百六

 女は店内の灯りを落とし、カウンターを出て、通路の奥の階段を上がっていく。
「きて。あなた齢はいくつ?」
「十九」
「こんなおばさんとするの、いやじゃない?」
「ぜんぜん」
 大きな尻にしたがって一段一段踏みしめる。デジャブ。名鉄神宮前の旅館。
「階段の上に短い廊下があって、右にガラス戸の部屋、左に障子を立てた部屋があるでしょう」
「そうよ! よくわかるわね」
「旅館と同じ造りだから」
 昇り切ると、右手のガラス戸からは薄暗い台所が見えた。左の障子を開けると、窓のない八畳の和室だった。
「暗いでしょ。ビルが建てこんでるのよ」
 女が蛍光灯を点けた。寝乱れた蒲団の周りに、パンストやジーパンが脱ぎ散らされている。実際にラクに生きている証拠だ。何か拍子抜けのする気分だった。背高の洋ダンスの脇の鏡台にギターが立てかけてある。光夫さんや山口のようにケースにも入れていない。鏡台の上にトランジスタラジオがポツンと載っていた。
 女は散らかった衣類を洋ダンスに放りこみ、蒲団を整えた。勃起するかどうか賭けになった。〈たくさんの男〉と大口は叩いても、蒲団を敷く尻に、しばらく男のからだに触れていない不安が見えた。私は自分を駆り立てるために後ろから抱きつき、胸をつかんだ。思ったより大きかった。
「焦らないの。……ひょっとして童貞?」
 背中で言う。
「いいえ」
「野球をやってたら自由がきかないはずね。あまり経験はないんでしょう?」
 女は背中のままスカートを脱ぎ、蒲団に膝まづいて上着を脱いだ。シュミーズ姿になる。私は彼女の背後で全裸になった。女は振り向き、
「大きなからだ。あら! かわいい」
 と笑顔になった。
「それがあんたの緊張感のもとね。有名人てつらいわね。秘密にしてあげる」
「ガッカリさせちゃった? やめようか」
「いいえ、どんなに小っちゃくたって気持ちよくさせてあげる。五センチも入ればじゅうぶん」
「自分は気持ちよくならないの?」
「その大きさじゃ、ちょっと……」
「男は何人ぐらい知ってる?」
「親しく付き合ったのは三人くらい。いきずりを入れれば五十人にはなるかな。だいぶ長く生きてきたから」
「じゃ、イカないって約束してくれる? イカなければ未練は残らないから」
「イカせるつもり? できないことは言わないの」
「小学校のときは、小さなホームラン王て言われた」
「それとこれは別よ。とにかく気持ちよくさせてあげるから。秘密も守ってあげる。百パーセント約束するわ」
 私が寄っていくと、女は蒲団の片側にいざって、子供を添い寝させるように脇を空けた。片手を差し伸ばしてからだを抱き取った。シュミーズの上からもう一度胸を揉むと、笑顔のまま自由にさせた。
「脱がせてちょうだい。男の仕事よ」
 シュミーズの紐を肩から滑らせて引き下ろす。硬いブラジャーと股上の深い下着をつけている。両手を背中に回してブラジャーを外すとき、女の手が私のものを握った。
「かわいい。まだ芯が入ってないわね。見せてあげる。そうすれば硬くなるから」
 女は自分でパンティを引き下ろし、股を広げた。腹に脂肪の窪みがいくつかある。その下に、予想どおりの黒々とした陰部が貼りついていた。
「いじっていいわよ」
 余裕ありげに笑う。蛍光灯の下に構造をしっかり曝している。目を寄せて、しっかり見る。大陰唇の下部から門渡まで、みっしり毛が生えている。
「ふうん、こうなってるんだ」
 小陰唇を縦に撫ぜ下ろしたり、前庭を押してみたりする。
「やっぱり知らなかったのね。いけない子。初めて見たんでしょう。これからは女に囲まれることになるでしょうから、教えてあげる。ここ……」
 すっぽり包皮に隠れたクリトリスを指先で示す。
「ここがいちばん感じるのよ。触ってみて」
 言われたとおりにする。
「ああ、いい気持ち。これから女とするときは、なるべく処女を相手にするのよ。悲しい目を見るから」
