二十五

 三月十日月曜日。晴。江藤、太田、菱川と、サツキで和定食。
 荷造りした段ボール箱を一つ、バット三本をフロントに出す。定宿のせいか荷送りの応対は手慣れたものだった。手続をすませてから、フロントの全員にサインを求められたので、快く文江サインをした。みんな色紙だった。チェックアウトのあと、品川駅までホテルのバスが出た。バスの運転手にもサインした。従業員が立ち並び、バスに向かって礼をした。バスの座席には、東京やその近郊の自宅に帰った人たちが欠けていた。東京が実家の水原監督と徳武と千原、それに宇野ヘッドコーチ、きのうのうちに飛行機で帰った坂東らピッチャー陣と、大阪が実家の森下コーチ、群馬に帰った中の顔もなかった。
 宇賀神たちはあれっきり姿を現さなかった。ホテルの中でも外でも見かけなかった。見守っているという安心感を与えて、初日で去ったのかもしれない。それとも、都会の人混みは田舎の暗い夜道よりは安全なので、私に行動の自粛を期待するだけに留めたのかもしれない。
 十一時の新幹線に乗りこむ。一等車一輌の片隅を、十人に足りないドラゴンズの選手とコーチが占めた。車中ではもっぱら江夏の話になった。太田が、
「おととし入団して、十二勝十三敗、奪三振王。去年二十五勝十二敗、四百一奪三振で日本新記録。一枝さんの記録でもあります」
 一枝が頭を掻いた。大阪が実家なのに、一枝は森下コーチと帰らずに私たちといっしょに新幹線に乗った。温厚な長谷川コーチが、
「無名の大阪学院大高校で、予選七試合を一人で投げて三点しか取られなかった。しかも直球しか投げずにだ。ほかのボールが投げられなかったんだよ。ホームランもランニングホームラン一本きりで、柵越えは打たれてない。そんなすごいやつでも、地方予選の準決勝で負けて甲子園はだめだった。中学時代は陸上部で、県大会の砲丸投げに出場して準優勝したこともある。阪神のドラフト一位。一年目は直球だけで奪三振王だ。新人王は獲れなかった。サンケイの武上四郎にもってかれた。去年ようやくカーブを覚えて、奪三振日本新。それまでは稲尾の三百五十三個だった」
 菱川が、自分もひとくさりという顔で、
「有名な話ですけど、新記録を王で達成すると決めていて、三百五十三個目の三振を取ったんですよ。それを日本新と勘ちがいしたらしいんです。日本タイだと辻に言われてびっくりして、それならやはり新記録は王からというわけで、八人から三振を取らないようにして、三百五十四個目を王から取った。森と高橋一三が三振しないようにと祈ったらしいです」
 島谷と江島が離れた席で、遠い世界の話のようにニコニコ聞いていた。私は、
「阪神に一軍の左ピッチャーは江夏以外に権藤しかいないですよね。だから左を使いたいときは、ほとんど江夏が出てくることになりますね」
 太田が、
「そうです。去年は……えっと」
 手帳を開く。
「三十七回先発して、二十六完投、完封八、防御率2・13です。今年はもっとすごいことになりますよ。球速は百五十三、四キロ」
「え? そんなにあるの」
「はい、全盛時の金田、尾崎並です」
 私は長谷川コーチに、
「速球はバットの届く範囲なら打てます。カーブのキレはどうなってます?」
「ちょっと遅くてほとんど曲がらないから、かえって厄介だ。速球のあとだとタイミングが狂って芯を外される」
「……なるほど。やっぱり強敵だ。そのカーブはしばらく打たないでおきます。あのう、恥ずかしくていままでずっと訊けなかったんですが、防御率って何ですか」
 長谷川コーチが笑って、
「恥ずかしがることはないよ。何でも訊いてくれ。まず自責点から説明するね。ヒット、フォアボール、暴投、ボーク、フィルダースチョイス、盗塁がきっかけで塁を進めたランナーがホームインした得点を自責点と言うんだ」
「はい。ヒットにはホームランも含みますね」
「もちろん。自責点を投球回数で割って、それに九をかけたもの。それが防御率だ」
「……?」
「たとえば、きのう浜野が五点取られて八回で降板した。五割る八かける九は、うーん」
「5・6ぐらいですね。五点を一回あたり取られた数字を計算して、それに九をかけて一試合に取られるだろう架空の数字を作り出すんですね。虚と実の入り混じった架空の数字ですね。多いか少ないかを表わすだけの便宜上の数字だ。自分の責任で一点取られて完投勝利したピッチャーの自責点は一、一割る九かける九なので、防御率は1・0、自責点ゼロで完封した場合は0割る九かける九で0になります。一試合ずつ出すのは無意味な数字ですね。だから防御率というものは、その日までの自責点の総和をもとにして毎日出す必要が出てきますよ。太田、去年の江夏の自責点と投球回数は?」
「えっと、七十八、三百二十九回です」
 いのちの記録を出してシャープペンで計算する。
「七十八割る三百二十九かける九は……ええと、2・1337ですね。さっきの数字と合ってますか?」
「ばっちり!」
 車内に拍手が湧いた。一般の客たちが通路に好意的な顔を傾けた。サインを求めにこないのでホッとした。
「少ないほどよいとわかったから、もういいです。考えないことにします。打率を知っておいたほうがいいや」
 大拍手になった。
「東大!」
「天才!」
「神さま!」
 田宮コーチが、
「おもしろくなってきたぞ。打率を知る前に、まず、打数からいくか。知ってるかな?」
「バッターボックスに入った数……」
「そう単純じゃないんだ。打席数を説明しよう。打者が打撃を行なった結果、アウトになるか、塁に達した数だ。フォアボール、デッドボール、バント、犠牲フライ、打撃妨害、走塁妨害による出塁もぜんぶ含む。また架空の数字だけど、所属チームの試合数に3・1をかけたものを規定打席という。今年は百三十かける三・一で、四百三。これに達してないと打率計算をしてもらえない」
「一試合に三打席強ですね」
「そう。で、打数の話に戻るが、この打席数からさっき並べたフォアボールとかバントとかをぜんぶ引いたものが打数だ。打ったヒット数を打数で割れば打率になる」
「ぼくはきのう、五打席、フォアボール二つを引いて、三打数一安打、三割三分三厘」
 長谷川コーチが、
「そのとおり!」
「五打数一安打だと考えてたら、二割だと思うところでした。これもわかったので、もう考えないことにします」
 江藤が、
「金太郎さんは、もともと何も考える必要はなか。ただ打っとればええ。頭がいいことはようわかったから」
 葛城が、
「それも並の頭じゃない。その頭で、バッターボックスの中でいろいろ考えてるわけだ。敵うわけがない。ドーンと百六十、百七十キロのボールで打ち取るしかないぞ」
 半田コーチが、
「ワタシにはチンプンカンプン、ネ」
 江藤が、
「コーチ失格たい」
 ドッと笑いが弾けた。とうとうこらえかねたように、乗客の連れの子供たちが学習帳やかわいらしいハンカチを持ってやってきた。私はもちろん、ほとんどの選手やコーチもサインした。
         †
 名古屋駅に主人夫婦、カズちゃん、素子、千佳子が出迎えた。大阪へ帰る一枝をそのまま車窓に見送り、ほかのドラゴンズの選手たちがホームに降り立った。
「お帰り!」
「お帰りなさい」
 彼らは三人の女を目にすると、
「オオー!」
 と目を瞠った。高木が、
「何者ですか、この美人がたは」
「北村一家の人たちです。私は娘の和子」
「うちは妹分の素子」
 カズちゃんと素子がみんなに笑いかけた。
「あるじの北村耕三です」
「女房のトクです」
「居候の千佳子です」
 江藤が主人夫婦に、
「先日はおじゃまばしました。いずれ、また図々しゅう一党ば引き連れて遊びにまいりますけん、そのときはよろしゅうお願いします」
 主人が、
「どうぞどうぞ、いつでもいらしてください。阪神戦は応援にまいります」
 トモヨ親子がいなかった。遠慮したのだろう。改札を出る。半田コーチが、
「ワタクシ、カールトン半田と申しまァす。ドラゴンズのコーチ、してます。どうぞよろしく」
「南海の半田春夫さん? 南海の優勝の原動力でしたね。ビールかけを発明した人でしょ。三十五年のオールスターで、田宮謙次郎をランナーに置いてランニングホームランを打ちましたね。たしかピッチャーは坂東」
「はーい、よーく憶えていてくれました。サンキュー」
「私がその田宮です。私もコーチをしております」
 田宮コーチが握手を求めた。便乗という感じで、長谷川コーチも握手する。
「長谷川です」
「おお! 広島の大エース」
「いえ、小エースです。お噂はかねがね。たしかにみなさんのたたずまいは、太田の言うとおり別世界の人ですな。今後ともよろしくお願いいたします」
 千佳子が頬をピンクにしてみんなの様子を眺めていた。高木が主人に、
「ぼくにバックトスを教えたのは半田さんなんですよ」
「へえ! 高木選手の発明だと思ってました」
 主人は知っていることをとぼけて見せる。高木は笑いながら、
「じゃ、私は在来線に乗り換えて岐阜の実家に帰りますから、これで。いずれ江藤さんたちとお訪ねします」
「お待ちしております」
 改札前で別れた。江藤が、
「じゃ、ワシらもタクシーで寮に帰ります。これで失礼します」
 太田が、
「神無月さん、十二日の球場入りは十時半、十一時からフリーバッティングです」
「わかった」
「きょうから二日間、この三人と二軍との合同練習に出ます」
 三人というのは、島谷、江島、菱川だ。それまで静かにしていた菱川が女たちの目を惹いた。素子が、
「あなた菱川さんでしょ。ユニフォーム姿、格好ええよ」
「ありがとうございます」
 直角の辞儀をする。田宮コーチが、
「この江島と島谷の有望格も忘れないでください。レギュラー候補です」
 主人が、
「島谷さんのシュアなバッティングには感心してます。江島さんは新人の去年に五本もホームランを打っとる。今年が勝負ですね」
「はい!」
 江藤が、
「北村席さんは野球一家ばい。うれしか。これからも応援よろしゅうお願いいたします」
「もちろんですよ。じゃ、お引止めしても練習に差し支えるでしょうから、これで失礼します。田宮さん、半田さん、長谷川さん、お会いできて光栄でした」
「またいずれ、何かの折に」
 太田が、
「神無月さんも自主トレ欠かさないように」
「おさおさ怠りないよ。また球場で会おう。じゃ、みなさん失礼します」
「オー!」
 辞儀をし合って別れた。


