三十四

「できましたよう!」
 キッチンテーブルにつく。
「いただきまーす」
 絶品の中華飯だ。カタ焼きソバも甘すぎず、繊細な味で、二品ともどんどん平らげていく。二人は手を叩いて喜んだ。自分たちもうまそうに頬張る。節子に、
「きのうは試合の帰りに文江さんのところに寄ってきた」
「ありがとう! おかあさん喜んだでしょう」
「うん、とっても。―女って、性欲に周期があるの?」
 節子はうなずき、
「二十代までは、生理前に強くなるけど、ひと月に一回はかならず性欲が湧くわ。三十代からはテストステロンという男性ホルモンがたくさん分泌されるようになるから、男と同じように、毎日でもしたいという状態になるの。私たちも、もう四、五年もしたらそうなっちゃう」
「三十代以上の人をよけいにかわいがってあげないといけないんだね」
 キクエが、
「そう。和子さん、トモヨさん、百江さん、文江さん。メイ子さんもたしか三十を越えてたわね。できれば優先してあげてほしいのは、文江さんと百江さん。その次がトモヨさんと和子さんとメイ子さん。素子さんもそろそろね。でも、そんなのは女の都合。キョウちゃんは好きなときに好きな人を抱いてあげればいいの。キョウちゃんに抱かれると一回一回の満足が大きいから、毎日でもしたいという気にはならないのよ。安心してね」
 節子がしみじみ私を見て、
「そろそろ、ユニフォームとジャージ以外のキョウちゃんの格好が想像できなくなってきたけど、いつだったか、横浜のブルジョワ小学校のころ、半ズボンに黒い長靴下を穿いてかよってたって話をしたことがあった。微笑ましかった。学校から家に帰ってきたら、ふだんどんな服装をしてたの?」
 思いもしなかった質問に驚く。妙なことが気になるものだ。女の関心の向けどころは謎だ。
「子供のころのふだん着か。よく憶えてないけど、近所の子供たちの服はぼくのとはだいぶちがってたね。ふつうは、通学用だろうが、遊び用だろうが、丈夫で、モチのいい布地でありさえすればどんな服でもいいというのが親の考えで、子供は年じゅう着たきりを強いられるものだよ。でも母は、成長してからだに合わなくなるぎりぎりまで一張羅で間に合わせるというような服の着せ方をしたことがなかったな。国際ホテル以来、彼女自身はいざ知らず、ぼくの服にはたえず投資した。そのこと自体、ぼくは気に入らなかった。近所の子供たちと引き比べた自分の身なりを見て、なんだか母が無理をしているような気がした。周囲の子供たちと同じ実用一点張り服装でどれほど長いあいだをすごしたって、別にどうということもなかったんだ」
「親の暗示にかかりにくい性質の子供だったのね」
「母の言うことなすこと、いつも何かよくないことを引き起こしそうな予感があったからね」
 キクエが、
「おかあさんて、何にこだわっていたのかしら」
「三沢や横浜以前の過去に強いこだわりを持ってたね。ぼくの知らない過去だ。彼女はからだを固くして、自分を苦しめている記憶をだれにも告げないようにしてた」
 野毛山の病院の廊下の小窓から眺めた、夜の微光のただよう空、その空に浮かんでいた薄水色の雲。きっとあの夜空よりも苦しい記憶……。母のように、人生は思いどおりにならないとあきらめるのはラクだろう。ラクなことはかならずしも楽しくない。それが苦しげな表情という形に出る。内側に何があるか私にはわからない。どうにかして愛そうとする者にとって、愛する者の外側がすべてなのだ。
 二人は思案深げな顔をして後片づけの台所に立った。ふたたびスクラップブック。『世界で最も影響力のある百人』の記事があった。

 一九二三年(大正十二年)に創刊した世界初のニュース雑誌として知られるタイム誌が『世界で最も影響力のある百人』を選出した。今月二日、三月三十一日にオープン戦が終了した段階で、高校および六大学時代以来の高レベルの成績を評価して、アメリカの全国紙であるニューヨーク・タイムズが『大リーグに影響力を持つ百人』の選出を行なったが、それにつづく試みだ。政財界の著名人が並ぶ中、十九歳の日本人プロ野球選手神無月郷が今回も上位十傑に名前を連ねた。ベーブ・ルースに比肩されるほどの強烈なインパクトが、野球界だけでなく世界に最も影響を与えていると認められたようである。同誌に推薦文を寄せたサンフランシスコ・ジャイアンツの現役大リーガー、ウィリー・マッコビー氏(昭和三十七年、四十三年ナショナルリーグ本塁打王)は、
「彼はベーブ・ルースのパワー、ロベルト・クレメンテの強肩、ミッキー・マントルの俊足を持っている万能選手だ」
 とトップクラスの選手の名前を挙げて絶賛。神無月はフィールド外でも紳士だ、と人間的な魅力についても触れた。中日ドラゴンズ水原監督も神無月の選出に、
 「彼にとって喜ばしいこと。特別な存在感の持ち主ですから」
  と祝福の言葉を惜しまない。神無月郷のこれまでの印象的な足跡は、日本高校野球界において、二年連続全国三冠王、大学野球界において二季連続三冠王、かつ東京大学の初優勝に貢献など。さらにプロ野球入団後は、オープン戦三冠王、中日ドラゴンズのオープン戦優勝に貢献といったものが挙げられる。何よりもこれまで見たこともない飛距離のホームランを飛ばすことで、日々国民の喝采を浴びている。世界に影響を与えた神無月郷が、日本プロ野球のMVP候補の最右翼であることはもはや動かしがたい。


 ―マッコビー!
 何度呟いても胸に迫る名前だ。私のあこがれに応えて雲の上から降りてきて、暖かく肩を叩く。今生の喜び。
「あ、もう、七時半よ。居間でテレビ観ながらコーヒー飲みましょ」
 キクエがはしゃぐ。青島幸男の意地悪ばあさん。恋の季節の巻。モノクロ。ゲスト出演のお婆さんがほのぼのとしていて和む。
「この上品な人、だれ?」
「原ひさこ。目立たない名女優ね。もう還暦になるはずよ」
「還暦か……。節ちゃんもキクエも昭和十八年生まれ。節ちゃんが二月十一日、キクエが九月九日」
「私が二十六歳、キクちゃんが二十五歳。七カ月年上。キョウちゃんと知り合ったら、みんな何歳だろうと、キョウちゃんの年齢になるのよ。キョウちゃんの過去しか生きないから、みんな十九歳」
「ぼくはみんなの年齢にならなくていいの?」
「いいの、私たちの過去なんて、キョウちゃんのきのうほどのものでもないから」
「節ちゃんはぼくが十五のころ、キョウちゃんは二十歳なのよって言ったことがあった」
「恥ずかしいわ。いい気なものだったのね。穴があったら入りたい」
 キクエが、
「私たちの何倍も生きてきた人なのに、年上だとそれが見えなくなるのね。同じ年齢になって、キョウちゃんの人生を生き直さないと」
「ほんとにそうね」
 スター千一夜。カラー。土居まさる。司会もゲストも興味なし。
「二人はよくおたがいの部屋をいききするの?」
「早番遅番が一致するときは、たいていどっちかがどっちかの部屋に泊まってるわ。あしたは二人とも九時から五時の遅番だし、いっしょにテレビで野球を観ることになってるから、キクちゃんが私の部屋に泊まることになるんじゃないかしら」
「そうね。と言っても、たいてい中日戦以外のテレビは観ないで、二人で勉強して、疲れたら寝ちゃうという形なんだけど」
「中日阪神戦はやらないんだね」
「そう、中日球場で試合がないときは巨人戦だけ。後楽園で中日戦があるときは放送するけど」
「勉強するのは出世のため?」
 キクエが、
「いい仕事をするためよ。大学病院は仕事の経験より学歴重視だけど、日赤はちがう。年齢重視。経験を積んだ四十代、五十代にならないと、責任の重い仕事をさせてもらえないし、もちろん管理職にもなれない。三十代までは、副主任、主任が上限だけど、そこにいくには、肩書を押し出したり上司にゴマをするんじゃなくて、いい仕事をして認められる必要があるの。認められれば、気持ちよく仕事もできるし、四十代、五十代になって、看護婦長や看護婦部長の職責も預けてもらえる」
「それでじっくり長期間勉強できるというわけか」
 節子が、
「そう。たくさん経験を積みたくて、いろいろな科の勉強を熱心にしてるんだけど、二人ともまじめだから、けっこう上から気に入られちゃってるのよね」
「年とるまで、気持ちよく仕事ができるということだね」
 キクエが、
「そうなの。周りのヤッカミはいやだけど、それを撥ね返すためにも、しっかり勉強はつづけないと」
「とにかく三十年は勤めるつもり。ただ、少しでも責任ある上の立場になればなるほど雑務が増えるから、疲れて年をとっちゃう。五十になっても、おかあさんぐらいきれいでいたいわ」
「文江さんて、美人よね」
「キョウちゃんに遇ってからよ」
「私といっしょだ! ……甘いかな」
「キクちゃん、岡崎由紀そっくりよ。ほんとに子豚ちゃんだったの?」
「写真見せましょうか」
「何度も見たわよ。かわいらしかったわ。私のほうがかわいかったけど」
「へーん、だ」
 ジャンケンケンちゃん。目の小さい子供が演ずるドタバタ。つまらない。二杯目のコーヒーを飲む。キクエが、
「消化器内科だけはいやね」
「そうねえ、ほとんど癌だもの。入退院の繰り返し。長く付き合って仲良くなった患者さんが亡くなるとしんどいわよね。感情移入しちゃってるから」
「循環器内科は、突然死。心筋梗塞や狭心症は、とにかく命を救ってあげるっていうスタンスで、毎日緊張の連続でしょう?」
「どんな科でも、毎日の勉強は欠かせないし、その知識でできることを一生懸命やるしかないわね。元気に退院してもらうのがいちばんうれしいんだもの」
「トモヨさんはちゃんと病院にいってる?」
 節子が、
「妊婦健診を二週間に一回きちんと受けてるわ。七月に入ったら一週間に一回になるの。お腹の子は元気に育ってる。妊娠中期以降は、ふつうに性欲はあるから、求められなくてもときどきしてあげてね。お腹を圧迫しないように、後ろからがいいわ。精液には陣痛促進の成分が入ってるから、早産や流産の原因になるので、これからは外に出してあげて。強くイクことは赤ちゃんに何の影響もないからだいじょうぶよ。こういうことは、ぜんぶトモヨさんに話してあるわ」
 キクエが、
「求められなくてもしてあげることが大切よ」
 節子がぼんやり中空を見つめ、
「さっきキクちゃん、同じ年齢になってキョウちゃんの人生を生きるって言ったでしょ? 私、いつかぜったい青森にいってみたいの。いろいろな景色を見たり、キョウちゃんの知り合いに会ったりしながら、いっしょに歩きたい」
「ぼくは秋から冬にかけての野辺地が好きだけど、いつか夏にいくことでもあったら、青森市内のネブタはいいから、野辺地の山車(だし)の巡行を最初から最後まで観てみたいな。ダラダラしてる行列だったという記憶がちがってることを願うけどね」
 キクエが、
「記憶どおりだと思うわ。でも、ダラッとしてるところがキョウちゃんは好きなんでしょう? じゃないと、記憶になんか残らないはずよ。祭り嫌いのキョウちゃんなんだもの」
「妙な怠けた節回しの笛と、チキチンの音が忘れられない。化粧して山車に乗って、下界を見下ろしながら小太鼓叩いてる小学生の女の子や男の子は、町内の商人ブルジョア階級の子弟なんだ。太鼓の練習も大店(だな)の米屋の二階なんかで、ひそかに、熱心にやってる。そこまで懸命に練習した小太鼓も、ピーヒャラも、チキチンも、いざ巡行になるとみんないいかげんだ。山車を牽くやつもえらく少人数で、大儀そうに片手で綱を握ってダラダラ歩いてる。城内組とか新道組とか浜町組などと名札をつけた山車には、テーマがいちいち書いてあって、浦島太郎やら巌流島の決闘やら弘法大師やら、古臭くて何の工夫もない。でも、静かな祭りなんだ。実際、ああいうのが好みなのかもしれない」
 節子が、
「そのお祭り、観たくなっちゃった! でも、和子さんも言ってたけど、実際の話、女を連れて歩くのはぜったいマスコミの目に留まるし、危険すぎるわよね」
「そうよね、キョウちゃんにすごい迷惑かけそう」
 八時になった。花のお江戸のすごい奴。第一話。一時間半カラー放送。へたくそな歌と素浪人の殺陣(たて)で始まった。剣(つるぎ)夢十郎(若林豪)の胸毛と、着物の前がはだけて覗く赤い襦袢に思わず見入る。節子とキクエも熱心に観はじめる。
 ヤクザ一家に絡む一悶着。親分(知らない役者)の身代わりになって島送りになり、帰ってきたはいいが殺されそうになる男(知らない役者)を夢十郎が救いにかかり、その男の身柄を流行っていない道場の主(辰巳柳太郎)に預ける。同時進行で男の妹(知らない役者)も危うい目に遭っている。その妹は、ヤクザの親分に復讐を目論むもう一人の男(里見浩太郎)に惚れている。火消しのカシラ(島田正吾)や、夢十郎に惚れる芸者(野川由美子)まで絡んで親分退治に乗り出してきて、もうシッチャカメッチャカ……。それでも癖の少ない陽性の時代劇で、増長な感じもなく意外に退屈しなかった。三人満足して観終えた。
 二人がソワソワしはじめる。私たちはたがいに目配せし、全裸になって蒲団を敷いてある六畳にいく。川の字になる。