 クリトリスを押し回す。一瞬悶えた女はむっくと起き上がり、私を押し倒して小さな萎れた性器を口に呑んだ。股間を私の顔に接するように跨る。尻の穴が目の前にあった。こんなものを見て勃つだろうか? 自分の根源的な好色を試されているような気がした。勃起すれば、福田さんの言ったやさしきエゴイストの証明になる。勃たなければ、かぎられた好みの女にしか反応しないただのエゴイストだ。女はしきりに舌を使っている。勃たない。彼女に陰核だけの快楽を与えたら帰ろうと決意した。いつものように丁寧な愛撫を加えはじめる。小陰唇を吸い、舌先でクリトリスを舐める。
「あら、びっくり。ふふ……そういうことは上手なのね。一人、二人の女は知ってるな」
 子供扱いを楽しんでいる。舌を休めず両手を差し伸ばして大きな胸を揉む。女の尻の動きが本能的に前後しはじめる。
「……ああ、きたわ、そろそろよ」
 女の口が離れ、両腕を突き立て尻を浮かせて達する態勢に構えた。ふるえが激しくなる。
「あ、イク!」
 アクメの訪れとともに尻が持ち上がり、片脚が顔を跨いで横切り、ゴロリと仰向けになった。両手を胸に抱きながら腹を痙攣させている。それを見た瞬間、私の性器にいちどきに血が入った。ふるえ止むと、女は薄目を開けて私のものを見た。息を呑んだ。それから激しくうなずきながら大きく脚を広げた。突き入れた。しとどに濡れた膣が摩擦を求めて硬く締まっている。私も硬くみなぎり、往復を始める。
「うう、気持ちいい、だめだめ、ああ、気持ちいい、ああ、気持ちいい! イキそ、イキそ、イキそ!」
 私は動きを止めた。
「やだやだやだ、イカせて、お願い、イカせて!」
 動きはじめる。
「あああ、気持ちいいい! イクイク、イクイク、ああ、イクウ!」
 連続で深く突き入れ、かちかちに締まっている奥をスピードを乗せて突き立てる。
「わわわ、イクイク、やん、やん、あああ、イクウウ! もも、も、だめ、やめて、やめて、あ、あああ、イクッ!」
 壁がねじれるようにうねる。私は耐えられなくなり、外へ抜いて吐き出そうとした。
「出すのね、出すのね、抜かないで、抜かないで、ちょうだい、たくさんちょうだい!」
 抜こうとした瞬間、すごい力で尻を両手で引き寄せられた。放出する。
「あああ、うれしい! またイッちゃう、だめェ! イク! イク! グウ!」
 尻を引き寄せ、私の律動を逃さないようにする。子宮が降りてきて、亀頭を二度三度と押した。亀頭をずらし、最後の律動を叩きこむ。尻をつかむ手が離れ、女は腰を引いて逃げしさった。横向きになる。素子と同じだ。私は女の引き攣る腹に掌を置いた。掌の下で脂肪のかたまりが激しく収縮と弛緩を繰り返す。顔を見ると、眉間に皺を寄せ、唇の端からかすかによだれを垂らしている。私は茎の根もとにラードのようなものがこびりついているのに気づいた。おそらく孤閨を養った膣の垢だろう。女を残して、廊下の向かいのガラス戸を開けて台所に入った。シンクの蛇口をひねり、爪先立って腰を突き出すと、手で水を掬って丁寧にラードを洗い落とした。くどいほど洗い落としながら、小山田さんや吉冨さんたちの清潔な笑顔を浮かべた。
 部屋に戻ると、女はだらしなく脚を広げ、大きな呼吸をしていた。私に気づくと、女は恥ずかしそうに脚を閉じて私の顔を見上げ、
「こんなに強く感じたの生まれて初めてよ。人は見かけによらないのね」
 驚きを隠せない表情で言う。苦々しかった。
「男の人数を自慢しても、甲斐がないよ」
「……ほんとね。いままで何をしてきたのかしら。あ、また縮んでる。それ、どうなってるの」
 私は服をつけた。
「じゃまにならないから、ふだんは便利だよ。……約束どおり歌を聴かせて」
 女は考えこむ顔になり、深く息をついた。股間をティシュで拭い、無造作にゴミ籠に投げ入れると、下着をつけた。
「高い声に自信がないわ。若いころは歌手を目指してたのよ。いいところまでいったんだけど、そこから先は、からだの切り売り。いやになっちゃった」
「少女歌手だったんだよね」
「二流のね。そのままエスカレーターで昇っていけなかったのよ」
「ふうん、そういう話ってよく聞くけど、デマじゃないんだね」