         二十六

 駅裏で菅野が待っていた。車はない。
「お帰りなさい。大活躍、鬼神のごとしでしたね」
 みんなで歩きだす。
「トモヨさんは?」
 カズちゃんが、
「保育所の参観日。二時には帰るわ」
 主人が、
「錚々たる顔ぶれだったよ。菅ちゃんもくればよかったのに」
 菅野が、
「神無月さんから少しでも目が逸れるのはイヤなんですよ。野球選手の輝きは異常ですからね」
 千佳子が、
「ほんとにそう思いました。神無月くんにはかなわないけど」
 女将が、
「あたりまえでしょ。どこへいっても神無月さんはいちばんやがね」
 カズちゃんと素子が手を取り合って笑った。主人が、
「長谷川良平や田宮謙次郎もいたぞ。半田春夫もいた」
「小さな大投手の長谷川ですか。おととしまで広島の監督をやってた人でしょう」
「ああ。いやあほんとに小さかったよ。握手した手も小さかった。これで百九十七勝、終生防御率二点台かと信じられんかった。よほどいいシュートを放ったんやな。何百人ものバットを折ったらしいで」
 詳しいことを言いはじめる。楽しくなる。
「長谷川コーチはいい人です。入団式のときにぼくをかばってくれた一人です」
「ほうやったね。やさしい顔をしとった」
 女将が言う。千佳子が私の手をとった。
「発表まであと十日だね」
「はい。たぶんだいじょうぶ」
 素子が、
「百パーセントやよ。とにかくムッちゃんのアパートが決まってよかったわ」
「どこ?」
 瞬間、思い出した―丸の内線。南阿佐ヶ谷駅。終点荻窪から一つ手前。池袋から四十七分。暗い夜道。別れてからまだ何カ月にもならないというのに、思い出がなつかしく押し寄せてきた。いまこの胸に抱き寄せたくなった。
「笑ったらあかんよ」
 そう言いながら素子が愉快そうに笑いだす。
「結局お城のマンション?」
 カズちゃんが、
「そう、トモヨさんの説得に負けてね。山口さんにも連絡したら、何遠慮してるんだ、俺はコンクールに受かっても、顔を売るためにしばらく東京で演奏回りしなくちゃいけなくなるだろう、いずれ名古屋に移住するときがきたら、栄の繁華街に練習場つきの家をちゃんと探す、って」
 千佳子が、
「ムッちゃん、自転車買って、名駅までかようんですって」
 おトキさんと百江とメイ子が門に出迎えた。
「お帰りなさいませ。お昼のご用意すぐいたします」
「まずコーヒーや。新聞ドッサリ溜まってますよ。おとといの後楽園場外、推定距離百六十九メートル、日本最長だそうです。神無月さんが読んだら切り抜かんとあかん。……神無月さん、心臓が悪いんですか」
「え? 何のことです」
「水原監督がインタビューで、頻脈と言っとりました。危ない病気ですか」
「ああ、紫の判子ね。小学校のときからですよ。脈が速いだけのことで、病気じゃありません。でも、どうして水原監督、そんなこと知ったのかなあ」
「いろいろ手を回して探ったんでしょうね」
「心配いりません。人よりちょっとスタミナがなかっただけです。むかしの話で、いまはちがいます。スタミナはかなり出てきました。瞬発力もあるし、まったく問題ありません」
 玄関に賄いたちが立ち並んでいる。自分の中にいつもより過剰な凱旋気分がある。カズちゃんと千佳子がエプロンをしてすぐ台所に立つ。私はコーヒーを飲みながら新聞に目を落とす。自分に関する記事を読むのに飽きている。素子が、
「プロ野球の選手って、すぐ芸能人とくっつくけど、芸能人て、ホテルとかしょっちゅう出入りしとるん?」
 主人夫婦も興味深そうに私を見る。
「まったくしてない。たぶん、何かの懇親パーティで出会うんだと思う。タイトルを獲ったときのパーティとか、チーム激励会のパーティとか。そういうものをどこでやってるのか知らないし、いままで一度の誘いもないし、誘われてもいく気もしない。水原監督もぼくをそういうところへは誘わない。タイトルを獲ったときの慰労会で会ったとしても、ぼくは有名病に罹ってる芸能人に興味がない。銀座にもいきたくないし、何かの拍子に天皇陛下に会えと言われても断る。この家に呼ぶのも、同僚以外はいっさいオフリミットだ」
 台所からカズちゃんが、
「お家、完成したわよ。今夜からあっちがキョウちゃんの家」
 主人が満面の笑みを浮かべる。
「ええ家ですよ。その同僚がたも十人は呼べます」
 菅野が、
「あしたの朝のランニングは、あちらへ伺います」
 おトキさんが、
「私どものお昼は豚丼だったんですけど、神無月さんには好物のナス天丼と、焼きビーフン。まだお昼食べてなかった人は食べてください。春雨のからいスープもお好きな人はどうぞ」
 座敷に声をかける。女たちが食卓につき、いつもの図になる。中日新聞を見る。バットのインパクトの瞬間と、振り抜いた直後のフォロースルーの大きな写真。一面に活字がびっしり詰まっている。

     
天馬開幕へ向けてさらに飛翔!
           
神無月オープン戦六戦十四発
 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(19)がオープン戦六戦連発十四号を放って、さらに天空高く翔(かけ)った。巨人戦に四番で先発出場し、八日七回に城之内から十三号満塁弾を放ったのに次いで、九日も七回に高橋明から十四号満塁弾を放った。百八十二センチ八十三キロの均整のとれたからだから打ち出された弾丸が、後楽園の場外へ消えていった。推定飛距離百六十九メートル。高橋明が内角低目のきびしいコースに投じたスライダーを振り切った。
 六試合で十四発。神無月は四月十二日広島との開幕戦(広島市民球場)へ向けひたすら孤高の飛翔をつづけている。天馬の飛翔とともに、同伴する竜たちの飛翔の道もはっきりと見えてきた。


