七

 門の内の小さな庭に、透き通った空気が流れている。大楠の脇に枝ばかりの梅の木が二本、硬そうな大葉を茂らせた枇杷の古木が一本植わっている。大楠の樹皮を触る。風雨に磨かれたしみじみとした味わいがある。
 玄関の戸を開けて呼びかけると、雅江の父親が顔を出した。
「おお、神無月さん!」
 居間のテレビからだろう、菅原洋一の『今日でお別れ』が聞こえてきた。父親は温厚そうな表情をふと堅くして、私の表情を見定めようとした。それから、何かを察したような目つきをすると、さびしげに娘の名を呼んだ。私は彼の考えたことが一瞬のうちにわかった。私が雅江に別れを告げにきたと思ったのだ。私は父親が戻っていく廊下の奥を見つめた。彼の背中と入れちがいに雅江が出てきた。洗いざらしのジーパンを穿いている。母親らしき顔が襖からチラと覗いたが、そのまま引っこんだ。どうしてもまだ打ち解けない気持ちがあるようだ。雅江は私を見ると、
「うわあ、変わった!」
 と叫んで、その場で跳びはねるような仕草をした。
「ひさしぶりやねェ―」
 彼女はからだをかすかに揺らしながら急いで玄関口へやってきて、私の手を握った。
「うん、去年の八月からだから、ほぼ半年ぶりだ」
「相変わらず男前やね」
 実際のところ彼女は、痩せた青白い顔に虚ろな表情を浮かべて立っているブレザー姿を認めたとき、不吉な思いに駆られたようだった。そして、ほとんど耐えがたいほどの深い絶望を感じたにちがいなかった。奥の間から、上がってもらいなさい、という父親の声がした。
「挨拶にきました―」
「神無月くんはキャンプにいくんやが、お父さん」
「ああ、わかってる。明石でしたね。それで挨拶にきてくれたんですね」
「はい、出発は金曜日です。きょうはゆっくりお話して帰ります」
「そうですか! 夕飯の用意をしましょう」
 私は、ちょっと歩かないか、と雅江を誘った。
「うん、歩こ。お父さん、お母さん、神無月くんと散歩してくるわ」
「うん、いっておいで」
「あまり遅くならんようにね。すぐお夕食作るから」
 母親のやさしい声が聞こえた。雅江は部屋に戻りバッグを小脇に出てきた。サンダルを突っかけて玄関を出る。菅野が運転席から見つめている。近寄り、
「ぼくが親しくしてる北村席の菅野さんだ」
「はい、一度チラッとお見かけしました」
 菅野が運転席の窓を開けて挨拶をする。雅江も頭を下げた。
「いつも聞いてますよ、感心しながら聞いてます。女の鑑です」
「ご両親に挨拶しがてら、めし食ってくよ」
「ゆっくりしてきてください。十時にお迎えにきます」
 クラウンはスピードを上げて引き返していった。
 大瀬子橋の半ばで並びかけ、雅江の歩行を助けようと腕をとった。彼女は恥ずかしそうに拒んだ。並んで歩く。夏に逢ったときよりも雅江のからだが揺れない。
「靴のかかとを少し調整してるんよ」
 と言って笑った。
「運動もしてるしね」
「どんどんやっとる。毎週土曜日に、宮中のクラブ活動に参加させてもらって、軟式テニスもちょっと。脚、グンと太くなった」
「あのころの先生、いる?」
「和田先生、久住先生、そのくらいかな」
「片腕の久住先生か。ぼくをかばってくれた先生だ。和田先生もやさしい人だった。あれ以来、感謝しなくちゃいけない人間ばかり増えちゃった。感謝するためには生きてなくちゃいけない」
「郷さんは、いつも死ゆうもんが頭にあるんやね。口先で言ってるんやないことは、目つきでわかる。それだけにつらいわ。……ほんとうにいつまでも生きてとってね、約束して」
 指切りをする。
「そんな深い意味で言ったんじゃないんだ。まだまだ、野球をやり切れてない」
「理由は何でもいいから、生きとって」
 あごが形よく伸び、美貌のつぼみが開ききってまぶしいほどの美しさだ。堀川の水平線を眺めやる。遠く白鳥橋の上を車の群れがのろのろ往き来している。大瀬子橋を渡り切り、見慣れた秋葉神社を過ぎて大瀬子公園に入った。
「どうしたん? 夏の約束を果たすために寄ってみたって顔であれせんが」
 人目をはばからずに抱き寄せる。雅江の二の腕が太い。キスをすると雅江はいたずらっぽく笑った。石のベンチに腰を下ろす。
「つらい思いをさせてるなと思って」
「よかった! お別れを言われるのかと思ったが」
 ポロポロ涙を落としはじめた。
「お父さんも誤解したみたいだったね。長いこと連絡しなかったから。ぼくは根っからの不精なんだ。ぼくが雅江と別れるわけがない」
「うん。郷さんのすることも、言うことも、生きてる時間もぜんぶ愛しとるもん。……しばらく逢えなくなるんやね。どのくらい?」
 雅江は手の甲で涙を拭いながら、鈴がふるえるような声で尋ねる。
「六月か七月くらいまでかな」
「……長いねェ」
「逢いにこれるのは、多くて年に二、三回だね。結婚してないかぎり、それ以上の逢瀬は無理だ」
「わかっとる。一年にいっぺんでじゅうぶん」
 雅江はバッグから一枚の写真を取り出した。城内幼稚園の大きな舞台の上で、ウサギの紙帽子をかぶり、何人かの仲間と遊戯をしている私の写真だった。ひざまずいて胸にバツ印に腕を組み、首を傾げている。
「かわいいでしょ」
「これをどこで?」
「郷さんのお母さんからもらった。写真ありませんかって尋いたら、水屋ゴソゴソやって、何枚か出てきた写真の中で、郷さんのはこれ一枚やった。いらん言ったからもらった」
「のんきそうで、いい写真だ。はっきりはわからないけど、じっちゃにおだてられて自分を賢いと思いこんでたころだ。それだけで満足してボーッと生きてた。何の大きな野心もなくて、ただ母のそばへいくと決めてた。……そろりそろりとその夢に見切りをつけてきた」
「あれから十五年余りか。……家に戻ろうか。酒は弱いけど、約束どおりお父さんと飲む」
「ほんと! おとうさん喜ぶわ」
「約束も果たす」
 雅江は手を強く握ってきた。 
 父親と母親がにこやかに玄関に出迎えた。初めて間近に見る母親はおとなしい感じの、雅江とは別種の美しい人だった。半袖の毛糸のちゃんちゃんこを着ていた。居間であらためて父親と母親に手をついて平伏する挨拶をされた。守随くんの両親とはちがって、儀礼的な余裕があり、暖かな善良さを感じた。私はまねて挨拶を返した。
 襖を隔てた客間に鍋の支度がしてあった。父親とテーブルに向かい合ってあぐらをかくと、刺身の盛り合わせと燗をつけた徳利が出てきた。女二人は台所へ引っこみ、父親が私に酌をした。
「東大中退のプロ野球選手ですか。私どもにしてみればお伽噺のようなものですが、本人はケロッとした顔をしてますね」
「こういう顔なんです。実際のところ、念願叶って天にも昇る気持ちです」
「……静かな人だ。表現も静かだ。信頼できる。去年の夏はつまらぬ電話をして、ご心労をおかけしました」
「いいえ、自分の心が再確認できました。充実した心です」
「ありがとうございます。―きょうは雅江をよろしくお願いいたします」
 私は上半身を折った。
「おとうさんも郷さんもあがっとる」
「ハハハ、神無月さんはいざ知らず、日本一のプロ野球選手を前にしてあがらない人間なんかおらんよ」
「たしか早稲田大学の大隈講堂の時計を納入したのは、愛知時計でしたね。むかしからすばらしい技術なんですね」
「ありがとうございます。愛知時計は職人の集団なんですよ」
 きれいに櫛を入れた髪が蛍光灯に光る。目じりの皺がやさしい。長い職人暮らしのあいだにいつしか厚みを加えた偏屈らしさがにおって、かえって微笑ましい。
「夕暮れに大隈講堂の下で、青く輝いている大時計を見上げたことがあります。何とも言えないほど美しかった。愛知時計には長くお勤めなんですか?」
「名古屋市内の工業高校を出てからですから、そろそろ三十年になります。航空機部門の工場で働いておりますが、戦時中は空襲に遭ったりしてたいへんでした。雅江が生まれた昭和二十四年に、会社は組織を大々的に再編成して出直しましてね、その後、ガスメーターの開発が当たって、どうにか生き延びたんです。……ああ、ようやくこうして、神無月さんと一献酌み交わすことができました。六、七年越しの恋ですよ。家の前の道を、あなたがよくユニフォーム姿で通ったものです。あれからたった五、六年しか経っていないのか―」
「五、六年は長いですよ。ものごとを思いつづけられる年数じゃありません。そのエネルギーがないので、人はよく別れるんです。自分のエネルギーのなさをドラマにして、悦に入ってるという寸法です」
