百五十一


 サッちゃんは上板橋の改札まで送ってきた。階段から私の顔が見えなくなるまで手を振った。人と知り合うことは不思議だ。知り合うためには、準備も要らなければ、言葉も要らない。一瞬の視線を交わすだけでともに生きる道のりが永遠になる。永遠の中で肉体が近づき、皮膚を触れ合うための言葉が生まれる。
         †
 八月二十四日から二十六日にかけて、土・日・月と、朝夕の自主トレと読書に明け暮れた。読書が難物で、明け暮れたと言っても、青高時代に何かの拍子に買ってきていたアラン・ロブグリエの本を三冊読んだだけだった。
『消しゴム』、『覗くひと』、『嫉妬』。前衛の最たるものだった。客観を装う主観というのでもない、ひたすら病的な客観―場所の細部、日用品や建物の細部を執拗に描写する。主体や主語を明示しない。もちろん会話の脈絡もない。理解しようという努力を捨てなければ読み進めない。享受者を無視するのなら発表しなければいいと思うが、〈知性〉の詰めかけるスタンドに向かってホームランを打ちたいという欲望は消せない。知性の網を張って待ち構えているインテリどもは彼の作品に痺れるまくるようだ。
 ふと、テアトル新宿で観たシャブロルの『いとこ同志』、トリュフォーの『大人は判ってくれない』、ゴダールの『勝手にしやがれ』を思い出した。あれもまったく理解不能の映画だった。たぶん客席でインテリどもが痺れまくっていたのだろう。
 二十六日は午後から一雨きたので、夕方のランニングをオミットし、傘を差して、喫茶店を探しに出る。四面道近辺には落ち着ける雰囲気の喫茶店がないからだ。北口のロータリーを過ぎて細道の商店街を歩いていたとき、邪宗門というロッジふうの店を見つける。午後三時から十時・不定休、とスタンド看板に書いてある。ドアを開けて入りこむ。ときが止まっていた。梁の走る天井に淡い光のシャンデリアが吊られ、横壁には大きな柱時計と花の絵の額、窪み棚に茶器や小物が並び、正面の上方の壁に古式銃が飾ってある。椅子もテーブルも古色を帯びている。平積みされている漫画本や雑誌が現代を偲ばせる愛嬌だ。店主は静かな中年夫婦。テレビは置いていない。いい店を見つけた。ただ私は、どんな店も二度はこない。ホットケーキと、インドモンスーンというコーヒーを注文する。二階に上がる。白色光の電球で照らされた空間に、機能しない大むかしのランプが垂れている。出てきたコーヒーは、どうという味わいでもなかったが、大事に飲んだ。二枚重ねのホットケーキも丁寧に食う。二階にも大時計があり、その下の書棚に手塚治虫の単行本が並んでいる。
 だれにも声をかけられることなく、無事帰宅。
 八月十八日に観光バスが飛騨川に転落して百人死んだというニュースを、一週間遅れのラジオの特番で聴く。二台連ねた観光バスが土砂に押し流され、集中豪雨で増水していた濁流へ突き落とされた。そんな悪天候の中をなぜ観光バスが走ったのか。警戒心旺盛な日本企業らしくない。団地の家族旅行。めったにチャンスのない家族打ち揃っての遊山。中止の決断が難しかったのかもしれない。雪崩と同様、流水の力は恐ろしい。手足のちぎれた死者も少なくなかったようだ。三歳の子供までいたという。直人を思い、胸が痛んだ。クマさんのことがふと頭をよぎったが、岐阜なので関係ないだろうと思い直した。リサちゃん? 飯場は団地ではない。
 夜、荷風の断腸亭日乗八月八日の項を読みながら落涙した。涙が流れるまま読んだ。現代ふうの言葉に直すと、だいたいこんなことが書いてあった。

 筆を持つのが煩わしい。裏の土蔵を掃除した。大事な家具什器は、すでに母が西大久保の威三郎方へ運び去ったあとだったので、残ったのはがらくた道具ばかりだと日ごろ思っていたけれども、土蔵の床の揚げ板を外してみると、床下のひどく奥まったところに、炭俵や屑籠などで包んだものがたくさんあった。開けて見ると、亡父がむかし上海から持ち帰った陶器や文房具の類だった。このことをよくよく考えてみると、母は亡父の遺愛の品を私に与えるのがシャクで、こんなところに隠しておいたのにちがいないとわかった。そういうことなら、私はもうこの旧宅を守る必要もないということになる。また築地か浅草か、どこでもいい、親類縁者どもに顔を合わさないですむような世間の片隅に引き移るのがいちばんだ。ああ、私は何度もこの旧宅を終の棲家と思い決めてきたけれども、とうとう長く留まることはできなかった。悲しいことだ。

