百二 

 七時半。ジャージに着替える。菅野がやってくる。この春に中学生二年になる小柄な秀樹くんを連れている。親子でジャージを着ている。秀樹くんの八重歯が愛らしい。カズちゃんが親子をキッチンテーブルに座らせ、紅茶を振舞う。
「サインありがとうございました。友だちに見せたら、みんなびっくりしてました。きょうおとうさんに中日球場に連れてってもらいます」
「そう、よかったね。その格好は、いっしょに走るつもりだね」
「はい。走るのは得意です」
 どことなくケーキ屋ケンちゃんに似ている。握手をする。菅野が私と息子を並ばせ、小型カメラで写真を撮る。
「クラスメイトに見せる証拠写真か。菅野さん、きょうは牧野公園にしよう。あそこで柔軟をやれば、中学生には十分な運動量だ」
「そうしてくれますか」
 北村席の門前まで走り、目の前の牧野公園に入る。公園の内周を五周。速力を上げてしばらく親子を置き去りにする。ときどきスピードを緩めて待つ。
「すごいなあ!」
 子供が感嘆する。
「きみをびっくりさせたくて、わざとやったんだ。励みになっただろ?」
「はい!」
 土の上に寝そべり、いつもの筋トレを始める。腕立て伏せ百回。片手腕立てもして見せる。息子は、すごいなあ! を連発しながら、自分も懸命にやってみる。腕立ては二十五回ぐらいでへたばる。片手は一度もできない。菅野もうれしそうに子供に従う。父親らしく三十回もして見せるが、片手はできない。
「ようし、公園の真ん中、端から端までダッシュして往復するぞ。たった数十秒でもきついからね、無理をしないように」
「はい!」
 百メートルに足らない距離をダッシュして戻る。彼らは真剣に走った。三十メートルほどの差がついたが、全力でついてきて、生垣の前で膝に手を突き、愉快そうにあえいだ。
「プロってすごいや!」
「そう? これもきみの励みのためにやったんだ。ぼくをふつうの人間だと思ってないだろう?」
「はい!」
「でも、ふつう以下のスタミナだったんだよ。ほんの数年前まで。鍛錬すればこうなるんだ」
 三人で数寄屋門を入り敷石を歩く。節子とキクエが迎えに出る。自己紹介して秀樹くんと握手する。秀樹くんも恥ずかしそうに自己紹介する。すばらしい木と花の景色だ。赤銅色のカンナが生垣沿いの一箇所に簇生している。葉は青々とみずみずしく、大きな花びらは不定形に垂れている。瑞々しさと淫靡さと―人間の女そのものを表す植物だと感じる。
「秀樹くん、書道は順調かい?」
「はい、ぼく、書道家になりたいって思うようになりました。滝澤先生のような」
「そうか、がんばれよ。滝澤先生はきみのことを見こみがあると言ってたよ」
「ほんとですか!」
「ほんとだ。お父さんはからっきしだけど、きみとお母さんは見こみがあるって」
 菅野が、へへ、と首をさする。
「私はもう、ひと月にいっぺんも顔を出しませんよ」
「忙しくなっちゃったからね」
「カラオケには五回、しっかりかよいました。書道の手習いというのはどうも苦手で、シャチこばっちゃってね。気が向いたらたまに顔を出してみます」
「秀樹くん、お父さんをみればわかるね。人は好きでないものは長つづきしない。そういうものは手を出さないか、人並にやればいい。お父さんは毎朝走りつづけてる。もともとからだを鍛えるのが好きだったみたいだし、それをやってるぼくのことを気に入ってるからつづけられるんだ。秀樹くんは書道を見つけて、好きになった。教えてくれる先生も気に入ってる。末長くやりなさい。人並に学校の勉強もするんだよ。やらないわけにはいかないからね。サボらないでね。サボると人並にもなれないよ」
「はい!」
 五人で居間に入ると、カズちゃんとメイ子が素子や千佳子たちとコーヒーを飲んでいた。睦子はお城のマンションに帰ったようだ。ほかの一家の者は座敷で朝めしの最中だ。主人はスクラップブックを見ていた。
「おはよう。ほう、秀樹ちゃん、相変わらず利口そうな顔しとる」
「中学二年になりました。天神山中学」
「ハキハキしとるがや。将来が楽しみやな」
「いやあ、蛙の子は蛙ですよ。どうしても神無月さんに会いたいと言うんで、春休みでもあるし、ジャージ着せて連れてきました。ちょっくら神無月さんと運動でもさせてみようと思ってね。そしたら、神無月さんがわざと全力出して驚かすんですよ。励みになるからって。……私、うれしくて泣きそうになりました」
「菅ちゃんは泣き上戸やな」
 女将が、
「神無月さんは、何でも一生懸命やからね」
 親子にお茶と羊羹が出る。少年は殊勝に正座して羊羹に爪楊枝を刺す。節子やキクエたちといっしょに直人もやってきて、少年の膝に乗る。彼は慣れない感じで直人の頭を撫ぜた。父親に拒否され捨てられたというわけではまったくないが、それに近い停滞を感じているだろう直人が、齢の近い仲間の愛を求めて、前に進んでいる。〈ふつう〉であるということは、神秘的なほどすばらしい。トモヨさんが、
