百九十九

 榊が帰っていくと、鈴下監督が、
「スカウト?」
「はい、中日ドラゴンズのスカウトです。ドラフト前のスカウト活動は違法なので、ときどきああやってドラゴンズへの愛情を確かめにくるんです。ドラゴンズ入団という共同目標のために気脈を通じているという形です」
「金太郎さんは中日にいきたいんですね」
「はい、小さいころからの夢です。少しずつ正夢に近づいてきました」
 大拍手が起こった。横平が、
「早く東大を優勝させて、中日へいってくれ。長引くとストレスが溜まるぞ」
 野添が、
「長引かせてください。神無月さんと野球をやるのがぼくの夢ですから。この夢を覚まさないでください」
 磐崎が、
「おまえもがんばって中日にいけばいいだろう」
「そうだ! がんばれ」
 部長が野添の肩を叩いた。
「プロなんて無理ですよ。一日でも長く神無月さんと野球をやりたいだけです」
 西樹助監督が、
「台坂が首の皮を硬くしてくれた。有宮、あした打たれても、だれも文句言わんぞ」
「俺はエースですよ。信頼してください。首の皮をもう一枚重ねます。三回は死ぬ気で投げますから」
「たった三回か」
 台坂が茶々を入れる。彼の肩を氷詰めの袋で冷やしていた詩織がキャッキャと笑い、控え室全体が笑いに満ちた。
 バスで本郷まで戻る。カラオケは忘れて、もっぱらきょうの反省になった。監督が、
「スミ一というのはよく聞くが、スミ十一というのは聞いたことがない。たしかに横山は速かったから無理もない。百四十五キロあたりになると、うちは俄然打てなくなる。横山と江本を攻略できなければ、優勝は危ういぞ。山中はたまたま一回で引きずり下ろしたから、攻略できたのかどうか心もとない。打てたのは二人目の小林だけだ。彼はもう投げてこないだろう。山中はあしたも後半にくるな。金太郎さん以外は、百四十五キロでマシーン打ちを居残り練習。五時まで。きょう、ノーヒットは?」
 ぱらぱらと手が挙がる。三井、村入。ぜんぶピッチャーだ。
「よし、ピッチャーも打撃練習だ。エラーは?」
 水壁と大桐と克己が手を挙げた。
「大桐のエラーは二塁送球ミスだな。あれで溜まったランナーを田淵に浚われた。ボールは握りそこなったら、送球はやめろ。ヒットにすればいい。ダブルプレーよりも一塁で殺そうとすること。ゲッツーの練習は、日を改めて集中的にやろう」
 私は、
「あしたは、クニャクニャ江本ですね」
「と思う。きょうベンチ入りしなかった江本は、いま松永監督ともめてて、あしたもベンチ入りするかどうか危ぶまれてるが、初戦負けをしたんではそうも言ってられないだろう。あしたはまちがいなく先発でくる。試合開始は一時半。赤門前十一時半出発」
 帰りにフジに寄り、カズちゃんに勝利の報告をして、汗と雨の滲みたユニフォームを渡した。私のサインが入口の脇壁に貼ってある。マスターが、
「神無月さん、テレビ観てたよ。五号か。びっくりしちゃう。一本目の左手の押しこみはすごかったなあ。二本目は、ピッチャーがピッチャーだったから、打ってあたりまえだよね。あしたは問題児江本だ」
「初戦ベンチ入りさせてもらえなかったみたいですよ」
「問題児だからね。ああいうのがプロにいってモノになるんだよ。江本のボールは曲がったり落ちたり、打ちにくいんだ。ストレートもけっこうなもんだしね。でも、また二本は打ってね」
「がんばります」
 マスターは鼻をふくらませて、物見高い表情をしている客たちを見回した。忙しい人なんだから近づいたらだめだぞという、威嚇するような眼つきだ。
「カズちゃん、あしたは一時半試合開始だよ。連勝して勝ち点を挙げたら、あさってから二週間の休みだ。あしたの夜は寄せ鍋ね。ゆっくりしよう」
「オッケー。応援の帰りに素ちゃんと買い物をして、五時には鍋の用意をしとく」
「きょうあすは高円寺に泊まる」
「それもオッケー」
「山口、いなかったよ」
「ライトスタンドにいたのよ。望遠で写真撮ってたみたい。あしたは家族でいくらしいわ」
「へえ、そうだったのか。せいぜい格好いいとこ見せないと」
         †
 九月二十二日日曜日。熟睡して、六時起床。曇。二十・二度。一キロダンベルを手に天沼陸橋まで往復。軟便、シャワー、時間をかけて歯磨き。百グラムステーキの朝めし。カズちゃんが、
「帰ってきたら、もっと精をつけましょ」
 素子と千佳子がクスクス笑う。
 十時四十五分、予定より早く赤門出発。十一時半から敵味方入り混じって柔軟、ランニング、キャッチボールそ。十二時、東大、法政の順でバッティング練習開始。一時十分、両チーム守備練習終了。
 ブルペンを見ると、やはり先発は江本だった。ドロップじみたカーブがとんでもなく切れている。曲がってから落ちてくるまでが速い。あの球だけは手を出すまいと決めた。ほかの球種をバットの届くかぎりぜんぶ振っていく。
 ブルペンの有宮の球は見ちがえるほど走っている。コースを丹念に投げ分ければ、七回まで五点以内に抑えられるだろう。山本と富田のホームランが怖い。きのうは不発だったが要警戒だ。二人とも外角でもホームランにする力を持っている。田淵は高目に弱い。有宮はよくわかっている。円陣で私は言った。
「きょうも田淵を高めで抑えてください。江本の高目は伸びてくるので、胸より上は〈捨て〉です。高目から落ちてくるドロップカーブもやっぱり捨てです。あとは叩くなり、掬うなり、しっかりスイングしていきましょう」
「オウ!」
 先攻。三塁側ベンチ。ネット裏のかなり前列に、カズちゃん、素子、千佳子の、黄色と赤と白のワンピース姿を発見する。その後ろの列に、節子と吉永先生が黒と緑のセーターを着て並んでいる。みんな手を振らないように自粛しているようだ。鏡に映したように彼女たちの心が見える。
 きょう東大が連勝すれば一挙に優勝という文字が浮かび上がってくる。六大学野球開闢以来の歴史的イベントを目に納めようとする人びとで、スタンドはぎっしり満員だ。報道陣のカメラも一塁側と三塁側のフェンスに何十台となく貼りついている。
 サイレンが鳴り、オレンジに黒縞のソックスに真っ白いユニフォームを着た法政チームが守備位置に散る。紺色シャツに紺色スラックス、紺色の帽子をかぶったアンパイアが所定の位置につく。鼻柱の強そうな江本の投球練習が始まる。クニャクニャのタコ投法だ。鞭のようにしなる腕から投げ出されるストレートが速い。球筋は乱れていない。スピードはきのうの横山と大差はない。田淵のセカンドへの送球はまさに芸術品だ。すばらしいコントロールで地を這うように伸びていく。彼らはいずれも郷土の誇りの子らにちがいない。こんなチームに勝てないのも当然だ。しかし、当然なことはすべて癪に障る。癪なことを覆すには、たゆまぬ鍛錬が要る。それと多少の才能。―多少でいい。あとは情熱がなんとかしてくれる。
 私を右投げに替えてくれた人びとに会いたい。会えば私は泣くだろう。彼らがいなければ、いま私はここに立っていない。彼らの関心と、同情と、助力がなかったなら! 私が野球をつづけていられるのは、才能だけを恃(たの)む私の生来の楽観がもたらした僥倖だけれども、私をここに立たしめているのは、私の右投げを完成させた彼らの愛だ。
 スタンドを見回す。クマさんや小山田さんや吉冨さんがどこかにいるかもしれない。
 ―キョウちゃん、立派になったな。やっぱり俺たちの見こんだとおりの男だった。早く中日球場にこい。毎日でも観にいってやるぞ。
 そう思いながら、スタンドのどこかから私を見つめているかもしれない。……そんなはずはない。彼らはもう名古屋にはいない。遠く散りぢりになってしまったのだ。遠く隔たったからこそ、呼びかける手立てはある。ラジオとテレビだ。きょう、もしインタビューされることがあったら、遠い彼らに呼びかけよう。
 プレイボールのコールがかかった。中介がバッターボックスに入る。ベンチの声援がかしましくなる。中介が構える間もなく、直角に落ちるカーブが田淵のミットをすり抜けてバックネットへ転がっていった。ちゃんと捕れや、と言わんばかりに肩を怒らせて江本が先輩の田淵を指差している。田淵がマウンドへ走っていき、けんか腰ではなく何やらたしなめた。ヒョロヒョロノッポがヒョロヒョロノッポの肩をポンポンと叩く様子がユーモラスだ。江本が笑顔になる。田淵は人格者のようだ。二球目、首と手足の長いからだがクニャクニャしなり、スリークォーターから飛び出してきた猛スピードの直球が胸もとを抉った。
「ストライーク!」
 思わずアンパイアが大声を上げた。とつぜん一塁法政側のブラバンの演奏が始まり、バトンガールが踊りだした。本来、自軍が守備のときにスタンドは応援活動をしてはならない。しかし、青春の血をたぎらせる彼らの行動が観客に違和感を抱かせない。こら、応援は俺たちの番だ、とでも言うように三塁側東大ベンチがやかましくなる。法政スタンドもすぐに気づいて静まった。
 投球間隔を置かず三球目、外角へスピードを乗せた小さく曲がるカーブ。ストライク。中介は前のめりになったきりボンヤリしている。手も足も出ないのだ。四球目、振ってはいけない顔の高さのストレートを振って三振。
「それでいい、それでいい、振らないよりはいい!」
 鈴下監督が本気で叫んでいる。しかし、振って見こみのないボールは振ってはいけない。胸より上のストレートは〈捨て〉だと言ったはずだ。きょうは負けたと思った。一塁コーチの兼がパンパンと手を拍つ。先週の初戦から、コーチャーズボックスには二人の助手が立っている。三塁には小原。春は控え選手が立っていた。
 江本から一本、特大のホームランを打とう。それできょうの敗戦の惨めな印象を払拭できる。磐崎、高目のストレートをバットの根っこに当ててゆるいピッチャーフライ。横平は外角のシュートにバットを折って、ぼてぼてのサードゴロ。最悪だ。カズちゃんたちのほうを見ないようにして、レフトへダッシュ。
 やはり有宮のボールは走っているように見える。法政応援団のパフォーマンス。切れのいい動きだ。バトンガールが東大と同じ四人に増えている。四人とも背番号つき短パンのユニフォームを着ている。スクラムを組んで、速いテンポの応援歌をスタンドと声を合わせて唄っている。いや、唄っているのではなく、叫んでいる。
「カットバセー! ソノダ!」
「カットバセー! ソノダ!」
 よく見ると、一塁側スタンドにも十人ほど濃紺のミドルスカートを穿いたバトンガールが横列して、バトンを回しながら整然とラインダンスを踊っている。東大よりも滑らかで、華麗だ。しかし、どんな大学のパフォーマンスも、早稲田大学の校歌や応援歌やコンバットマーチには敵わない。バトンのいないハンデをものともしない早稲田大学の応援スタイルは剛直そのものだ。スタンドの学生たちが肩を組んで左右に揺れながら唄う紺碧の空は試合中に聞き惚れてしまうほどだ。わけても、応援団の足並揃えた豪快なパフォーマンスはすばらしい。彼らが血の出るような特訓をしていることは、いつかテレビのドキュメンタリー番組で観た。過酷な鍛錬だった。あれほどの情熱に満ちた、狂ったような鍛練の日々には、きっと志を同じくする仲間との数知れない邂逅や、大上段な友情があふれているだろう。
「プレイボール!」
 一番苑田、初球内角高目のストレートを打ち上げてサードフライ。なんだ? 絶好球に見えたということか? たぶん有宮のボールが見た目以上に切れているのだ。水壁は緊張のあまりよたつきながらボールを追ったが、しっかり捕球した。うれしそうに内野にボールを回し、ワンアウトの指を立てる。
「ウエー!」
「オエー!」
「トリャー!」
 内野全員で声を出して応える。
 二番山田。空振り、空振り、センター前の痛烈なヒット。始まった。富田、右中間三塁打。たちまち一点。田淵、初球レフト内野席の奥へファールを打ったあと、顔のあたりのクソボールをむちゃ振りしてレフトポールぎわにライナーのホームラン。私は一歩も動けなかった。あっという間に三点。山本、ライト線へ二塁打。つるべ打ちになった。佐藤、深いセンターフライ。山本タッチアップしてサードへ。桑原ショートの頭を越える左中間二塁打。四点。聞き覚えのあるコンバットマーチが延々とつづく。堀井、私への高いフライ。ようやくチェンジ。ゼロ対四。三塁ベンチへ走り戻りながら、十点は取られるだろうと思っている。私は克己に、
「この打席でホームランか長打を必ず打ちますから、あとにつづいてください。江本はほとんど曲げてきますが、決め球は胸の高さの速球です。打つなと言いましたが、調子に乗られたら困るので、それだけを狙うことにします。上から叩きますので見ててください。そのボールを征服できないと、この試合は勝てません。みんなも大きく落ちるカーブだけを捨てて、しばらくそのボールに的を絞って狙ってください」