 中日スポーツはもっと大きな写真と見出しだった。

     
獅子奮迅 怪竜とどまるところを知らず
  
「大好きなコースです。芯をしっかり食いました。感触は軽かったです」
 右中間の大照明灯鉄柱の左脇をかすめて曇り空へ消えた。前日につづくグランドスラム。一打席目は江藤を一塁に置いて右中間フェンス直撃の二塁打だった。美しいフォームで二塁ベースにフットスライディングした。観客は、打っても走っても守っても美しい神無月しか見ていない。
 神無月がインタビューにひとこと答えてさっさと引き揚げたあと、水原監督は淡々とした調子で語った。
 「試合を忘れて惚れぼれ見つめてしまうね。使いすぎている感があるので、残りのオープン戦は後半二打席だけ出場させることも考えています。ペナントレースになったら、ケガでもしないかぎり全試合フル出場してもらうつもりですが、彼は頻脈という痼疾を抱えているので、スタミナ切れの場合には数試合欠場もあり得ます。病気ではありませんが、常時一分間に百十回前後脈を打つのです。神無月はこの事実をひとことも口にしたことがありませんし、気にもしておりません。いつも試合開始前に彼が執拗にダッシュを繰り返している姿を目にし、何かの求道者の姿に見えたので、球団スタッフに小中高時代の身体検査表を取り寄せてもらいました。頻脈の判が捺されておりました。人の同情を拒否するための秘匿は一種の美点でもあるので、神無月にはすまないが、私があえて公にしておきます。同情を引くためではなく、彼の覚悟を多くの人びとに知ってもらうためです。おそらく神無月は死を恐れていない。自分の野球を愛してくれる人びとのために死ぬ気でいる。言い過ぎかもしれません。神無月は私の言葉を大げさだと笑うでしょう。たしかに、医師に確かめたところ、過度の運動をしないかぎり命に関わることはないと教えられましたが、彼は人の何倍も練習熱心なので、ひとかたならぬ心配をしております。私は神無月のそういう人間性ともども、蒼白き天馬として愛し、賞翫しています。同時に、この野球ファンの至宝を長生きさせようと慎重が上にも慎重を期しています。小中高大と彼のチームメイトも、ドラゴンズの連中もこの事実を知らなかったはずですが、まるで知っていたかのように彼を大切に扱ってきた感があります。すばらしいことです。神無月はこれから球界に大きな足跡を残していきます。どうか目を離さず、彼の一挙一動を見守ってやっていただきたい」
  蒼白きという言葉が胸に応えた。六大学以来神無月を見てきたわれわれファンの目に彼は健康そのものに映っていたが、そういう危うさを知って、ますます天馬の翼に輝きが増したように感じられる。開幕までひと月、記録に残らないオープン戦とは言え、神無月は何本のホームランを積み重ねていくのか、そして公式戦何試合目で新人最多記録を塗り替えるのか興味は尽きない。ちなみに、歴代新人最多ホームラン記録は、オープン戦は長嶋茂雄の七本、公式戦は当時大洋に在籍した桑田武の三十一本である。桑田もまた背番号8であった。

 驚いた。これは私が〈いじめ〉られないための過剰宣伝だ。頻脈はたぶん完治していないにしても、かなり安定期にある。グランドの短距離疾走で息が上がることはない。長距離も二十キロまではだいじょうぶだと思う。下段に小さく川上監督のコメントも載っていた。
「神無月くんは練習嫌いだと聞いている。そういう選手は神と言われるほどの神技をどれほど持っていようとも、いずれ雲上から転落して地上の凡夫となる。地上の凡夫として練習の三昧境に入った人こそ、神人の域に達して雲上に昇る。要するに、一匹狼はチームの癌である。ふたことみこと中日指導部に対して物申したい。選手のほとんどは本来怠け者であるので、彼らの尻を叩くのが監督の務めである。社会人としても礼儀正しい選手がチームを強くする。そのように躾けるのも監督の務めである。選手に〈いい人〉と思われるようではリーダー失格である。昨年大下弘氏が東映フライヤーズの監督の任に就いたとき、彼の定めた規則はたった四つだった。罰金なし、門限なし、サインなし、団体練習なし。その結果どうなったか。八十二戦して三十勝四十八敗四分け、勝率三割八分。八月に彼は退任した。後を継いだ飯島滋弥監督も二十一勝しかできなかった。勝率もまったく同じ。もちろんシーズンを終えて最下位だった。中日も奇しくも勝率まで同じ最下位だった。これは中傷ではない。諫言である」
 さびしい気分になった。こういうさびしい風の吹く原野には長く立っていられない。私は新聞を置き、菅野に、
「根拠のない中傷だね。むかしからぼくはしっかり練習するほうです。へどを吐くほどはやらないけどね。練習嫌いだと聞いている、というのは嘘ですね。実際ぼくを見ている人間がそんな噂を流すはずがない。ぼくのことをそんなふうに言うのは、キャンプ前の合同練習に参加しなかったという周知の事実を曲解したからでしょう。そろそろこういう意見が出てくると思ってました。明石の交流戦の打ち上げのときの彼の態度からわかりましたが、彼はぼくのような人間が生理的に嫌いなんですね。母を思い出します」
「神無月さんがタイトルを総なめすれば、練習の成果だと言い出しますよ。見えてます」
 菅野が言った。主人が、
「卑怯者、世にはびこるやな。こういうひねくれた根性の持ち主でないと、なかなか世にはびこれん」
 カズちゃんがやってきて、
「こんな人たちに復讐するために時間を費やしちゃだめよ。ふつうに暮らしてね。ダントツの三冠王なんだし、ボールが飛んでいく距離も日本一なんだから。物差しで測れない人に物差しを当てようとして、みんな必死になってるのよ。この川上という人も、少なくとも一時代を築いた手柄があるから、自分の基準を捨て切れないのね。お母さんを黙らすために東大にいったように、こういう人たちを黙らすために野球の記録をどんどん塗り替えていきなさい。頻脈はちっちゃいころからのキョウちゃんの体質。この十年で心臓はしっかり鍛えられたわ。キョウちゃんの心臓は私の心臓。ぜんぜん心配要らない。さあ、食べちゃって、散歩でもしていらっしゃい。百江さんとメイ子さんもいっしょに」
 素子と千佳子が、
「あたしもいく」
「私も」


