百二十三         

 牧野公園のベンチ二つに六人並んで腰を下ろす。太田が、
「俺、三十六年の記憶はハッキリしてます。明けても暮れても、権藤、権藤。そこまで投げても、ペナントレースは二位でした」
「俺もハッキリ憶えてます!」
 菱川が突拍子もない大声をあげた。
「あの年のことはいろいろ思い出せます。中日は一ゲーム差の二位だったんですよ。大洋の桑田が、カープ戦で二試合連続サヨナラホームラン、近鉄のブルームがヤンキーゴーホームの野次に怒って客をぶん殴る、国鉄森滝の完全試合、剛速球尾崎の浪商優勝、稲尾四十一勝プロ野球新記録、森徹のトレード。オールスターはナイターで、第一戦が中日球場でした。広瀬のスリーラン一本で、パリーグが三対ゼロで勝ちました」
 まるで将棋の棋士の記憶だ。私も経験したことにちがいないのに、記憶が散り散りなのはどうしたことだろう。
「あのオールスターはナイターだったんですか。昼間だと記憶してました」
 太田が、
「俺もあの試合、外野で観ました。神無月さんもいったんでしょう」
「うん。ダフ屋から買った切符で入った。内野席」
「スタメンのオーダー、憶えてます?」
「なぜかパリーグのほうが鮮やかなんだ。一番榎本、二番……」
 江藤が、
「田宮コーチたい。第二戦でMVPになっとる」
「田宮コーチ……」
 顔もバッティングフォームも記憶にない。おまけに第二戦は観ていない。ダフ屋の第一戦で熱が冷めたのだ。私はすがるような気持ちで、
「三番中西、四番山内、五番張本、六番野村、七番広瀬、八番……」
「ブルーム」
 さっきからブルーム、ブルームだが、いったいだれだ? 私はつづける。
「ピッチャー、杉浦、土橋、稲尾」
 菱川が、
「杉浦の次のミケンズを忘れてますよ」
「ミケンズ?」
「近鉄のミケンズ」
「ふうん……セリーグはクリーンアップしか憶えてない。三番森、四番長嶋、五番王、六番桑田……」
 太田が、
「たしかに、俺もセリーグはそのくらいしか憶えてませんね」
 菱川が、
「一番土屋、二番近藤和彦、七番国松、八番根来、ピッチャーは北川、森滝、秋山、権藤」
 棋士の記憶! この情熱だ、この情熱を回復しなくてはいけないのだ。高木が、
「金太郎さん、暗い顔して、何を反省してるんだ。金太郎さんには甦らせる記憶なんかないんだよ。情熱が消えて野球のことを忘れたんじゃない。もともと気まぐれにしか記憶してなかったんだ。いまとまったく同じだったんだよ。金太郎さんは人間じゃない。野球の神だ。神は下界を眺めて楽しめばいいだけだと思わないか。記憶する必要なんかない。俺たちは、金太郎さんに情熱がないなんて思ったことは一度もないぞ。くだらないことは気にしないで野球にだけ打ちこむ、そういう金太郎さんに感動して、ついていこう、引っぱっていってもらおうと決めたんだ」
 江藤が、
「そうたい。無理に記憶することなんか何もなか。ワシらは記憶したり、研究ばしたり、鍛錬ばしたりしてファイトを湧かす。金太郎さんはワシらの願いに応えようとしてファイトば湧かす。ちいしゃかころもそうやったんやろう。それは最高の情熱たい。それが金太郎さんば奮い立たせた情熱の仕組たい。金太郎さんの仕事はそれだけばい」
 太田が、
「神無月さんがしつこく質問する理由がわかりましたよ。自分に〈抜け〉があることを情熱不足のせいじゃないかと後ろめたく思ってたからですね。野球のルールまで質問したこともありましたね」
 小川が、
「野球だけじゃねえんじゃないか。下界のルールを知らないわけだから。俺なんか、金太郎さんの写真を壁に貼って拝んでるんだぜ。遇った瞬間に神さまだってわかったからな。俺、バカじゃないから、金太郎さんがさっきへんなこと言い出したとき、ああ、と思ったよ。一時期野球から離れた、奮い立たなくなったと言ったろ。もともと、野球そのものをやる情熱なんかなかったんだよ。モリミチさんの言ったように、野球をやって人に応える情熱があっただけなんだな。一時期奮い立たなくなったんじゃない。いろいろ話を聞いてみれば、奮い立たなくされたんじゃねえか。その時期も野球以外のことでちゃんと人に応えてたんだよ。それがたまたま、もう一度野球で応えられるようになっただけだ。これは俺たち野球野郎の幸運だ。大いに利用しなくちゃな」
 菱川が、
「小川さん、感動しました!」
 太田が、
「俺もへたりこみたいくらい感動してます。寺田の見舞いにかよいつづけた意味もしっかりわかりました! 野球以外でも人に応えようとしてきたということですよ」
 小川が、
「俺たちみたいな多少でも有能な人間なら、金太郎さんを見抜けるよ。くどいようだけど、一芸に秀でた者はバカじゃないからさ、天才の領域は荒らそうとしない。金太郎さんは遠慮して言わなかったけど、さっきの女たちのほとんどは、金太郎さんの守り神だろ? 慎ちゃんも太田も知ってたみたいだけどな。モリミチさんだって気づいてたろ」
「とっくに。そういうのは天才の領域だ。天才の遊び場は荒らしちゃいけない。平凡なやつらに見つけられないようにしないとやばいということさ。北村席に呼ぶ連中をよほど吟味しないと、荒らされるぞ。そういう連中は口が軽いからな。荒らされたら、神さまは怒って、俺たちを見放しちまう」
 江藤が、
「くわばらくわばら! さあ、北村席のうまかめしば食って、金太郎さんの天使の声ば聴かせてもらおうや」
 六時半を回って、一同が座敷に会した。長テーブルが四枚くっつけられている。直人が走り回り、賄いたちがせっせと惣菜を盛った皿を並べている。一つ目の卓の上座に主人夫婦が坐り、下座に江藤たち五人が並んで腰を下ろすと、それに向かい合って私と山口と菅野が腰を下ろし、私たちの脇にカズちゃんとトモヨさんと素子が坐った。さっそく直人がやってきて、ずらりと並んだ膝を渡り歩く。
 その一つ隣のテーブルに、節子とキクエと文江さんと百江とメイ子、向かい合って千佳子と睦子と天童と丸というふうに坐った。残りの二つのテーブルの一つには店の女たちがめいめい坐り、遅番の女たちもほとんど出勤しないで席についた。残りのテーブルは賄いたちのために空けてあった。おトキさんが、
「ビールお願い!」
 と叫ぶと、はーい! と厨房から女たちの声がした。ビールとコップがどんどん運びこまれる。さっそく店の女たちが席を立ってきてにこやかな顔でつぎはじめる。高木が、
「すごいな、このごちそうは!」
 主人が、
「どうぞ召し上がって。ごはんになさりたければ、そのつど言ってください。ところでみなさん、あしたの予定は?」
 江藤が、
「寮監に、遅くなるとは言うてきたっちゃん。あしたは昼あたりから室内練習場でぼちぼちやる予定ばい」
 小川が何かを予感して、
「右に同じ。泊まることもあると女房に言ってきました」
「若い人お二人は融通が利くやろ。高木さんは?」
「二十七歳。昨年結婚。東山で女房と二人マンション暮らし。私も泊まれます」
「決まった。みなさん、泊まってってください。二階に部屋が八つもあります。気に入った女の子を付けますからご随意に。口は堅いですから、安心してください。北村席から外へ情報が漏れることはありません。強い信頼関係ができとります」
 江藤が顔の前で手を振り、
「ご好意痛み入りますが、お言葉に甘えるわけにはいかん。そんことはワシらのあいだで話がついとります。この家は金太郎さんの城ですけん、金太郎さんの家来のワシらは無礼な振る舞いはできん。泊まるだけにさせていただきます」
 五人の男が申しわけなさそうに頭を下げた。
「さすがの心映えですな。神無月さんが招待する人間にまちがいはない」
 主人がパンパンと手を拍ち、いちどきに座が賑やかになった。ビール瓶のやり取りが始まる。節子たちが自己紹介を兼ねてやってきて酌をする。文江さんは遠慮してテーブルにくっついたままでいる。トモヨさんとおトキさんが両脇から直人に添いかけて食事をさせはじめる。柔らかそうな煮込み野菜や、ハンバーグの切れ端などを重湯に載せてスプーンで与える。食欲旺盛だ。菱川がトモヨさんに、
「あのう……トモヨさんとアイリスの女神さんは、双子ですか」
「いいえ、他人ですよ。よく似てるでしょ」
「はい。微妙にちがうので、かえって双子かと思いました」
「だからお嬢さんが産んでも、直人そっくりな子が生まれたでしょうね」
 菅野が選手五人に向かって、
「私はもとタクシー運転手でしてね、何年か前、神無月さんとお嬢さんと山口さんを乗せて徳川美術館へいったことがきっかけで、こちらに雇ってもらうことになりました。お嬢さんも神無月さんも、名古屋西高なんですよ。この山口さんは東京の戸山高校ですがね」
 脈絡なく話す。山口もそれに乗り、
「俺も神無月も転校生です。二人とも青森高校から。そこの二人も青森高校です」
 千佳子と睦子を指差す。女将が、
「神無月さんと山口さんとムッちゃんは、東大の同級生、千佳子さんは今年から名大生」
 睦子が、
「私も今年から名大生です」
 小川が、
「なになに、こんぐらかるなあ」
 千佳子が浮きうきと、
「ムッちゃんは東大をやめて、名大を受けたんです。私は初めての大学受験。節子さんとキクエさんは、中村日赤の看護婦さん。節子さんは直人くんを助産婦さんと協力して取り上げました。節子さんは神無月くんのいちばん最初の恋人。寺田さんを見舞ってたときに知り合った看護婦さんです。キクエさんは、神無月くんの西高時代の先生で恋人」
「待て待て、ますますこんぐらかるなあ」
 高木が、
「まあまあ、深く考えずに。トモヨさんは、そのお腹、二人目ですか」
「はい。女の子がいいなって思ってます。ここにいるみんなの願いを抱いて生まれてくる子なので、しっかり産まないと。もう四十なので、最後の子です」
 中番の女たちが三、四人帰ってきた。お風呂お風呂と言っている。座敷に入ってきて、
「あらあ、ドラゴンズ! びっくりしたあ」
「お風呂入って、きれいにしてきます」
 どやどやと風呂にいく。カズちゃんが、
「あらためて自己紹介しておきます。私はこの家の一人娘の和子です。今後ともお見知りおきください」
「北村智代です。そのウロチョロしてるのは直人」
「兵藤素子です。和子お姉さんの弟子」
 隣のテーブルに移り、一人ひとり自己紹介していき、列を一周して一つ目のテーブルの最後に北村夫婦と菅野が名乗った。文江さんが隣のテーブルからやってきて、
「申し遅れました。駅西で書道塾をやっている滝澤文江と申します。ここにいる節子の母です。今後ともキョウちゃんのことをよろしくお願いいたします」
 恥ずかしそうに笑いながらテーブルに戻る。山口が、
「いま自己紹介したみなさんが、神無月帝国のメンバーです。おトキさん!」
「はーい」
 おトキさんがいそいそとやってくる。五人の脇に平伏し、
「狭山時子です。お見知りおきください」
 挙げた顔が四十そこそこに見えた。美しく輝いていた。
「俺の恋人です。四年越しの恋でしたが、いよいよこの五日から東京でいっしょに暮らすことになりました。ギター一本で生計を立てられるようになったら、名古屋に定住する予定です」
 高木が、
「アタマがパンクしそうだよ」
 江藤が、
「ワシは一度パンクして、修理した」
 ドッと座が笑いで賑わう。太田が、
「俺は、明石の初日に神無月さんに告白されて、しっかりパンクしました。もちろんいまは空気が入ってます。菱川はいまパンク中だと思います」
 菱川は頭をゴシゴシやり、
「なんのなんの、これしき」
 店の女たちがまたドッと笑った。女将が、
「みんな神無月さんに何の隔ても感じとらんのよ。座敷で、素っ裸で腕立て伏せをする人ですから」
 小川が、
「そりゃツワモノだ。まねしたらいかん。そう言えば―」
 江藤が、
「明石球場やろ? 雨上がりに素っ裸で筋トレやっとった」
 高木が、
「あれは驚いた」
 菱川が、
「ぶったまげた」
 主人が鷹揚に笑いながら、
「本人にはどうという気もないんですよ。しかし、なるべく止めてやってください。慣れとらん人は驚きますから」
 またドッときた。高木が、
「青森時代から北の怪物と言われ、その後も数々の記録を樹(う)ち立ててきたわけだけれども、野球のできごとをあまり記憶しない金太郎さんは、たとえ自分のことでももちろん憶えてないんだろうね」
「はい、ほとんど憶えてません。記録は人が保存してくれますから。観客席の知り合いの笑顔や、空の色や高さや、チームメイトたちの言動はよく憶えてます。西高時代に勧誘にきた村迫代表の真剣な表情なども。新人入団式のとき、中学時代ぼくにホームランを打たれたと水谷くんか竹田くんが言ってましたが、まったく憶えてませんでしたし、いまも思い出せません」


