二十五

 主人が戻ってきて、
「応募する前に奥歯を治療したそうや。口臭はむかしからないて言うとった」
 トモヨさんはにっこり笑って、
「ねェ、お義父さん、新庄さんが郷くんに惚れてしまったら、ケアしてあげますよね」
 主人は小首をかしげながらうなずき、
「本人の気持ちしだいやな。トルコで働きたくない言うんなら、給料は安いけど北村の賄いにこいと言うしかないやろう。素子がいい例で、この商売を長くやっとる女も、神無月さんにかかるとイチコロや。千鶴もクラッときとったな。でも、神無月さんは店の子に手を出さん。横山さんとちがって、店にいこうともせん。きれいなものを見るような目で見てくれとる。女のほうから手を出さんかぎり動かん人やとゆうことは和子から何度も聞いとったけど、ここまでとは思わんかった。和子のもとの亭主とは大ちがいやな。もともとこの家の女には、神無月さんに手を出して波風立てんようにと言ってあるけど、神無月さんのほうからセンズリ代わりに手を出す分にはいっこうにかまわんのにな」
 何年にもわたって女たちが気配を消していた理由がわかった。彼女たちはどこか遠慮したふうに、いつも遠く離れたテーブルで微笑していたし、私にツヤっぽい仕草を仕掛けることもまったくなかった。それが主人の親切な心遣いだったとするなら、杞憂だ。私は店の女たちにも、賄いの女たちにも何の関心もない。彼女たちは総じて明るく、恋とか愛とかには興味がない。まれに、いかにも不憫といったような暗い表情を浮かべている女に気づいたこともあったけれども、声をかけたいとは思わなかった。
「まるでぼくは地雷ですね」
 女将が、
「そうよ、神無月さんは、踏んだら女をからだごと吹き飛ばす地雷や」
 菅野が、
「男もですよ」
 主人はふんぞり返って笑いながら、
「今年から日本中を吹き飛ばすぞ」
 トモヨさんの離れの机で、明石に持っていくノートや筆記用具の整理をした。ノートと言っても、いのちの記録一冊だ。本も何冊か手に取って見た。これといったものが見つからない。カズちゃんの本棚よりはかなり手薄だ。明石で適当に本屋を廻ってみることにする。
 おやつの時間に座敷へいく。店の女たちが茶を飲んでいる。居間では菅野が主人と面接した応募者の評価をし合っていた。トモヨさんが座敷のテーブルから振り向き、
「何だか一生懸命だったので、声をかけられませんでした」
「明石に持っていく小物の整理をしてたんだ」
 おトキさんが、
「お好み焼きを作ろうと思うんですけど、食べます?」
「あ、好物です。ブタタマとイカタマお願いします」
「はい。ミックスタマもあります」
「ミックスはいいです」
「味つけはソースを塗りますか」
「うん、マヨネーズにケチャップと洋ガラシを混ぜ合わせたやつもください」
 夜出の女たちもめいめい好みを言った。
「直人は?」
「お昼寝。保育所から二時過ぎに帰ったら、いつもすぐに寝て、四時半ごろ目を覚ますんです。おトキさん、一つとっておいてください。あとで温めなおして食べさせてみるから」
「はい、細かく切っておきます」
 菅野が、
「そういえば、最近さっぱり横山さんの話題が出ませんが、あのかた、どうしてます?」
「元気でやってますよ。パブの副部長兼カウンターチーフに昇進して、後進の指導に忙しく生きてます。山口がその店で週に一回、弾き語りをしてます」
「いずれ、横山さんもこちらにくるんですかね」
「たぶん東京に骨を埋めるでしょう。花の東京ですから。ぼくたちのことがなつかしくなったら、ひょっこり顔を出しますよ。社会的成功に絶望した人間は、山口やぼくのように行く手を定めた人間には興味が失せます。道の定まらない人間に出会ったら、またぴったりそばに寄り添うんじゃないかな。東京はそういうやつらばかりが住んでる街です」
 女将が、
「得体の知れない人やわ。自分の考えを言わんし」
 主人が、
「おもしろい人間やがなあ」
 私はうなずき、
「つかみどころがない、軟体動物のようなところはありますね。本人は芯を入れたがってるんですが、出世欲が強いので、社会的な資格で芯を作ろうとしてるんです。学歴にあそこまでこだわるのもそのせいです。社会的なものが満たされないと、あとはどうでもいいように人生を流してしまうんです。同類を求めながらね。出世主義というのは未来志向なので、現在の瞬間に没入できない。だから、真剣な努力ができないし、真剣な恋愛もできない」
 トモヨさんが、
「高校にでも入って、一つずつ階段を昇ればいいのに。行動に芯が出てくるわ」
「いまある姿を嘆くだけで、脱出の努力はしたがらないんです。学校の勉強なんかつまらないと見切って水商売に進んだ法子とは、正反対の心の動きだ。嘆きは道化でごまかすことになる。基本的にはヒョウキン者扱いされるけど、あの記憶力と機転を活かしてときどきするどいことを言ったりもするから、才人とか箴言家などとおだてられて、酒の席にはなくてはならない芸人のように重宝がられてる」
 菅野が、
「人間としては愛されてるんでしょう」
「慈悲深い人にはね。それ以外の人とはいいかげんな付き合い方をしてると思う。いつだったか、ラビエンで見たことがある若い客と道でたまたまいき会ったとき、よしのりには借金を踏み倒す癖があると聞かされた。その客はよしのりのファンで、家がかなり金持ちだから、返してもらうつもりもなく何度かまとまった金を貸したらしい。よしのりは、それからもほとんど毎日店にかよってくる彼の相手をしているうちに、気詰まりになったんだろう、しばらく仕事を休んで、二、三日出てこなかった。そのあいだの行状を山口が聞いたら、いつもの伝で、道で年配の女を拾って彼女の部屋にしけこみ、食わせてもらってたんだって。甘えついでに、友人に返す金を貸してくれとせびったら、とたんに追い出された。仕方なく、例の若い客の家までいって、帰すあてがないと謝ったら、だれが返せと言った、横ちゃんがいなけりゃ、酒がうまく飲めないだろ……」
 主人が、
「横山さんは一生、そういう生き方しかできんと思いますよ。ふつうの人間には浮草みたいな生き方は性に合わないところがあります。神無月さんや山口さんみたいな一芸に秀でとる人間はもちろん、何かになりたくて焦っとる人間にも意地や根性があるもんです。横山さんにはどっちもなさそうや。ほんとにおもしろい人間なんやがな」
「よしのりはそんないいかげんなふうな生き方をしながら、窮屈な思いがいつとはなしにほぐれるのを待ってるんです。借金そのものが立ち消えになってしまったのを確認すると、またノコノコとその客の家に出かけていき、めしを食わせてもらったり、酒の相伴にあずかったりするわけです。ぼくは彼に対して相当自責の念を感じてます。よしのりの借金はもとはと言えば、ぼくの飲み代を肩代わりしたことからできあがったものですから。ロハにしてくれたのは、店の責任者だったんですが、よしのりの昇給に影響を与えなかったとは言い切れません」
 菅野が、
「たぶん、影響はないですね。責任者の一存でロハにしたわけですから。借金は横山さんの特技ですよ。水泳でしたっけ、彼がやりたかったのは。神無月さんが野球を奪われてヤケになったとしても、そういう借金まみれの生き方はしないでしょう」
「はい。きびしい叱責は受けるけれども結局は許してもらえるというような生き方に慣れてしまうと、いずれ許しを前提に叱ってくれる人もいなくなり、だれからも相手にされなくなって巷の片隅で落ちぶれていくと思う。アイリスの夜の部のカウンターに、カクテルコーナーでも設けて、彼にシェーカーでも振ってもらうという図を考えたこともあったんだけど、彼はバーテンそのものに満足してないから、同じようなことを繰り返すだろうと思ってやめました」
 女将が、
「それはやめたほうがええわ。コーヒーの店に酒は入れんほうがええ。というより、根がまじめでない人は、たまにいっしょに遊ぶくらいにしとかんと、結局こちらが苦労を背負(しょ)いこむことになるんよ。横山さんはおもしろい人やけど、いいかげんで図々しいところがあるから、刺さってこられると厄介や」
 私は話を終わらせるつもりで、
「ぼくが落ちぶれないかぎり刺さってこないでしょう。あいつは、落ちぶれた人間の心の友でありたいんですよ。あんなふうにトルコに連日出かけたりしましたけど、落ちぶれて失意のドン底にいる女との出会いを求めていたんだと思います。しかし、女は強い生きものです。失意の底でウジウジしている女なんているはずがない。彼の考えは甘い。逆に利用されるのがオチです。だから彼はいつも女に騙されてばかりいるんです」
 菅野が、
「あの調子で女を小馬鹿にしていれば、手ひどく騙されることもないのに」
「彼はかならずしも人間嫌いじゃないので、人を小馬鹿にしながらも、いっしょに酒を飲んだり、冗談を言い合ったりすることは好きなんです。二日も三日も彼らの顔を見ないでいると、さびしくてたまらなくなるんです。よしのりの胸の内には、静かな孤独の生活にあこがれる隠遁者の気持ちと、華やかな宴会を好む太鼓持ちの根性とがゴッタ煮になっています。彼に必要なのは、彼の将来に期待してくれる熱い目です。もう少し努力家になればそれが望めるのに」
 菅野がため息をつき、
「逆境を励みにする人と、それにめげる人がいますからね。どちらも癖になるので、横山さんは……」
