十九 

 葛城が、
「田宮さんが言うには、きょうは徳やんがサードで先発だ。途中から島谷だろう。俺は代打。八回か九回だな」
「ピッチャーは小野さんですか?」
 小野に尋くと、
「私か、健太郎さんだろうね。二人とも中五日だからたぶんお鉢が回ってくる。ロッテはまちがいなく小山だね。早い回に神無月くんに切り崩されないようにするためだよ。パームで目くらましするつもりだろう。ストレートもけっこう速くて、ヒュッと浮き上がってくるしね」
「パームというのはどういうボールですか」
「親指、薬指、小指の三本と、手のひらだけで投げてくるボールだ。遅くて、高いところから落ちてくる。それだけじゃなく、ナックルみたいに揺れたり、スライダーみたいに横に滑ったりすることもある。神無月くんの動体視力にかかったら、ただの遅い球だよ。成田の高速スライダーのほうが怖い。稲尾とドッコイのスライダーだ。ストレートが百五十キロちょい、スライダーが百四十キロちょい。小さくするどく真横に滑る。制球力は抜群で、ストライクゾーンの四コーナーを自在につく。スライダーは多投するわけじゃなくて、ゆるいカーブと速いストレートでカウントをとったあと、ここぞというところで投げてくる。手こずると思うよ」
 成田の先発かもしれないと思った。しかし私は左打者だから、外角へ逃げていかれる実害はこうむらない。葛城が、
「金太郎さんはオープン戦三試合で何本ホームラン打ったか憶えてるか?」
「さあ、きのうの四本しかハッキリしませんが、七本ですか?」
「九本だよ。東映戦で五本。じつは九本はオープン戦新記録だ。王の五本、長嶋の七本を超えた。少なくとも三十本は打つだろうから、前人未到の記録になる。そんな男が目の前にいるのが信じられないよ。この新聞見てごらん」
 テーブルの下の網棚からスポーツ紙を取り出し、一面を見せる。

     
ロッテ投壊十九失点
       神無月三戦九発 神の御業


 神無月は黙々とホームランを打ちつづける。バットがボールを捉えれば十中八九ホームランになる。インタビューのマイクに向かって、出塁することを心がけています、などと言わない。チームに貢献できてよかった、とも言わない。何も考えていないのである。ただ「ホームランの美しさを見てもらいたいんです」とだけ言う。そして、われ関せず焉(えん)と試合にアクセントをつけていく。
 入団以来、ホームランを打ったあと快速の走りでダイヤモンドを回ることが少なくなった。前走者に対する気配りなのだろう。プロに入って神無月が変わったことといえばそれくらいのもので、小学中学高校大学プロと、ひたすら変わりなくホームランを打ちつづけている。
「天から降臨した天馬であるからには、昇天もあり得ますが、まだまだ地上にいらっしゃいますよね」
 とマイクを向けると、
「ぼくは少しだけ才能のある、ただの野球小僧です。その才能を全開にして、私を愛でてくれる人たちに報いたいんです。彼らの住むところ以外にぼくの住む場所はありません」
 と言って、足早にベンチの奥へ歩み去った。三試合、十五打数、十一安打、打率七割三分三厘、九本塁打。〈ただの野球小僧〉の背中に後光が輝いていた。

 新聞を読み終わった私に小野が言った。
「微妙にデッドボールを狙ってくるから、気をつけてね。ピッチャーとしては、そんな野球の権化はオミットしたいに決まってるわけだからさ。とにかくいつもデッドボールに気をつけて」
「はい」
 新しいストッキング、新しいアンダーシャツ、新しいユニフォームを身につける。明るい心が訪れる。
 窓の外は快晴を予感させる曇り空。タイメックスを見ると、気温、六・七度。日中でも十度までだろう。みんなとワイワイやりながらバスに乗る。この時間が楽しい。
「針の穴を通すコントロールってことは、荒れ球じゃないってことですよね。それってありがたいんじゃないですか」
 太田が言っている。
「打ちにくい穴に通してくるんだよ。バカ」
 木俣が頭をピシャリとやる。太田の言うことには理があると思った。小山はだいじょうぶだ。私は田宮コーチに、
「左バッターに横滑りのスライダーは、どんな感じでくるんですか」
「ピュッと近寄ってくる。そうなってから手を出すと、ミートしても詰まる。前で見定めようとしても、ストレートと同じ球筋だから、曲がるかどうか判断できない」
「前に出てストレートとして打ってしまうしかないですね。ボックスの真ん中で、格好よくスライダーとして打ちたいなら、予測して振り出すしかない。予測はできます。ボールをリリースする瞬間、カニの爪みたいに見えるはずですから。ストレートは親指が見えないでしょう」
「なるほど……。しかしそこまで見えるかなあ」
「難しいでしょうが、指の雰囲気だけは見えます。でもぼくは直球もスライダーも、ギリギリまでボックスの前に出て打ちます。前に出ても早めに曲がってきたら、曲がりハナを叩くしかない」
 選手控え室で、みんなでホテルの重箱弁当を食った。肉と揚げ物と野菜の比率をよく考えたうまい弁当だった。めし粒一つ残さず食った。
「巨人戦もこれだな」
 独りごちると、木俣が、
「ホテルニューオータニだもの、格別にうまい。後楽園の選手食堂のめしはまずい。ぜったい食ったらいかんぞ」
 江藤が、
「まずいなんてものでなか。味がせんとよ。味噌汁は澄まし汁たい。巨人軍は選手のことをなんも考えとらん。浜野、巨人にいかんでよかったな」
「別の意味でそう思ってます」
「何や、別の意味って」
「野球以前に、野球と関係ない管理体制にやられちまう。本番前に死んでしまうということです」
「王、長嶋は死んどらんぞ」
「彼らは管理されるのが好きなタイプですよ。気にならんのでしょう。たとえば神無月が巨人にいったら即死ですよ。選手生命、一年もたなかったかもしれない」
「さすがの巨人も、ベーブ・ルースは放っとくやろう」
「いや、浜野の言うとおりかもしれない。管理嫌いで、マスコミ嫌い。巨人の体質と正反対だからね」
 長谷川コーチが言った。菱川が、
「神無月さんに比べたら、どいつもこいつも小物ですよ」
 小川が、
「金太郎さんは徒党を作らん神さまだ。神さまには大物も小物もない。独りでそびえてるんだよ。俺は十点取られても負けた気がしない。神さまが取り戻してくれるからな。この一年、俺たちは神頼みが多くなるぞ。舟券も中ててくれれば最高だけどな」
 江藤が、
「神さまをギャンブルに引っ張り出すんでなか」
「へい、へい」
 ロッテオリオンズの先発は私の予想どおり成田だった。ロッテのメンバーも審判員もきのうとまったく同じ顔ぶれ。球審は丸山になっている。ドラゴンズのスターティングメンバーは多少変わって、一番中、二番高木、三番江藤、四番神無月、五番木俣、六番サード徳武、七番ショート一枝、八番ライト菱川、先発ピッチャーは小川。太田コーチが、
「控え審判なしの六人で回してるな」
「どういうことですか」
「ふつうは、ボール磨きの控え審判がネット裏に控えていて、翌日の試合に出場するんだ。球審をやった審判が控えに回り、一塁塁審か三塁塁審が審判に回る。あとの五人は微妙に入れ替わる。巨人戦はそうなるだろうな」
 観客は三万一千。一塁側の内外野がきのうより少し減ったのは、大敗にガッカリしたオリオンズファンの足が遠のいたせいだろう。ブルペンの小川の球が走っている。きょうも打たれる気配がない。
 ただ、マウンドの成田の球がすごい。ゆうに百五十キロは出ている。スライダーを見たいのだが、投げない。ふと、テルヨシの顔が浮かんだ。彼はこんな球を放れるようになるのだろうか。しょせん素人のまま、大学野球で終わるのではないだろうか。新聞にも彼のことはいっさい出てこなくなった。六大学のピッチャーの話題と言えば、法政のサウスポー山中正竹のことばかりだ。身長百六十八センチ、球は速くはないが、凡打を打たせて取る絶妙の制球力、秋までに前人未到の五十勝を達成するだろうと言われている。私はその男から三、四本ホームランを打っている。カーブとスクリューだったような気がする。
 中の三球三振でゲームが始まった。ストレート、カーブ、スライダーのワンセット。一丁上がりという感じだ。高木、内角のスピードボールにバットを折ってピッチャーゴロ。常に球審の右手が上がっている感じだ。とにかくコントロールがいい。そして速い。
 緊張した面持ちで江藤がバッターボックスに入ったが、ポールぎわに大ファールを打ったあと、スライダーを二球つづけて空振りして三振した。そのとき、ベースの外角からどの程度曲がってキャッチャーミットに収まるのかを目に焼きつけた。十数センチ、かなりの曲がりだったが、曲がりだすのはベースをよぎる直前だった。ボックスの前方に立てば直球とほとんどちがわない。
 守備につく。空が真っ青に晴れ上がった。雲が動く。すがすがしい。中と強めのキャッチボール。レフト線審がきょうも露崎さんのままだ。
「あれ、露崎さん、きょうもここですか」
「きみを見ていたいんで、申し出たんだ。線審なんかだれもやりたがらないんで、ライバルなしだ。私はパリーグだから、きみを見るのは、またずっと先のことになる。目の保養をしておかないとね」
「ありがとうございます」
「ありがたいのはこっちだよ。お、プレーがかかったよ」
 ゆっくり守備位置につき、前傾して踵を上げる。小川の、すいすい、ちぎっては投げが始まる。前田ショートゴロ、おっと、芝の切れ目でイレギュラー。一枝三遊間へ弾く。内野安打。池辺、キャッチャーフライ。ワンアウト一塁。
 榎本のバネのように屈んだ構え。不得意なコースはないと聞いている。きのうは全打席凡退だった。ライトライナー一本に見応えがあった。小川初球、外角へフワリとカーブ。強振。
 ―うへー! 弾丸ライナー。
 ライト前ヒット。ついに見た。菱川が腹にぶつけるようにして前に落とす。百七十センチのからだから打ち出されたとは思えない打球の速さだ。小川にスイッチが入る。アルトマン、ロペスと連続三振。ダッシュ。きょうはレフトへ一本打ちたい。露崎さんが腕を回すのを見たい。
 ヘルメットをかぶる。帽子は尻ポケットに。
「ウッヘ、ヘィ、ヘィ!」
「ヨ! ハ! ホー!」
 コーチたちの奇妙な叫び声。三塁側内外野席の金太郎コール。静かだったはずのプロ野球のスタンドが、六大学状態になっている。沈黙の世界は見つからない。自分が何かの一部だと感じる。いまはすべてが単純だと感じる。一塁ベンチの後方に、鳶(とび)のいでたちで纏(まとい)を高く差し上げている男がいる。ロッテの私設応援団長かもしれない。
 バッターボックスに立つ。あしたにはあしたの闘いがある。だからきょうは精いっぱい闘え。成田文男。二十二歳。プロ五年目。やさしい顔。頬が少し削げている。ボックスギリギリまでピッチャーに寄る。ギリギリと言っても、ラインより十センチ手前だ。打つときに片脚が完全に外に出たらアウトになるからだ。構える。私は構えたらけっしてボックスを出ない。初球、ストレート、速い! 高いので見逃す。ギュンと胸のロゴを過ぎて曲がった。スライダーだったのだ。見逃すまでは直球だった。成田の指先をまったく見定められなかった。
「ボール!」
 丸山球審の声。バットをベース上で振る選手には魔球かもしれないが、ベースの前で振る選手にはただの速球だとわかる。二球目、外角の腰あたり、少しスピードを落としたストレート。そんなストレートは投げないピッチャーなので、カーブにちがいない。低目へ落ちようとするところを押し出すように叩く。きちんとバットに乗せた。真芯だ。ラインドライブしてお辞儀する。レフトのアルトマンがラインぎわへ突進していく。二塁打と見こんで全速力で走り出す。五センチほどラインの外へ落ちた気がした。露崎さんが両手をバタバタさせて、
「ファール! ファール!」
 と大声でコールする。一塁と二塁の中間からホームベースへ駆け戻る。醍醐がマウンドに小走りにいく。どう相談しようと、次は内角の高速スライダーに決まっている。詰まらせようとするはずだ。いや、ど真ん中へホップするストレートかもしれない。成田が胸の LOTTE の赤いロゴを見せて振りかぶる。グローブを高く掲げ、大股に踏み出し(浜野にそっくりだがふんぞり返ってはいない)、投げ下ろす。カニ爪の指の形が見えた。ほらスライダーだ! 
 ―コースは? 内角。高さは? 膝。よし!
 球速に負けないように左足に重心を固定し、バットとボールの接点を睨みつけながらしっかり腰を入れる。手応えもなく素軽く振り抜いた。
「いったヨー!」
 半田コーチの叫び。ウェイティングサークルの木俣が、
「ヨッシャ、ヨッシャ、ヨッシャー!」
 と連呼する。空を見上げたきり内野も外野もだれ一人動かない。ライト線審の中田が意味のないことをしているといった様子で右腕を回す。ボールは照明灯の二本の鉄脚のあいだを真っすぐ通り抜けていった。きょうはスピードを上げてダイヤモンドを回る。歓声が背中を押す。二塁を回り、サードの丸山が私の足もとを見つめるのを目の隅に入れながら三塁を回り、水原監督と片手でロータッチ。
「ナイスバッティング!」
 水原監督が初めて感想を言った。
「ホームイン!」
 取り巻かれ、叩かれ、撫ぜられ、握手されながらベンチへ戻る。


