二百十七

 ター坊の風呂屋へ向かう。やはり駐車場と新築住宅の家並になっていた。しばらく二人のパチリが止んでいる。家並の中にむかしはなかった鮮魚店があり、黒いゴムの前掛けをした男がガラスケースの前で水打ちしていた。
「思い出の場所には戻ってくるなということだね」 
「リアルタイムって、はかないのね」
 睦子が、
「だからこそ、貴重なんです」
 むかし煙突がそびえていた空に、大きな白い雲がある。戻りかけた道の横合いから、
「キョウちゃん!」
 と声がかかった。男はちょうど玄関の戸を開けたところだった。ジャンバーを着て長靴を履いている。柔和な瓢箪顔に見覚えがなかった。
「どなたでしたっけ?」
「風呂屋だよ」
「ター坊!」
 ここが自宅なのだ。表情に悪意のかけらもない。その笑顔のせいで、ベルトも、ドブの水も、すべて消え去った。
「いまは魚屋だ。どうしたの、こんなところで何してんの。野球で忙しくしてるんじゃないの」
「なつかしくて、青木橋からここまで歩いてきた」
「……すごい人になっちゃったね。それにしても大きくなったなあ。顔はむかしのまんまだけど。―このあたり、変わったろう」
「うん、すっかり」
「むかしの連中、ほとんどいるよ。……あのころは悪いことしたな。ときどき思い出して後悔してたんだ。勘弁してね」
 憶えていたのだ。きっとテルちゃんもそうだったにちがいない。
「なんとも思ってません。じゃ、もう少し歩いてみますから」
「そうか、今度きたら声かけてくれよ。この家だから」
「わかりました。お元気で」
「じゃ」
 ター坊は水打ちをしているゴム前掛けの男ほうへ歩いていった。
 短いあいだに二人の知人に声をかけられた。こうしたことは、おそらく意外なできごとなのだろうが、私はまったく感銘を受けなかった。彼らもそれほど心を打たれた様子はなかった。こんなものだろう。むかし見知った顔が通り過ぎただけだ。たがいに会わなくなってから築かれたそれぞれの生活は、微塵も影響を受けない。私を育てた〈場所〉には会いたいけれども、人には会いたくない。会えばかならず幻滅する。幻滅は、予定されていなかった悲しみだ。
 もう一度宮谷小学校を見やりながら帰路に着く。なつかしい微笑を浮かべて迎える場所はほとんど消えてなくなり、人間だけが毎日笑いながら生き延びていた。青木小学校と宮谷小学校は目に収めた。繰り返し子供を吸収し吐き出す公共の場所だけは、消えてなくならない。そこは、子供たちが溌溂と烏合して、喜びの記憶を残す場所だ。
「いい一日だった」
「今度は名古屋を案内してくださいね」
「いいなあムッちゃんは、名古屋にいけて。私もときどき名古屋を訪ねるわね」
「詩織さんみたいな東京支部を護る人は必要です。山口さんも、横山さんもそうです。東京にいてください。私もときどき遊びにきますから」
「ほんとに遊びにきてね。去る者日々になんとやらだから」
「そういう考え方、よくありません。自分からは動かない怠け者ってことを忘れてますから」
「そうよね、定点観測は自堕落よね。自分からどんどん動くようにしないと」
「そうです。あんな人たちのところにも、神無月さんのほうから訪ねてくるんですから」
 私は顔の前で手を振り、
「いや、人を訪ねてきたんじゃなくて、場所をね」
「結果は同じです。私、動き回る神無月さんについて歩くのが好きなんです」
         †
 二日水曜日の午前早く、山口が訪れた。
「神無月に頼まれたんじゃ、まじめにやらないわけにはいかんしな。なんとか作ってきたよ。リズムは青高健児でいった。メロディはオリジナルだ。名づけて、打てば破れん」
「青高の選手を送る歌の一節だね」
「そうだ。東大の『闘魂は』や『足音を高めよ』よりはマシだ。あんなのは、あってもなくてもいいようなシロモノだ。じゃ、この楽譜、しかるべき人間に渡しといてくれ」
「きょう詩織に渡しとく」
「和子さんから聞いた。荻窪、追い出し喰らったみたいだな。半年余りで、阿佐ヶ谷、荻窪と連続だ。和子さんの話だと、家持ちになったそうじゃないか。尻すぼみにならないのが神無月のすごいところだ」
「おまえ、ヒデさんに言ってたろ。人というのは、脇道は恵まれるって」
「衣食住は脇道じゃない。才能とは関わりないにしても、生活の本道だ。そこに不安のないおまえは大したやつだと言うんだ」
「大した幸運児だよ。いや、いままで不幸だったことなんてあったかな」
「ふん。きょうは快晴だな。どうだ、善福寺公園にいってみないか」
「いいな、いこう。昼から練習に出る」
「うちで昼めし食ってからいけ」
「わかった」
 ブレザーを着る、コンバットマーチの楽譜を内ポケットに大切にしまい、下駄履きで外へ出る。山口も下駄を履いている。
「相変わらずいい下駄履いてるな。来年は俺にも頼むと言っといてくれ」
「作曲のお礼をしてもらわないとね」
「そのへんの百貨店で高級下駄を買ってくれ、と言っとけ」
「わかった。マネージャーたちで金を出し合って、最高級の下駄を買うよう言っとく」
 十月初めの曇り空の下に心地よい風が吹いている。荻窪駅まで歩く。ところどころアスファルトの剥げた路の端に、朽ちた落葉が積もっている。
「最近は街並に鉄筋の陸(ろく)屋根が多くなって、すっかり風情が消えたね。板塀から松の枝がこぼれてたり、柿の木が覗いてたり、浅みどりの若葉から青空が透けて見えたり、そういうことがなくなった」
「俺は、季節の中に人間さえいれば満足だ。三年前おまえに会った季節が今年も巡ってきた。感無量だ」
「ぼくも、思い出すと感極まる」
「何か言い出すなよ。泣いてしまうからな」
「いや、言う。山口のおかげでいまもバットを振ることができるし、本を読むことができるし、原稿用紙やノートのにおいを嗅ぐことができるし、女を抱くこともできる」
 山口は頬をふるわせ、
「一生言われそうだな。もういいかげんやめてくれ。俺はただおまえを失いたくなかっただけだ。きのう吉祥寺の商売女と寝た。何度やってもあわただしいものだな。サックつけられて、ひたすら腰を動かして、ピュッと出す。あれは生きてるってもんじゃない。おトキさんとちがって、汐が寄せてくるような高まりもない。二度といかないと決意しても、こればかりはな」
「健康のためだ。ぼくもいきたいけど、吐き出し先がたくさんいるから、弾(たま)を充填する暇がない」
「トモヨさんや素ちゃんみたいな女をかわいがることができたというのは、やっぱり神無月の人徳は並外れてるということだ」
「トモヨさんや素子にとって、たまたま心ときめく男に遇ったのは幸運なめぐり合わせだった。山口だってそうだ。おトキさんも前身はその手の女だったんだ。おトキさんは幸運だった」
「まあな。いっしょにいるとそんなこと忘れちまう。初々しくて、恥じらいがあって。しかし女の幸運といってもなあ。おトキさんの場合、俺が心ときめいたほうだ。とにかく神無月は何かの化身だな。青森の風呂屋を思い出すよ。おまえのからだ、光り輝いていたもんな」
 西荻窪までの切符を買い、電車に乗る。
「おトキさんと別れちゃだめだよ。やむを得ずそういう事情になっても、自分から別れを切り出さないほうがいい。かならず決定権を女に譲ったほうがいい。その後の山口を愛する女を、感謝の気持ちで愛し返すことができるようになる」
「節子さんのことを言ってるな。結局戻ってきて、おまえはぜんぶ引き受けちまった。俺には無理だ。一度自分を捨てた女を―」
「戻ってきたんだ。自分の利益を捨てたとき、人には深く思うところがある。その深い思いを受け入れなければ人間じゃない」
 西荻窪駅に降りて、先日のうまい立ち食いそば屋にいく。二人とも揚げたてのてんぷらを載せたうどんをすする。握り飯を一個ずつ買っていく。
 南口から商店街を歩きはじめる。左右に商店や飲食店が立ち並んでいる。
「キョロキョロしてるな。いつもの記憶癖だ。目ン玉の動きはそれほどあわただしくないんだが、一つひとつに焦点を絞る様子が異常だ。ホームランを打つ目なんだろう。いくら焦点を凝らしても、このあたりはただの住宅街だぞ。あ、あれ、桃井第三小学校。俺の母校。家から五分。中学受験組の多い名門小学校だ」
 小振りな小学校の長方形の校庭を眺める。ミニサッカーかドッジボールぐらいしかできなさそうだ。千年小学校の三分の一、宮谷小学校の五分の一もない。
 住宅街に入りこみ、山口の実家の屋根を眺めながら善福寺川沿いに出る。植生を見ていこうとするけれども、ほとんどの流域が人工的にコンクリートに固められている堀なので、桜のほかになかなか樹木が見つからない。川沿いに緑が見えてきた。思わぬ静けさに包まれる。