「変わらないでしょうね。ぼくは小さいころからよく素振りをしてました―小学校以来、チームの勝利のほとんどはぼくのバットで手に入れたものだったし、決勝打であれダメ押し打であれ、ぼくのバットなしで勝てた試合はほとんどなかった。それでも、もし監督や部員たちの熱い期待の目がなければ、もしグランドの外で応援する人たちの歓声がなければ、ここまで野球一本で歩いてこれなかった。どんな努力も、暖かい支援がなければ実らない。彼らに期待されてこなかったら、ぼくはいま、プロ野球選手の道を歩いていない」
 私がこういうことを言い出すと、だれも言葉を返さないようにする。無意識にみずからを否定的に語り出そうとする私の心の動きが読み取れるからだ。しかし、私の頭の中にあるのは、自慢でもなければ、能力を控えめに言い繕おうとする謙遜でもなく、自己否定でもなく、幸運の思い出だけだ。私の身に起きたそういう雑然とした幸運なできごとは、濃く、鮮やかな、いつまでも消えない喜びと、ぼんやりした悲しみを胸に刻んだ。些細で取るに足らない好ましい思い出は、真珠のようだ。幼いころのできごとが、大人になってからも明瞭な真珠の輝きを残すということはまれにしか起こらないだろう。
 帳場部屋から直人の寝起きのぐずり声が聞こえてきた。トモヨさんが立ち上がり、襖を開けて出ていく。すぐに抱えて連れてくる。寝ぼけ顔の頬が赤い。抱いて頬を寄せる。トモヨさんがしみじみと、
「郷くんのヒゲが薄くてよかった」
 菅野が、
「私が頬ずりしたらたいへんですよ。ほっぺが削れてしまう」
「かわいいな。よく生まれてきてくれた。つらい思いをさせないようにがんばらないと」
 女将が、
「生まれただけでも幸せやが。神無月さんがおらんかったら、この子は産まれんかったんよ」
「そういう恩の売り方なら、ぼくのおふくろといっしょです。この世のすべての子がその恩を押しつけられる。ただ、生まれたことが幸せだとしても、ぼくのように冷たく育てられたのでは何にもならない。ぼくは世間並みの条件を満たしてやれない父親だけど、身内の残酷さや冷たさはじゅうぶん知っているので、この子に対する温かい愛情だけは欠かさないようにします。愛があれば、どんなにくすんだ人間もまばゆい輝きを発します。愛情は最高の磨き粉ですから」
 おトキさんが小さく切ったお好み焼きを含ませながら、
「直ちゃんは、くすんでないですよ。神無月さんと同じように輝いてます」
「愛情を注いでやれば、ますます輝かしい光を発するんです。もともと輝いていても、愛情が途切れるとくすんでしまう。いつか話した守隋くんのようにね。彼もくすんだ人間じゃなかった。それがあのとおりだ。くすみはじめたときに磨いてくれる人がいなかったんですね」
 菅野は、チラと見かけただけの守随くんを思い出してうなずき、守随くんを知らない主人と女たちに説明した。主人が、
「しかし、子育てなんかにかかずらってると、神無月さんの社会的な出世の妨げに……」
「社会のしきたりを守らない者に、もともと出世なんてものはありませんよ。親の名乗りも上げられない外道です。でも、子供に愛情を注ぐのに本道も外道もない。これから命あるかぎり、世の中のギラギラした光の下で生きてみますけど、同時に、外道の世界のしっとりとしたやさしい光も直人に感じてもらわないと」
 菅野が涙目で、
「私たちみたいな、ただ単に社会的手続をとった凡人だけが大手を振って歩けるというのは、いったい世の中どうなってるんでしょうね」
「菅野さんもわかってる質問はしないほうがいい。この世で最も強力なのは、社会のルールだということです。ぼくはもの心ついたころからずっと、社会の拘束から猶予された校庭で野球ごっこをして、校舎の陰で社会に認められないお医者さんごっこをしている白痴です。白痴に平穏な人生なんか恵んでやる必要はない。社会的なルールも守れない白痴が、大手を振って社会の恩恵を受けたら、それこそ社会的大矛盾で、詐欺師としてつまみ出されます」
 トモヨさんが、
「郷くんそのものが大矛盾ですよ。ルールを守る人たちに小突き回されて、申しわけないと身を縮めて、そうしながら精いっぱいその人たちに自分の才能の光で安らぎを与えてあげてるという大矛盾よ。外道とか詐欺師などと、自分を勝手に呼んで切り捨ていいものですか。お人よしもいいところです。私は徹底して郷くんにその立派な社会とやらで出世してもらいます。社会から恩恵を受けるんじゃなくて、社会に恩恵を与えまくってもらいます。彼らに言いたいです。恩恵を与えられてることに自分で気づきなさいって。私たちが与えられてる安らぎのことなんか知らせるものですか。それが郷くんの足を引っ張るならなおさらです」


         二十六

 じっと聴いていた女の一人が、
「結局、神無月さんの人生って、ほんとうの意味で社会を征服してるくせに、社会にしっぺ返しを喰らわないように気を使ってる人生なんですね。なんか、気の毒」
 それをきっかけに女たちがどんどん意見を言いはじめた。
「征服しとらんと思うわ。スポーツや芸能では征服できんのやない? 征服するのは政治家や資本家やろ」
「そういう考えはまちがっとるわ。征服するんじゃなくて、人を救うからこそ、神無月さんみたいな人たちは価値があるのよ。ここまで大勢の人を救えるんやから、大矛盾の人も大きな価値はあるでしょう?」
「価値どころじゃないわよ。〈社会さん〉に奉ってもらわんとあかんわ」
「トモヨ姐さん、神無月さんは有名でなかったころからこんなん?」
「そうよ、おんなじ。郷くんは、人間としていつも苦しんでるの。自分でない人間を愛そうとして苦しんでるのよ。人間が好きだから。人はなかなか自分以外の人間を愛せないものでしょ。人間が嫌いだから。郷くんが他人を愛そうとして苦しめば、みんな幸せになるわ。すごいことよ。有名人はそんなことで苦しまない」
「話が高級すぎて、ついていけんわ。征服とか価値の話はおいといて、やっぱり社会的な約束って大事なものやと思うわ。隠し子がおることより、何人もの女と寝ることのほうが大矛盾やない? うちらは商売だから、男に嫉妬するも何もないけど、もし好きな男がほかの女と寝たら、妬けて妬けて狂ってまうわ。そういうことも、社会的約束の一つやと思わん? トモちゃんは神無月さんに嫉妬したことはあれせんの?」
 話の向きが変わってきた。女たちのもやもやした気持ちがそうさせたのだ。やはり話はそこに戻ってくる。主人夫婦とおトキさんが円満な笑みを浮かべている。トモヨさんが、
「約束って、理屈のことよね。理屈は一般の人にいちばん人気のあるものよ。和子お嬢さんたちは、理屈じゃなく、からだと心を切り離して考えられる人たちなの。私もむかしはそんな手品みたいことできるはずないと思ってた。凡人にはとてもまねできるものじゃないって思ったの。私みたいな女は理屈が必要だから、一所懸命考えたわ。そして、とうとう、お嬢さんたちが嫉妬しない理由がわかったの。お嬢さんたちだって、もともと私たちと同じ理屈を持ってたのよ。でも驚いたことに、郷くんという人は、女の心以外に基本的に感激しない人だとわかって、自然と郷くんと心を交わすことを大事にして、ほかの人とのセックスは郷くんのからだの健康のためくらいに思うようになったのね。郷くんが自分としてくれるときは、心をいただいた上のボーナスのように思うわけ。……どうせ理屈を言うならもう少し言わせてもらうわね。スケベ心で女を抱く男には嫉妬しても当然だと思う。その男の求めてるものが快楽だから。憎いでしょう。でも郷くんはちがうの。心を預けた女だけを喜ばせようとするの。自分は射精しなくてもね。考えられる? 愛する相手が満足すると、出さないですますことも多いのよ。どうしても相手が出してほしいと思ってるとわかると、気持ちよさそうに射精してあげるわ。それが相手の幸福だからよ。和子さんは、それじゃいけない、からだを痛めるって叱って、かならず女としたら気持ちよくなくても、どれほど時間がかかっても出すようにしなさいって教えたの。いまでも郷くんはそれをしっかり守ってるとは言えないわ。でも、郷くんを愛する女たちがすばらしい反応をするようになったので、郷くんも気持ちいいから、たいてい出してもらえるわ。郷くんを愛していないほかの女としても無理でしょうね。もちろんそういう人とはしないでしょうから。こんな人には嫉妬できません」
「もし愛のない女としたら? そして気持ちよくなっちゃったら?」
「そのことも言いたかったの。それでも嫉妬しない理屈を言うわね。郷くんがそういう人とセックスして、生理的に気持ちよくなるとする。でも、あなたたちは知らないでしょうけど、そんな気持ちよさなんて、私たちのような開発された女の気持ちよさに比べればかわいらしいものなのよ。もう一つ。わかりにくい感覚だと思うけど、郷くんの小さな気持ちよさと引き替えに、愛のないほかの女の人がどれほど気持ちよくなったって、私とは関係ないことだし、その女の人がどんなに強く感じたとしても、郷くんはただ生理的にチョンと射精するだけでしょ? 郷くんが感激するのは、ほんとに女の心だけなの。心が感激するとほんとに気持ちよく射精するの。だから私は心を磨いてさえいれば、ぜったいからだも飽きられないんだってわかったの」
 一人の三十女が、
「……トモちゃんの言うこと、ようわかったわ。からだに感激してもらう商売をしとるのに、感じられんからだをしとるのがアホらしくなる。神無月さんがぜったいトルコにいかん理由もようわかる。トルコになんか、心もあれせんし、感じるからだもあれせん」
 ほかの二十代の女が、