         三十五

 節子とキクエの柔らかい腹をさすっていると、二人は起き上がって膝をつき、私のものを交互に舐めはじめた。たちまち硬く勃起する。私は二人を仰臥させ、まずキクエの美しい陰毛に屈みこむ。やがて膝が伸び、陰阜が跳ねる。蒲団に横たわって待っている節子の上になり、亀頭を吸わせるようにしてシックスナインの形をとる。節子も穏やかに達する。
 横を向いてふるえているキクエを正常位に戻し、やさしく挿入する。上壁が降りてきて左右からも緊縛が始まる。尻が浮き上がり、アクメの態勢を整える。しっかり達する。隣部屋の住人に気を使ってか、二人は喉を鳴らすだけで絶頂の発声をしない。引き抜いて節子に挿入する。すぐにうねり、間歇的な緊縛をしはじめる。ようやくわれを忘れた発声になる。それでも声が小さい。
「あ、だめ、イク、イクイクイク、イク! ああ、だめ、キョウちゃん出しちゃだめ、キクちゃんお願い!」
 まだ痙攣の止んでいないキクエに突き入れて、一突きする。射精にはもう少しかかる。
「ア、ア、ア、イクウウウ!」
 一度跳ねて、動かなくなった。太腿と足先はふるえているのでまだ余裕がある。射精が終わっていない。抜き取って節子に挿し入れ、四度、五度往復する。
「キョウちゃーん! 好き! イクイク、強くイク、イク!」
 節子を抱き締め膣の収縮を存分に感覚するが、まだ射精しない。気を戻したキクエは充血した目を開き、
「―後ろからしてください」
 結び合っていた節子が、
「私も……」
 離れると、節子は避けがたく数度痙攣する。尻を突き出して待ち構えているキクエに挿入する。
「ああ、イク、ううーん、イク!」
 ようやく私も危うくなる。抜いて節子に挿入する。
「あ、ああ、だめ! 強すぎる、イク、あああ、イクイク、イク!」
 私は抜き去り、ふるえているキクエを抱き上げて跨らせる。両手を握り合い下から突き上げる。
「あああ、イキますう! うーん、イク!」
 転げる。
「節ちゃん、早く、早く、跨って」
 節子は跨る力がないので私に覆いかぶさり、唇を求めながら私の挿入を待つ。腰を抱え上げ、両脚を広げて突き上げる。
「グ、イク!」
 射精する。もう一度、グ、とうめいて私の首を抱き締める。すぐに腕を離して転げ落ちた。キクエの腹を抱え上げて四つん這いにし、背後から律動を叩きこむ。
「イ、イックウ!」
 キクエは前にのめって両肘を突き、尻を上げて痙攣する。私はドッと二人のあいだに横たわり、節子の腹を撫ぜ、キクエの尻を撫ぜた。しばらくして、二人は落ち着き、仰向けにからだを伸ばした。節子が深い息を吐き、
「ああ、いつも一生に一度」
「私も。キョウちゃんとすると快楽が強すぎるから、どんなにご無沙汰しても、なかなか性欲が戻ってこないの」
「三十過ぎないと、ひと月に一回でもきついかもしれないわ、ね」
 顔を見合わせて笑い合う。二人は下着と服を持ってシャワーを使いにいった。風呂を出てくるまで、キクエの机に座って、専門書の背文字を眺める。以前とは様相が変わっている。婦人科癌患者の臨床と看護、産婦人科疾患、手術看護ノート、検査説明ガイドブック、子宮頸癌・子宮体癌・卵巣癌治療ガイドライン、妊婦検診と保健指導、婦人科・乳腺外科疾患ビジュアルブック、婦人科癌・緩和医療の実践……。
 空恐ろしくなるが、死に対する恐ろしさではない。死を完全に迎えられる肉体に恵まれて生きる人間の安楽さに対する恐怖だ。風呂から上がったキクエが温かいタオルで私のものを清潔にした。まだ病に冒されていない器官のそばで生きている過剰な幸福に仄かに感謝し、恐怖が一段落する。
「さ、服を着て、キョウちゃん」
「テレビを観てコーヒーを飲みながら待ちましょう」
「うん。健康でいてくれてありがとう。いつまでも元気でいてね」
 節子が、
「もちろんよ。いつまでも元気なからだを抱いてもらいます」
「医学書を見たのね。婦人科の癌に罹る人は、乳癌は一万人に十四人、子宮癌は一万人に四人、卵巣癌は一万人に二人よ。ぜんぶ合わせても一万人に二十人、ほとんどの人は罹らないわ。子宮癌は遺伝的な要素もないので、安心して。原因は男性の恥垢の中にいるウィルスなんだけど、自己免疫で排除されるものなのでだいじょうぶ。それにキョウちゃんはいつもきれいにしているからぜんぜん心配ないわ。文江さんのように、頑固にそのウィルスが何十年もはびこってると癌に変わることもあるけど、マレ中のマレです。とにかく私たちのことは心配しないで。いつまでも健康でいます」
 テレビを点け、コーヒーを飲みながら刑事ドラマを観る。ブラックチェンバー。モノクロ。第三話必殺の墓標。仲山仁と内田良平。日本版007か。悪を追い詰めるだけでお仕置きはなし。スッキリしない。きょうはゲップが出るほどテレビを観た。
 プッ、と短いホーンの音がした。キクエが、
「あ、菅野さんがきたわ」
 と言って、私の唇に貪りついた。
「愛してます」
 すぐに節子に代わって長いキスをした。
「愛してるわ。今度は泊まっていってね」
「うん」
 玄関を出て三人でアパートの駐車場へいく。菅野が車の窓から手を振っていた。女二人と挨拶する。
「今度はあわてない段取りをしてきますよ」
 私が助手席に乗りこむと、二人は窓から手を差し入れて握手した。
「さよなら、またね」
「さよなら!」
 二人はリアウィンドーの宵闇にすぐに消えてしまった。
「女と逢ったあとは、神無月さん、いつもぐったりだ。全身全霊を捧げちゃってる感じですよ。あしたは走りませんよ。甲子園で走ってください」
 菅野は則武の玄関前で私を降ろすと走り去った。あしたは一人でランニングをするつもりだ。菅野には少しからだを休めてもらおう。
         †
 四月十八日金曜日。六時。自分の寝室で目覚める。背中に寄り添って寝ていたカズちゃんはメイ子といっしょにすでに台所に立っている。浴室にいってシャワー浴びる。洗髪し歯を磨いているあいだに、カズちゃんがやってきて私のからだにシャボンを立てる。
「あと三、四年は、いちばん性欲が盛んな時期よ。夢精なんかしないで、ちゃんと出さないとだめよ。何人か避妊に失敗して、子供ができちゃうかもしれないけど、心配することないの。私たちみんなで引き受けるから。世の中には、何の甲斐性もないくせに、一つの腹から十人も子供を産ませる男だっているんだから。キョウちゃんは何十人子供がいてもいいくらいよ」
「いまのところ二人だね」
「無事に産んでくれるといいけど。さ、上がりましょう」
 ランニングにパンツ一丁。食卓が整っている。メイ子が、
「きょうから三日間、快晴だそうです。よかったですね」
「うん。走ったあと、床屋にいってくる。江藤さんたちがくるのは二時ぐらいかな」
 カズちゃんが、
「そうね。ここを二時半に乗っても、五時までには着くわね」
「二十一日の午前に名古屋に戻って、その午後に川崎へ出発だ」
「七月の半ばまで、強行軍がつづくわね」
「七月はオールスターがあるから、半ば過ぎても強行軍のままだよ。オフまで待つしかないね。きょうはひさしぶりに、昼まで机に向かおうと思ってる」
「お昼は北村で食べてね」
「うん、ミートソースの大盛り作るようにソテツに言っといて」
 メイ子が、
「ソテツちゃん、張り切るわよ。ほかの人には手伝わせないでしょうね」
「このごろ千佳ちゃんも早起きして厨房に入ってるらしいわよ。初心忘れるべからずとか言って。大学や資格よりも、キョウちゃんにおいしい料理を食べてもらうことが一生の念願だったんだもの。高円寺でいつも同じことを言ってたわ。この半年、受験で忙しくしてて、すっかりサボっちゃたって、イネちゃんにぼやいたんだって」
 私は、
「ぼくも初志を忘れてた。ダンベル、どこにある?」
「下駄箱の隅よ」
「三種の神器とジムで安心してた」
「何、それ」
「腕立て、腹筋、背筋。前腕をしばらく鍛えてない。則武にいるときだけでもコツコツやらないと」
 さっそく下駄箱を探って、五キロのダンベルを二つ持ってくる。
「ランニングから帰ってきたら、両腕十回ずつやろう」
「ジム部屋でマシンをやればいいでしょう」
「それもやる。局部的に腕を鍛えたいんだ」
 めしにとりかかる。醤油をつけた海苔でめしを巻く。目玉焼きの黄身を取り除いて、白身だけいっぺんに口に入れる。
 二人を送り出したあと、予定を立てながら大鳥居まで走る。
 ―まずダンベルとジム。それから、いのちの記録。
 大鳥居から引き返した帰りに太閤通の床屋に寄った。待合ベンチで新聞。