「なるほど。雅江はエネルギーのかたまりですよ。交換日記もさることながら、小学校四年生以来、神無月さん一筋ですから」
 母と娘が鍋の具を入れたザルを抱えて戻ってきた。雅江が、
「あの交換日記、おとうさんの宝物やもんね。もうボロボロ。こんな澄んだ心持ちの男はなかなかいるものじゃない、彼を不良として追い払った人間どもの下卑た精神が憎い、それがおとうさんの口癖なんよ」
 雅江は母といっしょに鍋に具を埋めていく。焼豆腐、しらたき、白菜、生しいたけ、長ねぎ、春菊、そして牡蠣。母親が尋く。
「牡蠣はだいじょうぶですか」
「はい、生牡蠣以外は」
 父親は刺身を一枚食べ、私に徳利を差し出した。具が煮えるまでのあいだ、私はゆっくり杯を傾けた。雅江に問いかける。
「つまらないことを尋くけど、雅江の誕生日はいつ?」
「七月十九日。学校にいってたころは、誕生日が過ぎるとすぐ夏休みがくるんよ。神無月くんは五月五日」
 父親が笑って、
「子供の日ですか? 私なんか、女房や娘の誕生日はもちろん、親の誕生日もなかなか思い出せません。さすがに自分の誕生日は忘れませんけどね。ふと気づくと、とっくに過ぎていたということもありますな。大事なのは、いまのこの瞬間だけですよ。あの世に持っていけるのは、この目に映った一瞬のものだけです。あの世というものがどういうものかわからないんですけどね」
 母親が、
「お父さん、きょうはようしゃべるね。よほどうれしいんやね。神無月さん、どうもありがとう」
「うれしがっていただいて、ぼくもうれしいです。たしかに、ぼくもあの世というものを深く考えたことはないですね。ただ漠然とあの世と言ってみるだけです」
「天国、地獄……少し投げやりの雰囲気がする単語ですな。ところで、いよいよプロ野球でやることになるわけですが、神無月さんと言えども、不安はございますでしょう」
「不安だらけです。野球の技術もさることながら、チームメイトとの和が心配です。幸い水原監督やコーチ陣、経営スタッフには好かれてますから、それを頼りに乗り切ろうと思ってます」
「江藤選手とか?」
「実力のある人はプライドがありますから、かえって角逐は起こらないと思います。摩擦はかならず力のない嫉妬深い人とのあいだに起こります。ぼくは暴力的な人間なので、爆発しないようにするのが努力方針です」
「暴力的には見えませんけどね」
 雅江が、
「小学校のときから神無月くんは喧嘩っ早かったんよ。寺田くんの友だちやもの」


         八 

 母親が、
「寺田さんといえば、この子は去年の暮れ、ついひと月前ですけど、松葉会の家にいってきたんですよ」
「どういうことですか」
 雅江が真剣な顔で、
「神無月くんが中日ドラゴンズに入団したことを寺田くんに知らせたくて。あの家の門にコンニチハって入っていったら、玄関に立っとったコワそうな人に睨まれて。神無月くんのことを話したら、ああ、って笑って、奥に引っこんだわ。寺田くんのお兄さんという人が出てきて、丁寧に頭を下げたんよ」
「光夫さんが……」
「光夫さんていうの? 康男の兄ですゆうただけやった。その人がいろいろ話をしてくれたんやけど、寺田くんはどっかの組の人に怪我をさせたらしくて、半年ほど逃げ回ったあとで、こっそり松葉会に戻ってきたんやって」
「そうなんだ。それで指を一本落として、その相手の組とどうにか和解ができたから、若頭にも許されて、関西の支部で一から出直しの見習いみたいなことをしてたんだよ。いま東京の浅草で元気にやってる。少し出世したよ」
「お兄さんが言うには、神無月くんがプロ野球にいったことは親分さんはじめ、組のみんながすでに知っていて大喜びしている、神無月くんに会ったら、彼にはどんなに感謝してもしきれんと伝えてくれって」
「もう何度も松葉会には顔を出してるから、彼らはぼくの事情をわかってる。会食の席まで設けて深く感謝された。光夫さんは雅江がわざわざ松葉会を訪ねた気持ちを考えて、あらためて説明したんだね。怖い場所を訪ねてきた雅江に感謝の気持ちを表わすためだと思う。康男と浅草で会って、その指のない手を見て泣いた。指をなくしても、生きていてくれたことがうれしかった。生きていさえすれば彼を愛しつづけることができる。彼がヤケドで脚をなくしかけたときもそう思ったけれど、生きていてくれればほんとうにそれだけでいいんだ」
 涙が流れてきた。母親が私の涙に驚いて、
「止めたんですけどね、どうしてもいってくるって聞かなくて」
「雅江ってすごいな。よくあんな怖い家にいって話ができたものだ」
「世間に恥ずかしくない押し出しになったら神無月に会いたい、弟がいつもそう言っとるって。玄関だけの立ち話やったけど、知りたいことはぜんぶわかった」
「光夫さんは徹底して初耳の形にしたかったんだね。ぼくは去年の六月、浅草までいって康男に会ってるよ。ワカは先月、寺田という名前で、ぼくの記事をいつも載せてる東奥日報新聞社に二百万円の寄付をしてる」
 母親が、
「そんなに!」
「はい、そんなに、です。見舞金も一度二度ではありません。大学野球のころからずっとぼくを支援してくれてます。ワカの部屋にはぼくの新聞写真を飾ってあるそうです。雅江のことは、すぐ康男の耳に入ったと思いますよ。そこまで支援してくれるのに、彼らはぜったい松葉会に近づいてはいけないと常々ぼくたちに言います。マスコミの手で葬られるって。言葉どおり、近づかないようにしています」
 父親が、
「それもこれも、神無月さんが中三のころに寺田くんに身を捧げるようにして見舞いをつづけたからですね。すばらしい」
「いまのところぼくは有卦に入ってますから、ぼくのありようを華々しく感じるでしょうが、いつケガをしたり、人間関係がもつれたりして引退するかもしれません。そのときには一転して、かなり異質な仕事に就くことになると思います」
「どういうお仕事をなさるおつもりですか」
「週に三日でも道路工夫や荷役をして働くつもりでしたが、年齢を無視して長くつづけられる仕事ではありません。建物を造ったり、道路を削ったり、埋めたり、均したり、資材を運搬したりする工夫や荷役の仕事は、加齢が障害になるので、仕事として挑むのは冷やかしの部類になってしまいます。手を出さないことにしました。長つづきしなければ安定した生活の糧を得られませんからね。いま考えているのは、守衛、皿洗い、掃除人夫、といったものです」
「……自分をいじめる趣味でも?」
「いえ、それしかできないからです。そのあたりがぼくの生活能力の限界です。そうなったときも、ぼくとお付き合いいただけますか」
「何をおっしゃいます! もったいない」
「華々しい世界からそんなふうに縁が切れたら、世間並みに慎ましく身を固めようとしてもなかなか順応できないでしょう。孤独の中に閉じこもって、世間に顔を出さなくなるかもしれません。そのこともご承知いただけますか」
 父親がうなずきながら、私の腕を握りしめた。
「文学をやるということですね」
「はい。でも、プロから求められるほどの技芸ではありませんし、根本的な教養もないので、生活の資を稼ぐほどのことは望めません。趣味です。いちばん得意な野球の技芸はプロから求められたので、うまく生活の糧とすることができました。しかし文学は、身近の人間から褒められるのが関の山で、生活の手段まで昇華させることはできないということです。だから……ぼくにとって、たとえ文学をやりながらでも、晩年になっても生活の資を得られる仕事は、後始末をしたり、雑用をしたり、梱包や整理をしたりする単純な共同作業ということになります。ただしやるとなったら人一倍まじめにやります。自分をいじめるためでないことをわかっていただけましたか」
 母親が、
「自由なお人だと伺ってます。子供にふつうの家庭生活を送らせたいという親の希望自体が、娘の希望に反するようでは、おたがいの不幸です。子供の幸せが第一です。子供の幸せは私たちの幸せです。たとえ神無月さんがどんな人生を送ることになろうと、末長くかわいがってやってください」
 母親が赤くなった頬を両手で押さえた。雅江が目を充血させた。父親が、
「極めつけの変人だ。人間のスケールが根本からちがう。雅江が命がけで惚れるのももっともです。あなたの考えることが合理的なものかどうかは私には判断できませんが、よいものだと感じました。皿洗いをしようと、清掃員をしようと、私どもには何の不満もありませんし、雅江も一生ついていくでしょう。あなたを見ていると、なぜだろう、涙が湧いてきます。ほら、私だけじゃなく、雅江も女房も泣いてるでしょう。あなたに遇えた喜びというのかな、うまく言えませんが、涙が出るほどうれしいんです。あなたという人は、初めてユニフォーム姿を見かけた日からまったく変わらない。うれしいな、飲みましょう」
