七十二

 全裸になって土間で待っていた文江さんは、私が玄関を入ったとたんに夢中ですがりつき、その場で式台に両手を突いて後背位を求めた。私はその格好を見ただけでたちまち可能になり、ズボンを引き下ろしてすぐさま交わった。文江さんは数度激しく達し、ついに気を失いかけた。あわてて胴を抱いて寝室の蒲団へ運んでいくと、横臥、騎乗と、あらゆる体位で求め、貪るように数十回もアクメに達した。最後に正常位で求め、むしゃぶりついて私の背中を抱き締め、気をやりつづけながら私の陰毛に愛液を噴きかけた。射精したとたん、文江さんは白目を剥き、ふたたび意識を失いかけた。
 半死半生の状態の文江さんの腹を撫ぜながら、回復を待った。意識もなくからだをふるわせているうちに落ち着きはじめたので、彼女を蒲団に残して風呂場へいき、丁寧に局部を石鹸で洗った。寝室に戻ると文江さんは目に笑いを回復していた。
「ごめんね、キチガイみたいになってまって。キョウちゃん、私、どうしようもないくらい強うイクようになってまった。抱いてもらうのはものすごくうれしいんやけど、こんなやとからだがもたん。三カ月にいっぺんぐらいにしてくれる?」
「そうだね、からだが勝手に暴れちゃう感じだものね。ぼくも心配だ」
 胸に手を載せてくる。愛しそうに私の小さな乳首を吸いながら、
「四月の花見が楽しみやわ。キョウちゃんがドラゴンズに入って、名古屋に帰ってきてくれたおかげで、みんな落ち着いたね。ありがと。もう癌はすっかり快復して、再発の心配は九十九パーセントないそうや」
「よかったね。みんな文江さんの奇跡を喜びながら、生きる力にしてるんだ。よく快復してくれたね」
「キョウちゃんを置いて死に切れんかった。どこにおっても、いつもキョウちゃんの顔が浮かんでくるんよ。初めて遇った日のさびしそうな顔を思い出すと、処女(むすめ)みたいに胸がふるえて泣きたなる。キョウちゃんに出会うために生まれてきたんやて、しみじみわかる。抱かれるとこうなるけど、抱いてくれんでもええんよ。いつもそばにおれるだけでうれしいわ。ああ、元気になった。やっぱり温水プールで泳いでこようわい」
 文江さんは勢いよく起き上がると風呂場へいった。揺れる尻が五十一歳と思えないほど若々しかった。
 玄関土間でキスをして別れ、五時過ぎに北村席に戻った。彼らはほんとうに心配していた。菅野が、
「キンタマ袋、痛みませんか」
「うん、だいじょうぶ」
 主人が、
「マムシが効いたんやな」
 おトキさんが、
「ほんとに、これから二週間、お休みしてくださいね」
 ソテツがやってきて、
「男の人って、そんなにたいへんなものなんですか」
 カズちゃんが、
「そうよ。作って、出すんだから、たいへんなの。根性がないとできないのよ。女はただ受け入れればいいだけだから、体力的にはどうってことはないの。イキすぎると、そのときつらいだけで」
「イクって?」
「いつかわかるわよ」
 千佳子がまたクスクス笑った。トモヨさんがコーヒーを持ってきた。
「郷くんは男の中の男ですね。そんなにキッチリ生きてると、いつかパンクするんじゃないかって気が気じゃありません」
 主人が、
「パンクなんかせんよ。パンクしてたまるかい。英雄色を好むだ。英雄が死んだら、ワシらは泣いて暮らさんとあかんやないか」
 千佳子が、
「私は泣くだけじゃすみません。だから、少し慎もうと思ってます」
 カズちゃんが、
「いいのよ、自然にしてれば。キョウちゃんは、みんなが無理をしないで幸せにしていれば長生きしてくれるわ」
「和子さんがほとんど求めないのを不思議に思ってましたけど、私たちに模範を示すためだったんですね」
「そんなオーバーなことじゃないわよ。忙しかっただけ。してほしくていつもウズウズしてるんだから。アハハハ。ね、トモヨさん」
「はい。私もお腹の子のために自重してるんです。……こっそり一度してもらいましたけど。すみません」
「みんなこっそりは得意よ。気にしない、気にしない」
 めずらしく素子が赤くなってうつむいた。
 座敷の戸と縁側の戸を細く開け、一家で味噌漬けの豚のホルモンを焼いて食った。戸の隙間に置いた扇風機を外へ向けて回す。ガス暖房の暖気が外へ少し抜けていくが仕方ない。ガスレンジつきのテーブルなので、木製の蓋を取って金網を載せれば準備オーケー。店の女たちは、とんがり山の形をした鉄板を載せて焼いている。小山田さんや吉冨さんが食べていた名古屋名物トンチャン焼き。あのときより芳しいにおいがする。肉が新鮮なのだろう。主人と菅野はビールグラス片手に大喜びだった。おトキさんが大鉢に盛った葉菜をドンとテーブルに置き、
「生野菜もうんと食べてくださいね」
 直人は固い肉を噛めないので、厨房で焼いた白身魚の身をほぐして食べさせている。めしは重湯。煙の中に和気が充満する。
「トンチャン焼き、一度も食べたことなかったけど、なつかしいなあ。飯場の社員たちによく中日球場に連れていってもらったんですが、帰りにぼく一人だけをタクシーに乗せて送り帰してから、自分たちはトンチャン焼きの店に入っていきました。その図がなつかしいんです。なんてすばらしい人たちだったんだろう。ぼくの気分はあの時代からいっさい抜け出せない。あの時代を思い出しながら、野球をやってる」
 カズちゃんが、
「彼らに見せるために野球をやってるのね。バッターボックスに立ってる雰囲気、さびしくて、奥行きがあって、とてもいいわ。ああいう清潔な哀愁をただよわせてる野球選手って、この世に一人きり」
 菅野がビール瓶片手に、
「バッターボックスの姿があれほどさびしくて、美しい人は、たしかにこの世に一人きりです。……神無月さん、トンチャン焼きを食べるのは初めてなんでしょう?」
「はい」
「初体験の神無月さんに、入門編の説明、いっていいですか」
「どうぞ」
「赤味噌ダレに漬けたトンチャンは名古屋発祥です。豚ホルモンの種類、ぜんぶで十六種ありますが、知りませんよね?」
 私もビールグラスに口をつけ、
「はい、知りません。教えてください」
「よっしゃ。実際の味と歯ざわりは食べて経験しないとわからないので、コメントはひとことにします。まず一つ目、タン。舌です。硬くて旨味が強い。二つ目、タンシタ、舌の付け根。ふつうの肉のようで柔らかいです。初心者向け」
 千佳子が、
「肉を食べるのにも、ビギナーとベテランがあるんですか」
「あります。三つ目、カシラ。こめかみから頬にかけての肉です。硬くて旨味強し。四つ目、ノド軟骨、別名ドーナッツ。よく焼くとコリコリ食えます」
「旨味は?」
「味噌ダレの味だけです。とにかく硬い。五つ目、トントロ、首の肉。マグロのトロみたいに口の中でとろけますが、コリコリした食感もあります」
「コリコリばかりで、骨を食べてるみたいだね」
「骨まではいきませんけど、ホルモン自体、食いものとしては硬い部類に入りますからね。次いきましょう。六つ目、ハツ、心臓ですね。クセやくさみがほとんどなく、脂もなくてサッパリしてます」
「おいおい菅ちゃん、延々とつづける気か」
「あと十種類で終わりです」
 おトキさんがさっきからメモを取っている。それをとソテツとイネが覗きこむ。
「七つ目、ハラミ、横隔膜の筋肉です。えんがわとも言います。脂が少なく、ふつうの肉のように食べられます。八つ目、ガツ、胃袋です。やや硬めで、鳥の砂肝のようにコリコリした食感です。九つ目、レバー。肝。これを知らない人はいないでしょう」
「うん、それは知ってた」
「低脂肪、高タンパク、栄養豊富。濃厚な味わいですが、独特のくさみがあるので嫌う人もいます。十個目、マメ」
 やだあ、と女たちが肩を寄せ合った。
「そっちじゃないですよ。腎臓。人の腎臓もソラマメのような形をしてるでしょう。豚と人間の腎臓の大きさは、ほぼ同じサイズで、十二センチ掛ける五センチ、厚さ三センチです。マメは、キメの細かい、柔らかい、気持ちのいい歯ざわりです。くさみがあるんですが、表面の皮と白い筋を取ることで、気にならないほどになります。十一個目はヒモ、小腸。全体に細かい襞があって少し硬め。煮こむと最高です。焼いてもおいしいですよ。十二個目、シマチョウ、大腸、腰のある歯応えです。ホルモン焼ではたいていこれが出てきますけど、旨味は少ないですね。十三個目、テッポウ、直腸。最高に硬い。焦げるまで焼いて食べるとおいしいです。十四個目、コブクロ、子宮です。コリコリ、サッパリ。煮こみにいいかな」
「ホルモンとは結局コリコリなんだね」
「その硬さを味わうのが醍醐味です。十五個目、チチカブ、豚に十四個ある乳房です。脂っぽくなくて、牛乳みたいな味わいです。直人にはこれを食べさせてもよかったんですけど、このトンチャンには入ってませんね。最後に十六個目、トンソク」
「知ってる!」
 みんなでいっせいに声を上げた。
「美容にいいんです。茹でて食べるか、煮て食べます」
 おトキさんが、
「きょうのホルモンに入ってなかったのは、タンと、ドーナッツと、ガツ、マメ、テッポウ、コブクロ、チチカブの七つですね。ほとんど柔らかい肉を選んでしまいました。トンソクはでき上がってますよ。酢味噌で出しましょうか?」
「おう、頼む。ワシの好物だ」
 女たちもパラパラと手を上げる。美容にいいと聞いたからだ。
「菅野さん、あしたは日曜日なので、飛島に顔を出しておきます。ランニングをしたあと連れてってください」
 女将がホッとした顔で、
「それがええわ。立派なプロになった姿を見せてあげてや」
 菅野は、
「ほんとに神無月さんは懲りないですね。また不愉快な思いをするんじゃないですか」
「飛島の社員たちはファンクラブまで作って応援してくれてるので。……母に会うのはたぶんこれが最後だと思います。すみません、いつも同じことを言って。江藤さんにもいっしょにいってもらいます。飛島の人たちは喜ぶでしょうし、有名な野球選手がいれば、母もぼくに刺さってこないでしょう。ランニングは遠出しないで、太閤通を鳥居まで走りましょう。あとは則武のケージで素振りをします。そのあと、チェストプレスとラットプルダウン」
