十三

 五人で水原監督のテーブルに近づいていった。
「お、どうしました?」
 水原監督はにこやかに迎えた。田宮コーチが、
「ま、座れ」
 空いている隣のテーブルを示して私たちを座らせると、コーヒーを注文した。私は、
「水原監督が実際に経験した天覧試合の話を聞かせてもらおうと思って」
「ほう。ありありと憶えてるよ。金太郎さんはいくつだった?」
「十歳になったばかりでした。名古屋に転校する少し前で、さぶちゃんという友だちからチラッと聞いただけでした」
「江藤くんは?」
「ドラゴンズに入団した年で、その日はたしか、中日球場で国鉄戦をやっとりました。巽から六回に九号ホームランを打ったのを憶えとります」
「ふうん、小川くんは?」
「立正佼成会で準硬式をやってましたね。国体で優勝した年ですわ。天覧試合はラジオで聞いてましたし、翌日、新聞でも読みました」
「菱川くんと太田くんは?」
 菱川が、
「まだ小六で、野球のことはあまり知りませんでした。と言うより、こういう生れですから、仲間外れにされてました」
 太田は、
「俺はからだがでかいだけの小四でした。将来はバレーボールか相撲をやりたいと思ってました」
 中学から野球をやりはじめたとすると、太田のボールさばきのうまさは先天的なものなのだとわかった。コーヒーが周りのコーチ連も合わせて十人分出てきた。水原監督は私たちに勧めてから、自分もちびりとすすり、
「当時のプロ野球は、庶民の人気はあったんだけどね、六大学のアマチュア野球全盛時代に金を取って野球を見せるということは、かならずしもいいイメージで思われてはいなかったんだ」
 水原監督よりかなり年下の宇野ヘッドコーチが、
「職業野球は〈食い詰めもん〉のやる仕事だというのが世間の認識だった。水原さんや三原さん、沢村、スタルヒン、中島、苅田、二出川のような、昭和九年のプロ野球草創期からの先駆者たちは、なんとかプロ野球を正業として認めてもらいたいという一心だったんだよ。遠征に出かけるときは、背広にネクタイだ」
 水原監督は、
「だからリーグ会長たちは〈天覧〉で箔をつけて、市民権を持たせたかったんだね。宮内庁にしても、庶民といっしょになって野球を観戦する天皇皇后両陛下の姿をお見せすることで、開かれた皇室をアピールしたかったわけです」
「昭和九年ですか。天覧試合は三十四年。まだ二十五年しか経っていなかったのに、すでに正業の最高峰になっていたと思いますけど」
「御名御璽(ぎょめいぎょじ)の判子をもらって、大相撲のような最高の格付けをしたかったんだろうね。とにかくその昭和三十四年、六月二十五日、伝統の巨人大阪戦、後楽園だ。いまに至るもプロ野球史上たった一回の天覧試合なんだよ。巨人の監督は五十歳の私水原、大阪の監督は五十一歳のカイザー田中さん。ハワイ出身の帰化人だね。両陛下が見下ろしているバックネット上方のボックス席に向かって両チームが整列し、真ん中にいる島秀之助球審が、『両陛下に対し最敬礼!』と号令をかけて全員最敬礼。午後七時に試合が始まった。鳴り物禁止の静かなグランドだった」
 森下コーチがうんうんとうなずきながら、
「応援が賑やかになりだしてた時代やったからね。長嶋以前のプロ野球は、鳴り物なんか禁止せんでも、いまとは球場内の雰囲気がぜんぜんちがっとった。観客は大人ばかりで、まるで芝居の舞台を見とるような静けさやった」
「巨人戦以外の中日球場もそうでした。野球のいろんな音が聞こえた。大好きでした」
 太田コーチが笑いながら、
「神無月くんのせいで、中日球場も様変わりしてしまったよ。嫌いかい?」
「まさか。鳴り物が派手でさえなければ、喚声といっしょになって雰囲気を高めます。広島球場のカチカチは……」
 水原監督が、
「あれは耳につくね、しかし、長嶋以上のすばらしい星が現れたんだ。ファンの喜びは尊重してあげなくちゃね。さ、天皇皇后両陛下ご観覧の試合開始だ。巨人の先発は、堀内恒夫とソックリな投げ方をする藤田元司、大阪は小山正明。エース対決だ。大阪は二回まで三者凡退、巨人も一回、二回と無死一塁を併殺で潰した。三回表、大阪は一死二塁から、ピッチャーの小山がセンター前へタイムリーヒットを打って一点を先制。五回裏巨人は長嶋、坂崎の連続ソロで二対一と逆転する」
 田宮コーチが、
「俺はそのころは大毎のミサイル打線の一翼を担ってた。六月二十五日は駒沢で阪急とやってたんじゃなかったかなあ。勝ったか負けたか忘れちゃった。翌日の新聞で、長嶋がホームランを二本も打ったと知って驚いた。天皇が試合前、ホームランは出るかね、と侍従に聞いたんだそうだ。天皇もホームランの出ない野球は楽しくないと感じてたんだね。ルース以来、野球というのはホームラン礼讃のスポーツだからね。さすが長嶋、天皇が待ち望んでいたホームランを打って見せて、日本プロ野球界の重責を果たしたわけだ」
 水原監督はもう一口コーヒーをすすり、
「六回表大阪は、ヒットを打って盗塁した吉田をセカンドに置いて、三宅がレフト線に同点のタイムリー、その三宅を置いて藤本がレフト上段へツーランを打ちこんで四対二と逆転した。七回裏、フォアボールの坂崎を一塁に置いて、まだ二本足の王がツーランを放って同点に追いついた。手に汗握るシーソーゲームだね。大阪は小山をあきらめ、ルーキー村山を投入。村山は後続をピシャリと抑えた。八回表、大阪は三宅、藤本が連続四球、バントで一死二、三塁と絶好の勝ち越しチャンスをつかんだが、広岡がスッと三遊間へ動いたせいで誘い出された藤本が藤田の牽制球でアウト。いわゆるピックオフプレーというやつだな。大津は凡ゴロに終わった。あれがすべてだった。村山のできからして、あと一点取れば大阪の勝ちだったのにね」
 太田が、
「大阪というのは、阪神のことですよね」
「そう。昭和三十六年に阪神タイガースとなるまでは、大阪タイガースと呼ばれていた。さて、八回裏、九回表と両チーム無得点。四対四のまま九回裏になった。スコアボードの時計は九時六分。両陛下の帰宅予定時間は九時十五分。先頭打者長嶋は、カウントツーツーからの五球目、内角高目のシュートを叩いた」
「サヨナラホームラン。中学生になってから、テレビのニュース記録映画で観ました。胸のロゴの高さをレベルスイングで掬ってました。キャッチャーの山本が頭上高くミットを差し出してたのが印象的でした」
「私は打球の行方を見ながら飛び上がって帽子を振りながら小躍りした。三塁を回ってきた長嶋と握手をし、背中をバンと叩き、ホームまでいっしょに走ったよ」
「記録フィルムでは打った瞬間の打球しか見えませんでしたが、どこに入ったんですか」「ポールを巻いて、上段に入った。大きなホームランだった」
 江藤が、
「あの高目を振るスイングスピードのとんでもない速さば見て、ゾッとしたばい。オープン戦の記録ば見返した。十九試合で二割七分、七ホームラン、打点十六。新人として飛び抜けとった。ところが、明石キャンプにやってきた金太郎さんの素振りば見て、それがただのなつかしか思い出に変わってしもうたっち。野村が、長嶋のスイングスピードの右に出る者はおらんと十年間言いつづけてきたばってん、ワシと同じように金太郎さんば〈経験〉して腰ば抜かしおった。速い遅いでなか、見えんとよ」
 水原監督が、
「そうなんだね、この十年、プロ野球人も庶民も、動物的な直感と天性の明るさを持っている長嶋茂雄の魅力に吸い寄せられてきた。天覧試合の彼のホームランのせいでプロ野球は市民権を得た。彼は戦後大衆社会の最大の貢献者と言っていい。そこへ十年後、神がかり的な才能と、輝くような天真爛漫さと、人間愛を持った金太郎さんが現れた。庶民は天覧以降のように魅せられて熱狂するばかりでなく、人間的にも高く引き上げられるような気持ちになっている。これこそ、天覧試合にまさる球界の〈格付け〉の完成だと思う。この影響は計り知れない。球界を越えて、ほかのプロスポーツ界すべてが、だれもが認める正業となっていくだろうね。さ、私たちは引き揚げるよ。少しばかり責任者会議というのをやらなくちゃいけないんでね。きみたちも遅れずに支度をしなさい。十一時半にバスが出るからね」