 父親が酌をする。差し返す。母親と雅江が鍋の具を皿に盛って二人の男の前に置く。
「私は晩生(おくて)でして、初恋はこの女房なんですよ。もし、生木を裂くようにこの女と別れさせられていたら、と考えただけでも胸が張り裂けます。島流し当時の神無月さんのお気持ちをお察しします。雅江は幸せ者です。私と同様、神無月さんが初恋の相手ですから」
 雅江が私の手を握り、潤んだ目で微笑んだ。私は、
「その生木を裂かれた女の件ですが、誤解してらっしゃいます。裂かれていないんです。私の信頼する女は青森までついてきてくれました。西松建設の賄いをしていた北村和子さんという人です。雅江さんも知っています。彼女が青森以来私のそばにいることは、いまだに母に知られていません。雅江さんが誤解している女とは十七歳の冬に何もかも決着がつきました。それから少しぼんやりしているあいだに、いろいろな女と下心もなく関係をつけてしまって、いまもそのままです。面倒なことが起きないかぎり、この関係を変更したり放棄したりするつもりはありません。流れにまかせます。その関係に面倒が起きれば清算してしまうつもりでいます。こういったことは多情というのではありません。ぼくはそんなものとは無縁で孤独な人間です。……雅江さんのことは心から愛しています。偽りはありません」
 母親が、
「こうして聞いていて、ふつうの心の動き方をする女では、神無月さんを愛せないことがつくづくわかります。女性関係が複雑なことは、私ども以上に雅江にもわかってます。あなたと同じような変わり者ですから、ふつうでない愛し方をするでしょう。とんでもない努力をして、三年も、五年もかけて、足の太さを倍にしたんですからね。すべてあなたへの一途な思いからですよ。……神無月さん、雅江は私どものたった一人の娘です。この子の幸せがいちばんです」
 首を真っすぐ立てた母親の、そして父親の姿勢に、彼らの願いがはっきりと現れていた。愛娘を核にして彼ら夫婦が築き上げてきた人生が求める願いだった。
「雅江さんに出会えたことは、ぼくの人生の中でも最大級の幸運です」
 自分の声が骨にこだました。雅江が私を叱るような茶目っ気のある上目で見た。
「妻も、私も、一人娘の一生を台無しにしてしまった口惜しさと後悔で、身をよじるほどでした」
「台無しになりませんでしたね」
「ありがとうございます」
 私は両親に向かってただうなずいた。猪口が片づけられ、しっかりとした食事になった。食卓での両親の雅江に対する眼差しから、彼らがどれほど彼女を珠(たま)のように愛でているかわかった。肩にズシリとしたものを感じた。ほかの女たちには感じない、家族の桎梏というようなものだった。私は一膳、母と娘と父親は二膳のめしを食った。めしを味わう気持ちになれなかった。それでも鍋はすっかり平らげられた。
 食後の緑茶になった。八時半を回っていた。
「十時に、知人が車で迎えにくることになっています」
 母親が父親と目を見合わせ、
「そうですか。しばらくのお別れになりますね。楽しいひとときでした。……どうぞ、雅江の部屋にいらしてください。……雅江の生涯に一度の大切な日です。よろしくお願いいたします」
「私どもは、一時間ほど喫茶店でもいってデートしてきます」
 二人で玄関を出ていった。
         †
 雅江はすがすがしい空色のワンピースに着替えて、私を六畳の自室にいざなった。私は濃いブルーのワイシャツに、カズちゃんが名鉄で買ってきた麻の上下を着ていた。清潔に敷かれた蒲団、机、書棚、小さな鏡台。雅江は私と見合うと、照れたように笑いながら握手した。抜けるように白い顔色をしている。少し傾いているからだがなつかしい。おのずと抱き合い、口づけをし合う。ふるえている。
「春の予定が、だいぶ早まったね」
「私にはいつでも同じ。郷さんと遇ってから九年。……おとうさんが何度も、神無月さんは信用できるって言ってくれて、お母さんも、あんたが幸せならおかあさんも幸せよって言っとった。好きで好きでしょうがないんやもん、幸せにきまっとるが。……私、なぜ節子さんが神無月くんから逃げる気になれたのかわからんわ。きちんと約束を交わして、何年か辛抱して待っとれば、ちゃんといっしょに暮らせたのに」
「ハッキリしてるのは、あのとき節ちゃんは、ぼくのことが、自分を賭けられるほど好きじゃなかったということだよ。つまり、愛情よりも世間道徳に負けたんだ。どちらにしてもあのころはぼくといっしょに生きていきたくなかったということだね。……西高の二年生の年明けに、中村公園のそばで偶然見かけてね。あとを追いかけたら、その近所のアパートで暮らしてた。ドラマチックな再会だったけど、そのあとすったもんだあって、もう一度逃げていった。彼女のお母さんが縁結びの役を果たしてくれて、結局、そのあと節ちゃんはぼくを追って名古屋に戻ってきて、それから東京にもきて、中央線沿線の武蔵境という町で看護婦をしてる。正看の資格も取って、立派にやってるよ。三月には名古屋に戻ってくる」
「……よかったね」
「雅江が写真を送ってくれたことをすごく感謝してた。彼女、ずっとその写真を持ち歩いてたんだ。節ちゃんについて、雅江と同じことを言った女がいた」
「北村和子さんね。きれいな人。鶴田荘で一回、それから西松の社宅で三回ぐらい会った。……さっき言ってた神無月くんを青森まで追いかけてきた人やね」
「そう。……ほかに女が何人もいる。ぼくは彼女たちと生きていく。もっと増えたら、その女たちとも生きていく。一人しかいなくなったら、その一人と生きていく。だれもいなくなったら自分だけで生きていく。そういうのって、雅江には不潔に思えるだろうけど」
「思わんよ。郷さんのやさしさの証拠やもん。……清潔も不潔もないわ。つらい人生だったんやもん、好きに生きて幸せにならんと」
 突き放したような言い方ではなかった。
「思いどおりに生きてね。私、何でも、ぜんぶ、郷さんといっしょに経験していくから」


         九

 二人蒲団に腰を下ろす。
「……ショパンの別れの曲。雅江のアナウンス。いい声だったな」
「ああ、下校の放送。神無月くんに初めて遇ったころやね」
「あの声に恋をした。その女といまこうしてる」
「私は露骨に恋をしたわ。その人といまこうしとる。信じられん。……カズちゃんていう人のこと、もっと詳しく教えてくれん?」
「愛の権化。心もからだも自分と同じ人間だと思えばいい。いずれ自然とわかる。自分を含めて、人に他人の説明をしようとすることは愚かなことだとだんだんわかってきた。彼女たちのどんな特徴でもいいから、受け入れてくれることを祈ってる。彼女たちは独立した人格だ。彼女たちがだれを、何を選ぼうと、ぼくの与り知ったことじゃない。愛ある人たちの行動は、尊重するだけだ」
「郷さんの言葉、信じられる。郷さんと話してると、いつも新しい気持ちになれる。むかしからそうやった。でも、ほんとに私、その人たちの中に入っていってよかったん?」
「その中にもともといたんだよ」
 精いっぱいの言葉だ。
「ありがとう。寺田くんが神無月くんのこと、金ピカと言ったのは、褒めて教育したゆうこと?」
「そうであってほしいとね」
 想像の中で松葉会の大硝子の前を過ぎる。
「松葉会。すばらしい男たちだ。彼らのやさしさ―人間の永遠の模範だね。男たちとの関係は、康男の愛情でぜんぶが始まって、康男の愛情でぜんぶ完結した。いまいる男も女もぜんぶ寺田康男だ。だから一人でも十人でもいい」
「女そのものは、和子さんで始まって―」
「うん。一人の女に収斂するには、男とちがって肉体が絡むので複雑すぎると思うかもしれないけど、カズちゃん一人の愛情で女のことはすべて完結した。ほかの女はすべて北村和子だ。だから、たった一人でも十人でもいい。……残酷なことを言ってるのかもしれない」
「ううん、うれしい。私も和子さんの仲間やから」
 もう一度抱き合ってキスをした。雅江のほうから積極的に舌を絡めてきた。
「私のぜんぶを見てほしい。脚も―」
「うん」
 私は素直にうなずいた。雅江は目を伏せて服を脱ぎ、ブラジャーとパンティだけになった。どちらもベージュのシルクだった。まぶしいような白い肩に、黒い髪がつやつやと光ってかぶさっている。