         百二十四 

 おさんどんが始まり、リクエストした全員にめしが盛られていく。ソテツが私にめしを盛った。中番の女たちが風呂から上がってきた。接待用に身なりを整えている。小川がビールのコップを離さず、
「ほんとに龍宮城だな」
 菅野が、
「小川さんは、王貞治が天敵ですね」
「そうなんですよ。今年は秘策を考えて、木俣といろいろ研究してますが、彼だけは半分あきらめてます。金太郎さんには申しわけないけど、五、六本打たれるだろうなあ」
 私は酢豚でめしを食いながら、
「王の泣きどころは、内角高目速球のボール球です。打ちにきたら、まず凡打か三振に抑えられます。小川さんの球威なら抑えられます。打ちにこなければボールにすればいいだけのことです。ホームランバッターに低目は全コース危ない。内角以外の高目も危ない」
 主人が、
「江藤さんの、あの右肘をクッと後ろに突き出した構えはどんなわけでいきついたものですか。とても安定した構えですが、たしか最初はああいう構えじゃなかったですよね」
「はあ、腋を締めとりました。ばってん、どうも窮屈で、アメリカの打撃専門書を天知さんに翻訳してもらって読んだら、自分がいちばんラクな形で構えろと書いてありました。ワシは怒り肩やけん、あの形がいちばんラクでした」
 女将が、
「野球選手は、どうしても野球の話になりよるねえ」
 素子が、
「ほんとうだがね。うちらとも話をしてちょう。うちは、いまはアイリスの店員、調理師免許あり。二年前までは、そこにいるお姐さんがたと同じ仕事しとったんよ。同じとは言えんな。北村子飼いのお姐さんがたのほうがレベルは上や。あたしは最低のストリートガール。キョウちゃんに遇って、まともな女にしてもらった」
 初めて出会った時の素子を思い出せるかぎり思い出す。流行りのアップにした髪が顔の細い輪郭を曝け出し、大きな目の上にも下にもたっぷりアイシャドーが利いていて、形のいい鼻と小さな口もとを顔の付録にしていた。美人だが、夜の仕事に疲れた顔だった。睦子が、
「まともって、どういうふうですか?」
「まず、まともな形やね。昼間に生きる女にしてもらえたってこと。ふつうの生活をする平凡な女。これは革命やろ。それが一つ目。二つ目は形やなくて、理屈がちゃんとわかるまともな頭にしてもらったってこと。ふつうとか平凡というのは世間が尊重するほど大したことやないって、キョウちゃんの行動から学ばせてもらった。大したことないなら、もとのストリートガールと同じということや。うちは革命を起こしたわけでもなんでもない、同じように生きとっただけやとわかった。まともにものが見えるようになったわけや。それがほんとの革命やった。いまはその目で、昼の世界も夜の世界も見れるようになったんよ。どっちの世界で暮らすかは好みの問題で、何の差もあれせん。うちは男にこねくり回されるのは好みやないから、夜の世界にはもう戻らんけどな」
 素子の進路の決定に私は加担していない。多くの者が自分で道を選ぶ自由意志を持っている。道が明らかでない交差点では、方向感覚が問われる。選択する道により自己が形成される。菱川が、
「隔てのない目ですね。俺も神無月さんから学んだいちばん大きなものはそれですよ。どんな条件や環境のもとで暮らしていようと、人間に変わりはない」
「ほうよ。うちの場合、そういう気持ちになったら、外見もどんどんきれいになっていったんでビックリしたわ。ここのみんなきれいやろ。お姉さんなんかギョッとするくらいや。十年前にキョウちゃんに遇ってからどんどんきれいになったんやて」
 キクエが、
「私もです。とてもブスだったんですけど、なんとか人並になりました」
 江藤が、
「それは磨きがかかったということで、みなさん、最初から美しか人やったんやろう。金太郎さんは整形外科医でなかけん」
 和やかな笑い。文江さんが、
「気の持ちようで変わったんやなく、ほんとに変わっていったんよ。私は小デブでチンクシャやったもの。節子は最初からきれいやったから、和子さんと競るくらいの美人になったわ。いっときキョウちゃんから離れとったころは、この子、こんなブスやったかなあ思うくらいやった」
 千佳子が、
「きょう、科目登録のとき、私も何人かの男の人に振り返られました。高校時代まで、そんなことは一度もなかったんです。ムッちゃんには敵わないけど、美人の仲間入りができたと思ってます」
 山口が、
「不思議なのは、神無月に変身させられるのは女だけじゃないということなんですよ。男も変えられる。内も外も。男は、男同士で向き合うのを仕事にすることが多い。後ろ盾も金看板もない男同士が向き合えば、純粋に地金(じがね)の勝負になる。神無月はその地金を磨いてくれる」
 小川が、
「そのとおりだなあ! それは俺たち全員にも当てはまるんだ。地金の外の外見はどうかな」
 カズちゃんがめしをもぐもぐやりながら、
「みなさん、とっても美男子ですよ。野球選手にはもったいないくらい」
 江藤が、
「ワシもですか」
「選手名鑑の写真とはぜんぜんちがいます。オーラがあります。つまり美男子です」
「信じてよかですか」
「信じるも何も、そう見えます。おトキさん、ごはんのお替りちょうだい」
 素子が、
「百江さん、ボンゴレ好評やったよ。二十皿も出たねえ。男の職人さんのミートソースのタレはさすがやわ」
 話をポンと飛ばす。
「あの味は作れません」
 ソテツが、
「私、作れます。オムライス、どのくらい出ました?」
 メイ子が、
「やっぱり二十皿くらいかしら」
 天童が自分で櫃(ひつ)からめしをよそいながら、
「もう何がなにやら、一日一生懸命で、数えてる暇なんてありませんでしたよ」
 丸が、
「飲み物だけの人はほとんどいませんでしたけど、お嬢さんがおっしゃってたとおり、百五十人ぐらいきましたね」
「当分この人数がつづくわね。用意する食材の量の目安ができたわ」
 直人が女将の膝でコックリを始めた。
「お風呂に入れて寝かしてきます」
 トモヨさんが席を立つと、小川が、
「宝石みたいにきれいな子だなあ。うちの四人の息子と大ちがいだ」
「ワシの博多の娘も、子宝とは名ばかりたい。逢えばかわいらしかけんが」
 子供は寝床であしたがくると信じている。大人は楽観していない。私は話を野球に戻し、
「いまのドラゴンズのオーダーになったのは、いつからですか」
「金太郎さんが野球から引き離された昭和三十九年からばい。三十八年に、マーシャルやらニーマンやら大リーグ組ば入れたばってん、どうにもならんかったけんね」
 主人が、
「マーシャル、江藤、ニーマンでクリーンアップを打ちましたね。ご高齢のニーマンは一年こっきりやったけど、マーシャルは三年ぐらいいたでしょ。どうにもならんというほどでもなかったですよ。マーシャルがけっこうホームランを打ってくれたし、濃人を追い出したおかげで、全球団に勝ち越して、二位やったんですから」
 江藤はうれしそうにうなずき、