「ふつう嫉妬って、異性にするものよね。男なら女に、女なら男に。ぜったい同性にはしない。トモヨ姐さんたちの神無月さんに対する気持ちはわかったわけだから、今度は、男から見た女を考えてみましょうよ。自分の女がほかの男と浮気してると考えるのは、とても切ないでしょ?」
 菅野が、
「まったくそのとおりです」
 トモヨさんが、
「女の心のことなんて考えもしないわね。女のからだに嫉妬するの。それは快楽を知った女のからだの反応がとてもグロテスクだからよ。だから熟した女は、たとえ愛情がなくても浮気しちゃいけないの。浮気すると、男みたいな肉体の〈ささやかな〉生理的反応だなんてとても言えなくなるから」
 別の女が、
「そうかなあ、女も男も、同じくらい感じると思うけど」
「そういうことを言うのは、まだ女の歓びをきちんと経験してないからよ。開発されたらグロテスクなくらい感じるの。私と素子さんがその証拠。あなたたちは大好きな男としたことがないセックスのベテランというだけ。でもだいじょうぶよ。このまま仕事をつづけても、ぜったい感じるようにならないから」
「どんなふうに感じるようになるの?」
「説明できないわ。とにかく、大好きな男に抱かれたら、からだも考えもガラリと変わってしまうのよ。快楽をしっかり覚えた女は、好きな男がほかの女で少しくらい気持ちよくなったって、それが健康にいいことなら手を叩いて喜ぶわ。嫉妬なんかしようがない」
 主人は女将とおトキさんと顔を見合わせて笑い、
「〈あれ〉ひとつでここまで話が盛り上がるものもめずらしいなァ。理屈はどうでも、神無月さんの健康のためということなら、嫉妬の湧かせようがないわな」
 それで話はオヒラキになった。私の社会的な〈外道〉の話題は直人の前で立ち消えになった。当の直人はキョトンとした顔で、両手でお好み焼きの欠けらを握っている。私はこの瞬間、人間というものに対してなぜかひどく熱烈に感謝の念を抱いた。
「みなさん、ありがとう」
 主人が、
「おかしな一人娘から、こんなにおもしろい付き合いが拡がるとは思わんかった」
 と言って笑った。菅野が、
「どんなことでも真剣に話せるというのは、小気味いいものですよ」
 女将がこらえきれずに笑いながら、
「神無月さんが話の真ん中におるんやなかったら、ただのキチガイ討論会やよ」
 一家で、アハハ、ホホホ、と笑う。トルコ嬢たちも夢を見たようなボンヤリした顔で微笑していた。勝手口のほうで食材を届ける男たちの声がしている。トモヨさんとおトキさんが立ち上がった。
 私は直人の頭を撫でると、バットを振りに庭へ出た。主人と菅野がガラス越しに見つめるかたわらで、女将が直人のオムツを替えていた。
         †
 夕食に文江さんが呼ばれた。藍地に桜を散らした着物を着ている。
「おお、きれいだなあ!」
「ありがと」
 使う使わないはまかせるが、サインができたので一応見てほしいと画帖を差し出した。
「る、ゆ、と横に連続で書き、キ、とその下に書くんよ。神、キ、と見えるやろ。神無月郷の略字だと一目でわかります。神だけ大きく書いて、キは書かなくてもええわ。ご自由に」
「なるほどね。神だけにする」
 画用紙の前にみんなドヤドヤ寄ってきた。主人が、
「これ、ええなあ。心配しとったんや。キャンプ始まったら群がるファンの数が並でないやろ。百人寄ってきたら十人は書かなあかん。楷書では処理し切れんなあ思っとった」
 おトキさんが、
「ほんとにいいサインですねェ。神、キ、とハッキリ見えます。キは書かないほうがスッキリしてますね」
 指で何度かなぞってみた。書きやすい。臨機応変にキも加えてみようと思った。
「文江さん、ありがとう。書きやすいよ。暗記した」
 鯛尽くしの豪華な食卓になった。刺身、塩焼き、アラ煮。直人の前には、よく煮た肉団子少々と、ヘラの先くらいの白米、もどしワカメと豆腐とナメコとシメジとタマネギの味噌汁少々、それとオレンジジュースが置かれた。直人は菅野の膝に乗った。賄いたちが和洋の皿をテーブルいっぱいに並べる。大テーブルを三脚接して並べ、賄いを含めた一同が向かい合って坐った。私は主人の下座に坐らされた。ビールで乾杯。菅野が音頭をとる。
「中日ドラゴンズ、背番号8、四番バッター、左翼手、未来のミスタープロ野球、神無月郷くんの前途を祝して、乾杯!」
「カンパーイ!」
「一年間がんばって!」
「ホームラン王獲ってね!」
「三冠王!」
 おトキさんに連れられて、中年の女と初々しい坊主頭の少年がやってきた。菅野が頭を掻きながら、
「女房の梓と息子の秀樹です。中学一年生」
 少し目の吊った痩せぎすの女房は畳に手をつき、子供は正座して頭を下げた。私は画帖の一枚にサインし、
「お師匠さんが考えたんだよ。できたてホカホカ一号だ。何て名前?」
「菅野秀樹です」
「秀樹くんへ、一月三十日、と。お母さんと書道がんばってるんだって? やる以上は道を極めてね」
「はい」
 画帖を破って与えた。秀樹くんは上気した顔でじっと眺め入った。女房が、
「ありがとうございます。額に入れて飾っておきます」
「コピーとって、寝室にもね。子宝の護符になるかもしれません」
 主人がガハハと笑い、菅野が激しく頭を掻いた。母子にも食事が用意された。文江さんと女将が挟みこむように坐った。
「美人じゃないの」
 小声で菅野に言う。
「美人だって言ったでしょう」
「ぼくがいなくなったら、走るのもいいけど、そっちもがんばってよ。枯れたら覇気がなくなるよ」
「がんばります」
 直人は新参の女房の膝に登った。少年に少し関心を示したきり、もっぱら女房の唇を触ったりしている。
「ほんとうにかわいらしいお子さん。胸がスーッと澄みわたるよう」
 直人はおトキさんや賄いたちのほうへ移っていった。おトキさんが抱き取り、唇に小鳥のキスをする。主人が、
「山口さんの今後の予定はどうなっとるんですか」
「五月あたりから国内のコンクールにいくつか参加して経験を積み、夏にイタリアのクラッシックギターコンテストにエントリーします。入賞するとプロデビューです。そのあと二、三年したら、活動の根城を名古屋に移していろいろ飛び回ると言ってました。予定どおりにはいかないでしょう。四、五年後だと思います。そのときはお城のマンションを貸してほしいそうです」
「貸すもなにも、提供しますよ。そうですか、早くて三年後ですな。入賞できるとええが」
「優勝すると思います。世界を股にかけることになるんじゃないでしょうか」
「東大は?」
「もう中退してます」
「神無月さんといい、山口さんといい、なんだかもったいないですな」
「学生をやりながら、プロの活動は継続できません」
「だよねえ」
 女将が、
「おトキと暮らしたらどうやろ、な、おトキ」
 おさんどんをしているおトキさんに声をかける。おトキさんはたちどころに、
「練習のじゃまになります」
 私は、
「いっしょに暮らすことに賛成です。芸術家はスポーツ選手のような消耗品じゃないので、息の長い活動をしなくちゃいけないんです。たゆまない孤独な訓練を見守ってあげる人が必要です。おトキさん、山口は三月の末か四月の頭に遊びにくると思いますよ。五月くらいから国内の細かいコンクールが始まります。その前にしっかり話し合って、東京で同居しはじめたらどうでしょうか」
 おトキさんはうれしそうににっこり笑っただけで何も言わなかった。立ち働いているほかの賄いたちが好意的な視線をおトキさんに送った。トモヨさんが、
「そうですよ、おトキさん。厨房のほうは何とかなりますから」
「ありがとうございます。心に留めておきます」


         二十七 

 宴もたけなわになり、菅野母子がサインの礼を言っていち早く引き揚げ、トモヨさんが直人を寝かせに去ったあとで、カラオケ大会になった。女たちが入れ替わり立ち代わりマイクの前に立つ。出発を控えた私は遠慮した。気を使って、だれも私にリクエストしなかった。文江さんが、
「節子と吉永さんの異動が正式に決まったって電話あったわ。吉永さんの合格発表は三月二十三日らしいけど、百パーセントだいじょうぶやって。三月二十五日にあのアパートに移って、四月一日から仕事始めやと」
「ぼくは三月一日からオープン戦だ。二月から十月まで九カ月間、野球オンリー」
 女将が、
「三月末には、神無月さんのお家も、アイリスも完成やね」
「なんだか夢みたいです。覚めませんように」
 主人が、
「覚めるかいな。北村が破産せんかぎり、現実のことですよ」
 女将が亭主のコップにビールをつぎ、
「お店のほうが先にできあがりそうやよ。来週からコーディネーターとかいう人たちと和子がときどき連絡を取り合うんやと」
「北村の者を最初はサクラで送りこまんとな」
「そんなことせんでもだいじょうぶやよ。場所もええし、客に出す品物の評判が上がれば、入りのほうは自然と何とかなるやろ」
 私は力強くうなずき、
「カズちゃんと素子は料理の腕がいいですよ。コーヒーはもちろんだけど」
 直人を寝かせつけて離れから戻ってきたトモヨさんに、おトキさんが、
「ときどき厨房の手伝いにいこうかしら」
「私もそうします。手を貸してくれって言われたら」
「そうですね、じゃまにならないようにね」
 主人が眠そうに目をこすって、
「じゃ、ワシは風呂入って寝ますわ。神無月さん、夜更かしせんようにな。菅ちゃん、早く帰ってやれ」
「へーい。お休みなさい」
 菅野は帰る気配もなく、カラオケの歌声をバックに私と自分のコップにビールを注ぐ。