「秀樹くん、菅野さん似ね」
「はあ。蛙は蛙でも、私より高く跳んでほしいです」
 主人が、
「菅ちゃん、子供に自分の願いを押しつけたらあかん。好きにさせたらんと。それにな、北村はいずれ菅ちゃんにまかせるんや。息子以上の脚力がないとやっていけんぞ」
「ありがとうございます。でも、そういう意味で高く跳ぶと言ったんじゃないんです。中身の詰まった人間として成長してほしくて」
「わかるで。お金を稼ぐだけが脚力やないもんな」
 私は、
「秀樹くん、きみは書道の大家になるかもしれないし、世界を放浪する旅行家になるかもしれないし、あるいは何者にもならないかもしれない。世の中の歩き方は人それぞれみんなちがう。いまから言うことをわかる範囲で聴いてね。好きなことをやってると、心静かに生きられる。好きなことを信じて行動するだけでいいからだよ。お父さんもぼくも、北村席のみんなも、そうやって生きてる。いまは、好きな書道でがんばりなさい。また別に好きなものができたら、それでがんばりなさい。望むなら大学にいくのもいいし、職人になるのもいいし、土方になったっていい。好きなことで人の世をしっかり歩いてると感じる。お父さんの言う高く跳ぶというのは、そういうことなんだ。ただ、人の脚力は平等じゃないということを頭に置いて、一生懸命努力するしかないんだよ」
 少年はキラキラ瞳を輝かせた。直人が彼のあごを撫ぜた。カズちゃんが、
「キョウちゃんは人間的に強く生きてほしいと言ったのよ。お金を稼ぐことや、庶民らしく平穏に生きることを強さと思ってるわけじゃないの。あなたのお父さんも同じ気持ちよ。高く跳ぶなんて難しいこと言っちゃって。わが子となるとアガっちゃうのね」
 菅野は笑いながら頭を掻いた。
「いやあ、私はこの子なりに強い足でしっかりと無難に歩いてほしくて―」
「子供を見くびっちゃだめよ。無難になんて言ってたら、キョウちゃんのお母さんになっちゃうでしょ」
「そうでした! くわばら、くわばら」
 親は子供の修養の助けだ。正義と誠実を考えるとき、かならず他山の石になる。
 ソテツとイネがおトキさんといっしょに台所から緊張した顔で出てきた。おトキさんが、
「さあ、九時半ですよ。最後の予行演習、いってらっしゃい」
「はーい」
 カズちゃんといっしょに、千佳子と素子とメイ子が明るい声を上げる。主人が、
「ワシらも一仕事してこよう。百江とイネは、秀樹くんの相手をしてやってくれ。それからおトキ、きょうはワシらにもオニギリ弁当頼む。神無月さん、ワシらが大門から戻ったら、十時すぎくらいに出ますよ。仕度しといてください」
「わかりました」
 主人と菅野が出かけていった。直人を抱いたトモヨさんといっしょに女将は帳場部屋に退がり、賄いたちが食事の後片づけと掃除を始める。その合間に台所のテーブルで、代わるがわる食事をとる。カズちゃんが、
「節子さん、キクエさん、初出勤がんばってね。帰りは何時?」
 キクエが、
「二人とも、四時半で上がりです」
「仕事が上がったらいっしょにアイリスにいらっしゃい。裏口から入って、常連客みたいな顔して好きな席に座ってればいいわ」
 素子が、
「ほうよ、オムレツとコーヒー出したげる」
 節子がキクエと微笑み合い、
「そうします」
 アイリス組がぞろぞろと玄関を出た。私はもう一度シャワーを浴びて、トモヨさんの用意した下着に替えた。スカイブルーのアンダーシャツ、白のアンダーストッキング、スカイブルーのストッキング、象牙色のユニフォームの上下を着、幅広のベルトをしっかり締める。オープン戦最終戦。気力がみなぎる。
 ―宮谷小学校の校庭のソフトボール。青木小学校の校庭のソフトボール。千年小学校の校庭のDSボール。宮中学校の校庭の軟式ボール。そして青森高校の硬式ボール。野球少年ならだれもが通ってくる道のりだけれども、それぞれの道端の記憶が多すぎるせいで、どれも似ているように思えない。
「カッコいい……」
 秀樹少年は、私が尾崎の背番号を撫ぜたように、私の背番号を撫ぜる。
「背番号て、こんなに大きいんだ」
「遠くから見ると、ちょうどいい大きさに見えるよ」
「おちょうちゃん、おちょうちゃん」
 帳場から走り出てきた直人をトモヨさんが追ってくる。女将も笑いながら仕方なさそうに出てくる。トモヨさんが、
「おとうちゃんとお風呂に入るってうるさいんですよ。今度いっしょに入ってあげてくださいね」
「わかった、きょう帰ってきたら、いっしょに入る」
 あぐらをかいて背中を向けてやると、直人は少年をまねて、背番号を無邪気に撫ぜた。あらためて驚いたふうにトモヨさんも撫ぜる。
「8よ、直人、8」
「ハチ、ハチ」
 女将が、
「きれいな縫い付けやね。ミシン縫いをしたあとでマツリ縫いしとる」
 雑巾を手にしたイネが廊下から入ってきて、
「ほんだでば。胸の字も、肩のワッペンも、ぜんぶそうなってら」
 廊下に立っていた百江が、