 
外国人助っ人いないいない勝負
 
二試合で片や二十七点片や十点 機関銃打線に軍配
 外国人不在など関係ない。そう言えたのはドラゴンズだった。機関銃部隊。隊長は天馬神無月。撃ち出したら止まらない。長嶋一人不在に対抗して、五回までレギュラー陣ほぼ全員をベンチに控えさせた。水原監督の意地だ。対するピッチャーは剛球堀内。三対ゼロで抑えられたまま迎えた六回表、先頭の葛城がレフト前ヒットで出ると、大機銃一挺目登場。伊藤竜彦の代打の神無月がライト前ヒットでつなぐ。無死一、二塁、スタメン島谷ライト前ヒット、三連打でまず一点。太田センターオーバーの三塁打で二者還って同点。スタメンの機銃も活性化しはじめる。大機銃二挺目登場。江島の代打江藤がレフト線に二塁打、太田還って三対四と逆転。三挺目登場。徳武の代打高木が右中間を抜く二塁打、江藤還って三対五。六連打、まだノーアウト。山中三振のあと、スタメン一枝左中間へテキサスヒット。五挺目登場。吉沢の代打中、ライトフライを打ち上げ高木還って三対六。打者一巡して葛城がバックスクリーンへツーラン。三対八。まさに機関銃掃射だ。神無月死球、島谷センターフライでようやく掃射が終わった。
 つづく七回にも掃射開始。江藤左へ五号、三対九。高木左中間二塁打、ついに堀内降板。田中章が後続三者を断つも、八回にも連射開始。三塁内野安打の葛城を一塁に置いて、神無月ライト場外へ十一号ツーラン、島谷左へ一号ソロ、太田左前安打、江藤中前安打、高木三塁内野安打、またも六連打、ノーアウト満塁。山中セカンドゴロゲッツーで太田還って十三点目、中のピッチャーライナーで全攻撃を終了した。
 短打長打をこき雑ぜて掃射する、中日ドラゴンズ打撃陣―戦慄するほどの恐ろしさを目の当たりにした。これは新戦力などというものではない。何か別のものだ。龍神軍と呼ぶべきか。


 慎太郎刈り。則武の家に帰り着き、下駄箱から取り出したダンベルを台所できれいに洗う。一キロのダンベルは北村席の下駄箱にある。あれもしばらくランニングで使っていない。ジム部屋にいき、スツールに坐って、両腕を翼のようにしてダンベルを握る。ゆっくり持ち上げる。両腕五回。掌を上にして、翼のまま持ち上げる。両腕十回。左腕だけの確認十回。少しも痛まない。八年のあいだに肘が完治している! あとは片手腕立てを継続して力をつけるだけだ。左で投げてみようなどという誘惑に負けないこと。二十分。
 ふつうの排便。うれしい。二階に上がって机に向かう。いのちの記録を開く。

 普遍を正確に描かねばならない。政治、経済、社会、学問、科学といったものは力をこめて学習する研究物ではないけれども、普遍を描くための重要な背景ではある。
        ◇
 多言語駆使力などと言うが、数多くの言語を駆使することが大事なのではなく、いかなる言語でもその一言語で意味を伝えることが大事なのだ。自国の人間に自国語で意味を正確に伝えられるならば、駆使できる言語は一つでいい。他国の人間に意味を伝えたいならば、腕のいい通訳と翻訳家を用意すればすむ。
        ◇
 机というものもクセモノだ。机を離れて他者との生活を経験すること、他者の思考を経験すること、みずからの思考で創作すること。目にし、耳にすることすべてが思索の目的となる。受けた印象を蓄積し、反芻する、そうして自己の感覚の中で全霊をあげて分析し、整理し、描写する。その総体が創造だ。創造の場所は机でなくともよい。
        ◇
 芸術家のみがこの愚劣な世界に意義を与えるという思い上がりは捨てたほうがいい。この世界は思ったほど愚劣ではない。
          ◇
 私に覚悟は要らない。そんなものと関係なく死は訪れる。死は命を絶つが、絆を断つことはない。


 ノートを閉じ、すぐに五百野の原稿に没入する。二時間かけて、破傷風の項を一気に推敲し終える。一呼吸入れて、高島台から浅間下への引越しのくだりを書きはじめると、玄関の電話と机の電話が同時に鳴ったので、机の電話をとった。