「あんなこと言われたんじゃ、がんばるしかないですよ。これからしばらく女房に期待されるな」
「だめだよ、菅野さん、鍛錬だと思ってがんばらなくちゃ」
「はあ、がんばります」
 トモヨさんが、
「そうよ、ふだんからクセをつけとかないと、すっかり役に立たなくなっちゃうのよ。からだが必要なしと判断するんですって」
「怖いことを言うなあ。東京から帰って、しばらくは張り切ってたんですがね。わかりました。今晩からがんばります。神無月さん、あらためて私にもサインください。コピーはいやですよ」
 私は画帖に文江さんのサインを書いた。菅野茂文さまへ。一月佳日。うまく書けた。
「茂文という名前をよく覚えてましたね」
「一度目にしたものはだいたい忘れません。奥さんの名前は何というんですか」
「忘れました? 梓といいます。梓みちよの梓。幼馴染みです。簡単な結婚ですよ」
「遠くまで出かけて嫁さんを探すのがえらいというものでもないでしょう」
「ありがとうございます。じゃ、私はこれで。あしたの朝九時ごろきて、お見送りします」
「二月の末からは、名大受験生二人が何かとご厄介かけると思いますが、よろしくお願いします」
「朝めし前ですよ」
 カラオケもぼちぼち潮が退き、二人、三人、声をかけ合って風呂へいった。女将が帳場に引っこみ、トモヨさんとおトキさんが賄いたちといっしょに後片づけをはじめた。文江さんも台所へあとを追った。
 一人きりになった。ぼんやり山口のことが浮かんだ。青森高校時代の会話が甦ってくる。
「天才は自己達成しか考えていない。それは利己主義というのじゃなく、社会を忘れた没我のせいだ。凡夫が天才に協力してやれば、自己達成しか考えていない天才も、社会的達成の喜びを知ることができる。それが最も麗しい形だが、それに気づいている凡夫はなかなかいない。凡夫も自己達成を願うからな。しかし、願うだけで終わることがほとんどだ。凡夫は天才に協力することでしか自己達成を実現できないと知るべきだ」
「天才に従属した形で自己達成をしなくても、独立して社会的達成ができる」
「まあそうだ。独りで努力して社会的に成功するというやつだ。そういう社会的達成を成し遂げる凡夫は上昇欲を保持するために、愛情や友情を切り捨てなくちゃいけない。ところがどちらも生きるエネルギーだ。つまり後者の生命力を切り捨てるわけだ。それでも酬いはある。愛などクソ喰らえの人びとに重宝されることを生甲斐にできる。しかし、真の意味で社会に貢献するのは才能で自己達成する者だ。彼らを支えて協力してやれば、おのずと社会は彼らに巻きこまれて向上する。しかも、それは情味のある人間らしい社会だ」
「ぼくは社会の向上など眼中にない。自己達成だけでじゅうぶんだ。見知っている人間を愛して、見知っている人間に愛される―満点の人生だ。それだけで持ち時間はいっぱいだね」
「しかしおまえは、自己達成ばかりじゃなく、おのずと社会も巻きこんで向上させるよ」
「野球で?」
「ああ。ファンという立派な社会だ。どんなにおまえが社会を嫌っても、おまえは社会のためになる人物だし、息をひそめて生きているにはもったいない人物だ」
 ―山口、見知った人間も見知らぬ人間も巻きこんで、すばらしいギタリストになってくれ。ぼくも全力で野球をやる。おたがい、孤立した天才などと能天気なことを言ってられない立場になっていくんだろうからな。ただ、ぼくたちはこれからも、見も知らぬ人びとにいい顔をしないように気をつけよう。
 トモヨさんと文江さんがコーヒーと茶菓子を持って台所から戻ってきた。文江さんは着物のタスキを外した。
「私はこれで。キョウちゃん、愛しとるよ。ケガせんとがんばってきてね」
「うん、ありがとう。気負いすぎずにがんばってくる。文江さんも書道がんばってね。サインを考えてくれてありがとう」
 おトキさんが、
「じゃ、私はしまい湯に入って休みます。文江さん、泊まっていったらどうですか。朝ごはんを食べて、神無月さんを見送られたら?」
「つらいから、いややわ。きょうは泊まらんと帰ります。キョウちゃん、あした見送らんよ」
「うん。おたがい気兼ねするのはやめよう。お休み」
「お休みなさい」
 廊下を去っていく文江さんの足音をずっと聞いていた。
         †
 座敷で麻雀の音がする。トモヨさんがコーヒーを入れた。
「郷くん、外道で通すって、どういう意味ですか? ちっとも外道だなんて思いませんけど」
「社会の道に外れた外道でいれば、生きていくのにいちばん面倒がないということだよ。本で読んだり、映画で観たところからすると、結婚すると女はこれでもかというくらい夫の行状を詮索する。目つきするどく、探偵気取りでね。つまり、全員ぼくのおふくろになり、最終的に嫉妬の鬼になり、悪口を言いまくり、子供を虐待する。だからぜったい結婚はしない。大勢の女と関係を持ちたいからじゃない。まったくだれとも関係を持たなくても、結婚だけはしない。社会的なしきたりを守って、信頼する人間を嫌悪する羽目に陥りたくない。つまり外道になるということだね」
「―いっしょに外道になりましょう。さっき台所で文江さんと話したの。彼女、わかってたのね。郷くんは私たちのために外道になってくれるんだって言ってました。だから私たちも外道にならなくちゃいけないって」
「こういう形の愛情関係を忌み嫌う人間は確実に存在するからね。独占以外の愛の形を信じられないので、愛が分散されることに嫌悪を感じるんだ」
 私たちは愛のある砂漠で生きている。愛だけがあって、孤立無援だ。私たちが最も生きやすい砂漠だ。愛という極端な異物のオアシスで潤わされた砂漠。そこに放り出された私たちは、極端に異質なオアシスに浸されて充足し、養分を与えられ、延命する。
「じゃ、ぼくは座敷で寝るよ。トモヨさんも寝て。あしたの朝はいっしょにごはんを食べよう」
「はい。新庄さんを気に入らなかったら、無理しないでくださいね。そのまま帰ってもらってもいいんですから」
「うん、その人の心持ちしだいだよ」
「する以上は、一週間に一度なんですから、しっかり出してくださいね」
「うん」
 はなむけの言葉にちがいない。やさしい気持ちを何か選り抜きの言葉で言えるはずがない。私は言葉ではないものを受け取る。
「じゃ、お休みなさい」
「お休み」
         †
 一月三十一日金曜日。七時半起床。曇。五・四度。肌寒い。ランニングと一連の練習はしない。
「午後から雨になるそうです。明石のほうはどうなんでしょうか」
 台所からおトキさんが声をかける。主人が、
「明石も似たような天気やろ。この時期、名古屋より瀬戸内のほうが冷えこむと聞いとるけどな。風邪ひかんようにくれぐれも用心してくださいよ」
「はい。ぼくは風邪に弱いですから、ふだんからぜったいひかないように気をつけてます」
 八時半を回って菅野がやってきた。
「ちょっと雨気配ですが、神無月さんにはどんな日もハレがましい船出です」
 自分の存在をこれほどためらわずに是認されることに戸惑いを覚える。数々の人びとのおかげで順風に変わった不可思議な海路をいく。おトキさんが、
「漬けこんでまだ二、三日ですけど、持っていってください。五、六枚葉っぱを入れておきましたから、そのうち茶色い焼酎になります」
 二合瓶に入れた枇杷酒を差し出す。礼を言い、小さなボストンバッグにしまう。私に好意を寄せる人びとは、プロ野球のキャンプというイベントによって始まる未来を喜び、イベントそのものには大して関心がない。
「おトキさん、朝ごはんは、きしめんを一杯ください」
「チクワの天麩羅も載せますね。ホウレンソウは?」
「ホウレンソウも。できれば油揚げも載せてください」
 われもわれも、食卓がこぞってきしめんになる。厨房がきしめんを茹でるのに大わらわになった。女たちに言う。
「みんなマネっ子ですね」
「神無月さんの食べるものって、おいしそうに感じるんやもん」
「ごはんもちゃんと食べてくださいよ」
 おトキさんが一同を叱りつけるように言う。主人夫婦とトモヨさんと直人は、ふつうの朝ごはんになった。女将がアジのひらきの身をほぐして直人に与える。私は、おいしいかと訊く。コクリとうなずく。彼の目に父親の姿が映っている。
 父親を見ぬ子は早熟だ。何かになりたいと必死に望む。母親は外に出て忙しくしているので、だれにも甘えかかることができない。その子にあきらめがなければ、心は常に闇の中をさまよう。そして暗く静かで奇妙な人間という烙印を額に捺される。だれもが額の印から目を逸らす。やがて、奇妙な人間のまま人の使い走りになり、生活者を装いつつ、気弱に世間に紛れこむ。仕事仲間を家族と思い、命令を受けていろいろな場所へいき、汗まみれになって任務をこなす。そのほかの人生は消える。野球のおかげで私はかろうじてそのレールから外れた。
 直人は私とちがう。母親は外へ出るほど生活に忙しくないし、〈オチョウチャン〉がいるし、じっちゃも、ばっちゃもいる。必死に何者かになろうとしなくても、気ままに道を歩いていける。額に捺される忌まわしい焼印もない。彼は私ではない。
 ―そんな甘っちょろいことを考える前に、愛ある人間をてらって彼らを背負おうとする身ぶりを捨てろ。どうせ何につけ、背負ったことなどないのだから。


         二十八

 居間でブルーのワイシャツに紺のブレザーの上下を着、紺の靴下を穿く。
「向こうでのお小遣い、持ちましたか」
 トモヨさんに言われてポケットを探る。紙幣と小銭が触れる。
「十万円持った」