「オス!」
 水原監督たちが去ると、ほかのチームメイトがテーブルを移ってきて、コーヒーを注文した。葛城が、
「あの年は、俺、二年連続で中西を負かして打点王を獲った年でね、二十三歳、田宮さんや山内や榎本といっしょにミサイル打線でバリバリがんばってた。長嶋のことは気になってたから、記者たちから彼の言動はよく聞き出してたな。みんな、長嶋と金太郎さんをあれこれ比べてるみたいだけど、比べものにならないよ。野球はもちろん比較外だけど、人間がちがう。長嶋のオープン戦の話を慎ちゃんがチラッと言ってたが、たしかにすごいとは思う。でも、金太郎さんに比べたらあの程度の成績で威張れたものじゃない。それなのに長嶋は威張ってたんだ。プロなんてこんなものかって番記者に漏らしてる。金太郎さんはこれっぽっちも威張らなかった。そのことにばかり感心してたので、俺は金太郎さんのオープン戦の成績さえ憶えてないよ」
 太田が、
「ホームラン三十四本。長嶋の五倍。王の七倍。六大学のほうは忘れました。だれも憶えてないでしょ。神無月さん本人も憶えてませんよ。記録を目指す人じゃないんです。人を喜ばせるためにやってるだけ」
 静かな小野が、
「それこそ、人間のあるべき姿だね。私たちも神無月くんの爪の垢を煎じて飲まないといけない。タイトル獲って、全国区で知られてナンボ、と信じながら生きてきたからね。しかし、長嶋にしても二十二、三の若造のころだろう。天狗とまでは言わないけど、何かこう鼻っ柱の強さみたいなものはあっただろうね。それまでの選手とはちがった抜群の成績を挙げてたしね。金田さんにしてみれば勘弁ならないって感じだったんだろう。彼も自意識が強い人だから。金田さんは高校で初めて硬式ボールを握ったのに、中退して十七歳でプロ入りするという抜群の素質を生れ持った野球選手でね、十八歳でノーヒットノーラン、二十四歳で完全試合を達成してる。入団から八年間で百八十二勝、奪三振千九百六十個のプロ野球記録も樹立した。そういう人にしてみたら、マスコミが長嶋を持ち上げるのは勘弁ならなかっただろう」
 徳武が、
「四打席四三振のとき、国鉄のキャッチャーの谷田が、やっぱり長嶋のスイングスピードにびっくりしたと新聞にコメントしてる。金田本人も、あのバットスピードだと、タイミングが合っちゃうと喰らってしまうから、それ以上のスピードボールを投げないと危なかったと言ってたな。現場にいたかったけど、俺が国鉄入ったのはその二年後なんだ。長嶋と同じ背番号3というのが笑えるけど」
 小野が、
「金田さんは速球もすばらしかったが、あのカーブの切れは考えられないものだった。手が大きくて、球持ちが長くて、大きくタテに割れる軌道がいいもんだから、長嶋はキチッと捕えて打てなかった。もし天覧試合も国鉄と当たって金田さんに牛耳られてたら、長嶋がいまほど注目されていたかどうかわからない。でも、神無月くんなら、特殊な行事なんかあってもなくても、常に坦々と臨むだろう。そして、注目も常に受ける。ほら、ひっきりなしにパシャパシャやってるよ」
 菱川が、
「王もそうですよ。新人で、一割しか打てない打者だったのに、あの試合に出て、同点のツーランを叩きこんでる。星の巡りですね」
 太田が、
「長嶋も、あの試合まで大スランプだったんですよ。ところが……やっぱり星だ」
 小川が、
「俺たちもバカでかい星をいただいたじゃないか。この星の周りを回ってれば、現役のあいだは注目されてすごせるぞ。周るエネルギーがあればな。さ、支度するか」
 アンダーシャツ、ストッキング、ユニフォームを新しいものに替え、新しいもう一式をダッフルに詰める。バットは衝突したボールの縫い目痕がくっきり残っている一本を置いていく。シーズンに五十本は軽く使いそうだ。久保田さんは百本ぐらいを予定しているようだが、そんなにいらないだろう。夏を過ぎて、足りなくなると思ったら、あらためて十本でも注文すればいい。
 気温十八・五度。ナイターは二十度前後か。正真正銘、生まれて初めてのカクテル光線のもとでの試合だ。ユニフォームを詰めたダッフルに、タオルと、グローブと、スパイクと眼鏡を入れ、運動靴を履いて、江藤とロビーに降りる。玄関前の人混みを掻き分け、嬌声を背中に浴びながらバスに乗りこむ。十二時出発。


         十四  

 車中で宇野ヘッドコーチがスタメン発表。
「第一試合は、ピッチャー田中勉、キャッチャー木俣。継投は浜野、水谷寿伸。第二試合は、ピッチャー小野、キャッチャー木俣。継投は若生、伊藤久敏。次、バッティングオーダー。第一試合、一番中、二番高木、三番江藤、四番神無月、五番木俣、六番はきのうの江島に代わって菱川、七番、きのうの太田に代わって徳武、八番、きのうの島谷に代わって一枝。第二試合、徳武に代わって葛城、菱川に代わって千原。六番以降のオーダーは、これから一年間、適宜入れ替えていく。マンネリを避けるためだ」
 隣席の江藤に、
「新宅さんや吉沢さんは、いつ出るんですか」
「たまにな」
 遠くの席から新宅が、
「気にするな、まだまだ生き延びるから」
 吉沢が心もとない顔で、
「そうですよ。天下の神無月郷が人のことなんか考えてちゃだめですよ」
 江藤が、
「うちのバッターが、江夏の記録をいろいろ達成さしてやっとる。新宅もその一人ばい」
「どういうことですか」
「ドジャースのサンデー・コーファックスという左ピッチャーが持っとった奪三振の大リーグ記録はシーズン三百八十二たい。それを更新させたのが新宅、前人未到の四百一個目の三振を提供したのが一枝」
「稲尾の三百五十三個を抜く三百五十四個目の三振を喫したのが王。ぜんぶ去年のことですね。金田さんの記録は何個ですか」
「三百五十。金太郎さんは左肘をやられて、右に替えたら、開けてびっくりバカ肩だったという話やったろう」
「はい、うれしかったです。でも、そういう事情も何もないのに、左利きを右利きに替えたら鉄砲肩だったという人が、尾崎行雄です」
「そうか、それは知らんかった。それと似たような話やが、じつは江夏も右利きやったのに、兄貴が左利き用のグローブを買ってくれたけん、しょうものう左で投げとるうちにバカ肩だとわかったんやそうだ。当時は川上の赤バット、大下の青バットの時代で、野球をするなら左利きがよかて思いこんどったらしか」
 江藤の隣にいた中が、
「江夏についちゃ、慎ちゃんだって危ない目に遭ったことがあっただろう」
「あった。ワシは江夏の新記録を一つ阻んだっちゃん。辻のエラーのおかげでな。一試合奪三振十七ゆうやつばい。十六いう記録は金田が持っとった。十七奪三振の記録がワシの打席に回ってきた。去年の八月八日のこったい。ツーワンからのストレート。ファールチップになって、ボールは辻のミットの土手に当たった。ワシは思わず喜んで、転がったボールを拾って渡してやったとよ。辻はぼんやり受け取った。相当ショックを受けとったなあ。結局記録は十六のままたい」
 中が、
「去年はピッチャーの記録ラッシュだったね。外木場も九月に十六奪三振の記録を作ってるよ。しかも完全試合でね。彼はきょうのどっちかの試合で投げてくると思うけど」
 一枝が、
「球場に着いたら、練習時間中に順番でめしを食っておかないと。二試合ぶっ通しでスタミナ切れ起こさないようにね」
「カープうどんだけでは腹が減りますね」
 高木が、
「二回食っても飽きないよ。第二試合開始前にもう一回食っとけばいい」
 太田が、
「昭和三十二年に広島球場ができて以来、ベストセラーです」
 私は太田に、
「プロ野球の球場を古い順に教えてくれない?」
 すぐにヘルメット棚の手帳を持ってきて、
「イの一番は甲子園球場で大正十三年、次に神宮球場が昭和元年、藤井寺球場が昭和二年、後楽園球場昭和十一年、西宮球場昭和十二年、中日球場昭和二十三年、平和台球場昭和二十四年、大阪球場昭和二十五年、川崎球場昭和二十七年、広島球場昭和三十二年、東京球場昭和三十七年」 
「広島球場って新しいんだね」