「やっぱりウブね。―いい顔してる。見れば見るほどいい男ねえ。大好きよ、その顔」
 女はゆるいスカートを穿き、上着をはおった。
「サラミぐらいならあるわ。もう少し飲みましょ」
 唄う気になったのか、ギターを提げて下へ降りる。女はギターをカウンターに置いて仕切りの板をくぐり、冷蔵庫を開けるとサラミとチーズを用意した。ビールの栓を抜いて二つのグラスに注ぐ。もう一度カウンターの外に出て私に並びかけた。ギターを手に取る。
「あんたのことぜったい秘密にする。こっちでも試合があるんでしょう?」
「もちろん」
「そのとき、時間が空いたらでいいから、飲みにきてくれる?」
「きみのことがなつかしくなったらという条件で」
「いいわ、それでじゅうぶん。その約束だけで楽しみができたわ」
 グラスをちびりとやる。私はサラミを噛んだ。
「セックスが愛そのものだと信じた時期があるんだ。セックスには、ただの皮膚感覚とはちがう現実離れした心地よさがある、それだけに悲しいものだ、悲しみがあるなら愛だろうと思った。いまはちがう。なつかしい、ちゃんとした現実感覚、それが愛だと思う。悲しいものじゃない」
 女は思わず目を潤ませ、
「オシッコをするところをくっつけ合って、こすり合って、そんな汚いことしてあんなに気持ちよくなるなんて、ほんとに現実離れしてるわよね。それだけなら、たしかに悲しいわ。でも、なつかしさというのはそういう悲しみとはちがうもの。セックスをしてても好きな人の顔しか浮かんでこないから、幸せな気持ちになる。そういう現実が愛……。あんた、いいこと言うわね。私なんか、二十代のころはいろんな男とほとんど毎日してたことがあったわ。何年もよ。それを考えたら、あんたは慎ましいわ。ジツがある」
「それはどうかな。ぼくには女がたくさんいる。だから彼女たちの一人を伴侶にして、社会的な幸福を実現させてやれない」
「その人たちが社会的な幸福を望まないからでしょ。あんたと離れることでその人たちがすばらしい幸福を手に入れられるなら、喜んで関係を断ってもとの場所に戻してあげようと思うんじゃない?」
「うん。彼女たちの最大級の不幸は、社会に葬られることじゃなくて、ぼくに葬られることだからね。だから、離れるわけにいかない」
 女は私に並んでスツールに腰を下ろし、一服つけた。
「……あんたって、何者?」
「野球だけの平凡な人間だ。野球以外何の能もない」
 女は煙草をもみ消すと、ビールをグイと飲み干した。
「きょうこうなるまでは、私もあんたが野球だけの男だと思ってた。いまは、ふうん、野球までできるんだって感じ。……私も、その人たちと同じ気持ちになっちゃうかもしれないわ。あんたはいまにもこの世から消えてなくなりそうな感じがするもの。あんたを踏み台に幸せになんかなりたくないって言うか、あんただけを幸せにしてあげたいって言うか……そうじゃないわね、ずっと拝んでいたいって言うか、肌身離さずお守りみたいに持っていたいって言うか、つまり、神さまみたいなものよ。あんたの話を聞いてると、この世のことと思えないし、神さまとしか考えようがないでしょう。神さまに抱いてもらうとしたら、そりゃおたがい嫉妬なんかしてられないわね。ただありがたいだけのもの。神さまは、自分で命を処理できないんじゃない? 死なないんだから」
 私は心から愉快になってきて、くっくっ笑った。
「この無能者が、拝まれて、供え物をされる? ぼくは神さまのような絶対物じゃないから、さだめし神棚に置かれた大人の玩具だね。夜な夜な棚から降りて、女の寝床に忍びこむ。笑える」
 女も声を合わせて笑った。
「いっしょに笑ってあげる。私もあんたを拝んで貢ぎたい気持ちになってきちゃった。あんたにとっての現実は、それだけよ。何も思わないで、そのまま生きてればいいんじゃない? ああ、お店を出して以来、初めておもしろい男に遇って、おもしろい話を聞けたわ。気持ちが大きくなっちゃった。とにかく、いつでもいいから気が向いたら飲みにきてちょうだいね」