「これ、ベルトにつける鎖つき時計、何かと便利ですから持っていってください」
「わざわざ買ったの」
「はい、廉いんですよ」
 ベルトにつけてみる。ズボンのポケットにしまうと、細い鎖の装着部しか見えない。気に入った。女将が、
「お金が足りなくなったら、すぐ連絡寄こすんよ。電報為替で送るから」
「はい」
 食後のコーヒーを飲みながら、主人と菅野と三人でペナントレースの予想をする。直人が膝に収まる。一位巨人、二位阪神、三位中日、四位広島、五位大洋、六位サンケイ。
「やっぱり中日ドラゴンズの首位はないですかな」
「たぶんそうだと思います。三位でなければ、優勝があるかもしれない。スタートが悪いとAクラスも危ないかな。ほぼ確実なのはぼくの一つ二つのタイトルですね。打点王は期待してません。ランナーが出たとき、まともに打たせてもらえるかどうか。だれかとデッドヒートになるのはいやだな。へんな欲が出そうだ」
 女たちが神妙に聴いている。菅野が、
「四番、レフト神無月、背番号8」
 とウグイス嬢のまねをした。
「シェバゴ、ハチ」
 直人がまねる。
 時間がきて私が立ち上がると、一座がシンとなった。トモヨさんが直人を抱き取る。賄いたちも出てきて、うなだれている。中の中年の一人が、お気をつけて、と言った。するとほとんど全員が、お気をつけて、と言った。玄関で直人の頭を撫でてお別れする。
「おちょうちゃん、バイバイ」
 この子にはおちょうちゃんと呼ぶ父親があり、忙しくない母親があり、仕事仲間ではない家族がある。この先もずっとそうだ。この子も、生まれてくる子も背負おう。
「元気でいるんだぞ。すぐ帰ってくるから」
「ぱらぱら降ってますよ」
 おトキさんが何本か傘を用意したので、駅まで五分の距離をみんなで傘を差して歩いた。主人夫婦、トモヨさん、おトキさん、菅野。私はトモヨさんと相合傘でいった。主人が構内の売店で助六寿司を買う。車中でおやつに食うことにする。六人でホームに立つと、感極まってか、男二人が泣いている。主人が、
「もう神無月さんのゆくてを阻む人はおりませんよ。思うがまま、為すがままです。苦労の多い人生でしたな。これからは神無月さんが受けるのは声援しかありませんよ」
 女たちも泣きはじめた。おトキさんが深く頭を下げ、
「神無月さん、幸せにしてくれてありがとうございました。一生感謝します。道中お気をつけて」
 トモヨさんが私の胸に顔を預けた。女将が目頭を拭い、
「うちらも神無月さんに幸せにしてもらいました。これからは神無月さんが幸せになる番やよ。かならず幸せにしてあげるでね」
「神無月さん!」
 菅野が抱きついた。
「神無月さんの言うことは、どんなときもまちがいありません。今朝は女房の機嫌がいいせいで、秀樹まで機嫌がいいんです。家の中が明るいんです。ああ、これだ、これが生きるエネルギーなんだと思いました。―いってらっしゃい!」
「いってらっしゃい!」
「ラッチャイ!」
「いってきます!」
 ひかりに乗りこみ、一等車の座席に腰を下ろして、開かない窓から手を振る。ゆっくり動き出す。みんないっせいにお辞儀をし、懸命に手を振る。ピースサインを掲げたとたん、彼らは視界から消えた。
         †
 助六寿司は米原で食った。乗りこんだときから話しかけたそうだった横の席の中年が、
「ドラゴンズの神無月選手ですね」
 もぐもぐやっている私に声をかけた。
「はい」
「驚きました。あの有名な神無月選手が真横に座るなんて、めったにないラッキーです」 出し抜けに胸のポケットから手帳を差し出す。
「ぶしつけですが、サインをいただけますか」
「はい」
「ウミナミです。海の南」
 私は楷書で書かず、覚えたてのサインを書いた。海南さんへと添える。
「ほう、神、キ、ですね。美しいデザインだ。ありがたくいただきます」
 胸のポケットに大事そうにしまう。
「単独行動ということは、キャンプ地に向かわれるんですね」
「はい」
「どちらですか?」
「明石です」
「ああ、明石は魚がうまいですよ。瀬戸内海の魚です。キャンプの食事は、毎日ご馳走になりますよ」
「そうなんですか」
 男はポケットから名刺を出し、
「私、こういう者です。大阪の本社に帰るところです」
 竹中工務店、営業部長、海南(うみなみ)達治、と印刷されている。ルビが振ってあるのがおもしろい。たしかに振ってなければカイナンと読んでしまうところだ。
「上場企業ではありませんが、建築に特化して、技術力、デザイン力が高く、建築業協会賞をいくつも受賞してます」
 薄くなった頭頂の髪を指先で撫でる。
「すばらしい会社なんですね」
「野球にはけっこう深い縁があって、全国の半分近いスタジアムをうちが手がけてます。東京タワー、国立劇場もわが社が手がけました」
 中日球場は? とは訊かなかった。どうでもいいことだ。視線を窓に戻す。雨滴が間断なく当たって平べったい水のフィルムになる。景色はほとんどない。
「じつは私も東大です。理科Ⅰ類、建築学科。竹中には東大が多くて、東大が準優勝、優勝とつづいたときには、社内が何日も騒然となりましたよ」
 直井整四郎と同じ学部だ。
「中学時代の大秀才があなたと同じ学部に進みました。彼もぼくと同様飯場の子で、父親が一級建築士だと聞いた覚えがあります。桁ちがいの秀才でした。バケモノと思ってましたよ。あなたもそうだったんでしょう」
「いやあ、とんでもない。中学も高校も中の上でした。おまけに二級建築士の資格しか持っておりません。入社以来営業の方面でなんとかがんばってきたしだいで。神無月さんは飯場で暮らされたんでしたね。飯場の人びとに呼びかけた法政戦のインタビュー、感激いたしました。しかし、こうして直接対面しますと、聞きしにまさる美男子なので目のやり場に困ります」
「細かく見ると整ってないんですよ。遠目美男子というやつです」
 また窓の雨滴を見つめる。
「……心底ファンになりました。神秘的な人だ。どうかがんばってください。機会を作って甲子園に応援にいきます」
 新大阪でいっしょに降りた。改札を出て行く彼を改札の内から見送った。彼は振り向いて一度お辞儀をした。
 トモヨさんの懐中時計を出して見る。十二時十分前。駅員に乗り換え電車を確かめ、十二時七分発山陽本線の快速網干(あぼし)行で明石に向かう。窓外に見るべきものなし。ただ、神戸駅を過ぎてしばらくしてから車窓に見えた海景色はすばらしかった。
 十二時五十八分明石着。落下防止柵のない巨大な高架駅のホームに百人余りの報道陣が立ち並んでいる。降り立ったとたんにおびただしい閃光に襲われた。木製のベンチと水飲み場があるきり。売店はない。小森の向こうに二基の天守閣が見える。報道陣に押されてホームの階段を降り、北口の改札を出て、さらに百人を超えるカメラマンとファンに迎えられる。女性の装いは着物が多い。オブイコで赤ん坊を背負っている女性もいる。彼らといっしょになだれるように駅舎の外へ出る。腕をつかまれ、肩を叩かれる。見返ると〈国鉄明石駅〉の看板。
 何人もの警官が群衆を押し分け、私に道を作る。駐車場の車はトヨタパプリカ、クラウン、日産セドリック、サニー。
「ハーイ、押さないで押さないで!」
 曇り空が低い。雨は降っていない。気温は名古屋とまったく同じようだ。道と空だけの街。道に沿ってかなりの幅の堀が貫き、対岸に緑の森が濡れ髪のように貼りついている。公園か何かの生垣のようだ。
「明石城址公園の生垣です」
 訊きもしないのに、記者の一人が教える。警官に先導され、カメラの群れといっしょに歩いていく。駅前を左右に走る道路の左手を見ると、道の突き当たりに茶色い大きな建物がそびえている。高層建築物だ。
「あれがグリーンヒルホテルですか」
 記者たちが、ちがうちがうと手を振る。
「あの後ろ、あの後ろ!」
 森が途切れるあたりに城垣のようなものがあり、奥まったところに城門が見える。先導するファンたちが現れる。ついていく。警官が両手を広げて沿道の人びとをさえぎる。ひっきりなしのストロボ、フラッシュ。突き当たりを右へ曲がって、さらにノロノロ歩くこと五分。二階建ての横長の建物にいき当たる。背後に八階建ての白亜のビルが接着剤でくっつけたように建っている。警官がものものしく玄関ドアに導く。
「神無月さん、お待ちしてました!」
 奥まった玄関口に、村迫と榊と、もう一人見知らぬ顔が立って頭を下げた。急ぎ足で玄関ドアに向かう。記者連中がそちらへ雪崩れていく。私は二人に笑いかけ、
「警察を動員するほどだったんですね」
 村迫が、
「ビートルズか神無月郷かです。名古屋を出る時間を考えて、十一時から駅頭に立ってもらいました」
 板東英二を温厚にしたような見知らぬ顔が、
「マネージャーの足木です。よろしくお願いいたします」
 固い辞儀をする。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 天井の高い、異様に明るいロビーに入る。数名の警備員が出てきて報道陣をシャットアウトした。フロントへ連れられていく。足木が大声で、
「神無月です、神無月郷、五階七号室! ツイン」
「はい、神無月さま、こちらにご記入お願いいたします」
 書式に名前と住所と電話番号を書きこまされる。小型バッグを預ける。榊がボーイに、
「荷物、運んである?」
「はい、ぜんぶお部屋のほうに」
 今度はフロントに、
「帽子とユニフォーム三式、スパイクもいってる?」
「はい、8番と40番ですね」
