十九

 まだ暗い明け方、首筋に呼気を感じ、目を閉じたまま目覚めた。私の短髪を撫で、耳を咬む。目を開けた。横の薄闇にトモヨさんの微笑が見える。私の胸や腹をさすり、陰部に手を伸ばしてくる。柔らかな暖かい手だ。微妙な力加減で握る。しばらく亀頭に五本の指をかぶせて抓み上げるように愛撫する。すぐに勃起が始まった。トモヨさんは掛蒲団をめくって、満足そうにうなずくと、深く含む。めずらしく大胆なトモヨさんの振舞いがうれしい。顔を上下させるが、いっさい息の音がしない。口を離し、私の乳首を舐める。しばらく沈黙してから、私の顔を見つめながら胸に手を突いて上になり、恥骨を合わせて結び合う。やがて、
「ハン」
 と小さな声を上げた。亀頭が熱い膣壁に包まれた。ハアッと押し殺した声が上がる。いつもより熱い。目を閉じて、トモヨさんの熱だけを感じ取る。トモヨさんはゆっくり陰阜を動かしはじめる。
「走る……」
 少し呼吸が早くなり、動きも速くなる。風が起こるので、掛蒲団をはおったままだとわかった。熱が脈を拍つ。ク、ク、と喉を絞って声を出さないようにしている。直人に気を差しているのだ。
「ハアアア、イッ……」
 達する寸前で動きを止め、腰をかすかに回しながらこらえている。また動きはじめる。
「あ、だめだめ、郷くん、私……イク!」
 私にかぶさらないように、掛蒲団を後ろへ弾いて、両手を私の腹に置き、結合を浅くしたまま陰部をかすかに前後させて痙攣する。熱い膣のどこでこんな快感を感じているのだろう。静かに痙攣し終えると、抜き取ろうとしたので、下から突き上げた。
「あ、郷くん、だめ―」
 囁きに力が入る。尻を抱えて何度も突き上げる。
「ああ、ああ、気持ちいい、あああ、イクイクイク、イク!」
 たまらずかぶさってきて遠慮なく私を抱きしめながら激しく痙攣する。口を求め、舌を挿し入れながら、深く結合して陰阜をぶつける。妊娠している腹に弾力がある。私は上下逆転してトモヨさんを組み敷き、素早くピストンする。薄暗いので表情がわからない。緊縛の度は強く、やはり膣だけが闇の中にあるイメージだ。射精が迫った。亀頭がふくらんだ分摩擦が強まる。
「あああ、郷くん、イクのね、イクのね、いっしょにイキましょ、あああ、電気、走る走る、イク!」
 アクメの発声が極端に短く、そのうえ喉を絞っているので直人は目覚めない。私は子宮深くほとばしらせた。尻を引き寄せ、膣の脈動を亀頭で捉える。熱かった膣が熱湯になって脈打つ。
 雨音がしている。
「……お礼を受け取りすぎました」
 トモヨさんは私からそっと離れ、股間をティシュで拭う。下着をつけてキスをすると、足音を忍ばせて廊下へ出ていった。私を清潔にするタオルを絞りにいったようだ。私はふたたび深く寝入った。
 目覚めると、カーテン越しの窓が明るい。八時前だろう。トモヨさんも直人もいない。枕もとに畳んである下着とジャージを着る。衣桁にかけたブレザーがカーテンレールに吊るしてある。小便をしにいき、歯を磨き、それから長い廊下を伝って母屋へ向かった。廊下の窓から雨脚が見える。厨房と座敷の賑やかな音が聞こえる。直人の甲高い声も聞こえてくる。厨房にいくと、おトキさんに枇杷酒というものでうがいを強いられた。枇杷の葉を焼酎に漬けこんだものだと言う。
「できるだけ長くガラガラやるのが効果的です。殺菌効果抜群なんですよ。明石に少し持っていきます?」
「いや、いいです」
 勝手口から裏へ出て、ガラガラやる。きつい。ベッと吐き出す。これでは歯磨き代わりにはならないだろう。居間へいく。主人夫婦とトモヨさん母子がわいわいやっている。直人がまとわりついてくる。
「よく眠れましたか」
「はい。ぐっすり寝ました。直人、おとうちゃんがそばに寝てたのわかったか?」
 直人はキョトンとする。それからニッコリする。頭の中に言葉を貯めこんで恣意的に発する時期だと女将から教えられているので、どんどん語りかけるようにする。
「座敷にみんないます?」
「いますよ。菅野さんが待ち構えてます。雨の中走るの、だいじょうぶやろか」
「平気平気。薄手の合羽あります?」
「ありますよ。ちょっと派手な色ですけど」
「それでいいです。さ、みんなの顔を見よう」
 私の姿を見て菅野や女たちがざわつき、二間つづきの部屋が一挙に明るくなる。直人がチョーチャン、チョーチャンとあとを追ってくる。抱き上げて頬ずりする。居間から笑いながら主人夫婦が出てくる。おさんどんが始まる。
「神無月さんがおると、家があったかなるわ」
 褒め言葉がかもし出すほどよい緊張がうれしい。私は菅野に、
「合羽着て走りますよ」
 主人のいれたコーヒーを一杯。
「じゃ、走る前に」
 飛島寮に電話をする。母が出た。何かの奇跡で、機嫌のよい応対をしてくれることを願った。空しかった。
「夕方、チラッと顔を出したいんだけど」
「何しにくるの」
「何をしにって、これまでみんなに義捐金いただいたり、励ましてもらったりしたし、口で言えないほどいろいろお世話になったから。この機会に挨拶をしておきたくて」
「何の機会だい。心にもないことを。みんな疲れて帰ってくるんだから、おまえのパーテーなんかやってられないよ。何様だと思ってるの」
 五年前、牛巻病院の節子からの電話に応えて、岡本所長の机の受話器を使ったときと同じ口調だった。ただあのときとちがって腹は立たず、虚しさだけが襲ってきた。
「わかった、みんなによろしく言っておいて」
「よろしく言うことなんかないでしょ。わが道をいきなさい」
 プツリと切れた。電話番号案内で調べて、飛島建設本社に電話をし、内線の大沼所長につないでもらった。二十秒ほどで出た。
「キョウ! どうした、そろそろキャンプの時期だな」
「はい、二月一日からです。夕方から寮のほうへ顔を出そうと思ったんですが、母がけんもほろろで」
 事情を話す。
「そうか、わざわざ連絡ありがとう。季節はわからないが、いずれ席を改めて激励の宴を設けるからね。キョウの気持ちはみんなに伝えておく。おばさんには何も言わんから心配するな」
「すみません」
「何謝ってるんだ。天下の神無月郷だぞ。星になる人間じゃないか。空高く輝いていなさい。地上の人間に気を使うことはない」
「ありがとうございます」
「ありがとうとすみませんばかりだな、キョウは。困ったことがあったら、いつでも電話してこいよ。仕事がなくなったときもな、アハハハハ」
「シロは元気ですか」
「めっきり衰えたなァ。ま、そのときがきたら、きっちり看取ってやるから安心しろ。三木と山崎が結婚した。キョウを呼べないのが残念だって言ってたよ、二人してな」
「飛島さんと佐伯さんが結婚するときは、かならず出席します」
「暇が取れたらそうしてやってくれ。とにかくホームラン王、頼んだぞ。それがキョウの完成形の第一段階だからな」
「はい、ありがとうございます」
「年間予約席は、みんなでせいぜい利用させてもらう。がんばれよ、俺たちの代表選手のつもりでな」
「はい、がんばります。じゃ、失礼します」
 電話を切ると、座が静まっていた。トモヨさんが、
「骨肉相食(は)むとはよく言いますけど、恐ろしいですね」
 菅野が、
「片方だけが食んでるんじゃないんですか?」
「結局、相食んでるんですよ。キョウちゃんはお母さんを愛していないわけだから」
 主人が、
「それは食いつかれたからやろが。ま、しょうがないことやな。考えて解決のつく問題やない」
 女将が、
「お母さんを好きだったころのことををいつも思い出してあげることやね。それで満点の親孝行ですよ。おカネはたっぷりあげたんだし、これからは、どう文句言われることもないわいな」
 主人が口をへの字にして、
「野球で頭がいっぱいなのに、くだらんこと考えてられるかいな。神無月さん、夜は映画でも観てきたらどうですか」
「いえ、ゴロゴロしてます。じゃまにならないように」
「神無月さんはどこにおってもじゃまにならん。台所におってもじゃまにならんわ。なあ、おトキ」
「なります。女の人たちが気もそぞろになるんです」
 女将が身を屈めて笑う。おトキさんがつづけて、
「……神無月さんのお母さんは、子は親を越えられないと神無月さんに言ったと、山口さんから聞きましたが、子に越えられて初めて、親は一人前の立派な人間になれるんです。お母さんはそのことがわかってないようですね。わかっていれば胸を張って生きていけるでしょうに」
 今度はトモヨさんがコーヒーをいれてきた。私は主人に、
「夜は、トルコの見回りについていきたいんですが」
「お、将来菅ちゃんと共同経営するときのためか」
「や、それは。……将来ものを書くときの参考にと思って」
「ええことや。よう見といてください。おやつでも食べたらいってみましょうか」
「よろしくお願いします」
 女将が笑って、
「物好きやねえ。トルコなんて大したものはあれせんよ。女の子がおらなんだら、殺風景なもんや。部屋は覗くわけにいかんしな」
「店内がどういうものか見たいだけですから」
 一人のトルコ嬢が、
「部屋の中にはな、内風呂と、床几と、マットがあるんよ。風呂に入れて、床几に坐らせてチンボ洗って、サックはめて、マットでするんよ。それだけや。あとは受付のフロントと廊下とドアがあるだけ」