「眼鏡男のニーマンは、月光仮面と呼ばれとったな」
 菅野が、
「金田をよく打ったんで、子供たちから正義の味方と思われたんでしょう」
 高木が、
「三十八年は俺も五十盗塁でタイトルを獲りましたし、柿本が二十勝投手になった。まあまあでしたよ」
 柿本? だれだ?
「三十九年、四十年とワシは首位打者獲ったし、たしかにまあまあやったなあ。ばってんワシには、あの三年間は、児童公園で外人混ぜて三角ベースやってる感じやったばい」
 ほとんど記憶がない。その二年間のことを知らないからだ。瞥見したじっちゃの新聞と葛西家のテレビ。記憶がどれほどかすかでも、記憶そのものが消えてしまったわけではないのに、高木や江藤たちの言うことが思い出せないということは、私はやはりそのころ野球への関心をすっかり失っていたということになる。しかし、それでいい。情熱の端緒を江藤たちが分析してくれた。その情熱を私はいま取り戻している。私は明るく、
「三十九年はいろいろあって、まったくプロ野球を観てません。じつは四十年以降も人の口から聞くだけで、入団までほとんど観てなかったんです」
「わかっとる。それでよか。ワシらのことを新鮮に思ってもらえるけん。入団式のウグイス嬢のものまねの話ば聞いて、金太郎さんの記憶はプツンと途切れとるとわかった」
 小川が、
「俺はそのものまね聞いてみたかったな。その場に出席できなかったことが、かえすがえす残念だ」
「新人しか出られん懇親会やけん、仕方なか」
 高木が、
「三十九年に、木俣の達ちゃん、一枝の修ちゃん、千原の陽ちゃん、そしてこの健太郎さんが入団したんだよ」
「ばってん、最下位やった。ワシは活躍したばい。首位打者ば獲ったけんな。それからの何年かは、金太郎さんもいろいろ調べたやろ。話すこともなかろう。とにかくこうして遇えて固い絆が結ばれた。金太郎さん、神さまは神さまらしくせんばいけん。ワシらに拝まれとらんといけん。この先ずっと、ワシらはむかし話はせん。金太郎さんといっしょにあしたしか見ん」
 江藤が手を差し出し、私の手の甲に置いた。高木たちも次々に置いた。フラッシュが光った。菅野が写真を撮っていた。カズちゃんが、
「菅野さん、その写真、東奥日報さんに送っておいてね。いまからギターと歌のステージだから、それも撮って送ってね。それから、あしたの朝、キョウちゃんとドラゴンズ五人の真ん中に直人を入れて撮ってあげて。大きくなってから教えてあげたいから」
「了解!」
 素子が、
「うちらを撮ったらあかんよ」
「わかってます」
 菱川がカズちゃんに、
「北村席の人たちは、だれにでもこんなふうに気さくなんですか」
「気に入った人にだけね。博愛主義者じゃないから」
 高木が、
「中さんが言ってたな。キリストは博愛主義者じゃなかった。身近な者を異常に愛したって。ユダのことは許さなかったらしいぞ」
 菱川が、
「神無月さんは、気に入らない人のことはどう感じてるんですか」
「最初は反発しますけど、そういう人はすぐに真っ白い顔になるんです。目も鼻も口も少しも印象に残らない。表情もない。齢すらわからない。のっぺりとした、ただ白いだけの顔です」
 太田が、
「頭から消えてしまうということですね」
 キクエと節子が店の女たちを連れてふたたび押し寄せてきて、江藤たちにまとわりついた。彼らが私との馴れ初めを質問すると、洗いざらい教えている。私はおトキさんやソテツたちのいる賄いのテーブルへいき、少しビールを飲んだ。横のテーブルにいる文江さんや、睦子、メイ子、千佳子たちが笑っている。私は文江さんのテーブルにいき、
「文江さん、あしたは、江藤さんたちが帰ったあと、花見だよ。これる?」
「無理やなあ。五時からしか空かん。きょうは歌聴いたら帰るわ。そっと帰るから見送らんでええよ。お嬢さんが言ったように、野球選手はオーラがあるねえ。まとめて見ると圧倒されるわ」
 妙に明るい声で笑った。主人夫婦が思わず振り向くほどだった。
 トモヨさんが直人を風呂に入れ寝かしつけて戻ってきたのを潮に、食後の器が片づけられ、箸とコップと料理の皿だけが残された。襖が取り払われ、暗い部屋にステージライトが灯された。すぐに文江さんと節子がステージの前の仕切り部屋に陣取った。江藤やカズちゃんたちもそろりそろり移動してきた。山口がギターを抱えて辞儀をすると大きな拍手が上がった。
「ドラゴンズのみなさんに驚異の声をプレゼントします。すでにご存知のようですが、それならばなおさらお聞かせしたい。何度聴いてもすばらしい声だということを確認してほしいからです。グランドでの驚異はこれからいくらでも目にできるでしょう。しかし、神無月の歌声はめったに聴けません。神無月は唄いたい歌しか真剣に唄わない。彼が球界に天馬となって降りてきたように、彼の歌声は天上から降ってきます。たちまち目が痛みはじめます。俺のギターの到達点は、神無月の神秘的な歌声にあります。生涯懸けてそこに向かおうと思っています。じゃ、神無月、何を唄う?」
「パン売りのロバさん。一番だけ」
 山口は一瞬躊躇したが、大きくうなずき、すばらしい前奏を弾きはじめた。ずっちゃ、ずっちゃ、ずっちゃ、ずっちゃ―

  ロバのおじさん チンカラリン
  チンカラリンロンと やってくる
  ジャムパン ロールパン
  できたて焼きたて いかがです
  チョコレートパンも アンパンも
  何でもあります チンカラリン

 キャー! と声をあげたのは、なんと女将だった。菱川が立ち上がり、掌が破れるほど拍手をする。いっときに涙が流れ出たのだろう。泣いている。残りの四人も、
「目がギュッと熱くなったばい」
 と言う江藤にうなずき、たちまち涙目になっている。見下ろすと、節子母子も泣いていた。


         百二十五

 山口がうつむいたまま、勝手に次の前奏を始めた。『ひみつ』だった。

  ラモレ ヘン ポディピュー
  デュンベン リッシモ ボールトー
  エディピュー モールトピュー
  エデイオティ ボーイョ ズベラール
  ウンナン ティコ セグレート
  ケサダール ラファリーチター  

 短い間奏から転調する。カズちゃんも素子も睦子も千佳子も泣いている。節子も文江さんもキクエも泣いている。トモヨさんも菅野も主人夫婦もおトキさんもソテツも泣いている。百江もメイ子も天童も丸も店の女も賄いの女も泣いている。ドラゴンズの五人も腕組みをしたり、テーブルに肘をついたり、両手で後頭部を抱えたりしながら涙を流していた。

  ヴォイ トゥサペ
  クォー ゼラモー
  ダイ センザッキエー デレマイ
  セ トゥデライ
  アンコー ラディピュー
  ゴーノシェ ライナーモール

 長い間奏。だれもかれも目を拭うことで忙しく、狂おしいほどになっている。彼らは何という歌手の、何という歌なのかも知らない。私も歌詞の意味を知らない。歌詞などどうでもいい。歌はメロディと思いのたけだから。光夫さん!