「神無月さまには、バットも三本束包みで届いておりますが」
「それも荷解きしないで部屋に入れといて」
 喫茶ラウンジに導かれる。選手団がほとんどのテーブルを占めている。思わず目を瞠った。江藤慎一、葛城隆雄、中利夫、板東英二、高木守道、木俣竜彦、小川健太郎……いつか見た覚えのある顔がみんないる。壮観だ。彼らはこちらをチラと見るだけで、注視しない。戸惑っているとか、意地悪をしているという雰囲気ではない。通りがかりの仲間を見る顔だ。一人ひとりが思っていたより若く、肌ツヤがいい。私はだれにともなく深く頭を下げた。盛んにフラッシュを焚かれる。ホテルの玄関口から遠く、道に立ち尽くすファンたちが黒山に群れ、表の景色が見えない。村迫が笑顔で、
「まるで天皇の行幸ですね。神無月郷は巨人のスター選手なんてもんじゃすまないぞ。球界のスターですよ」
 太田が私に気づき、一人で座っていたテーブルから椅子を鳴らして立ち上がった。
「神無月さん、きょうから同部屋です。よろしくお願いします!」
 ヒョコンと頭を下げる。村迫たち三人が彼の隣のテーブルにつく。榊が、
「神無月くんに配慮して、二軍のきみを相部屋にしたんだ。よろしく頼むよ」
「はい、ありがとうございます」
「こっちのテーブルにきたまえ。ところで神無月さん、一等車できました?」
「はい」
「交通費は乗車券と特急券までしか出ないんですよ」
「いりません」
「そういうわけにはいきません。ただ、これからも一等席だけは自腹になりますよ」
「わかりました」
 太田のテーブルにつく。握手する。太田は押しいただくように握る。
「四週間、よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしく」
 あちこちのテーブルにコーチの姿がチラホラ見える。田宮コーチが、私たち五人がたむろするテーブルにやってきて、
「ご苦労さまです」
 とまず村迫に頭を下げ、それから私に、
「きたな、怪物。あしたからきついぞ。あご出さないようにしろよ。……少し気温が低いから遠投には気をつけてな。黄金の鉄砲肩だからね」


         二十九

 浜野たちが遠くのテーブルからこちらを眺めている。みな背広姿が大きい。力がありそうだ。榊が、
「大きく見えるでしょう? そのうち力差で体格の大小を見るようになりますよ。彼らと話してきますか」
「いや、親睦を図るのは苦手です。自然の流れにまかせます」
 足木マネージャーが、
「六時から会食ですが、時間を適当につぶしてください。太田くんと球場でも見てきたらどうですか。何局かテレビもうろついてるから、裏の駐車場から出たほうがいいですよ」
「太田と散歩してきます。じゃ、会食のときに。太田、いこうか」
 粛(しゅく)然と座っている太田に声をかける。太田はまたガタッと立ち上がって三人の男に礼をした。広い廊下に出る。ボーイに厨房脇の非常口へ導かれる。
「いってらっしゃいませ。このドアは開けておきます。帰りもここからお入りください」
 ガランとした裏道へ出る。
「足木マネージャーってどういう人?」
「こちらについて少し話をしました。昭和三十七年から通訳兼マネージャーをやってるそうです。もとドラゴンズの選手で、二十八年にたった一試合、守備だけの出場経験があるそうです。二十九年から八年間はトレーナーをしていたということです。その間に英会話教室にかよって英語をマスターしたという話でした」
「野球で生きられなかったので苦労しちゃったんだね」
「二十八年に入団したときのキャンプは熱田球場だったらしいですよ。ナルミの合宿から熱田球場まで名鉄でかよったと言ってました」
「へえ! なんだか親しみが湧くね。ところで、このへんに床屋はないかな」
「ホテルの裏手に一軒ありました。十二時くらいに着いちゃったんで、退屈しのぎにひと周りしてきたんです。俺なんかだれも寄ってこないので、のんびりしたもんでしたよ。あしたミーティングのあとで、いっしょにいきましょう」
「そうだね、きょうはまず探索だ」
 明石に到着してからずっと目を配っていたが、宇賀神の車も彼の姿も見えない。しかしたとえ彼の姿は見えなくても、だれかが私を衛(まも)る任務を引き継いでいるにちがいない。
「とんでもない神無月フィーバーですね。神無月さんも一時に着く必要なんかなかったんですよ。温泉じゃないので風呂に浸かって待つというわけにもいかないし、会食は六時からだし、部屋でゴロゴロする以外に時間のつぶしようがないです」
「初日くらい、早めにくるという誠意を見せとかないとね」
「あとで先輩たちに挨拶しますか」
「やめとく。何も話すことがない。すれちがったり目が合ったりしたら頭を下げる程度でいいんじゃないか。球場を見にいこう」
「カメラマンに見つかりますよ」
「撮影のためについてくるだけで、しつこいインタビューはしないだろう」
 太田はうれしそうにうなずき、
「ホテルの玄関の真ん前が明石公園で、その中に第一野球場があるんです。ホテルの裏側から遠くに海が見えますけど、あっちのほうにもおもしろい商店街があるそうです。公園を歩いたあとでいってみましょう」
 ホテルの正面玄関を遠く眺める交差点に出る。ファンの群れが玄関口に見える。眼鏡をかけ、うつむいて信号を渡る。大男二人は目立つ。走り出さないようにする。ひょっとしたら、あの群衆の中に護衛役がいるのかもしれない。
「太田は何センチ?」
「百八十二です。八十五キロ」
「でかいなあ。宮中でもいちばん大きかったもんなあ」
「神無月さんは?」
「ぼくもそのくらい。八十二、三キロ」
「ほとんど同じですね」
「同じじゃない。体重差は大きい」
「ウドの大木ですよ」
「太田の動きは緩慢じゃないよ」
 信号を渡りきると、公園の生垣の陰からとつぜんマイクを突き出され、
「神戸サンテレビです。明石市の印象はいかがですか」
 男四人のクルーだ。
「空ばかりの印象です。空がまだ文明にこすられてない」
「高層ビルが少ないということですか」
「ええ。ホッとします。いくところにいけば、たっぷり緑がある予感がする。どうしてぼくたちがここにくるとわかったんですか」
「玄関の取材は無理なので、まんいち球場の下見に現れたらと……」
「インタビューは受けません」
「もちろんけっこうです。音を拾わせてください」
 私たちはすたすた歩きだした。四人の男が活きいきとついてくる。
「しかし太田、おまえ、スーツ着て革靴で歩く格好がどこかぎこちないなあ」
 男の一人が長い竿マイクと集音マイクを掲げて傾けた。きちんと距離は保っている。
「神無月さんは似合ってますね。ふだんユニフォームを着こなしているのに、スーツもビシッと決まってる。俺は田舎っぺですよ」
「もともと名古屋っ子じゃないか。ぼくこそ背広も着たことのない東北人だ。これ、ブレザーだよ。ジャケットと言うのかな」
「はあ。とにかく神無月さんは何を着ても決まってますよ。宮中の学生服も格好よかった」
「宮中の話はやめよう。宮中以降の人生のほうが濃いはずだぞ。じゃなきゃ、ドラゴンズにきてないだろ。秋季合同キャンプ、いったの?」
「はい。神無月さん以外は全員参加してました。俺は去年の春、中日の入団テスト受けて本多コーチに合格のお墨付をもらって、半年待機して、秋にドラフト三位で入団ということになったんです。でも、合同キャンプで一球投げただけで、長谷川コーチに投手失格を言い渡されちゃって、その場にいた水原監督に打者転向を命じられました。二、三年、二軍でやってこいって。二軍の練習場は第二球場のほうなんで、今回、いっしょにがんばれません」
「いっしょにめしを食えればいいさ。気心知れた者同士で食えば楽しいし、消化にいい」
「はい。ドラゴンズのめしは豪華なことで有名です」
 振り返ると、テレビ局の男たちがニコニコ笑っている。
「バット、何本持ってきた?」
「二本です。あとはチーム支給のもので間に合わせます」
「だめだよ、特注しないと。それまでぼくのを使いなよ。一本あげる。久保田さんから何十本かチーム宛てに届いてるはずだから。手に合わなかったら返してくれればいいから」
「ありがとうございます。折ったら弁償します」
「いいよ、使いきれないほど持ってるし、何本でも注文できるから」
 内側が見えないように遮蔽の効いた樹木の生垣沿いに歩き、回りこんで裏側の入口から入る。常緑のセンペルセコイアの樹の下を通って、第一球場の入口に立つ。
「小さいな! 東大球場に毛が生えた程度だ。ドラゴンズの選手だと言って見学させてもらおう」
「だいじょうぶです。キャンプ期間中は、選手やマスコミに開放されてます。スタンドにいってみましょう」
 回廊に売店がある。菓子やジュース程度は手に入りそうだ。もう一軒、球場名物めしという売店がある。貼ってある写真によると、焼き豚とネギをタマゴで絡めた丼のようだ。
 三塁側ベンチ上のスタンド出入り口から観客席に出る。三塁スタンド後方に一対の天守閣が見える。ベンチ脇の記者席に、あしたの取材の準備をしていた男女のカメラマンが何人かいて、私たちに気づくと望遠でパシャパシャやった。
「おお、きれいだなァ。内野の黒々とした土と外野のわずかに枯れた天然芝のコントラストがすばらしい。東大球場よりは立派で、青森市営球場よりは貧弱だ」
「スタンドはボロいですが、グランドは甲子園と同じ土を使ってるらしいです。天然芝がみごとですね」