         二百

 ベンチを出しなに氷水を一口飲み、スタンドの祭囃子を眺めながら、バット三本まとめて振ってデモンストレーションをする。
「バッター、ハリーアップ!」
 審判の声。ふとネット裏を見ると、節子だけが立ち上がって手を振っている。セーターと見えたのは、黒っぽいカーディガンだった。一本、一本、バットを後ろへ投げ捨てながらボックスへ歩いていく。
「金太郎! 金太郎!」
「ホームラン! ホームラン! 金太郎!」 
 バトンガールたちのまさかりパフォーマンス。ワーという歓声。ほんとうに片仮名のように、ワーと聞こえる。バッターボックスに立ち、足もとの土を均す。江本がイライラした顔をしている。
「プレイ!」
 審判の右手が上がる。高目を叩きつけるためにバットを高く構える。予想どおり、一球目に顔を狙ってきた。反り返らず、軽くしゃがんでよける。田淵がマスクの下から、
「悪い、すみません」
 と言った。二球目、外角へ落差のある切れのいいカーブ。ストライク。ワンワン。三球目外角低目へシュートがきた。百五十キロぐらい出ている。
 ―打てる!
 左足を踏ん張り、しっかり手首を絞って叩く。レフトのポールぎわへライナーがグングン伸びていく。ファール! ウオーというどよめき。江本がニヤニヤしながらボールをこねているあいだ、バッターボックスを外さずに待つ。四球目。足首あたりのドロップ。ショートバウンド。田淵が片手で造作なく捕球する。ツーツー。江本がマウンドに唾を吐き、ボールをこねながらめずらしく投球間隔を空けた。
「よし、こい!」
 田淵がミットを低く構えた。フェイクだ。大智は大愚に似たり。考えるとロクなことがない。五球目、そらきた! わずかに内角の、三振を取るための高目の速球だ。右腕を畳み、左腕を投げつけるように振り下ろす。浮いてくるところを叩けた。しっかりと芯を食った。
「いったあ!」
「いった、いった、いったあ!」
 鈴下監督や部長たちがベンチ前へ飛び出す。チームメイトも弾み出て一列に並んだ。走りだすとライトスタンドの距離感はつかめないが、打球の上昇する角度はわかる。右中間の照明灯に向かってまっしぐらに伸びていく。ライトの苑田が背中を向けてだらりとグローブを垂らしたまま空を見上げている。白球は照明灯の柱の半ばに当たって、いびつに弾み、場外仕切り板のはるか上方の灰色の空へ消えていった。地を揺るがすようなどよめきに包まれる。いつもよりゆっくりと回る。内野手のだれもが顔を逸らす。江本だけが昂然と顔を上げて、中空を睨(ね)めつけている。カズちゃんと素子がようやく両手を振った。私も振り返した。応援団員やバトンガールたちが跳びはね、三塁側スタンドが総立ちになっている。ホームインするとき、マスクをつけたままの田淵が、
「ミラクル、ヒッティング」
 と小さい声で祝福した。どれほど感動したにせよ、敵を褒めるのはストレスになる。麗しき自己矛盾。田淵には真情がある。この男は、プロ野球界で長く愛されるだろう。
「ありがとう」
 帽子の鍔を指でつまんで応えた。次打者の克己と握手し、監督と握手し、ベンチ前に並んだ仲間たちとハイタッチしていく。補欠選手たちがスタンドで叫びまくる。中介がヘッドロックをしてくる。氷水を心ゆくまで飲む。喧騒の中で、克己が低く弾むレフト前ヒットを放った。水壁がツーストライクから江本の足もとをするどく抜くセンター前ヒット。すべて高目の速球だ。ここまでか。いやいや、長身の臼山がしぶとく喰らいつき、ファーストベースに当たって撥ね上がる二塁打を放った。克己生還。たちまち二対四。ノーアウト二塁、三塁。大桐がのっそりバッターボックスに入る。なんと、初球にユニフォームの胸をかするデッドボール。江本がすっかり舞い上がっている。大桐は飛び上がって走りだす。江本がマウンドから駆け下りてきて怒鳴った。
「あいつ、よけとらんやないか! ただのボールや!」
 田淵が押し止める。ブラバンの演奏がやんで、三塁側の演台から応援団が激しく江本を罵る声が聞こえる。闘魂はの合唱が始まる。

  闘魂は いまぞ極まる
  逞しく 力競いて
  掲げなん 勝利の旗を

 有宮がバッターボックスに入った。気持ちよく三球三振。打順が一巡して、中介に回ってきた。ソワソワしている様子から彼がスクイズを考えているのがすぐにわかった。監督が釘を刺した。
「負けているのに、スクイズなんかするなよ」
「はい!」
 ボックスへ歩いていく。第一打席の三振が中介の頭にある。ワンアウト満塁。三振を恐れず高目を振って、外野フライを狙うしかない。青高時代によくチームメイトに呼びかけた言葉を思い出した。その言葉に、山内や金はにっこり笑ったものだった。
「三振しちゃいましょう!」
 中介がベンチを振り向いて大きく笑った。初球高目のストレート、空振り。二球目真ん中から外へ落ちるカーブ、空振り。三球目内角シュート、ファールチップ。見逃そうとせずに全力で振っている。四球目外角低目のストレート、当たった! ファースト桑原ジャンプ。届かない。ライト線へ深く転がっていく。ライト苑田がボール目がけて猛烈な勢いで走る。彼がボールを捉えたときには、中介は二塁ベース上に立っていた。走者一掃。五対四。逆転! フラッシュが立てつづけに光る。
 松永監督が三塁ベンチを出てマウンドへ小走りに近づき、うなだれている江本の肩を叩くと、審判にピッチャー交代を告げた。ベンチから山中が走り出てきた。
 テンポの速い淡青の空の演奏。これがあったか。初めての演奏だ。バトンガールたちが踊り狂う。