「私、先回、飛島では東奥日報の運転手になってたんですけど、だいじょうぶですかね」
 カズちゃんが、
「平気よ。黙ってお茶でも飲んでればだれも話しかけないから。訊かれたら、北村席の社員だと言えばいいでしょう。おとうさんもいってあげて。名古屋のスポンサーということで」
「おお、ええぞ。おまえもこい」
「私はだめ。キョウちゃんのお母さんがビックリして、修羅場になるわ」
 トモヨさんが、
「それが賢明だと思います。女のオの字もにおわせないようにしませんとね」
「そう。ちょっと昇竜館の江藤さんに電話してくる」
 女将が、
「いくのはあしたの十時ごろやね。トモヨ、お土産、何にしよ?」
「エビセンと、ういろうを買っておきます」
 私は、
「わざとらしいので、何も持たないでいきましょう」
「そりやいかん。耕三さん、どうぞって所長さんに差し出せばええで」
「わかった」
 女将は私に、
「電話しとかんでええの?」
「まんいち母が出て、先回のように電話口で門前払いを食わされると困りますから、出たとこ勝負でいきます。日曜の午前なら、社員たちも寮にいるでしょう。村迫代表が一度訪ねてるんですが、やっぱりぼくが顔を出さないとケジメがつかない。花見は帰ってきてからにしましょう。一時、二時には帰れると思います」
 食事を終えた千佳子が立ち上がり、
「じゃ私、ムッちゃんのマンションにいって、お部屋の片づけのお手伝いをしてきます。このまま一晩泊まります」
 女将が、
「夜道の自転車気をつけていきゃあせ」
 睦子が、
「青森の実家でジャズレコード整理してきたので、それを則武に送ってもらいます。聴いてくださいね。気に入ったものがあるかもしれません」
「ありがとう。ジャズレコードか。楽しみだ」


         七十三

 三月二十三日日曜日。七時起床。うがい、軟便、シャワー、歯磨き、洗髪。
 晴天。三・三度。八時から菅野と大鳥居往復。北村席でシャワー、朝食。
 九時半に勇んで訪れた江藤とコーヒーを飲み、十時を回ったころに菅野のクラウンで出た。助手席に私が、後部座席に主人と江藤が座った。カズちゃんがウインドーの外から、
「きょう、野辺地にテレビ送っとくわ」
「よろしく。いいのあった?」
「ええ。色が自動調整できるナショナルの二十三インチにしたわ。お年寄りは画面が大きいほうがいいでしょう」
「そうだね。じゃ、いってくる」
 車が出る。私と江藤はカズちゃんに手を振った。
「すみませんでした、江藤さん。せっかくの日曜日を」
「なんちゅうこともなかよ。かの悪名高きご母堂にお目通りするのかと思うと、緊張するばい」
「江藤さんがいれば、静かにしてますよ。有名人に弱いですから」
 江藤は口をへの字にして、
「有名なのは金太郎さんやろう。どれほど有名なんかわからんやろのう。身内は身内を理解せんと言うけんな」
 十五分も走らずに、飛島寮についた。門を入り、車から降りる。シロが一声、オンと鳴いて飛びついてきた。しゃがんで頭を撫でる。見るも哀れなほど老いさらばえている。菅野も目に涙を浮かべて撫でる。鉄筋の社員寮の二階から、
「キョウちゃん!」
 と声が落ちてきた。飛島さんだった。食堂でくつろいでいた人たちが出てきた。三木さん、山崎さん、佐伯さん、大沼所長。
「郷!」
「キョウくん!」
「キョウちゃん!」
 二階から飛島さんも降りてきて、私たち四人を取り囲んだ。山崎さんが私の両肩を押して食堂へいざなう。私は同伴の三人を掌で指し、
「こちらは……」
「いいからいいから、自己紹介はあと」
 飛島さんが、
「おばさん、キョウちゃんだよ!」
 昼食の仕度にかかっている厨房に、下働きといっしょに母がいて、チラと私を見ると、大テーブルに出てきた。端の席に坐った。笑顔はない。
「××さん、お茶お願い」
 下働きに命じる。所長がテレビを消し、
「まあ坐って、坐って」
 みんなを長床几に促した。五人の社員たちと私たち四人は向き合って坐った。と言っても江藤たち三人は私から離れて坐った。しゃしゃり出ないという姿勢を示すためのようだ。ようやく山崎さんが、
「あれ、江藤選手じゃないの!」
 と立ち上がった。飛島さんが、
「ほんとだ、江藤選手だ!」
 江藤も合わせて立ち上がり、辞儀をした。
「江藤です、おじゃまします」
 三木さんが、
「うへえ! ドラゴンズの江藤慎一だよ、驚いたなあ」
 江藤は頭を掻き掻き、
「苗字ばかりでなく名前まで思い出していただき、ありがとうございます。いまや、天馬神無月郷を信奉する信者の一人です。この場の控えですからお気遣いなく。神無月郷のいくところならどこへでもついていきます」
 下働きの手で茶がはいった。所長が立ち上がり、
「飛島建設の大沼と申します。驚きました。プロ野球選手を実際に目にするのは初めてのことでして、失礼いたしました」
「何をおっしゃる。神がかりのプロ野球選手ばそばに置いて、ワシらは大きな顔はできまっせん。単なる古参の控えですばい。ご存知のとおり金太郎さんは打てばホームラン、投げればプロナンバーワンの強肩、走っても恐らくプロ三本指、まぎれもない野球神です。彼が野球に飽きないうちに優勝せねばと思っております」
 オーと拍手が上がった。主人が母をじっと見ている。背広をきちんと着こんだ主人はそれから遠慮がちにうなだれた。佐伯さんがハンカチで目を拭き、
「郷くん、毎日きみの活躍を新聞やテレビで見てます。ますます立派になったね。ほんとにおめでとう。いつまでも郷くんはぼくのエネルギーの源です」
 江藤が母に向かって深々と礼をした。
「神無月さんのお母さんですね。お初にお目にかかります。偉大な神無月さんをお産みになったご母堂にお会いできて光栄です」
「偉大だなんて、どこが……」
「神無月さんは歴史に残る人物です。まちがいなく」
「ただの悪たれですよ」
 山崎さんたちが顔を見合わせ、苦笑いする。父親の顔から血の気が退いた。菅野が座を取り持つように、
「名古屋には、神無月さんに家を新築して贈呈するようなスポンサーもいるんですよ。神無月さんが偉大だからこそです」
 三木さんが、
「そちらがスポンサー? 財界人?」
 主人が、
「いえ、財界人などではございません」
 江藤が、
「このかたは北村さんちゅう、駅西のお大尽です。すばらしかお人です」
 佐伯さんが、
「東奥日報にはその種の話は載ってませんでしたけど、そういうことは記事にしちゃいけないんですか?」
 主人が、
「東奥さんは神無月さんの都合を考えて、伏せてくれとるんですよ」
「そんな突拍子もないことに甘えて、乞食だね」
 母がビシャッと言った。江藤がするどい目で睨んだ。思わず口を開けて母に話しかけようとした主人は、すぐに唇を閉じた。血のつながりがあるせいで、その女の顔に私の面影を読み取ることができるにせよ、二人はじつはアカの他人で遠く隔たった世界に生きていると納得したようだった。母の口もとは入れ歯のせいで皺ばみ、髪は白くなり、相変わらず鷹のような目をしていた。
 ―私はこの女にぜったい受け入れられない。
 彼女の生活の圏外へ押し出され、彼女には予想もできない別の生活の領域へと運ばれていった私の経験の数々を彼女はとうてい理解できない。私は目を閉じた。何か由々しきものに雁字搦めにされている彼女の生活の原始性を感じ、絶望に胸をふさがれた。主人が、
「相変わらず、お母さんは神無月さんのことが気に食わないようですね。相撲取りなども化粧まわしから何から、みんなタニマチに寄付されているんですよ。彼らは乞食でしょうか。乞食というのは物乞いをする人のことではないですか?」
 母が眼を光らせ、
「あなた、どちらさん?」
「北村耕三と申します。ここにいる神無月さんの後援者です」
 母はつくづく主人を見つめ、
「どういういきさつから後援することになったんですか?」
「いきさつも何もありません。三十五になる私の娘は名古屋西高出身なんですが、六大学野球の神無月さんが西高の後輩だとわかって以来、すっかりファンになって、東京にまで押しかけて応援三昧、ついには私を引っ張り出して対面させました。そのとき私のほうが娘より神無月さんのことをとことん気に入ってしまったというだけのことです。で、生活の拠点として家を建てて差し上げました」
 江藤が主人の気持ちを察して、
「このおかたには、ワシらもよく歓待を受けます。来月には水原監督が北村席を訪ねる予定です」
 飛島さんが、
「水原監督が!」
 母が、
「そんなに気ままに動き回れるということは、娘さんは独身ですか」
「はい。実践的に働いてみたいという希望を持っていたんですが、大学の栄養学科を卒業してすぐ結婚してしまったもので、二十六歳までその希望は実現しませんでした。結婚生活が落ち着いたのを潮に、ある建設会社の食堂に入り、六年勤めて、離婚を契機に辞めました。娘は神無月さんのファンというより、人間として尊敬しておりますので、あらゆる手を尽くして神無月さんの人生を見つめつづけとります。私に会わせたのも自然な流れでした」
「へえ、この子が尊敬される? うまく化けたものですね」
 大沼所長は母の言葉を聞かないふりをして、主人に、
「北村さんは何をなさっておるかたですか」
 主人はにこやかに、
「大門のほうで二軒のトルコ風呂を経営しております。人に誇れる生業ではありませんが、まじめにやっております。もとは北村席という置屋をしておりました」
 山崎さんが色めき立ち、
「トルコって、羽衣ですか? シャトー鯱?」
「その二軒です」
「へえ、俺、けっこうお得意さんですよ」
「ありがとうございます」
「あの二軒は女の子のサービスが丁寧で、いろんな意味で清潔だって評判なんですよ」