         二十七

 うまいナス丼を掻きこみ、うまい焼きビーフンを掻きこみ、うまい大から春雨スープをすすり上げる。主人が、
「水原さんが川上に喧嘩売らなければええが……。黙っとらんだろう、水原さんは」
 カズちゃんが、
「売らないわ。くだらないと思ってるはずよ。水原監督が何か言う前に、この人、マスコミに叩かれはじめるわね。叩かれても、大きな権力を持った支持者がたくさんいるから無事なんだろうけど。でも、これからはキョウちゃんが活躍するたびにその支持者も離れていくようになるわ。つまらないこと言っちゃったものね。あまりしつこいと、牧原さんたちが黙っていないかもしれないわね」
 菅野が、
「門の前の新聞社のバンをぜんぶ追い払ってくれたからなあ。ここは秋月先生のお友だちの家ですよ、御用があるなら私どもが伺いますよ、って。ピタッとマスコミが貼りつかなくなった」
「政治家の名前を出すところがさすがね。基本的にまちがったこと言ってないし。あ、そろそろトモヨさん親子が帰ってきて賑やかになるわよ。散歩は保育所と反対のほうにしたら?」
 菅野が、
「だいじょうぶ、私が車で迎えにいくことになってますから。神無月さん、人けのない場所を歩いたほうがいいですよ。その顔、目立ちますから。じゃ女将さん、源氏の君を迎えにいきますか」
「はい、いきましょ。早よ直人の顔見たいわ」
 素子と千佳子と百江とメイ子を連れて、牧野小学校の通用門の前を通る。
「入ってみようか。学校の校庭は好きだ」
 開放している正門から入る。桜の真っ黒い大木が二本。芽が吹きはじめている。狭い校庭に向かって野球用バックネットが立っている。わくわくしながらその前に立つ。トレパンとブルマーを穿いたちびっ子たちが、先生の笛に合わせて跳びはねている。右手に職員校舎、正面と左手に三階建て鉄筋コンクリート校舎。
「ミニ千年小学校だな。今月の末ごろにはこの桜がみごとだろう」
 門を出るとすぐに、クリーニング櫛田商会。
「ここだね、ぼくのユニフォームを洗ってくれるのは」
「はい。仕事が丁寧で、早いです」
 百江が応える。塀沿いに進むと、旅館とホテルが三軒並びに建っている。
「さすが駅西、すてきな環境だ。性の目覚めが早くなる。ぼくの目覚めは五年生だった。チンボの皮が気になって、剥けろ剥けろって撚(よ)てたら、ツーンと痛いくらい気持ちよくなってピュッと出た」
 千佳子と素子が私の手を握ってきた。素子が、
「うちはほんとに経験なし。そんなことわかる前に客を取らされた」
 千佳子が、
「私は……おとうさんの背中でオウマしてるとき。チュッてオシッコ漏らして、おとうさんに叱られました」
 メイ子が、
「私は案外早くて、小五のときにはこっそりお蒲団の中でしてました」
「百江は?」
「結婚するまで、ウブでした」
 書店、鮨屋、簡易宿泊所、電器屋、雑貨店。店先のガラス戸が薄汚れている。ただむかしからあるというだけのものだろう。ほったらかしの様子がなつかしい。あっというまに椿神社に出る。百江が、
「私の家、この神社の横手、すぐそこです」
「いこいこ、百ちゃんの家見ていこ」
「ここなら、ぼくの新居も近いね」
 神社の裏道に曲がりこむと、モルタルの質素な二階家があった。小庭にモミジとバナナツリーが植わっている。
「ここです」
「なんや、キョウちゃんの家と通り一つ離れとるだけやん」
「はい、私もびっくりしました」
「お姉さんが危ない日は、すぐ呼んでもらえるなあ」
「はい……」
 頬を赤らめる。新庄というタイル表札のある小さな門扉を開けて入る。玄関を入って細い廊下の左手に六畳の居間があり、右手が立派なキッチン、その奥が風呂場になっている。どの家も配置はだいたい同じだ。廊下の突き当たりはトイレのようだ。二つ扉があるのは、かつて大人数で暮らしていたからだろう。トイレの前横から右へ階段が昇っている。
「居間の隣が八畳の寝室です」
 みんなで覗きこむ。
「一階はこれだけです。二階はまたということで。……神無月さんが生きてるのは、山口さんと和子さんのおかげ。その和子さんは、最愛の人をいつもポンと投げ出してくれますけど、悲しいとか、さびしいとか、そういう気持ちにはならないんでしょうか」
 素子が、
「ならんの。すごい考え方なんやけど、女にかぎらず、キョウちゃんが〈だれか〉を喜ばせたり、そうすることで幸せを感じたりするのを、心からうれしがっとるんよ。もちろんキョウちゃんに抱いてもらったら、とことんいっしょに喜ぶんやけどね。その〈だれか〉になる資格はとてもきびしくて、キョウちゃんに惚れて命を捧げとるか、捧げる可能性のあるほど惚れとる人しかあかん。都合のいいことにキョウちゃん自身が、そういう人しか好きにならん。きょう新聞にキョウちゃんの悪口を書いとったような人は、ぜったい好きにならん。お姉さんは人間を見る目をキョウちゃんにまかせとる。キョウちゃんが連れてくる男はぜんぶ信用するし、抱く女はぜんぶ信用する。その人を愛して生きていたいと思うから連れてくるわけやし、抱くわけやからね。キョウちゃんが生きようとするきっかけになる人間は、ぜんぶ信用するんよ。お姉さんは、キョウちゃんが人間に絶望するとすぐ死んでしまう性格だって知っとるから、絶望させるような人間はキチガイみたいに追っ払うんよ。うちらはお姉さんにとって、キョウちゃんのための選りすぐりの人間なんよ。だから、悲しくなったりさびしくなったりすることはあり得んの。野球もあたしたちみたいなもんやよ」
 百江が、
「神無月さんが、新聞に書いてあったような怠け者だったら、お嬢さんはもともと好きにならないですよね」
「あたりまえや。そんな好きにもなれん男とばかり出会ってきたんや。だから、とうとう巡り会ったキョウちゃんに感動して、巡り会えた幸運に感謝して、キョウちゃんの命を長く生かさんとあかんと心に決めたんや。あたしと同じや。キョウちゃんをどうすれば生きつづけさせられるかゆうことばかり三年も考えてきたんよ。これからも考えるわ。結論は出んけど、こうすればいいというのはわかっとる。自分の欲望もバカさも、素直にぜんぶ見せるゆうことや。キョウちゃんは、まだるっこい手続を踏む人間は誠意のない人間やと思っとるから」
 メイ子が、
「ぜんぶ見せるのは図々しくないでしょうか」
「キョウちゃんの都合を考えずにやったらな。あたしはキョウちゃんの都合の悪いときに何か仕掛けたことはあれせんよ。都合悪くしたら、死んでしまうもん。キョウちゃんに惹かれる人間は、真っ先にそう感じるはずやよ。生きてさえいれば理想的な人間を殺さんようにするのはあたりまえやろ」
 百江は何度もうなずき、
「お嬢さんに訊けなかったことがぜんぶわかりました」
 千佳子が、
「神無月くんのことは、私、素子さんの言うとおりに理解してました。教室で倒れたときや、首に縄の痕をつけて登校してきたとき、毎日死にかけてる人だってすぐわかった。この人を一所懸命長生きさせながら、それでだめならいっしょに死のうと思ったの。和子さんのことはこれまでわからなかった。いまぜんぶわかったわ。うれしい。一心同体と言ってくれてた意味がすっかりわかりました」
「キョウちゃんはいろんな意味で神さまに似とるけど、やっぱり人間なんよ。すぐ死んでしまう神さまなんておれせんがね。死にやすい赤ちゃんてゆうたとえがいちばん合っとるわ。お姉さんもあたしたちも、キョウちゃんを自分が産んだ赤ちゃんやと思っとるゆうことや」
 五人で玄関を出る。アイリスの前までいって、美しい看板をみんなで念入りに眺める。百江がため息をつく。
「何度見ても大きなお店ですね」
「意外と早くお姉さんの夢が実現したわ。五年はかかると思っとったけど、お父さんの力が大きかったなあ。お金の力はすごいわ。八日と九日に人を呼んで両方とも新築祝いは終わったから、あとはアイリスの募集をかけるだけ。しっかり選ぶで」
 千佳子が、
「私、雇ってもらえるんですよね」
「夏と冬の休みのあいだだけな。ムッちゃんといっしょに。でも、お姉さんの言っとるように、学生は勉強いちばん。必要もないのに働いたらあかんと思う」
「はい」
「メイ子ちゃんも勤めることになっとる」
「そうだったね」
 百江が、
「よかったですね。うまく職替えできて」
「定収入は助かります。三人の子持ちですから。仕送りがきちんとできます」
「私も三人ですよ。男の子一人はまだ手がかかりますけど」
「同志社ですってね。将来が楽しみ」
 百江が口に手を当ててうれしそうに笑った。
 新居へ歩いていき、外からみんなでぼんやり眺める。
「すごい家やろ?」
「うん、すごい家だ。中に入るのが怖くなる」
「今夜からこの家に住むんやないの。名古屋市則武二丁目二の四」
「それが住所か」
 ニニンガ、シ。暗記した。赤いボルボが車庫に鎮座していた。
「東京から代理店の人が、先週届けにきたんよ。東名高速でスピード出すぎて困った言っとった」
「十二日と十三日はこれで連れてってもらおう」
「うちもいく」
「私も」
 千佳子が言うと、百江とメイ子は残念そうに笑った。
「そうか、十三日におトキさんだけがいけるのか。厨房組はなかなかチャンスをもらえないね。さ、帰ろう」 
 椿神社の辻の赤ひげ薬局を左折し、商店街を駅のほうへ歩く。むかしからここにあったにちがいないと思えるオンボロの店ばかりだ。古着のように見える新品の服を売っているウカイ洋服店、酒類全般昭和食堂、創業昭和三十年・たいやき山忠、きれい早い安い判子名刺合カギ喜びの有る有喜堂、解説付きの店名がユーモラスだ。浅野とよく往復した四ツ辻に、たばこと染め出した赤旗が揺れている。駅に近づくにつれ背高のビルが目立ちはじめ、車の往来が繁くなる。
「素子の古巣が近いね」
「いやな感じやわ」
「ここの場所もテリトリーだったの?」
「こっちのほうにはきたことあれせん。人が多すぎて」
 百江が、
「あのガードから右手には近づいたことがありませんでした。……怖くて」
「怖いてゆうより、悪い場所やわ。汚い商売やもの」
 メイ子がうなだれた。コンクリートの建物が立ち並ぶ一帯を、素子は胡乱な目つきで眺める。私は、
「新開地になって、どの道も原形を留めてないね。もっと軒が低くて空がたくさん見えたのに」
「キョウちゃんにも思い出深いあたりやったのにね」
「うん。この広い通りを浅野と二カ月ほどかよったあと、野辺地へ送られた。こんなに近代化された路にむかしの面影を捜しながら立ってると、あんなことなんか起こらなかったんじゃないかって思えてくる。でも起こったから、それから半年後に千佳子や睦子に遇えたり、二年後に素子に遇えたりしたんだよね」
「巡りめぐって、私にも遇ってくれました」
 百江が言った。メイ子が、
「私にも……」