「あれ?」
 私は目を疑った。
「ぜんぜん細くない。ほんの少し短いだけだ。たしか、宮中の教室で、両手で腿をすっぽり……」
「うん。でも、あれから七年も経ったんよ。法ちゃんに呼ばれてノラで神無月くんに会ったあと、股関節と腱の手術をして、根気よくリハビリもつづけて、それから毎日できるだけたくさん歩いたり、走ったりして、やっとここまで肉がついたの。ぜんぶ神無月くんのためにがんばったんやから。けど、片方が少し短いのは治れせん。それでもむかしよりはだいぶマシになったわ」
「こんなことがあるんだね。いくら努力といっても……」
「ポリオは、って言いたいんでしょ? 並大抵であれせんかったよ」
 微笑みながらブラジャーを外すと、もたれかかるように抱きついてきた。やさしく引き離し、赤ん坊にするように仰向かせて、パンティを脱がせた。キクエほど整ってはいないが、柔らかそうな逆三角形の陰毛が生えている。
「きれいだ」
「ありがとう……」
 かすかな〈り〉の字形の脚を投げ出した豊満なからだが横たわっている。胸は思ったよりも大きかったが、正常に近い脚に対する並々ならぬ感動のせいで、視線が下半身以外の部分に移らなかった。意識を顔のほうへ戻した。楕円形のあご、細くて濃い眉、深く二重に切れた目、少し受け口の薄い唇、形のいい首、鎖骨の浮き出ていない撫で肩。いちいちさすりながら確認していく。雅江は期待に唇を緊張させながら黙っている。時おり腕をビクッとさせたりする。股間に陰毛はきちんとあるのに、腋に毛がない。剃っているのでなく、まったくない。そこを触る。
「ふふ……」
 雅江が笑った。
「便利やよ。おかあさんが羨ましがっとった」
「ぼくもパラパラとしか生えてないけど、まったく生えてないのには驚いた。めずらしい長所だね。ぼくにもめずらしい長所があるんだよ。手のひらと足の裏に汗腺がない。埃や泥で汚れないかぎり、靴下を替えなくていいんだ。中学のときは、二、三カ月替えなかった。大学にきてからは二、三回穿いたら替えてるけど。足の裏がまったくにおわない」
 雅江はむっくり起き上がると、足の指のあいだをくんくん嗅いだ。
「ほんとだ、ぜんぜんにおわん。足の裏も湿っとらん。ほかの場所には汗をかくの?」
「いちばんかくのは頭。あとは顔とお腹。お腹の汗が下痢の原因になるから、夏は鬼門だ」
 脇の窪を舐めてみる。少し塩っぽい。ああ、と雅江の腰がよじれた。
「どうしたの?」
「舐められたとき……ここがジーンとして」
 陰毛の上を美しい両手で押さえる。
「敏感なんだね。きょうはどうなるんだろう」
 乳房の形は表現しようのないほど美しかった。薄茶の乳輪の中から小さな突起がちょこんと出ている。口に含んだ。愛らしいため息が出て、腰がよじれた。深く窪んだ臍の周りを舐める。ピクリとみぞおちがふるえた。脚を開く。
「あ、恥ずかしい……」
 肉の厚すぎない大陰唇の中に左右対称な小陰唇が向かい合っている。愛液で光っている。襞に沿って指を滑らせると、またピクンとふるえた。小陰唇のいただきの包皮から、わずかにクリトリスが覗いている。小陰唇も包皮も、大人らしく皺が寄っているのがかわいらしい。そっとクリトリスに触れ、柔らかく押し回す。
「あん、郷さん」
「気持ちいい?」
「うん、ピリッとする」
 尻を持ち上げて、肛門を見る。
「あ、いや、恥ずかしい」
 きれいに絞りこまれた肛門の周囲に陰毛は生えていない。門渡もつるつるしている。大陰唇の付け根から陰毛が生えだすのはほかの女と同じだ。尻を両掌に受けて、門渡から舌を使いはじめる。尻がふるえる。カズちゃんたちと同じように敏感な体質だ。千年小学校の校庭から鶴田荘まで、雅江が私を追いかけてきた時間が思われた。小陰唇を含み、クリトリスを含む。ふるえつづけている。手を握ってやると、たちまちそれはやってきた。
「あっ」
 と喉を絞ったきり、何の発声もなく、腹が激しく収縮し、尻が跳ねた。驚いたように私の手首を握り締める。
「郷さん!」
 私は横たわり雅江をしっかり抱き寄せた。
「とても敏感なからだだ」
 泣いている。
「郷さん、郷さん」
 繰り返し呟きながら、私よりも強い力で抱き締める。
「うれしい、私、うれしい」
 舌を絡ませてキスをする。私は唇を離し、
「―結ばれよう」
「はい。いま、グーっとからだが固まって、お腹の奥がこれ以上気持よくなれないところまでいって、勝手にブルブルってなったの。怖かったけど……とてもうれしい。神無月くんに舐められてそうなったのがとてもうれしい。神無月くんもこうなるの?」
「うん、雅江の中でなる。雅江の中でないと、ならない」
「じゃ、早く結ばれてこうならんと」
 私は立ち上がり、全裸になった。屹立していた。雅江の顔の前に立て膝になる。当然のことにまったく驚かない。驚かれると少し心が翳る。安らかな気持ちになった。亀頭に手を差し出し、掌をかぶせるようにする。ためらいながらカリの周りに指を回し、そっと握った。
「硬い……」
「口に入れてみて」
「口に?……」
「ぼくが雅江にしたのと同じように」
 ためらわず口を寄せた。亀頭を含んだだけで口いっぱいになる。不器用に舌を動かしたりしている。
「もういいよ」
 雅江は口を離してあらためて見つめ、
「こんなに大きなもの、入るんかなあ」
「だいじょうぶ。出血するかもしれないから、タオルを敷こう」
 雅江は押入からタオルを出してきて、尻の下にあてがった。
「危険日って知ってる?」
「もちろん。妊娠の危険がある日」
「きょうは?」
「安全日」
 爪先が少し内に向いている脚をなぜた。雅江の努力が結晶した宝石のような脚だ。わずかに短い脚を除いて完璧なからだだった。指を一本入れて痛みの具合を測ってみる。痛むそぶりを見せない。二本入れると挟みこんでくる圧力がある。
「痛む?」
「だいじょうぶ……」
 指を往復させ、軋みを感じる先へ思い切って入れる。
「ツッ……」
「痛い?」
「だいじょうぶ、平気」
 指に応える感触には何の変化も訪れないのに、予想しなかった雅江の歓びがやってきた。
「郷さん、なんか……」
「気持ちいいの?」
「よくわからんの」
 上壁をこすってみる。
「ああ、気持ち……」
「じゃ、結ばれるよ」
「はい」
 動きはじめる。
「痛い?」
「少し。でもだいじょうぶ」
 ゆっくり、浅く動く。
「あ……」
 雅江は目をつぶった。
「気持ちいいの?」
「すごく……すごく気持ちいい」
 深く突き入れ、子宮を探るように腰を回す。
「郷さん……」
 呟くように名前を呼んだ。襞が細かい波動を始める。波動が蠕動に変わり、緊縛がやってきた。信じられなかった。
「うう、気持ちいい! ああ、気持ちいい!」
 私も急速に迫ってきた。
「イクって言って」
「はい、あ、あ、郷さん、イク」
 激しく往復する。
「ああ、気持ちいい! イク、イク、ううーん、郷さん、イク!」
 抱き締めてやる。グイグイ締めてくる。
「郷さん、気持ちいい! イクイク、イク、イク!」
 前庭と私の付け根をぴったり密着させる。入口から奥まで私のものをしごくように蠕動している。唇を求めてくる。応えて舌を絡める。
「愛しとる、郷さん、愛しとる!」
 雅江の反射を受け止める。三回、四回とぶつけてくる。よほどの快感なのか、
「気持ちいい、気持ちいい」
 と何度も言う。しばらく存分に痙攣し、やがて快楽の余韻が退いていくと、雅江の眉根の皺がだんだん伸びてきた。宮中の校庭が、校舎が、ノラが、久住先生が、中村フランケンが、浅野が、走馬灯のようにくるくるめぐった。この瞬間に未来を保証する言葉を口にしたかったけれども、思いつかなかった。
「知らんかった! こんなふうになるなんて、ぜんぜん知らんかった。神無月くんのほかの女の人も、みんなこうなるの?」
「そう」


         十

「……どうしたの? 考えとる顔。何も心配せんでええんよ。郷さんを縛りつけたいわけやないんよ。私はこのままでええの。これ以上幸せになったら、バチが当たるわ。ええんよ、郷さん、私はこれ以上幸せになりようがないんよ。郷さんが私を最高に幸せにしてくれたんよ。ありがとう、郷さん、ほんとうにありがとう」
「……自分なりの正義を貫くことと、道徳的に正しい行いをすることは、まったくちがうことなんだ。一方をうまくやるためには、他方をあきらめる必要があるんだよ。これまでのぼくはトラブルつづきだった。いつかきっとだいじょうぶになると思いながら、いつもピンチだった。……あしたになれば、ぼくたちの関係は終わってるかもしれない。だから言っておきたいんだ。雅江とこういう関係になれてよかった」
