百二十九

 主人とソテツがやってきたのと入れちがいに、千佳子と睦子がシートに戻っていった。
「桜が白いので驚きました。どぎつくなくて、とてもいいですね」
 ソテツが口紅を上唇と下唇でぺたぺたこすり合わせながら言う。薄茶色の顔に紅色が載っているのに違和感を覚える。山口は見ないようにしている。
「その奥は競輪場になっとるんです。名古屋競輪。よう毟り取られました」
「いってみましょうか」
「バンクと券売所があるきりで、見どころはないですよ。花見酒にしましょう。菅ちゃんが痺れ切らしとります」
 すでにおトキさんが菅野の紙コップに四合瓶を傾けていた。
「私はこの一杯だけ。運転がありますから」
 男たちにソテツが缶ビールをつぐ。トモヨさんとおトキさんが紙皿にお重の中身を取り分ける。直人の皿には、柔らかチーズハンバーグ、小さなおにぎり二個、いちご五個、ヨーグルト一カップ。重の中身は、胡椒たっぷりのチキンナゲット、桜おにぎり、いなり寿司、シャケのつけ焼き、野菜とコンニャクの煮物、甘い卵焼き、海老フライ。彩りがいい。
「いやあ、まさに花曇りですな。酒も肴も、甘露、甘露。桜もええ色しとるわ。ああそうや、神無月さん、植木屋にヤマボウシの手配しときましたからな。いまごろ、則武の庭に植えとりますよ。ほかにも、いい生垣にするために五本ばかり植えることにしました。柿を一本、枇杷を四本。玄関横の庭ががらんとしとりましたから、バッティングケージから外れたところに、石も二つ入れました。佐渡の赤玉石は赤すぎるし、鳥取の佐治川石はでこぼこしとるで、形のいい落ち着いた色の伊予の石にしましたわ」
「石のことはよくわかりませんが、ありがとうございます」
「どんな家だ? 一度見ておかないとな」
 山口が言うと、おトキさんが、
「私、建築中によく見にいったんです。下にお部屋六つ、和室十二畳二つ、十畳一つ、洋室十六帖のキッチン兼居間、十二帖の音楽部屋、二十帖の器械部屋、大きなお風呂、お便所二つ、渡り廊下の向こうにの庭の奥に、お便所つきの六畳と八畳ふた間の離れ、母屋の二階にお部屋三つ、十二畳の和室二つと二十帖の寝室兼勉強部屋。そのベランダから見下ろす庭が広いんです。野球の大きな網籠みたいなものが置いてあります。一階の右手は六階建てのビルとの仕切り塀になってます」
「網籠は素振りの空間だ。左手の離れの裏にヤマボウシの木を植えてもらった。隣接する住宅地までは遠いけど、剥き出しだったんでね」
 主人が、
「六階建ては倉庫ビルで、ほとんど無人です。仕切り塀からだいぶ離れてるし、目障りにはならんでしょう?」
「なりません。庭側のベランダの見晴らしがいいし、広いので、柔軟体操もできます。満点の家です」
「二階のベランダが広い庭に突き出てるわけか。庭の横が駐車場になってるんだろ」
「うん。車が五台入る。眺めていると深呼吸したくなる。離れ側の生垣の向こうは私設の大きな駐車場だ」
「豪邸だ。十人でも住めるな。東京だと三千万はかかってる感じかな」
「お父さんが建ててくれた。カズちゃんとメイ子と三人で暮らしてる。朝めし以外は、ほとんど北村席に入り浸りだけどね」
 主人がニコニコしている。
「家はもう建ってしまいましたが、追加工事で来月あたり、離れのほうの庭に、藤棚をかぶせた四阿(あずまや)を増築する予定です。暑い夏にぼんやりビールでも飲めるようにね」
 私は、
「蚊遣りを焚いたりして、風流ですね」
 山口が満面の笑みになり、
「ぜひ作ってやってください。俺も遊びにいくのが楽しみになります」
「北村のほうにも、作ろうと思っとるんですわ。六月までにいっぺんにやってまうかな」
 山口が気遣いのある表情で言った。
「もとの北村席を取り壊すときは胸が痛んだでしょうね。ほどよく古びた趣のある家でしたから」
「そうですな。しかし、気分一新ですわ。新しい家に、初孫。梁と柱の何本かはもとの家のものです」
 私は、
「席の藤棚は金魚池のそばがいいですね。少し勾配になってるので見下ろせる」
「はあ、そうしましょう」
 ソテツが菅野以外の紙コップに四合瓶を傾ける。主人はさびしそうに笑い、
「臨時のアパートに移った当初は、たしかにガックリきました。二週間もすると落ち着きましたがね。もっといい家が建つんや思ってね。思ったとおり、輪をかけていい家が建ちましたよ。なくしたものなんてのは、新しい生活の中でまったく考えんようになるものですよ。なつかしいですけどね」
 菅野が、
「社長の根性には畏れ入りました。あんなことになったら、ふつうは隠居でもして引っこみますよ。太閤通りのほとんどの店主がそうなった。社長はトルコで持ち直した。自分で辞めた女の子以外は一人もクビにしないでね」
 主人はコップをちびりとやり、
「神無月さんを慕っとるやつらのことをいちばんに考えたんや。みんな社会生活の得手でない神無月さんに味方するつもりでおるやつらや。神無月さんといっしょに守ったらんとあかん思ってな」
 私は、
「ぼくのせいでご迷惑かけて……」
「見当外れなこと言わんでくださいや。神無月さんはワシの人生でいちばんの人や。神無月さんをお助けするのがワシの本願なんやから」
 ビールが進み、お重が進む。菅野はお重だけをつまむ。ソテツは口紅を気にしながらもモリモリ食う。ときどき桜の花びらが落ちてくる。直人がトモヨさんの胸で眠りはじめた。菅野が、
「帰りに睦子さんをマンションに送り届けますけど、チラッと外側だけでも見ていきますか? 名古屋城の桜も見られますよ」
「いきましょう」
「ワシらは引き揚げますわ。直人も寝たことだし」
 ソテツが睦子に、
「お部屋見てもいいですか」
「散らかってますから、ちょっと……」
 山口がソテツを睨んで、
「恋人でも親友でもないのに、女の部屋にずかずか入るやつはイカレポンチだ」
「すみません」
 菅野が、
「トモヨ奥さんのころから、私も玄関までの人です」
 トモヨさんが恥ずかしそうに笑う。
「あのころはお世話かけました」
「いや、楽しかったです。というより、必死でした」
 山口が直人を見つめながら、
「その成果がここにいるわけでしょう。みんなの努力の結晶だ」
 おトキさんが眠っている直人の頭を撫ぜる。主人が、
「おトキ、名古屋城ともしばしのお別れだな。よく見とけ」
「はい……」
 おトキさんはしばらく無言で頭上の桜を見上げた。打って変わって表情が曇ったおトキさんの気持ちを敏感に感じ取り、トモヨさんが言った。
「名残を惜しんでられないのよね。東京の生活のことを考えるだけで、頭がいっぱいなんでしょう?」