         二十

 木俣が背中に、
「曲がらなかったのか!」
「ボックス、前へ、ラインから二十センチ手前へ!」
「オッシャ!」
 一対ゼロ。木俣がボックス先端のライン近くに左足を据えて、低目のスライダー(ストレート?)を思い切り叩く。低いライナーがライト前でワンバウンドした。半田コーチが私のバヤリースを忘れて、
「ビッグイニング!」
 と怒鳴りはじめた。徳武が二本のバットをブンブン振り回しながらバッターボックスに向かう。一本をサークルに放る。ボックスに入り、足もとを均し、九十キロの体重でデンと構える。ミッキー・マントルの体重だ。力が入りすぎている。彼は足もとのファールが多いので、自打球が怖い。飯場のテレビで初めて東京六大学を観たときも、彼は足もとにファールを打っていた。内角に手を出さないように祈る。いま自打球を当てたら、もう復活はない。
 初球、高めの速球、空振り。勢い余って尻餅をついた。スタンドからワッとうれしそうな喚声が上がる。専売特許所有者の江藤に訊く。
「徳武さんはだれとの交換でドラゴンズにきたんですか」
「河村保彦たい」
「あ、憶えてる。背番号28、月光仮面」
「ン?」
「河村は月光仮面の大村文武に似てるんです。坂東・河村時代によく中日球場にいきましたから、見るたびにいつもそう思ってました」
「大村文武? 知らんのう。河村も徳やんと同じで、サンケイでもパッとせんようばい。あ、打った!」
 ボテボテのファーストゴロだった。スライダーを引っかけたのだ。ケガがなくてよかった。
 一枝がバッターボックスに入る。細面、小さな痩せたからだ。ベンチ裏でしょっちゅう煙草を吹かしている。鼻の脇に大きなほくろのあるこの気さくな男のことがよくわからない。守備は通好み。左足をコックするフォームで、ときどきホームランも打つ。
「一枝さんは古いんですよね。ぼくが小学生のころはいなかったと思いますが」
「ワシが三十四年入団で、修平は三十九年ばい」
「東京オリンピックの年ですね……」
「ほやの。一年目からよう試合に出よったぞ。……どうかしたと?」
「いえ、オリンピックの年なら、見覚えがなかったはずだと思って。三十九年か……。このベンチにいるのはほんとに奇跡です」
「……神さまはどこにいてもおかしくなかよ。修平は上宮高校から明大、そっから河合楽器へいって、中日にきた。いつでん真ん中へんの男ばい。いつか言うたばってん、江夏の奪三振新記録の四百一個目を食らったんが修平たい。本人は名誉に思っとる。義理堅い男でな、惚れこんだら一途だ。ファイトが表に出んで、水原さんにはあまり気に入られとらん。水原さんの構想はサード島谷、ショート太田だから、そろそろ使われなくなって、外へ出されるかもしれん」
「いえ、一枝さんと高木さんは守備のカナメです。太田には機敏さはありません。一枝さんはからだが動くかぎり放出されませんよ」
「そう思うね? 修平が聞いたら喜ぶやろう。お、三振ばい。もう一打席で徳やんといっしょに代えられるやろうな」
 背番号10の菱川が打席に入った。身長百八十三センチ。ユニフォーム姿の美しい美丈夫だ。顔がカシアス・クレイに似ている。高木が、
「アキラは金太郎さんのおかげでまじめになった。もともと才能のある男だから、江島に競り勝てば生き延びられる。あっ、どうしてもスライダーに手を出してしまうな」
 これまたボテボテのセカンドゴロ。チェンジ。
 投手戦に入った。一対ゼロのまま、七回まで両軍ともノーヒットがつづいた。ロッテは広瀬宰の二塁打一本、中日は私のホームラン一本。私のそのほかの打席はセカンドライナーとサードフライ。二打席ともキレのいい外角のシュートにやられた。引っ張ったのがよくなかった。江藤の言ったとおり五回から一枝は交代し、サード島谷、ショート太田に代わった。
 七回、菱川からの打順だった。代打江島が出た。百七十五センチ八十二キロ。強肩。打率は低いが一発がある。私の印象では、変化球に極端に弱い。成田はストレートのほかにスライダー、カーブ、シュート攻めでくるにちがいない。ストレートにしても、ホップしてくる。ホップするストレートはある種の変化球だ。打つ手はない。すぐにサインは決まり、醍醐が外角に低く構える。スピードの衰えないスライダーが外角をよぎる。ストライク。江島はつんのめってこらえた。交代させられた菱川に語りかける。
「江島さん、いけますね」
「いけます! 俺なら振ってました」
 ネクストバッターズサークルに、小川の代打の江藤省三が立った。丸顔の小柄な男。偉大な兄の陰でいつも自信なさそうに静かにしている。巨人時代も三年間で二十試合も出場できず、ヒットも三本しか打っていない。慶應の先輩である水原監督の引きと、兄の顔でプロの給料をもらっている自分を常々不甲斐なく思っているのだろう。一生懸命バットを振りはじめた。
 江島の二球目、内角高目のシュート、バンザイする格好で見逃す。ボール。三球目。江島の姿勢がピタリと決まった。外角のスライダーを踏みこんで叩く。動きののろい榎本のベースぎわを速いゴロで抜いた。江島、悠々セカンドへ滑りこむ。
「ドラゴンズの選手交代をお知らせいたします。九番小川に代わりまして、江藤省三、背番号28」
 スタンドから歓声が湧き上がった。江藤慎一の視線が柔らかくなった。弟を思いやる眼差しだ。中が、
「成田の握力が弱ってきてるな。曲がりもスピードも落ちてきたんじゃないの。カールトンさん、ビッグイニング」
「イエス、ビッグイニング!」
「省三、いけ! この打席が正念場ぞ!」
 江藤が立ち上がって叫んだ。水原監督がサードベースの横でパンパンと手を叩いた。省三は握ったバットを祈るように目の前に差し上げた。猫背に構えて成田を睨みつける。初球、内角高目のストレート。ボールだ。振ると決めていたのだろう、木俣のような大根切りで力いっぱい振った。まともに当たった。
「オッケー!」
 田宮コーチが叫んだ。江藤兄がダッグアウトからグランドへ駆け上がる。三菱カラーテレビ、ブリヂストンと書かれた左中間のフェンスに向かってグングン打球が伸びていく。フェンスは低い。アルトマンと池辺がクッションボールに備える態勢をとった。スッとボールがフェンスを越えた。
「ウオー!」
 兄が叫んだ。ウオー! とベンチが呼応した。水原監督が頭上で手を叩く。フラッシュが光る。小柄なからだが跳びはねながらダイヤモンドを回る。顔がゆがんでいるのがわかる。兄も泣いている。
「慎ちゃん、よかったな!」
 何人か兄に抱きつく。水原監督とハイタッチして戻ってきた弟を、兄はしっかり抱き締めた。私は顔をタオルで覆った。
「ハーイ、省チャン、バヤリース」
「ありがとっス! これを飲んでみたかったんです」
 弟はうまそうに一気飲みした。私は握手を求めた。弟の目が真っ赤だった。
「プロ入り一号なんだ。オープン戦なのがもったいないけど、とにかくプロの球場のスタンドに一本打ちこめた。ありがとう。金太郎さんがいなければここまで燃えなかった。兄貴に言われてあなたの素振りの仕方を覚えた。毎日いろんなコースを振った。いまの大根切りも何千回も振ったコースです。ありがとう」
 太田がやってきて固く握手した。
「すばらしいかぶせでした。勉強になりました」
「きみの手首の柔らかさには敵わないよ」
 三対ゼロ。ピッチャーが針の穴の小山に交代した。王や長嶋と同年輩なのに、痩せこけた爺さん顔をしている。背高の痩身をせむしのように丸め、スリークォーターから力みなくシュッ、シュッと投げる。コントロールのことしかだれも言わなかったが、ストレートがわずかにホップする。高目に手を出すと凡フライになる。
「中さん、高目の直球は捨てですね。ぼくはパームを打ちます」
「パームは重いよ。しかし金太郎さんは求道者だからね。彼とはセリーグで十年近く対戦したけど、けっこう相性がいいんだよ。さ、いってこよう」
 打席に立ったとたん、低目のストレートをセンター前に弾き返した。一塁ベース上で三塁ベンチに向かってVサインを掲げる。一枝が、
「二球目に走るという意味だよ。一球目なら一本指。守道と中さんのサインはその二つしかない。三球目以降はめったに走らない。この簡単なサインがどのチームにも知られてないんだな」
 高木がバッターボックスに入った。美しい構え。ランナーが中なので、小山はゆるいパームを投げられない。初球、腰のあたりの外角ストレート、ボール。キャッチャーが一塁へ送球モーションを起こすが中は走っていない。足の速いランナーが出ると、バッテリーは気が気でないのだ。二球目、小山の足がホームに向かって踏み出したとたん、中が走った。外角低目のストレート。高木が叩く。ライト前に打球が転がる。カモシカが一挙に三塁を陥れる。ノーアウト、一塁、三塁。ゲッツー崩れで一点、それが最悪の可能性だ。三振でもランナーがこのまま二人残る。外野フライで一点というのも考えられる。江藤はホームランバッターだが、アベレージヒッターでもある。ヒットかホームランが出れば、一点から三点、しかもノーアウト。
 江藤が右肘を張りながら耳のそばへグリップを持っていく。何度見ても胸躍る美しい構えだ。打つだろう。高木はあえて走る必要がないので、小山はカウントを整えたあと変化球で三振を狙ってくる。
 初球、セットポジションから、シュッと投げる。外角低目のストレート。ストライク。江藤はピクリとも動かない。中と同様、セリーグ時代に何百回となく対戦してきたので配球がわかっているのだ。ふたたびバットを耳に持っていき、顔をねじって構え直す。二球目、シュッ。膝もとのカーブ、ボール。三球目、シュッ、遠く外れるカーブ、ボール。ワンツー。次の配給は私にもわかった。真ん中から内角へ落ちるパームだ。江藤はほんのわずかオープンスタンスに構え直した。四球目、きた。真ん中から揺れて落ちるパーム。江藤が思い切り掬い上げる。にぶい音を立てた打球が高く舞い上がる。ボールが重かったのか、打球に勢いがない。伸びろ! アルトマン、バック、バック、ジャンプ。届かない。フェンスの金網部分の上端に当たった。中ホームイン、高木三塁へ。江藤はわざと一塁でストップした。私が敬遠されるのを防いだのだ。四対ゼロ。中が、ベンチに駆け戻りながら、すれちがった私に、
「ね、金太郎さん、パームは重いんだ」
「わかりました!」
 ライナーで最前列に打ちこもう。少なくとも外野のあいだを抜く低い当たりを打とう。
「金太郎!」
「金太郎さん!」
「さ、二発目!」
 三塁スタンドが騒然となる。バッターボックスに近づきながら、成田のするどいシュートがまぶたに浮かんだ。あの外へクイと逃げるボールをイメージして、もっと素振りをしなくては。屁っぴり腰打法に磨きをかけよう。足を止め、ボックスの前で三度屁っぴり腰の素振りをする。スタンドに笑いが湧く。
 ―ボールをベースより前でひっぱたくこと。
 二打席つづけて凡打したことで、醍醐の頭には、神無月はシュートが弱いとインプットされている。ただ、いい当たりのセカンドライナーも打っているので、バットの届く範囲には投げてこないだろう。
「きょうの一本で、十号になったの?」
 醍醐が初めてしゃべりかけてきた。
「はい」
「……すごいもんだ。正直、見とれてる。みんなそうだよ。ピッチャーだけは例外だけどね」
 初球、バットの届かない遠いシュート、ボール。
「醍醐さんの名前、スコアボードが片仮名になってますよ」
「画数が多いからね。後楽園もそうなんだ」
 二球目、同じコースへストレート、ボール。打たせないつもりだ。
「さっきの三塁フライ、成田のいい思い出になるよ。小山さんにも作ってあげて」
「歩かせばいやな思い出になりますよ。勝負してください」
「そうはいかないんだ。満塁にして、木俣で勝負だと濃人さんが言ってる」
 江藤の努力がむだになる。水原監督を見ると、腰に手を当ててじっと私を見ていた。
 あることを思いついた。三球目、同じコースへシュート。体のいい敬遠だ。私は大きくクローズドに踏み出し、ボール目がけてバットを放り投げた。うまい具合にバットの先端に当たった打球は、サードの前田の頭上をかなりのスピードで越えていき、一度弾んでファールグランドへ鋭角的に逸れた。サードとショートとレフトがあわてて追いかける。高木ホームイン、江藤は三塁へ滑りこみ、私は二塁へ滑りこんだ。ウッハッハッハと水原監督の笑い声が聞こえた。塁上から眺めると、天を向いて笑っていた。観客も笑っていた。私は醍醐に向かって、
「ソリャ!」
 と空手の突きの格好をした。醍醐がウッと腹を押さえるジェスチャーで応えた。球場内に笑い声が満ちた。物静かな小山まで私に向かって笑いかけた。セカンドの山崎が、
「こんなに楽しい野球をしたの、プロに入って初めてだよ」
 と言った。