         百七

 女は壁のスイッチをいじってカウンターのライトを一つだけにすると、ギターを抱えて調弦を始めた。
「発売されたばかりの曲にするわね。ビリー・バンバンの白いブランコ。聴いたことないと思う」
 前奏の間があり、やがてハスキーな声が流れ出す。聴きたかった声だ。

  きみは憶えているかしら
  あの白いブランコ
  風に吹かれて二人で揺れた
  あの白いブランコ
  日暮れはいつもさびしいと
  小さな肩をふるわせた
  きみに口づけしたときに
  やさしく揺れた 白い白いブランコ

 清潔な歌詞に、清潔な女のイメージが重なった。涙があふれた。

  きみは憶えているかしら
  あの白いブランコ
  寒い夜に寄り添って揺れた
  あの白いブランコ
  だれでもみんな独りぼっち
  だれかを愛していたいのと
  冷たい頬を寄せたときに
  静かに揺れた 白い白いブランコ

 女は爪弾きの指を止めないまま、
「泣かないでね。私も泣けたら唄えなくなるでしょ」

  ぼくの心にいまも揺れる
  あの白いブランコ
  幼い恋を見つめてくれた
  あの白いブランコ
  まだ壊れずにあるのなら
  きみの面影抱き締めて
  独りで揺れてみようかしら
  遠いあの日の 白い白い白いブランコ


 涙が止まらない。女はギターを下ろし、私の頭を抱いた。
「すてきな人……」
 キスをしてきた。煙草くさい。
「あなたも何か唄って。明るい歌」
「明るい歌は唄えない。唄っても悲しく響く」
「いいわ、悲しい歌でも。何を唄う?」
「涙のチャペル」
「あら、それ私も好きよ。難しい曲だけど」
 ギターを抱え直し、シンプルな美しい前奏を弾きはじめる。私の顔を見て促した。カウンターに両手を置き、天井を向いて唄う。

  You saw me crying in the chapel
  The tears I shed were tears of joy
  I know the meaning of contentment
  Now I am happy with the Lord

 女の目が大きく見開かれ、微笑が収まっている。弦を弾く指に力がこもった。

  Just a plain and simple chapel
  Where humble people go to pray
  I pray the Lord that I’ll grow stronger
  As I live from day to day

  I’ve searched and I’ve searched
  But I couldn’t find
  No way on earth
  To gain peace of mind

  Now I’m happy in the chapel
  Where people are of one accord
  Yes, we gather in the chapel
  Just to sing and praise the Lord…


「ありがとう。もういいわ、じゅうぶんよ。天使の声。さびしくて死にたくなっちゃった」
 厚化粧をした頬に涙の跡がある。ギターをカウンターに置き、そっと抱き締めてきた。
「十九歳だったわね。そんじょそこらのプロじゃ太刀打ちできない声よ。でもプロにはなれないわ。プロになろうっていう欲がにおわないから」
「なろうと思ってない。唄いたいだけ」
「ホンモノね。テープに録(と)らせて」
 女はカウンターをくぐって、小さなマイクを私の前に据えると、例の縦型デッキにスイッチを入れた。
「何でもいいから、日本語の歌を唄って」
「じゃ、青山ミチの、叱らないで」
 女がノブをガチャリとひねった。伴奏なしで歌いはじめる。

  あのこがこんなになったのは
  あのこばかりの罪じゃない

 すぐに伴奏を入れてくる。

  どうぞ あのこを叱らないで
  ひとにゃ話せぬ傷もある
  叱らないで 叱らないで
  マリヤさま

 間奏に力が入る。

  あのこが戻ってきた夜の
  外は冷たいみぞれ雨  
  どうぞ あのこを叱らないで
  夢をなくした小鳩には
  ここが最後の止まり木よ
  叱らないで 叱らないで
  マリヤさま

  あのこの涙は嘘じゃない
  嘘で泣くほど すれちゃない
  どうぞ あのこを叱らないで
  何も言わずに 十字架のそばへ
  あのこの手を引いて
  叱らないで 叱らないで
  マリヤさま


