八十四

 赤坂のホテルニューオータニ到着。列を成した従業員に最敬礼で出迎えられ、ボーイにダッフルとバットケースを奪われる。先回よりも派手な出迎えだ。カメラを抱えた報道陣が群がってくるけれども、ホテル内ではかなり自粛を強いられているようで、フラッシュの数も少ない。フロント係の男女の黒いチョッキがすがすがしい。手引き車で荷物を運ぶボーイのお仕着せも黒づくめで、パンケーキのような円柱形の帽子をかぶっている。
 ラウンジのあちこちで、レギュラーたちが手を挙げる。私も手を挙げて応える。七階五号室。先回の五階八号室とちがい、今回はスタンダードツイン。中と同室だった。たぶんシングルだと五階に戻るのだろう。
「今回二十七日までの三泊にかぎり、七階ツインに変更させていただきました。球団からの指示でございます」
 部屋に入ると、小柄の短髪がワイシャツ姿で荷物の整理をしていた。私は礼をし、
「よろしくおねがいします」
「こちらこそよろしく。今回は水原さんの意向で、有力選手同志の親睦を深めるという目論見から二人部屋になったけど、公式戦に入ったら、レギュラー五人は五階の一人部屋に戻るからね。窮屈だけどがまんして」
「とんでもない。大先輩と同室できて光栄です」
「礼儀正しい人だね。この季節は冷房がなくて助かるよ。私は膝に持病があってね、疲れてくると膝に水が溜まる。膝の痛みの最大の敵は寒さなんだ。森と同室になったときは苦労した。あいつは暑がりで、私は膝痛。冷房を切れ切らないで、すったもんだ」
「どうなったんですか」
「フロントが温度を遠隔調整していたからね、二人でフロントをいったりきたりして、妥協できる温度に決めた」
「中さんの前のセンターだった本多さんの話を北村席のご主人から聞きました。ファインプレーをしょっちゅうやって、しかも俊足だったそうですね。まるでいまの中さんじゃないですか。ぼくが十年前に見た風を切って走っていく三塁打と、いまの三塁打とちっともちがいません。打撃もパンチがあって、ライナーのホームランをぶちこむし、どうすれば三十過ぎてそんなに活躍できるんですか」
 中は頭を掻きながら、
「神さまにそんなに褒めてもらうと、穴があったら入りたくなるよ。……元気で野球をつづけられるのは、グローブのせいかもしれないね」
「グローブ?」
「うん、このグローブ」
 中はバッグから取り出して見せた。染料の剥げているシワシワの代物で、薬指と小指のあいだがひどく狭いので、パッと見には四本指のように見える。
「むかしのチームメイトに、左投手の伊奈さんという眼鏡をかけた温厚な人がいてね。二度ほど十勝以上を挙げて、そこそこ活躍した人だったんだけど、昭和三十五年に阪神にトレードに出された。そのとき阪神からやってきた西尾という左ピッチャーのグローブを何気なくはめてみたら、手かグローブかわからないくらいピッタリの感触だった。で、私は新品のグローブを買って交換を申し出た。あっさり受けてくれたよ。そのときから十年間このグローブを使いつづけてる。消耗品だから、使ってるうちにあちこち傷んでくる。使い心地がいいんで手離すわけにいかないから、革を縫い替えたり、ヒモを交換したりしながらずっと使ってるんだ」
 球史に残る名外野手中利夫の話は案外つまらない。しかし、ほのぼのとする。こちらから話しかけることはない。つまらなくてもいいから話しかけられるのを待つ。
「森の打球はすごいから、キャッチしたときはたいへんだったろうね。しかも小学生が」
「手がもげるかと思いました」
「森徹の後見人が力道山だって知ってる?」
「はい」
「伊勢湾台風の年だったな。力道山がプロレスの試合で名古屋にきたとき、森を激励しに中日球場に寄ったんだ。バッティング練習を見てるうちに、俺も打ってみたいと言いだした。ピッチャーを森がやった。最初は極端なドアスイングで凡ゴロばかり。ところが数十本目まできたときマグレで当たって、高々と舞い上がった打球がスタンドに落ちた。野球の心得はなくても、運動神経は抜群だったんだろうね」
「……その力道山も死にましたね」
「そうだね。……森は女にも手が早くてね」
 脈絡がない。楽しい。
「濃人さんとうまくいってれば、大洋にもトレードされなかったろうに」
 同じような科白をどこかで聞いた。入団式のときではなかったか。たしか、吉沢捕手に関してだった。
「監督って、独裁者なんですね」
「最高のね」
「ぼくも巨人にいってたら、すぐクビになったと思います」
「でも、ほかのチームが放っておかないから、クビにした読売は大損しただろうな」
「よき利益よりも悪しきプライドを優先するのが人間です。逆ならいいんですけど」
「悪しきプライドよりも、よき利益?」
「はい、理想論ですけどね。よき利益というのは、幸福感の共有です」
「観客がすばらしいプレイを見るのは、幸福感の共有だね」
「はい。才能だけが幸福感を供与できます」
「江藤さんも言ってたけど、金太郎さんと話してると、ほんとに心が洗われるなあ。ほんのわずかでも才能を持って生まれてきたことが、うれしくなる」
「その気持ち、ぼくもときどき感じます。レフトの守備位置で空を見上げるときなんかです。さびしさの混じった充実感―」
「そう言えば、金太郎さんはよく空を見上げてるね。雨のときも」
「はい。才能を持って生まれてきて、この場所に立たされてるのは不思議だなあって感じます。そのさびしさが好きなんです」
「おたがい、野球でなければどんな場所に立ってたんだろうね」
「そう考えると、また別のさびしさがありますね。ただ生きてるだけだったでしょう。食べたり、階段を降りたり、電車に乗ったり……それもまたすばらしいなあ。この上なくさびしくて」
 中はじっと私の顔を見て、
「金太郎さん、たぶんきみは人間じゃない。ほんとに降臨したんだ。一年でも長く、いっしょに野球をやろうね」
「はい」
 中はグローブ磨きにかかった。私は腹筋背筋にかかった。
         †
 ラピスという中宴会場で会食をしたあと、レギュラーたちと散歩に出た。トレーナーの池藤もいっしょだった。夜桜を眺めながら坂道を上智大学まで歩く。江藤が、
「立派な建物たいねえ。びっしり門ば閉めて、中で何をしよるんやろか」
 みんな笑う。太田が、
「このへん一軒の店もないですよ。喫茶店もない。戻りましょう」
 高木が、
「ミーティングも訓話もなくてよかったね。新聞記者がうるさいけど、金太郎さんのおかげでドラゴンズのいい宣伝になってると思えば、苦にならない」
 一枝が、
「母校での金太郎さんの演説、読んだか」
「読んだ!」
 全員が声を上げる。中が、
「あれ、原稿なしだよね」
「はい」
「やっぱり、人間じゃない」
 島谷が、
「デッドボール、なくなりますよ。こういう人にボールを当てたらいかんと思うもの」
 菱川が、
「野次も減るでしょうね。野次るモトがない」
 木俣が、
「そうはいかないんだよ。チーム事情があるから。後半戦、デッドボールは増えるぜ」
 ホテルに戻り、最上階のスカイバーという板張りの広い店に入る。十七階から眺める夜景に息を呑む。
 バーボンをボトルでキープし、全員水割りで飲む。チーズ盛り合わせ、サラダ、スモークサーモン、ポークカツサンド、ソーセージ盛り合わせなどをつまみにわいわいやる。
「遠征って、もっと物見遊山的な気分になると思ってましたけど、案外そうじゃないですね。大阪でも九州でもくつろぎませんでした」
 私が言うと、島谷が、
「自分のユニフォーム姿が頭にちらついて、野球しにきたんだ、遊びにきたんじゃないと思うんだよね」
 高木が、
「今年は監督いらずの自立したチームになったね。もともとあえて団結なんてことを図らなくても、個々が引き合って団結しちゃうチームだったんだろう。水原さんが俺たちの自主性にまかせているのは、そこを見抜いたからだな」
 江藤が、
「ぜんぶ、金太郎さんの影響たい。金太郎さんがいなくなったら総崩れやろ」
 一枝が、
「泣き疲れて、総崩れ」
 太田が、
「神無月さんはやめません。野球がだれよりも好きなんです。俺たちが神無月さんを好きなのと同じくらい好きなんです。俺、神無月さんの足にすがってもやめさせません」
 私は笑い、
「ここにいる人たちが現役を退かないかぎり、野球をします。ぼくがクビになったら別ですが、それまではみなさんから離れません。水原監督には少なくと七十歳までやってもらいましょう」
 オーッと拍手になった。菱川が、
「神無月さんをクビにするなんて言ったら、俺は殴りこみをかける」
 中が手を上げ、
「水原さんは、私たち以上に金太郎さんに惚れてる。ぜったい手離さない。それに独裁者じゃない。三原さんと同様、遠心力野球だ」
「何ですか、それは」
 一枝が、
「チームという概念を中心に据え、個々の選手を惑星にたとえる。才能という気ままな遠心力でチームから離れていこうとする選手を相互に認め合う信頼感で結束させる。その結果チームに利益が与えられる、という考え方だな。それに対して求心力野球というのは、チームという概念を中心に据えるところまでは同じだけど、規則で選手を管理し、中心に引き寄せ、文句を言わせず目的を達成する」
「川上野球ですね」
「そうだ」
 江藤が、
「遠心力野球て言い出したのは三原脩ばい」
「チームの利益が最終目標である点が同じですから、ちがうのは自主性と個性を尊重するかしないかですね」