         二十八 

 素子が、
「ねえ、キョウちゃん、なんで女のからだに飽きんの」
「生きているあいだだけのものだからだよ。髪も目も足も手も肌も。死ねばみんな腐って融けてなくなってしまう。だから生きているうちに味わっておきたいんだ」
 四人の女の目の輝きが自信のあるものに変わった。四人で蜘蛛の巣通りの入口へ歩いていく。メイチカへの昇降口を越え、むかしの青線地帯に出る。真っすぐガード沿いにいけば笹島の交差点だ。
「ここは、でこぼこした土の広場だった―」
 牛太郎や女たちが呼びこみをしていた地区には街路樹が植わり、高層ビルが建ち並んでいる。むかし影も形もなかった新興の飲み屋が、ビルの狭間に埋まりこむ。
「アトカタもないってやつだね。さあ、家に帰って、ひさしぶりにテレビでも観るか」
「この時間は再放送ばっかやよ」
「何か、いいのある?」
「ザ・ガードマン、素浪人花山大吉」
「どれでもいいや。寝っ転がりたい」
 北村席に帰り着く。
「お帰りなさい。このあたり、三、四年前とすっかり変わったでしょう」
 トモヨさんに出迎えられ、直人にまとわりつかれる。
「うん、立派なんだけど、殺風景になった」
 千佳子が直人を抱き上げて大座敷にいき、素子といっしょにゴロゴロする。主人と菅野は出かけている。夕食の支度にかかる前のひととき、おトキさんが女将とカズちゃんとのんびり茶を飲んでいる。百江とメイ子が仲間に入った。座敷のテレビはトルコ嬢や賄いたちに占領されていたので、居間のテレビを点ける。女将が、
「おや、神無月さんもテレビを観るんかいね」
「はあ、何でもいいんです。ゴロッとなりたいんで」
 座布団を枕にする。ザ・ガードマン。宇津井健、スーパージャイアンツ、キンタマもっこり。あれは見ていて恥ずかしかった。神山繁、よく見かける禿げの馬面。中条静夫、脇役しかできない眼鏡のオッサン。倉石功、ん? 宮中のころ、社員部屋に転がっていた週刊誌か何かで、男優コンテストのナンバーワンに選ばれたというのを見たことがあるぞ。
 ―そうだ、ミスター平凡だ。裕次郎にそっくりという触れこみだったが、まったく似ていなかったな。
 川津祐介、横浜地下街の松竹映画館の看板に描かれていた顔が美しかったのを思い出す。藤巻潤、好感の持てる精悍な顔だが、知らない。稲葉義男、見た瞬間に忘れる顔だ。カズちゃんが座布団に寄ってきて私の頬を撫ぜ、唇に指を這わせる。
「きれいな顔。この顔も年をとるのかしら」
 おトキさんが、
「とらないと思います。どんどん深みのある顔になっていくでしょう」
「長生きしてね。……私が死んでも」
「カズちゃんが死んだら、死ぬよ」
 百江がやさしく目を細める。トモヨさんが目頭を拭う。画面に目を戻す。
「横領やら、殺人やら、精力的な世界の話だね。人間はもっと暇を持て余して暮らしてるのに。こんな架空の世界を真剣に演じているのがおもしろい」
「俳優も仕事でしょうけど、毎日虚業に精を出してると、人格障害を起こしてしまうかもしれないわね」
 女将が、
「暇を持て余して困っとる人をお客さんにするのが芸能人だがね。嘘の世界で慰めてあげんと」
「慰めるという意味では、ぼくも同じだな。ほんとうの世界でだけど」
 直人が戻ってきてチャンネルをガチャガチャやる。
「こらこら、壊れてしまうぞ」
 私はつまみを回してスイッチを切り、直人を抱いた。逃れてまた素子たちのほうへ走っていった。カズちゃんが、
「きょう、アイリスの店員募集の宣伝を打ったの。素ちゃんのほかに、おとうさんと菅野さんにも同席してもらうことにしたわ。面接には慣れてるでしょうから。あしたの朝からアイリスに詰めて、応募の電話待ち。二十人で締め切って、十五日と十六日の土日の二日間で面接。十人から十五人採用。月末の一週間ぐらい模擬開店で試運転して、三日間働きぶりを見て、感心しない人は辞めてもらい、辞めたい人にも辞めてもらい、再募集をかけてまたすぐ面接。そして四月一日開店よ。慎重にいかないとね」
「いよいよ出航か」
 女将が、
「そのころには花見やよ。神無月さんが高一のときやから、四年ぶりやね。直人は生まれて初めてお城の桜を見るわ」
 おトキさんが立ち上がり、カズちゃんとトモヨさんがつづいた。素子が直人のお守り役になる。千佳子が座敷からあわててやってきてエプロンを締めた。私はバットを振りに中庭に出た。二階のトルコ嬢の部屋からラジオの音楽が落ちてきた。すばらしいメロディに思わず素振りが止まった。
「すみませーん!」
 半開きの窓に向かって声を投げる。
「はーい」
 座敷のどこかで見慣れていた顔が首を伸ばす。愛想のいい女だが口を利いたことはない。
「いまかかってる曲は何ですか」
「みんな夢の中。高田恭子。先月出たばかりの曲です」
「ありがとう」
 玄関へ移動して、下駄箱から運動靴を取り出す。母親に声をかける。
「ちょっとレコード買ってきます」
「おや、いってらっしゃい」
 女将が驚いたような声で応える。素子が、
「あたしもいこうかな」
 台所からカズちゃんが、
「足手まとい。直人見てて」
 運動靴で名鉄百貨店へ急ぐ。
         †
 ステージ部屋にはステレオの設備がないので、曲を教えてくれた二階の女にポータブルプレーヤーを借りていっしょに座敷に降り、レコードを聴いた。女将と素子が興味深そうに耳を傾ける。直人は台所へいってしまった。女将が、
「ドスの効いた声やねえ」
「いい声です。ティミ・ユーロという歌手に似てます」
 五回聴いて暗記した。聴いているうちに主人と菅野が帰ってきた。
「何ですか、その曲は」
 菅野が興味深げに寄ってくる。
「高田恭子、みんな夢の中。さっき二階から流れてきたのを聴いて、この人に曲名を教えてもらってさっそく買ってきました。暗記したから、四月にこの曲を歌います」
「そりゃ楽しみですね。信子、ええことしたやないか」
「はい」
 菅野まで、いい曲ですね、などと言っている。台所から戻ってきてレコードをいじろうとする直人を抱き上げて食卓についた。賄いたちの足音があわただしくなり、トルコ嬢たちが降りてきた。曲を教えた信子という女が、
「もう覚えちゃったんですか?」
「はい、歌えます。四月のお楽しみ。このレコード、お礼に差し上げます」
「わあ、ありがとう」
 食卓につく。色とりどりの皿が並んでいく。主人と菅野の晩酌が始まる。女たちにビールが出る。おトキさんがおさんどんをしながら、
「一番だけ歌ってくださいな。トモヨさんもこの子たちも聴きたがってるんですよ」
 賄いの女たちを目顔で示す。私は箸を置き、歌い出した。

  恋はみじかい 夢のようなものだけど
  女心は 夢を見るのが好きなの
  夢の口づけ 夢の涙
  喜びも悲しみも みんな夢の中

 キャーッと女たちの声がいっせいに上がり、拍手が乱れ飛んだ。女将に抱かれた直人もキョトンとした顔で拍手している。
「あとは四月に」
 素子が、
「よう覚えられるもんやね。レコード買ってきたばかりやろ」
「何度も聴いたから」
「信じられんわ」
 素子が箸を宙に遊ばせながら、ようやくエプロンを外して食卓についたカズちゃんと千佳子に同意を求める。カズちゃんが、
「耳がよしのりさんなのよ。テープレコーダー耳。西松の飯場でも、テレビから流れる曲はたいてい一回で覚えてたわ」
「いい曲だけね。つまらない曲は覚えられない」
 千佳子が、
「青森高校のバス旅行でも、神無月くんはすごい声で歌ったんです。たった一曲……アンナ・マリアのひみつ。寒気が走るほど美しい曲で、そしてぜったい覚えられない難しい曲でした。それを山口さんの伴奏で、イタリア語で歌ったんです。私とムッちゃん、うつむいて泣きました。神無月くん、イタリア語もそのまま暗記したみたいで、意味なんかぜんぜんわからないって、歌う前にことわってました。和子さんの言うように、耳が録音機なんです。……天才って、何なんでしょうね」
 主人が、
「放し飼いにして、愉しむしかないもんやろう。見物料払ってな。ああ、あさっての阪神戦楽しみやなあ」
「ほんとに!」
 菅野がこぶしを左掌にパチンと叩きこんだ。
         †
 その夜はトモヨさんの離れで寝た。トモヨさんが、
「文江さん、今週いっぱい東京にいってるんです。お弟子さん二人と春の書道展の見学ですって。会場をいくつか回るようよ。節子さんのところに泊まるらしいわ。塾はほかの二人のお弟子さんがお留守番」
「みんな充実した忙しさの中で暮らすようになったね。安心する」
「いちばん忙しいのは郷くんよ。それに合わせてみんな忙しくなってきて、うまくできてるわ」
 トモヨさんを抱き寄せる。彼女は私のものを握る。
「郷くん、出会ったころより一回りカリが大きくなったわ。長さも二センチくらい伸びた。もう破壊兵器です。よほど注意して使わないと―」
 トモヨさんは口づけしながら跨る。
「うう、ほんとに大きい! 硬くて長い! あ、痺れる、電気、電気、イク、だ、だめだめ、イキます、イク!」
 離れてじゅうぶん痙攣し終えると、また私の脇に横たわり、二の腕をつかみながら心地よさそうに頬ずりする。
「愛してます。大勢の女の人にこの悦びを分けてあげたいけど、もうキョウちゃんの人数は限界だと思うの」
 腕をつかんで言う。
「限界の五倍ぐらいいってるかもしれません。悦びを知っちゃったいままでの女の人たちはぜったい離れませんし、これからが問題だと思います。新しい女に求められても手を出さない、という方法しか考えられないんです。でも……それは無理でしょうね。郷くんが求められて応えないはずがありませんから。……だから、女が図々しくしないで、一年でも二年でも声がかかるまで待つって覚悟をするしかないと思うんです」
「うん、ぼくも調子に乗って、あれこれ声をかけないようにしないと」
「郷くんが人間だってことを忘れちゃう瞬間があるの。せいぜい努力して、郷くんのからだが参らないようにします。疲れて帰ってきた日に何人もなんて、ちょっとやりすぎです。……私たちだけでも自重しなくちゃって、お嬢さんとお話しました。この先、郷くんの選手生活は長いんです。なるべくなら自分の欲望だけ満たすようにして、私たちのことは放っておいて、疲れないようにしてください」
「うん。少なくとも三日のあいだを置いて、する回数は一回」
「しっかりみんなに言い含めます。ああ、こんなこと言いながら、もう私……でもきょうからはがまんします。女のからだって、しょうのないものですね」
 トモヨさんの胸に頬をつけて眠った。深夜にトモヨさんが直人の蒲団に戻っていく大きな尻を夢見心地に見た。そのとき、ふと吉永先生のことを思い出した。風呂屋の番台の向こうで私の入浴料まで払って微笑む顔。三十分の待ち合わせで出てくる顔。花屋でホットコーヒーを飲む頬の赤い顔。いや、先生はアイスクリームだ。何月だった?
 ―神無月くん、私のこと知らなかったでしょう? 私はずっと知ってました。
 彼女といっしょにどんな道を歩いてきたろう。いつから彼女はキョウちゃんと呼ぶようになったのだったろう。二人で乗り回していた新しい自転車はどこへいってしまったろう。骨ばったのっぺらぼうの友人は? 何もかも忘れていく。だれといっしょに歩いた人生もひとしなみに忘れていく。カズちゃんだけは忘れない。いっしょに歩いた道のりのことごとくを憶えている。