 主人が、
「それでも、ものを書く人間は思うところがあるかもしれんやないか。とにかく見えるとこだけでも見といてください」
「そうします。ところでおトキさん、枇杷酒ってどういうものですか。ビリビリしましたけど」
「はい、すごい殺菌力のあるうがい薬で、仕舞湯に垂らすと濁りが取れるほどだって聞いてます。実際にやったことはありませんけど」
「焼酎に枇杷の葉を入れるだけらしいから、暇なときに作っといてください。面倒くさいときに、歯を磨く代わりにしようと思うので」
「わかりました。枇杷なら庭に植わっているのですぐ作れます」
 トモヨさんが、
「キャンプから帰ってくるまでにはできてるわ。でも、歯磨きの代用にしちゃだめですよ」
「そうだね。さ、菅野さん、走ろうか。テレビ塔までいってこよう」
「雨傘で舗道が混雑するし、車道も危ないので、きょうはお城にしましょう」
「オッケー」
 主人が、
「雨でも走るんか」
「風でも走るのと大差ありません。じゃトモヨさん、合羽お願い」
「はい」
 カッパ、カッパ、と直人がついてくる。下駄箱の納戸から取り出したのは、前フックの黄色いビニール合羽だった。主人が、
「それで二人の男が走ったら、人がよけるわ。菅ちゃん、きょうは何日目だい?」
「なんですかそれは。三日坊主と言いたいんでしょう。おあいにくさま。神無月さんがキャンプにいっても走りつづけますよ」
 おトキさんが、
「帰ってきたら、ごはんができてます。うんとお腹をすかせてきてください」


         二十 

 雨脚は強くない。二人で駅前までダッシュ。合羽がガワガワ鳴る。菅野の走る腰つきがたった数日でだいぶサマになってきた。足先もベタベタしていない。
 コンコースの人混みを訝しがられながら徒歩で抜け、桜通に出る。広小路通と同じくらい車はよく通るが、歩道に人はほとんどいない。平べったい高層ビルのつづく道をゆっくり直進する。堀川に出、左折して川沿いを走る。
「県道二百号線です」
「もとタクシー運転手、道なら何でもこいだね」
 立派なギボシの橋があったりする。
「堀川という名がついたのは、名古屋城の外堀を流れているからなの?」
「でしょうね。城を作るための資材運搬のために、お城から熱田の白鳥まで運河を掘削したんですよ。二百五十年も前のことです」
「運転手は歴史にも詳しいね」
「観光案内も兼ねますから」
 住宅街に入った。屋根も庭も濡れている。
「駅の近くなのに、ビル街を抜けると閑静なものだ。名古屋はほんとになつかしい町だね」
「はい、住みつくと離れられなくなるとよく聞きます。あ、城に出ましたよ」
 城の敷地のほうへ渡る道がないので、右折して歩道橋まで走る。長い歩道橋を走り渡って反対側の舗道へ出、城へ通じる道を見つけるために名城公園に沿って歩きはじめる。
「あの平屋の建物が、能楽堂です」
「能は興味ないな。しかしこのあたりは別世界ですね。庶民が馴染める空間じゃない」
「私もこの中の建物のどの一つにも入ったことがないんですよ。人を近づけない雰囲気がありますから。能ってそういうものなんでしょうね。歌舞伎もそうです」
「その二つは学問です。象牙の塔の人びとの研究物です」
「学問ならしょうがないですね。学者にまかせときましょう。着きました。名古屋城の本丸です。桜の季節にきたでしょう」
 城は見えない。
「そうだった。正門のこの橋を渡って入ったっけね。堀の桜が満開だった」
「はい、そろそろ三年になります。さあ、引き返しましょう」
 徒歩で戻りはじめる。
「いまの、神無月郷じゃない?」
 すれちがった二人組の男が言う。
「神無月って、あのドラゴンズの?」
 声から早足で遠ざかる。菅野に、
「トルコって、東京からきたんでしょう?」
「はい。吉原が最初です」
「ヤクザが経営することがないのはなぜなんだろう」
 よく訊いてくれたという顔で、
「私も研究しました。ヤクザは上前をはねるのが商売だというのが基本なんです。ヤクザが風俗営業を警察への届出する時点で、まずハネられます。次に、うまく届出できたとしても、金銭管理、マーケティング能力が要求される宣伝や広告、対人スキルの必要な従業員の募集と教育、といった業務内容が煩雑かつ複雑で、仕事量が膨大なんですよ。細かいことの嫌いなヤクザはそんな面倒くさいことはやりたがりません。つまり、経営は一般人にさせておき、毎月一定額のショバ代を徴収するというラクな方法をとるわけです。松葉さんは、その方法を北村にかぎってザルにしてくれたわけです」
「なるほどなあ。社会の面倒な努力はカタギにまかせて、そのおこぼれをいただくということか。ヤクザも生きていかなくちゃいけないものね。そして、その面倒から起こるトラブルは引き受けてやる。ヒモとしておこぼれをいただく代わりに、ある意味、命を捧げるわけだ。餌をいただく犬のように忠実で、美しいね。生き方として極限に近い魅力がある」
「美しいかどうかは、感じ方しだいでしょうが、一般の企業よりは悪質ではないですね。暴力は絶対的な権威ですから、姑息なことをする必要がありません。男らしい生きかたと言えば言えます。そこに松葉さんのように情が加わったら、やっぱり美しく感じます。神無月さんは暴力的な人じゃありませんが、松葉さんが神無月さんに肩入れする気持ちの底には、同類を感じるという共感があるでしょう。神無月さんは他人のために命を捨ててますから」
 引き返す前に、いかめしい官庁街を一周する。
「ところで、客が風呂とマッサージだけを望んでるとか、女のほうがやりたくないとかいうことはあるんでしょう?」
「はい。だから、入浴・マッサージ料と、サービス料は別になってるんです。合法的な店では性行為は禁止となってますから、あくまでもトルコ嬢の意思で客とセックスするということになってます。断ることもできるわけです。セックスを本番と言いますが、本番料金はだいたい三千円の入浴料の二倍から三倍です」
「店の中はきょう見にいくとして、女が〈する〉ことをもっと詳しく教えてください」
 走りながらの奇妙な会話だ。
「キス、お触り、尺八、すべて交渉しだいでOKの店が増えてますが、うちは旦那さんの強い意向で禁止してます。赤線、青線上がりの女はそういうことを嫌うんです。病気の源(もと)にもなりますしね。うちの最上限は、サックをかぶせた本番のみです」
「病気の女の人もいたって話だけど」
「めちゃくちゃ遊んでた素人女を見抜くのは難しいんです。まじめそうだから、つい雇っちゃったんですよ。面接にはもっと神経を使わないとだめですね。法子さんなんか一見遊び人に見えたけど、とんでもなくまじめな人でしたもんね。もともと北村にいた子は定期的な検診を受けてるので、性病に罹ってないと保証できます。性格もまじめで、客とのあいだにトラブルを起こしたこともありません」
「店にきた客はどういう手順を踏むの?」
「まず受付で入浴料を払います。トルコ嬢をアルバムメニューから選び、迎えにきたその子に個室に案内されて、入浴以上の要求があれば本番開始です。もちろん本番前にいっしょに内風呂に入ってもいいです。風呂から上がると、裸の女が空気マットの上で、泡だらけのからだで洗ってくれるサービスもあります。泡踊りと言います。泡を流したあとサックをつけて本番です」
「型どおりで味気ないね。何の会話もなさそうだし」
「ふつうの男はそれで大満足なんです。神無月さんみたいな、ふだん愛情こめて女を相手にしてる男はトルコなんかいきません」
「人間を真に卓越したものにするのは精力だってデュマが書いてるけど、何だかぼくの場合、意味をはきちがえてるようで恥ずかしいな。精力というのは、豪胆で溌溂とした精神という意味だろうね。……菅野さんは、この仕事に精力を注いでる?」
「はい。何て言うんですかね、世間から白い目で見られる特殊な世界の人間のほうが、ふつうの人間より何倍も努力してることがわかりましたからね。羽衣とシャトー鯱の店長の勤勉さと忙しさは尋常じゃありません。そこを学んでます。すごい充実感ですよ」
 松葉会が送りこんだ店長と、菅野と、はたしてそのどちらに感心していいかわからなかった。少し菅野の速度がゆるむ。
「しゃべって走ってたら、疲れちゃいました」
 私は笑い、少し菅野を引き離すように走りだした。
 大学の時計塔のようなものを突き出した建物を指差して振り返ると、懸命に追いついてきた菅野が、市役所、と答えた。その横の、ビルに城郭が載ったような建物を指差すと、県庁です、と答える。県庁舎の裏手にある、やや明るい色合の刑務所ふうのレンガの高塀を指差すと、
「県立図書館です」
 物知りに囲まれて暮らすことの幸福を感じた。それからも菅野は私の背中に、名城病院、国土交通省、法務局、裁判所、中日新聞社といちいち声を投げる。中日新聞社は横長の巨大なビルだった。
「外堀通りです。これを走って帰りますよ」
「オッケー」
 しばらく走って堀川に突き当たり、左折して、五条橋に出る。さっきチラリと横目に見たギボシのある橋だ。大瀬子橋の堀川とはちがうきれいな水が流れている。トタン屋根の家も雑じりはじめた。傘がいきすがる。いい風情だ。