「善福寺川緑地と言うんだ。つの字形の流域に橋が十四脚。広場、野球場、釣り堀もサイクリングロードもある」
「ほとんど人がいないね」
「桜と紅葉の季節以外はこうだ」
 数千本の樹が植わっているように見えるが、目立つのはほとんど桜と楓と公孫樹だ。川の水は澄んでいて、カワセミが飛んでいた。
「善福寺はどこにあるの?」
「公園の向こう。小学校の校門みたいな山門と、ガレージ小屋の中に建てた二基の石塔と、本堂と社務所がポツンとあるきりのさびれた建物だ。賽銭受けもなければ、墓地もない。いかなくてもいいだろう」
 川の水源である善福寺池に着く。池を囲む区域を善福寺公園と呼んでいるようだ。ここは植生がすばらしい。大型と小型の瓢箪形した池の周囲にベンチが供えつけられ、背後を小ぶりな森が囲んでいる。小さいほうの池には蓮の葉が浮き、木杭にアオサギが止まっている。公園全体の広さは井之頭公園の二、三倍もある。園路にはサザンカ、森には南天、マユミ、コブシ、ハナミズキ、ボケ。樹の下草は、タンポポ、イヌノフグリ、踊子草。春には桜や椿が咲き、菜の花やフキノトウも生えるだろう。
 二人でベンチに座って握り飯を食う。池にかぶさる樹木はまだ紅葉していない。カラスが飛んできて、近くの木の枝から首をクイクイ回しながら握り飯をねだる。振り返ると飛び立った。一かけのめしを小枝に挟んでやる。やがて戻ってきて、飯粒をついばみ、粘りに驚き、あわてて嘴を枝に摺りつけるとまた飛び立っていった。私たちは腹を抱えて笑った。貸しボートを独り黙々と漕ぐ中年男がいる。私たちの目の前を猛スピードで通り過ぎていった。
「もとボート部だな。青春時代を思い出したんだろ。神無月も年食ったら、河原の少年野球に混じりたくなるんだろうなあ」
 また私たちは声高く笑った。
「今週、おトキさんがくるね」
「トモヨさんもな」
「カズちゃんの話だと、直人は雇った乳母に預けて置いてくるらしい。西荻に宿をとってくれたんだってね」
「ああ、高級旅館だ。北口の加賀屋。ご主人夫婦、おトキさんとトモヨさん、菅野さん、三組バラバラに部屋をとると言ってた。トモヨさんとおまえの逢瀬は、日曜か月曜になるが、俺は金曜から月曜まで四日間、おトキさんのもとにかようぞ。ぶっ壊れるほどおトキさんを抱く」
「がんばれ。ぼくは日曜日にしっかり抱く。また長く会えなくなるからね」
「それにしても、吉祥寺の豪邸、たまげた話だな」
「うん、まだ信じられない」
「俺は、おまえに似た顔の男がいたということが信じられないよ。何にせよ、めでたい」      
 ベンチから立ち上がり、二人で深呼吸してから園路を引き返していく。
「このピンクや白の花は何だ。葉っぱが油光りして硬そうだ」
 ニヤニヤして問いかける。期待に応えてくれという笑いだ。
「サザンカ。葉が硬いのはツバキ科だからだよ。ツバキの中国名は、山茶と書いてサンサと読むんだ。サンサカが訛って、サザンカになった」
「そこまで訛るか」
「語呂が具合のいいほうへ訛るんだ。サザンカはヒメツバキ、コツバキとも言うよ。歌が出てくる?」
「童謡しか出てこないな。神無月は?」
「二つ、三つ、出る。山茶花を旅人に見する伏見かな、西鶴。山茶花のここを書斎と定めたり、子規。山茶花の暮れゆきすでに月夜なる、水原秋桜子」
「さすがだな。しかし、どれもつまらんな」
「つまらん」
 また大笑いした。


         二百十八
 
 山口の家の前にきた。
「神無月郷はいつもわが家の噂の男だ」
 週日の午前なので、父親や妹は不在で母親が顔を出した。
「あらあ! 神無月さん、おひさしぶり。いつ見てもメリハリのきいた顔ねえ。歌舞伎役者みたい。道で振り返られないですか?」
「いえ、別に」
「振り返って、そのするどい目で見つめ返されたら、かえって怖いですよね。きょうはきっときてくれると思って、天丼の準備をしてたんですよ。天麩羅大好きでしょう?」
「はい、でも三十分ぐらいあとでお願いします。善福寺公園で握り飯を食いましたから」
「はいはい、コーヒーいれましょうね」
「俺がいれるよ」
「じゃ、お願いね」
 母親とテーブルに向き合い、
「山口に、東大のコンバットマーチを作ってもらったんです。野球も負けて、マーチも負けてるようじゃ情けないですからね」
「そのことなんですけどね、神無月さん、勲は来年の夏、イタリアのギターコンクールに出るんですって。せっかく東大に入って将来の目途が立ったというのに、いずれ東大はやめて、ギターを弾いて食べていくんだって言うんですよ。どう思います?」
 間髪置かず私は答えた。
「山口は天才です。かならず日本を代表するギタリストになります」
「たいそうな褒め言葉、痛み入ります」
「褒めてるんじゃありません、ほんとうのことです。とにかく、芸術家と東大生なんて比べものにならない。山口もぼくも、もともと東大なんか目指していませんでした。ぼくは野球を、山口はギターを目指してたんです。ぼくは東大にいかないかぎり野球をさせてもらえなかったと信じてるし、山口は友情に殉じるという意味で、いっしょに受験してくれた。どちらも受かったのは拾い物です。捨てても惜しくない。この期におよんで東大にこだわるのはスケベです。でも無理に中退しようとしてるわけじゃありません。ぼくと心中しようとしてるんです。ぼくとしては、山口に一人前になるまではやめてほしくないですし、コンテスト挑戦が長引けば、お母さんのお望みどおり東大を卒業しちゃうかもしれませんよ。東大法学部出のギター奏者なんて、格好いいじゃないですか。ぼくは、東大が優勝したら、中退してプロにいくつもりでいます。優勝しなくても、今年かぎりで中退する可能性が高いです」
「神無月さんまでそんなこと言って。焚きつけないでくださいよ」
「焚きつけてるんじゃなくて、ぼくたち二人が、おたがいの生き方を気に入って励みにしてるんです。初志を忘れないというやつです。だいたい山口が東大を出て、サラリーマンとか役人をしながら出世していく姿を見たいですか」
 山口が三人分のコーヒーを盆に載せてヌッと出てきた。
「そうだよ、おやじの雛形がもう一つできあがるだけだぜ。俺は神無月と心中するつもりはない。いっしょに遊びたいだけだ。家族に変り種がいたほうが、気分が賑やかで、人生楽しいだろ。馬鹿息子が東大に受かったんだから、もうじゅうぶん自慢の種になったんじゃないの。それで親孝行は終わり」
 母親は呆れたふうに笑い、
「親のことなんか考えてなかったくせに。神無月さん恋しさだけで同じ大学を受けたんでしょう? 法学部なんて、ちょっぴり見栄張って」
「神無月の野球のハンデに見合ったハンデをつけたくてさ」
「神無月さんのおかげで、結局自分孝行になったんじゃないの。あんたの人生よ。どちらにせよ、大事に生きなさい」
 親子の笑顔でチョンになった。
 食器戸棚の上に日本人形と空き箱を並べて置いてあるような、雑然としているのに妙に整頓のきいたキッチンでコーヒーを飲む。
「山口はいつからコーヒーを飲みだしたんですか」
「札幌のころかしら。中学生のころには豆を挽いて飲んでた気がするけど。主人がコーヒー好きで、小学生の勲をよく喫茶点に連れてっいってたから。豆挽きセットもお父さんに買ってもらったんでしょう」
 私は照れたふうに笑っている山口を見て、
「それじゃ年季が入ってたはずだ。このコーヒーの達人に、高校一年のときに初めてフィルターコーヒーの味を教えてもらったんです。以来、一日も欠かせなくなりました。……きょうまで聞きそびれてたんですが、あの腕力と体力。懸垂ラクラク四十回、マラソン一位。あれはどういうわけのものですか。器械体操をやってたとは聞いた覚えはあるけど、それだけじゃ説明がつかない」
「さあ、小さいころから体育は5だったわね。勉強は目立たなかったけど」
 アハハハと山口は笑い、
「俺は小学校のころはひ弱でさ、けっこういじめられたんだな。勉強は好きじゃなかったから、ひそかにからだを鍛えたんだよ。小四のころから、朝と夕方に善福寺公園まで走りはじめた。おまえがよくやる腕立てや腹筋もやった。筋肉や肺活量を鍛えて肉体馬鹿になるだけじゃだめだと思い、独学でギターも始めたし、猛烈に本も読みはじめた。売られた喧嘩で負けなくなったな。文化祭でギターを弾いて仲間たちの度肝を抜いたし、作文コンクールに出品して都内で優勝してからは、国語教師には一目置かれるようになった。札幌の中学校にいってからも、機会体操部でからだの鍛錬をし、読書もつづけた。青高に入学してからは、いちばん好きなギター一本になった」
「やっぱり、才能のかたまりだったんだな」