  淡青の この空の下
  おお わが東大
  栄えある学府
  おお わが東大
  栄えある学府

 ひどい歌詞だ。白鉢巻の団員に促され、東大スタンドがライトブルーのメガフォンを振り回して大騒ぎする。ブルペンの三井がウォーミングアップを休んでぼんやり見物している。上を向いて歩こう。中年の女が指揮棒を振っている。
 バトンたちが踊る。黒いプリーツのミドルスカートにブルーのランニングシャツ、胸に黒のTの字、襷がけをしている。白靴下に白運動靴を履いた足をスキップさせて狂乱する。手拍子をとる観客の中に白髪がけっこういるのに驚く。
 ―そうだ、山口にマーチ作りを頼んでみよう。八小節ぐらいの繰り返しのメロディでいい。
 山中の投球練習の態度はきのうとはまったくちがって、真剣そのものだ。ひたすらストレートとカーブを投げこむ。紅白のバトンを持った赤いスカートのバトンに交代する。
「カットバセー、イーワサキ、カットバセー、イーワサキ!」
「ホウセイ、タオセ、ホウセイ、タオセー!」
「レッツゴー、ファイト、レッツゴー、ファイト!」
「オオオー、オオオー、オオオオオー」
 あまりにも彼らの無秩序な叫びが滑稽で、思わず頬がゆるむ。しかし、どの大学の応援も似たようなものだ。演壇やスタンドは、選手とは別種の青春を燃焼させる舞台だ。
 磐崎が一塁前へバスター。桑原ピッチャーへトス、走りこんできた山中がポロリと落球し、一塁ベンチ前へころころ転がっていくあいだに、中介一挙ホームイン。六対四。磐崎は二塁へヘッドスライディング。止まらなくなってきた。新聞で評判になっている《怒濤の攻撃》だ。ネット裏の女五人がピョンピョンと跳ねながら拍手している。
 横平がバッターボックスに向かう。私はネクストバッターズサークルに入った。次打者はこのサークルに入っても入らなくてもいいことになっている。私はほとんど入らないが、間断なく攻撃がつづきそうだと思ったときは入ることにしている。思ったとおり横平は初球の内角スクリューを強振して、ライトの塀際まで高いフライを打った。磐崎三塁へ。ツーアウト三塁。どよめき。
「ホームラン、ホームラン、金太郎! ホームラン、ホームラン、金太郎!」
 二点差。引き離そう。ここを先途と、演台の応援団長とバトンガール四人がバケツの水をかぶった。驚愕したスタンドが大喚声を上げる。私は三度素振りをしてバッターボックスに入った。
 初球外角へストレート、ストライク、二球目外角へカーブ、ストライク、三球目内角へスクリュー、ボール、馬鹿の一つ覚え。ツーワン。あと十キロ速くてこの配球だったら、ひどく苦労するにちがいない。プロはそういうピッチャーばかりだろう。四球目、もう一つ外角へカーブ、ボール。ツーツー。
 九十七メートル五十センチの右翼フェンスを見つめながら、バッターボックスの位置を少し前に詰める。真ん中へスクリュー! 沈みぎわを叩く。ひさしぶりに掬い上げた。曇り空に高く舞い上がる。
「ウオーッ!」
 立ち昇る歓声。三塁ベース上で磐崎がこぶしを高く突き上げる。ボールはバックスクリーンの右端をかすめてスッと消えていった。センターを眺めている一塁手桑原の前を走り抜ける。今度は顔をそむけていない佐藤や山田や富田の前を走り抜ける。
「ナイス、バッティング」
「グッド、ジョッブ、怪物くん」
「ワンダフル!」
 それぞれが声をかける。ホームベースを踏むと、田淵が、
「いっしょにプロでやろう、金太郎さん。一足先にいってるよ」
 興奮した声で言った。
「ぼくはドラゴンズへいきますよ」
「俺は巨人。時の運だけどな」
 ベンチ前で揉みくちゃになる。審判にハリーアップと注意されるので、水壁がボックスへ走っていく。監督が、
「金太郎さん、こりゃ―」
「優勝ですか? まず、きょう勝ちましょう」
 部長が、
「そうだぞ、鈴下くん。きょう勝ってから、夢を見よう」
 詩織が捧げるように柄杓の水を差し出した。野添と岩田が真赤な目で握手した。二回表のスコアボードに8の字がくるりと回って出た。
         †
 三井、森磯とつないで、十三対十二で辛勝した。法政は山中が投げ切った。ホームランは私が三本、大桐が初の一本を打ち、法政は田淵が二本、桑原の代打に出た入江という二年生が一本、富田と山本が一本ずつ打った。過激な打撃戦だった。試合終了のサイレンが鳴り、整列して礼をするとき、高校野球のようにみんなでわだかまりのない握手を交わし合った。田淵がいつまでも私の手を離さなかった。
 応援席に向かって最敬礼をし、足音を高めよの演奏を聴いたあと、監督やチームメイトたちに囲まれ、ラジオ・テレビの報道員のインタビューを笑顔で受けた。それだけで記者たちが驚いた。
「東大の優勝という六大学史上初の快挙が、いよいよ目前に迫りましたね。八号ホームラン、おめでとうございます。今シーズンも二十本以上のペースでホームランを打っていますが、これも前人未到の―」
「ホームランはたしかにそうでしょうが、優勝はシーズンが終わるまでは確言できません。仲間と力を合わせ、驀進するだけです。それより、呼びかけたい人がいます。いまは会えなくなった、かつてぼくを支えてくれた人たちです」
「それはすばらしい! どうぞ。球場内だけでなく、全国津々浦々でラジオを聴いている人たち、テレビを観ている人たちの目と耳にも届きます」
 カズちゃんたちのほうを見ながら、マイクに口を寄せてしゃべりだした。
「……西松建設の小山田さん、吉冨さん、荒田さん、それから長野の観光バスに乗っているクマさん、お元気ですか。ぼくがいまも野球をつづけていられるのは、あのころのあなたがたのさまざまな力添えのおかげです。とりわけ、左肘の手術の失敗から右投げに替えざるを得なくなったときのあなたがたの狼狽たるや、いま思い出しても涙が湧いてきます。以来、可能なかぎり自分たちの時間を犠牲にして、寄ってたかってみごとに右投げに改造してくれました。飯場の飯炊きの息子にすぎないぼくを、わが子とも友とも見なして、狂おしいほどの愛情を注いでくれたあなたがたの顔をいっときも忘れたことはありません。……クマさん、吉冨さん、小山田さん、荒田さん、野球選手としてようやく地歩を固めて歩けるようになったこの姿を、いまあなたがたが日本のどこかで見てくれていると信じています。……絶望の中で野球から身を引こうと心を決めていたとき、ぼくを野球へ引き戻し、ふたたびグランドに立たせてくれた青森高校の先輩同輩たち、野球を継続するようたゆまず激励してくれた中京商業のスカウト押美さん、そして現在もリアルタイムで支援をしてくれているかたがた、ぼくはあなたたちに生きているかぎり感謝しつづけます。……最後に、東大チームの鈴下監督はじめ、助監督、部長、副部長、コーチ、マネージャーのかたがた、チームメイトの先輩同輩のかたがたにひとこと。あなたがたの寛大な愛情がなければ、野球をつづけることは危うかったでしょう。しごきも、いじめも、強制も、拘束も、いっさいありませんでした。ぼくの自主練習を信頼して放任してくれました。これも天与の僥倖でしょうが、あらゆる意味で最高のチームに属したと思っています。心からの感謝を捧げます。なお、金太郎というのは、十年前、名古屋の千年小学校の野球部仲間たちが、寺田ヒロオの漫画スポーツマン金太郎から採ってつけたあだ名です。十年間その名で呼ばれてきました。呼ばれると奮い立ちます。―ホームランを打つしか能のない男ですが、精進を怠らず、これからもみなさんの期待に添えるようがんばります。どうか金太郎と呼んで末永く応援してください」
 拍手と折り重なる歓声で球場が割れんばかりになった。法政チームもベンチを去らずに夢中で拍手していた。女五人がハンカチを目に当てている。号泣している野球関係者もいた。チームメートやマネージャーたちが泣きながら私に抱きついた。何十発ものフラッシュが光った。私は走ってベンチへ戻った。氷水をあおる。控えの選手やマネージャーたちが走ってきて、泣きながら握手した。
「胸が苦しくなるくらい感動しました」
「金太郎さんはすげえなあ。人間の中の人間だ」
「そんな簡単なものに思えません」
 監督が入ってきて、
「だから降臨したと言っただろ。きょうインタビューに名前の挙がった人たちも、むかしを思い出してその感激を新たにしているはずだ。一分、一秒、神無月といる時間を大切にしよう」
「オース!」
 廊下伝いに歩いた先にある選手出口は、ファンや報道関係者で押すな押すなの大混乱だった。肩で押し分けてバスへ向かう。
「優勝しろよ!」
「ありがとう、金太郎さん、生きてきた甲斐がありました!」
「金太郎さん! 泣いたぞ」
「神無月選手、ホームラン打ちまくれ!」
 子供の声だった。