 曲折していない素朴な感情と人間信頼に打たれ、本を閉じる。自分の身の上と重ね合わせて考えはじめる。私と性向も思索の傾きもちがう。荷風は母親に裏切られたのがよほど口惜しかったのにちがいない。逆に言うと、自分がどれほど母親に嫌われていたか、四十歳近くになるまで気づかなかったということだ。荷風のナイーブさにやや興醒めして、涙が乾いた。
 涙が乾いたとたん、腹がへった。九時を回っていたが、風呂と晩めしをご馳走してくれとカズちゃんに電話した。
「きてきて。カニチャーハンとコーンスープ作ってあげる。あした、千佳子さんがお昼にくるわよ。彼女の身の回り品はもう届いたわ。素ちゃんが、離れのほうが受験勉強にはいいだろうって、私の机を運んで、さっきまでお掃除してたの」
「木谷、喜ぶだろうな……」
「そうね、とにかくいらっしゃい。自主トレの用具は一式あるからだいじょうぶ」
 ジャージに運動靴で石手荘を出る。すいた電車で二駅。高円寺商店街の閉店まぎわのスポーツ用品店で、五キロのダンベルを二つ買った。腕のきちんとした鍛え方は助手に聞いた。自主トレに組み入れよう。
「いらっしゃい!」
「風呂!」
 素子が大喜びして、
「入っとるよ。カニ、ほんもの。うまいでェ。早よ入ってきや」
「これ、腕を鍛える五キロのダンベル。バットのそばに置いといて」
「はい。わァ、重い!」
 二人で持ってみる。
「なにこれ、重すぎやわ」
「二の腕ってなかなか鍛えられないから、意識してやってみることにした」
「どうやってやるの」
「こうやって、ダンベルを持った手を九十度に曲げたり、直線に伸ばして持ち上げたりするんだ。単純だけど、確実に腕力がつく。朝ランしたあとでやるよ。両腕十回ずつ」
 三日坊主にならなければいいがと思った。
「じゃ、風呂入ってくる」 
 その場にジャージを脱ぎ捨て、風呂場へいく。銭湯も快適だが、カズちゃんの家の風呂のほうがずっと快適だ。両脚を長々と伸ばし、目をつぶる。

  これあいけない 健康すぎる
  薄明(あか)い季節が奪われぬという思い入れ


 つづきを考えるのをすぐにやめた。荷風の放蕩の根に深い悲しみのあることをあらためて思い返す。裏切りに対する反応が単純すぎて一瞬興醒めしたけれども、あんなふうにヤケを起こして心から悲しめる感性が私にあったら、私はまったき芸術家になっていたかもしれないと思った。他人の悲しみに共感し、愛しさえするくせに、みずからの身の上を全霊懸けて悲しもうとしない性質―そんな男は、運動場で野球をするしかなかったということだ。
 うまいカニチャーハンを食い、深夜までテレビを観たあと、素子を真ん中に三人で川の字に寝た。
「千佳子さんはお昼ごろフジにくることになってるから、山口さんも呼んでね」
「うん、木谷は早稲田か慶應を目指すんだったね」
「当面はそうでしょう」
「山口を誘って、三人で早稲田を歩いてくるよ。受験前にしっかり大学というものを見ておいたほうが、ファイトが持続するだろう」
「やっぱりキョウちゃんやさしいんやないの。手取り足取りみたいなことはせん、ゆうといて」
「大学ぐらい見せとかないとね」
「参考書まで買ってあげるんやないの?」
「そんなことはしない。ぼくの参考書選びはある意味緻密だけど、一般の受験生にとってはズサンだ」
 カズちゃんがクスクス笑い、
「山口さんに教えてもらって買ってあげればいいわ。どうせ買わなくちゃいけないものだし。善は急げでしょ」
「二人ともうれしそうだね」
「千佳ちゃんとムッちゃん、ええ子やもん」
「早稲田を見てから、新宿御苑でもいってきたらどう?」
「うん、そうする。グリーンハウスのそばだから、場所はわかる。しかし、千佳子は親とどういう折り合いがついたのかな」