 ガチャリとノブを止めた。片手で目を覆っている。振り向き、
「すごいわねえ、あんた。この世の声と思えないわ。正真正銘の天才。なんだか私、そばに寄れない。いっときでもプロでやってきたなんて威張ってたのが恥ずかしくなっちゃった。これ、いつも寝るときに聴かせてもらう」
 涙を拭きながら、にっこり笑う。化粧を通しても、つやのある地黒の肌だとわかる。鼻の形もいい。若いころは男に相当もてはやされただろう。自分で言うほどおばさんでもない。南国風の情熱的な顔をしている。
「かわいらしいね」
「やめて……」
「ほんとだよ。肌もつやつやしてる。お腹の脂肪をもう少し取れば文句なしだ」
「あなたみたいなきれいな人に言われるの、恥ずかしい。人前で連れて歩ける女じゃないの。ほんとにときどきでいいから飲みにきてね」
「うん」
 女は上から覗きこむようにしながら私を見つめる。つけ睫毛にアイシャドーを引いた目が、むかしの素子に重なる。
「……プロの歌手になりたくない?」
「なりたくない」
「奔走してあげるわよ」
「ときどき歌えればそれでいい」
「そう。いったんデビューしてしまえば、一世を風靡すると思うけど。野球選手としてときどきテレビに出るだけでいいのに」
「さっき言ったこととちがうね。欲がないのでなれないって」
「私がマネージャーになって、あなたの欲の代わりをするってこと」
「ぼくは野球選手だ。それ以上の何かになりたくない。勤勉を強いられることをしたくないんだ。ぼくがぼんやり生きていて、それで幸せになってくれる人がいればいい」
 女はぼろりと大粒の涙を落とした。
「あなた、ほんとに人間じゃないわ。私、やっぱり神さまに抱いてもらったのね。気持ちよすぎるから、おかしいと思ったもの」
「きみの冗談、好きだよ。ほんとに、気が向いたら会いにくるよ」
 女はきれいな歯を見せて笑い、
「そしたら、おいしいもの作ってあげる。お腹がすいたらフラッときてちょうだい。私、料理が上手なのよ。お家はそばなんでしょ?」
「ここから十分くらい。公園の裏」
「御殿山の一等地じゃない!」
「荻窪の不動産屋のおばさんからもらった」
「すごいものもらったのね。すごい価値よ」
「問題はカネじゃない。人だ」
「捧げものだから天井知らずであたりまえだけど。その不動産屋さんとは寝たの?」
「うん」
「何歳?」
「六十二歳」
「そう。その人、あんたに救われたのね。家どころじゃなく、命もあげたくなるでしょうね」
「名前が知りたい」
 女はブルッとからだをふるわせ、
「うれしい、名前なんか尋かれたことない。……アヤ。色彩の彩。前野、彩」
「アヤ……美しい名前だ」
「ちょっと見せたいものがあるの」
 カウンターの端の戸を開けて導く。二階とはちがって格段に豪華なキッチンがあり、御殿山の家と同じくらい大きい風呂場がしつらえてあった。
「隠してたね」
「そんなつもりはないわ。建て増ししたの。料理とお風呂が好きだから。あしたからジョギングするわ。……あんたのために」
「ぼくは肉付きのいい女が好きだ」
「してるとき、じっとお腹見てたわよ。みっともないものね」
「いつかぼくがきたら、つけ睫毛とアイシャドーを取ってね」
「ええ、営業のときは許してね」
 二時になる。
「お別れだ。帰る」
「うん。そこまでいっしょにいく」
 女と雨の上がった吉祥寺通りを歩く。
「名前を教えてくれたんだから、齢も教えて」
「世界大恐慌の始まった日、十月二十四日」
「物知りだね」
「一応、高卒だから。これでも名門都立西よ。鈍才だったけど」
「一九二九年―昭和四年。三十九歳になったばかりか」
 家を指差して教えた。
「こんなに近くだったんだ。でも、家にはいかない。迷惑がかかるから。お店で待つだけにする」
 前野アヤは小さく手を振って帰っていった。
 徹夜覚悟で机に向かう。三十分もしないうちに目がしょぼつきはじめ、蒲団に入った。ふと、きょうは浜中がくる日だと気づいた。