 母親が、
「へえ! ぜんぜん知らなかった。作文コンクールのことはぼんやり憶えてるけど。青森高校に受かったとき、びっくりしたくらいだから」
「身内を知らぬは身内ばかりなり」
 私は山口の言葉にうなずき、
「それで知性と体力のかたまりになったわけか。そして、無駄を削ぎ落として、ギターの才能だけを残した」
「そう言うと格好よく聞こえるな。まあ、総じて努力の人生だ。鍛錬なしで最初からそびえているおまえに出会ったときは、腰が抜ける思いだった。人生最大のショックだったなァ。信仰心まで芽生えたよ」
「……恋人同士みたいね、トコトン褒め合っちゃって。さあ、天丼作るわよ」
 今回もうまい天麩羅だった。〈恋人同士〉どんぶりめしを食った。昼めしどきになる前に立ち上がった。
「天麩羅を食いたいときは、またおじゃましていいですか。気取った天麩羅屋のものはうまくないので」
「大歓迎よ。林さんも同じことを言ってました。お礼にと、ご実家から葡萄の原液ジュースが一升瓶で送られてきました。ジュース製造の農家らしくて」
 私は山口に、
「あいつ、作曲はできないの?」
「さあな。やろうと思えばできるんじゃないかな」
「サラリーマンで、シンガーソングライターの草分けになれるんじゃない?」
「……ほのめかしてみるよ。それ、ちょっと興奮するな」
「酔族館のことだけどさ」
「ああ、いっしょにいく約束だったが、もう少し先に延ばしてくれ。きょうはオヤジと飲みにいく」
「悪い。じつは先週一人でいってきた。閉店後だった。今度あらためてね」
「いくときは電話くれ」 
 山口は西荻窪駅まで送ってきて、改札で手を振った。間抜けなことに、ダッフルを担ぎ忘れていたことを思い出した。いったん荻窪で降り、石手荘に戻った。郵便受けを探ると、トモヨさんからの手紙が届いていた。

 郷くん、お元気ですか。毎日野球の練習や試合でたいへんのこととお察しします。ケガをしないようにと、北村席一同いつも祈っております。試合でのご活躍、いつも新聞やテレビで拝見しております。鬼神の舞い、という見出しの記事を切り抜いて額に入れマンションの鴨居に飾りました。
 最近の直人の写真をお送りします。おばさんの私がいっしょに写っているのは恥ずかしいですけど、母親ですからお許しください。みんなつつがなくやっております。お義父さんの二軒のお店も軌道に乗り、従業員も百人を超えました。かよいの店員が増えたのです。素子さんの妹さんの千鶴さんがたいていナンバーワンの売り上げです。千鶴さんは寮住まいです。素子さんのお母さんはこの仕事からすっかり引退し、ご主人と仲良く暮らしています。
 文江さんも順風満帆です。お弟子さんから、よく書道コンクールの入賞者が出るようになりました。菅野さんも二週間にいっぺんほどかようお弟子の一人としてがんばっています。息子さんはめきめき上達しはじめ、一度入賞もしました。菅野さんの奥さんは着々と有段者に近づいています。
 日曜日には、直人をお義父さん夫婦に預けて、文江さんとときどき知多へお出かけをしています。むかしのお家を売る算段をするためです。もう知多に未練はないと言っています。二人でいつも、郷くんのことを話し合って泣きます。
 四日の金曜日にまいります。郷くんの初戦前日ですから、二日間、再会を遠慮いたします。日曜の夜にお逢いします。かわいがってくださいね。土曜の夜は、和子さんのお家で食事会をしようということになっています。じゃ、きょうはこのへんで。和子さんやお友だちによろしく。愛する、愛する、郷くんへ。
 智代かしこみ


 直人は、主人が言っていた〈光源氏〉をイメージさせるほどの輝きを放っていた。それにも増してトモヨさんは美しかった。北村家の集合写真には部屋住まいの女たちも写っていて、どの顔も底抜けに明るいものだった。
 机のスタンドを点け、新しい住所を知らせるハガキを十枚ほど書いた。じっちゃばっちゃ、大沼所長にも母にも書いた。電話番号が決まったらあらためて知らせると書き添えた。
 ダッフルを担いで石手荘を出る。駅前でハガキを投函した。
 一時十分前。東大球場に入る。さわやかな球音が響きわたっている。野添と岩田のトスバッティングの音だ。ネット裏のコンクリート傘の下で応援団が熱心に振り付けをしている。鈴下監督の背番号30がバックネットの前でグランド全体を眺めわたしている。西樹助監督の40や小原の50もうろうろしている。フェンスぎわで十人ほどのバトンガールが動きの揃ったダンスをしている。スタンドの最上段に腕章をしたカメラマンが何人か、パシャッ、ボシュッとやっている。
 ネット裏に立ち、仲間の背番号を探す。横平9、克己2、水壁24、磐崎1、中介9、臼山22、大桐6、野添4、岩田7、那智14、棚下12、レギュラーは全員いる。無番の選手は十人ほど。
 部室に入り、臼山の付き添いで八十キロのバーベル十回、五キロのダンベル、腕を伸ばして蝶々のように二十回。マネージャーたちが注視している。
「あ、上野さん、山口が作曲したコンバットマーチでき上がったよ。打てば破れん」
 ロッカーのブレザーから楽譜を抜いて渡した。
「もうできたんですか。ありがとうございます。さっそくブラバンのコンダクターに渡しておきます。ちょっと見ますね」
 楽譜を開いて、タタター、タッタター、と呟きはじめる。睦子と白川が楽譜に首を伸ばして覗きこむ。白川が、
「すごいな! 素人じゃないみたいだ」
「譜面読みは素人じゃないですよ。ピアノを弾けるんですから。……ふうん、山口くんて天才ね」
「もちろんさ。作曲ばかりでなく、編曲も得意だよ。林がプロにでもなれば、山口が作曲してやるのにね。楽譜のお礼は高級下駄にしてくれって言ってた。白川さん、部費で二足くらい進呈してくださいよ。この手柄に対してなら安いもんでしょう。足は二十六・五センチくらいです」
「オーケー。監督に言って、さっそく注文する」
 無番のユニフォームに着替え、富沢マスターのプレゼントのスパイクを履く。しっとりした履き心地。カズちゃんのグローブを持ち、バットを一本提げてグランドに出る。外野ネットに向かっての遠投が始まった。バトンガールたちがバックネットのほうへ走り戻った。五、六人がダンスのためにスタンドに上がる。棚下に、
「勢揃いですね。きょうは何か特殊な練習があるんですか」
「いつもどおりだ。レギュラー、準レギュラーにカツを入れるだけ。紅白戦はやらない」
 バトンやブラバンたちが球場出口へ移動しはじめる。黒屋は駒場の第三体育館でダンスの振り付けに、睦子と詩織は本郷第二生協音楽室でブラバンの練習に付き添うために彼らといっしょに出ていった。
 監督、コーチ、補欠たちに見守られて、レギュラーと準レギュラーは一連の真剣な練習を開始する。五十メートルダッシュ休み休み五本、ライトポールまでバック走無理をせず五本。アンツーカー前の芝生で、片手腕立て十回ずつ、三種の神器五十回ずつ。兼コーチのノックで、ショートとサードのバックアップと、左中間を抜かれたときのセンターとセカンドとの連係プレイを念入りに。都合たっぷり二時間。
 そこからようやく、レギュラー、控え選手のフリーバッティングが始まる。二十人以上が内外野の守備についた。補欠選手がバッティングマシーンの準備をし、兼と小原に率いられてファールグランドに立ち並んだ。一人ひとり丁寧に五本交代で打ち、一時間。
 最後に胸突きのベーラン三周を終え、キッチリあごが上がって、五時過ぎ終了。克己が、
「じゃ、みんな、あしたは最終調整だ。あさっての金曜はちゃんと休んで体力温存。もちろん練習したいやつはやってもいい。フリーバッティングにだけ出てもいいしな。とにかく翌日に響かないようにノンビリとな」
「ウース!」
 グッタリ疲れたレギュラー全員、あしたの最終練習に備えて、挨拶もそこそこにサッサとと引き揚げた。白川が着替えを終わった私にインスタントコーヒーをいれた。
「怪物の孤独な鍛錬というテーマで、写真だいぶ貯まったよ。片手腕立てって、超絶だよね。レギュラーにも二回できるやつがいない」
「腕を壊したくないという恐怖心からやってるんです。右二十回左十回は確実にできるんですが、最終的に、常時二十回ずつで打ち止めにするつもりです。腕の関節と腱を鍛えておけば、プロでも長つづきすると思います。バットを振り過ぎないようにしてるので、腱鞘炎は予防できるでしょう」
「好きなことは長くやりたいもんな」
「はい」


         二百十九 

 まだ部室に灯りがあるのを見て、睦子と詩織がやってきた。白川が、