「おかげで名古屋市のナンバーワン、ナンバーツーを張らせていただいとります」
 母がギョロリと山崎さんと主人を見た。主人は、
「むかしは、娘も家業を軽蔑してさんざん反発しましたが、いまではどうにか認めてくれています」
 菅野が、
「私は北村さんの下で働いている運転手の菅野と申します。お嬢さんが北村さんを認めた理由はいろいろありますけど、何よりも従業員の面倒見がすばらしいということです。財を失う覚悟で、女の人たちに還元しています」
 江藤が、
「ワシらにも還元しとります」
 菅野も、
「私もタクシー運転手から拾っていただき、人並み以上の生活をさせてもらってます。北村席から神無月さんをお客さんとして乗せたのがきっかけです」
 ここに一度きている人物だとだれも気づかない。三木さんが、
「売春禁止法の施行以来、街並改造の一環としてトルコ風呂への転身は、政治含みで推奨されたようですね」
「はあ、税制も多少考慮されています」
 母が唇をゆがめて、
「結局は、女の生き血をすすってお大尽暮らしをなさってるわけですか」
 母の言葉も感情の動きも、衰えていく肉体の動物的な反動に拘束されている。佐伯さんが思わず湯呑茶碗を音立てて置いて、
「おばさん、口が過ぎます。失礼ですよ。なんでいつもそうなんですか。郷くんが大出世したんですよ。その結果スポンサーまでついたんですよ。うれしくないんですか。こうして会いにくるのだって、おばさんがそういうふうだから、いやな思いをすることが目に見えているのに、一大決心してやってきたにちがいないんです」
「いやな思いをするなら、こなければいいでしょう」
 たしかにそのとおりだ。彼女はひねくれた精神を抱えて、悔恨もなく、希望もなく、ただ五体満足に生きつづけてきたというにすぎない。そんな人間に会いにくる必要はない。江藤が、
「なんちゅうご仁やろうのう。金太郎さんを憎むんは身内の心でなかばい。何のキズもなか人間を嫉妬するのはアカの他人の心ですたい。身内は身内を、たとえキズがあっても褒めちぎるもんですばい。親子のあいだに、むかしどげん角逐があったかはワシは知りまっせん。ばってん、その状況はとっくに改善されとるでしょう。これ以上、ワシの尊敬する男ばおとしめんでいただきたい。日本を代表する、いや世界を代表する野球選手ですよ!」
「ほかにマシな選手がプロ野球にいないんですか」
「何ですと!」
 大沼所長が、
「江藤さん、ま、抑えて。安心してください。私ども社員一同、江藤さんと同様、郷のことを変わることなく尊敬し、支援しておりますから」
 飛島さんが、
「そうか、キョウちゃんはみんなから金太郎さんと呼ばれてるのか。すてきだね。かわいがられてるのがわかる」
 母が、
「人はもっとひっそりと暮らすべきですよ。大金を稼いで、いい気になってはしゃいで、親までないがしろにしながら暮らすようでは、ぜったいいい死に方をしないね」
 江藤が大声で、
「お母さん! 神無月郷という人間はまったくそれと正反対の人間ですばい。大金、大金と言うばってんが、何万人も観客を動員した結果の当然の報酬でなかですか。それでも金太郎さんの手柄には見合っとりまっせん。少なすぎます。ばってん、多い少ないは金太郎さんの関心事でなかとです。球界規約の契約金でさえ、金太郎さんは入団交渉のときにいらんと言った人ですばい。ばってん、球団は契約金ば出さんわけにはいかん。それは金太郎さんにとっては架空の金たい。ほやけん、お母さんたちにくれてやった。恩を売るためじゃなかとです。身内をないがしろにせんためでしょが」
 とうとう涙を流しはじめた。所長が飛んできて江藤の隣に坐り、手を握った。
「ありがとう、江藤さん、ありがとう」
 江藤は涙をごしごし拭い、
「金太郎さんは毎月入る給料をどうしよると思いますか。机に放りこんどるんですよ。そして、困った人がいたら役立てとるとです」
「罰当たりだね、せっかく稼いだ金を」
「何ば矛盾したことを―」
 私は母のからだ越しに、壁も塗っていない貧弱な木造の台所を見やりながら、この女を許してはいけないと思った。彼女の正体は五歳のときからわかっていた。華やかな生活にあこがれて〈都会〉に上り、その都会で失敗した子連れの〈家出人〉だった。その生活の心の拠りどころだった息子を手離したせいで、自分の人生を救いがたいまで紛糾させてしまった〈希望に満ちたモガ〉だった。主人があごを撫ぜながら、
「聞きしにまさるお人ですな。神無月さんの言うことすること、徹底して憎んどる。言を前後させてもその姿勢を貫く。神無月郷という人間そのものを憎んどるわけやね。よくわかりました。実際に会ってみてよかったですわ。会わんかったら、神無月さんの悲しみというものがわからんかった。ようこんな人のために、回り道して東大いって、野球選手になったもんや」
 ハンカチを出してまぶたを拭った。佐伯さんが、
「おばさん、キョウちゃんがどういう人間だったら満足するの。世間の片隅でひっそり暮らす人間だったらよかったの。おばさんの面倒見ながら? キョウちゃんの才能はどこへいっちゃうの」
「才能なんてものは、〈うたかた〉でしょう―」
 薄笑いを浮かべた。下働きの年増が私を睨んで、
「神無月さん、あなたは腹を立てるということがないんですか。ちょっと聞いてられませんよ。こんな親子関係、見たことも聞いたこともない」
 母が声を荒らげ、
「××さん、事情も知らないのに口を出さないでください」
 主人も声を荒らげた。
「どれほどの事情ですか! 一を見れば十がわかります。大した事情じゃない。大ヤケドをした友人の見舞いや、その病院の看護婦さんとのかわいらしい秘めごとのせいで、毎晩遅く帰ってた時期があったことは存じてます。しかし、学校の成績もトップクラスだったし、野球でも華々しく活躍してた時期です。その友だちが、いわゆる不良だったということと、十五歳の子供に女のにおいがしたということに、お母さんはがまんがならなかったわけだ。目くじら立てなければ、何ということもなく過ぎていってしまう時期だったでしょう。それなのに島流しにまでしたんですからね。神無月さんとしては、またぞろこんなにひどいこと言われながら畏まっている理由なんかないですよ」
 菅野が、
「神無月さんのこういう態度は、異常な心の仕組みからきてます。ある種の精神異常者なんです。宗教家のように、どんな理不尽なことでもやさしく吸収してしまう徳の高い異常者です。その異常さに、私たちみんなが救われています。××さん、あなたのおっしゃるように、キョウちゃんは腹を立てるということがありません。だから、言いたい放題のお母さんも救われてるんですよ」
 三木さんが、
「やさしすぎるのは、たしかに異常と言われても仕方がないね。俺たちもどうしていいのかわからないから、黙って見てるしかないんだけどね。まあキョウちゃんならだいじょうぶだろうという、言ってみりゃ、やさしい気持ちに甘えてるんだけどね」
 山崎さんが、
「ごめんな、キョウ、俺たち、何でこうなるんだろうって考えるだけで、パニック起こしちゃうんだよ。それでキョウちゃんに下駄預けちゃうんだ」
 母はプイと台所に引っこんだ。


         七十四

 私はテーブルにいる人びとに頭を下げ、
「ほんとにすみません、みなさん、くるたびにご迷惑かけて。手放しで明るくすごせたことがないですね」
 私が頭を下げると、山崎さんが、
「キョウのせいじゃないよ」
「いえ、母がこういう態度をとるすべての原因はぼくにあります。ぼくが父に似ているからなんです。ぼくには責任の取りようのないことですけど……。ぼくはあるとき自分の重大なミスに気づいたんです。友だちの見舞いや看護婦の件は、こういう不具合な親子関係を確認させるものにはなったでしょうが、母の怒りが定まったのはそれ以前だったとわかったんです。母に無断でぼくが父に会いにいったことです。父に似ている子が父に会いにいった、それが決定打でした。そのとき、彼女の中ですべてが変わってしまったんです」
 所長が、
「そりゃ、佐藤さん、オトナ気ないなあ」
「や、ぼくにとってその行動が些細なことではなかった以上、母にとっても些細なことではなかったんです。この子は自分の子ではない。そういうことだったと思います。最終的なダメ押しは、野球を再開したことと、東大をやめたことです。母の信奉する〈頭〉で生きずに、〈からだ〉で生きる―それは父の生き方だったと思います。江藤さん、お父さん、菅野さん、そろそろ帰りましょう。母の立場がどんどん悪くなります。この寮で、まだまだ何年も働かなくちゃいけないんです。ぼくの顔さえ見なければ、母は心安らかな人なんです」
「私の立場なんか心配してもらわなくてけっこうだよ!」
 台所から母が怒鳴った。江藤が、
「帰るばい! ワシゃ親孝行な人間ばってん、こりゃさすがにがまんならん。社員のかたたちがよか人やったんが、せめてもの救いたい。所長さん、みなさん、これからも金太郎さんのこと、よろしくお願いします」
「ご心配なく。この先どうなろうと、キョウの面倒はとことん見るつもりですから」
 佐伯さんがしょんぼりしている。私が笑いかけると、口を開いた。
「郷くん、お母さんはよほど郷くんに愛想を尽かした時期のことが忘れられないんだね。数年、いや、十数年、冷却期間を置いたほうがいいかもしれない。せっかくきてくれたのに、ごめんね」
「だれも母のことで謝る必要はありませんよ。ぼくは一生、母の怒りに甘んじるべきだと思ってますから。ただ、あまり怒りをぶつけられてばかりいると、生きるリズムが狂ってしまいますから、野球生活にも影響が出ます。佐伯さんの言うように、極力顔を出さないようにします」
 所長が、
「それがいい。しばらく会えなくなるな。この秋、寮のメンバーに大幅な異動がありそうなので、結成の運動が頓挫してる状況だ。異動先が東京本社だとなると、われわれはこの寮を引き揚げることになる。また東京で員数を集めて定例会のようなものを催すとなっても、うまくいくかどうか」