「そうたい。三原がどれくらい個性を尊重する男やったかとゆうとな、当時巨人のサードを守っとった宇野ヘッドコーチから聞いた話やが、三原が監督になって二年目の昭和二十三年の春、南海戦のときやったそうだ。一対二で劣勢やった巨人に、ノーアウト一、二塁というチャンスが巡ってきた。打順は三番の青田。ホームランバッターがまさかのセーフティバント。ノーアウト満塁になった。四番川上が犠牲フライを打って同点。それからヒットがつづいてたちまち逆転した。生還してきた青田を三原が怒鳴りつけた。からだをわなわなふるわせてな。おまえは何を考えて野球をやってるんだ、バントをさせるために三番を打たせてるわけじゃないぞ、ファンもおまえのバントなんか見たくない、ホームランを見たくてきているんだ、そんなみみっちいことでファンを喜ばせられるか! ベーブ・ルースが同じことをしたらファンが喜ぶか? みんなベーブ・ルースのホームランが見たくて球場にきているんだ。もういいかげんにアマチュア野球のような考え方や殻を打ち破れ。さもないと、日本のプロ野球はだめになってしまうぞ。俺の言うことがわからんのなら、ユニフォームを脱げ!」
 私はあらためて感動し、
「……水原監督の考え方でもありますね。三原監督も水原監督もやっぱり剣豪だ」
 木俣が、
「金太郎さんの考え方でもあるだろ? 俺も同じ気持ちだ」
 トレーナーの池藤が、
「神無月さんの身体能力は、ベーブ・ルースどころじゃないんですよ。足の運び、身のこなしが尋常じゃない。生まれながらにして、筋紡錘が極度に発達してるんです。これから何年にもわたって、プロ野球界のあらゆる記録を塗り替えていきますよ」
 太田が、
「キンボウスイ?」
「からだじゅうの骨格筋肉にある、いわば筋肉のセンサーです。筋肉がどのくらい伸びているかを脳に正確に伝えます。神無月さんの場合、このセンサーの感度が常人の数十倍、いや数百倍かもしれない。ボールを捕らえる指にも、バットを構える肩にも、態勢を確保する脚にも、いたるところに超高感度センサーが備わっているんです。超人と言ってもいいと思います」
 菱川が私の前腕を取って撫ぜながら、
「神無月さんのミスのないスーパーショットの秘密はそれだったのか」
「もっともっと神無月さんの筋肉を調べてみたいと思ってますが、なかなか触らせてくれないんですよ」
 江藤が、
「金太郎さんの神聖なからだに気安く触るんでなか」
 わざとらしく池藤を睨みつけた。
 十時過ぎに解散した。


         八十五

 三月二十六日水曜日。七時起床。晴。十・一度。
「快晴、野球日和、きょうは二十度になるよ」
「膝はだいじょうぶですか。慢性と聞いてますが」
「古傷だ。おとといひさしぶりに水を抜いた。大して溜まってなかったから抜く必要はなかったんだけど、安心のためにね。これで三カ月はだいじょうぶ。疲労したり炎症を起こしたりしないかぎり水は溜まらないから」
「水を抜かない年もあるんですか」
「うん。好調の年は抜かなくてすむ。ふだん関節には潤滑液が一cc程度分泌されてる。それが五十ccくらいまで増えたら抜かなくちゃいけない。腫れを退かせるためにね。きのうは五ccくらい溜まっていただけだったので、難なく抜けた」
 調和に満ちた声だ。交代で排便、シャワー。
 地階のサツキで和朝食。洋食もとれるので、監督コーチはじめほぼ全員の選手がいる。たがいに声をかけ挨拶し合う。イクラかけ玄米めし、鯵のヒラキ、卵焼き二切れ、親指大の大根おろし、小鉢に大粒納豆、梅干一個、板海苔三枚、奈良漬、豆腐の赤味噌汁。これだけで二千円。高い。球団つきとは言え、気が引ける。
 野球をするための一日が始まる。ズック靴を履いたユニフォーム姿がぞろぞろと、ダッフルを担ぎバットケースを提げてバスに乗る。ホテル従業員が何人か玄関前に勢揃いして見送る。フアンの嬌声、シャッター音、フラッシュの瞬き。彼らに手を振る。
 赤坂見附から青山通りに出て、外苑前まで信号のほとんどない一本道。見渡すかぎり石でできた路、石でできた建物。効率的すぎて目に楽しまない整った街を眺める。並木の緑が救いだ。車中で何人かの選手がスパイクに履き替える。すぐ投球練習場に向かうピッチャー陣が多い。前の席から水原監督の声が聞こえてくる。
「オープン戦期間中はコンディション作りが難しいから、ふだんより選手諸君に負担がかかるね。プロとアマのちがいは、練習量と試合量です。きついのも仕方がないと言えば言えるんだが」
 長谷川コーチが、
「オープン戦が終われば十日以上試合がない。それから八カ月連続の試合。そっちのほうがたいへんでしょう。そのためのオープン戦は体力づくりと考えて励んでください」
「開幕は毎年四月の第二土曜日だったね。今年は何日だ」
「十二日です。広島遠征になります」
「高校時代までは、特訓と言っても、夏が終われば長く休めるという楽しみがあっただろうが、プロは十二月と一月以外は、まったく休みなしだからね。秋季キャンプや合同自主トレに出る選手は、年じゅう暇なしです」
 小川が、
「有給休暇は、ケガのときだけですよ。ケガして休みたいなあ」
 車中の笑いを誘った。
「きみはケガをしません。きみほど投球について深く研究し、自らを鍛えている人はいないからね」
 一枝が、
「健太郎さんの千種の家に遊びにいって驚いたよ。リビングにごろんごろんバーベルやダンベルを置いてあるんだもん。プロ野球の選手で、ウエイトトレーニングやってるやつなんかいないよ」
 私は一枝に、
「ほんとですか? ぼくはやってますよ」
「野球選手のウェイトはタブーだと言われてるんだ。ウエイトで鍛えた筋肉は硬くなるってね。やりすぎないほうがいいぞ」
 本多コーチが、
「どうもそれはまちがいらしいよ。全身の筋肉の強さのバランスがとれるそうだ。健ちゃんは投げることに対していつも真摯に研究してる。浜野なんか見習ったほうがいい」
 浜野は窓の外を見て聞こえないふりをしていた。影響を受けない男、影響を嫌う男。太田が、
「キンボウスイ……」
 と呟いた。
 外苑前を右折して五百メートル。五カ月ぶりに、なつかしい神宮球場に帰ってきた。正面ゲート前にバスが停まり、降車。球場独特の散り具合の群衆の中を歩いて7番入口へ入る。激しい声援が前後左右から飛んでくる。ロッカールームが客用通路とつながっている回廊。コンクリートに響くスパイクの音が心地よい。回廊も室内練習場も食堂も変わっていない。ロッカールームも、控え室も、ベンチも、もとのままだ。
 ロッカールームでスパイクに履き替え、ふくら脛のストッキングを整え、ベンチを通ってグランドに出る。まだ試合開始まで二時間半もあるというのに、内外野のスタンドに人があふれている。ネット裏のメインスタンドは二階建ての屋根付きで、ここに四千人収容できると太田が言う。
「貴賓席のロイヤルボックスは二十四人収容できます。メインスタンド内部は五階建てで、事務所、食堂、喫茶店、会議室、休憩室なんかがあります」
「内野の外野寄りの半分と、外野は芝生席だね」
「いずれ階段状の観覧席に変わるでしょうね。野球浪人時代にいろいろ球場を回りましたけど、新聞紙を敷いて観る芝生席は趣がありますよ。外野手の守備位置変更の様子がよくわかったり、敵打者の長打力をどの程度評価しているかがわかったりします。選手がハンサムかどうかなんて外野席からは見えませんから、肩の強さ、足の速さ、長打力といったもの、つまり野球の原点を純粋に楽しむことができる場所でもあるんです。ただ雨模様の試合だったりすると、打球を避けようとしてズルッと滑って、シャツの背中が泥だらけになるなんてこともあります。試合前のバッティング練習の強烈な打球が、ドスッ、ドスッて音立てて芝生に突き刺さるんですけど、あの重い響きはわすれられないなあ」
 いい話だった。私はだれにともなく呟いた。
「宣伝の看板が出ていないな。塀ももとのままだ」
 かつて神宮の人気者だった徳武が、めずらしくさわやかな顔で、
「五月くらいからだってさ。フェンスに白ペンキで十社、外野最上段の看板に十社。看板と言っても、塀と金網の隙間に挿しこむだけで、大学野球のときは外すと聞いたぜ。このままでじゅうぶんスッキリしたいい球場なのにな。何度見てもいい」
「きょうは先発ですか?」
「そうなんだ。わかる?」
「はい。浮きうきしてますから」
 アトムズの別所監督たちが自軍のフリーバッティングを見守っている。背番号3。細身で小柄な黒人。左バッター。元気のないアッパースイングをしている。太田に尋く。
「あれは?」
「ジャクソン。アトムズ初の外国人選手らしいです」
 葛城が、
「入団三年目、毎年二十本は打ってる。右投げ左打ち。肩がべらぼうに強くて、足の速さもずば抜けてる。ただ引っ張り専門なんで、ピッチャーは打ち取りやすいみたいだな。俺もライナーを何回か捕った」
「なんで元気がないんでしょう」
「さあ、お疲れなんじゃないの。あっちが盛んな男らしいから」
 背番号10がパワフルな当たりを飛ばしている。
「スイングが固いですね」
 江藤が、
「七年目の生え抜き、高山たい。長打力はあるばってん、荒い。いまケージに入った左バッターは福富。シュアなバッターで、警戒せんばいけん。あとはロバーツ、丸山、武上といったところがメインやろうな」
 中が、
「ほら、背番号5、別所と並んでボーッとつっ立ってるでっかいやつ。去年四十本打ったロバーツ。あのロバーツと、ジャクソン、福富、左バッターはこの三人だ」
「別所監督と水原監督の因縁はないんですか」
 本多コーチが高い鼻をこすりながら、