「めずらしいな。むかしふうの商店街がある。歩きましょう」
 円頓寺(えんどうじ)商店街と看板が出ている。一度カズちゃんときたことがある。二十年も三十年も手を加えられていない感じの商店が並んでいる。マツバという喫茶店の前で立ち止まり、
「いい感じだ。きょうの休憩場所はここ。自家焙煎の店、まつば」
 八坂荘のような奥まった敷地にガラス戸を向けている老舗ふうの店だ。Lの字に折れた建物の構えだ。玄関ドアを入るとすぐ、木彫りのレリーフを枠にした時計が掛っていて、奥行きのある店内に、ソファを向き合わせた長テーブルが二脚。時計もテーブルも古びている。客は地元の人らしい老人夫婦。並べた徳利のように肩寄せて静かにコーヒーを飲んでいる。合羽を脱いで畳み、男が静かに立ち動いているカウンター席に二人で坐ると、二十代の女がやってきて、
「合羽、ここに吊るしておきますね」
 私たちから受け取って入口のフックに吊るす。注文を尋く。
「コーヒーください。古くていい店ですね」
「昭和八年創業です。当時、栄に満(ま)つ葉という小倉トーストを発明した喫茶店がありまして、義父がそこで十年間修業したあと、暖簾分けをさせていただいたそうです。本店の〈ま〉は、満点の満です。ここを開店して四年後にここのオーナーである私の夫が生まれたんですが、おととし義父が引退して夫が代を継ぎました」
 カウンターの男が頭を下げる。小倉トーストも注文する。男がサイフォンでコーヒーをいれる。コーヒーより先に女が小倉トーストをもってくる。男が言う。
「八高、いまの名古屋大学ですね、そこの学生さんがバタートーストとぜんざいを注文して、ぜんざいに浸して食べたのが最初だそうです」
 直伝の小倉トーストはじつに美味だった。切り揃えたパンに餡を挟んだだけの素朴なものだったが、甘みがまろやかで食べやすかった。男は、二人の前に麗々しくコーヒーの器を置いた。コーヒーの味は上品でコクがあった。神妙にすすっている菅野に、
「栄の満つ葉って知ってます?」
 菅野に訊くと、
「はい、女将さんの口からときどき聞いたことがあります。私はいったことはありません」
 マスターが、
「いらしてみてください。ぜんざいが有名ですよ。……合羽を着てらっしゃったのは、お二人でランニングか何か」
「はあ、二人とも走るのが趣味で、毎日コースを変えて走ってるんです」
 マスターがじっと私を見て、
「もしや、中日ドラゴンズの……」
 畏敬をこめた眼差しを向ける。
「ああ、よくまちがわれるんですよ。神無月という選手によく似ているらしくて。光栄です。じゃ、菅野さん、いきましょうか。ごちそうさま」
 金を払い、合羽を着てドアを押す。
「ありがとうございました!」
 走り出す。菅野が、
「その顔、まちがえようがないですよ。気づかれてました。だんだん世間が狭くなっていきますね」
「うれしいんですけど、立ち止まっていられないこともありますから」
 多くの人が見られたがっている。何を見せたいのだろう。慰めてもらい、わかってもらうために、自分を見せる人たち。なぜ人は自分を語るのだろう。全体が部分を決める。全体が私という部分を決める。世界が無限だったら、人は顕別されるだろうか。
「神無月さんの人生って、世間に挑んできた闘争の歴史ですね。驚いちゃうのは、それに喜びを感じてるところです」
「―カズちゃんと暮らす家、完成が楽しみだな」
「着々と進んでますよ。あと二カ月くらいかな。アイリスと同時ぐらいにでき上がるでしょう。完成祝いは派手にやりたいですね」
「やりましょう。ちょうど開幕前だ」
「菅野さん、ぼくの大好きな女を知っておいてもらえますか。まだトモヨさんにしか言ってませんが、菅野さんには知っておいてもらう必要があると思いますから」
「当てさせてください」
「はい」
「ダントツで和子お嬢さん」
「はい」
「雛壇を一段降りて、トモヨ奥さん」
「はい」
「次の段に素ちゃん」
「はい」
「そこから先はわかりません。四段目にズラリでしょう」
「じつは、カズちゃんと同じ段にみんないるんです。ただ、カズちゃんの両脇に、トモヨさんと素子と鈴木睦子と中島秀子がいます。鈴木睦子はこの三月に、中島秀子は来年の三月に名古屋にきます」
「楽しみだなあ。節子さんや吉永さんたちも、脇へつながっていくんですね」
「はい。魂のレベルが同じ雛壇に並んでいます」


         二十一

 大通りを渡るとまだ商店街のつづきだ。バイクや自動車も通るほど広い。そして長い。五百メートルはある。店の種類も多い。ようやく抜けて那古野に出た。市電道。
「ここに出るのか! なるほどなあ」
「楽しかったでしょう」
「うん、スパート!」
 信号を渡ってダッシュする。菅野も必死にラストスパートをかけながらついてきた。この道を通って、則武のガードをくぐり、浅野の家へ帰ったことが何度かあった。もしあのままだったら、つまり、節子との現場が浅野に見つかっていなかったら私はどうなっていただろう。たぶんだらだらとあの炭屋に居つづけ、あの二階の部屋から高校を受けにいく破目になり、たぶん旭丘か明和にいって、たぶんいろんな連中に勉強を強いられ、まちがいなく野球から遠ざかり、まちがいなくコソコソ母の目を盗んでカズちゃんや節子と付き合い、たぶん二人に慰められながら二人と逢瀬を重ねていただろう。それから?
 ―クソッタレ! いまの生活から野球を抜いただけじゃないか。
 要するに、青森高校のグランドに入りこまなかったら、私は学歴という単なる肩書作りの、律義な、しかも淫蕩な生活を送っていた男だったということだ。クソッタレ! もう一度野球を始めていなかったら、私は母とも縁を切れなかっただろう。成功と上昇。母がどうの、浅野がどうのではない。私はがんらいそういう人間だったのだ。
 野球が近寄ってこなかった幼い時代、私を象徴するものは何だったろう。母恋しの無明の闇。あれが原型だ。闇を引きずり、野球に巡り合った。闇の時代に遠くかすかに点っていた灯、それに巡り合った。見つけた明かりは私の象徴でもなければ、原型でもない。たまさか見出した才能と関係のないもの、それこそ私の象徴であり原型だった。
 コンコースを歩いて抜ける。ようやく追いついた菅野がゼイゼイやっている。黄色い二人連れを人がよける。
「あしたが最後ですね。嘘じゃなく、神無月さんがキャンプにいっても私は走りつづけますよ」
「がんばって。ぼくも自分の才能を燃やし尽くしますから」
「……燃やし尽くすなんて不吉なことを」
「本来の自分に立ち返って〈同じ土俵〉でみんなと競争するんです。それこそほんとうの競争です。でも才能だけで戦っていいなんてのは、ハンデをもらってるようなもんだ。みんなもっと深い事情を抱えたうえで、それを処理して、さて才能という順番なのに」
「ハンデと言うんですか、それ? ハンデというのは能力の足りない人がもらうものでしょう。もらったからって勝てるわけでもない人がもらうものでしょう」
「そういう意味のハンデじゃないんです。せっかく持ってる才能をチームの方針で摘まれてしまう選手が大半の中で、何のじゃまもされずに才能を発揮できることを、その人たちに対するハンデと言ってるんです」
「そういう妨害にも拘らず、力を余してる人が持ってるものを才能と言うんじゃないですか? そういうこと言うとき、神無月さんは申しわけなさそうな目をするんですよ。本気の目なのがつらい。神無月さんぐらい事情を抱えている人はありませんよ。それこそ、さてようやく才能を使わせてもらいますか、という人生でしょう。どれほど才能があったって、引け目に思うことはありません。ようやく使えるんですから、思う存分発揮してください。力の余ってる人は、力を余している人たちのあいだで競争するべきです。才能のあることを本来の自分じゃないと言うなら、才能ある人の立つ瀬はどこにあるんですか。無理やりふつうの人に戻らないといけないんですか。いくらふつうの人でも、そこまでの平等は望んでませんよ。だいたい〈同じ土俵〉って何のことですか。ずっと同じ土俵でやってきたでしょう。そこで弱い者を投げ飛ばして、いま強い者同士でぶつかり合ってるんじゃないですか。一度投げ飛ばした者に気を使う必要はさらさらないですよ。勝ち進んでください。神無月さんは、自分が大器であることを秘密にするのが弱い人のためだと思ってます。でも自分が何者であるかを秘密にしてはいけないんです! ほんとうは!」
「菅野さんはいい人だね。ぼくもいい人かな」
「いいえ、ちがいます。最高の人です。神無月さんは前を見ています。未来の可能性を信じている人です。逆境をバネに生きてきた人ですからね。神無月さんは苦難を乗り越えて未来をつかんだ人です。こんな言葉じゃ足りない。私もみんなもそう思ってます。……できるなら、人生をだれかと取り換えたいですか?」
「とんでもない。すべてがあって、いまのぼくがある」
「でしょ? 私は神無月さんの味方です。いっしょに未来を歩むつもりでいます」
「―うれしいな」
「しゃべってる私のほうがうれしいです」