         二十一

 五対ゼロ。もう安全圏だ。そう思ったとたん、木俣のダウンスイングから痛烈な当たりが左中間へ飛んだ。深々と抜いていく。江藤と私が相次いでホームイン。七対ゼロ。ダメ押し。鈍足木俣がセカンドを目指す。クッションボールを素早く処理した池辺からの返球で間一髪タッチアウト。木俣はすたこら走り戻ってくると、ベンチの仲間に、
「アウト一つくれてやったぜ。健太郎さんの肩が冷えるからな」
 ニヤニヤ言いわけする。小川が、
「何スッとぼけたこと言ってるんだ。省三が俺の代打で出たんだから、俺はアガリだろう。この鈍足野郎」
 ベンチじゅうが大笑いになる。田宮コーチが、
「達ちゃんありがとう。七点もらったら、小野ちゃん、もう安心だ」
 継投で出る小野は、
「あと三点ほしいです」
「贅沢言わないの」
 長谷川コーチが、
「小野さんはシラッとした顔で冗談言うから」
 小野がまじめな表情でブルペンへいった。一枝から守備交代していた太田がバッターボックスに向かう。徳武に代わった島谷がネクストバッターズサークルに膝を突く。一枝が、
「金太郎さん、バット投げて反則にならないのか」
「バッターボックスを出ていなければOKです。キャッチャーの妨害もしていないし」
「そうか、いままで知らなかったぜ。流行りそうだな」
 江藤が、
「流行らんたい。百回に一回もまともにバットに当たらんやろうもん」
 太田がパームを打ってピッチャーゴロ。島谷もパームにやられてサードゴロだった。
 小野は九回の裏にロペスにライトフェンスギリギリのホームランを打たれただけで、三回を一点に抑え切った。ドラゴンズは八回表、ピッチャーが小山から木樽に代わったツーアウトから、江藤と私のアベックソロ、二人ともバックスクリーンに打ちこんだ。九回表には同じ木樽から、一塁にヒットの太田を置いて島谷がツーランを打った。二時間五十五分。十一対一で勝った。
 インタビューで集合マイクを差し向けられたとたん、
「初めてマグレでないホームランを打てました。成田さんから打てたことがうれしいです」
 私は調子に乗ってしゃべった。ワーッとスタンドが沸いた。
「東京中日スポーツです。きょうも二本のホームランを見せていただきました。単純計算だとオープン戦だけで四十本打つことになります。なんとか公式戦にとっておくことはできませんか」
「そんなことしたら、ファンが悲しみます。打てるボールを打つ。それはオープン戦も公式戦も変わりません」
「おっしゃるとおりですね。そのファンのみなさまにひとこと」
「テレビやラジオの前からわざわざ出かけてきて、スタンドで応援してくださるファンのみなさん、とても遠くにいてテレビや新聞でしかぼくの消息をたどれないみなさん、あなたたちの自慢の種でありつづけるよう励みます」
 記者たちが盛んにメモしていた。江藤は、
「金太郎さんとこうして二人で並ぶのは畏れ多か。今年は一番から九番まで切れ目なく打てる打線たい。ドレミファ、ソラEK(イケ)打線。どや? 長い? うーん、名前なんかつけんでよか。ワシらはみんなで楽しんどるだけたい」
 水原監督は、
「ようやく投打の噛み合いもこなれてきて、お客さんに心から喜んでいただける強くて楽しいドラゴンズが誕生しかかっています。あさってからの巨人戦でも、強く楽しいドラゴンズをお見せします。ご期待ください」
 レギュラーたちのインタビューが延々とつづいているあいだに、私はベンチやロッカールームの用具を取りまとめ、太田といっしょにバスに戻った。運転手が外で煙草を吸っていた。煙草を捨てようとしたので、
「そのまま、そのまま、ごゆっくり。みんなあと十分はきませんから」
「ラジオ聞いてました。おめでとうございます」
「ありがとう」
 太田と座席に並び、
「いよいよ巨人戦だ。明石みたいにはいかないぞ」
「ですね。がんばります。きょうは鋭気を養いにいってきます」
「このあたりだと、どこ?」
「わかりませんけど、小川さんと江藤さんが連れてってくれると言うんで」
「飲んで食って、遅くなるね。愉しんできて」
「はい。まずシャワー浴びて、それからめしですね」
「めしめし。腹へった」
「あしたの見出しは、あのバット投げですよ。その瞬間の神無月さんの顔が見たい」
「二度とやらない。思い切った敬遠以外はできないようにしてやったんだ。ヒットになってなかったら、何の効果もない冒険だった」
「成功するところが神無月さんらしいです。水原監督の大笑い、気持ちよかったなあ」
「木俣さんも小川さんも小野さんもおかしかった。こんなに楽しいと、プロ野球を誤解してしまいそうだ」
「これが本来あるべきプロ野球の姿ですよ。水原監督もこれを目指してるんだと思います。神無月さんのインタビューで、いろいろ、むかしのチームメイトを思い出しました。高校よりもやっぱり中学校なんだなあ。小学校は忘れてしまいました」
 どやどやとみんなバスに戻ってきた。水原監督が最前列に座った。
「金太郎さん、おかげでお客さんと一体になった楽しい野球ができた。お手柄」
 森下コーチが、
「管理野球が好きな客やマスコミもいるからな。とにかくこの野球が、俺たちがこれから打ち出していく野球だ。やってる当人が楽しい野球がいちばんだ。ロッテのやつらも楽しんでたぞ。特に醍醐はな」
 監督が、
「みんなのインタビューも人格が滲み出てて、いいものだった。これからもああいう上の拘束を受けてない感じのインタビューを心がけてください」
 江藤が、
「健ちゃんなんか得意やろ」
 小川はあごを掻き、
「いやー、泣きごとばっか言いそうだ」
 田宮コーチが、
「それ、拘束なさすぎだろ。愚痴は女房に言え」
 バスじゅうの笑いを誘った。運転手まで笑っていた。
         †
 フロントに汚れたユニフォームと帽子を預け、クリーニングから上がってきた新しい一式を受け取る。部屋でシャワーを浴び、ワイシャツとズボンに着替える。
 夕食は、オムライスが〈前菜〉だった。枝豆のポタージュ、牛タンスモークにデミグラスソースをかけたもの、揚げ鰻、焼き豆腐、アマダイの蒸し物と出て、最後にトウモロコシの混ぜご飯、赤だし、漬物が出て終わった。それからもみんなはビールを飲みつづけていた。すでに太田や江藤たちの姿はなかった。私は水原監督やコーチ陣、チームメイトたちに挨拶して部屋に戻った。
 三時間ばかり、藤村の『嵐』を読む。子だくさんの家庭の話。父一人、男の子三人、女の子一人、お手伝い一人。子育て苦労物語。子供を微妙に絡めた生活小景。庄野潤三や島尾敏雄の小説の原型だと気づく。
 私の独白―家の内も、外も、嵐だ。
 内は子育て、大病、外は震災、不景気。何のことはない。〈嵐〉とは、自分と世間に関わる〈不安〉のことのようだ。
 彼の『新生』という作品には、前妻の死後、姪とのあいだに生じたスキャンダラスな痴情騒ぎから逃げ、姪と子供を置き去りにフランスに渡ったことが書いてあった。新生でも何でもない、人間的に価値のないただの逃避。世間の目は、彼には大きな不安の一要素なのだ。その不安の余韻を引きずりながら嵐を書いたころの彼の家庭は、バラバラに離散していたようだ。嵐には、そのいったん崩壊した家族の再結成をまじめに図る内容が書かれていると評価されている。私に言わせれば、あくどい作品だ。彼は、だれから、何から逃避したのか? その〈だれ〉を救済し直し〈何〉にあたる自分の不安を分析し直さないかぎり、この作品にはいっこうに真実味が顕れてこない。分析されないままの自分を救済対象にするあくどさばかりが引き立つ。世間からの逃避を〈墓地〉とし、墓地から起き上がるとき一致団結の家庭が再生すると書き、〈私たちへの道〉と表現しているのもあくどさの極致だ。藤村にとって、世間と没交渉の家庭は、避難所の〈穴ぼこ〉すなわち墓地であり、世間と入り混じることこそ墓地からの復活のようだ。自己嫌悪のない〈芸術作品〉を読むことに倦じた。日本人の作品は、よほど気をつけて紐解かないと〈私たち〉に籠絡されてしまうと理解した。
 十一時に近く、ベッドに寝転がってテレビを観ていると、
「神無月さま、お電話が入っております。おつなぎします。どうぞお話しください」
「もしもし」
「あ、神無月くん、法子です。ひさしぶりに難しい話がしたくて」
「いいね。このごろ野球をしているとき以外、何でも複雑に感じるようになった。思考は単純になってるのに」
「単純でも思考できるだけいいわ。毎日の会話が単純すぎて、思考どころか言葉をなくしそうになってたの」
「きょうはお店早く閉じたの?」
「〈あれ〉で、少し体調が悪かったから、あとをミドリさんと古沢キャプテンにまかせて十時に上がってきたの」
「だいじょうぶ? 早く寝たほうがいいよ」
「ええ。……名古屋に戻ってから、女の人、何人か増えた?」
「ハハハ、それが難しい話?」
「きっかけ。神無月くんが何かしゃべれば、かならず頭を使わなくちゃいけなくなる。それが楽しいの」
「二人増えた。一人は明石のキャンプ先にトモヨさんが送りこんでくれた人。新庄百江さんというもうすぐ五十歳の人。ぼくがひと月はもたないだろうということで、一週間にいっぺんきてくれた。面接で合格したのに、トルコ嬢になる予定を中止して、北村席の賄いに入った。もう一人は、カズちゃんたちの危険日に精を受けてくれた現役のトルコ嬢。桜井メイ子という人。二人とも後腐れのある関係になっちゃった」
「スッキリ片づかないのが男と女の関係よ。とにかく、からだを壊さないように付き合ってね」
「うん、それはだいじょうぶ。とてもがまん強い女たちばかりだから、自分から求めてこない」
「そうなるのがあたりまえ。強い快楽は、かなりあいだを置かないと麻薬になっちゃうから」
「お店、大繁盛だね。よかった」
「ありがとう。このごろ、運命というものを信じるようになったの。たしかに水商売は性格に合ってたけど、神無月くんに出会わなかったら、こうはなってなかったわけだし、ああいうオーナーに会わなかったら、こうはなってなかったわけよね。そういう運命が合わさっていって……」
「そのとおりだね。人間は運命の川に浮かんで流れる葉っぱだから。―流されるには意地と根性が要るけど」
「わかる。流されることしか人はできないのよね。でもふつう人は流されまいとするわ。だから流されるには意地と根性が必要」
「うん。そう気づいた以上は、よい運命も悪い運命も意地と根性で大事にしなくちゃね。流された結果を決めるのは人間のほうじゃなく、運命のほうだ。ぼくは頑固にそう信じてる。意地でも運命に逆らわないってね」
「私もそう信じるようになった。私も意地っ張りだからね。神無月くんは私以上に意地っ張り。それも超ド級の。……そこまで意地を張れるのは、神無月くんが人生のいろいろな節目で、生まれてからずっと蓄えてきた独特の情報を使って、いちばんいい決意をしてきたからよ。世間の常識が神無月くんの生きる指針だったら、そんな決意はしてこなかったはず。常識というのは、人間社会ではある意味絶対的なものだけど、残念ながら人生はちがうのよね。だからこそ、神無月くんの言葉が信じられるの」
「言葉を信じてもらうのがいちばんうれしいね」
「神無月くんの運命が連れてきた野球も、順調そのものでよかった。……少し心配だったのよ。みんなとうまくやっていけるかなって。でも、テレビもラジオも新聞も、こぞって神無月くんのこと好意的に報道してくれる。いま日本でいちばん愛されてる有名人よ。ほんとによかった。プロの世界でも神さまって言われるんだもの、うれしいわ」
「もうオープン戦で十一本のホームランを打った。中日球場、東京スタジアムときて、あさってからは後楽園だ。ちゃんと食べてる?」
「毎日仕事が終わるとペコペコ。厨房のチーフに毎日夜食のお弁当作ってもらってる。これがおいしいの」
「ぼくはチームのみんなといっしょに晩めし食ったあとは、ホテルのティーバッグの紅茶でも飲みながらテレビを観て寝る。それでも腹が減るときは、ときどきルームサービスをとる」
「ほかの選手たちは、この時間何してるの?」
「夜の街へ出かけるか、部屋でゆっくりテレビでも観てるんじゃないかな。あした休みだから」
「洗濯はどうしてるの」
「ユニフォームや帽子やワイシャツ類はクリーニングに出す。下着は二日分くらい溜まると風呂場で洗う。風呂場に洗濯物を吊るすビニール紐がちゃんと架けてある。長期滞在の人の部屋は、そうしてあるみたいだね」
「あした、いっしょにホテルの朝ごはん食べていい?」
「いいよ」
「お仲間たちをチラッとでも見ておきたいの。神無月くんがどういう環境で暮らしはじめたのか知っておきたいから。何時くらいに朝食?」
「いつも九時くらいかな」
「九時ごろロビーで待ってる。食べたらすぐ帰るわ」
「了解」