         三十六

「おう、山口!」
「北村さんのほうへ電話したら、きょうはそっちにいるって聞いたんでな。超人的な活躍をしてるようだな。うれしいよ。俺はおまえのことを全肯定してるので、うれしいとしか言えん。おまえのやることは何でもうれしい。ところで、俺とおトキさん、この十日に引越しした。そこからいま電話してる。ちょっとおトキさんに代わる」
「もしもし、神無月さん? おひさしぶり。ご活躍いつもテレビで拝見してます。ほんとに超人ですね。お知り合いになれたことを誇りに思ってます」
「くすぐったいからもういいです。で、どんな家なの?」
「とてもすてきな家で、文句のつけようがないんです。三鷹駅へ歩いて七、八分、庭付きの頑丈な造りの一戸建て平屋です。八畳、六畳、六畳、ぜんぶ和室。それに六帖の台所、五帖のガス風呂、四畳半の物置、二帖の水洗トイレ。八畳が勲さんの練習部屋です。家賃二万二千円、敷二、礼一」
「すると、最初に九万か。だいじょうぶだったの」
「私の貯金をちょっとおろしただけで足りました。まだ貯金はじゅうぶんありますし、みなさんがカンパしてくれた分もそっくり貯金してありますから。菊田さんも福田さんも法子さんも元気です。お店は大繁盛ですし、いまどきめずらしい健全な店だということで、有名なかたもたくさんおみえになるようになったそうです。あ、勲さんに代わります」
「イサオさんか、ムズムズするな」
「何をおっしゃる、キョウちゃん。いやあ、いいところに引っ越した。そうだな、則武の家より二回り小さいぐらいかな。築五年だから、新築同然。庭はコツコツ手入れすればきれいになる。風呂が広いのが何とも言えん。毎日入るのが楽しみだ。……俺たち、不思議な場所と時間の中で呼吸してるな。すばらしい不思議さだ」
「ほんとだね。ずっと不思議な場所と時間だ。不思議な場所で出会って、同じ不思議な時間を呼吸してきたね。……ギターの練習はうまくいってるの」
「完璧だ。たぶん、国内ではいくつか優勝する。ビデオで研究した。敵じゃない。秋からプロデビューできると思う」
「信じてるよ。おまえがぼくを信じてくれたようにね。浮気するなよ」
「しない、しない。ふつうの女じゃないから。おトキさんは絶品だ」
「恥ずかしいからやめてください」
 はしゃいだ声がする。
「じゃ、おまえも忙しいだろうから切るわ。あしたから阪神戦だな。がんばれよ」
「ありがとう。五月のコンクールの結果は逐一知らせてくれ」
「知らせる。その前に、林たちと後楽園に巨人戦を観にいくからな」
「林はそのあとアメリカか」
「みたいだな。和子さんたちによろしく伝えてくれ」
 神無月さん、さよなら、とおトキさんの声がした。
「じゃな」
「じゃ」
 なんだかとんでもなく満たされた気分だった。山口への愛をしみじみと感じた。
 白いワイシャツの上から灰色のセーターをかぶり、紺の背広を着る。こわごわ電気カミソリを鼻の下や頬やあごに当てながら、伸びてもいないヒゲを剃る。何カ月ぶりだろう、ときどき、チリという侘びしい音がする。私にはほとんどヒゲが生えない。スネにも腋の下にも産毛が生えているだけで、眉毛と陰毛以外はほとんど体毛というものがない。西高のプールで〈やかん〉と言われて脇腹をつつかれた。奇妙なからだ。それに比例した奇態な言動や性格があるとするなら、珍品としての私の存在に人びとがふるえるということもあるかもしれない。
 浅間下への引越し項の推敲は次回にまわして、北村席へ出かけていく。トモヨさんが、
「江藤さんたちは一時半にくるそうです」
 女将が、
「約束を守ってくれて、ほんとに安心やわ」
 主人が、
「巨人が叩かれてますよ。長嶋いなくて勝てる戦力? という大見出しです。ドラゴンズサイドのコラムの見出しは、ナメたらいかんがね! です」
「どう叩かれようと、六月終わりまでは余裕のある態度でいくでしょう。連勝する自信があるんですよ。そのうち、巨人コンプレックスのチームがコロコロ自滅しはじめるでしょうから。川上監督の余裕のもとはそこです。巨人だというだけで、浜野さんみたいに緊張するピッチャーがほとんどです。何に緊張してるのかなァ。〈巨人〉じゃなく、〈個人〉に緊張するならわかるけど。今年の巨人におそらく優勝はないですよ。王さんが気の毒だ」
 ソテツの用意したミートソースの大盛りを食う。
「うまい!」
「腕によりをかけて作りました。甲子園から戻ったら、ボンゴレを作ります」
 百江が出てきて、
「肩から掛けるバッグ、買っておきました。革製の高級品です。二万円もして、びっくりしました。旦那さんがパッと払って、長く使うものだからこのくらい値が張るのがあたりまえだって」
「金銭感覚なくてすみません」
「いやいや、神無月さんの一万円でカラオケのテープや、コーヒーを買わせていただきました」
「スパイクとタオルと下着、詰めておきましたからね」
「ありがとう」
 ブザーの音がして、菅野が、
「お、きましたよ」
 私は女将に、
「睦子と千佳子は?」
「いっしょに授業に出てったわ。サボってばかりいると神無月さんに嫌われるって」
「こんにちは! 切符だいじょうぶですか。俺たちは買いましたよ」
 玄関に太田の声。主人と菅野が出ていき、
「いらっしゃい。怠りありませんよ。一時十七分のひかりでしたな。菅ちゃん、神無月さんに渡して」
「ほい。芦屋まで通しの切符です。乗り換えに気をつけて」
 菅野から手渡される。背広を着た江藤たち三人が女どもに囲まれて座敷に入ってくる。彼らもダッフルを担ぎ、同じような革製のバッグを提げているのを見て、少し気恥ずかしかった。トモヨさんが、
「さ、コーヒー飲んで、一服してください」
 主人と菅野が一服つける。江藤が、
「きれいどころが出迎えたんで、びっくりしたばい。なかなか慣れんもんやのう」
 主人が、
「まあ、お気楽に。あいつらはここに寄ったときのせめてもの安らぎということで。必要なときはいつでも遠慮なくおっしゃってください。お店のほうは顔パスにしときます」
 太田が、
「まだ瀬戸際だから、ほかのことを考えてる余裕はないです。本多コーチから、一人前になるまで、タバコ、酒、女を禁止されてます」
 うつむきがちに言う。江藤が、
「そうもいかんやろうが、がんばれるかぎりがんばればよか」
「はい」
 主人が、
「江藤さんは?」
「ワシは案外ウブやけん、遊び心を知らん。女房持ちのくせに、男と女のことをいざ考えると、ぎこちなくなるばい。ご好意はありがたかばってんが、ここにくるときはしっかりくつろがせてもらうばい。ワシャ、金太郎さんに惚れとる。こいつらもそうなんやが、男が男を思うほかの時間もたっぷり必要な年ごろばい。よろしく面倒見てやってくれんね」
 菅野が拍手する。主人が、
「押しつけとるわけやないので、まあお気楽に。ときどきイカリを下ろすぐらいつもりでいてください。さ、ぶらぶら出ましょうか」
 ソテツやイネに弁当を渡され、いつもの見送りになる。私は新品のバッグとダッフルの中身を確認した。形ばかりに文庫本の浮雲を入れた。
「お、金太郎さんもスポーツバッグ買ったとや。その大黒さまごたるダッフルも似合っとったけんが」
 私は頭を掻いた。
「どちらもご主人のプレゼントです」
 贈り主の主人がうれしそうに笑った。玄関でトモヨさんと抱き合う。キッコ、百江、ソテツとイネがやさしく笑っている。
「トモヨさん、くれぐれもからだに気をつけて。直人にも目を配ってやってね。特に、道路の飛び出し、車のドアを閉めるときの指、人混みではいつも手を離さないように」
「だいじょうぶですよ。ちゃんと目を光らせてます。いってらっしゃい。ケガにお気をつけて」
 女将がいってらっしゃいと言うと、家の者たちがいっせいに、いってらっしゃいませと頭を下げた。主人と菅野と百江が送ってきた。私は新幹線のホームで、
「初戦はまちがいなく江夏だと思います。打数は四止まりじゃないかな。二つぐらいは三振するでしょう。一本はホームランかヒットを狙います。去年一枝さんが四百一個目の三振を喫したときの中日ニュースのフィルムを見たかぎりでは、たしかにスピードはあるけれども、尾崎のように浮いてくるボールじゃないので掬い上げが効くと思います」
 主人が、
「期待してますよ。対大洋の初戦で、江夏は十二個も三振を取っとります。四イニング分のアウトを三振で稼いでるんですよ。連打で点を取るのは難しい。ホームランしかないですね」
「江夏は連続三振が多いけんな、たしかに連打はきつか……」
 私は、
「彼はむかしの彼ならず。とにかくストレート九割、ボールが少しお辞儀をするので、胸のあたりまでは掬い上げます。レベルスイングやダウンスイングだと、ボールの上を振って空振りかゴロになりそうで」
 江藤はうなずき、
「よっしゃ。ホームランかフライやな」
 菅野が、
「掬い上げるというのは?」
「天に向かって打つという意味じゃなく、ボールの真ん中より下を叩くということです。低目も叩きつけるんじゃなくて、叩き上げるんです」
 新幹線がきた。百江が私をじっと見上げて、
「お気をつけて。アイリスで毎日テレビを観てます」
 三人と交互に握手して新幹線に乗りこんだ。
 一等車に十人ほどの客がいた。私たちを見て一瞬ざわついたが、いつものとおりだれも図々しく寄ってこない。乗りこんでからの一時間は、ひたすら野球の話になる。太田が、
「左ピッチャーのクロスファイアーは有効だと、むかしからよく言われてますよね」
 菱川が、
「ふところをズバッとやられると、まず終わりだな」
「少しでもコントロールミスをすれば、絶好球になるでしょう」
「うん。打ちごろの球になる。金田も高橋一三も被ホームラン率が多いのはそのせいだ」
 江藤が、
「江夏はクロスファイアーよりも外角のストレートとシュートば多く投げる。目が遠なると、それだけ空振りもしやすか。その伏線でしか、江夏はふところば突いてこん。内角ば見逃して外角一本に絞ればよか。内角低目がきたら叩き上げばい」
 太田が、
「決定! 江夏のカーブは曲がらないから、遅いストレートだと思って打てばいいんですよ。神無月さんの場合はどうなるんすかね」
「外角の遅いカーブか速いストレート。カーブは押しこみ、ストレートは叩き上げる。内角は失投でしか投げてこない」
 江藤が、
「江夏は投球間隔が長か。バッターは早く打ちたいけん、ようやく球がくると、がっついて前に突っこむ。すると球が速く見える。じつは百四十七、八キロが上限で、尾崎や堀内よりも五キロは遅か」
 私は、
「たぶん、グランドで対決すると、まったくちがった威力があるんでしょうね。高目のボールが楽しみだ。ほとんどのバッターが高目を空振りしてます」