「そうなんです。私みたいな狭い世界で暮らしをしてきた者が、ご近所とうまく付き合えるかなって。買い物だってこれからは御用聞きじゃないし、そんなこと考えると」
 睦子が、
「なるようになりますよ。菊田さんや、福田さん、それに法子さんもいるし、怖いことなんか何もないわ」
「イタリアから帰ったら、入籍しようと思ってる」
 山口が、いなり寿司を一つ口に放りこみながら言う。おトキさんがあわてて、
「そんなこと、簡単に言っちゃいけません。私はいまのままでじゅうぶん幸せなんですから、何の気兼ねもなくお世話させてください」
 私はおトキさんの腕を握った。
「山口を不幸にしたくないという、おトキさんの気持ちはよくわかるよ。でも入籍すればいいんじゃないかな。おトキさんが気兼ねしようとしまいと山口は不幸にならないよ。山口はぼくたちに大見得切ってるわけじゃないんだ。自分の心臓に、おトキさんとの偕老同穴の認め印を捺したいんだよ。心意気というやつだろうね。へんに道徳的なゴリ押しをしておトキさんに気兼ねをさせたら、二人の関係がギクシャクしちゃうんじゃないかとも考えた。もちろん入籍しなくたって、山口がおトキさんを裏切ることはない。それでも求婚は正解だと思う。山口は人間の真実だと思うことを口にし行動する。―事実ばかりのカラカラに乾いたこの世の中で、山口は人間の想いというたっぷり湿ったものを大切にする数少ない人間だ。自分が真実だと思うことを言い、そのとおり行う。最高の友人として彼を愛せることがぼくの誇りだ」
 人間の想いがどのくらい大切か、心があればわかるだろうか。私は〈言葉〉をつづける。
「ぼくもカズちゃんと何気なく結婚の約束をしたことがあったけど、二人が五十歳と三十五歳になったらなんて、やんわりはぐらかされた。ぼくの世間体を心配してるんだろう、余計な心配だと思ったけど、考え直した。彼女は世間体など何とも思ってない。カズちゃんはだれも不幸にしたくないだけなんだ。―ぼくの場合、生来の性質が多情で、節操がないせいで、吸い寄せてしまう女が多い。何の考えも反省もなく、彼女たちをぜんぶ引き受ける。トモヨさんのように子供をこしらえた女までいる。むろん、感心した生活だとは思っていない。後ろめたい。ところがカズちゃんは、ぼくが生きていくうえでそれを必要なことだと信じているんだ。ちっともネガティブには考えていない。彼女は、そういうぼくに関わる女性たちの気持ちをないがしろにしたくなかったんだ。山口勲は、そんな多情で無節操な男じゃない。きょうの高木さんじゃないけど、才能にあふれた活動に没頭しながら、家庭にも目を配れる人間だ。……おトキさんはすばらしい男を選んだ。真実の男をね。……入籍するのが山口の信念に沿った正しい結論だと思う。気兼ねなら、結婚式を挙げるような騒がしいことをしないで、入籍だけして、ひっそり二人の護符だという格好で生きればいい」
「ありがとうございます。……還暦を迎えましたら」
 主人が、
「そうそう、あせらんでええぞ。いつでもワシが披露宴を挙げたる」
「ありがとうございます」
 おトキさんは深く頭を下げた。山口がサバサバした顔で、
「そう言えば、和子さんとおまえが多情について話をしてたことがあったなあ。三人で浅虫にいったときだった。転校する前だよ。……おまえは多情になるのをいちばん軽蔑して生きてる人間だ。多情を戒め、そういう男女関係が起こらないように、誠実な女の真心を大事にしてるだけなんだ」
「―ぼくのことはいい。山口の話だ。人間というのは自分の虚栄心や快適さのために真実を犠牲にするものだよ。ほとんどの人は偽りにすがって生きてる。真実にあふれた人間がこんなにぼくの周りにいたのは、何度もくどく言うけど、マグレだ。ぼくの手柄じゃない。ぼくは自分の技量を高めることにほとんどの時間を使って、愛情に応える努力をおろそかにしてる。どちらかと言えば、真実よりも事実の世界に暮らしてる。ぼくはぜったい自分を愛してくれる人間を失望させないようにするつもりだ。真実を教えてくれるお師匠さんを失えば、かならずよくないことが起こるからね。……思ったとおりに生きればいいんだよ、山口。ぼくも山口のような真実の人でいたい。ぼくも山口の模範でありたい。刎頚の友だからね。おたがい模倣し合って生きようね。遠ざかるなよ」
 山口はウンウンとうなずき、涙を流した。
「入籍はたしかに大見得だった。死ぬまでいっしょにいるんだから、そんな見得を切る必要がなかった。でも、俺はおトキさんに社会的保証を与えたい。……俺はね、神無月、おまえから真実を学んだんだよ。それでささやかな真実味が俺についた。おかげで真実にあふれた人間たちに遇うことができたんだ。おまえの手柄だよ。おまえは真実をそのまましゃべるだけの弾丸のような人間だ。心臓を射抜く」
 菅野が、
「そうですよ、神無月さん鉄砲ですよ。もし私たちに真実味あるように見えるなら、それは神無月さんに撃ち殺されて仏さまになったからです」
 トモヨさんが、
「そうなの、郷くんに昇天させられた幸せな仏さま。真実味たっぷりでしょう? ほんとに成仏させていただいてありがとうございました」
 女全員で幸福そうに笑う。主人がにやつき、
「なんだかアヤシイな」
 睦子が、
「神無月さん、山口さんやおトキさんに手柄を譲るの、失敗しましたね。私たちはみんな神無月さんに葬られた仏さま」
 千佳子が私の手を握って振った。ソテツが茶色い頬を赤らめてもう一方の手を握った。おトキさんは山口の横顔を見つめてやさしく笑った。
「よかった、おトキさんが笑った」
 トモヨさんがおトキさんの手の甲にそっと触れた。菅野が立ち上がり、
「社長とトモヨ奥さんたちを北村に送り届けてきます。十五分で戻ります。ここで話でもしながら待っててください。じゃおトキさん、頼みましたよ」
「はい。後片づけをしながら待ってます」
「私もいっしょに帰ります。そろそろ夕食の支度ですから」
 ソテツも立ち上がった。懸命な面持ちで私を見つめる。主人が紙コップを飲み干す。菅野が、
「山口さん、マンションの帰りに、則武の家に寄りましょう」
「それは面倒だよ、菅野さん。夕食のあと、神無月と散歩に出がてら見にいくから気にしないで」
「わかりました。とにかく社長たちを送ってきます」
 トモヨさんに抱かれた直人はまったく目覚めなかった。おトキさんがトモヨさんに声をかける。
「なるべく早く戻ります。夕食の献立はソテツちゃんに言ってありますから」
「だいじょうぶよ、何も心配しないで山口さんたちと回ってらっしゃい」
 菅野の背中について主人とトモヨさん母子とソテツが駐車場へ去った。