「いま帰るところ。ご苦労さん。じゃ、俺、帰るわ」
 白川は帰りがてら別棟の野球部事務室へ出かけていった。詩織が、
「ブラバンの部長、コンバットマーチ大傑作ですって。あしたあさって二日かけて練習して仕上げるって言ってました。神無月くん、私、あらためて東大に残ることに決めました。大学院にいって、研究者になるつもり」
「うん。そういう最終決定だったよね。名古屋にはいかないって」
「はい」
「で、何の研究者?」
「スポーツ科学。選手がケガをしたとき、外科的な治療以外で役立つことができればと思って。ケガがなければそれにこしたことはないけど、まんいちのときに、手術以外の治療法で快復できるなら、そっちのほうがいいでしょう? 大学院進学は、もう実家のほうに伝えました。むかしから私、家族の中で浮いてたから、ぜんぜん反対されなかったわ。名古屋の大学にいきたいのはヤマヤマだけど、そんなこと言い出したら、さすがに両親からやいのやいの言われそうで面倒です。神無月くんのことは、これからも実家には内緒。おたがいのためです」
「そのとおり。心静かに大学生活を送ったほうがいい」
 睦子が、
「そうよ。一人娘だもの。家族の干渉は大きいに決まってるわ」
「教養課程が終わったら、文Ⅲの身体教育学に進みます」
「がんばってね。私は、名古屋大学の国文科。おたがいファイト」
「婚約解消は、親としては合点がいかなかったんじゃないのかな」
「私が杓子定規な女じゃないって知ってたし、もともとその慶應ボーイはモテる人だったから、自由になってホッとしたみたい。いずれうちの会社の社長にでもなって、しおらしいお嫁さんをもらうんじゃないかしら」
「なんだか、いろいろな人に気の毒したね」
「ぜんぶ私の責任よ。このまま東大で学問をしてたら、神無月くんのじゃまにならずに生きていける。神無月くんのこと、この半年だいぶ新聞や週刊誌で読みました。もちろんテレビのニュースもよく見たけど、内面までは教えてくれない。そばにいることで神無月くんの気持ちが、私なりにわかった気がするの。流れのままに―神無月くんて、ただただひっそりと、人混みから離れて、思いどおり生きたい人だって。とっても胸にくる。バッターボックスのさびしそうな姿を思い出します。……いつまでも心を通わせて静かに生きていきたい」
 女たちの言葉は心臓をつかむ。
「ひさしぶりに渋谷でお好み焼きでも食べていこうか」
「わあ、いきたい。ムッちゃんは?」
「いきます」
「帰りに二人で神泉に寄ってってくれる?」
「うん、コーヒーでも飲んで、睦子といっしょに帰るよ」
         †
 ブタ玉三つ、ミックス三つ、焼そば三人前。練った洋ガラシと、ケチャップと、マヨネーズを別に注文して、混ぜ合わせ、お好み焼き用のつけタレを作る。生ビール中ジョッキで乾杯。
「明治戦の情報は?」
 白地のユニフォームに紫紺のMeijiのロゴを思い浮かべながら訊く。詩織はブタ玉三つ分のアルミボウルを掻き混ぜながら、
「春と同じですけど、メンバーの特徴ぐらいなら、だいたいわかります。ピッチャーは四年のスイスイ浜野、四年の本格派池島。打者は、去年までは高田繁という歴代ナンバーワンのヒットメーカーがいたけど、いまは目立った選手はあまりいません。今年の春、神無月くんの次に打率のよかった内野手の三年倉田。四割も打ってます。ほかにこれと思えるところでは、外野は、三年小野寺、三年辻、三年広沢、二年月原、内野は、二年鈴木、二年和泉、捕手は三年古川、二年白石、そんなところかな」
 油をひいて豚肉を敷いた上に、具を混ぜた粉生地を拡げる。三枚。睦子はミックス玉を掻き混ぜている。睦子が、
「浜野百三が絶好調でないかぎり、ふだんどおりにやれば二連勝できると思います」
「二連勝したいね。そうなれば日曜の夜からゆっくりできる。あした名古屋からカズちゃん一家が出てくるんだ」
 睦子が、
「直人くんのお母さんも?」
「うん、運転手の菅野さんという人もくる。日曜日に山口と旅館を訪ねる」
 詩織は三枚のブタ玉を二丁の起こしベラでひっくり返す。睦子はミックス玉を鉄板に敷きながら、
「法政はいま二勝二敗。あと負けなしで六勝するでしょうから、八勝二敗。勝ち点五、勝率八割。うちが二勝一敗で三週間いけば、十勝三敗、勝ち点五、勝率七割七分。法政の優勝です。二勝一敗を三回はだめ。三回のうち一回でも二連勝すると、残り二回を連勝なしの二勝一敗で、十勝二敗、勝ち点五、勝率八割三分。東大の優勝です。明治戦と慶應戦を二勝一敗でいって、立教戦を二連勝でいければ……もちろん明治戦から四連勝がベストです」
「簡単じゃないんだな、優勝って。とにかく明治戦を二連勝すれば、ほとんど優勝したようなもんだね」
「残り二チームに二勝一敗でいくことが条件です」
 詩織はソースを塗って青海苔を振りかけたお好み焼きに切れ目を入れ、私と睦子に押しやると、焼そばを炒めはじめる。私は小さなヘラで一切れつまんで、付けタレをつけてはふはふ食いながらビールジョッキを傾けた。
「うまい! ソースの加減がぴったりだ。上手だね」
「こんなこと褒められても……。ちゃんとしたお料理ができるようにならないと。カレーだけじゃ」
「うまいカレーを作るのもたいへんだよ。ルーは市販の辛口三種類、ルーを入れる前にアクをよく取ること、だったね」
「はい、これからはカレーに集中して研究してみます」
 たちまち三人で食べ切る。睦子が、
「ご家族みんなの前でホームランを打ってくださいね」
「うん。……家族か。なかなかそういう意識は持てないな」
 詩織はウットリとした顔で、
「神無月くんて、ほんとに、静かな恒星みたい。いったん神無月くんの軌道に取りこまれると、もう離れられない惑星になっちゃう。取りこまれた人は、神無月くんの周りを巡る運命に満足してる」
「それって、つらいんじゃないかな。自分の意思で動けないから」
「ううん、秩序とか摂理を感じる」
「秩序と言うなら、おたがいに恒星でもあり、惑星でもあると言ったほうがいいな。おそらく人間の体細胞もそんなふうに秩序正しくできてると思うから」
「惑星だけが一方的に受ける恩恵というものもあるわ。太陽と地球のように」
「やっぱりその関係を人間に当てはめるのは無理があるよ。実際おたがいに恩恵を与え合ってるわけだからね。となると、人間世界には恒星も惑星も存在しないということだね」
 詩織は笑って、フーと息をつき、
「自分をどうしても均したくなるのね。ほんとに出る杭になりたがらないんだから。それどころか、地面の下に埋もれたがってる変人。そんな人間がこの世にいるなんてことをだれが信じるかしら。いいわ、みんなで影響を与え合ってることにしましょ」
 焼きそばができ上がり、みんなで鉄板に割箸を差し出し合って食べる。睦子がミックスをひっくり返す。
         †
 コーヒーを一杯飲み終え、夜九時、睦子といっしょにお休みなさいを言って詩織のマンションを出る。玄関まで詩織が見送った。渋谷駅まで歩く。睦子の溌溂とした足どりが吉永先生に似ている。曇った都会の夜空を見上げる。
「ケーキ、うまかった」
「ほんと、ちゃんと用意してたんですね。詩織さん、見送り悲しそうだった」
「それを言われるとつらい」
「ごめんなさい。あしたからお天気は下り坂みたいです。土曜日は冷たい雨かも」
「また雨か。雨天順延だけは御免こうむりたいね」
「千佳ちゃんから借りた郷さんのノート、読みました」
「いのちの記録?」
「いいえ、詩だけのノートです。和子さんから借りたものだそうです」
 千佳子が勉強の合間に睦子のアパートを訪ねていったのだなと思った。
「頭の中に閃光が走りました。何て言えばいいのかな……郷さんは文章を書く以外はぜんぶ片手間、余興なんですね。……でも、余興も何もしていないほうが郷さんにいちばん似合ってる。そこにいてくれるだけで、泣きたいほど輝いてます。……そこにいるだけじゃ退屈で、たまには独り言を呟くことがあるんでしょう。それが文章ですね。つまり、呟くためにだけこの世にやってきた」
「救われないね」
「だいじょうぶ、神さまだから。野球の神さま、歌の神さま、独り言の神さま。あしたもみんなグランドで、野球の神さまを待ってます」
 南阿佐ヶ谷のホームにいったん降り、こっそりキスをして別れた。私は次の電車で荻窪まで乗り、石手荘へ歩いて帰った。
         †
 十月三日木曜日。霧雨。十九・一度。八時十五分起床。下痢、歯磨き、下着を替える。
 九時、ダッフルを肩に、傘なしで石手荘を出る。