「エセ哲学で自分を見つめ直す時間よりも、はるかに大切なことを聞かせてもらいました。ありがとう」
「どういたしまして。しゃべるのはこれで終わりじゃありません。私はいつも、しゃべってる途中です」
「うん、いっしょに未来を歩むからね」
「はい。神無月さんは人の忠誠心を確かめるほど傲慢な気持ちになる人ではありませんけど、忠誠を誓います。……神無月さんの感傷や謙遜も好きです。でも、人から誤解を受ける神無月さんを憐れみたくない。尊敬したいんです」
 象徴でも原型でもない、たかが野球。私は自分や世の中を変えようとして野球をやってきたのではない。私がホームランを打とうと打つまいと、自分も世の中も何も変わらない。そう考える人間であったことが、ただうれしい。そこまで考えるのに、なぜ野球をやるのか。たかが野球なのに。それは、たとえ自分や世の中を変える力がなくても、無明の闇から抜けてようやく巡り合ったなけなしの才能は〈たかが私〉を包みこむ無限の宇宙だからだ。
 一時半に北村席の門に到着。
「走ったね!」
「走りました! マツバの休憩を省いたら、一時間二十分くらいは走りました」
 雨と汗でビッショリだ。玄関を入ると、餅の焼けるにおいがした。トモヨさんが、
「遅いから心配したわ。合羽もジャージもぜんぶ脱いで」
 カッパ、カッパ、とまた直人がまとわりつく。
「役人街を見物して、マツバという喫茶店にも寄っちゃった。小倉トーストを食べた」
 女将が聞きつけて、
「栄の満つ葉、若いころよくいったわ。耕三さんともよくいった」
 主人が、
「そうやったかな。小倉を食ったのはボンボンやなかったか。赤いソファの。よう見合いに利用されとったやろ。まだテレビ塔ができとらんころや」
「そんな名前聞いたことないわ。ほかの人といったんやないの」
「藪蛇ですね、お父さん。栄の満つ葉じゃなく、名古屋城のほうの暖簾分けした店です」
 女将が、
「そう? 知らんわね」
「神無月さん、シャワー、シャワー。やあ、きょうは走った!」
 菅野がはしゃぐ。風呂場へ直行。
 昼めしは力うどんだった。餅を五つ食った。
 名古屋にきて、机からすっかり離れている。本と原稿用紙に触れていない。かすかな焦りがある。家の内に仕事の気配がただよいはじめたので、座敷に横たわって昼寝。
         †      
 目を覚ますと、雨が目に見えるか見えないほどの小降りになっている。空は晴れ上がっている。主人夫婦と菅野が居間で茶を飲んでいる。ガラス戸の上方に薄い虹が見えた。
「直人!」
「はーい!」
 トモヨさんが抱いてきた。
「虹だ、虹」
 トモヨさんと三人で見上げる。直人は、ニジ、と発音できないようで、私の指差す方向を美しい目で黙って見つめている。
「薄いけど、きれい。虹を見るのなんて、ほんとにひさしぶり」
「この子は虹よりもきれいだ。こんな美しい子が生まれるとはね。いつもトモヨさんは全力だから、全力の作品ができる」
「フフ……。さ、歯を磨いてきてください」
 歯を磨き、玄関に出て、直人を呼ぶ。
「散歩するよ」
 チョコチョコやってきた直人を片腕に抱いて、男物の大きな蝙蝠傘を差す。
「私もいきます」
 菅野もでてきた。傘にあたるかすかな雨音が涼しい。トモヨさんが見送る。
「よく見て、よく聴くんだぞ。ふるさとなんだからね」
 直人はただうなずく。言葉の意味はわからないだろう。庭を過ぎ、門を出て、雨に濡れた蜘蛛の巣通りを歩く。土の道、人の声、足音。ポツポツと建ちはじめた四角いビルが濡れて光っている。アスファルトの道、車の音。路上に立ちん坊も牛太郎もいない。
 傘をすぼめ、名古屋駅のコンコースに入る。人びとのざわめき、アナウンスの声、改札の鋏の音。直人は片手を私の首に回し、静かに腕に乗っている。正面玄関に出る。菅野が説明する。
「昭和十二年に建てられた三代目の駅舎です。玄関は東に向いています」
 駅舎の壁時計を見上げながら、ふたたび傘を広げる。騒々しい車の音、人声、市電の音。桜通交差点。浄心行の市電が駅前広場の広大な空間を横切る。見慣れた系統番号11が小学生の胸の名札のように見える。
「たしか昭和三十年前後でしたか、この青年像が造られたのは」
「青年都市名古屋のシンボルだね」
「はい」
 線路の向こうに大噴水。青年像の右手を見ると、名鉄百貨店に軒を連ねて近鉄ビル、名鉄バスターミナルビル。名鉄百貨店に向かい合って毎日ビル、豊田ビル。噴水の左には大名古屋ビルヂング、東洋ビルが連なる。すべて高さが揃っていて、均整の取れたスカイラインを作っている。毎日ビルの腹から三和銀行、名古屋大映、三菱銀行の看板が突き出している。直人がじっと見つめる。
 笹島の交差点に向かって歩き出す。直人が私におちょうちゃんと呼びかける。
「ん?」
 私の唇をいじり、傘の軸を握る。呼びかけただけのようだ。笑いかける。系統番号3の二輛連接車をひさしぶりに目撃する。トヨタコロナのタクシー、クマさんのダンプカーと同じ型のいすゞトラックが交差点の景観に褪せた文明の色を添える。
 笹島のガードをくぐり、太閤通から竹橋町の住宅街に入って息をつく。牧野公園。北村席の大屋敷が緑に囲まれている。門を入り、直人を下ろし、三人で小池の縁にしゃがみこんで、しばらく金魚を見つめる。細かい雨滴の下を快適そうに泳いでいる。菅野が、
「鯉ではなく金魚なのがホッとしますね」
「金魚もここまで大きくなるんだね」
「フナを観賞用に改造したのが金魚ですから、もともと巨大化する遺伝子を持ってるんですよ」
「お帰りなさい」
 傘を差したトモヨさんが玄関から出てきた。池の端まできて、
「みんなで金魚を見てたのね」
「うん、餌をやらなくていいのかな」
「キギョ、キギョ」
「一年じゅう池の中にミジンコがいますし、水面に落ちた小虫や岩のコケを食べたりもして、あまり人工の餌はやらなくていいんですよ。それでもお義父さんがときどきあげてますけど。ほんの少しだけパン屑やお麩を、一週間にいっぺんくらい。直人、楽しかった?」
 コクリとうなずく。
「眼をキラキラさせてた。ほんとにおとなしい子だ」
 三間つづきの座敷に夕暮れが迫り、二間に蛍光灯が点された。夕食になった。
「馬サシはおかずにならないので、適当につまんでくださいね」
 おトキさんが食卓に声をかける。白い陶器の皿の上に手際よく大きなレタスの葉を敷いて、それに濃い赤色をした馬肉の刺身が並べられている。五皿もある。ひさしぶりに主人と菅野が酌み交わす。女たちが大喜びで肉をつまむ。主人が、
「神無月さん、食べなさい。疲労回復に抜群に効きますよ。ビタミンも豊富です」
「馬の肉ですか、生まれて初めて見ました。あの目を思い出すとかわいそうだな」
「そんなこと言っとったら、牛も豚も食えんようになりますよ。これ、直人、食ったらあかん。腹下すぞ」
 賄いたちがどんどんおかずを運び入れる。メダイの海鮮鍋、カリフラワーとブロッコリーのぶつ切り、モンゴウイカの天麩羅、白菜と豚肉のシチュー、生ワカメの刺身、菜の花のおひたし、ポンカンとイチゴのザル盛り。私はおトキさんに訊いた。
「毎日これだけのものを買出しするのはたいへんでしょう」
「おやつの買出しはときどきいきますけど、一日の食材はほとんど、お付き合いのあるお店に電話で注文して届けてもらいます。向こうから御用聞きの電話もよくきます。馬サシも食べてくださいよ。ほんとにからだにいいですから」
 一切れ含んで、味わわずに飲みこんだ。少し頭痛がした。
「神無月さん、箸が止まっとるがね」
 女たちに睨まれ、笑いでごまかす。
「へんなヒューマニズムじゃなく、ほんとに頭痛がしてきちゃって」
「やわい神経やなあ」
「繊細と言ってほしいな。お父さん、めしがすんだらトルコ見学ですよ」
「おいきた。八時ごろ菅ちゃんに乗っけてってもらいましょう。羽衣だけでええでしょう」
 杯を含みながら、直人の横顔に向かって唄いだす。

  お馬の親子は
  なかよしこよし
  いつでもいっしょに
  ポックリポックリ歩く
  お馬のかあさん
  やさしいかあさん
  仔馬を見ながら
  ポックリポックリ歩く

「そんな声聴いたら、食べれんようになるわ」


         二十二

 食事を終え、背広に着替えた主人と菅野といっしょにクラウンでいく。私はワイシャツにブレザーの下ズボン、下駄を履いた。眼鏡をかける。菅野が、
「小説の構想があるんですか」 
「客とトルコ嬢との悲恋という形がボンヤリと……」
 主人が、
「悲恋やなく、神無月さんとトモヨや素子が地でいっとるような、シアワセな恋愛を書けばいいんでないの?」
「悲惨なものにしたいんです。トルコ嬢にヒモがいる、ヒモが借金をしている、身内のしがらみにも苦しめられている、そこへイワクありげでさびしそうな客がやってくる、そいつは何かの事情で死のうとしている……。いや、俗だな。やめとこう。つまらないくせに難しい」
 主人と菅野は愉快そうに笑った。
「とにかくじっくり店を見てください」
 羽衣の駐車場に車を停め、装飾ネオンのきらびやかな写真看板の前にくる。壁のガラスケースの中に十枚ほど鋲で留めてある。