 私は笑って、
「東京であれ名古屋であれ、みなさんの都合のいいときに試合を見にきてくれるだけでいいんです。政治家や芸能人じゃないんですから、激励会のようなものを催してもらうつもりはありません。たまたま所長さんたちがうまい具合に集まって、どこかでいっしょにささやかな飲み会でもやれたら言うことなしです。ぼくは酒は弱いですが」
「そうか、キョウがそう言ってくれるなら、東京へいってからのんびり計画を立てられるな」
 主人が、
「東京は東京として、名古屋で会合するときは、よろしければうちを使ってください。江藤さんはじめ、ドラゴンズのかたたちにもきていただいて」
「喜んでいきますよ」
 江藤が主人にうなずいた。大沼所長が、
「異動してしまえば、名古屋で会を催すことはないんじゃないでしょうか。まあ、まんいちそういうことがあれば、ぜひお願いします」
 中働きの××が台所の母のもとに戻る背中に決意が表れていた。声が聞こえてくる。
「佐藤さん、ものごとをさびしく考えないで。息子さんに会いたければいつでも北村席さんへいけばいいじゃないですか」
「そんな暇はないね。あちらの人はあちらの人で、せいぜいうまくやってちょうだい。だいたい、あの人たちにお母さんと呼ばれる筋合いじゃないよ。××さん、そっちの炒めもの早くすませて」
 母を除いて全員がクラウンまで送って出た。シロが足もとにすり寄ってきたので全身を撫ぜた。
「シロ、おまえの顔を見るのは今度こそ最後だと思う。生き延びたら、東京の飯場へ連れてってもらえ。会いにいくからな」
 菅野も頭を撫ぜた。主人が、
「北村で引き取ってもいいんだがな」
 ××が、
「佐藤さんが承知しないと思いますよ」
 江藤が所長に、
「ワシらがこんかったほうが、親子でもっとスムーズな話し合いができとったかもしれんですね」
「毎度こんなものです。キョウはめげずにきてくれる。感心しますよ。きょうは大選手の江藤さんにきていただいて感激しました。ありがとうございました」
「だから、大選手は金太郎さんですって。所長さんたちも早く認識を改めたほうがよかですよ」
 山崎さんが走ってきて、
「あった、あった、色紙。江藤選手、キョウ、サインよろしく」
 私たちは快くサインした。佐伯さんが私の手を握り、
「いつも応援してるからね。東京でもまた会おうね」
「一級建築士はまだですか」
「二級を取ったばかりだから、あと四年は待たないと。所長も山崎さんもとっくに取っちゃってるんで、早く追いつかないとね」
 山崎さんが、
「資格よりも、現場だ」
 三木さんが、
「俺たち経理畑は気楽だよ。な、飛島」
「はあ、気楽でもないですが」
 所長が飛島さんの肩を叩き、
「のんびり帝王になってもらっちゃ困るよ」
 主人が、
「帝王とおっしゃると、やはり飛島建設の……」
 大沼所長が、
「そう、御曹司です。二十年もすれば重役、社長といきますな」
 車に乗りこむ。ウインドーを開けると、山崎さんが、
「ちゃんと性処理しろよ。それが男の基本だからな。いいホームラン打てないぞ」
「はい」
 大沼所長が、
「北村さん、江藤さん、どうかキョウのこと、よろしくお願いします」
「おまかせください」
「ワシは金太郎さんのそばを離れませんけん。金太郎さんといつも恋人みたいに目を見合わせとる姿を、テレビで観とってください」
 飛島さんが、
「球団から何席か優待券をいただいてますから、シーズンが始まったら交代で応援にいきます」
 主人が助手席に乗った。私は江藤と後部座席に乗った。窓を開け、
「どうか、みなさんで母の気分を和らげてあげてください。えらそうなことを言いすぎました。またいずれ、機会がありましたら」
 ××が、
「佐藤さんはまじめなかたなんですよ。まじめすぎるんです。みなさんのおっしゃってくださったことをじっくり考えるときがいずれくると思います。私なんか、いつも逆らってるんですよ。ホホホホ」
 車が出た。みんなが手を振った。江藤が私を抱き締め、しばらく無言でいた。
「金太郎さんは悲しかなあ。そやけん、ホームランがあぎゃんきれかやろうなあ。忍耐だけの世界に暮らしてきたんやけん」
 主人が、
「神無月さん、あなたのなさることは何でも認めます。願うことは何でも叶えます。しかしワシの目の黒いうちに死ぬことだけは許しませんよ。きょうぐらい、あなたがいとしかったことはない。和子が毎日、神無月さんをいとしく思うのも無理もないわ。お母さんと暮らしたのは何年間ですか」
「記憶のないころは知りません。記憶ができてからは、五歳から十五歳までの十年間、十七歳の夏から翌々年の春まで一年半。都合十一年半です。小一から小二ぐらいまで、幸せな時期もありました」
「和子は十歳からきょうまで、ほぼ十年間。大差ないですな。しかし、その間、神無月さんは、和子がおってずっと幸せでしたよね」
「はい。苦しいほど」
「和子が古女房で、私がほんとの父親で、おトクのやつがほんとの母親ということにしてくれませんか」
「はい、そうします」
 菅野が、
「トモヨ奥さんが、女のオの字もにおわせないようにと言ったけど、みごとだったなあ」
 主人が、
「……男がおれば、あの人の人生も変わっとったやろ」
 菅野が目を拭いながら、
「まだ十二時前ですよ。トモヨ奥さんを拾って、お花見いきますか」
 主人は、
「やめよう。そんな気分やない。みんなでゆっくりコーヒーでも飲もうや」
 たしかに花見の気分ではなかった。
 数寄屋門を入ると、千佳子がカズちゃんといっしょに池の端にしゃがんで金魚にパン屑をやっていた。
「マンションの手伝いは終わったの?」
 千佳子はニッコリうなずいて立ち上がり、
「お帰りなさい。みなさん疲れた顔!」
 カズちゃんが江藤の手をとり、
「江藤さん、ご苦労さまでした」
「はあ、一時間が一日に感じたばい。金太郎さんの土性骨は表彰状ものたい。あの人とおったんでは、どんな人間も生きた心地はせん」
 主人が、
「十一年やぞ! ワシやったら例外なく狂っとる。よう神無月さんは……」
 女将とトモヨさんが、四、五人の女といっしょに近づいてきた。
「お帰りなさい。みんな疲れた顔しとるがね」
 カズちゃんが、
「ああいう人に会ったのは初めてだから、くたくたになったんでしょう。江藤さんもおとうさんも目が赤いわ」
「金太郎さんのがまん強さに泣けたとです。自分がこれまで、どげん恵まれた暮らしばしてきたか痛感したとです。毎日あの母親と暮らすのは地獄ですばい」
 主人が伸びをして、
「ああ、ホッとする。ここは天国や」
 私が睦子を目で捜す様子を見て千佳子が、
「ムッちゃんはさっき、弥富まで出かけました」
「ヤトミ?」
 カズちゃんが、
「金魚の名産地。近鉄線で二十分もあればいけるところ。金魚と水槽を見てくるって言ってたわ。そろそろ新しい部屋にも落ち着いたし、金太郎さんて名前をつけた金魚でも飼って、気分よく大学生活を始めたくなったのね」
 トモヨさんが、
「弥富は金魚の種類がぜんぶ揃ってることで有名なんですよ。秋には金魚日本一大会もやってます」
 菅野が、
「なんだ、私が車で連れてってあげたのに。電車でいくなんてなあ……。私に気兼ねしたんですね。やさしい子だ」
 玄関へ歩きだす。主人が女将に、
「おトク、きょうからワシが神無月さんの実の父で、おまえが実の母や。江藤さんは実の兄になると言ってくれた。義理の肉親や兄弟やないぞ。もう、神無月さんを遠くから見て尊敬しとるだけではあかん。しっかり胸にくるんで護るんや」
「とっくにそうしとるつもりやがね」
「ご主人も、女将さんも、みんな正義の人ばい」
 菅野が、
「プロ入りに横槍を入れなかったのは、奇跡ですね」
 私はうなずき、
「ぼくも驚いてます。横槍のタイミングを失ったんでしょう。まず東大入学という実績を作って親の体面を損なわなかったこと、一連の手続を矢継ぎ早にやったこと、それから権威ある人たちに説得してもらったこと尽きます。その一つでも欠けていたら、プロ野球選手になれませんでした。少なくともあと一年は無理だった」


         七十五

 式台におトキさんと素子と賄いたちが出迎えた。
「あれ、直人は?」
 トモヨさんが、
「ちょうど昼寝に入ったところなんです、起きたとき私がいないと泣くので、きょうはお花見遠慮します」
 座敷に直人が寝ている。主人が、
「ワシらもそうするつもりやった。四月に回そ。きょうはゆっくりしようや。コーヒー」
「はい。おトキさん、お願いします」
「はーい」
 主人が、
「太田さんを呼んだらどうですか、江藤さん」
「はあ、そうたいね。跳び上がって喜ぶやろう。今朝もブーブー言っとりましたから」
「和子、電話して」
「はい。水原監督がいらっしゃるときに遠慮しちゃう人たちもいるでしょう?」
「金太郎さんと気が合わんと言うより、血が合わん人間もおりますけんね。しかし、そういう人間は数えるほどやろうもん」
 いかつい風貌からは想像できない気立てのやさしさを持っている江藤は、北村席の女たちに気に入られている。みんなわいわい彼の周りに集まり、あれやこれやの話を聞きたがる。ソテツもちゃっかり取り巻きにいる。百江とメイ子とイネは台所でパタパタ動き回っている。江藤はサービス精神を発揮して、ポチポチ語りはじめた。二軍の話をする。
「二軍選手は、ネット裏の中二階にある選手専用席で一軍の試合ば観戦します。一軍の試合がある日は、二軍選手は時間の許すかぎり一軍の試合ば見学することが義務づけられとるとです」
 まずそんな話から始める。次はピッチャーの話だ。