         百三十

 まだ日が高く、長ッ尻の年寄りの多い公園は賑やかだ。女三人で後片づけにかかる。山口が、
「ああ、腹いっぱいになった。マスコミがいなくてよかったな。落ち着いた花見ができた」
「野球を知らなそうな老人が多くて助かった」
 おトキさんが言い出しにくそうに、しかし思い切って言った。
「山口さんの親友の神無月さんだから、あえてお尋ねします。神無月さん、私、年甲斐もなく若いからだに夢中になって、山口さんの都合も考えずに何年も甘えてきました。みっともないことだと思いませんか。もう、五十歳を過ぎました。私たちのような男女関係の場合、女が年とってるということを、どうお考えになりますか」
「そんなこと気にしてたの? おトキさんのことだ、山口の体裁を考えてやる以外に世間的なことは気にしてないと思うから、きっと肉体的なことだね。外見とか、性欲とか」
「はい……」
 私は腹の底から笑いながら、
「そりゃ山口には訊けないよね、笑って一蹴されちゃう。ぼくは東京の吉祥寺で、福田さんという五十三歳の女の人と、菊田さんという六十二歳の女の人とも付き合ってるんです。福田さんには睦子が会ってます。菊田さんなんかおトキさんより十歳も年上だ。顔や手に多少シミが浮いたり、乳房に張りがなくなったり、あそこの毛に白髪が混じったりということはあるけど、顔もからだも皺くちゃじゃない。外見も魅力的だ。性欲は旺盛で、性能や反応も、ほかの女とちっとも変わらない。本人は年齢を気にしてるんだろうけど、だからといって年相応に分別くさく振舞ったりはしない。そんなことしてたら、居心地悪い人生になる。ぼくの確信だけど、恋愛は人生を完全なものにする。過不足のない人生模様を完成させるためには、若さだけでなく老いも考えに入れなくちゃいけない。朝の美しさや昼の輝きもすばらしいけど、夕方の奥ゆかしい光もすばらしい。光を閉め出すためにカーテンを引いちゃいけない。そんなことをするやつはバカだ」
 みんな一心に耳を傾けている。
「おトキさんが山口の若さや自分の老いに尻ごみするのは、山口を奮い立たせる若さを山口がほしがっているんじゃないかって考えるからだ。それはまちがってる。山口はそんなこと考えてない。あるがままのおトキさんが好きなんだ。年とったら激しい運動はできないし、かわいい山口をベッドに押し倒すという積極的なこともできない。裸体を曝して山口の情欲をいつも掻き立てるというわけにもいかない。でも嫉妬の責め苦から自由になれたのはすばらしいことだよ。山口を独占しようとしないことからそれがわかる。嫉妬心が老齢のせいで和らげられたのはすばらしいことだ。ぼくの女たちは、若いくせに老人のように嫉妬心がない。ぼくを独占しようとしない。感謝すべき幸運だ。もう一つ。老人には若者にない楽しみがある。若いころの楽しみとはちがうけれども、それに劣るものじゃない。若さにまかせて動き回らない分、時間が浮く。屁理屈じゃなく、老寄りには時間があるんだ。ゆっくりものごとができる。ゆっくりやれば趣味がよくなり、どんなことでも何の偏見もなくじっくり楽しめる。大事なセックスも、一瞬一瞬の感覚を大切にしながらすることができる。ぼくは、五十歳の文江さんや、五十三歳の福田さんや、六十二歳の菊田さんのことをそういう完成した人間として愛してる」
 おトキさんが手で顔を覆った。
「ありがとう、神無月さん、ありがとう」
 睦子と千佳子が泣きながらおトキさんに抱きついた。山口があぐらの膝に手を突いて泣いている。
「……おまえはいつになったら俺の涙を涸らしてくれるんだ」
「おトキさん、おまけに山口は一穴主義だ。おトキさんは安心して待ちながら、それでいて渇(かわ)くこともないんだよ。ぼくの事情は見逃してね」
「神無月さんは、山口さんのおっしゃるとおり人助けの行いです。慈悲みたいなものです。どの女の人も神無月さんに遇わなかったら、空しい人生を送っていたと思います。どんなに感謝してもし切れないでしょう」
 千佳子が、
「助けられっぱなし。恩返しもさせてくれない」
「話がかならずこういう雲ゆきになるね。だれも不満を抱かない。全肯定だ。どうしてこんなふうになっちゃうんだろうね。むかしの自分を思い返すと信じられない。果報者のヨタロウにすぎないのに」
 菅野が戻ってきた。タクシーを一台捕まえ、私と山口とおトキさんが乗り、クラウンに千佳子と睦子が乗った。クラウンを先にやり、二台で走り出す。
「直人のやつ、よく眠ってたなあ。あんなふうに眠ることができたのはいつまでだったかな。横浜の高島台にいたころ、母に無理やり創価学会の会合に連れていかれて、十一時過ぎまで起きていたことがある。死ぬほど眠かった。眠りかけると、横の人に小突かれて起こされた」
 山口が、
「おふくろさんは創価学会か」
「勧誘されただけで、その一日で懲りたみたいだった。さびしかったんだろう。ひろゆきちゃんの家だよ」
「自転車を崖から落とした?」
「そう。あんなに眠かったのもあの日だけで、あれ以来、一度も眠いと思った記憶がない」
 亀島から菊ノ尾通りへ向かう。前を走っているクラウンのリアウィンドーから二人の女が手を振る。西警察署の交差点を右折し、花の木を通って、堀川と外堀に挟まれた樋ノ口町に出る。枝垂れ柳の街路を走る。堀端の桜並木が満開だ。山口が、
「うお、これは絶景だ。家並も古い。ん? とつぜんでっかいホテルがあるなあ」
「名古屋キャッスルホテルです」
 タクシーの運転手が言う。
「高層じゃないから景観は損ねてないな」
 おトキさんはじっと山口の手を握っている。
「こんなところにフィットネスクラブがある。発見だ。たまにきてみよう。ランニング以外はここでこなせるかもしれない」
「自由に出入りできる会員制度があればいいけどな」
「そうだな、かよう回数自体、まちがいなく少ないからね。それに、もうかなり有効なジム器機を二つ則武に入れてるし」
「神無月選手ですよね……」
 中年の運転手の背中がとつぜん話しかけた。黙っていると、
「とぼけようとしてるでしょう。よくまちがわれるとかなんとか言って。だいじょうぶですよ。騒がれるのが嫌いだというのは有名ですから。お会いできて光栄です。公園前で手を挙げられたとき、すぐわかりました。万分の一の確率で乗っていただくこともあるかもしれないとは思ってました。仲間内でそんな話をしたこともあったんです」
 運転手は浮きうきとハンドルを操りながら、
「ほとんどヘルメットをかぶらないことをみんな心配してます。格好悪いですが、いつもかぶってくださるとうれしいんですがね。強打者はかならず顔のあたりを狙われますから。ファンの一人としてお願いします」
「かぶります」
「よかった。シーズンは長丁場です。どうか、重々おからだに気をつけてプレイなさってください。ご活躍を祈ってます」
「ありがとう。がんばります」
「あのう……」
「はい、サインですね」
 私は胸ポケットから手帳を出し、山口に万年筆を借りてサインして破り取り、
「こんな紙切れで失礼ですが、どうぞ」
「ひゃあ! うれしいなあ。額縁に入れて飾っておきます」
 運転手はシャトー西の丸に着くと、わざわざ運転席から降りて、握手を求めた。
「息子が名古屋西高校なんです。先月、講演会で遠くから見たと言っておりました。信じられないほどの美男子で、グランドでも近づけなかったそうです。このサインを跳び上がって喜ぶでしょう。握手したなんて言ったら、臍を曲げられるかもしれません。息子に言われて西高の記念碑を見にいきました。まさに後光を輝かせながら天から降りてきたということが納得できました。うちの社長は筋金入りのドラゴンズファンです。社長ともども会社じゅうで応援しております。ほんとに、サインありがとうございました」
 最敬礼して、運転席に乗りこんだ。私も最敬礼した。車が走り去った。
「こんなに頭の低いスター選手もいるんですねえ。日本じゅうがファンになりますよ」
 おトキさんがほほ笑む。
「考えたら、通りすがりの人との親密な挨拶って、こういうサインぐらいしかないね。面倒くさがらないでするようにしないと」
 すでにクラウンを降りて待っていた連中に合流する。
「菅野さん、さっき通り過ぎたジムを調べといて。自由会員制があるかどうか」
 うれしそうに腕組みして、
「了解です。決まったら送り迎えしましょう」
 おトキさんが、
「かわいらしいマンションですね! それにきれい」
 五階建てなのに、たしかに小ぢんまりした感じがする。石とコンクリートで岸を固められた堀川が傍らを流れている。手近の小橋までいって、振り返って眺める。鳥の子色のマンション。高校二年の春休みにカズちゃんといっしょに菅野のタクシーで乗りつけたのが最初だ。西高に転校したその夏から、トモヨさんに逢うために何度もかよった。なつかしい。
「507号室だったね」
「はい」
 そのころにはなかった自動販売機が玄関前に立っている。自転車が何台か並んでいる。
「あの中に睦子のもあるの?」
「はい。練習で何度か駅を往復しました。片道二十分くらい。ガード下の駐輪場に預けて、名鉄百貨店へもいきました」
 山口が川端を横手に回り、腕組みして見上げる。
「奥行きがないんだな」
「そうなんです、長方形の角柱のマンションなので、階ごとに四世帯しか入ってないんです。ぜんぶで二十世帯。何室か空いてます」
 千佳子が、
「かわいらしくても、高級感ぷんぷんよ」
「和子さん、トモヨさん、私で三代目。落ち着いたら母が見にくるって言ってますけど、そんな暇ないと思います」
「私のお母さんもそうよ。和子さんにお礼が言いたからって。わざわざこなくていいって、和子さんが電話で説得してたわ」
 おトキさんが、
「神無月さんも和子さんも人間離れしてます。と言うか、人間じゃないと思います。きのうの夜山口さんとも話しましたが、私たちはお二人に導かれたんです」
 睦子がおトキさんの手を握り、
「名古屋に戻ってきたら、このマンションの四代目になってくださいね。私には広すぎるんです」
「そんな……」
「私は北村席の一部屋を借ります。千佳ちゃんといっしょのほうが大学にかようのも楽しいし、勉強するときも励まし合えますから。じゃ、私たち、ここで」
 自販機の前で睦子と千佳子と別れた。クラウンに乗りこみ、背の低いビルのあいだをひっそり流れる堀川に沿って走る。
「睦子の提案、唐突だったね」
 おトキさんが、
「神無月さんのすぐそばにいたいんですよ。私はこちらに帰ってきたら、席の厨房に立ちたいので、あのマンションには入りません。山口さんにしても、東京が活動の拠点と定まったら、別に名古屋に帰ってくる必要はないわけだし」
「そうだなあ」
「山口さんがプロになったら、私がときどき東京へかよえば何の障りもないことです。山口さんのほうから名古屋にきたいときにはくればいいし、名古屋で公演があるときは北村席に泊まればいいでしょう。ただ、プロとして足もとを築くまでは、東京でずっと見守っていたいんです」
 菅野が、
「そうですよ。マンションにはこのままムッちゃんがいればいいですよ。神無月さんが逢いたくなったときには、私が送り迎えしますから。ムッちゃんが逢いたければ、自転車飛ばしてくるでしょう。おトキさん、名古屋城、外堀だけでもぐるっと回る?」
「いえ、もうじゅうぶんです。ここにくるまでにちゃんと見ました」
「神無月さんと山口さんは、何年か前にきたからいいですよね」
「そうだね、名所見物にはあまり興味が持てない。みんなそういうものに熱を上げるみたいだけど、ぼくは町なかの古びた建物とか、柳並木の風情とか、道端の小さな竹薮なんかに心惹かれる」
 山口が、
「……そんな具合に、横山さんにも興味を持ったんだな。なつかしい古びた人間だから。彼はどうも、今回で俺たちから去ったみたいな気がしてしょうがないんだ。あんなふうな口を利いて別れたのも気になる」
「よしのりは愛想がよくて、飲み屋でも学校でもバリケードでも、どこでもすぐ周囲の人間と親しくなれる人当たりのよさがある。人とほどほどに親しくなるんだ。彼の求める親密さは、退屈だったりさびしかったりすることから生まれるものだから、秘密を打ち明けるほど親しくなっても、別れてしまえばすっかり縁の切れる類のものなんだよ。あらかじめ一定の期間だけとわかっている親密さだ。きっとぼくもそうやって親しくなった一人だ。交友の期限は、彼がそのときに知りたいことを語る人間、彼がそのときに語りたいことを感光板のように心に焼きつけてくれる人間に巡り会うまでだ。彼がリアルタイムで知りたいことや語りたいことといっても、ぼくには別に……」
「どうでもいいこと、か。……となると彼が巡り会いたいのは、女か」
「女とはかぎらず、新しい様子をした人間だろうね。ぼくたちは、彼の知りたいことや語りたいことを心に留めようとしなかった人間だったんだよ」


