄ってたかって、強い極上の愛情を粉砕する」
 カズちゃんが言いようのないほどの温顔で微笑んでいる。主人が、
「ほうですな、たしかにこれは極上の愛情ですな」
 よしのりが私を睨んで、
「文明的な小力って何のことだ?」
「世故と権威だ」
「世故って?」
「趨勢、風潮、流行、しきたり。権威はその強制執行力」
「また、能天気なことを言いやがる」
 スワッと恩田たちが飛んできた。山口が、
「能天気じゃないぞ。きわめて論理的かつ悲観的だ。小力の寄り集まった世界は、権威によって魂を抑えつける人間どもの好き勝手な世界になってしまう。やつらは人を信じないように習慣づけられてるし、極上の愛情なんかあり得ないと思ってるからな。やつらにとって、愛なんてものを主張する野郎は、ありもしない金鉱をほじくる山師か、出てくるなという禁を破って原始的な居住区域から文明の中へ出てきた居留民だ。出てくると、理不尽な要求をされるぞ。文明の権威と流行に組み敷かれろとな。権威や流行に関心を抱くことこそ、文明人の営みそのものだと叫びながらな。それを受け入れようとするから、慢性的な悲しみの素になるんだ。孤独に生きたいなら、世間の教条は脇へ押しやるだけじゃなく、打ち捨てなくちゃいけない。独裁者ぶった大衆の言葉に近づいちゃいけない。やつらはいたるところにいて、夜となく昼となく、俺たちの行動と思考を見張ってる。やつらは権威や流行に対する好奇心を押しつけることで、俺たちのシンプルな魂を奪おうとする。やつらからは逃げるしかない」
 よしのりが、
「小力を持ったやつらも人間だろう。原始的な人間はときには文明に組み敷かれたり、文例と協調したりしなくちゃな。魂という名のカスミだけじゃ生きていけないぜ」
「結果論として生きていけることもある。やつらの独裁を才能という万古不易の原始的なもので打ち破れれば、協調なんかしないで、権威と流行に染まらずに静かに暮らせる。結局神無月は、そういう道をいくだろう。俺もな。俺たちは魂を持った人間だからな」
 恩田が私に、
「魂のある人間は少数派ですか?」
 私は、
「いつの世もそうだと思います。―秘めた原初の信念を大切に持っていなければ、人間とは言えません。きょう、今月、そして今年、どんな権威や風潮が湧いて出ても、人間の魂に何もつけ加えません。魂というのは輝かしい信念を持った命のことです。魂の住まない世界で、永遠の喜びを知ることなんかできないんです。はっきりしているのは、魂は魂のバトンタッチで継続するということです。バトンタッチされた魂が、バトンを受け取る次の者の魂に輝きを与える。バトンを渡した者の魂だけが、次の者の命を輝かせる。受け渡すべき魂のない世界は、耐えがたい荒野でしょう」
 カズちゃんが胸の前で拍手すると、女たちがこぞって拍手した。
「これがキョウちゃんの迫力よ。この迫力に押されてみんな生きてるの」
 いつのまにかステージ部屋が暗くなり、田代が私のそばでデンスケを回していた。
「……対話の現場を目撃しました。神無月さんたちの頭脳から言葉が湧き出す現場を。青森に帰ったら、かならず、神無月さんたちのこの噴火のような対話を紙面に載せます」
 主人が、
「〈言葉〉というものを聞かせてもらいましたわ。みんなすごいなあ。長生きした甲斐があったわ。ワシもがんばって魂を受け渡さんとな」
 浜中が、
「神無月さん、あなたはいろいろな方面に計り知れない才能を持っている。ところが周囲の人間に劣等感を与えるどころか、並外れた能力を引き出してしまう。―不思議の極みです。私のこれからの人生は、あなたが何者かを見極めるためだけに使いますよ」
 恩田が、
「どういう精神的システムから、そういう魔法のような言葉が出てくるんですかね」