「さあ、詳しく聞いてないけど、折り合いなんかついてないんじゃないかしら。親としてはさびしいでしょうけど、よく考えれば口減らしができたというところじゃないの。もともと働き手じゃなかったんだから。身元のしっかりした引受人がいるなら、それほど拘りなく手離せたでしょう。これまでは、千佳子さんにへんなあきらめがあったんだと思うわ。いずれ家のために働かなくちゃいけないっていう」
「キョウちゃんに愛されとるとわかって、吹っ切れたんやね」
「調理師の勉強のほうは進んでる?」
 カズちゃんが素子の肩をポンと叩いて、
「素ちゃんの記憶力ってすごいのよ。一度覚えた知識はぜったい忘れないの。びっくりしちゃう」
「エヘヘ」
 素子がかわいらしく笑った。
「いちばん出題率の高い食品衛生学とか調理理論なんか満点」
 素子は眉を八の字にして、
「ただね、試験を受けるのには、実務を二年以上やっとらんとあかんのよ。こないだ知ってびっくりしたわ」
 カズちゃんはもう一度素子の肩を叩いて、
「でもだいじょうぶ。学校とか、病院、会社の寮なんかでおさんどんしてたって証明があればいいの。おとうさんに書いてもらうことにしたわ」
「試験日が十月五日の土曜日。たしか、北村のお父さんたちがキョウちゃんの野球を観にくるの、そのあたりやったろ。一日だけ野球観にいけんわ」
「試験のほうが大事だ。がんばれよ」
「うん。試験会場は東大の駒場。キョウちゃんと縁があるんやね。受かれって意味やわ」
 裸の肩を抱き締める。カズちゃんが素子の背中を抱く。
「あかん、濡れてまった。どうしよ」
「私も……。キョウちゃん、できる?」
「ビンビン」
 二人で私のものを見下ろす。
「わあ、ほしい! お姉さん、すぐしてええ?」
「いいわ。離れへいきなさい。キョウちゃん、いま素ちゃん危ないから、外に出してね」
「うん」
 河野幸子のことを話そうと思っていたが、時期を待つことにした。


         百五十二

 素子が跨ってくる。私の胸に手を突き、動きだす。
「ああー、すぐや!」
「がまんだよ、素子、がまん。少しぐらい楽しみなよ」
 素子を引き寄せ、片乳を揉みながらもう片方の乳首を含む。緊急を告げる素子の膣に気を差して私は動きを止める。
「あかん、イク!」
 素子は尻を止め、思い切り腹を収縮させる。
「ほんとに仕方ないやつだな。早漏なんだから」
 おもしろい表現に思わず自分で笑うと、それだけの動きで素子はもう一度達した。手がつけられない。そっと抜いて仰向けに転がしてやる。やがてもう一度跨ってきて、私の両手に自分の両手を重ねた。
「愛しとるよ、キョウちゃん、今度はちゃんとがまんする。気持ちようなって出したなったら言ってね、尻上げるから」
 微笑みかける。腰を回して、膣壁でかすかに亀頭のエラをこするようにする。早漏を避ける技だろう。
「いい気持ちだよ、素子」
「私も。こうすると長保ちするんよ」
 回る尻をつかんで突き上げる。素子の笑いが消え、膣口が締まってきて緊縛が全体に及ぶ。
「ああ、だめやよ、キョウちゃん」
 回転を止めた尻に力が入る。
「がまんする。キョウちゃんがふくらんでくるまで。うう、気持ちいい、あああ、ふくらんできた、もうだめ、イク!」
 自分で転がり落ち、全力で痙攣する。私のものは一触即発になっている。素子が這ってきて、亀頭を口に含んだとたん発射した。ごくりと飲みこむ。私の律動をしっかり受け止め、すべて飲み干す。律動が止むと、素子は安心して私に並んで横たわった。
「ごめんねキョウちゃん、私、めちゃくちゃ早すぎるわ。自分じゃどうにもならんの」
 二人仰向けに並んでどちらからともなく手を取り合う。二つの腹が心地よさそうにふくらんだりへこんだりしている。やがて安らかな寝息が聞こえてきた。美しい寝顔を見つめながら、私も目をつぶった。
         †
 八月二十七日火曜日。六時半起床。カズちゃんと素子は朝食の支度にかかっている。朝のシャワーを浴びたさっぱりしたからだにジャージを着て、バットを手に玄関へ出る。
「どこまで?」
「公園を探しながら走ってくる」
「北口から二百メートルくらいいくと、高円寺北公園いうんがあるよ。あそこなら広いでバット振れるわ。銀座商店街に入って一つ目の角を左」
「サンキュー」
 ―ここから五、六百メートルか。この時間はもう通勤のサラリーマンが大勢歩いているから全力疾走はできないな。