 あと何回歩くかわからない本郷のイチョウ並木を歩く。イチョウ―学名ギンコ・ビロバ。中国原産で世界最古の落葉樹。大気の汚れに強く、アメリカ合衆国に多く植えられている。希少ではないが、めずらしい木だ。根方にドクダミ、ノゲシ、ハルジオンの小花が咲いている。黄ばんだ葉の落ちかかった枝を通して、冷たい風が吹いてくる。
 部室にマネージャー四人とレギュラー連が顔を出した。睦子が、
「シートバッティングです。打つか守るか、好きなほうで参加してください」
「白川さん。四月の顔見世で紹介された何人か、最近いっこうに見かけませんけど」
「みんなやめたよ。七、八人いなくなった。というより、金太郎さんを見て、これまでの自分の野球人生が白けて見えるようになったんだろう」
 睦子が、
「だれかと競争してないと、心が安らがないんですね。神無月さんを見て白けるというのは、驚きや、敬意や、愛の心に欠けているということです」
 レギュラーたちから指笛が鳴った。詩織と黒屋が睦子の肩に手を置いた。補欠たちが戸口から覗きこむ。横平が、
「鈴木、キビシー! 俺たちだって、そういうやつらの気持ちを乗り越えるのはひと苦労なんだぜ」
 中介が、
「神無月は野球の才能があるだけじゃない。人品がすぐれてる。凡人の磨き粉だよ。磨かれたいと思うやつは磨かれる、磨かれたくないやつは、自分の気に入った垢にまみれて生きていくしかないんだ」
 私は、
「オーバーですよ。ただのボール遊びに長けたやつだと思えば、白けることもないじゃないですか。磨かれるも磨かれないもない」
 克己が、
「金太郎さん、そういうものでもないんだ。ただの野球の才能だけでも、何千万円、何億円という金の絡む世界を動かすんだ。ふつうの人の最終目標だよ。それにも増して、人間としてもすごいっていうんで、どうしようもなく白けちゃうんだな」
「〈人間〉は疑問ですね。それさておくとして、金が絡むというのは、ぼくの契約金のことですか?」
「そんなものは使えば終わりだろ。才能にまつわる金の絡みだ。入場料、放映権、助成金、大会参加費、エトセトラ、エトセトラ。その意味で、金太郎さんはある意味、自分が嫌っている権力のかたまりなんだよ」
「何でそんなに金が動くんですか」
「ほとんどの人間が余暇を楽しむからさ。息抜きしたいのが人間だ」
「酒や旅行や遊山やギャンブルでも息抜きできるでしょう」
「ああ、そっちにも金は動く。しかし、酒を飲んだり、旅をしたり、温泉や名所を巡ったり、バクチをしたりしても、オナニーみたいな解放感を得られるだけで、人間の華を目の当たりにするズッシリした感激がない。歌手、俳優、スポーツ選手。人は華のある人間を見て息抜きしたいんだ。そこに莫大な金が動く。そのうえ、他人を磨くほどの人間性ときてみろ。ただの東大出身者で終わりそうな人間は白けるしかないわけだ」
 鈴下監督と西樹助監督が入ってきて、
「私どもも磨かれた。金太郎、もっともっと磨いてくれ。おい、ただの東大生ども、人間性なんてこと言っても、金太郎には何がなんだかわからないから言うな。だいたい金太郎はそんな言葉知らないよ。ただ好きだと言ってやれ」
 大桐が、
「アイラブユー!」
 詩織が、
「愛してます!」
 黒屋が、
「一回だけ抱いて!」
 睦子はただにこにこ笑っていた。克己が、
「そのへんにしとけ。さあ、フリーバッティングだ。雨がきそうだから、一本でも多く打っていこう!」
「ウィース!」
 勢いよくみんなグランドに走り出る。


         二百二十

 一塁ベース脇で拍手(かしわで)式腕立てを十本やってから、ライトポールへダッシュ。バック走と混ぜ合わせて三往復。外野へ回る。風馬に手伝ってもらって腹筋背筋。シートバッティングの守備位置につく。補欠がランナー。打者二十人余り。五本に一本の割合でゴロやフライが飛んでくる。ときどき左中間を抜いたり、フェンスに当たったりする。水壁か臼山か克己だ。ライトのネットに当てているのは横平一人。二塁送球四本、三塁送球二本、バックホーム一本。スタンドのバトンガールがきびきびと踊りだす。横平が、
「金太郎さん、十本いけえ!」
 克己が、
「那智、ストレートだけ!」
 私はホームベースに向かってダッシュした。
 雨が強くなってきて練習が一時半で中止になり、詩織から渡された傘を差して赤門を出る。克己たちが追ってきて、リオという古風な喫茶店でコーヒーを飲んだ。レギュラーと歓談するのは、春に準優勝したときに焼肉屋で反省会をやって以来のことなので少しあがった。食い物はバタートーストしかなかったが、昼めしを逃しているので注文する。中介が、
「島岡監督が、金太郎の名前を部員のスリッパに書いて、履かせているそうだ。踏みつけるように歩けと言ってるらしい。せこい策だが、士気は高まる。早朝練習と、百球ピッチングをやらせる以外は、試合の采配はいっさいせず、キャプテンの浜野まかせだ。たるんだプレーをすると鉄拳制裁を喰らわすという鬼監督だ」
 横平が、
「応援団出身の素人監督だからな。もっぱら精神野球なんだ。勝敗にこだわらずに、全力で、粘り強くぶつかってくる。四回も優勝してる。一人の監督の優勝回数としてはいちばん多い。うちが春に二連勝できたのは幸運だったな」
 克己が有宮ら投手陣の顔を見つめ、
「二連敗か一勝二敗だと、黄色信号が灯るぞ。根性でいけよ」
 有宮が、
「そりゃ、がんばるしかないけどさ、いくら肩を鍛えても、那智みたいに速い球は投げられない。いつつかまるか……」
 私が言う。
「つかまるかどうかは、コントロールしだいですよ。百五十キロでも、きびしいコースに投げられないとつかまります。百三十七、八キロの球を、腕をしっかり振ってコースを投げ分ければ、まずつかまりません」
 台坂が、
「思ったコースへ、思ったように投げろ。法政の山中だよ、山中。あれでいいんだ。金太郎さんに叩かれちゃったけど、六大学最多勝利ピッチャーになるのは確実だぜ。五十勝近くいくのはまちがいない」
 大桐が、
「ところでさ、金太郎さん」
「何ですか」
「ぜったいプロにいってくれよ」
「それは、もちろん」
「そうかな、すべてを捨てて、プロにもならずに風来坊みたいにフラッとどこかへいってしまう気がするんだよ。有名な花形選手だった人だよ、なんて、記憶力のいい連中に褒めそやされて、野球と関係ない仕事で羽振りをきかすこともあるかもしれないけど、老いると惨めったらしい。プロにもいかずに巷に流れ出たら、多少後世に名が残るとしても、才能は野垂れ死にだ。俺たちみたいに歴史とは無関係な勉強家は、うまく世の中を乗り切っていけるもんだが、金太郎さんは危ない。頼む、プロにいってくれ」
 克己が、
「そうだ! 素人野球同好会といつまでも付き合ってることはないぞ。金太郎さんがプロへいってくれれば、東大は最高の名誉を得る。ノーベル賞ものだ」
 私は笑いながら、
「今季を終えたら、ドラフト外でプロへ進むことにしました」
 オーと拍手が上がる。大桐が、
「優勝してもしなくても、俺たちに義理を果たすのは、今季かぎりにしろ。みんなさびしいが、そのつもりでいる」
 賛成! と全員叫んだ。
「ありがとうございます。今シーズンかならず優勝しましょう」
 野添が立ち上がり、
「明治戦二連勝!」
「よっしゃー!」
 全員拍手した。私はみんなの顔を見回し、
「しかし、みなさんのような素晴しい人たちが、東大にこだわって生きてきたことが信じられませんね」
 水壁が、
「難しすぎる大学を受けるのは楽しいことじゃないけど、うまくいけば世間評価を高められる。世間で大手を振って歩くために、せいぜいがんばって名門大学を目指そう、入れる大学に入ったって世間評価は得られないし、自分の克己心も満足しない、という理屈だね」 
 大桐が、
「自分の力に見合った挑戦には、大して世間の褒美がつかない。だから生活も怠慢になりがちだ。東大受験生は遊びたがらない。愉快でない単純作業を繰り返して、ごく難しい関門を通過しようとする。通過したあとの世間評価というご褒美のためにね」
 中介が、 
「金太郎さんみたいに克己心なんてものを必要としない、世間評価も気にしない野人の心を持った人間が、その野性と関係のない東大受験なんてことをするには、生まれ持っての波長とちがう努力をしなくちゃいけなかったろうな。つまり、気の進まない努力を楽しみに変えるしかなかったと思う。野球をやるための東大受験をきびしい鍛錬の目標として楽しむことにするわけだ。野球をやらせてもらえるなら、別に気の進まない鍛練なんてしなくてもよかったんだ。気の進む野球の鍛錬だけしていればすんだ。世間評価を念頭に置いた自己鍛錬なんて大したものじゃないけど、評価を無視した鍛錬そのものを娯楽と考える道草精神は巨大だ。愉しみに変えた鍛錬である以上、どれほど道草を食っても野人の心は蝕まれない。娯楽だからね。いっときの娯楽にいくら浸ったって、永遠の野生は冒されない」