         二百一

 本郷へ戻り、全員部室で着替えてから、鈴下監督ともどもベンチに腰を下ろし、部員やスタッフと歓談した。監督が部員たち全員に、
「勝ち点二、おめでとう」
「ウィース!」
「大桐、初ホームランの感触はどうだった」
「いやあ、金太郎さんみたいにはぶっ飛んでいかなかったけど、ぎりぎりでもスタンドに入るというのはこたえられない感激です。堀井がジャンプしたときは、捕られるかなと思いましたが、線審の手がぐるぐる回って、スタンドがワーッと沸いたときには、あらためて俺もやるなあと感激しました」
 臼山が、
「俺も、早大戦で小笠原から最前列へ打ちこんだときは同じ気持ちだった。だいたい俺たちみたいな、勉強しかしたことのないヤカラが、百メートルもボールを飛ばせるということが奇跡だぜ。金太郎さんにはそんなもの奇跡でも何でもないんだよ。散歩から帰ってきたみたいな顔でホームインするんだから」
 私は頭を掻きながら本音を言う。
「いや、ぼくも喜びでいっぱいなんですよ。ホームランを打つたびに、小学校以来のホームランがたちまちフラッシュバックします。ぼくの能力はこれだけだ、きょうも能力を発揮できたって思うんです。手応えと飛距離が食いちがうようになったら、野球をやめるでしょう」
「冷静だなあ。人間のために降臨したんだろうけど、やっぱり野球をやるために降臨したんだよ。そして、天に帰るわけだ」
 水窪が深くうなずく。
「野球をやるためじゃない。弱すぎる東大を救うために降臨したんだ」
 神さまァ、とふざけて中介が腕にしがみつく。克己が苦笑いし、
「上野や鈴木じゃないと、金太郎さんも気持ち悪いぞ」
「私も入れてよ」
 と黒屋が不満顔で言う。私はますます激しく頭を掻き、
「結果的にそうなってるだけですね。野球好きが、ただ楽しんで野球をやってるというのが偽らざるところです。そんなふうに言ってくれて、ほんとうにありがとうございます」
 樽を洗い終えた詩織と睦子が戻ってきた。私服に着替えている。
「勝ち点二、おめでとうございます!」
「ウィース!」
 思わず泣き出すやつもいる。一年の野添や三年の風馬たちだ。
「風馬さん、秋のオープン戦はよろしく。ぼくは立教戦のあとは自主トレに入ります。その間に、プロ入りがあるかもしれません」
「まかしとけ。四番は横平さんだ。俺は七番か八番を打つから、守備の代役しかできないけど」
 鈴下監督が、
「四年生は出ないぞ。卒論書きで忙しい。十一人いなくなる。たった三試合だが、オープン戦は二、三年生で固める」
 西樹助監督が、
「オープン戦より、このリーグ戦だ。二敗までのチームは優勝圏内だ。浮かれていられない。この先、全勝できるとはかぎらないしな」
「ウィース!」
「何はとりあえず、めでたい。缶ビールを用意した。乾杯しよう」
「イエーイ!」
 副部長の岡島が配って歩く。乾杯。鈴下監督がみんなを見回して、
「今週の土日は試合がない。あしたから十二日間、東大球場で自主練習をするように。次の試合は十月五日の明治戦だ。その翌週は慶応戦、次の週は休みで、最終週は十月二十六日からの立教戦になる。取りこぼしは二つまで、それ以上負けると優勝はない。法政に持っていかれる」
「オッシャァ!」
 横平が、
「金太郎さんのセンターオーバーのホームラン、驚いたなあ! スコアボードの向こうへ消えてったぜ」
 大桐が、
「いや、圧巻は一本目の照明灯にぶち当てたやつだろ。百五十メートルは飛んだんじゃない?」
 仁部長が、
「ま、金太郎さん以外はラッキーがつづいた感じだが、何度も言うようにチーム力は確実に向上している。優勝候補を二校も破ったんだからね。胸を張ろう。あしたからも練習に精を出してくれ」
「ハイ!」
「応援団とバトン、吹奏楽団は別宿舎ですか」
 私が訊くと、黒屋が、
「そう、駒場の体育館。練習場も同じ。裏方意識が強くて、ほぼ毎日、猛練習してる。いまもやってると思う」
「上野さん、山口に短いコンバットマーチを作ってもらおうか。早稲田、慶應とまではいかないまでも、東大独特のものがあったほうがいいでしょう」
「お願いします!」
「頼んでみます。一週間もあればできあがると思う。練習のとき持ってくるよ」
「でき上がったらすぐブラバンの人に持っていきます」
「それから、闘魂はは弱々しい曲なので、バンドだけで演奏したほうがいいと思う。合唱は足音を高めよ一本にしたらどうかな。金太郎マーチみたいな個人を讃える曲はスタンドプレー過ぎるのでオミット。試合中の演奏は明るく速いテンポの流行歌が効果的です。応援団が怒鳴りっぱなし、バトンガールが踊りっぱなしというのは見映えがよくない。団員とバトンが居並び、腕組みして静観したり、試技だけのパフォーマンスをしたり、メリハリをつけたらどうでしょう。スタンド一丸になって試合を観てくれているという雰囲気がないと、選手の士気も上がらない。OBの中には静かに観戦したい人たちもいると思うし、そういう風潮が浸透すれば、学生たちもこれが東大式だと納得するんじゃない?」
 選手たちが拍手した。黒屋が、
「わかりました。ご意見、各部の責任者に伝えます。ええと、季節柄、もう氷水はいりませんよね。次の試合から、ただの水にします」
 鈴下監督が、
「ベンチ裏に水道があるから、もう樽もいらないよ。氷水は、また来年の夏にお願いしよう。長いあいだご苦労さまでした」
 白川が克己に、
「シーズンが終わったら、きょう俺がつけた法政戦のスコアブックのコピーを記念にもらいたいんだけど」
「いいぞ。黒屋、一部コピーしといて。大事な資料だから原本は大切にね」
「はい」
 副部長の岡島があらたまった顔で、
「神無月くん、二月上旬から三月上旬まで沖縄合宿なんだが、もし中退やプロ入りが延期されてもう一年やるということになったら、合宿参加の可能性が出てくる。もし参加したい場合は、いつでもいいから体育会本部へ連絡してくれ。すぐに本部で切符を発行する。那覇市首里の一陽館に直接連絡をくれてもいい。合宿で使う球場は石嶺球場だ」
「強調性を欠くかとは思いますが、この秋はごたごたすると思います。もう一年ということになった場合も、いまのペースを守りたいんです。自主トレは欠かしませんから安心してください」
 部長の仁が、
「そうだよ、西樹さん、枷をしないというのが神無月くんを生かしめる道だ。それが入部の条件でもあったんだ。限定期間の風の又三郎でいいじゃないか。行先のわかっている又三郎だ。プロ野球へいくために、東大にきたんだよ、金太郎さんは」
「それはそうですが……さびしいですね」
「ああ、さびしいさ。泣きたくなるよ。ドラゴンズにいって、地上に留まってくれることを祈ろう。祈りが強くないと、雲の上へご帰還しちまう。そうなったらほんとうに行先知れずだ」
「はあ……一日一日が貴重ですね」
「そうだ。私も選手たちもみんな噛み締めてる。よし、練習組はあした十時。四年生は最後のシーズンだ。なるべくサボるなよ」
「ウィース!」
 仁部長が、
「スタッフはドラゴンズ入団に立ち会えますか」
「そのつもりだよ。すべて順調にことが運んだ場合だけどね。頓挫すると、金太郎さんは四年間東大に留まることが起こり得る」
「できれば、そちらのほうを望みたいですね」
 全員複雑な面持ちで黙っていた。
 五時に散会した。汚れたユニフォーム、帽子、アンダーシャツ、ストッキングなどを紙袋に入れ、クローブとスパイクとグリースを入れたダッフルを提げて家路をたどる。本郷三丁目の駅まで詩織と睦子と歩く。詩織が訊く。
「二週間のあいだに二人で遊びにいっていいですか?」
「あのアパート、新聞に嗅ぎつけられたから、外で会おう。電話くれれば、出ていくから」
 睦子が、
「私は横浜を歩きたいです。神無月さんが小さいころ歩いた道」
「いいね! 三人で歩こう。出かける日の前の晩に電話する」
 吉祥寺方面のホームで睦子を見送った。詩織と池袋に出て、山手線ホームでたがいに反対ホームの電車に乗る。最初に詩織が乗る電車を見送った。
 馬場に出て山口に電話を入れる。コンバットマーチの作曲を頼む。
「古関裕而とまではいかないぞ」
「ああ、紺碧の空は二つとない名曲だ。古関は、巨人、阪神、中日の応援歌も作ってる」
「オリンピックマーチ、栄冠は君に輝くもある。歌謡曲もすごい」
「長崎の鐘、イヨマンテの夜、君の名は。まあいい。とにかく作ってほしい」
「来週の月曜の夜、酔族館で会おう。そのときに楽譜を渡す。だめだぞ、たまには法子さんの店にも顔を出さなくちゃ」
「酔族館は初めてだ。いってみるか。三十日の月曜日だな」
「ああ。ウィークデイのほうが混まない。一人でこいよ。人員が多いと法子さんが気兼ねするからな」
「わかった」
 五時半に高円寺の家に着いた。台所で女五人がバタバタやっていた。
「ただいま!」
「お帰りなさーい! おめでとう!」
 千佳子が飛びついてくる。
「サンキュー。カズちゃん、これ、汚れ物。帽子もクリーニングに出して」
 紙袋を差し出す。
「ユニフォームと帽子はマスターに渡しとくね。ほかは家で洗濯する」
「きょうは球場にボルボできたの?」
「そう。節ちゃんとキクちゃんは直接神宮にきたのよ。夜勤明けで一眠りしてからね」
「わざわざありがとう。睡眠時間をしょっちゅうずらされてたら、からだの調子がおかしくなっちゃうね」
 吉永先生が、
「もう慣れました。家庭を持ってる看護婦さんはたいへんですけど。あしたも、私は夜勤なの。准看はがまんです」
 節子が、
「私も夜勤。正看も准看もないわよ。土日はお休みなんて、絵に描いた飴玉ね。嘗めさせてもくれない」
 先生が、
「建前はどんどん破られますね」
 カズちゃんが、
「気の毒ね。ウェイトレスは深夜勤務がない分ラク。お風呂、できてるわよ。入っちゃって」
「うん」
 風呂に入って汗を流し、清潔な下着とパジャマを着る。賑やかな台所へ戻る。
「料理、分担制でやってるね。うまそうだ」
「きょうは中華やよ。うちが贅沢ラーメン。ちゃんと生麺から作るんよ。節ちゃんは何だっけ」
「酢豚。いちばん簡単。いいお肉を使うからおいしいと思います」
 先生が、
「私はマーボ豆腐。和子さんにレシピを教えてもらって」
「みんな難しそうだ」
 千佳子が、
「私は、炊飯器でごはん炊いただけ」
「いちばんむずかしいんよ。とぎ加減と水の具合」
 私は食卓にグローブを取り出して、グリースを塗りはじめた。女たちはキッチンの料理台をうまく分かち合いながら、競争のようにめいめいの料理を作りだす。千佳子が私にコーヒーをいれた。
「勉強、進んでる?」
「夏に受けた旺文社模試で、早稲田第一文学部がC判定でした」
「模試なんか、何判定でも関係ないよ」
 ダッフルからスパイクとグローブを取り出し、玄関の外に出て、コンクリートにスパイクの爪を叩きつけて泥を落とす。式台に戻って、グローブとスパイクにグリースを塗り、ニーム皮で磨く。キクエの声が聞こえる。
「千佳子さん、早稲田って、東大ぐらい難しいんでしょう」
「政経や法学部はそうらしいですけど、ほかはそれほどでもないみたいです」
 グローブとスパイクを風通しのいい下駄箱の上に置く。