 曇り空だが、きょうも相当暑くなる気配がある。トリアノンの前を通ってガードをくぐり、銀座商店街の看板を過ぎて、すぐ左折する。人群れを縫って、まだ店々が商売の仕度をしていない狭い道路を抜けていく。やっぱりランニングにならない。
 二曲がり三曲がりすると、ビルと民家に挟まれた寂れた公園があった。犬を連れた老人が散歩しているくらいで、人けはない。古木の繁みに空を覆われている。涼しい。さっそく片手振りを五十本ずつ。左手は勇気を持ってやる。まったく痛まない。両手の素振り百八十本。両手腕立て、腹筋、背筋、五十回ずつ。左手腕立て三十回に挑戦する。やはり怖くて二十回でやめる。痛まなかった。帰宅。
 ガラスの大鉢に缶詰のミカンを載せたそうめんが用意してあった。焼きおにぎりと茹で玉子。いただきます。
「うまい!」
「タレの味、お姉さんにお墨付きもらってまった」
 カズちゃんがクルクル目玉を回して素子に笑いかける。
「あとでシャワー浴びる?」
「うん。あまり汗かかなかったけど、サッパリしたい。冬の朝はもっと気持ちいいだろうな」
「千佳子さんから電話があって、十一時には高円寺に着くって。フジに直接くるらしいわ。山口さんにも電話しといた。御苑の帰りに、歌声喫茶にでも寄ってくるって言ってたわ」
「木谷の遊び納めにするか」
「いいえ、これからもっといろいろ連れてってあげなくちゃ。勉強はゆっくり、二年計画ぐらいで考えないと。名古屋の大学を受けてもいいわけだし」
 出がけに素子が、
「はい、早稲田で食べる弁当。おにぎりはあたしが握って、サンドイッチはお姉さん。どっちもおいしいよ」
 大きなバスケットを手渡される。白鼻緒の下駄を履いて出た。出勤する二人と商店街を歩く。フジの前で素子とお別れ。
「あまり遅くならんでね」
「九時ぐらいかな」
 山口がフジに早めに顔を出し、シンちゃんもやってきた。駅前の店なので通勤前の客が多い。彼らは私に気づいて視線を留めるけれども、近づいてはこない。富沢マスターがカウンターの椅子に坐って、私たちのテーブルに話しかける。
「十四日から秋季リーグだね。俺は優勝できると踏んでるんだよ。この夏の東大、すごいよ。いろんなオープン戦で勝ちつづけてる。ふつうなら新聞記事にならないんだけど、キョウちゃんの登場以来、何でもかんでも記事にするんだ。キョウちゃんも肩の荷が下りたろ」
「背負ってるつもりはないですから、もともと荷は重くありません。優勝云々は関係ないですね。ぼくはホームランを打つだけです」
 シンちゃんが拍手する。マスターが、
「これからはますますマスコミがうるさくなるぞ。北村さんの隠れ家が見つかってないようでよかった」
「マスコミは神出鬼没で動き回るので油断できません。このあいだ、三日ほど補欠組と本郷グランドで練習してきたときは、新聞記者はいませんでした。オープン戦のほうへ回ったんでしょう」
 カズちゃんが丁寧に落としたコーヒーを持ってくる。うまい。ときどき、客が私と静かに握手して出ていく。私はいちいちお辞儀をして受ける。シンちゃんが、
「カズちゃんちに家族が増えるんだって?」
「うん、受験浪人。もと青森高校野球部のマネージャー」
 カズちゃんが、
「きれいな子よ。手出さないでね」
「へーい、わかっとります。高嶺の花には手を出しませーん。キョウちゃんのサインのおかげで、倶知安も千客万来になったよ。この店、神無月がくるのかってね。手伝いをパートで二人雇いました。おばさんですけど」
「おめでとう」
「なに、増えたと言っても、日に三十組ほどですけどね。持ち出しなしで商売できるようになりました」
「よかったですね」
 山口も素直に喜んでいる。マスターが、
「じつは、うちもなんだ。客が倍増した。年末は北村さんにボーナスはずみますよ。神無月さんにはあらためて」
「スパイクを一足、プレゼントしてください。黒革の」
「黒革のスパイクね。わかりました」
「あ、きたきた」
 カズちゃんがドアを押して飛び出していった。すぐに木谷千佳子を連れて入ってくる。臙脂のタイトスカートに白いシャツ、黒のサマーセーターをはおっている。
「こんにちは! 公認の家出をしてきました」