         百三十一

 山口はしばらく考えこみ、
「考えると、横山さんに少しつらく当たったような気がするな」
「そんなふうに罪の意識を感じさせるやつなんだ」
「彼は変人じゃない。だから……心配だ」
「心配だね。彼は適当にやりすごせると思えない。彼は、きちんと考えて行動しなくちゃいけないときに、大雑把な幸運を期待したり、心ある人の言葉に大げさな言葉で抗議したり、否定的にしゃべりつづけたり、無関心や上の空を装ったりする。人に自分の不安の尻尾を捕まれるのが許せないんだ。でも(否定)は、死を宣告されて嘆く者が見せる第一の特徴だ。自分の経験からわかる。その先はほんとうに幸運がないと切り抜けられない。よしのりに致命的な悪運は降りかからないだろうけど、蘇生できるような幸運も起こらないだろうな。不誠実でやる気がないからね。……正直なところ、いつのころからかうんざりするようになった。哀れな感じがする人間は、悪党よりタチが悪い。明るくあろうとする心を蝕む」
 山口はゆっくりうなずき、
「おまえは弱い者の味方だけど、弱い者にさえ不正を許さない。おまえを愛したら、強くなるしかない。弱いままだと捨てられる。ひっそりとな」
「人を捨てるほど傲慢じゃないけど、本質的に、臆病で弱い者にイラ立つんだな。人生をおどけ芝居(バーレスク)的なおかしみにすがって切り抜けようとするやつには虫酸が走る」
「横山さんにはすまないが、つい御池くんと比べてしまう。彼は頭のよさと人間的な強さが表情に滲み出てた。快適だった。義侠心もある」
「うん、彼は強い男だ」
「しかし、人間的に強いと言っても、さすがの御池くんも自由という真の強さはなかなか持てない。神無月は得るものにも失うものにも無関心なので、自由にしゃべったり、行動したりできる。集団や個人に縛られてるようで、何ものにも縛られていない。居直ってるわけでもない。横山さんや御池くんにはわからない強さだ。根本的に彼らは自由人じゃないからな。俺は……ギターを失うとやばい。やっぱり自由人じゃない」
「山口、言うことがぼくに似てきたね。だめだよ、謙虚さで自分を小粒に見せたら。習慣になっちゃうぞ」
「そうなれば理想だな」
「ぼくたちに対してはやめてね。……五月のコンクールの結果は、カズちゃんに電話入れといて。そのあとは八月だ」
「六月、七月のいくつかのコンクールは楽勝だと思うから、最初のコンクールの結果しか連絡しないぞ。夏の終わりか秋には、イタリアに一週間いってくる。連絡は帰国してから入れる」
「うん、おトキさんに国際電話を入れれば、おトキさんから名古屋に連絡がくる」
「わかった」
 私は山口の手を取って強く握った。
「―ぼくの友人でよかったか」
 山口はまた病気が再発したかというような目で私を見据えた。
「おまえ以外に友人になりたくなかったよ」
「ぼくを生き返らせなければ、もっと静かに暮らせたろうにな。しかし、おトキさんに遇えた。これだけはありがたく思ってくれ」
 涙が出てきた。
「……静かって何だ。いまの俺の生活はうるさいと思うか? その判断のもとは何だ。うるさいとするなら、俺はこの程度の喧騒に耐えられないと思うのか? 神無月、おまえに比べれば、どんな人間もうるさいよ。おまえより静かにはなれない。おまえは喧騒を引き起こせない。お前の巻き起こす喧騒なんて、さざ波ほども音を立てない。おまえのおかげで、みんなこの上なく静かに暮らせるんだ。これ以上どうやって静かに暮らせって言うんだ? おまえが生き返ったとき、俺は生まれたんだ。おまえは俺の母親だ。命懸けで俺を産んだんだな」
 山口もいちどきに涙を流した。
「とんだ母親だ―」
「……おまえに産んでもらわなかったら、俺はどうなってたろうな。簡単に想像がつくよ。高校をまじめに勤め上げ、二流大学にいって、学生運動なんかちょっと齧って、権力とやらに反抗してみて、結局尻尾を巻いて二流会社に入って、外回りに放り出されて、愚痴を言いながら酒飲んで、親睦麻雀やって、上役の媒酌で社内結婚して、好きでもない女にできの悪い子供を二、三人産ませて、家内安全、給料運び人になって、いくつか保険に入って、ローンで家買って、温泉旅行して、浮気して、忘年会やって、隠し芸でギターを弾いて、昇進して、白髪頭で同窓会やって、自由にならない退職金もらって、盆栽でもいじって……。簡単に予測がつくやかましい生活だったろう」
 菅野とおトキさんが耳を澄ましている。山口はつづける。
「おまえとの一日一日は想像がつかない。イトオカシの連続だ。おまえはどこをどうさまよってるのかわからない静かなマグマだ。その静かなエネルギーを分けてもらったおかげで、俺は自分の才能を開花させることができた。そうなると人間は静かな一本道を歩けるようになるんだ。一本道以上の静けさはない。……神無月、頼むから、俺をビクビクさせるのはこれっきりにしてくれ。俺もむだな神無月擁護論を吐き出すのはこれっきりにする。……なあ、神無月、おまえは俺に思索を教えた。たいていの人間は静かにものを考えることをしない。自分の存在を当然のものとして受け入れ、がんばって生きるんだとうるさく自分に言い聞かせ、欲得にまみれた衝動にうるさく引きずり回され、年をとって力がなくなれば、うるさくぼやきながら蝋燭の火のように消えていく。もの心ついてから死ぬまで、エゴのうるさい声を聞きながら生きるんだ。おまえ、さっき、わがまま勝手な振舞いという言葉を口に出したな。それがまさにおまえの生き方だし、おまえが俺に教えてくれた生き方だ」
 菅野が、
「自分のわがまま勝手な振舞いのために迷惑をかけたと言ってましたね」
「うん、言ってた。本気でな。たしかに自己実現のわがままな欲求は、環境に適応できない人間の本質と言ってもいい。律儀な人たちに迷惑をかけるだろう。でも、思索を核にする自己実現は、人間の望み得る最高のものだと俺は思う。それはエゴイズムじゃない。思索する目的のために自分を生き延びさせようと努めることはエゴイズムじゃない。エゴイズムというのは、人間が環境に適応するために身につけた技術だろう。思索は適応の技術じゃない。環境に適応することなんか意に介さずに、想像力で環境を拡げ、適応の程度を超えて進化したものだ。目に見える有機も目に見えない無機も包みこんでしまっているものだ。おまえはたしかに有機の世界の人間だ。しかし抱いている精神世界は無機の最高峰である神のものだ。おまえに接する者が、もし神の世界を退けるなら、エゴを守る心を決めなくてはならないだろうな。自分の役割は有機の環境の中で個体として生き残ることだとね。神の世界を抱く思索家は、生き残ることじゃなく、何のために自分がこの世にいるか、そのためにどのように身を処すべきかを考える。そして結論は明らかだ。自分の人生には理由も意味もないということだよ。おまえの生き方はまさにそれだ。最高の平衡状態だ。静寂以外の何ものでもない」
 菅野が車を止めた。背中のまま言った。
「救われた神無月さんの命もダイヤモンドでしたが、神無月さんが救った命もダイヤモンドだったようですね。二人に出会えた幸運に感謝します。ちょっと感動でからだがふるえて運転できません」
 菅野はしばらくハンドルに頭をつけていた。おトキさんが、
「神無月さんのために、山口さんをお守りします。褒められても、貶されても、神無月さんが静かだったのは、そんなものが耳に入らない世界に住んでたからだったんですね。それをとっくに知っていた山口さんのえらさも身に沁みてわかりました。……私、東京で山口さんといっしょにがんばります」
 菅野が振り向いて、私たち三人に強くうなずいた。
「さあ、帰ってごろごろしましょうか。それともランニングに出ますか」
「ランニングのあと、晩めしまで、広島カープの研究をします」
「お手伝いします」
「俺はギターの練習をしよう」
 北村席に帰りつくまでの短い時間のあいだに、菅野と先月半ばの広島戦の概略を復習する。菅野が、
「一度中日球場で三月十三日に対戦してますからね」
「たしか、先発は外木場でしたか」
「忘れちゃったんですか」
「グランドに上がれば、思い出します」
「第一打席で左中間に大きなホームランを打ってますよ。照明灯の脚に当たりました。つづく大石、白石から一本ずつ。ライト上段とバックスクリーン。残り二打席は敬遠でした」
「衣笠が看板に当たるホームランを打った。山内さんのフライを一本捕った。だめだ、グランドに入らないと思い出せない。広島市民球場の予習をしたほうがよさそうだ」
「私、予習してあります」
 山口とおトキさんが、アハハ、ウフフ、と笑った。
「まず住所から。広島市中区基町中央公園。次にフィールド状況。内野は黒土、外野は高麗芝、甲子園より明るい照明灯六基、レフトの照明灯一基はスタンド内に立ってます。両翼九十メートル、中堅百十六メートル、左右中間百十メートル、フェンスの高さ三メートル。収容能力二万四千五百人。狭い球場です。スタンドへ打ちこむのは簡単ですが、レフトは広告板の上の西日防御ネットが二十メートルくらいあるので、百六十メートル級の打球でないと場外へ出ません。ライトには防御ネットなし。百三十メートルも飛べば場外です。いま中日にいる長谷川良平コーチが、マウンドが低いと言ったのは有名です。ほかには、場内アナウンスがおもしろくて、スタメン発表のとき、ピッチャーだけは、××投手は××試合目の登板、××勝××敗でございますと言うんです。リリーフのときも言います。また、敵味方関係なくホームランが出るとファンファーレが鳴って、××選手××号ホームランでございます、とアナウンスし、カープが勝つと同じファンファーレが流れます」
 予習の必要がなくなった。
 帰り着くとすぐに、菅野といっしょに天神山まで往復一時間のランニングに出た。
         †
 山口が、ステージでのんびりと、しかも念入りにギターの練習をしている。私は直人を背中に乗せて寝そべり、主人の選手名鑑を見ている。ふと山口を見やると、こちらを見返して笑い、
「アルベニスのアストゥーリアス。超絶技巧」
 などと言ったりする。
「開幕戦は、外木場、大石、白石ではこないだろうな。ぼくと初対決のピッチャーをぶつけてくる」
 私が呟くと、菅野が、
「いや、たぶんその三人ですよ。初戦を落としたくないですし、ファンの期待との兼ね合いもありますからね」
「なるほど。こうして名鑑を見てると、百八十センチを超える選手がちらほらいるね。山本浩二、百八十三、興津立雄、百八十一、水谷実雄、百八十、西本明和、百八十一。スタメンは山本浩司一人。わがドラゴンズは、小野百八十五、菱川百八十三、島谷百八十三、太田百八十二、ぼく百八十二、伊熊百八十一、山中百八十一、浜野百八十、門岡百八十、スタメンは四人。勝つね」
 主人が、
「どういう理屈ですか。しかし、神無月さん、高一から伸びましたねえ」
「はい、五センチほど。小学校から中学校にかけては小さいほうだったので、ここまで伸びるとは思いませんでした。でも、迷信だとは思いますが、百八十センチ以上の日本人ホームランバッターが日本に誕生したことがない、というジンクスが気になります。大リーグとちがって日本では、百八十センチ以下のけっして大きいとは言えない選手がホームランを量産します。中西百七十三、木俣百七十三、野村百七十五、山内百七十五、藤本百七十五、長池百七十五、桑田百七十六、王百七十七、江藤百七十八。ホームラン王はすべてこの中にいます。野球は身長じゃないという証拠です」
「身長じゃなく才能です。神無月さんだって百六十センチ台のころから百メートル以上のホームランをパカスカ打ってきたでしょう。いまの神無月さんはグランドでは巨木に見えますよ。枝ぶりにすごみのある巨木」
「中さん、高木さん、太田も菱川もすごい」
「ですね。ドラゴンズの選手が立派な点は、だれも神無月さんにツケを回そうとしないことです。独立独歩、自力更生。それが大量得点に結びついてる。ピッチャーも、小川、小野、田中勉、浜野が、できるだけ完投しようとがんばる。今年、案外早い時期に優勝を決めるかもしれませんよ」
 直人が背中で足踏みをする。
「こらこら、イタイ、イタイ」
 初めてちがう未来が待っている気がする。生まれて初めて希望というものを知った。たとえそれが幻想でも、私は喜んで危険を冒す。色とりどりのミニスカートの一団が帰ってきた。通り過ぎるとき、尻へ切れ上がっていくあたりの太腿をちょうど見上げる格好になり、下腹がズキンと疼いた。こういうときかならずカズちゃんの顔が浮かぶ。罪悪感を覚える。しかしいつもとちがって明るい気分だ。
 厨房の音がひっきりなしに聞こえてくるころ、愛するカズちゃんが戻ってきた。ピンクのスーツを着こんだ保険外交員ふうの三十女と居間で雑談していた女将が、お帰り、とやさしい声をかけた。
「あ、××さん、こんばんは。商売になった?」
 カズちゃんがピンクのスーツに挨拶する。
「お二人ほど入っていただきました。ありがとうございます」
「アイリスのほうはこないでね。みんな若いぺーぺーだし、××さんの相手をしてる暇なんかないから」
「わかってます。こちらのほうでじゅうぶんお仕事させていただいてます。じゃ、女将さんきょうはこれで、失礼いたします」
 ピンクスーツが帰っていった。カズちゃんはギターを抱えている山口ににこやかに会釈し、私と直人にキスをする。素子が同じようにする。山口が別の曲を弾きだした。
「山口さん、何? その曲」
「バリオスの『森に夢見る』。超絶技巧」
 同じようなことを言う。
「ものすごくいい曲ね。お風呂上りにもう一回弾いてね」
「オッケー」