「私もクリーニング屋さんに出すときにびっくりしました。プロ野球って、どんな細かいところにもお金をかけてるんですね」
 おトキさんまでやってきて、
「立派なこと……。野球のユニフォームって、ほんとにきれいですね」
 主人たちが帰ってきたので、直人の頬にキスをして、さっそく出発することにする。スパイクは新しいのを履く。しっかり紐を結ぶ。おトキさんが四人に、握りめしを二つ入れた弁当箱を持たせる。
 秀樹少年を伴い、クラウンに乗る。もう報道関係者の車が二、三台、門前に駐車してビデオカメラを回していた。主人が助手席でスクラップブックを広げながら、振り向かずに語りかける。
「今シーズンの優勝予想が各紙に載ってますよ。中日スポーツ以外の大方の予想は、中日がいくら奮闘しても、最後は息切れをして巨人が優勝する、となってます。たとえばスポーツ報知は―いかに水原が名にしおう名将であっても、昨年最下位だった中日の戦力が大幅に補強されていない以上、神無月一人に依存して熾烈な優勝争いを凌ぎ切れるとは考えられない。日刊スポーツ―優勝は論外として、このオープン戦を通して、神無月が加わった程度の戦力でよく戦ってきたと言える。二、三年先には優勝を狙えるチームに仕上げたいというのが水原の本音だろう。サンケイスポーツ―球団首脳部もひょっとすると、とは思っても、よしいける、と確信を持てないでいるにちがいない」
 菅野がハンドルをいじりながら、
「言わしとけばいいんじゃないですか。世の中そんな甘いものじゃないというのがやつらの考え方ですから。甘いとも辛いとも思っていない男にぶちのめされればいい。補強されていない? 百人力の人間がきたのにだれが必要なの? やっぱり、神無月さんの活躍をマグレだと思ってるようですね」
 主人が、
「一年活躍してもマグレ、二年活躍してもマグレ、何年やったってマグレと言われるよ。際立ってない人間は、自分とちがっている際立った人間を信じられないからね」
「言語矛盾してるようですけど、ぼく自身、際立った自分が信じられません。ホームランを打つたびにびっくりするんです。なぜだろうって」
「ハハハ、人並より〈ちょっと〉よければ、人は拍手喝采してくれますよ。そうなったときが楽しみだ。五年、十年、気長に待ちます」
 人生というのは、儀式であり、日課であり、己の抑制だ。主人が言うように私が際立っているとするなら、そのすべてから私が外れているということだ。野球の能力が衰え、ホームランを打てなくなれば、人生の軌道が正常に戻ると考えるのは虫がよすぎる。私は逸れすぎた。彼らと長く生きていきたいなら、彼らに甘えることなく〈ふつう〉を装って生きる労力が必要だ。


         百三

 秀樹少年が、
「ホームランを打つたびにびっくりするというのは、だれかに打たされてるって感じですか?」
「そういう神がかり的なものじゃない。打っちゃったって感じ。将棋や碁には、勝っちゃったという感じはないと思う。複雑な計算の結果だからね。定理の発見や、科学的発明も同じだと思うよ。でも、ホームランは複雑な計算の結果じゃないんだ。素振りはだれでもできる。ぼくの五倍もする人だっている。だから、慣れや筋力増強の結果でもない。なぜか打っちゃった、ということにすぎないんだよ。マグレだね」
 口数が多い。沈黙で人柄が知れる。菅野が、
「秀樹、ごまかされちゃだめだよ。マグレは連続では起きないからね。ホームランは、天が神無月さんに与えた特異な才能だ。だからお金を出して観にいく価値がある。だれがマグレにお金を出すものかね。神がかりの才能を目撃したくて、みんな球場に集まってくるんだ。神無月さんを批判する人もそれはわかってるんだよ。感動して、しっかり観てるから批判もできる。自分からはるかに隔たった人間に嫉妬してるせいで、その感動を口にできない。悲しいかな、それがほんとうのところだ。きょうは何も考えずに、ただ感動して神無月さんのホームランを楽しみなさい」
「うん」
「公式戦に入ったら、いまよりも打てなくなるから、いまのうちに見ておいてね」
「どうしてですか」
「再戦が多くなると、研究される精度も高くなるからなんだ。いまのペースは、一試合二本から三本、百三十試合だと二百六十本から三百九十本のペースだけど、これがたぶん二試合に一本から三試合に一本のペースになる。六十五本から四十本ちょいというところかな。公約は八十本だけどね」
 主人が、
「ワシはもともと百本と踏んどりますよ。どんなに研究されても、そこまでペースが落ちると思えん」
「もっとオーソドックスな記事はないですか」
「まともすぎるけど、毎日新聞の記事はこんなふうや。―巨人対西鉄、東映対大洋、中日対近鉄と繰り返されてきた水原茂と三原脩の因縁の対決は、オープン戦を含めるとこの近鉄戦で三度目を迎える。野球ファンの最大の関心は、おそらくそれに加えて、剛速球投手の鈴木啓示と、本塁打製造機スーパールーキーの神無月郷との初対決にあるだろう。鈴木がどんな投球で神無月を抑えるのか、神無月が鈴木の剛球をどう打ち砕くのか」