 バックネット一、三塁寄り上段に据え付けの屋根がかぶさり、バックネット上段に布のような屋根を張ってある。座席はバックネット下段は小さな背凭れがあり、あとはすべて長ベンチだ。便所は一、三塁寄りの内野スタンド下にあり、和式で数が少ないうえに汚い。
「一般のプロ野球の球場で言うと、内野指定席までがスタンドなんですね。あとは芝生席になってます」
「一応、十二、三メートルのネットを場外ラインに張り巡らしてあるな。ネットの周囲は森だから、打球が飛び出しても何の危険もない。芝生席を入れると、一万人以上収容できるね。両翼百、センター百二十二。ふつうだな」
「神無月さんはほとんどネット越えですね」
「少なくとも、ふつうのホームランを打つのは簡単そうだ」
 スタンドを巡って歩く。バックネット裏のスタンドは二十五段、ほかのスタンドは十五段。芝生席はやや勾配があり、十メートルほどの幅の斜面になっている。上端には桜の木が等間隔に植わっている。高校野球にはピッタリの大きさだ。記者たちが増えてきた。ホテルから駆けつけたらしい二、三人の記者もやってきて、親しげに私たちに話しかける。テレビ明石の腕章を巻いている。
「信号を渡る姿が神無月選手に似ていたので、もしやと思って走ってきました。よかった」
「よかったですね。ほかの記者たちは気づかなかったんですか」
「目配りが弱いんですよ」
 テレビ神戸の記者たちと見合って笑った。
「キャンプ中の紅白戦は?」
 私は太田に訊いた。
「八日と二十二日にやるそうです。二十二日で打ち上げて、二十三日にチェックアウト。紅白戦を観るのは有料で、ネット裏百五十円、内野スタンド百円、芝生席五十円。選手は無料なんで、二軍の選手たちがネット裏から観戦します。二軍が一軍の紅白戦を見学するのは強制ですから」
「あそこに見えてる城にでもいってみよう」
「明石城―」
「やめようか。歴史探訪の旅でもないし」
「やめましょう。看板読まされるのが面倒です」
 大きな池に向かう。井之頭池に似ているが、はるかに大きい。
「剛ノ池です」
 記者の一人が言う。
「絶景だね。水鳥がきれいだ」
 記者たちがうれしそうにうなずく。
「手漕ぎや足漕ぎのボートで水面散歩ができますし、池の周囲の一・五キロの遊歩道はジョギングやウォーキングの人で賑わいます」
 遊歩道の果てまでいき、太田は森の上方を指差した。
「あの森の向こうに第二球場があります。園内から入れないので、ホテルの玄関から右へぐるっと回っていかないと入口にいけません」
「第一球場は公園の正門からすぐだよね。いまは遠回りしちゃったけど」
「はい。第二球場は両翼が八十メートルしかありません」
「差別だね。マスコミもこないだろう」
「五、六人ですね。仕方ないですよ、二軍は影の存在ですから。半数近くが十年近いベテランで、ほとんどそのまま退団でしょう。俺はがんばりますよ。神無月さんの足もとにでも近づけるよう打力を磨きます。くどいようですが手本にはしません。逆立ちしても学べませんから。……中学校からそうだったもんなあ」
 神戸テレビが、
「中学校からどうだったんですか」
「バットスピード! 特に手首の送り! 神技だね。だれもまねできない」
 メモ役がしきりにボールペンを動かす。テレビ明石が、
「新人の一軍選手は何人ぐらいいるんですか」
「神無月さんと浜野さんと島谷さんだけです。どうにか二軍から一軍に上がれそうなのは、水谷則博かな」
「おまえもそうだよ。……海のほうへいってみようか」
 もときた道を戻って、ホテルを遠目に見ながら鷹匠町の信号を直進してガードをくぐり、回りこんで繁華な明石駅の東口へ出る。右折して、タコの大看板を掲げた魚の棚という商店街に入る。
「これ? おもしろそうな商店街って」
 太田の代わりにテレビ明石が答える。
「そうです! ウォンタナ商店街です」
「うおのたな、じゃなくて、ウォンタナ? 英語みたいだな」
 竿マイクに付き添われる形なので目立つ。球場からくっついてきた記者やカメラマンがいつのまにか二十人以上にふくれあがっている。それに倍する通行人が群がる。
「神無月じゃ!」
「神無月!」
「ええ男じゃ!」
「横のロボット三等兵、だれじゃろう」
「ドラ三の太田でねえかな」
 太田が苦笑いする。
「横浜にいたころ、貸本屋に並んでた漫画だ。危険な戦線で戦うまじめなロボットだ。なつかしいな」
 海路という店の前で、爪楊枝にさしたタコを差し出される。断る。シャッターが切られる。鰻屋、牡蠣屋、ちくわ屋。はましんという店の看板の前で立ち止まる。
「浜焼き?」
 テレビ明石が得意げに、
「獲れたての魚介を網に載せて炭火で焼いて食わせる店です。めちゃくちゃうまいですよ。この店は何度か取材しました」
 太田が、
「ビールを一杯ひっかけましょう」
 ビニールテントのような暖簾を押して入る。客はいない。ビデオ記者やカメラマンが勝手知ったように入ってきて、新聞記者連は暖簾を覗きながら外に控えた。店主は私たちの来店に喜び、
「サービスします!」
 と叫んだ。
「だめだよ、はい、二人分」
 一万円札を出す。
「受け取れません。神無月選手から金を取ったとあっては、商店街の連中から袋叩きにあいます」
 タコの切り身、サザエ、ハマグリ、ハタハタ、イワシの丸干し。
「タコは、網の上から直接醤油をかけて食べてください」
 太田を見ながら、
「こいつは太田安治。覚えにくいでしょう。あだ名はタコっていうんです。そっちの名前で呼んで注目してやってください。すぐ一軍に上がってきますよ」
 太田が頭を掻いて辞儀をする。
「うまいな!」
「うまいですね」
 ビールを流しこみながら食うと、どれもこれもとんでもない美味だ。かしましいシャッターの音。ビデオ記者たちが店から走り出していく。地元のテレビ局の連中にちがいない。夕方のニュースで流すのだろう。
「ごちそうさん! じつにうまかった。いいエネルギーになった。あしたからの練習、球場に観にきてください」
「はあ、一家でいきます。かあちゃん、ちょっと写真撮って! それから色紙!」
 奥に呼びかける。女房が髪を撫でながら簡易カメラを持って出てきて、ホホホと笑いながら握手を求める。マジックペンと色紙を差し出す。文江さんのサインをして、はましんさんへと添えた。一人でも十人でも、当分このサインになりそうだ。女房がカメラを構え、店主が私と太田に並びかけてピースサインを出す。


         三十

 店を出ると、続々と路上の人たちが気づいて寄ってきた。よくある商店街のコマーシャル撮影でないとわかったようだ。
「神無月さーん!」
「ホームラン王!」
 太田がまるで付き人のように、サイン禁止の腕バッテンを掲げた。たしかに一人ひとりサインしたらキリがなくなる。文江さんのサインでもきつい。無視して歩きだす。
「あ、これだ、明石焼き」
「明石焼き?」
「有名なんだよ。ふわり、とろりとしたタコ焼き」
「入りましょう」
 カメラマンたちがグイグイついてくる。客が立てこんでいる。
「じっきに空くけぇ、外の椅子で待っとってつかぁせぇ」
 眼鏡の店主が言う。外の縁台で坐って待つ。カメラマンたちは立っている。神戸サンテレビが、
「やっぱり待ちますか」
「待つ。食いたいから」
 太田が、
「明石焼きというのは初めて聞きました」
「丸い卵焼きなんだ。中に大きなタコが入ってる」
 太田が苦笑いする。
「タコばっかしですね、きょうは」
 ニッカボッカ姿の四、五人の客が出てきて、
「どうぞ、神無月選手! あわてて食うて出てきたよ。明石を有名にしてくれてありがとの。応援するけぇなぁ」
 手を振って去っていく。太田といっしょに頭を下げた。店内に入る。
「すまんじゃった、お待たせしてしもうて」
 店主と婆さん二人が深々と頭を下げる。店に残っていた子供たちが、神無月、神無月と言って寄ってくる。手を取ったり腕を握ったりする。そのままにさせておく。
「太いなあ、丸太ン棒みてぇじゃ」
 いい構図らしく、激しくフラッシュが光る。一人前十個。冷たいダシにつけて、アツアツのタコ焼きを食う。
「うまい!」
 二人同時に言い、ビールを一本注文する。太田が、
「食感がタコ焼きじゃない。うまいですね!」
「くどいようだけど、タコの周りが卵焼きなんだよ。名古屋で、これをまねて作った卵焼きを食わされたことがあったけど、やっぱり本場のほうがはるかにうまい」
 この道一筋らしい老婆二人は私たちの正体などどうでもいいらしく、ただうまいうまいという嘆声に心から笑った。金歯が素朴に光った。ジーッというビデオの回る音、パシャパシャというシャッターの音。豚とイカのミックス焼そばを婆さんに炒めてもらう。これまたうまい。
「おいしいです!」
「ゴッツァンです!」
 記者たちも注文し、中の一人が私たちの分も含めた全員の料金を払った。出演料のつもりではなく、好意からそうしたのがわかった。
 店を出て、今度こそ海のほうへ歩きだす。サンテレビのレポーターに礼を言う。
「取材費ですよ。途中で社に連絡をとりましたので、お気遣いなく。とにかく、取材している以上、神無月さんと太田さんに飲食代を支払わせるわけにはいきません。すばらしい絵と音が録れました。ありがとうございます。あしたの朝六時半に放送させていただきます」
 太田が、
「神無月さんのおかげで、俺までニュースに流れるのかァ。オヤジやオフクロが見たら喜ぶだろうなあ。ふんどし担ぎじゃないことを早く世間に知らせなくちゃ」