「ピッチングゆうんは、そもそも人間にとって不自然な動作たい。人間の腕は、白人であれ、黒人であれ、黄色人種であれ、ボールを投げるようには作られとらん。ほやけん、投手はマウンドに立つたびに腕に炎症ば起こす。腕の細かい筋肉が裂け、毛細血管が切れてしもうとたい。炎症が治まり、正常な状態に回復するまで休養させる必要のあると。それが中三日、中四日ゆうやつばい。ピッチングばっかりやのうて、送球そのものも不自然な動作やけん、野手も故障する。ワシも長年肘をやられとる。金太郎さんが守備練習ば控え目にしよるのもそげなわけたい」
 女たちは、江藤がワイシャツを脱いで示した肘を触りまくる。
「プロ野球選手の中には、痛みゆうんは人間の自然な荷物として存在しとるのやけん、それを背負わんのは不自然やと考えとるやつもおる。たとえば広島の衣笠ちゅう男は、ようデッドボールを喰らうばってん、何ちゅうこともなく一塁へ走る。それば褒められると面喰うらしか。衣笠が言うには―とにかく野球がしたい、試合があれば出場したい、ただそれだけのことですよ、野球選手ならだれだって、できるかぎりプレイをしたいと思うものでしょう、て。ここまでは〈自然な荷物〉ばいやがらずに努力しとるて言える。ばってん、その衣笠にしたっちゃ、肘や肩を壊したらおしまいたい。ワシャ思うに、自分が健康なうちは強がれるちゅうことばい。ばり痛みに強かて見られるのは格好よかけんな」
 そしてまったく関係のない話へ持っていく。
「ワシが入団したんは昭和三十四年やったが、国鉄にトレードに出される寸前の杉山悟(さとし)さんちゅう強打者に、ワシのヒッチするバッティングば見てもらってアドバイスば求めたことがある。ヒッチゆうんは、こう、バットの握りを上下させてタイミングばとることなんやが(グリップを上げたり下げたりする動作をして見せる)、当時もいまもあかんと言われとる打法ですばい。杉山さんは、おまえは高打率を残せるスイングをしとるから直す必要はないと言ってくれた。結果さえ出せば形など関係ないゆうシンプルな考え方に、思わず目からウロコが落ちたばい。ところで、金太郎さんはいっさいヒッチしとらんように見えるばってん。ようわからん。謎たい。見習えん」
 そして、すぐにきょうの赤い目の理由をにおわせる。
「ワシは金太郎さんの一回り年上で、三十一たい。からだは服一枚小しゃいぐらいで、足の大きさはと十一文四分と十一文六分でほとんど同じ。ばってん、精神的な苦労は同じでなかばい。ワシも小しゃいころは、新聞配達やら牛乳配達やらやって、多少家計の助けになったこともあったばってん、それはからだの苦労にすぎん。たとえ気持ちの苦労があったにしても、前向きになればそのままそっくり報われる苦労たい。まあ、中高社会人と、大して気苦労のない、よか野球生活ば送った。金太郎さんはそれができんかった。奪われて、耐えた。十九年間耐えつづけた。きょう、すっかりわかった。そぎゃん十九年ば送って、プロ野球選手になれる人間はこの世に一人もおらん。泣いたばい」
 トモヨさんが、
「江藤さんは郷くんのお母さんに会って、びっくりして、あらためて郷くんに感動したんですね。もうみんな、知ってることなんですよ。拍子抜けするくらいだれも驚かないでしょう? 郷くんとの関係は、江藤さんと同じ驚きと感動から始まるんです」
 素子が頓狂な質問をする。
「十一文四分て?」
 江藤もホッと救われたように、
「一文は二・四センチ、一分は○・三センチ。十一文四分は二十七・六センチ、十一文六分は二十八・二センチ。阪神の藤本ゆう男は二十四センチしかなかもんやけん、しょっちゅうふくらはぎやらアキレス腱やら痛めとった。スポーツ選手は足が大きゅうなかと大成せん」
「江藤さん、ぼくは十一文七分くらいで止まりそうです。二十八・五センチ。いまはまだ江藤さんと同じ十一文四分です。足が大きいだけじゃだめでしょう。才能がないと」
「もちろんそうたい。金太郎さんの十分の一もあれば足りるやろうがの。努力は不可能を可能にする言うけんが、ワシに言わしぇれば、それは嘘ばい。少なくともプロ野球の世界では、多少なりとも天性の素質がなかと一流になれん。ワシは三十四年に入団して、六年目、七年目の、三十九年と四十年にようやく連続首位打者ば獲りました」
 主人が、
「ONを差し置いてやから、大したもんです」
「はい、それでよか気持ちになってしもうた。六年も七年もかかっての。ワシは金太郎さんごつ天才や人格者でなかけん、天狗になって、監督の作戦にたてついたりもするようになったとたい。家族のことが頭にあってのことやったけんが、金儲けに手ば出して自動車整備工場の経営もした。それが傾いて借金取りが球団本部にまで押し寄せて、野球どころでのうなった。―そこへ金太郎さんが現れたとたい」
 ソテツが眉を上下させて、
「何か関係があるんですか?」
「おおありたい。水原さんはワシの背番号を金太郎さんにくれてやり、文句ばつけるなよちゅう態度ば見せた。おまけに水原監督はダンディな人で、身を飾るのに金に糸目をつけない人やが、金そのものにこだわる人間ではなか。商売に手ば出して、球団に迷惑かけとるワシを快く思っとらんかったとです。考えたらあたりまえのこったい。そげんガチャクチャしたことと関係なく、金太郎さんは野球の神さまやけんな、何でもくれてやるのがあたりまえたい。文句のつけようがなか。本音のところでは、ワシの実績はどうなる、クソち思ったばってん、キャンプで金太郎さんに会うて、球団関係者がなしてそぎゃん姿勢ばとろうとしたかがパチッとわかった。神無月郷ちゅう男は、才能が驚異的なだけやのうて、殺気立つほどまじめな人間やったとです。たった一日二日金太郎さんば見ただけで、ワシは泣きたかほど感動したとです。水原監督も首脳陣も、金太郎さんに会うた瞬間にそうなったんやろうもん。殺気のないもの、つまり、まじめでないものば球団から追い出したくなったんやろうもん。ワシはためらわんと会社ば手離して、心機一転、野球に打ちこむことにしたっちゃん。不まじめやった菱川まで人間が変わってしもうた。あいつはみんなが練習しとるときに、外野の芝生で昼寝しとるような男やけんな。……もともとワシも金太郎さんと同じように、契約金ばぜんぶ親兄弟にくれてやるような人間やったとです。それをドーッと思い出したとばい。とにかくチームのほとんどが、きれいな川の水でからだを洗われたような気持ちになったとです。そうなると、ワシたちに対する水原監督の態度も一変したわけたい。こうしてワシが素直な話しばでくっとも、金太郎さんの影響たい」
 菅野が、
「うれしい話ですね」
 主人が、
「神無月ファン冥利に尽きますな」
 千佳子が、
「チームの動きぶりも変わってきたんですね」
「そんとおりばい。去年までは、試合に勝とうが負けようが、十五分くらいおざなりのミーティングばやって、素っ気なくサッサと引き揚げるのがふつうやったばってん、今年からはめったにミーティングばせんごつなったし、ふだんから監督コーチも含めてバスでもベンチでも親しくしゃべり合うごつなったし、試合のあとのむばい飲み会もほとんどやらんごつなった。みんなぴったり寄り添うて動いとる感じですばい」
 カズちゃんが遠い目で、
「昭和三十九年から四十年……おたがい転機があったのね。江藤さんは二年連続首位打者、キョウちゃんは島流しから野球再開。奇縁で巡り会ったとしか思えないわ」
「ほんなこつ……うれしか」
 太田がやってきた。女たちがまたキャーと言う。
「タクシーできました!」
 おトキさんがすぐにコーヒーを持ってくる。台所に戻っていくおトキさんについてメイ子が立ち上がり、素子とソテツも立った。昼の食卓が整えられはじめる。失礼します、と太田はあぐらをかき、
「なんですか、楽しそうにやってますね」
「おお、金太郎さんに初めて会うたときの話ばしとった」
「俺は中一ですよ。そのときは、野球の才能と、美男子だということしかわからなかったですね。ネット裏にかならず何人か女の子が立ってました。加藤雅江、山本法子、杉山啓子、河村千賀子……」
 千佳子が、自分と同じ名前の字面を思い浮かべるふうに瞳を泳がせせた。
「杉山啓子は喘息で死んだらしい」
「ふうん、あのフランス人形が……。神無月さんにぞっこんの感じがしましたが。かわいそうに」
「河村千賀子は知らないけど、加藤雅江と山本法子は生きてる」
「生きてるほうがあたりまえでしょう」
「まあね」
 直人が一人で起き出してきて、
「サクラ、サクラ」
 とハッキリした発音で言う。私は、
「大人がチラッと会話したことを覚えていたんだね。桜を観る約束だった。近所を連れて歩いてみます」
 江藤が、
「ワシもいくばい」
 カズちゃんが、
「私もいくわ」
 太田と千佳子も立ち上がった。トモヨさんが台所から、
「すみません、みなさん。それじゃ、お手数ですけどお願いします」
 主人夫婦も頭を下げた。私は、
「三十分くらいで戻ります」
 菅野が、
「車でグルグルしてみましょうか」
「いや、適当に歩いて、桜を見かけなければそこらへんを一周してきましょう」
 門を出て歩きだすと、カズちゃんが、
「中村公園までいけばワーッと咲いてると思うけど、このへんでサクラを植えてる家があるかしら」
 直人を抱き上げたり、小さな手をとって歩かせたりしながら、牧野小学校の近辺を歩き回る。桜はない。太閤通に出る。銀杏並木がつづいている。千佳子が、
「そうそう植わってないものですね」
 江藤が、
「しかし、直人くんは足腰が強かねえ。からだのバランスもよか。神無月さんのミニチュアたい」
 一筋ちがえて北村席のほうへ戻る。咲いていた。灯台下暗し。目の前の牧野公園の生垣沿い、数奇屋門からいちばん遠い外辺を縁どるように、数本、三分咲きの桜が天高く咲いていた。
「直人、あったよ、桜。ほら!」
 遠く指差す。
「サクラ、サクラ」
とはしゃぐ。人けのない園内に入ってみる。江藤が肩に抱き上げて乗せ、樹の下へどんどん歩いていって、花びらを触らせる。穏やかな表情の江藤に語りかける。