「わくわくしませんね」
「せんな」
 球場の駐車場にカメラを構えた数十人の報道陣がたむろしている。奥まったところにテレビ中継車が何台か停まっている。菅野が、
「むかしのタクシー仲間が、前売りはぜんぶ売り切れ、当日券も試合開始二時間前には売り切れるだろうと言ってました」
 当日券売場は長蛇の列だ。列をなす人びとをさらに老若の群衆が取り囲んでいる。球場の周囲で人びとが列をなす光景を見ると、どうしてもあのオールスター戦のダフ屋のことを思い出す。彼に売りつけられた券を握り締めて、私は人混みの隙間からフィールドを見下ろした。
 三人を残して車を降り、トランクから新しいバット一本とダッフルを取り出す。叫び声を上げながら何十人ものファンが走り寄ってきた。とたん、黒背広の四人の男たちが人混みを手で払いながら、選手通用口までの道を開けた。一文字眉の背中があった。
「時田さん!」
 彼は振り向き、早足で近づいてくると、
「ひさしぶりですね、神無月さん」
「もう名古屋にいるの?」
「いや、東京からきょう一日だけ駆り出されました。ヤッさんがよろしくと言っとりました。私ども二人、六月には名古屋に戻ります。さ、急いで」
 包みこむように私を通用口へ押しこむと、四人は風を食らって姿を消した。
 田宮コーチがロッカー室の前に立っていて、
「久保田さんからバットが十本届いた。一本ずつ完全密封してあるよ」
 と知らせる。
「ロッカーにも、駅西の家にもまだまだたくさんありますよ」
「金太郎さんはめったにバットを折らない人だからね。一年間の予備という名目で送られてきたよ。そろそろオープン戦の疲労が溜まるころだろうから、ほんの少し握りを太く作ったと連絡がきた。シーズン中でも、疲れを感じたときに使ってほしいそうだ。しっかり利用してあげなさい。彼は金太郎さんに心酔してるんだよ。バット代金は球団のツケになるから心配しなくていい。ロッカーに入れておいたからね。きょうはなるべくヘルメットをかぶるように。鈴木の球は速いんだ。セの江夏かパの鈴木かと言われてるくらいでね」
「かぶります。つい忘れてしまうことも多くて」
「……からだを気遣ってね」
「重々気をつけます」
 ふと声を落として語りだした。
「いつだったか、金太郎さん、スターになりたくないと言ったことがあったね。そういうモロな言い方じゃなかったと思うが」
「はい、そんなふうなことを言った記憶があります」
「天賦に恵まれた者は星の高みを目指す義務があると思わないか」
「好みとして選択しない権利があると思っています。ノーという選択肢です。押し上げられる環境は否定しませんが、上昇志向は好みじゃありません」
「私がなぜコーチ職を選んだと思いますか?」
 私は首をかしげた。
「好きで選手たちにうるさがられる仕事を選んだと思いますか? ちがう。監督まで早く出世できると思ったから選んだんです」
 ここでもまちがいなく〈野心〉の話がなされているのにちがいない。
「それだけじゃない。中日ドラゴンズのためにも、私のバッティング理論を役立てたほうがいいと思った。それで自分を売りこんで、一軍バッティングコーチになった。古い手を使って」
「古い手?」
「バンバン上層部と酒を飲む、ゴルフをする、ハハハ……。伝統的な出世の手段だ。しかし酒を飲んだりゴルフをしたりして出世できるのは、すべての選手に開かれた道じゃない。私がもとスターだったからです。……たとえ望まなくとも、金太郎さんはそういう上昇の途についたんです」
「自分の意思に反してでもその途を昇るべきだと?」
「そうです。どうか私たち国民のために、スターという苦痛を受け入れてほしい。高い給料と、名声と、日本じゅうがひれ伏すような強大な権力を手に入れてほしい。たしかにそういうものは、ぜんぶ金太郎さんの嫌うものだ。しかしね、悪いことばかりじゃない。金太郎さんはこの日本で生きるすべての野球少年たちの理想となるんだ。少年たちだけじゃない……私たちだって……どんなに誇りに思うか。金太郎さんには、国民が心から尊敬できる人になってほしいんだ」
「ぼくのような―」
「金太郎さんは、大きな人間だよ」
 田宮コーチは握手の手を差し伸べた。私はその手を握った。
「光栄だ、金太郎さん」
 強く握り返された。
「いつか駅西のほうへ遊びにいかせてもらうよ。いい晩年をありがとうと言っておく。これは水原さんの気持ちでもあるんだ」
 スパイクを鳴らしてコーチ控室へ去った。
 ロッカールームに入る。菱川が一人きりがいて、鏡に向かって素振りをしている。彼に一区切りつくのを待って話しかけた。
「早いですね。きょうは初めて二番乗りできました。いつもビリのほうでくるのでうれしいな」
 力のある目で振り向き、
「あ、神無月さん、ずっと見てたんですか? 恥ずかしいな」