  エデイオティ ボーイョ ズベラール
  ウンナン ティコ セグレート
  ケサダール ラファリーチター  
  ヴォイ トゥサペ
  クォー ゼラモー
  ダイ センザッキエー デレマイ
  セ トゥデライ
  アンコー ラディピュー
  ゴーノシェ ライナーモール
  ゴーノシェ ライナーモール
  ゴーノシェ ライナーモール……

 ドラゴンズの五人が走るようにやってきて抱きついた。山口がハンカチで目を覆った。おトキさんが走っていき、山口の肩をそっと抱いた。菅野が叫んだ。
「神無月さん! 神さま! 山口さん! 神さま!」
 五人は山口とも握手しにいった。
「ギターの音とは思えんかった」
「オーケストラのようでした」
「神業ですね」
「ありがとうございます。神無月に溶けて精いっぱい弾きました」
 興奮が醒めるのに時間がかかった。私はもう一度菱川に抱き締められながら、マイクの前に立ち尽していた。山口が、
「アンナ・マリアの『ひみつ』という曲でした。青森高校の一年の秋、健児荘というアパートの部屋でこの曲を弾いていたとき、聞きつけて神無月が俺を訪ねたのが二人の出会いです。記念すべき曲です。この曲を弾くたびに……なんて俺は神無月を愛してるんだろうと気づいて、からだがふるえます。神無月は俺の命です。だから、神無月が生きているあいだ、俺は死にません。神無月が死ねば、死にます。そしていつも祈ってます。神無月が大勢の人に愛されますように。彼の歌と、詩と、天上の芸術と、ダイヤの心にいつも触れていられますように」
 カズちゃんが私を抱き締めにくると、山口はおトキさんを抱き締めた。カズちゃんのあとにトモヨさん、素子、睦子とつづいて私を抱き締めた。それから節子が唇だけのキスをした。男五人は座敷のテーブルに戻った。主人が燗酒の用意をさせ、賄いたちに酌をするように言った。私が山口とおトキさんをステージに残して自分の席に戻ると、千佳子、キクエ、百江、メイ子、天童、丸と順に私を抱き締めにきた。最後に節子と同じように文江さんが唇だけのキスをした。高木がポツリと、
「夢だね……」
 江藤がソテツの酌を受けながら、
「あしたの朝、醒めるばい」
 小川が、
「金太郎さんは野球なんか記憶できないよ。この家から遊びに出かけてるだけだもんな」
 菱川が太田に、
「俺たちも遊ぼうぜ」
「そうですね、遊びしか夢中になれませんからね」
 文江さんが畳に手を突いて挨拶をした。
「ごちそうさまでした。キョウちゃん、山口さん、すばらしい音楽、ありがとう。和子さん、今度お弟子さんや生徒さんを連れてアイリスにいきます。二十人くらいでいくときは予約取らしてくれん?」
「わかった。都合のいい日時を決めたら電話ちょうだい」
 節子が同じように、
「すばらしい夜をありがとうございました。仕事に慣れるまで、しばらくこれません。山口さん、おトキさんとお幸せに」
 ステージに声をかける。キクエが、
「コンクールの成功お祈りしてます。かならずおトキさんを連れて名古屋に戻ってきてくださいね」
「はい、かならず」
 菅野が、
「日赤まで送っていきます。歩くと少し遠いですよ。道のりも知っておきたいし、神無月さんに伝える義務もありますから」
 文江さんが、
「じゃ、私もついでに乗せてもらいます。私を先に降ろしてちょうね」
 主人が、
「節子さん、キクエさん、トモヨの出産までのアドバイス、よろしくお願いします。お師匠さん、定期健診サボっちゃあかんよ」
「はい、お気遣いありがとうございます。ドラゴンズのみなさん、心からご活躍をお祈りしとります」
 五人の男が深々と頭を下げた。
 おトキさんについてトモヨさんとソテツと賄いたちが後片づけのために座敷と厨房をいききしはじめた。江藤たちに風呂が勧められる。江藤が、
「ワシらは、もう少し話ばしたか。風呂はあとでよかです」
 主人が、
「じゃ寝る前にゆっくり入ってください。おトキ、ビールをお出しして」
 山口がスペインふうの曲を弾きだした。睦子と千佳子が店の女たち四、五人といっしょにステージの前にたむろして、首を傾けながらうっとり聴いている。小川が、
「ここはとんでもない人間たちの集まりだな。金太郎さんが、そういうみんなに何気なく応えられる神人でよかったよ。ただの野球人だったら、パニックだ」
「正真正銘、果報者のヨタロウです。ぼくはいい意味で〈養われ〉てるんですよ。養育というのは教育的な人から与えられると無情に感じられます。ここの人たちは人間に対して教育的でありません」
 高木が、
「養育の心があって、教育的でない、か。―なるほど、金太郎さんの言う養育は、しっかり見守られながら、気ままに解放されることだね。ここにいると、何の拘束もなく満たされた感じがするのはそのせいだな」
 素子が、
「うちらも、キョウちゃんに育てられてるって感じがしとるんよ」
 メイ子が、
「こんなにやさしい人たちの中でいままで暮らしたことがなかったので、つい大きな気持ちになって甘えてしまいます。私みたいなふつうの人間が甘えちゃいけないと思うんですけど、どうすれば甘えないで生きていけるかうまく考えられません。甘えない自分をきちんと持っていなければ〈外されてしまう〉って、いつも怖い思いをしてます」
 カズちゃんが、
「そんなふうにまじめすぎてもいけないわ。つまらないことを考えないの。おたがいのまじめさで肩が凝ってしまったら、いっしょに生きてる意味がなくなるでしょ。おたがい甘え合わないと困ったことになるわよ」
 江藤が、
「金太郎さんは歌を唄っとるときもまったく何も考えとらんごたるばってん、バッターボックスでピッチャーに対するときもやっぱり無心なんやろかのう」
「無心とは言えません。いくら無心に見えても、欲がないわけではないんです。自分に与えられた場所で、ありのままの自分を輝かせたいという欲です。そのためには知恵を捨てる努力だけはします。バッティングについて知っていることを捨てようとします。そうすると、神経が煮詰まると言うか、感覚が沸騰して噴き出す感じになります。安らかな無心の状態になるという感じではありません。からだのぜんぶを硬直させて、何秒かのあいだ、ホームランを打とうという欲にまみれてボールを待つんです」
 小川が、
「いつかも金太郎さんが言ってたけど、基本は、グランドに抱かれてるという気持ちから発してると思うぜ。その気持ちで、安心して感覚を沸騰させる」
 菱川が、
「〈出す〉寸前みたいなものですか」
「それだな」
 高木が、
「ボールをミートした瞬間、そう感じることがあるね」
 江藤が、
「あるある」
 女将が、
「ほんとにみなさんがたは、何でも野球にもっていくんやねえ。感心するわ」
 カズちゃんが母親のような笑顔で、
「男は照れ屋さんなのよ」
 女将が、
「野球はまた別の理屈でやっとるんでしょ。あんたがたは特別な才能の持ち主なんやから、女を抱くのといっしょにしたらもったいないがね」
 カズちゃんが、
「おかあさんたら、女をバカにして。才能のある人を包んであげられるのは、女だけなのよ」
「はいはい、仰せのとおりです」
 主人が、
「ワシゃ、才能ないが、包んでもらっとるぞ」
「だれに?」
「おまえにや」
 女将が顔を赤らめる。あたりに和やかな笑いが拡がる。男たちのコップにビールがつぎ足される。山口がステージでギターを弾いている。コンテストのための練習をしているのにちがいない。深みのある複雑なメロディを奏でる。トモヨさんとソテツといっしょに厨房から戻ってきたおトキさんが、目を細め、ドラゴンズの連中に、
「イタリアのコンクールで入賞したら、プロデビューなんですよ。レコードも出ます」
 太田が訊く。
「ギターのプロというのは、どういうことをするんですか」
 ステージから山口が答える。
「日本各地の演奏会が主なところです。テレビに出ることや、外国に呼ばれることもあります。それから、文江さんみたいに教室を開くことなんかもできます。あとは、評判がいきわたれば、不定期にレコードを出すことがあるかもしれません。もともと神無月を援助しようと思って取りかかった計画だったんですが、神無月にふところの心配がなくなったいまは、自分の収入はおトキさんとの生活に役立てようと思ってます」
 カズちゃんが素子とうなずき合いながら、
「私たちもキョウちゃんに援助するつもりで仕事の計画を立てたのよ。これからは、キョウちゃんが野球をやめたときのことを考えて、せいぜい貯えておかなくちゃ」
 店の女たちがボチボチ自分の部屋に引き揚げはじめた。天童と丸は仲良く肩を並べてカズちゃんのそばにいた。賄いたちの手で食卓の片づけが始まる。おトキさんとトモヨさんに促されてソテツが厨房へいった。
「洗い物お手伝いします」
 千佳子と睦子もメイ子といっしょにテーブルの食器を厨房へ運んでいった。主人が、
「いつものことやが、ええ夜やった。ささ、江藤さんがた、まだ話し足りないやろが、そろそろ風呂に入ってくださいや。話のつづきはまたあしたの朝にして」
「おお、こんな時間ね。ひさしぶりにゆっくりしたばい」
 小川が、
「この一時間は龍宮城の百年なんだろなあ。あした爺さんになってるかもしれんぞ」
 高木が、
「それじゃ女房に申しわけが立たないよ」
 柱時計を見ると十時を回ったところだった。女将が、
「玄関廊下の右手の客部屋にお床が延べてあります。寝巻きも用意してあります。ゆっくり休んでくださいや」
「じゃ、風呂もらって寝るばい。金太郎さん、またあしたの朝な。みなさん、お休みなさい」
「お休みなさい」