 山口が席を勧めながら、
「公認じゃ家出にならないぞ」
 千佳子はマスターや店員たちに挨拶する。
「すんなり決まっちゃって。和子さんが電話してくれたことと、ムッちゃんが手紙を書いてくれたのが大きかったです」
 山口が、
「堅い後ろ盾ってことだろ」
「お父さんお母さん、内心ホッとしたと思うわよ。とにかくよかったわね。コーヒー飲んだら、ボストンバッグをここに置いて早稲田を見てらっしゃい。山口さんとキョウちゃんといっしょに」
「はい!」
「ゆっくりしていらっしゃい。本格的な勉強前の息抜きよ」
 シンちゃんが千佳子をしみじみ見つめて、
「カズちゃんも素ちゃんもきれいだけど、この人もエキゾチックだなあ」
 マスターまでが、
「美人だ。小川真由美に似てる。あれほどトシじゃないけど」
 世間通の山口がすぐ反応して、
「トシといっても、小川真由美はまだ三十そこそこですよ。市川雷蔵と共演した陸軍中野学校はよかったなあ。鼻が立派すぎてなんだけど、そのほかは超美人だ。うん、たしかに似てる。小川真由美よりいい。鼻がきれいだ。気づかなかったな。和子さんばかり目がいってたから」
 千佳子は、
「和子さんと比べないでください。レベルがちがいます。素子さんもムッちゃんもすごい美人です。私は田舎くさい」
「早稲田受けて落ちたら、来年どうする?」
 私が訊くと、
「たぶん受けません。来年ムッちゃんといっしょに名古屋の大学を受けます。大学というのがどういうものか見ておきたくて」
 シンちゃんが、
「ムッちゃんてだれ?」
 カズちゃんが、
「東大野球部のマネージャー。そのうち会えるわよ。さあ、出かけてきなさい。あっという間に夜になってしまうわよ。はい、このバスケット持って」
 千佳子に渡す。三人意気揚々と出発する。
「山口、きょうバイトは?」
「きょうはない。あしたは林にピンチヒッターを頼まれた。林はいまや看板スターだから手を抜けない」
「二枚看板だろう。リーグ戦が終わったら唄いにいきたいなあ」
「林は、おまえの声を耳に甦らせると涙が出ると言ってた。俺もだ」
「私も」
「木谷はかわいらしいな。顔も神無月の好みだ」
 大きなバスケットを提げ、小さな白いバッグを小脇に抱えた千佳子はたしかにかわいらしい。ズーズー弁、大きな握りめし、翻るスカート、スタンド敷き。しかしいまは言葉も立ち居も洗練され、かわいらしさに美しさが加わっている。
 東西線に乗り、高田馬場に出る。階段を上がってムトウ楽器前へ。ゆるやかな坂道を歩きだす。
「ここから文学部まで、ずっと早稲田通りだ。去年まで、いまの荒川線とつながる都電が走ってた」
 食い物屋を中心にする商店が連なっている。
「この寿々木家という蕎麦屋は高校時代によくきた。カツ丼とかけそばが定番だ」
 山口が反対側の家並に埋まっている映画館を指差し、
「早稲田松竹。新宿や池袋のテアトルとどっこいの名画をやる」
 坂のいただきで、
「この交差点をクロスして走ってるのが明治通り。ここからグランド坂上までは食い物屋か喫茶店か古本屋だ。そこの蕎麦屋は亀鶴庵。創業三十年。名古屋うどん、大観堂書店、蕎麦志乃原は亀鶴庵より倍も古い。この八幡鮨は、明治のころは穴八幡の階段横で店を出してた。大正からいまの場所に移った」
「異様に詳しいなあ」
「戸山高校にかよってたからな。東西線の早稲田で降りずに、馬場から早稲田通りをキョロキョロしながらいくのが、正しい早稲田の歩き方だ」
 一人で悦に入っている。


         百五十三

「腹へってきたな。そう言えば朝めし食ってなかった」
 山口は千佳子の提げているバスケットを勝手に開けて、
「鮭のおにぎりと、玉子焼きと、ウィンナー、この小さい銀紙包みは野菜サンドか。ありがたい。さっそくいただこう」
 にぎりめしを頬ばりながら、商店の立ち並ぶ早稲田通りを先に立っていく。この店はうまそうだ、あの店は店構えが派手だ、などと指差しながら品定めする。
「高校時代にだいぶ歩いたけど、どの店も、かよいつめたい気にさせないな。早稲田大学はにぎやかな商店街のど真ん中にあるんだ。在野、進取の精神、庶民の大学。東大とちがってスローガンに重みがある。この数十年、単なるエリート大学と化した疑いなきにしもあらずだが」