 無精ヒゲに縁取られた厚い唇から白い歯を覗かせた。
「素晴しいスイングでした。さすが甲子園で池永からホームランを打った男ですね。甲子園通算打率三割八分というのもすごい」
「ありがとう。大幸球場から中日球場にきたときの感激を忘れられなくて、たいてい一番乗りです」
 一軍昇格したことのない二軍選手は、このロッカールームに入ったことがない。彼らは東区の鍋屋上野の大幸球場しか知らない。菱川は入団初年度に、正確には、倉敷工業を中退してから半年のあいだ、背番号18をつけて二軍にいたことがある。私には思い出深い東京オリンピックの年だ。今年もキャンプ時に太田といっしょに、少し二軍に回されていた。
「二軍選手が受けてる差別待遇というのは、たとえばどういうものですか? 乗り物や宿泊設備のことは、多少知ってます」
「ユニフォームの生地がまったくちがうんです。それも年間通して二着。一軍のユニフォームは一流テーラーのオーダーメイドで、春秋用と夏用それぞれ、ホーム用とビジター用二着ずつ、合計八着あります。神無月さんは三着ずつ計十二着でしたね」
「はい、それでもギリギリです」
「神無月さんは毎試合替えますからね。二軍選手が一軍へ呼ばれるときは、レギュラーの練習手伝いのときです。たとえばピッチャーはフリーバッティング用のバッティングピッチャー、キャッチャーはフリーバッティング用かブルペン用キャッチャー。バッターはまず呼ばれません」
「それじゃ、せっかくプロになっても何の甲斐もないですね。人がこの世で生きていくためには生甲斐が必要ですから。ぼくたちの生甲斐は、思う存分野球をすることと、その姿を喜んでもらうことでしょう。……その意味で、二軍の選手たちは、死ぬほどつらい思いをしてるんじゃないでしょうか」
 戦後初の混血児プロ野球選手の菱川は、バットをブンと一振りして、
「〈思う存分できる〉ほどの才能を自覚してれば、ね。神無月さんが心配してあげることじゃないですよ。神無月さんはやさしすぎる。やさしくしてやっても、才能のないやつは努力しません。才能があれば自分で二軍から這い出てきますよ」
「菱川さんみたいにね。中日、巨人、阪神、南海四球団がシノギを削って争奪戦を繰り広げた男ですものね」
 黒い顔がほころんだ。私も笑いで応え、
「おととし、高橋一三から満塁ホームランを打ったんですよね」
「打ちました。内角低目のストレート。あの年の六月の巨人戦は、二試合連続でソロホームランと満塁ホームランを打ちました。ソロは中村稔から、満塁は高橋一三から。満塁ホームランの日は、四打数一安打三振三つでした。まぐれ当たりです。彼の右打者の外に落ちるスクリューは打てません。いまは、やつと対戦するときはストレートしか狙わないことにしてます。内角なら詰まってもスタンドに運べるのが俺の自慢ですけど、神無月さんの目標はスタンドじゃないんだよなあ。俺も神無月さんと同じで、プロ入り初安打がホームランだったんです。あのときはくだらない喜び方しちゃいましたよ。神無月さんとは比較にならない。バッティングは詰まったらだめだ」
 私は面はゆくなり、
「きょうも後攻ですね。ホームだから仕方ないですけど。ぼくは先攻が好きだな。早く打ちたくて仕方ないのに、敵のスリーアウトを待つのが退屈だ。草野球でもジャンケンに勝つと後攻を取りたがるけど、負けていてもうまくいけばサヨナラ勝ちというスケベな気持ちからでしょう。つまらない。後攻は、勝ってれば攻撃が八回しかできない。守備は九回やらなくちゃいけない。負けてれば、最終回にサヨナラ勝ちしなくちゃいけないという心理的な圧迫感がある。先攻は、勝ってても負けてても、攻撃を九回できる。勝ってれば守備は八回ですむ。野球は先攻にかぎりますね」
「考えたこともなかった! さすがですね。でも、サヨナラ負けすると、気が重いですよ」
「そうかな、ぼくはさばさばした気持ちになります。格好いい勝ち方されちゃったって」
「スカッとしてますね、神無月さんは。……いま、四球団でシノギを削ってと言いましたけど、結局、カネだったんですよ。中日のスカウトに大金を積まれてね。そんな心がけのやつは、一軍半で萎んでいっちゃうのが運命です。……危なかった。神無月さんに遇わなかったら、目が覚めないまま、来年あたりクビでした」
「そんなことありませんよ。だれに遇わなくても菱川さんは自力更生してました。ちょっと、新しいバットの試し振りをしてみます」
 私はロッカーを開け、持ってきたバットと入れ替えて新品のバットを一本取り出し、包装ビニールを剥いだ。グリップを握ってみる。たしかにこれまでよりほんの少し握りが太く、なんとなく軽く感じる。菱川の前で、ブン、ブン、ブンと三度振る。
「ウヘー! すげえ風切り音。からだの軸がまったく動かない。こんな人がなんで二軍のことなんか気にするわけ? 謎ですよ、神無月さんは。もっと自分のことだけにかまけてください。俺みたいについていく人間がいるわけだから」