 雅江は目に涙を浮かべて私の角張ったあごを撫でた。
「やっと本音を言ってくれたね。つらい人生をちょこっと覗かせてくれた。郷さん、あなたは愛される人よ。そしてそれに応えようとする人なの。あなたを裏切った人さえ、幸福にしてあげようとする人なの。応えるだけの人。愛されてあたりまえやないの。そんなこと、私にはとっくにわかっとった。私は郷さんを愛する人たちの仲間に入れてもらえただけでも死ぬほどうれしいの。私が郷さんを裏切らんかぎり、郷さんはぜったい私を見捨てん。そんなにありがたい人っておるやろか」
 私の全身が感動に痺れ、頬がゆがんだ。
「こんなぼくと、生きていきたい?」
 こくこくうなずくと、しがみついてきた。
「どんなぼくなの? 郷さんでありさえすれば、どんなでもええわ。郷さんは正真正銘の正義の使者、天才の正義漢なんよ」
「ぼくは……」
「自分で否定することでも、肯定することでもないわ。他人がそう思ったら、それでええんよ。私だって、何が正義なんかようわからんわ。ただ、あるとき郷さんのことをそう思って、なぜかとってもかわいそうになったんよ」
 かわいそう、という表現が私の神経にしっくり収まった。
「雅江は、ふつうじゃないね」
「人を死ぬほど好きになることは、もともとふつうやないでしょ。それに私、郷さんがふつうの人やったら、好きにならんかった。あら? お尻がひやっとするわ―」
 タオルに二センチ円ほどの赤い染みがついていた。雅江はそのタオルを丁寧に畳み、机の足もとにあった新聞紙でくるんだ。紙袋を押入から出し、
「ずっととっとくの」
 吉永先生もたしかそうした。正座をしている半身を見つめる。
「大きな胸だ。細身の雅江にこんな大きな胸がついているとホッとする」
 両掌を当てる。ずっしりとした手応えだ。雅江も、自分の体液でぬめっている私の性器を手のひらに載せ、顔を寄せて念入りに眺めた。射精をしていない性器だ。
「小さなってきた。……ねえ郷さん」
「なに?」
「野球は順調?」
「順調だよ。自分なりに懸命にやってる。一定の能力の維持にはまじめな努力の継続が必要なことを知ってるからね。プロの選手はぼくの三倍も五倍も練習してる。だから、来年以降は不安だ」
「……そう。とにかく、郷さんなりに順調にきとるゆうことやね。中日球場の郷さんを早よ見たい。カッコええやろうなあ。……別に野球選手でなくてもかまわんけど。郷さんがどうなろうと、病気になろうと、年をとろうと、生きとるかぎり、郷さんのすべてを愛しとるで」
 私は強く雅江を抱き締めた。
「高二のとき、西高のそばで、めずらしい人に会った」
「だれ?」
 私の腰を抱きながら耳を傾ける。肌の寄せ具合から深々とした安心感が伝わってくる。
「オニアタマ」
「え、鬼頭さん! 中三でいっしょのクラスになったきり、会っとらん。噂も聞かんかった。どうやって会ったん?」
「学校の帰り道でばったり。中村高校にかよってると言ってた。そのまま話らしい話もしないで別れた」
「……青木くんを見舞ったとき、郷さんが寝転がっとる部屋に入っていったでしょ? キスしたいんやということが、すぐわかった。やられた思ったわ。あのころ、女の子はみんな郷さんのことを熱い目で見とったもん。キスされたん?」
 私は心の底から愉快な気持ちになり、
「ぼくの顔を覗きこんで、額を撫ぜて出てった。悲しそうな湿った目だった。西高のそばで出会ったときは、別人みたいに乾いた目をしてたな。人はあきらめちゃいけない瞬間というものがあるんだ。雅江の交換日記のようにね。あれがなかったら、ぼくたちはいまここにこうしていない」
「ほんとにそうやわ。あれが人生でいちばんの決意やった」
 腰を抱く手に力がこもる。
「守随くんにも遇った」
「守随くんも青木くんの見舞い組やね。どこで会ったん?」
「名古屋駅前のパチンコ屋。見覚えのある顔を見かけて、声をかけたら、やっぱり守随くんだった。ぼくは仲間たちといっしょで忙しかったし、彼もすぐ帰ってしまった」
 嘘をついた。口に出したけれども、話したい話題ではなかった。懸命に生きていない人間が抱えこむ曲折した経緯には、他人に話したいほどの魅力を感じない。
「なんだか切ない話やね。小学校のころは、鬼頭さんも守随くんも人間でないように思えたのに」
「うん。怪物にしか見えなかった。でも、怪物じゃなかった。人の何倍も勉強してたんだね。でも、人の何倍も勉強するのはすばらしいことだよ。そういうすばらしいことは、ずっとつづけないと意味がない。つづけるためには、自分自身がそれをすばらしいことだと感じないとだめだ。直井整四郎のようにね。ぼくは野球をそう感じられなくなったとき、しばらく遠ざかった。どうしてそう感じられなくなったのか、いまもよくわからない。野球は文句なくすばらしいスポーツだからね」
「そのときは、〈すばらしいもの〉の意味が、郷さんの中で変わっていたんやと思う。どんなふうに変わったのか、私にはわからんけど」 
「ぼくにもほんとにわからないんだ。スポーツって子供っぽいなって感じたことは覚えてる」
「自分だけの幸福のために夢中になることは、どんなことでも子供っぽいと思うわ。私はきょう初めて、大人っぽい幸福を経験することができた。愛し合い、了解し合って、快楽を分かち合うなんて、大人の幸福の最たるものやわ」
「とすると、ぼくは十五の夏からずっと、大人ってわけだ」
「だからスポーツを子供っぽく感じたんよ」
「……肉体を合わせることに幸福を感じるのは、成熟した人間の特徴だからね。でも、ぼくの場合、思ったほど成熟したものじゃなかったかもしれない。愛を返す人って雅江は言ったけど、ぼくは愛を打ち明けられると、胸に喜びや誇りがあふれてこずに、危険が迫ったと感じて、疑いや警戒のエネルギーが高まるからね」
「それは、節子さんが植えつけた条件反射やわ」
 雅江はやさしくて、頑固だった。
「そうかもしれない。でも、その反射を消さないかぎり、ぼくは子供のままで、愛せるのは快楽のための自分の肉体だけということになるんだ」
「ちがうわ。郷さんは肉体も献身的だった。……ねえ、郷さん、私と同じように気持ちようならんかったでしょう」
「どうして?」
「射精ゆうの、しとらんも。……ちゃんと結ばれたことになれせんわ」
「ぼくは射精するまでに時間がかかるんだ。雅江がとても早くイッちゃったから……」
「……今度はがまんする。だから、射精して。ほんとに結ばれたい」
「わかった。じゃ四つん這いになって」
「あ、それ聞いたことある。バック……郷さんも気持ちよくなるの?」
「うん、お尻をつかんでするから、興奮して射精しやすくなる」
「ドキドキする!」
 嬉々として四つん這いになり、尻を向ける。
 尻を引き寄せ挿入する。胸を揉みながらゆっくり往復する。奥を数回突くと、
「ク!」
 とうめいて果てた。抜いて存分に痙攣させる。片脚を持ち上げ、もう一度後ろから挿し入れる。雅江はされるままになっている。奥を連続で突き、
「もうあかーん!」
 という叫びとともに離れる。仰向けになりエビのように跳ねながら痙攣する。跳ね上がる両脚を押さえつけ、伸展位で浅くピストンする。雅江のアクメがしばらく遠ざかった。挿入したまま動きを止めて膣の動きを確認しているうちに、彼女はとつぜん広く開脚して私を呑みこんだ。
「ああ、ああ、イク、イク、郷さん、イク、愛しとる、イク! イクイクイクイク、イク! イク! イック!」
 両脚を私の腰に巻きつけ、思い切り陰丘をぶつける。長い痙攣になった。雅江が異常に敏感な体質だと確認できた。ふるえが治まったので、結合を解かないまま胸を吸うと、
「イキそう……」
 と雅江が言った。信じられずに吸いつづけていると、
「イク!……」
 と小さく叫んで、また果てた。不思議に思い、クリトリスに指を押しつけたとたん、
「ああ、郷さん、イク!」
 強く痙攣した。射精するために動いた。雅江は脚を巻きつけたまま急速な高潮を迎えた。私も吸いこまれるように射精した。ぐいぐい吸いこまれる。神秘的な感じが強烈なものになった。膣の蠕動をつづけながら、目をつぶったままうわごとのように言う。
「郷さんに遇う前からわかっとったんよ、郷さんに遇えるゆうことがわかっとったんよ。ソフトボールをしとる高橋弓子さんをじっと見とったでしょ。その郷さんを私が見とったんよ。ぜんぜん嫉妬せんかった。ずっと待っとった人にとうとう会えたて思った」