「広島がセリーグに加盟したのは昭和二十五年です。広島総合球場という野球場をフランチャイズにしました。収容能力が低くて、ナイター設備もなかったことから、スポンサーの東洋工業の松田恒次社長が広島にちゃんとした球場を作ろうと言い出したんです。それをきっかけに市民運動が盛り上がって、いまの形に整えられました。それが昭和三十二年です」
 菱川が、
「おまえ、何者?」
「歩く野球百貨事典。一年間の浪人時代に資料ばっか見てたんで」
 私は、
「ぼくは、どうも、どの球場もベンチ裏の仕組みがわからないんですよ。ロッカールームがあって、トレーナー室があって、監督室があって、廊下を挟んで投球練習場がある、そこまではオーケーなんですが、その両脇にワーッと得体の知れない部屋があるでしょう? 一度も入ったことないですよね」
 最前席の水原監督がクックッと笑っている。田宮コーチが振り向いて、
「金太郎さん、どうでもいい部屋なんだよ。名前は一応ついてるけどさ。たとえば、更衣室の左隣がスタッフ室、机六枚、椅子二十何脚か置いてあるだけのガランとした部屋。右隣がコーチ室、ロッカー十個ほどと椅子が六、七脚あるだけの、これまたガランとした部屋だ。細い廊下を隔ててその隣がフロント用食堂。たしかにこの広島球場の部屋は、ステンレスまみれでさびしいのが多いね。正面ゲートのほうの廊下にいくと、おばちゃんたちのいる一般用の温かい食堂もあるけどさ。ロッカールーム前の廊下の左から、だいたい四レーンあるブルペン、そして特別応接室とくる。大テーブル一枚、ソファ三脚ほど置いてある、なんか格好いい部屋だ。壁に時計や絵も掛かってる。でも、やっぱりガランとしてる。その隣は小会議室、机がワーッとあって折り畳み椅子がワーッとあるだけの、やっぱりガランとした部屋。その隣は物置みたいな部屋がいくつかあって、その右、ちょうどネット裏の最後部の真下にデンと位置してるのが大会議室。大学か予備校の大教室そっくりの広い空間だ。明るくて、空調やら、放送設備やら、カラーテレビやら、スクリーンやら物々しくこしらえてある。合同記者会見部屋だと思えばいいよ。めったに使わない。ネット裏の、キャッチャーの真後ろに、場内放送室と審判員室があるのは知ってるね。場内放送室はウグイス嬢さんの部屋だね。マイクが二つ、椅子が四、五脚置いてあるすばらしく近代的な部屋だよ。それに接して審判員室。これはじつに殺風景だ。造りつけの机と、テレビと、椅子五、六脚。ここまでしゃべっても、わけがわかんないだろ? 結局どうでもいいんだ。ドキドキするような華やかさは、グランドにしかないんだよ。野球選手は、グランド、ロッカールーム、ブルペン、ベンチだけ知っていればいい」
 一枝が、
「レフト看板の可動式の日除け、あれ、一塁ベンチを強烈な夕陽が照らしてまぶしいんで設置したんだ。まぶしいのはちょうどナイターが始まる時間帯だな。ビジターのベンチはだいじょうぶだ。広島球場の夏は暑いぞう。瀬戸の夕なぎって聞いたことがあるだろ。風がピタッと止んで、球場が蒸し風呂になる。おまけに日除けのせいで、ときどき吹く風も流れこんでこない」
 水原監督が、
「知りたがりの金太郎さん、みんなでいろんなことを教えてくれるね。私たちも教えることがうれしくてしかたがないよ」
 バスが広島球場の駐車場に到着する。薄曇り。二十度。空気が乾いている。選手通用口から、ガードマンや時田に従う松葉会組員たちに守られながらぞろぞろ入る。田宮コーチが説明したとおり、たぶん殺風景にちがいない部屋部屋のドアを横目に通り過ぎながらロッカールームに向かう。めったに口を利かない伊藤竜彦が、
「ナイターって、風がないかぎり、昼間より気温が少し高いんだよ。とにかく夏の広島球場はたいへんだ」
 これまた寡黙な千原が、
「クソ暑い……」
 とひとこと言った。
 ロッカールームで運動靴をスパイクに履き替え、すぐにベンチに入った。三万二千人びっしり満員の観客席を見回す。バッティング練習を終えた広島チームがダッグアウトに引き揚げていくところだった。衣笠と山本浩司が私の姿を認めて走り戻ってきて、ベンチに手を差し出す。握手する。山本が、
「お手柔らかに。大学以来何度目かの対戦だけど、あらためてしっかり学ばせてもらいます。きょうもいい試合にしましょう」
「こちらこそお手柔らかに」
 衣笠が黒い顔をくしゃくしゃにして頭を掻いた。
「照れるなあ。大天才にお手柔らかになんて言われると。オープン戦のときは、最後のインタビューで俺たちのこと褒めてくれてたでしょう。ありがとう」
 白い歯を剥いて笑う。山本が、
「社交辞令でもうれしかったですよ。じゃ」
 ベンチ前に出て、二十本ほどゆるく素振り。ベンチ脇の記者席で盛んにフラッシュが光る。レギュラーたちも出てきて、バックネット前で素振りをする。きのう打たれた門岡と新人の水谷則博がバッティングピッチャーをやる。中、高木とスタメンの打順で二つのケージに入る。バットが牛革のボールを打ちひしぐ。木と革の乾いた共鳴音。きょうも戦慄が走る。江藤と左右に分かれてケージに入る。右ケージで投げるサウスポーの水谷則博を打つ。
「内角のカーブ、五球。内角のシュート、五球。外角のスライダー五球」
「わかりました!」
 内角のカーブ、ライト場外三、ライトスタンド二。内角シュート、ライトスタンド二、ライトライナー一、ファール二、外角スライダー、レフトスタンド二、内野ゴロ一、ファール二。十五打数九安打、九ホームラン、打率六割。順調。
「サンキュー!」
 レフトへ走る。江藤も練習をやめて、千原や葛城と並んでライトの守備位置につく。バッティング練習にピッチャー以外の内野は配置されていない。フリーバッティングを終えて外野守備につくのは私がドラゴンズにきてからチームに定着した習慣のようだ。きょうあらためて気づいた。ほかのチームはトレーナーやコーチ連中や控え選手たちが外野をうろついている。先発投手が控え選手相手にキャッチボールをしていることもある。
 江藤や中や私はきちんと守備位置につき、木俣と菱川の打球に集中する。頭上を越えていく球足の速さから、プロ野球のバッターだとあらためて痛感する。たまに飛んでくるレフトフライやゴロを充実した気分で捕っては、自軍の三塁側ブルペンのあたりへ山なりで返す。徳武と一枝が最後になる。徳武は冴えない。詰まった当たりを何本か打ってやめてしまった。一枝は当たっている。四本もスタンドへ放りこんだ。
 一時。ホーム、ビジターの順で守備練習、十五分ずつ。ホームの練習のあいだに江藤たちと正面ゲートの一般食堂へめしを食いにいった。腹にたまるようにと考えて、カツ丼を食った。
 食い終えて、腹ごなしに五分ほどの守備練習。セカンドへ強い返球二本。それだけで満員のスタンドがどよめく。バックホームを一本でやめて、鏑木コーチのもとへ駆けていく。柔軟、ストレッチ、五十メートルダッシュ二本。ベンチへ帰る。一塁ベンチから衣笠が走ってきた。
「すごいバックホームやったですよ。サードベースあたりからクーッと浮き上がって、木俣さんのミットに突き刺さりました。驚いたなあ! じゃ」
 先日の中と同じようなことを言って、背番号28が走っていった。江藤が、
「ええ男やの。サッパリしとるわ」
 高木が、
「五年目か。三振の多いことで有名な男だ。でも二割五分は打ってるんだよなあ。ホームランは?」
 太田が、
「去年、二十一本です」
「典型的なホームランバッターだ。首位打者は無理としても、いずれ打点王ぐらいは獲れるかもしれんな」
 私は、
「あの人のスイング大好きです。黒人のお父さんと、日本人のお母さん。菱川さんと似たような境遇でしょう」
 菱川が、
「はい、自分を見てるようです。あのでっかい器はまねできないので、努力の姿勢だけは見習いたいな。さっき、俺、神無月さんのバットをこっそり借りて打ったんです。極上品ですね」
「一本あげます。岐阜の久保田さんですよ。一度明石に顔見せたでしょう」
「もちろん知ってます。九百四十グラムくらいかな。木目がよくて、弾きもよくて。高いんだろうな」
「北村に取りにきてください。十本差し上げますから」
「ほんとですか!」