         百二十六

 江藤たちが風呂にいくと、ときを合わせて主人たちが夫婦の離れへ去った。素子がコーヒーをいれる。カズちゃんが、
「トモヨさんが、直人が何でも拾って歩くんで困っちゃうって言ってたわ」
「きっとあの年ごろの子供には、すべて意味があるんだよ。石ころにも釘にも。ぼくもいろいろ拾ってきて、空き缶に貯めた覚えがある。どんぐり、ナット、瓶のキャップ、化石に見えなくもない石、角の取れたガラスの破片、セミの抜け殻。それより、拾った者を口に入れないように注意したほうがいいな。トモヨさんに言っといて」
「はい」
 やがて、節子ら三人の女を送った菅野が帰ってきた。風呂から上がった江藤たちの浴衣姿が、玄関の客部屋へ向かうのが襖の隙の廊下に見えた。菅野と挨拶を交わしている。菅野は襖を開けて、
「アパートわかりましたよ。二人同じアパートのお隣同士です。今度お教えします。じゃ私はこれで失礼します。神無月さん、あしたは江藤さんたちを見送ったら、花見に出ますから、ランニング中止でいいですね」
「はい、よろしく」
「じゃ、お休みなさい」
 みんなでお休みなさいを言う。菅野が玄関戸を開けて閉める音がした。私はカズちゃんに、
「名古屋城じゃない花見はないかな」
「千佳ちゃんや睦子さんは、名古屋城は初めてだから、それでいいんじゃない?」
「まあね。ただ、桜がきれいなのは、人がたかってる門のところだけで、城内は閑散としてる。天守閣に登るにも狭い階段ばかりだ。各層のアトラクションも、何のおもしろ味もない。ムシロでも敷いて、のんびりお重でも食べたほうがいい」
 ソテツが聞きつけて台所からやってきて、
「それなら中村公園がいいです。旦那さんに言ってみます。トモヨ奥さまも、歩き回るより、ゴザでも敷いてのんびりしたほうがからだのためにいいですものね。たぶん、奥さまは出産まで、あしたが最後の外出になると思いますから。私、おいしいお重作ります」
 私に笑ってみせる。黄土色の顔にえくぼがあることがわかる。将来、どこかの男との人生が用意されたとき、彼女は褥の中でもこのえくぼを見せるのだろうか。
 女という生きものは嫌いではないが、こういう交尾儀式は嫌いだ。むろん交尾自体も好きではない。セックスという行為は、何かひどく下品だ。要するに、これほど多くの女と交わってきたのに、セックスは私に無縁の世界だ。理解できない。たしかに私は変わっているのだろう。そういわれることも多い。しかし、女の目から性欲に関して私はふつうに見えるにちがいない。それでいい。
「青森って寒いんでしょう?」
 的外れな質問をしてくる。
「寒いよ。でも寒さよりも、一年の半分が灰色の空だという印象が強いね」
「青森にも置いてきた女の人がいるんですか」
 トモヨさんが台所からやってきて、
「失礼なこと言わないの、置いてきたなんて。郷くんには何のつもりもないんですからね」
「いいんだよ、そのとおりだから。……何人かね。いつも心に引っかかってる。置いてくるというより、拘りのない生活をしてもらってる感じかな。睦子と千佳子は拘って出てきてくれた。何年かしたら、ヒデさんという人と、ミヨちゃんという人が出てくる。出てくるときは二人とも十八歳だ。名大生になる。拘ってくれてるならそれも大事にしたい」
「みんな神無月さんを大きな声で好きだと言える人ですね。……神無月さんに認められてるという自信のある人ばかりです。私は言えません。大好きなのに……認められてないから」
 ソテツは無理やりえくぼを作った。カズちゃんが、
「認めてないわけじゃないよ。まだ大人になってないからなの。あと四、五年待たないと」
 適当なことを言う。
「いつか抱いてくれますか」
 一座の女たちが眉をひそめる。
「約束しない。すべて成りゆきだから」
「……いまはだめですね」
 必死な様子が痛々しい。これが愛に目覚めないナマの女の本音なのかもしれない。精神とは遠い、肉体の結合の喜びだけが紙に滲みた墨汁のように彼女の心に拡がる。どうにかしてやりたいという気は起こらないけれども、いつかカズちゃんに諭されてうなずくかもしれない。おトキさんとメイ子を厨房に残して、千佳子と睦子がやってきた。睦子が、
「世間常識という足ビレをつけているうちは神無月さんに追いつかないし、裸足でも追いつかない。少しでも追いつきたいなら、足ビレを外さないと。そうすれば、やっと手を引いてもらえる。抱いてもらうのは、そのずっと先です」
 天童優子と丸信子が真剣な顔で聴いている。素子が、
「お姉さんは気を使って、からだが大人になっとらんからって言ったけど、そんなことやないよ。十六ならじゅうぶん大人や。問題はアタマだがね。キョウちゃんとふつうに話せるようにならんと、大きな声で好きだとは言えんわ。もう何年か、じっと勉強したほうがええよ」
 天童と丸は満足げにうなずいた。睦子が、
「和子さんやトモヨさんや素子さんや、法子さん、節子さん、キクエさん、文江さん、そして千佳ちゃんのしてきたことを考えてみてね。東大の詩織さんにしても、吉祥寺の菊田さんや福田さんにしても、熱田の加藤雅江さんにしても、これから上京する秀子さんや美代子さんにしても、みんな神無月さんに自分の将来を捧げてます。例外は少ないです。メイ子さんやイネさんは例外ですけど、神無月さんの生理的な好みにはまってますし、これからは将来を捧げると思います。あなたはどう? とにかく一生懸命神無月さんを愛するのが先です。からだだけの興味だなんて、もってのほか」
「……はい」
「とにかく神無月さんを苦しいほど好きだと思えるときまで待ったらどうかしら」
「そうします」
 天童と丸が満足顔を崩さず、それじゃお休みなさい、と言って二人で二階へ上がっていった。睦子が、
「ところで神無月さん、選択科目で美学というのを採ったんですけど、学問で研究する美って何でしょうか」
「さあ。美は人生に与える大きな価値の一つだということだけはわかるけど。美というのは……それぞれの時代の要求に関わるものだと思う。常に変化してるものだから分析できないな。ある時代に生きてるぼくたちが美しいと思うものを調べて、絶対的な美の本質を探すことはできないと思う。どんなに自惚れが強い人間でも、自分の判断が最終のものだなんてまず考えない。ぼくたちが美しいと考えるものが、次の世代では軽んじられるかもしれないし、ぼくたちが軽蔑するものが名誉を獲得するかもしれない。先祖が眺めた夕陽の輝きをぼくたちが同じように眺められないのと同じように、先祖の感じた美をぼくたちは同じように感じられない。つまり美学というのは、普遍的な感覚を究める学問じゃなく、時代ごとの美の規範を羅列的に研究する学問だね」
「すてき!」
 千佳子が、
「神無月くんほど頭のいい人って、めったにいないんじゃない? 神無月くんが最後の目標にしてる芸術も、もちろん美でしょう? 神無月くんが考える美」