         二百二

 テーブルに着くとカズちゃんが、
「キョウちゃんはいつ中退する予定?」
 おおよそのことは彼女たち全員に伝えてあるが、自由交渉の話があることはカズちゃんと山口しか知らない。それもボンヤリと知っているだけだ。打ち明けるのはここしかない。私は真剣な顔になった。
「今回優勝できなかったら、もう一年やろうかと考えたこともあったけど、秋のリーグ戦が終わったら、優勝と関係なく中退することに決めた」
「いつか話してくれたとおりね」
「うん。中退した年はドラフトにはかからないことになってる。来年の秋まで待たなくちゃいけない。それだとむだな一年をすごすことになるので、来年の開幕までに、なんとかドラフト外の自由交渉でドラゴンズに入団する。来年のドラフトまで待って、ドラゴンズが籤を外したら元も子もないからね。来月の末までには方向が決まってると思う」
 カズちゃんが、
「そこまでしっかり話が進んでたのね……。素ちゃん、節子さん、キクエさん、千佳ちゃん、聞いたとおりよ。忙しくなるわよ! 千佳ちゃん、東京で大学を受ける可能性はなくなったわ。キョウちゃんが来年からプロ野球にいくのが確定になったから。私たちの本拠地も名古屋になるのよ」
「そうですか! よかった。とにかくこのまま、名古屋大学一本を目指してこれからも勉強をつづけます」
「がんばってね」
「受験に失敗したら、名古屋で和子さんのお店で働きます」
「何言ってるの。何のために勉強始めたの? ちゃんと身に合った生活手段を調えてキョウちゃんのそばにいるためでしょう。受かるまでやりなさい。働くなんてとんでもない。私たちは働くのが身に合ってるの。あなたは勉強して大学にいくのが身に合ってるの。そのチャンスを反故にしちゃだめ」
「はい、おっしゃることはよくわかります。失敗したまま受験をやめれば、きっとみなさんに申しわけないと思うし、私も不幸になるかもしれません。でも、そうすれば、神無月くんが野球をやめたときどれほどの不幸に耐えたか、そしてその不幸を克服して、どれほどいま幸福に暮らしているかがわかって、私もこの上ない幸福を感じると思います」
 節子と先生と素子が同時に口を開こうとした。それを止めるようにカズちゃんが、
「ぜんぜんちがう。キョウちゃんは不幸になんか耐えてないの。千佳子さん、あなた、キョウちゃんと同じ境遇を経験したいせいで、無理やりチャンスを捨てようとしてる。身に合った環境を得てキョウちゃんのそばで暮らすというチャンスをね。キョウちゃんはチャンスを捨てさせられたことはあったけど、進んで捨てたことなど一度もなかったのよ。キョウちゃんはね、不遇の中で不幸を感じて生きたことはなかったの。不遇を自分にとってあたりまえのものだと思ってたの。それがキョウちゃんにとって自然なことだったのね。だから私たちは、キョウちゃんと同じ場所に生きてると、自然な空気に包まれて、幸福に感じるの。私たちは勝手にキョウちゃんのことを不幸だったと思ってる。私も西松のお母さんと仕事をしてたころや、青森へ流されたころの悲しそうなキョウちゃんを見ててそう思ったことがあったわ。でも、キョウちゃんは草や木のように自然に生きていただけだったのよ。生きていれば、雨も降るし、雪も降るし、強い風も吹くでしょう。そういうものをあたりまえのようにからだに受けて、ちゃんと苦しがったり、悲しがったり、それが止めば伸びのびしたりして、ごく自然に生きてたの。山口さんもそっくり同じことを言ってたわ。自分のようなつまらない人間が、そんな大自然のような人間のそばにいられて、幸福を感じさせてもらえて、ありがたくて仕方がないって。そういう自然なキョウちゃんといっしょに暮らすことだけが大切だとしっかり理解して、何が自分にとって自然なことかをしっかり考えて、どんなものごとも自分の身に合った決心をすればいいの。私はこうしてキョウちゃんと生きていられることに何の理屈もつけない。ただキョウちゃんといっしょに喜んだり、泣いたり、怒ったりして、自然にしていたいだけ。ムッちゃんのするべき自然なことは? 東大をやめて、名古屋大学にいってキョウちゃんのそばで暮らすことでしょう。あなたがするべき自然なことは? 親友のムッちゃんといっしょに受験して、是が非でも名古屋大学にいってキョウちゃんのそばで暮らすことに決まってる。学生としての立場を手にすることは、キョウちゃんがプロ野球選手の立場を手にすることと同じくらい自然なことだからよ。その立場を手にしたうえで、キョウちゃんという自然の中で暮らすことはほんとうに幸福だと思うわ。わかった?」
「はい!」
 千佳子はくしゃくしゃな泣き顔で笑った。四人の女も祝福の笑いで応えた。私も泣きながら笑った。みんな自分なりの身の処し方で自然にいてくれること、それはそのまま彼女たちに対する私の願いでもあったからだ。
「わあ、キョウちゃんが泣いて笑っとる! ええなあ、うれしいなあ」
「ほんとね、うれしいわね」
         †
 節子の酢豚が最初にできあがった。つまみ食いをする。
「うまい! 肉が柔らかい」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんが肉嫌いだったころがなつかしいわ。カレーなんか出した日には、飯場のテーブルの下は、キョウちゃんが捨てた豚の脂身だらけだった。ぜんぶシロが片づけたけど。キクエさん、麻婆豆腐は、トウバンジャン、テンメンジャン、ハッカク、ニンニクなんかは基本だけど、生姜、紹興酒、鶏がらスープの素なんかも重要よ。ミンチは叩いて刻んだほうがおいしいのよ」
「きょうまで教えてもらうまで知りませんでした」
 千佳子が、
「シロって?」
「あ、みんな知らなかったわね。キョウちゃんのかわいがってた犬。いつかシロの話もしてあげる」
 しゃべりながらカズちゃんは、女たちの料理の具合を見て回る。素子が、豚コマ、もやし、白菜、ニラを合わせたものに鷹の爪を刻んで入れ、醤油、擂(す)りショウガ、ニンニクのみじん切り、それを片栗粉でとろみをつけたものをすべて鍋にあけて炒める。さらに塩コショウをまぶす。
「ラーメンの具やよ。贅沢やろ」
 吉永先生のマーボ豆腐ができあがった。スプーンでつまみ食い。
「うまい!」
 素子がじっくり麺を茹でて、アクを取る。節子が中華鉢を用意する。
「できた!」
「ごはんが要るなら言ってね。まず、食べましょ」
 盛りつけられたとたんに、いただきます、とめいめい言って、レンゲや箸をあわただしく動かしはじめた。
「うまい!」
「おいしい!」
 ひとしきり、うれしい無言がつづく。節子が、
「最後のインタビュー、泣きました」
 カズちゃんが、
「感謝したいのは私たちなのにね」
「ええ」
 千佳子が、
「じーんとからだが痺れました。その人たちに会いたくなっちゃった」
 カズちゃんが、
「私は全員に会ってるわ。青森高校は、山口さんと千佳子さんと睦子さん以外は知らないけど。……クマさんも、小山田さんも、吉冨さんも、荒田さんもぜんぶ思い出すことができて、キョウちゃんの感謝の心が痛いほどわかった。涙が出て困ったわ」
 私はめしを所望した。女たちも食べた。千佳子が、
「私、ぜったい名古屋大学に受かります」
 カズちゃんがやさしく笑いながら、
「そういうこと。合否がどうあれ、それが後悔のない結論よ。ね、キョウちゃん」
「うん、同じ立場ならぼくもそうする。それが自然だね」
 私は千佳子にキスをした。素子が、
「帽子もクリーニングに出してって、さっきキョウちゃん言っとったけど、帽子の何を洗うん?」
「帽子の縁に汗の塩分が滲みこんで、タワシでこすっても取れなくなるんだ。詩織がクリーニング屋に出したら、きれいに取れて返ってきた」
 吉永先生が、
「そんなこと気にする選手なんていないでしょう」
「いない。日本刀の刃文(はもん)みたいなシミをつけっぱなしで平気だ。ぼくはふつうでなく頭に汗をかくから汚れがひどい」
「あたし、キョウちゃんの汗のにおい大好きや」
 節子が、
「香水のようなにおいがしますよね。とってもいいにおい」
 千佳子が、
「あのにおいを嗅ぐと……」
 カズちゃんが、
「濡れちゃうのよね」
 みんなでうなずく。
「ああ、食べ過ぎてまった」
 素子がポンポンとお腹を叩く。
「テレビ、また居間に戻ってるけど、どうしたの」
「大学野球の季節だけ出すことにしたの。七時のニュースまでに、お風呂に入ってしまいましょう」
「はーい!」
「私と素ちゃんは片づけをしてからいくから、先に入ってて」
 節子とキクエと千佳子が肩を並べて風呂場に向かう。三人とも浮きうきしている。見ているだけでうれしくなる。われ勝ちに全裸になり、広い湯殿に入っていく様子が想像できる。やがてカズちゃんと素子も三人を追うように風呂へいった。
 居間にいってテレビを点ける。しゃぼん玉ホリデー。狭苦しく暗い感じのスタジオで繰り広げられるコントに笑えない。ザ・ピーナッツの和音も一本調子で馴染めない。クレージーキャッツのギャグのわざとらしさは感興を削ぐことはなはだしい。
 わいわいがやがや五人がパジャマ姿で戻ってくる。千佳子が、
「みんな、すごく胸が大きいんですよ」
 カズちゃんが、
「千佳子さんも立派よ。乳首の大きさは私とほとんどいっしょ」
 素子が、
「お乳の大きさはだいたいみんないっしょやわ。こんだけ似とると、だれに子供が生まれても、子供はだれのおっぱいか気づかんやろね」
 カズちゃんが、
「子供は産まない。高齢出産で、もしものことがあったらいや。キョウちゃんを残して死に切れないもの」
 素子が、
「あたしもいやや。子供と暮らすのは楽しい感じはするけど、キョウちゃんみたいに愛し切れんと悲惨や」
 先生が、
「私もキョウちゃんほど愛せない」
 節子が、
「私も」
 カズちゃんが、
「みんなで自分の気持ちに素直に生きましょ。産みたいと思ったら産めばいいの。そのときはみんなで助け合うから」
 七時のニュースに備えて、千佳子と素子がコーヒーをいれにいった。
「山口は、きょうも外野スタンドだったのかな」
「ええ、ゆっくり家族で観戦してたと思うわ」
「いいホームランを見てもらえたな」
 コーヒーが出揃い、みんなの顔がいっせいにテレビに向いた。ニュースが始まった。十五分のニュース特集。アルバニアがワルシャワ条約機構を脱退。カズちゃんが、
「ソ連と絶交したわけね」
 素子が、
「ワルシャワ条約機構って?」
 千佳子が、
「ソ連と東欧の軍事同盟です。先月、ソ連は政局がゴタゴタしていたチェコに軍事介入したりしてますから、アルバニアもイヤケが差したんでしょう」
 私はツンボ桟敷。この種の話には、よしのりの縁台将棋的知識が必要だ。縁台で終わる知識だ。彼からプラハの春という話を聞いたことがあるが、内容を一切忘れた。学校のクラス内の人間関係すらつまびらかにできない人間にとって、一生訪れない国のことなどどうでもいい。
 つづいてスポーツニュース。この一週間のまとめ。
 広島のエース外木場の完全試合と十六奪三振。
 江夏の奪三振日本新記録。
 バッキーと巨人軍の乱闘。
 中日の小野が二千奪三振。
 阪急の米田二百五十勝。
 それが終わると、東大―法政戦の壮烈な試合展開のダイジェストが流れる。私の三本のホームランが映し出され、両チームで九本のホームランが飛び出したとナレーションがかぶさり、東大の優勝の可能性の高さがしきりにコメントされた。めったにカメラの前に立たない神無月選手の感動的なメッセージと銘打たれて、私のインタビューの一部が放映される。自分の目が潤んでいたことがわかった。顔をゆがめる法政ベンチや観客席が映し出される。
「クマさんたちも、見とって泣いとるやろね」
「見てたらね。それより、ぼくの感謝の気持ち、クマさんたちに届いたかな。青森や飛島の人たちに届いたかな」
 カズちゃんが、
「届いたに決まってるわ。いまこのニュース見てるわよ」