「もちろん。まだ何十本もあるんです」
太田が、
「俺も一本もらって、それでしばらく打ってた。グリップだけを少し細くするように久保田さんに注文したやつをいま使ってる」
「どれどれ」
 どこからともなく現れた新宅が、私のバットを手に取り、
「俺にはちょっと重いかな。広野がこれとそっくりな握りと重さのバットを使ってたよ。金太郎さんと同じ右投げ左打ち」
「広野さんて、去年西鉄にいった?」
「そう、俺と広野は四十年のドラフト元年に中日にきたんだ。俺の場合は、木俣という長距離砲が控えてるから入りこむ余地はなかったけど、広野はちょうどマーシャルが抜けたあとだったんで、ファーストのレギュラーを取れた。ただ、一年目のオープン戦で右肩脱臼してな、致命傷になった。いまも騙しだましやっとるんやろうけど、何年もやれんと思うわ。あんまりないチャンスを派手にものにする幸運の持ち主でな、満塁男になった。同じドラフト元年の堀内に不気味なライバル心を持っとってな、堀内は新人ピッチャー開幕十三連勝、破竹の勢いやった。あいつのカーブがするどいんは、ちっさいころ機械に挟まれて右の人差し指の先が一センチくらい短いからや」
 爪の一部が残っていたということだろうか。もしそうでないなら、けっしてボールは投げられない。爪半分くらいまで持っていかれたということだろう。


         十五

「広野さんの派手な運て?」
「おう、それやった。新人の年の八月やった、広野はその堀内から逆転サヨナラ満塁ホームランを打ったんや」
「サヨナラという響きはすばらしいですね。ウォーク・オフ・ホームラン、ゲイム・ウィニング・ホームラン」
 中が、
「ゲイム・ウィニングはわかるけど、ウォーク・オフって?」
「負けたチームがグランドから立ち去らなければならないという意味です。愛するグランドに無理やり別れを告げるわけです」
「なるほど、それでサヨナラか」
 太田が、
「神無月さんは中学校のとき、県下の模擬試験でいつも英語一番だったんです」
 中が、
「そういうスケールの英語力じゃないな」
「くすぐったいからやめてください。勉強のできる人はこの世に腐るほどいます。ぼくは下っ端のほうです」
 江藤が、
「やめ、やめ、野球以外のことで褒めると、金太郎さんは不機嫌になるったい。野球を褒めても危なかとに」
 菱川が、
「何も褒めずにそばにいるだけでいいって、北村席の女の人たちが言ってましたよ」
 水原監督がヌッとベンチ裏から顔を出し、
「それでも素直に褒めつづけなくちゃだめだよ。それが金太郎さんの生きる糧なんだからね」
 そう言うと、監督控室へゆっくり戻っていった。
 きょうは試合開始のセレモニーがない。メンバー表交換。トンボが入る。ベンチからのんびりトンボを引っ張るトラクターや、ライン引きの整備員の動きを見つめる。
 一時四十分。両チーム先発バッテリーの発表。ドラゴンズの先発は田中勉、広島の先発は、だるま寿司の客が言ったとおり白石だった。広島のスタメン発表。ドラゴンズのスタメン発表。田宮コーチの言ったとおりのメンバー。主審岡田。
 なぜか緊張し、小便にいっておく。広島のスタメン発表の声が聞こえる。広島のオーダーはきのうとまったく同じだ。ベンチに落ち着き、記者たちがベンチ前の白石を取り囲んでいる図を眺める。根本監督が声を荒らげ、
「おまえら、やめてくれ! 一年を占う大事な先発だ。プレッシャーかけるなよ」
 記者たちの肩口から白石の顔が私を見つめていた。眼鏡が光る。大きな顔だ。新人のバッターに打たれると、自信を持たれてあとが厄介だし、自分にも『あいつに打たれた』というわだかまりが残る。初めが肝心だ。きのうは二打席凡退に仕留めた。きょうもぜったい打たれんぞ、そういう眼光だ。太田に訊く。
「白石って何者? 気の強いオッサンという感じ。背番号55が重そうだ」
「四国球界ナンバーワン本格派左腕の触れこみです。四十一年のドラ二。速球とカーブのキレがいいです。四国電力から長谷川監督が獲った選手で、今年四年目、百七十七センチ、七十五キロ。大羽と並ぶ広島左腕の二枚看板です」
「四国人気質というと、板東さんか。プライドが高いな。それがあの顔つきになってるのか。フォームのきれいさから、まじめな雰囲気もするし」
 二時試合開始。軽騎兵序曲。大きな拍手が球場に響きわたる。ざわめき、メガホンを叩く音。
 一回表。中が打席に向かう。
「プレイ!」 
「さ、いこ、利ちゃん」
「ヨ! ホ!」
 ものすごい気迫で白石が投げこんでくる。その気迫に圧されて、中、高木、江藤までがこれといってクセのないカーブ、スライダー、ストレートを三人連続で打ち損じた。ファーストゴロ、ショートゴロ、ショートゴロ。たった七球で一回の攻撃が終わった。
「手もとで微妙に変化するばい!」
 江藤が長谷川コーチに一声かけてファーストの守備についた。
 田中勉がマウンドで淡々とピッチング練習をする。いつにも増して球威があるように見える。ライトスタンドと一塁ベンチの上で、ハッピを着た男たちがカープの団旗や鯉のぼりを打ち振る。二日目にして、球場のさまざまな光景にはっきり目を留められるようになった。甲子園を除いてすべての球場を経験した。キャンプから三カ月、別世界に紛れこんだ夢見心地が消え、地に足が着き、脳味噌に巣食う言葉が単純になり、からだの細胞が野球一色に染まっていく。思わず、センターの守備位置にいる中に向かって叫ぶ。
「中さん、あとにつづきますよ!」
 中がびっくりして振り向いてうなずく。ライトの菱川が、ウオー、とグローブを挙げた。
 田中勉の初球、内角のシュートに見えた。苑田詰まりながらも、センター前へ渋い当たりのヒット。まともな当たりでないだけにイヤな感じがした。今津送りバント。プロ野球が高校野球から脱し切れない哀しみ。喚声に混じって豆腐屋のラッパのような哀しげな音が聞こえる。
 山内レフト前ヒット。勢いをつけて前進しバックホーム。苑田は返球のスピードに驚き、三塁ストップ。山本一義サードフライ、衣笠センターフライ。たちまち不吉な感じが消える。苑田の三塁ストップがすべてだった。突入してタッチアウトになったほうがベンチの士気を高めたはずだ。臆病は墓穴を掘る。山本一義のサードフライはその臆病が伝染した結果だ。臆病風に吹かれて犠牲フライを打とうとしたので、外野フライさえ打てなかったのだ。
 二回表、私の打席だ。ヘルメットをかぶり、バッターボックスに歩いていく。轟音のような歓声。コーチャーズボックスの水原監督を見つめる。パンパンと手を叩く。足もとを均し、構える。白石の大きな眼鏡顔を見つめる。一球目、白石は胸を張って大きく踏み出し、速球を投げ下ろした。と見えたが、外角低目のフォークだった。ストライク。コールに納得できない。たしかにいいフォークだったが、ボール半分外れている。
「金太郎!」
「金太郎さん!」
 静かなスタンドから男女の甲高い声援が聞こえてくる。
「一発いけ!」
 ネクストバッターズサークルの木俣の声だ。二球目、内角高目にシュートが切れこんできた。両肘を上げて見逃す。ボール。振り返ったとき、岡田球審のマスクの奥の目が見えた。表情のない静かな目をしていた。三球目、外角高目にカーブ。ぎりぎりストライク。ツーワン。
「ヨ!」
「ホ!」
「ハーア!」
 四球目、内角足もとへゆるいシンカー。ボール。ストレートはけっして投げてこない。五球目、外角低目へフォーク。ストライクなので三塁スタンドへファールにする。ツーツーのまま。まちがいなく内角へ落ちるカーブ。それも外すつもりでくる。きのうと同じボールでは打ち取らせないと決意する。
 眼鏡が胸を張って振りかぶったとき、私は右足の踵を五センチほどボックスの後ろへ下げた。白石は強く腕を振り下ろした。スピードのあるカーブが腰のあたりから曲がり落ちてくる。踵を引いている分、絶好の真ん中低目になった。あごを引き、腰をひねりこんで掬い上げる。素軽い手応え。一直線の打球になる。伸びていく。爆発する喚声。レフトスタンドの観客からはライトライナーに見えるはずだ。マッコビー! ついに理想のホームランを打てた!