         三十七

 太田が、
「ドラゴンズ快進撃と言っても、快進撃にほとんど参加できない人もいるのがつらいですね」
 私は、
「……吉沢さんはもう使われないでしょうね。あそこまで打てないと」
 江藤が、
「キャッチング技術では、中日歴代ナンバーワンと言われてきたんやがな。今年戻ってきたら、リードがえろう弱気になっとった。打てる木俣が出てきたけん、吉沢さんだけやなく、新宅も時夫も出番が減ったとばい。……ワシなあ、よう一塁にヘッドスライディングばしよったろう。今年はキャンプから一度もやっとらん。金太郎さんがたまに内野ゴロば打って、すごいスピードで一塁ば駆け抜けるのを見て、一瞬のうちにわかったっち。観客の目から見たとき、どちらが美しかてな。最後の一歩でベースば強う踏みつけるごてするんもみっともなか。一塁ば区切りと思わんと、ただ駆け抜けるんがいちばん速か。しかも美しか。ワシはサインで闘将て書くばってん、もうそれはやめた。野球は戦いやなか。美しかスポーツたい」
 菱川が大きくうなずき、
「ナンバーワンと言えば、俺、五年間中日でプレイしてきて、高木さんと中さんの二人が中日ナンバーワン、というより、球界ナンバーワンのセカンドとセンターだとわかりました。守備は堅実で華麗、バッティングも走塁も超一流。特にバッティング。ふつう、一番二番といえば、コツコツ当てる打撃をイメージしますけど、高木さんや中さんは思い切りのいいスイングする。だからホームランや長打が多くなる。これに神無月さんと江藤さんのメガトン級の打撃陣が加わる。できれば俺や太田も加えてほしいんですが、この六人が打って、一試合十点以下の得点というのが考えられないんですよ」
 江藤は、
「大量点の条件は効率のいい長打か、ゴッソリランナーばさらうホームランたい。単発のヒットやと残塁が多なる。鍵を握るんはモリミチと利ちゃんくさ。一人が出ても、連打できんかったときに重要になるんは走塁やけんな。中は四回、モリは二回盗塁王ば獲っとる。モリミチは一試合に五盗塁したこともある。モリの守備はちかっぱすごか。超ロングのバックトスは芸術品やろうもん。ふつうの守備のときも、捕ってから重心移動しながら強いリストで送球する。ポジショニングも大胆やしな。使うとるグローブはメジャーリーグのセカンド用グローブやけん。中の外野守備が頭脳派なのは球界に知れわたっとるばってん、何ちゅうてもバッティングやろう。リーグ最多三塁打ば五回も記録しとる。球ばしっかり引きつけて打つけん、打撃妨害でもよう出塁しよる。そういう先鋒連中にワシらクリーンアップがつづく。おまえら二人は三、四年したら、かならず金太郎さんの右大臣左大臣になるやろ。それまでは、ワシと木俣が右大臣左大臣だ」
 太田が、
「島谷は?」
「中堅でいくやろうもん。修ちゃん的な立場やな」
 そんな話をしているうちに新大阪に着いた。ダッフルを肩に担い、スポーツバッグを手に提げて、地下鉄御堂筋線のなかもず行に乗り換える。かなり天井の高い、豪華な雰囲気のする車両だ。
「オオ!」
 喚声が上がる。
「神無月やろ!」
「江藤もおるで」
「黒いのは菱川やな」
「角張っとるのは太田やろ」
「神無月て、それほど大きないな」
「太田とおんなじくらいやな」
 近づいてこないので助かる。六分で阪神梅田到着。上野駅のように大きい。降りるとき全員、肩や背中を叩かれる。阪神本線特急に乗り換える。古そうな電車だ。多少狭い感じがする。
「キャー!」
 と黄色い声が上がる。聞かぬふり。すぐに地上に出る。大きな川を渡る。
「新淀川たい」
 特急だけあって、なかなか停車しない。太田と私はキョロキョロと窓の景色を見る。江藤と菱川は見知った風景なので無言になって目をつぶる。尼崎停車。狭いホームだ。都会のたたずまいだが、東京よりはしっとりしている。江藤が、
「金太郎さん、今年のワシと木俣は、金太郎さんのおかげで相当ホームランと打点ば稼げると思うばい」
「ぼくのおかげ? なぜですか」
「金太郎さんは超ド級のホームランバッターたい。そういうバッターの前を打つやつと勝負するとき、バッテリーは後ろと勝負したくないと思う。そうなると四球を与えんようにストライクゾーンで勝負してくれよる。当然、ヒットの確率は上がる。木俣も同じばい。金太郎さんがヒットを打ったり勝負を避けられたりして塁が埋まる、次の打者と勝負せんといけんようになる、四球を与えんようにストライクゾーンで勝負するしかなくなる」
「そういうパターンの思考をするピッチャーの場合だけですね。四球を怖がらないピッチャーなら、どのバッターとも同じ気持ちで勝負するでしょう。江藤さんたちのホームランや打点が増えるのは、江藤さんたちの実力にほかならないと思いますよ」
 甲子園停車。
「ここじゃないんですね」
「ここは球場にいく人の駅ばい」
 西宮停車。トンネルのような駅だ。菱川が、
「次ですよ」
 梅田から二十分で芦屋到着。川に架かる小さな高架駅だ。菱川が、
「芦屋川です」
 四時十分前。名古屋から二時間半。降りるとき、歓声を上げる車中の女性たちに触りまくられた。ホームから南の方向を眺め下ろす。河口まで一キロくらいか。オフィス街や公共の建物が集中しているようだ。北を見やると芦屋川の彼方に山が連なり、山裾からこちらへ白っぽい市街が拡がっている。川の両側は松並木だ。また菱川が、
「六甲山系です」
 広い地下へくだり、小さい北改札口を出て駅前に立つ。駅前広場やバスターミナルはない。すぐに往来の激しい道路になる。見渡すかぎり高層住宅。しばらく歩いてタクシーをつかまえ、四人分の荷物をトランクに入れる。菱川が助手席に座る。
「あんたら、でかいなあ」
 総白髪の運転手。江藤が素っ気なく言う。
「竹園旅館」
 美しい石垣の川筋に沿って松並木を走る。前方に終始山が見える。松並木が途絶える。左右の住宅といい、ランタンふうの街灯といい、外国のようだ。東海道線を眼下に高架橋を渡る。
「芦屋川は運河じゃないですよね」
「運河やないよ。ちゃんとした二級河川や」
 答えたきり黙っている。私たちも黙っている。
「六甲山はどれですか」
「よう区別つかんやろうけど、右のほうのほんの少し高い山や。九百三十メートルしかあらへん。おたくら、あしたの中日の人?」
「はい、補欠です」
 私たちの顔も知らないような老人なので、太田が適当に答える。江藤が窓の外を見ながらニヤニヤしている。
「がんばらんとあかんな。人間がんばっとると、ええことあるで。ほい、着いた」
 五分も走らなかった。道端で降ろされる。江藤が金を払う。国鉄芦屋駅の跨線橋を登って、一階のフロント玄関に降りる。大きなガラスドアの前がタイル敷きの瀟洒な車寄せになっている。ここからバスが出るのだろう。玄関口の左右に五十人くらいの人びとが防御綱の向こうでカメラを構えている。彼らをじっと見つめると、連続してシャッター音がした。人混みにかならず野球少年の顔を探す。相当いる。白襟に黒いスカートスーツの従業員が六人、玄関に出迎える。深々と辞儀をし、畏怖の眼差しで少し離れて控えている。
「あしたは、こっから阪神バスで甲子園に向かう。こんなんより何倍も多か見物が見送るけん、うるさかぞ」
 ロビーに入ると、受付フロントに、さっきの六人と同じ制服の女二人、白ワイシャツに黒背広の中年男一人が立っている。ロビーにドラゴンズの選手の姿はない。
「いらっしゃいませ。こちらへサインをお願いします」
 選手の名前は呼びかけないようになっているようだ。鶯色のベストを着て鍵を持った女子従業員に案内されてエレベーターへいく。江藤と菱川は落ち着いているが、太田はキョロキョロしている。私は従業員に、
「ガランとしてますね」
「プロ野球チームのご宿泊期間中は、館は完全貸切になります。一般の人はお泊まりになれません。ただし館内の食事のお店は出入り自由です」
「高々三、四十人のために?」
「はい。一般のお客さまとのまんいちのトラブルを避けております。報道陣も立入禁止になっております。夕食、朝食等、団体での食事等はすべて三階の会場になります。球場へ昼食を持参なさりたい場合は、ご注文があれば牛肉弁当をご用意いたします」
「あしたそれお願いします」
「ワシも」
「承知いたしました、江藤さまと神無月さまですね。お一人で食事をなさりたい方は、一階と三階の食堂階でどうぞ。カフェやレストランは夜十時までオーダーができます。最上階九階のバーは十二時まででございます。ルームサービスも、深夜の十二時まででございます」
 そこまで便宜を図るということは、プロ球団との付き合いが長く、その付き合いから相当の利益を得てきたということだろう。小振りなエレベーターに乗りこむ。
「ここはいろいろな球団が泊まるんですか」
「プロのチームでは巨人さまと中日さま、高校野球の季節にはいろいろな高校チームさまがお泊まりになります」
「バットを振れる場所はありますか」
「残念ながらございませんが、ジムならば当館から二分ほどのところにございます」
「そうか、ここでは長嶋も王もバットを振れなかったわけだ」
 五階で降りる。江藤と私は一号室。菱川と太田は二号室だった。太田が、
「きょうからは会食の予定はないんでしょう?」
「遠征のときは、初日だけは集まるのが習慣になっとる。じゃ、六時にな」
 広い空間に大きなベッドが二つ置いてある洋室だった。カーテンも調度も麗々しい。従業員は鍵を江藤に渡して出ていった。届いている荷物を整理する。
「こういう豪華な部屋はなかなか慣れませんね。自分はだれなんだろうという気がして」
「慣れるやつのほうが多かよ。自分は特殊な人間だと無理に思い直すんやろうもん。ワシも金太郎さんに遇うまではそうやった。九州の貧しか家で暮らしたことば忘れとった。風呂、入らんね」
「はい」
「この旅館は立派なサウナがついとるばってん、温度が低すぎて、二時間も入っとらんといけん」
「あした、試合のあとで試してみましょう。サウナは初めてですから」
「ハハ、時間がもったいなか。やめとこう」
 直角三角形を二つに仕切ったような風呂に入る。それぞれに一人入れるようになっている。江藤は気持ちよさそうにタオルを頭に載せて目をつぶった。おどまぼんぎりぼん、と呟くように唄っている。しんみりした気分で江藤の横顔を見つめた。じっちゃの顔がありありと浮かんだ。哀しみと尊敬の気持ちが湧いてきた。
「背中流します」
「お、サンキュー」
 江藤の背中を流しながら、
「マネージャーやスコアラーの役割がわかってきました」
「ほう、そうや?」
「毎日バットを振ったりボールを投げたりして暮らしている選手が、みんながみんな契約書の詳細や、野球の細かいルールを知っているはずがありませんし、ぼくみたいにスコアブックもつけられない人間だっています。マネージャーたちの役割は、そういうことの詳細を専門的に知っておくことなんだと思います。いつ訊かれてもいいように。でもぼくはそんなことを彼らに訊いてまで知りたいと思わないんです」
「それでよかと思うばい。ワシも基本ラインしか知らん」
「広島の会食のとき、二軍の話を江藤さんから聞きましたね」
「おお、ファームの話ばしたのう」
「そういうのこそ基本ラインと言うのでしょう。ぼくもそのくらいのことは知っておかないといけないと思います」
「ほうやな。知っておいてどうということはないんやが、プロの選手という自覚はできるやろな」
「ぼちぼち教えてください」
「背中代わろう」
「はい」
 江藤は私の皮膚の弱さを知っているので、撫ぜるようにタオルを滑らせる。
「まず、一軍登録された選手ば一軍選手ちゅうばい」
「はい」
「最大二十八人ばい。そのうち実際ベンチに入ってゲームに出れるんは、事前に指名された二十五人」
「大学野球といっしょですね」
「ベンチから外れるんは、その前三試合の先発ピッチャー」
「アガリという言うんですよね」
「ほうや。ばってんそれは原則で、アガらんと連日登録するピッチャーもおる。ふつうは連日登録やな。高校野球はベンチ入りできるのは十八人。それと比べたら多すぎる気もするばってん、満身創痍の二十五人だとすると少なすぎるくらいたい。各球団が一年間に契約する選手は七十人までと決まっとる。そこから二十八人を引いた四十二人が二軍選手になる。つまりプロ野球選手は十二球団合わせて最大八百四十人しかおらん」
「新人十人採ったら、十人はクビになるんですね。そうやって七十人の帳尻を合わせる」
「そういうことばい。小中高大、日本の野球人口は六、七十万人おる。その中の八百四十人になったわけたい。どれほど有能でかつ強運やったかちゅうことや」
「はい……」
 石鹸を流して、もう一度湯に浸かった。