「ある。水原さんは天狗が嫌いだからね。スタルヒンの三百勝に肩を並べるには登板数が足りないから三十五以上に増やせと別所が上訴したとき、水原さんは監督権限に口出しするなと激怒した。それから真っ向対立の関係になったみたいだけど、その後歩み寄って仲直りしたようだね。しこりは残ってるだろうな」
「三百勝したんですか」
「三百十勝した。結局水原さんが登板数を増やしてやったからね」
「みんな何やかや因縁があっておもしろいですね」
 江藤が、
「プロと言ったっちゃ、みんなチマチマ生きとうとばい。そんなせこいもんは、金太郎さんのホームランで吹き飛ばしちゃいなっせ。ちがう世界を見せてやらにゃいけん」
「はい」
 ネット裏を見やる。アッと思った。鈴下監督以下、背広やブレザーを着た去年のチームメイトたちが中段に陣取っている。
「ちょっとすみません、東大の連中がきてるので挨拶してきます」
 私はバックネット前に走っていって手を振った。全員が手を振り返す。克己、横平、中介、水壁、大桐、磐崎、臼山、有宮、台坂。詩織と黒屋もいた。彼らの周囲の客たちが何ごとかとざわめき、手を振りはじめた。詩織が大声で、
「沖縄のキャンプから戻ったばかりなんです! 野添くんや風馬くん、岩田くんたちは東大グランドで練習してます」
 ざわめきが笑いに変わる。鈴下監督が、
「部長や助手たちにまかせて抜け出してきた! 俺とマネージャーは、試合途中で引き揚げるが、気にするな!」
「はい!」
 克己が、
「ファンクラブは最後まで見届けるぞ!」
「ありがとうございます!」
 水原監督が小走りにやってきて彼らに手を振り、
「アトムズのフリーバッティングはあと十分だ。終わったら一人目で入って、みなさんに見せてあげなさい」
 私はうなずき、ベンチに戻って腰を下した。
「バッティング練習はオミット?」
 高木に訊かれる。
「いえ、打ちます。高木さん、五本投げてくれますか。持ち前のコントロールで。セカンドの投げ方でいいですよ。お客さんが喜びます」
 江藤が、
「おお、それ、よかな」
 アトムズのフリーバッティングが終わり、私はケージに近づいた。高木が照れくさそうにマウンドに立つ。スタンドが大爆笑になった。水原監督たちも笑っている。半田コーチが、
「モリミチ、だいじょぶ?」
 と声をかける。オッケー、と声が上がる。高木はヨイショという感じで、けっこうな速球を投げこんでくる。いいコントロールだ。ライト、センター、レフト、中段あたりへ一本ずつ打ちこみ、残りの二本を思い切り叩いてライトの場外弾防御ネットに打ち当てた。高木が帽子を脱いで最敬礼した。ベンチやスタンドからドッと歓声が上がる。ネット裏に手を振った。ほとんどの観客が振り返す。
「金太郎!」
「金太郎さん!」
 眼鏡をかけた詩織の笑顔が美しい。
 私につづいて徳武がいそいそと三塁側のバッティングケージに入った。二本つづけてスタンドにぶちこむ。もと神宮球場のスターに盛んな拍手が上がる。
 アトムズ守備練習中に、太田を誘ってバックネット裏通路の水明亭という食堂へいき、掻揚げ天ぷら蕎麦を食う。ベンチに戻ってアトムズの守備練習を眺める。
 自軍の守備練習になり、私は江藤と葛城といっしょに柔軟をやったあと、五、六球田宮コーチの打球を受けた。二塁と三塁送球だけでやめ、バックホームはしなかった。それから、背番号70のユニフォーム姿も初々しい鏑木の指導で三人一組のポール間ダッシュに加わり、自分のペースを崩さないように注意しながら息が上がるまでがんばった。最後にフェンス沿いの軽いランニングで締めくくった。
 両チームの守備練習が終わり、スターティングメンバーが発表される。先攻中日ドラゴンズ。先発オーダーはいつもとちがって交代要員の葛城と徳武が入る。一番から、中、高木、江藤、神無月、木俣、一枝、葛城、徳武、小野の打順だ。葛城と徳武は三打席目から代えられるだろう。三塁側ブルペンで浜野と小野が投げている。一塁側ブルペンではマリオネット河村保彦と酒仙石戸四六が投げている。試合前の鳴り物応援のない時間帯なので、捕球音が響く。仲間たちの淡い空色のユニフォームが、晴れ上がった空の下で鮮やかに目に映る。投球を終えたアトムズ先発河村がブルペン捕手や投手コーチらとタッチし合いながら一塁ベンチへ歩いていく。
 後攻アトムズ。一番セカンド武上、二番センター福富、三番レフト高山、四番ファーストロバーツ、五番ライトジャクソン、六番サード丸山、七番ショート西園寺、八番キャッチャー奥宮、九番ピッチャー河村。遺恨試合というので河村を当ててきたのはまちがいない。交換トレードで中日にきた徳武を先発させたのも偶然ではないだろう。


         八十六

 審判員が散っていく。球審井上忠行(百八十センチの巨漢だ)三十四歳西鉄ライオンズ出身、一塁岡田功(百七十六センチ・パリーグにも岡田というのがいるらしい)三十八歳大阪タイガース出身、二塁大谷泰司(三十七歳・めずらしい眼鏡の審判)、三塁柏木敏夫(三十八歳・喧嘩っ早いという噂)、レフト線審松橋慶季(よしき)(百七十五センチ・太鼓腹のギョロ目。目玉のマッちゃんと呼ばれている)阪急から国鉄、ライト線審中田金一(百六十七センチ・小柄なからだがポールの下にポツンと立っている)。
 ベンチにいた河村が、三年目でエース格、二十歳の浅野啓司から紙コップの水を渡され、ゆっくり飲み干すと、マウンドに上がって投球練習を始めた。マリオネット投法。たしかに操り人形のように、直立してピョコピョコ投げる。ボールは遅い。一塁スタンドから、
「河村、頼むぞ!」
 の声が飛ぶ。彼の姿を初めて見たのは伊勢湾台風の翌年の昭和三十五年だが、あれから九年も経ったのに、ついこのあいだのことのような気がする。私には、四歳のころから始めて、とんでもなく遠く感じることが一つもない。すべてすぐそこにある。
「プレイ!」
 大歓声の中、小野と木俣が三塁側ブルペンへ歩いていく。
「さあ、トシちゃん! ブッ叩いてやれ!」
 田宮コーチの声。中、三球つづけてカーブを見逃す。ワンツー。
「ナイスセン、ナイスセン!」
「ウオーイ! さ、いこ!」
 河村のあのころの背番号は16だった。マウンドで帽子をとると一瞬長髪が覗くサラリーマンふうの美男子だった。きのうのように思い出す。いまは13。小川と同じ背番号だが、どこか貫禄がない。四球目、外角へ力のないシュートが逃げていく。中独特の片手を離した流し打ち。
「オーッシャー!」
 丸山ジャンプ。届かない。柏木がフェアの仕草をする。疾風が一塁をかすめて駆け抜け、あっという間に二塁へ滑りこむ。半田コーチの、
「ビッグイニング!」
 の声が早々に上がる。高木、初球、センター前へ抜けるかというするどい当たり。武上飛びついてさばいて一塁アウト。中は三塁へ。江藤がバッターボックスに入る。
「さあ、慎ちゃん! 返り討ち!」
「外野フライでオッケー!」
 大きいのを狙っていない構えだ。私はいつものように、ネクストバッターズサークルに入らないでベンチから観察する。二球つづけて内角へシンカー。江藤は微動だにしないで見逃した。ツーナッシング。
「エグ、よう落ちるわ」
「やば」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ!」
 きょうはベンチの声がよく耳にくる。ネット裏を流し見る。横平と臼山が身を乗り出して見ている。三球目、外角の遠いスライダー。ボール。
「ウォォォシ!」
 ベンチがこんなに声を出していたことを初めて知った。コーチャーズボックスの水原監督がパンパンと手を叩く。
「さ、慎ちゃん!」
「さあ、さあ、慎ちゃん!」
 江藤がチラリとベンチの私を振り返った。打つ、という視線だ。ライトのジャクソンが長打を警戒してセンター寄りに守備位置を変え、センターの福富は左中間に寄った。四球目、外角へフォークが落ちてきた。ハッシと叩いたが、かろうじてバットの先っぽだ。しかし確実にヒットだとわかる打球だ。
「イヨォォォシ!」
 ライト線にポトリと落ちる。ジャクソンがあわてて追う。ファールグランドで掬い上げ、セカンドへ矢のようなストライクの送球。江藤、一塁でストップ。中ゆっくりと生還。まず一点。と、そのとき、ファールラインに交差するように倒れこんでいるジャクソンの姿が目に入った。とっさに松尾を思い出した。タイムがかかり、アトムズベンチからトレーナーが飛び出し、ジャクソン目がけて走っていく。
「心臓麻痺だ!」
 私は叫んだ。一枝が、
「肉離れだろう」
 ジャクソンに屈みこんだトレーナーが、両腕で×印を作り、
「タンカ、タンカ!」
 と怒鳴った。ロバーツが全力疾走でジャクソンのところへ走っていく。ひざまづき、何やらジャクソンに語りかける。だいじょうぶ、というふうにジャクソンは手をひらひらさせている。タンカがきて、ジャクソンが運び去られた。
「ジャクソン選手、急病のため、途中退場いたします。サンケイアトムズ、ジャクソンに代わりまして、ライト赤井、背番号37」
 スタンドが異様な雰囲気に静まり返った。私は横にいた徳武に、
「バッティング練習のときから具合悪そうでしたからね」
「〈やり〉すぎだな。あいつの女好きは有名なんだ。試合に出てこないから、マネージャーが見にいったら、女とやってたっていうんだからさ」
 ことのしだいが緊急性を帯びているので、だれも笑わない。球審の井上がドラゴンズベンチに向かって、
「バッターラップ!」