         二十二

 三月七日金曜日。八時半起床。曇。三・六度。相変わらず冷える。
 うがい、軟便、シャワーを浴び、ブレザーで身なりを整え、革靴を履く。
 ロビーのベンチで法子が待っていた。淡いベージュを基調にした上品なスカートとシャツとカーディガン。貫禄があるので、二十五、六歳に見える。九時。うるさいことになるので一般の会食堂には顔を出すまいと思ったが、どのレストランも朝食時間の九時を過ぎたあとは十一時から開店だと言うので、仕方なく一般の食堂へいった。
「一般客の食堂だと、サインをねだられることがあるけど」
「仕方ないわ。選手たちのいくレストランだって、私といっしょのところを見られたら騒がれるんだし。騒がれる分には同じよ」
「いや、大食堂には選手たちはいないと思うよ」
 窓際の大テーブルの端に腰かけ、オムライスを注文する。予想に反して、遅く起き出した選手たちが大勢いた。水原監督も中ほどのテーブルにいて、同席のコーチ陣を手で制して私たちのテーブルへやってきた。法子に頭を下げて挨拶する。
「水原と申します。中日ドラゴンズの監督をしております」
 法子も立ち上がり、深々と礼をし、
「存じております。ダンディで有名な水原監督。そちらのほうの武勇伝も、いろいろ雑誌で読みました。神無月くんとそっくりな人だとわかって安心してます」
「それはどうも、金太郎さんとそっくりだなどと身に余るお褒めに預かり恐縮です」
「私、山本法子と申します。神無月くんとは中学校以来の付き合いで、いまは荻窪でささやかなパブを経営しております。神無月くんの取り巻きの一人です」
 水原監督は、ホウと声を上げ、
「そうですか、ま、ま、おかけになって」
 みずからも腰を下ろす。
「金太郎さんが大勢の女性や、あるいは男性に見守られて暮らしていることは察しております。男性はさておき、女性にとってたがいに角逐なく一人の男を見守るというのはたいへんなことだと思いますが」
 法子は笑って、
「みんな、こんなすてきな人を独占しようとなどとは思っておりません。神無月くんが生きていてくれるだけで最高の幸せだと感じる女ばかりです。私たち全員、友だち同士なんですよ」
 水原監督が手を差し出し、
「男の私もその仲間に加えていただけませんか」
 握手する。
「畏れ多いです。もちろんそうなさりたいなら、ご自由に」
「ハハハハ、今度北村席のほうへお伺いするつもりでいるんです。金太郎さんの人的資源を見てみたいのでね」
「感激すると思います。水原監督の見てこられた華やかな世界とは、またちがった意味で華やかな世界です」
 オムライスがやってきた。水原監督が立ち上がり、
「ペナントレースの開始前に一度顔を出そうと思っております。もしお目にかかれたら、そのときはよろしく」
「こちらこそ、ほんとにきょうはお会いできて光栄でした。今後とも神無月くんのことよろしくお願いいたします」
「おまかせください。野球選手としてばかりでなく、すぐれた人間としていつも金太郎さんのことを敬い、心にかけております。じゃ、ごゆっくり。私たちはもう食べ終えたので引き揚げます」
 もう一度握手して去った。コーチたちといっしょに水原監督の姿がロビーに消えると、ちらほら選手たちがやってきた。江藤が、
「初めまして。江藤です」
「まあ、江藤選手! いつもテレビで拝見しております」
 太田、中、高木、一枝とやってきて腰を下ろし、
「水原監督とは知り合いと?」
「初対面です。気さくな人でホッとしました。こちらのかたたちは?」
 それぞれ名を名乗る。太田が、
「江藤さんと二人で北村席へいったんですよ。感動でした。あなたも北村席のかたですか」
「神無月くんの東京の恋人の一人です。荻窪でパブを経営してます。来年名古屋に戻ったら、熱田神宮のそばにお店を出します。ぜひ遊びにきてくださいね。ねェ、太田さん、まだ気づきません? 私たち、宮中の同窓生ですよ。山本法子。よく正門の前で神無月くんを待ってた女」
 江藤がウェイトレスに、
「こっちもオムライス! 五つ」
 首をひねっていた太田が、
「思い出した! バーの娘」
「あたり。クラスもいっしょになったことあったわよ」
「あった、二年のとき」
 高木が、
「なになに、中学の同級生なの? 奇遇すぎないか。タコが金太郎さんと同級生と聞いたときも驚いたけど」
 みんなでオムライスを掻きこみながら、話に花が咲く。中が、
「金太郎さんを東京まで追っかけてって、水商売で才能の花開かせて、いずれまた金太郎さんのもとに戻る。すごい話だねえ。みんなそんな女ばかりなの?」
「みんなそうです。神無月くんはいつも関心なさそうにキョトンとしてますけど」
 一枝が、
「金太郎さんはいつもキョトンとしながら大仕事をするんだ。機械のように何も考えてないようで、ものすごく人間らしく心を動かしてる。その証拠に、びっくりするほどの泣き上戸なんだよ。慎ちゃんの弟がプロ初のホームラン打ったっていうだけで泣くんだ。もらい泣きしちゃったよ」
 中が、
「葛城さんのときもボロボロ泣いてたな」
 法子がもりもりオムライスを口に放りこみながら、
「神無月くんは感情のかたまりです。感情が激しすぎて、キョトンとしてるように見えるの。付き合えば付き合うほど、心中したくなる人です」
 江藤が、
「なるほど、心中か。ちがいなか。金太郎さんが野球ばやめたら、ワシもやめよう思うとるばい」
 高木が、
「トレードまでにしときなさいよ。江藤さんには野球しかないでしょうが」
「まあ、そうたい。ばってん、トレードじゃ心中にならんやろう。法子さん、名古屋に店を出したら、ドラゴンズの連中を常客で連れていきますよ」
「ありがとうございます。お待ちしています」
 中が、
「美人が夢中でものを食う姿はきれいだね。発見だ」
 太田が法子に向かって、
「そういえば、北村席の女の人たちもみんな、法子さんの食い方でしたよ」
「神無月くんはもりもり食べる女が好きなんです。だからみんな、神無月くんの前では格好つけないで食べます」
 一枝が、
「慎ちゃん、その北村席ってのに、一度連れてってよ」
「おお、よかよ」
 私は、
「駅西でトルコを経営してるむかしの置屋さんです。男も女もみんなさばけてます。遊びにいけば歓待してくれますよ」
 江藤が、
「トルコは自前で遊びんしゃい。それでなくてもすごいもてなしなんだからな。トルコには自分の金ば落とさんといけん」
 一枝が、
「もちろんです。女房にバレんように遊ばんとね。モリミチさんは堅いから、連れてってやらん」
「いや、私はムッツリのほうですよ。連れてってください」
 法子が目を潤ませ、
「みなさんいいかたたちばかりで、安心しました。神無月くんは変人ですから、集団生活をうまくやっていけるかどうか、ほんとに心配だったんです」
 中が、
「金太郎さんは集団なんか意識してないですよ。意識してるのは、一人ひとりの人間だな。すごいことだよ。私なんかいつも、金太郎さんに見守られてる気がするもの。見守ってるのは金太郎さんのほうで、私たちこそ安心して好き放題させてもらってるって格好だな」
 法子は感に堪えたような顔で、何も言わず、深く頭を下げた。
 薄曇。ホテルのスロープをみんなで歩き、大通りでタクシーに乗りこむ法子を見送った。江藤が、
「ええ人やなあ。和子さんも素子さんもええ人やったが、負けず劣らずたい。ワシは、金太郎さんの周りの人間をみんな見ておきたか。金太郎さんを守る方法が多少はわかるやろうもん。法子さんの心配はあながち軽くは見れんばい。金太郎さんの足を引っ張りたがるやつは、うじゃうじゃいるにちがいなかけんな。つまらんことで金太郎さんに野球界ば去ってほしくなか」
 中が、
「そのとおりだね。正しいエコ贔屓のできる水原さんだからよかったようなものの、これが、人目を気にしたり、嫉妬深い監督だったらたいへんだったと思うよ。なんのかんの理屈つけて、十把ひとからげに二軍に置かれっぱなしになったんじゃないの」
 高木が、
「チームのカナメを贔屓するという大事なことを、ほとんどの監督はやらないからね。とにかく俺たちが精いっぱい贔屓しておこうや」
 ロビーに戻り、めいめい新聞を開く。私は日刊スポーツを手に取った。

   
 神無月オープン戦四戦連発十一号 王・長嶋越え
     中日優勝! 十五年ぶりあるぞ

         †
 まだ真昼だった。外に出れば人が群がる。ホテルにいるしかない。グローブやスパイクを磨いてすごそう。
「きょう、小川さん見かけませんが」
「葛城や田中勉たちと、新宿に麻雀打ちにいっとる。ギャンブル仲間やからな」
 一枝が言った。
「ファンに取り巻かれませんか」
「あいつらは顔も目立たんし、ガタイもそれほど大きくないからだいじょうぶ。金太郎さんはあかんよ。慎ちゃんもだめ」
「ボーリングでもやりたいですね。へたですけど」
 太田が、
「だめですよ、繁華街にいったら。この近辺で映画でも観にいきましょう」
 江藤が、
「ワシはあしたからのピッチャー研究だ。外には出んぞ」
 中も高木も同意した。一枝はテレビを観ると言う。
「太田、映画もよそう。ぼくたちも研究だ。散歩しながら」
「神無月さんはほんとに散歩が好きですね。付き合います」
 有名な日比谷高校へいってみることにする。
 赤坂見附駅からゆるい坂をのぼっていく。あの後藤の細面を思い浮かべる。同棲していた女の顔は浮かばなかった。苔むした石積みの塀に護られている蒼古とした建物にたどり着く。日比谷高校だ。通用門が閉じている。坂を下って別の門を探す。別の門どころか別の道も見つからない。こんな閉鎖的な学校であの男は青春時代を送ったのか。
 日枝(ひえ)神社にぶつかる。黒い鳥居を見ただけで嫌気がさす。素通り。白い石製の鳥居にぶつかる。これも日枝神社だ。長い石段がのぼっている。どれほど大きい神社なのだろう。
 警備員がぞろりと立っている開放門がある。首相官邸と銘打ってある。どこに官邸があるのかわからない。警察車が何台か停まっている。警備員と見えたのは警官のようだ。すぐ横にバカでかい一般のホテルがあるのが気味悪い。
「なんだかよくわからない地帯だなあ。帰ろうか。通行禁止の道ばかりだ」
「このへんに国会議事堂があるらしいですが、バリアを張り巡らしてるんじゃないですかね」
「天皇と政治家には、ぼくたち庶民を近づけないようにしてるんだね。警察と政治家はお友だちだということだ。警察は検察の下っ端だから、政治家は裁判所ともお友だちということになる。東大が牛耳ってる国会議事堂のすぐそばに、東大合格者数ナンバーワンの日比谷高校ありか。いやな構図だね。―東京の街には何かが足りないと思わないか」
「何ですか」
「路面電車。このあたりの景色はつまらない。どうせつまらないなら、新宿へ出てみよう。殺風景な西口」
「囲まれますよ」
「眼鏡を持ってきた。ふつうの近眼鏡。野球用の特殊眼鏡じゃないやつ。これをかけたらまずだれも気づかない」