         三十八

「その有能な選手たちにしてからが、二十代後半までに結果ば出さんとクビになる。毎年ドラフトで、全球団合わせて百人から百二十人採る。それとほとんど同じ数の選手が首を切られる」
「戦力外通告というやつですね」
「ほうや。第二の人生ゆうても、野球しか知らん人間が一般企業に就職できるほど世の中甘うない。二軍選手の将来はほとんど闇や。そこから抜けるには、めちゃくちゃ努力せんといけん」
「はい」
「みんな、金太郎さんのことで腰抜かしとるんはそこたい。金太郎さんは東大で、そのうえ二番入学やったいうんは有名な話でな、いつやめても、超一流企業で引っ張りだこやろうもん。球団はそれをさせん。かならずフロントに残す」
「残りません。部屋に籠もろうと思ってます」
「それも有名な話ばい。仙人になるんよな。それをみんな〈天馬天に帰る〉ゆうとる。いっしょにおれるあいだだけでも、時間ば惜しんでそばにおりたいゆう気持ちになる。水原さんも、小山オーナーも、白井社主も、もちろん俺たちもな。……少なくともワシが引退するまではグランドにおってくれんか」
「もちろんですよ。ぼくは野球が好きですし、それ以上に江藤さんたちが好きなんです」
 江藤はタオルで顔を覆った。
「いつまでも好いてくれや」
「はい。いつまでも。上がりましょうか」
「おお、みんなとめし食わんばな」
 新しい下着とジャージに着替えながら、
「イースタンとかウェスタンというのは何ですか」
「二軍の二分方式たい。二軍はセ・パで分かれとらん。関東と関西で分かれとる。距離の近いチーム同士で試合するほうが、交通費が浮くけんな。二軍も一年じゅうリーグ戦もするし、オールスターもある。さびしく練習しとるだけやなかっちゃん。……なんで金太郎さんはそんなに二軍に興味があるんやろのう。不思議な気がするばい」
「恵まれない人が努力する姿が好きなんです。ただ、恵まれない人が努力しない姿は大嫌いです」
「恵まれとる人間が努力するのは?」
「あたりまえなので何とも思いません。能力も運も恵まれた人間は、頬っぺたをつねりながら努力しつづけるべきです。恵まれていて努力しない人は、もしそんな人がいるとするなら、神がぜったい許さないでしょう。天賦を与えてくれた神への冒瀆になるからです」
「……そんなふうに思っとるんか。威張らんはずばい。神の恵みか。それがいつも金太郎さんの言っとるマグレやな」
「はい」
 三階の宴会場へいき、合同会食。いつもと同じ時間が始まった。
         †
 四月十九日土曜日。八時起床。快晴。十一・九度。下痢をつづけて二度する。薄い掛布のせいで腹を冷やしたようだ。腹にタオルを巻きながら三種の神器。金属をこするような耳鳴り。シャワーを浴びて治まる。
「だいじょうぶか、金太郎さん」
「はい、治りました。腹が冷えたようです」
「中途半端な気候やけんな。注意せんば」
「はい」
 ルームサービスで二人朝食をとる。特製メンチカツ、目玉焼き、冷奴。めし一膳。江藤は二膳。コーヒー二杯。
 お守りを尻ポケットに入れたユニフォームを着、グローブ、スパイク、タオル類、眼鏡を入れたスポーツバッグを肩に担ぎ、バットケースに二本収める。帽子をかぶり、運動靴を履く。フロントで牛肉弁当を受け取る。それもバッグへ。
 午前十時半。心が浮き立っている。生まれて初めての甲子園。道路沿いの一階玄関前に阪神バスが二台停まり、ホテルの従業員と警備員がバスのステップまでの道を作っている。何百人もの人垣が歓声や嬌声を上げながらシャッターを切る。松葉会の組員らしき男たちにさえぎられて、綱柵の内側で地団太踏んでいるファンたちもいる。ヤケのように写真を撮りまくる。中年の女たちは、
「田宮コーチよ。すてきねえ」
「ダンディ水原、いい男じゃないの」
「江藤よ、江藤、最高!」
 などと話し合っている。道を作る女子従業員たちも、ユニフォームの肩にダッフルを担って通り過ぎる選手たちをあこがれの目で見つめている。選手と目が合うと思わずお辞儀をする。網柵に中年の男たちもかなりいる。報道陣は数名しかいない。球場で待ち構えているのだろう。
 黄色い声と野太い声に見送られながら、大きなバスを連ねて甲子園に向かった。ガイドはいない。抜け上がるような青空。水原監督の小さなあごがその空を見上げている。
「竹園から二十分ぐらいだ」
 浜野に語りかける小川の声が聞こえる。道幅も家並のさびしさも名古屋の鳥居通にそっくりの国道二号線を走り、上宮川という辻の交差点を右折する。田宮コーチのメンバー発表。
「一枝、高木、江藤、神無月、木俣、センター菱川、ライト葛城、サード太田、ピッチャー小野。中継ぎ予定は水谷寿伸。ほかのピッチャーも肩を温めておいてくれ」
 中が三連戦を欠場することになったと伝えられる。膝の具合が悪いので名古屋で治療するとのこと。ここまでほとんど無言だった車中がざわつく。そう言えばきのうから中の姿が見当たらなかった。一枝が、
「利さん、今年は早く痛みが出たな。オープン戦から張り切ってたから」
 二車線の道を何度か曲がり、宮川町という信号から左折して国道43号線に乗る。大阪の郊外、六甲山麓に広がる大工業地帯。ガード沿いに信号の少ない道を十分ほど走る。
 十一時少し前、ふつうの町並の中に、とつぜん甲子園球場が現れた。初めて見る阪神甲子園野球場。半世紀にわたる阪神タイガースのフランチャイズ。いかにも歴史を感じさせる古色蒼然たる巨大な建造物だ。見上げると、外壁の表面に切られた窓の列を埋めるように濃緑のツタが絡み合っている。
 各ゲート前は開場を待つ尋常でない人だかりだ。彼らは私たちのバスに気づき、指差し、喝采する。バスは彼らを縫って三塁側関係者用駐車場に入る。ここまでは人波も追ってこなかった。警備員に護られながら正面六号ゲートから支障なく場内通路に入る。水原監督が、
「あしたのダブルヘッダーの第二試合はナイターです。ナイターになると、三時間以上前に開門するんです」
 ミーティングをする水原監督たちと別れ、広いコンコースを通ってベンチ裏の出入り口に立つ。ピッチャー陣は廊下の外れへ向かった。高木に、
「彼らはどこへいくんですか」
「ラッキーゾーン。ブルペンはそこにしかないんだ」
「ああ、リリーフカーが出てくるのをよくテレビで見ました」
 ベンチ裏の出入り口を入るとすぐロッカールームがあり、大鏡が据えられている。江島と千原と伊藤竜がさっそくフォームのチェックにかかった。私たちはどやどやと一段高いダッグアウトにつづく階段を登った。登り切ると、文字どおり塹壕のように窪んだ空間だった。コンクリートの床に厚いプラスチック製の長椅子がかなりの余裕をもって三列並んでいる。最前列は露天だが、雨天のときはウィンチで巻きながら屋根をせり出せるようになっている。夏の暑さに備えてクーラーが取り付けてある。ベンチはグランドよりかなり低く掘り下げられているので、ファールを追った野手がベンチに突っこむと、まちがいなく頭から落ちるだろう。木俣が、
「ベンチ内からコーチのサインが見えにくいけど、水原ドラゴンズには関係ないな」
 徳武が、
「俺がしょっちゅう帽子をいじってやる」
「しょっちゅうやったら効果ありませんよ。何もしないでください。田宮さんか森下さんが適当にやりますから」
「チェ、ベンチウォーマーはサインも出させてもらえないか」
 コーチ陣が水原監督といっしょに入ってくる。
「サインは私と長谷川さんだけ。いまその話をしてきました。木俣くんが言ったように適当にやります」
 ベンチの椅子に腰を下ろすと、首を伸ばさずにグランドをちょうど覗けるくらいだった。阪神がフリーバッティングをやっている最中だ。菱川が、
「両翼九十五メートル、ラッキーゾーンまで九十一メートル、中堅百十八メートル、左中間と右中間、百十八メートル。変わってるでしょ。フェンスの高さは二メートル六十センチ。百八十メートル打たなければ場外に出ません」
 言われなくても、感覚的に場外ホームランを打つのは困難だとわかる。百四、五十メートル打っても中段の少し上だろう。
「あきらめません。何年かかっても場外へ叩き出します」
「そうですよ! 硬球がゴルフボールみたいに飛ぶことだってあるんですから。神無月さんの場合、たいていゴルフボールみたいに飛んでいきますけどね」
「うまく芯を食ったときはね」
 阪神のバッティングをベンチ仲間と肩を並べて見学する。
「背番号3、パンチ力あり。背番号12、見るべきものなし」 
 太田は尻ポケットから選手名鑑のパンフレットと手帳を取り出して、
「3は小玉、三十四歳、三十七年から四十年まで三割打者。去年近鉄から移籍。12は和田、二十三歳、キャッチャーとして入団して、肩が弱いので辻とのポジション争いに敗れて、現在ファースト遠井の控え」
 小玉と和田は三本で交代する。
「でっかい外人二人がポンポン飛ばしてるぞ。振りが荒っぽいな。バッティングそのものがいいのか悪いのかわからない」
「二人とも上背は小野さんくらいあります。そこにたっぷり肉がついてる。35がゲインズ、マイナー上がり、三十三歳のロートル。31はカークランド、三十五歳。サンフランシスコ・ジャイアンツ、ワシントン・セネタースとメジャーを渡り歩いて、去年阪神にきました。とたん三十七本塁打。爪ようじ咥えたモンジロウ」
「サンフランシスコ・ジャイアンツ? メイズ、マッコビーとクリーンアップを打ってた男かな。きっと日米親善野球で観たはずなんだけど、よく憶えてないなあ。じつは、メイズさえも憶えてなくて、マッコビーだけが印象にあるんだ。背番号6、無気力なスイングだな」
「藤田平、二十一歳、四年目、右投げ左打ち。ほとんど口を利かない変人」
 一枝が、
「無気力に見えて、あれがあいつのバッティング技術なんだよ。けっこうホームランも打つぞ」
「そうなんですか。ミートがいいんでしょうね。あ、田淵が出てきた。背番号22というのは、大学時代のホームラン数だな。相変わらず飛ばしてる。でも、ドンクサイな。体重を後ろに残しすぎだ」
「今年、すでに二本打ってますよ」
「三十本ぐらいいくだろうけど、打ったあとまるで、一塁へいくつもりがないっていう打ち方だ。バッターボックスから動き出そうとする勢いがないんだ。走る喜びや、守る喜びなんかどうでもいいと考えてるんだろうね。そういう姿勢って、キャッチャーの守備にも響いてくるよ。バッティングセンターがいちばん性に合ってるんじゃないか。とにかくあんなホームランだけ打ちたいというフォームだと、内角攻めされて相当苦しむぞ」
 菱川が、
「神無月さんは何も待っていない構えですもんね。待ってないどころか、まったく打つ気がないという構えです。そこから電光みたいにバットが回って、バーッとからだ全体が動きだす。動きだすとバネがほどけたように速い。ぞくぞくします」
 江藤が、
「ワシもそう思うばい。ありゃあ、技術というものやなか」
 高木が、
「俺も金太郎さんの影響で、いままで以上に強くバットを振るようになった。強く振るためにはボールをじっくり見なくちゃいけないからね。でも学べるのはそこまでだ」
 私が黙っているので、またやっちゃったか、という表情でみんな顔を見合わせる。
「ありがとうございます。こんな無手勝流のぼくを見習ってくれて」
 やっちゃったよ! とみんな大声で笑う。江藤が私を抱き締める。
「ケージの後ろにいる55。あれが監督ですね」
 江藤が、
「おお、後藤次男。金太郎さんたちが生まれたころの阪神のクリーンアップたい」
「23が吉田義男、バットを短く持ったレベルスイングをよく憶えてます。11が村山」
 高木が、
「二人とも今年からコーチ兼任だよ」
「英雄たちがみんな年とっていくんですね」
 江藤が、
「ワシらと変わらん年なのにのう。ピッチャーは使い減りしてしまうけん仕方なかとしても、野手の場合は新戦力に弾き出された格好なんやろのう。ワシの場合も、千原がノシてきたら危ないところやった」
 十二時。開場と同時に一万人以上の観衆が怒涛のようにセンターからライトの席になだれこみ、瞬く間にあふれんばかりの人の海と化す。スタンドを埋めるなどという生易しいものではなく、砂鉄が磁石の鉢に吸いつくようだ。阪神の応援団がライトスタンドの一箇所に固まって、旗を振りながら笛や太鼓の予行演習をする。ハッピ、帽子、メガホン。黒と白、あるいは黒と黄色の色彩をまとった人びと。
 十二時五分。阪神のバッティング練習が終わった。水原監督が、
「さ、フリー、いこう」
 バットを手に石段を上ってグランドに出る。なんという広さだ! 天然芝の緑と内野フィールドの焦げ茶色が青空の下に溶け合い、輝くばかりに美しい。グランドの土の上を歩くと、スパイクの金具が土を噛む音がする。後楽園球場よりも湿った心地よい音だ。太田が、
「こりゃすげえや!」
 甲子園経験者の菱川が得意そうに、
「収容人数五万。内野に架かっている屋根の名前は大鉄傘、球場全体のスタンドはアルプススタンドと呼ばれてます」
 すべて一層式のスタンドだが、とんでもなく高い。低いダッグアウトからグランドに出てあらためてわかる。大阪球場のような急勾配ではないので、あの高さまでスタンドが伸びていくと面積も膨大になる。ベンチ脇に数百人の報道陣が詰めかけている。ネット裏にテレビカメラが二台、内野ベンチ脇に一台ずつ、バックスクリーン左横にも一台見える。
 フリーバッティングのケージが二セット用意されている。バットを右のケージに立てかけ、ボールを一個持ってフェンス沿いに歩きだす。何ごとかと江藤、太田、菱川もいっしょについてくる。