         百三十二

 カズちゃんたちはみんなで風呂にいった。主人が女将に、
「中日スポーツの『噂の店』ゆうコラムで、アイリスが紹介されとったで。そのうち、夜の九時ぐらいまで開けとかんとあかんようになるんでにゃあか」
 女将が、
「それをやったら、キリがなくなるでしょ。夕方に閉めてまう店ゆうことで、めずらしがって押しかけるんやないの」
「ほやな、初志貫徹せんとな。じゃ、ワシ、寄り合いやから、ちょっといってくるわ。めしは向こうで食う。菅ちゃん、いくで」
「ほーい」
 いってらっしゃいませ! という声が台所からする。早帰りのミニスカートの一団がスラックスやジーパンに穿き替えて降りてくる。もうさっきの女がだれだかわからない。顔を見つめる。
「いややわ、神無月さんにじっと顔を見られた」
 どの女にも心が動かない。しかし太腿には感覚が動いた。下卑た男だ。トモヨさんが背中の直人を引き剥がしにくる。おトキさんが彼に早目の食卓を用意する。山口がステージから戻ってきた。
「腹へってないよ」
「そうだな。ビールでも飲むか」
「うん。トモヨさん、ビールくれる?」
「はい、つまみに冷奴、醤油とラー油をかけて持ってきましょう」
 おトキさんが直人の面倒を見る。
「直ちゃんに会えなくなるの、おばちゃんさびしい。でも、おばちゃん、好きな人と少しだけ幸せになりたいの。許してね」
 などと語りかけている。山口とビールをつぎ合い、からい冷奴をつまむ。爽快。
「チーム内で、いやなことはないか。厭味を言われるとか、直接いじめられるとか。江藤さんたちじゃなく」
「ない。ドラゴンズにかぎらず、この四年半、まったくない。それで、シマッタと思ってる。野球仲間は山口たちと同じようにぼくの心の内を見抜いてる。仮面の奥を覗いても目を背けようとしない。そういう、性格を改造する必要のない環境の中で、あえて円く改造してしまった。蛇足みたいなことをしちゃったと思う。自然にまかせていれば何の苦労もなかったのにね」
「改造なんか加えたと思えないな。おまえはもともとそういうやつだ。人が善良なら喜び、邪悪でも苦にしない。人間はある程度同じだと思ってる」
「たしかにそうかもしれない。人間はみんな独自だというのは、誇張されやすい自己慰撫だと思ってる。同じような環境の中では、人は大同小異だ。だからこそ、想像力が登場する。自分が接した人びとについて妥当だと思えるような一貫した物語を、想像力を駆使して作り上げる。とても魅力的な想像ゲームだ。想像ゲームの中で、恋人が決まり、友が決まる。……でもね、友や恋人を決定するのは、想像という相対的なゲームを超えた絶対的な本能じゃないかなという思いもあるんだ。遺伝子の牽き合いだね。遺伝子は想像を拒否する。それを思うたびにいつも、想像ってなんと無力なんだろうと思う。人を愛するのに想像力はいらない。遺伝子があればじゅうぶんだ」
「そのとおりだ。遺伝子のレベルでは、人間は大同小異だ。しかし、想像力という相対的なゲームは別次元の能力を必要とする。だれもが持てる能力じゃない。想像力はちっとも無力じゃないということだ。人間の差は、遺伝子的な本能じゃなく、想像力を駆使できる才能の差だ。神無月、人間は大同小異じゃないよ。明らかにちがう」
 ビールをつぎ合う。ラー油の冷奴をつまむ。食卓がどんどん整っていく。ほうぼうでいただきますの声が上がる。
「結局、名古屋にはくるか」
「くる。やっぱりおまえのそばで楽しく暮らしたいからな」
「唄おうか? デュエットで。裏をつけてくれ」
「食事中だから、おとなしいやつな」
「だれもいない海」
「俺が高音をつける」
 カズちゃんたちが風呂から上がってきた。山口が、
「和子さん、バリオスはあとにして、神無月とデュエットするよ。食事のバックグラウンドだから気にしないで食べて」
「わかった。みんな、箸を止めちゃだめよ。二人がアガっちゃうから」
「あしたの晩は本格的にやりますよ。きょうはおとなしく。直人も起きてるし、神無月の歌声を記憶させておくにはいいチャンスだ」
「憶えてないよ」
「これから何度も聴かせるんだよ。七、八歳くらいまでな」
 山口はステージにいき、一本のスタンドマイクを引き下げて、それを中心に二人の椅子を並べる。すぐにトレモロが始まる。長い前奏。声を合わせるために息を吸う。デュエット。私の声に山口のファルセットの和音がかぶさる。

  いまはもう秋 だれもいない海
  知らん顔して 人がゆきすぎても
  私は忘れない 海に約束したから
  つらくても つらくても
  死にはしないと

 山口の顔がギターにうつむいてゆがみ、女たちの箸が止まった。短い間奏。メイ子や百江が、箸を置いてこちらへ血の退いた顔を向けた。ソテツが狂ったように拍手する。

  いまはもう秋 だれもいない海
  たった一つの 夢が破れても
  私は忘れない 砂に約束したから(山口のみごとなファルセット!)
  さびしくても さびしくても
  死にはしないと  

 ギターの腹を叩きながら、長い間奏。トモヨさんが目をつぶり、祈るように胸に手を組み合わせている。山口はファルセットをやめ、落涙を止めないまま弾きつづける。私だけが唄う。

  いまはもう秋 だれもいない海
  いとしい面影 帰らなくても
  私は忘れない 空に約束したから
  ひとりでも ひとりでも
  死にはしないと
  ひとりでも ひとりでも
  死にはしないと……  