「芸術そのものというより、芸術の救済活動が美だね。その意味で芸術は人間の活動の頂点に立つものだと思う。人生の悲惨さや、終わりのない苦しみや、空しい努力、そういうものに蹂躙される生き方を美しい生き方だとして正当化するのが芸術だと思うんだ。無数の名もない人たちが、苦しんで生きつづけ、死んでいく。でも、そうするだけの意味が人生にはあると慰めるのが芸術だと思う」
「ほんとにすてき! 大学の講義よりすばらしいわ」
「脳味噌取り出して、見てみたい」
 カズちゃんたち、康男たち、山口たち、睦子たち、江藤たち。私の理想の地。新しく出直せる場所。だが、理想の地はあくまで理想の地だ。どこへいこうと、心の傷はつきまとう。いずれにせよ、いやな場所から逃げ出して、受け入れられた場所だ。身を隠し、安全だと感じられる場所だ。ここでは真の自分でいられる。
 五歳? 七歳? たぶん私が人と話しはじめたのは遅い。話しはじめてからも、まじめに耳を傾けてもらえたことは少ない。十歳。親切な耳を持った人びとが現れはじめた。飯場の社員たち、そして寺田康男。批判も、疑いも、軽蔑も、恐怖も、動揺もなく私の話を聴く人びと。受け入れられる喜びほど烈しい感情はない。ただ、どちらも人間をおかしくする。身に備えていない言葉で愛を告げたり、不気味な諦観に命を懸けたり、人を愛する自分に驚いて恐怖を味わったりする。十五歳からきょうまで―数少ない真摯な人びとと慣れない会話をしたせいで、私は極度に疲労した。
 ステージの演奏がようやく止んだ。
「さ、あしたは桜だ。おトキさん、風呂入って、寝よう」
「はい!」
         †
 山口とおトキさんが風呂から出て二階へ上がると、ソテツと住みこみの賄いたちが風呂へいった。トモヨさんと百江は厨房で皿拭きをしているようだ。カズちゃんと素子とメイ子の三人は、きょうの売り上げ計算を兼ねて反省会でもするのか帳場へいった。私は睦子と千佳子に語りかける。
「不思議だね。四年前のいまごろ青森に集まって知り合ったぼくたちが、こうして一つの場所にいる。時間をかけて魅かれ合い、愛し合って、そしてたぶん、これからも場所を替えながら、永遠にいっしょにいる。延々と会話をしながら。たぶん不幸なことは起こらないと思うけど、ぼくたち以外の人びととも交流しなくちゃいけないわけだから、何らかの波風は立つだろうね。でも、刺激に富んだ時間だと考えれば問題はない。これからのほとんどの時間は単調な時間になるだろうね。でも、どんな時間も実り豊かなものにしようね」
「はい。神無月さんと暮らせれば、ほかに何の望みもありません」
「あとは神無月郷という幹の枝葉になって、力いっぱい繁るだけ」
「転々としてるから、幹がなかなか根を張らないよ」
 睦子が、
「どこにいても幹は幹。私、どの土地を去るときも、名残惜しさも新しい土地への期待もほとんどありませんでした。神無月さんのことばかり考えてたから」
 千佳子が、
「私も。神無月くんに遇ってからは、一年も、ひと月も、一日も、どこにいても同じ。一つの夢の中にいて、また次の夢の中にいるという感じ」
「夢の中はつまらないよ。そこで生きてないから、死んでるのと同じだ。それに、夢は長くつづかない。まあ、夢という言葉は、ぼくも飛びきり幸福なときや、幸福を予想するときによく使うけどね。でも、夢よりは、幸福な現実という表現のほうがピッタリだ。現実を生きるのは怖いけど……楽しい」
「怖いのはどうして? 死が待ってるから?」
「死とは関係ないんだ。ぼくは死に動じない。死を思うことで平静を保てるし、不思議に落ち着く。そんなわけで、死は怖くはないけど、死んでしまえば未来に希望を持てないという意味ではつまらないものだね。それと反対に、生きることは……怖いな。愛がなければ絶対的な恐怖だ。命は予測不可能で制御できないから、その命が進みたいか退きたいかもわからない。でも愛があれば、命の進退を冷静に決めて見守ることができる。愛に向かって全力で自分をさらけ出せるし、生きてると感じられる。そうやって生きる未来には希望も持てる。希望に満ちた毎日を生きているなら、どういう結果を招いても悔いはないので、楽しい」
 恐怖を味わったことが二度ある。合船場から帰っていこうとする母の背中に呼びかけたときと、カズちゃんを待っていた野辺地でのひと月間だ。どちらも自分だけの安らぎを求めるせいで感じた恐怖だったが、自分にはどうにもできないものだった。
 私は彼らの何を愛しているのだろう。いっしょにものを食い、そばにいて慕ってくれること? 彼らの中身ではなく私に対する慈善行為を愛しているのか。なんと身勝手な〈病人〉だろう。無償の愛など及ぶべくもない。こんな私を、いい人間になろうとしてがんばっているだけの男を、彼らは〈完璧〉と言って讃える。私は善良な、世の中をよくしようとしている人間だろうか? すぐに否定できるが、否定して生きるほうが簡単だと気づく。簡単な生き方はしたくない。
 風呂から上がったソテツたちが、お休みなさいを言って自室に引っこんだ。ソテツの肩が少し落ちていた。睦子と千佳子が風呂へいった。私たち帰宅組だけの五人になった。メイ子が、
「神無月さんの〈怖い〉というのが、高級すぎてよくわかりませんけど、死ぬのはもちろん怖いし、ほかには、幽霊も怖いって感じます」
 素子が、
「うちもそうや。でも、そういう話やなかったんやけどな」
 カズちゃんが、
「先が見えない怖さ、自分で決められない怖さ、愛があるとそれが見えるし、自分で生き方を決められるという話だったのよ。でもメイ子ちゃんの怖さも、死と関係あるみたいでおもしろいわ」
 私は、
「怪物、宇宙人、幽霊、どれも存在しないと信じられてるものだね。殺されそうな気がする。人間の所業と信じられないとき、受け入れやすい象徴的なイメージにすり替える。具体的な事実とわかれば、すり替えないで向き合うしかなくなる」
 百江が、
「神無月さんは怪物って言われてますけど、ぜんぜん怖くないですよね」
「死のイメージがないし、具体的な事実と認められたからだよ。それに、野球の怪物にすぎないからね」
「これからどうなるんでしょう。怪物でもやっぱり年をとるんでしょうか」
「未来を考えたことはないな。年とった自分を考えられない」
 私のような人間に潤った老後はない。私を愛する者たちも同じだろう。しかし彼らと長く暮らせれば、多少は潤うかもしれない。最近、私にも彼らにも豊かな未来がありそうな気がして、年をとることが楽しみに思えてきた。
「あしたの朝、ぼくがいないと江藤さんたちガッカリするから、きょうはステージの控え部屋で寝るよ」
 百江がさっそく蒲団をとりにいった。素子が、
「じゃ、うちら、あしたは江藤さんたちを送り出したあとはアイリスに詰めるから、楽しく花見をしてきてね」
 メイ子が、
「きょうは則武に帰ります。お休みなさい」
「お休み」
 玄関以外の灯を落として、四人で玄関を出ていった。