         二十九

 三月十一日火曜日。七時半起床。朝方零下。
 朝のランニングを除けば完全休養の一日だ。ふつうの排便をし、シャワーを浴び、歯磨き、洗髪。新しい下着とジャージを着る。
 厨房では朝から鰻を焼いている。自家製のタレの焦げるにおいが香ばしい。直人は、新聞を広げる主人の膝におとなしく納まっている。
「サンケイアトムズが、来月からフジサンケイグループとヤクルトの共同経営になって、アトムズとのみ名乗るらしいですよ」
「ゴロが悪いから、いずれスワローズに戻りますね」
「そうなりますかね。しかし、球団経営というのは莫大な金がかかるものなんですなあ。オーナーがコロコロ替わる。大毎から東京、東京からロッテ、国鉄からサンケイ、サンケイからヤクルト」
 ホテルから荷物が戻ってきた。百江がユニフォームと帽子をクリーニング店に持っていく。私は庭に出てあぐらをかき、鉄ブラシでスパイクの土を落とし、グローブにグリースを塗り、バットを乾拭きする。バットのグリップエンドで地面を叩いたり、掌の土手で叩いたりして劣化を確かめ、巨人戦で使った一本を省く。玄関に戻り、グローブを細心に磨く。ジャージ姿の菅野がやってきた。
「お、菅野さん、いきますか」
「いきましょう」
 おトキさんが、
「菅野さん、朝ごはん食べてきた?」
「走ってからです」
「じゃ、帰ってきたら、鰻ですよ」
「ごっつぁんです」
 門を出る。かなり風がある。コースはいつも門前で決める。
「ほとんど走っちゃったよね」
「空気がいいのは椿神社の向こうです」
「ずっといってみようか、心細くなるまで」
「そうしましょう」
 ゆっくり走り出す。則武のガードをくぐって名駅通へ出、線路沿いの殺風景な倉庫街を北へ走る。刷毛ではいたような雲が青空にある。どこまでいっても倉庫。やがて倉庫が高層マンションに替わる。
「こりゃだめだ、飽きた、右折!」
「ほーい」
 則武新町という交差点に出た。
「どのあたりなんだろう」
「まっすぐいけば菊井町ですね」
「そうなってるのか。左へいってもビルまたビル」
「トヨタの産業館があります」
「そんなの見てもつまらない」
「結局、菊井町から、西高ですか」
「それしかないね。人に囲まれないようにしないと」
 走り出す。片側のビルが両側に変じただけの単調な道。どの建物にも看板がない。ノリタケ緑地という矢印標識がある。
「いってみよう、目先が変わる」
 ノリタケカンパニーという建物に沿って走る。延々とつづく。終わらない。ときどき門はあるが、警備員がいて、中には入れないようだ。緑地というのも、建物の広大な庭に生い茂っている樹木のことらしい。
「戻ろう。埒が明かない」
 もとのビルの谷間へ戻って走る。菊井二丁目。ビルのはざまに古い商店が挟まりはじめる。看板が目立つ。左、押切町、右、名古屋駅の標識が出た。菊井町交差点。馴染みの景色になった。押切町に向かって走る。菊ノ尾通りへ曲がりこむ。詩音。よしのり。右折して榎小学校のほうへ。花屋の辻から名古屋西郵便局。西高の正門にたたずむ。入学試験会場という大きなタテカンが立っている。係員も門の両脇に立っていて、厳戒態勢だ。試験開始間近らしく、うつむきかげんの受験生がチラホラ入っていく。腕時計を見ると、八時二十分。三・七度。
「土橋校長先生が、ぼくの顕彰碑をネット裏に建てたらしいんだけど、見ていく?」
「はい!」
 ちょうど人波がはけそうになったので、係員が校舎に消えるのを見届けてから、サッと校庭に入りこみ、バックネット目がけて駆けていく。人目を気にする必要はない。無人の校庭だ。ネット裏の台形の石碑に見入る。黒御影石の神無月郷顕彰の碑。何か細かい字が彫りこんである。内容は知っている。
「青森高校にも建つそうだ。こそばゆいね。いこう」
「はい。ああ、うれしいなあ! 神無月さんがマスコミ嫌いでなかったら、派手な除幕式もあったでしょうにね」
 門を出て、天神山公園へ。突き当たり、右折して、天神山の市電停留所に出る。金原の家が近い。
「遠くへきちゃったな。タクシーで帰ろう」
「ですね。四十分は走ったからいいでしょう」
 タクシーを拾う。
         † 
 トモヨさんが、
「ドラゴンズの広報のかたから電話があって、今夜から雨になるので、あしたの朝も降っていたら、順延はなく中止だそうです」
「えー!」
 菅野が大げさに頭を抱えて見せた。主人が笑いながら、
「仕方ないよ。ワシらだって雨の日の試合は見たくないもの。阪神とはまだまだ戦えない運命ですかな。江夏を見たかったんだがなあ。広島戦は外木場か」
 タクシーで汗は退いていたので、シャワーをあとにして菅野と鰻丼を食う。
「プロの店よりうまい!」
「そんじょそこらのプロよりおトキの腕のほうがええわいね」
 女将がうれしそうに言う。千佳子が、
「タレの作り方を教えてもらいましたが、調合よりも〈寝かせ〉が大事だそうです。賄いのかたたちはお鮨も握れるんですよ。今夜はお鮨とお刺身です」
 主人が、
「カラオケいきましょ、カラオケ」
「じゃ二曲だけ」
「うほほい、やった!」
 カズちゃんが、
「もう十五人も応募がきちゃったのよ。男六人、女九人。中日新聞の朝刊に三百枚のチラシ入れただけなのに。あしたからは、締め切りましたって言うしかないわ」
「それでいいと思う。初日に申しこんでくる人の情熱を買うのが大事だね」
 素子が、
「一応、年齢は考えたんよ」
 メモ用紙をペラペラやる。カズちゃんも覗きこみ、
「四十過ぎの女の人はどうしようかしら。一人だけいるの」
 女将が、
「下品でなかったら、雇ってあげなせや。中年のお客さんも呼べるでしょ」
「そっか、なるほどね」
「十代の子は、ちゃんと身分証を見せてもらったほうがええよ。十五、六の子もいるかもしれんから。帳簿はだれがつけるん?」
「もちろん、私。つけ方教えてね」
「ええよ。税理士を一人雇わんとあかんよ」
 主人が、
「ワシが会計士も頼んだる。心配すな。面接、緊張するなあ。トルコより緊張するわ」
「私もですよ」
 菅野が箸を置いて、ぼんやりした表情を浮かべた。おトキさんが、
「なにボッとしとるの、菅野さん」
「いやね、私は北村に雇ってもらってほんとにラッキーで、こうしてとんとん拍子にきましたけど、ちょっとしたきっかけで、人の人生なんて右にも左にも転ぶものでしょ。面接のとき私の判断が……」
 カズちゃんが、
「オーバーなこと言って。入学試験じゃないんだから、採用されなかった人はまた次の職場を探すわよ」
「はあ……」
 あらためて鰻丼にかかる。私はもう半膳お替りした。素子が、
「入学試験て言えば、ムッちゃんどうなっとんやろ」
 千佳子が、
「和子さんに電話がきました。青森には顔を出してきたし、東京の荷物整理も終わったので、十五日の土曜日に出てくるそうです。マンションに荷物が届くまで、こちらに泊めてほしいって」
 主人が、
「なに他人行儀なこと言っとるんや。泊めるも何も、うちの子やろが」
 カズちゃんが、
「睦子さんは慎み深いだけよ。遠慮してるわけじゃないの」
 女将が、
「十五日は文江さんも帰ってくるし、賑やかになるわいね。神無月さんはおるん?」
「十五、十六と大阪で南海戦です。十七日にいったん名古屋に戻って、十八日の夕方に飛行機で福岡へいきます。十九日、二十日と平和台で西鉄戦なので」
 一瞬みんなシュンとなった。素子が、
「とにかくキョウちゃんは今月いっぱい忙しいと。お花見のころに一段落つくわけやね。それから全国巡り。まるで船乗りや」
 菅野が、
「たまに会うから、いつまでも新鮮なんですよ。……私は毎日会いたいけど」
「さ、腹ごなしにバットを振っておこう。そのあとシャワーだ。菅野さん、もう浴びちゃったら」
「はい、そうします」
 庭に出て、江夏のことを思いながら、六コース五十本ずつ三百本振った。夜を待たずにポツポツと雨が落ちてきた。シャワーを浴び、ワイシャツとズボンに着替えて離れの机に向かう。この先、一シーズン、遠征時に持参して読むべき本を書き出す。
 読み直しも含めて、西洋の中短編小説ばかりになる。ヴィーダ、フランダースの犬、ハウフ、隊商、ヘッセ、メルヒェン、トルストイ、クロイツェル・ソナタ、ロレンス、木馬の騎手、バルザック、知られざる傑作、チェーホフ、眠い、ドストエフスキー、スチェパンチコボ村、トーマス・マン、道化師、モリエール、人間嫌い、シュニッツラー、死、モーパッサン、脂肪の塊……。
 傑作の群れ。読むだけで精いっぱいだ。芸術作品? 私にそんなものは書けない。たとえ書いたとしても、それは詩でもなければ小説でもない。単なる自分の思索の記録として机にしまいこまれるものだ。芸術は一本道だ。真剣に打ちこんでいない人間に創造の神が食指を動かすはずがない。しかし私は、侘びしい大望を抱えながら机にへばりつき、老いさらばえて動けなくなるまで、詩や小説を書く悦びを失うまいとするだろう。それが私にとって自分の命を肯定できる唯一の営みだからだ。自分の大望が的外れであろうとなかろうと、文字を書くことで自分のいのちを喜ぶことができるからだ。その喜びに比べたら野球一芸の実践の快感など取るに足らないものだ。
 窓から死の色をした雨空が見える。猿にやられたときの灰ずんだ空がまざまざと浮かんでくる。あのとき死んでいたら、どんな苦しみとも無縁だったろう。いや、そもそも生まれることがなければ、父にも捨てられなかったろうし、母に野球を奪われることもなかったろうし、何かを考えるということもなかったろう。
 トモヨさんがスクラップブックを持ってきた。
「お嬢さんが作ったものです。二月からの東奥日報の特集記事。毎週月曜日、六週分あります。……一行詩が美しくて、いつもお嬢さんとため息をついてます。詩だけ六週分読みますね。なさけあるなら堤川返事(かへり)せよ。詩を閉じこめたいとけない夜は去れ。あの風景をいつかは美しく描けるときがくるだろうか。人びとの思惑の野で無心に花を摘まなければならない。熱いおもいは徴募されつつ幾重にもひろごり玉の音とも呼ぶべく。もしも人生がやりなおせるなら太陽が高く輝いていた日に、やさしく靡(なび)いた風のなかに私は駆けてゆく」
 トモヨさんは私の肩を抱き締め、涙を流した。
「なんという澄んだ心でしょう。郷くんのために私は死にますからね。きょうからは新居で寝るんですよ。あしたは雨だから、一日寝てらっしゃい。ごはんもお嬢さんに作ってもらって」
「うん」
「こうして見てると、郷くんの本道は、机にいることだってわかります。すてきです」
「すてきかな」
「すてきです」
「トモヨさんの本道は?」
「郷くんのそばにいることです。私には才能がありません。野球がうまかったり、歌がうまかったり、詩が書けたりしたら、もちろん本道にするでしょう。そんな才能はありません。郷くんのそばにいて、郷くんの輝きを満喫して、郷くんといっしょにいろいろなことを楽しませてもらうことにします」
 私は笑った。トモヨさんの言葉には真心がこもっていた。私は、カズちゃんたちとの薄ぼんやりとした未来に思いを馳せた。未来という、これと定まらずに待ち構えているものが、トモヨさんの言葉と同じように実のあるものに感じられた。