 と促した。ネクストバッターズサークルにいなかった私は、異様なできごとに心を奪われて、自分の打順がきていることを忘れていた。ハッと目覚めたようにバッターボックスへ飛んでいった。場内が和やかな笑いに包まれる。ボールボーイがヘルメットを持って追ってきた。断った。また笑いが沸いた。キャッチャーの奥宮が、
「新人くん、自分の打順を忘れちゃだめだよ。次の人が打ってしまってたら、その人にアウトが宣告されるところだったよ」
「はい、すみません。ボーッとしてました」
 井上球審にも頭を下げる。またスタンドに笑いが沸く。
 河村がセットポジションに入る。変化球に備えて、半歩前に出た。初球、胸もとへ滑ってくる高目のスライダー。ユニフォームすれすれ見逃し、ボール。
「ヨシ、ヨーシ!」
 緊張感が戻ってきた。二球目、江藤のシンカーより遅い直球が、外し球で外角の高目にきた。自信を持って叩きつける。
「イヨォォォー!」
 サードの丸山がジャンプの格好をする。江藤が猛烈な勢いで走り出す。一塁コーチの長谷川コーチが、喉を張る。
「ゴー、ゴー!」
 私も江藤の背中を追うように全力で走る。瞬間、長谷川コーチが、
「おおお、ロケット!」
 と叫んだ。レフトが動いていない。江藤の足がゆるむ。打球がグイッ、グイッ、と加速しながら昇っていき、レフトポールぎわの中段に突き刺さった。観客が割れ、太鼓腹の松橋がぐるぐる右手を回す。轟音のような歓声が上がった。菱川がベンチの外で跳び上がっている。ベンチ全員がバンザイをする。江藤が頭上で拍手しながら三塁へ向かう。わがことのようにうれしそうに水原監督とタッチした。私もスピードを乗せて彼を追い、三塁ベースを蹴りながら水原監督と片手でハイタッチ。
「ナイス、ホームラン! 遅いボールを克服したね!」
「ありがとうございます!」
 ホームベースに出迎えの仲間たちが群がる。菱川が、
「ロケット、ロケット、ギューン!」
 と叫ぶ。井上球審と奥宮がホームインを確認。揉みくちゃにされる。バックネットを見ると、克己たちが総立ちで拍手している。ピースサインをおくる。誤解した観客たちから大きな歓声が返ってきた。田宮コーチが、
「中西の加速以上だったぜ。いままで金太郎さんの低い弾道のロケットホームランを見たことがなかったから、たまげた」
 半田コーチがおどけたふうに腰を折ってお辞儀し、
「はい、バヤリース。公式戦に入ったら、ほかのジュースに変えましょか」 
「バヤリースでいいです。ただ、一試合にホームランを二本以上打ったときは、最初の一本でオッケーです。腹がガボガボになりますから」
「たまにしかホームラン打てないやつには耳の毒だな」
 一枝が笑う。高木が、
「金太郎さん、なんだか不満そうだね」
「なんでか! 会心の当たりたい。どこが不満か」
 江藤が腕を首に巻いてくる。
「びっくりしてしまって」
 スタンドに突き刺さるホームランは見映えはいいが、距離にもの足りなさが残る。太田を振り返って、
「ドスッて芝生にぶつかったかな」
「ブスッて突き刺さりましたよ!」
 菱川が、
「何の話ですか!」
 木俣がものすごい空振りをして尻餅をついた。スタンドが沸いた。江藤のお株を奪って得意気だ。島谷が、
「あんなホームラン、一生に一本でもいいから打ってみたいよ」
 菱川が、
「俺はロケットも、場外も打ちたい」
 私の気持ちがわかっている。私はバヤリースの残りを菱川に差し出し、呟くように、
「打席に立つといつも場外ホームランをイメージしてしまいます。スタンドに突き刺さるホームランは、真芯に当たった産物ですね。真芯に当たると、打球の勢いがあって見た目に格好はいいですが、結局、途中からドライブしてお辞儀します。森徹のホームランもたいていそうでした。豪快ですが、物足りません」
「場外まで飛ばすにはどうすればいいんですか」
「真芯から数ミリ下を叩けば、ボールは低い位置から加速して高く舞い上がり、場外へ飛び出すこともあります。なかなかそういうホームランは打てない。中西さんも平和台の一本きりだと思います。ぼくは何本か打ってます。それが誇りです。きょうのような真芯を食いすぎたホームランはちょっと残念です。浮き上がりも思ったほどじゃない。やっぱり芯を適度に食うようにきちんと掬い上げ、高く舞い上がって場外へ消えていくホームランがいちばん美しい」
 菱川がバヤリースを飲み干し、
「神無月さんがそういうこと言っても、自慢に聞こえないから恐ろしいや」
 スタンドから喚声が上がった。木俣の打球がレフトスタンド目指して舞い上がるところだった。尻餅のあとの一発。
「ヨッシャー!」
「ナイスまさかり!」  
 河村から、石戸、松岡、藤原と引きずり出し、十七対三で勝った。小野の完投勝利だった。被安打六。得点されたのは、ロバーツのソロとツーランだけだった。ドラゴンズは十本のホームランを打った。私が二本、江藤が一本(オープン戦二度目のアベックホームラン)、なんと木俣が三打席連続ソロホームラン、葛城と、彼の代打の太田と、徳武の代打の菱川が一本ずつ打った。中は三塁打一本を含む五打数五安打、江藤五打数四安打、私は犠牲フライ二本、フォアボール一つを含む二打数二安打だった。むろん全員安打だった。小野まで一塁線の二塁打を放ち、九回に一枝の代打で出た島谷はレフト前のヒットを打った。出塁と安打と得点がどう絡んでいるのかサッパリわからない試合だった。とにかく十七点の中の十一点をホームランで叩き出した。
 ベンチ前のインタビューは木俣が立ち、明るくしゃべった。
「小野さんのボールが走ってたから、何の心配もなくバッティングに専念できました。今年は野球をやるのが楽しくてしょうがない。チームのみんなもそうですよ。金太郎さんのホームランが見られるからね。お客さんと同じ気持ちになってる。俺の三本なんか並のホームランだけど、金太郎さんの二本目見た? スコアボード直撃だよ。何万円払ったって損のない見ものだ。金太郎さんが一日一本も打てない日があったら、お祝いしてやりたいくらいだよ。とにかくみんな釣られてがんばってる。ペナントレースがおっかないな。オープン戦を参考にしてしっかり研究されるわけだからね。パタッと打てなくなるってことも考えられる。そんなときも、金太郎さんだけは打つんだろうなあ」
 ベンチから首を突き出してネット裏を見た。東大ファンクラブの連中が大満足した笑いをたがいに放射し合いながら帰っていくところだった。私は手を振ろうとしたが、幸福そうな彼らの背中を見送るだけにとどめた。


         八十七
 
 三月二十七日木曜日。六時起床。曇。十四・四度。朝のテレビでジャクソンの訃報を流していた。運ばれた先の病院で、意識不明のまま息を引き取ったという。享年三十四歳。病名は癌による膵臓壊死。好色の報いではなかった。
 ふつうの排便をし、歯を磨き、中と交代でシャワーを浴び、下着を替える。汚れた下着とユニフォームとアンダーシャツを段ボール箱に詰める。
「プロになって十試合以上戦ったね。どんな気持ち?」
「少しでも失敗すれば批判される立場になったと思います」
「―練習しかないね」
「はい。ぼくは完璧主義なので、自分のレベルを落とすことはぜったい許せません」
「他人から期待されることは喜びではなく苦しみだからね。人びとは突発事としての天才の話をするけれども、私はそんな天才など信じてない。天賦の才能があったうえで努力しつづける人を信じてる。才能に関わることを仕事にした以上、それが何より大切だ。そういう天才には、自分は何も知らないという謙虚さがある」
「閃きは突発的に天から降りてきません。地べたで懸命に励んでこそ、それはからだの奥から生まれます。バッターボックスに閃きが集約されます。その閃きに衝き動かされてバットを振ります」
 一階の芙蓉の間に一同会して和食の朝めしを食った。ジャクソンの荒淫を主張していた徳武が、
「ありゃ、一生記憶に残るな。癌の最末期までグランドを走り回るなんてなあ。俺もあんなふうに死にたいよ。ああ、野球選手は最高だな。……十七点はいい弔いになっただろう」
 私は野球の魔力を感じて、自然と涙が流れた。きょう中継ぎを予定されている浜野の声が、離れたテーブルから聞こえてきた。ジャクソンの話題ではなかった。
「契約金四千万以上の場合、税金は××パーセント、四千万以下の場合は××パーセントだ。国に分捕られてる感じだな。今年、長嶋の年俸は七千三百万になったそうだから、税金は×千×百×十万。××千万しか残らないぜ」
 同じテーブルにいるのは板東と田中勉と水谷則博だ。三人とも興味のない顔をしている。とりわけ板東は呆れたふうに眉をしかめていた。田中はきょうの先発だ。選手生命を懸けると、きのうの帰りのバスで言っていた。太田は菱川や徳武や葛城と同席して明るく笑っている。こっちに手を振ったりする。私は江藤と高木と一枝のいるテーブルについた。江島と千原は小川や小野と同じテーブルにいた。水原監督やコーチたちは、大ステンドグラスに明るんだ象牙色のテーブルに会していた。江藤が、
「下衆な話をしとるな。育ちの悪か」
 一枝が、
「同じ倉敷でも、菱とは大ちがいだな」
 高木が、
「修ちゃん、育ち関係ないよ。性格だよ」
「たしかにな。生まれつきってのは、どうしようもないな。しかしあの税率は一般の給与の場合で、プロ野球選手の年俸は二十九パーセントなんだぞ。それもまちがってる」
「二軍はいまどこにいるんですか」
 一枝に尋くと、