 山口はグランド坂上から西門通りへ入らずに、もう一度馬場口の交差点へ引き返し、左折して目白通りに入った。西早稲田の十字路から理工学部校舎を右に見ながら、左手のこんもりとした緑を指差す。
「あれが戸山高校だ」
 緑の中に五階建ての校舎がそびえている。
「早稲田大学の一部みたいだな」
「今年は東大に九十二人、早稲田には七十六人だ。東大早稲田の予備校みたいな高校だ」
 左折して道なりに広い通りを歩き、文学部キャンパスに出る。
「グランド坂上から右折して八幡坂を下ってきたらここに出る。これは文学部の戸山キャンパス。この十倍くらいのキャンパスが、その南門通りの向こうにある」
「ほんとに早稲田ツウだな。早稲田にくればよかったのに」
「おまえが東大にいかなければ、母校になってた」
 もう一つ握りめしを頬ばる。
「あの大きな建物、すてき」
「早大記念会堂。入学式、卒業式、バスケットボール、バレーボール、何でもやる。このキャンパスはいまいち魅力がないな。校舎全体が平べったく沈んでる」
 木谷千佳子はまぶしげに文学部の正門から構内のたたずまいを眺めている。枝骨だけの桜木立の向こうに、二棟の校舎が平伏している。千佳子の目が少し光った。ファイトの滲んだ目だ。
「すてき……。名古屋大学もこうかしら」
 山口が、
「こんな庶民的じゃないだろうな。もっと敷地が広大だろうし」
「目が本気モードになってきたね」
「ここのキャンパスには吉永小百合がいるぜ。いま第二文学部の四年生。そこの交差点の立ち食いで、ときどきかけそばを食ってるって話だ」
「関心ありません」
「ぼくも」
 文学部正門のすぐ脇にブルボンという二階建ての喫茶店があった。大学の門の並びに喫茶店という図がめずらしい。馬場下町の交差点の信号を渡る。右の角地に三朝庵という蕎麦屋があり、その向かいに龍泉院という寺があった。
「この蕎麦屋も寺も江戸時代からある。ここから、南門通りだ」
 通りを見通す。細いアスファルト道がくねってつづき、軒の高さが一定の集落という感じになる。三朝庵に並んで、ガラスの引戸いっぱいに学生アルバイトの物件を貼った紹介所。ガラス窓の物件に電話番号が書き添えてあり、それをメモする学生はいるがだれも戸を引いて入ろうとしない。ガラス戸が広告ボードで、戸を引いて入っても中身はないのかもしれない。流行しはじめたコインランドリー、斜向かいにカナリヤ、皆美、おふくろと看板の古びた食堂が三軒並びにつづく。右手にニューブラジル、杜、モンシェリなど印象的な名前の喫茶店がつづき、モンシェリの二階に早稲田小劇場と書かれた立派な突出し看板が出ている。どういう劇場なのかわからない。
 雀荘が増えてきた。さつきという雀荘のガラス窓を通して牌を掻き混ぜる学生たちの姿が見える。
「神無月は、結局麻雀は覚えなかったのか」
「ああ、碁も将棋も覚えなかった。メンコとビー玉以降、ゲームと名のつくものは何一つ覚えなかった。これからも覚えるつもりはない」
 道を隔てた向かいには永田運動具店、食堂稲穂、コーヒーフランソワ、美好、尾張屋、コーヒーわせだにあん、藤浦パン、オザワ洋服店と並び、ふたたび右手に目をやると、メルシー、コーヒーミール、プランタン、麻雀道草、公洋軒、平山時計店、高田牧舎……。
「これはもう学生街じゃないな。食い気を主にした商店街だね」
「ほんとうね」 
 法学部の南門を起点に、構内を囲む生垣が始まり、アカデミックな雰囲気がにおってくる。鉄柵に沿って歩きつづける。麻雀早苗、廣文堂と店舗が隙なく並んでいる。オンボロの学生会館。千佳子がポツリと言った。
「神無月くん、この学生街、好きでしょう」
「うん。珍味だね」
 とつぜん目の前に時計台がそそり立った。駒場の十倍はあろうかという時計台だ。私は口を開けて見上げた。
「すばらしい―」
 学生が行き交う幅の広いの正門の向こうに、緑の葉群れを傘にした大隈重信の銅像が見える。
「この門は別名開放門と言うんだ」
 山口が教える。