         百二十七

 四月三日木曜日六時起床。曇。五・ニ度。便所で屈んで小便。萎んだところで軟便。シャワー。かすかな耳鳴り。水音が左耳をガサガサ鳴らす。歯磨き、洗髪。すでに厨房は騒々しい。廊下へ出て、活気のある厨房を覗く。イネと並んで千佳子と睦子の背中がある。トモヨさんが、
「あら、郷くん、おはよう! きのうは早く寝たの?」
「十一時過ぎくらいかな」
 レンジの鍋の前にいたソテツが深々と頭を下げる。恥ずかしそうな目で見上げ、
「きのうはほんとにありがとうございました」
「断ったのに?」
「はい……反省しました。私はまだまだです」
「きょうもアイリスだろ」
「いえ、百江さんが八時半から」
「ああ、そうだったね。きょうの花見、よろしく」
「はい、おいしいお重を作ります」
 おトキさんが、
「ソテツちゃん、江藤さんたちと山口さんを起こしてきて。三十分したら、ごはんですよって」
「はい」
 睦子と千佳子はエプロンをしてこまごました手伝いにかかる。居間にいくと、畳に直人を遊ばせながら北村夫婦がコーヒーを飲んでいる。
「お、神無月さん、おはようございます」
「おはようございます。菅野さんは」
「ランニングなしなので、ゆっくり寝て、昼ごろくるゆう電話がありました。きのうはだいぶ飲んだからな。江藤さんたちは、風呂上がってからも部屋で飲んどったようや」
 女将が、
「きのうはソテツをありがとね。あの子、一晩で人が変わったわ。当たりが柔らかなった」
 にこやかに言う。主人が、
「北村からガキがいなくなってホッとしたわ」
 ソテツが聞きつけて、
「旦那さん、私、ガキでしたか」
「おお、ガキやった。女は気持ちが成人せんとガキのままやな」
 ソテツは気分を害したふうもなく、
「そうですね」
 とうなずいた。メイ子がソテツの頭を撫ぜた。
「神無月さん、ほら、最速六月に新記録達成の可能性って中日スポーツに載っとりますよ」
「六月?」
「五十五本のことですよ。四、五、六、三カ月で五十七試合。五十五本はいくやろうということやな」
「日によって、ゼロ本もあるし、一本、二本、三本、四本ということもありますよ」
「平均一本でも、五十七本いってまうゆうことやろう。故障やアクシデントさえなければ、十月には夢の百本ですよ」
「せいぜい三十本前後でしょう。ゼロの日が四割はあると考えないと。そういう日はヒットで凌ぎます。長嶋のようにチャンスに打って」
 けいこちゃんの雪下駄の音がした。居間から廊下越しに座敷を見やると、カズちゃんといっしょに素子とメイ子が、店の女を引きこんでチンチロリンをしている。則武から朝早くきていたのだろう。どんぶりに投げられるサイコロの、チリン、チリンと鳴る音が左耳の鼓膜をガサッと刺激する。しばらくするとそれがシャーという耳鳴りに変わる。その涼しい音に聞き入るともなく聞き入る。
「ピンゾロ、五倍!」
 カズちゃんが笑いこける。背中が狂おしいほど生きいきしている。彼女が笑い上戸なのがうれしい。
「わあ、ヒフミ、まいった!」
 店の女たちも商売用の〈おすまし〉を忘れて笑っている。笑う女はすばらしい。母の勤めていた浅間下の工場の女たちもよく高らかに笑っていた。女の活きのいい笑い声を耳にすると、重油や鉄のなつかしい臭気が甦ってくる。ばっちゃは顔をくしゃくしゃにして身を屈めて声を上げずに笑う。入れ歯の肌色が少し覗く。カズちゃんも身を屈めて笑うけれど、横浜の工場の女のように明るい高笑いをする。八重歯が大きく輝く。
 だれもが人前では自分を偽っているが、私もあらゆる人びとを騙している。強がっているがほんとうは感傷的だったり、繊細ぶっているがじつは図太かったり。でも大笑いするときだけは人目を意識しないので騙せない。
 人目、と言う。事実人は見ている。さまざまな人間を見て、悲劇とか喜劇とか、無機的な枠組でしか感じない人もいる。そういう人は目にする人間の痛みや喜びを見て取れるし、理解もできる。だが実際に痛みや喜びをかんじない。私はちがう。枠を超えた有機的で複雑な人間を観察する好機だと胸が躍る。当然、感情が投入される。
 トモヨさんが直人を座敷に連れていき、みんなに先んじて食事をさせる。煎り卵とケチャップで作った手づかみオニギリ、カボチャと豚挽き肉のそぼろ煮、ポテトサラダ。
 食卓がすっかり整い、一家が席につく。カズちゃんたち三人は、チンチロリンから居間のテーブルに戻って、きのうの伝票を念入りに再確認しながら三種類のノートにつけはじめる。百江とメイ子が読み上げを手伝う。
 江藤たちがワイシャツに背広の姿で座敷に入ってきた。偉丈夫揃いだ。みんな一家に向かって笑いながら朝の挨拶をする。江藤がさわやかな笑顔で、
「よう寝た! 生き返ったごたァ。おお、金太郎さんもおなご衆(し)も美しか!」
 山口も二階から降りてきて、一家の者や江藤たちに挨拶した。小川が、
「山口さん、いつかあんたがリサイタルばするときは、チームこぞって観にいきます」
「ありがとうございます」
 私は食事を終えた直人を抱き上げ、頬にキスをする。
「おちょうちゃん、おはよう」
 驚いた。愛らしい。唇を指で開いて、いつ生えたのかもわからない上の歯四本、下の歯四本を見つめる。奥にも臼歯が上下左右一本ずつ生えている。神秘的だ。出会って間もない不思議な他者。自分と血のつながりがあるなどとは信じられない。彼にとっても、父である私の顔はさらに不思議な代物だろう。彼が目にする私の目鼻立ちは、〈感覚〉が芽生えてからしばらく見慣れているだけのもので、父だと言っても他人振舞いに近い様子だし、私の誠意に満ちた視線を見ても、謎のように感じるにちがいない。私の頭の中で起きていることは、どうがんばっても彼には窺い知れない。親しみとかなつかしさといった〈感情〉が芽生えるまでには、かなりの期間をすごさなければならないだろう。トモヨさんが、
「二歳近くになると、言葉を二つつなげた二語文を話すようになるんですって。このあいだは、ワンワン、いた、って言いました。夏が過ぎたら、おむつハズレに挑戦です」
 私が要領を得ない顔をしていると、江藤がギョロ目を剥いて、
「自分で小便するこったい」
 高木が直人を抱き取りあぐらをかく。
「こんなかわいい子にまとわりつかれたら、人生変わるな」
 しみじみ頭を撫ぜる。菱川が、
「いまの人生変えたいですか」
「自分とフアンが喜ぶだけの野球人生、多少変えてみたくなるね」
 太田が、
「家庭という意味なら、もう変わりつつあるでしょう。俺は、当分変えずに野球だけやります」
「子供がいてこその家庭だよ。子供がいなければ何も変わらないさ。しかし、子供はまだまだ先だな。仲人の板ちゃんには早く作れと言われてるんだけどね。ま、三十過ぎたら考えるよ」
 ふだん寡黙な高木が饒舌なのがうれしい。すごく幸福だ。私は夢を見ている。人生の表層をただよいながら、人生が紐解かれていくのを外から眺めている。
 主人が一眼レフのカメラを持ってきた。カズちゃんたちも居間から出てくる。
「朝食の前に、みなさんの記念写真を撮ります。神無月さん、直人を膝に抱いてあぐらをかいて。その両側にドラゴンズのかたがたがお座りください。写真を何枚か撮ります。今回はそれだけ。次回お集まりいただいたときは、一家全員入ったやつを撮らせていただきます」
 きのうカズちゃんがリクエストしていた直人の思い出写真だ。江藤たちが寝て起きた客間の隣の、いちばん玄関に近い座敷にいき、直人を中心に六人居並ぶ。
 パチリ。次に江藤が直人を抱いて、パチリ。次に高木が抱いて、パチリ。
「ドラゴンズのメンバーで手を重ねてるのを一枚ください」
 野球が私の人生だ。グランドで有能な野球選手と接するのが好きだ。大男でも、小男でも、美男子でも、ブ男でも―。ふだんは照れずに人前でプレイしている人たちが、カメラの前では一人残らず緊張して神妙になる。パチリ。
「最後に山口さんが直人を抱いてください」
 山口がびっくりして飛んできて直人を抱く。両脇に太田と女将、菱川とトモヨさんが坐らされる。私と江藤たちは主人を交えて彼らの後ろに中腰で立った。直人は借りてきた猫のように静かにしている。三脚を置いて自動シャッターに切り替え、主人が女将の横に走り寄る。パチリ。暖かい拍手でザッツ・エンド。直人はトモヨさんの胸に飛びついた。笑いが湧く。
 みんなで座敷に戻る。主人夫婦やカズちゃんたちが食卓についたのを確かめ、おさんどんの賄いたちが畳の上を忙しく立ち動く。やがて賄いたちは各テーブルの処々に割りこみ、めし茶碗を差し出す手と、受け取る彼女たちの手が交差する。めし盛りが始まる。主人夫婦がいただきますを言うのを合図に、ほとんど全員が箸をとった。山口はさっそく納豆を掻き混ぜはじめる。私もおろし納豆を混ぜながら、明石焼きの皿がみんなの前に並んでいるのを見つめる。江藤が、
「明石焼きのごたるのう」
 おトキさんが、
「はい、タコは入ってませんけどおいしいですよ。ふんわりした卵焼きと思ってお食べください」
 江藤は感無量の顔で、
「明石キャンプから二カ月経ったんやなあ。……きのうきょうと、金太郎さんの秘密ばじっくり見た。よか経験をしたばい」
 菱川が、
「何ですか、秘密って」
 秘密は意志だ。私に秘密はない。隠されている事実があるだけだ。
「流れるごとく―ばい」
 小川が、
「うん、グランドにいてもどこにいても、金太郎さんはまったく変わらない。水のようだね。そういう生き方は当然、流れる路に障害が多くなる」
 太田が、
「岩あり、丸太あり、ゴミあり……」
 菱川が、
「障害にぶつかるけど、結局舐めて流れます」
 高木が、
「それが〈流れるごとく〉だよ。女神さんたちは金太郎さんをなるべく障りのないほうへ流す路だ」
 死や悲しみが苦手な人間は多いけれども、私は新しい関係を結んだ人たちの楽しげな雰囲気の中にいると落ち着かなくなる。苦手なのは楽しさそのものではなく、楽しげな雰囲気の中で彼らが何を言いたいか、自分が何を言うべきかがわからなくなることだ。カズちゃんや山口たちといるとそうはならない。
 自然な楽しさに浸れるよう、もっと深い関係になればいいのにちがいない。目新しい楽しさの中で言葉を詰まらせないよう、少しずつ彼らと関係を深めていこうと決意する。カズちゃんがにっこり笑って、
「理解してもらえてよかったわね、キョウちゃん」
「うん、よかった」
 山口がやさしく笑った。睦子も千佳子も、一家のみんなもやさしく笑った。彼らは私の失語症を警戒するお目付け役だ。小川が、
「三十五歳か。あと五年、金太郎さんといっしょに野球をやりたいけど、四十歳までは無理だろうな」
 データ屋の太田が、
「昭和二十五年、五月、阪急ブレーブス浜崎真二、四十八歳四ヶ月で勝利投手。大リーグには、昭和七年に四十九歳で勝利投手になり、翌年の五十歳まで投げたドジャースのジャック・クインがいます」
 小川は首を振り、
「大リーグは、四年前のアスレチックスのサッチェル・ペイジの五十九歳だよ。ただの客寄せなので参考記録ということになってるけどね。一応ノートに書いとけ。浜崎さんはよく知ってる。左腕の小さな大投手。プロ野球史上いちばん小さい百五十六センチ、五十キロ。終戦直後の阪急ブレーブスに在籍することたった三年、五勝五敗。高橋ユニオンズの初代監督。俺の入団テストをはねたときの監督だから忘れようがない。三十六年には、慶應の後輩の水原さんに頼まれて巨人の一軍投手コーチをしたこともある。その後、スワローズの監督もしてたな。西鉄から豊田を獲ったのも彼だ。口の悪い球界のご意見番だった。白人外人は日本人をバカにしてるから、黒人外人を獲れなんてね。もう七十歳近いんじゃないかな。ついこのあいだまでラジオの野球解説をしてたけど、このごろ聞かないな。いま解説をしてる関根潤三に顔が似てるよ」
 私は、
「人生のぜんぶ野球ですね。すごい!」
 江藤が、
「健ちゃん、ええ話やないか。少なくとも四十歳までやりんしゃい。おい、太田、バッターの最年長はわからんか」
「大リーグだと、昭和九年、チャーリー・オレアリーの五十八歳。やっぱり客寄せのアトラクションなので公式記録にはありません。記録にあるのは、明治二十一年、キャップ・アンソンの四十五歳ですね。日本は、やっぱり浜崎真二の四十八歳、ホームラン最年長は岩本義行の四十五歳です」
「ほうか。ワシも四十歳ば目指すばい。金太郎さんが野球をやりつづけてくるうならな」