         二十三        

 眼鏡をかけ、タクシーを拾って新宿へ出る。しばらく宇賀神たちの姿を見かけていないことに思い当たる。プロ野球選手の日常生活がそれほど危険にさらされていないと気づいたのかもしれない。気づいたとしても、命じられた仕事は仕事だ。きっとどこかで眼を光らせているだろう。
「俺、東京、初めてなんですよ。新宿も」
「ぼくはどこへいっても、いつも初めての気分だよ」
 西口広場で降りる。王冠マークに京王線新宿駅とロゴを貼りつけたビル。横に不等辺の台形のビル。ものすごい人だかりだ。ギターを伴奏にウイ・シャル・オーバーカムなどという歌声が聞こえる。いつかよしのりが言っていたフォーク集会というのがこれか。タオルで口を覆い、角材担いで、額に全共闘と書いた白ヘルメットの男たちがうじゃうじゃいる。機動隊が遠巻きに取り囲み、静かに監視している。
「われわれはァ、プロレタリアート革命を遂行しィ、日帝反動勢力にィ、鉄槌を下すべくゥ……」
 メガフォンで叫んでいる。
「また馬鹿の一つ覚えか。東口へ出よう」
 彼らの脇をすり抜け、駅構内に入る。柱の陰で詩集を売っている女がいる。二百円。
「一冊ください」
「はい、ありがとうございます」
「つりはいいよ」
 千円渡して歩きだす。ページを広げる。太田が覗きこむ。
『歩く、歩く、のしのし歩く、私は歩く、のしのし歩く、すれちがう人と、出会う人、退屈な夏の風と、暖かい冬の雪、歩く、歩く、私はのしのし歩く』
 屑篭に捨てる。
「差し出がましいんですけど、神無月さんのように、社会から確実に非難を浴びるような生き方をしてて、これからいろいろと不都合が起こるんじゃないでしょうか」
「こういう生き方のせいで不都合が起こるような世界とは親しくしない。世間体や地位や欺瞞、そういうものから離れるためにあえてこういう生き方をしてる……。太田はそんなふうに言えば喜ぶだろうけど、じつはぼくは何も考えていないんだ。社会がいまのように親しくしてくれるうちは、愛する者を引きこんで社会といっしょに暮らすし、社会が排斥するなら社会と別れて、愛する者とだけひっそり暮らす。社会というのは顔も見たことのない大勢の人のことだし、彼らが与える評判のことだ。ぼくはがんらい、会ったこともない人たちの評判を必要としない世界に生きてる。むかしもいまも、これから先も」
「神無月さん……」
 東口へ出る。左に大ガード。目の前に背高のビルの群れ。広場を人がめまぐるしく往き来している。背広、ミニスカート、着物。そして長髪の若者たち。ここにもヘルメットがちらほらいる。アングラ劇団員らしき若者たちが何やらパフォーマンスをしている。アイビーカットの連中が気取って立っている。文化というにはみすぼらしすぎる。かと言って文化人が文化とも思えない。そんなものなどないんじゃないかと思う。
 広場の右手にあるモグラの穴のような階段を人が昇り降りする。種類がありすぎて立ち寄る気にもならない店々。カメラのさくらや、ヨドバシカメラ、ワシントン靴店、リッカーミシン、スクランブル交差点。紀伊國屋のほうへ歩きだすが、あてがない。紀伊國屋の一階通路を突っ切り、伊勢丹の裏道から大通りを一本渡り、歌舞伎町に向かう。山口と千佳子と一度きた。《娯楽センター入口・歌舞伎町一番街》と書かれたアーケード看板が毒々しい。コマ、ミラノ座、同伴喫茶。
「吸い取ろうとするだけのさびしい街だ。人の喜びに与(くみ)しようとする気概がない。短い命をそれだけのために生きなくちゃいけないのに」
 太田は首を振り振り、
「俺たちは二人とも十九歳ですよね。どうしてここまで考えの深さがちがうのかなあ」
「深さと言うより、焦点だろうね。ぼくはあらぬほうを見ているんだよ。太田のほうが正しい方向を見ている。早稲田大学にいってみようか。なんだかなつかしい。一時期、何人かの友人と歩き回ったことがある」
「いきましょう」
 西武新宿線で高田馬場に出る。十五円バスに乗る。バスは学生たちで満員だった。合格発表の季節は終わっている。入学式までのあいだ、学生がキャンパスに出かける理由はないはずだ。彼らは新入生ではないのだろう。たぶんクラブ活動の勧誘の案でも練りに出かけてきた上級生だ。彼らの暇な人生に距離を感じ、そしてときめきを感じた。二人の男の長身が目立つ。しかしだれも見ない。みんなうつむいている。霧雨が流れはじめた。
「本降りにはなりませんね。空が明るいです」
 太田は目を細めてバスの窓を見た。舗道に、車の屋根に、周到に開いた傘の上に、銀色のミシン糸のような雨が降りかかる。かなり寒いはずなのに、道をいく人たちが寒そうにしていない。
 時計台の下でバスを降り、頬に霧雨を受ける。ここにも警官と、旗を持った学生たちがたむろしている。学生会館へ向かう長髪もいれば、キャンパスに向かう学生服もいる。開放門を入る。ヘルメットの群れの中に、役目を終えた合格発表の掲示板が見える。生々しく合格者の番号が並んでいる。目にするのは初めてのことだ。東大のときは山口に見にいってもらった。
「悪趣味だな。いつまで掲示しておくつもりだろう。こういうのは心臓にくるね。他人ごとでも、何かを試された結果だからね。相対評価を突きつけられていたころの記憶を刺激する。いまも突きつけられていると言えば言えるんだけど、番号つきで発表はされないよね。ああ、番号がいくつも抜けているね。でも、抜けていてもだいじょうぶだ。自分がだれよりも劣ってると考えれば、どんな結果だって受け入れられる」
「神無月さんはだれよりもすぐれて生きてきたんでしょう」
「まさか。何もかも偶然の結果だ。幸運な偶然のせいでいまここにいるんだけど、たとえ逆の結果が出てたとしても、自分の存在自体に対する考え方がしっかりしてれば、不運な偶然に幻滅しないで生きられる」
「こういうことが人生の一大事にならない生き方なんてできるんですかね」
「……できないかもしれない。大きなことは言えない。一つひとつの一大事の結果、この一大事が引き起こされてるわけだからね。不合格者が苦しみを感じるとすれば、苦痛の根源が自分にあると思うからだろう。は自分にはないね。父、母、そのまた父、母、そのまた……。彼らは何者だろう。……自分の思索と、自分自身しかいない場所に戻りたくなる」
 大隈重信の銅像を見上げる。図書館の窮屈な地下に降り、壁に接したテーブルで薄くてまずいコーヒーを飲む。太田がキョロキョロと眺める視線の先、五、六人の学生たちがタバコの煙の中で語り合っている。自然法、第九条解釈、共同正犯、親権、自衛権、そんな言葉が聞こえる。賑やかにしゃべりまくる学生たちを見つめながら、大学はやっぱりつまらない場所だと思う。彼らはそうしていることに何の不思議も違和感も覚えず、自分があるべきように生きていると思いながら溌溂としゃべっている。かつて私はその学生の一人として、手の施しようのない倦怠に冒されるまでは最善を尽くそうと決意した瞬間がある。幸いにも野球のせいでその決意はむだになった。
「浮かない顔ですね」