         三十九

 深緑色のスタンド席にスフィンクスのようにせり出した照明灯が目を圧してくる。菱川に、
「よく言われる甲子園の浜風って何ですか」
「ライトからレフトへ吹く風のことです。ライトが海側になってるんですよ。左打者に不利だと言われてます。夏の昼から夕方にかけていちばん強く吹くので、影響を受けるのは夏の甲子園児だけです」
 一枝と高木が鏑木をバッティングピッチャーにして、内野ゴロを打つ練習をしはじめる。初めてバッティングピッチャーをする鏑木は嬉々としてゆるいボールを投げている。精いっぱいの直球だが、案外コントロールがいい。ケージの後ろで監督、コーチたちが談笑している。私はラッキーゾーンの金網柵まで歩いていき、たしかに柵の内部にブルペンがあるのに驚く。だれも投げていなかった。ファールゾーンの硬いラバーフェンスに肩を押し当ててみる。かなり硬い。ボールをぶつけてみる。予想したとおりの撥ね方をしない。ここにボールが当たると厄介だ。なるべく当たる前に処理しなくては。ラッキーゾーンの金網のクッションボールをイメージするが、浮かばない。ぶつけてみる。真下に落ちる。打球に勢いがあっても大して撥ねないだろう。江藤が、
「それでボール持って歩いてきたんか。大した男やのう。そげんこつ、だれもやらんやろう」
「このすばらしい球場で、いいプレイをしたいんです。ところで、中さんの膝、だいじょうぶでしょうか」
「毎年かかりつけの医者に水ば抜いてもろうとる。そのあと、二、三日安静にしぇないけん。心配なか。五月に入ったら調子ようなる」
「中さんがいないと、打線にまとまりがつかないですからね。じゃ、打ちましょうか!」
「ヨッシャ!」
 四人でダッシュしてケージに戻る。吉沢と新宅に礼。鏑木が走って外野へ去り、大場と板東がL字形の防球ネットの後ろに立つ。交代で左右のケージで投げるようだ。大場という大きな左ピッチャーを見るのは初めてだ。吉沢が、
「四十一年のドラ一だよ。速球派」
 大場に向かって、
「最初は速球でお願いします!」
「コースは!」
「行き当たりばったり!」
 懸命に腕を振って投げこんでくる。百四十キロ前後。速球ではない。コーンとバックスクリーンに打ち返す。水原監督が拍手。江藤は小手試しに、板東から左中間のラッキーゾーンの網にワンバウンドで打ち当てるフライ。大場が胸もとのストレートを投げこむ。腰を回して片手で払う。右翼ポールを巻いて、観客でぎっしりのスタンド最前列へ。吉沢が、
「すごい! 右手首の返しが人間技じゃない」
 江藤、ライナーでレフトスタンド最前列へ。板東が叫ぶ。
「慎ちゃん、ワシに最後通告か? 内角、自信のシュートやったんやで!」
「どっから湧いた自信ね。ストレートにしか見えんかったばい」
 大場に、
「次、カーブお願いします!」
 膝もとのボールをしっかり掬い上げ、ライトスタンド前段へ。負けじと江藤、カーブをレフトスタンド前段へ。太田と菱川に交代。ケージの後ろに回る。水原監督が、
「いけそうかい?」
「できればセンターへ一本打ちたいです」
「読んでるね。江夏は外角ピッチャーだからね。江藤くんも、センターから右を狙うべきだろう」
「はあ、ライトギリギリのホームランがいまのイメージですばい。その延長で長打が出ればオンの字たい」
「三点勝負だと思う。三振を十個は取られるだろう。連打はまず無理かな。ホームランで決まるね。頼んだよ」
 菱川が高いフライで、太田が低いライナーで、揃ってレフトスタンドに打ちこんだ。
「きみたち二人も頼んだよ」
「はい!」
 ドラゴンズのフリーバッティングがつづいているあいだに、昼めしから戻った縦縞ユニフォームがぼちぼち一塁ベンチに姿を現す。チラと江夏が目に入ったが、すぐにベンチ裏に姿を消した。
 一時五分、阪神の守備練習開始。高木と一枝がめしから戻ってきて、
「早く食っとけ。守備練習のあとだとあわただしくなるぞ」
「もう少し見たら、竹園の牛肉弁当を食います」
「俺たちもそれを食った」
「江藤さんは?」
「ワシも牛肉弁当。先に食っとるぞ」
「はい」
 ベテランの吉田と藤田がショートを守っているが、吉田のほうにメリハリがある。肩は藤田のほうがいい。やはり田淵の動きはドンくさかったけれども、肩はみごとだった。外人二人の外野守備は田淵以上にノロくさかった。
 江藤たちを追いかけるようにロッカールームへ弁当を食いにいく。プロの球場のロッカールームは、程度の差こそあれ、高校や大学のそれとちがって整っている。大鏡はもちろんのこと、ソファもあればテーブルもある。合成樹脂の容器に入った牛肉と卵焼きと漬物だけの弁当だったが、うまくて箸が止まらず、あっという間に平らげた。腹に鈍い痛みがない。朝の下痢がウソのようだ。太田と菱川は同じ弁当を味わって食い、江藤は食い切れずに少し残した。私に食えと言うので、手を振ると、ください、と言って、太田が残りを一気に掻きこんだ。
「金太郎さんも多少食が太くなったのう。食うやつは伸びる。さあ、エネルギーば発散させるばい」
 一時二十分、ドラゴンズの守備練習。田宮コーチの華麗なノック。内野陣のカバーにしばらく走り回る。あいだを抜けてきたボールは、三塁にいる太田か島谷に低いワンバウンドで返球する。やがて、左バッター特有のラインドライブの効いたライナーが飛んでくる。片手で捕球し力をこめてセカンドへノーバウンドの送球。三塁側スタンドの大拍手。江島や菱川もグローブを叩いている。彼らの糸を引く送球も喝采を受ける。各々三本ずつ。四本目はバックホーム。三人の返球が地を削りワンバウンドで木俣のミットに収まる。拍手喝采が圧力のある歓声になる。
「金太郎さん、もう一本!」
 田宮コーチがバットを掲げる。ノーバウンドで返球しろということだ。阪神ベンチが身を乗り出す。ラインドライブなしで定位置に落ちてきたフライを捕球し、ツーステップしてマウンドの少し右を目がけて手首を打ち下ろす。一直線に伸びていくボールが三塁を過ぎてホップし、木俣のミットに吸いこまれる。歓声が怒号になる。阪神ベンチが盛んに拍手している。とりわけ後藤監督が何やら叫びながらいつまでも拍手する。
「よーし、ポール二往復しましょう!」
「オッケー!」
 太田と菱川が応じる。一枝が、
「俺たちは遠慮するよ。からだがボロボロになる」
 鏑木のもとへ太田たちと駆けていき、さっそく命じられた腿上げの練習をする。
「芦屋のランニングコースはもう少し研究してからお知らせします。次回の甲子園ということで」
 水原監督が私たちを眺めながら、ベンチ前で歯を見せて笑っている。つづけて三種の神器、左腕のシャドー。鏑木が、
「五十メートルダッシュ、四十メートルジョグ、五十メートルダッシュ。一分休憩のあと同じことの繰り返しで引き返し。それを合計二回」
「オッシャ!」
 それならば相当ラクだ。多少喉がヒーヒーしたが、四人ともポール間を二往復走り切った。二時の試合開始まであと二十分。
 両チームがベンチに雁首を並べると、監督同士のメンバー表交換になる。シャワーホースの散水で内野グランドに湿り気を与える。整備用牽引車がトンボを引きずって走り回り、灰色の制服を着た係員がラインを引く。江藤が、