「そんな名前がつくということは、ほかの大学の門は排他的だということだね。駒場は人ひとり通れる程度の通用門しかない。本郷も入りづらい。あんまり威張ってるから、つい敬遠してしまう。そういえば、横浜の工場で働いていたおふくろを何度か迎えにいったことがあった。大きな工場でね、その正門も、開放門と呼ばれてた。それでなつかしい感じがしたんだな」
「その話、青高のときに聞かされた。おふくろさんの給料袋を落としたってやつだろ。一分もしないうちに消えちまったって」
「そっちは別になつかしくない。年を経て、つらい思い出になった」
「拾った人の悪意を感じます。通りがかりの人にはちがいないけど、神無月くんが落としたか置き忘れたところを偶然見た人だと思います。悪魔の心ですね。……そんな経験ばかり積み重なっていったんですね。いまでこそ神無月くんの生活は華々しく見えますけど、小さいころは地獄だったんですね」
 山口が目を赤くして、
「ああ、だから何でもうなずける、ヤケな首吊りでも何でもな。金を落としたなんて、そんなささいな不幸の積み重ねじゃない。並べ立てるまでもなく、あれも、これも、絵に描いたように悲惨な少年時代だ。しかし神無月は、そんな思い出で現在を煤けさせてはいないよ。不幸はいまもってつづいてるからな。いやな記憶を振り返ってる暇はないんだ。振り返るときは、ただなつかしいと感じるだけだ。すばらしいな。むかしといまの不幸を一からげに道連れにしてるからこそできることだ」
 講堂前の路上に、年老いた三人の靴磨きが、客待ち顔で床几に坐っている。私の白鼻緒を含めてほとんどの学生が下駄なので、かつがつの商売にちがいない。彼らは暇そうにしていた。都バスが講堂脇から頻繁に出発する。
「十五円という半端な金額だ。五円玉というのはなかなか持ち歩かない」
 五円のつり銭を用意した車掌がステップの下に立って、列をなして乗りこむ一人ひとりに手渡している。乗客は学生ばかりではなく、子連れの主婦や老人の姿も目立つ。
「どこもかしこも商店まみれ。あっちは大隈通り、西門通りもこの調子だ。八幡坂とグランド坂通りはこれほどでもないが、商店が多いことはまちがいない。庶民の大学、面目躍如というところだ」
「肩肘張ってなくて、私は好きです。度量が広い感じで、落ち着きます」
「うん、東大よりはずっと親しみがある」
 開放門から構内へ入り、大隈公の銅像に向かって歩いていく。ゆるいスロープを利用して、子供たちが三輪車でくだってくる。
「右が政経、左が法学部だ」
 法学部の建物のすべての窓がコンクリートで埋められている。私が見上げると山口が、
「この八号館は学生の投石が激しかったらしい」
 学生運動の根城だったと言う。法学部に向かい合って政治経済学部の七号館がある。学生の出入りもなく、ひっそりしている。
「政経の学生はまじめなのが多いからな。みんな授業に出てるんだろう」
 社会科学部、商学部、教育学部の順で覗いて回り、小ぶりで白い瀟洒な建物の前に出る。
「演劇博物館、いわゆるエンパクだ。入場はタダ。さしたるものは展示されてない。映画監督の写真、歌舞伎の浮世絵ポスター、楽屋の調度、浄瑠璃人形、着物、そんなものばかりだ。入ってみるか」
「いや、演劇はいい。学問に守られてる感じがする」
 三人、建物の前の芝生に足を投げ出してくつろぐ。私は、
「何もかもが肌にしっくりくる風景だ。特に時計台が美しい。この大学で野球をやりたかった」
「練習風景を見ていくか」
「うん、ぜひ」
 大隈通りを歩いてグランド坂に突き当たり、視界を遮るコンクリート塀に切られた入口から安部球場に入る。背の高い金網で周囲を張り巡らしたかなり大きな球場だ。東大球場より広いが、芝生がない。網の外にアパートやマンションが建ち並んでいる。
 シートバッティングをやっていた。ボロボロのコンクリートスタンドに登って観る。かなりの見物がいるが、目立たず紛れこみ、彼らから離れて坐ることができた。
 白いユニフォームに臙脂のストッキング。レギュラー陣が溌溂と走り回っている。シーズン前に七帝戦のようなオープン戦の予定がないらしく、ひたすら練習に打ちこんでいるようだ。谷沢と荒川の打球の強さに驚く。木谷が目を大きく見開き、
「大学野球ってすごいですね」
「そう思わせるあの二人はね。あとは並だ。法政はこの数倍。優勝なんて思い浮かべることさえオコがましかったな」