「学問か……。みすぼらしい画一性だ。東大の授業を思い出してたんだ。どの学者の精神もぴっちり同じ鋳型にはめこまれてた。そのくせ精力的だった。余裕がなくて、いっぱいいっぱいだからそう見えたんだね。何ごとも学術用語で捉えようとするし、捉えられるものだと信じている。あきらめがない。先達が確立した学術上の習慣に従うことに汲々として、自分本来の独創を恥じている。独創なんかないのかもしれない。他人の説の紹介のベテランになってしまって、いったいだれを相手に、何を伝達したいのかわからなくなってる。授業の内容が方法論的に緻密で、完成の度合いが高ければ高いほど、貪欲で汚らしい剽窃とバクチ打ち的な周到さがにおって、胸糞悪くなる。型どおりの知識の修練より、ちがった種類の実践を重んじるべきじゃないのかな。それは知識を嫌って愚鈍になれということじゃない。枠組みじゃなく、境界のない精神を持った実際の人間に興味を持つということだよ。それこそ、学問だ」
 太田は何のことやらわからいという表情でうなだれる。
 表に出る。雨が上がっている。石造の校舎を見回し、キャンパスを出る。タテカン、ヘルメット、警官。もうじゅうぶんだ。王冠形した時計塔が輝いている。加藤雅江の会社が献納した時計。その下の幅広の階段で劇団員が発声練習を繰り返す。初春の陽射し。
 南門通りを歩く。教科書店、学生会館、雀荘、高田牧舎、ウィンドーに蝋細工のビフテキやカレーライスが埃をかぶって並んでいる。
「ここのハンバーグはまずいぞ」
 また雀荘、珈琲館、プランタン、コピー屋、学生バイト案内所、三朝庵。バスと行き交う。ヘルメット、旗、警官。八幡坂を上り、早稲田通りを歩く。
「その細道が西門通りで、三畳の下宿に松尾という空手男がいた。彼を取り巻くやつらを九州グループと呼んでた。松尾は酒で心臓を悪くして、ペースメーカーを入れた。彼の友人の御池という男はぼくを気に入って、あれこれ尽くしてくれた。半年近く会ってない。いつ会えることやら」
 甘楽食堂、ニュー白十字、虹書房、高島屋葬儀社、静文堂、テーラーサエキ、インド大使館、喫茶戸塚苑、照文堂。古本屋や食堂や喫茶店の連なる低い家並を立ち止まって見つめたり、見返ったりする。前を歩く学生たちの声が聞こえる。
「教場試験は語学と般教の一部だけ。学費値上げ反対闘争さまさまだ」
「レポートは何に書くんだ?」
「原稿用紙だ。横罫(けい)の用紙でもいい」
「よく知ってるな」
「常識だ。うん、やっぱり、民法総論は詐害(さがい)行為取消権か」
 ちんぷんかんぷんだ。太田が、
「サガイコウイって、何ですか?」
「さあ」
 漢字の羅列を目に浮かべようとするが、できない。まだ学生がしゃべっている。
「原始的な質問ばかりしやがる。民法四二四条。債権者は、債務者が債権者を害することを知ってした法律行為の取消しを裁判所に請求することができる」
 おそらく正確すぎるせいか、瞬間的に意味が取れない。
「それって、簡単に言うと、金を返さなくちゃいけないやつが、何かの事情があって、それとも返したくないという気持ちからかわからないけど、合法的に自分の財産を減らすようなことをすると、金を返してほしいやつが困るから、裁判所に取り消してくれと泣きつくことができる、つまり債権者は債務者が返済金を使わないように、いくら合法的な行為で使おうとしても訴えて潰すことができる、ということだろ」
「そうだ」
「害することを知って、というのは、微妙だな。ギャンブル中毒の債務者がギャンブルをやって、負けちゃった場合はどうなるんだ。債権者を害すると思ってギャンブルはしない。その行為はどうやってあとから取消すことができるのかな。そうか、金銭賭博は違法行為だから取り消せないのか。金を返したいという善意を持って、ギャンブルをした場合はどうなるのかな。やっぱり違法行為だから取り消せないか。いずれにしたって、ほんとうに返したいと思ったのか、それとも単なるギャンブル中毒だったのかは、判断できっこないな」
「ごちゃごちゃ言うな。とにかく、土地の譲渡とか、判例にある典型的な事件の範囲内で考えればいいんだ。面倒な例を持ち出すな」
 私はニヤニヤ笑いながら太田に、
「な、不毛な会話だろ。あのえらそうなやつの舌が滑らかすぎて信憑性がない」
 太田もニヤニヤ笑いながら、
「聞いてませんでした」
 マシなことを言っている感じのほうの学生が、
「教科書片手に、現実の問題はほとんど処理できないということだよ」
 と言うと、正確すぎる言葉を話している学生が、
「そういうことは学問を徹底的にやってから言うもんだ。学問をする苦労をおまえは知らないだろ」
「知らない。そんなもの知ったって自分に学問上の革命が起こるとも思えない」
 結局、講師や学生の質は、東大も早稲田も似たようなものだ。自分でもよくわからない理屈をこねることに喜びを感じるということは、彼らには学問的能力の限界があるということだ。まっとうな学者にはなりきれないだろう。そんな彼らでも大学にやってくるまでは、教科書に載っている他人の思想を記憶し要約して伝えられる器用さのおかげで、勉強能力とやらを評価されてきたのだ。その評価は衆に抜きん出たものだったにちがいない。私の一時期の野球技術と同様、そういう評価に満足する気持ちは一種の怠惰なので、玉石混交のライバルのいるあいだの成績は優等だったとしても、いざ本格的な独創力をフルイにかけられる差し迫った状況では、火事場の馬鹿力を発揮できず、当然、学術的発見という幸運を呼び寄せることもできない。彼らと私のちがいは、自分の怠惰に気づいて以降、与えられた能力の鍛錬に極端に真摯になれたという一点だ。……しかし、社会的な文化向上という意味で、最終的な勝利は彼らのものだ。
「ああいうやつらで社会の成功者の大半は構成されているんだよ。どこから見ても最終的勝利者だ。お、名古屋うどん。きしめんが食える。寄っていこう」
 テーブルは四脚、こぎれいな店だ。客は学生一人。きしめんを注文する。
「ああいうやつらが最終的に勝利するというのは、どういう意味ですか」
 運ばれてきた水を飲むなり太田が訊いた。
「彼らは学生時代には群を抜いて成績がよかったんだ。だから早稲田という難しい大学にも入れた。それなのに、この先はきっと何度挑戦しても学術的な新発見はままならず、〈学者〉として望んだ土俵に打って出ることもできず、人生の方針を〈大学人〉としての権威作りに切り替えるということになる。彼らは持ち前のアイデアと営業力でぐんぐん頭角を現し、気に入らない学者を年月かけて一人ひとり追い落とし、徐々に昇りつめていく。自分をゆるぎないものと感じてくれる人間の数が激減したせいで、営業の必要が生じたというわけだ。そうやって肩書作りの時代が終わり、同時に、あえて営業力を必要としなかったかつての得意の時代も終わりを告げる。それにも増して彼らの性格の中には自分の存在理由に対して懐疑や逡巡を呼び起こす資質、つまり人間としての謙虚さが欠けているから、いったん自己宣伝の方向を選ぶと、もう疑いもためらいもせずに猪突猛進する。そうなると君子危うきの世間は彼らに対して寡黙になり、彼らそれをは好意とすら誤解しはじめるという具合だね。プロ野球人にもそういう人間が多いと思うよ」
「落ちこぼれが世間的に勝利するということですか」
「うん。長い時間をかけてね」
「神無月さんの勝利は……」
「瞬間的なものだ。野球に関しては落ちこぼれじゃなかったからね。でも、引退後に野球に関わらないかぎり、落ちこぼれて敗北することは目に見えている」