「甲子園のライン引きは日本一て言われとる。直線のラインだけやなかよ、バッターズサークルもコンパスのように引きよる。ほれ、すごいやろ」
 五秒ぐらいで滞りなく輪を描いてしまった。私は思わず拍手した。ハッハッハと水原監督が笑った。ベンチじゅうに和やかな笑いが拡がった。
 スターティングメンバーが発表される。ネット裏中段あたりに屋外放送席ボックスがいくつか並び、資料の準備にいそしむアナウンサーたちの顔が見上げられる。鉄傘があるとはいえ、放送席がネット裏中段というのは風変わりだ。ウグイス嬢が一人ひとり名前を呼び上げるたびに喚声が沸く。その騒音を放送マイクが拾うのはまちがいないので、実況は骨だろう。
 バスの車中で申し渡されたとおり、一番ショート一枝、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番センター菱川、七番ライト葛城、八番サード太田、九番ピッチャー小野。ほぼ完全なメンバーでぶつかる。
「後攻の阪神タイガースは、一番ショート藤田、ショート藤田、背番号6、二番サード小玉、サード小玉、背番号3、三番レフトゲインズ、レフトゲインズ、背番号35、四番ライトカークランド、ライトカークランド、背番号31、五番ファースト和田、ファースト和田、背番号12、六番キャッチャー田淵、キャッチャー田淵、背番号22、七番センター山尾、センター山尾、背番号21、八番ピッチャー江夏、ピッチャー江夏、背番号28(怒号が上がる)、九番セカンド吉田、セカンド吉田、背番号23。審判は球審大里、塁審一塁谷村、二塁鈴木、三塁井筒、線審はライト丸山、レフト中田、以上でございます」
「山尾って?」
 太田がパンフレットをめくり、
「同志社からきて七年目、ガタイでかいす。ピッチャーあがり。七年でホームラン一本」「足が早くて肩がいいから、センターで使われたんだな」
「藤井の控えですよ」
「藤井? ああ、鉄仮面。背番号19、右投げ左打ち、守備の名人」
 江夏はラッキーゾーンではなくベンチから出てきた。痩せているのに腹を突き出し、両肩をヤクザのように凄みを利かせて揺らしながらマウンドに上がる。金田に立ち居が似ている。
「エースは弁慶のように格好つけないといかんといつも言ってるそうです」
 フォームをじっくり見る。じゅうぶん上体を反らせて振りかぶり、うつむきながらお辞儀でもするように一塁側へからだを傾け、右足を胸に高く引き上げると同時に反動をつけて大きく胸を張る。その右足をピッと伸ばしながら体重移動し、すごいスピードで左腕を振り下ろす。外角へのシュートがいい。私にとっては高速カーブになる。やはりボールはホップせず、やたらに速く見えるだけだ。そう見せているのはあの一連のフォームだ。マウンドに上がるときの態度と同様、フォームに凄みがある。この凄みにやられると、打てない。
 たぶん江夏は内気な人間だろう。まだ一度も中日ベンチを見ようとしない。ただ、その溌溂としたフォームから、マウンドに上がることを心から楽しんでいるとわかる。私と同様野球が大好きなのだ。強敵だ。
 一枝がアナウンスされ、打席に向かう。三塁のコーチャーズボックスで水原監督がパンパン手を叩く。
「プレイ!」
 大里のコール。江夏は田淵のサインを覗きこむ格好だけして、すぐに振りかぶり、迫力のある一連の動作で速球を投げこんでくる。ど真ん中高目、ストライク。一枝が圧倒されている。四百一個目の三振男が舐められている。
「さ、修ちゃん、いこ!」
「それ、それ、それェ!」
 一枝は一握り短く持った。二球目、外角の速球。ナチュラルにシュートしてくる。見逃し、ボール。
「ナイスアイ! ナイスアイ!」
 三球目同じコース、振った。カシッという音。バットの先だ。折れた。ふらふらとファースト和田の後方に上がる。もとキャッチャーの動きは緩慢だ。追いつかず、飛びついてひっくり返った。わずかにグローブに触れたボールがファールグランドへ転がる。一枝は一塁ベースを蹴って二塁へ滑りこんだ。タイムがかかる。和田が左腕を痛そうに抱えている。手首を捻挫したか、肘でも強打したのだろう。そばにいた森下コーチが心配そうに覗きこむ。トレーナーが出てきて腕の具合を確かめ、だめだとベンチに手を振る。後藤監督がホームプレートにいって大里に選手交代を告げた。
 眼鏡をかけた遠井が出てきた。遠井吾郎、十二年目、百八十センチ、八十五キロ。肥大漢だ。小学、中学と、この大きな左利きの男を何度もテレビで観た。遠井はサードの小玉とショートの藤田にゴロを転がしてやって、捕球練習をする。ケガのための選手交代だというアナウンスがある。江夏がキョロキョロ退屈そうにスタンドを見ながら、思いついたように田淵とゆるい投球練習する。高木がバッターボックスに入る。
「ヨ!」
「ホ!」
「ゴー!」
 セットポジションからの初球、内角高目、うなりを上げて速球が胸もとをえぐる。ストライク。江夏は足もとのロジンバッグにそっと触れ、セカンドを流し見ると、スッとセットポジションに入る。二球目、内角低目へ〈曲がらない〉カーブ。ストライク。高木はうなずきながら、目の前に掲げたバットを腰に引き寄せた。スピードを見切った雰囲気だ。次は外角の低目か、いや、ど真ん中高目かもしれない。三球目、ど真ん中、胸の高さの速球。見逃して、ボール。田宮コーチの声。
「槍、槍!」
 菱川に訊く。
「何ですか、槍って」
「高木さんがストレートにめっぽう強いバッターだという意味です。だから直球なんか怖くないぞ、と」
 もう外角低目しかない。しかも外し球だ。高木のバットを一度持ったことがあるが、けっこう重い。私と同じくらいだ。先端で弾き返すバッターが好む重さだ。四球目、外角低目のストレート。一枝に投げたボールより一つ外のハズシ球だ。しかし高木は上体を伸ばして、ほとんど左手一本でバットを振った。ジャストミート! 大男遠井の頭上を越えてライト線へ伸びる。フェアグランドでワンバウンドし、ファールグランドへ速い球足で転がっていく。カークランドがドスドス追いかけ、予想どおり、クッションボールを捕り損なった。ボールが右中間へ転々とする。一枝がホームベースを駆け抜けるようにホームインしベンチに飛びこんでくる。バックアップした山尾が右中間で捕球して、すばらしい肩で三塁へワンバウンド送球。田淵と江夏がカバーに走る。一足早く二塁を蹴っていた高木が三塁へ滑りこむ。小玉タッチ。セーフ! 井筒の両手が翼のように広がる。江夏が太腿をグローブでパーンと叩いた。ライトのカークランドにボールを捕らせるということ、高木が見切ったのはそれだった。打者二人で一点。江夏は考えもしなかったろう。三塁上の高木、水原監督と両手でハイタッチ。
 とにかく得意球を打ち崩しておく。その球で江夏は三振の山を築いてきたのだ。打ち崩さなければ、三振を喰らいつづけることになる。私はヘルメットをかぶり、ネクストバッターズサークルに入った。わずかにサークルの外に出て、なるべくキャッチャーの背中を真っすぐ見られる位置まで移動する。と言ってもサークルの外へ一メートルほどだ。あまり外れると、ピッチャーや審判に目障りだと叱られる……ような気がする。



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