 中介の趣旨はふだん私が考えていたことだったが、その考えがいかに大仰なものだったか、ほかの人間の言葉を聞いてあらためて思い知った。克己が、
「すばらしい考え方だな! 道草的努力を楽しむ、か」
 私は、
「みなさんの大げさな称賛は、ぼくを長生きさせる霊薬です。ありがたくいただいておきます」
 なんという歯の浮いた会話をする人間どもだという表情で、周囲の客たちがニヤニヤ見つめていた。
         †
 十月四日金曜日。一日強い雨。夕方から弱まる。本郷に出なかった。ユニフォームを交換しに高円寺にいくと、北村夫婦、トモヨさんの三人と、菅野、おトキさん、カズちゃんと素子と千佳子、それに山口がダイニングテーブルを囲んで笑い合っていた。父親が振り向き、
「お、神無月さん、お帰りなさい!」
 菅野もうれしそうに頭を下げる。山口が、
「お帰り、神無月。早いご帰還だな」
「練習は中止だ」
「この天気じゃな。よし、コーヒーいれるか」
 トモヨさんがカズちゃんとますます瓜二つになってきている。おトキさんは沖縄女ふうに髪を引っつめ、ツヤのいい頬に淡く紅を載せている。北村席の女三人は着物を着ていた。トモヨさんが、
「朝の七時に席を出て、十一時に西荻窪駅に着きました。山口さんが出迎えてくれて、車を加賀屋の駐車場に入れたんです」
「これ、加賀屋の電話番号だ。和子さんにも教えてあるが、何かのときのためにおまえにも渡しとく」
 山口が私にメモを渡す。母親が、
「和子たちの退ける時間に合わせて、山口さんがここに連れてきてくれたんよ」
「山口、ありがとう。菅野さん、おひさしぶり。お父さん、この程度の雨なら、あしたは試合がありますよ。傘を持って出たほうがいいでしょう。第二試合なので二時からです。グランドコンディションは多少悪いでしょうが、精いっぱい、気持ちのいい野球をお見せするつもりです」
「土砂降りでもいきますよ。選手よりは濡れんからね」
「直人は元気ですから、安心してください」
 トモヨさんがニコニコ顔で言う。主人が、
「いやあ、まだ連れ歩くには早いと思ってね。文江さんの知り合いで、いい子守が見つかったから、置いてきましたよ」
 私はテーブルの端につき、あらためて主人夫婦に頭を下げ、
「母子ともに、いつもお世話になっています」
「ワシらは親だよ。世話もへったくれもあれせんが」
 菅野が、
「神無月さんのそういう挨拶、初めて聞いたなあ。くすぐったいよ」
「ぼくだって常識のカケラはあるよ。車の運転、疲れたでしょう」
「なんの。うれしくて、楽しくて、あっという間に着いてしまいました。途中、浜松で鰻を食ってきました」
 私は山口のいれたコーヒーを飲みながら、素子に、
「素子もしっかり仕事してきたの?」
「当然やが。そろそろわがままがきくようになってきたでね。あしたはお休み」
「あしたは調理士の試験だね。がんばって」
「受かったるわ。旦那さんがしっかり書類書いてくれたで。ポートのママが、東大の優勝期待しとる言うとったよ」
「きょうあす二連勝すれば、グッと近づく」
「明治は浜野でしょうな」
「まちがいなく」
 次々にコーヒーが出てくる。テーブルに十人が向き合っている。千佳子がじっとトモヨさんを見た。それからカズちゃんを見る。きょろきょろ見比べる。トモヨさんが、
「千佳子さん、不思議そうな顔ね。私たち、双子じゃないのよ」
「ええ、そっくりだとは聞いてましたけど、ここまで……」
 みんな笑った。
「山口、ラビエンのバイトは土曜だったな」
「今月から一日増えて、火曜と木曜に替わった。グリーンハウスは水曜だけになった。だからあしたのラビエンは休み。きょうはおトキさんと夜通しデイトだ」
「火曜の出勤前までだろ。体力の限界に挑戦だな」
 おトキさんは恥ずかしそうにうつむき、山口の手の甲に手を置いた。カズちゃんと素子と千佳子が顔を見合わせて、楽しそうに笑った。
「トモヨさんは日曜の夜までお預けね」
「はい。一勝一敗のときは、月曜までです。それもキョウちゃんの体調がよければのお話―」
 素子が、
「ええに決まっとるが。お蒲団でもホームランを打ってくれるで期待しとったらええわ」
「はい。うれしいです。あの、お義父さんお義母さん」
「ん、どうした」
「今週は危ないんですが、ひょっとしたら一晩でも妊娠してしまうかも」
 カズちゃんと素子が拍手した。父親が、
「おお! そうか。願ったりや。ぜひ、直人に兄弟を作ったってくれ」
 素子が、
「楽しみやわあ。直ちゃんに弟か妹ができるんやね」
「まだわかりません。運がよければ……。今回だめでも、四十二、三歳までに二人目をほしいと思ってます」
 おトキさんさんがトモヨさんに、
「日曜日、がんばってね」
「はい。たくさんかわいがってもらいます」
 母親が目を潤ませて、
「早く二人目がほしいと思っとったんよ。あと二、三年もしたら、まちがいのう直人がさびしがるやろうし、そうなったころにはトモヨも高齢でからだのほうが危なくなる。和子は産まん言うし、素ちゃんも節子さんもその気があれせん。トモヨしかおらんがね」
 カズちゃんが、
「落ち着いて育てられる人も、トモヨさんしかいないしね。結局みんな名古屋に戻ることになると思うけど、私はいずれ素ちゃんと喫茶店をやりながら、二、三年して商売が落ち着いたら、キョウちゃんのロードについて回る。協力して店をやれば、自由に休みが取れるから」
「そのときは、あたしがお留守番する。たまにはついてってええ?」
「素ちゃんがいくときは私がお留守番するわ」
 主人が、
「話が煮詰まったら、喫茶店を建てたる」
「もう少し先の話よ。キョウちゃんのドラゴンズ入団が決まってからね。子供の件は、トモヨさんにかぎらず、だれかに子供ができちゃったらみんなで協力して育てるというのでいいじゃない。子供を産んで育てるというのはなまやさしいことじゃないのよ。大勢の人の協力が必要なの」
 おトキさんが、
「産んでしまえばなんとかなるものです。だれが産んでも、子守をさせていただきますよ」
 大きく笑った。引っつめ髪の目が吊って若々しかった。


         二百二十一

 山口が、
「おトキさんは、俺の子供をほしいと思うことはあるの」
「考えたことありませんけど、もし若くて、妊娠したら、ほしくてたまらなくなったと思います」
 トモヨさんが、
「そうよ、おトキさん。妊娠したら、そのときに初めてほしくなるんです。お腹から出して確かめてみたくなるというか。そうでないときは、男の人にかわいがってもらうことしか頭にありません」
 主人がカズちゃんにもう一杯コーヒーのお替わりを要求し、
「まあ、とにかく神無月さん、せいぜいトモヨをかわいがって、もう一丁、子種を仕込んでくださいよ」
 千佳子が、
「トモヨさんも、おトキさんも、素子さんも、ずいぶん苦労したんでしょう? あ、すみません、こんなこと訊いて」
 おトキさんさんが、
「いいんですよ、仕事が仕事ですからね。苦労というか、とても苦しんだ時期はありますよ。人さまも自分も、この仕事を汚いと思って生きとるわけですから」
 トモヨさんが、
「からだを汚して生きる仕事でお金をもらうというのは、苦労というよりも、つらいものです。程度の差こそあれ、人の世なんて汚いものなんでしょうけど、汚さの種類がちがいます。だれにもそんなつらさは打ち明けられません」
 女将が、
「私も女だから、そういう女の苦しみはわかりますよ。いくら事情を抱えた子を預かって、その子の家のために金を融通してやるとは言っても、汚れ商売に若い身空の子を引きずりこむわけやからね。心を鬼にし切れんで、胸がギューってなることもあります。おとなしい子を見ると、たまらんわ」
 主人が、
「打ち明けようとも思わんやろ。親にも、兄弟にも。だれも聞いてくれるはずがないからな。自分だけで折り合いつけて、腹の中にしまいこむしかあれせん。ワシとしてはそういうこともじゅうぶん承知したうえで、身にならん同情をするよりは、できるだけ待遇をよくしてやろうと思っとるんですわ」
 カズちゃんが、
「そうね、ヤクザ商売にしては、おとうさんおかあさんは桁外れに人間味のあるほうよ。女子寮を建てたり、相場以上の賃金をはらったり、感心するわ」
 トモヨさんが、
「私を養子にまでとってくれました」
 菅野が、
「それはまったく別の話ですよ」
「ほうや、ワシらが望んだことや」