「名古屋駅というのは東側が表口で、西側は裏口のようなもので、表と裏では様子がずいぶんちがってます。西口はさびしい。この公園からも西口の高層ビルが見えますけど、なんだかひっそりしてる。でも桜を通して見ると多少趣がありますね」
 カズちゃんが、
「ひっそりしすぎ。むかしはいい雰囲気の公園だったのに、いかにも区画整理あとの公園といった感じになっちゃったわ。真ん中に蔓棚(パーゴラ)を置いて敷地を分けてるのも、区画整理そのものみたいで幻滅」
 太田が、
「なるほど、こっちが遊具広場で、こっちがただ土を敷いただけの桜広場ってふうに区画されてるわけか」
「サクラもけっこう大木だけど、本数が少なすぎて、いままで何度も通りかかったのにこうして咲いてくれるまで気づかなかったわ。この季節に通らなかったからかしら」
「遠くから眺めると、三分咲きの桜はたしかに花瓶の桜ほども目立たないね。菅野さんが知らなかったくらいだから、咲いててもいままで見過ごされてきたんじゃないかな。でもこれは満開になったらすばらしいよ。本数が少ないだけに、いい花見ができる」
「お弁当持ってきて見物しましょうか」
「木の下がさびしいから、ちょっとね」


         七十六

「ほう、遊具は長い滑り台と、ブランコと、シーソーね。どれも一歳児には無理やと思うばってん、シーソーに乗しぇてみようかの」
 江藤が直人の脇を抱えてシーソーに乗せる。太田が手でゆっくり漕ぐ。千佳子が直人の脇に立つ。
「シーソー」
 と教えると、直人は満面の笑みで、
「シーシ、シーシ」
 と繰り返す。五回ほど上下させてやめ、西側の一角にある何かの慰霊碑らしき三重塔に近づいていく。今度は太田が直人を肩に担ぐ。私はカズちゃんに、
「これは?」
「日露戦争で亡くなった人たちの慰霊碑だって聞いてるわ。区画整理のときに、どっかから移転させられてきたはずよ」
「六十年以上も前のものだね。親族とも縁遠くなってるだろう」
 千佳子が、
「維持管理がたいへんですね」
 西高のバックネット裏の顕彰碑を思い浮かべる。あんなもの、私が球界を去ればだれも振り向かなくなる。雨風になぶられて、黒く変色し、文字がかすれ、校庭の片隅で朽ちていく。桜と慰霊碑。見たものはそれだけなのに、なんだかみんな満足し、北村席へ戻っていく。千佳子が江藤と太田に、
「きょうは散歩道に人がいなくて助かりましたね」
 太田が、
「神無月さんと歩くと、ファンが妙に集まってこないんです。新聞記者やカメラはよく取り巻きますけど。ですよね、江藤さん」
「おお、そうたい。いままでは町なかば歩いとったりすっと、日本じゅうどこでん若い女がキャーキャー言いながら集まってきたもんたい。うるさかけん手を振っちゃると、失神しそうなくらい喜んでな。今年からはちごうとる。寄ってはくるばってんが、めったにキャーキャー言わん。金太郎さんの雰囲気がそうしゃしぇとうたい。気分よかァ」
 太田はうなずき、
「もともと人間には真剣な人間を愛して尊重する繊細な心があるんですよ。珍獣見物みたいに押しかけない。まとわりつかれるうちは、真剣な人間でないということでしょう。真剣な人間は真剣であることで疲れ切ってますから、まとわりつかれることに耐える体力が残ってないとファンにはわかるんですよ」
「そうかもしれんのう。ましてや悪口ば言う人間と闘う体力も残っとらんやろう」
「まだ変わった点がありますよ。むかしから日本の野球は、一つひとつ大事な試合だと言い聞かせられるでしょう。水原監督以下首脳部は、インタビューでもミーティングでもいっさいそんなことは言いません。神無月さんの影響で、マスコミが期待する受け答えを無視するようになったからです」
「おお、たしかにそうたい。日本のプロ野球は、網の目ごたるマスコミに監視されとるけん、やつらの好む決まり文句を言わんと許してもらえん。監督も選手も一試合一試合、とてつものう重大な意味があるごつ言いよるクセがついとう。それば無視するごつなったっちゃん。やっぱり気持ちが落ち着いたばい」
 私は、
「一試合一試合真剣に戦うことが重要で、試合そのものの重要度は、ペナントの行方で臨機に決まります。重要だからと言って勝敗には影響しません。影響するのは真剣に戦ったかどうかだけです」
「目が覚めるのう」
 千佳子が、
「江藤さんは酒豪だって聞いてますけど、よくお仲間と飲みにいくんですか」
「去年まではの。今年は、いっちょ、いっとらん。ああいう場は太鼓持ちの新聞記者も混じったりしとって、悪口雑言、愚痴、ノンストップでつづきますけん、頭がおかしゅうなります。コーチは年がら年中、やれフォームの矯正がどうの、チームの和がどうのてうるさか。今年はちごうとるばってん」
 カズちゃんが直人の手を引きながら江藤に訊く。
「中さんは、江藤さんの先輩ですか」
「はい。昭和三十年の入団で、四年先輩の最古参ばい。背番号3になったんは三年目からで、56番35番と毎年ちがう番号ばつけとったらしか。三百五十刺殺のリーグ記録ば二度達成しとります。三年前に首位打者ば獲り、去年は眼病でシーズンばフイにしたばってん、今年無事復帰しました。プロ十五年目になります」
「中日ドラゴンズのカナメの役割を果たしてる人のように見えます」
「そんとおりばい」
 私は、
「刺殺って何ですか」
「アウトが発生すると、かならず守備側のだれかに刺殺が記録さるっとたい。外野手の場合はフライ捕球のみ。外野手がゴロを捕り、いずれかの塁に送球して走者がアウトになった場合は、捕球した野手に刺殺がつきます。フライを捕ったとき、タッチアップして進塁しようとした走者を送球でアウトにした場合、フライ捕球の刺殺が外野手につき、タッチしてアウトにした野手に別の刺殺がつきます」
 太田が、
「うへ! アウトの数が刺殺の数って知らなかった。訊いていいですか」
「ああ、よかよ」
「三振はだれに刺殺がつくんですか」
「キャッチャー」
「守備妨害のアウトは?」
「妨害された野手」
「インフィールドフライは、捕球した野手ですね」
「それがちがうと。通常の位置から考えて捕れると見なされた野手ばい。たとえばボールの落下位置にいたセカンドがボールを追ったが、目測を誤って追いつけなかったり、躓いて転んだりして、他の野手が捕球したとしても、刺殺はセカンドにつく」
 意外な感じで記憶に残った。
「追い越しランナーのアウトは?」
「そのランナーのいちばん近くにいた野手」
 太田の質問のするどさに感心する。
「打順まちがいで打者がアウトになった場合は?」
「キャッチャー」
 すごい世界だと思った。こういうことを、プロの選手もアンパイアもみんな知っているのだ。恥ずかしくなった。
「中さんの三百五十刺殺はすごいですね。送球先のタッチアウトが自分の刺殺数に加わらないとなると、それを足してアウトにした数は確実に一割は増すでしょうね。定位置の捕球だけでなく、ファインプレーも度々しなければ三百五十なんて数には―」
「そんとおりたい」
「偉大な人たちに囲まれて野球をすることができて、幸福です」
「この程度の偉大さでよかちゅうなら、いくらでも幸せにできるばい。ふつうでなければよかちゅうだけのことやけんな。幸せは金太郎さんの栄養ばい。少しでも幸せになってもらわんと栄養にならん。太田、ふつうではいけんぞ。ふつうなんてもんは、自分の栄養にも金太郎さんの栄養にもならん」
「はい! ふつうで満足するつもりなら、野球をやめます」
         †
 座敷に落ち着くと、ちょうど睦子も帰ってきて、賑やかな夕食になった。肉料理、野菜料理、刺身、和え物、煮魚、南蛮漬。睦まじい気分に満ちた喧騒に包まれる。才能、あるいは情緒や感覚のうえで〈秀でた〉人びとと睦み合い、その生活をじゃまされずに生きるということ。そうやって生きることに自得し、協和して生きるのは楽しい。しかし、その楽しさにはえも言われぬ罪悪感がある。自分の好む要素を持った人びととの協和は、生物として等価値を持った人びとへの反逆だし、好みでない要素を持った人びとを〈秀でていない〉と決めつけて閑却する悪辣な雷同だ。趣味的な区別に安らげば、人は罪人となる。好まない人びとにも、人間全体に貢献する馥郁とした役回りがあるにちがいない。才能や情緒や際立った感覚をよしとしない人びとにも、きびしい価値体系があるかもしれないのだ。
 浅間下の白髪のお婆さんから漫画本を借りてきて、ベッドの枕もとに積んで、一冊一冊読破していったとき、好みのものと遊ぶ無念無想の楽しさだけがあって、罪悪感なぞなかった。私だけが作品の真価を認め、嘆息し、敬愛し、幸福に浸ることができた。私は〈私〉だけが評価する絶対の世界にいた。
 野球を引き寄せ、それに凝り、勉強を引き寄せ、それに凝り、詩作を引き寄せ、それに凝る日々が始まったとたん、比較が始まり、私は鑑賞者の無念無想の幸福を失った。相対の渦中でアクセクするようになった。評価に明け暮れ、評価に愛撫され、愛撫する人びとと協和して暮らすようになった。協和の按配に一喜一憂するようになった。やがて評価におびえ、協和におびえ、罪悪感が首に貼りついた。人は相対的な価値を評価し優劣を押しつけるけれども、私自身が感銘する対象に下す評価はだれに押しつける必要もなく、その正当性に一喜一憂する必要もない。絶対的なものだからだ。
 石原裕次郎や父もそうだった。ただ彼らにあこがれるとき、そこには私だけの評価があり、私だけの楽しみがあり、絶対的な幸福があった。罪悪感はなかった。唯我の人になって絶対の中に遊ぶとき、私は楽しく、揺るぎない幸福に安らいだ。
 いつのころからか私という小さな存在が憧憬されるようになって、私に罪人の意識が生まれた。何かの評価の対象になって相対の中へ放り出されるとき、私は命を捨てたくなるほどの罪悪感に冒されるようになった。相対を恐れたのではなく、私という卑小な存在を大きく見せながら、安らかに相対評価の中で協和して暮らす自分に罪人のにおいを嗅いだ。