「美人ぞろいですね」
 主人は笑い、
「路上の呼びこみはしませんので、写真で釣るしかないんですわ。ほとんど修整してあります。看板に偽りありですな」
「ああ、これ千鶴ちゃんですね。ダントツにきれいだ。これは調整してないでしょう」
「もちろんしてます。このあいだ実物に会ったでしょ? スッピンは素子のほうがずっときれいですよ」
 両開きのガラスドアを押して入る。待合のソファに七、八人の客が、雑誌や店のアルバムをぺらぺらやりながら、自分の整理券番号が呼ばれるのを待っている。ほかの客と顔を合わせないようにしているが、街頭で牛太郎に声をかけられているときの後ろめたそうな様子よりはずっと健全な感じがする。店内も明るく、淫靡なしつらえでない。菅野が、
「いらっしゃいませ」
 と客たちに辞儀をする。目を上げる者も挨拶を返す者もいない。鈴(リン)を置いた丈の低い番台の背後にスッと立った青年が、
「いらっしゃいませー! あ、社長、専務、ごくろうさまです」
 そう言ってすぐに待合の空間に出てきた。
「こちらさんが、ものを書く参考に店内の具合を見学したいと言うんでな」
「は、そうですか。私、店長の丸谷と申します」
 私に挨拶する。ソファの後ろから廊下の壁一面にかけて整然と女の写真が並んでいる。まるで映画館の回廊だ。
「ひょっとして、こちらがいつも社長がおっしゃってる神無月さんですか! 噂のとおり、すごい美男子ですね」
 主人が唇に指を当てる。客たちが一瞬訝しげな表情をしたが、すぐにうつむいた。
「客できたんやないから、〈まじめ〉に一回りして、店内を見せてあげてくれ。空いてる部屋もちゃんと見せてあげるようにな。専務、備品の見回りよろしく。廊下と室内のトイレ、それから照明もね」
「はい」
 専務と呼ばれた菅野は、赤い絨毯の敷いてある廊下をゆっくり歩きながら、足もとを見たり、消火栓を確かめたり、天井を見上げたりする。空き部屋に入り、しばらくして出てくると、廊下の突き当りを曲がっていった。私はソファの前のコーヒーテーブルに置いてあるアルバムを手に取った。一人ひとりの女の写真の下に、年齢、出身県、血液型、星座などが書いてある。
 ―ほとんど嘘だろう。笑顔が明るすぎて悲しい。
「丸谷くん、きょうは応募があったかね」
「二名ほど。あしたの三時を指定しました。よろしくお願いします」
「うん。ちょっと石井くんと帳簿を見てくる」
 主人は丸谷と私に挙手し、番台の背後の事務室のようなところに入っていった。
「蘭さんをご指名の5番のお客さま、ご案内いたします」
 スーツを着た若いボーイが待合のソファやってきて頭を下げると、灰色の作業着の男が雑誌を置いて立ち上がった。カウンターを中心に廊下が二手に別れていて、左のほうへ連れられていく。丸谷は私を番台の中へ誘い、
「松葉の牧原さんに大須のパチンコ屋から引いてもらいました。お会いできて光栄です」
「あなたはワカの知り合いですか」 
「知り合いと言うほどの者じゃありません。グレてたころ、たまたまある店で若頭にからんで、寺田執行にこっぴどくカツを入れられたことがあります。組には誘ってもらえませんでしたが、それがきっかけで、何くれとなくかわいがってもらってます。こうして定職に就けたのも若頭のおかげです。寺田執行の弟さんと神無月さんとの話は有名です。執行が泣いて話すのにはビンビンきましたよ。こうしてお会いして、ヤクザも惚れるという話はほんとうだと実感しました。社長が神無月さんの贔屓筋だということを自慢できないのが残念です。ここの従業員全員、牧原さんに堅く口止めされてますんで」
 そう言うと、主人が入っていった番台の奥の事務室に引っこみ、一人の青年を連れてきた。
「初めまして、チーフの石井です。ぶしつけですが、握手してください」
 きちんと握手する。
「ひょォ! 硬い。一生忘れられない感触だ」
「マメだらけですから」
「貴重なマメに触らせていただいて、ありがとうございました。店内をご案内します。どうぞこちらへ」
 彼といっしょに右の廊下へ歩み出す。天井にスポットライトのような桃色の灯りが並んでいる。
「火災の場合に備えて、二階のない造りになってます。廊下が二筋あって、右の廊下の左右に五室ずつ、左の廊下の左右に五室ずつ、計二十室。カウンターの後ろは、執務室と従業員の休憩室です。女性スタッフは休憩室から左右の奥の廊下へ出て、各室に入ることになってます。彼女たちは時間を区切った交代制で、休憩室に常時二十名待機するようスケジュールを組んであります」
 空き部屋を開けて入る。脱衣棚、廊下側に換気扇、トイレ、適度に明るい蛍光灯。二人ほど浸かれるタブ式の風呂、手桶、マット、真ん中が欠けた妙な形をした椅子。私がそれをじっと見ていると、
「あれは別名スケベ椅子と言って、もともと痔の患者用の医療器具です。女性スタッフが後ろに回って、肛門やムスコを洗います。それからそのマットへ。あとはご想像のとおりです。ゴムかぶせて、一発やって、サック外してあの箱に捨てて、もう一度スケベ椅子でムスコを洗って終わり。四十五分を越えたり、もう一発やりたい場合は、延長料金を同じだけ払うことになります」
 予想どおり情緒のにおいがしない。この部屋には生殖器しかない。一度なら好奇心からということもあるだろうが、何度もかよってくる神経は壊れている。女には逼迫した事情があるのがほとんどだから、こういう部屋で時間をすごすこともうなずける。しかし、男には何の事情もない。
「モテそうな男もくることはあるんですか?」
「こないですね。モテないから、面倒くさい恋愛じみたことをしないで、すぐヤレる場所にくる」
 私は笑いながら、
「たしかに恋愛じみたことのほうが面倒くさいけど、幸せになれます。幸せを手に入れるのは面倒くさいものですよ。それに気づかない人たちが、金を払って、こういう情緒のない場所にセックスをしにくる。むろん彼らもそれを幸福だとは思ってないでしょう。人間らしい面倒くささを嫌うというのは、無力感に神経をやられてるからです。無力感に神経をやられると、手軽な安らぎを求める。それなりに快適になれればいいってね。犬の散歩をしたり、落ち葉を焚いたり、盆栽をいじったり、お寺巡りをしたり、こういう場所にセックスしにきたりしてね。でも、人間なんて詰まるところ、ささやかな快適さを求める無力な存在です。ほとんどの人間は手軽なことで愉快になれる。そういう人を軽蔑しちゃいけない。肩を抱いてやらなきゃいけない。どんなに面倒くさくても、希望を持って生きるというほんとうの幸福に気づかせてやるためにね。こういう仕事は、肩を抱いてやる仕事です。そういう大きな志を持っていないと、仕事にジツがこもらない」
「神無月さんのような成功者で、女にモテモテで、せこいものをせこいと、まともな理屈を語れる身分の人は、ここにくるような男には夢のような存在ですよ」
 菅野が顔を覗かせた。
「すみません、聞こえてました。石井くんは、社長や店長からチラリと噂を聞いて、神無月さんのことをそういう夢のような男だと思ってたみたいだね。実際会ってみて、夢なんかと関係のないとんでもない変人だとわかったはずです。たしかにきみの言うとおり、神無月さんが好き勝手に語る内容は夢みたいだし、理想です。しかしね、神無月さんが夢や理想を語ってくれなければ、私たちは損をすると思うよ。この才能や可能性や生まれながらのカリスマ性を発揮してもらわないと、私たちは大損する。神無月さんはたしかに自由に夢や理想を語る。幸せそうな顔でね。でも、これっぽっちも幸せじゃない。自分の幸福よりも大きな使命を背負ってるからなんだ。大勢の人を幸せにするという使命をね。だから神無月さんに語ってもらうと、私たちはものすごい得をする」
 石井はさっき握手した掌を見つめた。
「失礼なことを言ってすみませんでした。……千鶴さんが、人間の感じがしなかったと言ってましたけど、同感です。肩を抱いてやる……ですね。気を引き締めて仕事をします」
 従業員の休憩所にいくと、二人の黒背広が大きなソファに座って、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。テレビ、雀卓を配置した小ぎれいな一角で、彼らもスーツにきちんと身を固めていた。私を見ると、ザッと立ち上がり、二人揃って角張った辞儀をした。
「神無月さん、いらっしゃいまし!」
「ぼくを知ってるんですか?」
 かすかに見覚えのある角刈りが、
「何度か組でお会いしましたし、事務所の写真でもいつも拝見しております」
「そうですか。ありがとうございます。お二人は、この店で起きた問題の処理をするんですね」
「は、それもありますが、北村席さんのほうで何かあったときも、シャトー鯱の二人といっしょに駆けつけることになっております」
「そんなことまで……。ありがとうございます。入団式のときも、ほんとにありがとうございました」
「いや、あれは宇賀神さん関係の人たちで固めてましたから、私どもはタッチしとりません。この先は、明石のホテルにも、東京のほうにも、神無月さんがいく先々に、私どももかならず何名かつくことになっとります。ご安心ください」