         百八

 九時に福田さんに起こされた。
「さ、顔洗ってください。ごはんですよ」
 寒い。洗顔をして、小便をする。昨夜洗い切れていなかった陰毛が撚れて白く固まっていたので、風呂場にいき、よくシャボンを立ててシャワーで流す。歯磨き、洗髪。
「きょうは東奥日報の記者たちがくる日だ。カズちゃんから電話なかった?」
「ありました。もうとっくに西荻窪の旅館に到着なさっているそうで、いつでも合流して高円寺のほうへきてくださいということでした。東奥日報さま一行は十二時前にこちらに寄るそうです」
「カズちゃんたち、休みを取ったのかな」
「いいえ、ふだんどおりの出勤だそうです。和子さんが昨夜のうちに青森へ連絡なさって、西荻窪駅には山口さんが迎えに出たそうです。すぐ加賀屋という旅館に入られたとおっしゃってました」
 めしをすまし、ランニングに出ようとすると、福田さんが、
「私、十六日までお休みしましょうか?」
「いや、いつもどおりにしてくれればいい。食事はぼくがいたら作ればいいし、いなかったらそのまま引き揚げて」
「わかりました」
「そのあとの外出予定は、十八日に、たぶん泊りがけで中井の友人のところにいってくるだけ。来週の予定はないけど、二十四日の昼か夜に上板橋の―」
「河野さんというかたですね。私は夜の十一時にこちらにくることになってますけど、どうしましょう」
「翌日は名古屋へ出発だ。ぜひきて。河野さんが早く帰ったら、電話を入れるよ」
「都合がつかなかったら無理をしないでくださいね。翌朝にはお会いできますから」
 福田さんは掃除にかかった。文化園までランニングに出る。一時間で戻り、丁寧に素振り百八十本。風呂に直行し、湯殿で三種の神器。風呂から上がり、ワイシャツとセーターに着替え、一行を待つ。福田さんとコーヒー。
「おじゃましまーす。いやあ、立派なお家ですねえ」
 山口に連れられて浜中たちが玄関に入ってくる。すでに恩田がパチパチやっている。福田さんが式台に額づく。いらっしゃいませ、と言って、パタパタ台所へ戻る。
「山口、ありがとう。ひさしぶり、浜中さん、恩田さん、田代さん。あれ、もう一人」
「初めまして、ビデオの丹生(にう)です」
 長髪を指で掻き分け頭を下げる。掻き分けた髪が垂れる。月光仮面の大村文武のような、けぶった目をしている。
「ニウ?」
「はい。丹下左膳の丹に生きるです」
「ひっくり返せば、ウニ?」
「いえ、ウニは雲に、丹です」
「ああそうか」
 恩田が、
「青森は十二月の下旬からずっと雪ですが、こっちは快晴なんですね。機材の持ち運びがラクです」
「とにかく上がってください」
 ぞろぞろと居間に入る。恩田がストロボを一つ焚く。田代が、
「この部屋ですか、水原さんとお会いになられたのは」
「はい」
 六人腰を下ろすと雅子がコーヒーを運んでくる。
「お手伝いの福田さんです。名古屋にいくまでの面倒を見てもらってます」
 福田さんはもう一度、畳に深々と平伏した。
「山口、三日間の予定はどうなってる?」
「きょうは、おまえのバットスイングを撮影したあと、ランニングコースを歩いて回って、井之頭公園でくつろいでるビデオを撮る。それから吉祥寺の街を撮り、家に戻って歓談したあと、酔族館へいく。とにかくキャンプ合流前のおまえの行動範囲をビデオに納める。あしたは朝八時くらいから、風呂、めし、離れの机に向かう様子、それが終わったら、フジとポートにいって、たまに出かける店として撮影。夜は高円寺一家も連れてグリーンハウスだ。あさっては嵐のあとの東大本郷キャンパス、途中の予定はいき当たりばったり」
「鈴木睦子にマイクを向けるべきです。東大野球部のマネージャーでしたから」
 田代が、
「よし、そうしましょう。その夜は北村さん宅で食事。カメラは回しません。十六日の午前にこの家でインタビューして終了です」
 福田さんが、
「それでは私はこれで。夕方酔族館に出かける前に軽くお茶漬けでも食べていかれたらいいですね。そのご用意をしにまたまいります」
 福田さんが帰ると、私はジャージに着替え、運動靴を履いて庭に出た。二十スイングした。ビデオが回る。ため息が上がる。丹生が、
「すごいな、これは。最初から目玉だよ」