 ゆっくり走り出す。森下一塁コーチがバンザイをする。ライトの看板に打ち当たるのを確認しながら一塁ベースを回る。ファンファーレが鳴り響き、大歓声が降り注ぐ。
「ワンダフル!」
 衣笠の声。苑田が、
「ナイスバッティング!」
 今津が、
「ものすげえがね!」
 大学野球を思い出す。法政戦。みんなに声をかけられた。田淵にもかけられた。気恥ずかしかった。
「神無月選手、第四号のホームランでございます」
 サードの朝井は私が踏む三塁ベースを黙って見ていた。水原監督と固い握手。抱擁。尻をポーン。
「金太郎さん!」
「金太郎!」
 スタンドのシュプレヒコールの中、チームメイトの腕へ飛びこんでいく。江藤が、
「あっという間に看板直撃ばい!」
 ベンチの仲間と次々にタッチ、握手。きょうも半田コーチのバヤリースはなし。三塁ベンチ上でデンデン太鼓と笛の音が響きわたり、ドラゴンズの旗が振られる。きのうも振られていたのだろうが気づかなかった。ようやく一点。
 木俣のバッターボックス。三十九年の入団以来ずっと、彼もひそかに金太郎と呼ばれていたらしい。
「〈大金太郎〉に気前よく謹呈した、と達ちゃんが言ってたよ」
 と太田コーチから聞いた。百七十三センチ、七十五キロの肥り肉(じし)のからだに想像以上の馬力が充溢している。木俣は肩すかしを食ったように外角のスライダーを引っかけて、セカンドゴロ。
 いよいよ菱川の公式戦初打席だ。
「菱川さーん、ゴー!」
 美しい立ち姿。菱川は初球の外角シュートを見きわめ、しっかり振り抜いてライト前へテキサスヒットを放った。
「ナイス、バッティング!」
 徳武、するどい変化球に翻弄されて三球三振。フリーバッティングで当たっていた一枝が、ワンツーから内角の難しいカーブを捉えてきっちり左中間を抜いた。菱川大きなストライドで長駆生還。田中勉あえなく三振。二対ゼロ。
 二回裏。田中の速球が冴えわたる。山本浩司、詰まったショートゴロ。朝井ファーストフライ。久保、ヒット性の三塁線のゴロのあと、空振り三振。歓声と嘆息。こうまで貧打を見ると、ホームランではなくヒットがマグレだと思えてくる。犠打やヒットに喝采するのは小中学生の心だ。広島ファンが小中学生と化する。
 三回表。中、セカンドゴロ。高木、粘りに粘ってフォアボール。江藤の二球目にヒットエンドラン、江藤きっちりライト前へヒットを放つ。ワンアウト一塁、三塁。金太郎コールの中、広島スタンドからの野次。
「投げるのやめェや!」
「代えェや!」
 外角スライダーを予測しながら構える。
「根本、敬遠のサイン出せや!」
 と、初球、江藤が盗塁した。キャッチャーの久保は外角にワンバウンドするカーブを捕球しただけで送球できない。江藤はニヤッと笑った。感心した。ゲッツーを防ぎ、私に気楽に打たせる作戦だ。敬遠を誘い出しても満塁となり、結果オーライになる。ノーアウトならやらなかっただろう。三塁ランナーの高木が拍手している。ショートの今津がボールを握ったまま、二塁にへばりついているもと同僚の江藤を睨んだ。ノーワン。白石はさらに二球つづけて外角へ遠くカーブを落とした。ノースリー。打たれないために手探り状態になっている。私はボールを見逃してストライクだけを打ちにいくという模範的なバッターではないので、外すなら次の一球も思い切り外さなければならない。
「金太郎さん、歩いてもいいぞ。まかしとけ!」
 ネクストバッターズサークルの木俣の声だ。胸もとのクソボールで外しにきた。私はふんぞり返りながら、守備の深いショートへバントした。気づいた高木が見切り発車して、ホームに足から滑りこむ。三点目。私はヘルメットを手で払い飛ばしながら一塁へ駆けこんだ。江藤は三塁へ滑りこむ。スタンドがヤンヤの喝采になった。笑い声が混じる。水原監督も笑いながら盛んに拍手している。ボールボーイが貴重品のように私のヘルメットを拾っていった。ワンアウト一、三塁。
 池田ピッチングコーチがマウンドに走る。きょうの白石は素直にうなずき、コーチを追って歩いてきた根本監督にボールを渡した。
「広島カープ、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー白石に代わりまして、西本、ピッチャー西本、背番号51」
 だれだろう。聞いたこともない。サイドスローの投球練習を見守る。直球、カーブ、シュートとも平凡。まちがいなく大量得点になる。長引けば田中の肩に響くとわかっていても、打たないわけにいかない。もっと点を取っておかなくてはいけない。思いはみんな同じだ。田中自身もブルペンから腕をこまねいて戦況を見つめている。
「ほれ、いったぁ!」
 初球、木俣は顔の高さのカーブをぶん殴ってレフトスタンドに叩きこんだ。第二号スリーラン。田中勉がグローブを叩いて喜ぶ。半田コーチの叫び声。
「ビッグ、イニーング!」
 六対ゼロ。塁上が空になると、田中の肩の冷えを案じて、菱川は初球をサードゴロ、徳武も初球をサードゴロとつづけて攻撃を終わらせた。
 三回裏。広島は、三球投げただけの西本に代打を出した。横溝。これも聞いたことがない。左バッター、背番号31。生まじめな雰囲気だ。どういう選手か好奇心を起こさせない。横溝は田中の速球についていけず三振。ライトスタンドの鯉のぼりが空しく泳ぐ。苑田、レフト前ヒット。みごと、と思いながら腰を落として捕球する。当たっている。バッター山内一弘。苑田は山内の初球に盗塁した。沈んでいた一塁側スタンドから急に拍手と歓声が湧き上がった。ふたたび得点圏にランナーが進んだ。しかし山内三振。山本一義も三振。私はベンチへ引き揚げる途中、コーチズボックスへ歩きだした水原監督に、
「広島も早く終わらせようとしてるんですか」
「作為はないんだろうが、無意識にそうなってるね。ダブルヘッダーはたいていそうなる」
 四回表。竜という変わった名前の右ピッチャーが登板する。江藤が、
「肘やられとるけん、そろそろ引退やろう。広島はこの試合いらんゆうことやなあ」
 一枝左中間の深いフライ。田中勉ピッチャーゴロ。
「気を引き締めて打ってくるよ」
 一番、中、二球目のストレートを叩いて右中間へ弾道の低いホームラン。文字どおりスタンドに突き刺さった。今季一号。ベンチが大騒ぎになる。スタンドの旗と鉦がかしましい。つづけとばかり、高木がワンスリーから内角シュートを左中間へライナーのホームラン。スタンドが波打つ。今季一号。江藤、初球内角高目のストレートを引っぱたいてレフト看板直撃のホームラン。三号。三者連続ソロホームラン。ファンファーレがつづけざまに鳴る。九対ゼロ。広島スタンドの怒声。
「なに要らんことしょおるんならァ!」
 江藤が、
「勉ちゃん、もうよかろ!」
「おう!」
 次打者の私は躊躇なく敬遠された。一塁の森下コーチが私のヘルメットを受け取ってボールボーイに渡しながら、
「二試合目にして、今季初敬遠か。先が思いやられるな」
 木俣、レフトフライ。


         十六

 四回裏、衣笠、大根切りで左中間へライナーを飛ばすも、中、回転レシーブで好捕。あの奇妙な形のグローブにボールが魔法のように吸いこまれた。私も彼の後ろで回転していたので、球場内に爆笑が沸いた。起き上がって中とハイタッチ。スコアボードの三本の旗が揺れている。空は灰色のままだ。つづく山本浩司も、センターのやや右寄りにすばらしい勢いのライナーを飛ばした。今度は抜けていって二塁打になった。一塁側スタンドが勢いづく。朝井キャッチャーフライ。要警戒の久保、前進守備のライトへヒット。強肩菱川は山本浩司を楽々ホームで殺した。アーという失望のどよめき。
 五回表、竜から秋本にピッチャー交代。怖い顔をした小柄な男。江藤が、
「今年阪急からきたロートルのチビスケやな」
 太田が、
「変化球しか投げません。張本に初安打を打たれたことで有名です」
「そろそろ試合終わらんば、第二試合がキツうなるばい。ダブルヘッダーは特別やけんな」
 聞こえよがしに言う。菱川左中間の深いところへ一号ホームラン。小躍りしてダイヤモンドを回る。水原監督と抱擁。大男が小さな水原監督を抱き締める様子がユーモラスだ。十対ゼロ。
「ええかげんにしとけやァ!」
 一塁スタンドが苛立ちざわめく。徳武に代打太田が出て、サードゴロ。一枝に代打島谷が出て、ショートゴロ。田中勉ファーストフライ。
 五回裏、秋本三振。苑田サードゴロ。今津サードゴロ。太田が無難にさばくが華麗さがない。身のこなしが外野手向きだ。サードは菱川が向いている。
 六回の表、中、セカンドライナー。高木ショートライナー。江藤サードライナー。相手がバッティングピッチャーのようなものなので、みんなで遊んでいる。第一打者と同じような打球を打つというゲームをしているようだ。水原監督が不機嫌な顔で両手をパンパン叩く。
 六回の裏、田中勉から水谷寿伸に交代。山内センター前ヒット。山本一義ファーストライナー、飛び出した山内タッチアウト。衣笠、レフト前ヒット。山本浩司、高いレフトフライ。守備機会が多くて楽しい。
 七回の表、私、ファーストライナー。水原監督に気兼ねしながら、さっきの回のつづきの〈ゲーム〉に参加する。観客が気づきはじめた。スタンドがざわつく。木俣サードライナー。完全に事情を知ったスタンドからドッと歓声が上がった。
 菱川の代打に出た千原が、ようやくライトオーバーの二塁打。たぶんセカンドライナーの打ちそこねだ。愉快そうな失笑がベンチに湧く。太田左中間の二塁打。これまたショートライナーの打ちそこね。千原が還って十一対ゼロ。島谷三塁線を抜く二塁打。同じくサードライナーの打ちそこね。十二対ゼロ。水谷の代打の浜野が三振。浜野が代打? 水原監督も試合進捗の遊びに渋々参加したようだ。
「ようし、八回は外野のライナーたい! ホームランもよかよ」
 七回裏、ようやく出番の回ってきた浜野が張り切って投げる。いわゆる締めくくりの抑え投手だ。勝敗に関係なく伸びのび投げられるが、打たれると恥ずかしい。抑えても吼えると恥ずかしい。朝井の代打水谷実雄、レフト線のライナー。難しいラインドライブだったので、逆シングルでジャンプして、かろうじて網の先で捕球した。サードの太田が、
「ナイスキャッチ!」
 の声を上げた。久保に代わって、新人の水沼、セカンドゴロ。秋本三振。
 八回表、中、センターライナー。ガッツポーズで帰ってくる。高木、打ちそこねてセンター左へ二塁打。塁上であまりうれしそうでない。江藤センターライナー。私のセンターライナーは、少し左中間へ伸びて抜けてしまった。高木生還。十三対ゼロ。観客が大喜びしている。木俣のセンターライナーも、当たりがよすぎてお辞儀し、センター前ヒットになる。私が生還して十四対ゼロ。千原しっかりセンターライナー。
 水原監督がベンチに小走りに戻ってきて、
「遊ぶなら、もっと上手に! ゴロとフライとライナーを混ぜなさい。連盟に知れたら大目玉食らうよ。遊びはこの試合かぎりにしなさい」
「ウィース!」
 みんなでニヤニヤ笑いながら八回裏の守備につく。西日が遮光フェンスの向こうで後光のように曇り空に反映している。―少し不まじめだった。第二試合はシャニムニぶちかまそう。
 苑田フォアボール。七回までそれほど耳にやかましく感じなかったしゃもじの音が激しくなる。今津、ユニフォームをかすめる痛くないデッドボール。ノーアウト一、二塁。浜野の独り相撲が始まった。試合をおもしろくするためにわざとやっているのかと思えるほどだ。山内、外角のストレートを上から叩いて、ファースト右を抜く二塁打。苑田生還して一点。十四対一。山内がシュート打ちの名人であることは言うまでもなく、流し打ちの達人でもあることは、小学校のころからテレビで観て気づいていた。パリーグのデーゲームの中継を観ていたとき、彼は軽いスイングで右中間中段にライナーでぶちこんだ。客のいない芝生席だった。どこの球場だったか憶えていない。
 山本一義、ライト犠牲フライ。今津帰って一点。十四対二。山内を二塁に置いて、衣笠弾丸ライナーのライト前ヒット。打球が速すぎて山内帰れず三塁止まり。ワンアウト一塁、三塁。浜野百三と山本浩司、六大学出身のドラ一同士の対決。ほとんどの人が知っているのだろう、スタンドがことさら賑やかになる。山本浩司は初球真ん中高目を豪快に空振りした。盛んな拍手。二球目、同じ真ん中高目の速球。
 ―やばい!