「おまえの百人力でいけるところまでいくさ。俺は信じてるよ」
「私も。さ、お弁当にしましょう」
 大きな握りめしが三個。すでに山口が二個食っている。
「もう一つもらう」
 山口が一個つまむと、私が一個つまむ。千佳子も最後の一個をつまんだ。玉子焼きは甘く、爪楊枝に刺したウィンナは胡椒がきいてうまい。山口がとつぜん、
「グリーンハウスの客の女と寝ちゃったよ。一回こっきりの約束でさ。……操って、ただ単に肉体を接しないことじゃなく、たとえ接しても、自分の快感を人に与えないということだろ? となると、操を守るなんてことは不可能じゃないかな。どう思う?」
「可能だ。射精しなければいい」
「ええ! 無理だろ」
「無理じゃない。ぼくはできる。射精してしまうと、処理なんて口実は設けられないことになるし、ゴム越しだから裏切ってないなんてことも言えなくなる。快感の証拠の射精をしたわけだから」
 千佳子が頬を染めながら、
「とても難しそうな問題ですね。女の場合、不感症の女だけが操を守れるという理屈になりますね。男の場合は、神無月くんが言うように意志の力で射精しないことしか操は守れないと思う」
 山口が、
「神無月のように離れ業のできる男もいるけど、そういかない男は心の操を誓う以外に方法はないか」
 私は、
「そうなると、生理的な反応を許してくださいって、いつも心の中で謝らないといけなくなるね。面倒だ。心の操を誓うというのも、都合のいい口実に思える―」
「神無月の女たちも、俺のおトキさんも、一人としかしないから、操を後生大事に守ってることになる。ところが神無月も俺もその意味では守ってない。ふつうの女はそんなことをけっして許さない。男の快感を独占したいからな。神無月の女たちもおトキさんも独占したいと思ってないようだ。女に比べれば男の快感なんて大したものじゃない、独占なんてもってのほか、たしか和子さんの理屈はそういうふうだったな。つまり快感を許してるということだ。俺から言わせれば、大したものでなくても、快感は快感だ。結局のところおまえも俺も、愛する女に対して、肉体の操は失ってるな。……この問題に対する解決策は一つだろ。心の操さえ失わなければ、自分の肉体の快感はだれに与えてもいい、という理屈だ。ここからが俺の問題だ。だれにでもと言っても、好意を感じる者以外のからだを道具にして、快感を覚えたらどうなる」
「道具なんだから、オナニーだと思えばいいんじゃないか。オナニーを許さない恋人はいないだろう」
「……どうも、そこが、俺とおまえでは状況がちがうようなんだ」
 私は懸命に考え、
「どういうふうに?」
「おまえは何も考えずに、空しいオナニーにしないようにセックス相手の選別行為ができる。神業なんだよ。相手が一人だろうと、百人だろうと、おまえは相手に好意を感じて抱き、善をなしてるとも不徳をなしてるとも思ってない。だれもまねできない。そのうえ愛する女や気に入った女以外には勃たない。俺は勃ってしまうんだ」
「うん、ぼくの場合、気に入らない女とは行為自体が不可能だ」
「そこなんだよ……」
「少しでも親しみを感じない女とはしないようにすれば、オナニーをしないですむ。何人か親しみを感じる女を恋人にして、ときどきセックスするようにするんだよ。処理じゃなく、快感の分かち合いにしないと……。自分だけじゃなく、相手が感じなければセックスの意味がない。それこそ単なる処理になってしまう。そう思えば、少なくともプロの女は抱かなくなる。おトキさんとセックスしていて、処理と思ったことはないだろう? おトキさんもふるえるからさ。ふるえる女は、現役の商売女にはたぶん一人もいない」
「いないな」
「偶然山口が愛し、愛されないかぎり、いないね。ぼくは純粋な処理をしたことがない。あの港の売春婦のときでさえ、かすかな愛情を感じてようやく勃起した。空しいオナニーをしないですんだ。処理は、何も分かち合えないので空しい」
「女から愛を与えられることや、女に好意や愛を感じることは、ふつうの男には簡単なことじゃないんだ」




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