「このバットを撮ってください。ミズノの久保田五十一(いそかず)さんという職人からいただいたバットです。その人がぼくのバットを作りつづけることになりました」
 浜中が名前を正確にメモし、丹生が時間をかけて撮る。
「じゃ、ランニングコースを歩こう。この取材は全国版ですか」
 浜中が、
「各局の借り入れが殺到すると思います。下世話な話ですが、東奥日報と青森放送がしばらく潤います。あの、これは些少ですが、取材のお礼です」
「いりません。いろいろ動くのに金がかかりますから、それに使いましょう。浜中さんは勘定係をやってください。余ったらカズちゃんに渡してください」
「はあ、そのようにいたしましょう。あの、領収証は……」
「それもカズちゃんにお願いします」
 緑地帯から自然文化園へ。私はパスで入り、山口と浜中たちはめいめい入場券を買って入る。恩田が、
「こりゃ、走るにはもってこいですね」
 山口がぐるりと見回し、
「ここで走ってたのか。発見の名人だな。一周二キロはある。ちゃんとコースになってるじゃないか。この土地は皇室の持ち物でな、渋沢栄一がここを借りて少年院を立てたのが始まりだ。その後、動物園になった。戦後上野動物園から連れてきた象のはな子がいるはずだ。七歳でここにきて、いま二十二歳。大型動物はその一頭だけだ」
「走るのに手いっぱいで、動物は見かけたことがないな」
 歩きだすが、いっこうに動物の姿はない。
「なるほど、冬場は動物がほとんど獣舎に入っちゃうわけか。日向ぼっこぐらいしかさせてもらえないようだな。サル山にサルもいない。金網越しに見えるのは鳥だけだ。あれが象舎だ。はな子は室内だな。歩くか。花や樹を教えてくれ。あのでっかい樹は何だ」
「メタセコイア。山茶花の赤い花、ぽちぽち黄色く咲いてるのはロウバイの花、ところどころ白い椿が咲いてる。あの水辺に紫に群生してるのはクロッカスだね。針のように細い葉はラッパ水仙。あとひと月もすれば咲きはじめる」
 恩田が写していく。浜中が、
「田代くん、神無月さんと山口さんの声録った?」
「録りました」
「神無月さん、名古屋に同行したときも驚きましたが、ふだん植物の勉強をなさってるわけでもないのに、どうしてそこまで詳しいんですか」
「幼いころよく祖母に連れ歩かれました。その数年間で、集中的な知識の収集が終わってるんです。そういう知識を積み重ねて、分析、分類などした人が学者でしょう。ぼくは知識のみ。分析や分類などしたくもありません。だから勉強も受験勉強までで終わり。お勉強はもうやりたくない」
 点在する獣舎を興もなく巡るのをやめ、井之頭公園に戻る。
「浜中さん、青森高校の公演で、ぼくのことを泣きながら話してくれたそうですね。感謝します。胸に涙の泉を湛えた人だけをぼくは信頼します。いつまでもぼくを取材してください」
「もちろんです。記者でいるかぎり取材しつづけ、記者を引退しても見届けます。加賀屋さんから吉祥寺にくる道々山口さんとも話しました。神無月という船に乗っちゃったんだから乗っていくしかないって」
 丹生が、
「すごい世界にやってきたと思いましたよ。あの素振りも、私は鳥肌が立ちましたが、みなさんは、ホウとうなずいているだけでしたからね。野球を越えた神無月さんを見つめているんですよ。なんかおっかないな」
 田代が、
「二日もいっしょにいればわかる。すごい世界じゃなくて、別世界にきたとね。青森に帰ったら時差ぼけになるぞ」
 裏手から公園に降りていく。
「福田さんと見納めたばかりの公園だけど、もう一度歩くか」
 恩田が、
「あのきれいな女中さんも―」
「はい。五十三歳です」
 丹生が口をあんぐり開けている。浜中が愉快そうに笑いながら、