         三十

 握り鮨の種類は二十もあった。好きな貝類はほとんどすべて揃っていた。ヒラメ、マグロの赤身、ブリ、イクラ、エビ、サーモン、玉子もある。アナゴではなく鰻の握りというのがおもしろかった。店の女たちも混じって、ビールや酒でドンチャンやりながら、鮨を食った。夕食を終えるころから本降りになった。あしたどころか、あさってのゲームも危ういと思われるほどだ。
 カラオケが始まり、私はトップバッターで出て、松島アキラの湖愁を唄った。拍手やかけ声を無視して唄い切った。私につづいて一家の者をはじめ、トルコや賄いの女たちもほとんど唄った。初めて聞く千佳子のハスキーな歌声が胸に滲みた。園まりの燃える太陽だった。
「スパーク三人娘というのを初めてテレビで観たとき、園まりが気に入ったんだ」
「そのとき私も観てたのよ、キョウちゃんの後ろで。中一のときだったわ。五匹の子豚とチャールストン、というのを歌ってたわね。キョウちゃんがじっと見てるから、年上の女が好きなんだなって、ちょっと自信を持っちゃった」
「中一だったかな。小五くらいだと思ってた」
「まちがいなく中一。スモールティーチャーがきたすぐあとだもの。園まりって、節子さんそっくり。愛くるしくて」
 そのカズちゃんは大学時代の歌と言って、宮城まり子のガード下の靴みがきをしみじみと唄った。アルトの声がこれも胸に滲みた。トモヨさんはむかしラジオで何度も聴いた歌と前置きして、島倉千代子のからたち日記を、おトキさんは三十歳ぐらいのときの歌と言って、淡谷のり子の雨のブルースを唄った。二人とも声が高いのでびっくりした。素子は音痴を理由に執拗に断った。主人夫婦と菅野と百江とメイ子は、ただ恥ずかしそうに笑いながら手を振るだけで見物に撤した。トルコ嬢たちや賄いの若い女たちは、グループサウンズなど最近の歌を唄った。素子は手拍子に徹していた。主人が、
「素子、少しは唄えるように、カラオケ教室でもかようか?」
「お願い!」
 素子が主人の腕にすがりついた。菅野も、
「私もごいっしょします。三週間ぐらいかよいましょう。山口さんがくるまでに一応の形を作っておきたいですから」
「ワシも、端唄、小唄、義太夫くらいはいけるんやが、演歌、流行歌はいまひとつや。習っといたほうがええやろ。名鉄百貨店の中にカラオケ教室があるんだよ。週二回、夜八時から九時だから、仕事に大して障りは出んやろう。かよいたいやつはおらんか」
 百江と一人の賄いが手を上げた。母親は口に手を当てて笑いながら、
「あほらし。習字にカラオケ。北村は花嫁学校かいね」
 歌の嫌いな人間などいない。人は千年も万年も唄いつづけてきた。歌は悲しい。光夫さんの言った〈思いのたけ〉は、唄い上げることでしか表現できない。
 合船場の柱に一九五三年のカレンダーを見た日以来、私は悲しみの中で生きてきた。長く母と暮らした。登下校の道々、歌を唄い、歯笛を吹いた。神無月大吉に似ていると言ってよく母に非難されたが、それは苦しみではなく悲しみだった。息子を難詰することに生甲斐を見出している母を見ているのが悲しかった。私の寄り道を妨害する彼女を見ているのが悲しかった。それで、よく歌を聴いた。なんということだろう。私はひたすら悲しかっただけで、苦しい思いなどしたことがないのだ。悲しみを愛すると、悲しみに浸らなければ生きていけなくなる。悲しみの歌を聴かなければ生きていけなくなる。遠く流された日々でさえ、私は歌を聴き、歌を唄っていた。
 悲しみの中毒者。ニヒルな気持ちからみんなに愛情を振りまいていると人は思うだろうが、ちがう。どんどん新しい悲しみの歌を見つけ、新しい悲しみを自分の耳の奥に蓄えることに没頭しているだけだ。それで不都合が起きたら、少しだけ悲しみの歌を彼らに戻してやればいい。人は悲しみに充足するものだから。
 このごろ私は考える。もの心ついてからの私は、人間として理想の行動をとってきたのだと。こんなふうに生きることが私の本能だったのだと。女たちは私の本能のおかげで苦しみを減らし、少しばかり幸せになることができた。私は宗教家よりも、もっとすばらしい存在かもしれない。宗教家は十把ひとからげに苦しみからの救済を説くだけで、悲しい生身の肉体に分け入ってはいかないし、一人ひとりの悲しみの歌にも耳を傾けない。
         †
 風呂を沸かして、二人で新居の初風呂。すごい杉の香り。風呂から出たあと、ほんとうにひさしぶりに、天日干しでよく乾燥した蒲団の感触を味わいながら寝た。私は夏も冬も上下一枚ずつのズッシリした蒲団にからだを挟んで寝るのが好きだ。カズちゃんはそのことをよく知っている。五年前の春、野辺地から葛西家に移って以来一度も天日に干したことのなかった一組の蒲団は、ミヨちゃんが何度か干した。それでも綿が吸った湿り気のせいでバカに重く感じたものだった。それはユリさんのアパートに置いてきた。いまの蒲団は、東京でカズちゃんに買ってもらってから、阿佐ヶ谷、荻窪、吉祥寺と転々としたものだ。ほぼ二年間の汗を吸っていた。それが天日干しでフカフカになっている。これからはカズちゃんの汗に私の汗が加わり、からだの一部から出る濃密な水気も加わって、たっぷり重くなっていくだろう。その快適な湿り気と重みにくるまれて熟睡するのだ。
「ひさしぶりだね、二人きり」
「ええ、なんだか恥ずかしい」
 指で触れる。じゅうぶん濡れている。
「すぐするのがもったいないね」
「ええ、少しお話しましょう」
「お尻の穴、舐めてから」
「はい、私も」
 起き上がり、大きな尻をこちらに向けさせ、指で割る。きれいな尻の穴がある。舌の先で舐める。
「あ、気持ちいい」
 尻の穴の下にすべすべした門渡があり、美しくてなまめかしい小陰唇が開いている。それも舐める。満足する。カズちゃんに尻を向ける。
「きれいなお尻」
 勃起したものをやさしく握りながら、チロチロと尻の穴を舐める。睾丸の重みを確かめる。
「もう溜まってるわ」
 たがいの性器に手を置いたまま、二人並んで横たわる。
「蒲団はあまり長く干さずに、埃を叩き出すだけにしてね」
「わかってます。少し重くしておくのね」
「いろいろな家に住んできた―」
「ええ、数え切れないわ」
「同じ姿勢のまま長く眠っていられないのと同じように、こうやって棲み家を変えつづけることが人生なのかもしれないね。……でも、とうとう落ち着いた。酒井さんの飯場のそばの社宅で出会って十年経ったね」
「十年……キョウちゃんはドラマそのものね。遠回りしながら、いろいろな才能を発揮して、そして面倒なことになって……。でも第一関門は通過したわ。これからは、プロ野球の経験を何年かしてから、机に座るのが目標ね」