 うーんとうめいて、また連続的に痙攣した。
「初めて郷さんに遇ったときも、ここが(雅江は私と繋がっている茂みのそばに手を置いた)ジーンとなって、郷さんとここで結びついとるってすぐわかったんよ。やっぱり、こんなに気持ちよく結びついとったんやね」
 抱き締めると、しっとりとした肌が、なぜか幼いころから抱き慣れていたもののように吸いついてきた。それで、じゅうぶん雅江の言葉に信憑性を感じることができた。彼女は私を愛するために、千年小学校の校庭に立っていたのだった。
「抜くよ」
「はい、ちょっと待って。郷さん、鏡台から手鏡とって」
 私は右手の壁につけて置いてある鏡台に手を差し伸べ、手鏡をとって渡した。雅江はそれを使って結合部分を覗きこんだ。
「わあ、私のピラピラが郷さんをつかんどる。あ、郷さんの頭が出てきた。ぬるぬる光っとる。あ、抜けた。はああ、ゾゾッとして気持ちいい。イキそう、だめ、イッちゃう! ああ、イクイク、イッちゃう!」
 腹を縮めて何度か痙攣する。痙攣しながら目をしっかり見開いて手鏡を見つめ、空いた手で精液を掬って口に持っていき、舐め取ると、躊躇しないで飲みこんだ。さらに精液が出てくる様子を鏡に写して確かめる。少しでも白いものが出てくると掬って口に入れる。
「おいしい。甘酒みたい。ううう、イク!」
 桁外れの天真だ。私は笑った。雅江は起き上がり、本能的に私の性器をつかむと、亀頭の溝から茎の付け根までアイスキャンデーを舐めるようにぺろぺろやった。付け根の陰毛に溜まった体液を舐め、睾丸も含んで舐めた。
「ああ、おいしい」
「雅江は子供のようだね」
「最初にいっぺんに知っておきたいんよ。そうすると、あとは何をしても知ってることをするだけだから安心でしょ?」
 精神というのは、浅くて単純すぎると小馬鹿にされるし、深くて複雑すぎるとなぜか敬遠される。深くてシンプルなのは、かろうじて一般の好意的な解釈に耐える。しかし、私は雅江の深くて複雑な精神を一瞬のうちに愛した。


         十一

「さ、お父さんお母さんに報告にいこう」
「うん!」
 雅江は大切そうにティシュで陰部を拭うと下着をつけた。パンティの食いこみがどの女よりもなまめかしい。
「その割れ目を見てると、もう一度したくなる」
「ほんと?」
「ほんとだ。でも、今度までオアズケ」
 二人きちんと服を着る。
「世界が変わってまった。いままで何にこだわって生きとったのかな」
「ぼくにだろ?」
「そう。世間体を気にしながら」
「雅江に世間体が?」
「私は凡人やよ。自分といっしょにせんといてね」
「世界が変わったきょうからは?」
「凡人のままや。けど、郷さんに命懸けの凡人。きのうまでは、郷さんのために命までいらんとは思っとらんかった。思っとったにしても、しっかり意識せんかった。もうきょうからは命はいらん。郷さんとおると、気持ちよう寿命が縮むわ。自分が凡人やってようわかる」
「ぼくが厚顔無恥なだけだよ。雅江の感覚は正常だ。精神は異常だけどね。ぼくは精神も感覚も異常だ。ぼくといることにめげないでね」
「ごめんね、気ィ使わせて。二人きりでおると思えばなんともあれせんのにね」
 部屋を出る。父母がテーブルで待っている。柱時計が九時四十分を指している。母親にコーヒーを一杯所望した。目を潤ませた父親が私を正面から見つめて、
「つつがなく……」
「はい、つつがなく結ばれました」
 彼は目頭を指で拭った。コーヒーを持ってきた母親は雅江の肩をそっと抱き、
「よかったねェ、とうとう大好きな人に抱いてもらえて」
 と言った。雅江は明るく笑いながらうなずいた。母親は、
「もしこの子に子供ができたら、どうか産ませてやってください。ご迷惑はおかけしません。私どもの目が薄くならないうちに、どうか」
 父親も深くうなずいている。目が薄くならないうちにというのは、老齢になるまで十年でも二十年でも待つという意味だろう。
「この子なら、元気な子供を産めます。ちゃんと妊娠できたらの話ですけど。それこそほんとうの子宝です」
「雅江さんの気持ちしだいです。お父さんお母さんは雅江さんと同様反骨的な人ですね。世間の口を気にしていない。……世間的なものごとに反骨心を持っている人は、ごくまれです。そういう人は、確実性とか、ルールとか、黒か白かなどとは考えません。……おたがいに味方になり得ます。この世を善か悪かで弁別する人は、愛情をもって斟酌するべきものごとに共感しないので、真の意味でけっして助け合えません。責任を問うことと、非難することとのちがいがわかる人こそ、ぼくが愛する人びとです。そんな人びとはきわめてマレだと知っています。だから……命の捨てどころを思い定めた人間は、キョロキョロしてはいけないと思います。子供ができて、雅江さんが産みたいと言ったらそのとおりにしてください。そしてぼくの子として育ててください。生涯を懸けて援助します」
 母親が目の窪を指で拭い、
「ありがとうございます。ご親切なお言葉、いつまでも心に留めておきます」
 玄関まで親子三人が送って出た。父母と握手し、雅江と口づけをした。雅江が耳もとに言った。
「背負ったらあかんよ。私に大切なのは、郷さんだけやから。さびしい気持ちにならんでね。二人で長生きしようね」
 玄関灯に照らされた庭の空気が、この世のものとは思えないほど澄んでいる。菅野の車が待っていた。私は彼らにお辞儀をし、助手席に乗りこんだ。私が車に乗るのを見届け、もう一度三人で辞儀をした。
「またきます。予告なしにとつぜんくることがあるかもしれません」
 そう言って小さく手を振った。三人も手を振った。
 菅野はアクセルをゆっくり踏みこみ、大瀬子橋を渡った。
「清楚というんですかね。清潔感満点の人ですね。神無月さんに愛されて、幸せになってほしいな。神無月さんは雄々しくそびえてる人ですね。あしたの夜は滝澤のお師匠さんでしょ。やっぱり私には、神無月さんは富士の峰です。……しかし疲れた顔してますよ。きょうはゆっくり休んでください」
「はい、すぐ寝ます」
「あした走れますか」
「もちろん。休みません。また朝八時」
「オッケー。あしたは往復三キロぐらいのもんですから、へこたれませんよ」
 白い門燈に北村席と書いてある。格子戸のついた数寄屋門をくぐり、菅野と飛び石伝いに歩いていく。玄関にトモヨさんとおトキさんと、見知らぬ若い女が出迎えに立っているのが見える。
「あれが素ちゃんの妹の千鶴ちゃんですよ。姉が神無月さんの世話になってるっていうんで、挨拶にきたな」
「コーヒーが飲みたいな」
「はい。私も一杯飲んで、旦那さんといっしょに羽衣のチェックにいってこよう」
 三人でお帰りなさいと頭を下げた。菅野が、
「どうしたの千鶴ちゃん、挨拶にきたの?」
「はい」
 素子にいしだあゆみを足したようなホワッとした顔をしている。
「おねえさんが、一度も挨拶にいかないのは失礼だって電話してきて」
「そりゃそうだ。惚れないようにって言われただろ」
「はい。抱かれたいなら、お金を払うようにって」
 トモヨさんが笑って、
「せっかくの貯金をぜんぶはたくことになるわよ」
 菅野が、
「神無月さんは遠くから眺めるだけにしたほうがいい。さ、コーヒー、コーヒー」
「おトキさん、食事はいいです。コーヒー飲んだら、ちょっと庭でバットを振ります」
 みんなで玄関に入る。主人が式台に迎える。女将と直人は寝たようだ。おトキさんが足袋の音をキュッと言わせて台所へいった。主人が、
「お帰りなさい。〈義務〉を果たしましたか」
「義務とは思いませんが、責任というものを初めて感じました。ひしひしと恐ろしくなって……」
「神無月さんらしい言い方だ。雅江さんゆう人は和子を感心させるくらいやから、多少へんな女なんやろが、神無月さんの女の中でたった一人の家庭人やからね。家庭ゆうんは無条件に神無月さんを怖がらせる。じゃ、菅ちゃん、コーヒー飲んだら見回りにいこか」
「はあ。そうしましょう」
 トモヨさんが、
「恐ろしいというのは、ご家族のこと?」
「いや、せっかくの親子関係に傷をつけたような……掌中の珠を奪い取ったような……」
「窮屈な世界に踏みこんでしまったような?」
「自分の不快さじゃなく、彼らが無意識の不快さを隠して、ぼくの言動をもっともだと思ってるように見えるのが、ますます恐ろしい。神聖な人間関係に泥を塗ってる感じがするんだ」