「なんだい、やぶからぼうに」
「ああいう話をゲスだと思わないだろうと思うと、さびしい気がして」
「ふうん。名古屋東区の大幸球場だ。今年、西区堀越の昇竜館に隣接して室内練習場が改装されたから、そっちにいるかもしれん。四十メートルかける四十メートルの、純正の内野グランド。大したもんじゃないけど、いままでよりはマシだ」
「マウンドとホームベースがあるってことですか」
「そういう形じゃないんだ。そっくり内野グランドを切り取ってきたみたいなものだけど、ネットで仕切ってピッチング練習場は五人用、バッティング練習場は二人用」
「窮屈そうですね」
 中といっしょに隣のテーブルにいた島谷が、
「それでも、水原さんがスポンサーたちに思い切って金を出させて改装したようですね。昇竜館も多少生まれ変わるって話です」
 江藤が、
「二カ月ほど寮のそばのバラックに引越しせんといけん。食堂はサロンみたいになって、部屋が広うなるゆうとったな」
 中が、
「いままでよりも床面積を広くして、部屋数を少なくするそうだ。風呂場はかなり広くなる。一部屋の大きさは十二球団最大と聞いた」
「部屋数が少なくなるということは、二軍選手の大量首切りですか」
「そういうことだね。金太郎さんが会ったこともないようなやつらがいなくなる」
「その人たちは昇竜館の改築が終わったあと、移転したバラックから出ていくんですか」
「シーズンオフのクビ決定までは、新築の宿舎にいられる」
「悲しいですね」
「プロの世界だからしょうがないよ」
「井手さんは?」
 江藤が、
「生き延びよった。将来のフロントやけんな。あと二年ほど、守備やら代打やらで出さしてもろうて、コトブキ引退やろうもん」
「東大をしっかり出ておいてよかったですね」
「大洋の新治みたいに多少は活躍してもらわんと、ドラゴンズは詐欺に遭うたみたいなもんたい」
「新治さんはまだプロ野球にいるんですか」
「去年退団した。プロ入りば勧めた三原さんが近鉄に移ったけんな」
 十時の出発に合わせて、食堂からいっせいに各自の部屋へ引き揚げる。新しいユニフォームを着る。中も同じようにする。私は帽子も替える。
「帽子まで替えるのはめずらしいね」
「頭に異常に汗をかくので。そして、くさい」
「神さまにも弱点はあるか」
「はい」
「しかし、頭はだれだって汗をかくし、くさいよ」
「人並外れてるんです」
 どれ、と言って中は私の頭を引き寄せて嗅いだ。
「うーん、洗ったばかりだからわからないが、深いところから香水みたいなにおいがするぞ。考えすぎじゃないか」
「女たちもそう言いますが、自分の頭がいいにおいだとすると、ぼくは芳香を悪臭と感じるタチなのかもしれません。ただ、人の足のにおいだけは苦手です」
 中は、フハハハと笑い、
「金太郎さんの足だってにおうだろ」
「ぼくは足と手に汗をかかないんです。特異体質なんでしょうが、掌が湿っていないのは不便です」
 中は笑いを収め、
「それでいつも手に息を吹きこんでたのか」
「はい。年中やらないといけません。王さんみたいに唾を吹きこむのはいやなんです。神聖なバットが汚れる感じがして。どうしても滑るときは土をつけます」
「そんな状態でバットがすっぽ抜けたことがないのは、よほど握力が強いんだね」
「そのようです。左が弱いのは、肘の手術のせいだと思いますが、大学時代からかなり鍛錬してきたので、右も左も少し増えてると思います。右が七十五、左が六十ぐらいじゃないでしょうか」
「……金太郎さん、それ、ふつうじゃないよ。ふつうプロ野球選手の握力は四十台から五十台、長嶋さんは知らないけど、王さんが三十八しかないのは有名だ。ぼくは四十四、菱川が五十八、江藤は五十二だ。七十といったら相撲取り並だよ。バットが抜けないのはあたりまえだ」
「長年のあいだに鍛えられてたんですね」
「いや、持って生まれたものだろう」
「そうですか。才能なんてものは死とともに消えてしまいますけど、せいぜい生きてるあいだに利用しておきます」
 中は神妙な顔になり、
「……金太郎さん、私の考えすぎなら勘弁してね。きみは自分という存在を取るに足らないものとして、いや、たとえそう思ってないにしても、この世から早々と消そうと願っているように思えて仕方がないんだ。たしかに才能なぞ死とともに消えてしまうものかもしれないけど、それが他人や世界に残すものは甚大なんだよ。きみはそういう人だ。どうか長生きしてほしい。人びとが受け取るものがますます増えるようにね」
「わかりました。ありがとうございます」
「やあ、とんでもなく頭が低い。私は謙虚という言葉は辞書にあるだけで、この世に存在しない感情だと思ってた。きみは病気と言えるほど謙虚だ。きみといるといつも自分に反省を強いられる。自分は人間的に下卑てるとね。……手柄を上げると、つい、どうだという気になる。私はプロだぞ、なんてこともしょっちゅう考える。威張りたくなる。人間の生甲斐というのは、手柄を褒められることだからね」
「そんなに深く考えて反省なんかしないでください。ぼくのように、威張るべきときに威張れない人間は、そんなふうに人を悩ませてしまうんですね。……ぼくは、威張ったら人の気分を害するかもしれないと常に戦々恐々としてるような臆病な人間なんですよ。そういう人間がたまたま才能を賜った。だからといって、臆病な気質を変えるわけにはいきません。ぼくのような人間は……一般社会では暮らしていけない。らしさを大事にして生きられないんです。でも、才能を賜ったことを褒められたいとは思いませんけど、そのことに対する幸福感はあるんですよ。それを長く楽しみたいという気持ちもね。だから、早々とこの世からおさらばしようなんて考えてません。どうか安心してください」
「慎ちゃんは金太郎さんについていくと言った。……ぼくもそうする」
 人が到達できないような高い峰にいる人間として、彼らが私のことを話している。私は彼らの鑑識眼を信用していない。彼らにかぎらず、大勢の人びとが私を法外に誉めたたえる。もの心ついてからの私を追跡してきた人物なら、私をそんなふうに高く評価しないだろう。馬鹿というひとことですますにちがいない。私には、生来の馬鹿に似合わない一つの重大な、そして無益な長所がある。思索癖。それが私を深みのある人間に見せる。思索に費やされる言葉は知性の証と見えるので、想像を刺激したり、感情を高めたりする穏やかな魅力になる。
 神無月大吉は世間並の父親という意味では悪人だろう。佐藤すみもむろん悪い母親だろう。二人の〈悪人〉を親とする子供が、受け継いだ悪を乗り越えることができたとするなら、それはたぶん、彼らとちがって私の頭が生まれながらに単純にできていたせいにちがいない。私を褒め讃える人びとは単純さに目をつける。そして安心して分析を進める。でも、やがて退屈する。言葉の飾りのなさや、語る態度の気取りのなさなどにしみじみ感心しながらも、語られている内容の底の浅さに興味が薄れ、退屈してしまう。頭が単純な人間には、本来誉めたたえるほどの特質はないからだ。そこで彼らは私の〈ほんとうの〉魅力を見つけようとして、想像力を働かせることになる。誉め讃えるためには、彼らを凌駕している何ものかを私の中に見出さなければならない。人間性―知性と徳性の入り混じった結晶物。それをあえて想像力で造形した彼らは、それを価値に仕立て上げ、私を愛する根拠にし、たった一つの確信にする。想像力はすぐに限界がやってくる。そんな結晶物が馬鹿にあるはずがないからだ。
         †
 赤坂見附から川崎球場に向けてバスが走る。二十分ほどで高速にのる。田宮コーチがバスの前部に立ち、
「きょうのメンバーを発表する。一番中、二番島谷ショート、三番江藤、四番神無月、五番木俣、六番太田サード、七番高木、八番菱川ライト、先発板東。大洋の先発は、オープン戦でグングンのしてきた平松だろう。シュートがえらく切れる。打線は大したことないので、三点取ればまず勝てる。板ちゃんが一点でも取られたら浜野に交代する。健太郎は名古屋の阪急戦に残しとくから、浜野が打たれたら水谷則博がいく。何点取られても、今回の遠征はその三人で打ち止め。一枝、千原、江島、葛城、徳武、新宅は守備と代打に備えるように。試合後はニューオータニで宿泊になるが、予定のある選手は夕食前あるいは夕食後にチェックアウトしてもよろしい。荷物の郵送等をしっかりフロントに伝えること。以上」
 四十分ばかり走って、大師というインターで降りる。隣に坐っている葛城に、
「よくスコアラーというのを聞きますけど、ネット裏にいることは教えてもらいましたが、何をしている人ですか」
「お、金太郎さんの質問が始まったな。訊いてもらって光栄です。仰せのとおりスコアラーはネット裏の別室にいる。まあ、一年を通して俺たちと会うことはないな。たまにベンチに顔を出すこともあるけどね。彼らは単純にスコアをつける係とはちがうんだよ。スコアラーには、チームつきというのと、先乗り部隊というのがいて、合わせて各球団に五人から八人働いている。チームつきは、いま行なわれているカードの相手チームのデータ収集、フリーバッティングのピッチャーなどをする。うちはやらないけどね。ほかのチームのフリーバッティングで、アンダーシャツ姿の男が投げてたこともあったろ?」
「はい」
「先乗り部隊は、別球場で一週間くらい前から次のカードの選手分析。ネット裏でノートに逐一記録する。これをコピーして監督たちのミーティング用に郵送したり電話したりする。選手の性格や交友関係まで調べることもある。芸能レポーターみたいにね。野村はそういうのを利用するんだよ」