「ほんとに心から感謝しています。精いっぱいがんばります。若頭さんと寺田執行さんによろしくお伝えください」
「ハ! 今後のご活躍を心から祈っとります」
「ありがとうございます。じゃ、ぼくはちょっと見学にきただけなので、帰ります」
「ご苦労さんでした! 失礼します!」
 もう一度深く礼をした。
 廊下へ出ると、菅野は満足げにニコニコし、石井は頬を青白くしていた。
「すごいなあ、あんな挨拶をされたこと一度もありませんよ。あたりまえですけど」
 店長の丸谷がやってきて、
「すみません、女性スタッフの仕事ぶりはお見せするわけにいきませんので」
 誠実そうに笑う。待合の客がほとんど顔をちがえて十人ほどに増えている。短い時間に七、八人捌(は)けてしまったようだ。菅野が笑って、
「神無月さんは女の〈仕事〉は見飽きてるからね。それに、覗かれたらお客さんが怒ります。どうですか、シンプルなものだったでしょう」
「はい、極力情緒を削ぎ落とそうとしてることがわかりました。客の気質が少しずつ変わってきたんでしょうね。女の人が青線のころとちがってきた点はありますか」
「若返りです。四十代から上の人は、ほとんど飲み屋系統の仕事に鞍替えしました。トルコの女子従業員は十中八九、二十代か三十代です。それから、むかしは黙って寝そべっていればいいだけだったのが、いまはきちんと客に話しかけ、せっせと立ち働かないと商売になりません。女がまじめな仕事人になりました」
 主人が出てきた。丸谷に、
「十時以降の帳簿は、あしたの午前に見るよ。好調だね」
「は、ありがとうございます」
 菅野が、
「掃除もよく行き届いてます。女の子の管理も問題ありません」
「この調子でお願いね。夏のボーナスは弾むよ」
「は! きょうは神無月さんにお会いできて光栄でした」
 石井が、
「俺もです。詰めの組員さんたちが最敬礼したのに感動しました」
 主人が、
「口外したらあかんよ。マスコミは怖いからね。ここにはこんかった?」
「まったく気配はありません。ときどき松葉さんの配下が近辺を見回ってくれてます」
「ありがたいな。あの人たちにいい食事出したってな。で、稼ぎ頭はやっぱり千鶴やな」
「はあ、三人中二人は延長です。回転は悪いんですが、稼ぎはでかいです」
「ほかの子も、よう教育してな。千鶴も二、三年したら引退やで。あしたの面接、いっしょに出てや」
「はい、菅野さん、いつもの眼力でお願いします」
「なんとかね」
 スーツの若者たちがバラバラ出てきて、からだを折る。守衛や掃除婦のような老人も混じっている。北村席で顔見知りの女も二、三人出てきて、
「神無月さん、一度でええからお客さんできてや」
「たぶんこないと思います」
 ドッと笑い声が上がった。客もいっしょになって笑っている。大勢の男女に玄関に見送られて羽衣をあとにする。


         二十三

 三人肩を並べて風のある寒い道を駐車場まで歩く。足もとに冷たい風が吹く。
「まだまだ冷えますな。キャンプではケガをせんよう、よほど気をつけてくださいよ。金田なんか、寒い季節は走ること以外運動したらあかんと言ってるくらいですから」
「はい、マイペースでやります。……トルコのお客さん、若い人が多かったですね。四十代、五十代の人はいなかった。青線のころと大ちがいですね」
「年配者がきづらい雰囲気があるんですな。何とかせんと。ブラジルさんやインペリアル福岡さんは、七十、八十の人までくる。ああやないとあかん」
 車に乗りこむ。
「おばさんコースみたいなものを設けたらどうですか。年配者はもちろん、意外とおばさん好みの若者客もつくかもしれませんよ」
「聞いたか、菅ちゃん、それ考えてみようや」
「そうですね。四十代のスタッフを五、六人入れて案を練りますか」
「五十代、六十代までカバーしたほうがいいと思います。勃たない老人を傷つけずにケアできるでしょう。女を終わってしまったと思っている従業員の救いにもなるし」
 主人がうなずき、
「神無月さんは、経営者の才能もあるな。心強いわ」
「ほんとですね。アイデアマンだ」
 私は主人に、
「むかしは、年季奉公やら足抜きやら、この種の仕事は暗い感じがしましたが、いまはあっけらかんとしてますね」
「稼ぎがいいんで、バンスをすぐ返してしまえるからですわ。身売りみたいな惨めな境遇の女はほとんどいなくなりました」
 菅野が、
「むかしの女とちがって、亭主持ちや家族持ちが多いんです。どうしても金を稼ぐ必要があるので、買い手市場です。引きも切らず応募してきます。もちろん亭主や家の者には内緒でね。とにかく暗い感じがまったくない」
「しみじみとしてませんね」
 菅野はハンドルをいじりながら首を縦に振り、
「江戸や明治じゃないですからね。でも、まじめな人間はいつの世にもいます。独身のトルコ嬢と素人さんがキッチリ恋愛して結ばれるということも多くなるんじゃないかな。足抜けなんかしなくてもね。恋愛が廃れることはないでしょう。何と言おうと、恋愛は人生の華ですよ」
 帰り着いて、静かな居間で、おトキさんのいれたコーヒーを飲んだ。トモヨさんが、
「何か参考になりました?」
「テキパキしてる、暗さがない、効率的に仕事をしてる、って感じ。設備も、しっぽり抱き合うことを省略して〈それ〉を目指してる。ビジネスライクだ」
 女将が、
「年とると、〈それ〉がなつかしくなりますよ。ビジネスライクでもかまわん」
 ちらりと主人を見る。主人はその視線を避けるように、
「さ、風呂入って寝るぞ」
 菅野はにやにやして、
「私も〈それ〉をうまく避けるようになったなあ。まだトモヨ奥さんと同い年なんだから、もっとがんばらないと」
 主人が、
「そんなもん、がんばらんでええ。だいたい、神無月さんみたいに向こうから求められんやろ」
「言えてますね」
 菅野は頭を掻いた。主人は立ち上がり、きょうは母屋のしまい湯に浸かりにいく。女将がその背中を見送り、
「若いころは毎晩ということもあったんよ。トルコで若い子と遊んでくれれば、元気が回復すると思うんやけどね」
 菅野が、
「若い子は逆効果じゃないですか。辛抱してくれないから、急かされて、役立たずに終わって自信を失います。実際、女将さんは求めてるんですか」
「女は死ぬまでや。菅ちゃんの奥さんは遠慮しとるんよ」
 菅野はまた頭を掻き、
「男は格好つけですから、子供が産まれると、子供に気を使うようになるんですよ。お嬢さんが産まれてからじゃないですか、だんだん遠くなったのは」
「それはそうやけどな。でも正直、この齢になると、そっちの欲はあまり感じんわね」
「そうでしょう。気持ちだけで求めてるんですよ。うちの女房も同じです。やる気もないのに求めて、濡れてないということがけっこうありました」
 じっと聞いていたおトキさんが、
「濡らすのは男の仕事ですよ。愛情が足りないんじゃないですか」
「言うねえ。おトキさんもトモヨさんも、ある意味オクテだから、いまが旬でしょ。うちらはカビが生えてますよ。これは愚痴じゃないですよ。あ、こんな時間だ。そろそろ退散しますわ。じゃ、神無月さん、あした最後のランニングです。八時にきます」
 少しさびしそうな背中で帰っていった。人間は性から離れると、心にさびしい風が吹くのかもしれない。トモヨさんが、
「お義母さん、お義父さんと旅でもしてきたらどう?」
「それもなあ。取ってつけたみたいやが。でもね、うちがこんなこと言うのも、十月に神無月さんの晴れ姿を観に東京にいったとき、それこそ何年ぶりかでしてもらったからなんや。こんなに気持ちええもんやったかなあって、びっくりしたわ。たしかに旅もええかもしれんけど、忙しくてなかなか時間が取れん」
 おトキさんが、
「近いところでもいいんじゃないですか。大阪とか。神無月さんの野球が始まったら、甲子園で阪神と戦うでしょう」
「ほやね。野球にかこつけたら旅行の話に乗ってくるかもしれんね。秋やな。仕事に段落つけて、トモヨに帳簿のつけ方を教えてからや」
 トモヨさんが大きくうなずいた。女にとって性は一大事なのだ。
 トモヨさんは〈今夜の〉女将に気を使って、主人夫婦の離れで寝ている直人を自分の離れへ抱えてきた。直人は夜泣きもぐずりもせずによく眠る。
 静かな子供のかたわらで、私は後背位でトモヨさんを抱いた。直人の視界に衝立を立てるように、トモヨさんは胸でさえぎった。ふるえる腹に掌を置いて、射精をせずに硬い筋肉の収縮をいとおしむ。しばらくそのままの格好でトモヨさんの耳を見下ろしている。腹の収縮がやむとたちまち寝入りそうになったので、重いからだを押しやって直人に添わせる。驟雨のように短いセックスに疲れた母親は、息子を抱えこむようにして、すぐ深い寝息を立てはじめた。髪のほつれた寝顔を見下ろす。薄く口を開けている。
 トモヨさんも直人も何のために生きているのだろう。それを見つめている私も。
 ―悲しい。