「相手の無理が見えるんですね。でも神聖って何かしら。親子愛? それを神聖と思って畏れ多いなら、近づかないようにしたらどうでしょう。人が守りたいものを守らせてあげるのが郷くんだから」
 菅野が、
「神無月さんは、黙ってたら破壊者ですからね。保守的な人を解放してあげるには、ヨイショと動かなくちゃいけない」
 トモヨさんが、
「ときどきこうやって怖がることで、じゅうぶん行動したことになるんじゃないでしょうか。雅江さんもご家族も、鈍感でなければ、何か感じるでしょうからね。とにかく郷くんは、保守的でうるわしい人間関係に恐怖を感じる人だから、これ以上押さなくなりそう。雅江さんがなんだかお気の毒。千鶴ちゃん、お腹鳴ったわよ。おトキさんに何か作ってもらったら」
 おトキさんが、
「オムライス、どう?」
「それ、いただくわ。神無月さんて……こんなにええ男やと思わんかった」
 主人が、
「外見だけやないぞ。手出したらイチコロや。見とるだけにせい」
 トモヨさんや菅野と同じことを言う。バットを持って縁側から降りる。軽く五十本。強めに五十本。へっぴり腰で外角五十本。オーソドックスに真ん中低目を強めに五十本。
「よし!」
 振り返ると、ガラス戸を開け、みんなで正座して見ている。主人が、
「へっぴり腰の素振り、不気味な迫力がありますな」
「外角低目の変化球をレフトへホームランする素振りです。外角の直球なら、腰を伸ばしたままでも見極められますが、腰を屈めればスイングをレベルにできます。ミートが確実になる。レフトへのホームランも増やさないと八十本打てません」
 菅野が、
「いいものを見ました。じゃ、神無月さん、お休みなさい。一仕事して帰ります。あしたの朝八時に門に立ってます。旦那さん、いきましょう。千鶴ちゃん、神無月さんと適当にお話したら、お家にお帰り」
「うん」
 主人たちと玄関から表の庭へ出る。菅野が、
「神無月さん、せっかくいいことをしてきたのに、悩んだらつまらないですよ」
 主人が、
「ほうや。何も考えんほうがええ」
「はい。いってらっしゃい」
 池でパチャンと音がした。魚が水面で跳ねた。自分で立てた波紋の中へ沈んでいく。波の輪は暗く広がり、水の中で身の薄い赤い胴がのたりと動く。からだが丸く肥っていないので鯉ではない。大きな金魚だ。
 座敷に戻ると、トモヨさんとおトキさんがオムライスを二人前持ってきた。
「おいしいわよ。神無月さんも別腹でお食べなさい」
 雅江の家の食卓では一膳めしだったので腹がへっていた。
「うん」
 ケチャップの代わりにウースターソースをかける。
「や、うまい! ね、千鶴ちゃん」
「うん!」
 夜の裏庭を眺めながら、うまいオムライスを食べる。
「きみのお姉さんも料理名人だよ。調理師の資格も取ったし、三月からは椿町でカズちゃんといっしょに、アイリスっていう喫茶店をやるんだ」
 フフ、と笑う。
「かわいらしい大人って、初めて見たわ。一生懸命しゃべるんやもの。ぜんぶおねえさんから聞いて知っとる」
 おトキさんが、
「いまいくつ?」
「二十三」
「あと二年もしたら足を洗わないとね。お母さんにお家建ててあげるためにやってるんでしょ?」
「そう。それまではつづけないと。そのあと、ふつうの仕事をやりたいわァ。定時制高校かよって、事務員か何か」
 トモヨさんが、
「私も塙のお父さんに、中村高校の定時制にいかせてもらったのよ。和子お嬢さんがお父さんを説得してくれてね。郷くんがかわいがってくれたことをきっかけに、お父さんに頼みこんで足抜けしたんだけど、高校を出たことが心の奥で励みになってたわ。勉強したという安心感のせいで自信を持てたというか、人並に地面に根を張ったというか、とにかく気分よく新しい人生に踏み出せたの。郷くんみたいな人には学歴なんか何ほどのものでもないでしょうけど、私たちのような凡人には大きな支えなのよ」
「ぼくはそのままのトモヨさんでかまわないな。もともと自信に満ちた女だから。自信のある人間は輝いてるよね。ただ、女にかぎらず、愛されることで人間の自信は増すものだよ。ぼくなんかそのいい例だ。おトキさんも見てごらん。山口に愛されることで自信いっぱいだ」
「いやですよ、神無月さん、愛されてるなんて。私が山口さんを愛してるだけ。その自信はあります」
「前向きな自信だね。甘えてない」


         十二

 千鶴が、
「おねえさんとは、どうやって知り合ったん? シチュエーションが考えられん」
「聞いてないの?」
「そのことだけは話してくれんの」
「すごい厚化粧で大門に立ってたんだ。その顔を見て胸にきた。アイラッシュの目の奥の悲しみに魅かれた。もちろん美しかったしね。ぼくは胸にこないと、女に関心を持てない」
「私は?」
「お姉さんほどじゃないな。きれいだし、華があるし、活発だけど、悲しみがない。人を愛して、つらい思いをして、そのつらさから立ち直った経験がないと、悲しみは出てこない。悲しくてなおかつ、根が明るくないといけない」
「難しいんやね」
 トモヨさんが、
「それ、もろに郷くんのことね。最後の根の明るさというのがミソ。うんと考えると人間は悲しくなるけど、ものがよくわかってサッパリ明るくなるの」
「あたしはあまり考えんな。お金のことは考えるけど」
 トモヨさんとおトキさんが愉快そうに笑う。
「いまのは嘘や。お金のことは考えん。素子ねえさんや、おかあさんのことは考えるけどな。でもよかったわ。ハッキリ言ってもらえて。でも、あたし、根は明るいと思うけどなあ」
「家族中心にものを考える人は、根が暗いよ。血縁に守られたカタチを愛してノホホンと暮らすんじゃなくて、血のつながらない他人を愛して心を活性化させないと、暗さは飛んでいかない」
「ふうん。……雅江さんゆう人、捨てるん?」
「捨てない。彼女は家族中心にものを考えてない。これからはカタチの外で彼女だけに近づくチャンスがあったら、喜んで近づこうと思う。彼女は怖くないし、明るいから」
「親子で閉じこもった家庭って、暗いものでしょ。ようわかるわ。……雅江さんを捨てんといてあげて。家から出んのは、やさしすぎるからやわ」
 トモヨさんがうなずいている。おトキさんが、
「そろそろ夜中ですよ。千鶴さん、またゆっくり話しにいらっしゃい」
「クセになりそう。ほんのり叱られてる感じがたまらん。おねえさんに電話しとくわ。さいなら」
 見送りを断り玄関を出ていく。
「神無月さんは何気ない様子でいても、めったに人間を見誤ることはありませんよ。千鶴さんも少しはものを考えるようになるでしょう」
 そう言っておトキさんは台所に引っこみ、後片づけをする。トモヨさんが、
「郷くん、もうお休みなさい。あした七時に起きて、お風呂入って、ごはんを食べる前に走るんでしょう」
「うん、目がとろんとしてきた。バタンキューだな。お休み」
「お休みなさい」
 トモヨの離れの蒲団に潜りこんだとたん、ほんとうに正体なく眠りこんだ。
         †
 明け方の五時に目覚めた。熟睡したので、苦しいほど朝勃ちをしている。寝巻姿のトモヨさんの背中が目の前にある。下腹を探ると下着を穿いていない。尻を撫ぜ、片脚を持ち上げ挿入しようとする。入らない。トモヨさんが気づいて、
「……あ、郷くん、起きたの? ごめんなさい、濡れてないのね。オサネをいじってオマンコを起こしてください。すぐグッショリになりますから」
 胸を揉みながら、乾いている襞やクリトリスをそっと愛撫する。やがて声が上がりはじめた。
「ああ、いい気持ち、オマンコが目を覚ましました、あ、イキそ、イクわね、郷くん、イク、イクイク、イク!」
 とつぜん指の周りに湯が湧き出す。痙攣する尻のあいだから挿入する。
「あああ、愛してます! イク!」
 弾むように痙攣する。
「イキつづけて」
「はい、ああ! で、で、電気、走る、走る、イク! あ、あ、あ、イク! しし、痺れる、イイイ、イク!」
 堅く締まって激しくうねる。たちまち射精の感覚が迫った。
「トモヨ、愛してる、イク!」
「愛してます! あああ、強くイク、イク!」
 片脚を抱き寄せ、思いきり律動する。
「あああ幸せええ、イックウ!」
 抜き去り、両乳を抱き締め、尻の痙攣を腹で受け止める。痙攣が静まると、トモヨさんはこちらを向いて口づけをする。
「だいぶおつゆ飛ばしてしまいました。シーツがびしょびしょ。お風呂入れてきます」
 十分ほどで戻ってきて、私のシャツを脱がせる。