 六郷土手から多摩川を渡る。チラッと市電の姿が見えた。揺れて去っていく一両電車のパンタグラフを眺める。太田コーチが、
「今月で川崎の市電は廃止だそうだ」
 この街からも路面電車が姿を消すのか。
 軒の低いごみごみした街をさらに十五分、古びた球場に到着。バスを球場前の大きな駐車場に停め、全員降りる。球場を見上げる。見上げているのは、私と太田と島谷と水谷則博だけだ。川崎球場とシンプルに書かれたクリーム色の外壁が立ちはだかる。鉄筋コンクリートの正面玄関が古色を帯びている。入場券売場は遊園地のような粗末なモルタル造りで、中央口を中心にズラッと並んでいる。切符売場と書いてあるのが微笑ましい。水原監督が、
「昭和二十六年に建てられたスタジアムです。長年の雨風に曝されてかなり老朽化してる。外野の芝は剥がれ、地面はでこぼこ波打ち、まるで草野球場のグランド状態だ。苦労するよ」
 田宮コーチが、
「川崎は大気汚染がひどい工業都市なので、まず定住者が少ないし、娯楽になど親しんでいる余裕もない。ここの観客の少なさは深刻だ。笑いごとじゃないんだ。入場者三名ということもあったらしいが、きょうはすし詰めの満員だな」
 宇野ヘッドコーチが、
「わざわざ市外から出かけてきてくれるお客さんが多くなる。ありがたいね」
 中が、
「日本鋼管やいすゞ自動車、味の素、東芝、コロムビアなんかの大企業がひしめいて、社会人野球熱の高い街なんだね。プロ野球よりアマチュア野球の聖地と見なされてる。観客が少ないのはそのせいもあると思う」
 水原監督が、
「年に何回か強風が吹いて、砂嵐にやられる。そういうときはベンチで後ろ向きになるといいぞ。守備のときはしょうがないな。何とか目をやられないように逃げなさい」
 小川が、
「きょうは、ちょっと強い程度の風だな。砂は巻かない。川崎競輪のジャンも聞こえてこないよ。土曜日からだから」
 小川らしいことを言っている。


         八十八

 券売窓口の壁に試合開始時間が手書きで書いてある。すべてが好みのたたずまいだ。水原監督が、
「最初に川崎球場をフランチャイズにしたのは、さて、金太郎さん、どこだったっけ?」
「高橋ユニオンズ」
「正解。当時の後楽園の照明が八百ルックスだったのに、この川崎は千百ルックス。明るい球場だったんだ。昭和三十年から大洋の本拠地になった。狭いからファールがよくこの駐車場に飛んでくる。選手が自家用車をやられて泣いたって話を何度か聞いた。球場名物は肉うどんだ。試合前にさっそく食べておいたほうがいいよ」
 肉うどんよりもきつねうどんが食いたくなった。選手通用口をみんなで入る。壁に剥き出しの配管が走る薄暗い歩廊に、二台の自動販売機が並んでいる。半田コーチが、
「バヤリース売ってないね。やっぱり貴重品よ」
 右手にある中央特別席入口の上部に、各球団のネームが点される設備がある。蛍光灯が一つ、DRAGONSと点っていた。
「この球場はね、水はけ悪いから、雨降ったらソク中止よ」
 森下コーチが、
「雨がようけ降ると、記者席は浸水やで。翌日も試合中止や」
 二人用の鰻の寝床のような投球練習場の隣に、二人用シャワー室がある。監督やコーチたちは特別控室へいった。選手たちはロッカールームに入る。ルーム全体が湿っぽい。バットやグローブを長期間置いておけば、まちがいなく黴にやられる。壁に扇風機が二つ取り付けてある。真夏は役に立たないだろう。大きなバッティングミラーがある。いつも思うのだが、ミラーは姿が逆に映るので練習の効果はない。不要物。ランニングコーチの鏑木がトレーナーの池藤の顔を見つめて、
「トレーナー室がありませんね」
 と不安な顔をする。
「あるよ。ロッカールームの奥にね。壁が剥げてて、天井のアスベストが落ちてきそうだぜ。いかないほうが無難だ。ロッカー室に長椅子があるから、注文があったらそれに寝かせて揉んでやればいいよ」
 腕がいいと評判の高い一軍帯同理学療法士がいいかげんなことを言う。この球場に愛想を尽かしているようだ。よく彼の世話になっている高木にソッと訊く。
「トレーナーって、どういう仕事をしてるんですか」
「ほとんど按摩、マッサージをやってる。コンディショニングって言うんだけどね。常連は俺や中さんや徳さん、葛城さん、たまに江藤さん、けっこういる。基本的には、選手がケガをしたときの応急処置、テーピング、ピッチャーのアイシング、専門医の診察手配と同行。一軍帯同トレーナーは四人、二軍帯同は五人。適宜一人二人が本拠地で残留トレーナーをやる。ケガをした選手の治療や調整をするわけ。ケガの半数はピッチャーの肘と肩の故障だ。次に多いのが、太ももやふくら脛の故障、次が、投球とバットスイングが原因の腹部筋肉損傷と肋(ろく)軟骨骨折。選手のそういう故障がなければ、じつに暇な仕事だよ」
 短い階段を上ってダッグアウトに入る。狭い! 十人掛け二列のベンチ。余った人員は壁に貼りつかなければならない。ベンチを出ると、スタンドがすぐに目の前に広がる。ファールゾーンが狭いからだ。土も芝もザラザラしている。一見してスタンドが左右対称でないとわかる。レフトスタンドは正常な造りだが、ライトスタンドは異様に狭く、右下方に切れこんでいる。スタンドが見やすいということは、グランドの私とスタンドのファンが間近に見つめ合っているということだ。ファン―私にただ一つ誇れるものがあるとすれば、幼いころから愛してきた野球にこうして貢献できていることだ。そして野球を通して自分の足跡を残せていることだ。
 大洋のレギュラー陣がバッティング練習をしている。監督やコーチ陣がケージの後ろにたむろしている。
「ケージにくっついている人たち、みんな見覚えがあります」
 中に言うと、
「大スターだった人たちだ。別当薫、秋山登、土井淳、鈴木隆。別当さんは、むかしのオリオンズで四番を打った人。昭和二十五年に四十三本のホームランを打ってる。たった百二十試合でね。二十九年に四番を山内に引き渡した。秋山は昭和三十年代の大洋の大エースだ。二百勝目前で去年引退した。鈴木も土井も今年引退してコーチになった。鈴木は王に滅法強かったし、土井は秋山とともに大洋を支えつづけた名捕手だ」
 白球が低く、高く大気を切る。白地のユニフォームの袖に黒の一本線と赤い
マルハのマーク。胸に Whales のロゴ。黒いアンダーシャツ、黒い帽子の額に赤いW。グランドにきちんと出て見つめる。充実した孤独な時間だ。この一瞬だけは、だれも私に近づいてこない。きっと過剰に緊張したものを感じるからだろう。松原と江尻という選手がいい当たりを飛ばしている。ただ二人とも筋肉が硬そうだ。
 収容能力三万人。満員の発表だが、見た目は二万人強だ。スタンドのほうぼうで煙草の白煙が上がっている。両翼八十九メートル。中堅百十八メートル。見たかぎりではもう少し短い。フェンスは上部が金網で、六、七メートルくらいか。フライのホームランが入りやすい。全体が野球盤のように狭いという印象だ。内野は土、外野は天然芝。照明灯は内野に四基、外野に二基。外野の一基はレフト場外にそびえ、もう一基は右中間スタンドに刺さる格好で突き立っている。そのあたりの席に坐った客は、鉄塔の桟を透かしてグランドを見ることになる。照明塔から右のライトスタンドは、レフトスタンドの半分もなく、背後をコンクリートの壁と高い金網で護られている。あの金網を越えても百三十メートルもない飛距離だろう。防護金網の向こうには、さっき駐車場から眺めた古びた団地が何棟か、球場の塀と細道一本隔てて固まっている。ライトスタンドが切り詰められているのはそのせいだ。
 スコアボードはセンターの真ん中にあって、黒い薄板でできている感じだ。イニングスコア、チームメンバー、カウント表示、アンパイア名、他球場途中経過表示、すべて白文字のパネル式だ。ネオンはカウント表示のみ。上下左右に看板、上部の看板の真ん中に時計、てっぺんに旗が五本。スコアボード前の黒いバックスクリーンは美しい小さな長方形をしている。レフトスタンドから左回りに巡る内野の全スタンドは、ライトポールまで同じ幅でフィールドを取り巻いている。昼開催のきょうの試合は明るい六基のカクテル光線に照らされることはない。
 冷えたので、通路の選手用便所にいく。男女共用の汲み取り式。においがすごい。大便所の鍵がほとんど壊れている。小便をしてベンチに戻る。
 湿った風が吹いている。浜風と言うらしい。海が近いのだ。ネット裏を見ると、満員の客席からTBSテレビのカメラがグランドを睥睨している。長谷川コーチが、
「廊下もダグアウトも便所も汚いだろう?」 
「はい、でも気になりません」
「野次がきつい、狭いから失投は許されない、浜風でホームランが出やすい。しかし悪い点ばかりじゃない、いい点もある。スタンドからブルペンが近いので、キャッチャーのミットの音が迫力をもって聞こえる、万事休すと思ったファールフライが浜風でスタンドに入る、ファールグランドが極端に狭いからね。フィールドは狭いけど、だからこそ一球も気を抜かずに野球ができるというのが最大の長所だね。きょうはまちがいなく乱打戦になるぞ。いまのうちに腹ごしらえしとけ」
 江藤に連れられて三塁側通路を通って給湯室の入口へいく。
「ここでも肉うどんば注文できる」