         百二十八

 山口が早めしを終え、箸を置いた。
「神無月はやりつづけますよ。あなたがたを愛していますから」
「ワシら、愛されとるんか」
「まちがいなくね。神無月の目がやさしい。こんな目で人を見ることはめったにないですよ。しかも一日中。嫉妬するくらいです」
 小川が、
「天才に愛されて、うれしいよ」
「たしかに神無月の力は天与のもので、本人が言うような後天的なものじゃない。分析できないものだと俺は信じてます。でも、そういう人間には苦痛が伴います。どっかに種があるインチキだろうとか、一時的なマグレだろうと思われるのがふつうだからです。そんなふうに考えないと、科学を信奉する人たちはやるせないですからね」
 菱川が、
「勝手に言わせておけばいいんですよ。常識から脱しきれないやつらには、どう逆らっても勝てません」
「厄介なのはそこです。神無月も勝てないと信じてる。ここが不思議なところなんだけど、神無月は彼らに言わせっ放しにして無視するんじゃなく、彼らの影響を受けてマグレだと考えるようになるんですよ。彼らに引け目を感じるのが習い性になってるからです。それは、科学者でもない神無月には相当なストレスになる。曲解されるストレスが限界に達すると、神無月の精神が崩れはじめる。自分に対する徹底した疑惑が生まれるんです。みんなの言うとおりじゃないか―それが神無月を憂鬱と倦怠に陥れる。自分は化けの皮をかぶってる人間だと進んで規定して、この世の不要物だと信じるようになる」
「えェ! 何でそうなるんですか!」
 太田が大声を上げた。
「認められない、見離される、そこから幼少時代を始めたからです。ストレスのせいで自己崩壊したくないので、周囲が信じるとおりの自分であろうとするんです。自分をごまかしてるわけじゃなく、本気でね。そうさせてはならじと立ち上がったのが、ドラゴンズのあなたがたでしょう。俺もそうです。ここにいる女性たちもそうです。神無月は何のじゃまもなくただ自由に野球をしてるだけで、そんな気配は見せなかったでしょうが、ここまで遠回りして野球にたどり着いたことからも予想できたことと思います」
「みんな知っとうとよ。気持ちの動き方までは知らんかったけんが」
「あなたがたや彼女たちの決起のおかげで、つまり、褒めて褒めて褒めちぎったおかげで、神無月は自分の才能に疑問を抱かずに生き延びられることになったんです。神無月の力は分析できないものです。内なる発熱と発光としか言いようがない。そういう神無月と命運を共にしようとする人間の一人として心から感謝します。あなたがた天才野球人は、神無月に生きる価値を与えてくれた。ヒーローとしての価値も……。ヒーローの価値は常に前を向いていることです。愛する者といっしょに生きつづけようとする前向きの姿勢です。おかげで俺たちの命も延びました。心から感謝します」
 山口は深く礼をすると、縁側へいってギターのサービスをしはじめた。江藤たち五人は山口に向かって深々とからだを折った。いまは命を延ばしていられるけれど、たぶん私に残された日々は少ないだろう。そう思う根拠はないが、直観がある。江藤が、
「山口さん、また会おう!」
「はい、ぜひ。神無月をお預けします」
 山口はもう一度頭を下げた。
「さ、出勤よ」
 カズちゃんたちが明るく立ち上がる。素子、百江、メイ子、天童、丸……。小川が、
「俺たちも引き揚げるか」
「おう」
 カズちゃんが、
「みなさん、また遊びにきてくださいね。アイリスは、今年いっぱいは無休にしようと思ってます。いつでもいらしてください。中日球場で試合があるときは、北村のだれかがかならず応援にいきます。豪快なゲームを期待してます。さよなら」
「ありがとうございます! またきます!」
 江藤が大声で応える。おトキさんとトモヨさん母子に玄関まで見送られて、カズちゃんたちは颯爽と出勤していった。高木が、
「われわれも練習! みなさん、ほんとにお世話になりました。いずれ機会があったらまた顔を出させていただきます。この時期と、ストーブリーグの時期と、年に二度はお訪ねしたいですね」
 主人がうれしそうに笑った。江藤が、
「ご主人、女将さん、これからはどんなイベントごとでここに寄せてもらうかわかりませんけん、そんときはお気遣い無用ですばい」
「わかりました。おからだ健康で。ケガにはじゅうぶんお気をつけて」
「駅までいきましょう」
 私が立ち上がると、
「よかよか、タクシーでピューやけん。じゃ、十一日、広島のホテルでな」
 菱川が、
「ホテル、わかってますか」
 私が詰まると、主人が、
「世羅別館。巨人と中日しか使わない和風旅館でしたな」
 太田が、
「はい。名古屋からも大阪からも広島行の飛行機は出ていないので、いったん羽田へ出て、羽田から広島に飛ぶという手も考えられるんですが、羽田で待ち時間が三時間前後あるので、結局六時間以上かかります。新大阪へ新幹線でいき、タクシーで大阪に出て、大阪から広島へ在来線の特急と鈍行を乗り継いでいく。特急で姫路まで一時間半、姫路で鈍行に乗り換えて四時間半。広島駅からタクシーに乗る。それがいちばん近いですね」
 私は、
「新幹線を入れて、ぜんぶで八時間弱ですね。新幹線と在来線でいきましょう。景色が見られる」
 経験者の菱川が、
「在来線は乗り換えが面倒ですけど、広島に最短時間でいくには、それしか交通手段がないんですよ。時間がかかってもかまわないなら、名古屋から寝台特急〈あさかぜ〉に乗れば一本でいけます。深夜の十一時四十六分に乗って、朝の六時三十一分に広島に着きます」
「同じ七時間弱ですか。寝ていくなら、それでかまわないですね」
「ホテルのチェックインの時間に苦労しますよ。午前十時以降ですから」
「なるほど。やっぱり在来線コースしかないですね。名古屋からチーム行動はとらないんですか」
 小川が、
「遠征初日はとらないんだ。それぞれの都合で乗り物を選ぶだろうからね。帰路はいっしょだ。個人的に予定がなければね」
「わかりました」
 五人を家内全員で門まで送った。主人が、
「写真ができ上がったら、六人で手を重ねてるやつを引き延ばして額に入れときます。今度遊びにきたとき受け取ってください」
 五人が、ハイと返事をする。江藤が、
「小さいのでいいですけん、北村席のみなさんや山口さんが写ってるのもお願いします」
「わかりました。ステージの写真も」
 太田が、
「神無月さん、とにかく野球に打ちこみましょう! そのほかのどんな面倒ごとも、連係プレイで切り抜けましょう」
 菱川が目をキラキラさせ、
「スタメンに出られたら、俺、ドラゴンズの今季一号を狙います」
「阻止するよ。打順はぼくのほうが前だからね。でも、ぼくの前に三人いるのが心配だな」
 一家も選手たちもいっせいに笑った。みんなでお辞儀をし合う。高木がポツリと、
「桜通の焼肉トラジャ、うまいですよ。ご主人に場所を教えときました」
 五人、門前から揚々と去っていった。
 薄曇。女将、賄いたち、店の女たちは留守番。乗りつけた菅野のクラウンに、主人と私とトモヨさん母子が乗り、呼んだタクシー二台のうち、一台に、山口と、お重を抱えたおトキさん、少し化粧をしたソテツ、それから最後の一台に千佳子と睦子が乗った。菅野はダークグレーの地に紺の縞の通った背広で正装していた。
「サマになってるね、菅野さん」
「いやあ、ひさしぶりにタクシー運転手の気分になりまして」
 車の中で直人のいろいろな言葉を聞いた。
「あっち、とらっく、こっち、ぱとかー、あっち、ばす」
 このあいだまで、乗り物はすべてブーブとしか言えなかったのに、大した進歩だ。私が車の中を見ながら指差すものをきちんと、
「おかあちゃん、おとうちゃん、すがのしゃん、はんどる、まど」
 などと答える。通りをうろつく動物を見かけると、
「わんわん(ふつうの大きさの犬)、ねちょ、ぞう(大型犬のことらしい)」
 などと言う。
「幼稚園では何して遊ぶの?」
「おえほん、おえかき、……ふうせん、ちゅみき、……しゅー(滑り台?)、(しばらく考えて)おすな(砂場のことか)、おにんぎょ」
 トモヨさんが持参した絵本を開いて見せる。テレビ、カレー、おさかな、りんごなどと自分で指差し、私が、
「家でも保育所でもすることは?」
 と訊くと、
「おむつ、しーしー、うんち」
「家では?」 
「おふろ、おかあちゃんはみがき、しゃかしゃか、ないない(いやだ?)おひるね、ないない」
 窓の外を自転車が通り過ぎると、
「あっち、ちゃった(いっちゃった?)」
「保育所の先生は何を教えてくれるの?」
「はなこしぇんしぇ、たのちい、おめめとおはなとおくち(唄いだす)」
 歌が止むと、菅野の後頭部を見て、
「すがのしゃんおむかえ、たのちい」
 菅野は前を向いたまま小さくうなずいた。そして後頭部で尋く。
「直人の好きな食べ物は?」
「おみちょちる、あつい、おにぎりまんま、おいちい、ぎゅうにゅう、のむ」
 などとしゃべった。驚いたのは、ふとしたときに、
「しんゆう、ともちゃん」
 とサラリと言ったことだった。主人が、
「神無月さんと山口さんの会話を聞いていて覚えたんやろな。ワシも初めて聞いたときはびっくりしましたわ」
 中村公園まで十分もかからなかった。二台のタクシーは走り去り、菅野はクラウンを駐車場に入れた。みんなで小さな石の鳥居をくぐり、園内へ入る。熱田神宮よりまばらな木立の林を歩く。山口に、
「善福寺公園の半分くらいかな」
「三倍はある」
 小池のほとりに木陰を作って桜が群がり咲いている。七つ、八つの集団ががやがややっている。老人の姿が目立つ。ソテツとおトキさんが、少し奥まった桜の樹の下に白いビニールのシートを敷き、重を並べる。よく見ると彼女たちも質素に正装している。お揃いのようにベージュのジャケツに黒いスラックスを穿いている。黒やクリーム色や水色のあでやかなスカート姿であたりを眺めるほかの女三人とは対照的だ。
 シートの上で直人が手と膝をついて歩き回る。何人か老婆が寄ってきて、
「かわいらしいお子やねェ」
 と目もとを緩める。直人は振り返り、こんにちゅは! と大声を上げる。
「おやおや、お利口さんだ。おみかんあげようわい」
「ないない」
 拒否する。
「桜並木が短くて奥ゆかしいな」
 山口が褒める。もう一つ小池があるようなので、みんなを残し二人で砂利の遊歩道へ出る。小橋を渡る。隙間の多い林の中に、ときおり鳥居がある。敷地が広すぎて、全体が閑散として見える。睦子と千佳子がやってきた。千佳子が、
「わあ、ここ、なんだか昼間から幽霊が出そう」
「直ちゃんが人寄せになっちゃって、たいへんです。ほかにちらほら子供たちもいるんだけど、直ちゃんのかわいさは抜群だから」
 千佳子がところどころ看板を覗きこみ、
「いろいろな建物に神社って名前がついてますね。社ってこんなふうにバラバラに建ってる建物のことですか」
 私と山口を見つめながら尋く。山口が、
「ヤシロというのは神が降りてくる場所という意味があるんだ。神域。だから、建物も含めて全体が社だ」
 私は、
「こういうさびしい静かな場所は、季節と関係なくいつもほんものの雪がふぶいてる感じがするね」
「おまえは吹雪が好きだったな」
「吹きすさぶ雪の音って、どうして聞こえないんだろうね」
「実際、雪といっしょに吹きまくる風の音そのものは轟くように聞こえてるんだろうが、雪を引き連れて吹けば吹くほど、雪に轟音が吸収されて静けさが深まるように感じるんじゃないか」



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