 仲間たちの足音が廊下にした。どやどやロッカールームに入ってくる。私は菱川に手を挙げ、
「先にグランドにいってます」
 菱川はうなずくと、また鏡に向かって構えた。
 ベンチに押し寄せてくる仲間と声をかけ合い、グランドに出る。空気が早春の湿りを帯びている。外野の枯れ芝が美しい。あとひと月もすれば深緑になる。デンスケを背負ったラジオ局の記者が右往左往している。一時間早く開場したせいでほぼ満員だが、ポチポチスタンドに穴がある。塗り固めたように観客が詰まるまで、あと十五分くらいか。


         百四

 フリーバッティング。コーチ陣がケージの後ろに控える。露崎が床几を持ち出し、木俣の背後に坐る。最後まで露崎は私の試合に同道した。
「あ、やっぱり主審ですね。きょうもよろしくお願いします」
 帽子を取る。露崎は厳格な顔を崩して、少しうなずく。木俣が露崎に気さくな調子で、
「外角、甘くする? 辛くする?」
「甘くも辛くもしない。正しく見る」
 露崎は厳格に答える。ピッチャーは大男の門岡。ライトライナーを軽く三本打って、きょうのミートの具合を確かめる。千原が三本とも拝み取りする。ケージに貼りついていた宇野コーチが、
「まるでキャッチボールみたいに正確だな」
「門岡さんがゆるい低目のボールを投げてくれたからです」
 ふだんは芯の強そうな表情をしている門岡が、舌をペロリと出し、ポンと額を叩いておどけた身ぶりをする。私に正確なライナーを打たせたことが得意そうだ。明石で彼は黙々と走っていた。帽子を前から後ろへ撫でる妙な癖のあるのが気になるが、口数の少ないところは好感が持てる。かつて速球のキレは権藤以上と言われたらしいけれども、いまはその影もない。江藤が、
「スタンドが不満そうだぞ」
「本番で満足してもらいます」
 江藤も力まず打つ。二本に一本は右中間に飛んでいく。いつもの当たりだ。私はケージを出て、一枝のバッティングを見守る。
「神無月くん」
 露崎が振り向いて語りかける。
「はい」
「さっきのライトライナー、三本ともぜんぶボールだったよ」
「ええ、ストライクを打つとスタンドに入ってしまいますから。ボール球のミートを確かめました」
「楽しいな! ほんとに楽しい」
 審判が感想を洩らすのはめずらしい。水原監督が、
「露崎さん、きょうでしばらく天馬の見納めだよ。しっかり楽しんで」
「はあ、あとはオールスターですな」
 見きわめをしっかりすれば、きょうも二本は打てそうだ。あとは鈴木のスピードと、変化のするどさしだいだ。一枝が一本スタンドに放りこんで、ダンスするようにはしゃいでいる。交代で中と高木が十本打ち、太田と菱川が十本打つ。球音が耳に心地よく響く。みんな三本に一本はスタンドに飛びこんでいく。
 近鉄チームが三塁側ベンチに入ってきた。だれがだれやらわからない。バックネットを見返って、主人と菅野父子の位置を確認し、手を振る。彼らも立ち上がって大きく振り返した。ケージを出た江藤も、水原監督までスタンドに向かって会釈する。いつものとおり誤解したスタンドがざわつく。水原監督が、
「金太郎さんは天真爛漫だね。長嶋に似ているようで、長嶋より行動に枷がない。見ていると心が舞い上がる。長嶋は杉浦とともに立教を優勝に導いた立役者で、神宮の森を湧かせた。金太郎さんは東大を優勝させて、とんでもなくドラマチックな神宮を演出した。長嶋の所作は華やかで、周囲を明るくする。比類のない大衆性だ。金太郎さんはそれをさらに洗練した感じで、明るさを越えた神秘の世界に引きずりこむ。不思議な愛情さえ湧いてくるんだ。見てごらん。金太郎さんに手を振ってもらって、みんな大喜びしてるよ」
 私は笑い、
「北村席のご主人に手を振ってたんです」
「うん、わかってたよ。それが天真爛漫というんだ。私も慎ちゃんもそこまで無邪気になれないんでね、客席全体に頭を下げた。金太郎さんのおかげで、日本のプロ野球は社会にしっかり認知されるだろうね」
 いつのまにか記者たちが寄り集まってメモをとっている。深く愛されれば人は生きる拠りどころを得、感謝に満たされる。詰めかけた観客のために、大きなホームランを打ちたい。自分ではない人びとに喜びを与える行動こそ、真に価値のあるものだ。
 レフトの球拾いに回る。芝は完全に乾いている。江島と葛城がのんびりキャッチボールしている。仲間に加わるとレフトスタンドが沸いたので帽子を振った。葛城が、
「あのライトライナー、ほとんど同じ場所に飛んだね。マジック?」
「微妙に手首を使いました。つんのめって打つならコントロールは簡単なんですが、体重を残して打つのは難しい。きょうのミートの具合はとてもいいです」
 江島が、
「やっぱり手品だね」
 徳武の打球を追いかけてきた中が会話を耳に挟み、
「手品じゃないよ。技術の結晶だ。盗み取らないといけない。千日の勤学より、いっときの名匠だよ」