 山口は神妙な顔で聴いている。素子が、
「あたしなんか最低やよ。人生こんなものやろう思って、苦しみもせんかった。キョウちゃんを好きになってから、苦しなった」
 主人が、
「素子は立ちん坊の出世頭や。おまえのこと考えると、世の中捨てたもんやないいう気になるで」
 千佳子が、
「みなさん、いまはほんとにお幸せなんですね」
「幸せどころやないわ」
 トモヨさんが、
「過去の惨めさがなつかしくなるほどです。郷くんが現れなかったら、いまこうしてみなさんともお話していません」
「幸せやと腹がへる。めしを食いにいきますか」
 主人が膝をパンと叩いた。
 雨の降る道へ出て、十人の老若が傘を差してぞろぞろ歩く。菅野が、
「お嬢さん、ええ町に住んどりますな。メイチカなんかより、ずっと品物が揃っとります」
「そう、中央線沿線がいちばん暮らしやすいわね。賑やかすぎなくて」
 山口が、
「ふるさとを褒めてくれてありがとう」
 千佳子が、
「ねえ、山口さん。山口さんは自分の家族に、神無月くんのこういう生活のことは話せないでしょう?」
「ああ。ひとことも。こいつの能力だけを強調して、ほかのことは口にしない。女はたくさんいるとは言ってるけどね」
「どうしてですか」
「基本的に、干渉の拒否だね。神無月と同じ。……彼らの理解力を信じてないから」
 千佳子はうなずき、
「私もです。おとうさんおかあさんには言いません。和子さんもそうしたほうがいいって言うし。ほかの女の人はどうなんでしょう。といっても、睦子さんのことは同じ事情だってわかるから、節子さんや、キクエさんや、東大のマネージャーとか」
 山口が、
「質問自体が無意味だ。神無月は個人対個人の世界でしか生きてない。女の親や親族のことなんか考えてないよ。俺たちも神無月を相手にしか生きてない。……それで何か不安なの?」
「子供の話が出たら、つい……。まんいち妊娠したらどうなるのかなって思って」
「父親の正体を明かせないということか? そう考えるとしたら、木谷は初心を忘れてる。神無月のそばにいられればいい、というのが出発点だったんだろう? 父親を明かしたければ明かせばいいし、明かしたくないなら明かさなければいい。どうでもいいことだ。そうやってそばにいればいい。形式にのっとって子育てするやつは、父親を明かせないとなると不安になる。そういう輩は、子供というのは形式に守られた生きものだと考えてるからな。不安でいないためには、形式を整えるしかない。つまり、結婚だな。結婚という形式のもとで子供を産みたいなら、神無月をあきらめたほうがいい。神無月は結婚しないよ。それでも子供を産みたいなら、認知だけしてもらって未婚の母で暮らせばいい。それとも、父親はだれかわからないということにして、北村さんの養子になればいい。形式は整う。それでも不安なら、子供を産まないことだね。しゃべり口に、木谷らしい純朴さが失われてる」
 女将が、
「心配せんと、いつでも産めばええですよ。私らの寿命があるうちにな。おトキが言ったとおり、なんとかなります。産んでしまえば、親御さんはだれの子供だろうとやさしい気持ちになるもんです。世間体が気になるなら、うちで暮らせばええがね」
「……そうなってから考えます」
 うつむいて微笑しようとする。山口が、
「肝心なのは神無月の気持ちだ。しかしこいつはそういうことにはからっきし脳味噌が働かないから、何の不安も感じてない。神無月がつらい気分になるのは、子供が平凡な社会人に育ってしまったときだけだろうな。体面を気にして、親のことをとやかく言うだろうしね。それが母親の負担にもなる。そうなっちゃったら、神無月から慰謝料でももらって、とっとと去るんだな」
 店のドアの前に立っている富沢マスターに挨拶する。人なつこい大仏顔が笑う。
「スパイク、練習で履いてみました。最高です」
「そりゃよかった。あしたは、まず一勝。ホームラン頼みますよ」
「はい、浜野から打ちます」
 カズちゃんが父母の背を押して、
「私の両親です」
 北村夫婦が頭を下げる。
「きらびやかですなあ。華族のご一行さまのようだ」
 年齢もまちまち、和装洋装もさまざまで、たしかにちょっとした名流の集いに見える。
「今後とも娘をよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、末永くよろしく。いまからお食事ですか」
 カズちゃんが、
「マスターが教えてくれた牡丹にいきます」
「そう。あそこは何食べても絶品だよ」
 倶知安を覗くと、めずらしくシンちゃんが夕食どきの客に忙しく応対している。声をかけなかった。
 北口へ抜け、辻を二つほど曲がって、牡丹という料亭に入る。千佳子が、
「山口さん、気を悪くさせてしまってごめんなさい。すみませんでした。私には神無月くんしかいないんです」
「そうだ。それを忘れると、関係ないことをしゃべりだす。しゃべった瞬間、慣習社会の虜になるんだ。やあ、宵の口なのに、この店混んでるなあ」
 カズちゃんが、
「予約してるからだいじょうぶよ」
 父親が、
「座敷が所望だぞ」
「抜かりないわ」
 店を入って、広い空間に、幅一メートルもある白木のカウンターがコの字に回してあり、中で白衣を着た禿頭の職人が、落ち着いた様子で包丁を使っている。二階の座敷に通される。四人用テーブルを四つくっつけた十畳間だ。山口は私に、
「おまえは、酒は禁止」
「うん。でも生ビールを一杯、乾杯用に」
「オッケイ」
 私たちは中ジョッキを八人前頼んだ。山口がメニューを見て、燗で二合頼む。
「美山錦か。山形の高級酒ですね。美山錦という米は長野産で、食用米を酒造り用に改良した酒造好適米です。まろやかで、香りは高くない。口当たりがいいってやつですね」
「山口は、酒も詳しいのか」
「格好つけの知識だよ。味のちがいはよくわからん」
 主人と菅野が噴き出す。刺身の盛り合わせと天麩羅の盛り合わせをそれぞれ十人前、めし付きで頼んだ。主人はいらぬ愛想を使いながら、仲居に笑いかける。
「商売繁盛でけっこうですな。これから寒い季節に入って、ますます繁盛するやろ。鍋を囲むことが多くなりますからな。酒のつまみもいくつか持ってきてや」
 どこかよしのりに似ている。
「ごはんはお櫃で二つお持ちします」
 私は、
「お父さん、現在の中日ドラゴンズのメンバーと、その特徴を教えてくれませんか」
 父親は山口にさされた杯を含み、
「西沢監督が十二指腸潰瘍を悪化させてね、杉下監督に代わったんやけど、昨年の二位から最下位に転落してまって、いまや全球団負け越しは確実ですわ。今年の中日は弱い」
 菅野が、
「補強はちゃんとしたんですよ。勝ち星の計算できる左腕の小野を大洋から入れたし、クリーンアップの広野を出して、西鉄から主戦投手の田中勉を獲得したしね」
 主人が、
「バッターも一人、サンケイの徳武を河村保彦と交換トレードで獲った」
 酒のつまみに焼き厚揚げと塩辛が出てくる。カズちゃんが、
「詳しいでしょ? おとうさんも菅野さんも野球博士なの」
 父親は調子に乗って、
「開幕から八連勝して、九連敗。去年最多勝の小川健太郎の不調。去年首位打者を獲った中(なか)は、眼病で六十試合しか出られなかった。高木は堀内から喰らった顔面死球のせいで長期戦線離脱。五月、六月は、十一連敗、六連敗。どん底。ついに杉下休養、二軍ヘッドの本多が代理監督になったけど、その後も二桁連敗しまくって、とうとう十月になってまった」
 菅野も、
「夏には赤と黒のノースリーブのユニフォームで、目先を変えてみたんですけどね。客にも選手にも受けが悪くて、すぐやめちゃいました」


         二百二十二

 私は刺身をつまみながら、
「聞いたことがないのは、代理監督の本多ぐらいですかね。ぼくが知ってるのは、一番センター、中……」
 菅野が、
「そうそう、二番ショート一枝、三番ファースト千原」
「千原は知らないなあ」
「千原陽三朗。百七十七センチ、七十六キロ、左投げ左打ち。四年前に日大からピッチャーで入団して、すぐバッターに転向。背番号43。去年からクリーンアップに座って、今年はここまでホームラン十二本、打率二割七分。オールスターにも出ましたよ」
 主人が、
「四番レフト江藤」
 主人にすぐ菅野が呼応する。
「闘将江藤慎一。こいつの力は変わらない。今年もここまで二割九分、ホームラン二十八本を打ってる。神無月さんが入団すれば、三番か五番を打つでしょうな。五番ライト葛城」
「あ、大毎オリオンズ!」
「パリーグの二年連続打点王。三十九年に中日にきました。去年二十本打ちましたが、今年は九本、打率は二割九分でまあまあかな。六番キャッチャー木俣」