         二百三

 六人浴衣に着替えて、散歩に出た。
「浴衣、いつの間にこんなに揃えたん?」
「こつこつよ。フジのマスターに報告してから、寿司孝でビール飲みましょ」
 六人で下駄をカラカラ鳴らしながら、商店街を歩く。節子が、
「私、おかあさんが仕立てて送ってくれた着物持ってるんです」
「今度それを着て遊びにいらっしゃい。素ちゃんと千佳子さんには、来月おトキさんが東京にきたとき、寸法をとってもらうわ」
「十月四日に出てくるんよね」
「そう。やっぱりおかあさんもくるって。総勢五人。山口さんが、西荻に旅館を予約してくれたらしいわ。男二人女三人、別部屋で。火曜日まで四泊五日。日曜日で試合に決着がついたら、月曜の午後はうちで食事会をしましょう。キクエさんにもきてもらう。ボルボで送っていけばいいから」
「送ってくれる必要ありませんよ。簡単に電車で帰れます。直人ちゃんはくるんですか?」
「一歳二ヵ月ぐらいじゃ外歩きは無理だから、乳母を雇って面倒見てもらうことにしたって。文江さんのお弟子さんに二歳の子供のいる人がいて、北村席に子連れで五日間詰めてくれるらしいわ」
「それええがね。まんいちのことがあったらたいへんやもんね」
「土、日と野球見物するから、どう考えても無理だったわね。ふだんから人慣れした子だから、夜さびしがって泣くこともないでしょう」
 フジの客はカウンターに二組、ボックスに二組。浴衣姿の私たちをまぶしそうに見る。シンちゃんが奥のテーブルで富沢マスターと笑い合っている。シンちゃんが、
「お、キョウちゃん、いまテレビを観てきたところだよ。優勝おめでとう」
「まだ遠いですよ」
「法政に勝ったんだ。優勝したみたいなもんだろ。きょうはきれいどころにちやほやされて、身がもたんというところかな。あれ、そちらさんは?」
「滝澤節子さん、私の次に古いキョウちゃんの恋人」
 気さくに答える。
「古いって、素ちゃんより若いだろ。千佳ちゃんより少し上かな。二十歳そこそこ―」
 節子は素子と手を握り合って笑った。ウエイトレスに全員アイスココアを注文する。マスターが金城くんにカウンターの下から紙袋を出させ、
「神無月さん、スパイクやっと届いたよ。二足。盗塁をしょっちゅうする選手でもないかぎり、二足あれば一年もつでしょう。二十七・五センチと二十八センチ。プロにいったらもう少し大きくなるだろうね。そのときはまた注文します。アメリカのニューバランス社製です。長保ちしますよ」
「ありがとうございます! あ、靴先が軽いですね。これでベースを蹴るときの感触がよくなるぞ」
 アイスココアがうまい。
「優勝を決める試合は観にいきますからね」
「正直なところ、優勝は来年だと思います。今年は明治と慶應に苦戦する気がするんです」
「弱気にならないでよ。神無月さんがいるかぎり東大は優勝するって、いまシンちゃんとも話してたところなんだ」
 シンちゃんが、
「八号?」
「はい。今季は二十六本は無理ですね。十五本くらいかな」
「田淵は三十本打てずに四年間を終わりそうですよ。神無月さんがいなければ大記録だったのにね」
 客たちが色紙を持って寄ってくる。快くサインに応じる。マスターが恐縮して私に何度も頭を下げる。シンちゃんが、
「俺のプレゼントは、キョウちゃん関係者は食事ぜんぶ無料ということにするよ」
 カズちゃんが、
「無理しないの、大して儲かってもいないくせに。まず店を大きくすることを考えなさい」
「へーい」
 一同大笑いになった。
 寿司孝に向かう。ガード沿いに夕方のいい風が吹いてくる。カズちゃんが、
「私、あしたもお休みもらってるから、荻窪にお掃除にいってくるわ。ひさしぶりにキョウちゃんとデートもしたいし」
「わあ、うらやましい。うちもいつかそういう日を作らんと。ね、節子さん」
「うん」
「節子さんやキクエさんは、ときどきキョウちゃんが訪ねてあげるからだいじょうぶよ。素ちゃんこそ作りなさい。知り合ったころにデートしたっきりなんでしょ?」
「そう、瀬戸までうなぎを食べにいったの。去年の七月三十一日、月曜日。そのとき、キョウちゃんが東京にこいって言ってくれた。もう死んでもええって思った」
 四人の女が思わず目頭を押さえた。
「いらっしゃい! お、神無月さん、インタビュー観ましたよ。よかったなあ」
 三人の客が拍手する。女将が、
「私、泣けて、泣けて」
 寿司孝では、ビールもつまみもすべてマスターのおごりになった。女将の持ってきた色紙にサインを書いた。節子が自己紹介をした。カズちゃんが、
「そういえば、このあいだよしのりさんがフジにきて言ってたんだけど、堤さんが早稲田の学生を連れてラビエンに飲みにきたんですって。荻窪に押しかけるかという流れになったのを、よしのりさんがなんとか止めたらしいわ」
「けしからん人たちやね。堤さんて、図々しくて好かんわ。学生になるまで働いとったってことばかり自慢して」
「働いてたことを自慢したいんじゃないのよ。働いても東大に受かったってことよ」
 マスターが大らかに笑い、
「神無月さんのように、もともと備わってるものに自信があれば、人は自慢なんかしないものですよ。女のかたも含めて、あなたたちはすごい人たちですわ。特に、神無月さんを支えてる根性がすごい。身を粉にしてる感じがします。ギブアンドテイクじゃなくね」
 客の一人が、
「ほんとにいいインタビューだったね。その人たち親衛隊かい?」
 マスターが、
「いえ、叔母さん姉妹(きょうだい)と、姪ごさんです」
「続柄はそうですけど、私たちはキョウちゃんそのもの。心臓と、肝臓と、腎臓と……内臓のぜんぶです」
 客がキョトンとした。女将さんが、
「女の鏡ですよ」
「マスター、子供いるの?」
 私が訊くと、
「へい、女の子が二人。小学四年と六年です。どうしてですか」
「子供がいると、生活の気構えがちがうんじゃないかなと思って」
「生活はしっぽりしたものになりますけど、煩わしいものですよ。子供なんて眺めてればいいだけのものだなあ。能力のある人は自分を鍛錬するだけでたいへんですから、作らないほうがいい。行動が妨げられます」
「能力がありすぎる人には、娯楽になると思うわ。女さえしっかりしてれば」
 カズちゃんが言うと、
「でしょうね。自分を鍛える必要がないくらいの人はね。神無月さんが練習しないことは有名ですからね」
 とマスターがうなずいた。
「合同練習は週をぶっ通しては出ませんけど、ぼくなりに自主練習はしてるんですよ。鍛錬しなければ、何も順調にはいかない」
 客が、
「大リーガーも、あまり練習しないというからな」
「技量や体力に自信があるからじゃなく、いろいろな種類の練習をしながら大勢で動くことにいつまでも慣れないというか、大勢でいると単品の練習のペースがつかめないというか、ちがった意味で不満感が残るんですよ」
「大学側は了解してるの」
「はい、納得してくれてます」
「しかし、女五人、着物姿の揃い踏みというのはアデやかだねえ。目がチカチカしちゃう」
 ビールと上チラシでみんな満腹になり、これといってマスター夫婦や客たちと話すこともないので、カズちゃんは勘定をした。玉子焼を土産にもらって帰った。道すがらカズちゃんが、
「これまで何度も言ったけど、キョウちゃんのドラゴンズ入りが決まったら、私、名古屋に戻って喫茶店をやるわ。バリスタなんて言ってられない。そんな資格、いつでもとれるし、コーヒーの勉強をしっかりつづけていれば必要ないものだもの」
「うちも調理士免許とったら、栄養士はずっと先延ばしにする」
 節子が、
「私も戻ります。中村の日赤病院に。……吉永さんも日赤に勤めればいいと思うんだけど。一度、武蔵野日赤に勤めておいたほうが異動するときにスムーズです。そのうえで吉永さんが正看をとったら、私、中村日赤に推薦します」
「そうねえ。法子さんや素ちゃんや千佳子さんは、かなり簡単に方針を決められると思うけど、キクエさんは、准看で辞めちゃったら、なかなか転身がきかないわね。やっぱり節子さんの言うとおりにしたほうがいいかもしれない」
 吉永先生が、
「キョウちゃん、ドラゴンズにいけなかったら、どうします。東大に残ります?」
 私は笑顔で、
「いや、とにかく中退して、名古屋に帰る。ドラゴンズ浪人することになったら、北村席で暮らす。だいじょうぶ。ドラフト外という手で、かならずドラゴンズに入るから」
 吉永先生が力強くうなずく。やはり先生は野球の話は得手でないようだ。
「とにかく、キクエさんは正看をとってからね。のんびりやりましょう」
「はい」
 千佳子が、
「私はさっき言ったとおり、名古屋大学を受けます」
「そうね。浪人も視野に入れておいてね。何年やってもいいから、のんびりと。女には勉強が似合ってるわ。私も含めてね」
「はい」
 千佳子は離れへ勉強しに去り、節子とキクエはあしたの出勤のために、音楽部屋で早めに布団に入った。居間の蒲団に、カズちゃんと素子と三人で横たわる。
「初対面の客が話しかけてくる店は苦手だな。対応に疲れるんだ」
「少しばかり親しく口を利き合うと、どうしても個人の事情に入りこんでくるところがあるからでしょう? 親しくなるほど無遠慮なところも出てくるし。愛想を使わないようにすればいいんでしょうけど、キョウちゃんには無理。でも愛想悪くしても、野球で頭がいっぱいのせいだって思うでしょうから、だいじょうぶなのよ」
「キョウちゃんは独りが好きな人やから、疲れるやろね。そのクマさんたちって、キョウちゃんを独りにしてくれた感じがするわ」
「キョウちゃんを独りにしてくれる人は、キョウちゃんを愛する人だけよ。……クマさんたちはキョウちゃんのいまの状況を心から喜んで、たぶん会いにはこないと思う。本質的なものに近づいているってわかるから。そういうとき、人は忙しいものだってわかるから。キョウちゃんが会いにいくなら別よ。でも、あのインタビューで思いがけない再会をしたことになったわ。すばらしい再会だった」
「クマさんたちと私たちだけやね、キョウちゃんを独りにしとくの」
「そう、キョウちゃんを真から喜ばせられる女と、それから、キョウちゃんそのものを愛して、キョウちゃんの本質でないものというのかしら、そんなものに目もくれない男の人たち」
「康男さんや山口さんやな。大事な大事な友だち」
「……本質でないものって、箔みたいなものやろか」
「そうね。学歴とか、人生歴―」
「本質ゆうんは?」
「野球や詩や歌。性格も本質」
「うち、よかったわ。キョウちゃんのこと喜ばせられる女で。本質も大好きやし」
「最高の人に巡り会えたからよ。これからうんとお礼をしていかないとね」
「うん」
 二人は私の胸の上で手を寄せ合った。