 左中間に高いフライが上がる。私は塀に向かって疾走して捕球し、そのまま走りつづけながら素早く中へトス。中は、タッチアップしてホームに向かっている山内をあきらめ、同じようにタッチアップして一塁から二塁に突進してくる衣笠を刺すために、島谷に矢のような送球をした。セカンドカバーに入った島谷は、衣笠のスパイクにタッチしてアウト。スリーアウトだが、一瞬早くホームインしていた山内の得点が認められた。十四対三。チェンジ。私と中のプレイに球場じゅうから賞賛の拍手が送られる。ダッシュで戻る。ベンチも騒ぎまくる。半田コーチが、
「私、ああいうプレイ、初めて見たヨ」
 中も、
「私も初めてやりました。気持ちよかった。島谷、タッチ速かったねえ」
「ありがとうございます。中さんの肩、すごかったですよ」
「敬老精神、ありがとう」
 五時を回った。周囲が少しぼんやりしてきたので、眼鏡をかける。視界がキリッと晴れ上がった。守備で走り回って暖まった顔面に装着感がほとんどない。一つ、二つと、色のまだらなカクテル光線が灯りはじめるのが見える。田宮コーチが、
「うん、いい男だ。縁が透明だから、つけてるかどうかわからないくらいだ」
 高木が、
「神さまが近視か。一つぐらい弱点がないと、神さまも愛嬌がなくなるよ」
 太田コーチが、
「東大の鈴下監督だったね。私からあと二つくらい注文しとこう。届いたら、中日球場のロッカーに置いとく。据え置きにすればいい。まだ一つくらいあるの?」
「はい、もう一つあります」
「あと二つあれば当分いいだろう」
 九回表、秋本続投。一本打った菱川に追いつきたい太田が、必死の形相で打席に入る。コチコチだ。さっきのような遊び心がないと、ボールを迎えにいってしまう。
「太田、ラクにいけ!」
 太田はチラッと私を見てうなずいたけれども、やはり、肩を突っ張らせたままのめって打ちにいって、ボテボテのセカンドゴロ。島谷、センターへ抜けそうなゴロを打ちながら、今津の好守に遭って間一髪アウト。浜野、見逃し三振。
 九回裏、あごの長い水谷実雄、セカンドライナー。手首のいいバッターだ。将来かならず活躍するだろう。水沼、ショートゴロ。からだもバッティングも小粒な捕手だが、キャッチングが美しいので息の長い選手になるかもしれない。秋本の代打井上弘昭ライトフライで試合終了。対広島二回戦が終わった。三時間半の長い試合だった。まだ延長戦でもつづきそうな気分でベンチに戻る。岡田球審がバックネットに向かって右手を挙げ、ひっそりとゲームセットを宣している。十四対三。勝利投手田中勉。木俣と握手し、つづいて水原監督やコーチ陣と握手する。
「アガリなので、シャワー浴びて、宿に引き揚げます。みなさん、一勝をありがとうございました」
 一礼すると、静かにベンチ裏のトレーナー室へ去った。木俣が、
「このごろ、出口のとこで、アロハ着たおかしなやつが勉ちゃんを待ってることがあるんだよ」
 水原監督の耳が動いたような気がした。
 三十分後の六時十分から第二試合開始と決まる。江藤たちはカープうどんを食いにいった。腹がへっていない。アンダーシャツとストッキングとユニフォームを新しいものに替えにいく。ロッカールームの洗面台で顔を洗い、絞りタオルでからだを拭き、サッパリして着替える。ベンチに戻る。休憩時間中はインタビュー禁止なので、ベンチ前に十数人のカメラマンがたむろし、シャッターを押しまくっている。かけたばかりの眼鏡に、薄黒い空から光線が鮮やかにきらめいて落ちてくる。夕暮れの空に光の柱が六本立っている。光線の彼方の原爆ドームのシルエットが影絵のように美しい。
 ファールゾーンが異様に広い広島球場のブルペンに外木場が出てきて、ピッチング練習を始めた。速く、重く、切れがいい。先回は、私にホームランを打たれた時点でみずからマウンドを降りてしまったけれども、きょうは意地でも投げつづけるだろう。
 鏑木ランニングコーチが、ベンチの全員にフライドポテトを一袋ずつ配る。バックスクリーン下の売店で買ってきたと言う。好物なので、私はたちまち平らげた。気分が新たになる。
 ネット裏の観客席の下、ホームベースの真後ろよりやや三塁側に、塹壕のように掘られた半地下がある。薄暗くて中が見えない。その並びのグランドの高さの網窓にいくつか首だけ覗いている。テレビやラジオの放送ブースだ。長谷川コーチに、
「放送室の外れにある地下室のようなものは何ですか?」
「ああ、野球教室」
「野球教室?」
「二軍選手の見学部屋だね。球場ができたときからずっとある。ナイターだけだ。ほら灯りが点いた。ぞろぞろ入ってきたろう。五回ぐらいまで観たあと、寮に帰る。金太郎さんを間近で見れるんだ。うれしくてしょうがないだろう」
 田宮コーチが六番からの打順を告げる。
「六番サード葛城、七番ライト千原、八番ショート一枝。先発小野」
 太田と菱川は控えに回った。広島のオーダーは、四番のライト山本一義に代わって藤井が入り、キャッチャーにベテランの田中尊が入ったほかは、まったく同じだった。主審竹元。白ワイシャツに黒ズボンの姿がカクテル光線に凛々しく浮き上がる。
 藤井と竹元―十一年前の長嶋の一塁ベース走過事件の目撃者二人がここにいる。藤井はきのう代打で出てホームランを放っている。踏み忘れを指摘した男と、それを認めた男。二人ともまじめな人物であることはその目つきを見ればわかる。彼らの目には、岡田球審の静かに澄んだ諦念とはちがった、社会的な頑迷さが棲みついている。
「長谷川コーチ」
「はい」
「藤井という選手はどういう人ですか」
「不器用な男だよ。南海の野村とそっくりで、カーブが打てずに二年間も二軍で暮らした男だ。人一倍悩むやつでね、キャンプの帰り、船から飛びこもうとしたのを野崎という二軍監督に見つかった。死んだつもりでやれと諭された。以来ホームラン十五本前後、打率二割三分前後、どうにか中堅でやってきた。去年とつぜん打てなくなった。そろそろ引退だろう」
 プロ野球選手なら変化球を打てなければならないという課題―。だれもが口にする課題だ。この難しい課題を克服する努力を実りあるものに変えるには、かなりの工夫が必要だ。曲がりを確認したあとに変化球を打つことは不可能に近い。確認したあとでは遅いのだ。曲がりを予想して対応することを楽しむという意識を持つこと。つまり予想した曲がりが始まらないうちに打つための鍛練を楽しむということだ。変化球もホームベースの前まではストレートだという視点の変換が必要だ。曲がる前に打つ、あるいは曲がった瞬間を打つ、曲がり終えてからは打たない―極端な話、打てなくてもいいのだ。視点を変えられない生まじめな人間は、その頑迷さのせいで、なかなか喜ばしい成果を持てない。困難を喜びとして捉え直す工夫もなく、課題として苦しみながら達成しようとする。
 困難は感覚器と筋肉に滲み通って、ひっそりと脳の底に記憶として蓄積する。喜ばしい記憶だ。それを持てないので、努力だけですましてもじゅうぶん楽しい営みに結果を求め、いまくいかなければ生甲斐を失い、自殺さえ考える。人間の努力をなつかしむ本質的な快楽とは間遠な、結果主義の法律家のように規律を守るその生まじめな心が、長嶋の迂闊な自堕落とも言えるベース踏み忘れを冷静に指摘したのだ。
 しかし、彼らの中でその暴露は喜ばしい思い出にならない。藤井は死んだつもりで努力したのではなく、変化球にそこそこバットを当てられるようになって多少の向上欲が満たされたせいで、実際に死んだのだ。生を謳歌する人びとの漂わせるかすかな幸福のサザ波は、死んでいる人びとには他人ごとにすぎない。自分には考えるべきことが多くあるような気分で暮らしていても、いざ何かを切々と思おうとしても何もないのだ。私なら、ホームランの手柄を重く見て、ベースの踏み忘れを黙殺する。その黙殺は喜ばしい思い出になる。世界は千々に美しい生の姿を秘めて、死んでいる。ほんのあるかなしかの微妙な一撃で、死は生のほうへ活気づく。死から生を甦らせるのは、死の世界を華やかにしたそのかすかな業績を称賛し、業績にまつわる朗らかな過ちを看過することだ。