 これほどの悲しみがどうにもならない生来の痼疾だとするなら、幼いころの私の溌溂とした日々は演技だったのだろうか。そもそも、きょう、この部屋にこうして生きている意味がわからない。詩を書く意味も、成功を嫌悪する意味も、友情の意味も、倦怠に襲われる意味も、愛の意味すら、何もかもわからない。女たちとすごす後半生の悲しみの総量を本能で計算する。
「愛してるわ」
 とつぜん横顔が言った。
「ずっと私を見てたでしょう。この女、何のために生きてるんだろうって。―何も考えないで。愛されることだけを信じて生きていて。みんな勝手に郷くんを愛してるんですから―応えようとしないで。余計な気を使わずに、ただ、あっけらかんと生きていてください。じゃないと私たち、抱かれながら施しを受けてるような気持ちになっちゃうでしょう? 郷くんだって、私たちのことをそんなに哀れな女だと思っていないはずよ。郷くんに迷惑をかけないことだけを願ってるのに、気を使われたらあわててしまいます」
 私は振り返ったトモヨさんの濡れた目を見つめた。私はもう一度強く唇を吸った。こういうやさしい言葉に食傷しないことこそ、私の人生にちがいない。感謝という引け目を示す態度もよくないだろう。そういう態度をとれば、彼女たちを窮地に陥れる。とにかく彼女たちに思いどおりに心とからだを発揚させること、私自身をまっさらな書き心地のいい紙にすること。
「ぼくはだれにも気を使ってないよ。人はきっと何かのために生きてるんだろうけど、それがぼくだと思うと申しわけなくなってしまうんだ」
 何も予告せず、もう一度密室へ潜りこむ。密室は湯をあふれさせて受け入れ、脈打ち、緊縛し、温かく包みこむ。数百回、数千回〈善根〉を施されても飽きない作法で。
         †
 ランニング最終日。曇。六・一度。
「菅野さん、きょうはどこへ?」
「シロに会いにいきます。見納めかもしれませんよ。飯場の外にいることを祈りましょう」
「よし!」
 太閤通へ飛び出す。環状線の交差点へまっしぐら。重そうな雲が空を低く覆っている。中村区役所前を右に見て信号を渡る。ビルの街並にきょうもいっさい変化がない。大門の停留所に市電が停まっている。揺れながら動きだし遠ざかる。すぐ後ろに菅野の呼吸が聞こえる。うつむいて走っているとわかる。話しかければ応えるだろう。
「大門の電停―節子と素子。一生忘れないな」
「昼でもさびしいですね」
「プロ野球の様子は?」
「スペンサーの退団が正式に決まりました」
 おやつ饅頭の店を過ぎる。
「どういう選手だったんですか」
「神無月さんの知ってのとおりです。百九十センチ九十キロ、巨漢の二塁手」
「ガッツあふれるというより暴力的なスライディング、野村と三冠王を争って八打席連続敬遠された。痺れを切らして、バットのグリップとヘッドを逆さまに持ってバッターボックスに立った」
「恥ずかしいですよね。愛国心、集団愛、すべての元凶だ」
「じつに。スペンサーは対戦投手の研究マニアで、長池をはじめとする大勢の選手が影響を受けてます。ドラゴンズの江藤もそうです」
 循環バスが過ぎる。このバスにも岩塚や名古屋駅前から何度か乗った。乗りこんだ場所からわが身をすみやかに連れ去る機械は恐ろしい。取り返しのつかないことが起こりそうな気がする。義一と雪の日に汽車に乗りこんだときも、名古屋駅から善夫と汽車に乗りこんだときもそうだった。
 太閤通六丁目、七丁目、大鳥居に出る。
「しばらく、歩きましょう」
「ほーい!」
 鳥居を右手に見て左へ折れる。豊国通四丁目の交差点まで歩く。肺がラクになったところで右折する。
「この通りを真っすぐだ。さあ、また走ろう」
「よっしゃ!」
 自転車かバスでしか通ったことのない道だ。左右を舐めるように眺めていく。倉庫、空き地、三軒も四軒も立ち並ぶクリニック、電柱、事務所、直角に交差する電線。青い板一枚の空がその上にある。豊正中学校のサッカーグランド、荘重で背の高い建物は同朋音楽大学と同朋高校だ。まだ飛島寮までは遠い。よくこんな遠い道を自転車でかよったものだ。菅野が、
「シロは何歳ですか」
「飯場にきたときはゼロ歳だったろうから、九歳か十歳」
「人間で言うと、六、七十歳ですね」
「いつ死んでもおかしくない」
「胸が苦しくなります」
 通行人の顔が通り過ぎようとした。
「神無月くん!」
 二人足を止めて振り返った。品のいい紺のツーピース、瓜実顔のオカッパ髪。かすかに見覚えがある。小走りに近づいてきて、背高の私の顔を見上げる。たしかに見覚えがあるが、思い出せない。
「だれでしたっけ」
「鬼頭です」
 鬼頭倫子(オニアタマ)ではない。妹か? 目鼻立ちがまったくちがう。菅野が足踏みを止めた。
「鬼頭エツコです。中三のとき同じクラスでした」
「はあ……名古屋は鬼頭という苗字が多いですよね」
「はい、宮中だけでも、鬼頭倫子さん、鬼頭助次郎くん、鬼頭力くん」
「そしてあなたは鬼頭エツコ」
「はい。ドラゴンズ入団おめでとうございます」
「ありがとう」
 仕方なく立ち話になる。
「中三のとき、とつぜん神無月くんがいなくなって、いつの間にか中日ドラゴンズの選手になって戻ってきたので、あのころのみんなは驚いてます」
「みんなって、だれのことですか?」
 それ以上話すことがない。鬼頭エツコは少し気まずそうに、
「私、この大学にかよってるんです。バイオリン学科」
「はあ、そうですか。がんばってください」
「競争率の厳しい大学なんです」
「ますますがんばらないと。厳しい競争はすぐれた集団では永遠につづきますから」
「そうなんです。神無月くんもがんばってください」
「がんばります。それじゃ、先を急ぎますんで失礼」
 走り出す。菅野が振り返って鬼頭エツコに手を振っている。私の素っ気なさの穴埋めをしているつもりなのだ。人が自分の想像を超えた別種の道を進みはじめると、真っ先に疎遠になるのは、岐路から平坦な道をたどった〈あのころ〉の人びとだ。
「だれですか?」
「さあ、中学校の同級生だそうです」
「むかしの知人に遇った感想は?」
「うーん難しいな。なつかしい感じじゃなく、もちろん新鮮でまぶしい感じでもなく、少し色褪せてる感じかな。でも、いいものですね」
「そうは見えませんでしたよ」
 民家やマンションが多くなる。商店と言っても床屋か眼鏡屋ぐらいしかない。西栄町に出た。角地にあった喫茶店がたった半年ぐらいのあいだに廃屋になっている。八百屋はそのままだった。


         二十四

 飛島寮の開放門に着いた。犬が吠えてうるさかった隣接する運送会社は取り壊され、マンションが建ちかけていた。二人で門前にたたずむ。シロの姿はない。寒がりの母と食堂でストーブにでもあたっているのだろう。駐車場に車は停まっていない。みんな出払っている。向かいの岩塚モータースの前にシェパードが繋がれている。
「名前を呼ぶわけにもいかないし、引き返しましょう」
 そう言って、五十メートルほど引き返したところへ、ウォン、と鳴き声がした。振り返ると、シロが走ってくる。犬の忠実さで遠くから嗅ぎ当てたのだろう。
「シロ!」
 しゃがんで迎えると、腹にぶつかるように飛びついてきた。つぶらな目で見上げ、私の手やあごや口を嘗める。菅野が泣いている。私といっしょになって頭をなぜる。
「よかったですねえ、神無月さん、よかった、よかった」
 毛が一段とパサついている。顔がゆがんで、涙が止まらなくなった。
「よし、ちゃんと再会したぞ。もうおまえの顔は死ぬまで忘れない。おまえも死ぬまで忘れるなよ。さ、帰れ。チャンスがあったら、もう一、二回会えるかもしれない。それまで元気でいろ。きょうはこれでお別れだ。さあ、帰れ」
 立ち上がって、手振りで追い返す。理解のいいシロは、振り返り、振り返り、門のほうへのろのろ戻っていった。私たちが走りはじめると、門前からもう一度こちらへきかけたが、手を強く振ると、腰を下ろして見送った。西栄町の十字路を左折するまで、シロはその姿勢を崩さなかった。
「犬歯が黄色くなって、下の歯が少し抜けてました。生きてるのが不思議なくらい年とってましたよ。きれいな目だった!」
 二人ジャージの腕で目を拭う。
「さあ、ここから七、八キロありますよ。がんばって帰りましょう」
「了解!」
 彼は私の前に出て走り出した。
         †
 菅野と二人で背中を流し合う。
「きめ細かい肌だ。青光りしてる。三度目ですね。最後かもしれないな」
「二月にも帰ってきますし、三月にも帰ってきます。こんな背中でいいなら、いつでも流してください」
「いや、気安く近づくのは極力控えます。雲の上の天馬は地面から見上げて楽しむことにしますよ。ところで、きょう遇った女性は覚えてなかったんですか」
「見覚えはあったんだけど、同級生とは気づきませんでした」
「女が神無月さんを見る視線には、なんとも言えない独特な雰囲気がありますね。体当たりというか、仰せのとおりになりますというか、その瞬間に自分の全人生を賭けてしまう感じです。神無月さんが無視して走り出したとき、なんだかかわいそうで、手を振ってしまいました」
「その気持ちわかりましたよ。すみません。寄ってきた女すべてに関心を持つというふしだらを避けたいんです。出合い頭の動物でありたくない」