 走り去る。葛城が、
「なに? センニチキン? あいつはインテリで困るよ」
 私は声を上げて笑った。千原と守備を交代し、鏑木に声をかけられながらフェンス沿いに二往復ジョギングして、ベンチに駆け戻る。おトキさんの二つの握りめしを食う。シャケとシオ昆布。冷めた握りめしはうまい。半田コーチが紙コップに水を汲んで差し出す。
「愛妻ベント、おいしそね」
「ハハハハ、コーチ、愛妻というのは家で作ったという意味じゃないんですよ。愛する妻が作ったという意味です。ぼくに妻はいません」
「オー、ミステイク。日本語まだまだネ」
 スタンドがびっしり埋まった。ざわめきの圧力を感じる。高木が、
「金太郎さんのいくところ、どの球場も満員だ。今年は日本じゅうの球場がどれほど潤うかわからないよ」
 江藤が、
「中日新聞の売り上げが三倍近くになったと聞いたばい。金太郎さんはこの資本主義社会では、ある意味偉人たい」
 太田が、
「マスコミ嫌いの神無月さんが、マスコミを儲けさせてやってるんですから、皮肉なもんですね。やつら神無月さんに足を向けて寝られませんよ。俺はいつも神無月さんがマスコミに無愛想にするのを見て、スカッとしてるんです。朝日、読売、毎日、サンケイ、次々と明石にやってきて、神無月さんの華やかなスタートぶりを記事に書く。すると、そういうフィーバーを苦々しく思う人間も出てくるわけで、川上監督の捨て台詞があのころ新聞に載ってました。中日中日と世間は騒いでいるが、大砲が一台据わったくらいで、そんなにチーム力が上向くわけがない。―何言ってやがるですよ。後楽園を大入りにして、カネカネの巨人軍のふところをいちばんあったかくしてやってるのは、神無月さんじゃないですか。水原監督はそういう批判も歓迎してました。明石キャンプの会食のときに聞こえてきたんですけど、批判的な言葉も関心があればこそだ、それだけ注目されてる証拠だから、人気商売のプロ野球では喜ぶべきことだって」
 江藤が、
「おまえは相変わらず、情報通ばい。若くして監督になるんやなかと」 
 近鉄のフリーバッティングが始まった。三原監督のちんまりしたからだがケージの後ろに立っている。背番号70。水原監督とちがって、ユニフォーム姿が美しくない。
 小柄な永淵と並んで、ガタイの大きい背番号3がケージに入る。十八歳から八年間四番を打ってきた二十六歳のスラッガー土井正博。百八十センチ以上あると聞いていたが、顔の大きい七頭身の幼児体型のせいで長身に見えない。野辺地のじっちゃに似た目鼻立ちをしている。頭の上でクルクルとバットを回して格好をつけ、ひたすら掬い上げて引っぱるだけのバッティングだ。掬い上げるスイングがあまりにも子供っぽく、まるで野球を覚えたての少年のようだ。一枝が、
「土井はおととし去年と、三割を打ってる。ホームランは五年連続二十本以上だ。いずれもっと打つ。ミートがよくて、三振が少ない」
「スイングが子供っぽくて、のろいですね。叩かずに、バットをしゃもじのように掬い上げる。まるでソフトボールの打ち方だ」
 一枝が、なるほどと笑った。
 ドラゴンズの守備練習。観客の視線がいちばんグランドから離れる時間帯だ。鏑木の指導で、内野手外野手十五分交代で、ダッシュとウォーキングを繰り返す。それから内野守備十分、外野守備十分。きょうの外野のノックは、左中間と右中間のみ。積極性と譲り合いの訓練。返球はワンバウンドのバックホームのみ。葛城、菱川、江島、中、私、伊藤竜彦。ひさしぶりに六人で肩を競った。肩が軽い。心が浮き立つ。
「ひゃー! 神無月さん、糸を引くみたいだ」
「菱川さんも、すごい肩ですよ!」
 楽しい。しかし、楽しさも固執すれば幸福を逃がすのがこの世の摂理だ。いま野球で挫折するわけにはいかない。無事を図って、バックホームは三本でとめる。いっしょにベンチに走り戻る。中が、
「金太郎さんの鉄砲肩につづくのは、菱と江島だな。あとは太田、島谷か」
 近鉄の守備練習を眺める。背番号8のセカンドの守備が華麗だ。
「あのやさしい顔、見覚えがあります」
 田宮コーチが、
「四十一年まで阪神にいた鎌田だ。十三年目、三十歳」
 阪神のセカンドだった彼を鮮やかに思い出した。悪球打ち。背番号は41だったような気がする。いまは背番号8。私と同じ番号だ。
「三宅、吉田、鎌田の鉄壁の内野陣。バックトスがオハコだった」
「バックトスは、高木さんが昭和三十七年に……」
 私が呟くと、中が、
「そうなんだ。鎌田は三十八年にフロリダキャンプで初めて目にして、三年後にようやく使えるようになった。守道のほうがはるかに先輩だ。鎌田は三原監督にやるなと厳命されてるそうだよ。受け手がエラーしやすいからだって。鎌田は気にしないで、必要に応じてやってるみたいだね。うーん、外野はやっぱり土井の肩がいちばんいいみたいだ」
「みんな似たり寄ったりですね」