         十七

「プレイ!」
 竹元のコールで三連戦の最終試合戦が始まった。一塁のコーチャーズボックスで森下コーチが浮きうきと動き回っている。彼の仕事場だ。司令塔の長谷川コーチは宇野ヘッドコーチや半田コーチといっしょにベンチの後方に立っている。ただし、何も指令しない。水原監督は、三塁コーチャーズボックスで、黄昏から夜へ変わっていく空を見上げている。 
 中が明るくバッターボックスに入り、屈みこむ。外木場の初球。外角へするどく切れるシュート。ストライク。ふむ。あれが私へのウィニングショットだろう。二球目、内角低目のカーブ。シュート以上に切れがするどい。ベースの角をよぎって、ストライク。三球目、真ん中高目へ伸びのあるストレート。空振り。三振。絶妙の配球だ。中が明るく駆け戻ってくる。
「キレてる、キレてる。カーブがやばいよ」
 じゅうぶんな報告だ。カーブは打たなくていい。高木、初球のシュートに詰まって、ショートゴロ。中の報告を信じて、シュートと打とうと決めた〈成果〉だ。これでシュートもカーブと同じくらいキレているとわかった。外木場は絶好調だ。初回に切り崩さなければ、調子に乗ってこのままいってしまう。外木場キラーの江藤はどういうバッティングをするのだろう。
「ヨ! 慎ちゃん」
「エオエオ!」
「ヨース!」
 コーチ陣の気の早いかけ声。三塁スタンドでドラゴンズ旗が打ち振られる。もうハッキリ目に入る。江藤はわずかにオープンスタンスに構えた。外角にも備えられる程度の開き方だ。外木場はロジンバッグを手の甲で弾ませながら考えている。初球、大きく振りかぶり、せむしのように背中を丸くして腕を振り下ろす。外角へするどいカーブ。江藤は踏みこみ、ハシッと叩いた。一、二塁間を猛烈な球足で抜けていく。ワッと歓声。光線に鮮やかに映える芝の上を白球が転がっていき、藤井のグローブに収まった。江藤は外木場の得意球のカーブを打とうと切めたのだ。すばらしい。
 ツーアウト、一塁。ヘルメットをかぶり、ベンチを出てバッターボックスに向かう。喚声の音量が高まる。親指を立てて一塁上の江藤に称賛のサインを送る。江藤も親指を立てて応える。三塁側の防御ネットに腹までよじ登った何人かの小学生が声援の声を上げる。
「ホームラン、神無月!」
「ホームラン、天馬!」
 外木場の不安が少しずつふくらんでいくのが表情からわかる。
 ―いまのコースを神無月には投げられないか。いや投げてみるか。やはり外角のシュートにしようか。
 外木場の逡巡は江藤が自信のカーブを打った効果だ。
 ―オープン戦で神無月に打たれたボールは? 外角のカーブだった。いまも江藤に打たれた。カーブ以外の球種と、しっかりしたコースを選ばなくては。
 バッターボックスに入ると、キャッチャーも球審もギョッとした顔をした。
「目が悪いんで、これからナイターは一年じゅうこれですよ」
 田中尊に説明する。バックネットを振り返り、テレビカメラをしばらく注視する。早くファンたちに慣れてもらわなければならない。水原監督がニコニコ手を叩いている。いつの間にか漆黒に変わった空からカクテル光線が妖精の粉のように降り注いでいる。お伽の国で野球をしているようだ。遠近感は申し分ない。外野手が多少小さく見えるが、フェンスは遠くに感じられない。並行スタンスで平常の位置に構える。外野が塀ぎわまでバックする。ファースト、セカンドが右寄りに後退し、ショートとサードがわずかに前進する。初球、振りかぶり、投げ下ろす。胸もとの速球。
「ボー!」
 ギリギリ外れたわけでもないのに、不必要に大きな声で竹元が告げる。わずかに球速が遅く感じられたので、並行スタンスをややクローズドに替えて、ボックスの端あたりまで前に出る。内角のカーブはデッドボールになる。そのほうがマシだと思って投げてくることも考える。太腿ぐらいなら当たってやろう。二球目、外角高目ストレート。
「ボー」
 今度の竹元は小さなコールだった。声の大きさに差をつける意味がわからないが、彼なりのパフォーマンスなのだろう。塀ぎわまで下がった外野が、一球ごとに右に寄ったり左へ動いたりする。へたにストライクを増やすと欲が湧く。今度もボールだ。もう一球同じところへシュートだ。当てればバットがへし折れる。見逃そう。
 三球目、やはりシュートだった。バットが届かない。ノースリー。四球目、久保が立ち上がった。場内に笑いの混じった不満の声が拡がる。敬遠。一塁へ走り、森下コーチとうなずき合う。ヘルメットを渡す。ツーアウト、一、二塁。木俣がバットをブンブン振り回してバッターボックスに入った。田中尊に何か話しかけている。屈んでロジンバッグをつまんでいる外木場の背番号14が小さく見える。
 江藤のリードが心持ち大きい。彼の気持ちがすぐにわかった。バッターボックスの木俣を見ると、腰のあたりで親指を立てた。
 ―了解、初球から走れ。
 ということだ。初球、外木場が振りかぶってテイクバックしたとたん、リードしていた江藤がスルスルと走った。同時に私もスタートを切る。カーブが外角遠くへ落ち、田中がからだを伸ばして捕球した。投げられない。私たち二人は足から滑りこんだ。水原監督が拍手する。スタンドも割れんばかりの拍手だ。みんな喜んでいる。うれしい。二人とも今シーズン初盗塁ということになる。
 二球目、外木場は意地になって外角へ切れるカーブを放った。切れすぎてワンバウンドし、田中のミットを弾いた。ボールが無情にバックネットへ転がる。広島球場のバックネットは遠い。ホームに突っこんだ江藤が足から派手なスライディング。田中の返球を受けた外木場がタッチ。悠々セーフ。私はゆっくりと三塁に達した。飛び跳ねる江藤の尻をみんなで叩いている。水原監督が塁上の私に、
「これが待ちに待った楽しい野球だよ」
「はい!」
 三塁の朝井がじっと聞いていた。三球目、力のない速球が外角低目へいった。木俣が難なく打ち返した。ファースト衣笠の左脇を抜いていった。私は手を叩きながらホームインする。木俣は二塁へ滑りこんだ。田中尊が口惜しそうにミットに思い切りこぶしを叩きつけている。私と勝負していればこうならなかったかもしれない。ささやかな勇気がなかったために損をした。少しの損ですめばいい。臆病のせいで人は多くのものを失う。
 外木場はオープン戦とちがって、あきらめずに投げつづけた。そして、たぶん自分の臆病に気づいて立ち直った。六番の葛城を三塁の内野安打で出したが、七番の千原を三振に打ち取った。二対ゼロ。
 一回裏。小野が打ちこまれる姿を初めて見た。苑田セカンドゴロ、今津三振で簡単にツーアウト。そこからだった。山内センター前ヒット、藤井フォアボール、衣笠レフト線二塁打、一点。山本浩司ライト前ヒット、千原トンネル! まとめて二点入る。朝井ファーストファールフライ。三対三。
 二回表、一枝三振、小野三振、中ライトフライ。よくテレビで観るふつうの攻撃になった。ふつうではいけないという意識だけがある。
 二回裏、田中尊センター前ヒット、外木場三振、苑田左中間を抜く三塁打。やはり当たっている。三対四。今津ライト犠牲フライ。三対五。山内ファーストゴロ。シーソーゲームが見えてきた。
 三回表、高木三振、江藤センターライナー、私は外角低目のシュートを打って左翼席前段へ高く舞い上がる五号ホームラン。四対五。木俣サードゴロ。
 三回裏、藤井、私の前にワンバウンドのヒット、山本浩司送りバント。嘘だろう。畳みかけるという言葉を知らないのか。朝井ライト右へヒット、藤井生還、四対六。田中尊ピッチャー強襲内野安打。ワンアウト、一塁二塁。外木場三振、苑田フォアボール。ツーアウト満塁。今津センター左へヒット、二者生還して四対八。小野から若生へスイッチ。山内初球を右中間へライナーのツーランホームラン。四対十。藤井ショートゴロ。広島ファンはシャモジを叩きまくって大喜びだ。どうだ、見たか、これが広島の実力じゃ。ベンチに駆け戻り、全員の明るい笑顔を目の当たりにする。私と同様、だれも敗色を感じていない。江藤が、