         二十四

 きしめんが出てきた。きしめんの上にカツブシ、天カス、ナルト、ネギの載った、じつにシンプルなものだ。すすったとたんに、この味だと感激する。
「うまい!」
「うまいですねえ。名古屋の味ですよ。……しかし、その、最終的に勝利するというのは無理でしょう。神無月さんや、王、長嶋クラスの学者は追い落とせない」
「その学者が学問に関わる生活をつづければね。最終的な勝利者の目標は、突出じゃなくて延命なんだよ。それを究極の勝利にする。自己鍛錬に極端に真摯な、集団に君臨できる大学者を追い落とすことじゃなくて、自分より実力が上の、しかも自分より有望な中堅クラスの学者仲間を追い落として、長生きできる中堅の位置にもぐりこむということだよ」
「なるほどねえ。でもプロ野球では、そういうセコイ人間は少ないですよね」
「一般社会よりは少ない。それがせめてもの救いだ。お替りするか」
「しましょう」
「きしめん、もう二つ!」
 高田馬場のタクシー乗り場に立つ。機能していない干からびた噴水の中心に、ちょうだいをするように両手を差し出した女の像が立っている。
「きしめん食えただけでもよかったね」
「はい。学者の話がおもしろかったです」
「だれも、極端な才能や、極端な鍛錬者を追い抜こうとも追い払おうとも思わない。平凡な衆人の中で王になりたいんだ。必要な生活手段は、確固とした地位を築いた他人の思想をこね回した理屈だけ。学生の大半はそういう先達の恐るべき自己過信に畏まり、それに屈服して、いずれは同じ穴の狢になる。そんなやつらだけだと、文明は発展しない。でもだいじょうぶなんだ。ごく少数の若者は、彼らをあてにせずに自力で思想を磨き、真摯な学者へと大成して文明の推進者になる」
「おもしろいなあ!」
 私は眼鏡を外し、窪んだ鼻のつけ根を押さえる。
「こういうふつうの眼鏡をかけて野球をするのは無理だ。外しても五十メートルくらいは景色に大差はない。形もわかる。薄暮ゲームのときだけ特殊眼鏡をかけよう。ふつうの眼鏡は変装用。ナイターは裸眼でだいじょうぶかもしれないな」
「乱視でないからいけるんですね。近視も強くないみたいだし。でもいろいろたいへんですね、神無月さんは」
「どんなことでも百点満点でできるなんてことはないさ。双葉山だって片目だったんだ」
「それはそうですけど、キッチリ見えない目で野球をやってるのは、球界で神無月さん一人でしょ」
「スポーツというのは慣れてしまえば、勘でできる。そういう人は何人かいるんじゃないかな。たとえば山内一弘。かなり目が悪いと聞いたことがある」
「そうなんですか―」
 ホテルに戻って、太田とあしたの対策にかかった。
「明石の試合のときに巨人の打者に関して気づいたことない? 守備でもいいけど」
「土井。ファール粘り、右打ち、特にバントは名人です」
「川上監督の奴隷だね」
「おととしの新人王、レフト高田。足の速い二塁打男。強肩」
「高田ファールはみっともない。理屈はわかった」
「スイッチヒッターの柴田」
「あの女のような走り方、神経に障る」
「右の長打力はあるんですよ」
「高田も、柴田も、黒江も、キャッチャーの森も、スイングの途中から早ばやと片手を離すよね。長嶋や王のような利き手の最後の送りこみ、押しこみがない。短打を狙うバッターの特徴だ。最初から気持ちがそうなってるということだから、根本的な怖さはない。つまりジャイアンツは、王、長嶋以外は、全員短距離打者みたいなチームだよ。そういうチームを負かすのは、ピッチャーがよほどよくないかぎり不可能だ。よし、もうバッターはいいや。このあいだの巨人は、ほとんどのピッチャーが投げたよね」
「はい、残ってるのは、渡辺秀武、高橋明、田中章、若生忠男、宮田征典、中村稔。でもあしたの初戦は、あのときのメンバーできますよ」
         †
 三月八日土曜日。晴。風なし。真昼の気温十一・四度。ホテルのバスで後楽園球場へ向かう。桜田濠から半蔵門、靖国神社、九段下、神保町と通って水道橋へ。ニューオータニからたった十五分で到着。
 三塁側通用口から廊下を歩いてロッカールームに入る。東京球場と比べてみすぼらしい空間だった。ロッカーは薄緑の鉄枠で仕切られ、つづらのような物納れが置かれた上部に衣紋掛が一本渡してあるきりの粗末な代物だった。
 後楽園という狭い球場で初めてプレイする。ロッカールームとちがい、グランドは美麗なものだった。公称では両翼九十メートル、中堅百二十メートル。実測では、両翼八十八メートル、中堅百二十一メートル、左中間と右中間は百十メートルと年鑑に記されている。しかし、狭いと感じるのは一見したときのことで、両翼は右翼と左翼の守備位置の真後ろあたりから、フェンスが裁縫ベラのように拡がっていき、ポールの根っこのところで、一メートル九十センチフェンスの二倍以上もある四メートル七十センチになっている。だから、ヘラの先端をライナーで越えれば百メートルは確実に飛んでいることになる。けっして狭い球場ではない。東京球場と同様、内外野総天然芝。しかしここも冬芝が枯れた薄茶色をしていた。ファールゾーンの一部は土。パリーグ経験者の葛城が、
「大阪球場もこういうフェンスだよ」
 内野スタンドはブルペン付近まで二層式で高く広い。三塁側内野スタンドの背後に、巨大な日立のネオン広告付きの照明塔。ネット裏上段のズラリと並んだゴンドラ式の放送席に、局員や報道部員たちの姿が見え隠れする。各放送席に防御ガラスはなかった。バックネットでは完全防御できないのでしょっちゅうファールが飛びこむだろう。外野は内野の一層部分のつづきの高さでフィールドを弧状に取り巻いている。ふつうの球場よりは外野スタンドの幅は広い。百四十メートルは飛ばないと場外に叩き出せない。
 内外野のスタンドに四万人余りの観客があふれていた。生まれて初めて目にする大観衆だった。中日球場の三万五千人の二倍もいるように見えた。あの中に、年間パスを買ったトシさんや雅子、かならず観にいくと言った御池、写真を撮りまくっているはずの白川マネージャーがいるだろうと思った。
 川上監督はじめ巨人チームのメンバーの顔も練習風景も見ないようにした。巨人軍のだれからも声をかけられなかった。親しくしたくなかったので好都合だった。
 フリーバッティングでライトの大和証券のへらを狙って打ったが、当たらずにぜんぶスタンドに突き刺さった。それならばと力を入れて打ち、二本場外へ打ち出し、一本千代田生命の照明灯に打ち当てた。守備練習のとき、90Mと書かれた塀をさすってみたら、硬いコンクリートだった。打球を追ってバックするときに気をつけなければならないと思った。
         †
 七対ゼロで勝った。カーブの切れていた小野が六安打を打たれながらも零封した。長嶋が三安打だった。二時間十数分の短い試合だった。