「これが神無月さんの別世界だよ。シャレじゃないけど、強力な協力体制だ。だれが困っているときも手を差し伸べ合う。個人の願いが社会的な慣習に押しつぶされそうなときは、さらに力強く差し伸べ合う。丹生くんはこう思ったろう。神無月さんのしていることは不道徳きわまりないと。しかし、いまの状態でいられるように神無月さんにお願いしたのは女性たちのほうなんだよ。神無月さんは素直に応えただけだ。道徳とは人の倫(みち)のことだろう? 神無月さんは道徳家だということになる。たとえば、北村席のトモヨさんのことを考えてみようよ。子供を妊娠して出産することは、この世のふつうのしきたりだし、私たちもそのしきたりを何の違和感もなく捉えている。祝福さえする。しかし、神無月さんの場合はどうだ。結婚しないし、認知もしない、遠く離れたまま暮らす。形を重視する社会では不道徳きわまりないということになる。じゃ神無月さんにそうされた女性は不幸か? 社会的な道徳を無視してなお幸福だからこそ、神無月さんにお願いしたんだよ。じゃ、神無月さんは? ちっとも幸福じゃない。望んだわけではないし、世間に知れれば非難されるし、先ゆき社会的な名声を失う可能性が高い。そこに登場するのが、この力強い協力体制だ。神無月さんの不幸の素を排斥するように動くんじゃなく、その素を受け入れて神無月さんの打撃を和らげるように動くんだ。たとえば和子さんは、神無月さんの島流しを防げなかった、しかし追いかけていって世話をした、西高への転校も防げなかった、しかし追いかけてきて世話をした、というふうにね。なぜかと言うとね、その、神無月さんの不幸の素になった原因は、かならずだれかが神無月さんを愛した結果もたらされたものだからだよ。愛されることは神無月さんの幸福だ。愛さないわけにはいかない。だからその結果を甘受して、被害者の神無月さんを慰めようとする。言っとくけど、このことはいっさい記事にできないからね。承知しておいてよ。神無月さんのわれわれに対する信頼感は底がないからね」
「はい!」
 歩いたり、座ったり、凭れたりしてビデオを録りながら、寒々しい公園を一巡りし、御殿山に帰った。丹生が、
「東大優勝会見では、かなり辛辣なことを言われたとか」
「はい。浜中さんにタイミングよく援護していただきました。能無しではないと」
 また丹生がぽかんとし、
「能無しという前提が、悪意以外の何ものでも……」
「いや、直観に正直な意見です。本質が能無しか能無しでないかは、簡単に理屈で推し量れるものじゃないし、だれも推し量るつもりもないでしょう。外見がすべてです。ぼくの外見は能無しです。能ありと思われようと思ったことがないので、当然そうなるでしょう。もっと正確に言うと、能ありや能無しという弁別に、ぼくは何の関心もないんです。だから、ちっとも腹は立たなかったんですが、ありがたいことに東大野球部のメンバーたちと浜中さんが腹を立ててくれたんです。そういう弁別を超えたところにぼくがいると言ってくれたんです」
 浜中が、
「それも紋切りにはまらない神無月さんをいろいろな人びとが愛した結果、余儀なく嫉妬を引き起こしてもたらされたものだ」
 恩田が、
「くっそう! サンスポの××は東大の経済を出たやつでしてね、政治家や学者や文化人はこき下ろさないんだが、スポーツの花形選手や芸能界のトップスターとなると、どんな小さなアラでも見つけ出して、馬鹿だチョンだと罵る卑劣な野郎です。嫉妬深いやつで、その分じゃ、神無月さんのことをずっとつけ狙いますよ」
「いまのところそれほどしつこくないのは、ぼくが曲がりなりにも東大にタッチしたからですね。しかし、中退したことは彼にとっては好都合なキズでしょうし、アタマ第一みたいな人間だから、どんな記録を樹ち立てようと見逃してはくれないでしょう。女関係が知れたら、野球界からまちがいなく葬ろうとしますね」
 浜中が、
「彼一人では葬れません。たとえ加担するものが続々出てきたとしても、野球ファンが許しません。麻薬や強姦や八百長試合でもしないかぎり、神無月さんの野球生命は安泰です」
 丹生が、
「そうですよ、安泰です。われわれだって、水も洩らしません」
 恩田が、
「お母さんがいちばん危ないですからね。一滴でも漏れたら……」
「そろそろおふくろは無力になってるんじゃないでしょうか。マスコミの後押しがあればカサにかかるでしょうが、そうでないかぎり、ぼくが痛めつけられたらザマ見ろとほくそ笑むくらいが関の山でしょう。やはり、マスコミの揺さぶりでドラゴンズに迷惑がかかったときか、ぼく自身の技量が衰えたときが選手生命の終わるときですね」




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