「まず三、四点返そうや!」
「オシャ!」
 四回表、六番葛城、初球顔のあたりのカーブを左中間へ二塁打。ベンチが色めき立つ。
「陽三郎、ライト、ザルだぞ!」
 守備が心もとないライトの藤井にフライでもいいから打てと言っている。千原はツーナッシングから外角カーブを無理やり引っ張って、右中間を抜いた。葛城還って五対十。一枝真ん中低目のストレートをジャストミートしてサードライナー。若生の代打新宅、三振。
「利ちゃん、ザル狙い!」
 一番中は一瞬藤井を眺め、一転サードへセーフティバント。成功! ツーアウト一、三塁。
「よーし! あとはまかせろ!」
 当たっている高木が外角のスライダーをライト前へポトンと落とした。千原還って六対十。ツーアウト、一、二塁。
「ヨ! ハア!」
「江藤さん、お掃除!」
 江藤は私にピースサインで応える。背番号9が頼もしい。美しい構えに惚れぼれする。内角、外角とするどい変化球を見逃し、ワンワン。三球目、猫背の全力投球。内角胸もとへ食いこんできたストレートを、手首をかぶせずに払う。サードジャンプ! グローブの先っぽに引っかかって、打球の勢いでファールグランドにこぼれ落ちる。朝井はあわてて拾いにいったが、どこにも投げられない。満塁。
 金太郎コールがいっせいに立ち昇る。外木場と公式戦初対決にして、これがたぶん一年間の総決算の勝負になる。外木場はここで打たれれば、この一シーズン、私ばかりか中日ドラゴンズに勝てなくなるだろう。
 旗を持った男たちが三塁ベンチ後方のスタンドに集まって笛を吹き、鉦太鼓を打ち鳴らす。ヘルメットをしっかり頭にはめ、打席に立つ。江藤、中、高木が腕組みをしてベース上から私を見つめている。コーチャーズボックスの水原監督や森下コーチまで腕組みしている。屈んでロジンバッグに指を当てている外木場は私と勝負するしかない。逃げて押し出せば、木俣で逆転もある。つらい局面だが、これから何回もあるだろう避けられない苦しい対決の一回にすぎない。何度戦って勝負がついても、次に戦って確実に勝てる見こみはない。勝ち敗けはあとだ。この勝負に徹することが先決だ。田中尊がマウンドにいって、すぐに戻ってきた。
「よし、こい!」
 低く構えた。初球、伸びのあるストレートが外角低目に決まった。ストライク。ナチュラルにシュートしながら浮き上がった。振っていれば、こすってレフトフライだった。二球目真ん中フォーク。ベース上でワンバウンド。田中が身を挺して押さえる。
 ―読んだ。
 見せ球にもう一球、パスボールの危険を冒して真ん中へフォークを落とす。そのあとインハイの速球でフライを打たせる。パスボールにしたくないという意識があるせいで、キャッチャーの足もとでワンバウンドするようなフォークを投げてくる。インハイの速球は下を打ちすぎる危険があるので、待たないことにする。次のフォークだ。
 三球目、腕を引き絞った瞬間、半歩前に出る。外木場渾身の全力投球。ストレートの軌道が急速に沈む。叩く。食った。三人の走者がバンザイをしながらゆっくり走りだす。黒い空へ白球が一直線に昇っていく。瞬く間にライト場外の闇へ消えた。同点満塁ホームラン。森下コーチとタッチ。衣笠の叫び。
「流れ星! ナイスバッチン!」
「ありがとう!」
 センターの山本浩司がグローブを叩いている。三人が続々とホームインする。水原監督が私の腰を抱いて三本間を走る。天覧試合の再現だ。広島のコーチがマウンドに近づき、外木場はうなずくと、あのときの村山のようにゆっくりとマウンドを降りていった。
 江藤、中、千原のキス。私は驚いて千原の顔を見た。泣いていた。木俣と握手し、ベンチの全員とタッチ。半田コーチが、自販で買ってきた不二屋ネクターを差し出した。
「芸術ネ!」
 早足にマウンドに登った小柄な池田英俊がピッチング練習を始める。コーチ兼任の広島生え抜きのピッチャーだ。配球で勝負する八年目のベテランで、防御率のよさでは球界でも有名のようだ。
 木俣は大振りして、彼の前に当たりそこねのピッチャーゴロを転がしてやった。やさしい男だ。田宮コーチの、
「こらァ!」
 という間延びした怒鳴り声が聞こえた。八対八。
 五回から中日は最終回まで伊藤久敏、広島は七回まで池田、八回からフラミンゴの大羽が継投した。
「何点取ってもだめだというあきらめを持たせることが肝心です。取れるだけ取っておきなさい」
 水原監督に熱のこもった檄を飛ばされて、同点になってホッとしていた気分が攻撃的なものに切り替わった。その後ホームランは私と一枝にしか出なかったが、みんな進んで長打を狙うバッティングに徹した。私は池田と大羽からそれぞれ一本ずつホームランを打った。バックスクリーンへの七号ツーランと、スコアボードの右下隅に当たる八号スリーランだった。初めての一試合四ホーマーだった。太田が、
「神無月さん! 四打席連続ですよ!」
 一枝が、
「王の記録と並んだぜ!」
 菱川が、
「何気なくね。チョチョイのチョイ」
 江藤が、
「金太郎さんはだれとも並ばん! 並べたらいけん」
 場内アナウンスが流れる。
「神無月選手の四打席連続ホームランは、青田、王、長池に次ぐ日本タイ記録でございます。なお、四死球を挟まず一試合で達成したのは、王選手に次いで二人目でございます」
 太田が、
「比べてますね」
「ばってん、ワシらが比べたらいけん」
 田宮コーチが、
「手を振ってきなさい」
 ベンチを出て、四方のスタンドにヘルメットを振る。拍手と喝采。笛太鼓の響き。
         †
 二十二対十一で勝った。試合が終わったのは九時四十分だった。二試合連続で長い戦いを終え、さすがに全員疲れ切った顔だった。水原監督にマイクが向けられる。
「監督、開幕三連勝おめでとうございます。オープン戦につづいての破竹の進撃、快哉を叫びたいご気分じゃありませんか」
「進撃は始まったばかりです。気分が悪いはずはありませんが、不安が一つあります。この不安はシーズン中ずっとつきまとうと思います」
「それは何でしょうか」
「失点の多さです。十四点、三点、十一点、合わせて三試合で二十八点。うちは平均十点取らなければ勝てないチームということになります。試合時間は長引き、選手の疲労は大きくなる。とても百三十試合は戦い通せない。小川、小野、田中。完投できるピッチャーをもう一人増やすことができれば、多量の失点は防げると思う。必然的に打線の負担も減ります。いまのところこの問題に解答が出ません。考えます」
「投手陣の強化ということですね」
「はい。難しい問題です。とにかく、考えます」
 三試合で八本のホームランを打った私から、レポーターや記者たちはなかなか離れなかった。
「巨人はアトムズと二戦を終えました。王は七打数一安打、長嶋は八打数一安打、二人ともホームランはありません。引き離しましたね」
「考えてもいないことにはお答えできません。これから先も、その種の質問にはお答えしません。偉大な人に対して失礼です」
「このペースだと、三百本以上打つことになりますが」
「冗談でしょう。この世のものごとはすべて正比例では進みません。ペースだけなら、この二日間ですごい人がいくらでもいます。百三十試合を掛け算すれば、とんでもないことになります。じゃ、これで。広島のみなさん、応援ありがとうございました。また来月!」
 眼鏡を外し、淡い輪郭の観客席に手を振る。ウオーと歓声が返ってくる。ロッカールームへ急ぐ。ほとんどの選手たちは普段着に着替えると、ヘルメットも含めて用具をすべて名前入りの布袋や段ボール箱に入れて、ロッカールームに置きっぱなしにする。運送業者が回収しにくるまで、球場係員がそれを管理する。いずれ布袋や段ボール箱は自宅や寮や移動先の球場に届けられる。私はユニフォームを着たままだ。



出陣 その2へ進む

(目次へ)