 ついにカズちゃんまで箸を置いた。テーブルに落ちる涙が見えた。女将も唇をふるわせながら涙をこらえている。おトキさんがお仕着せの袖で顔を覆った。直人だけはみんなの様子を不思議そうな目で見ていた。
「失敗だったね」
「仕方ないさ。おまえの声が耳に入っちゃったらな」
 二人で座席に戻る。女将が、
「神無月さんの声は、何しとっても、目ン玉殴りつけるわ」
 カズちゃんが、
「ごはんのときは禁止ね」
 山口が、
「じゃ、じっくり食うか。食ったあとは、俺のほんとのバックグラウンドだ」
 女将が、
「イネちゃんが、土曜日に葬式をすませたら、日曜日の午前に飛行機で帰ってくるって」
「お祖父さんが亡くなったんでしたっけ」
 私が訊くと、ソテツが、
「ま! 忘れちゃったんですか。お父さんがまだ五十歳で……」
 山口が、
「神無月の記憶喪失を責めちゃいけない。イネさんだけを思い出すんだ。こいつはね、実際に会って会話をしたこともない人のことは印象に残さないんだ。頭の隅には残ってると思うぞ」
「ごめんごめん、ついうっかりね。胃癌で寝たきりのおとうさんに何もしてやれなかったって泣いてたんだったね」
「ほら、ピンセットでほじくり出した。とぼけたわけじゃなくて、神無月はほんとに忘れたんだ。思い出させようとすると、脳味噌をほじくって思い出す。俺はひそかに、神無月の〈ピンセット〉と呼んでる。このピンセットで大学も受かった。神無月が忘れたと言ったら、素直にもう一度教えとけばいいんだよ」
 一座がサワサワと笑った。直人はとっくにいなくなっていた。授乳とオムツの世話を終えたトモヨさんが戻ってきて、おトキさんや賄いたちと厨房に入った。洗い物の音が響く。
「ものも食べて、お乳も飲むの?」
 カズちゃんに訊くと、
「寝かしつけのお乳。含んでチュパチュパやってるうちに寝てしまうのよ」
「あ、それ、ぼくはいまもときどきやる」
 テーブルから嬌声が上がった。素子が、
「あたしにはやってくれんがね、そんなええこと」
「素子はグロッギーになってるから」
 今度は甲高い嬌声が上がった。口々に、
「神無月さん、あたしのイメージ壊さんといて!」
「イメージどおりやよ! かわいらしいわあ」
 ソテツが、
「グロッギーって、気を失うことですか」
「あんたはええの、ビギナーにもなっとらんから。片づけものサボったらあかんよ」
「はい。素子さんも手伝ってください」
「あたしはアイリスで疲れとるの。はよいきなさい。片づけ終わったら、とっとと寝るんよ。子供なんやから」
 女将が、
「大人も寝なさい。ちゃんとお風呂も入ってな」
 ちらほらとトルコ嬢たちが風呂へいったり、部屋に戻っていったりする。賄いたち全員が仕事納めの茶を飲むころになっても、山口の独演がつづいていた。いつもながら選曲がいいので安らかな気分で聴ける。彼がいちいち告げていく曲名と、複雑なメロディを記憶する。マリーア、ラグリマ、月光、タンゴ、マリア・ルイサ、グランワルツ……。
 十時を回って、主人と菅野が背広で決めた松葉会の組員二人に担われ、へべれけになって帰ってきた。クラウンは彼らが運転してきたようで、玄関で女将に丁重に事情を説明する。
「塙のご主人から羽衣のほうに電話をもらいまして、椿町の会所のほうへ迎えに出向かせていただきました。会所におった人の話では、お二人で神無月さんの自慢をしとるうちに、ふだんになく酔ってしまったということで」
 すぐにカズちゃんが彼らの帰りのタクシーを電話で呼んだ。もう一人の男が、
「いつもタダめし食わしていただいとるのに、こんなことでしかお役に立てんで申しわけありません」
「いいえ、とんでもにゃあが。それはそれは助かっとるんですよ。神無月さんのほうにもしっかり眼を光らせていただいて、ほんとに感謝しとります」
「いやいや、上からのお達しですから。じゃ、私どもはこれで」
 すっかり〈でき上がった〉男たちだ。チンピラと呼ぶには逡巡する風采だ。彼らが丁重な辞儀をして出ていくと、やがて門前にタクシーのヘッドライトが動いた。カズちゃんが、
「どこへいってもキョウちゃんの話題しかないんで、おとうさんたちもたいへんよね。褒められたら自慢するしかないでしょう」
 主人は女将に抱えられてすぐに寝室に引っこんだ。カズちゃんが式台でひっくり返っている菅野を抱き起こし、
「菅野さん、きついでしょうけど、お家に帰るわよ。グッスリ寝られるから。さあ、がんばって起きて」
 カズちゃんは居間の水屋から免許証を取り出してポケットに入れた。クラウンまで私と山口が肩を貸した。すみません、すみませんと言う菅野に、カズちゃんはやさしく、
「あしたはゆっくりね。何の予定もないから、グッスリ寝て」
 と声をかけた。それから私たちに、
「菅野さんちにクラウン置いて、タクシーで帰ってくるわ」
 そのまま菅野を自宅まで送っていった。
 片づけの終わったトモヨさんとソテツや賄いたち何人かといっしょに風呂へいった。素子と百江とメイ子、天童、丸、それに四、五人の店の女たちが座敷に残った。山口の独演がつづいている。おトキさんが台所からテーブルに戻って、その姿をじっと見つめている。私は、
「お父さんや菅野さんが酔っ払うことなんか、あまりないでしょう。みんな驚かないんだね」
 おトキさんが、
「寄り合いに出ると旦那さんはこういうことが多いですよ。菅野さんは初めてです。酔っぱらいは、お母さんやお嬢さんみたいに一人が面倒見ればいんですよ。寄ってたかって面倒見ると、甘えてしまって、いろいろ時間かかります。お母さんもお嬢さんもうまいものです」