 私が望むのは評価でも協和でもない。愛する者への一方的な没入であり、一方的な賞賛だ。その行為を通じてしか、私は幸福を感じられない。協和に堕すことのない友情と、感謝にあふれた愛情。その二つだけを純粋に手中にする日を待ち望みながら、私は後ろめたい相対の愉しさと、逃れられない協和の罪悪感の中で暮らすことを強いられている。
 睦子がおトキさんやソテツと話す声がする。
「お母さんに教えてもらって弥富にいってきたんですけど、かわいらしい金魚が多いので目移りしてしまって。でも決めてきました。ただ水槽に入れて飼うだけじゃなくて、空気清浄の小型ポンプとフィルター、夏は冷却ファン、冬は温熱棒などが必要らしいです。和金二匹といっしょに、入学式のあとあたりに一括して届けてもらうことにしました。そのときに取りつけもしてもらいます。水換えは、カルキ抜き液を混ぜた水道水を一週間に一回ぐらい足してやればよくて、餌やりも三、四日に一度でいいみたいですから、慣れてしまえば、一日、二日ぐらい留守にしてもだいじょうぶだそうです」
 胡瓜とシラスのゴマ醤油和え、豚肉生姜焼き、麻婆豆腐、ポテトサラダ、フロフキダイコン。夕飯が一段落し、江藤が女たちにつがれたビールを飲み干すと、男たちに燗酒が用意された。菅野はビールだけですませた。江藤は肴をつまみながら独酌をした。太田は私とつぎ合った。主人は直人を膝に抱き、女将に酌をさせた。
「牧野公園に桜があるのをコロッと忘れとったわ。まだ二分咲きか三分咲きやったろ。四月はあそこで夜桜を見るのもええな」
 私は、
「昼間は城の桜を見て、夜は牧野公園にしましょう。少し地面が殺風景ですが、人がたくさんいれば賑わうでしょう。山口にギターでも弾いてもらって」
「贅沢やなあ」
 ちくわの甘辛炒めと鶏南蛮を運んできた素子が、
「江藤さん、太田さん、四月一日はこっちにおるんでしょ?」
「おります。寮で寝とります」
「アイリスのオープンなんよ。十時」
「顔出します。その予定やったとです」
 カズちゃんが、
「午前中はドッとお客さんがくるから落ち着かないと思うの。午後になってから、キョウちゃんや山口さんたちといっしょにきたらどうかしら」
「そうします。三時ぐらいなら、少しすいとるやろう」
 千佳子がスケッチブックを持ってきた。店員の制服が玄人ぽいタッチで描いてある。睦子が覗きこむ。太田が、
「いいですねえ! 清潔感にあふれてます」
「神無月くんのアイデアなんです。もう全員に配りました」
 素子が、
「あさって二十五日火曜日から模擬開店。午後の一時から五時まで開けるんよ。半額、売り上げ無視」
 女将が、
「神無月選手の店ゆうんはあかん言うし、ドラゴンズの選手も顔を出す店って宣伝打とう思ったら、それもあかんて和子に止められたわ」
 江藤が、
「それでよかです。店そのものの実力と信用で勝負せにゃいけん。ほやないと長つづきせん」
「それに、保証とか見こみがないほうが張り切れるもの。キョウちゃんから教わった考え方よ」
 江藤は私の顔をつくづく見つめ、
「金太郎さん、仕方のうて保証も見こみも手に入らんちゅう人生は大いにあり得ると思うばってん、仕方があるのに最初(ハナ)からそれを捨ててかかるちゅう生き方はどんなもんやろのう。そんな生き方拘るごつなったんはなしてか。島流しがきっかけとは思えん。美学みたいなもんやろか」
 私は箸を止め、頭に思い浮かぶまましゃべりだした。
「ものごとに取りかかる前に、見こみや保証に頼ってものごとを達成しようとする心はたるんでます。それがいやなので、設計図を持たないようにしてるんです。そんなものあえて持とうとしなくても、ものごとを懸命にやっていれば、後付けで保証や見こみが出てきます。そうなったらそれに従ってやればいいんです。行き当たりばったり。計画を立てることの欠点は、何であれ無理のない気持ちで行動しなくなることです。設計図どおりの未来ばかり見つめるようになる。その図からずれるとあせる。人間というのは本来驚くほど衝動的です。だからいつでも衝動に負けてやろうという気持ちがなくちゃいけない。いま目の前で過ぎていく瞬間をたっぷり味わおうとしなくちゃいけない。あしたがあるからこうしなくちゃいけないという考え方では、それが不可能になります。熱心に願っていたことが実現して、現在の楽しみに浸っている最中でさえ、未来の不確かな希望に心を奪われてしまうんです。どんな人も、どんな集団も、計画なんか立てなくても、もともと大まかな計画を押しつけられて動いているんです。保証や見こみを望まないでそれをいつでも喜んでできること、その覚悟を捨てちゃいけないんです」
 トモヨさんが目頭をそっと押さえ、
「その心がけのおかげで、私たち親子が生きていられます」
「ワシらもだよ」
 主人が女将の酌を受け、江藤は独酌を重ねた。睦子が私の皿に新しく惣菜を盛った。江藤が、
「金太郎さん! あんたよりあとに死ぬのはつらか! 年上でよかったばい」
 私の膝に大きな手を置いた。カズちゃんが江藤ににっこり笑いかけた。百江とメイ子とイネがやってきて、私と太田のコップにビールをついだ。主人が、
「一回り年上ぐらいで、先に死ねるとはかぎりませんよ。いっしょに楽しく長生きすればええでしょ」
「そうですな。しつこく生きんば」
 江藤を見つめながら女将が泣いていた。


         七十七

 カズちゃんが、
「キョウちゃんが口を開くとこれだから、黙らせているのがいちばんね。おとうさん、直人を抱かせて」
 カズちゃんは直人を膝に載せて、小さな口にスプーンを運んだ。
「強い子になってね。お父さんみたいに。信じられないくらい強い人なのよ」
 すぐにおトキさんが交替して、きちんと食事を与えはじめた。太田が、
「……俺たちが目撃してるのは、ほんとのことですよね」
 江藤は、
「手でさわれる夢やろのう。金太郎さんのそばにいるかぎり見つづけられる夢たい。何もかも乗り越えてきた人が見とる夢の中に、ワシらはおるばい。おこぼれの夢でも、惜しゅうて捨てられん」
 いままでじっと寡黙を通していた菅野が、
「私は神無月さんに遇った日から、夢を見っぱなしです。四年間。……いつも感無量です」
 江藤はテーブルの周りを走り回っている直人を抱き上げ、頬ずりした。太田も同じように、四角い顔に直人の顔を押しつける。
「さ、江藤さん、そろそろ現実に戻って、あさっての出発に備えましょうか」
 八時だった。
「そうしよう。金太郎さん、ワシらは引き揚げます」
「はい」
「きょうもチッカパ楽しかった、うれしかった。ありがとう」
 菅野が、
「寮まで送っていきますよ」
 そのために燗酒を控えていたのだとわかった。
「すみません、いつも甘えてしまって」
 カズちゃんが、
「私たちがきてもらったのよ。甘えてるのはこっち」
「ありがとうございます。じゃ金太郎さん、あさっての夕方、赤坂ニューオータニで」
「はい、ニューオータニで」
 太田が、
「鏑木さんが、赤坂の朝のランニングコースを見つけたそうです。自由参加だということですが、ほとんどの選手が走るようですよ」
「ぼくは遠慮する。指導されてだと自由に走り止められない。球場内のダッシュも、ベースを回らなければ、あまり効果があると思えない」
「そう言いながら、いつも率先して走るのは神無月さんじゃないですか」
 彼らは北村夫妻に丁寧に礼を言うと、立ち上がろうとする私を制して握手し、菅野といっしょにカズちゃんたちに門まで送られていった。
 台所の後片づけの騒音を聞きながら、女将に酌をされて主人と酒を飲んだ。
「神無月さん、どんな人間も自分の将来の青写真を一枚や二枚持っとるもんですよ」
「予定のない人生もいいものです。川に浮かぶ葉っぱみたいで。いろんな風景が眺められます」
「ヤケクソのようにも聞こえますが……」
「ヤケになる理由がありません。怖いぐらい満ち足りてますから」
 カズちゃんたちが戻ってきて、私の周りに坐った。私は夫婦に向かってしゃべる。
「善人の善、悪人の悪、善人の悪、悪人の善。そんなふうに分類されるほど人間世界はキッチリしてません。計画なんか立てようがない。行き当たりばったり、引かれて引いて暮らすしかないんです」
 カズちゃんが、
「おとうさんたら、キョウちゃんにしゃべらせたくてしょうがないみたい。おかあさんなんかウットリしちゃって。キョウちゃん、テレビでも観ながらゴロリとしなさい」
 台所で賄いたちといっしょになって後片づけをしていた千佳子が、おトキさんにしゃべりかける声が聞こえてきた。
「このあいだも素子さんと話してたんですけど、ワケギとイカやタコで味噌和えを作るコツを教えてくれませんか。しょっぱみと甘みの加減がよく……」
「東京へいくまであと十日ぐらいありますから、いろいろお教えします」
 カズちゃんが台所へ声を投げた。
「おトキさん、東京行きの仕度、こつこつやってる?」
「はい。おおまかなところは衣類だけです。小物類は思いつくたびに整理してます」
「吉祥寺には女物の調度品は置いてないわよ」
「それも二つ、三つですから、大仕事じゃありません。……これこそ行き当たりばったりですね。楽しい」
「ほんと、楽しいわ。ぜんぶキョウちゃんのアイデアよ。ドラマがなければ、人間生きてる甲斐がないもの。あら、トモヨさん、直人が眠っちゃった。寝る子は育つ。それにしてもキョウちゃんそっくりになってきたわね」
 トモヨさんがやってきて、直人の股を触り、
「あら、ウンコをしたみたい。オムツを替えて寝かせてきます」
 カズちゃんが私に、
「球団事務所のほうから、ファンレターが溜まりすぎて困っているって話、聞こえてこないでしょう?」
「うん、助かってる」
「これからも、ごく一部の子供たちからしかこないと思う」
「どうして?」
「自分も目指せるという模範的人物じゃないから」