「魔法に思えるのは、ぼくがぼんやりした頭で、自分でもよくわからないことを怪しく表現しているからでしょう。ぼくは、自分の人生を自分が肯定できる人生にするために、成し遂げるべきことや、思索すべきことを自分に課します。ぼくも懸命に信念の人になろうとしているからです。すると―自分が思索し尽くせないことや成し遂げられないことへの絶望が湧いてくる。早くこの命を終えて次の人へ自分の肯定した人生を受け渡してしまいたいという、ある種の絶望です。命の肯定と否定。どうしてそういう背反した思いが湧いてくるのかと考えたことがあります。ものごとを完全に思索し尽せないし、完遂もできないという確信に襲われるとき、残された時間をどう生きればいいかと思いあぐねて、頭が混乱するんです。いっそ身を滅ぼして、ここまでこしらえた魂を次の世代に受け渡して完成させてほしいとヤケになるわけです。―でも、魂を気に入ったふうにこしらえるのは自分しかできないわけだから、できるだけ長生きして、その思考を信念と呼べるものにまで磨き上げてから受け渡そうと思い決めました。そう居直ってからちょうど三年になります」
 山口とカズちゃんが安心したようにうなずいた。恩田が、
「ぼんやりなどと、とんでもない……。じゅうぶん明晰な言葉でした。山口さんたちがおっしゃっていた、口で説明するだけでは足りない人物だという意味が胸に落ちました。あなたの人生や世界観に圧倒されます。思わず自分の人生について考えてしまう」
「自分の人生なんか考えないで、私たちはただ自分の人生を抱えて、心のままにキョウちゃんのそばにいればいいの」
 山口がカズちゃんにうなずき返し、
「そう、そばにいればいいだけです。神無月は報いますよ。こいつがしたいのは、自分の魂を他人の中に求める旅なんです。俺たちは神無月に目を留められる旅の途中の探求物です。友と交わるのも、女と交わるのも、神無月にとっては探求の作業です。その探求の作業に神無月は、複雑さと神秘と愛を見出そうとする。人間であること自体すでに、じゅうぶん入り組んだ仕組みなので、それに見合った雄大さを見つけようと努力するんです。その作業に不満なら神無月の旅の路傍に立たなければいい。神無月の目に留まらなければ神無月も見つめる必要がないですからね。自分の雄大さを発見することに飢え、雄大であるべき自分の人生に飢えているなら、神無月は最もふさわしい人間です。こいつはそれを見つけて教えてくれます」
 菅野が、
「世の中には、そいつがいなくなっても、痛くも痒くもない人間がわんさといます。神無月さんはそうはいかない。いなくなったら真っ暗闇だ。そういう気持ちでいればいいってことですよ」
「うん、菅野さん。不公平に思えるかもしれないけど、神無月に比べたら俺たちには何もないと同じだからね。優勝劣敗ということじゃない。人間がちがうんだ。神無月に愛を返してもらえる男も女も幸福だ」
 よしのりはすっかり酔っぱらって、不貞腐れたように畳にゴロリとなった。遠くない未来に、この男はこっそりと一定の距離に遠ざかるだろう。法子が瀬踏みをするような眼でよしのりの横顔を見つめた。浜中が、
「神無月さんには、われわれには推し量れない微妙な劣等感があるので、すべての言葉が尊大にも自己礼賛にも聞こえない。言葉が言葉のまま直接聞こえてくる。言葉に表があったり裏があったりするわれわれの社会では、きわめて通じにくい言葉でしょう。しかし、通じる人間は臓腑を抉られます」
 山口が、
「原初の言葉なんですよ。オリジナルなので薀蓄がない。薀蓄のない言葉は原初の心を持った人間の胸を貫きます。出会った当初、俺は神無月のことを、他を学ぶ必要のない学ばれる人間と確信し、本人にもそう言った。それなのに神無月は自分の劣等を打ち出し、他を学ぼうとする。原初の言葉を頭の中で撹拌しながらね。そうやって俺たちを高い次元に定義づけようとする。俺たちの彩りのない人生を華やかにしようとする。華やかになったと感じるのは、俺たちに原初の心と言葉があったからです。それに気づいたとき、俺はうれしかった。このうれしさを失いたくない。俺は神無月の定義どおりに生きようと思ってます」
 東奥日報の三人は大きくうなずいた。




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