「なつかしい! 中商出身。小柄でパンチ力があるキャッチャーだ」
「小柄といっても百七十三センチあるんですよ。七番サード徳武、八番セカンド伊藤竜彦、これも中商出身ですよ。そんなところですかね」
「千原陽三郎と伊藤竜彦というのは知りませんでしたが、だいたいわかりました。雨雨権藤はどうなりました」
「そのキャチフレーズは、権藤が二年連続三十勝をあげた昭和三十六、七年のことですね。驚かんでくださいよ。肩を壊して、昭和四十年に内野手に転向してサードなんかをやってましたが、徳武が去年きて、内野を外され、今年ピッチャーに返り咲いて一勝一敗。今年かぎりで引退です」
「ふうん、驚いた」
 山口が、
「なんですか、それは! まるで野球事典ですね」
 主人が、
「この刺身の盛り合わせは豪華やなあ。おい、北村栄養士、わかるか」
 カズちゃんは皿を覗きこみ、
「ナガスクジラ、ほうぼう、スミイカ、本まぐろ、シメサバは自家製ね。天麩羅は真鱈の白子、アナゴ、鴨、ホタテ、明太子、ウニ、野菜各種」
「ウニも天麩羅にできるんだ!」
 女将が、
「めずらしいわね」
 山口がうなって、
「こりゃたしかにうまい! フジのマスター、こんなうまいものばかり食ってるから、あんな太鼓腹になっちまったんだな」
「マスターはこのあたりの地主さんだから、もともと裕福なのね。小さいころから贅沢なものばかり食べてたんでしょう。あのフジビルも彼の持ち物なのよ。このあいだ、店のトイレに財布を置き忘れて、ほんの数分のあいだに盗まれちゃったんですって。お客さんに問い質すわけにいかないし、渋々あきらめたんだけど、三十万円も入ってたらしいわ」
 ウホー! とテーブルがざわめいた。山口が、
「そんなに入れとく必要あるのか」
 主人が、
「習慣やろな。私もそのくらいいつもふところに入れてます」
 菅野が、
「私の財布は、タクシーにいたころは一万円前後、北村さんにきてからは五万円前後になりました。たいてい家族のための特別出費が二万円ほど出ていきますけどね」
 山口が、
「俺は三万です。北村さんのおかげです」
「それでも学生にしては持ちすぎよ」
 カズちゃんに睨まれる。
「ぼくは二万から十万。ゼロのこともある」
「ゼロはひどいけど、十万も持ちすぎ」
「みんなからもらって、ぼくは大金持ちだからね。使うチャンスがなくて、貯まるいっぽうだ」
 女将がポンと私の肩を叩き、
「お地蔵さんの供え物やね。神無月さんにはいろいろ供えたくなるもの。吉祥寺のお家は大した供え物やったね」
「はい。お父さんには毎月十万も仕送り受けてるし。使う間がないです」
「なあ神無月、じつは、北村さんのほかに、おトキさんが、毎月寄こす手紙に三万円同封してくれてる。貯金して、イタリアのコンクールに出る旅費にしようと思ってる」
 おトキさんはとぼけてあらぬほうを向いた。めし櫃からおさんどんを始める。千佳子が箸でつまんだ天麩羅を目の高さに差し上げ、めずらしそうにしている。カズちゃんが、
「どうしたの、千佳ちゃん」
「おいしくて、涙が出て」
 みんなワッと笑う。彼女が感激したのはたぶん天麩羅のうまさではなく、この場の雰囲気だ。
「千佳子の最初のスタンド敷きが抽斗から出てきたから、このあいだ敷き直した。だいぶ色褪せたよ」
 彼女はふたたび涙を流し、
「ありがとう」
 と言った。ひとしきりみんなで盛んに箸を動かす。主人がカズちゃんに、
「名古屋に建てる神無月さんの家は、もう土地決めたで」
「どこ?」
「中日球場のそばにこだわらんかった。広い土地に、庭をつけたくてな。名古屋駅のそばにしたわ。椿神社の向こうの則武の空地を買い取った。駅から二分や。全国どこへいくにも便利やろ。名鉄でスタジアムのある中日球場前へも一駅や」
「ありがとう、おとうさん!」
「二階建てやぞ。下五部屋、上五部屋で建てたる。お客さんが泊まれるようにな。離れも造るで。住む住まんは自由やけど、そういう家があれば安心やろ。お嬢さんがたには北村席に住まってもらうわ。部屋は二十もあるで」
 千佳子に向かって言う。
「はい……」
「七、八人名古屋に出てくるんやろ。路頭に迷わんようにしとかんとな」
「それほどの出資にお返しできませんよ。契約金はすべて母と祖父母にくれてやるつもりなので」
「いらんわい。出資ではなくプレゼントですよ。喫茶店も則武に建てる」
「億のお金がかかるわね」
「まあな。ワシらの貯金の範囲内や。心配ないわ」
 女将が、
「あしたは十二時に西荻を出発しましょうわい」
 山口が応えて、
「そうしましょう。これ、ネット裏の特別席の入場券です」
「すみませんな、御用聞きまがいのことをさせて。おまえ、切符代をお渡しして」
「いえ、さっき、和子さんからいただきました。前から十列目くらいです。和子さん、滝澤さんと吉永さんの券も買いましたから、集合場所をちゃんと打ち合わせてくださいよ」
「法子さんと素ちゃんを除いて十一人ね。だいじょうぶ、二人とはネット裏入り口で会うことになってるから。さ、ここはもともとお蕎麦屋さんみたいだから、おそばを食べて帰りましょう」
 〆にモリソバを食った。辛いタレの、腰の強いソバだったが、飲みこんだ後味がいいので別腹で食えた。
 高円寺駅に北村一家と山口を見送り、小雨の中を四人でカズちゃんの家に帰った。
「キョウちゃん、あしたは何時に出るの?」
「九時。十時から本郷で少し練習して、十二時に球場のロッカールームに入る。十二時半から先攻明治のバッティング練習、五十分から東大のバッティング練習、一時十分から明治の守備練習、一時二十分からうちの守備練習。三十分間グランド整備やら、スターティングメンバーの発表なんかがあって、二時試合開始」
「かならずホームラン打ってね。私たちは見慣れてるけど、おとうさんたちは驚くでしょうから」
「プレッシャーを感じるな。打てるとは決まってないし」
「打てなくてもいいわよ。グランドの美しさに圧倒されると思う。じゃ、いまからお風呂入って、十時までには寝なさい。いっしょに入ると、悪さしちゃうから、一人でね」
「うん」
「素ちゃんもあした試験なんだから、早めに寝るのよ」
「わかっとる」
 女三人は笑い合いながら台所に立つ。私は廊下に上着、ズボン、ワイシャツ、下着と脱ぎ捨て、風呂場にいく。頭を洗い、歯を磨き、洟をかんで、湯船に浸かる。窓の隙間から光の縞が洩れている。立ち上がって窓を開けて見ると、庭の石楠花(しゃくなげ)の幹に椿の常緑の葉群れが重なり合い、真っ赤な五弁花がいくつも咲いていた。
 下着を替え、パジャマを着て、居間のテレビを観る。ニュース。十二日から開催されるメキシコオリンピックの話題ばかり。チャンネルを回す。ファミリークイズ。チャンネルを回す。日清ちびっこのどじまん。回す。今週のヒット速報。愚の極み。
 まだ九時にならない。うとうとする。風呂場から三人の明るい笑い声が聞こえる。やがて、その声は居間に移ってくる。
「あら、キョウちゃん寝ちゃってる。はいはい、蒲団に移動して」
 のろのろ立ち上がって、隣部屋の蒲団へいく。もぐりこみ、意識が薄れるのを待つ。声が紛れこんでくる。
「千佳ちゃん、カメラ写せる?」
「できません。和子さんも?」
「そう。触ったこともないのよ。山口さんがあれこれ撮ってくれてるから別にいいんだけど、キョウちゃんのユニフォーム姿、私なりに撮っておきたいのよね。あした、球場にいく前にインスタントカメラ買っていきましょ」
「ね、お姉さん、このあいだドストエフスキーを読んどったら、人生が悲惨なのは真剣なところが少しもないときだって書いてあったんよ。……キョウちゃんに遇うまでつまんない人生送ってきたなあ思って、悲しなった」
 素子の言葉にはひどくきびしい調子があって、このうえ話をつづけたら、三人の和やかな雰囲気が気詰まりなものになりかねない感じだった。カズちゃんがサラリと言った。
「そういう素ちゃんの人生があったから、キョウちゃんが輝いて見えたし、その光で素ちゃんも輝いたんでしょう」
「……うん」
「素ちゃんにもともとあった真剣な性質を、キョウちゃんが引き出してくれたのよ。おかげで、つまらなかった人生が何百倍にも輝いたじゃないの。……私も同じよ。二十五歳のときだった。素ちゃんは何歳だった?」
「二十六歳」
「握手! 千佳子さんは?」
「十八歳」
「握手!」
 私は薄れていく意識の中で、目の縁に涙が流れるのを感じた。


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