「わあ、根もとに私のがべっとりついてます。朝は愛液が濃いのね」
 これほど気を差さない交接があるものだろうか。雅江のことを思い出す。どこかにとりとめもない不安が澱んでいる。思い出すたびに、その澱みの色が濃くなる。
 トモヨさんは私を湯殿に立たせ、全身に泡を立ててしっかり洗った。
「きょうは文江さんのところにいきますすか?」
「いかない。そういう常習的な妻問いは、この名古屋定住を機会にスッパリやめようと思ってる。多くて半年、一年に一度にするつもりだ」
「とうとう、そういう気持ちになったんですね。和子さんが喜びます」
 文江さんの家の古い木戸つきの門と、大谷石の玄関口、快楽のときに淡いザクロ色になる手術跡が浮かぶ。
「特定のだれかを喜ばすためじゃないんだ。これまでの自分の乱雑な行動にケリをつけたい。あまりにも無軌道すぎた。別に道徳的なことが頭にあるわけじゃない。正常な神経を取り戻して、生活をスッキリさせたいんだ。まず野球と、それから素直に愛情を注げる何人かの女と、最後に文章」
「何人か……」
「カズちゃん、トモヨ、睦子、素子、トモヨはまだ会ったことはないけれども、青森のヒデさん。ぼくの思い定めた女はその五人だ。本能的で、揺るがない好みだから、どうしようもない。もちろん、ぼくに人生を捧げた女たちには心から感謝してる。だから求められれば応えるけれども、こちらから求めることはしない」
「睦子さんというかたにはまだお会いしてません。……とてもうれしいお話ですけど、五人だけ幸せになるなんて、なんだかギラついているような感じで、やるせないですね」
「本能が好む女はそんなふうに見えないから安心して。……トモヨはカズちゃんと気持ちが同じだね。いつもほかの女のことを考えてあげてる。このことはトモヨだけに言った。いつでもいいからカズちゃんに伝えといてね。明石に女は連れていかないよ。余計な気を使わないで」
「はい。でも、半年一年に一度というのは、つらいでしょうね……」
「加藤雅江と文江さんだ。節子、キクエ、法子、千佳子は、向こうが求めるかぎり二、三カ月に一度にしてもいい。とにかく合わせて十一人。もうそれ以上の女たちに気を配る精神的肉体的余裕がなくなった。心を機械的にしなくちゃ乗り切れないという不安が出てきたんだ。ただ、いいかげんな気持ちでなく結んだ約束を守りたい女に対しては、機会のあるかぎりその約束を律儀に実行しようと思ってる。上板橋のサッちゃん、吉祥寺の菊田さんと福田さん、青森のユリさん、四戸末子、そしてミヨちゃんだ」
「初めて聞く名前ばかり。……仕方のないことですね。郷さんは疲れを知らない心を持った人ですけど、からだは生身ですから」
「二月の末には六人もやってくるよ。トモヨが気を使ってあげる暇なんかない」
「気持ちとしては一人も十人も同じ。お嬢さんがいろいろな場所にいると思えばいいんですからね。でもからだは別。ふつうに暮らしてるだけでも疲れるんですから。ましてやプロ野球選手。そういうふうに考えるのがあたりまえですね。わかりました。もうお節介な気なんか使いません。郷さんの健康な生活を第一に考えます。確実な仕事と、健康があって、愛する人や、家族や、友だちがいて。そのうえに、安らかな心と大きな希望を持って生きていける生活です」
「世の女たちは堂々と夫婦関係や親子関係を宣言して祝福を受けることができるのに、すまないと思う」
「心もこれ以上疲れさせるのはやめましょう」
 湯船に浸かり、ふくよかなからだを抱きしめる。私は大いなる財産を賜ったのだ。これまで野球のほかに何一つなかった私にとって、まさに目のくらむほどの財産だ。
「トモヨ、大好きだよ」
「私もよ、郷くん。ぜんぶが好き。言葉も、言葉を話すときの顔も、バットを振るときの姿勢も、ユニフォーム姿も、肌の温もりも、手も足も指も耳も鼻も唇も何もかも好き。それがぜんぶなくなったら、私死にます」
「直人は?」
「あんなにかわいければ、だれかが育ててくれます」
「直人が死んだら」
「それで郷くんが死にたくなるのなら、いっしょに死にます」
「もう一人、この世に出てくるよ」
「はい、私の手や足の指です。切れて落ちても死ぬ理由になりません。お嬢さんの言ったとおり、郷くんは私の心臓です。さ、上がりましょう。コーヒー飲みながら、新聞でも読んで」
 歯を磨き、ジャージに着替えて、居間へいく。すでにおトキさんたちが台所を動き回っている。
「おはよう」
「おはようございまーす!」
 トモヨさんが割烹着を着て賄いに混じる。すぐにおトキさんがコーヒーを運んでくる。さっぱりしたからだに熱いコーヒーを入れる。おトキさんの用意した中日スポーツをめくる。早くも二カ月先の開幕投手の予想が載っている。暗記する。
  
中日・小川健太郎
  巨人・金田正一
  阪神・江夏豊
  大洋・平松政次
  サンケイ・河村保彦
  広島・安仁屋宗八

 主人と女将が起きてきた。女将も割烹着を着る。私の母よりも十歳も年上なのに若々しい。彼女を見るたびに、すでに私の内部で殺してしまった浅間下の母の顔を思い出す。その顔とまったく似ていないいまの老い白んだ母の顔も。
「お、早いですね、おはようございます」
「おはようございます」
「トモヨ、ワシにもコーヒー。直人はもう少し寝かせとくから」
「起こしてきます」
 トモヨさんが主人夫婦の離れへいく。 
「開幕の先発予想が載ってました」
「ほう、ふつうはオープン戦のあとに予想するもんやけど、今年は早いですなあ」
「三人、知らないピッチャーがいました。平松、河村、安仁屋」
「どうせ神無月さんに打ちのめされる連中だが、一応知っておいたほうがいいでしょう。平松は三年目の新人、去年五勝したくらいの泣かず飛ばずのピッチャーです。四十年のドラフトで、中日の四位指名を蹴って日石にいき、同じ年の第二回のドラフトで大洋の二位指名を蹴ったのは、浜野と同じ巨人の裏切りのせいです。結局四十一年に大洋に途中入団しました。今年開幕を勤めるなら大抜擢だな。去年の後半に相当伸びたんでしょう」
 コーヒーが出る。うまそうにすすり、
「河村保彦は、昭和三十四年に中日に入団してエース格でやってきたんやが、好不調の波が激しくてね、去年徳武と交換トレードでサンケイにいったんです。十勝も挙げなかったから、これも開幕ピッチャーの予想は意外やな。安仁屋は、プロ野球初の沖縄出身の選手で、甲子園、社会人、広島カープと順調にきてます。サイドスローで、沈むカーブとシュートが武器。去年は二十三勝を挙げました」
「詳しいですね!」
「暇人ですから、新聞ばかり読んでます。どの新聞にもちゃんと目を通します。巨人の堀内は知ってますか?」
「チラッと……」
「入団四年目のエース格です。コンスタントに十勝を挙げるピッチャーで、強肩、百五十キロ、入団した昭和四十一年に新人賞と沢村賞を同時に獲ってます。守備がうまくて、ピッチャーのくせに、バッティングもすごい。おととし、三打席連続ホームランを打ってますからね」
「尾崎のような剛球じゃないということですね」
「そうです、浮いてくるのは同じなんですが、ドスーンじゃありません。合わせればぶっ飛んでいきます。去年被本塁打は三十一本で、リーグナンバーワンでした」
 七時。がやがや女たちが起きてきて、廊下の奥の洗面場が賑わう。十六畳の食卓が埋まっていく。縁側のガラス戸にいって空を見ると、何とも言えない好天気だ。女の一人が寄ってきて、
「鈴鹿山系のほうからフェーン現象いうのがやってきて、きょうは二十度を越えるそうやよ。何やの、フェーン現象って」
「すみません、知りません」
「東大も知らないことがあるんやね」
「東大と言うより、ぼくの場合知らないことのほうが圧倒的に多いです」
「謙遜はあかんがね。ものを知らんで受かる大学やないやろ」
「利口がいくと思われてるから、努力してそこへ潜りこもうとする。そういうバカがいく大学です。ぼくはそのバカの一人。その中でも、人の〈仰せに従って〉いかされた特級のバカです。こんなバカをみんなで寄ってたかって天才と呼んでかわいがってくれる。後ろめたいけど、これほどありがたいことはないと思ってます。ぼくの人生のモットーは恩返し―そのひとことに尽きます。ただし、いまのような英数国理社の質問は厳禁! そういうものでは恩返しできません」
 女がポカンとしたので、やんやの喝采になる。


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