         百三十三

 ギターを弾きつづけている山口に、
「そろそろ寝なよ。ぼくはカズちゃんとメイ子といっしょに帰るから」
「あした一日しかない。いい日にしないとな」
「うん。きょうはすばらしい演奏をありがとう。一段と技に凄みを増したね。抒情が揺るぎないものになった。山口が生まれつき持っていた抒情だ。いつものことだけど、胸を打たれた。イタリアのコンテスト、期待してる。きっと優勝だろう」
「映画や文学の賞ほどデタラメじゃないが、音楽コンクールはミズモノだ。とにかく入賞を狙うよ」
「入賞するに決まってるさ。その後の成功には警戒してね。あれこれ依頼されたり、無理やり責任を負わされたり、面倒な活動を引き受けさせられたり、よほど注意してかからないと忙しすぎる人生になるよ。そんなのを成功と言うんじゃないんだからね。自分の好みを追える自由を得ること、自分の才能にあらためて自信を持てること、それこそ成功なんだ」
「わかってる。おまえを見て学習してきた。拒絶の自由こそ成功だって学習してきた。あしたは三曲ぐらい唄ってくれよ」
「一曲だけ。あとは、みんなが寝てから、おまえとじっくり唄いたい。その一曲は、泣けない歌の選曲を頼むよ」
「……それは無理なんだよ、神無月。眼球を刺激する声だから仕方がないんだ。何を唄ってもだめだ。泣きたいんだ。泣かせてくれ。癒やされるんだからさ」
「迷惑じゃないのか」
「まさか! どんな人間だって、癒やされて不快なはずがないだろ。俺は独りでいるときはいつだって、おまえの歌を耳に甦らせて、涙を浮かべながらギターを弾いてるぞ。じゃきょうは寝るぞ。お休み。みなさん、お休みなさい」
「お休みなさい」
 私は彼の背中に声をかけた。
「山口……」
「ん?」
 彼は振り返って笑った。
「ぼくがまともな人間に生まれ変われるなら、おまえが理想だ」
 彼は困ったような悲しげな顔をし、
「よくわからないが、うれしいよ。……じゃ、あした。いっしょにおまえの新居を見にいこう」
「うん」
 山口が二階に上がると、天童や丸や、残っていた店の女たちも名残惜しげに、私たちにお休みなさいと言って去った。トモヨさんが風呂から上がってくると、素子やメイ子や百江が風呂へいった。ソテツをはじめとする賄い連中が自分の部屋へ戻ったり、玄関へ去ったりする足音がした。トモヨさんとおトキさんといっしょに天童と丸が残っている。私はふと思いついて耳掻き天童に、
「夕方、ミニスカートでトルコ嬢たちが帰ってきたとき、スカートから覗いた股の奥を見てチンボがズキンてなった。不謹慎だなって思って、チンボを押さえた」
 大げさに言う。トモヨさんが、
「だれかしら、郷くんをズキンとさせた子って」
「さあ、だれだろうね。腿しか見なかったから。つまり、きょうは精力が余ってるってこと。お尻見ただけで勃っちゃう」
 おトキさんが、
「あのう、私……寝ます」
 みんなでお休みなさいを言う。天童が、
「おトキさん、興奮したのね。さ、丸ちゃん、寝よう」
「うん」
 二人で二階へ去った。トモヨさんが、
「私も興奮しちゃいましたけど、がまんします。このところ満ち足りてますから。郷くんがあんなことを言うなんてめずらしい。そろそろですね」
「そうみたいだ」
「そのうち、お願いしますね」
「うん」
「じゃ、お休みなさい」
「お休み」
 トモヨさんが離れに去ると、素子とメイ子と百江が風呂から上がってきた。
 サーちゃんの唾以来、人との関わり方が変わってきたろうか。母がついた嘘を秘密にしてやる決意をした日から、私はどう生きてきたろう。人の秘密を守るばかりでなく、自分の秘密も守る生き方をするようになった。秘密のない人生? それもいいかもしれない。しかし私には愛する者同士で守るべき秘密のある人生が向いている。彼女たちの正体は? 野球選手のパートナーで、不徳漢の相棒? 正体などどうでもいい。とにかく彼女たちといっしょにいると自分を飾らずにすむ。ただ、彼女たちに遇っていると、疑問が増える。その飾らない自分が何者で、何を求めているのかという疑問だ。
「夜道は物騒だから、カズちゃんが戻ってくるまで待って、いっしょに帰ろう」
 メイ子が、
「もちろんそうします。でも……」
「何?」
 素子が、
「今夜は百江さんとこに泊まったらええって、お姉さんが言っとったよ。キョウちゃんも百江さんもちょうどその時分やろうからって」
 百江が真っ赤になってうなだれた。ちょうどカズちゃんが帰ってきた。
「あらキョウちゃん、まだいたの。夜は短いわよ。百江さん、もうひと月になるんじゃない?」
「はい。二月の下旬でしたから、ひと月とちょっと。則武でイネさんといっしょに……あのとき以来です」
「そっか。そろそろ限界ね。……キョウちゃん、あれからイネちゃんを抱いてあげてないわね」
「うん」
「青森から帰ってきたら、ね」
「うん」
「このごろ、性欲がないんじゃない? 野球のことで頭がいっぱいなのはわかるけど、性欲を発散させることもからだの健康を保つためには大事なことよ」
「じゃ、私たち帰るから」
「夜中に則武に帰るよ」
「泊まっていらっしゃい。百江さんは朝早く出るんだから、キョウちゃんはゆっくり寝てればいいの」
 カズちゃんたちといっしょに百江と門を出た。百江は薄紫の、膝上の長さのスカートを穿いている。膝に張りがある。ついひと月前までは感じなかったイヤなストレスがある。いまひとつ高揚しない。カズちゃんとトモヨさんと睦子、その三人以外の女と交わるのがイヤなのではなく、下腹の一時的な感覚にほだされて、野球より禁欲が簡単な行為に安易に取りかかろうとしているからだ。そのストレスがからだの芯から抜けない。彼女たちとの交接に禁欲の義務を覚える申しわけなさもまた、ストレスになる。カズちゃんが百江たちを先にやらせて、小声で言う。
「私のほかに大好きな女は?」
「睦子と、トモヨさん」
「やっぱり……。三人ともわかってるわ。三人で話し合ったこともあるし……。その三人のほかの女を抱くとき、すごく罪の意識を感じるんでしょう? キョウちゃんはほかの女の人も嫌いなわけじゃないんだから、やさしく愛してあげなさい。彼女たちは心から喜ぶわ。私たち三人は、いつでもいいと思ってるのよ。素ちゃんや千佳ちゃんのことは、その三人と差がないくらい好きなはず。文江さんや百江さんだって、敬老サービスだなんて思ってないわ。ただ感謝してるだけ。機械的な処理の気持ちでじゅうぶんなの。私たち三人に後ろめたく思う必要はないのよ。そのために増えていった女の人たちだってこと、みんなわかってるわ。義理マンだなんて思ってないから。みんな自分の欲望よりキョウちゃんのからだのためを第一に思ってるのよ」
「うん、よくわかった」
 野球は三人の女との交接と同様、ほとんど禁欲が不可能だ。いや命取りだ。それとは対照的に、三人以外の女―彼女たちとの行為を思うだけで息が詰まるほど緊張し、禁欲の思いを強いられる。しかし、三人以外の女と交わることも、いや、女一般と交わることも受け入れたほうがいいとは感じている。グランドの精神的な解放感を忘れないために、まったくちがった生理的な解放感を受け入れることも大切にちがいないと思う。異種の緊張感を忘れないせいで、グランドに入るときかえって全神経が精神に向かって研ぎ澄まされていくような気がする。
 女の肉体にかぎらない。母や岡本所長や浅野の言葉に反撥しながらも、心のどこかで自分程度ではだめかもしれないと本気で思いはじめたころがあった。極度の精神的な緊張を強いられていたころだ。押美スカウトや小山田さんたち、そしてカズちゃんという理想の人間に認められ、励まされて、自分はけっしてだめな人間ではないと信じられるようになった。何も緊張する必要などなかったとわかった。それから五年間、圧力の強い水中にいて、やっと水面に出た。自由な、まったく緊張感のない、禁欲と無縁なプロ野球のグランドに。カズちゃんやトモヨさんや睦子の広い草原と同じ場所に。
 批判も、虐待も、ひょっとしたら肉体の交接も、考えてみれば魂の交流とは疎遠な単なる世事にすぎない。精神に関わる問題ではない。そんなものに対する禁欲の緊張感はグランドで解けばいい。それで何の障りもない。障害がないというのはすばらしいことだ。
 しかし、水面に出たことで、私は表立って人びとに関わることになり、角逐が生じ、なす術もなくたがいに壊れていく機会が増すかもしれない。母がそうだったように……。たとえそうでも、せっかく呼吸のラクな水面に出たのだ。晴れやかな気持ちで自分の掟に従い、新しく出会う人びとを気遣いながら、静かに交わっていかなければならない。見かけだけではなく、きちんと心をかよわせていくのだ。
 私は母の人生に別れを告げ、自分の人生へと踏み出した。母の掟に背く危険は覚悟のうえだ。危険に立ち向かうのは私なのだ。とっくにそうしていたはずだけれど、フンギリをつけていなかった。フンギリをつけただけの、いままでと大して変わらない生き方だとしても、新味のある道を歩きながら、これまでよりさらに努力を重ね、探求し、歩を進めていこう。自分が悪人なのか、善人なのか、もう問うのはやめた。答えがわからない。おそらくだれにも。
 ゆっくり百江の背中に追いつき、語りかける。ほかの三人が耳を立てる。
「……つらかった?」
「はい、少し。……ほかのみなさんもきっとそうです。どんなに何でもないふりをしていても、同じ女なのでよくわかります。でもみなさんの顔を見ていると、自分だけわがままを通すことはできないなって思うんです。それに、神無月さんのからだはとても大切な宝ものだとわかってますから、よけい遠慮してしまいます」
 素子が、
「みんなそう思っとるよ。遠慮せんでええがね」
「みなさんとは歴史が……」
 私は、
「明石から二カ月しか経っていないのに、十年もいっしょにいる感じがするね。カズちゃんとは五十年も寄り添ってきた錯覚を起こす。年月じゃないね」
「ありがとうございます。……明石からの帰り、太田さんと三人で通天閣を見にいきましたね。新幹線ホームまで見送っていただきました。旦那さんに連れられて中日球場にもいきました。ぜんぶ忘れられない思い出です」
 襟元をを整え、歩きつづける。
「百江で女は打ち止めだって思ってたけど……」
「仕方ありません。神無月さんはこの世に一人の人ですから。そういう人に抱かれる女の喜びは計り知れないものです」
「じゃ、百江さん、あしたもアイリスの厨房お願いね。お休みなさい」
「お休みなさいませ」
 百江の家の前から三人の女が手を振って帰っていった。
 百江は玄関の戸を開け、私を居間に導いて、いそいそと茶を振舞う。私の好きな玄米茶だ。ウイロウも出る。
「お好きでしょ?」
「うん。ナイロウというのもあったような気がするけど、歯ざわりが嫌いだった」
「そうですか? 大須ういろ、ないろ、ですね」
「百江は地元だったね」
「はい、この椿町の育ちです。ウイロウはもち米の粉に砂糖と水を入れて、練って蒸したものです。ナイロウはウイロウにこし餡を混ぜこんだものです。羊羹のような味がします。漢字だと外郎と内郎とか、外良と内良と書きます。ウイロウは青柳もありますけど、ナイロウは大須しかありません。特許みたいですよ」
「よく知ってる。さすが名古屋人だ」
 ふっくらしたあごを片手で支えながらお茶をすすり、
「和子さんが気を使ってくれて……いつもやさしくしてくれます。でも、私、神無月さんが思うほどさびしがってないんですよ。ここに―」
 胸に手を当て、
「いつも神無月さんがいますから。……文江さんが言ってました。子宮癌から奇跡的に生還したなんて言われてるけど、奇跡はそのずっと前に起こってる。ほんとに生き返ったのはそのときよって。結婚したときに死んで、キョウちゃんに遇ったときに生き返った。死ぬのも一回なら、生き返るのも一回。だからそのあとは、癌でも死なないし、老衰でも死なない。病気や老いは、生き返ったあとのお祭りだと思う。参加しなくてもいいけど、参加しても人生のアクセント程度にはなるって。……すてきな考え方。私もそう考えることにします。山口さんも、神無月さんは自分の産みの母だと言ってました。……奥に蒲団を敷いてあります。きのうお嬢さんに言われて、今朝……」