 入口の鉄扉を開けると、十帖ぐらいの休憩空間に学校の用務員室で見かけるような流しがあった。そのそばの小卓のスツールで中年の女が煙草を吸っていた。肥り肉の明るい感じの女だった。
「こんちは! オバチャン」
「あら江藤さん、おひさしぶり。今年も始まったわね」
「おお、始まった。よか男ば連れてきたばい」
 私は女に辞儀をした。女も煙草を消して深い辞儀を返した。
「神無月選手ですね。きれいな人。恥ずかしくてお顔を見られませんよ」
「ほうね、柴田のオバチャンらしくなかよ」
 奥の扉が開いている向こうに鉄塔の脚がでんと立っていた。その下の空地に椅子付きのテーブルが三つ置いてあり、その一つに江藤と二人で腰を下ろした。
「ラーメン、お願いします」
「ぼくはきつねうどん」
「はい」
 女が空地から見える別の通路に声をかけた。その通路にも休憩室があるらしく、若い返事が返ってきた。緑のミニスカートのワンピースを着た二人の二十代の女が通路から顔を覗かせ、
「キャッ、神無月選手!」
 江藤がニヤケ面で、
「きつねうどんと、ラーメン」
 注文したとたんに、廊下の扉から高木と一枝も入ってきて、
「肉うどん二つ!」
 彼らを追うように中と菱川も入ってきた。たちまち鉄塔下の三つの卓が六人の選手で埋まった。
「肉うどん二つ」
 やがて緑のミニスカートの一人がうどんとラーメンを運んできた。つづいてもう一人のミニスカートが肉うどんを二つ持ってきた。最初の一人が引き返してまたうどんを二つ持ってくる。私は、 
「あなたがた、だれ?」
 二人の女がもじもじしている。江藤たちがいっせいに笑った。
「三塁側の川崎ガールズたい。ネット裏二人、一塁側三人、三塁側二人、合計七人」
「チケットのもぎりから、雑用まで何でもやります」
「これ、あなたたちが作ったの」
「まさか、ラーメンは球場のすぐ外の金子商店さんから、うどんは球場内の売店からとりました」
「一塁側にもこういう休憩所はあるんですか」
「ありません。ホームチームはほとんど選手食堂にいきます。もちろん出前も届けますけど、届け先はロッカールームになります」
 かわいらしい。ただ制服が緑色の田舎ふうなので、せっかくのツヤを削いでいる。オバチャンが湯を沸かしていれた茶を出し、
「どうぞ、粗茶ですが」
 川崎ガールズたちが、
「わ、おばちゃんらしくない!」
 高木が笑う。一枝が、
「さすがの柴田のオバチャンもコロリか」
 高木がめずらしくケラケラ笑った。江藤が、
「オバチャン、これからも金太郎さんをよろしくね」
「まかしといて。神無月さんが今度ここにくるときは、お弁当でも作っておこうかね」
「遠慮します。試合前はうどんでじゅうぶんです」
 シュンとする。江藤たちがいっせいに笑った。きつねうどんをすする。うまい。アゲのほかに細く刻んだキュウリが載っているのがめずらしい。江藤や高木たちも、ラーメンや肉うどんをうまそうにすすっている。一枝が、
「柴田のオバチャンは、昭和二十九年からここに勤めてる古株なんだ。川崎球場のことなら何でも知ってるよ」
「古ダヌキだからね。この球場はオンボロだけど、胸を張れることが一つだけあるよ。立ち上げと同時にナイター設備が完備してたってこと。後楽園より三百ルックスも明るかったんだから、びっくりでしょ。ただねえ、ここを本拠地にした高橋ユニオンズもそうだったけど、いまの大洋ホエールズも弱すぎて、お客さんがこないってことが頭の痛いところなのよ」
 一枝が、
「奇跡の昭和三十五年まではね」
「そう、三原さんのおかげで、あの年だけは夏からほとんど毎日満員御礼だったわね。おまけに日本一になっちゃうんだもの。そのあとすぐ、また閑古鳥。でも、神無月さんのおかげで、九年ぶりの超満員」
 江藤が、
「今年は何ゲームぐらい川崎で中日戦があるやろうのう」
「他県の遠征がないから十三試合」
 おばちゃんが即答する。
「神無月対策で、チーム力もアップするけん、大洋がAクラスにでも留まれば、もっと客はくるやろう。おばちゃんたちの給料も上がるやろうもん。さ、いくか」
 全員立ち上がり、
「ごちそうさま」
 川崎ガールズに求められた握手に軽く応えてグランドに出る。高木が、
「金太郎さん、ガールズに素っ気ないね」
「チャラチャラした女は好みません」
「オバチャンはいい人だよ」
「ヌシですね。いい感じです。くつろげそうです」
 十二時。アウェイチームのフリーバッティング開始。私と江藤がケージに入る。
「江藤さん、レフトの場外は無理ですか」
「まだ一本も打ったことがなか。無理に狙わん。きょうはふつうのホームランを一本いこうて思っとる。平松のシュートにやられんうちにな」
「ぼくはライトの距離なら、二本は狙えます」
「シュートは手ば出さんとけ。オープン戦で長嶋をキリキリ舞いさせたらしか」
「わかりました。ただ、感触を覚えておくためにサードかショートへゴロを打っておこうと思います」
「なるほど、凡打を一本打って、バットの手応えを記憶するちゅうことね」
「はい」
「チャンスでなかときに、ワシもやってみるわ」
「ぐずぐずしてないで、サッサと構えろ!」
 ピッチャーを買って出た小川が私に叫ぶ。もう一人の伊藤久敏は江藤を辛抱強く待っている。小川は私の場外ホームランが見たいので、内角低目の速球を五球つづけて投げてきた。一球目を防御網に当て、四本を場外へ叩き出した。江藤は左腕の伊藤に真ん中高目だけを要求してセンター返しを心がけ、二本バックスクリーンへ、二本左中間スタンドへ、一本を左翼上段へ叩きこんだ。観客は花火のように打ち上がる派手な十本のホームランを見て沸きに沸いた。振り返ると、ケージの後ろに松原と江尻がいて、目を丸くしていた。
 守備練習の合間を縫って、鏑木の指示できついダッシュを何本かする。腕立てを入念にやる。ベンチに戻っていくとき、スタンドが近いので観客の声がよく届く。
「いい男だけど、愛想悪そうね」
 フェンスぎわの二人連れの女がこちらを見ている。私は笑いながら手を振った。女たちもびっくりして手を振り返した。


         八十九

 平松のストレートは速かった。百五十キロは出ていた。それ以上にシュートがよく切れた。ただ、シュートを投げるときは右腕が遅れて出てくるので、容易に見抜くことができた。四打席対戦し、あえてそのシュートに手を出すようにし、ショートゴロと三遊間の痛烈なヒットを打った。あとの二打席はホームランを打った。一本は内角のカーブを掬い上げて照明灯の桟に当て、もう一本は真ん中低目のストレートを掬い上げて、スコアボードに打ち当てた。ホームランを打たれても、平松は穏やかな表情を変えなかった。私に二本目のホームランを打たれたとき、彼は腰に両手を当て、ほとほと感心したように首を振りながら、しばらくスコアボードを見ていた。二十一歳。首の振り方が挑戦的な態度に受け取れた。自信にあふれていた。今度対戦するときは、何がなんでもシュートを左中間スタンドへ打ち返そうと決めた。
 それにしてもピッチャーの投球が見づらい球場だった。黒い長方形のバックスクリーンがあまりにも低いのだ。打席から見ると、その黒い部分からピッチャーの手がはみ出してしまう。しかも、スコアボード前のスタンドが白っぽい階段で作られているせいで、そこを通過するボールがますます見えにくかった。昼間なので特殊眼鏡も効果がない。でも幼いころから悪い目で勘を働かせながらボールを見てきたおかげで、平松の手から離れるボールの高さとスピードを目測して最終到達地点を捕まえることができた。
 平松は八回ノーアウトまで投げた。失点は四。私の二本と、江藤、木俣のソロのみで、あとはみごとに抑えこんだ。中も高木も、代打陣も打てなかった。八回表先頭打者の私が三遊間を抜いたあと、別当監督は平松を大柄な高橋重行に代えた。代える必要がないのにと思ったが、高橋は大きなカーブを多投して後続六人を三振と凡打に打ち取った。
 スピードは平松に遠く及ばなかったが、ストレートのコースどりが冴え、カーブが切れていた板東は、七回まで投げ抜いて失点ゼロに抑えた。田中勉に継(つな)いで晴ればれとした顔でシャワー室へ引き揚げていった。田中勉は、九回裏ツーアウトからライト線を抜いた近藤和彦を二塁に置いて、長田のライト前ヒットで一点取られた。最後のバッター松原は三振に仕留めた。大洋ホエールズには印象に残るような目ぼしいバッターは一人もいなかった。勝ち試合は見えていたが、四対一というスコアは辛勝の感じがした。
 インタビューは水原監督が受け、平松をべた褒めして、ホームランでしか得点できないようでは、ドラゴンズのペナントレースは多難であると真剣に語った。
「いよいよ三十一日の近鉄戦は巌流島の対決ですね」
「いかなる対決であろうと、全力で戦います。その前に阪急と善戦してからです」
 帰りのバスで水原監督が言った。
「板東くん、ご苦労さん。開幕ピッチャーの可能性が出てきました」
「へーい!」
「田中くんも完璧だった。しかし、四対一というのは、ヒヤヒヤものだったね。お客さんはポチポチホームランが見られて満足したようだけどね。へんな野次も聞こえてこなかったし。金太郎さん、平松のシュートの勉強結果はどうでしたか」
「するどく落ちるので、球ぎわの見きわめが難しいです。いまのところ、当てるのがやっとですけど、次の対戦では踏みこんで掬い上げるつもりです。シュートを投げるとき、少し右腕を遅らせるようにするので、ヤマをかけられます」
 江藤と木俣が同時に、
「そうだ!」
 と言った。