「うん。ぼくは不確定なものに魅力を感じるようにできてるんだね。プロ野球選手になれなければ死ぬと考えてたころがなつかしい。これ以上ない不確定なものだったからだろうね。いざプロ野球選手になってみると、また別の不確定な目標のほうに関心がいく。まだぼくに運のかけらが残っていて、まんいち芸術の道を歩いていけるようになったら、その人生に骨を埋めようと思う」
「もともとそういう予定だったわ。野辺地で話し合ったでしょう。すべて芸術家特有の倦怠のせい。自分や他人が生きてることの不思議に圧倒されて、頭を抱えてしまうのね。無気力とはちがう、とても精力的なものよ。キョウちゃんの静かな精力を理解できる人はほんの少ししかいないでしょうね。こうして私の中に入りたがるのも、命の不思議に圧倒されるからよ」
「……ほんとに不思議だ。いま冷静に話してるカズちゃんがあえぎだし、からだを痙攣させる。不思議の頂点だね」
「そうさせて」
「うん」
 脚を開き、挿入する。唇を合わせたとたん、グンと陰阜を突き出して達した。抱き締める。痙攣しながら勝手に悶絶する。猛烈にうねり、緊縛してくる。
「あ、キョウちゃんも、いっしょに、いっしょに」
 尻を抱えて吐き出し、口を合わせて舌を絡め合う。律動する。カズちゃんが口を離して大きく呼吸し、最後の歓びの声を発する。五回、六回と収縮する腹を撫ぜながら私も律動を繰り返す。カズちゃんは、快楽を拒まずに極限までふるえ尽くす。二人のときだけの作法だ。ふるえが鎮まるときがきて、局部の握手だけの時間になる。今夜はなかなか握力が落ちない。少しでも動くと達する気配だ。口づけをするのもままならない。
「抜いてしまって。もう一度イクから」
 サッと抜く。うめき声を上げるカズちゃんを固く抱き締める。腿に愛液がかかる。むしゃぶりつくように唇を求めてくる。
「ああ、好きよ、好きよ、大事なキョウちゃん、死ぬほど好きよ」
 腹をさすり、胸を揉む。しっとりと汗をかいた胸に頬を埋める。
「愛してる、カズちゃん。心の底から愛してる。ごめんね……こういう深い愛情からじゃなくセックスしてしまう女もたくさんいる。いつもカズちゃんにすまなく思うんだ」
 私の頬をなぜ、
「すまないなんて思うことないのよ。キョウちゃんがセックスしてあげたい気持ちになる女は、それほどたくさんはいないわ。一人ひとりちゃんとした理由があるの。踏切で死んだけいこちゃんとそっくりの秀子さん、大人の女として初めて愛した節子さん、その節子さんに女の生き方を教えた文江さん、初めてキョウちゃんにからだを与えた私にそっくりのトモヨさん、苦しい世界から抜け出して奇跡的に生まれ変わった素ちゃん、仕事を捨ててまでキョウちゃんを追いかけたキクエさん、幼いころからの恋心を貫いた雅江さんと法子さん、十二歳の恋心のままにいつでも肉体を投げ出そうとしている美代子さん、キョウちゃんのために人生のすべてを懸けてる睦子さんと千佳子さん、そのたった十一人。法子さんに聞いたけど、法子さんのお母さん、東大のシオリさん、上板橋の河野さん、健児荘の羽島さん、荻窪の菊田さん、吉祥寺の福田さん、この六人はキョウちゃんが自発的に愛している人じゃなくて、キョウちゃんに一方的に愛を捧げてる人。キョウちゃんに愛してもらえたら天にも昇る気持ちになる人たちよ。百江さんやメイ子さんは、キョウちゃんに愛されるのにはもっと時間がかかるわ。彼女たちはこれから苦しい思いをするでしょう……。野辺地の一子さんは、キョウちゃんのために自分を捨てられなかった人だから、残念だけど永遠にキョウちゃんに愛されることはないわ。ほかにもキョウちゃんが忘れてるような女の人がいるでしょうけど、十一人の予備軍にはなれないわ。でも、だれとするときも真剣なセックスをしてあげてね。真剣でないキョウちゃんは、何かの抜け殻のようでイヤなの。ただ、からだを壊さないように。それがいちばん心配」
 私は天井を睨み、
「肉体以前に視線ですら思いやってあげられなかった女たちをふと思い出すんだ。これまで何度も話したけど、青木小学校の内田由紀子」
「お便所の笛ね」
「千年小学校のぼんやりした馬面の錦律子」
「鉛筆削りの子」
「うん、ときどきぼくの机に寄ってきて漢字練習ノートやら、消しゴムやら、下敷きの差し入れをした。そしてかならずぼくの鉛筆を何本か持って帰って、翌日きれいに削って返すんだ」
「キョウちゃんの額を撫ぜた鬼頭倫子さん」
「夕暮の鉄棒で懸垂していたら、こっそり寄ってきて告白めいたことを言った大女のアリガミチコ」
「初耳」
「酒井飯場のリサちゃん」
「きれいな子だったわ」
「……知らないうちに喘息で死んでしまった杉山啓子」
「キョウちゃんが風邪で寝ていたとき、一度雅江さんと訪ねてきたわね」
「西高に鷲津という斜視の女の子がいて、いつもじっとぼくを見つめて微笑んでいた。ときどき寄ってきてぼくを見上げたけど、ぼくは目を逸らしてしまった。どうしてぼくは彼女たちに何か働きかけて、特定の存在にしてやらなかったんだろう」
「好みじゃなかったのね。それだけのこと。思い出せばさびしくなるでしょうけど、男女のことは仕方のないこともあるの。興味がなければ真剣になれないわ。そういう女の人をちゃんと愛する男の人がいるから安心して。何もかも背負うことはできないのよ」
 私はうなずき、
「三年のときの同級生の横地という男が、去年、女に捨てられて自殺した」
「……ふうん、北村にきた子じゃないわね」
「うん、麻雀を教えてくれたやつだ。美男子で、明るくてね。高校出て、電々公社に就職した。そこで恋に落ちたみたいだ。初恋だったんだろうな。崖から自動車ごと落ちて死んだと聞いてショックだった。それほど親しくしたわけじゃなかったけど。……気に染まないセックスをして、つれなく裏切れば、相手を殺すこともある」
 カズちゃんは掛蒲団を引き上げ、
「……横地くん、よほどつらかったのね。キョウちゃんみたいに辛抱して生き延びていれば、もっとほかの女の人からうんと愛されて、たくさん楽しいこともあったでしょうに」
「そう考えるのがふつうなのかもしれない。でもぼくは、そのときの初恋以上の楽しいことが先々横地の身に起こるとは思えなかった」
「男と女はいつ、どんなふうに新しく始まるかわからないわ。私はキョウちゃんに遇ってすっかり新しく始まったの。キョウちゃんに遇う前に、その横地くんのような恋愛をしたことなかったから、彼の気持ちは深く理解できないけど、愛してくれない人のために死ぬのはもったいないわ」
「愛してくれる者に溺れるだけで、時間は手いっぱいだものね」
「手いっぱいにさせて、ごめんなさい」
「いや、時間も手いっぱい、幸せも手いっぱいだ」



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