「でもそれは、神無月さんの責任じゃないでしょう。寄ってくるほうが……」
「ぼくが気持ちを引き締めれば避けられることです。自分の人生を懸けてまで近づいてくる女でなければ、もう手を出しません」
「明石ではどうします? 十九歳のからだがもちませんよ」
「またそれですか。野球で燃焼させます」
 背中をこする手に思わず力がこもった。
「おっと、強くこすっちゃいけないんだった。お嬢さんに言われたことがありました。危ない、危ない」
 昼めしは、カレーうどんとチャーハンの組み合わせか、ソース焼きソバとチャーハンの組み合わせかをえらぶことになった。直人は薄味の焼きソバ少しと、海苔をまぶした小さなおにぎり一つ。器用に食べている。主人が、
「今夜の歓送会は、三味と踊りを呼びますかな」
「いや、静かにいきましょう」
「うん、ちょっとビールでも入れて、早く寝たほうがいいですな」
「はい」
「菅ちゃんとしっぽり飲むか」
「ご相伴します」
 菅野がカレーうどんをすすりながら応える。トモヨさんが、
「言いつけられた荷物は、きのう明石のホテル宛てに送っておきました。グローブとスパイク二足と下着類、ワイシャツ、それからブレザー一揃いでしたね」
 おトキさんが、
「下駄と靴下も送りました。足りないものがあったら電話をください。すぐ送ります」
「ありがとう。バットはこちらでの練習用に置いていきます。いずれここに三十本かそこら届きますから、合わせて保存しておいてください」
 トモヨさんが、
「あした十時十九分のひかりですよ。名古屋から明石までの乗車券と、新大阪までの新幹線の一等席券、ブレザーの内ポケットに入れておきました。そこから先の乗り換えは駅員さんに聞いてくださいね」
「心配無用」
 菅野が、
「山陽本線の鈍行か急行に乗ってください。鈍行は二十いくつ停まりますが、急行はその三分の一です。四十三分で着きます。鈍行だと、三十分余計にかかると見ておけばいいでしょう。とにかく名古屋から二時間半以内に着きます。ホテルには新聞記者があふれてるでしょうね。だいじょうぶかな」
「適当にやります」
「チェックインは一時以降となってますけど」
「食事会は六時からなので何の問題もありません。同室の仲間の顔合わせも、あっという間に終わるでしょう」
 女将が、
「部屋に落ち着いたら電話ちょうよ」
「連絡はしません。オトナですから」
「何言っとるの、心配でしょうが。神無月さんはオットリした子供やから」
「ハハハ、冗談です。かならず連絡します。カズちゃんたちから電話あったらよろしく言っといてください」
 主人が、
「同部屋の新人はだれですか」
「宮中の野球部でチームメイトだった太田安治です。ドラフト何位だったかな。いい性格してますよ。入団式のときも、浜野に食ってかかってくれました。ピッチャーで入団してますけど、打撃がいいからすぐバッターに転向するでしょう。それでノシてくると思う」
「そりゃ安心だ。能力ある人は嫉妬せんからね。幸先よしと」
 トモヨさんが、
「江藤さんと仲良くできるかしら」
「自然体で、何も考えずにいきます」
 おトキさんが、
「そうですよ、何も考えないほうがいいです。山口さんも、人間関係、人間関係って、とても心配してますけど、神無月さんは黙ってるだけで、人がハハアとなる雰囲気がありますから、何も考えないのがいちばんいいです」
「みんなで心配してくれてありがとう。それもこれも、ぼくに危ういところがあるからです。ボンヤリしてるくせに、へんに短気なところがある。とにかく野球の力を見てくれれば、プロと称する人ならヘタなことは仕掛けてこないでしょう。江藤さんより打てなかったりしたら袋叩きだな。まずそれはないと思うけど」
 カレーうどん二杯目をお替りする。柔らかい豚肉が香ばしい。たっぷり一味唐辛子を振る。女将が微笑しながら、
「ほとんどひと月、野球、野球になるでしょう。公式戦が始まったらもちろんそうなんやけど、試合より練習のほうがずっときついわな。でね、毎日疲れてぐっすり寝れるなら何も言うことはあれへんの。……ただ、十九歳でしょう。寝つかれんことも出てくると思うんよ。トモヨもそれを心配しとる。そういうときに、そこらへんのへたな商売女のお世話になるより、うちの子がええんやないかって。そういういかがわしい場所には人目があって出かけられんやろうし、新聞も追っかけてくるしな。三日か四日の遠征なら心配せんでもええけど、キャンプのひと月は長いわ」
 そうかもしれないと思った。仲間と練習に明け暮れている分にはいいが、ふと思わぬ性欲が湧いたときに処理のしようがない。トモヨさんが、
「郷くんはふつうの男の人より禁欲的なところがあるから、ぜったいその手のところにはいかない。でも若い男だから、女とちがって溜まってくるわ。一週間に一回でもこっそり部屋にいける人がいれば問題ないのよ。あんまり若すぎると、別の部屋を取ってもコールガールだって思われてしまうでしょ。汚れ物を取りにきましたとか下着を届けにきましたとか言って、別部屋に泊まっても怪しまれないような、かなり年とった人がいいと思うの。それでも休みごとに一週間に二回もいくと、やっぱり怪しまれるでしょう。一週間に一回が限度」
「熱心にありがとう」
「和子さんが乗り移ったのね。赤ちゃんにあげるミルクを心配するようなものです」
 菅野が、
「そうですね、私も二十歳前後のころは、どんなに疲れていてもくるものがきましたね。この界隈でよくお世話になりました」
「ね、そうでしょ? 二月の第一月曜の三日から、十日、十七日、二十四日の四回。少なくとも三回。前の晩の日曜日から泊まるようにして、月曜日の昼に帰ってくる。私は無理だし、文江さんも忙しくてだめ」
 主人がニッコリ笑って、
「ほれ、このあいだおばさんコースって話しとったやろ。ついさっき面接した中に、亭主が何年か前に死んで、四人の子が独り立ちして家を出ていったゆう、ぴったり五十歳の女がおってな、この話を持ちかけたら、いきます言ってくれて。検査して病気がなかったらいってもらうけど、どうですか」
 菅野がびっくりして、
「面接はきょうの午後じゃなかったんですか?」
「さっき、二人がランニングに出てるあいだに、一人年配の応募が入ったって丸谷が知らせてきたんだよ。神無月さんがアイデアくれたシニア計画をフッと思い出してな。あんまり年いってたら断ろうと思っとったんやが、トモヨに神無月さんのそういう話を聞かされて、トクと羽衣に出かけてきた。妊娠の心配はないし、感じのええ人やったんで雇うことにした」
 トモヨさんが、
「老人客相手を主に考えた計画を来月から立ち上げるんですね。すばらしことだわ。女の人も救われます。一日に何人も相手にしないでしょうし、焦らずにセックスできる相手なら、個人的にも楽しめて青春を取り戻せます」
 女将が、
「なるほどな。その人青春おばさん第一号になったわけやね」
「齢いった女を雇ったのは初めてやけど、追々三人ほど入れるつもりや」
 菅野は、
「ホッとしましたよ。神無月さんには妙に潔癖なところがあるから、もう少し神経をゆるめてもらいたいなって思ってたところでした」
「トモヨさんはどう思う?」
「私から言い出したことですよ。ぜひそうしてください。長丁場にそういう健康管理はぜったい欠かせませんから」
「ほんとにカズちゃんと同じことを言うね。じゃ、お父さん、そうさせてもらいます。ただ、クタクタで役に立たないときは、洗濯物だけ持って帰ってもらうことがあるかもしれません」
 女将が、
「それはそれでええがね。よかったわァ。新庄百江さんてゆうて、ぽっちゃり型で、神無月さん好みの人やと思うわ」
 主人が、
「和子やトモヨほどきれいやないけどな」
 私はふと思いついて、
「歯はきれいですか。カズちゃんもトモヨさんも、ほかの女たちもみんなきれいな歯をしてるので、口臭がないんです。おトキさんもそうですよね。口臭があると、気持ちが萎えます」
「ほうよな。確かめてみましょうわい。いま、電話しますわ」
 主人は帳場に引っこんで、ごしょごしょ話す。女将は菅野に、
「潔癖て、神無月さん、することはちゃんとしとるんでしょ」
「はあ、それはそうなんですが、いえね、さっきランニングしてたとき、神無月さんが同朋大のそばで中学時代の同級生に出会ったんですよ。その受け答えが素っ気なくてねえ。相手がかわいそうになるくらいで」
「操が堅いんよ。好きな女以外脇目も振らんゆうことや。自分を信頼する女を裏切らんようにしとるんやがね。何がきっかけで新しい女が飛びこんでくるかわからん人やから、そういう意味の潔癖はええことやよ。からだの潔癖は健康に悪い。出さんで溜めとくとホルモンがおかしなって、前立腺をやられることもあるらしいわ」
 まさか親や教師がそんな考えを教えるはずがないので、こういうことはこの世界で語り継がれて自然と身についた知識だろう。節子も吉永先生も、カズちゃんたちからこの種の話が出たときに何の反論もしなかったことを考えると、医学的にも正鵠を射ているのにちがいない。


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