「ふんどしなんか担いでないだろ。いっしょに食い歩いてるだけだ。おまえのシュアなライト打ち、いまでも目に浮かぶよ。関はよく一塁線を抜いたけど、おまえは右中間を抜いた。サードの守備もすばらしかった。プロになる運命だったんだな。なんでまたピッチャーなんかやっちまったんだ」
「チームメートと監督におだてられましてね。弱いもんですよ、特に監督におだてられれば選手は何でもやる。百四十キロもないスピードで、そこらへんの高校のバッターを抑えて鼻を高くしてたなんて、恥ずかしい。甲子園に出るピッチャーのほとんどがそうですよ。俺は出たことないですけどね」
「肩や肘は壊さなかったの」
「頑丈にできてるんでしょう、だいじょうぶでした」
「むかしから送球の仕方がよかったからね。とにかく、将来は中日ドラゴンズのクリーンアップだ。ぼくと打とう」
「ほんとですか!」
「おだてじゃないからね。早く二軍から出てきてよ」
「オーシャ!」
 逐一録音している。太田が、
「うまく選んで放送してくださいよ。先輩たちにいじめられたくないですからね」
「だいじょうぶです。明石の散策を楽しんでるといった表面的なものになります。うちは夕方五時半のニュースでさっそく流します」
 ビデオ機器を抱えた男が挨拶をして足早に去る。別の新聞社の記者が代金を払い、みんなで店を出る。また人混みに取り囲まれる。
「これ以上飲み食いはやめよう。芸能人のグルメ旅行番組じゃないんだ。食い歩きはみっともない。お、潮の香りがしてきた。海が近いね」
 野辺地に似た町並になった。
「海までは遠いかもしれないな」
 記者の一人が、
「すぐです。三分ぐらいですよ」
 大きな橋を渡り、高層マンションの立ち並ぶ洲のような区画に入る。
「埋め立てて作った洲だな。ああ海だ! 入り江だね」
 別の記者が、
「あの真っ青な海原は明石海峡で、こっちが市街地と港です」
 高層のビルに低層のビルが混じり、じつに美しい整い方をしている。これほど美しい市街地を見たことがなかった。
「ヨーロッパみたいだ。夜がきれいだろうな」
 洲を一周して橋に戻った。振り向くと、十人に足りない報道陣がやや離れて随っていた。竿マイクを掲げている者の疲労が顔に表れていた。
「ご苦労さまでした。ホテルに戻ります。くどいようですが、この太田は、いずれクリーンアップを打つ器です」
 集音マイクの円盤に向かって言う。太田さんがんばってください、と明るい声が上がって、ストロボが二つ、三つ弾けた。橋を渡る。左折する。記者たちがどこまでもついてくる。ホテルまでついてくるだろう。
「本町一番街、か。さびれた商店街だね。ここを歩いて帰ろう」
「神無月さんの背中、さびしいですよ。どうしてかなあ」
「太田もさびしいからだよ。人は根にさびしさを持ってる生きものだ」
 ほとんどのシャッターが下りている通りをいく。十字路から右を見ると、魚の棚(ウォンタナ)商店街に交わる通りが見えた。町並に果てがないように思えたので、大きな交差点で右折する。魚の棚商店街と交差するように進む。さっき見たばかりの味よしという店の前を通り抜け、大通りを渡ってホテルを目指す。
「靴ずれ、きました。スパイクよりきついわ。慣れないものを履くとだめですね」
「あしたからの練習に支障が出るよ。ちょっと待って」
 小さな薬局に入り、絆創膏とオキシドールを買う。靴と靴下を脱がせて消毒し、傷に絆創膏を貼る。
「風呂に入ったあと、剥がしてから寝てね。朝また消毒して、新しいのを貼って」
「すみません。ありがとうごさいます。神無月さんはだいじょうぶですか」
「アキレス腱に当たるところが軟らかい靴を履いてるから。ほら、太田もこういう靴を探して買いなよ」
 ふかふかした縁を指先で触って感心している。集音マイクが意外なそばにあった。
 ホテルに着くと、四時に近かった。選手たちの姿はない。ラウンジのソファに二人でドッカと座った。二時間歩き回った。太田が靴ずれするのも無理はない。報道陣はたがいに挨拶し合って玄関で解散し、配下に機材を持たせて帰した数人がロビーのテーブルで書き物を始めた。いっときして書き上げると、私たちと握手をして去っていった。森下コーチがどこからか現れ、並んで腰を下ろし、
「毎年静かなものやったが、今年は派手だな。あしたの球場には何千人押しかけるかわからんぞ。みんな神無月目当てだ。よう無事に帰ってこれたな」
「マスコミ嫌いの評判を聞いてますから、彼らなりに機嫌を損じないように気を使ったんでしょう。何人かの記者たちと歩きましたよ。きょうの夕方五時半と、あしたの朝六時半のニュースで放送されるそうです」
「そうか! いい宣伝になった。会食は六時やな。部屋でニュースを見てからいこう」
 いそいそと立ち上がり、足早に去っていった。太田が、
「部屋にいきますか。ひと月の棲み家です」
「いこう。立派な部屋なんだろう?」
「すごいですよ」
 ボーイに案内されていってみると、ふつうの部屋だった。ただ、意外に広かった。バットが振れそうだ。
「机使う?」
「いいえ、どうぞ使ってください」
「そう。じゃ遠慮なく使わせてもらうよ」
 机の左が大窓で明るく、海側の部屋なので眺めもいい。
「何かございましたら、ダイアル2番をお回しください。どうぞ、四週間よろしくお付き合いくださいませ」
 ボーイが太田に鍵を渡して去った。二人で廊下に出て、各部屋の名札の確認に回った。ドアの横に表札が差しこまれ、二人並びで氏名が書いてあった。いちばん端の部屋が水原監督で一人部屋、その向かいが村迫代表と榊スカウト部長で二人部屋、あとは向かい合って二名ずつ、コーチの名が並んでいた。
「神無月さん、この階で選手は俺たちだけですよ」
「差別だね」
 太田は声を忍ばせて笑い、
「神無月さんは、ウルトラ特別扱いなんですね。俺、場ちがいかも。きょうの会食は全員集まりますが、二軍選手は全員キャッスルホテルというところに泊まってるんです」
「駅から左へ歩いて突き当たった大きなビル?」
「そうです。二軍コーチは、本多さんと長谷川さんはこっちに泊まってますけど、岩本さんも森下さんも塚田さんもキャッスルに泊まってます。俺だけですよ、グリーンに泊まってるの」
「入団式のときにぼくを捨て身で守った男だ。というより、客観的に見て太田は将来を嘱望されて一軍扱いということだな。単なる知り合いを同部屋に振り分けるなんてことはないだろう。プロともあろう者が、おモリじゃないんだから。浜野さんもこの階に入れたかったにちがいないけど、あんなことがあったから警戒したんだね。浜野さんの性格から考えると、あれで一件落着でないかもしれない。だとしても何ほどのこともないけどね。さあ、シャワー浴びて、着替えて、食事会だ」
「その前にニュース観ましょう」
「その前にバットを進呈するよ」
 一方のベッドの脇壁に立てかけてあった届け荷物の包装を破り、三本包みのバットの中の一本取り出して与えた。
「久保田さんという、ミズノに勤める名人が作ったんだ」
 太田は太い部分に頬を当てた。それから握り締めた。
「おう、シックリくる!」
「振ってみたら?」
 ブン、と一振りする。
「いいなあ! ほんとにもらっていいんですね」
「もちろん」
「神無月さんも振ってみてください」
 ゆるく五度ほど振ってから、ブンと膝のあたりを切る。
「すげ! 振り出しと手首が見えなかった。ぜったい人に教えられないスイングだ」
「一番得意なコースを振ったんだ。いまのコースをミートできたら、百パーセントホームランにする」
「ピンポン球みたいに飛ぶのが、いまのスイングで理屈抜きにわかります」
「しかし、おまえ、あらためて見ると背が高いな。迫力あるよ。ガタイもいいし。それにしちゃ振りが小さい。そのからだでミート主体はないだろう。大きく振りなよ。ちょっと振ってみて」
 振る。
「ちがう! もっと左脇を絞って、右肘を後ろへ引いて、はい、ブン! オッケー、その振り方だ。呑みこみが早いな。おまえホームランバッターになれるよ。ファームでホームラン打ちまくれ。すぐ一軍だ。低目をホームランできるようにイメージしながら、いつも素振りをするんだ」
 ふと、死んだ木田ッサーを思い出した。相手が相手だけにツーカーで伝わるが、教える気持ちはあの日と同じだった。
「ヒットを打って楽しんでるようじゃだめだ。ヒットの延長線上にたまたまホームランがあるんじゃなくて、ホームランの打ちそこないがヒットなんだよ」
「基本はホームランですか!」
「そうだよ。あたりまえだろ。ホームランを打てば、だれにもじゃまされずにホームに帰ってこれるんだから最高の効率だ。あっという間に一人で一点から四点叩き出せる。仕方なくヒットが積み重なって得点することもあるけど、そういうときは作戦が必要になって、まだるっこい。ホームランには作戦なんかいらないんだ」
「……初めて聞く考え方です」
「初めて聞く考えに決まってる。ホームランの打ちそこないが打点に結びついているうちは、一流でいられる。それが凡打になるようになったら、ぼくは引退する。つまり首位打者が獲れるうちは引退しない」
「ついていきます!」
「江藤さんはクリーンアップを打てるけど、もう一人いない。おまえだよ。紅白戦で打ちまくれ。そして四月からスタメンだ。たぶん七番に置かれるな。よほど強敵が現れないかぎり、六月には三番か五番だ。待ってるぞ」
「はい! あ、テレビ忘れてた」
「そんなのどうでもいいよ。さあ、シャワー浴びて、めしだ」



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