 巨人は渡辺から城之内につないだ。アンダースローの渡辺はへたに球速があるだけに、私にとっては打ちやすいピッチャーだった。二回先頭打者で打席に入り、ライトの看板へソロホームラン、五回ランナーを一塁に置いてレフトオーバーの二塁打。渡辺からは二打数二安打だった。一枝が、
「秀ちゃんは河合楽器時代のチームメイトなんだよ。気の弱い男でさ。下手投げにしたのは巨人に入ってからだ。そのほうがスピードがあるし、重いボールを放れるって藤田コーチに言われてな。素直なんだよ。それからはグングン頭角を現して十勝ピッチャーになったんだが、気の弱さは相変わらずで、寮長の武宮にメリーちゃんなんてあだ名つけられてさ。ようやく巨人の準エースになったのに、金太郎さんに破壊されてもとの木阿弥だな」
「それはないですね。今年も十勝以上挙げますよ。きょうだってぼく以外の人はほとんど抑えてるわけですから」
「まあな。俺もやられた。しかし、メリーちゃんもおったまげたろう。あんな馬鹿でかいホームラン打たれて」
「そのうち研究されて、二回に一回は抑えられることになるでしょうね」
 苦手な城之内からは、七回ツーアウト満塁で右中間の看板に打ち当てるグランドスラム、もう一本は詰まったセンターライナーだった。渡辺はともかく、城之内から一本でも打てたことが収穫だった。ビンボールまがいの球は二人とも投げてこなかったし、敬遠もされなかった。
 強く印象に残ったのは、巨人チームのアイボリー色の白っぽく輝くホーム用ユニフォームだった。明石では淡い水色だった。むかしよく観たテレビのナイター中継の薄暗い画面に、このアイボリーのユニフォームが不気味に映えていた理由がよくわかった。画面が薄暗かったのは、照明灯が他球場よりも明度が低いからだと知った。
 もう一つ、目に鮮やかに残ったのはスコアボードだった。リポビタンDの広告に囲まれた手書きの選手名のボードが、他球場より気高く見えた。あの昭和三十六年の日本シリーズ、藤尾のファーストフライを寺田が落球し、エンディ宮本がサヨナラヒットを打ったとき、スタンカが円城寺球審に体当たりした球場だと思い返し、しみじみとした気分でホームベースのあたりを眺めた。
 帰りのバスで水原監督は、
「勝ったからいいというもんじゃないですよ。金太郎さんと小野くんにおんぶに抱っこで、危ない勝ち方でした。あしたはちゃんと団結してください」
 と静かな声で言った。みんなシュンとなった。
         †
 翌九日。バスの窓からあらためて球場正面の白っぽい門構えを見た。門脇に小さな入場券売場があった。入場一時間前の客でごった返していた。バスを降り、関係者通用口から回廊を中央へ向かって歩いてみた。正面ゲートを入ってすぐの階段を上ると、ネット裏の通路に出た。レストランがあり、巨人軍の早出の選手が何人かめしを食っていた。だれも私に気づかなかった。レストランの先の鉄扉を開けると、よく写真で見た大きな姿見があり、やはり巨人の早出の選手がバットを振っていた。回廊の壁には白い塗装が施されていて、神殿のように感じた。
 巨人の先発は高橋明、中日は浜野。ドラゴンズは二回に、江藤と私を三、二塁に置いて木俣がライト前へ、四回には太田を三塁に置いて中がライト前へと、二本の適時打で三対ゼロとリードしたが、五回の裏に浜野が王と長嶋にスリーランとソロのアベックホーマーを喫して逆転された。七回の表、私の二日連続の満塁ホームランで七対四と逆転し返し、その勢いのまま押し切るかと思われたが、八回の裏、長嶋を二塁に置いて柴田に左中間の二塁打が出て一点を返されてからジャイアンツの戦況が好転し、九回裏、森を一塁に置いて黒江が同点ツーラン、そしてなんと金田がサヨナラホームランを打って、七対八で負けてしまった。内野席で旗が打ち振られ、鉦や太鼓やトランペットがドンチャンうるさかった。ベンチに引き揚げるとき、黄昏どきの夕焼けに照らされた球場は油絵のように美しかった。
 私のグランドスラムで逆転されたあと、高橋明をリリーフして、七、八、九の三回だけを投げた金田が勝ち投手になった。負け投手は九回の裏にクローザーで出てきた田中勉だった。先発の浜野はまだ七対五で勝っている八回終了の時点で降板した。たった三人に投げてサヨナラを喰らった田中勉は、帰りのバスでも終始申しわけなさそうにうなだれていた。浜野は上機嫌に、
「勉さんの責任じゃないですよ。巨人を調子づかせた俺が悪いんです。みなさん、すみませんでした。いやあ、金田っておっさんはほんとにバッティングがいいな」
 とはしゃいだ。水原監督が、
「金やんよりも黒江くんにやられたね。金やんはオマケだ。しかし、いい試合だった。ヒット数はうちのほうが多かったし、エラーもなかった。とても気分よく見ていられた。きょう、金太郎さんは?」
「三の二、フォアボール二、三振一です。金田の内角ドロップにやられました」
「高木くんが五の三か。江藤くんが五の二、太田くんと島谷くんは四の二、浜野くんまで一本打って全員安打だから一丸野球をやったわけだ。めったにないことだよ。この調子をペナントレースまで持っていってください。雨で何試合か流れることを考えると、オープン戦は残り十試合くらいだね」
 江藤が、
「金太郎さんは二試合で満塁ホーマーを二本打った。きょうは場外ぞ。後楽園の場外ゆうんは球場始まって以来やろ」
 太田が手を挙げ、
「王が三十八年の三月、国鉄との開幕戦で、金田から百五十一メートルの場外ホームランを打ってます。五月のタイガース戦で四打席連続ホームランを打ったときの一本目が百五十メートルの場外で、残り三本も百三十メートル級のスタンド上段でした。ただ、神無月さんのきょうの場外は、百七十メートルは飛んでます」
 江藤が、
「そうね。ワシは王とプロ入り同期やが、知らんかった。ま、金太郎さんの前にランナーが溜まる展開になれば、かなり勝ち星が拾えるばい」
 私は、
「ランナーが溜まってたのに、三打席はお役に立てませんでした」
 木俣が、
「ゲッツー打たんかっただろ。二回はフォアボール、一回は三振じゃないか。さすがだよ」
 坂東が、
「神さま金太郎がプロ入り二つ目の三振をしたか。あの瞬間、ネット裏の記者席がざわついたぜ。金田のドロップ、二階から落ちてきよったろ」
「みごとにストライクコースをよぎっていきました。見逃しだったのが残念です」
 島谷が、
「え? あのドロップ、ボールくさくなかったですか? 森のキャッチングがうまいから審判ごまかされたんじゃないの」
「ストライクでした」
 田宮コーチが、
「きょうはゆっくり寝て、あした朝めしを食ったら解散だ。荷物をホテルに忘れていかないようにしろよ。十二、十三日と、中日球場で阪神戦、広島戦だ。めいめい、よく相手チームを研究して臨むように。特に、江夏対策を綿密にな。二軍と合流して練習したいやつは、あしたあさって、中日球場で十時からだ」
 江夏! その名前で頭がいっぱいになった。水原監督が、
「江夏を克服しても、安心して力を抜いちゃだめだよ。コツコツ対戦成績を伸ばすようにしていくんだ」
「はい」




(次へ)