 父親が、
「また難しいことを言い出しよったな」
 うれしそうな顔をする。カズちゃんは笑って、
「難しくないわよ。キョウちゃんの心ってけっして他人を忘れない特殊なもので、ふつうの人間らしい心じゃないの。さっきも、計画を立てる立てないうんぬんかんぬんて言ってたでしょう? キョウちゃんは、自分というものに夢を持たない、とてもきびしい考え方をする人なの。自分は忘れても、他人を忘れない。計画なんか立てられない。夢を持ってる人にはそれがイヤな感じでピンとくる。夢を追う人は本能的な常識人だから、自己愛のないキョウちゃんに、何か信用できない、受け入れられないものを嗅ぎ取るわけ。大人も子供も関係なくね。そうなると、あとは見物するだけになるわ。すごい成績を上げればマスコミといっしょになって騒ぐけれど、ファンレターなんてぜったい出さない。野球少年にしても、自分もキョウちゃんみたいになれると錯覚してる子以外は、手紙なんか書かない。子供は慧眼だから、自分とかけ離れた才能には近づかないの。だいたいファンレターなんてのは女のものよ。女はほとんど常識人。これからもせいぜい道端でサインする程度ね。のんびり野球ができるわよ」
「カズちゃんが言うんだから、まちがいないね。よかった」
「ただ、いったんスキャンダルが持ち上がると、みんなで袋叩きにするわ。もともと同調できない人間だったから、容赦なく叩く。手紙や電話が殺到する。私たちの日ごろの心がけが大事なのはそれに備えるためよ。一番叩きやすいスキャンダルは、女関係ね。次にお金。お金は清潔すぎて叩けない。残るは女だけ」
 母親がうなずき、
「神無月さんはそういう警戒はせん人やからね」
「そんなことに他人が関心を持つのはくだらないと思ってるからよ。でも、叩かれたら野球生命は終わりね」
 おトキさんが手をエプロンで拭きながら出てきて、
「私もそう思います。もう一つ、ヤクザ関係に探りを入れられるのが危ないんじゃないでしょうか。松葉会さんはとてもそれを気にしています。煙が立たないように、よほど気を使ってるようです」
 女たち全員が集まってきた。トモヨさんも離れから戻ってきた。どういう種類の話題だったかすぐにわかったようで、
「私たちの自重も大事だと思うけど、郷くんの奔放さに、私たちが振り回されないようにすることのほうがもっと大事です。たとえば、認知の届出を思わず私が喜んでしてしまったのは失敗だったわ」
「そんなのはぜんぜん平気。信用できる人で固めてるかぎりは、秘密は外に漏れないものよ。江藤さんも太田さんも、水原監督も村迫代表も榊スカウト部長もだいじょうぶ。キョウちゃんに野球をつづけさせたい人はみんなだいじょうぶ」
 睦子が、
「野球をつづけさせたくない人ですね、怖いのは」
「そう、だからドラゴンズ選手のくる店なんて看板出して、アイリスにドラゴンズのだれでもかれでもきてもらっちゃ困るの。江藤さんが言ってたでしょう、血が合わない人間も数えるほどだけどいるって。どんなひょんなことから、キョウちゃんをよからぬふうに思ってる人たちが足もとを掬うかもしれない。とにかくいちばん怖いのは嫉妬。北村席がひとむかし前のような商売の仕方をしてたら、女の子たちもひねくれてしまって、キョウちゃんへの嫉妬から内部告発みたいなことをして、キョウちゃんもお店も危なかったかもしれないわ。おとうさんの改心のおかげで、いまのところ助かってる。キョウちゃんや私たちに心から好意を寄せてる人はほんとに少ないと思うけど、つまらない嫉妬のせいで、あることないことタレこむ人はいないようね。ネタもとだとバレて、おとうさんにクビを切られて、恵まれた給料を捨てようとする人はいないみたい」
 メイ子が、
「安心してください。この家に、神無月さんに悪意を持ってる人はいません」
「そう願ってるわ。問題は、マスコミ関係者が大きなお金をちらつかせて近づいてきたときね。道を歩いてるときとか、トルコに遊びにくるとかしてね。そういうときは、まず取材をお断りして、かならずおとうさんか菅野さんに伝えてちょうだい。なんとか対処するから」
 悲しみは六段階で訪れると書いたのはだれだったか。最初は否定、次は怒り、そして足掻き、絶望とつづく。悲しみの六段階目は受容だ。その実践は終わっている。追体験はラクだ。悲しみは赦しのない終身刑と同じだ。ただ受容するしかない。私に野球をやめさせたい人間がいるなら、それは、野球人としての私の魅力が万人に訴えなかったという証になる。万人に共通の魅力を持つ者などいるはずがない。追放されるのはあたりまえのできごとだ。
「キョウちゃんを裏切るということは、このすばらしい野球選手をいっさい野球場で見られないようにするということよ。そのことを胸に手を当てて考えて、慎重に行動してちょうだいね」
 みんなあわただしくうなずいた。主人が、
「ワシらのように神無月さんと心中する覚悟があれば、どんな誘惑にも勝てる。そうでない人間には、自分のひとことで神無月さんが社会的に葬られるという可能性が、いちばんの誘惑かもしれん。もしそんなことをするやつがいたら、ワシはこの世の果てまで追っかけてって、きっちりカタをつけたる。神無月さんに心底惚れとる牧原さんが見張っとることを忘れたらあかんで」
 女将が笑って、
「あんた、そんなに脅さんでもだいじょうぶやよ。何言われとるかわからん子もおるやないの。神無月さんがマスコミに潰されることなんかあれせんよ。マスコミだって神無月さんの野球をいつまでも見ていたいやろ。―潰されたら潰されたでええやないの。楽隠居してもらいましょうや」
「ありがとうございます。楽隠居、いいなあ」
 ぱらぱらと笑い声が上がった。トモヨさんがまた目を拭った。素子が、
「芸能人やスポーツ選手の自己中心は才能の一部やってよく言われるけど、ここまで自己中心でない人もいるんやね」
 ソテツが、
「どうして自己中心的でないんですか。神無月さんはけっこう思いどおりに生きてると思いますけど」
 素子が、
「キョウちゃんが隠居なんかうれしがるはずがないやろが。みんなを安心させようとして言ったんよ。わからんの? あんた、ほんとにぜんぜんわかっとらんね。キョウちゃんのこと気に入らんのやないの」
「いいえ、好きです」
「あんた、怖いわ」
「チームワーク崩しちゃだめよ、素ちゃん。水が漏れるわよ」
「はーい」
 菅野が堀越の寮から帰ってきた。コーヒーを一口すすって一段落し、
「江藤さんが、神無月さんにくれぐれもお礼を言っといてほしいと、何べんもおっしゃってました」
「何のお礼?」
「去年の十月、背番号8を9に替えるようフロントから言われた日に、ある幹部から今年かぎりでトレードに出すかもしれないと言い渡されたそうです。その後、フロントに何度も残留を具申にいき、土下座までしてお願いしたそうですが、頑として受け入れられなかったらしく、悩んだ末に、とにかく最善を尽くして、なるべくいい成績を残し、有利な条件でどこかへトレードに出してもらおうと思い直したところへ、水原監督と神無月さんが現れた。キャンプで一目惚れし、トレードで命をつなぐ考えなど吹っ飛んでしまって、一年間この人の背中にくっついてがんばって燃え尽きてしまおうと決めたんだそうです。毎日、野球をするのが楽しくて仕方なくなって、からだをいじめて鍛錬に継ぐ鍛錬、打撃もおもしろいように好調になった。そしたら、水原監督に呼ばれて、きみにぼくとオーナーの気持ちが通じたようだ、修理工場を整理して、金太郎さんと二人三脚で野球に打ちこみなさい、そうしてくれれば、ドラゴンズはきみが引退するまで面倒を見る、と慰留されたということでした。愛するドラゴンズに残れたのは、金太郎さんに惚れた、いや金太郎さんが惚れさせてくれたおかげだ、それ以上にうれしいのはこれから引退するまで金太郎さんと野球ができることだ、そう伝えてくれと言うんです」
「……感激です。大スラッガーにそんなふうに言ってもらえて。これで、ぼくにはいつも野球を思い出させてくれる人がそばにいてくれることになりました。彼といっしょにがんばります」
 菅野が、
「太田さんともね」
「もちろんです。菱川さんとも、レギュラーたちとも」
「これ、中日新聞の夕刊ですけど、社長、もう見ましたか」
「ああ、見た。漫画やろ」
「はい。神無月さんの印象が悪くなる漫画です」
 私がバットを振っているショットでこしらえた大きな広告看板の前で、王貞治が羨ましそうに指を咥えている風刺漫画だった。
「これはひどい。王さんを馬鹿にしている」
「逆に神無月さんの立場を中傷する漫画ですよ。巨人ファンから反感を持たれます」
 主人が、
「それでなくても、神無月さんは球界では浮いた存在やからな」
 私は、
「ドラゴンズの仲間内では浮いてないと思います。一軍の一人二人には嫌われてるでしょうが、そんなのは気になりません。問題はマスコミです。浮いて白眼視されてるのはまったく気にしません。この新聞のようないじりは、遠い新聞記事の世界での話ですし、これに刺激されて踊るような人物が現れないかぎり実害はゼロです。ただ、近くでいじられて時間を潰したくないですね。近くで取り囲まれるという点に関しても、ほとんどの記者たちが距離を置いて見てくれてるのでありがたいです。東大のときのサンスポの記者とちがって、距離を置いてるマスコミ人は、まじめに、温かい目で見てくれていることが多いような気がします。とにかく遠くでいじられてる分には屁でもありません」
 菅野が、
「いつも近づいてくる神無月番記者はいないんですか?」
「うん、いない。東奥日報さんがたまの番記者というところだね」
「どんな選手にも番記者はいるものですよ。遠巻きにしている記者の中に、各新聞、一人はいるはずです」



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