 ビジターの守備練習が終わり、きょうもウグイス嬢の美しい声が流れる。両チームの先発ピッチャーの発表。浜野と鈴木。中に、
「試合開始前の練習の順番を確認しておきたいんですが」
「いいよ、よく頭に入れてね。非公式試合のあいだは、バッティング練習時間や守備練習時間がけっこうバラついてたけど、最終オープン戦で公式戦のスケジュール戻ることが多いんだ。開門前一時間、ホームチームのバッティング練習、開門から一時間ビジターチームのバッティング練習、次にホームチームの守備練習十五分、同時に両チーム先発バッテリー発表、次にビジターチームの守備練習十五分、同時にビジターチームスタメン発表、試合開始五分前までメンバー表交換やグランド整備など各種イベント、試合開始五分前ホームチームスタメン発表。とまあそれが正式なところだけど、開門が早まったり始球式があったりなんかで、この順番や時間にもバラつきが出てくるけどね」
「そもそもオープン戦て何ですか」
 私の質問が連発しはじめたので、スワッとベンチの顔が結集する。高木が、
「公式リーグ戦開幕前の練習試合だね。セパ両リーグの交流試合がメインになる」
 葛城が、
「ナイターはないんだよ」
 長谷川コーチが、
「かなりの数の試合が地方球場で行なわれるんだけど、今年は各チームの持ち球場ばかりでラッキーだったね。オープン戦というのは、ルーキーにとっては貴重な実戦経験になるし、われわれ首脳陣にとっては、開幕一軍メンバーを決める最終審査にもなる」
 一枝が、
「公式記録員もいるし、観客も入るし、試合記録も残る。真剣試合だ」
 ビジターのスタメンが発表されていく。
 一番ショート安井、背番号6、二番センター山田、背番号11、三番ライト永淵、背番号10、四番レフト土井、背番号3、五番ファースト小川、背番号7、六番サード阿南、背番号5。阿南? 広島で守備の職人と言われた男でなかったか。たしか興津、森永、古葉のいた時代だ。カズちゃんと遇った飯場の白黒テレビ。なつかしい。七番キャッチャー児玉、背番号24。中が、
「吉沢さんが近鉄にいたころの二番手キャッチャーだ。吉沢さんは名捕手でね、キャッチャーで入団した慎ちゃんが、すぐに一塁へコンバートを申し出たくらいだ」
 吉沢はと見ると、一塁ベンチ右手のブルペンで浜野のボールを受けている。背中に空元気ではない悠然とした力がある。信じるものは何かと問われれば、人間だと答えたくなるような背中だ。
 八番ピッチャー鈴木、背番号1、大歓声が上がる。姿が見えない。まだ室内練習場で投げこんでいる最中だろう。九番セカンド鎌田、背番号8。宇野ヘッドコーチが、
「三原さんは、どのチームに着任したときも、まずキャッチャー要員を呼んで、ほかの五球団の公式戦予想先発メンバーを書かせるそうだ。ほかに、新人はだれが入って、それによって予想されるオーダーは変わるかどうか、どんな戦力を補強したか、取材にきた新聞記者から仕入れた情報はないかまで書かせるらしい。その結果、一人のキャッチャーを選ぶ」
 江藤が、
「そんな監督の下には金を積まれてもいきたくないのう」
「それだけで終わらない。相手チームの打者に対する具体的な攻め方、つまり彼らに対して個々の投手をどうリードするかまでも考えさせる。たとえば先発を浜野だと予想すると、彼の投球の特徴は何か、いちばん得意な球でどう攻めるか、自軍の打者一人ごとの配球を説明させる」
「それがレベルの高い野球だと思ってるんですね。インサイドベースボールですか? 頭の中の野球というつまらない意味です。頭、頭、頭か。日本人のアタマ崇拝にはうんざりだ! 野球の世界までアタマを持ちこむな! そんなもの、強打と速球とファインプレーの前にはひとたまりもない。つまり直観には敵わないんですよ」
 太田と菱川が私の剣幕に驚く。木俣が高笑いを上げた。
「俺だったら初日で逃げ出すな。水原監督は何も要求しない。自分たちでやれと言う。それは余分なことは考えるなという意味だぜ」
 私は、
「水原監督がいちばん理にかなってます。三原監督の言うことは、キャッチャーならみんなやってることですよ。そんな予行演習より、現場の判断がすべてです。余分な準備知識があると、現場で直観を働かせる障害になります。南海の野村さん自身も、考えてホームランを打ってるとか、考えて囁いてるとか言ってますが、大嘘つきの詐欺師です。彼は素振りの鍛錬ではなく、才能でホームランを打ってるだけです。孤高の天才ですよ。その静かな雰囲気を隠したくて、おどけて饒舌に振舞うことに美学を感じてるんでしょう」
「そのとおり! 自然にまかせなさい」
 水原監督がベンチを覗きこみ、
「自然に振舞ってないと、金太郎さんにぜんぶ見抜かれてしまうぞ。つまらんアタマ野郎に洗脳されるくらいなら、金太郎さんと心中したほうがいい」



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