         二百四

 九月二十三日月曜日。朝食のあと、出勤日の節子とキクエと素子と連れ立ち、カズちゃんの背について高円寺駅まで歩く。千佳子は留守番。
 みごとな青空。カズちゃんが、
「高い空!」
 キクエが、
「あしたあたりからぐんと冷えこむんですって。来月中に冬ものを揃えておかなくちゃ」
「夏ものの整理もせんとあかんね」
「そうね。節子さん、キクエさん、不足してる衣類はない?」
 キクエが、
「だいじょうぶです。私、寒がりなので、冬物はたっぷりあります」
「蒲団や暖房器具は?」
「それも平気です。正看の資格をとったら、名古屋に引越しですから、あまり荷物は増やさないようにしないと」
「ほうよ、お姉さん、うちらもあまり増やさんとこ」
「そうね。キョウちゃんのステレオと机以外は、どんどん整理していかないといけないわね。ドラゴンズ入りが決まったら、引越しまで半年もないと思うから。でも、最悪、入団が一年延びたときのために、最低限の必要品は買い渋らないようにしないと。引越しのときに人にあげればすむことだし」
 節子が、
「それもそうですね。でも、私は暑がりなので、冬ものはあまり要らないんです。春ものや秋ものはたくさんありますけど。私もキクちゃんもチビなので、衣類を買うのはたいへん。だから、いいものを見つけたらそのつど買うようにしてるんです。和子さんに気を使っていただくのは心苦しいわ」
 素子が、
「うちなんかお姉さんにべったりやよ。図々しいもんや。……自分なりにがんばっとるけど、つい甘えてまう。でも、かならず恩返しするつもりやの。いま貯めとるお金も、お姉さんがお店を出すとき、ぜんぶ役立ててもらう気でおるんよ」
 キクエが、
「人間らしく、女らしくって、自分のことを反省するときは、いつも素子さんのことを思い出すの。和子さんがいちばん信頼してる人」
 節子が、
「ほんとにそう。和子さんにべったり甘えてるのは、素子さんだけでなく、私たちみんなです。みんなで恩返ししないと」
 カズちゃんが、
「あなたたち……素ちゃんまでいっしょになって。ちっとも甘えてなんかいないじゃないの。私はどんなことも遠慮なんかしてほしくないだけ。でも、私たちみんな、来年は引越しだものね。ものを増やすより、整理が肝心ね」
 素子を北口に見送り、残りの四人で改札を通る。キクエは三番線から東西線で馬場へ。ホームで手を振る。カズちゃんと節子と私は四番線ホームから三鷹行に乗った。荻窪でカズちゃんと降り、車中の節子に手を振った。
 石手荘に帰り着くと、すぐにカズちゃんと抱き合った。心地よい射精をした。カズちゃんもしみじみと気持ちよさそうに、長いあいだ腹とみぞおちをふるわせた。
「さあ、きょうのデートはどこにしようか」
「これが最高のデートよ。二人でこのままゆっくりしましょう」
 カズちゃんは目をつぶった。
「もっと私、自制するわね。……キョウちゃんの顔を見ちゃうと、どうしてもその場の欲望に負けちゃうところがあるから、よほど自制しないと。静かに待っているだけの女だったはずなのに、キョウちゃんの親切に甘えすぎるところがあったわ。ごめんなさい、迷惑をかけちゃって」
「意外な反省だな。カズちゃんらしくないよ」
「みんなどう言おうと、本音はキョウちゃんに抱かれたいの。私もその心に素直になりたい。……姐さん風吹かせすぎたわ」
 窓ガラスから、茶色く枯れた木蓮の枝が突き立っているのが見える。明るい光線が、まどろんでいるカズちゃんの上に鮮やかに落ちている。美しい午前の光だ。
 私はカズちゃんの横顔を見つめた―するとたちまち、痺れるような悲しみが首筋に昇ってきた。眼を近づけて見る。たしかにカズちゃんの顔だ。たしかにそうだとわかっていても、自分が愛してはならない顔のような気がした。
 ―かわいそうに。
 カズちゃんはうっすらと目を開け、
「心の声が聞こえてるわよ。キョウちゃんの気持ち、手に取るようにわかる。私も、だれもかわいそうじゃないから、心配しないで。……オフになったら、気分なおしに、二人で温泉でもいきましょうか」
「いいな。二人で温泉なんて、初めてだ」
「ほんとね。よし、しっかり計画立てちゃおう」
 横になったまま窓を開けて、二人深く息を吸う。空気は乾いて軽く、上空にそろそろ寒気が腰を据えはじめたのがわかる。カズちゃんが空を見上げながら目をしょぼつかせる。股間に手を差し入れると、くすくすと笑い声を洩らした。
「ありがとう。いつまでも飽きないでいてくれて」
 ドアがノックされたので、カズちゃんがあわてて上半身を起こし、シュミーズをまとって蒲団にもぐった。服を着て出てみると、管理人の女が立っている。真剣な顔をしていた。管理人部屋は玄関脇に接している。不動産屋のおばさんと下見にきたとき、一度だけひっそり立ち会った女だ。頭頂の薄くなった地肌が光っている。彼女は胸の前で両手をすり合わせた。
「あのう……」
「何でしょう」
 彼女が言い出さないうちに予想はついた。私は柔らかい表情を彼女に向けた。
「神無月さんが有名なおかただとは存じています。身の周りがあわただしいのも、仕方のないことだと思います。ただ、そのほかにも、ちょっと直接言えないような……。申しわけないんですけど、出ていってもらうということに……ここにお住まいのかたたちのあいだで話が決まりまして」
 蒲団から顔を出しているカズちゃんをちらっと見やる。カズちゃんは私に向かってうなずいている。
「わかりました」
 私は表情を崩さない。
「きょうあすというわけじゃないんです。できれば今月中に。アパートの人たちから苦情が出てましてね。うちの息子の教育上も、ちょっと」
「ああ、息子さん……」
 たしか三十を越えているはずだ。口もとがうつろにゆるんだ、はっきりしない輪郭の面立ちを思い浮かべる。ときどき、私が一人で部屋にいるとき、空地に面した窓を勝手に開けて、歯茎を剥いて笑うことがある。どうしたの、と尋くと、さびしげな顔つきをする。
「何か話そうか」
 と問うと、にっこり笑って黄楊(つげ)の潅木の茂みへ去っていく。
「あれでも繊細なところがありましてね」
 年増の顔にかすかな笑みがこぼれる。防音の効いた部屋だから、声は漏れていないはずだ。女が出入りする姿を不届きだと思われたのだろう。道徳的な人びとのその種の嫌悪感は、彼らが謙虚にわが身を振り返ったとしても、拭い去るのは難しい。
 身に覚えがある。小学五、六年生のころ、淡島千景とか雪村いづみとかが、外人と結婚したと聞いたときがそうだった。不潔な感じがした。あのころの自分の偏見を忘れ、世間並の感情を馬鹿にしながら生きてきたことが恥ずかしい。
「わかりました。なるべく早く出ます。あんな純朴な息子さんに悪影響を与えちゃいけない。大家さんは、あの不動産屋さんですか」