「見抜いたばってん、打てんかった。ワシの左中間の一発は、外角のストレートを無理やり引っ張ったものばい」
「俺は高めのカーブ。まぐれで当たった。シュートは打てない。カーブより曲がる」
 田宮コーチが、
「投げ方でシュートだと見抜けるんだから、あえて打たないようにすればいいんじゃないの? 長嶋が何本もバットを折ったというぞ」
「ツーストライクのときも見逃しますか?」
「見逃せんな……。ツーストライクなら、十中八九シュートを投げてくるだろう」
 江藤が、
「オープンスタンスで構えるしかなかろうもん。ツーストライクにならんうちに打ってしまうんやな」  
 水原監督が、
「今年の大洋は、平松が登板するときはお得意さんにはなりそうもないね。カモのチームを二つは作らないと、なかなか総合点は上がらないよ。どうかね、金太郎さん」
「大洋は打線がオシャカなので、だいじょうぶです。巨人と阪神以外は、お得意さんにできます。お得意は四つ。平松は、シュートを含めて球質が軽いので、早めのカウントで打てば長打が期待できます。彼からもいくつか勝てるはずです。強敵はやっぱり江夏のいる阪神と、ピッチャー粒ぞろいの巨人だと思います。この二チームから十勝以上できれば、まちがいなく優勝が近づきます」
 本多二軍監督が、
「気の早い話だけど、優勝ラインは八十五勝だと思う。勝率六割五分。不得意チームを作らず、各チームから十七勝ずつというのが理想ですけど、どこかのチームにはかならず負け越すでしょうね。金太郎さんの言うとおり、その可能性があるのは巨人と阪神じゃないかな。広島、大洋、サンケイに二十勝すれば、巨人阪神に十五敗しても八十二勝。巨人阪神と十三勝十三敗の五分の星で戦えば、八十六勝。優勝の青写真はそれしかないかも」
 高木が、
「うちが四十四敗もしますかね。いまのところオープン戦十勝二敗のチームですよ。その率で百三十試合戦うと、二十敗ぐらいしかしないことになります」
 水原監督が、
「そう計算どおりにはいかないさ。ペナントレースにはかならず波があるんだ。選手のスランプや、故障、疲労、不慮の事故といったものがつきものだ。少なくとも四十敗はするだろう。欲張って九十勝。それを目途に、ピッチャーの勝ち数の皮算用が必要になる。その数字に向かって、ピッチャー陣に努力してもらうしかない。基本は、優勝よりも楽しく全力で野球をすることだということを忘れちゃいけないよ」
 長谷川コーチが、
「楽しさの中でも皮算用ぐらいしとかないと、張り合いがなくなるからね。監督が言いたいのはそこでしょう。優勝の二文字をときどき思い出せば張り合いになる。皮算用が張り合いのある目標になるわけだ」
 宇野ヘッドコーチが、
「小川が二十勝から二十五勝、小野が十五勝から二十勝、田中十勝、浜野十勝、伊藤、山中、水谷寿伸、門岡、若生、板東で三十勝。それが優勝を確実にするラインだ。くどいようだが、あくまでも皮算用だからね」
 水原監督が、
「皮算用は究極の希望として措(お)いといて、いまはゆったり構えよう。現実問題として、一軍選手が故障したりスランプに陥ったりしたとき、都合よく二軍からいい若手が上がってくるなんてことはまず期待できない。不確定なベテラン投手陣に期待することになる。投手陣の不確定要素を消すには、打力に期待するべきなんだろうが、じつは打線はもっと不確定要素だ。こういう不確定要素はどのチームも抱えている。優勝を念頭に置くと、そういう不確定要素を不安にばかり思って、野球をする楽しみが吹っ飛んでしまうことになる。楽しくないと意欲が失せる。意欲が失せたら勝てない。私たちは楽しさから湧き出る意欲だけを持とう」
 宇野ヘッドコーチが、
「投手力にせよ、打撃力にせよ、不確定要素は個人個人の努力で解決するしかないのはあたりまえだが、ある個人が不可抗力でメンバーから外れたとき、全員で穴埋めできなければ努力の意味がない。そのためには個人個人がふだんから方向性を持って努力している必要がある。その方向だが、長いイニングを背負うことになるピッチャーはスタミナを増す工夫、長距離打者が欠けたときに対応しなくちゃいけないバッターは何番打者でもホームランを打てる力を増す工夫だ。そういう状態にしておけば、だれが抜けてもチームの力は維持できる。またそういう状態は相手チームに恐怖感を与える。そうしたら、中日ドラゴンズは常に大船のまま、一年じゅうゆったりした気持ちで野球が楽しめる」
 水原監督が、
「うちは打ち勝つチームです。一番、二番をホームランも打てるシュアな中くん、高木くん、一枝くん、島谷くんあたりを据え、三番から五番まではホームランバッターの江藤くん、神無月くん、木俣くん、太田くん、菱川くん、江島くんでやりくりし、六番から八番を連日入れ替えて、十本はホームランを打てるバッターを置く。千原くん、葛城くん、徳武くん、伊藤竜彦くんといったところだね。ピッチャーのスタミナだけに頼らず、その線でがんばるしかない」
 田宮コーチが、
「金太郎さんが故障したりスランプに陥ったりしても、それで心配がなくなるわけだ」
 中が、
「金太郎さんのスランプは考えられないでしょう。私たちロートルのほうが危ない。鍛錬を欠かしさえしなければ、四十歳までは確実にやれます。私たちがスランプや故障を少なくして、団結をゆるめないことが重要です」
 江藤が、
「三十歳を越えとるやつはだれだれや? ワシは三十一や」
 本人が手を挙げて問うと、ぱらぱらと連鎖の手が挙がる。中が、
「三十三」
 小川が、
「三十五」
 小野が、
「三十六です。最年長でしょう」
 静かな吉沢が、
「私も三十六です」
 徳武が、
「三十一」
 葛城が、
「三十四になりましたわ」
 田中勉が、
「ピッタシ三十歳」
 江藤が首をひねって、
「板ちゃん、おまえは」
「ワシはまだ二十九やぞ。若くして今年が花道や」
 浜野が、
「巨人をぶっ叩いて優勝しましょう」
 水原監督は浜野に向かって、
「遺恨や復讐の気組みは、チームの雰囲気を下品にします。中日ドラゴンズが勝ちまくって名門になればいいことですよ。巨人は、浜野くんや、田淵くん、ほかにもいろいろな人を裏切った下品なチームです。国民に支持されている野卑な集団です。そんなチームに抱く遺恨なんか払拭して、優位に立った気持ちでやらなければ、とうてい勝てません。下品な集団は傍若無人ですから。たぶん、勝負というのは品性の戦いだと思います。品性の高い者が下品な者を打ち負かせなければ、この世は闇です。私のいたころの巨人は上品だった。そして連勝に連勝を重ねた。いまの連勝とは価値がちがいます。金田や堀内が金太郎さんにボールをぶつけようとしたことを思い出してください。あれは下品な者の命令だったんです。結果は? わがチームの大勝利でした。それでこそスポーツです。淡々と、上品に勝ちましょう」
 浜野はニヤニヤし、
「気の持ちようで勝てるほど巨人は甘くないと思いますが」
 なんと無礼な言葉だ。水原監督の眉間に険しい皺が寄ったが、すぐに緩んだ。立ち上がりかけた江藤も腰を下ろした。
「巨人の強さは、川上監督の臆病と下劣な品性が支配する強さです。彼を畏れる人びとの作り出した切羽詰まった強さです。一般社会の縮図です。そんなものにスポーツ界を牛耳らせてはいけません。浜野くん、私の言うことを理解できなくてもいい。強い魂は苦痛から生まれ、大きな人間性は無数の傷跡から生まれるんだ。とにかくきみは、球のスピードを増し、変化球の切れをつけて、二十勝できる投手になってください。小川くん、小野くん、田中くん、この三人に代わって中日を背負えるのは、いまのところきみしかいないんだからね。ドラゴンズのチームカラーをかもし出す人間になってくれたまえ」
 浜野は自分の無礼を忘れ、うれしそうに微笑んだ。何もわかっていない笑いだった。水原監督はつづけて、
「三原くんは、ハングリー精神のある選手や、闘争心が顔に表れる選手をプロ向きだとして好む。内に秘めた闘争心というものを嫌う。ファイトのない人間はプロである資格はないとまで言う。私はどちらでもいい。勝負事である以上、負けるよりは勝ったほうがいいのは当然だが、魅せる試合ができなければプロとは言えない。ハングリーだろうと何だろうと、才能あふれる華やかなプレーができればいい。ただ、才能があふれていても、だれもがレギュラーの地位を得られるわけじゃない。才能に伴う魅力が必要だ。したがって一軍選手はピンセットで選ばれた魅力的な者で構成されることになる。その意味で二軍選手はなかなか上がってこれない。上がってきてもすぐに去っていく。ね、長谷川くん」
「はあ、そこが難しいところです。〈魅せる〉というのは人並外れたオーラのことですからね。二軍は、ファイトと適度な才能はあっても、魅力が疑問符の選手が大半です」
「プロにくるまでは華々しかったのに、どうしてだろうね」
 小川が、
「甲子園とか神宮といった枠の中の華々しさだったんだろう。スカウトの眼鏡ちがいだったんだよ。俺なんかそのせいで、プロ入りがかなり遅れたからな。きちんとプロにきてまだ五年しか経ってないんだぜ」
「きみは天才だ。天才には紆余曲折がつきものだ。魅力以前に才能を見逃されてしまったんだ。いったん水を得ると、最多勝と沢村賞なんだからね。その破天荒さで身を滅ぼさないようにしなさいよ」
 小川はへらへら笑いを収めた。



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