         百三十四

 私は百江の手をとって撫ぜ、
「ちょっと百江、立って、むこう向いてお辞儀してくれる?」
「え、何ですか?」
「いいから立って」
 百江は立ち上がり、後ろを向いてお辞儀をする。スカートの奥がわずかに覗く。
「これだ、きょうこの角度で見たんだ」
「何をですか?」
「店の女の子のお尻。ミニスカートだった。ズキンとなった。少しスカートを上げて」
「はい。そういうお話をしてもらえると、ほんとにホッとします」
 百江がスカートを上げると、太腿のいただきに、スカートと同じ薄紫色の下着を穿いた尻たぼが見えた。引き下ろす。
「テーブルに手を突いて脚を広げて。入れるから」
「はい」
 ……母をあんな女にしたのは、誠実な自分に固執して逃避した父ではなく、自分を偽って彼女のもとで因循姑息に暮らした私だ。まちがいない。ある日、それまで私の生きる支えだった彼女の教えはすべて彼女の分身を作るためのものだったと気づいた。深く幻滅した。それからの私は、とつぜん自由を求め、わがままに行動しはじめた。
 母の乱行には、単なる生理的な嫌悪感ではなく、理由があった。彼女は自分が作った鬼子に本物の怪物を見て、正気を失ったのだ。絶望からくる一種の自殺―それが結論だとすると、彼女の掟に従って生き切らなかった自分を親殺しとして責めたくなる。しかし私はきっと、もとの唯々諾々とした人間に戻れないだろう。何か大きな力に励まされて甦り、これまでの自分を捨てて生きろと強いられた人間だから。ただ、骨肉の掟に背いたからには、ハグレ者の掟を作らなければならない。
 掟その一、権威に捕まるな。
 掟その二、〈らしく〉振舞うとよけいニセモノだとばれるぞ。
 掟その三、自分で規則を作りそれで自分を定義せよ、規則を破れば自分を見失い、知らない自分に出会う。
 掟その四、未来を夢見るな、信じられるのはこの瞬間だけ、瞬く間にすべてが変わるのだから。
 そんな健康的なものしか浮かんでこない。
 私は百江の股間をじっくり見つめる。
「ぜんぶ濡れて腫れてる」
「はい、興奮してるんです、神無月さんがそばにきたとたんに、いつも興奮します、恥ずかしいくらい強くイキますから、びっくりしないでくださいね、からだがもう準備してるんです」
 私はズボンとパンツを脱ぎ、百江に挿入する。たちまち高く声が上がる。百江の腹をしっかり抱き締め、痙攣する姿勢を助けてやる。
 そっと抜いて、横抱えに寝室へ連れていき、すでに敷いてある蒲団に横たえた。すぐさま挿入し、自分の射精のために素早く往復する。百江は細かく高潮を繰り返しながら、みずから腰を使って私をしごく。突発的な大波になる。意識の薄れた頭が横に倒れる。驚きはない。愛しさがある。首を折った百江の横顔を見つめながら、尻を抱えて吐き出す。存分に律動する。気を失っている百江は下腹だけを反射させる。
 引き抜き、腰を接して並びかける。白いふくよかなからだがベタリと蒲団に伸びている。しばらく腰に百江の肌の熱いふるえを感じていた。やがて百江は息を吹き返して、大きく呼吸するために口を開けた。呼吸が整うのを待つ。百江はようやく快楽を終えた証拠の抱擁をする。
「ありがとうございました。からだがすっかり軽くなりました……愛してます。あ、すみません、図々しいことを」
「ありがとう。ぼくも愛してる」
「……ありがとうございます。……きょうは泊まっていってくれるんですね?」
「うん」
 上気した百江の顔に彼女の子供の顔が重なる。こんな母親を見て子供は喜ぶだろうか。
「二十歳の同志社大学は元気?」
 ―直人。私の子供。未来の担い手……。かけがえのない存在。まちがいを犯し、闇の中にいるときも、直人は私の光だ。光か。私に光が? 彼は私を見てどう思う? それを知りたいか?
「はい、まじめにやってるようです。もう二十一になりました。男の子は、十四、五にもなれば母親のことなんか忘れますし、女の子も亭主を持てば母親のことを忘れます。いまの私にはありがたいことですけど」
 部屋に暖房がない。心地よい冷気が額を撫ぜる。聞こえる。静けさが。
 人生は日課であり、自己の抑制だ。日課を守ったり、自分を抑えたりできるのは私にかぎったことではない。特に厄介で、日々欠かせないのは体力の維持だ。だれにでもできることではない。あしたもしっかりランニングをしよう。
 目を開けていられなくなり、そのまま深い眠りに落ちた。
         †
 目覚めると、寝室の蒲団に一人寝ている。四月四日金曜日。
 節のある古びた天井板が見える。枕のほうのカーテンの隙から淡い陽が覗いている。南西からの温もりのある陽だ。右横を見る。押入と部屋の戸。戸の脇に衣装箪笥。左横を見る。漆喰壁を背に立派な文机、ふっくらした座布団、その脇机に電話が置いてある。光の当たらない隅に和箪笥。足もとを見る。背の低い書棚、その上に古びた置時計。書棚の脇にやはり古色を帯びた鏡台。正体の知れない化粧品が載っている。スツールつきのこの鏡をドレッサーと言うのが主流らしい。総じて女の部屋は哀しい。
 タイメックスを見ると八時。十二・九度。枕もとに、お風呂できてます、と書いたメモが置いてある。下着の上下と歯ブラシも置いてあるが、きのうのうちに買っておいたものだろう。まず風呂だ。必要なことをする時間はたっぷりある。
 肘で起き上がって、薄茶色のカーテンを引く。煙雨。和式便所で排便。ふつうの軟らかい便。ザッとシャワーを浴び、湯船に浸かりながら歯を磨く。洗髪。
 新しい下着をつけ、寝室の隣の居間にいき、十四インチの白黒テレビを点ける。音量を絞った画面に、NHKの朝のドラマが映し出される。もうそんな時間か。サラリーマンふうの男が、無職の文学青年らしい男に皮肉めいた口調で語りかけている。
「実際おまえが羨ましくなることがあるんだよ。俺だってな、実家のジジババや女房やガキどもがいなけりゃ、おまえみたいに勝手気ままにやってみたいよ」
 こんな言葉を生まれてから聞いたことがない。いや、母やよしのりの心の声かもしれない。こんな本音を聞かされると首筋が冷えてしまう。だれか身の周りに実在する人間をイメージしなければ、こういうドラマの登場人物の科白や行動はとうてい理解できない。たぶん、話の最初から最後まで望まない約束でしっかり絡め取られていて、途切れずに約束が果たされていくドラマなのだろう。不安定で、心地悪い。一つ解決すると、次の疑問が浮かぶ。彼らが生きているかぎりそれがつづく。面倒だ。カズちゃんの声が聞こえる。
「批判しても空しくなるわよ。放っときなさい」
 山口と則武の家を見にいこう。昼からでいいだろう。彼はおトキさんといっしょにあしたの昼に発つ。
 〈責任感〉から河合塾裏の文江さんの私塾に寄る。
 ―責任を感じるいい面と悪い面は? いい面は具体的には思いつかない。悪い面はわかる。自由がなくなる。
 文江さんはスカートにエプロンをつけた姿でパタパタ動き回りながら掃除をしていた。
「のこのこ出かけてきたよ」
「あ、キョウちゃんがきてくれた。愛してくれて、ありがと」
 たしかに彼女を愛している気がした。
「愛って、何だろうね」
「なつかしさや、やさしい気持ちのことでしょ? キョウちゃんは愛のかたまりやよ」
「未練は?」
「キョウちゃんにないものやね。でも、人のためにぐずぐず生きとるのも愛情やよ。私らはキョウちゃんをぐずぐずさせなあかんて、和子さんと話したことがある」
 胸を衝かれた。
「あたし、遺言書いとるんよ」
「死なないって言ってたのに?」
「それは言葉の綾や。お祭りはかならず巡ってくるもんよ。いつかは参加せんと、おもしろみがないやろ。遺言を書いたらすぐ死ぬゆうわけのもんやないしな。……財産ぜんぶキョウちゃんと、和子お嬢さんと、節子にあげる。三等分してって遺言や。そんなものでしか、ありがとうってゆう気持ちを表わせん」
「感謝の気持ちはものに託すんじゃなく、行動でじかに表すべきだよ。生きているうちにその三人のために使い果たすのが、いちばんいいんじゃない? どうしても人にあげたいというのなら、ぜんぶ節ちゃんにあげるのが理屈に合ってる。文江がいちばん感謝しなくちゃいけないのは節ちゃんだから。―彼女がいなかったら、ぼくたちは遇えなかった」
「……ほうやね。でも、やっぱり三人にあげる。三人が使ってくれたほうが、気持ちがスッキリするもの」
 私は笑いながら、
「カズちゃんも、法子も、文江も、とんでもなく有機的な人間なのに、みんな無機的な商売で成功するのがおもしろい。それも小規模なのがとてもいい。個人経営は上品だ」
「有機って、人間らしいって意味やね? 無機は、モノの意味やろ。ふうん、お金儲けが目的やったら、逆にお金で成功はせんやろね。いいことを人にしてあげたいって気持ちが先やないと。だから私たちの商売は有機的や」
 掃除を手伝うことにする。廊下の雑布がけがなつかしい。野辺地の濡縁を思い出す。便所の壁を拭く。便器の拭き掃除をする文江さんのふくら脛が寒そうだ。皮膚が冷たい感じがする。触ってみる。
「冷たいよ。寒いの?」
「脂肪が多いと冷たくなるんよ。お尻触ってみて」
 スカートから手を差し入れて確かめる。手のひらにひんやり触れる。
「ほんとだ!」
「ね。そろそろ、暖かくなる季節やね。ガスストーブしまわんと。居間の炬燵も古なったで、廃品に出さんとあかん」
「お腹の傷を見せて」
 文江さんはすっくと立ち上がり、上着をまくって見せる。白化した縦一文字の傷を撫ぜる。文江さんは私の頭をいとおしそうに抱いた。この傷に未練がある。未練が心の疲労を相殺する。しかし、文江さんの未練は私どころではないだろう。女たち一人ひとりが抱える未練の嵩(かさ)は不平等だ。いまのところだれもその配分に不満を言わないので、こうして私は平穏な生活を送っていられるけれども、いずれかならず波が立ち、溺れ死ぬ日がくる。その日を心の片隅で願っている自分がさびしい。
 廊下に置いてあるバケツで雑布を洗う。ザッツ・エンド。壁に、立て膝をして自分の髪を洗っている女の浮世絵が掛けてある。
「魅力的だ」
「ほうやろ。好きな絵や。私も髪がだいぶ伸びてまった。首ぐらいまで切ろ。書道は不潔が大敵やから」
 窓の外に雨音がしはじめた。
「河合塾は何曜日?」
「月水金。火木土は、夕方四時からお家で小中学生を教えとる」
「きょうは何時から?」
「十時から五時まで四講座。一講座目は一時間半授業で、社会人教室いう名前がついとる。百人近くおるで、講師三人でやる。十一時四十五分からの二講座目は、一時間授業で、名前は婦人文化教室ゆうて、少し割引になる。五十人定員やから講師はお弟子さん一人だけ。十二時四十五分からお昼休み一時間十五分。二時からも一時間半の婦人講座第二部。これも講師はもう一人のお弟子さん。初級と中級、一部二部つづけて受講してもええし、どちらか単独でもええ。教える内容がちがうでね。三時四十五分からは一時間十五分の中高生書道教室。これも百人ほどおるで講師三人でやる。私は午前と午後で三時間出るだけ。ぜんぜん疲れんよ。日曜日は大学に教えにいったり、展示会を見にいったり、けっこう疲れるな」
「名大にもいってるの?」
「月に一回な。ほかに知立(ちりゅう)の愛知教育大にも月に一回いっとる」
「愛教大って遠そうだね」
「名鉄特急で知立まで二十分、そこから名鉄バスで二十分。遠いわ」
「すごく忙しく暮らしてるね」
「ほうよ、プールもあるし。だから心配せんでね。和子さん、気使いすぎやが」
「彼女に言われてきたんじゃないよ」
「ほうなん? とにかく気が向いたときだけ寄るようにしてね」
「わかった」
 うまい朝めし。塩鮭、目玉焼き、納豆、味付け海苔、昆布の佃煮、長ネギと油揚げの味噌汁。めし二膳。
「黄金の組合せだ。シャケは塩鮭にかぎるね。甘塩はだめだ。インパクトがない」
 文江さんは楽しそうに笑う。
「サイコロステーキを断られてから、三年経ったわ。とうとう……」
「いっしょにめしを食うようになったね」
「うん。うれしいわ。笈瀬通の家はさびしかった」
「きょうは?」
「してくれんでええ。もっとゆっくりできるときにな」
 大粒の雨なので傘を持たされた。口づけをして式台を降りる。



オープン戦 その7へ進む

(目次へ)