「いいえ、大家さんは在の地主さんです。立ち退き料は出せないと言ってるんですけど」
「そんなものはいりません。たいへんご迷惑をおかけしました」
「すみません、ほんとうに心苦しいんですけど」
 管理人が去ったとたん、カズちゃんは浮き浮きとストッキングを穿きはじめる。ふくらはぎの筋肉がぴっちりしまいこまれる。顔に薄くパフを当てる。
「カズちゃんのせいじゃないんだよ。管理人は女出入りにかこつけたようなことを言ってたけど、じつはステレオの音のせいなんだ。ぼくはかなり大きな音でかけるからね」
「そう? 嫉妬のもとを考えれば簡単よ。マスコミと女出入りよ」
 私は自分の自然な言動が不快感を与えることを経験から学んできた。大勢の人間にけっして理解できないことは軋轢の素になる。軋轢が周囲の人びとを不幸に陥れるかもしれないという心配をふくらませながら、できるだけ私の母を代表とするような人びとを拒絶するよう努力してきた。その種の人間に出会ったら、すぐさま逃げ出すようにしてきた。
 カズちゃんはそうしない。避けられないその種の人間から逃げない。逃げないのは私を思ってのことだ。神無月郷という人間は手荒い扱いを受けるにはあまりにも脆い材質でできているので、彼の安全を近くで見守り、楯にならなければならない、そう覚悟して自分を強靭に保っている。
「無理に理由をこしらえて反省しなくてもいいの。私たちのせいだと思ってないから。あちらさんの気持ちのせい。ああ、忙しくなっちゃった。でも心配しないでね。なんとかするわ。こんな辛気くさい部屋、もうそろそろ退散しましょ。お部屋が決まったら、さっそく引越しよ」
 鼻歌を歌っている。
「カズちゃんの家に移ってもいいんだけど」
「だめだめ。キョウちゃんの主義に反するでしょう。さっきも言ったけど、私だって毎日キョウちゃんの顔見ていたら、からだが疼いてたいへん。コーヒーの勉強ができなくなってしまう。素ちゃんも同じよ」
「そうだね。どこらへんを探す?」
「中野も高円寺も高いから、荻窪から西ね」
「三鷹にしよう」
「三鷹……。あんまりスキッとしないわね。とにかく、キョウちゃんはゆっくりしてて。一週間以内に決めるから」
「家賃三万円ぐらいで、周囲の建て混んでいない一戸建がいいな。十畳一間というのが理想なんだけど。―音楽をいい音で聴きたいんだ。そこに半年いられればいい」
「なるべくそれらしいものを見つけておくわ。山口さんにも連絡して、二人で探してみる」
「どれだけオンボロでもいいし、十畳がなければ、八畳一間でもいい」
 カズちゃんは何か閃いた眼で、
「まず、不動産屋の菊田さんに会ってくる。いい物件を教えてくれるかもしれないわ。山口さんの足を煩わせるまでもないかもよ。二、三日待ってて。じゃ、きょうはこれで帰るわね。デート中止」
 すたすた出ていった。
         †
 九月二十四日火曜日。薄曇。下痢便。耳鳴り。これが鳴りはじめると、夜、虫の声を聞く楽しみが減る。
 四面道を突っ切って、日大二高通りへ。マンション、クリーニング店、お好み焼屋、生花店、ラーメン屋、歯科、私塾、喫茶店、米穀店などの並ぶ親しみのある道。空に電線が参差(しんし)し、バスも通っている。少し奥まると、四、五階建てのマンションがひしめく。個人住宅がほとんどない。
 マンションの背が低くなりはじめ、個人家の密度が濃くなってくる。郵便局、薬局、アパート、床屋、葬儀屋。そろそろ引き返したくなるが、直線路が終わらない。天沼小学校を通り、商店街を通り、薄雲を見上げながら走る。園芸資材店の広い庭の緑、左官屋、パン屋。とつぜん日大二高の大きな門に到着。古い民家の並びに変わり、旧式の街灯が延々とつづいている。灰色の上着と黒ズボンの学生たちが往来する。すでに住所が阿佐ヶ谷に変わっている。新聞店で日刊スポーツを買って引き返す。評論家の記事を歩きながら読む。

  
 法政投手陣ピッチングになっていない
 優勝候補の東大に二敗したとなると、法政が春夏連続優勝を狙うのはきびしいと言わざるを得ない。鬼神神無月には逃げの投球で打たれ、ほかの打者とは勝負するというより、ストライクゾーンに投げるのが精いっぱい。ピッチングになっていない。捕手田淵の構える位置はほぼ一定で、打者との駆け引きというレベルまでいっていない。つまりバッテリーの完全復活が連続優勝の絶対条件だ。


 法政が実力を発揮していないとクサすことで、東大の現在の実力を閑却している。こういう書き方もあるのか。あの投手陣は他大学に通用する。東大に通用しないだけだ。
         †
 午後四時に四国屋へマーくんを迎えにいき、父親とセーラー服に見送られてタクシーに乗った。マーくんはよそゆきの半ズボンを穿き、手にグローブをはめている。
「タクシーは高いよ。電車を二回乗り換えれば千住までいけるのに」
「小学生のくせに気を回すな。マーくんのお父さんからもらった給料がまだたっぷり残ってるからだいじょうぶ」
「東京スタジアムはカクテル光線がパーッと明るいんだ。だから、光の球場って言われてる」
「そう。ナイターでよかったね。球場へいくのは初めて?」
「うん。何回かおとうさんが後楽園に連れてくって約束したけど、まだいってない」
「お父さん、機械の修理で忙しいからね」
「うん。きょうは東京―阪急戦、三位と一位の戦いだよ。きのう木樽が投げて負けたから、きょうは成田か坂井だ」
 よほど野球が好きなのか、マーくんはグローブに、何度も何度もこぶしを叩きこんだ。
「内野指定席に入るね。飛んでくるのはファールだけだけど」
「それをぜんぶ捕るんだ。みんなびっくりするよ」
 ニコニコ笑う。
「捕れないと思ったら、逃げたほうがいい。硬球は怖い。当たりどころが悪いと死んじゃうぞ」
「へっちゃらさ」
「左利き用のグローブって格好いいな」
「ぼくが野球やりたいって言ったら、おとうさんが買ってくれたんだ」
「ぼくもむかしは左利きだったんだよ。ケガして使えなくなったから、右利きに替えたんだけどね」
「ふうん、かわいそうだね」
「そうでもない。災い転じて福となす。右肩のほうが強かったんだ」
「うれしかった?」
「うん、飛び上がりたくなるほどうれしかった。特に右利き用の高級グローブを買ってもらったときは、やっとぜんぶがもとに戻ったって感激した」
 野球道具を買ってもらうことほどうれしいことはない。小山田さんたちに買ってもらい、カズちゃんに買ってもらった。いまも青森のスポーツ用品店でカズちゃんが買ったグローブを使っている。九千円もした焦げ茶色のやつだ。使い心地は最高だ。




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